奈良学ナイトレッスン第 8 期教科書では教えてくれない奈良の歴史 ~ 第一夜大仏と藤原氏 その建立の謎 ~ 日時 : 平成 25 年 5 月 15 日 ( 水 ) 19:00~20:30 会場 : 奈良まほろば館 2 階講師 : 井沢元彦 ( 作家 ) 内容 : 1. なぜ都を遷すのか 2. 千年の都になるはずだった平城京 3. 藤原氏の深慮遠謀 4. 税金を納めなくてすむ方法 5. 大仏建立の本当の理由 6. 苦労して造った大仏なのに 1. なぜ都を遷すのか第 8 期では3 回に渡って 教科書では教えてくれない奈良の歴史 というテーマでお話するわけですから 教科書では教えてくれない という言葉の意味を少し申し上げたいと思います 何十年も生きていますと 人間の社会にはいろいろなしがらみがあるのが分かってきます 本当はこうなのだけど 言えない というものですね 私は 昔はサラリーマンをしていましたが 辞めてからは極力 組織というものに所属しないようにやってきました 今は大学の客員教授などをやっていますが これは辞めようと思えばすぐ辞められるわけで 自分が言いたいことを言えなくなるような環境にはできるだけ身を置きたくないと思っています しかし それは一種の贅沢であって 会社勤めをされている方はそうはいかないですよね そういうことが実は 歴史学者の世界にもあるのです でも 私はしがらみがないので 言える だから今日の話の結論を最初に言ってしまいます 奈良の大仏は天皇家によって捨てられた のです 長い歴史の間に首都というものが移転することがあります どういう場合かというと 中国史を見ると典型的です まず領土が拡大したとき 逆に異民族の侵攻を受け 危機が迫って逃げるとき 首都が移転する理由というのは 大抵この2つです 平城京に都が遷 ( うつ ) されたのは 皆さんご存じのとおり710 年です そして 794 年に桓武天皇が都を平安京 今の京都に遷したということもご存じですね 鳴くよウグイス平安京 などと覚えました 710 年から794 年の8 4 年間が奈良時代だと思っている方が多いのですが 平安京遷都の10 年前に桓武天皇はすでに奈良の都から長岡京に一度都を遷しています 別の言い方をすれば この時点でもう平城京を捨てて 1
いるわけです 平城京を捨てたということは 言うまでもなく大仏を捨てたということです この平城京から平安京への移転というのは 首都が遷る場合の原則のどちらにも当てはまらない では なぜ遷したのか それが今日のテーマです 日本の都というのは 古い時代には天皇一代ごとに遷しておりました なぜそんなことをやったかというと 神道の思想で 穢 ( けが ) れ という考え方があったからです 人間は死ぬと穢れる それは天皇であっても変わらない むしろ 天皇の場合のほうが深刻です 生前偉大であればあるほど 死んだ場合に穢れは大きくなってしまいます 今でも葬式帰りに塩をくれるところがまだありますね あれは 昔の発想で死の穢れを落とすためです 穢れを落とす一番いい方法は禊 ( みそ ) ぎです 禊ぎというのは 清らかな水の中に身を浸すことです しかし いつも水があるわけではないので 他のやり方 例えば神主さんにお祓 ( はら ) いをしてもらったり もう1つ 塩をまいたりするということです 相撲の力士は 塩をまきますね あれで邪気を払っているのです 土俵をあらかじめ塩で清めているのですね 日本民族は昔から 死というものは穢れであり それを何らかの手段によって清めなければいけないという発想を持っております 天皇家はどういう存在かというと この国を産んだイザナギ イザナミ その子孫の天照大神 ( アマテラスオオミカミ ) という女神の さらにその子孫であるということになっていますよね では 天照はイザナギ イザナミの娘といっていいのか 日本書紀 にはそう書いてあります イザナギとイザナミが夫婦の営みをして作った子どもが アマテラスだと 実は 古事記 にはそう書いていないのです 古事記 ではアマテラスを明確に区別しております イザナギとイザナミが交わってできた子に 火の神がいた その火の神を分娩するときに産道が焼け イザナミは亡くなります 亡くなったといっても存在が消えるわけではなく 暗い地下の黄泉 ( よみ ) の国に行ってしまうのです 真っ暗で穢れた世界です どうしても妻のイザナミのことが忘れられない夫のイザナギは その黄泉の国に降りていくのですね そして 助けようとする ところがたどり着いた時 亡き妻はすでに腐っていた そこで百年の恋もいっぺんに醒め イザナギは慌ててイザナミから逃げてくる 地上の世界に逃げ出たときに まず何をやったか 清らかな水の中に身を浸して禊ぎをしました 昔は左のほうが尊いと考えられており 左の目を洗ったときに生まれたのがアマテラスです ちなみに鼻を洗ったときに生まれたのがスサノオということになっています 古事記 においては アマテラスは2 人のまぐわいによって生まれた子ではないということになっている だから 尊いのだという立場をとっているのです 禊ぎの結果生まれたというのは 最も清らかなものであるということですね それほどまで 日本古来の神道の考え方では死の穢れを恐れるわけです 2. 千年の都になるはずだった平城京天皇一代ごとの都の移転というのは 建物を分解して持って行くわけではなく 建物はそのまま捨てていきます 山から木を切り出して また新しい都を作るのです そしてそんなことを続けていたら いつまで経っても国は大きくならない 2
海の向こうの朝鮮半島や中国大陸では 一度首都を決めたら動かしません 例えば中国においては 初代の皇帝が大宮殿を造り 2 代目の皇帝がその全体をとりまく城壁を造り 3 代目の皇帝が離宮 ( 別荘 ) や大公園を造るということをやって どんどん立派になっていく それなのに日本では 天皇一代 首都が固定しない さあ どうするか 日本で穢れの問題をうまく解決して 首都を固定しなければいけないということを最初に実行に遷したのは 持統天皇でした 持統天皇は 日本の天皇歴代史上初めて あることをやった 正確に言うと自分の死後にやらせたのですが 彼女は自らの遺体を火葬にするように命じたのです 我々はいま 火葬するのが当たり前だと思っています でも それは仏教の習慣であって 火葬というのはキリスト教徒にしてみたらとんでもない野蛮な行為なのです 死体の損壊にあたるわけですね 今でこそキリスト教徒も火葬にすることはありますが アメリカのドラマなど見ると分かるように 今でも9 割以上は土葬なのです 日本人も最初は火葬を怖がっていました それを持統天皇は初めてやった 旦那さんは天武天皇 壬申の乱 の勝者です 天武天皇は愛妻である持統皇后が病気になったときに その病気平癒を願って奈良の薬師寺を建てたと言われています 薬師寺の本尊さんは薬師如来 病気を治してくれるありがたい仏様なのです 持統の病気は治ったのですが 天武天皇が先に死んでしまう このお2 人は奈良の古墳で合葬陵といって 夫婦同じ墓に入っているのです これは極めて珍しいです 天皇が皇后と一緒に葬られている例というのは ほとんどないです そしてこの天皇陵がもっと珍しい点は 普通の天皇陵というのは中がどんなふうになっているかわからないのですが この天皇陵は鎌倉時代に一度盗掘されていて 盗掘犯が捕まったときの調査で中の様子がわかっているのです 夫の天武天皇は土葬でお棺に入っている ところが妻の持統天皇は火葬で骨壺に入っていた それまでの天皇というのは土葬するという決まりでした 天皇の遺体を 残されたものが勝手に火葬にすることはできないですから たぶん持統天皇は遺言で 私が死んだら絶対に火葬にしなさい と強く命じたと思います なぜそうしたかというと やはり都を固定したかったからではないか いつまでも穢れ思想にこだわって都を動かしていては 海の向こうの世界に比べたら遅れてしまいます 持統天皇の後あたりから 藤原京が始まりますが これは画期的な都です それまで天皇一代ごとに都を遷していたのが 藤原京で固定するわけです ただ 最初の試みであるがゆえであったのでしょうが 少し手狭だった そこで持統天皇の子孫である元明天皇がもっと広いところに と遷したのが平城京です ということは 平城京は千年の都になるはずだったということです もう遷す理由はないのですから ところが そこに藤原氏というとんでもない人々が登場したのです 日本の歴史と世界のいろいろな国の歴史とどこが一番違うか 一つだけ挙げろと言ったら 天皇なのですね 天皇を殺して 天皇家の者でない人間が天皇になるということは 絶対にできません 天皇の血筋を引いていないと天皇にはなれないのです これが外国ですと 例えばイギリスの国王でも 何度か系統が変わっています 中国でも王朝交代があります 王朝交代というのは それまで皇帝をやっていた一家を滅ぼしたり追放したりして 新しい者が皇帝になるということです だから 中国皇帝というのは 実力さえあれば馬の骨でもなれる 各国の国王もしかり しかし 日 3
本の天皇にだけはなれない なぜなれないかというと 天皇は神の子孫だからです だからその血を引いていない者は天皇になれない 天皇になれないなら 天皇を超えてこの国の権力者となるのは不可能なのでしょうか 実は そうではない 天皇はわきにおいて 自分が権力者になるということを日本の歴代の強者は常に考えてきました 武士の代表である将軍の幕府 あれは何かというと 将軍がいるのですから 軍事政権です しかし いくら将軍が強者であっても天皇に取って代わることはできない だから 天皇を祭り上げておいて 実権は自分たち幕府がぜんぶ奪ったということです それが700 年続いたのですね 幕末の混乱期に 徳川家と朝廷が戦争になるようなことを避けようと 土佐の坂本龍馬などが考えたのが 大政奉還です 形の上では天皇から幕府が日本の統治権を預かっているということになっているのだから これを逆に返してしまえばいいじゃないか 返せば 倒幕倒幕といっても振り上げた拳の下ろしどころがなくなるだろうという それが大政奉還ですね 大政というのは日本のまつりごと つまり日本の統治権という意味です 本来天皇が持つべきそれを幕府が預かっていた それを本来の持ち主である朝廷に 奉還というのは 謹んでお返しいたしますということです これで丸く収めようとしたのですが 薩摩長州は 幕府を叩き潰さなければ新しい世の中はこないということで それをやらせまいとする 徳川慶喜は先手をとって大政奉還したのですけれども あくまで倒幕しろという天皇の命令を引き出して 戊辰戦争になっていく では これより以前はどうか 年配の方は私も含めて 鎌倉幕府の成立は1192 年だと教わった これは 鎌倉幕府が名実ともに完成した年ですね それ以前にもう 武士達は天皇家の権力を実質的に奪っていましたが 最終的に天皇家が 武士の代表者である源頼朝を征夷大将軍に認めたとき それが1192 年です しかし 最近では いいくに (1192) ではなく 鎌倉時代の始まりを武家政権が実質的に認められた いいはこ (1185) にしろと言われるわけです この鎌倉幕府の前に 天皇家を棚上げにしてこの国の最高権力者になろうと考えた一族はいなかったのかというと いたのです それが藤原氏です 3. 藤原氏の深慮遠謀天皇家を滅ぼして自分が天皇になることはできない では実質的に天皇家の権力を奪うには どうしたらいいか 権力というのは いろいろ分析できますが つまりは人を動かす力です 政治権力というのは 多くの国民を動かす力です そもそも権力とは何かというと なかなか難しいのですが 2つの要素があるだろうと思います 1つは権威です 権威というのは あの人なら我々に命令を下せる と多くの人が納得すること 例えば総理大臣の命令には 一応みな 従わなければならない なぜかというと 民意によって選ばれた衆議院議員の代表が総理大臣で 間接的に総理大臣を選んだのは我々だからです もちろん 法律に反することや基本的人権に関わることは拒否していいのですけれども 権威というのはそういうことですよね もう1つは 財力です やはり金というのは必要なのですね 人間 金をもらわないと動かない 4
ですから いかに権威を持ち 俺が将軍だ 俺の言うことを聞け といっても 報酬が伴わないと 人間は動かないのです 藤原氏は 天皇家から権威と財力を奪っていったということです それが最終的に完成したのはいつかというと 平安時代の中頃です 関白というものができました もちろん関白は藤原氏です それまでは 臣下のトップは太政大臣 ( だじょうだいじん ) 臣 という字がついている以上は 臣下 家来です ところが 関白の敬称は殿下なのです 天皇は陛下 皇太子は殿下 皇族も殿下 だけど大臣は閣下にすぎないのです ところがなぜ関白は殿下かというと 本来は臣下のはずなのに 天皇の権限をすべて代行できるからです そういう政治的地位なのです 天皇ではないけれども 天皇の権限を実質的に代行できるということは 藤原氏が関白という形で天皇家の権力を奪い取ったということです もう一つの財力のほうはどうでしょう 財力の奪取は 実は奈良時代にすでに始まっています 奈良時代に律令制度がつくられました その律令の制度下においては 日本の土地も民も すべて天皇のものになりました 公地公民という言い方をしますね それ以前は部族社会で 部族そのものが部民 ( べのたみ ) などといって 藤原氏なら藤原氏直属の民衆というか奴隷をもっていたのです それを律令制度の施行によって 日本の土地はすべて天皇のものであり 日本の民衆はすべて天皇の所有であるということになったのです 公地というのは ほとんど田んぼのことです そこから米がとれる それに対する税を律令制度では 祖 と言いました 今でも最も基本的な税 租税 という言葉がありますが ここからきています 租庸調 ( そようちょう ) という三種類の税があり 祖は農産物 基本的に米ですね 庸は働くこと つまり米を納める代わりに公共土木工事 例えば橋をかける 堤防を造るということにただで働くのが庸です 調は どうしても米がとれないところで魚の干し物や真珠 絹などといった特産品を出して米に代える この三本柱になっていたのですが 圧倒的に多いのは祖でした つまり 全部の土地が天皇のものであり それを口分田 ( くぶんでん ) という形で分割して農民に貸す 農民は収穫の半分を祖として納めるというのが 奈良時代初期にできた大宝律令の仕組みなのです これはもちろん 中国から来た政治制度です この制度がある限り 日本の税金はすべて天皇家に入るわけですから 藤原氏がいくらがんばっても 天皇家を超えることはできないのです 悪知恵に長けた藤原氏は なんとかこの公地公民制を崩そうと思った 公地公民を崩すとは 私有地を認めさせるということです そこで藤原氏が考えたのが 723 年の三世一身法 三世一身法は 荒れ地を開拓して田んぼ つまり米のとれる土地にした者には 3 代に渡ってその私有を認めるということです これは公地公民制に風穴を開けました それまでは公地公民制が絶対だったのに それを変えたわけですから それから20 年経ち 743 年に三世一身法を廃止して墾田永年私財法が出るわけです 荒れ地を開墾した者には その土地の所有を3 代ではなく永久に認めるようになったのです その理由を書いたものが残っています なぜ三世一身法を廃して墾田永年私財法にするのか それはせっかく開墾した土地も3 代目になると 4 代目にはどうせ継がせられないということで 荒 5
れてしまうから しかし この理由は嘘です 三世一身法から20 年しか経っておらず 20 年で 3 世代も交代するわけがない しかし そんな口実で墾田永年私財法をつくったわけです つまり 荒れ地をどんどん開拓すれば それが自分の田んぼになる 自分の財力になるということです 奈良時代のこれは 第一段階でした 土地の私有は認められたけれども 税金は払わなければいけない いくら左大臣 藤原様の土地だからといって 税金を払わないというわけにはいかなかったのです ところが平安時代 それも崩した 税金を払わないでいいようにしたのですね 皆さんもご存じの荘園というものです 4. 税金を納めなくてすむ方法荘園というと もってまわった難しい教え方をするのですね 確かに荘園をまともに研究したら 1 冊の本になる 日本荘園史の研究 という分厚い本も出ています しかし 歴史学者になるのでなければ 荘園というのはたった1つだけ覚えればいいのです 荘園とは何か それは 脱税の方法 です 荘園の語源についていろいろなことを言う人がいますが 私が一番いいと思っているのはこれですね 別荘の庭園だ と どういう意味かというと 田んぼではないということです あるマルサ 国税査察官が左大臣藤原なんとかさんの別荘に入っていくと 一面田んぼで 稲がたわわに実っている いくら私有地だからといって 税金はとれるはずですよね 当然国家は課税しようとする するとその左大臣様はこう言うわけです おまえ ここは俺の別荘だよ ここに咲いているのは花だよ 花は課税対象にならないだろう? と そういうことなのです 田畑だから課税されるわけです だけど ここは別荘の庭園でここに生えているのは草花ですよ といったら課税対象にならない 実は マルサは荘園に立ち入ることすらできない 不輸 ( ふゆ ) の権 不入の権 が荘園の持ち主には認められているからです 不輸の権は課税ができないということ 不入の権は 国税査察官が庭園には入ってはいけないということです そうするとこういうことが起こります 口分田を借り受けて一所懸命田んぼを耕すと だいたい5 割税金を取られます ところが 藤原さんの荘園で雇われて田んぼを耕すと だいたい4 割くらいでいいと言われる どっちが得ですか? みんな 口分田を放棄して 荘園に行ってしまいます すると どういうことが起こるか 皆さん 一戸建てに住んだことはありますか? 一戸建ての何がたいへんかと言ったら 草取りですよね ( 笑 ) 私も一戸建て買ってみて 初めて分かりました マンションのほうがずっとよかった 自然の土地は放っておくとすぐ草がぼうぼうになるわけです 口分田もそうなのです ちょっと耕作するのを止めると 荒れてしまう それを藤原氏の息のかかった国税査察官 調査官は ここは原野である 荒れ地であると認定するわけです 草をとったらすぐ農地になるところですよ 藤原さんが自分の権力で人を派遣して 草をとったらどうなりますか? 荒れ地を開墾して田んぼにしたことになる するとそれは 墾田永年私財法によってその人のものになる しかも荘園ですから 税金を払わなくていい 実はこの利権を享受できるのは 藤原一族のような政府高官と東大寺や興福寺のような大きな寺社だけでした 例えば 都で藤原氏に負けてうだつが上がらないから 6
都落ちして今でいう県知事として地方に赴任し 県知事の権力を利用して荒れた口分田などを豊かな農地にした者は これをのちに武士というのですけれども 土地の所有はできない 藤原さんが 現代風にいえば国有地の不法改造で勝手に利益を上げて どんどん金持ちになっていく ところが 自分たちがいくら汗水流して 本当に原野を開拓しても 正式な土地の所有者になれない しかし その田んぼを名義的には藤原さんに寄進したという形をとって 自分はマネージャーになる という税を逃れる方法はありました でも せっかく自分が汗水流して開拓した土地なのに自分のものにならないのはすごく口惜しいことですね 源頼朝は島流しにあったことによって こうした地方の ( 関東の ) 武士の求めることがわかり これを今風に言うとマニフェストにしたのです 俺についてくれば 武士が正式な土地の所有者になる道を開いてやるぞ みんな万歳です 平清盛は 武士の出身なのにそういうことに無関心だった 頼朝は 皮肉なことに清盛に島流しにされたことで分かった この頼朝のマニフェストが実現され 実際にその権利を獲得したのが地頭です 守護 地頭と言われますが 地頭のほうがはるかに重要です 頼朝は朝廷と強談判して 自分を正式な公職としての日本国総地頭に任命してもらったのです それまで武士というのは非合法集団でした しかし その非合法集団の長である源頼朝が 新たに作られた日本国総地頭という正式な役職に 朝廷から任命してもらったのです 日本国総地頭の権限は 自分の土地は自分のものにできる かつ自分たちの部下をそれぞれの土地の地頭に任命できるというものでした これで 武士は自分が汗水流して開拓した土地を正式に所有出来るようになり 武士の領地が始まったのです だから 頼朝が清盛の天下をひっくり返すことができたわけですね さて話を戻しますと 藤原氏はこのようにして天下を乗っ取っていた 最終的には荘園という形で国家にいくべき税金が藤原家に流れるようなシステムを作った 口分田がどんどん減って 藤原氏の荘園ばかり増えていく そこから膨大な金が藤原氏に流れ込む 一方 天皇家にはほとんど流れ込まない その結果 関白の藤原氏のほうが天皇よりも財力的に上位になってしまった それでは 権力のもうひとつの要素 権威を得るための地位の問題はいつごろから始まったかというと やはり奈良時代なのです 5. 大仏建立の本当の理由 729 年 長屋王の変 が起きました 藤原氏が 天皇の権力を乗っ取る第一段階としてまず 天皇の皇后を藤原氏から出そうと画策したのです それまでは皇后というのは皇族しかなれませんでした なぜかというと 持統天皇のように 夫である天皇が亡くなったあと 子が小さい場合は未亡人である皇后が臨時に天皇の位につくということがあったからです そこで奈良時代までは 皇后は必ず皇族から出すという不文律がありました では 藤原氏はどうしたか 中国でも日本でも 天皇のお后 ( きさき ) は1 人だけではありません 正夫人は1 人ですが 格付けがあって 例えば中国だと皇后の下に 貴妃というのが4 人いてもいい 楊家出身の貴妃が楊貴妃さんですね それと同じように日本にも女御 ( にょうご ) や更衣 ( こうい ) といった人がいました これは平安時代も 源氏物語の 女御 更衣あまたさぶらひたまいけるなかに とあるよう 7
に 女御も更衣も妾ではないのです 天皇の正式な奥さんだけど 皇后よりは格下なのです ということは 仮に女御が先に男の子を産んでも 皇后があとから産んだ子のほうが天皇になるケースもあるということです そこで藤原氏はまず 天皇家乗っ取りの第一段階として 藤原氏から皇后を出す必要があると考えた 時の聖武天皇 非常に気の弱い方だったらしく いっぽう藤原氏には美貌を誇る娘がいたのです 光明子 ( こうみょうし ) といいます 光り輝く女の子という意味ですね この光明子は 最初は夫人でした 夫人は皇后以下の天皇の奥さんの位の1つです この夫人を皇后に格上げしようとしたわけです 当時 光明皇后の兄弟である藤原四兄弟というのがおりまして これが悪い奴らで 天皇を脅すなどあらゆることをやって 藤原光明子を皇后に格上げしようと頑張ります それに断固として反対したのが皇族代表の長屋王でした 王というのは日本の場合は 天皇の孫です 天皇の子どもは親王 女性は内親王と申します 親王の子になると普通は王といいます でも 日本霊異記 という日本最初の物語集がありますが それを見ると 長屋親王と書いてあります 長屋王が天皇の孫であることは間違いないけれども 親王と書いてある 学会では この本を書いた人が間違えたのだろうということになっていました ところが今から20 年くらい前 長屋王の邸宅跡が奈良で発掘され そこから出てきた木簡に 長屋親王 と書いてあった つまり 長屋王は身分的にいったら天皇の孫だけれど この当時 天皇家の男子が少なかったため親王 天皇の子待遇であったのだろう というのが今は定説になっています その長屋王が 天皇家の絶対のルールである 皇族の娘でなければ皇后になれない を覆そうとしている藤原氏に対して 敢然と反対したわけです ところが 謀反を企んだという無実の罪に陥れられた なぜ無実の罪ということがわかるかというと 何年も経った後の国の記録で あれは無実の罪であったと認めているのですね 長屋王は謀反など全く考えていないのに 謀反を企んでいるだろうと家を囲まれ 自殺しろと言われ 自殺をした これが729 年の長屋王の変 長屋王の子どもたちも全員殺されました 4 人の子がいたとのことですが 長屋王がみんな自分の手で絞め殺して 最後は自分で首をつったと言われています これは明らかに藤原氏の陰謀ですが それでも皇族に自殺を迫る命令書には必ず天皇のサインが要ります 聖武天皇も たぶん尻を叩かれたのだと思います この人は生涯病弱で優柔不断な人だったので 美人だけれど怖い怖い嫁さんの光明子に あなた やりなさいよ! と言われたのではないでしょうか 長屋王は死に その年にそれまで夫人の1 人に過ぎなかった藤原光明子がめでたく光明皇后になったわけです さあ 万々歳かというと そうはいかなかった さて 何が起こったのでしょうか 737 年のことです 長屋王を無実の罪で陥れて死に至らしめた極悪人の藤原四兄弟が 1 年のうちに全員 天然痘にかかって亡くなってしまったのです 天然痘という原因ははっきりしているので 偶然といえば偶然なのですけれども ここからは私の説ですが 当時の人は たたりじゃ! と思ったのではないでしょうか 当時の人は病原菌で人間が死ぬということが分かっていません 疫病というのは 神様の怒りだと思っているから 当然 そう考えたと思うのです ここで重要な 8
ことは 長屋王と4 人の子どもを死に至らしめたのは 4 人兄弟だけではないということです まず藤原光明子が 自分が皇后になるために聖武天皇の尻を叩いた 聖武天皇もおそらく 嫌々だったとは思うのですけれども 最終的に長屋王を殺してもいいという書類にサインしているわけです ということは 天皇 皇后も仲間ということです では 次にたたりがくるのは誰でしょうか つまりそれが 大仏建立の理由だと思うのです ところが人間というのは 今でもそうですが 正直に本当のことは書きません 長屋王のたたりが怖いから大仏を建てる とは書かないのですね 大仏建立の詔 ( みことのり ) というのは 聖武天皇の言葉です 天平十五年 菩薩の大願を発 ( おこ ) して 盧舎那仏 ( るしゃなぶつ ) の金銅像一躰を造り奉る 国銅を尽して象を溶 ( とか ) し 大山を削りて以て堂を構へ 広く法界に及ぼして朕 ( ちん ) が知識と為し 遂に同じく利益を蒙 ( こうむ ) らしめ 共に菩提を致さしめむ 次が有名な言葉なんです 夫( そ ) れ天下の富を有 ( たも ) つ者は朕なり 朕というのは天皇の自称ですね 天下の勢を有つ者も朕なり この富勢 ( ふせい ) を以て この尊像を造る つまり 国家安穏 国の平和のために造るということです では国家の安定とは何でしょうか 今であれば 事故や戦争がなく国民が穏やかに暮らしていけることなのでしょう しかし古代においては 神の子孫である天皇が支配しているから豊かであり 安定した良い国なのです ということは 天皇家の繁栄ということに繋がる つまり 自分がたたりで死んだりしないということです そしてもう1つあります 2 人の間に男の子が生まれるということです ところが 結果的には生まれなかった じつは1 人生まれたという説もありますが すぐに死んでしまいます 藤原氏がなぜ光明子を皇后にしようとしたかというと 藤原氏の血を引いた人間を次の天皇にするためです これをずっと平安時代まで続けていきます そのために邪魔なのは 天皇と他の女性との間に生まれた子です これは 次々に殺されていきます 安積皇子 ( あさかのおうじ ) という 光明皇后の前に天皇と実質的な婚姻関係にあった女性との間に生まれた男の子がいるのですけれど その皇子にも藤原氏は絶対に権力を渡さない けれど そのためには 大仏を建立した聖武天皇と光明皇后との間に男の子が生まれないといけないわけです しかし生まれないのです よく 古代は朝鮮半島や中国のほうが文明国だったと言う人がいます それは ある一面では事実ですが 少なくとも工業技術 テクノロジーの点においては 日本がこの時点で抜いています というのは 奈良の大仏は鋳物 ( いもの ) で 金属をどろどろに溶かして成型したものです この時点で世界一の銅像です こんなものは中国大陸にも朝鮮半島にも ローマ帝国にすらない これは当時の世界で最大の 金銅仏 鋳物です これを造ったというのは ものすごいことなのです 現代で考えると 今の日本がアポロ計画をやるようなものです 何百億どころか 何千億円もかかる事業です 逆に言えば だから聖武天皇を批判する人がいる それは当然です 政府高官の四兄弟が天然痘で死ぬくらいの時代ですから 疫病が大流行していました 国家はぼろぼろだったわけです 財政的にも危機に瀕していた それなのになぜ今 大仏なんか造るのだと しかしそれが宗教というもので 宗教の力にすがろうと思ったわけですね とくに 持統天皇は火葬にされた人ですから その子孫である聖武天皇は仏教を篤く信仰していたと考えられますので 仏教の力でなんとか悪霊に勝とうと思ったのでしょうね 9
6. 苦労して造った大仏なのに 大仏はどうやって造られたのでしょうか まず粘土で同じ大きさの大仏を造る わざわざ造っておいて ちょっとだけ上を削るのですよ 削った分が大仏さんの厚みになります それをカバーする形でロウをかぶせ さらにその上に粘土でカバーする そこにどろどろの銅を流し込めばロウが溶けて大仏になる 今は銅色ですけれど 造立時は金メッキをしていました 東南アジアやネパールでは 仏像はきんきらきんのものが多い 日本人は違和感を感じる人が多いと思います 日本の仏像というのは みなブロンズ像のブロンズ色の地肌です あるいは 木彫りの仏像は木肌です ところが本当は 仏の体というのは金色に輝いている と仏典には書いてあります だから金メッキをするか あるいは宝石で仏像を造るのがじつは正しい 江戸時代に造られた仏像には金箔を施されたものもあります ところが日本は どちらかというと渋味を愛する国民であるがゆえでしょうか 古い仏像に敢えてまた金を施すということをやめてしまったのです 金をできるだけ薄くのばして 主に木像に漆を接着剤として塗って貼り付けるだけの金箔は 簡単です しかし 金メッキというのは 金と水銀を混ぜ合わせて それをどろどろに溶かして塗って 水銀を蒸発させて 金を定着させるという方法で造らなければならないので 大変な手間がかかります この大仏造立をスタートしたときに 日本から金は見つかっていませんでした それでも大仏を造り始めました 一度に全部を造ったわけではありません 輪切りのようにして 下から鋳造して盛り上げていった そして完成にさしかかった頃 金メッキしなければいけないのに金がない えらいことだと思っていたら ちょうどその頃 東北で金が発見されて よかったよかったということになったわけです 大仏の大きさですが 今でも高さが15メートルくらいありますが おそらく創建当初は18メートルくらいあったのではないかと思います しかし 大仏は何度も焼け落ちています お顔は戦国から江戸時代にかけてのもので 元々はああいう顔ではないのです 興福寺に山田寺仏頭という白鳳時代の仏像がありますが その山田寺仏頭というのはギリシャ彫刻のような いってみればイケメンのいいお顔で おそらくああいう顔ではなかったかと推察されます その時代の仏像の顔はそういうものなのです 創建当初のままで残っているのは 膝の部分などほんの一部だけです 何度も焼け落ちているので それを修復してできたものが今の奈良の大仏です 当初お話しましたが 平城京は久しぶりに固定された 日本で初めて千年の都をめざしてつくった都ですよね そこに大仏があるのです でも 結局 聖武天皇 藤原光明子の間に男の子は生まれず 藤原氏はどうしたかというと むちゃくちゃなことをした あくまで藤原の血を引いた者でなくてはならないということで 2 人の間に生まれた女のお子さんに帝位を継がせたのです それが 称徳女帝です それまで女帝というのは 先代天皇の妹とか未亡人という方が多かったのですが 女性の身で皇太子になったのは この人が初めてです ピンチヒッターのような形ではなく 生まれてほどなく皇太子に指名されて 皇太子から天皇になった女帝はこの人が初めてで その後も1 人もいません どうしてかというと 藤原氏がどうしてもこ 10
の人に位を継がせたかったからです そういう無理に無理を重ねたものだから 称徳女帝はかわいそうなのです 結局 結婚できませんでした 遠縁の者を養子にしたのですが どうもうまくいかず そのうちに彼女は死んでしまいます そこで 壬申の乱に負けてずっと冷や飯を食わされていた天智天皇の子孫が 天皇になります 当時すでにもう おじいさんでした しかも壬申の乱の負け組の系統ですから 皇族といってもずいぶん冷遇されていた だからこの人は酒ばかり飲んでいたそうです 酒ばっかり飲んでいたおじいちゃんが天皇になります 光仁天皇です 光仁天皇はすでにおじいちゃんでしたから何もできませんでしたが 光仁天皇が亡くなると その子どもが桓武天皇になります 桓武天皇は最初に何をしたか 都を遷したのです 遷す必要がないのに です 平城京には奈良の大仏が造られた 国家プロジェクト 国家のモニュメントとして膨大な金を費やして造った しかも当時は金色に輝いていた それを捨て 遷都したのです そもそも大仏というのは 私の説ですが 聖武天皇の怨霊逃れのために造られたものなのですね しかし 役に立てばともかく 役に立たなかったのです 桓武天皇は 都を平安京に遷したあと何をしたのでしょう 当時 一番優秀な若手の僧であった最澄に新しい仏教を学んでくるよう 遣唐使の船に乗せたわけです そして新しい仏教を学んできた そうすると 桓武天皇は歓迎したのです おお いいものをもってきたな と それで最澄にお寺を与えるのです ちなみに最澄が唐に渡った遣唐使船には空海も乗っていました 空海も 最澄と同じく新しい仏教を学んで帰国し 嵯峨天皇にお寺を与えられます 皆さんが掃除機を買い変えるのはどんな時ですか 古い掃除機が役に立たなくなった時 壊れた時 それより性能のいいものが出た時ではないでしょうか 同じことです 大仏仏教つまり奈良仏教は天皇家鎮護のためには役に立たなかった だから捨てて 新しい仏教を必要としたということです 平城京が平安京に遷ったのは 公害のためだという人もいます 日本の歴史始まって以来 膨大な銅を精錬したわけですが おそらく昔のことだから 排水をそのまま川に垂れ流しにしたと思うのですね そうすると 鉱毒で魚などは全部死んでしまったと考えられます 但し 当時の人はそれをなんと考えたか おそらく たたりだと 思ったのではないでしょうか 少なくとも桓武天皇は 奈良はいらない と考えたということですね だからこそ 新しい都を求めた 古いものを捨てるときは それがいらないと思ったときでしょう 役に立たないと思ったとき 皆さんだってそうだし 天皇だって同じなのです 本当に役に立たなかったと考えたかどうかを見極めるためには 新しいものを求めたかどうかを調べてみたらいいのです 桓武天皇が都を平安京に遷した それでも 仏教は相変わらず奈良仏教を信仰したというならば 今言ったことは間違いだと言えるでしょう しかし 天皇は奈良仏教とはきっぱりと縁を切って 空海や最澄の新しい仏教を国家鎮護のために重んじました ということは 奈良の大仏さんは 大きな声では言えないけれども役に立たないと考えられたということになります これが中国だったら溶かして銅銭にしちゃうかもしれません 役に立たないものですから しかしそうすると 今度は大仏のたたりというものがある 11
戦国武将の松永久秀 ( ひさひで または弾正 だんじょう ) という人は たいへんな横着者で 生涯 3 度の叛乱をしたといわれている男です 織田信長よりずっと年上ですが 信長に従っていたときがあって あるとき信長はおもしろがって徳川家康にこう紹介しました この男は たいへんな男だ 普通の人なら絶対にできないことを3つやっている 主人である大名の三好を滅ぼしたこと 奈良の大仏を焼いたこと 将軍を殺したこと 全部本当なのですね そういう紹介のされ方をしたから 松永弾正は信長を恨んでそれで叛乱を起こしたのだと言われていますが 私は違うと思います 信長にしてみてもこれは褒めたのだと思います こいつはすごいヤツだ と 信長だって将軍家を追放しているわけですから しかし 最終的に信長に逆らった松永弾正は 奈良の信貴山 ( しぎさん ) 城に籠もって抵抗します この人は信長と似て新しいものが大好きだったのだと思います とうとう力尽きた時 日本最初の爆死 火薬で自分の体を吹っ飛ばすという方法で死にます 天守閣に火薬を仕掛けて 自分の体に巻き付けて 五体を四散させて死んだのです それがちょうど 10 月 10 日のことだったのですが これは10 年前に松永弾正が大仏殿を焼いた日だったのです 彼は わざわざその日に合わせたのかも知れませんが その日に死んだから 大仏のたたりである と言われました 大仏が焼け落ちたことは 何度かあります それより前の平安時代末期 平清盛の時代にも清盛の息子である平重衡 ( たいらのしげひら ) が 奈良の東大寺の僧兵たちをやっつけようと火を放ったら焼け落ちてしまった そういうわけで 奈良の大仏は史上何度か焼けていますが そのたびごとに再建されているのです ちなみに豊臣秀吉は 奈良の大仏を超えてやるということで京都に ( 銅で造ると十何年もかかるので ) 木彫りの仏像を建てました 奈良の大仏より大きいというのがミソです そのときに 屋久杉を1 本切ったらしいのです 屋久島に縄文杉の切り株があり 発見者の名前でウィルソン株と名がついています これは 切り株で周囲が約 14メートルあり ものすごく太い おそらく 豊臣秀吉が奈良の大仏以上の大仏殿を造るときに 材料として切り取っていったのではないかと言われています その奈良の大仏を超える大仏は 木彫りですが 地震で倒壊しました その当時の人はなんと思ったか 奈良の大仏さんを放っておいて 京都に大きなものを造るから バチが当たったのだろうと 実際 豊臣秀吉はその2 3 年後に死ぬわけです そういう因縁話もあります というわけで 今日の話は 内緒の話ということでよろしくお願いします ( 笑 ) 12