( 文化庁記念物課 ), 村﨑孝弘 長谷部善一 池田朋生 木庭真由子 ( 熊本県教育庁文化課 ), 黒住耐二 ( 千葉県立中央博物館 ), 樋泉岳二 ( 早稲田大学 ), 中村俊夫 ( 名古屋大学 ), 濱口俊夫 吉田恒 根本なつめ 佐藤伸二 辻誠也 前川清一 髙木恭二 ( 宇土市文化財保護審議会
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- さゆり あわたけ
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1 第 1 章序 章 第 1 節調査に至る経緯 宇土市宮庄町に所在する轟貝塚は, 縄文時代早期末 ~ 前期の轟式土器の標式遺跡であり, 古くから研究者の間で注目されてきた 第 4 節で述べるように, 古くは大正の頃から, 複数の大学や研究者により調査が行われ, 縄文時代から中世にかけての土器 人骨 貝製品 石器 骨角器 陶磁器など多種多様な遺物が出土している それらの調査で出土した遺物の多くは, それぞれ調査主体となった大学等が持ち帰り保管してきた その内, 昭和 41 年に慶應義塾大学の江坂輝彌氏を団長に行われた調査の出土遺物は, 長らく東京の慶應義塾大学構内で保管されていたが, 平成 13(2001) 年度の宇土市への仮移管と平成 19(2007) 年度の再整理報告書の刊行を経て, 平成 23 年度 ( 一部は26 年度 ) に正式に宇土市に移管され, 遺跡所在地である宇土市での活用が可能となった 一方, 轟貝塚自体は昭和 33(1958) 年に市史跡に指定され, 守るべき遺跡として公的に位置づけられた しかし, 何度も調査が行われてきた反面, 遺跡の範囲や時期別の変遷, 貝塚に伴うとみられる集落の位置や内容など, 遺跡を語る上での基礎的な情報が未解明の課題として残っている そうした中で近年, 遺跡周辺でも新興住宅が拡大するなど, 開発により遺跡が破壊される危険が高まっている こうした状況を受けて, 宇土市では貝塚の範囲や内容把握を早急に行う必要があると判断し, 平成 15 (2003) 年度に貝塚中心部の測量調査を,16~17(2004~2005) 年度に範囲確認を目的としたトレンチ調査を実施した 本書は, これらの調査に続く遺跡の内容確認を目的とした調査の概要報告である 第 2 節調査の組織 調査主体 宇土市教育委員会 調査責任者宇土市教育長 木下博信 ( 平成 23~25 年度 ), 浦川司 (26~27 年度 ), 太田耕幸 (27~28 年 度 ) 事 務 局教育部長 山本桂樹 (23~25 年度 ), 前田保幸 (26~28 年度 ) 文化課長 坂本純至 (23~24 年度 ), 木下洋介 (25~27 年度 ), 池田和臣 (28 年度 ), 山本保廣 (28 年度 ) 文化 ( 財 ) 係 松田安代 ( 係長 :23 年度 ), 舩田元司 ( 課長補佐兼係長 :24 年度 ), 赤澤憲治 ( 係長 :25~27 年度 ), 宮邉幸子 ( 参事 :23 25~28 年度 ), 稲崎憲一 ( 参事 :24 年度 ), 園田志穂里 ( 参事 :24 年度 ), 藤本貴仁 ( 参事 :23~27, 係長 :28 年度 ), 九谷景子 (25~27 年度 ), 平田睦美 ( 主事 :23~24 年度 ), 大浪和弥 ( 技師 :28 年度 ), 芥川博士 ( 技師 :23~28 年度 ) 平成 23 年度の文化財係は, 機構改革のため平成 24 年 4 月より文化係 調査指導 文化庁文化財部記念物課, 熊本県教育庁教育総務局文化課 宇土市重要遺跡保存活用検討委員会 吉村豊雄 ( 熊本大学名誉教授日本史 ) 渡邉一德 ( 熊本大学名誉教授地質学 ) 甲元眞之 ( 熊本大学名誉教授考古学 ) 山崎純男 ( 元福岡市文化財部長考古学 ) 小畑弘己 ( 熊本大学教授考古学 ) 山尾敏孝 ( 熊本大学大学院教授土木史 ) 協力機関及び調査指導 協力者 株式会社古環境研究所, 肥後考古学会, 九州縄文時代研究会, 禰冝田佳男 水ノ江和同 近江俊秀 -1-
2 ( 文化庁記念物課 ), 村﨑孝弘 長谷部善一 池田朋生 木庭真由子 ( 熊本県教育庁文化課 ), 黒住耐二 ( 千葉県立中央博物館 ), 樋泉岳二 ( 早稲田大学 ), 中村俊夫 ( 名古屋大学 ), 濱口俊夫 吉田恒 根本なつめ 佐藤伸二 辻誠也 前川清一 髙木恭二 ( 宇土市文化財保護審議会 ), 島津義昭 ( 元熊本県教育委員会 ), 杉村彰一 ( 肥後考古学会会員 ), 冨田克敏 ( 九州文化財研究所 ), 西田巌 ( 佐賀市教育委員会 ) 発掘調査作業員飯田孝一, 内田博美, 小畑律子, 末鶴順次, 中川道治, 中村洋, 中村正立, 西村和子, 橋本カズエ, 橋本チエ子, 東原遥希, 平野泰彦, 福田フミエ, 藤浦義麿, 古山節子, 右田純輔, 村山艶子, 森実, 余語政利, 秦翔平 松浦正朋 竹村南洋 ( 熊本大学学生 ), 竹林香菜 ( 明治大学学生 ) 整理 報告書作成作業員内田美和, 中川ゆかり, 廣瀬恵子, 山口陽子 第 3 節位置と環境 熊本県西側中央から西方の有明海に向かって突出する宇土半島 その半島を構成する大岳火山系の山塊から東に派生する尾根の先端付近, 標高 6m 程度の舌状台地上に轟貝塚 (1) は所在する 貝塚の西には標高 218mの白山を間近に望み, 対する東側には幅 50m 程の狭い低地を挟み, 地元で西岡台と呼ばれる標高約 40mの独立丘陵が存在する また北東方向には旧白川や緑川, その支流である浜戸川の堆積によってできた熊本平野が広がっており, 貝塚がこの沖積平野の南西端部に位置することがわかる 貝塚の南側には, 上記の丘陵や尾根に囲まれ限られた範囲に標高 4m 程度の低地が存在し, 貝塚と西岡台丘陵との間の低地を介してわずかに熊本平野とつながっている 縄文時代の海進期には, この低地を介して貝塚南側まで海が入り込んだ可能性が高い 現在, 貝塚の南西方向約 200mには, 環境省の日本名水百選に選定された湧水 轟水源 が存在する この湧水がいつから存在していたか定かではないが, 縄文時代に人がここに生活を営み, 貝塚が形成されたひとつの要因として, 付近に湧水が存在した可能性は高いと考えられる 以上から縄文時代における轟貝塚の周辺環境を考えると, 波穏やかで豊富な魚介類が生息する有明海とその入り江に面し, 背後には宇土半島の山々と森林, 湧水が存在する等, 山海の豊富な資源に恵まれ, 人の生活に適した環境だったことがうかがえる そうした環境を背景に, 轟貝塚周辺には縄文時代から歴史時代まで数多くの遺跡が残されている 縄文時代の遺跡としては, 轟貝塚の東方約 50mの至近距離にあり, 前期から後期にかけての遺物とドングリなど堅果類の貯蔵穴が発見された西岡台貝塚 (2), 曽畑式土器が出土した馬場遺跡 (3), その他, 縄文時代の遺物を含む包蔵地である石ノ瀬遺跡 (4) や北園遺跡 (5) が挙げられる また, 直線距離で4km程度離れているが, 縄文時代前期の曽畑式土器の標式遺跡として知られる曽畑貝塚も, 轟貝塚と並んでこの地域の縄文時代前期を代表する遺跡として重要である 続く弥生時代の遺跡として, 中期の黒髪式の甕棺が出土した北平遺跡 (6), 弥生時代後期の集落跡とみられる下松山遺跡 (7), そして前期 ~ 後期の拠点集落とみられる城山遺跡 (8) などがある 特に城山遺跡は, 続く古墳時代, 付近に豪族居館と考えられる西岡台遺跡 (9) が出現することとの関係が注目される 西岡台遺跡からは, 舶載三角縁神獣鏡が出土した城ノ越古墳 (10) や迫の上古墳 (11), スリバチ山古墳 (12) など同じく前期の築造とみられる前方後円墳を一望でき, 豪族居館とその葬られた古墳とが一体的に把握できる例として全国的にも希少である これら前期の首長墓系譜は中期以降には断絶し, やや離れた場所に単独で立地する天神山古墳 (13) を除いては, 付近に前方後円墳は築造されなくなる 前方後円墳以外では, 前期の円墳とみられる神合古墳 (14) や猫ノ城古墳 (15) の他, 横穴式石室を主体部に持ち後期から終末期にかけての築造とみられる東畑古墳 (16) や仮又古墳 (17), 山王平古墳 (18), 金嶽山古墳 (19) などの円墳, 県内唯一の終末期方墳である椿原古墳 (20), 多量の須恵器が出土した神ノ木山古墳群 (21) などが存在する その他, 恵里遺跡 (22) や椿原遺跡 (23) な -2-
3 ど 古墳時代の包蔵地も存在する 古墳時代に比べ古代の遺跡は少ないが 西岡台遺跡や城山遺跡で土師器 須恵器が出土し 西岡台遺 跡ではその他に故意に破砕された土馬も出土している 中世になると西岡台丘陵を利用して宇土氏 名和氏が居城とした宇土城跡 西岡台 9 が築城さ れた これまでの発掘調査により 中心となる曲輪とその周囲で多数の掘立柱建物跡や竪堀 横堀跡 門跡などが検出され 特に横堀の一部が未完成である点や廃城の際の儀礼的行為 城破り とみられる 痕跡が見つかった点などが注目される また 宇土城跡と関連する中世の遺跡として 中世の居館跡と みられる椿原遺跡 宇土城主 名和氏の菩提寺である曹洞宗崇福寺跡 24 などがある その付近 現 在の椿原町字船津周辺には 中世の港湾施設である 宇土津 25 が存在したとみられている その 他 陳の前遺跡 26 や伊津野遺跡 27 でも中世の土器 陶磁器が出土している 中世末期には キリシタン大名として知られる小西行長により宇土城跡 城山 28 が築城され 付近には家臣屋敷跡とみられる城山塩田遺跡 29 も残るが 関ヶ原の戦いで小西が敗れ処刑された後 肥後一円を支配した加藤清正によって城は改修された それも近世初期には廃城となり 続いて宇土細 川藩3万石の陣屋町が整備された 小西 加藤時代の城下町を踏襲しつつ 今も使われ続ける上水道 轟泉水道 30 の敷設などを経て整備されたこの町並みが 現在の宇土市中心街の姿につながる 4 6 1 2 8 3 7 5 図1 轟貝塚周辺遺跡地図 1/25,000 1 轟貝塚 2 西岡台貝塚 3 馬場遺跡 4 石ノ瀬遺跡 5 北園遺跡 6 北平遺跡 7 下松山遺跡 8 城山遺跡 9 西岡台遺跡 10 城ノ越古墳 11 迫の上古墳 12 スリバチ山古墳 13 天神山古墳 14 神合古墳 15 猫ノ城古墳 16 東畑 古墳 17 仮又古墳 18 山王平古墳 19 金嶽山古墳 20 椿原古墳 21 神ノ木山古墳群 22 恵里遺跡 23 椿原遺跡 24 崇福寺跡 25 宇土津 推定地 26 陳の前遺跡 27 伊津野遺跡 28 宇土城跡 城山 29 城山塩田遺跡 30 轟泉水道 31 野鶴貝塚 32 東畑2号墳 33 仮又2号墳 34 椿原貝塚 35 椿原石蓋土壙墓 36 西岡台箱式石棺 37 久保1 2号墳 3 p01-13.indd /03/18 9:04:43
4 第 4 節轟貝塚における過去の調査について 轟貝塚ではこれまで, 多くの大学 研究者により発掘調査が行われてきた ( 表 1) 遺跡の発見は明治 31(1898) 年に佐藤伝蔵氏により紹介されたものが初見とみられ, その後大正 6~9(1917~1920) 年に鈴木文太郎氏, 濱田耕作氏, 清野謙次氏ら京都帝国大学による調査 ( 第 1 次 第 2 次調査濱田 榊原 1920, 清野 1920), 東北帝国大学の長谷部言人氏による調査 ( 第 3 次調査 ) が相次いで行われる この頃の調査は人骨の検出を主な目的としていたとみられ, 報告も人骨の出土状況を中心に書かれている 長谷部氏による調査から10 年後の昭和 5(1930) 年, 鳥居龍蔵 松本雅明両氏らによる調査 ( 第 4 次調査 ) が実施された 調査の詳細は不明だが, この鳥居龍蔵氏の来訪は同年の肥後考古学会の発足につながるなど, 熊本の考古学史にとって重要な意味を持つ ( 松本 1967) 轟貝塚が担う学史の一端として, 忘れてはならない点であろう 層ごとの出土遺物など, 現在の発掘調査にも通じる考古学的な記録が残る最初の調査として, 昭和 33 (1958) 年に小林久雄氏 松本雅明氏 富樫卯三郎氏をはじめ熊本大学 宇土市 宇土高校などが協力して行った調査がある ( 第 5 次調査 ) 後に松本氏らによって轟 A~D 式の分類案が提示される基となった調査である ( 松本 富樫 1961) 続く昭和 41(1966) 年には慶應義塾大学の江坂輝彌氏を団長とする熊日学術調査団による調査が実施された ( 第 6 次調査江坂 1971 宇土市教委 2008) 調査成果として, 多くの出土遺物と共に縄文時代中期 ~ 後期にかけて新旧 2つの貝塚が存在する状況が確かめられたことが注目される これら昭和の2 調査による成果が, 現在まで轟貝塚における堆積状況の理解の根幹を成している 轟貝塚を直接の対象とした過去の発掘調査は以上だが, その他に宇土市教育委員会が実施した貝塚周辺部における調査がある ひとつは, 轟貝塚の東方約 50m, 国史跡宇土城跡が存在する西岡台丘陵の麓に存在する西岡台貝塚の発掘調査である 昭和 60(1985) 年に農業用排水路の工事に伴って調査が行われ, 縄文時代前期 ~ 中期とみられるドングリの貯蔵穴を検出した ( 宇土市教委 1985) もうひとつは, 平成 16~17(2004~2005) 年度に実施した範囲確認調査 ( 第 7 8 次調査 ) である 貝塚周辺部で計 4 か所のトレンチ調査を実施した結果, 貝層の堆積範囲を北西 南東約 120m 北東 南西約 60m の範囲と推定し, その周囲に撹乱を受けた二次的な貝層が広がるとした ( 宇土市教委 ) 表 1 轟貝塚調査史 調査年次 調査主体者 調査内容 成果 明治 佐藤伝蔵 明治 31 年 8 月 地学雑誌 に轟貝塚のことを掲載 学史上, 轟貝塚について最初に言及したものとみられる 第 1 次調査大正 京都大学 ( 鈴木文太郎ほか ) 発掘調査 男女各 1 体の人骨を発見 熊本医学専門学校 貝の散布状況から貝塚の範囲推定を行い, 東側に存在する西岡台貝塚について京都大学第 2 次調査大正 も記録にとどめる 発掘調査では土器 石器 貝製品など多くの遺物や18 体に ( 濱田耕作 清野謙次ほか ) 及ぶ人骨が出土 第 3 次調査大正 東北大学 ( 長谷部言人 ) 正式な調査報告書なし 濱田氏が記した概要によれば, 人骨 20 体あまりと弥生土器 骨角器 石製耳飾などが出土 第 4 次調査昭和 鳥居龍蔵 松本雅明 詳細不明 宇土市 宇土高校 熊本大学第 5 次調査昭和 ( 小林久雄 松本雅明 富樫卯三郎ほか ) 部分的だが, 貝層を含むプライマリーな堆積状況を確認 出土した轟式土器の型式学的な検討の結果,A ~ D 式の分類及び確実な層位関係による編年が行われた 新旧二つの貝層が存在すること, 古い方の貝層は中期の阿高式期に比定できる 第 6 次調査昭和 慶応大学 ( 江坂輝彌 ) ことが確かめられた 出土遺物は慶応大学が所蔵していたが, 平成 13(2001) 年に図面や日誌と共に宇土市に移管され, 平成 19(2007) 年度, 宇土市教育委 員会より再整理報告書が刊行された 第 7 次調査平成 宇土市教育委員会 貝塚の範囲確認を目的とした調査 計 4か所のトレンチによる調査で, 貝塚の 第 8 次調査平成 宇土市教育委員会 一次堆積層は南北約 80~100m, 東西約 70~80m に限定でき, その周囲に二次堆積層が広がることが推定された 第 9 次調査平成 貝塚周辺における集落跡 ( 居住域 ) の所在確認のための調査 貝塚の北側から 第 10 次調査平成 第 11 次調査平成 宇土市教育委員会 北西側 西側にかけて計 7か所のトレンチ調査を行ったが, 一部のトレンチから若干の遺物が出土した以外は, 縄文時代の集落を示唆するような痕跡は発見されなかった 第 12 次調査平成 宇土市教育委員会 未だ不明瞭な点が多い貝塚中心部の堆積状況等を確認するため, 過去の調査区 第 13 次調査 の再掘削と基本とする発掘調査を実施 その結果,2 次調査区の下部で, 早 ~ 平成 宇土市教育委員会前期の遺物包含層と集石遺構, 焼土を伴う土坑など, 縄文時代早期 ~ 前期の生平成 活痕跡を初めて確認した また, それに前後する層位から人骨も検出した -4-
5 第4トレンチ 第3トレンチ 第2トレンチ 第1トレンチ 第5トレンチ 第6トレンチ 0 100m 第7トレンチ 図2 貝塚想定範囲と周辺発掘調査位置図 1/2,500 6次 ET 6次 AT 5次ⅣT 5次ⅢT 6次 CT 5次Ⅱbt 5次 Ⅱat 6次 BT 3次調査 推定地 6 次 DT 5次Ⅴbt 5次Ⅴat 5次Ⅰt 7T 1T 5T 6T 3T 1次 2T 8T 2次Ⅰ Ⅹ区 6次 7次 CT 2T 4T 図3 貝塚中心部調査位置図 1/1,000 5 p01-13.indd /03/18 9:04:44
6 第 2 章 貝塚周辺部の発掘調査 第 1 節調査の目的と方法 平成 16~17 年度に宇土市教育委員会で実施した範囲確認調査により, 二次堆積を含めた貝層の広がりを推定した ( 図 2) しかし, 貝塚といえども貝層部分だけが遺跡ではなく, その付近には貝塚に貝を廃棄した人々の生活があったと考えるのが自然である よって, そうした生活痕跡の有無や, 居住域や墓域の位置など, 集落全体の構造が検討されて初めて遺跡の全体像が把握されたと言える 以上の考えに基づき, 貝層以外を含めた縄文時代の集落構造を解明するために行ったのが, 平成 23~ 25 年度の貝塚周辺における発掘調査である 調査は貝塚中心部から北 ~ 北西側の, 貝塚よりやや標高が高い微高地部分を主な対象とした これは, 舌状台地の先端に食物残滓の廃棄場所としての貝塚が存在するなら, 居住域はその少し手前の台地上にある可能性が高いとみたことによる ただし, 現在そこは民家が密集する宅地となっており, まとまった調査区が設定できない そのため, やむを得ず個人の敷地内で小規模なトレンチによる発掘調査を行うこととした トレンチは2m 5mの約 10m2を基本単位とし, 合計 7 地点において調査を実施した なお, 表土剥ぎや埋め戻しも含めて, 調査は全て作業員による手作業で実施した 調査期間は平成 23~25 年度の3か年にまたがり,2~3 地点ずつ調査を行った なお調査次数は年度で区切るが, 全体を一連の 轟貝塚周辺発掘調査 と位置付け, トレンチ番号のみ通し番号とした 平成 23 年度の第 9 次調査は, 貝塚中心部からみて北西方向の2 地点 ( 第 1 第 2トレンチ ),24 年度の第 10 次調査は貝塚の北側 1 地点 ( 第 3トレンチ ) 及び, 北西側 2 地点 ( 第 4 第 5トレンチ ) の計 3 地点, 25 年度の第 11 次調査は貝塚の西側, 湧水地 轟水源 付近の2 地点 ( 第 6 第 7トレンチ ) で調査を行った ( 図 2) 第 2 節調査の成果 計 7 地点における調査の結果, およそ縄文時代とみられる遺構や遺物包含層が確認されたのは1Tのみである 1Tでは縄文時代後期を主体とする遺物包含層, 土坑状に部分的に検出された貝層, 複数のピットなどが検出された ここは昭和 41(1966) 年の第 6 次調査で後期の貝層や人骨が出土したEトレンチに近く, 当時の調査成果とも矛盾しない 一方で轟式土器や阿高式土器など, 前期 中期の痕跡はほとんど検出されなかった 検出されたピット群が住居などに伴うものかは不明である その他, 間接的ながら縄文時代の痕跡とみられるのが3Tで検出された貝層である 激しい湧水と調査区中央の撹乱により充分な検討ができなかったが, 現地表から約 1.7mの深さでハイガイを主体とする貝層が確認された 縄文時代のプライマリーな貝層かどうかは不明である 貝塚中心部から北西方向に位置する2 4 5Tでは, 縄文時代の遺物が若干は出土するものの, 明確な遺構はおろか遺物包含層すら存在しなかった 後世の削平による可能性もあるが, 一方で弥生 古墳時代や中世の遺物は多数出土するため, 元々縄文時代の遺構 遺物は少ないと考える 全 7 地点のうち, 貝塚中心部から最も離れ, 現在は環境省選定 日本名水百選 のひとつとして知られる 轟水源 の近くに設定したのが6T 7Tである 轟水源の湧水が縄文時代にまで遡るとする根拠は無いが, 少なくとも付近に同様の湧水があったとすれば, その近くに集落が営まれた可能性は高いとみて調査を行った しかし結果として,6Tは近世 近代,7Tは古墳時代の遺物を主体とし, 縄文時代の生活を示す痕跡はみられなかった 以上により, 轟貝塚の北 ~ 北西方向の台地上において, 貝塚縁辺部に縄文時代後期の痕跡が残る他は, 縄文時代の痕跡は乏しいことが明らかになった しかも貝塚から離れる程にそうした痕跡は減少する様子が見て取れるため, 縄文時代後期を除けば, 貝塚北西部の台地上は居住域としては推定し難いと言える -6-
~ 4 月 ~ 7 月 8 月 ~ 11 月 4 月 ~ 7 月 4 月 ~ 8 月 7 月 ~ 9 月 9 月 ~ 12 月 7 月 ~ 12 月 4 月 ~ 12 月 4 月 ~ 12 月 4 月 ~ 12 月 4 月 ~ 6 月 4 月 ~ 6 月 4 月 ~ 8 月 4 月 ~ 6 月 6 月 ~ 9 月 9 月 ~ 12 月 9 月 ~ 12 月 9 月 ~ 11 月 4 月 ~
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月 古 墳 ガイドブック 日 文 化 の 日 出 発 : 午 前 8 時 半 帰 着 : 午 後 4 時 頃 見 学 場 所 庚 申 塚 古 墳 山 の 神 古 墳 ( 柏 原 ) 長 塚 古 墳 ( 沼 津 市 ) 清 水 柳 北 1 号 墳 ( 沼 津 市 ) 原 分 古 墳 ( 長 泉 町 ) 浅 間 古 墳 ( 増 川 ) 実 円 寺 西 1 号 墳 ( 三 ツ 沢 ) 富 士 市 教 育
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高 速 自 動 車 国 道 近 畿 自 動 車 道 名 古 屋 神 戸 線 建 設 事 業 に 伴 う 埋 蔵 文 化 財 発 掘 調 査 ( 茨 木 市 域 )その5 現 地 説 明 会 資 料 千 提 寺 西 遺 跡 の 調 査 平 成 25 年 3 月 23 日 公 益 財 団 法 人 大 阪 府 文 化 財 センター す 遺跡の標高は約 250 m前後で 標高 510 mを測る竜王山の南側にひろがります
加茂市の遺跡 平 成 19年遺跡発掘調査について 加茂市教育委員会社会教育課係長 伊 計 溺 三 秀 禾口 本年 の遺跡調査 は 開発事業 に関連 した確認調査が 3地 区 本調査が 1事 業 によ り2遺 跡を 対象 に行われた 1.荒 叉遺跡一 古墳 古代一 所 在 地 加 茂市大字下条地 内 調 査 面積 約7 2 1 面 調 査期 間 平成 1 9 年 8 月 8 日 9 月 1 2 日 1地
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公園としての整備 収蔵庫の建設が行われ 本遺跡の整備が完成した 発掘調査風景 金堂跡の瓦堆積 和同開珎 銀銭 法 量 外縁径 24 4 内郭 6 9 縁厚 1 4 重量 4 06g 品 質 銀 88 66 硫黄 9 01 その他塩素 カルシウム 鉄 銅等 和同開珎は7 08 和銅元 年に日本で鋳造 発行された銭であり 我が国で最初の流通貨 幣であるといわれる 特に銀銭は7 08年5月 に発行され翌年8月に廃止された鋳造
KANTO_21539.pdf
8 20 5 6 9 4 10 21 1 11 13 7 3 2 12 22 14 摩国府 17 定域 18 15 19 23 25 16 24 33 26 32 27 28 29 31 0 500 1000 1500 第5図 2000ⅿ 遺跡の位置及び周辺の遺跡 1 25,000) 16 30 2.7ⅿ
考古学ジャーナル 2011年9月号 (立ち読み)
遺 跡 速 報 福岡県 首羅山遺跡 福岡平野周縁の山岳寺院 Syurasan-Ruins in Fukuoka Prefecture えがみ ともえ 江上 智恵 久山町教育委員会 Tomoe Egami Hisayama Town Board of Education 近世の地誌類が記すとおり 調査前の首羅山遺 はじめに 跡は藪に覆われ 僅かな文献と伝承のみが残ってい 首羅山遺跡は福岡県糟屋郡久山町大字久原の白
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松崎遺跡から南に約3 隔てた砂堆上に知 多市法海寺遺跡がある 図5 法海寺遺跡で は5世紀後半のマガキ ハマグリを主体とする 貝層から 鞴羽口2点 鉄滓 骨鏃や刀子など の骨角製品 加工段階の骨角製品 骨角素材が 出土した 他に鉄鏃2点などの鉄製品も出土し て い る 図 6-1 10 法 海 寺 遺 跡 は 東 山 111 号窯期を主体とする初期須恵器 図6-11 17 も多く 加えて韓式系土器に系譜する
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長野県下伊那郡阿智村 狐塚1号古墳の調査 第1次調査概要報告書 2009 東海大学文学部歴史学科 考古学第1研究室 1 3 2 4 5 6 7 8 9 1 武陵地1号古墳 2 北本城古墳 3 高岡1号古墳 4 石塚1号 2号古墳 5 郭1号古墳 6 飯沼雲彩寺古墳 7 姫塚古墳 8 上溝天神塚古墳 9 おかん塚古墳 10 塚越1号古墳 11 御猿堂古墳 12 馬背塚古墳 10 11 12 狐塚1号古墳
調査を実施した 調査成果としては 3 面の遺構面を確認し 中世後半 (l 5 ~ (l 3 ~ ところが 調査の結果は 中世後半 (1 5 世紀以降 ) 中世前半 (1 3 ~ ~m ~ 2mm ~ ~ ~ 0.125 ~ 0.063 ~ 0. 1 25111111 ~ 0.063mm ~ 細粒砂 ( ~ 中粒砂 (m.) - 一 \~ ら平安 ~ 鎌倉時代と弥生時代 ( 中期 )~ 古墳 5
kisso-VOL64
国の中心地であり 近世には中山道 通の要衝となってきました 古代美濃 通路であったため 古来より垂井は交 坦部が畿内と美濃以東を結ぶ重要な交 隘な平坦地となっており この狭い平 の西部は両山地に挟まれた極めて狭 古代におけ 考えられます 構えていたと 部の高燥地に け 扇頂 扇央 の低湿地を避 は扇状地扇端 東西交通の要衝として 栄えてきた垂井町 岐阜県不破郡垂井町は 岐阜県の南 垂井宿として栄えてきましたが
I.平 成12年 遺跡発掘調査 につ い て 加茂市教育委員会社会教育課主事 伊 藤 秀 和 本年 の発掘調査 は下条陣ケ峰線道路建設工事 に伴 い 中沢遺跡が調査 され 加 茂市 では唯 一 の 弥生時代 の集落跡が確認 された 試掘 確認調査 は下条地区で行 われ 3遺 跡 4遺 跡周辺地 を 対象 に行 つた 1口 中沢遺跡 一弥生 平安 一 所 在 地 加 茂市大字下条字芝野地内 調 査 面
象鼻山ペラ校正
第98 図 象鼻山山頂部の地形分類 S 1/1,000 162 第5章 考 察 出土した土器は 質 量ともに十分であり 具体的な編年的位置を示すことができる 一方 ②盛土中や遺構面から土器が出土し その編年的位置が築造時期の上限や下限を示すのみの 墳墓として 3号墳 砂岩礫集積 や4号墳 6号墳 9号墳がある また 遺構として平坦面2が ある このうち 遺構面から出土した3号墳 砂岩礫集積 の土器はその下限
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津山弥生の里文化財センターは 名称のとおり沼弥生住居址群 ( 沼遺跡 ) に隣接して建てられ その資料館も兼ねて平成 2 年 11 月に開館しました この沼遺跡の調査は昭和 27 年にまで遡りますが 当初より遺跡は教材公園として位置づけられ 幅広い市民の支援を受けて 逐次津山市が整備を重ねてきました すでに昭和 30 年 1 月には 発見された火災住居跡の炭化材を基にして大型の竪穴住居を復元し 同
福知山-大地の発掘
福知山市の遺跡 平成18年1月に行われた1市3町の合併により 広大な市域を得た福知山市には現在約500箇所の遺跡が登録さ れています このうち古墳や窯跡など群として登録されているものも 多く 実数としては約2000箇所を越えることとなります 遺跡の位置と立地 福知山市域は本州の内陸部やや北側に位 置し 日本海へと注ぐ由良川とその支流によって形作られた盆地 周辺山岳部からなります 市域の約80パーセント近くは山林であり
イマジン_表1表4
8 7 artist NARA 1 3 4 5 6 7 8 9 1011 1213 1 21 8 21 1 21 2 21 3 21 artist 4 21 5 21 6 21 7 21 NARA 8 21 9 21 10 21 11 21 12 柳生新陰流 で知られる柳生の里は自 然豊かな山里です 江戸時代初期の剣 術家である柳生宗矩が柳生藩初代藩 主として名を馳せた地であり 宗矩の長 男三厳が有名な柳生十兵衛です
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1 遺跡の位置と環境 かな海岸が広がっていた 鶴見区No 104遺跡 風早台貝塚 は JR京浜東北線 本遺跡の周囲には 低位沖積地と接する台地縁辺を中 新子安駅から北東約0 8km 京急生麦駅から西南西約 心に多くの遺跡がみられる 入江川の左岸 本遺跡の北 0 7kmの 鶴見 神奈川区境に位置する横浜市立生麦中 約0 4kmに位置する蕃神台貝塚は 貝層中より縄文時代 学校をのせる台地を中心に所在する
Microsoft Word - 酒々井町歴史文化基本構想表紙・目次
酒々井町歴史文化基本構想 人自然歴史が調和した活力あふれるまち酒々井 平成 28 年 3 月 酒々井町 酒々井町歴史文化基本構想 人自然歴史が調和した活力あふれるまち酒々井 平成 28 年 3 月酒々井町 序 言 酒々井町は明治 22 年の町村制施行以来 町として独立独歩の道を歩み 日本で一番古い歴史ある町です この町の面積は 19.01K m2ですが約 15 万年前の貝層である 上岩橋貝層 約
Reprinted ftom BULLETIN OF TOTTORI UNIVERSITY OF ENVIRONMENTAL STUDIES Volumes 9 & 10 Mar. 2012 鳥取環境大学紀要 第9号 第10号合併号 図19 オモヤ 正面図 S 1 200 実測作図 森 ⑵ 屋敷配置と附属施設 しだしている 納屋兼作業小屋は オモヤの北西に位置 O邸の敷地は間口 南北
112 67 41 1966 1994 1994 12.5 7.6 L 1997 L L M M M M 2
111 李 国 棟 キーワード 石鉞 戉 越 蟠4文 穀文璧 1 拙論 玉で結ぶ日本列島と長江下流域 では 北越地方と日向地方が玉を絆に中国の長江下 流域の越地方と緊密につながっていることを指摘したが 本論では山形県羽黒町中川代遺跡から 出土した石鉞と 日向国那珂郡今町 現宮崎県串間市 王之山の石棺から出た玉璧を考察対象と し 北越地方と山形県沿海側を含めた こし 地方 2 や日向地方と長江下流域の越地方との関
<4D F736F F F696E74202D2095BD96EC88E290D591E6338E9F94AD8C4092B28DB8205B8CDD8AB B83685D>
平野遺跡第 4 次 1 はじめに所在地調査目的調査期間調査面積 スライド説明会平成 26 年 5 月 18 日 ( 日 ) 14:00~ 鈴鹿市平野町地内保育施設建設に伴う埋蔵文化財の記録保存平成 25 年 1 月 29 日 ~6 月 9 日約 600 m2 2 主な遺構 古代 竪穴建物 13 棟以上 掘立柱建物 2 棟以上 柵 5 条以上 井戸 1 基 中世 溝 2 条 3 主な遺物土師器須恵器製塩土器鉄製品
(Microsoft Word - \201\2403-1\223y\222n\227\230\227p\201i\215\317\201j.doc)
第 3 編基本計画第 3 章安全で快適な暮らし環境の構築 現況と課題 [ 総合的な土地利用計画の確立 ] 本市は富士北麓の扇状に広がる傾斜地にあり 南部を富士山 北部を御坂山地 北東部を道志山地に囲まれ 広大な山林 原野を擁しています 地形は 富士山溶岩の上に火山灰が堆積したものであり 高冷の北面傾斜地であるため 農業生産性に優れた環境とは言い難く 農地利用は農業振興地域内の農用地を中心としたものに留まっています
6-3
6-3 6-3-1 2 3 2 168 6-10 169 6-3-2 空間形成への影響要因 以上のような過程を経て白山 2 丁目地区の斜面地は現在の状況を呈するようになるわけだが 斜面地の空間形成に関わる要因としては 次の 3 点が挙げられる 例えば 白山地区の台地端に 向かって南北に伸びる袋小路周辺 以下 A 図 6-10 では 3 つの因子が複合作用しながら斜 面地空間を構造的に規定するとともに
シラバス
日本史学科専門科目 4001 史学入門 Ⅰ 1 年次 2 単位松本隆晴教授 3020 50 10 11 12 13 14 15 4002 史学入門 Ⅱ 1 年次 2 単位松本隆晴教授 3020 50 10 11 12 13 14 15 175 4003 史学基礎演習 Ⅰ 1 年次 2 単位坂本達彦講師 50 50 10 11 12 13 14 15 4004 史学基礎演習 Ⅱ 1 年次 2 単位酒寄雅志教授
第 1 章 調査標準に関する現状と課題 jtd
16 10 29 目 次 はじめに 10 10 12 13 15 10 12-1- 090508.jtd 13 11 11 第 1 章 調査標準に関する現状と課題 10 29 10 10 30 41-2- 090508.jtd -3-12 57 93 57 94 11 57 93 090508.jtd -4-090508.jtd 57 93 12 10 10 10 第 2 章 記録保存のための発掘調査に関する標準
割付原稿
極大型であり それは 大規模 長期継続 集 落 遺跡なのであるから時期ごとの数量を描き 出すことは困難である せいぜい すでに崩壊 し去った数多の遺構に思いを馳せるのみである そもそも大規模であれば それが 過度な集 住 ということでなくても なぜ大規模な集落 遺跡が成立したのか その背景は何なのか と いう単純な問題設定で十分ではないかと考え 犬山扇状地 八王子 二タ子 猫島 大地 台地 大塚 野口
4 調査の経緯と経過 発 掘 調 査 は 平 成 15(2003) 年 度 か ら 平 成 16(2004) 年度にかけて行われた 調査面積は 今回の発掘調査は 県道草井羽黒線道路改築事 平成 15 年度 2,700 平成 16 年度 850 であり 業に伴う事前調査として 愛知県建設部道路建設 合計 3,550 の調査を実施した 調査担当者は 課より愛知県教育委員会を通じた委託事業として 平成 15
遺跡分布地図から見る広島
遺跡分布地図からみる広島 レジュメ 2013.1.26 ( 財 ) 広島市未来都市創造財団文化財課玉置和弘 はじめに前回広島市内には開発に伴って様々な遺跡が調査された遺跡について主に紹介今回調査済の遺跡以外に地中に残されている遺跡も含め その分布をテーマとする 広島市内における遺跡の分布及びその立地を時代毎にみることによって 広島の遺跡の特徴を大雑把に見ることができる
新潟県立歴史博物館研究紀要第4号
新潟県立歴史博物館研究紀要 写真1 第4号 2003年3月 塙東遺跡の土器1 6 層 は 3層 に隣接して ローム の直上に堆積する 石組の南側で 5ピットの開口部の平面位 置から出土した土器4及び その 下部より出土 した土器5は ローム の直上 3層 相当の垂 直位置にある 第1図D これらの土器3 5は 土器1に共伴して 同じ住居跡の床面付近から出 土したものと想定されることになる この想定は
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16 297 297 297 297 14 140 13 13 169 81 32 32 24 409 P48 P54 P56 P50 P52 2 3 4 5 6 7 8 9 11 12 13 14 15 みちしるべ 調べるほどに興味深い Q&A 上総国分寺 国分尼寺 Q 国分寺という地名は全国に多数ありますが どうしてなのですか A てんぴょう しょうむてんのう 国分寺は 天平13年(741)に聖武天皇が国情不安を鎮めるため
物件番号 1 ポケートパーク 仮換地面積価格状況備考 E-27 街区 11 画地 従前地 法律等に基づく制限 m2約 66 坪 6,384,504 円引渡可 北側 西側で幅員 6m の舗装市道に面している 地番地目面積 ( 公簿 ) 名取市閖上字新大塚 156 番田 401 m2 都市
物件番号 1 ポケートパーク E-27 街区 11 画地 217.16 m2約 66 坪 6,384,504 円引渡可 北側 西側で幅員 6m の舗装市道に面している 地番地目面積 ( 公簿 ) 名取市閖上字新大塚 156 番田 401 m2 内市街化区域 なとりん号 閖上中央第一団地北 停まで約 0.1Km 道路の工事に応じて 停位置を変更する場合があります JR 東北本線 名取駅 まで約 5.5km
0900167 立命館大学様‐災害10号/★トップ‐目次
22 西山 第2表 被害程度 昭仁 小松原 琢 被害状況と被害程度 被害状況 気象庁震度階級 大 建造物の倒壊が明らかに認められるもの もしくは倒壊数が多いもの 中 小規模な建造物に倒壊はあるが 大規模な建造物に倒壊が認められないもの 小 建造物に破損が認められるもの 史料記述の信憑性 震度 5 強 6 弱程度 震度 4 5 弱程度 震度階級については以下の文献を参照した 宇佐美龍夫 歴史地震事始
強化プラスチック裏込め材の 耐荷実験 実験報告書 平成 26 年 6 月 5 日 ( 株 ) アスモ建築事務所石橋一彦建築構造研究室千葉工業大学名誉教授石橋一彦
強化プラスチック裏込め材の 耐荷実験 実験報告書 平成 26 年 6 月 5 日 ( 株 ) アスモ建築事務所石橋一彦建築構造研究室千葉工業大学名誉教授石橋一彦 1. 実験目的 大和建工株式会社の依頼を受け 地下建設土留め工事の矢板と腹起こしの間に施工する 強 化プラスチック製の裏込め材 の耐荷試験を行って 設計荷重を保証できることを証明する 2. 試験体 試験体の実測に基づく形状を次に示す 実験に供する試験体は3
Microsoft PowerPoint - 九州大学IRデータ集(5.入学状況)_
. 入学状況 ( 各年度 月 日現在 ) -. 入学状況 ( 学部 ) --. 入学者数推移 ( 全体 ) 入学者の出身地域に大きな変化は見られないが 福岡県出身者がやや減少傾向にあり 関西地域が増加傾向なのが分かる 九州大学, 入学者数推移,,,, 男子 ( 内数 ),9,9,,97,9,9,,77 女子 ( 内数 ) 7 779 79 7 7 77 797 7 学生数,,7,79,7,,7,,
目 次 1. 想定する巨大地震 強震断層モデルと震度分布... 2 (1) 推計の考え方... 2 (2) 震度分布の推計結果 津波断層モデルと津波高 浸水域等... 8 (1) 推計の考え方... 8 (2) 津波高等の推計結果 時間差を持って地震が
別添資料 1 南海トラフ巨大地震対策について ( 最終報告 ) ~ 南海トラフ巨大地震の地震像 ~ 平成 25 年 5 月 中央防災会議 防災対策推進検討会議 南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ 目 次 1. 想定する巨大地震... 1 2. 強震断層モデルと震度分布... 2 (1) 推計の考え方... 2 (2) 震度分布の推計結果... 2 3. 津波断層モデルと津波高 浸水域等...
KOBAYASI_28896.pdf
80 佛教大学 合研究所紀要 第22号 状況と一致していない 当地の歴 を幕末期に って 慶応4 1868 年に刊行された 改正 京町御絵図細見大成 を見ると 寺町通の東側に妙満寺 本能寺 誓願寺 歓喜光寺 金 寺といった大規模な寺院境内地が連続し 誓願寺以南では寺町通の東を走る裏寺町通の両側に 小規模な寺院境内地が展開しており 寺町と呼ばれた理由が良く かる 図1 図1 慶応4 1868 年の 寺町
No. 63 Vol. 17 No. 1 2012 6 30 Contents JMMA 会報 No.63 Vol.17 No.1 ミュージアム マネージメント学の学問領域 案 22 JMMA 会報 No.63 Vol.17 No.1 験装置と合わせて当日のなぎさのコンディション 天 ある印象が残った 候 波の高さ
県立自然史博物館世界最大級の肉食恐竜 スピノサウルス の実物頭骨化石を群馬初公開 映画 ジュラシックパーク Ⅲ で T.rex のライバルとして その大きさをしのぐ巨大肉食恐竜として登場した スピノサウルス の実物頭骨化石と背骨の化石 ( 学校法人成城大学所蔵 ) を展示 公開します 公開日 : 平
県立自然史博物館世界最大級の肉食恐竜 スピノサウルス の実物頭骨化石を群馬初公開 映画 ジュラシックパーク Ⅲ で T.rex のライバルとして その大きさをしのぐ巨大肉食恐竜として登場した スピノサウルス の実物頭骨化石と背骨の化石 ( 学校法人成城大学所蔵 ) を展示 公開します 公開日 : 平成 30 年 8 月 5 日 ( 日 ) *8 月は休館日なしで 毎日開館します 展示場所 : 県立自然史博物館常設展示室
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香芝市 1. 施行地区の位置 1 位置図 西名阪自動車道 JR 和歌山線 本地区は奈良市の南西約 18km 大阪市の南東約 25kmにあり 奈良県香芝市の東部に位置する南北約 400m 東西約 700mの区域であり 面積は約 17.6haである 近鉄大阪線 中和幹線 地区の東約 200mには近鉄大阪線五位堂駅がある 国道 165 号 五位堂駅前北第二地区 近鉄五位堂駅 国道 168 号 1 2 地区の従前の状況
東日本大震災 鳴らされていた警鐘
.5m 9. 311 11 11869 15 3 1131116 13kmkm 9. 7 6 5 311 M7.7 M7.5M7. 7 M7.1 J A X A 3 km M8. 5 1 1 1319 17 7 6689 15853 855 1936 8 87km 8 16 5 11 6 5 311 13kmkm M9. 5km 1m 1896 1933 31m 1 km8m 63mm M7.3 M9.
