説教聖日礼拝北浜チャーチ黒田禎一郎 2016 年 4 月 10 日 ( 日 ) 主題 : 発信人パウロと受信人テトス 神の奥義を見るーテキスト : テトスへの手紙 1 章 1~4 節 1 はじめに 今日から 私たちはテトスへの手紙に入ります 冒頭に次のように書かれています 1:1 神のしもべ また イエス キリストの使徒パウロ パウロは キリスト教会の生んだ最大の人と言われます 彼は自分が信仰へ導いたと思われる若者テトスに対して書き送った手紙が この テトスへの手紙 であります したがって 手紙の発信人はパウロ 受信人はテトスです パウロは小アジア各地で キリストの福音を語りました 彼の宣教によって 多くの人たちがクリスチャンとなり 各地に教会が設立されました その一つが 地中海のクレテという島に建てられ教会でした パウロは他の所にもキリストの福音を伝えるため このクレテの教会を愛弟子テトスに 自分の後継者として任せることになりました それは紀元 65 年ごろでした パウロがクレテ島に残してきたテトスが どのように伝道しているかと心に留めながら この手紙を書いたと思われます そこで紀元 65 年頃のキリスト教会は どのような状況であったかを思い出してください ( 第一テモテの手紙で学びましたが ) その頃のキリスト教会は 燃えるような伝道からひとまず教会が誕生し 教会の組織もできた頃でした いわゆる教会形成期でありました ところが そういう時には心の安堵したものが出てくるものです 異なる教え いわゆる 異端 が教会内に入ってきました クリスチャンの中でも背教 すなわち 神に背いてキリスト信仰を捨てていく人々がいました そのような時代背景のもとで テトスへの手紙は書かれました ( 地図参照 ) ところで クレテ島は気候がとても温暖な所で クレテの人々は怠け者 ということわざがあるくらい のんびりしていました 悪く言えば だらしがないという傾向にありました ですから教会も そういう世俗にのまれて 怠惰の中に放置される傾向にあったと思います では テトスとはどんな人物であったでしょうか 1 彼はギリシャ人 ( ガラテヤ2:3) で パウロによって信仰に導かれた人物でした 2 彼はパウロとバルナバに伴い エルサレムを訪問しました その際 彼に割礼を施そうという動きがありましたが 異邦人である彼が割礼を強制されることはありませんでした これはとても大きなことで 信仰義認 を体現した生き証人となりました ガラテヤ人への手 紙 5:6 キリスト イエスにあってはイエスにあっては 割礼を受ける受けないは大事なこと って働く信仰だけが大事なのです 3 彼はエルサレム教会への献金を集めるために労した中心人物の一人でした ではなく 愛によ
4 伝承によれば 彼はクレテ島のゴルティナで監督となり 94 歳で召されたと言われています では 今日は発信人であるパウロと 受信人であるテトスから学びたいと思います 発信人であるパウロはどのような教訓を与えているか また受信人であるテトスがどういう信仰を送ったか大切なポイント 1. 発信人パウロ 1:1 神のしもべ また イエス キリストの使徒パウロから 1:4 同じ信仰による真実のわが子テトスへ すなわち 1 節と4 節の間 (1 節の半ばから3 節まで ) は説明の言葉となっています はじめに彼は どんな説明をしたのでしょうか 1) 神のしもべ パウロの自己紹介は 神のしもべ から始まりました しもべ (doulos: デュロス ) というのは 奴隷という言葉です 主人に仕えて 主人の思うように従順に従うのが奴隷です 私たちは神の元に来るまでは 自我 (ego) の奴隷でした 自分の快楽の奴隷でした 自分の欲望の奴隷でした あるいはお金や名誉 名声を追い求めて歩くものでした 奴隷は捕えられた存在で 自由はありませんでした しかし パウロは 神の奴隷 と言いました では 神の奴隷 とは どんな人でしょうか こんな話しを聞いたことがあります { 例話 } ある女奴隷 ある女奴隷が奴隷市場で売られていました 主人が奴隷市場でその奴隷を買ってきて 買った 期間だけ使いました 契約の時がきましたので 奴隷に向かって もうあなたは自由ですよ どこへ行ってもいいよ と言いました ところがその女奴隷はところがその女奴隷は 御主人様御主人様 私は生涯あなたの奴隷として使ってください私は生涯あなたの奴隷として使ってください 私は今まで私は今まで いろんな所で 奴隷として辛いところを通ってきました しかし 御主人様のように御主人様のように 私のことを考え親切にしてくださった人はいませんでした私のことを考え親切にしてくださった人はいませんでした 私はあ私はあ なたの愛の鎖を受けたく思います どうぞ 生涯あなたの奴隷としてください その奴隷は主人の愛に報いたい という願望がありました パウロはまさにそのような意味で 神の奴隷 と言いました 2 2) キリストの使徒 1:1 神のしもべ また イエス キリストの使徒パウロ 彼は自分の紹介を イエス キリストの使徒 とも言いました 非常に権威あるメッセージを持って派遣されるのが この 使徒 という意味です 原語はアポストロス (apostolos) で 一国で最も権威を持つ大統領から使命を受けて その大きな命令を伝えに行く者が 使徒 と言われた人でした 皆さん パウロは自己紹介で 立場の低い 奴隷 と権力を代表する 使徒 と 相反する両極端の立場であると言いまた これは私たちクリスチャンも同じです 私たちは恵みによって 神の子とされ 神の 使徒 でもあります しかし同時に自分の姿を見ますと なんと力のない弱い者であるかを知っています 私たちもパウロの両極端の姿から 自分を見ることができます 3) 真理の知識
パウロは 自分が使徒とされた理由を述べました それが 1 節と 4 節の間にあります 1:1 私は 神に選ばれた人々の信仰と 敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされた のです 1:2 それは 偽ることのない神が偽ることのない神が 永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づ くことです 1 節を口語訳聖書で読みますと 次のようです 1:1 わたしが使徒とされたのは 神に選ばれた者たちの信仰を強め また 信心にかなう真理の知識を 彼らに得させるためであり 信仰を持つということは 感情で イエス様が好きです イエス様を愛しています というだけではありません 感情が冷めると 信仰はどこかに行ってしまいます 信仰には確かに 喜びとか希望とかという感覚的なものはあります しかし それを基本的に支えるのは何かというと 真理の知識 です 真理とはイエス キリストのことです イエスが語られたおことばこそ 真理のことばであり 真理の知識です これは非常に大切です パウロは 真理の知識 を得ることは 永遠のいのちの望みに基ずく永遠のいのちの望みに基ずく と言いました 1:2 それは 偽ることのない神が偽ることのない神が 永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づ くことです 信仰が強められて 真理の知識 にすすむと ほんとうの望みが出てきます 世の中での望みに期待を寄せても 常に移り変わっていきます しかし神の望みはそうではありません 神を信頼する者の幸いが ここにあります この書簡の発信人パウロは 自分は 神のしもべ であり キリストの使徒 であると自己紹介しました そして自分が選ばれた目的は 人々を真理の知識に至らせるところにあると言いました では 次に受信人テトスを見てみましょう 3 2. 受信人テトス 1:4 同じ信仰による真実のわが子テトスへ 父なる神および私たちの救い主なるキリスト父なる神および私たちの救い主なるキリスト イエ スから 恵みと平安がありますように 1) 同労者となったテトス パウロは生涯独身でしたので 子どもはいませんでした しかし伝道の生涯から結んだ実のひとりがテトスでありました 真実のわが子テトスへ と呼びました パウロはテトスを重んじ 同労者 すなわち 私の仲間である と言っています テトスはユダヤ人ではなく異邦人でした テモテはユダヤ人であり 祖母や母のもとが神の教えを受けました 異邦人であったテトスの背景は 神についての教えはなく 全く異なっていました ユダヤ人は異邦人を 犬 と呼び 軽蔑していました しかしパウロは 異邦人であるテトスを 同労者 と呼びました それはイエス キリストにあって ユダヤ人 ( 選民 ) とギリシャ 人 ( 異邦人 ) の壁が取り除けられたからでした ガラテヤ人への手紙 3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなくもギリシヤ人もなく 奴隷も自由人もなく奴隷も自由人もなく 男子も女子もありません男子も女子もありません なぜならなぜなら あなたがたはみな キリスト イエスにあって 一つだからです 今の時代は 世界のあらゆる民族や国の人たちがクリスチャンとなっています しかし初代教会
時代は ほとんどの直弟子はユダヤ人でした ユダヤ人クリスチャンが大多数を占めていました しかしキリストの福音は 異邦人にも伝わり回心者が起こされ クリスチャンの仲間に加わる人たちが現れてきました 当時のキリスト教会の代表者たちが エルサレムに集まりました そこで問題が発生しました それは割礼を受けているユダヤ人は 無割礼の異邦人に対し クリスチャンの仲間に入るならば割礼を受けるべきであるという要求でした 割礼問題は 歴史に残るキリスト教の一大危機でした この問題を審議するため エルサレムで会議が開かれました それが使徒の働き15 章の エルサレム会議 ( 使徒会議 ) と呼ばれるものです そこで下された結論は 使徒の働き 15 章に記録されています 章 15:8 そして 人の心の中を知っておられる神は人の心の中を知っておられる神は 私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて 彼らのためにあかしをし 15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず 彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです 15:10 それなのに なぜなぜ 今あなたがたは今あなたがたは 私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを あの弟子たちの首に掛けて 神を試みようとするのです 15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが あの人たちもそうなのです 4 パウロは更に言いました ガラテヤ人への手紙 5 章 5:8 キリスト イエスにあってはイエスにあっては 割礼割礼を受ける受けないは大事なことではなくを受ける受けないは大事なことではなく 愛によって働く信仰だけが大事なのです ここから 信仰によって義とされる という救いの鉄則が土台として据えられました ローマ人への手紙 10 章 10:10 人は心に信じて義と認められ 口で告白して救われるのです ガラテヤ人への手紙 3:11 ところが 律法によって神の前に義と認められる者が律法によって神の前に義と認められる者が だれもいないということは明らかです 義人は信仰によって生きる のだからです このようにして 異邦人テトスは同労者となり 神の器とされました 今の時代もキリストの福音によって 私たちは神の一つ家族に加えられるものとなるのです 2) 義人は信仰によって生きる 話しは変わりますが 18 世紀の英国にチャールズ ウエスレ (Charls Weslay) という人がいました 彼はメソジスト教団の基礎を作ったジョン ウエスレ (John Weslay) の弟で 英国国教会の祭司をしていました メソジスト教団は 欧州 米国 日本の各地で宣教活動を行ってきました 教団はとても大きな そして尊い働きをしてきました 日本ではミッション スクールとして知られている東京の明治学院大学 大阪の関西学院大学はメソジスト教団の働きで始まりました 話しを戻しますが1736 年 彼は兄のジョン ウエスレ と米国インデイアンに神の愛を伝えるため海を渡りました しかしその時です 弟チャールズ ウエスレ は 深い苦悩の内に落ち込んでいました 彼は自ら英国国教会の聖職者でありながら 自分の生きる意味が見いだせず 信仰の確信も持てないでいました 彼は船中から ある人にこのような手紙を送りました 私はアメリカに逃げてきましたが駄目です ( 中略 ) どこに行っても 私はいつも 自分の苦
悩を持ち歩いているのです ところが チャールズ ウエスレ は米国へ向かう船内で モラビア兄弟団の信徒に出会いました この出会いが 彼の人生を大きく変えることになりました ここに 次のようなエピソードがあります 大西洋を渡るときに船が暴風に遭い 船はこの葉のように揺れました その時, 子どもたちがはしゃぎ回り 愉快にしている子どもたちのグループがありました ウエスレ は 自分は大人でありながらも 船がいつ沈むかわからないとびくびくしている しかも自分はロンドンで祭司をしていた 経験もある もし船が沈んだらどうしようと 恐れていた それなのに 子どもたちは恐れも感じないで 甲板を飛び回っている 彼はその姿にびっくりしました そして 子どもたちに尋ねました 君たちのお父さん お母さんはどこにいるの? すると あっち! という答えが返ってきました 子どもたちが示す あっち の方向を見ると 親たちはそこに集まり 神に向かって祈りをささげていました それはモラヴィア兄弟団の一行でした その少年の言葉 あっち! がウエスレ の心を揺すぶりました モラビア兄弟団の信徒たちは皆 仕事( 職業 ) を持ちながら神に仕えていました 聖徒たちは キリストの愛に燃やされ 神の福音を伝えていました チャールズ ウエスレ は 彼らには自分にはない 平安 と 喜び が輝いているのに 深く感動し驚きました 教職者としての自分と聖徒たちに 大きな違いがあることがわかりました そして彼はその時に 真の悔い改めをしました 彼は 信仰の原点ともいうべき 大切なことに気づきました それは 信仰によって生きる ということです 信仰は神が与えてくださる 恵み です 教職者意識を誇っていた当時の指導者には 衝撃的なことでした 義人は信仰によって生きる 義人は信仰によって生きる あの英国を滅亡のどん底から救い上げたウエスレ は 子どもに教えられて 子どもの証言を聞いて立ち上がりました 義人は信仰によって生きる義人は信仰によって生きる ということばは 宗教改革者マルチン ルターにも衝撃を与えたことばでした 受信者テトスは 無割礼の異邦人でした しかしイエス キリストの恵みによって 義とされ変えられました 信仰によって義とされた人の生き方は違います 神が義とされた人を通して 証しをしてくださいます それは受信人テトスにも見ることができます いかがでしょうか 今日 私たちはテトスへの手紙から 発信人パウロと受信人テトスから学ぶことができました そして 神の奥義を学ばせていただきました 私たちは神の前に いったいどんな者でしょうか まとめ主題 : 発信人パウロと受信人テトス 神の奥義を見るー 1. パウロは神の しもべ であり キリストの使徒 です 2. テトスは 同労者 であり 信仰によって 義 とされました 5 * 義人は信仰によって生きる God bless you!