- 目次 - 馬左也の生涯家系とおいたち P. 3~ 住友家長と馬左也 p.343~ 学生として p. 43~ 馬左也と趣味 p.348~ 官吏として p. 57~ 家庭人として p.362~ 住友に入る p. 75~ 発病 p.370~ 別子銅山の大風水害 p. 87~ 退身 p.379~ 別子銅

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徒 ことは 決して無視していいことではない を 看護婦になれなかった あるいは今もなれ のだ また 准看護婦が看護婦になるキャリア ない 自分のせいだと見なすことが少なくない アップの道が お礼奉公 と俗称される卒業 その意味では 准看護婦制度の問題点は重層化 後の勤務強制によって実質的に閉ざされて

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1. 調査の目的 初めての給料日は 新入社員が皆胸を躍らせるイベントだ 家族への感謝の気持ちを伝える機会に 1 ヶ月間頑張った自分へのご褒美に と 使い道を考えている時間が一番楽しいかもしれない しかし最近の若者は 車や高級品に興味がない 海外旅行に関心が薄い 節約志向で無駄遣いはしない などと言わ

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二さらに現代社会においては 音楽堂等は 人々の共感と参加を得ることにより 新しい広場 として 地域コミュニティの創造と再生を通じて 地域の発展を支える機能も期待されている また 音楽堂等は 国際化が進む中では 国際文化交流の円滑化を図り 国際社会の発展に寄与する 世界への窓 にもなることが望まれる

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序文 特定非営利活動法人キャリアコンサルティング協議会 ( 以下 協議会 という ) は キャリアコンサルタントの養成等に関わる団体を会員とし キャリアコンサルティング技能検定の実施 キャリアコンサルタントの能力の維持 向上 キャリアコンサルティングの普及啓発等の事業に取り組んでいます この度 勤労

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Transcription:

別子銅山を読む解説講座 1 鈴木馬左也 平成 25 年 5 月 18 日 ( 土 )10:00~11:30 元別子銅山文化遺産課長坪井利一郎 1. はじめに明治時代の住友を語る時 広瀬宰平 伊庭貞剛につづき鈴木馬左也が語られる 馬左也は 二人の先人が築いた上に立って別子銅山を軸として住友の事業を多角的に展開するとともに 次代の人材を育成し盤石の住友をつくり上げた 明治 42 年の千光寺会談で農民との煙害賠償交渉で 煙害にたいする損害を弁償する額以上も支出して施設する覚悟である と述べ 翌年に世界的な内容の煙害賠償契約書を締結する 別子大植林計画の継承 自彊舎の命名 端出場水力発電所の建設 四阪島の大改造 新居浜選鉱場の建設 電気製錬の開始とその足跡はいたるところに見い出すことができる 明治という動乱の時代を締めくくり その実行力から 事業は人なり と言わしめた鈴木馬左也のその人と生涯を学習する 2. 本の刊行昭和 34 年 9 月鈴木馬左也翁伝記編纂会が設置される 東京と大阪で資料の収集を始める 昭和 34 年 12 月 20 日 鈴木馬左也 刊行 没後 39 年に当たる 中村四郎が馬左也の精神と面目を客観的に書き表す 3. 本の構成表紙写真 肖像 家族 筆蹟 序 小倉正恒 4ページ 目次 8ページ 馬左也の生涯 394ページ 馬左也のことば 34ページ 書簡 64ページ 追想一 二 三 210ページ 一 は井華 150 号 鈴木前総理事追悼号より転載 年譜 33ページ あとがき 11ページ 奥付 1ページ

- 目次 - 馬左也の生涯家系とおいたち P. 3~ 住友家長と馬左也 p.343~ 学生として p. 43~ 馬左也と趣味 p.348~ 官吏として p. 57~ 家庭人として p.362~ 住友に入る p. 75~ 発病 p.370~ 別子銅山の大風水害 p. 87~ 退身 p.379~ 別子銅山の煙害問題 p. 93~ 臨終 p.382~ 別子銅山の近代化 p.117~ 葬送 p.385~ 総理事となる p.131~ 余芳 p.392~ 経営方針 p.135~ 馬左也のことば p.397~ 馬左也と労働問題 p.167~ 書簡 p.431~ 事業の展開と整備 p.179~ 追想 p.497~ 社会事業と教化活動 p.275~ 年譜 p.704~ 馬左也と禅 p.311~ あとがき 馬左也の面目 p.318~ 4. 写真の筆蹟 Ⅰ 剛毅 [ 剛毅 : 意志が強く物事にくじけないこと ] 大正三年一月誠筆真清居士 Ⅱ 留守中一同うち揃ひ壮健の事とめで度 ( く ) 存 ( じ ) 候私事その後 ぱり引きつづ起平安無事目今ハ仏国巴里ニ逗留致 ( し ) 居り候 まるせいゆ来十八日ニ馬耳塞にむけ出発廿日ニ同港出帆 帰朝之途ニ就き可申候神戸着ハ一月廿七日也 既ニ御通信ハ致し ( 候ら ) 得共更ニ右御一報致 ( し ) 候御目もじも 最早四十五日之後にあり 楽 ( しき ) 喜 ( び ) 在りと子供達其他へ宜敷く御伝声たのみ入り候 是を欧州より最終の通信と致 ( し ) 候 又船中より無線電信呈上可申と存 ( じ ) 候 したた十二月十三日夜認め参らせ候 安子どの御許へ 草々めで度し ま左也 [P266,P267 では 12 月 20 日にマルセイユ出帆 1 月 31 日に神戸入港 ]

5. 馬左也の生涯の概説 馬左也の生涯 家系とおいたち 高鍋藩と秋月家 たねよ文久元年 (1861)2 月 24 日 秋月 ( 高鍋 ) 藩家老の父 水筑小一郎種節と久子の四男と こうしろうして 高鍋城下に生まれ 犢郎と名付けられた 鈴木家の養子となる 明治 2 年 (1869)4 月 2 日 鈴木家再興のために 9 歳で養子に入る 周囲の人々 高鍋藩 家族 親族 先輩 交友など多くの秀でた人物による環境が 馬左也の大 成の素地を養った 学生として藩校明倫堂に学ぶ養子に入った明治 2 年 (1869)4 月から明治 6 年 (1873) まで藩校明倫堂で学ぶ 鈴木家で上杉鷹山 高鍋論語 養父の教え文などに啓発される 馬左也の名は 明治 7 年 (1874) まさや 4 月 6 日に初めて記される 真清の仮名書きである 鹿児島県医学校明治 6 年 (1873)4 月 鹿児島県医学校に入学した 宮崎学校と野村綱明治 7 年 (1874) 宮崎県直轄宮崎学校に入学した 校長の野村綱に前途を嘱望された 金沢遊学明治 9 年 (1876)6 月 金沢の石川県立啓明学校に入学した 明治 10 年 (1877)6 月 西南戦争で父が死去したのを契機に 兄のいる東京へ上る 予備門から大学に明治 11 年 (1878)9 月 東京大学予備門に入学した 明治 16 年 (1883)9 月 東京大学に入学し 明治 20 年 (1887)7 月に卒業した [ 学歴の目的は 英語学習と考えられる 住友入社でこの頃の願望が欧米視察とし て実現する ] 参禅と修養勉学の間も絶えず身心の修養を怠らなかった 明治 17 年頃から 外務省に勤めていた兄 左都夫に導かれて鎌倉円覚寺の今北洪川の下で禅の修行をはじめた 剣の無刀流を山岡鉄舟に 直真影流を榊原鍵吉について修めた 特に 山岡鉄舟には傾倒していた 柔道を嘉納治五郎に学んだ 渋川流の柔術も武義堂で修行する

[ 山岡鉄舟は 禅道と剣道で練り上げた人 馬左也は臨済録の 剣刃の事 にある 絶体絶命のところの世界である思慮分別を絶した境涯を極めた人として映ったに 違いない ] 官吏として 内務省に入る 明治 20 年 (1887)7 月 21 日 内務省に入る 愛媛県書記官として 明治 22 年 (1889)5 月 4 日 愛媛県書記官に任命される 結婚 明治 20 年 (1887)11 月 12 日 白根知事の媒酌で品川安子と結婚する 明治 23 年 (1890)5 月 26 日から 3 日間 別子銅山開坑二百年祝典が 新居浜分店 で開催される 大阪府及び農商務省在任のころ 明治 23 年 (1890)8 月 大阪府書記官に転じる 10 月 20 日に長女千穂子が誕生 する 10 月 24 日から 3 日間 別子銅山開坑二百年祝賀宴が 大阪鰻谷の住友家 本邸で開催され 馬左也も招待される 26 日に 伊予在任の縁故での祝辞で 政 たとを為すに徳を以てすれば 譬えば北辰のその所に居りて 衆星の之に共うが如し との論語を引用して述べる 明治 26 年 (1893)8 月 岐阜県に転出 明治 27 年 (1894)3 月 農商務省に栄転 かくする 4 月 6 日に長男愨太郎が誕生する 明治 28 年 (1895)4 月 1 日から 京都で第 4 回内国勧業博覧会が開催され 馬左也 は同事務官兼大臣官房博覧会掛長を拝命する 住友に入るその動機と抱負明治 29 年 (1896)5 月 36 歳で住友に入る 内国勧業博覧会事務官として京都に来任した間に 住友は馬左也に傾倒 馬左也も自己実現として新天地に転進する 叔母の杣子は町人になりたくないと一夜嘆いた 第一次欧米視察明治 29 年 (1896)9 月 11 日 住友家に入るのに際して了解されていた欧米視察に出発する 幼少からの願望が住友に入るのを契機に実現する 11 月 13 日 次男百二が出生する 明治 31 年 (1898)6 月 26 日 経営陣の高齢 病気の心配から 約束の期限を繰り上げて帰国する 家長は この旅中に馬左也と親しく交わる ドイツでは久保無二雄に会う

理事兼別子鉱業所支配人となる 明治 32 年 (1899) 馬左也は伊庭貞剛の後を受けて別子鉱業所支配人を兼務する 7 月 10 日 三女由幾子が出生する 別子銅山の大風水害被害の状況明治 32 年 (1899)8 月 30 日 事務打ち合わせで大阪に留まていった馬左也に風水害の急報が届く 31 日に新居浜に帰る 対策別子 新居浜 四阪島の人夫で収容作業 次いで救援作業を行った その後 測候設備の充実に努めた 瑞応寺の境内に別子銅山遭難流亡の碑を建立する 別子山の製錬作業は新居浜製錬所に移した 別子銅山の煙害問題山根製錬所の廃止別子銅山の煙害は遠く明治 21 年 (1888)6 月の山根製錬所の発足から始まっている 明治 28 年 (1895)8 月 その山根製錬所を伊庭が閉鎖した 製錬所の四阪島移転明治 29 年 (1896)12 月 伊庭は四阪島に製錬所を建設する工事に着手する 明治 38 年 (1905)1 月 四阪島への製錬所移転の全工事が完成する 明治 37 年 (1904)7 月 伊庭の後を継いで 馬左也が総理事になる 煙害に関する尾道会議明治 42 年 (1909)4 月 21 日から5 月 1 日まで 尾道会議が島居別荘で開催されるが 話し合いは決裂する 席上 馬左也は 煙害に対する損害を賠償する額以上も支出して 施設する覚悟なる--- と理路を尽くして説いた けん [ 臨済の四料揀からの発想 ] = 人と世界のかかわり方の分析 求める人 設備する 出る底の路あり解決 改善 真正の見解 出ない + 出る 得たらすぐさま行う廃業 現況 ( 煙害 ) 自由 設備しない

[ 光の 影 は一体なぜ出てくるか そして光の 影 をきちんと見なければ 実は 光 が見えない 真正の見解 ] から現実の世界に展開される生産の意義 意味を根源的に考えている ] 農相官邸に於ける煙害賠償契約協議会明治 43 年 (1910)11 月 9 日 農商務大臣官邸での10 数日の交渉の末に契約書に調印することとなった 50 歳になっていた馬左也は周到に思慮を回して この冷厳な現実に対処し この結果を得た 住友にとって農工併進の原則を貫くものであったが 重荷であり 国家としても一大損失となった 科学的処理で根本的に解決する途のみが残された 硫煙希釈法の実施大正 3 年 (1914) 農商務省の命令どおりに6 本煙突と送風設備をつくり 操業を開始したが この希釈法によって却って被害を大きくした 第二回煙害協議会 1ケ年の鉱量の処理限度額を引き上げに伴い損害賠償金額も増加した 硫煙希釈装置の効果に期待したが 結果は惨憺たるもので 煙害問題は更に大きな社会問題になった 第三回煙害協議会更に1ケ年の鉱量の処理限度額を引き上げたので 損害賠償金額も増加した 馬左也は 科学的処理法の研究に情熱を注ぎ 肥料及び硫酸の製造に知恵を絞った 馬左也の没後の昭和 14 年 (1939) 世界に類例ない0.2% 前後の希薄ガスを回収するアンモニア中和工場の完成を見て 煙害問題は完全に解決する 別子銅山の近代化施設の改善別子鉱業所支配人になって 欧米の採鉱 製錬施設の水準に引き上げる改善と鉱夫の勤務制度の合理化を図ることが急務と考えた 三大通洞の貫通と坑道内外の近代化を実施した 飯場制度の合理化馬左也は四阪島移転 煙害問題に多忙を極めたので 山の気風粛正は後任の中田錦吉が取り組んだ 17あった飯場を20に増やしたが 飯場の員数を制限し 根本的大改革を実施した 飯場制度改革の不満から暴動が起こる 善通寺師団の演習出動で終結する やがて鷲尾勘解治が別子鉱業所に入り 山の気風は大いに改まった

総理事となる明治 37 年 (1904)7 月 6 日 かねて辞意を漏らしていた総理事伊庭貞剛 理事の河上謹一 田邊貞吉が辞任し 馬左也が44 歳で総理事になった 伊庭の辞任は 少壮と老成 の模範実行であった 経営方針 住友事業精神の昂揚 明治 15 年 (1882) 伝統精神を基盤として事業経営の根本方針として家法を制定 はしした 確実を旨とし 浮利に趨らず 自利利他公私一如 企画の遠大性 など の一貫した精神は 広瀬 伊庭 そして馬左也によって高揚された 人材招聘とその育成 広瀬 伊庭が多くの人材を招聘したように 馬左也も 事業は人なり の考えの もと小倉正恒 中田錦吉 八代則彦 湯川寛吉 久保無二雄 山下芳郎をはじめと して優秀な人材を 官界 財界 大学 専門学校から広く発掘して将来のために備 えた 馬左也の理想の人材は 正直を第一として 勤勉 学芸 健康の順で 4 つを 具備した人間であった 大正 8 年 (1919)3 月 8 日 寧静寮を開設し 青年道場として人材養成を実施した 大正 11 年 (1922)11 月 19 日 茶臼山に茶攏山道場を開き 自らを磨き 社員に 切磋琢磨の機会を提供した 科学振興 馬左也の住友統括期は 日露戦争前夜から第一次世界大戦の後にわたっていて 我が国が世界的に躍進しようと国を挙げて革新と近代化が広く望まれた時であった 製銅中心から関連事業が生成発展していき 科学と技術がその基礎にあり 馬左也 は諸事業発展隆盛の主導者となった 大正 4 年 (1915)12 月 住友からの寄付依頼があり これが発端となって東北大 学に鉄鋼研究所が大正 10 年 (1921)7 月に創設される 馬左也と労働問題第一次世界大戦後の好況の反動として 大正 10 年 (1921) 頃に経済恐慌をもたらし 社会運動や労働争議が起こり出した 住友伸銅所尼崎工場 住友電線製造所 住友製鋼所で労働争議が起こる 欧米視察で労働問題が世界的課題になることを考えていた馬左也は 静養中であったが解決に向けて大乗的に決断した 労働組合を承認し 工場協議会 職場懇談会を設置し この分野でも近代化に脱皮した 事業の展開と整備 本店機能の近代化

大正 10 年 (1921)2 月 26 日 諸事業の中心であった個人経営の住友総本店を住友吉左衛門を社長とする住友合資会社へと近代化した 馬左也は有限責任社員の一人になった 後に昭和 12 年 (1937) 株式会社住友本社となった 既に株式会社になっていた住友銀行 住友製鋼所 住友電線製造所は連係会社と称した 林業経営馬左也は 広瀬 伊庭の遺策である林業経営を継承し 住友最後の城郭たらしめようと考えた 大正 8 年 (1919)3 月 住友総本店に新たに林業課を設置した 別子から北海道 九州 朝鮮と展開していった 住友は 馬左也が亡くなった頃には 民間第 1 位の山林所有者となった 煙害と肥料会社設立馬左也は明治 32 年 (1899) に別子鉱業所支配人になって以来 煙害除去のために生鉱吹製錬と硫酸製造の研究に深い関心を持っていた 生鉱吹製錬は効果が得られなかった 硫酸製造も化学工業の幼稚な市場では消化出来なかった 着目したのが過リン酸肥料であった 農工併進の目的達成に資することになる 鉛室式硫酸製造から塔式硫酸製造へと検討のさなか 第一次世界大戦が勃発して肥料製造所建設に大打撃を受ける それでも大正 2 年 (1913)9 月 22 日 住友総本店肥料製造所を発足する 関係者の努力で順調に過リン酸肥料の製造を伸ばすが 大正 9 年 (1920)3 月の大恐慌で商況は不振を極めた 不況に肥料会社設立の英断について自責の念に駆られた 硫酸を大量に使用する硫安製造が 煙害問題解決には過リン酸肥料製造より良い方法であり 有利であったので 三井 三菱 住友 三共の四者共同で東洋窒素工業株式会社の設立しての取り組みを試みた しかし 利権交渉の困難と大恐慌で見送られる 馬左也の遺志は 今日の住友化学株式会社の隆盛となっている 別子銅山の大改革大正 6 年 (1917) 末から大正 10 年 (1921) までの別子回春の大改革は 採鉱 撰鉱 製錬 運搬 鉱石売買 送電等の総額 800 万円の大起業であった 品位低下の鉱石処理としての浮遊選鉱 電気製銅法の導入 反射炉と溶鉱炉の選択等の問題解決であった これらの設備改良事業の中で 四阪島の製錬所は近代的設備の上で日本随一の製錬所になった これらは大平別子鉱業所長の明敏協力な推進と 彼に肝胆相照らした馬左也の決断で行われた その他事業の進展忠隈炭鉱を調査した結果 将来性が有望視されたので近代化を図った 銅製錬の用材確保として金山の取得を始め 大正 6 年 (1917) 鴻之舞金山を入手した 本格的操業を開始したが期待した富鉱帯が見つからず 放棄が論じられた しかし 馬左也は現地踏査して積極的に探鉱することを主張した 結果として日本一の金山となった

住友伸銅場は陸海軍の注文で進歩したが戦争景気に左右された ジーメンス事件 にかかわることもなく 鉄道部門に進出して乗り越える る 住友鋳鋼業も戦争景気に左右されたが 鉄道の電化への進展に即応して乗り越え 電線製造業は 湯川寛吉などを迎えて発展した 四阪島への世界的に例のない長 距離の海底ケーブルを敷設し 近代化完成の一環をなす 藤倉電線の譲渡でも紳士 的精神で多数の役員を出さなかった 馬左也の精神は没後の関東大震災の復興でも 定価据え置きを貫き世間の信用を得た 住友銀行も個人経営の形態から住友第一号の株式会社に移行し 大銀行への実力 を備えた 海外にも積極的に進出していった 住友倉庫業は大阪港に出進した 馬左也は工事が中止した大阪築港工事を完成さ せ 住友倉庫業も臨港部に施設を整備していった 吉野川の水力利用の発電を計画したが進展しないので火力発電に切り替え電化を 進めた やがて発電 送電施設を土佐吉野川水力電気株式会社に集約した 製錬所の四阪島移転などを契機として 外国製機械依存から脱却して自力製作を 目指し 明治 45 年 (1912) 端出場水力発電所を自力で完成させる 大正 8 年 (1919) 大堅坑巻上機 削岩機を製作し 後の住友機械工業株式会社の基礎を築く 旭硝子会社等と共に出資して 日米板硝子株式会社を設立し 外国の優秀な技術 を日本に移植する 中国視察 大正 5 年 (1916)3 月 31 日 住友事業の端緒を掴む決意で中国視察に出る 帰路 朝鮮での林業が将来有望との話を聞く やがて朝鮮での林業に踏み切る 中国進出 の足場として 住友洋行 住友銀行の支店を出す 第二次欧米視察 大正 8 年 (1919)3 月 18 日 再び欧米視察の途についた 馬左也 59 歳 第一次 世界大戦後に大きく変貌する世界の政治 経済 産業 教育 文化 社会状態を自 分の目で見て 総理事として住友の経営に当たる考えであった アメリカ イギリ ス フランス ドイツ ベルギー オーストリア スイス イタリア訪問の 10 ケ 月の視察であった 帰国後 硫安会社を設立する 商事会社設立問題 大戦後の好景気を背景として新設の商事会社も活気を呈していたが 馬左也は浮 利を追わぬことが住友の家憲であり 住友の経営方針は地下資源の開発と製造業を 枢軸とするとの自己の信条であったので認めなかった ニューヨーク滞在時に 大 ゆうこちゅうびゅう島堅造に意見を求め 各社のニューヨーク支店の失敗を聴く 牖戸を綢繆す を 引用して戒めた

ゆうこちゅうびゅう [ 牖戸を綢繆す : 窓や戸を補修して災いを未然にふせぐこと 出典は詩経 ] 社会事業と教化活動 大阪府立図書館 東京に帝国図書館 京都に府立図書館があったが 大阪は資金難で実現を見てい なかった 明治 33 年 (1900)1 月 6 日 住友家長が 鰻谷本邸に伊庭総理事以下重 役を招いて 大阪府に図書館を寄付することを伝えた 家長も馬左也も先の欧州旅 行で文化施設の重要性を深く認識していたので 馬左也は共鳴し 実現に努力した 大正 9 年 (1920) 末には 住友本家は再び増築費用を寄付した 懐徳堂復興 旧幕時代に大阪に儒学を主とした唯一の学校で 住友家四代友芳の子 入江理兵 衛友俊も学んだ懐徳堂の復興に家長と共に馬左也も尽力した 住友私立職工養成所 明治 44 年 (1911) 政府は明治天皇が窮民のために下賜金を基金として財団法人 済生会を設立したが 住友家長は馬左也を初めとする重役と協議し 計画していた 独自の貧民救済事業を推進した 貧困者の子弟に職業教育を施すことが最上策と 大正 5 年 (1916)4 月 1 日 住友私立職工養成所を開所した 学校教育の通弊に陥る ことなく 有用の人材を養成したいとの考えからであった 形式よりも実質に重き を置いた [ フランスの高等教育では マスプロ化した一般の大学とは別に国立行政院や理工科大学校というエリート養成 官僚養成のための各種の専門大学校がある 馬左也は2 回目の欧米視察で教育についても見ているので 先進国フランスの 2 本立ての教育体制が念頭にあったと考えられる ] 大阪住友病院別子鉱業所では明治 17 年 (1884) に別子病院を設置し 明治 32 年 (1899) には拡充して従業員の医療施設の完備充実を図った しかし 大阪では工場内に医療所を設けるにすぎなかったので病院建設が言われ 馬左也も賛成して 大正 10 年 7 月 私立大阪住友病院を建設した 10 月には住友看護婦養成所が設けられた [ 住友私立病院の目出度町での開業は 明治 16 年 (1883) である 明治 32 年 (1899) の別子大水害による壊滅的な打撃から病院も金子村に移転したが 詳細な記録は無い その後の記録では 明治 34 年 (1901) に惣開に診療 4 科 一般病床 21 床で新築される ] 大阪倶楽部

明治 35 年 (1902)1 月 住友家長が関西で初めて内外人合同宴会を催す 翌 36 年 (1903)3 月 紳士招待会を開き健全社交の必要性を述べる やがて大阪倶楽部設立の機運が高まり 大正元年 (1912)8 月に設立となる 大正 5 年 (1916)6 月 馬左也など幹事の名で社団法人となる 報徳会鎌倉円覚寺の今北洪川のもとに参禅していた時の心友 花田伸之助が結成した報徳会に 馬左也は協力と支援を惜しまなかった 事業所の各職場に報徳会を設け 率先して 知恩報徳 敬天愛人 の実践運動にあたった 良書の刊行はやくから社会事業の一助として 良書刊行で健全思想樹立に役立てようとした ホフマン著の 国民高等学校と農民文明 藤田東湖の 弘道館記述義小解 臨済録正本 等の刊行で 人づくり 時弊を救うことを目指した 最も尊重した臨済録の正本は その実現を見ないまま病床に倒れた [ 臨済録とは 臨済宗の開祖である臨済義玄の語録 詳しくは 鎮州臨済慧照禅師語録という 上堂 示衆 勘弁 行録の四部構成である 禅語録の王と呼ばれている 明治 27 年 (1894) 伊庭貞剛が別子銅山の紛争解決に単身赴任するとき 天竜寺の橋本峨山から臨済録を渡された ] 馬左也と禅明治 17 年 (1884) 頃 兄左都夫に従って鎌倉円覚寺の蒼龍窟 今北洪川について修行した 父も洛中で参禅していたことも影響したようである 洪川は学徳兼備し世態人情にも通じ 人物育成に優れていた 更に 山岡鉄舟という優れた師匠を持つ 今まであった人の中で一番偉い人であったと私は思う 何しろ禅道と剣道とで練り上げた人で 万事にあたって生死を超越していた と柔道部の会合で馬左也が述べている [ 臨済録の 剣刃の事 で ギラリと抜かれた真剣を大上段に振りかぶり 突き付けられた土壇場の絶対絶命のところ 般若が自在にはたらいていく世界は何かを極めた人が 山岡鉄舟であるとして師匠とする 問いを発する者も問いそのものとなりきる故に 弟子も師匠に対峙するだけの人でもある ] 馬左也は 東京を去ってから 松山 大阪 新居浜の行く先々で名僧達識を求めて 参道することを怠らなかった

[ 臨済和尚が黄檗禅師のもとを辞して まずは達磨の塔に参拝 その後力量ある禅者をいろいろと巡っていく姿に重ねていたのではないか 明治 40 年 (1907) 大徳寺の菅広州は禅を指導していた鈴木馬左也に鷲尾勘解治の就職を斡旋する 馬左也は広州に参道していた 室町期に南禅寺を別格として 天竜 相国 建仁 東福 万寿の五山が京都に五山文化として全盛を誇ったが 禅の修行が疎かにされることになり 実際の禅の修行は 林下と呼ばれる五山以外の諸寺において厳しく行われた 大徳寺 妙心寺が有名で 後の臨済禅の骨格を形成する ] 柔道部の送別会で 誠とは一筋のことで二心でなく 一意一筋であるのが路にかなったものであって 例えば 自分の職務につくとひたすら仕事の好結果をあけるように念うのが誠である 印度語の三昧とは一意一筋なること 打って一片となすことである と訓えている 花田伸之助の涙について 為にする所があって修禅するものは決して泣かない 花田は誠心誠意道を求めること切であったから泣いた と言って 自身の態度を語った 馬左也の禅は 公案の数を誇るのではなく 一つの公案を根本的に徹底的に究明し その見得したものを直ぐに実生活に活用する 禅即生活であった 従って 事業経営の実際でも一種の風格を帯びていた 住友の伝統の精神が 馬左也の信念と合致して確固たる方針にとなり これにより万事を決した 小倉正恒は 禅に平常心是道と言うのがあるが 鈴木さんは道になりきっていられた それで巨鐘のようなもので 大きく撞けば大きく響き 小さく打てば小さく鳴る底の大人物であった と評した 川田順は 修養に努められた人は 何処となく自然の性格をたわめた所あって 不自然なところを普通とするが 前総理事には少しもそんな時がなく極めて自然であったのは 其御人格の大きかった事が偲ばれる と井華 150 号の追悼号に述べている 鎌倉円覚寺は臨済宗円覚寺派の大本山 鎌倉時代の弘安 5 年 (1282) 北条時宗 が元寇の戦没者追悼と自己の精神的支柱として 中国僧の無学祖元を招いて創建 した 夏目漱石 島崎藤村も参禅している 今北洪川は 京都相国寺で出家する 後に円覚寺の管長になり 雲水のみなら ず 一般大衆に対する禅の指導に力を注ぐ 山岡鉄舟 鳥尾得庵などが参禅した 弟子としては 渡米して禅の宣伝高揚につとめた釈宗演や鈴木大拙などが出た 禅は生死にかかわるほどのところまで その人物の問題を突きつめていく そ して 自らの力 才覚で抜け出していく そのことを求める な臨済和尚は 隋所に主と作れば 立処皆真なり と言った 至るところ主体性

を確立して自在に生き 行動するならば その立っているところ その人物のいるところがまさに真如の世界である 否定的世界を通じて無限の世界を示す 悟った世界を生きている人の闊達な姿を示す形の一つが 喝 であり 棒を行じる形が 棒喝 である 一方では日常生活における平常無事ということも説いている 僧 臨済は 精神の世界の住人であるが 彼も食わねばならない人である 日常世俗の世界にも従わねば生きていけない 非日常に生き 日常に生きた 一隻眼を有す 臨済の 機鋒 を手本にしたのではないか 三昧心を一つの対象に集中して動揺しない状態 雑念を去り没入することによって 対象が正しく捉えられるとする 平常心是道 道とはどんなものか の問いに対する答えが 平常心是道 日々を怠惰に過ごして無駄にしないで 当たり前のことを当たり前にする心を大切にする 機鋒どんな状態にあっても心と体がたちどころに反応する 馬左也の面目 馬左也の思想の中心は 忠孝の精神であった この精神を培ったのは秋月 鈴木家 の王事奔走 勤皇の家風であった それに益友と切磋琢磨し 自己練磨 精進して人 の範となる丈の人物に築き上げた 事業においても ただ真実一路 誠心誠意をもって真正面から打ち向かった かの 煙害問題をとってみても 農民に迷惑をかけることは耐え難いことであったので 煙 害を根本的に絶滅するために生涯をかけて奮闘した だからこそ家長も全幅の信頼を 寄せた 馬左也は 生涯において公私大小の恩顧を受けた人々に対して 隠微の間にその恩 義に酬いた ロンドンのホテルで三村起一等に 君の恩 師の恩 父母の恩の三恩は 故い観念であるが信じていると話している 馬左也の国家社会のために尽くす考えは家の伝統的精神であった 住友に拠ってわ が国の実業を振興し 国家の隆昌を図ろうとする平素の理想を実現しようとした 部 下に対して 国家百年の事業を計らねばならない と訓えていた にわ住友の事業は 馬左也の時代になって俄かに世界的となった 社員にも世界的自覚 を喚起した 住友家長と馬左也 家長友純は常に国家社会を念じ 正道によって事業の発展を計るを第一義とし そ の事業によって国家に貢献することを信条としていた 馬左也は住友の家風と友純の

志向を知って住友入りを決断した 馬左也の第一回欧米視察では 半年を家長と共にした この間に相互の認識を深めた 家長は伊庭の後を馬左也に託すべく欧米視察を切り上げさせた 以来 家長は住友の諸事業の経営を馬左也に一任した 大正 10 年 (1921)1 月に倒れた時も 家長は退任を認めなかった 翌大正 11 年 (1922)3 月に再度倒れた時も退任が認められず 12 月 5 日になって退任が認められた 馬左也と趣味求道の一生であったように見える馬左也には 趣味に深く入る閑はなかった それでも住友へ入ってから謡曲 茶道においおい執心した 家長によると考えられるが 謡曲は家長が観世流で 馬左也は金沢宝生の流れ 茶道は家長が裏千家で 馬左也は遠州流と系統は違っていた 明治 42 年 (1909) 御影に新邸を造ると 茶室を建て転庵 自笑庵と名付けた 命名は禅語の 心随万境転転処実能幽 臨済録の 孤輪照江山静自笑一声天地驚 によった 転庵は醍醐三宝院の松月亭を写したもの 自笑庵は大徳寺真珠庵中の庭玉庵を模した茶室である 今一つ 松平不昧公好みの二畳中柱向炉の茶室を造ったが命名しないまま没した 箒庵高橋義雄の著 東都茶会記 には 御影自笑庵の項を掲げ 大正 7 年 (1918)5 月の茶事が記されている 同書には 長恨茶会の項に馬左也に関する記載がある 同年 6 月 6 日 益田鈍翁が馬左也を正客として為楽庵に茶会を催している 書画に興味を深め 書道も学び漢籍に精通していた 川田順の 鈴木馬左也の好学 関西実業界に於ける群鶏の孤鶴ならん との評語で知ることができる 大正 2 年 (1913) 春 京都で馬左也ほか27 名の学者 文人 画家とで蘭亭会を催している 柔道は弘道館に学び 後に武義堂に修行している 趣味の語を広げれば 人材の育成に心を配ったことであろう 事業そのものが 第一の趣味であったといえる 裏千家 小堀遠州 松平不昧 利休直系の茶道宗家の三千家の一つ 三千家は 表千家 裏千家 武者小路千家で京都にある 紹鴎 利休と発展した わび 茶道を 織部を経て遠州独特の美意識を加えた 綺麗さび と呼ばれる武家茶道を確立する 審美眼に優れ東山御物などから中興名物を選定する 宗家は東京都新宿区 松江藩 7 代藩主 藩政改革を行うとともに 積極的な農業政策 治水工事を行い換金作物を栽培し財政を立て直す 財政再建で潤った後 茶人として不昧流を建てる 古今名物類従 などの茶器

に関する著作を残す 箒庵高橋義雄昭和初期に三井財閥を支えた実業家 明治維新後 世界初の総合商社 三井物産の設立に関わり初代社長に就任する 日本経済新聞の前身の中外物価新報を創刊する 千利休以来の大茶人と称された 益田鈍翁三井銀行入社後 三井呉服店 ( 三越 ) に移り 陳列販売 会計制度導入などの経営改革を実施した 三井鉱山経営にも関わる 明治 4 4 年 (1911) 50 歳で実業界を引退し 茶道三昧の生活を送る 著作に 大正名器鑑 東都茶会記 などがある 蘭亭会 353 年 3 月 3 日 名士 41 人を別荘に招いて 蘭亭に会して曲水の宴が開かれた その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である 書の最高傑作と言われる 作者は 行書 草書を洗礼された美しい書体に仕上げた最大の功労者で書聖と呼ばれる王羲之である 家庭人として 子供は 5 男 5 女を設けた 馬左也は子供の教育や安子夫人に心をくばった 旅行先 からの書簡にそのことが知れる 発病 大正 10 年 (1921)1 月 尿毒症を患ったが 軽症で間もなく快癒した 大正 11 年 いっ (1922)3 月 25 日 日本橋の住友銀行支店に行く途中 突然車中で脳溢血を発病する 左半身不随となる 12 月 12 日 再び発病し 再起不能となる 退身大正 11 年 (1922) 病に倒れて健康状態が戻らないと覚悟し 次男に口述筆記で辞職願いを書かせた 7 月になっても 10 月になっても決裁にならなかった 12 月 5 日 家長はようやく願いを受容れた 次の総理事に中田錦吉がなった 馬左也は 明治 29 年 (1896)5 月 3 日 36 歳で住友に入ってから27 年 総理事を19 年努めた 臨終 き大正 12 年 (1923)12 月 12 日 中村研一と対談後に日高驥三郎と歓談していて横 臥する 病状は一進一退を繰り返した 12 月 25 日 0 時 50 分 命終が告げられた 享年 62 歳

葬送 12 月 28 日 御影の鈴木邸で住友合資会社の社葬としての仏式での告別式が執行された 会葬者は約 850 人にのぼった 12 月 30 日 高鍋の鈴木家で神式での本葬が執行された 戒名の 琢心院殿廓然眞清大居士 は 告別式の導師 京都妙心寺湘山が定めた 琢心 は居室琢心軒からとり 廓然 は達磨の廓然無聖からとった 眞清大居士 は今北洪川から既に受けていた居士名であった 馬左也の没後 17 年 未亡人安子は 昭和 14 年 (1939)11 月 20 日 67 年の生涯を終わった 戒名は 顕惠院殿安室貞操大姉 余芳馬左也が没して34 年後の昭和 31 年 (1956) 春 宮崎県高鍋町では 馬左也 4 兄弟を高鍋が生んだ郷土の四哲として 四哲碑 を建立することとなった 鈴木邸は 公民館の別館 眞清閣 となっている 6. おわりに 鈴木馬左也 を読み直していくと 住友と別子銅山の歴史を羅列している感が強く残った その歴史の一区間の登場人物なので仕方ないのか 馬左也の人物についての記述に実像からの距離を感じる 没後 かなりの時間が経過したので希薄になったのか 著者が客観的に記述するとしたからか 馬左也の生涯 は 舞台の台本のようである 著者の記述が舞台の進行で 引用記述が舞台場面に見える 鈴木総理事の女房役を務めた川田順の 住友回想記 に馬左也の人物像が描写されている 広瀬宰平の 半世物語 は 自らの筆で実績を力強く書き綴っている 伊庭貞剛の 幽翁 は いっきに歴史を駆け抜けた勢いの中に 信条の語彙が表現されている 追悼の書 鈴木馬左也 は 鈴木馬左也に関する唯一つの資料書である 臨済録に照らし合わせて 鈴木馬左也 を読み直すと なにも分からない と本の最終ページに書き込んでいた臨済録が 馬左也その人を通じて少し読めるようになった 自我を空じて世の中を見た馬左也は 住友と一体となり充実した人生を送ったように感じた 最晩年の覚悟は 真の自由人の生き様と映った 参考図書臨済録 入矢義高 訳注 岩波文庫 臨済録 - 禅の神髄 里道徳雄 NHK 出版 無の探求 < 中国禅 > 柳田聖山 梅原猛 角川ソフィア 近現代日本人物史料情報辞典 吉川弘文館 日本宗教史 末木文美士 岩波新書