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阪南論集人文 自然科学編 Vol. 50 No. 2 ラーは, 政権獲得 (Machtergreifung) 後, 新聞を他のマスメディアと同様にナチスの管理下においた カトリック系新聞もまた, 国家権力を握ったナチスとの協調を強いられた 6 ) しかし, カトリック系新聞が国家から干渉をうけたのは, この時代が初めてではない 新聞メディアがドイツ語圏においてマスメディアに発展した 19 世紀中期から後期は, ちょうどプロテスタント国であるプロイセンによってドイツ統一がなされたのと同じ時期である つまり, 新聞がマスメディアに発展して以降のドイツ語圏におけるカトリック系新聞は, ほぼ常に非カトリック系の政権下にあったのである それでは, ナチスがすりかわろうとしたカトリック教会と新聞メディアは, ナチスの政権獲得までにどのような経緯をたどってきたのだろうか 本論では, 国家権力との関係性に注視しながら, カトリック系新聞の歴史とその紙上でおこなわれたプロパガンダを考察する 7 Ⅱ ドイツ語圏における政党紙 ) の誕生ドイツ語圏の新聞において, 客観的な事実の報道だけでなく政治に関する主観的な社説も掲載されるようになったのは,19 世紀になってからである もっとも, 検閲の厳しかった 19 世紀初頭のドイツ語圏では, 報道の自由は例外的にしか認められておらず, 自国の政府にとって都合のよい社説だけが 外交の道具 (Koszyk 1999: 902) として掲載されていた ドイツ語圏における政党紙の先駆けとなったのは, カトリックの教育学者であるヨーゼフ ゲレス (Joseph Görres. 1776-1848) が 1814 年に創刊した自由主義系の ライン メルクーア (Rheinische Merkur) である しかし, 同紙は, プロイセン政府によって 1816 年にはもう廃刊が命じられている 8 ) 特定の政治団体の機関紙として機能する政党紙, とりわけ思想の自由のために戦う自由主義系の新聞が創刊されるようになるのは,1830 年の七月革命以降である もっとも, こうした新聞が広範な社会階層にま で読まれ, 政治的な影響力を発揮したかどうかは定かではない いずれにせよ, 新聞紙上における政治的テーマの扱いに関して言えば, 刊行される国ごとにかなり偏っていた たとえば, 他国にくらべ自由主義的だったバーデン大公国では,1832 年から 34 年にかけて例外的に完全な報道の自由が認められており,1847 年の時点で 63 紙が政治的なテーマを扱っていた その一方で, 厳しい検閲がおこなわれていたオーストリア帝国では, ドイツ語圏で最大の人口をほこりながら, 同じ年に 24 紙のみが政治的テーマを取り上げていたにすぎない 9 ) 政党紙がドイツ語圏に定着したのは,1848 年の三月革命の結果として検閲の廃止と報道の自由が部分的に認められてからであるが, その多くが革命の頓挫とともに短命に終っている この革命期の新聞としては, ゲオルク ゴットフリート ゲルヴィニウス (Georg Gottfried Gervinus. 1805-1871) が 1847 年から 1850 年にかけてハイデルベルクで刊行していた ドイツ新聞 (Deutsche Zeitung) がある 同紙は, ドイツ語圏において政治思想を前面に押し出した最初の新聞とみなされており, また, 革命期を通じて影響力をもちつづけた唯一の自由主義系新聞でもあった 同紙の影響力は, ビスマルクに危機感を与え, 対抗馬として保守主義のための 新プロイセン新聞 (Neue Preußische Zeitung. のちの 十字架新聞 [Kreuzzeitung]) を創刊させたほどである 10) 1850 年代になると, 各国政府の規制によって保守系以外の政党紙は廃刊に追い込まれることが多かったが, 1858 年以降のいわゆる 新時代 (Neue Ära) には, 自由主義系の新聞も徐々にその数を増やしていった 11) 三月革命以降の政党紙は, その政治理念によって, 保守主義 ( 十字架新聞 など ), 自由主義 ( 国民新聞 [National Zeitung] など ), 社会主義 ( 新ライン新聞 [Neue Rheinische Zeitung] など ) に分けることができる その一方で,Stöber(2000) のように, 政治的カトリック系新聞をこれらと同列に扱う研究もみ 12

Mar. 2015 ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞の誕生と発展 られる ただし, カトリック系新聞は,Stöber も指摘しているように, 宗教的にはたしかにひとつのカテゴリーに分類が可能であるが, 政治的には統一的に扱うことはできない 例えば, カトリック ドイツのための歴史政治新聞 (Historisch-politische Blätter für das katholische Deutschland. 以下, 歴史政治新聞 と表記 ) は政治的には極端に保守的であったし, カトリック (Katholik) は自由主義的, ライン民衆の集会場 (Rheinische Volkshalle) は中道であった 12) しかし, 当時のカトリック系新聞の政治的な姿勢は, その時々の情勢に応じて変化しており, 明確な区分はできない たとえば, 右寄りである 歴史政治新聞 は, 社会主義に対しても共感を示していた なぜなら, 政治 経済の分野において自由主義と戦っていた同紙にとって, 社会主義は共に戦うべき 敵の敵 だったからである 13) Ⅲ ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞 1. 政治的カトリック系新聞の誕生政治活動とは無関係の新聞に限ってみれば, ドイツ語圏で最も古いカトリック系新聞は, すでに 17 世紀末には存在していた 最古とみなされているのは, アウクスブルク郵便新聞 (Augsburger Postzeitung) で,1686 年までには創刊されており,1695 年に神聖ローマ皇帝から刊行に対する勅許を得ている 14) この他に,18 世紀中に創刊されて 19 世紀まで刊行されつづけていたカトリック系新聞が 5 紙ほどあり, その後, 三月革命までに 25 紙が新たに創刊された 15) しかしながら, 政治的な関心が高まった 19 世紀初頭においても, カトリック系新聞において政治的なテーマが扱われることは少なかった 例えば,1826 年にヴュルツブルクで創刊された シュロの葉 (Palmblätter) は, 宗教や文学に関する記事 ( 説教, 寓話, 詩など ) のみを掲載していた 16) カトリック系新聞が政治的な立 場を明確にしはじめたのは,1837 年におきたケルン大司教の逮捕以降である 異宗婚問題にプロイセン政府が介入することを拒んだケルン大司教クレメンス アウグスト フォン ドロステ=フィシェリンク (Clemens August von Droste-Vischering. 1773-1845) が逮捕されると, 上述のゲレスは, エオス (Eos) や カトリック教会新聞 (Katholische Kirchenzeitung) といった既存の政治的テーマも扱うカトリック系新聞を参考に, 歴史政治新聞 を創刊した 同紙は隔週刊で, 各号が 60 から 70 ページもあり, 価格は 4 から 6 フローリンであった 発行部数は 1,000 部から 2,000 部ていどで, ドイツ語圏だけでなく海外のカトリック知識人階層にも広く読まれた そして,1880 年代にいたるまで ドイツにおけるカトリックにとって最も重要な機関紙 (Wacker 1973: 144f.) でありつづけた 17) この 歴史政治新聞 は, カトリック系新聞の分水嶺とみなされている なぜなら, 同紙によって初めて, カトリック系新聞は政治的な 守勢から攻勢に (Wacker 1973: 143) 移ったからである なお, 同紙の登場以前から例外的に政党紙としても機能していたものとしては, たとえば, 以下のような新聞があった エオス は, もともと娯楽紙として 1818 年にミュンヒェンで創刊されたが,1828 年にゲレスたちが買い取ったことにより, 復古主義的で闘争的な新聞へと変貌した 1821 年にマインツで創刊された カトリック は, 歴史政治新聞 の登場までもっとも宗教的 政治的に影響力のあったカトリック系新聞で, もともと月刊であったが 1844 年以降は週 3 回刊行となり時事問題も扱うようになる ゲレスが参考にした カトリック教会新聞 は,1829 年にオッフェンバッハで創刊され, その翌年からアシャッフェンブルクで刊行された保守系の新聞である また, われらの時代の教会の声 というサブタイトルを持つ シオン (Sion) は,1832 年にアウクスブルクで創刊され,1845 年には,2,000 部売り上げれば大新聞とされた当時に 2,500 部を売り上げるなど, 好評を博した 18) 13

阪南論集人文 自然科学編 Vol. 50 No. 2 これらの新聞を通じて, カトリック系新聞がもつ政治的影響力は, すでに三月革命期には認識されていた しかし, カトリック系新聞の政治化は, ドイツ語圏のほぼすべての国家においてカトリック系新聞に対する弾圧を引き起こした その結果として, 三月革命期の政治的カトリック系新聞のタイトル数は限られており, このことに対するカトリック信者の不満も高まっていた そして, ごく限られた特定の新聞編集者がカトリック信者の政治的関心を代弁していることに対しては, カトリック教会そのものがジャーナリズムの世界でも主導権を握るようにと要求する声があった 19) この点について, 上述の アウクスブルク郵便新聞 1847 年 6 月 20 日号は, 以下のように主張している ここでは詳述しない外部との不都合な関係によって,2000 万人ものドイツのカトリック信者たちが, たった 6 から 8 紙の日刊紙にその政治的 社会的関心を代弁させている そのうえ, 今日ではよく知られているように報道のもつ力は大きく, たいていの人がジャーナリズムに熱中しているなかで, 日刊紙はすべての信者たちに, 政治的変革についても多かれ少なかれ言及している このような状況がもたらす不利益は明白である いちど大衆に受け入れられ, すべての業種の広告を独占したあらゆる規模および政治的信条の [ カトリック系 ] 新聞は, カトリック信者のことばとして, 毎日, 侮辱的なことがらをあらゆる公的な形で発言している カトリック信者たちは, 表面的な沈黙を強いられるか, ジャーナリズムの巨大な講演会場で発言したければ, 非カトリック的な編集部のお慈悲にすがらなければならない [...] これまでは, 教会が, 使者を送れるところであればどこでも, 社会的 政治的な関係も築き, 確固として保持してきたのだから, 政治的な秩序が本質的にはまだ侵害されていない [ ジャーナリズムの ] 分野にも, その祝福に満ちた仕事を通じて, 参入していくことができるはずである (zit. nach Pesch 1964: 19) しかしながら, カトリック系新聞が当時, 政治的な影響力をもちえた理由のひとつは, 教会の影響力がジャーナリズムの分野にそれほど強く及んでおらず, 才能のあるジャーナリストが, 教会の制約を受けることなく, 自らの政治的信条のために活動できていたことにあった なぜなら, 教会の影響力が強くなればなるほど, 新聞は 説教壇の代用品以外のなにものでもなく (Requate 1995: 309) なり, ジャーナリストとしての自覚のある編集者はそうした新聞で活動しようとはしなかったからである 20) 2. 最初期の政治的カトリック系新聞におけるプロパガンダカトリック系新聞は, プロテスタント勢力, とりわけプロイセン政府との対立関係のなかで発展した 上述の 歴史政治新聞 は, 明確に, プロテスタントおよびプロイセン政府との宗教的 政治的闘争のために創刊された機関紙であった 同紙の記者は, プロイセン政府の息がかかった政党紙に対し, 以下のように宣言している 世論形成のための権利を, 毎日, 遠慮呵責なしに行使し, 腹立たしい厚かましさをもってそれを悪用しているこれらの機関紙に対して, 我々も同様の権利を持っており, ここでその権利を大々的に用いてみることについて検討している (Phillips/Görres[Hg.]1838: 122) この宣言どおり, 同紙では世論形成のためのプロパガンダが行われており, そこには敵対する特定の新聞への露骨な攻撃も含まれていた 例えば, 同紙が創刊されるきっかけとなったケルン大司教の逮捕に関連したプロパガンダは, 以下のようであった 1838 年, 内政 外交に関する時事が扱われる 時勢 (Zeitläufte) という欄で 高位聖職者の 14

Mar. 2015 ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞の誕生と発展 逮捕および連行 (ebd.) について取り上げられ, 他紙がこの事件をどのように報じているかが論じられた この欄の記者は, 大司教の逮捕に関するいくつかの記事を ライプツィヒ一般新聞 (Leipziger allgemeine Zeitung) から引用しているが, その中には, プロイセンで啓蒙主義が栄えたことを称揚しプロイセン政府と対立しているケルン大司教の偏狭さを批判する記事も含まれている この記事をうけて, 歴史政治新聞 の記者は, 以下のように皮肉な調子で, プロイセンとプロテスタントこそ非啓蒙主義的で頑迷であると反撃を加えている ライプツィヒ一般新聞 は, どの号でもこのような調子である さらに言えば, まことにもっともなことだが, こうした文章はプロテスタントの 反啓蒙主義者 ( Dunkelmänner ) たちによって熱心に読まれているのだ なんと, どこかの教区では, 啓蒙思想を奉じる牧師に悪魔祓いの是非について議論させようとはせず, むしろ頑迷に (hartnäckig) 悪魔祓いに固執した それも, この 19 世紀の, 我らが啓蒙主義の光の中で, そして, あんなにも進歩的な政府の支配のもとで!(Ebd.: 124) また, ライプツィヒ一般新聞 が, 自由主義系の新聞を標榜しながら, 実際にはプロイセンの秘密警察と結びついてカトリック勢力を中傷していることを紙面で明らかにし, それを敵対するプロテスタント勢力による 深刻な不道徳 (ebd.: 126) と断じている 21) たとえば, ライプツィヒ一般新聞 1837 年 12 月 16 日号には, ケルン大司教 がホテルに女性たちと宿泊したとするスイスからのニュースが掲載されており, 大司教が夜間に女性の部屋を訪れたことが匂わされていた こうした信憑性のない中傷記事を載せることを, 歴史政治新聞 の記者は 欺瞞 とよび, 仮定法を用いた回りくどい表現で糾弾する まさか, こうした欺瞞にたいそうな金額を無駄づかいするような省庁があるかもしれないだとか, こういう類の小記事を載せることで, 自分たちをより賢明にみせることができるなどと真剣に考えている連中がいるかもしれないだとか, そういうことを, 我々は考えたこともなかった しかし, もし仮にそのようなものが存在したのであれば, 国家の知識階級 (Staatsintelligenz) のおかげで高等警察の事務所に集まってくる報告も, いま紹介したもの [ 信憑性のない中傷記事 ] とまったく似ていないということもない (nicht ganz unähnlich) のだろう (Ebd.: 126) 他の新聞に対しては名指しで露骨な攻撃をおこなっている一方で, プロイセン政府に対しては直接的な批判を避け, 皮肉めいた調子で遠まわしに, あんなにも進歩的な政府 が中傷キャンペーンに たいそうな金額を無駄づかいする ことは 考えたこともない と述べているのは, 当時の検閲の厳しさを反映しているのだろう 22) すでに自らの政党紙をプロイセン政府によってわずか 2 年で廃刊に追いやられた経験のあるゲレスは, 国家権力への攻撃に関しては若干の慎重さを持っていたといえるかもしれない その傍証として, 反政府的な政党紙でありながら政治的 経済的に成功を収めていた, 別の新聞におけるプロパガンダの例を挙げたい 1830 年にテオドール オルスハウゼン (Theodor Olshausen. 1802-1869) によって創刊された自由主義系の 日刊キール通信 (Correspondenzblatt und Kieler Tageblatt) は, もっぱら客観的な事実の報道のみが行われていた三月革命前から, 近代的な政党紙として機能していた数少ない新聞のうちのひとつである 同紙は, 当時デンマーク領だったホルシュタイン公国にあってドイツ人の愛国主義に訴えかける新聞であり, また編集長だったオルスハウゼンが時事を公正に解説したため, キール当局の厳しい検閲にもかかわらず, 創刊当初から多くの支持者を得た 23) この, ドイツ語圏における 15

阪南論集人文 自然科学編 Vol. 50 No. 2 最初期の政党紙上でも, 教会側の人間によるプロパガンダが行われていた キール在住と思われるある神学者は, 私たちの教会にも暖房を入れるべきか? という, 一見, 非政治的と思われる見出しの記事において, 以下のように述べている 24) 健康は, 言わずもがな, 人の一生において最も価値があり, 最も得がたい財産だ だから, 聖書にも, シラ書 30 章 15 節および 16 節に 健康で丈夫な体は, あらゆる黄金にまさり, 強じんな精神は, 莫大な財産にまさる 体の健康にまさる富はなく, 心の喜びにまさる楽しみもない 25) と, 書いてある [...] とりわけ, ここキールにおいては, 告解を終えて聖ニコライ教会のよく暖められた隣室から, 厳しい冬には列氏 2 から 4 度以下になることもある会堂にもどれば, 聖体拝領者は, 身体に悪い影響をうけるに違いない [...] 私たちの教会にも暖房を入れなければならない [...] このことについては長い間, ドイツのいくつかの地方で取りざたされてきたが, 導入されたという話はまだ聞かない おそらく, 政治的混乱のせいでこの案件が一時的に棚上げされているのだろう ところが, 確かな情報によれば, コペンハーゲンにある教会には, すでに数年前から暖房が入っているのだそうだ 私たちの公国 [ シュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国 ] では, きっと, ほとんどどこでも同じ要求がされているだろうから, 私たちの提案に対しては, ただ はい という返事がくるだろう (Correspondenzblatt und Kieler Tageblatt. 19.1.1850: 2 f.) この記事で扱われているのは, もちろん, 教会に暖房を設置するかどうかといった問題などではなく, デンマーク人に冷遇されているドイツ人一般の問題である しかし, この神学者は, 一言もデンマーク政府を批判するような言及はしていない Cöppicus-Wex(2001) は, 同紙が政治的 経済的に成功を収めた理由のひとつを, その 知識人めかした理論的な討論調 [ ではなく ] 簡潔で皮肉っぽい (Cöppicus-Wex 2001: 210) 文体に求めている おそらく, 攻撃的な政治的カトリック系新聞である 歴史政治新聞 が影響力をもちつづけ, かつ 20 世紀初頭まで生き延びることができた理由もまた, 日刊キール通信 が支持されたのと同じ理由であったと思われる 3. プロイセンおよびナチス政権下のカトリック系新聞プロパガンダに際しての論調をみるかぎりでは, 政治的カトリック系新聞には, 歴史政治新聞 のようなきわめて強硬な新聞であっても国家権力に対する韜晦がみられた ましてや, 政治的 宗教的信念よりも商業的な利益を優先する出版社には, プロテスタント国であるプロイセンによってドイツが統一されていく過程で, 自らの新聞のカトリックとしての色を消すものもあった ケルンの J. P. バッヘム (J. P. Bachem) 出版の新聞がその一例である 同社が三月革命期から刊行していた ライン民衆の集会場 は, およそ 3,000 人ていどの定期購読者を抱える当時の大新聞で,1849 年からはタイトルを ドイツ民衆の集会場 (Deutsche Volkshalle) に変えている 1852 年には, ほぼ 4,000 人の定期購読者がいた その購読者数の多さが示すように, この新聞は, 当時のプロイセン領内で最も影響力のあるカトリック系新聞のひとつであったが, 政府との対立から 1855 年には廃刊に追い込まれてしまった しかし, バッヘム出版は,1860 年にはもう新たなカトリック系新聞を創刊している 当初, ケルン ブレッター (Kölnischen Blätter) と呼ばれていた同紙は,1869 年に ケルン民衆経済新聞 (Kölnische Volkszeitung und Handelsblatt) と改名し,1941 年まで好評のうちに刊行されつづけた 発行部数は,1862 年に 3,600 部,1866 年には 6,500 部だった この成功の陰には, バッヘム出版の経営方針の転向があった すなわち, 新聞の 非政治化 である 1862 年以降, 同社は, 16

Mar. 2015 ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞の誕生と発展 なるべく多くの読者を獲得するために, プロテスタントの編集者を雇い入れ, カトリックの記者にも可能なかぎり中立の立場で記事を書くよう指示している 26) ケルン民衆経済新聞 は 意識的に個性を消し去ること (Requate 1995: 311) で商業的な成功を得たが, これは当時のカトリック系新聞としては例外であった 1848 年から 1871 年の間に創刊されたカトリック系新聞のほとんどは, 上述の 歴史政治新聞 と同様に カトリックの敵に対する抵抗 (ebd.: 313) のために刊行されていた 1865 年には, カトリック系のすべての日刊紙の定期購読者数は 6 万人に達し,1871 年には,126 紙のカトリック系新聞が刊行されており, 総発行部数は 322,000 部にもおよんだ しかし, プロテスタント国であるプロイセンによってドイツが統一され, カトリック国であるフランスやオーストリアとドイツ国内のカトリック勢力が結びつくことを恐れたビスマルクによって激しい弾圧が行われたため, ドイツ帝国でこの 教会闘争 を生きのびることができたカトリック系新聞は 65 紙にすぎない 27) そして,1899 年にベルリンで活動していた編集者のうち, カトリック信者が占める割合は約 11% にすぎず, これはユダヤ教徒の約 18% よりも少ない 28) ベルリンがプロイセンの中心都市であり, プロイセンではカトリック系新聞への激しい弾圧が行われていたとはいえ, きわめて低い割合だといえるだろう もっとも, このことの背景には, すでに述べたように, 政府による弾圧にくわえ, 多かれ少なかれ教会の影響下にあるカトリック系新聞がジャーナリストにとって魅力的な職場ではなかったことがあったといえる ナチスによる政権獲得以降, キリスト教系の新聞は他の新聞種と同様に, ナチズムとの共存を強いられる もっとも, ナチズムの根幹にある反ユダヤ主義を育てたのは上述のとおりキリスト教であったため, ナチスによる政権獲得を歓迎する教会関係者もいた 例えば, 政権獲得直後の 1933 年 2 月には, プロテスタント系 の ラインラントおよびヴェストファーレンのための教会展望 (Kirchliche Rundschau für Rheinland und Westfalen) に, 以下のような一文が掲載された 春の目覚めが, 我らの民族にもやってきた! [...] ドイツのプロテスタンティズムとドイツのナショナリズムは隔てられ, 打ち砕かれていた しかし, その古くからの不一致は, 今や過去のものにしてしまわねばならない [...] 我々は叫ぼう, ドイツ! ドイツ! 万歳!(Heil!) と (zit. nach Frei/Schmitz 1999: 69) ドイツ帝国時代にも国家権力と戦ってきたカトリック系新聞は, ナチス政権の初期にはまだ政権に対して否定的な態度をしめしていた しかし,1935 年夏以降, 出版全国指導者であるマックス アマン (Max Amann. 1891-1957) のもと, キリスト教系の新聞に対する弾圧がはじまる 1935 年 7 月 4 日には, ドイツの出版社が発行しているキリスト教系の新聞の内容 ( 政府に対する態度, 宗教的立場と政治立場との混同など ) についての調査が命じられている とりわけ厳しい弾圧を受けたのはカトリック系新聞で, 大手の新聞はすべてナチス系の出版社に吸収された ナチスによる迫害を生き延びたユダヤ人言語学者クレンペラーが, カトリック教会がナチス政権と 宿敵関係 (Todfeindschaft) (Klemperer 2009[1947]: 368) にあったと明言しているように, カトリシズムが民衆の日常生活に根付いていた地方では, 教会を敵視するナチズムに対する反発がとくに強かった 29) そこで, ナチスは, カトリック系の新聞を取り込むことで, ナチ党の機関紙の影響力が及ばない社会集団にまでプロパガンダを広めようと試みたのである こうした弾圧によって, カトリック系新聞における反ナチス色は徐々に不明瞭になっていった しかも, 彼らは, カトリック系新聞を政府にとって危険ではないていどの敵対勢力, 特定の宗派や知識人階級のみに支持され 17

阪南論集人文 自然科学編 Vol. 50 No. 2 ている弱い敵対勢力としてあえて生き残らせ, 実効力のない精神的抵抗を行わせることで, 反政府勢力のガス抜きに利用さえしていた このようなプロパガンダ政策を通じて, ナチスは, カトリック教会による組織的な抵抗を抑制した たしかに,1 万人以上のカトリック教区司祭がナチス政権から制裁処置を受けるなど, 抵抗も行われていたが, 全体的にみれば さまざまな出来事のなかのほんの極一部しか, ナチスの支配に対する教会側からの 闘争 や 抵抗 と呼ぶことはできない (Strohm 2011: 9 f.) 30) Ⅳ おわりに本論では, ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞が, 非カトリック系の政権下において, 国家権力との対立関係のなかで誕生し, 発展してきたことをみてきた 政治的カトリック系新聞は, 国家による弾圧に対してカトリック教会や信者の声を代弁するために生まれたが, その政治的姿勢はさまざまであり, 統一的な政治活動を行っていたわけではなかった また, 最初期のプロパガンダにおいては, 国家権力に対する配慮から遠まわしな皮肉という手法が好まれた 誕生以来, 国家権力と戦いつづけてきた政治的カトリック系新聞は, しかし, ナチス政権下においては逆に, ナチズムに抵抗するカトリック信者を取り込もうとするナチスのプロパガンダに利用された ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞の歴史は, つまり, 国家権力によって生み出され, 生かされ, 殺され, 利用されてきた歴史といえるだろう 本論では, ナチス政権下において政治的な配慮から生き残ることのできたカトリック系新聞について, 詳しく扱うことはできなかった こうした新聞は, どのような形でナチスやカトリック教会および信者と接していたのだろうか この点の究明を今後の課題としたい 付記 本研究は, 科学研究費補助金基盤研究 (C) 想起す る帝国 ナチス ドイツにおいて想起された 過去 の研究 ( 研究代表者 : 溝井裕一 ) 課題番号 :25370388 の助成をうけて行われた 注 1 ) エスクリバー, ホセマリア (2012) 道 ( 新田壮一郎訳 ),291 ページ 2 )Vgl. Hofer(Hg.)1957: 149; 浜本 2004: 143; Strohm 2011: 7ff., 12ff., 105f. 3 ) そもそも, プロパガンダ (Propaganda) という語の起源が,1622 年にローマ教皇グレゴリオ 15 世によって設置された組織の名称 (Congregatio de Propaganda Fide) に由来し, プロパガンダ とは, カトリックの信仰を 広めること という意味であった その後, フランス革命以降, 政治思想を 広めること という意味合いで使われはじめ, 1840 年から 1850 年の間には, 宣伝を行う組織ではなく運動 キャンペーンそのものを指すようになる ナチスにおいては, あらゆる政治的問題に際して大衆を画一的に導くための, ナチズムによる全ての処置 に対して, プロパガンダ という名称が用いられていた Vgl. Schmitz-Berning 2000: 475ff. 4 )Vgl. Hitler 1939[1925/26]: 58f., 74, 107ff.; 高田 2014: 16f. 5 ) このことから, クレンペラーは, 国家社会主義はひとつの宗教 (Klemperer 2009[1947]: 50) であり 第三帝国の言語 の究極の形は, 信仰の言語でなければならない (ebd.: 148) と断じている こうしたプロパガンダ活動は, 一定の成功を収めていた Vgl. 宮田 1991: 127, 186ff., 221, 243, 276; 浜本 2004: 141ff.; Klemperer 2009 [1947]: 37, 76f., 142ff., 147ff., 152ff. 6 )Vgl. 宮田 1991: 260; Frei/Schmitz 1999: 64f., 67. 7 ) 本論では, 新聞 (Zeitung) と 雑誌 (Zeitschrift) を厳密に分けず, 便宜上, 特定の党派のための世論形成を目的とした薄手の定期刊行物を一括して 政党紙 として扱っている なぜなら, 本論で中心的に扱っている 19 世紀のドイツ語圏において, 新聞 と 雑誌 ( さらには 年鑑 も含む ) の定義が明確でなかったうえ, Blatt のように新聞とも雑誌ともとれる形態の定期刊行物も存在していたからである 8 )Vgl. Schottenloher 1985: 77; Polenz 1999: 82ff. 9 )Vgl. Fischer 1981: 183; Koszyk 1999: 904; Stöber 2000: 134f.; Dussel 2004: 23f., 29ff., 39f., 42f.; Wilke 2008: 186f., 190ff.; Hosokawa 2014a: 85. 10)Vgl. Koszyk 1966: 69ff., 111f.; Schottenloher 1985: 77; Koszyk 1999: 906; Stöber 2000: 207f.; Wilke 2008: 193, 224f. 11)Vgl. Polenz 1999: 85; Hosokawa 2014a: 85f. 18

Mar. 2015 ドイツ語圏における政治的カトリック系新聞の誕生と発展 12)Vgl. Koszyk 1966: 162ff., 168f.; Wacker 1973: 148; Fischer 1981: Kap. 4.2.3; Schottenloher 1985: 22f.; Stöber 2000: 217ff. 13)Vgl. Wacker 1973: 153. 14) もっとも, 同紙がカトリック系であることを明記したのは 1838 年以降である また, アウクスブルク郵便新聞 の現存する最古の号は 1707 年のものである Vgl. MGK Bd. 2 1905: 116; Koszyk 1966: 165; Schottenloher 1985: 23. 15)Vgl. Koszyk 1966: 165. 16) キリスト教系の新聞は, 当時, 特定の政治思想の宣伝媒体としてではなく, 下層階級を含めた幅広い社会層, とりわけ農村部の住人の啓蒙活動のために大きな役割をはたしていた すでに 18 世紀, 啓蒙主義の時代において, 庶民および農民 [ のための ] 民衆新聞 (Volkszeitung) (Schwarzkopf 1795: 122) の重要性が議論されていた こうした新聞を通じて, 一般大衆に 正しい国民というものの概念を教え込む (Schwarzkopf 1795: 124) ことが目的であった 18 世紀には, およそ 100 紙ていどのそうした新聞が創られたが, ごく限られた地域で短期間だけ刷られたにすぎない Engelsing (1966,1973) によれば, 農村部の住人は 19 世紀に入っても, 暦物語や聖書や祈祷書のような宗教的な書籍しか読まず, 新聞はごく限られた地域でしか読まれていなかった 19 世紀中ごろになって, ようやくキリスト教系の新聞が普及しはじめた たとえば, ブレーメン近郊に関していえば, 改革派の牧師フリードリヒ ルートヴィヒ マレ (Friedrich Ludwig Mallet. 1792-1865) が 1834 年に創刊した ブレーメン教会の使者 (Bremer Kirchenbote) などが, 農村部でも読まれた最初の定期刊行物であった Vgl. Schwarzkopf 1795: 122; Engelsing 1966: 121, 125; Engelsing 1973: 87; Faulstich 2002: 35ff.; Wilke 2008: 124. 17)Vgl. Phillips/Görres (Hg.)1838: Titelblatt; Pesch 1964: 16ff.; Koszyk 1966: 163; Fischer 1981: 6f.; Schottenloher 1985: 22f.; Stöber 2000: 218; Weiß 2003: 97ff. 18)Vgl. Pesch 1964: 21, 24ff., 30f., 45f.; Wacker 1973: 142; Fischer 1981: 185; Schottenloher 1985: 22; Wilke 2008: 200. 19)Vgl. Pesch 1964: 18. 20)Vgl. Requate 1995: 308ff. 21)Vgl. Phillips/Görres(Hg.)1838: 122, 126ff.; Schottenloher 1985: 22f.; Stöber 2000: 207; Weiß 2003: Kap. 3; Wilke 2008: 198. 22) 歴史政治新聞 における皮肉は, 揚げ足とりめいて滑稽に思われることもある 例えば, 敵対する新聞における印字ミスに関連付けてその 頑迷さ を冷笑する以下の箇所などは, 勇み足の感が 否めない 1838 年の福音派教会を 1530 年 ( 注 ) の教義に戻そうとする者は, カトリック教会に対しても一貫して, 今日の進歩を許容しないだろう [...] 注 : 皮肉な印字ミスによって, 原本では 1830 年 となっている 福音派の 教会の教義は, そんなに急速に変わったりはしないだろうに (Phillips/Görres [Hg.]1838: 131) 23) シュレスヴィヒ = ホルシュタイン地方の他の新聞が 150 から 250 部ていどしか刷られていなかった 1840 年代に, 同紙は 750 から 800 部を売っていた また, 同紙の登場によって, それまでの客観的に事実のみを報道する新聞は 時代遅れだと笑われる (Cöppicus-Wex 2001: 131) ようになった Vgl. ADB Bd.24. 1887: 330ff., 336; Cöppicus-Wex 2001: 127ff., 178f., 203f. 24) 記事の中で Communicant ( 聖体拝領者 ) や Beichte ( 告解 ) という語彙が使われているので, この神学者がカトリックの教会を念頭において記事を書いていることは確かだが, キールの聖ニコライ (St. Nikolai) 教会は福音派の教会である 25) 聖書本文の訳は, 新旧共同訳に拠った 26)Vgl. Koszyk 1966: 171, 173; Fischer 1981: 203f., 421f.; Requate 1995: 310. 27)Vgl. Koszyk 1966: 174; Fischer 1981: 204, 424f.; Stöber 2000: 220.; 高田 2014: 6. 28)Vgl. Requate 1995: 140f.; Wilke 2008: 293. 29)Vgl. 宮田 1991: 260; Frei/Schmitz 1999: 64f., 67. 30)Vgl. Hofer (Hg.)1957: 149; Frei/Schmitz 1999: 67ff.; 浜本 2004: 143; Strohm 2011: 7ff., 12ff., 105f. 参考文献 Allgemeine Deutsche Biographie(1875-1912). 56 Bde. Leipzig. Cöppicus-Wex, Bärbel (2001): Die dänisch-deutsche Presse 1789-1848. Presselandschaft zwischen Ancien Régime und Revolution. Bielefeld. Dussel, Konrad (2004): Deutsche Tagespresse im 19. und 20. Jahrhundert. Münster. Correspondenzblatt und Kieler Tageblatt(1850). Kiel. Engelsing, Rolf (1966): Massenpublikum und Journalistentum im 19. Jahrhundert in Nordwestdeutschland. Berlin. Engelsing, Rolf (1973): Analphabetentum und Lektüre. Zur Sozialgeschichte des Lesens in Deutschland zwischen feudaler und industrieller Gesellschaft. Stuttgart. Faulstich, Werner (2002): Die bürgerliche Mediengesellschaft (1700-1830). Göttingen. Fischer, Heinz-Dietrich (1981): Handbuch der politischen Presse in Deutschland: 1848-1980. Düsseldorf. 19

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