目次 第 1 章吉野ケ里遺跡の紹介 吉野ヶ里遺跡とは... 3 吉野ケ里の歴史... 8 発掘について 弥生 Q&A 環壕入口 南内郭 ~ 王や支配者層が住んでいた場所 ~ 北内郭 ~まつりごとの場所 ~ 北墳丘墓 ~ 歴代の王の墓 ~..
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- かずただ のたけ
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1 旅のしおり 1
2 目次 第 1 章吉野ケ里遺跡の紹介 吉野ヶ里遺跡とは... 3 吉野ケ里の歴史... 8 発掘について 弥生 Q&A 環壕入口 南内郭 ~ 王や支配者層が住んでいた場所 ~ 北内郭 ~まつりごとの場所 ~ 北墳丘墓 ~ 歴代の王の墓 ~ 甕棺墓列 ~ 一般の人々の墓地 ~ 中のムラ ~ 祭り 政治 儀礼などの道具を作る場所 ~ 倉と市 ~ 倉庫群 市も開かれていた ~ 南のムラ ~ 一般の人々の居住地 ~ 第 2 章古代の森 古代の森
3 吉野ヶ里遺跡の紹介 吉野ヶ里遺跡とは 紀元前 3 世紀から紀元後 3 世紀までの弥生時代は 日本で稲作の文化が始まり 定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です 弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は 佐賀県神埼郡の旧神埼 ( かんざき ) 町 旧三田川 ( みたがわ ) 町 旧東脊振 ( ひがしせふり ) 村の 3 つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で 弥生時代における クニ の中心的な集落の全貌や 弥生時代 600 年間の移り変わりを知ることができ 日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる 邪馬台国 の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも指定されています また 有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されるなど 高い学術的価値を有するものです 吉野ヶ里遺跡は 脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置しています 佐賀平野東部にはこのような段丘が多く発達し そのいずれにも遺跡が多く立地していることが 古くから知られていました どのように吉野ヶ里遺跡の全貌が明らかになってきたのか その経緯を紹介します 昭和 10 年以前の吉野ヶ里遺跡の研究 北部九州の考古学研究は大正時代から活発化しますが おびただしい数の青銅器を有する福岡地方が研究の中心となり 九州弥生文化の中心は福岡平野などの玄海灘沿岸地方であると認識されていました 佐賀県では 大正時代後半から研究が始まり 甕棺や一般の弥生土器の存在が多い佐賀平野東部地域がその中心となり 昭和 9 年になると 吉野ヶ里遺跡を取り上げた報告が相次いで発表されました まず 七田忠志 ( 1) は 周辺の弥生時代遺跡や そこから出土した人骨 貝製腕輪 銅鏡 銅戈鋳型の出土を報じ 佐賀平野にも注目するよう訴えました 甕棺を中心とした弥生時代 ~ 奈良時代遺跡の分布地図を掲載し 脊振南麓一帯におびただしく散在する弥生式甕棺遺跡及び有明海周辺貝塚群と共に是非究明を要するものであり 併せて今後研究不十分なる肥前地方古代遺跡遺物の解明を諸先生に懇願する次第である と述べています 三友国五郎 ( 2) は佐賀平野東部の甕棺墓地や貝塚を紹介する中で 佐賀平野は南方に肥沃する沖積平野があり 更に古代人にとって非常に食料を供給する海 ( 有明海 ) を控え しかも北方は脊振山塊が自然の防御線となり生命線となっているから この脊振山麓は絶好の古代聚落地をなしたであろうと推定させられる と延べ 吉野ヶ里遺跡について一項目を設け 特に甕棺の数量の多さなどについて詳しく報じ 埋置状況の図面を付して特徴について詳しく報告しました 1: 神埼郡仁比山村出身 神埼高校教師の傍ら吉野ヶ里遺跡の存在とその重要性を指摘 大正 1~ 昭和 56 没 2: 埼玉県出身 元埼玉大学教授 専門は人文地理学で 先史時代 ~ 古代の集落立地に関する研究者として知られる 明治 37~ 昭和 58 没 3
4 昭和 20 年代以降の状況 戦後 佐賀県が考古学上大きく注目されるようになったのは 現在の公園の東口から約 3km 北側に位置する 三津永田遺跡 ( 図中吉野ケ里地区 ) の調査でした 昭和 27 年末 段丘がみかん園として開墾されてことで 多くの甕棺が出土し そのひとつから人骨とともに前漢時代の銅鏡連弧文昭明鏡が出土しました 翌 28 年に水害が発生し 護岸工事のために丘陵地から土が採られた際に 多数の甕棺とともに 管内から人骨と共に鉄器や貝製腕輪 ガラス製の玉などの貴重な遺物が出土しました このため 日本考古学協会が主体となって 翌 29 年 7 月までの間 緊急発掘調査を実施し 弥生時代前期から後期にかけて この地方でも大陸との交流があったことが認識されました 昭和 40 年代後半からは 大規模開発の増加に伴い 調査体制も次第に増強され 本格的な発掘調査が実施されるようになりました 吉野ヶ里遺跡の北東に位置する 二塚山遺跡 ( 図中横田地区 ) の発掘調査もその一つで 昭和 50~51 年 甕棺墓を主体とする弥生時代墓地が完掘され 多数の銅鏡や鉄製武器その他の副葬品 装身品など 三津永田遺跡と非常に類似した遺物が出土しました 昭和 55 年には 現在公園の 倉と市 周辺部でも調査が実施されました 弥生時代後期の高床倉庫と考えられる堀立柱建物遺跡数棟や さらに西方では 南北方向の自然の河川跡とも考えられるものが検出されています 段丘頂部では 弥生時代の甕棺墓群や竪穴建物跡とともに 18 基の甕棺墓が整然と二列に並んでいることが確認されました また 甕棺内から出土した人骨 6 体は 三津永田遺跡 の人骨と同様に 北部九州 山口型の人骨であることが判明しました 昭和 56 年から 57 年にかけて 佐賀県教育委員会により 圃場整備に伴う段丘裾部の水田部の調査が実施され 弥生時代中期の高床倉庫と考えられる掘立柱建物跡群や壕跡などが検出され 炭化米多数やたて竪杵などが出土しています 昭和 年になると 筑後川から佐賀平野の東部を横断して 嘉瀬川に水を運ぶ佐賀東部導水路の建設に伴って 県教育委員会により段丘南部の調査が実施され 弥生時代 ~ 中世にかけての竪穴建物跡や建物柱穴 甕棺群と後期の壕跡などが検出されています 神埼工業団地の開発計画 佐賀県は 80 年代佐賀県総合計画 を策定し 食料供給基地としての役割を果たしつつ 工業の進展をはかり 地域の活性化を目指すことを目標としました 昭和 56 年 6 月に 佐賀東部地区工業開発適地調査協議会 が設置され 工業団地の適地の検討がなされ 昭和 57 年 2 月に吉野ヶ里段丘一帯が最優先 有力候補地として内定しました 多くの埋蔵文化財が包蔵されていることが知られていましたが その内容については不明な点が多く 文化財確認調査を行うこととし 調査結果を基に重要な文化財包蔵地は文化財保存緑地として計画に取り組むこととしました 4
5 埋蔵文化財確認調査 昭和 57 年度に丘陵部 昭和 61 年度に水田部の調査をおこなった結果 埋蔵文化財が包蔵されていると確認された面積は約 58.3ha 判明しました 時期別の遺構の状況を簡単にまとめると以下の状況が判明しました 旧石器時代 縄文時代 弥生時代 ナイフ形石器 台形石器 尖頭器が出土 包含層 遺構はほとんどのこっていない 土器片が発見されていることより 遺構 遺物が存在する可能性がある 前期から後期にかけての遺構 遺物が全地区で確認された 前期では数軒の竪穴建物跡 甕棺墓を主体とする墓地 中期では竪穴建物群と甕棺墓群 後期では竪穴建物が確認された さらに 環壕を伴った大集落と甕棺墓を中心とする墓地群が予想される 古墳時代 日吉神社付近に 3 基ほどの古墳状の高まりを確認 6 世紀の竪穴建物跡と 全地区より須恵器 土師器などの遺物が出土しており段丘部や水 田部の遺構が存在するものと考えられる 古代 奈良時代の道路跡が確認され 周辺には当時の官衛的な性格をもった遺構 遺物が存在す る可能性が高い 中世 近世 妙法寺跡推定地区で 溝 柱穴などの遺構や陶磁器などの遺物が確認された 志波屋四の坪地区北側で 墓地が確認された 発掘調査前 (S61(1986)) の吉野ヶ里遺跡 ( 弥生時代の吉野ケ里 集落の誕生から終焉まで 佐賀県教育委員会編 2008 より ) 確認調査結果に基づく調整 文化財の確認調査の結果 工業団地計画と文化財保護との調整が進められ 工業団地の規模は 当初計画では約 80ha でしたが 区域内の文化財保護について協議が重ねられたが 県として工業団地の必要性から 文化財包蔵地を最大限に緑地に取り組むことで 後に 67.7ha として レイアウトの変更がなされました 埋蔵文化財包蔵地は 36ha となり うち 6ha を文化財保存緑地とし 30ha については記録保存ための発掘調査を実施して保護を図ることとしました 5
6 発掘調査の準備 発掘調査面積が 30ha と確定した後 取り急いで本格調査の準備が進められました 調査期間は S61 年度 ~63 年度の 3 年間とし その後の 2 年間で資料整理を行うとしました 実際に調整を開始できる状況になったのは S61 年 5 月下旬からとなりました 調査区域の設定と調査の方法 約 30haに及ぶ調査区を 3 年間で調査するにあたり 調査方法としては遺跡を覆っている表土等の堆積土を調査委員立ち会いの下で バックフォーやブルドーザー ダンプトラックを用いて除去 運搬を行いました 調査の過程や完全に発掘された遺構は写真に記録するとともに実測され 出土した遺物は水洗 注記 選別 接合復元を行い 実施図の作成などとともに整理 記録されました 出典 : 吉野ケ里 佐賀県教育委員会,1994 6
7 吉野ヶ里遺跡関連年表 7
8 吉野ヶ里遺跡の紹介 吉野ケ里の歴史 弥生時代は約 600 年間も続いた長い時代です 吉野ヶ里遺跡では この長い弥生時代の全ての時期の遺構 遺物が発見されています しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており この時代にどのように社会が変化していったかが分かる極めて学術的価値の高い遺跡です 吉野ヶ里歴史公園では 弥生時代後期後半 ( 紀元 3 世紀頃 ) を復元整備対象時期として これまでの発掘調査成果や民族学などさまざまな専門分野の研究をもとに復元整備を行っています 弥生時代前期 ( 紀元前 3~ 前 2 世紀 ) 吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に ムラ が誕生しました やがて南側の一面には環壕をもった集落が出現し ムラ から クニ へと発展する兆し が見えてきます 環壕内出土状況 弥生時代中期 ( 紀元前 2~ 紀元 1 世紀 ) 南の丘陵を一周する大きな外環壕が掘られます 首長を葬る 墳丘墓 やたくさんの 甕棺 墓地 も見られます 集落の発展とともに その防御も厳重になってきていることから 争い が激しくなってき 墳丘墓 たことがうかがえます 弥生時代後期 ( 紀元 1~3 世紀 ) 国内最大級の環壕集落へと発展し 大規模な V 字形の外環壕によって囲まれ さらに特別な 空間である 2 つの内郭 ( 北内郭 南内郭 ) をもつようになります 特に北内郭では大型の建 物が登場し 吉野ヶ里の最盛期にあたります 北内郭の大型建物 吉野ヶ里集落の変遷 ( 1) 吉野ヶ里遺跡は 弥生時代の前期 ~ 後期までを通じて ムラからクニの中心集落 -みやこ -へと発展していく過程が明らかになった遺跡です 弥生時代前期の集落 H11 年 (1999) の発掘で 遺跡南端の丘陵上において吉野ヶ里遺跡最古の環壕らしい跡の一部が発見され 縄文時代晩期の水田農耕の伝来からまもなく 周辺の小規模農村の上に立つ環壕 ( 2) を巡らせた吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された可能性が出てきました この集落は 弥生時代前期に 2.5ha 規模の環壕集落へと発展し 環壕跡内部からは 大量の土器や石器 有明海産のカキ アカニシ テングニシ サルボウなど多数の貝殻や イヌ シカ イノシシ類等の獣骨とともに 青銅器鋳造に用いた鞴 ( ふいご ) の羽口や取り瓶などが出土しました 弥生時代前期のうちに 青銅器鋳造が始まったと考えられます 8
9 青銅器造具土器片ブタ? の骨獣骨 弥生時代中期の集落 弥生時代中期には南部の丘陵をすっぽり囲む推定 20ha 規模以上の環壕集落へと発展したと考えられています 内部では 多くの竪穴建物跡や穴倉 ( 貯蔵穴 ) 跡が発掘されており 居住域と倉庫域が区別されていたとも判明しました また 環壕跡内部からは 大量の土器や石器が出土し 低地からは外洋航行船を模したと思われる船形木製品等が出土しています また 竪穴建物跡等からは青銅製の耳飾り ( もしくは指輪 )2 点 ( 一対 ) や 数点の朝鮮系無文土器 ( 片 ) も出土しました 木製の容器類木製の農具木製の祭祀具 弥生時代後期の集落弥生時代後期になると 集落は北方へと規模を拡大して ついには 40ha を超す国内最大規模の環壕集落へと発展します 内部には物見櫓を備え 大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や 高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭等 内環壕によって囲まれた空間が設けられ 西方には 吉野ヶ里のクニの物資を集積し 市の可能性もある高床倉庫群が設けられました 環壕 城柵 物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に多くの人々が集まり住み その祭政の中枢である南内郭 北内郭が存在し 祭壇など祭祀の場を備え 青銅器や鉄器 木器 絹布や大麻布などの手工業生産や 各地の手工業産品や人々が集う交易の市が推定され まさに弥生都市とも呼べるようなクニの中心集落へと発展した姿を見ることが出来ます 吉野ヶ里歴史公園は 弥生時代後期後半 ( 紀元 3 世紀頃 ) を復元整備対象時期としています 大切な遺構を壊さず土で保護した上に 弥生時代後期後半に同時期に建てられていたと考えられる建物を 当時あった場所の真上に復元整備しており この地が最も栄えたクニの姿を体感することができます 9
10 南内郭北内郭北墳丘墓 1. 弥生時代の吉野ヶ里 - 集落の誕生から終焉まで - 出典 : 佐賀県教育委員会編 2008 転載 2. 吉野ヶ里遺跡では 環壕 の 壕 はさんずいの 濠 と区別して標記される これまでの調査から水が張られていた痕跡が認められないためである 墓地 吉野ヶ里遺跡の最も古い墓は 弥生時代前期後半の土壙墓や木棺墓 甕棺墓などがありますが 中期になるとそれまで分散していた甕棺墓地が 600m に及ぶ長大な甕棺の列状埋葬墓として 大規模な墓地にまとまります それらは 主に中期の環壕集落の外側北方につくられ 現在の公園の古代の森ゾーンとなります 墓群のなかには 周囲より高い階層の人を葬ったと考えられる甕棺墓が存在します また それらの墓地群とは別に 北内郭の北側に 細形銅剣やガラス管玉を副葬した甕棺墓群が埋められた大規模な北墳丘墓が営まれ 社会規制の強化や階層分化のありさまが伺えます また 弥生時代後期以降の墳墓は 極端に減少し 特別な墳墓も確認されていません 北墳丘墓は 温度と湿度を一定に管理しており 遺構を直接見ることが出来ます 北墳丘墓 列状墓地の空撮写真 有柄銅剣 ガラス製管玉 10
11 吉野ヶ里遺跡の終焉 3 世紀後半頃 吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は ほぼ埋没し 北内郭 南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられています それと前後して 南内郭付近の丘陵部には 4 基の前方後方墳が築かれます 吉野ヶ里丘陵の南部一帯は 人々の生活する集落から 人が葬られる埋葬の地へと変化したようです 吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は どこに行ったのでしょうか? 弥生時代の終焉と共に どこかへと移り住んでしまったのでしょうか? 前方後方墳 発掘中写真 弥生時代以外の様子 これまでの発掘調査から 弥生時代の前や その後の時代の概要 出土遺物についてご紹介します 旧石器時代 旧石器時代に関しては 出土した遺物は ナイフ型石器類 20 数点と 点数は決して多くはありません 弥生時代以降の土地利用による破壊があったことと 弥生時代の遺構を保存するため 発掘調査がその下の層までおよんでいないためと 考えられます 縄文時代 縄文時代の口緑直下に刺突文が一列廻っている土器片が 1 点と 石鏃等が出土しています 古墳時代 古墳時代に関しては 続口縁部や口頸部に波状文が施されていたり 内面に黒色塗料が付着していたり 外面に刷毛目調整がされている土器と 鞍橋の前輪と後輪部分であると考えられる木製馬鞍の大小 2 個体が出土しています そのほか鉄器 石製玉類 その他石製品 土製品 木製品等があります 11
12 奈良 平安時代 木簡が 9 点と 疑宝珠様つまみをもつ土器 人名 建物の名前 吉祥句と考えられる文字が記されている墨書 篦書土器 硯 水滴用の土器 絵画土器が出土しています そのほか陶磁器 鉄製品 その他石製品 土製品 木製品等があります また 奈良時代には 駅路跡と 群衙などの官衙関係の諸施設と考えられる道路跡 ( 官道 ) や多数の掘立柱建物群が検出されています 中世 土壙墓群 道路状遺構 空堀 溝跡 輸入陶磁器 銅銭などが見つかっています 12
13 吉野ヶ里遺跡の紹介 発掘について 遺跡の保存 吉野ヶ里歴史公園では大切な遺跡を守るため 遺構面の上に 30cm 以上の保存盛土をし さらに整備に必要な盛土をその上に行って います こうして大切な遺構を壊さずに 当時あった場所の真上に復元することができるのです 復元について 吉野ヶ里歴史公園は 我が国の文化を象徴する国の特別史跡 吉野ヶ里遺跡 の保存と活用を図るために整備された公園です 復元整備にあたっては 考古学の分野だけではなく 関連する様々な学問や研究の成果が集められています 建物等復元について 遺跡の復元は 発掘調査から見つかった建物跡からだけではできません 集落が保存する時代が日本の歴史の中でどのような時代だったのか その時代の中で 集落は どのような様子だったのか こうした意味を考えた上で 建物一つ一つの存在価値や理由 目的を考え 最後にそれぞれの形や構造などを考えていくことが必要です そのため 吉野ヶ里では必要と思われる各種の調査を行い 調査結果を踏まえた基礎設計をとりまとめ復元しています 発掘現場 現在も吉野ヶ里歴史公園区域内の北側では 佐賀県教育庁社会教育 文化財課によって発掘が行われています 発掘調査は 吉野ヶ里遺跡の集落の変遷や墓城の形成などの解明を目的として 遺跡北部に当たる志波屋四の坪地区で進められています 調査の終了したところは 遺構などの保護のため埋め戻したり シートで覆ったりしているので ご覧いただけませんが 調査中のエリアは 雨天の日を除く平日に発掘の状況をご覧いただけます 運がよければ甕棺や土器などが発掘される歴史的な瞬間に立ち会えるかもしれません 13
14 遺構面 解説をしている様子 遺跡の保存方法 当公園における 遺構面の保護と復元整備の概要は次のとおりです 1. 遺構の発掘 遺構は専門家によって詳しく調査されます 2. 弥生時代の吉野ケ里の集落の検討 集められた情報を古代建築や考古学等の専門家 が検討して弥生時代の吉野ケ里の集落 建物 遺跡の保存 調査の済んだ遺構は 再び土で埋め戻され 保存さ れます 人々の様子を推測します 3. 具体的な復元案 現代の技術を駆使したり 当時使われたと考え られる手法を用いる具体的な復元案を作成しま 4. 弥生時代の吉野ケ里の復元 盛土で保護された遺跡の上に弥生時代の集落が蘇 ります す 保存盛土 遺構面が傷つかないよう 確認された遺構面より 30 cm以上の保存盛土をおこなう 竪穴建物や堀立建物は 遺構面より 30 cm以上盛土した上に柱を建てて復元する 環壕は 環壕遺構の底部より 50 cm以上盛土した上に往時の深さ 幅で復元する 地下埋没物については 遺構面より 30 cm以上盛土した上に設置する 盛土以外の遺構保存 発掘再現地区では 遺構面を型どりした後 保存のために埋め戻し その上に型どりレプリカを設置します 14
15 1. 基礎調査の実施 国営吉野ケ里歴史公園の 環壕集落ゾーン は 弥生時代の大規模な環壕集落の様子を体験 体感できる環境づくりを行うこととして計画されました このため 環壕集落ゾーン内の建物等 ( 竪穴建物 高床倉庫 物見櫓 環壕 柵 工房等 ) を 綿密に検討された学術的考証に基づいて復元し 往時の雰囲気を醸し出せるものとしていくため 復元設計の基礎となるべき資料の収集 整理と設計の前提となるべき条件分析を行うことを目的として 2 箇年にわたって 学識経験者等からなる委員会を設置し 建物等復元にかかる基礎調査を行いました この調査報告書は以下項目の構成によりまとめられ その後の復元建物の基本設計 実施設計を行うための基礎資料となっています 1-1 集落調査 吉野ヶ里の集落が存在した時代 ( 弥生時代 ) がどのような社会だったのかを調べるための調査です 1. 主要集落遺跡アンケート調査 全国の主要な縄文 弥生 古墳時代の遺跡について 遺跡の時期や立地 集落の全体の様子などの調査を行いました 2. 海外事例調査 弥生時代の吉野ヶ里に影響を与えたと考えられる中国や韓国の集落遺跡 途上遺跡についての調査を行いました また 当時の人々 の社会観や世界観と集落のつくりの関係など 遺跡に残りにくい情報を得るため 現在の民族事例についても調査しました 3. 日本列島における集落の流れ 上記の調査から得られた資料を基に 日本全国における集落形成の流れをまとめ 各時代の特色を明らかにしました 4. 吉野ヶ里集落のあり方の検討 全国の集落調査を基に吉野ヶ里遺跡の発掘調査資料を加え 吉野ヶ里集落の様子を導きました 2. 復元建物等の基本設計 実施設計の検討 基礎調査を踏まえ 建物等復元基本設計委員会 を立ち上げ 基本設計をとりまとめました さらに 学術的な調査研究に基づく復元と 実際に来園者に体験 体感してもらうための建物の利用想定 雰囲気を盛り上げるための展示も含め 実施設計として取りまとめました 建築にかかる設計にあたっては 現行の建築関連法規等の制約 さらに 建築資材の調達等といった課題があり 制約条件等を明確に示し 制約条件のもとに 実施設計の検討が進められました また 復元整備にあたって課題となる材料の調達面については 建築材料の市場性について調査を行っています 15
16 建物復元に関する考え方 ( 概略 ) 2-1 建物等調査 個々の建物を復元するために 全国の縄文 ~ 古墳時代の遺跡で見つかった建物遺構や当時の人々が残した絵などの資料の調査 当 時の建築技術に関する調査や建築のための道具の調査 さらに建築以外の関連する施設などの調査を行いました 1. 大型掘立柱建物遺構出土調査 弥生時代に本当に大型の建物があったのか それを確かめるための調査を行いました 全国から 床面積 100 平方メートルを超える大型の建物跡がたくさん見つかっていることが分かり この調 査のまとめは 弥生時代にも大きな建物があったことを裏付けるとても貴重な資料となっていま す 大阪府和泉市池上曽根遺跡出土の大型建物の柱材 16
17 2. 絵画 家形埴輪 家屋文鏡等調査 当時の建物は一つも残っていないため 建物の形を調べることはとても難しいことです ただ 当時の人々が使っていた土器に建物の形が描かれているもの ( 絵画土器 ) や 粘土で作った建物の模型 ( 家形埴輪 ) 青銅の鏡の模様に表現されているもの ( 家屋文鏡 ) などがたくさん残っており これらは建物の形を考える上でとても貴重な資料となっています 鳥取県米子市の稲吉角田遺跡出土の建物が描かれた土器 唐古 鍵遺跡 ( 奈良県 ) の建物が描かれている土器 3. 民族事例調査 世界各地には 今でも昔とほぼ変わらない生活をしている 少数民族 と呼ばれる人たちがたくさん住んでいます こうした人々の建物を調べることによって 昔の建物の考え方を推測していくことができます 時代を超えて大きなヒントを与えてくれるとても貴重な資料です 4. 建築部材調査 日本各地の遺跡から 建物等に使った柱や板などの木製品がたくさん見つかっています こうした木製品を調べることにより 当時どんな道具を使って どんな方法で作っていたか ということが分かってきます また 材料に使われている木の種類を調べることにより 当時どのよう な植物が生えていたか という調査にも大変役に立つ資料です 北区飛鳥山博物館所蔵の丸木舟 5. 工具調査 建物を作るためには 道具が必要です 日本全国から 斧 ( 切りたおす ) ヤリガンナ ( 削り取るなど ) 刀子 ( 小刀 ) など建築に 必要な道具がたくさん見つかっており 当時の技術を調べるためのとても貴重な資料です 6. 関連施設 建物だけでなく 環壕 土塁や柵列 水田などを作る技術も 建物を作る技術と大きく関係してい ます こうした様々な施設を調べることにより 道具や材料 作り方などを推測していくことがで きます 建物と直接には関係なくても たくさんヒントを与えてくれる貴重な資料です 福岡県板付遺跡出土の井堰 17
18 弥生 Q&A くらし 食べ物編 A 吉野ヶ里遺跡の紹介 どんなものを食べていたの? 弥生時代になると 中国大陸や朝鮮半島から米作りが伝わりました また 米の他にも さまざまな海の幸 山の幸を食べていました 小麦 アワ キビ 豆 瓜 ドングリ クルミ イノシシ 鶏 シカ クマ タヌキ イヌ フナ コイ サメ スズキ アジ オオタニシ カワニナ ヤマトシジミ 食事 これらのものを煮たり焼いたりして食べていたのでしょう 当時は箸を使わず 手づかみで食べていたようです 魏志倭人伝には倭人の食生活について 倭の地は暖かく 冬も夏も生野菜を食べる 飲食には高杯を用い 手づかみで食べる 人々は生来酒が好きである とかかれています 各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより 弥生時代には米の他に 小麦 アワ ヒエ 小豆などの雑穀が栽培されていたことが明らかになっています A 飲み水はどうしていたの? 吉野ヶ里からは 湧き水が豊富に出るところがたくさん見つかっています この場所を簡単な 柵で囲って 飲み水を確保していたようです また 弥生時代終わり頃 ~ 古墳時代始め頃にかけてつくられた井戸も 1 カ所見つかっています 日本の他の遺跡では井戸跡が見つかっているところも あり 吉野ヶ里からも見つかるかもしれません 水汲み くらし 生活編 A お風呂やトイレはあったの? 吉野ヶ里遺跡からは トイレの跡は見つかっていません 他の遺跡では 環壕の中から人だけ にしか見られない寄生虫が見つかった例もありますので まとめて環壕に捨てていたのかも知れませんね 風呂については まだこの時代にはありませんでしたので かわりに川で水浴びをしてい たと考えられます 水浴び 18
19 A 服はどんなものを着ていたの? 魏志倭人伝には 男は布を身体に巻き付けただけ ( 横幅衣 [ よ こはばい ]) 女は布の真ん中に穴をあけ すっぽりと首からかぶったもの ( 貫頭衣 [ かんとうい ]) を着ていると書かれています 吉野ヶ里遺跡では 甕棺の中から麻や絹の布片が見つかっています 当時は 身分によって服の素材や形が違っていたようです 上層の衣装 一般の衣装 各地の遺跡から出土している織機から弥生時代の織布の幅は 30 cm前後であることから 一幅で身幅を覆うことが出来る布幅を持ちその中央に穴をあけて頭を通じて着用するという貫頭衣は製作することが難しかったと考えられます これらのことから 2 枚の布を頭と腕の出る部分を残して脇で綴り合わせた形態の服ではなかったかと想像できます また 倭人伝には人々ははだしであると記述されていましたが 吉野ヶ里遺跡や福岡県の那珂久平遺跡で板を浅くえぐった木製の履物と考えられる遺物が出土しており 沓が存在していたことも明らかになっています A 文字や言葉は使っていたの? 文字については 現在まではっきりとしたものは確認されていません また言葉についてもほとんど分かっていません ただ 魏志倭人伝には 魏の国との交渉 交流において 文章を交わした 通訳がいる などの記述があることから 文字や言葉も存在していたということだけは間違いないようです なお 当時は同じ日本の中でも言葉が通じない地域があり 現在の日本語のように全国共通のものではなかったようです A 石包丁はどうやって使うの? 石包丁は 稲の穂先だけを摘み取る専用の道具と考えられています 魚や肉は切ったりはしな かった証拠として 刃の部分を調べてみると 稲に含まれる脂肪分だけしか確認されないことがあげられます 石包丁は 手のひらで包み込むようにして持ち 稲穂を 1 本ずつ摘み取っていきます 当時の稲はまだ野生に近い状況で 実る時期が現在の米のように一定ではなかったため 実ったも 石包丁 のから順々に刈り取っていたようです そのため 根元から刈り取る鎌ではなく 実った穂を 1 本ずつ摘み取る道具が必要だったのでしょう 弥生時代の生業の中心は稲作を中心とした農業です 各地の遺跡から様々な農具が出土しています 弥生時代の農具は 土を耕す道具 ( 鋤 鍬等 ) 収穫する道具 ( 石包丁 鎌等 ) 脱穀する道具 ( 臼 竪杵等 ) に大きく分けられ 既に現在にまでつながる基本的な農具がほぼ全て揃っていたことが知られています 弥生時代の前期には鋤や鍬も刃先まで木製でしたが 中期以降 先端に鉄の刃先を装着するものが出現します 収穫具も中期後半から後期になると石包丁など穂先を摘み取って収穫するものから 根元を刈る鎌に変化していったことが明らかになっています A 寿命はどれくらいだったの? 現在と比べると ずいぶん短かったようです 平均すると 40 歳まで生きられなかったと考えられています 当時は 栄養状 態も良くなく 病院などもありませんので 子供の死亡率が特に高かったようです 吉野ヶ里の甕棺の 4 割が子供用であることからも こうしたことが推測されます 19
20 A 吉野ヶ里の人口はどれくらいだったの? 当時の人口を調べることはとても難しいことです 基本的には お墓の数や住居の数などから推察していきますが 当時の燃 料が薪だったことを考えると 周辺の森林の伐採等による環境のことも考えなくてはいけません また 当時の人々が 1 日どれくらいの食物を食べていたのか それを満たす食糧の確保が可能だったのか など 考えなくてはならないことはたくさんあります 吉野ヶ里では こうした様々なことについても調査研究を行い 現時点で最盛期には 外環壕の内部におよそ 1,200 人 吉野ヶ里を中心とするクニ全体では 5,400 人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています 環境編 A 当時の植物にはどんなものがあったの? 現在のような色とりどりの花は少なかったようです シイやカシ クヌギやクスノキの深い森や ススキやチガヤの草原風景 が広がっていたのでしょう 遺跡から見つかったたくさんの植物の種や化石 当時の木の道具や建物に使われている木製品などを基に 北部九州における植物の分布状況の変化などをあわせて調べることにより 当時の植物の大まかな状況が分かっています こうした調査研究の成果に基づいて 弥生時代にあったとされる植物を可能な限り植えています クワウリどんぐりチガヤ A 平均気温はどれくらいだったの? 気温については 研究者によっていろいろな意見がありますが 当時の植物の生息状況や 世界の地形など 気温に影響する 環境的な問題まで含めて研究する必要があると言われています 現時点では こうした研究を踏まえて 現在よりも平均でおよそ 1 度くらい低かったのではないか という考え方が主流のようです A 海 ( 有明海 ) まではどれくらいの距離があったのか? 現在は約 20km ですが 弥生時代の中頃には 地質調査や有明海沿岸の遺跡分布から 4km くらいだと言われています ただし湾の奥では約 2km まで迫っていたと考えられます また 弥生時代の終わり頃は約 10km くらいまで後退したという説があります 20
21 遺物編 A 勾玉は何の意味があるの? 魔除けやお守りとして使われていたようです 吉野ヶ里遺跡からは 玉 と呼ばれる遺物が 多数出土しています 勾玉も 玉 と呼ばれている遺物の一つです A 火をおこす方法はどうしていたの? 手で棒をこする もみきり 弓の弦を棒に巻きつけてこする 弓きり があったといわれて います 吉野ヶ里遺跡では発見されていませんが 同じ時代 他の遺跡では黒こげた 火きりうす 舞いきり と思われる遺物が発見されています A 土笛は何に使うの? 儀式など神に祈りを捧げる際の楽器として使われ 他には 琴 などが他の遺跡から発掘されています 日本海側の地域で出土していることが多く 吉野ヶ里からは出土していません A 甕棺は日本で考えられたの? 佐賀 福岡 ( 長崎 熊本 大分の一部 ) に観られる特殊な埋葬方法で この地域独特に発展した ものと考えられています なお 吉野ヶ里の墓には 他にも土壙墓 木棺墓 石棺墓 壺棺墓などがあり全てが甕棺墓ではありません 同時代の世界の例として韓国 イタリアのシシリー島 インド 中国の一部などがあります A 吉野ヶ里では甕棺はいくつぐらい見つかっているの? 甕棺は 3,000 基以上 ( その他の墓は 350 基以上 ) が見つかっています まだ未調査のところも多く 脊振山麓までの約 4km 間に 15,000 基から 20,000 基程度が存在していたものと考えられています A 青銅や鉄をつくる技術はあったの? 吉野ヶ里遺跡からは鋳造した跡や鋳型 坩堝 鎌 鍬などの農具や 斧 やりがんな 刀子等の工具が見つかっています ま た高純度の錫片が出土したことから青銅を調合する技術もあった可能性は高く 吉野ヶ里出土の鉄製品は 朝鮮半島や中国からの鉄板を加熱加工したものであることが分かっています 21
22 銅鐸 銅戈 鉄製品 弥生時代になると 鉄や青銅といった金属器も伝わり 人々の作業能力は飛躍的に向上しました ある研究の成果では 鉄の斧と石の斧とでは その能力に 4 倍の差があるといわれています 鉄の斧を使い始めたことによって人々はさらに農業やその他の生産を発展させていったのでしょう 鉄の製品は農具や工具 武器などの実用品として また青銅の製品は 初めのころは実用品として その後は主に祭りの道具や権威を表すシンボル的なものとして使われるようになったと考えられています 建物編 A 建物の跡はどうして分かるの? 発掘調査で 遺跡の上に積った土を取り除いていくと 墓や柱の跡などの遺構が現れてきます 墓や柱穴の跡は 他の部分と比べて黒っぽい土だったり 土の質が違っていたりするので 見分けることができるのです 建物の跡 A 高床倉庫は何を保管していたの? 南の倉庫は 国の倉として吉野ヶ里で作られた米などの穀類 周辺の村々から集められた米などの穀類 国を守る武器類 交 易に使われる絹などの貴重品が保管されていたと考えられます 北の倉庫は 神聖は空間である北内郭に付随することから まつりに使われる祭器や歴代の王の宝物などが納められていたと考えられます A ねずみ返しってなあに? 高床倉庫の柱と床が接する部分に付けられている 円形や角の丸い長方形をした板のことです 倉庫の中に保管してある食料や絹製品などはねずみから襲われることが多かったため 柱を登ってくるねずみが倉庫の中に侵入できないように取り付けられたものと考えられています 吉野ヶ里からは 1 枚の大きな円形の板を 2 つに割ってはめ込んでいたと思われるねずみ返しが見つかっており 大切な食糧を守るための当時の人たちの努力の跡がうかがえます ねずみ返し 22
23 A 鳥の模型は何を意味しているの? 屋根や門の上に 木で作られた鳥がとまっています 弥生時代 鳥は稲などの穀物の霊を運ん できたり 悪霊から守ってくれるシンボル ( 神の使い ) とされていたようです 公園の中で 何羽の鳥を見つけられましたか? A 竪穴住居は横から入るのに どうして竪穴というの? 鳥の模型 洞窟のように横に掘って作る住居に対して 直角方向 ( 竪 ) に掘っていることから竪穴住居と言われています A 竪穴住居に水は入ってこないの? 竪穴住居も地域によって地面に土壁を作ったりいろいろな形があります 吉野ヶ里は小高い丘陵地にあり 水はけは非常によ いのですが 地面に染み込んだ水が 中からしみ出してくることもあります 当時の人々は 家を作るときに出た土を家の周りに積み 水止めとしていたようです また 家の内側の周囲に溝を切って ( 壁溝 ) しみ出てきた水や外から入ってきた水を溜め ( 入り口付近 ) そこから水を汲み出したりしたと考えられています 地形編 A 外環壕と内環壕が違うのはどうして? 環壕には外敵からの防御機能と場所ごとの役割を分ける機能 ( 区画 ) があります 外環壕は前者に重きを置いた構造で 内環壕 は後者に重きを置いた構造と考えられています 外壕 内壕 吉野ヶ里は集落全体が大きな壕で囲まれています 弥生時代 600 年の間に 集落が発展すると共に外壕も次第に規模を大きくして いったと見られ 最盛期には総延長 2.5km にも及ぶ大環壕として整備されます また 最盛期には北と南の 2 カ所に特別な区域が 設けられ 特に北にある特別な区域 ( 北内郭 ) は内壕が 2 重になっておりこの区域の重要性をより表しているようです 23
24 A 環壕の一番深い所は何メートルあるの? 確認している一番深い所は 深さ 3.5m 幅 6.3m ほどありますが 上部か削られており 当時は深さ 4.5m 幅 7m くらいあっ たとおもわれます A 掘るのに何人で何日かかったの? 長い時間かけ 何度も掘り直されて今の環壕の形ができあがっています 仮に環壕の長さを 2.5km 幅 7m 深さ 3m とすると 土量は 立方メートル これを当時の道具などを考慮に入れて計算すると 毎日 100 人が作業して およそ 495 日かかるという研究結果があります これは掘り上げるだけの計算で 土塁として盛り上げ 城柵を作る日数は入っていません A 環壕には水は入っていたの? 空壕です 吉野ヶ里は丘陵のうえに立地していますので 雨水が一時的にたまってもすぐに流れ出したと考えられています 環壕の高いところと低いところの高低差は 大きいところで 10m 以上もあり 雨水はすべて低い所に溜まった後 地面にしみこんだり蒸発したりしたものと考えています 歴史編 A 遺跡が見つかったきっかけは? 研究者の中では 古くからこの地に貴重な遺跡が眠っていることは知られていました 昭和 61 年から始まった工業団地開発に ともなう発掘調査で 吉野ヶ里が学術的価値の高い遺跡であることが確認されたのです 工業団地開発に伴う発掘調査により 約 40ha 以上という国内有数の大規模な環壕集落跡であることがわかりました また 弥生時代 ( 紀元前 3 世紀から紀元 3 世紀頃 ) の約 600 年間にわたり 小さな ムラ が大陸の文化を取り入れ やがて クニ の中心集落へと発展していく過程が分かる極めて学術的価値の高い遺跡であることが確認されました A 吉野ヶ里は邪馬台国だったの? 吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていません ただ 魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子とそっくりな建物 跡などが見つかっており 復元された建物等を通して 邪馬台国の様子を感じることはできる という意味では 邪馬台国のイメージに近い遺跡だということは言えるでしょう 物見やぐら跡や高床倉庫と考えられる建物跡 幾重にも巡らされた大小の環壕跡など 魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる遺跡が見つかっていますが 邪馬台国であるかは不明です 24
25 A 弥生時代以降の吉野ヶ里はどうなるの? 3 世紀の終わりから 4 世紀の始め頃 吉野ヶ里の集落は突然途絶えてしまいます 理由については様々な意見がありますが 吉野ヶ里集落の周りにある小さな集落は その後も残っている 環壕の中に 生活土器などを捨てて出ていっているなどから自分たちの意思でこの地を後にしたのかも知れません 古墳時代は 個人が大きな権力と富を持つ時代になりますが こうした社会の流れの中で 吉野ヶ里の人々も住む場所を変えていったのかも知れません 弥生時代の後の古墳時代には 個人が絶大な権力と富を持つ時代になりますが こうした社会の流れの中で 吉野ヶ里の人々も住む場所を変えていった と考える方いいようです 古墳時代には 南内郭及びその南方に 前方後方墳 が作られ 集落としての拠点がなくなることだけは はっきりしています その後奈良時代になると 墳丘墓の北側に 太宰府から肥前国庁 ( 国府 ) へとつながる官道 ( 当時の国道 ) が整備され その道筋に駅家 ( うまや= 馬を乗り継ぐ場所 ) や当時の役所なども整備されます さらに平安時代には 神埼周辺が 神埼荘 として整備され 日宋貿易の拠点としての港も整備されます そこには 歴史上有名な平清盛の父親である平忠盛が役人として赴任し 日宋貿易を私物化して多額の利益を得ていたことなどが 文献資料にはっきりと書かれています 弥生時代に限らず こうした古代から中世にかけて 日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきた土地であるいうことができます マスコットキャラクター A マスコットキャラクター兄妹の愛称はなあに? ひみか ( 兄 ) とやよい ( 妹 ) です 平成 10 年に全国よりマスコットキャラクターを募集し 応募の中から公園の基本テーマである 弥生人の声が聞こえる にふさわしい作品を選定しました 最終決定したマスコットキャラクターを公表し 平成 11 年に名称の募集を開始し 応募の中から関係機関の意見をふまえ ひみか と決定しマスコットキャラクター ( 兄 ) が誕生しました 平成 18 年の 5 周年記念イベントの一環として 継続して実施されている発掘調査で発見され 現代に蘇った とうい設定のもと 妹である やよい が誕生しました 応募者による説明では ひみか とは吉野ヶ里遺跡が 3 町村にまたがっていると言うことで 東脊振村 三田川町 神埼町の頭文字をとって命名 また 邪馬台国の卑弥呼もイメージしているそうです 25
26 環壕入口 吉野ヶ里遺跡の紹介 吉野ヶ里集落の 当時の東の正門と考えられている場所です 外壕を埋め立てて土橋を造り その内側には大きな門を備えていたようです また門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け ( 逆茂木 ) があったと考えられており この場所の重要性がよく分かります 守りの様子 東の正門を始め吉野ヶ里は外壕に 7 カ所 南北内郭に 3 ヶ所の入口が確認されています こうした入口では 兵士たちが厳重に警備をしていたと考えられます 手には敵の攻撃から身を守る盾と敵を攻撃する矛や弓を持ち また体には木で作った鎧を着ていたと考えられています 逆茂木 乱杭 先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて 敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていたと考えられています 吉野ヶ里では東の正門の他にも 一番重要な区域に近い門の左右などにこうした設備が見つかっています 吉野ヶ里遺跡では環壕集落東方の丘陵縁辺部の壕の内側に多くの柱穴が検出されました のり面に 逆茂木 存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く 敵の侵入を防ぐための乱杭や逆茂木の遺 構と考えられ 復元整備がなされています 26
27 外壕 吉野ヶ里丘陵の袖部を巡るように外壕が掘削されており 外壕で囲まれた範囲は南北 1km 以上 東西は最大で 0.5km 以上 面積は約 40ha と考えられています 基本的には丘陵袖部の傾斜が緩くなった部分に掘られていますが 北部では北墳丘墓を取り囲むように 丘陵部に上がっています 断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外は V 字形です なお北墳丘墓周辺の外壕については未発達のため遺構保存の観点から平面逆台形に復元しました 発掘時の規模は幅 2.5~3.0m 深さ 2m が一般的で 最大の部分は幅 6.5m 深さ 3m です 堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため 壕の外に土塁が存在したものと考えられます 環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭 南内郭に比べて規模が大きく 深く中世の城郭に見る 空堀 のような状態であり 防御的性格の強い施設と想定し 土塁上に柵列を設けました また壕との位置関係から 櫓であったと想定される建物跡に櫓を設置しました 門と鳥形 弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには 鳥の姿が描かれていることがあります また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており 当時の習俗的シンボルであったと考えられます 鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから 弥生時代 南内郭入口 ( 東側 ) 門に設置した鳥形 に穀霊信仰が存在したと推察されます 当公園においては佐賀県神埼市の 託田西分貝塚遺跡 の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入 口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています 穀霊信仰と鳥に対する崇拝 穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり 精霊信仰の一種です 稲作が開始された弥生時代に 縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰 観念が独自に発達していったことは当然推定されます それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など 各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます 鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます 鳥に対する独自の観念は 古語拾遺 や 古事記 日本書紀 などの古代文献でも認めることが出来 そうした観念は弥生時代に遡ると言えます 天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが 東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来 弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物 重層建物が多く描かれ 吉野ヶ里遺跡の祭殿 物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます 27
28 吉野ヶ里遺跡の紹介 南内郭 ~ 王や支配者層が住んでいた場所 ~ 吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃 吉野ヶ里の集落をはじめ 周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています 周囲を環壕と城柵で囲まれ 敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること 人々が住む竪穴住居が中心であること 当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから このように考えられます 南内郭の居住者達の性格 南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち かつ政治 行政を司った者たちであったと想定されます 南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており 青銅器や玉などの祭具の制作や調達を担っていた可能性が考えられます また 最高政治権者 ( 王 ) は祭司者の統括者としての役割も担っていたと考えられます 支配者層の住まい 南内郭には中央の広場を取り囲むようにたくさんの竪穴住居が建てられており これらは様々な役 割を担う支配者層の住まいであったと考えられています 物見櫓 南内郭には 4 棟の大きな高床建物があります これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており 兵士が南内郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられています 28
29 王の住まい 南内郭の北西部には柵などによって囲まれた特別な空間があります ここにある竪穴住居は王の家 をはじめ その娘夫婦の家や妻の家であったと考えられています 兵士の詰所 南内郭北西の環壕の外にも 1 棟だけ竪穴建物があります 環壕の中にある他の竪穴建物と構造が異なるこの建物は倉と市へと通じる門付近を警固する兵士た ちの詰所であったと考えられています 煮炊屋 吉野ヶ里遺跡では竪穴住居内の炉から煮炊きをした痕跡が見つかっていません 南内郭では竪穴住居の脇に小型の掘立柱建物が数棟見つかっており これが共同で煮炊きを行うた めの建物であったと考えられています 集会の館 王の住まいの向かいにある吹き抜けの大きな建物は集会の館です ここでは 南内郭に住む王をはじめ 支配者層 ( 大人 ( たいじん ) ) が集まり 様々な協議や会合 がおこなわれていたと考えられています 29
30 櫓門 南内郭の南には 南の守り と呼ばれる環壕や土塁 柵があり そこにある 2 箇所の出入口のうち の一方には大きな櫓があります この櫓門の上には兵士が立ち 下の門を通る人々を見張っていたと考えられています 大人と下戸 吉野ケ里歴史公園での遺跡の復元にあたっては 建物の復元だけでなく往時の生活や社会状況を想定した 生活復元 を目指しました このため 生活復元のための検討委員会において弥生時代の祭祀や集落居住者の身分 役割等について検討しました 魏志 倭人伝の記述等から 弥生時代の階層 職能 身分については 国の支配者として行政的な運営を担っていたと考えられる 大人 ( たいじん ) 一般的な身分である 下戸 ( げこ ) 最も下位の階層である 生口 ( せいこう ) と分類されました この南内郭は 物見櫓が配置されるなど 祭事の中枢である北南郭と同じ構造をもちながら複数の竪穴建物や土器 鉄器などの生活用具が豊富に出土していることから 吉野ヶ里の クニ の 大人 ( たいじん ) 層の居住区であり 世俗的な政治支配を担う最高政治権者である 王 と 統治機構を分担して担う クニ の支配者層が暮らしていたと考えられます 大人層は 一般的な農業労働には従事せず その監督や生活的 行政的活動を主たる仕事としていたと想定され こうした大人層の人々が暮らす南内郭では広場に男性達が集まり 集会を行う様子や女性達が料理などの一環として労働奉仕を行う一般身分 ( 下戸層 ) の人々の姿もあったと考えられます 発掘 弥生時代後期後半から終末には内壕の範囲が拡大して 平面角丸長方形に近い区域を囲むように掘り替えられ 西と北にそれぞれ 1 箇所の計 4 箇所の物見櫓を配した空間が形成されました 弥生時代後半には外環壕と内壕の間の空間にも存在していた竪穴建物の大半はなくなり 一部を除き 内壕内に集中して存在するようになりました 弥生時代の終末期になると 内壕 外環壕とも埋没し 一帯の竪穴建物や高床倉庫群は存在しなくなり 古墳時代初頭になると 内壕の南東部に重 複し さらに南方には前方後円墳や方形周溝墓群が築造され 弥生時代末 まで高床倉庫群が存在していた外環壕西側に竪穴建物を主体とする集落が 南内郭発掘調査中写真 ( 版権 : 佐賀県 ) 営まれました 南内郭一帯は S62 S63 年度にかけてと H14 年度末に実施された再発掘調査より その概要が明らかになりました この地区は発掘前までは畑地としての土地利用が盛んにおこなわれていたために削平が著しく 特に南部については遺構確認に困難を極めました 南内郭の南部は後世の著しい削平のため 遺構の確認が出来ませんでしたが 多数の土器群が出土していることから 現在復元整備されている建物よりもさらに多くの竪穴建物などの施設が存在していた可能性が高いと考えられます 30
31 吉野ケ里歴史公園は弥生時代後期後半を復元対象としていることから この南内郭についても遺構の分布状況や重複関係 近接度 出土遺物などから 弥生時代後期後半 ~ 終末に同時に存在したと推定される遺構を抽出して復元されています しかし弥生時代前期から中期 後期へと徐々に次のように集落がつくり変えられてきたことが明らかとなっています 弥生時代前期末 ~ 中期初頭には北部と南東部で竪穴建物と穴倉からなる集落が営まれますが その間の段丘尾根部は削平がひどく 両者が同一集落であったかどうかは不明です また この時期に 東部方向尾根上の南部で甕棺墓や土壙 木棺墓による埋葬が開始されました 弥生時代中期前半には墓域を北へ拡大し 中期後半まで列状に埋葬が継続されました 弥生時代中期前半から後期初頭にかけての竪穴建物も ほぼ同じ区域を中心に幾つか存在し集落は継続していたと考えられます 弥生時代後期初頭になると 外環壕が掘削され その内部の段丘上に竪穴建物はその内外に営まれました 物見櫓を伴う内壕が掘削され 弥生時代後期後半まで 竪穴建物はその内外に営まれました 弥生時代後期後半から終末には内壕の範囲が拡大して 平面角丸長方形に近い区域を囲むように掘り替えられ 西と北にそれぞれ 1 箇所の計 4 箇所の物見櫓を配した空間が形成されました 弥生時代後半には外環壕と内壕の間の空間にも存在していた竪穴建物の大半はなくなり 一部を除き 内壕内に集中して存在するようになりました 弥生時代の終末期になると 内壕 外環壕とも埋没し 一帯の竪穴建物や高床倉庫群は存在しなくなり 古墳時代初頭になると 内壕の南東部に重複し さらに南方には前方後円墳や方形周溝墓群が築造され 弥生時代末まで高床倉庫群が存在していた外環壕西側に竪穴建物を主体とする集落が営まれました 吉野ヶ里の竪穴住居の概要 平面形態 規模 長方形で中央の炉を挟み主柱穴が左右に 1 本ずつ 計 2 本のものが一般的です 規模は長軸が 6 メートルから 7 メートル程度 短軸が 3 メートルから 4 メートル程度のものが最も多いです 壁に沿って溝 ( 壁周溝 ) があるタイプとないタイプがあります 付属施設 床面より一段高い いわゆる ベッド状遺構 が存在する住居跡が多いです ベッド状遺構は 片側のみにあるタイプと両側にあるタイプがあります 規模は幅がおよそ1メートル前後 高さが 10~15 センチ程度である 梯子を固定したと思われる穴を有するものがあり その位置から これはおそらく出入り口部にあった上り下りのための梯子と考えられます これから入り口部はおおむね広場に面していたことが確認できます 炉は 煮炊きした痕跡が乏しく 煮炊きに使用する際に 土器を支えるために使用したと考えられる支脚が住居跡内より むしろ環壕内から多く発見されることから 調理は屋外で行い 炉は屋内の灯りおよび暖をとるために使用されていた可能性が高いです したがって 竪穴住居に隣接して調理を行うための 釜屋 のような施設が存在したと推定されます 31
32 空間の利用形態 民族事例では定住を行う民族の多くが住居内の空間を一定のルールに従って利用しています 例えば北海道アイヌのチセは中央に炉があり 入り口から見てこの炉の左手は主人夫婦の座 右手は子供達などその他の家族の座であることが一般的です また入り口手前が女の席であり 奥が男の席です 奥には祭儀の際に神が出入りするとされる神窓が存在します こうした状況から アイヌのチセでは入り口から見て左上位 右上位 奥上位 手前下位の概念で住居の利用形態が規定されていることを窺うことができます こうした住居内の空間を上位 下位に分ける概念に加えて 公的な空間と私的な空間が区別されている場合も多く 食事や接客の空間が公的な空間 就寝する空間が私的な空間となっている例が最も一般的です こうした民族事例を参考に 吉野ヶ里の住居では入り口より見て左側を上位空間 右側を下位空間と想定しました これは日本では左大臣 右大臣の例を見るように 左上位 右下位の概念が古く存在可能性が高いこと アイヌや東南アジア稲作民など日本列島に近い民族事例にこの例が多いことを一つの拠りどころとしました また住居の奥を上位 手前を下位と想定しました これも 現在まで儀式の席での席次がこうした概念に規定されており 古くから一般的な概念であったと推定したことによります またベッド状遺構を就寝空間 すなわちプライベートな空間とし 炉を囲む空間を公的空間と考えました 現在までのところ ベッド状遺構を就寝空間とする確たる証拠は発見されていませんが その規模 形態は就寝空間を思わせるものです また弥生時代後期末の生活状況 特に吉野ヶ里環壕集落のような クニ の中心的集落の生活状況は既に 住居の内部に私的空間と公的空間が存在するものであったと想定でき この観点からベッド状遺構は就寝空間であると想定しました 家族の居住形態 古代日本の家族制度については様々な研究が成されていますが 未だ不明な点が多いです 戸籍 計帳が家族の実体を反映しているとする説 ( 夫婦と子供を基本とする核家族的家族 ) 社会人類学的な親族名称体系から双系制であるとする説 歴史民俗学的立場から父系制であるとする説 反対に母系制であるとする説 また 文化人類学的に単婚的家族が世界的に家族の基本であるとする説などです また考古学の立場から 弥生時代後期の近畿地方では同じ文様 制作手法の土器が広範囲にわたり分布しており ここから土器の製作者である女性の移動すなわち嫁入りが推定でき 父系的外婚制の社会であったとする説もあります 万葉集 や 古事記 日本書紀 の記述から 古代日本の婚姻は夫婦別居の妻問婚であったとする説が通説化しています ただ ツマ は本来一対の男女の片方を指す言葉であり 万葉集 には 女性の妻問婚も少数ながら書かれています 魏志 倭人伝には 父母兄弟臥息異処 という記述があります これには様々な解釈が可能ですが 父母 とおそらくは結婚している兄弟が別々に住んでいるという解釈が最も一般的です また 大人皆四五婦下戸或二三婦 という記述があり 一夫多妻制であったことが描かれています しかし多くの民族 民俗事例で二人以上の妻を持っているのは経済的に余裕のある階層の男性に限られていることから 倭人伝の下戸に対する記述は 下戸も二 三人の妻を持つ ではなく 下戸のなかにも二 三人の妻を持つ者がいる と解釈するのが妥当であるとされています 記紀 などによると 姉妹で同じ夫に稼ぐ 姉妹連婚 も存在したようです これに対して民俗学と古代文献の解釈から古代日本は多夫多妻の社会で夫婦関係が固定していなかったとする説もあります 32
33 弥生時代の竪穴住居は基本的に構造やサイズが同時期のものはほぼ同一です これは吉野ヶ里遺跡でも同様です これは各竪穴住居にそれぞれ類似した家族構成の人々が住んでいたことの反映と捉えられます 祖霊祭祀の出現という背景には父系ないし母系の血縁をある程度たどることが支配者層では行なわれていたと想定され 非単系出自集団を基礎としていたことが想像できます 33
34 吉野ヶ里遺跡の紹介 北内郭 ~ まつりごとの場所 ~ 吉野ヶ里集落だけでなく 吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています 田植えや稲刈りの日取りを決めたり 季節ごとのお祭りの日を決めたり また大きな 市 を開く日取りを決めるなど 吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています また当時は 重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者 ( 祖先 神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人 ) に祖先の声を聞いてもらい その声に従って決定していったと考えられています 主祭殿 吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり 祖先の霊への祈りや祀りを行ったりし た 中心的な建物と考えられています 主祭殿は吉野ヶ里環壕集落内で最大規模の建物であり その主軸が北墳丘墓と南墳丘墓を結ぶ南北軸に一致する建物であることから 北内郭でも祭祀性が高く 北内郭の祭祀の中心となる建物と推定しています 柱の太さ 間隔から 3 層 2 層建ての高床建物となると考えられ 古代中国の建物に関する記録や民族 ( 俗 ) 例等から 中層と上層は異なる機能を持っていたと想像できます 中層部分は政治の場と想定し また 祭りの際には直会の場としても利用された物として 共同体にとっての重要な決定を行う際の支配層の集会を行う場としました 上層部分は南北の主軸が一致する建物はもっとも祭祀性の高い場であったことが考えられるため 最高祭祀権者が祖霊に安寧と豊饒の祈りをささげる場として復元しました 主祭殿 2 階 吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており 吉野ヶ里の王や リーダーたち さらには周辺のムラの長が集まっています 34
35 主祭殿 3 階 祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています この結果は従者によっ て 2 階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられます 鍵形に折れ曲がった入口 真っ直ぐ入ってこられないように鍵形に折れ曲がった構造をしています こうした造りは古代中国の 城郭都市に多く見られ 吉野ヶ里が大きな影響を受けていることを示しています 屋根倉 高床住居 高床倉庫 屋根倉 神に供える稲穂や 次の年にまく種籾などを収めていたと 考えられます 高床住居 正方形に近い 特殊な形をした高床の建物です 主祭殿の近くに位置していることから 倉庫ではなく 普段は人前に姿を見せなかったと言われる最高司祭者の住まいだったと考えられています 神聖な人が住む場所であることから 1 階部分についても網代で囲われ 建物全体が閉鎖的な空間になっていたようです 高床倉庫 北内郭に接する場所に建てられている高床の建物です 北内郭や北墳丘墓での祀りに使われる道 具や宝物などの貴重な品々が収められていたと考えられています 35
36 東祭殿 斎堂 物見櫓 東祭殿 夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にある高床の建物です 太陽の動きを知るための建物で ここでは季節ごとの祀りが行われていたと考えられています 斎堂 東祭殿と主祭殿の間にある高床の建物です 主祭殿の祀りの前に身を清めたり 祀りの道具を保管する場所として使われていたと 考えられています 物見櫓 環壕が外に張り出している部分が 4 ヶ所あり ここで見つかった高床の建物です 周囲を見張る役 割に加え 神聖な空間である北内郭の性格から 四方を祀る意味も持っていたと考えられています 環壕 中壕 外壕は 丘陵袖部を巡るように掘削されており 外壕で囲まれた範囲は 南北 1km 以上 東西は最大で 0.5km 面積は 40ha 以上と考えられます 基本的には 丘陵袖部の傾斜が弱くなった部分に掘られていますが 北部では北墳丘墓を取り囲むように丘陵袖部に上がっています 断面形態は 南西部分は逆台形 それ以外の部分は V 字形を呈します 規模は幅 2.5m から 3m 深さ 2m 前後が一般的で 最大の部分は幅 6.5m 深さ 3m を測ります 堆積土層に関しては 地形的に低い壕の外からも地上ローム土が堆積しているため 壕の外に土塁が存在していたものと考えます 中壕 内壕の 2 条の壕によって囲まれています 断面形態は いずれも逆台形で 壕内の堆積土層から 外壕と同様に壕の外側に土塁を設けていたと考えられます 外壕より規模が小さく 防御的性格より 範囲を画する結果的な機能を有するものと考えられます 他の遺跡を参考に 祭祀的性格の強い北内郭の機能を考慮して 壕の外側に土塁を設けその上に 坂塀を設置することとしました 36
37 周囲を囲む板壁 北内郭が極めて重要な場所であるとの想定から 中をのぞくことができないよう 隙間のない板壁で復元されています 北内郭では 南西部に中壕 内壕ともに 壕の腰の土橋の出入り口が設けられています 中壕と内壕の位置がずれていることから 鉤型に折れ曲がった通路や柵列跡が検出されています 祭祀的性格の強い北内郭の機能を考慮して 北内郭の門は 扉を伴う形態としました 北内郭居住者の役割 北内郭には 最高司祭者とその従者がいたと想定しています 従者の存在は先述した 魏志 倭人伝の卑弥呼のもとに唯一人 出入りする男子がいたとの記述に従って想定しています この従者は 最高司祭者の神がかりとなった言葉を聞く役割を果たしていたと想像できます 北内郭の祭祀 北内郭から北墳丘墓および周辺の区域は集落内でもっとも祭祀的性格が強い場所であり クニ の中核的集落であることから 祖霊への豊饒祈願や冬至 夏至など節気に関連する祭祀など 様々な祭祀儀礼が行われた場所であるとともに 祭政を司る祭祀権者とこれに従う一般祭祀者による祭祀儀礼を中心とする生活の場であり 祭祀を総括する最高祭祀権者もここに居住していたと考えられています 北内郭は吉野ヶ里環壕集落の祭祀儀礼の中心地であり 祭祀を中心に様々な祭祀儀礼が行われていたと考えられます 日常は北内郭に住む祭祀権者が 主祭殿の 3 階に設置された祭殿に向かい 祖霊に対して豊穰と安寧を祈る儀礼を日々行ったと推定できます また天災や戦争等の非日常的な危機に見舞われた折や重要な政治的決定を行う時には 祭祀権者は ここにこもり 祭壇の前で祖霊と交感し 祖霊の託宣を聞くための儀式 ( 神がかりの儀式 ) を行ったと考えられます こうした時 主祭殿の 2 階には政治権者や支配層 ( 大人層 ) の人々が祭祀権者の託宣を聞き 政治的決定を行うため集まっていたことでしょう 作物の豊かな穰りのために天候を占うことも祭祀権者の大切な役割であった可能性が高いです 殷代の中国の王は 10 日ごとに次の 10 日間の天候を占ったとされていますが 吉野ヶ里環壕集落の祭祀権者もあらかじめ定められた日ごとに物見櫓に登り 四方の空を見て天候を占った可能性も考えられます 農耕儀礼とあわせた冬至 夏至等の季節の祭りの時には 祭祀権者は斎堂にこもり潔斎を行い 東祭殿から太陽を遥拝するなど定められた様々な儀礼を行い 祭りの後には主祭殿の 2 階で直会が執り行われたと想像できます また北内郭の広場やその周辺で 夏至や冬至の日に中国の例にならって日影測定の儀式が行われたことも考えられます 37
38 北内郭の中心線 北内郭の形は英語のAの形に似ています この形は真ん中からちょうど左右対称に分かれる形をしていますが この左右対称に分ける線については夏至の日の出と冬至の日の入の点を結ぶ太陽の運行線に合っていると言われており 当時の人々の精神生活を知る上でとても興味深いものと言えるでしょう 復元の考え方 経緯等 北内郭発掘調査中 ( 版権 : 佐賀県 ) 基本形態 復元形態を策定するため 参考とした絵画土器や家屋文鏡には 重層楼閣 や特徴ある建物の様子や棟 軒先飾りおよびシンボルの鳥が描かれており 弥生時代の建物をうかがい知る有力な資料となりました 遺構の柱間隔 柱太さや柱穴の深さ等の検討により H5 年に奈良県田原本町の唐古 鍵遺跡から発見された絵画土器に描かれている 3 層 2 層建ての楼閣建築を想定しています 図 16 家型文鏡に描かれる高床建築 ( 出典 : 国営吉野ケ里歴史公園建物等復元基本設計報告書 : 平成 9 年 3 月 ) 構造形式 吉野ヶ里遺跡の中で最も各の高い建物と考えられることから 当時の最新の技術である総柱型の台輪式の高床建築としました また 2 階床高さ 4.5m の高床建築であり 2 階床下部には構造的に有効な水平材 ( 貫 ) が柱に差し込まれていたものと想定しました 38
39 平面形態 3 間 3 間 (12.3m 12.7m) の方形で 一般の弥生時代の堀立柱建物とかなり異なる特殊な形態でした 柱穴形は大規模であり 一部の穴は階段状に掘られており 柱痕も直径 40~50 cmと太い柱が確認されました また 堀形の土は版築 ( はんちく ) 状に非常に賢く締め固められていました 柱間隔は 1 間あたり 4m 前後あり 建物の地上部の高さはおよそ地中部の 2~3 倍以内と考え 台輪を乗せた柱高さを柱間とほぼ同じ高さ ( 約 4.2m) と想定し 中総の床高さを 4.5m としています 屋根の形態 最も格式の高い建物であり 板葺き 草葺き 構造形式や屋根形態の組み合わせによる計画案を作成し 復元検討委員会において 比較検討を行い 建物の形態的 構造的にバランスの取れた計画案を策定しました 検討委員会での検討の経緯 ( 第 1 段階 ) 高さのある建物であるので 風圧を考慮すると 上層部は切妻より寄棟の方が影響は少ない 中層部の屋根をなくして単層とすると 屋根の面積が大きすぎて おさまりが難しい 以上のことから 寄せ棟で単層の屋根形態とする方針が確認されました また 主祭殿の性格 機能における検討から 上層が祭祀儀礼に使用されると考えるのであれば 壁をつけ閉鎖的な空間にするのが適当ではないか 草葺き屋根の検討案と比較してはどうかの意見により 第 2 段階での比較検討が行われました 版築 ( はんちく ): 土壁や土壇の築造法で 板で枠をつくり 土をその中に盛り 一層ずつ杵で付き固めるもの 古く中国の竜山文 化に始まり現在まで継続 ( 広辞苑 ) 図 22 比較検討第 1 段階の各案 39
40 検討委員会での検討の経緯 ( 第 2 段階 ) 中層 上層ともに草葺きとして 雨じまい ( 雨漏り ) を考慮した屋根勾配を持たせると 建物が高くなりすぎる また 屋根が高くなりすぎないようにするためには 勾配が緩くなる板葺きが考えられるが 板葺きは草葺きと比べて技術的に難しく 上層部分を板葺きにすると 雨じまいの処理に問題がある 以上のことから 上層を草葺き 中層を板葺きとする方針が確認されました また 棟の転びは 古墳時代に入ってから顕著になることから 棟の転びをおさえた形態とする 家屋文鏡等の参考例より 壁は綱代でなく 板壁とする 中層は集会等の多人数で利用されていたことを考慮して 内部空間が大きく取れるよう段階を端に寄せる平面計画とする 上層は 祖霊に豊饒を祈る場とする方針が定められ 民族例より薄暗い空間となるとの指摘を踏まえて 祖例を祀る北側のみ窓を設ける計画とする 以上の意見を元に 第 3 段階として 次の基本設計案がとりまとめられました 図 23 比較検討第 2 段階の各案 検討委員会での検討の経緯 ( 第 3 段階 ) 北内郭の中軸線が 夏至の日の出と冬至の日の入り位置を結んだ線と一致することが確認され 北内郭の祭祀性がより明確となったことから 復元検討委員会の見解を踏まえて 祭祀的な荘厳さを表現した意匠として 以下を最終決定としました 構造形式は 当時の最新技術である総柱型の台輪式の高床建築とした 中層床下部には 島根県上小紋遺跡( 弥生時代 ) から出土した柱材等を基に想像される 構造的に有効な貫 ( 水平材 ) を設けた 地上部の高さは 台輪をのせた柱高さを柱間とほぼ同じ高さと想定し 中層の床高さを 4.5m とした 壁は板壁とし 出土したチョウナ ( 当時の鉋 ) を根拠とし チョウナ仕上げとした 屋根の形態は上層部を寄せ棟草葺き中層部板葺きとした 図 24 基本設計案 綱代 : 竹 葦または櫓等を薄く削ったものを斜めまたは縦横に編んだもの 垣 屏風 天井などとし または笠 団扇に作り 牛車 輿の屋形 天井にはる ( 広辞苑 ) 40
41 東祭殿 東祭殿は 北内郭の中軸線である夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上に位置することから 冬至 夏至 春分 秋分を中心とする節季の祭りに関係した施設と考えられます 大嘗祭( だいじょうさい ) 等からの事例から 冬至の日などに祭祀権者が初穂とともに ここに籠もり再びここから出ることにより 穀霊の復活を象徴させ 冬至 夏至の日に 祭祀権者がここから太陽を遙拝するなどの行為を行う建物として復元しました 高床住居 ( 祭祀権者の住まい ) 魏志倭人伝 等の記述では 当時のクニの最高祭祀権者は人前にめったに姿を現さなかったことが示されており 祭祀権者 の居住の場は 北内郭の中に存在したと考えられます 41
42 祭祀権者の公的儀礼の場と 私的生活の場が同一建物内にあるとした場合は 主祭殿が比定されますが 弥生時代の建物は一棟一機能であった可能性が高く 民俗事例や文献資料においても 祭祀儀礼の場と 生活 居住の場は分かれていることが一般的です この高床式建物は 倉庫とは異なる正方形に近い平面形態であり その配置から主祭殿との関わりの強い建物を考えられるため 祭祀権者の住居と想定しました 祭祀権者の住居は 当時の最新技術である台輪式の高床建築とし 家屋文鏡に描かれた建物を参考として復元しました 1 間 3 間 (4.1m 6.7m) の 8 本柱建物 梁行 1 間 桁行 2 間の高床建物で 祭祀権者の住まいと想定されることから 冬至の最新技術である台輪式の高床建物とし 1 階部分に板壁をつけました 梁行が広く 台輪が構造的に保てないため 床束を設けました 屋根勾配は草葺のため 45 としました 仕上げは 壁は横板チョウナ仕上げ 1 階部分の壁は 家屋文鏡に描かれた高床建物を参考に 綱代を用いることとしました 屋根は草葺きの本葺きとしました 堅穴建物 ( 従者の住居 ) 内郭内の弥生時代後期後半 ~ 終末に属するものとして ただ 1 棟検出された竪穴建物です 祭祀権者の住まいに近接する配置関係から 魏志倭人伝 等の記述を参考とし 祭祀権者の最も身近に使え その世話にあたる従者の住居として復元しました 5.4m 7.02m の長方形です 最高司祭者に使える従者の住居と想定しました 主柱 4 本に井桁を渡し これに垂木をかける 屋根は寄棟で 風格を持たせるために 棟覆は杉皮葺を綱代で押さえる 外壁は横板を杭で止める形としました 42
43 物見櫓 北内郭の物見櫓は 南内郭の物見櫓と同じく環壕突出部に配置されており その平面形態も同一であることから H 元年に南内郭において佐賀県教育委員会により仮復元された物見櫓と同様としました しかし 北内郭における物見櫓は 催事の中心的な役割を担う場所にあることから 単なる見張り台の機能だけでなく 四方をまつる祭祀的な性格も持ち合わせた建物と考えられ 祭祀儀式の場として利用されたことを考慮して上層部に壁を設けました また 高さのある建物であることから 風の影響を考慮して屋根は寄棟としました 物見櫓の壁は 絵画土器に描かれる形態を参考として 板壁を設置しました 1 間 2 間 (3.1m~4.1m) の 6 本柱建物 推定される柱の深さが深く 基礎 ( 枕木 ) の痕跡があること その配置から物見櫓と考え高さのある通柱式の建物としました 弥生時代の絵画土器に表現される建物形態を参考に 高さのある建物として 風の影響を考慮し 屋根は寄棟としました 屋根勾配は草葺のため 45 としました 北内郭の物見櫓は 4 棟とも祭祀儀礼の場として使用されたりする機能を考慮して 上層部に壁をつけることとしました 仕上げは 壁はチョウナ仕上げ 屋根は寄棟 草葺きの本葺きとしました 北内郭西方の高床倉庫群 北内郭西方において検出した 4~8 本の掘立柱による 6 棟の建物群跡は 南内郭西方に検出した建物群と同様に 宝物 穀物や農具等を保管するための高床倉庫と考えられています 古墳時代の家型埴輪には 一般的な高床倉庫な形態の他に屋根倉形式があります また 4 本柱の高床式建物は弥生から古墳時代における西日本一帯から多く発見されていることから 弥生時代においても 2 つの倉庫形態があったことが考えられます 4 本柱による高床式建物は 簡易な構造形態となり 屋根倉の形態に適します このため 高床倉庫群のうち 4 本柱の建物は高床屋根倉とし 他の建物は高床倉庫として復元しました 高床倉庫は祭祀の道具の倉庫 道具の倉 織物や衣類の倉庫 供物の倉庫 稲穂の倉庫などに使われていたものと考えられています 斎堂 夏至の日の出 冬至の日の入りの線にその主軸がほぼ並行するように配置されており 主祭殿 東祭殿との中間とも言うべき場 所に位置しています 43
44 このことから 祭祀儀礼に関する建物として 古代中国の事例から 祭りの際の潔斎 ( けっさい ) また 祭りにともなう道具類が置かれた場 斎堂であると想定し 復元しました 1 間 2 間 (3.3m 5.5m) の 6 本柱 単層の高床建物であり 北内郭の祭祀に関わる重要な建物の一つであることから 冬至の最新技術である台輪式としました 梁行が広く 台輪が構造的に保たないため 床束を設けました 屋根勾配は草葺きのため 45 としました 仕上げは 壁は横板チョウナ仕上げ 屋根は切妻 草葺きの本葺きとしました H13.3 完成 44
45 吉野ヶ里遺跡の紹介 北墳丘墓 ~ 歴代の王の墓 ~ 吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています このお墓は人工的に造られた丘で 違う種類の土を何層にも積み重ね しっかりと突き固められて造られており とても丈夫な構造になっています 中からは 14 基の甕棺が見つかり ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました このお墓は弥生時代の中頃 紀元前 1 世紀のものです が その後はお墓としては使われなくなり その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切に 北墳丘墓内部展示状況 されていたようです 有柄把頭飾銅剣とガラス管玉 立柱 墳丘墓から見つかった 14 基の甕棺の中の一つから見つかった副葬品です 銅剣は普通は手に握るところは木で作られており このように全部が青銅で作られているのはとても珍しいものです またガラスの管玉は中国の原料が使われていることまでは分かっていますが 製作されたのが日本か中国かは分かっていません こうしたとても貴重な品物であることから この甕棺に葬られている人の身分の高さがうかがえます 北墳丘墓の正面にある長い柱を 立柱 と呼んでいます 祖先の霊が宿る柱と考えられており シンボル的な役割を果たしていたようです 立柱の穴跡は径 1.4~1.8m 深さ 1.1mでした このことから 立柱の径は 50 cm 地上部は概ね 7mであったと推定されました 諏訪退社の御柱等の民族事例を参考に 彫刻のないまっすぐな柱として復元しました 45
46 祀堂 墳丘墓に眠る祖先の霊に毎日お供え物を捧げ お祈りをするための施設と考え られています 墓道 墳丘墓に眠る祖先の霊にお参りするために環壕の外からやってくる人々のために設けられた専用の 道であると考えられています 北墳丘墓の南側に付随する道は北墳丘墓にお参りにいくための道と考えられています 墓道内からは祭祀土器や枝のついたままの細い木の棒数本分が出土しました この道は外環壕の外から伸びており 吉野ヶ里集落だけでなく周辺の集落を含めたこの地域全体の 国 の人々が北墳丘墓にお参りに来ていたものと考えられます 祭祀 祖霊が眠る場所として 吉野ヶ里環壕集落の人々の祈りの対象となったであろう北墳丘墓には朝夕 祖霊への供物が捧げられたと考えられます 北墳丘墓全面から出土した祭祀用の土器や東側の大型土壌より出土した多量の土器はこうした供献が行われたことを示すものでしょう 北上位 南上位 の構造をもつ吉野ヶ里環壕集落のなかで最も格の高い場所であったと考えられることから 日々の供献を行うのは 一般人 ( 下戸 ) ではなく 祭祀に従事する祭司者であったと推測できます 北墳丘墓前面や祀堂では朝夕 火を焚いた後が発見されており 祭りの際に日を利用した儀礼が行われたことが推定できます こうした日を利用した儀礼として古代中国では生犠を殺し これを焼いて天に捧げる儀礼が冬至祭天の折などに行われており 中国より新しい祭祀の要素を取り入れたと考えられる弥生時代後期後半の吉野ヶ里集落でもこうした儀礼が行われた可能性があります 弥生時代には銅剣 銅矛 銅鏡などの副葬品や墳丘などを備え 継続的に祭祀が行われた 墓 が出現します こうした墓の出現は弥生社会の階層分化の状況を物語るとともに 特定の死者 ( 首長霊 ) に対する社会的な祭祀が出現してきたことを物語っています 弥生時代に新しく出現してきたこうした状況は縄文時代の死霊信仰を基盤としながら 新たに生成してきた 祖霊 信仰の表れとみることができます これは農家社会の成立に伴い 一定の土地で世代をわたって労働と収穫 ( 豊饒 ) が継続していくなかで成立してきたものでしょう 死者の霊全般に対する死霊信仰に対し 祖霊信仰は父方か母方かは別にして 特定の先行世代の死者が系譜的に現成員に連なり 現成員の生活に影響を及ぼすという観念が明確になったものです 重要なのはこうした 祖霊 に対する信仰が階層分化に伴って首長制と結びつき 支配原理として発展していったと考えられることです 首長霊を 祖霊 として祀り特別な聖性を付加することはその霊力を背景とした支配者の支配力をも高めることとなります 福岡県吉武高木遺跡の青銅器を副葬する甕棺墓が集中する墓域とこれに面した大型堀立柱建物 ( 前期末から中期初頭 ) 福岡県須玖岡本遺跡の青銅器を多量に副葬する墳墓 ( 中期 ) 佐賀県柚比本村遺跡の青銅器を副葬する甕棺墓群と大型堀立柱建物 これと一直線上に並ぶ祭祀土坑 ( 中期から後期初頭 ) など 青銅器の副葬品を有した墓とこれに関連すると考えられる大型建物の存在は特定の死者 ( 首長霊 ) を 祖霊 として祀ることが弥生時代に出現してきたことを裏付けています 46
47 多くの民俗学者が大嘗祭の儀礼のなかで指摘する 天皇霊の継承により新天皇が誕生するという不滅の霊魂 天皇霊 と これを継ぐ肉体としての天皇の聖性の観念の原型とも言える不滅の首長霊と現実社会を媒介する聖なる支配者の観念が弥生時代に生成していったと考えられます 吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の築造と北墳丘墓 南祭壇を北端 南端付近に取り込んだ環壕集落の成立 さらに北内郭の成立はこうした 祖霊 信仰を支配原理とした弥生時代の世界観を遺跡としてよく表しています さらにそこには北に祖霊を祀る 宋廟 南に天壇を置く中国の都城の影響を窺うこともできます 吉武高木遺跡や柚比本村遺跡などにみられる弥生時代の首長墓と大型建物等で構成される一帯もこうした 祖霊 を祀る 宋廟 に近い祭祀的性格であったと推定できます また弥生時代中期後半には北部九州に鏡を副葬した首長墓が表れます 吉野ヶ里遺跡の長大な列埋葬と墳丘墓の造営などにみられる階層分化と地域的政治社会 ( 国 ) の成立を前提に捉えると この時期に世俗的権威と祖霊祭祀権とが首長といったひとつの身分に体現される状況が確立したことが窺えます 鏡は祖霊の依代としての祭器で 祖霊祭祀を主とする司祭者としての身分と権威ある首長としての身分を表すものとして副葬されました この習俗は祖霊祭祀の発展 地域的拡大と共に古墳時代へと引き継がれていきました 鏡の祖霊祭祀としての伝統は 日本書紀 の 景行記 仲哀記 に地方豪族の天皇への服属儀礼や 出雲国造神賀詞 の和魂の依代としてのあつかいに見ることができます 埋葬 墳丘墓とは土あるいは石を積み重ねて丘のような形 ( 墳丘 ) とした墓です 吉野ヶ里遺跡の環壕集落北部に位置する北墳丘墓は弥生時代中期前半 ~ 中頃にかけてつくられ 南北約 40m 東西約 27m の長方形に近い形態で その高さは 4.5m 以上あったと考えられています 発掘調査中は写真のように遺構面まで掘り下げられましたが その後に遺構の保存のため一旦埋め戻されました 遺構面の保護処理方策 管理方法等の実験等 検討が重ねられ 発掘当時の状況を公開する施設として設備が進められ H20 年 2 月に再び公開されました 北墳丘墓の南側に付随する道は北墳丘墓にお参りにいくための道と考えられています 墓道内からは祭祀土器や枝のついたままの細い木の棒数本分が出土しました この道は外環壕の外から伸びており 吉野ヶ里集落だけでなく周辺の集落を含めたこの地域全体の 国 の人々が北墳丘墓にお参りに来ていたものと考えられます 規模 平面形 南北約 40m 東西約 27m 以上の長方形に近い形と推定されます 高さ 黒色土を 1.2m 盛った土に幾層にもさまざまな土を盛った小山を積み重ねて築かれ 現存高 2.5m ですが 元来は 4.5m 以上の高さで あった可能性があります 埋葬の時期 弥生時代中期前半から中頃 (2200 年 ~2100 年前 ) 47
48 埋葬の特徴 ( 一般の甕棺墓地との比較 ) 大人の甕棺 大人用 ( 子供用なし ) 外側 内側を黒色顔料 ( 漆または炭化物 ) で真っ黒く塗る 銅剣や管玉 絹など高い身分を示す副葬品が出土 甕棺の埋葬密度が低い イメージ図 銅剣 ガラスの管玉 北墳丘墓内では 複製を展示しています 被葬者 埋葬の特徴から 歴代の主張など高い身分のものと考えられます 人骨の出土 14 基中 6 基から歯と骨片が少量出土しました 弥生時代後期の墳丘墓 弥生時代の終わり頃には墳丘墓に眠る首長たちの霊は北内郭の祭殿で 壮大にまつられていたと考えられます 埋葬手順 1. 墳丘の頂部から 2m 程穴を掘り さらに掘り下げた穴から横穴を設 けます 2. 掘った横穴に甕棺をひとつに据 えます 甕棺の中に死者を埋葬します 3. 蓋となる甕棺をかぶせ継ぎ目を 粘土でふさいで埋め戻します 甕棺による埋葬方法は現在 日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法です 48
49 他の埋葬方法 埋葬の特徴から 歴代の主張など高い身分のものと考えられます 土坑墓 ( どこうぼ ) 木棺墓 ( もっかんぼ ) 箱式石棺墓 ( はこしきせっかんぼ ) 吉野ヶ里遺跡から発見された甕棺墓が約 3,100 基以上に対し 時代 身分の差などにより埋葬方法が異なる墓が 400 基以上見つかっています 墳丘築造技法 北墳丘墓の構造には 当時としては非常に高度な盛土技法が用いられています このような技法は中国から伝来したものと考えられ 日本では他に例を見ない技法です 北墳丘墓においてこの技法がみられることから 大陸の知識をもつ人が弥生時代中期に既に関わっていた可能性があります この築造技術を示す版築の跡は 北墳丘墓内の遺構面の見学通路から見ることができます 築造の流れ 1. 決められた広さの中で まず周囲 に土まんじゅうをつくる 2. 周囲の土まんじゅうをつなぎ 内 側にさまざまな土でまんじゅうを つくる 3. 形を整えたら その上にさらに土まんじ ゅうをつくる 土まんじゅうをつき固めな がら 一定の高さまでこれをくりかえす 49
50 発掘調査 保存 吉野ヶ里遺跡の発掘調査は昭和 61 年に始まり 平成元年の 2 月に大々的に全国に報道され 邪馬台国の出現では? と話題を独占しました この吉野ヶ里フィーバーの中 北墳丘墓に埋葬されていた大型の甕棺から有柄銅剣やガラス製管玉が出土し 3 ヶ月間で 100 万人もの人々が吉野ヶ里遺跡を訪れました また この北墳丘墓の出土品がきっかけとなり 平成 3 年に特別史跡に指定され 平成 4 年には 遺跡の保存と活用を目的に国営公園化が決定しました 北墳丘墓の遺構の保存のため埋め戻されましたが 平成 20 年 2 月に再び発掘当時の状況が公開されました 北墳丘墓 の内部は展示施設となっており 発掘された状態での本物の遺構及び甕棺を見学することができます 1. 遺構保存処理 本物の遺構を露出展示するために ポリシロキサン系樹脂を遺構面に散布し ヒビ カビ コケの 発生を防いでいます また 遺構面の湿度を 80% 程度に保つために専用の空洞も整備されています 2. 本物の甕棺の展示 版築構造がわかる地層断面と本物の甕棺を見学することができます 発掘され保管されていた甕棺 14 基を再び北墳丘墓の遺構面に設置することにより 本物の持つ迫力を体感できます 3. 建築物の制約 北墳丘墓の内部構造は 遺構面を保護する必要があることから 地面に触れる部分は 30 cm以上の盛土を行った上 オクタゴン形状 ( 八角形 ) の平面形状を持つお椀をひっくり返さないような 基礎のない特殊な構造になっています 二つの中軸線 集落の中軸線となる南北軸 吉野ヶ里遺跡では弥生時代中期前半に北墳丘墓 南祭壇が築造されます 北墳丘墓と南祭壇はそれぞれ集落の北端と南端域に位置しており 中期後半の終わり頃から後期の前半にかけて作られた外環壕は北墳丘墓 南祭壇を意識して掘られたと考えられます 北墳丘墓 南祭壇を結ぶ空間が環壕集落形成の計画空間になっていたとみることが可能です さらに北墳丘墓と南祭壇の中心を結んだ線は北内郭の主祭殿の中心を通り 同じ線上に北墳丘墓前面の祠堂 立柱が並びます これらのことから この線は集落の聖なる中軸線とも言うべき重要な線であったと推定できます 50
51 夏至の日の出 冬至の日の入りと一致する北内郭の中軸線 北内郭の中軸線は夏至の日の出 冬至の日の入りの線と一致することが確認されています 北内郭は北内郭と南祭壇を結ぶ集落の中軸線と夏至の日の出 冬至の日の入りを結ぶ線と 二つの重要な軸線が交差する場所です 集落内の三つの地域と北上位 南下位の空間観念 復元対象時期である弥生時代後期後半から終末期の環壕集落内の空間は集落北部の 北墳丘墓と北内郭の地域 中央部の 南内郭の地域 南部の 南のムラと南祭壇地域 に大きく別かれています これらの空間配置は北により聖約 祭祀的性格の強いものを配し 南に世俗的 生活的なものを配しており 北上位 南下位 の空間観念に基づいていると考えられます 51
52 吉野ヶ里遺跡の紹介 甕棺墓列 ~ 一般の人々の墓地 ~ 甕棺 [ かめかん ] とは北部九州に特有の棺のことです 大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ 土の中に埋める埋葬方法で 弥生時代中頃のおよそ 200 年の間 盛んに使われていたようです 吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており 想定では 15,000 基を超える数が埋められていると考えられます 中でも 墳丘墓の北側には 真ん中に道 ( お参りするための道であるとも 左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられている ) が設けられていて その両側に全部で 2,000 基を超す甕棺が長さ 600m にわたって整然と並べられています 亡くなった人に対する当時の人々の想いを偲ぶことができます 葬られた人々 甕棺に葬られた人々の中には頭部がないもの 肩や腕に刀傷 ( かたなきず ) を受けた跡があるもの 腹部に 10 本もの矢を打ち込まれているものなど 当時の社会の様子を知る手がかりとなるものが見つかっています 一般的には戦争の犠牲者と言われていますが 例えば 10 本の矢を打ち込まれた人は腹部に集中しており 激しく動き回る状況の中でこれほど性格に集中して打ち込むことは不可能だと思われること 打ち込まれた 10 本の鏃 ( やじり ) が様々な材質や技法で作られたものであることなどから 戦争の犠牲者とは思えないと言う考え方もあります 当時は王もリーダー層も一般の人々も皆甕棺に葬られていると考えられますが 甕棺の大きさや副葬品 葬られている場所などに違いがあったり 朱が塗られているものもあり こうした違いが身分の差を表していると考えられています 52
53 甕棺の種類 甕棺には大きく 2 つの種類があります 同じ形のものを上下に組み合わせた 合わせ口甕棺 と大きくて平らな石などを蓋の代りに使った 単棺 ( たんかん ) です 使われ方の違いなどについてはよく分かっていませんが もしかしたら身分の差が関係あるのかもしれません 人骨からわかること 人の骨を調べてみると 男女の違いや年令 身長 さらには体つきや顔つき 栄養状態までわかるものもあります 吉野ヶ里のお墓から見つかっている人骨はおよそ 300 体ありますが その特徴を調べてみると 身長が高く 顔は面長で鼻が低いなど中国大陸から渡ってきた 渡来系 と呼ばれる人々と共通しているところがたくさんあることが分かります 特に身長については同じ時代の関東や南九州で見つかる人骨と比べてみると 平均で 10 cm位高いようです もともとこの地に住んでいた人々と大陸から渡ってきた人々とが一緒になり 次第に混血が進んでいったものと考えられます 53
54 発掘調査 吉野ヶ里遺跡では北部九州の佐賀県 福岡県を中心に発達した弥生時代の墓である甕棺墓が数多く発見されています その数は遺跡全体で 3,100 基を超え なかでも丘陵尾根上には 1,500 基以上の甕棺墓からなる墓列が形成され その規模は 600m にも及びます この甕棺墓列の発掘調査は 1986( 昭和 61) 年から 1988( 昭和 63) 年にかけて実施しており 頭部がない成人男性の人骨 や 9 個の貝製腕輪を装着した少女の人骨 などが埋葬された甕棺墓が発見されました また弥生人が身につけていた衣服の一部である絹織物片 毛髪 管玉や勾玉 鉄製品など多くの遺物も出土しています その後 2004( 平成 16) 年から 2007( 平成 19) 年にかけて墓列北部の発掘調査を実施しました 調査の結果 この一帯では南北にのびる 600m の甕棺墓列と交差して 別の墓列が東南方向にのびていることが確認されました また この調査区域の一画では 列埋葬に多くみられる甕棺よりも古いタイプの甕棺がまとまって出土しました これらの甕棺には 吉野ヶ里丘陵上に大規模な墓城が形成される以前に この一帯で生活をしていた人々が埋葬されたものと思われます 54
55 吉野ヶ里遺跡の紹介 中のムラ ~ 祭り 政治 儀礼などの道具を作る場所 ~ 吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式 政事に使ういろいろなものを神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています 神に捧げるお酒を造ったり 蚕を飼って絹糸を紡ぎ 絹の織物を作ったり さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています なお 現地にはありませんが こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます 中のムラと祭祀 中のムラは祭祀権者の祭祀儀礼の補助等を行う祭司者達の生活の場であったと考えられます ここでは こうした祭司者達が祭司儀礼に必要な祭具や祭器を制作したり 祖霊に捧げる供物の調達や調理を行うなど 祭祀のための仕事を行う様子が見られたと考えられます 祭りの日に使用する酒の製造や祭祀権者が祭りの日に身につける衣服の制作なども 中のムラの祭司達の重要な仕事であったと考えられます また 祭司者達の暮らしのための労働に従事する下層身分 ( 生口 ) の人々も存在したと想像できます 中のムラは北内郭という祭祀的な性格の強い地域の手前にあって 例外的に生活の場としての様相を示している場所です こうしたムラのあり方から 中のムラ は 北内郭を中心に行われる祭祀権者の祭祀を補佐し その世話をする祭祀者が暮らす場所であったと想定しました 中のムラでは祭祀者が暮らし 祭祀に使用する祭具の制作や供物の用意 祭祀者が身につける衣服の制作などのほか 下層身分の者による雑役なども行われていたと考えられます なかでも祭りの際 衣服の制作は神聖で重要な行事であったことが 古事記 日本書紀 等の記述からうかがえ 中のムラ の竪穴建物のうち大型で炉のない物につい 55
56 養蚕 祭りの時などに着る特別な絹の服や神に捧げる供え物としての絹の布 また 中国との交易に使う 国からの贈り物としての絹布などを作るために必要な 絹糸を取り出すため 蚕を飼っている様子です 糸紡ぎと機織り 絹糸は蚕の繭から取り出した糸を数本にまとめることによって より強く美しくなると言われています 紡錘車と呼ばれる道具を使って糸を紡いでいる様子です 機織りの技術は中国から新しく伝わってきたものと言われており 機織りの道具とともに急速に進歩しています 当時としては最先端の機械を使って機を織っている様子です 酒造り 当時お酒は 祖先の霊へのお供え物や 重要な会議の後の会食 またお祭りの時など 特別な時にしか飲むことができない貴重なものだったと考えられています 酒造りは 材料となる米を蒸した後 女性が口の中でしっかりと噛み 唾液と十分に混ぜ合わせて壺の中に入れ 自然発酵させて作ったものと考えられています 祭具づくり 北内郭で行われる儀式や祭りでは 一般の人々が日常使うものとは違い 特別に丁寧に作られたり 貴重な材料を使って作られた食器や道具などを使っていたと考えられています 刀子 [ とうす ] や ヤリカンナ と呼ばれる 今で言う鉄の小刀やカンナを使って美しい木の器を作っている様子です 祭政を司る支配者層の身分 職能的特質 吉野ヶ里環壕集落は クニ の祖霊と地霊を祀る特別な クニ の中核的集落としての地位を保持していたのであろうと考えられますこの集落に暮らした人々は支配者層である大人層が中心であると考えられます 大人層の主たる身分 職能は最高司祭者に仕える祭司者と クニ の政治 行政を司る行政官であると 魏志 倭人伝の記述等から想定しています 先述した吉野ヶ里環壕集落の性格や古代文献等から窺える祭祀と政治が一体的で 祭政 として機能していた古代社会の状況等からみて 祭司者的身分 職能と行政官的身分 職能は明確に分離しておらず 大人層はすべて祭司者的な身分 職能を保持し それが政治 行政を司っていたと考えられます 56
57 祭司者の役割分担 古代文献などから 祭祀を司る祭官には大きく次のような役割分担があったことが窺えます 祭具を司る 祭りの際に鏡 玉 剣などの祭具を奉ったり 祭具の製作にあたる役割 古代豪族では大嘗祭の際に新天皇に神璽の鏡と剣を奉る忌部氏など 言葉を司る 祝詞など祭の際の特別な言葉 ( 詞 ) を司る役割であり 古代豪族では大嘗祭の際に天神之寿詞を奏す中臣氏など 古事記 日本書紀 の仲哀天皇の条には仲哀天皇が琴をひき 神がかりとなる神功皇后の言葉を建内宿禰が 狭庭 ( サニワ ) で聞く様子が記述されており 古くは最高司祭者の神がかりとなった言葉を聞き これを伝える役割があったことが推測できます 魏志 倭人伝には 唯一人卑弥呼のものに出入りして 飲食を給し 女王の言葉を伝える男子がいたことが記されていますが この男子が仲哀記における建内宿禰のような役割であったことが想像できます 芸能を司る 祭の際に歌や踊りを奏する役割 古代の宮廷における猿女など その祖先は天照大神が天之岩戸に隠れたときに笹の葉を手に持って桶を伏せて これを踏みならしながら踊ったアメノウズメノミコトであるとされています 弥生時代にも祭で踊りや歌を披露する職能の祭司者がいたことが想像できます 供物を司る 主に神に捧げる食物 ( ミケ ) を司る役割 古代豪族では宮廷の供御を司った膳氏 伊勢神宮の 皇太神宮儀式帳 などにもミケを司 る神宮が存在したことが見えます 57
58 占いを行う 鹿の骨を灼き吉凶を占う太占 ( ふとまに ) などを行う役割 古代豪族では卜部 ( うらべ ) 氏など 律令期にはこうした役割の枠組みの下に多くの階層が設けられ それを統括する身分として先にあげた豪族が存在しました 弥生時代後期末にはそのような階層分化と職能の細分化はまだ行われていなかったと考えられますが 大きな役割分担の枠組みは存在したと考えられます 中のムラの居住者達の性格 中のムラの居住者は 魏志 倭人伝にみえる卑弥呼に仕える 婢 に相当するような 最高司祭者の祭祀を補佐しその生活の世話をする祭司者と想定しています 祭司者的性格を有する大人層のうちこうした役割を担った者は恐らく後の天皇の側近くに仕え その日常の世話に当たった釆女のように そうした役割を果たすべく各 氏族 からそれぞれ選ばれた者であったと想定できます 祖霊への供物の製造や調達 最高司祭者の食事の支度や衣装などの製作 北墳丘墓 南祭壇などへの供物の奉納と祈りなどを行ったことが想定できます 服装 当時の服装を推定するため吉野ヶ里遺跡出土の絹 麻などの遺物 魏志 倭人伝の記述 弥生時代の絵画土器や銅鐸に描かれている人物を主な資料としました また時代が下がる人物埴輪に見られる服装や高松塚古墳壁画 天寿国繍帳 同時代の中国の画像石なども参考としています これらの資料の他に服装を考える際の一般的な要素として祭などのハレの日の服装と 日常の服装 階層差 性別 年齢による区別も考慮しました 吉野ヶ里遺跡出土の布 吉野ヶ里遺跡からは絹および麻が出土しています これらの鑑定にあたった布目順郎氏によりその概要 特色は以下のように整理 されています 58
59 ア. 家蚕の絹である 出土品は繊維断面形より見ていずれも家蚕の絹であり 楽浪系の三眠蚕と華中系の四眠蚕があります このうち 華中系は中期初 頭 中期前半の甕棺から出土し 楽浪系は中期後半 後期初頭の甕棺から出土ました イ. 日本製の絹である 中国漢代に絹と織り密度や繊維断面計測値を比較してみると 顕著な違いが認められ 日本製の絹であると考えらます ウ. 他の弥生時代遺跡には見られない繊細優美な透目絹が存在する 吉野ヶ里遺跡出土の絹はほとんどが透目のものであり 織りはやや粗末なものと繊細優美なものがあります このうち後者に属するような繊細優美な透目絹は これまで他の弥生時代遺跡から出土例がなく 吉野ケ里に高度な絹織物の技術が存在したことを窺わせます このことから 筬をもつ絹機のようなものが既に導入されていた可能性が考えられる 透目絹は華中方面の古代絹に多く 華中方面との交流が考えらます エ. 染色された絹が存在する 透目絹の中には 一見して染色されているものが幾つかあり 前田雨城氏らの研究グループが分光蛍光光度計による測定と解析を 行った結果 日本茜と貝紫が検出されました これにより 赤と紫に染められた透目絹が存在したことが確認できます オ. 麻布が出土した これまで弥生時代の甕棺内から 絹は出土しましたが麻布は出土していませんでした 吉野ヶ里遺跡では 二つの甕棺から大麻を 材質とした麻布が出土しました 大麻布はいずれも織り密度で高度の織布技術を持っていたことが窺えます カ. 袖を縫いつけたものらしい絹が発見された 墓の中に縫い糸を持つのが存在しました 縫いつけ箇所で糸の方向が 90 度異なっており 身頃に袖を縫いつけたものであると推定 できます 庶民 ( 下戸層 ) の日常着 魏志 倭人伝は倭人の服装について 男子は皆露し 木緜を以て頭に招く その衣は横幅 但結束して相連ね略縫うこと無し 婦人は被髪屈し 衣を作ること単被の如く その中央を穿ち 頭を貫きてこれを衣る と記述しています 倭人伝の記述の解釈と復元には諸説があり 未だ決着を見ていません 男子の衣服の形態については高橋健自氏の 袈裟式説 と猪熊兼繋氏の 織った布を横糸の広さのまま並べ合わせて綴くった布 とする説が著名です 女子については 一幅の布の真ん中に縦の裁ち目を作って これから頭を貫き 両ワキを綴くり合わせて その合わせ目の上をあけて両腕を出した とする説が一般的です これに対して 本基本設計の委員でもある武田佐和子氏は 男子の服 ( 横幅衣 ) と女子の服 ( 貫頭衣 ) は着装状態から言えばほぼ同一の形状を示すことになり 二種の異なった形態の衣服を指すのではなく 男女に共通して着用された衣服の 一つは製法上から出た また今ひとつは着装法上から出た名称であり 同一の実体を指すものであったと考えてみたい と述べています そして その根拠として弥生時代の織布の幅は 30 センチ前後であったと考えられ 一幅で身幅を覆うことの出来る布幅を持ち その中央に穴を開けて頭を通して着用するという貫頭衣は 製作することが難しかったと考察しています 59
60 武田氏の見解に基づき 男女とも布を二枚 頭と腕の出る部分を残して脇で綴くりあわせる形態の衣服を検討しました また人物埴輪や高松塚古墳に見られるようにその後の古代日本の衣服が一貫して前合わせであることや同時代の中国の衣服も前合わせであることなどから 前合わせで腰紐を使用する形態を考えました なお こうした形態の衣服は最も一般的であり 庶民 ( 下戸層 ) の日常着であったと考えられます 上位身分 ( 大人層 ) の日常着 吉野ヶ里遺跡では富裕層に属すると考えられる人物を葬った甕棺から身頃に袖を縫いつけた絹が出土しており 上位身分 ( 大人層 ) の衣服は庶民の衣服と異なり袖付きであったことが推定できます その他の形態は基本的に庶民層の衣服と異ならず前合わせの貫頭衣であったと考えられます 布が貴重品であったことを考えると 全体的に庶民の衣服より布をたっぷりと使ってゆったりした印象の衣服であったと考えられます また庶民は農業労働などに従事するため膝上程度の丈の衣服であったと考えられるが 大人層の衣服の丈はくるぶし上程度まであった可能性があります 前合わせの部分をとめるための品物も紐ではなく帯が使用されたと考えています 上位身分 ( 大人層 ) の祭 ( ハレ ) の衣服 大人層には祭祀儀礼や集会の時に着用する特別な衣装 ハレの衣装があったと考えられます これについては布目順郎氏が復元考案した弥生時代上層人の衣服に基づきました 布目氏は人物埴輪 高松塚古墳 天寿国繍帳に描かれた人物 日本書紀 古事記 随書 倭国伝などの記述から 弥生時代の上位身分の人々は男女とも衣装を着用したと推定しています 埴輪や高松塚などの人物画から基本的にツーピースで下半身に衣裳をつけ 上半身は上着となる衣装を着用していたと考えられます こうした上着は埴輪では男女とも喉元あたりから左下方へ斜めにあわせた形式が多いです しかし弥生時代の衣料生産量を考えると 衣料の節約のため真ん中あわせにしていた可能性が高いとしています なお布目氏はこれを上位身分の人々のごく平均的な平常服としていますが 平常服ではなく特別な行事の時に着用するハレの衣服と位置づけています こうした衣服は大人層の身分の象徴であり 非常に貴重なものであったと推定できます 髪形 装飾品 履物 髪形 吉野ヶ里遺跡の甕棺から美豆良 ( ミズラ ) を巻いた頭髪が出土し 成人男性は美豆良をゆっていたことが確認されました 倭人伝の記述によれば男性は布を巻いていたことになります 女性は髪を結ったりお下げにしていると記述されています 古事記 でヤマトタケルが女装してクマソタケルに近づく記述 乙女のように髪をお下げにして と言う表現があることや多くの民族事例で女性が既婚が未婚かにより髪形を変えると未婚者はおさげ髪を結った可能性が考えられます 女性司祭者は 魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述などから未婚であったと考えられるため おさげ髪であったと想定しました 60
61 装飾品 主な装飾品として翡翠やガラスの玉 ( 管玉 曲玉 ) からなる首飾り 銅製 ゴボウラ貝などの南海産の貝を使用した腕輪 簪 櫛などの髪飾りがあげられます 櫛は髪をとめる目的の他に頭髪の清潔を維持するために梳る機能を持っていたと考えられます 古事記 等の記述によると男性も櫛を髪に挿していた可能性があります この他 剣などの武器類は男性の身分を示す威信材として身につけられていた可能性があります 履物 魏志 倭人伝では裸足であると描かれていますが 吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州の遺跡では板を浅く刳った木製履物と考えら れる遺物が出土しており 上位身分の人々の履物として中国の例から革製の沓を想定しています 61
62 吉野ヶ里遺跡の紹介 倉と市 ~ 倉庫群 市も開かれていた ~ 海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり 盛大な市が開かれたり 市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった 吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており また当時の交易の重要な交通手段と考えられている 舟 が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが こうした考え方の基になっています 西方倉庫群は平成 11 年度の調査で大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され その配置などから 現 在のところ具体的な遺構は指摘できませんが クニ の倉 廷閣 としての機能の他に 魏志 倭人伝にみえる 市 的な施 設空間が存在した可能性があります 生活用品取引の場 日常使う品物などが 周りのムラの人によって取引されていたと考えられています 高級品取り引きの場 海外の国々や倭 [ わ ] の他のクニグニの貴重な品物が取引されていた場所と考えられています 62
63 管理者の住まい クニの倉や市を管理 守衛する下戸 [ げこ ] たちが暮らす住居と 暮らしに必要な物を収める倉庫があったと考えられています 裁判などの場 生口 [ せいこう ] と呼ばれる奴隷層の取引や 裁判などが行われていた場所と考えられています 市の中心 倉と市の中心的な建物である市楼と海外や国内のクニグニと取り引きされた物資などが収められている倉庫群があったと考えられています また 市を管理する 市長 [ いちおさ ] と呼ばれる人の住居もここにあったようです 祭りの場 祖先の霊に祈りを捧げる祠堂があり その前ではいろいろな祭りが行われていたと考えられています また一角では脱穀などの作 業も行われていました クニの大倉 クニの軍事上 戦略上重要な物資を収められていた特別な場所と考えられています そのため 大きな溝によって囲まれ 出入口 は兵士によって厳重に守られていたと考えられています 穀物の倉 南内郭から倉と市に向かう西門を入ったところにあります 入口を見張る櫓と 来年の種籾を収める倉庫などがあったと考えられ ています 国内外との交易 交易国内の他の地域や中国 朝鮮半島との交流 交易を示す遺物が数多く発見されており 市 の存在を推定される遺構も南内郭西方倉庫群で発見されています これは 国 の成立と共に交易の場である市を 国 の中核的集落である環壕集落域に取り組み 交易を管理するようになった表れでしょう 国々に市があることについては 魏志 倭人伝の記述するところでもあります 市では交易のための旅 ( 船出など ) や 他からの交易品の到着に際しては 祭りが行われたと想定できます また 国 の告知 裁判 刑などの法的秩序を示すための行動が行われたことも推定できます 63
64 貨泉 中国の 新 の時代 (A.D.8~23 年 ) に作られた貨幣です 鉄製の蝶番 精巧に作られており 中国製と考えられています 鉄製品 当時の日本には 鉄そのものを作り出す技術はなかったと考えられており 朝鮮半島南岸などから 鉄板などを輸入し それを加工して製品化していたようです ガラス製管玉 ガラス材料が 中国 長沙 のものです 貝の腕輪 当時祭祀 ( さいし ) に関係する人だけが身につけていたと考えられている貝の腕輪は 遠く沖縄周辺や南方の海でしかとれない ゴホウラ貝 や イモ貝 という貝で作られていることが分かっています ヒスイの勾玉 ヒスイは当時とても貴重なもので 手に入れることが難しい物であったようです 日本では新潟県の糸魚川を始め数カ所でしか採取できなかったと考えられ 吉野ヶ里で見つかったヒスイの勾玉も 糸魚川産であることが分かっています 64
65 発掘調査 倉と市 ( 西方倉庫群 ) の辺りは S63 年度 H9 年度 H11~12 年度にわたり発掘調査が行われました 弥生時代中期前半までは 貯蔵形態の主流は穴倉でしたが 弥生時代中期中頃を境に 堀立柱建物の高床倉庫へと変化することが 発掘調査の結果判明しました 特に 南のムラ の辺りに存在した穴倉跡群は 中期後半のものはほとんど見あたらず 変わって この 倉と市 のあたりで 高床倉庫群が確認されました 弥生時代後期初頭 ~ 後期前半には 吉野ヶ里全体を囲む大規模な環境が設けられ 集落が大規模化する過程で 集落の中枢部が北側へと移動したのに伴い 高床倉庫を主体とした倉庫群も 後の南内郭の西方の外環壕の外部に移送した物と考えられます 弥生時代後期後半 ~ 終末期には 南内郭の西側の外環壕の跡と 丘陵の裾の壕に囲まれた 南北約 200m 東西 150m の約 3.5ha の空間に 高床倉庫と考えられる堀立柱建物跡群が 少数の竪穴建物跡とともに存在していました この期間には 2~3 回の建て替えがあったと考えられ 同時に 20 数棟の高床倉庫と数棟の竪穴建物が建ち並んでいたものと考えられます 中央部には 倉庫以外の機能をもった 9 本柱 12 本柱の大型の建物があり 倉庫群やこの空間を管理するような重要な建物の跡と考えられます また 建物群の間には 広場と考えられる遺構空白地や 道路状の空間が存在していました この大規模な倉庫群は 吉野ヶ里集落のみならず 吉野ヶ里のクニ全体の物資を納めた大規模な倉庫群であり かつ 市場の機能を持つ空間であったと考えられます 倉庫群 多くの堀立柱建物跡が 広場を中心として南北に分かれるように分布しています 環壕集落の出入り口に接する場所に位置し 多くの堀立柱建物群が存在しており 吉野ヶ里環壕集落の日常の生活に使用されたり 集落の備蓄用にされる稲が収蔵されたり 農耕に伴う祭祀が行われたり また 市が開催されるゾーンであると考えられます 建物群が環壕集落の出入り口に接するあたりに位置し 比較的規模の小さい堀立柱建物により構成されています 北端の 1 棟の建物は 外壕に面しているので櫓としました 吉野ヶ里集落にとって重要でかつ 小面積の倉庫で収蔵が可能な租税として収取した穎稲等が収蔵されていたと想定しています 外環と溝に挟まれた空間に 6 基の大型の堀立柱建物跡が分布しています 65
66 溝によってさらに区画され 倉庫群地域の中で最も奥まったエリアともいえる場所に 地区の中で最も大型の建物群が並んでいま す これらの様子から 武器 軍事上の糧食 播種用の稲など クニ で最も重要と考えられる物品が収蔵されている倉庫と想定 しました 櫓門 配置の状況から 見張りと倉に南から入る通用口の 門としての機能を持つ施設であると考えられます 高床倉庫 ( 武器の倉庫 ) 地区の入口に位置 古代中国では 都城の門や施設入口に 武器庫が設置されていたことから 武器庫であるとし 武器を展示し ています 高床倉庫 ( 穀稲の倉庫 ) 武器庫に最も近い位置にあり 最重要の物資が収蔵されていたと考えられ 備蓄用の籾が保管されていた倉庫としました 詰め所 市の警備に当たる士卒達の詰め所と考え 床高を低くした建物としています 市楼 2 間 3 間の建物で 中国の画像摶に描かれた市楼を参考に 重層で 1 階部分は壁を持ち 2 階部分は吹き放しとしています 66
67 市長の住居 上級管理者 ( 市長 ) の住居を想定しています 祠堂 神の依り代となる祭りのための建物と想定し 神社の拝殿を参考に壁のな い吹きはなしの建物としています 集落の外部とつながる大外壕の出入り口に接する場所に これを取り囲むように広場が存在しています 広い広場を持つため 市が営まれた場所であると考えられます 小規模な堀立柱建物は兵士の倉庫 竪穴建物は市を管理した人々の住まいと考えられます 兵士の倉庫 兵士の住居 広場 市として使用された空間であり 祭礼 裁判 葬儀などが行なわれ 周辺や遠方のクニからも人々が集う場所であると考えられます 67
68 手工業産業 南内郭から青銅器の鋳型や鉄製品が発見されていることや貝川に接した現在の水田部から木製容器の未製品が出土していることから 青銅器や鉄器の生産 木製品の生産が行われていたことが確認できます また 貝紫の出土や絹布片が多く発見されていることから 絹織物や染色が行われていたことも推定できます 特に鉄製品は量 質とも優れています 最近では近畿地方を除く日本列島各地で鉄製品が発見されていますが 当時この地域を中心とした鉄製品の流通圏が存在した可能性があります 68
69 吉野ヶ里遺跡の紹介 南のムラ ~ 一般の人々の居住地 ~ 弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています 北内郭や南内郭と違い この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと 竪穴住居 3~4 棟に対し共同の高床倉庫 1 棟が付くという 日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること 北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で一番南に位置していること などがこうした考え方の基になっています 南のムラ地域の全体像 弥生時代初頭から後期終末期まで集落域として利用された地域であり 弥生時代初頭から中期中頃まで 周辺の集落を主導する立場の集団が環壕集落を営んでいました ただし中期前半に祭壇 ( 檀上遺構 ) が設けられるとその周辺では集落は営まれなくなりますが 後期後半になってこの祭壇の周囲に溝が設けられると北墳丘墓と深い関わりともって存在する北内郭との間に竪穴建物や堀立柱などの居住施設は営まれなくなります 後期後半になると外環壕により囲まれた段丘部分を取り囲むような状況で竪穴建物と高床倉庫からなる集落が存在します ( 中略 ) 集落域の建物比率は 竪穴建物 3 に対して堀立柱建物 ( 高床建物 )1 の割合であったと考えられます この割合は弥生時代後期を中心とした集落で 多数の竪穴建物と堀立柱建物が発掘された福岡県筑紫野市の 以来尺 ( いらいじゃく ) 遺跡 でも同様です この 南のムラ では弥生時代後半の前期までは高床倉庫群が段丘裾部に集中して存在していましたが 弥生時代後期後半 ~ 終末期には 倉と市 に集中して設けられています 一帯は 土取りや開墾による地形の改変が大規模におこなわれたため全体像は把握しにくいですが 尾根部分を取り囲むように北へ開く平面馬蹄型に集落が営まれていたようです 69
70 尾根部分の建物跡空白地では弥生時代後期以降古墳時代初頭までの間 建物以外の遺構も殆ど存在しませんが 北西隅で唯一土壙の存在が確認されました 土壙からは復元対象時期の土器多数を出土しましたが 中には手焙 ( てあぶり ) 型土器が含まれており この空間の中で祭祀的な行事が行われていた可能性も考えられます 南のムラ 地域は 北内郭 南内郭 にすむ人々と 南のムラ に暮らす集団のために必要な生活資材や水田以外の食糧供給の場として 畑地が存在した可能性が高いと考えられます 吉野ヶ里遺跡では弥生時代中期から後期にかけて 10 基の甕棺墓から多様な織り方によって織られた貝紫やあかねで染められた国産の絹布片が出土していますが この絹布は吉野ヶ里遺跡や周辺で織られたものと考えられており この 南のムラ 一帯の畑地や空閑地に養蚕用の桑の木が植樹されていた可能性があります 段丘南端に位置する祭壇の可能性を持つ大規模な檀上遺構の周囲に 1~2 条の溝が巡らされています 北内郭 南内郭 などと同様 機能を特別科するために設けられた施設である可能性が高いでしょう 以上のように 南のムラ 地域には 特別な機能を持つ際だった建物施設が存在しないことから いわゆる一般の集落構成員の居住区であったと考えられます しかし 約 40ha 規模の大環壕集落内部に存在することは 北内郭 南内郭 に居住するが高い階層の集団を支える集団の居住区と考えられます 発掘調査 S63 年度に神埼工業団地計画にかかる発掘調査を実施 その後 H 元年以降 H15 年度にかけて 確認調査が実施されました 弥生時代前期 段丘尾根の南端に溝に囲まれた集落が形成されました 段丘周囲に散在する集落群に対して主導的立場を持つ集落であったと考えられます 弥生時代前期前半には 広さ約 2.5ha の環壕集落が形成されます 環壕内から発見された鞴羽口 取瓶 銅滓は 弥生時代前期から青銅器鋳造が開始されていたことを裏付けました 弥生時代中期 多数の竪穴建物と穴倉からなる居住域と 西方緩斜面には倉庫群が営まれ 後者は 居住区内の穴倉群とは別に 集団が管理する集落全体の倉庫群といった意味合いが強いものと考えられます この時期の竪穴建物跡や穴倉跡からは 弥生土器や朝鮮半島系磨製石器に混じって 朝鮮系無文土器が多く出土しました 弥生時代中期前半には 檀上遺構の北西隅付近には 青銅器鋳造工房が設けられ 銅剣 銅矛が製作されたことが 炭化物と灰が交互に堆積し 溝状の土壙の内部からは 銅剣 銅矛鋳造型や 銅滓などが出土しています 中期後半になると 数は減少するものの 中期中頃までの居住域に継続して 竪穴建物が営まれますが 穴倉は姿を消し 変わって西段丘部裾部に 堀立柱形式の高床倉庫が営まれます 弥生時代後期 弥生時代後期になると 段丘西の裾部に大きな環壕が掘削され その内部に集落が営まれ 先代まで居住区となっていた地域の周囲に竪穴建物と高床倉庫からなる集落が形成されます 前期に環壕によって囲まれ区域に営まれた中期の集落中心部は 広大な空閑地となったようです また 外環壕の外側に多数の堀立柱形式の高床倉庫が営まれます 70
71 弥生時代後期後半 ~ 終末期になると 後期前半に比べ 竪穴建物と 堀立柱建物が増加し 祭壇跡と考えられる檀上遺構を取り囲むように溝が設けられます その時期は 北内郭や南内郭に新たな環壕が設けられ それら空間が明確に区画された時期と一致しています 竪穴建物跡は 全体が完全に依存しているものがほとんどなく 形態的な特徴を述べることは困難ですが 2 個の主柱穴と中央に炉 壁際土壙 壁際小溝 ベッド状の遺構等を備えていたものが多いと考えられます 規模としては短辺 3.52m~6.98m 長辺 3.50m 8.10m となっています 堀立柱建物の殆どは 高床倉庫と考えられる者で 1 間 2 間規模の建物跡以外は 1 間 1 間規模のもので占められます 公園整備としては この弥生時代後期後半 ~ 終末期にかけて 同時存在の可能性が高いものを選別し 形態についても他地区を含めた既発掘資料との比較を進めて 復元することとしました 南の祭壇 北墳丘墓 ( きたふんきゅうぼ ) と同じように 人工的に作られた丘です 祭りに使う土器がたくさん見つかっており 中には 神に捧げたと思われる動物や鳥の骨などが入っているものもありました また北墳丘墓から祀堂 ( しどう ) 北内郭( きたないかく ) の主祭殿 ( しゅさいでん ) を結ぶ 聖なる軸線 の延長線上にあることなどから 祭りに関わる施設と考えられますが 中からはお墓が 1 基も見つかっていないこともあり 北墳丘墓のように祖先の霊を祀 ( まつ ) る所ではなく 天の祭り ( 自然や暦に関わる祭り ) に関する施設だったと考えられています 青銅器工房跡 青銅とは 銅と錫 ( すず ) と鉛 ( なまり ) を混ぜ合わせて作る金属で 青い錆 ( さび ) が出ることから 青銅 と呼ばれています 青銅製品は 石で作った鋳型 ( いがた ) の中に 溶けた銅を流し込んで作りますが こうした作業に必要な道具類 ( ふいごの羽口 <はぐち>や坩堝 <るつぼ> 取瓶 <とりべ>など ) や 青銅を作る原料 高温で溶かしたことを物語る焼けこげた土などがまとまった場所から見つかったことから 青銅を作る専用の工房跡だったと考えられています 鋳型 作りたい製品の形を前もって石などに掘り込んだもの 羽口 温度を上げるために風を送る ふいご の先端部分 坩堝 金属を溶かす器 錫塊 ( すずかい ) 青銅の原料 71
72 南のムラの居住者達の性格 南のムラは 最も一般的の集落に近いムラであり その居住者達も一般身分であった可能性が高いです ただし 他の集落とは性格を異にする吉野ヶ里環壕集落内に居住していたことを考えると 国 社会では比較的高い位置にいるが 一方 吉野ヶ里環壕集落内では大人層に従事する役割があったと考えられます 伊勢神宮の古記録にみえる神官達の下で雑役に従事する役割を担った 戸人夫 ( へびと ) のような役割の人々であったことが考えられます 南のムラは一般的身分層 ( 下戸層 ) の人々の生活の場であったと考えられます ここでは他の一般のムラの同じく農業労働に日々従事している人々の季節ごとの生活の様子が展開されていたと思われます 土器 農具 カゴなど身のまわりの日用品のほとんどはムラの人々が自らの手で制作し 秋の収穫の後には女性達が臼と杵で脱穀を行う姿もみられたことでしょう 東門の付近に市が立つ時には他のムラからも人々が集まり 様々な品物の交換が行われたと考えられます 市では古来 裁判の行われることも多く 時には支配者層 ( 大人層 ) の人々により裁判が執行される時もあったと想像できます 祭りの時には南内郭同様 各家ごとに儀式が行われ 儀式の後には歌舞飲食を伴う宴会がムラの広場で盛大に行われたことでしょう 集落内で最も一般的なムラと祭壇の地域 南のムラは北内郭 南内郭と異なり ムラを区画する内壕を有していません 一部行った発掘調査から 竪穴住居三棟ほどに高床一棟というまとまりの集合体を成していると考えられます このような形態は周辺の一般集落と同様であり 集落内で最も一般的な性格をもったムラであったと考えられます 南祭壇は墳丘墓と考えられていましたが 平成 10 年度の調査で墳墓は発見されず これを囲む溝や供物の入った祭祀用の壺が発見されたことから 祭壇と判断されるようになりました 古代中国の都城の例に当てはめれば北墳丘墓が祖霊を 南祭壇は精霊を祀る場であったと考えられます 農耕 吉野ヶ里環壕集落の近辺では調査にかかわらず水田跡が発見されていません しかし 吉野ヶ里丘陵の西側を流れる貝川に接する現在の水田部で 鋤 鍬 竪杵などの木製農具が発見されており 農耕が行なわれていたことは確実です ただし 様々な側面から一般の集落と異なると考えられることや 主たる居住者であったと想定している支配者層 ( 大人層 ) が日常的に一般的な農耕労働に従事していたか疑問が残ること 魏志 倭人伝の記述や後の官衙にも匹敵する大規模な南内郭西方倉庫群の存在から周辺の集落から租税を徴収していたと考えられたことから 一般の集落における農耕とは異なり 一定の限られた目的のために行われていた農耕であったことが考えられます 伊勢神宮には神嘗祭などの祭りに使用し 神に捧げるための供物 ( 飯と酒 ) をつくるための水田 ( 御田 ) が存在し その他 神事に使用するものは祭祀を行いながら神宮内でつくる風習が存続してます こうした風習は 9 世紀にはすでに存在していたことが 皇太神宮儀式帳 等から知ることが出来ます 吉野ヶ里環壕集落における農耕もこうした性格ものであった可能性があります 南のムラでは水田 畑 果樹園などを利用した様々な農作業が行われていました 72
73 春から秋にかけては水田で稲作が行われ 日々農作業に追われていました また 同時に畑ではソバ オオムギ アワ ヒエ キビ などの穀類や マメ類 ウリ類 大根などの野菜などが生産され 果樹園ではヤマモモやモモ アンズ カキなどが育てられていました 畑はかなりの広さで その中を それぞれの生産単位ごとに管理していました 畑の中には 地力を回復させるために休耕地もありました このようにして収蔵された作物はそれぞれの一家に必要な分を除いて 吉野ヶ里の国の租税として倉と市に収められていました このほかにも 麻や桑 染色の材料となる植物なども栽培されていて 麻から布の材料となる麻糸を生産し 桑は絹糸のもともとなる蚕の餌として利用されていました 生活と祭祀 この時期に新しく出現してきた天祭的祭祀は 暦 の祭祀であったと考えられます 農耕儀礼を主体とした 暦 の祭祀が吉野ヶ里環壕集落の一年の生活サイクルを規定していたと考えられます 73
74 春 (3 月 ~5 月 ) 春はこれからはじまる稲作のための田お越しや畦畔の修理など 稲の種まきや田植えのための準備が行われます これに伴う稲作の予祝のための祭が祭祀の中心であり なかでも稲の種まきに伴う播種儀礼は 春の祭りの中で最も重要な祭りであったことが想像できます 弥生時代の稲の播種儀礼の実体は不明ですが 東南アジアの稲作地帯で鶏や豚などを生け贄として捧げる風習があることや 佐賀県菜菜畑遺跡の水田跡畦畔や奈良県唐古鍵遺跡からブタ ( イノシシ ) の下顎骨が出土していること 9 世紀初頭の 古語拾遺 の 御歳神 についての記述の中に 大地主神 田をつくる日に 牛のししを以て田人に食わしめき と 稲作のはじまりに当たって牛を犠牲として捧げた様子が記述されていることから 動物を犠牲として捧げる風習が存在したことが考えられます 出土例から ブタ ( イノシシ ) を捧げることが一般的だった可能性が高いです また 伊勢神宮の稲作儀礼を記述した 皇太神宮儀式帳 止由気宮儀式帳 (9 世紀前半 ) では 播種儀礼のための鍬 ( 忌鍬 ) の柄を作るために 祭官が山入りすることが播種儀礼の始めの儀礼と記述されています 弥生時代後期後半の吉野ヶ里環壕集落でも こうした特別な祭りに使う農具は祭司者によりそのたびごとに製作された可能性が考えられます 伊勢神宮では 神宮の田の播種儀礼が終わった後 周辺の村々の種まきが始められたことが記録されています 暦の祭祀がはじまったと推定される弥生時代後期後半の吉野ヶ里環壕集落では 古代中国の例に倣い 王 が暦の支配を示すために クニ の首長達を集め集会を行い その席で日影測定による種まきの日を指示したことも想像できます 稲作儀礼の他 春の訪れを祝う予祝の祭として 東南アジアの民俗事例や 日本各地の民俗事例 万葉集 などに見える嬥歌 歌垣や菜つみ花見が祭として行われた可能性もあります 夏 (6 月 ~8 月 ) 夏は田の草取りや中耕のほか 養蚕が行われたことが想像できます 吉野ヶ里遺跡 立岩遺跡 28 号棺などから出土した絹により 弥生時代にも絹が存在し 織り密度や繊維断面計測値などによる中国 楽浪産絹との比較から すでに北部九州地方で養蚕が行なわれていたことが確認されている 養蚕は桑の葉が盛んに繁る 6 月 7 月頃を中心に行われたと推定できます また 吉野ヶ里遺跡では甕棺墓から麻が出土しており 麻が育つ 6,7 月頃に平行して麻の栽培がおこなわれたことも推定できます これらの農作業に伴う祭祀に関しては不明な点が多いですが 稲の生育を阻む害虫の駆除を祈って行われる虫追い儀礼に関しては 古語拾遺 の 御歳神 のなかに稲の害虫を退治する手段として牛の肉と男根形の祭具を田の水口へ置けとあり この記述と対応するような男根形木製品が唐古鍵遺跡などから出土していることから 存在した可能性があります この季節はまた 一年で最も日が長くなる夏至が訪れる時期でもあります 吉野ヶ里遺跡の北内郭の主軸は夏至の日の出と冬至の日の入りの線と一致しており 夏至に祭りが行われたことは十分想定できます 古代中国では 週礼 准南子 に夏至の日影測定を行ったことがみえ 漢書 王莾伝に都の北郊にある方壇で祭祀を行ったことが記述されています 古代中国の夏至節は行事の上では端午と似通っており 本来 雨乞いの祭礼としての性格が強かったという指摘があります こうしたことから 夏至の日に日影測定や雨乞いの儀礼が行われた可能性を考えることもできます 74
75 秋 (9 月 ~11 月 ) 秋は稲の収穫の季節であり 一年の行事の内で最も重要な収穫祭が行われたことが推定できます 弥生時代の収穫祭の儀礼は 伊勢神宮の稲作儀礼を記した 皇太神宮儀式帳 止由気宮儀式帳 などの古代文献 東南アジア稲作地帯の民族事例 アエノコトなど日本の民俗事例から 収穫した稲を神や祖霊に捧げ その稲で作った飯と酒など供物を供え それを神や祖霊と共に共食することを基本にしたと推定できます 収穫祭は後に 新嘗祭 神嘗祭などと呼称されるようになりました 万葉集 に 誰そこの屋の戸ぶるニフナミにわが背に遣りて斎ふこの戸を ( 誰ですか この家の戸をがたがた押すのは ニイナメの夜で夫さえも外に出して忌みこもっていますのに ) という歌があり 古代においてニイナメの祭の主体がその家の主婦で 一定期間物忌みを行われたことを窺わせます このように家の主婦が稲穂を祭り 一定期間物忌みを行う収穫祭の形態はマレー半島など 東南アジアの稲作地帯にも存在します またこの時 稲穂を天井など家の中の高い場所に吊し 神や祖霊に捧げる風習も広く見られるところです これは高い場所がより神聖であるという観念の表れとされています 弥生時代にも家の女性達により稲を祀る儀式が行われたことや収穫した稲穂を天井から吊して神や祖霊に祈りを捧げる風習が存在した可能性が考えられます 収穫祭の前には祭に使う道具の製作や 収穫の日を 王 が占う日影測定 これを伝えるための集会が行われたことも想像できます 魏志 倭人伝には収穫祭の様子は記述されていませんが 東夷伝 の馬韓には 10 月に刈り入れが終わると昼夜酒を飲んで舞い歌う という記述があります 冬 (12 月 ~2 月 ) 冬は 一年の内で最も日の短くなる冬至が訪れる季節です 太陽の光が最も弱まり この日を境に少しずつ日足が延びていく冬至を太陽の復活と関連づけて祝い 祭を行う風習は広く 世界各地の民俗風習に見られるところです 古代中国では 周礼 に冬至を正月とする暦を使用していたことが記述されており この日 天子が都の南郊にある天壇におもむき 祭祀を行う冬至天が行われました その後 立春をもって正月とする暦が採用されたが 魏の景初元年に再び冬至祭天を行うようになったとされています 宮中の大嘗祭も冬至の頃に行われ 古くは冬至を以て新年としていたことを想像できます 吉野ヶ里の北内郭は夏至の日の出 冬至の日の入りを結んだ線と主軸が一致しており 冬至が極めて重要な日と意識されていた可能性が高いでしょう これらのことから 弥生時代後期後半の吉野ヶ里地域では冬至を新年の指標としていたと推定しました この日は 王 により 一年のうちで最も重要な日影測定が実施されたと想像できます また 大嘗祭前夜の鎮魂祭のように太陽の復活を祈って歌舞が行われたことや 東祭殿で儀礼が行われたことが想像できます また 収穫後からこの新年を迎える頃までに 周辺の各集落から租税としての物品が運び込まれ そこで市が開かれたことも想像できます 冬至から春を迎えるまでは その年の豊作を祈って また 様々な予祝の祭りが行われたと考えられます 75
76 吉野ヶ里環壕集落における南のムラ 吉野ヶ里の 国の中心であった吉野ヶ里環壕集落は弥生時代のはじめ頃に丘陵の最南端に吉野ヶ里の発祥となる草分け集落が築かれ 次第にその規模を拡大していくとともに クニ の中心地として体裁を整えていき 弥生時代後期後半頃にその最盛期を迎えました その集落構造は 当時の中国から伝えられた暦や方位の概念に影響を受けた 北上位 南下位の軸線構造 夏至の日の出 冬至の日の入りの方位 ) などといった概念のもとに 集落の最北端に吉野ヶ里の始祖神としての祖霊を祭る北墳丘墓 そして最南端には土地神 ( 農耕神 ) などの精霊を祭る祭壇を置き この南北の境界域に置いた祭祀施設が集落を形作る上での基本な軸線となっています この軸線上には唯一 北内郭 があり 北墳丘墓や立柱と一体となり 吉野ヶ里の クニ の宋廟として クニ の祭祀が行なわれています さらに 吉野ヶ里では宗廟での クニ の祭祀が行われていると同時に これらの祭祀を背景とした政治 行政的活動や経済的活動も行われています そのため 吉野ヶ里環壕集落内には 政治 行政的活動の中枢であると同時に支配者層の生活空間でもある 南内郭 吉野ヶ里の クニ の経済の中心となり租税や収納や クニ をあげての市が開催される 倉と市 が置かれています このように 弥生都市吉野ヶ里では祭祀を背景とした支配者層による政治 行政 経済的な活動が行なわれており それら支配者層の生活の基本を支えていたのが環壕集落の南端に住む 南のムラ の人々でした 祭壇 南のムラ の南部には基壇状に土を盛った祭壇があります この祭壇は現在の 南のムラ が形成されるずっと以前の弥生時代中期前半頃に造られています 造られる祭にはそれ以前にここにあった竪穴住居が一気に埋められ築造されていますが これは吉野ヶ里環壕集落の最北端のある北墳丘墓と時期 築造方法ともに共通しています しかし この両者は造られた時期や方法は共通していますが その性格は全く異なるものでした すなわち 北墳丘墓は吉野ヶ里環壕集落を築き上げた支配者たちの墓として作られていたのに対し この祭壇は墓として用いられることはなかったのです この祭壇では弥生時代中期頃に盛んに祭祀が行われていましたが 弥生時代後期後半になると祭壇の周囲には 2 重の溝が掘られ 祭壇の存在がさらに強調されています 祭壇の周りに溝が掘られた時期は 北内郭 や 南内郭 が完成し 吉野ヶ里環壕集落の機能が明確化する時期です さらには北墳丘墓とこの南祭壇とを結んだ線が 吉野ヶ里環壕集落の最も重要な軸線であることは先に述べた通りです 弥生時代中期に支配層の墓として作られた北墳丘墓は その後 吉野ヶ里の クニ の始祖王 ( 祖霊 ) の眠る墓として崇められ クニ の祭祀の対象となっていきました そして この祭壇には吉野ヶ里環壕集落の土地神 ( 精霊 ) ( 穀霊 ) が祀られ 豊作などを祈る対象とされました 西集落の中にはこの祭壇での祭壇を行なう際の供物を収めておく建物があり また巫女たちのもとで祭祀を手伝う者もいました 76
77 広場 南のムラ の北部には建物などが一切ない広大な広場があります ここは 南のムラ の集落群と 南内郭 のほぼ中央に当たる空間であり 北墳丘墓と南祭壇を結んだ軸線上にある空間です さらには南祭壇の前面にあって 南内郭 から祭壇へ至る道ともなる空間です このように この空間は政治 社会的 宗教 儀礼的空間 宗教的軸線と中央を意識した聖なる広場でした この広場では季節ごとにさまざまな祭りが行なわれ 時には祭壇から精霊をつれて 南内郭 や 北内郭 へと行く際の通り道となりました また この聖なる広場となっている部分は今の支配者層に連なる吉野ヶ里環壕集落の祖先たちがかつて暮らしていた集落の跡地でもありました 集落 吉野ヶ里環壕集落の南端に位置する南のムラは 北内郭や南内郭に住む 大人 ( 支配者層 ) の暮らしを支える 下戸 ( 庶民 ) が暮らす場所でした 当時 200 人程度の 下戸 たちが暮らしていて 集落の両側を流れる田手川 貝川の周囲にあった水田 丘陵の緩斜面上にあった畑や果樹園での農作業を中心とした生活を送っていました ここで生産された作物は吉野ヶ里環壕集落の住人たちの食糧となっていました こういった食糧生産のほかに 生活に必要な様々なものを作る道具づくりや 両河川を通じて運ばれてくる様々な物資の荷揚げなどが行なわれていました また南のムラの人々は様々な生産活動のほかに 吉野ヶ里の支配者層の世話をするという大事な役割を担っていました 例えば 南内郭に住む支配者層の食事の世話をすることや 南のムラにある祭壇での祭祀を補助する役割がありました そのため 南のムラには支配者層の食糧や道具類などを保管しておく大型の倉庫や 祭壇のそばの住居や倉庫がありました このように 南のムラの住人たちは水田や畑での農作業を中心としながら 農閑期や必要に応じた手工業生産 それから支配者層の世話をするという大変忙しい日々を送っていたのです 南のムラには東西にある谷に沿った大規模 2 つの集落があって そこには 40 数棟の竪穴住居と 10 数棟の高床倉庫がありました ( 現在復元されているのはそのうちの西側にある 1 つの集落の一部 ) これらは 竪穴住居 3~4 棟と高床倉庫 1~2 棟程度でまとまった単位を形成しており そういったグループが 10 数個ありました このグループは一つの倉庫 ( 財産 ) を共有する血縁関係をもった大家族であり 家長を中心とした生活を送り 農作業や手工業生産などの様々な作業も基本的にはこの単位で行っていました 道具作り 南のムラでは農閑期の冬を中心に 生活に必要な様々な道具が作られていました 農作業に必要な道具類をはじめ 食事に使う土器などの食器 調理具 また刃物などの工具類 衣服や敷物 縄や紐 こういった生活に必要な様々なものを農閑期を中心に製作していました 大人 たちはこういった日常の労働は行わないので 当然 大人 が使うものも作らなくてはいけませんでした 77
78 支配者層の世話やその他の労働 南のムラでは農作業や手工業によって自分たちの生活に必要な物資を生産しましたが そういった物資によって吉野ヶ里の支配層である 大人 たちの生活も支えられていました こういった生産活動とは別に南のムラに住む 下戸 たちは 大人 の世話も行っていました 一つは南内郭に住む 大人 たちの日々の食事を作る労働でした 南のムラには大型の倉庫があり そこにはこの 大人 たちのための食糧などが保管されていて 毎日 ここから食糧を運び 南内郭にある煮炊屋で食事を作っていました もう一つには南のムラにある祭壇で行なわれる祭祀の世話をしていました 祭壇のそばには小さな竪穴住居があり そこに住む 下戸 たちは祭祀が行われる時 巫女の手伝いをしていました また 南のムラに住む男たちの中には兵士として吉野ヶ里環壕集落の警護を行うものもいました こういった生産活動以外の労働については 南のムラに住む 下戸 たちの中で 持ち回りでおこなっていました 体験学習のご案内 南のムラの東側には弥生くらし館があり 土器復元作業を見学できる公開作業室や南のムラの成り立ちが映像や模型などで分かりやすく説明されているギャラリーや映像室および休憩室などがあります また 施設では 勾玉づくり 土笛づくり 火おこし などの ものづくり体験 を行うことができます 78
79 古代の森 古代の森 吉野ヶ里遺跡の北側には シイやカシなどの照葉樹林が連なっていたと考えられています これまで 様々な木製の道具 建物の部材などが発見され また 多数の建物跡が確認されているよう この吉野ヶ里に暮らした人々は 森を切り開いて 森の恵みをうけながら クニづくりを進めました 弥生時代の中 ~ 後期には この森の中には建物は建てられませんでしたが 森は南北の帯状に切り拓かれて 2 列に甕棺を埋葬する列状の墓地がつくられました その長さは 南北約 600m にも及び 日本で最大級の墓列です また 時代が変わって 奈良時代には 古代の森ゾーンの南側に 太宰府と肥前国府を結ぶ官道 ( 現在で言う国道 ) が 東西を横切るようにつくられました 丘陵部は大規模に切り通しがつくられ 一直線の道が通されました また この官道に近い場所には 複数の堀立柱の建物跡や井戸枠があり 机のような板材や 井戸枠からは墨書きされた木簡も出土しており 奈良時代 ~ 平安時代に掛けて 役所のような場所であったと考えられています 古代の森ゾーンのほぼ中央には 古代植物館 があります 吉野ヶ里での森と人との関わりが学べ 体験学習や 休憩等ができる多目的な施設です 園内移動バスも この建物前から発着します 奈良時代の官道奈良時代の堀立柱建物跡木簡 甕棺墓列甕棺墓列 ( 鳥瞰図 ) 甕棺墓列 ( 拡大図 ) 79
80 木製の祭祀具柱と横木の出土状況板材出土状況 吉野ヶ里遺跡の植物 弥生時代に 吉野ヶ里遺跡に人が移り住むまで 吉野ヶ里の丘陵地には カシやシイ等の照葉樹林を中心に コナラやクリ等の落葉樹が生えていたと考えられています 稲作が本格的にはじまり 吉野ヶ里のクニが徐々に大きくなるにつれて 伐採等によって森の姿が徐々に変化したと考えられています 吉野ヶ里遺跡から出土した木製品 吉野ヶ里遺跡の西側沖積地部分の発掘調査では 丘陵上の遺構からは普段見つけることのできない木製品が多数出土しました 出土した木製品には 鋤 ( すき ) や鍬 ( くわ ) 鎌 ( かま ) 斧 臼 ( うす ) 杵 ( きね ) などの農耕具のほか 容器やネズミ返しなどの建築部材も多数見つかっています 鋤や鍬などの耕す目的に使われる農具は アカガシなどの堅牢な木材がその材料として用いられています また杓子や取手付きの容器の中には 木目がしま模様に見えるチシャノキが使われるなど それぞれの目的や用途に応じた木材が選択されるようです また 木の道具は 木そのものを道具として使うこともありますが 斧柄や鋤先など石や鉄などの鋭利な道具と組み合わせて使用する場合もあります 鋳型鉄斧用の組合せ式斧柄は ほぼ完全な形でみつかり 斧柄の構造が分かる貴重な発見例です 木でつくられた祭祀具も発見されています 剣や戈を模倣した武器形木製品のほか 当時使われていた船を写した船形木製品などがあります この船形木製品は 船首と船尾がそり上がったいわゆる ゴンドラ の形をしています このゴンドラの形をした船は これまでのところ発見されていませんが 銅鐸や土器に描かれた例があり 弥生時代に使用されていた船をモデルに製作されたと考えられています この船形木製品のヘリには 櫂座 ( かいざ ) の表現とみられる凹凸もみられます 吉野ヶ里遺跡でみつかった木製品は これまで 200 点をこえますが 未成品は 2 点しかなく 製品の数が多いことが特徴として挙げられます タモ出土状況 ねずみ返し出土状況 80
81 柱材出土状況 木製の農具 吉野ケ里での森の移り変わり 土壌中に含まれる有機質の変化 種子 花粉 又は出土した木製品等を分析したところ 吉野ヶ里遺跡では 次のような森の移り 変わりがあったと考えられています 弥生時代のはじめ頃 土壌中に含まれる有機質の変化 種子 花粉 又は出土した木製品等を分析したところ 吉野ヶ里遺跡では 次のような森の移り 変わりがあったと考えられています 81
82 弥生時代の終わり頃 弥生時代の終わり頃は 低地ではイネの植物体や花粉が増えており 水田稲作が本格的に始まったと考えられます エノキやムクノキが増えていることから 人口の増加により 建築材や機具類などのために伐採が進んだと考えられます エノキ ムクノキは 二次林と呼ばれ 原生林が伐採や災害によって破壊された後 自然に または人為的に再生した森のことです このように 人間が移り住み 森林を伐採することで 森の姿が徐々に変わっていったと考えられます 古代の森ゾーンは 脊振の山地から続く北側は 縄文時代から弥生時代前期にあったと考えられる常緑樹林とし 南側にかけては弥生時代の終わり頃の落葉樹が混じり 一部にはススキ等の草地が広がるような植栽を目指しています 生態移植による森づくり 古代の森ゾーンは 文化財の発掘調査によって 全域の表土が全て剥ぎとられました 落ち葉等の腐食や 昆虫や菌類等の多種多様な生物 植物の種子などが含まれた表土が無い状態は 植物の生育にとって きわめて厳しい状況となります 生物の多様性がある原生に近い森としていくために 古代の森の中心付近では 森林の表面を土ごと移植する 生態移植 という方法で 森づくりが進められました 移植前 移植後 82
83 工事の概要 1. 堀取り : できるだけ土壌を崩さぬように掘り取ります 2. 運搬 : トラックにより 吉野ヶ里まで運搬します 5m 程度の樹高までは 剪定せずに運搬できます 3. 植付け : 植栽地の地形と 樹木の傾きとを調整して ユニットの傾きを決めて植付けました 生態移植のねらい 森林の表土には 土壌生物や 植物の種子 胞子等や 土壌生物等 地域の多様な生物資源が含まれています 古代の森ゾーンの中央あたりに生物多様性の高い生態移植を行い 年月を追って その周辺にも野草や土壌生物等の地域の自然資源が波及し 古代の森全体の 生物多様性が高まることが期待されます 移植の対象となった森林は 佐賀市富士町の山地の斜面に生育していましたが 海抜 250m 程度であり佐賀の平地部の植生と大きく変わらないこと また 嘉瀬川ダムが完成した場合に水没する場所にあったため 地域の自然資源を活かした森とするため 約 20km 離れた吉野ヶ里に移植されることとしました 83
84 奈良時代の官道 奈良時代は 大和朝廷が律令国家を目指し 中央集権の政治体制づくりが進められた時代です 地方においては 国ごとに国府が置かれ 全国に 国府を結ぶ道路が計画的につくられた時代です 佐賀では 現在の佐賀市大和町に肥前国府がおかれました この吉野ケ里では 太宰府から肥前の国 ( 現在の佐賀県 長崎県 ) に延びる官道が東西に横断し あわせて 官衙 ( 役所 ) とみられる建物跡が確認されています 官道は 奈良時代につくられた枡状の地割である条里制とあわせ 直線として計画的につくられ 吉野ケ里の段丘部には大規模な切り通しが掘られています 84
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月 古 墳 ガイドブック 日 文 化 の 日 出 発 : 午 前 8 時 半 帰 着 : 午 後 4 時 頃 見 学 場 所 庚 申 塚 古 墳 山 の 神 古 墳 ( 柏 原 ) 長 塚 古 墳 ( 沼 津 市 ) 清 水 柳 北 1 号 墳 ( 沼 津 市 ) 原 分 古 墳 ( 長 泉 町 ) 浅 間 古 墳 ( 増 川 ) 実 円 寺 西 1 号 墳 ( 三 ツ 沢 ) 富 士 市 教 育
す 遺跡の標高は約 250 m前後で 標高 510 mを測る竜王山の南側にひろがります 千提寺クルス山遺跡では 舌状に 高速自動車国道近畿自動車道名古屋神戸線 新名神高速道路 建設事業に伴い 平成 24 年1月より公益財団法人大 張り出した丘陵の頂部を中心とした 阪府文化財センターが当地域で発掘調査
高 速 自 動 車 国 道 近 畿 自 動 車 道 名 古 屋 神 戸 線 建 設 事 業 に 伴 う 埋 蔵 文 化 財 発 掘 調 査 ( 茨 木 市 域 )その5 現 地 説 明 会 資 料 千 提 寺 西 遺 跡 の 調 査 平 成 25 年 3 月 23 日 公 益 財 団 法 人 大 阪 府 文 化 財 センター す 遺跡の標高は約 250 m前後で 標高 510 mを測る竜王山の南側にひろがります
I.平 成12年 遺跡発掘調査 につ い て 加茂市教育委員会社会教育課主事 伊 藤 秀 和 本年 の発掘調査 は下条陣ケ峰線道路建設工事 に伴 い 中沢遺跡が調査 され 加 茂市 では唯 一 の 弥生時代 の集落跡が確認 された 試掘 確認調査 は下条地区で行 われ 3遺 跡 4遺 跡周辺地 を 対象 に行 つた 1口 中沢遺跡 一弥生 平安 一 所 在 地 加 茂市大字下条字芝野地内 調 査 面
(Microsoft Word - \201\2403-1\223y\222n\227\230\227p\201i\215\317\201j.doc)
第 3 編基本計画第 3 章安全で快適な暮らし環境の構築 現況と課題 [ 総合的な土地利用計画の確立 ] 本市は富士北麓の扇状に広がる傾斜地にあり 南部を富士山 北部を御坂山地 北東部を道志山地に囲まれ 広大な山林 原野を擁しています 地形は 富士山溶岩の上に火山灰が堆積したものであり 高冷の北面傾斜地であるため 農業生産性に優れた環境とは言い難く 農地利用は農業振興地域内の農用地を中心としたものに留まっています
PowerPoint プレゼンテーション
参考資料 都市計画について 用途地域 阿佐ヶ谷駅北東地区における建築物の高さに関する主な制限 地区計画 地区計画の事例 ( 練馬駅南口 ) 道路について すぎなみの道づくり ( 道路整備方針 ) 道路整備の事例 ( 江古田北部地区 ) 自転車ネットワーク計画 1 用途地域 用途地域とは 用途地域制度は 土地利用の現況や動向と 都市計画区域マスタープラン ( 東京都 ) で示される将来の土地利用の方向を踏まえ
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松崎遺跡から南に約3 隔てた砂堆上に知 多市法海寺遺跡がある 図5 法海寺遺跡で は5世紀後半のマガキ ハマグリを主体とする 貝層から 鞴羽口2点 鉄滓 骨鏃や刀子など の骨角製品 加工段階の骨角製品 骨角素材が 出土した 他に鉄鏃2点などの鉄製品も出土し て い る 図 6-1 10 法 海 寺 遺 跡 は 東 山 111 号窯期を主体とする初期須恵器 図6-11 17 も多く 加えて韓式系土器に系譜する
(Microsoft Word - \221\262\213\306\230_\225\266_\213\321\220D_\215\305\217I.doc)
3D 学校内地図システムの開発 松江工業高等専門学校情報工学科 研究者 : 錦織優子 指導教員 : 越田高志 2010 年 02 月 04 日 目次 1 はじめに...1 2 研究目標...1 3 システム開発について...1 3.1 要素技術について...1 3.2 システムの実装...2 3.2.1 外観の 3D モデルの作成...2 3.2.2 ウォークスルー可能な 3D モデルの作成...4
調査を実施した 調査成果としては 3 面の遺構面を確認し 中世後半 (l 5 ~ (l 3 ~ ところが 調査の結果は 中世後半 (1 5 世紀以降 ) 中世前半 (1 3 ~ ~m ~ 2mm ~ ~ ~ 0.125 ~ 0.063 ~ 0. 1 25111111 ~ 0.063mm ~ 細粒砂 ( ~ 中粒砂 (m.) - 一 \~ ら平安 ~ 鎌倉時代と弥生時代 ( 中期 )~ 古墳 5
福知山-大地の発掘
福知山市の遺跡 平成18年1月に行われた1市3町の合併により 広大な市域を得た福知山市には現在約500箇所の遺跡が登録さ れています このうち古墳や窯跡など群として登録されているものも 多く 実数としては約2000箇所を越えることとなります 遺跡の位置と立地 福知山市域は本州の内陸部やや北側に位 置し 日本海へと注ぐ由良川とその支流によって形作られた盆地 周辺山岳部からなります 市域の約80パーセント近くは山林であり
実験題吊 「加速度センサーを作ってみよう《
加速度センサーを作ってみよう 茨城工業高等専門学校専攻科 山越好太 1. 加速度センサー? 最近話題のセンサーに 加速度センサー というものがあります これは文字通り 加速度 を測るセンサーで 主に動きの検出に使われたり 地球から受ける重力加速度を測定することで傾きを測ることなどにも使われています 最近ではゲーム機をはじめ携帯電話などにも搭載されるようになってきています 2. 加速度センサーの仕組み加速度センサーにも様々な種類があります
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9-. 高さ制限 (. 絶対高さ,2. 斜線 ) の解説 高さ制限には,. 絶対高さ 2. 斜線 3. 隣地斜線 4. 北側斜線 5. 日影の 5 つの種類があります. 問題の出され方としては, あるの適当な地点 ( 部分 ) について, どれくらいの高さまで建築可能か? というような感じで出題されます. 解き方は, この 5 つの制限 それぞれについて計算してみて, もっとも厳しい制限をその部分の
~ 4 月 ~ 7 月 8 月 ~ 11 月 4 月 ~ 7 月 4 月 ~ 8 月 7 月 ~ 9 月 9 月 ~ 12 月 7 月 ~ 12 月 4 月 ~ 12 月 4 月 ~ 12 月 4 月 ~ 12 月 4 月 ~ 6 月 4 月 ~ 6 月 4 月 ~ 8 月 4 月 ~ 6 月 6 月 ~ 9 月 9 月 ~ 12 月 9 月 ~ 12 月 9 月 ~ 11 月 4 月 ~
ホームシアター固定フレームカーブドスクリーン リュネット (Lunette) シリーズ ユーザーガイド重要 : 安全に使用するための注意事項 ご使用前に このユーザーガイドをご一読ください 正しく使用することで長くお使いいただけます 1. スクリーンは 照明スイッチ コンセント 家具 窓などの障害物
ホームシアター固定フレームカーブドスクリーン リュネット (Lunette) シリーズ ユーザーガイド重要 : 安全に使用するための注意事項 ご使用前に このユーザーガイドをご一読ください 正しく使用することで長くお使いいただけます 1. スクリーンは 照明スイッチ コンセント 家具 窓などの障害物がない空間を選んで取り付けてください 2. スクリーンを壁に取り付ける場合 重量のある大きな絵画を取り付けるのと同様に
(4) 対象区域 基本方針の対象区域は市街化調整区域全体とし 都市計画マスタープランにおいて田園都市ゾーン及び公園 緑地ゾーンとして位置付けられている区域を基本とします 対象区域図 市街化調整区域 2 資料 : 八潮市都市計画マスタープラン 土地利用方針図
市街化調整区域まちづくり基本方針の目的や位置付け (1) 目的 市街化調整区域まちづくり基本方針 ( 以下 基本方針 という ) では 市街化調整区域のあり方及び今後の土地利用の方向性を明らかにし 施策の展開による計画的な土地利用の保全 規制 誘導を図ります (2) 位置付け 基本方針は 都市計画マスタープランの市街化調整区域編として位置付け 都市計画マスタープランをはじめ 県や本市の上位 関連計画に即して定めます
1 アライグマの 分布と被害対策 1 アライグマの分布 1977 昭和52 年にアライグマと少年のふれあいを題材とし たテレビアニメが全国ネットで放映されヒット作となった それ 以降 アライグマをペットとして飼いたいという需要が高まり海 外から大量に輸入された しかしアライグマは気性が荒く 成長 す
3 中型獣の生態と特徴 41 1 アライグマの 分布と被害対策 1 アライグマの分布 1977 昭和52 年にアライグマと少年のふれあいを題材とし たテレビアニメが全国ネットで放映されヒット作となった それ 以降 アライグマをペットとして飼いたいという需要が高まり海 外から大量に輸入された しかしアライグマは気性が荒く 成長 すると飼育が困難なため飼い主が自然環境に遺棄したり 飼育施 設から逃亡する個体もあり
ダンゴムシの 交替性転向反応に 関する研究 3A15 今野直輝
ダンゴムシの 交替性転向反応に 関する研究 3A15 今野直輝 1. 研究の動機 ダンゴムシには 右に曲がった後は左に 左に曲がった後は右に曲がる という交替性転向反応という習性がある 数多くの生物において この習性は見受けられるのだが なかでもダンゴムシやその仲間のワラジムシは その行動が特に顕著であるとして有名である そのため図 1のような道をダンゴムシに歩かせると 前の突き当りでどちらの方向に曲がったかを見ることによって
Microsoft Word - Word1.doc
Word 2007 について ( その 1) 新しくなった Word 2007 の操作法について 従来の Word との相違点を教科書に沿って説明する ただし 私自身 まだ Word 2007 を使い込んではおらず 間違いなどもあるかも知れない そうした点についてはご指摘いただければ幸いである なお 以下において [ ] で囲った部分は教科書のページを意味する Word の起動 [p.47] Word
Microsoft PowerPoint - 口頭発表_折り畳み自転車
1 公道走行を再現した振動試験による折り畳み自転車の破損状況 ~ 公道での繰り返し走行を再現した結果 ~ 2 公道走行を想定した試験用路面について 九州支所製品安全技術課清水寛治 目次 1. 折り畳み自転車のフレームはどのように破損するのか公道の走行振動を再現する自転車用ロードシミュレータについて繰り返し走行を想定した折り畳み自転車の破損部の特徴 ~ 公道による振動を繰り返し再現した結果 ~ 2.
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テレコンバージョンレンズの原理 ( リアコンバーター ) レンズの焦点距離を伸ばす方法として テレコンバージョンレンズ ( テレコンバーター ; 略して テレコン ) を入れる方法があります これには二つのタイプがあって 一つはレンズとカメラ本体の間に入れるタイプ ( リアコンバーター ) もう一つはレンズの前に取り付けるタイプ ( フロントコンバーター ) です 以前 フロントコンバーターについて書いたことがありました
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カーフ ハッチを作ろう 根室農業改良普及センター カーフハッチは構造が簡単で 誰にでも 日曜大工 感覚でチャレンジできます 構造や大きさもさまざまなものがありますが 子牛を3ヵ月令くらいまで収容することを考えた構造とサイズで作ってみましょう 紹介するカーフハッチの作り方は 平成 年 5 月に根室地域で作成したものです カーフハッチ作成に当たってのポイントをまとめて見ましたので参考にしてください カーフ
Taro-小学校第5学年国語科「ゆる
第 5 学年 国語科学習指導案 1 単元名 情報を集めて提案しよう教材 ゆるやかにつながるインターネット ( 光村図書 5 年 ) 2 単元目標 ( は重点目標) インターネットを通じた人と人とのつながりについて考えるために, 複数の本や文章を比べて 読み, 情報を多面的に収集しようとする ( 国語への関心 意欲 態度 ) 意見を述べた文章などに対する自分の考えをもつために, 事実と感想, 意見などとの関係を押
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区域の整備 開発及び保全に関する方針立川都市計画地区計画の変更 ( 決定 ) 都市計画立川基地跡地昭島地区地区計画を次のように変更する 名称立川基地跡地昭島地区地区計画 位置 面積 地区計画の目標 土地利用の方針地区施設の整備の方針 及び上砂町一丁目各地内 約 9.5ha 本地区は 東側を国営昭和記念公園 北側を都営住宅及び住宅地に囲まれた昭島市に隣接する地区であり 多摩地域の核として発展している核都市
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[ 博士論文概要 ] 平成 25 年度 金多賢 筑波大学大学院人間総合科学研究科 感性認知脳科学専攻 1. 背景と目的映像メディアは, 情報伝達における効果的なメディアの一つでありながら, 容易に感情喚起が可能な媒体である. 誰でも簡単に映像を配信できるメディア社会への変化にともない, 見る人の状態が配慮されていない映像が氾濫することで見る人の不快な感情を生起させる問題が生じている. したがって,
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課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください 課題研究の進め方 Ⅰ 課題研究の進め方 1 課題研究 のねらい日頃の教育実践を通して研究すべき課題を設定し, その究明を図ることにより, 教員としての資質の向上を図る
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県立自然史博物館世界最大級の肉食恐竜 スピノサウルス の実物頭骨化石を群馬初公開 映画 ジュラシックパーク Ⅲ で T.rex のライバルとして その大きさをしのぐ巨大肉食恐竜として登場した スピノサウルス の実物頭骨化石と背骨の化石 ( 学校法人成城大学所蔵 ) を展示 公開します 公開日 : 平成 30 年 8 月 5 日 ( 日 ) *8 月は休館日なしで 毎日開館します 展示場所 : 県立自然史博物館常設展示室
平方・中野久木物流施設地区
平方 中野久木物流施設地区のまちづくり 地区計画のルールブック 地区整備計画の運用について 流山市 目 次 平方 中野久木物流施設地区地区計画計画書 平方 中野久木物流施設地区地区計画計画図 平方 中野久木物流施設地区地区計画 地区整備計画 の内容の解説 1P 3P 4P (1) 建築物等の用途の制限 5P (2) 建築物の敷地面積の最低限度 6P (3) 建築物等の高さの最高限度 6P (4) 壁面の位置の制限
H30全国HP
平成 30 年度 (2018 年度 ) 学力 学習状況調査 市の学力調査の概要 1 調査の目的 義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から 的な児童生徒の学力や学習状況を把握 分析し 教育施策の成果と課題を検証し その改善を図る 学校における児童生徒への教育指導の充実や学習状況の改善等に役立てる 教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する 2 本市における実施状況について 1 調査期日平成
加茂市の遺跡 平 成 19年遺跡発掘調査について 加茂市教育委員会社会教育課係長 伊 計 溺 三 秀 禾口 本年 の遺跡調査 は 開発事業 に関連 した確認調査が 3地 区 本調査が 1事 業 によ り2遺 跡を 対象 に行われた 1.荒 叉遺跡一 古墳 古代一 所 在 地 加 茂市大字下条地 内 調 査 面積 約7 2 1 面 調 査期 間 平成 1 9 年 8 月 8 日 9 月 1 2 日 1地
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16 297 297 297 297 14 140 13 13 169 81 32 32 24 409 P48 P54 P56 P50 P52 2 3 4 5 6 7 8 9 11 12 13 14 15 みちしるべ 調べるほどに興味深い Q&A 上総国分寺 国分尼寺 Q 国分寺という地名は全国に多数ありますが どうしてなのですか A てんぴょう しょうむてんのう 国分寺は 天平13年(741)に聖武天皇が国情不安を鎮めるため
6-3
6-3 6-3-1 2 3 2 168 6-10 169 6-3-2 空間形成への影響要因 以上のような過程を経て白山 2 丁目地区の斜面地は現在の状況を呈するようになるわけだが 斜面地の空間形成に関わる要因としては 次の 3 点が挙げられる 例えば 白山地区の台地端に 向かって南北に伸びる袋小路周辺 以下 A 図 6-10 では 3 つの因子が複合作用しながら斜 面地空間を構造的に規定するとともに
第 Ⅱ ゾーンの地区計画にはこんな特徴があります 建築基準法のみによる一般的な建替えの場合 斜線制限により または 1.5 容積率の制限により 利用できない容積率 道路広い道路狭い道路 街並み誘導型地区計画による建替えのルール 容積率の最高限度が緩和されます 定住性の高い住宅等を設ける
地区計画の手引き 第 Ⅱ ゾーンにおけるまちづくりのルール 中央区 第 Ⅱ ゾーンの地区計画にはこんな特徴があります 建築基準法のみによる一般的な建替えの場合 斜線制限により 1 1.25 または 1.5 容積率の制限により 利用できない容積率 道路広い道路狭い道路 街並み誘導型地区計画による建替えのルール 容積率の最高限度が緩和されます 定住性の高い住宅等を設けることで容積率が緩和されます 全ての敷地で活用できます
Microsoft Word - 【セット版】別添資料2)環境省レッドリストカテゴリー(2012)
別添資料 2 環境省レッドリストカテゴリーと判定基準 (2012) カテゴリー ( ランク ) 今回のレッドリストの見直しに際して用いたカテゴリーは下記のとおりであり 第 3 次レッド リスト (2006 2007) で使用されているカテゴリーと同一である レッドリスト 絶滅 (X) 野生絶滅 (W) 絶滅のおそれのある種 ( 種 ) Ⅰ 類 Ⅰ 類 (hreatened) (C+) (C) ⅠB
文章題レベルチェック(整数のかけ算、わり算)【配布用】
2015/8/21 改訂 文章題レベルチェック ( 整数 ) 配布用 < 問題の解答方法 > 全ての問題をノートに書いてください そして その問題の意味を 図や絵にしてみてください その図や絵を見ながら 式を書いて答えを出してください 計算に必要な筆算などは 小さく書かずに 大きく間違えないように書いておいてください くれぐれも いきなり式を書いて答えを出さないようにしてください 解答ができたら 図や絵を使って
03genjyo_快適環境.xls
< 下 野 市 ホームページ 市 の 概 況 より> < 下 野 市 文 化 財 マップ しもつけシティーガイド 下 野 市 都 市 計 画 マスタープランより> 指 定 文 化 財 下 野 文 化 財 件 数 内 訳 ( 平 成 21 年 3 月 31 日 現 在 ) 有 形 文 化 財 無 形 文 化 財 民 俗 文 化 財 記 念 物 建 造 物 絵 画 彫 刻 工 芸 品 書 跡 古 文 書
EBNと疫学
推定と検定 57 ( 復習 ) 記述統計と推測統計 統計解析は大きく 2 つに分けられる 記述統計 推測統計 記述統計 観察集団の特性を示すもの 代表値 ( 平均値や中央値 ) や ばらつきの指標 ( 標準偏差など ) 図表を効果的に使う 推測統計 観察集団のデータから母集団の特性を 推定 する 平均 / 分散 / 係数値などの推定 ( 点推定 ) 点推定値のばらつきを調べる ( 区間推定 ) 検定統計量を用いた検定
プリント
VOL. 230 2 4 3 5 7 8 9 10 11 12 14 12 13 13 三連蔵 たかさご遊歩 花井家住宅 豊かな歴史とレトロな風情をたっぷりと 港町高砂を訪ねて その2 堀川 高砂来て民家 花井家住宅も 前回に続いて 今回も港町の歴史を今に伝え 随所にレト 栄えていたかがよく分かる ロな雰囲気を残す高砂 堀川界隈を 遊歩 してみることに うだつの上がる家並みを東に歩き
目 次 平方北部物流施設地区地区計画計画書 1P 平方北部物流施設地区地区計画計画図 3P 平方北部物流施設地区地区計画 地区整備計画 の内容の解説 4P (1) 建築物等の用途の制限 5P (2) 建築物の敷地面積の最低限度 6P (3) 建築物等の高さの最高限度 6P (4) 壁面の位置の制限
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広島市立古田中学校理科学習指導案 広島市立古田中学校 1 日時平成 29 年 11 月 1 日 ( 水 )2 校時 9:50~10:40 2 場所広島市立古田中学校第 1 理科室 3 学年 組第 1 学年 6 組 ( 男子 15 名女子 18 名計 33 名 ) 4 単元名 音による現象 5 単元について (1) 単元観学習指導要領第 1 分野の内容 (1) 身近な物理現象ア -( ウ ) に位置付けられている本単元は
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3. 記録管理プログラムの作成記録管理のプログラムとは 組織ごとの記録管理の方針からルール ( 管理規則 実施手順など ) 教育計画 監査基準まで すべてがセットになったものであり 組織における包括的な記録管理の仕組みである この項では ISO15489の考え方をベースに国際標準に基づいた記録管理プログラムとはどのようなものか示す 記録管理のプログラムを作成する場合 先に述べた基本的な記録管理の要求事項
. 角の二等分線と調和平均 平面上に点 を端点とする線分 と を重ならないようにとる, とし とする の二等分線が線分 と交わる点を とし 点 から に垂直に引いた直線が線分 と交わる点 とする 線分 の長さを求めてみよう 点 から に垂直な直線と および との交点をそれぞれ, Dとする つの直角三
角の二等分線で開くいろいろな平均 札幌旭丘高校中村文則 0. 数直線上に現れるいろいろな平均下図は 数 (, ) の調和平均 相乗平均 相加平均 二乗平均を数直線上に置いたものである, とし 直径 中心 である円を用いていろいろな平均の大小関係を表現するもっとも美しい配置方法であり その証明も容易である Q D E F < 相加平均 > (0), ( ), ( とすると 線分 ) の中点 の座標はである
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長野県下伊那郡阿智村 狐塚1号古墳の調査 第1次調査概要報告書 2009 東海大学文学部歴史学科 考古学第1研究室 1 3 2 4 5 6 7 8 9 1 武陵地1号古墳 2 北本城古墳 3 高岡1号古墳 4 石塚1号 2号古墳 5 郭1号古墳 6 飯沼雲彩寺古墳 7 姫塚古墳 8 上溝天神塚古墳 9 おかん塚古墳 10 塚越1号古墳 11 御猿堂古墳 12 馬背塚古墳 10 11 12 狐塚1号古墳
スライド 1
まちづくり計画策定担い手支援事業 ( 参考資料 ) ( 参考 1-1) まちづくり計画策定担い手支援事業の活用イメージ < 例 1> 防災上問題のある市街地の場合 ~ 密集市街地 重点密集市街地 ~ 1. 住んでいる地区が密集市街地なので 耐震性 防火性を向上させたい そのためには 建物の建替えを促進することが必要 2. 地区内の道路が狭いため 現状の建築規制では 建替え後は今の建物より小さくなってしまい
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第 4 学年算数科学習指導案 平成 2 年 10 月 17 日 ( 月 ) 授業者川口雄 1 単元名 面積 2 児童の実態中条小学校の4 年生 (6 名 ) では算数において習熟度別学習を行っている 今回授業を行うのは算数が得意な どんどんコース の26 名である 課題に対して意欲的に取り組むことのできる子どもである 特に 友達と相談し合いながら解決しようという姿がよく見られる 量と測定 の内容では4
Microsoft Word - (新)滝川都市計画用途地域指定基準121019
滝川都市計画用途地域指定基準 1 第一種低層住居専用地域 ア. 低層住宅に係る良好な住居の環境を保護することが必要な区域 イ. 計画的な住宅地開発が見込まれる区域で 良好な低層住宅に係る土地利用が予定されている区域 ウ. 相当規模の計画的な住宅開発が見込まれるが 土地利用計画の区分が困難な場合で 道路などの整備の関係から 当面建築行為が見込まれない場合は 開発区域全体を第一種低層住居専用地域とすることができる
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強化プラスチック裏込め材の 耐荷実験 実験報告書 平成 26 年 6 月 5 日 ( 株 ) アスモ建築事務所石橋一彦建築構造研究室千葉工業大学名誉教授石橋一彦
強化プラスチック裏込め材の 耐荷実験 実験報告書 平成 26 年 6 月 5 日 ( 株 ) アスモ建築事務所石橋一彦建築構造研究室千葉工業大学名誉教授石橋一彦 1. 実験目的 大和建工株式会社の依頼を受け 地下建設土留め工事の矢板と腹起こしの間に施工する 強 化プラスチック製の裏込め材 の耐荷試験を行って 設計荷重を保証できることを証明する 2. 試験体 試験体の実測に基づく形状を次に示す 実験に供する試験体は3
強化 LVL 接合板および接合ピンを用いた木質構造フレームの開発 奈良県森林技術センター中田欣作 1. はじめに集成材を用いた木質構造で一般的に用いられている金物の代わりに スギ材単板を積層熱圧した強化 LVL を接合部材として用いる接合方法を開発した この接合方法では 集成材と接合板である強化 L
強化 LVL 接合板および接合ピンを用いた木質構造フレームの開発 奈良県森林技術センター中田欣作 1. はじめに集成材を用いた木質構造で一般的に用いられている金物の代わりに スギ材単板を積層熱圧した強化 LVL を接合部材として用いる接合方法を開発した この接合方法では 集成材と接合板である強化 LVL の同時穴あけ加工が容易に行えるため 現場での加工性と接合精度が非常に良くなる また 金物を用いたときの課題とされる火災安全性
日本語「~ておく」の用法について
論文要旨 日本語 ~ ておく の用法について 全体構造及び意味構造を中心に 4D502 徐梓競 第一章はじめに研究背景 目的 方法本論文は 一見単純に見られる ~ておく の用法に関して その複雑な用法とその全体構造 及び意味構造について分析 考察を行ったものである 研究方法としては 各種辞書 文法辞典 参考書 教科書 先行研究として ~ておく の用法についてどのようなもの挙げ どのようにまとめているかをできる得る限り詳細に
アイヌ政策に関する世論調査 の概要 平成 3 0 年 8 月内閣府政府広報室 調査対象 全国 18 歳以上の日本国籍を有する者 3,000 人 有効回収数 1,710 人 ( 回収率 57.0%) 調査時期平成 30 年 6 月 28 日 ~7 月 8 日 ( 調査員による個別面接聴取 ) 調査目的
アイヌ政策に関する世論調査 の概要 平成 3 0 年 8 月内閣府政府広報室 調査対象 全国 18 歳以上の日本国籍を有する者 3,000 人 有効回収数 1,710 人 ( 回収率 57.0%) 調査時期平成 30 年 6 月 28 日 ~7 月 8 日 ( 調査員による個別面接聴取 ) 調査目的 アイヌ政策に関する国民の意識を把握し 今後の施策の参考とする 調査項目 アイヌとう民族につて 民族共生象徴空間
平成 21 年度全国学力 学習状況調査結果の概要と分析及び改善計画 調査実施期日 平成 21 年 10 月 2 日 ( 金 ) 教務部 平成 21 年 4 月 21 日 ( 火 )AM8:50~11:50 調査実施学級数等 三次市立十日市小学校第 6 学年い ろ は に組 (95 名 ) 教科に関す
平成 21 年度全国学力 学習状況調査結果の概要と分析及び改善計画 調査実施期日 平成 21 年 月 2 日 ( 金 ) 教務部 平成 21 年 4 月 21 日 ( 火 )AM8:~11: 調査実施学級数等 三次市立十日市小学校第 6 学年い ろ は に組 (95 名 ) 教科に関する調査の結果 知識 に関する問題 (A 問題 ) の結果 ( 県 ) 国語 算数はいずれも全国平均を上回っており,
さいたま市消防用設備等に関する審査基準 2016 第 4 渡り廊下で接続されている場合の取り扱い 155 第 4 渡り廊下で接続されている場合の 取り扱い
第 4 で接続されている場合の取り扱い 155 第 4 で接続されている場合の 取り扱い 156 第 3 章消防用設備等の設置単位 とが地階以外の階においてその他これらに類するもの ( 以下 とい う 同じ ) により接続されている場合は 原則として 1 棟であること ただし 次の 2 から 6 までに適合している場合 別棟として取り扱うことができる 1 この項において 吹き抜け等の開放式の とは
監査に関する品質管理基準の設定に係る意見書
監査に関する品質管理基準の設定に係る意見書 監査に関する品質管理基準の設定について 平成 17 年 10 月 28 日企業会計審議会 一経緯 当審議会は 平成 17 年 1 月の総会において 監査の品質管理の具体化 厳格化に関する審議を開始することを決定し 平成 17 年 3 月から監査部会において審議を進めてきた これは 監査法人の審査体制や内部管理体制等の監査の品質管理に関連する非違事例が発生したことに対応し
Microsoft Word - ④「図形の拡大と縮小」指導案
第 6 学年 算数科 ( 習熟度別指導 ) 学習指導案 単元名図形の拡大と縮小 単元の目標 身の回りから縮図や拡大図を見付けようとしたり 縮図や拡大図の作図や構成を進んでしようとす ( 関心 意欲 態度 ) 縮図や拡大図を活用して 実際には測定しにくい長さの求め方を考えることができ( 数学的な考え方 ) 縮図や拡大図の構成や作図をすることができ( 技能 ) 縮図や拡大図の意味や性質について理解することができ
平成15年度 家庭科 年間指導・評価計画
家庭科 2 学年年間指導 評価計画 時数 累計 題材名 ( ねらい 学習活動 ) 関心 意欲 態度 ( 発表 ノート 実習等 ) 創意工夫 ( 作品 ノート ワーク 実習等 ) 観点別評価と評価基準 技能 ( 作品 プリント 実習等 ) 知識理解 ( テスト 作品 ワーク ノート等 ) 十分満足 (A) 概ね満足 (B) 十分満足 (A) 概ね満足 (B) 十分満足 (A) 概ね満足 (B) 十分満足
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国の中心地であり 近世には中山道 通の要衝となってきました 古代美濃 通路であったため 古来より垂井は交 坦部が畿内と美濃以東を結ぶ重要な交 隘な平坦地となっており この狭い平 の西部は両山地に挟まれた極めて狭 古代におけ 考えられます 構えていたと 部の高燥地に け 扇頂 扇央 の低湿地を避 は扇状地扇端 東西交通の要衝として 栄えてきた垂井町 岐阜県不破郡垂井町は 岐阜県の南 垂井宿として栄えてきましたが
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日本人の食事摂取基準 ( 概要 )( 抜粋 ) 1 策定の目的食事摂取基準は 健康な個人または集団を対象として 国民の健康の維持 増進 エネルギー 栄養素欠乏症の予防 生活習慣病の予防 過剰摂取による健康障害の予防を目的とし エネルギー及び各栄養素の摂取量の基準を示すものである 2 策定方針 設定指標 食事摂取基準 (Dietary Reference Intakes) として エネルギーについては
新潟県立歴史博物館研究紀要第4号
新潟県立歴史博物館研究紀要 写真1 第4号 2003年3月 塙東遺跡の土器1 6 層 は 3層 に隣接して ローム の直上に堆積する 石組の南側で 5ピットの開口部の平面位 置から出土した土器4及び その 下部より出土 した土器5は ローム の直上 3層 相当の垂 直位置にある 第1図D これらの土器3 5は 土器1に共伴して 同じ住居跡の床面付近から出 土したものと想定されることになる この想定は
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の 年 間 発 注 見 通 し ( 平 成 28 年 4 月 ) むつ 市 財 務 部 管 財 課 の 年 間 発 注 見 通 し 一 覧 表 ( 28 年 度 第 1 四 半 期 ) 担 当 課 名 の 名 称 の 場 所 期 間 の 種 別 概 要 入 札 契 約 の 方 法 入 札 契 約 の 時 期 防 災 政 策 課 防 災 行 政 用 無 線 屋 外 子 局 設 置 整 備 むつ
~ ~
~ ~ 古 墳 群 は, 弥 栄 町 西 端, 網 野 町 との 町 境 の 標 高 4 1~81m の 丘 陵 上 lζ 分 布 する こ 乙 は, 2~30 33~39 号 墳 ま 調 査 の 結 果 6 7 10 1 4 17 28 29 30 33~39 号 墳 については, 古 墳 として 認 8~ (3) の 段 階 ではそれぞれ 土 師 器 高 杯 が 2~3 3~5 8 9 1
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経済学第 4 章資源配分と所得分配の決定 (2) 4.2 所得分配の決定 中村学園大学吉川卓也 1 所得を決定する要因 資源配分が変化する過程で 賃金などの生産要素価格が変化する 生産要素価格は ( 賃金を想定すればわかるように ) 人々の所得と密接な関係がある 人々の所得がどのように決まるかを考えるために 会社で働いている人を例にとる 2 (1) 賃金 会社で働いている人は 給与を得ている これは
ポイント 〇等価尺度法を用いた日本の子育て費用の計測〇 1993 年 年までの期間から 2003 年 年までの期間にかけて,2 歳以下の子育て費用が大幅に上昇していることを発見〇就学前の子供を持つ世帯に対する手当てを優先的に拡充するべきであるという政策的含意 研究背景 日本に
子育て費用の時間を通じた変化 日本のパネルデータを用いた等価尺度の計測 名古屋大学大学院経済学研究科 ( 研究科長 : 野口晃弘 ) の荒渡良 ( あらわたりりょう ) 准教授は名城大学都市情報学部の宮本由紀 ( みやもとゆき ) 准教授との共同により,1993 年以降の日本において,2 歳以下の子供の子育て費用が大幅に増加していることを実証的に明らかにしました 研究グループは 1993 年において
北部大阪都市計画彩都地区計画 ( 案 ) 北部大阪都市計画彩都地区計画を 次のとおり変更する 1. 地区計画の方針 名称彩都地区計画 位 置 茨木市大字粟生岩阪 大字宿久庄 大字清水 大字佐保 大字泉原 大字千提寺 大字大岩 大字福井 大字大門寺 大字生保 大字安威 山手台一丁目 山手台三丁目 山手
北部大阪都市計画彩都地区計画 ( 案 ) 北部大阪都市計画彩都地区計画を 次のとおり変更する 1. 地区計画の方針 名称彩都地区計画 位 置 茨木市大字粟生岩阪 大字宿久庄 大字清水 大字佐保 大字泉原 大字千提寺 大字大岩 大字福井 大字大門寺 大字生保 大字安威 山手台一丁目 山手台三丁目 山手台七丁目 東福井四丁目 彩都あさぎ一丁目 彩都あさぎ二丁目 彩都あさぎ三丁目 彩都あさぎ四丁目 彩都あさぎ五丁目
「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けて
主体的 対話的で深い学び の 実現に向けて 國學院大學教授田村学 学習指導要領改訂の方向性 新しい時代に必要となる資質 能力の育成と 学習評価の充実 学びを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力 人間性の涵養 生きて働く知識 技能の習得 未知の状況にも対応できる思考力 判断力 表現力等の育成 何ができるようになるか よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を共有し 社会と連携 協働しながら
図 1 平成 19 年首都圏地価分布 出所 ) 東急不動産株式会社作成 1963 年以来 毎年定期的に 1 月現在の地価調査を同社が行い その結果をまとめているもの 2
調査レポート 地価構成の類型化とさいたま市の地価分布 はじめに一般的に地価は その土地を利用して得られる収益 ( 便益 ) に応じて形成されるものと考えられる 例えば 大規模ターミナル駅周辺では 商業や業務の需要も多く 高い地価水準となる 一方 駅から概ね徒歩 3 分以上の場所の土地は バス等の交通手段が整っていない場合 住環境が整っている場合でも地価は限定され低廉な値段となる また 人々が便利だと感じる度合いによって
( ) 単元計画 ( 全 6 時間 ) 段階 主な学習活動と内容 指導上の留意点 配時 私たちが食べているものは, どこからきて 既習を想起できるように, 農業や いるか考える 水産業の学習内容を掲示しておく 給食の献立から調べた食料自給率から, 給食の献立から調べた食料自給率本つ気づいたことや疑問
単元名 これからの食料生産 第 学年社会科 ( 食育 ) 学習指導案 曰佐小学校 年 2 組 担任窪田浩之 栄養教諭林田洋司子 2 指導観 子どもたちは, これまでに農業や水産業の学習で, 我が国の食料生産物の分布や土地利用の特色, 食料生産に従事している人々の工夫や努力, 水産業の輸入など, 様々な食料生産が国民の食生活を支えてきていることを学習してきている しかし, 毎日不自由なく食事をしていることやスーパーやコンビニエンスストアなどで多くの食料品が売られていることなどから,
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小学校第 6 学年家庭科学習指導案 1 題材名 楽しい食事をくふうしよう 日時 : 平成年月日 ( ) 限指導者 : T1 教諭 T2 栄養教諭 ( 学校栄養職員 ) 場所 : 2 題材の目標 毎日の食事に関心を持ち 食事を作るときの視点に気づき 家族と楽しい食事をしようとす 関心 意欲 態度 栄養的なバランスを考えて 1 食分の食事を工夫し 調理計画を立てることができ 創意 工夫 調理計画に基づいて手順よく食事を整えることができ
高齢者におけるサルコペニアの実態について みやぐち医院 宮口信吾 我が国では 高齢化社会が進行し 脳血管疾患 悪性腫瘍の増加ばかりでなく 骨 筋肉を中心とした運動器疾患と加齢との関係が注目されている 要介護になる疾患の原因として 第 1 位は脳卒中 第 2 位は認知症 第 3 位が老衰 第 4 位に
高齢者におけるサルコペニアの実態について みやぐち医院 宮口信吾 我が国では 高齢化社会が進行し 脳血管疾患 悪性腫瘍の増加ばかりでなく 骨 筋肉を中心とした運動器疾患と加齢との関係が注目されている 要介護になる疾患の原因として 第 1 位は脳卒中 第 2 位は認知症 第 3 位が老衰 第 4 位に関節疾患 5 位が骨折 転倒であり 4,5 位はいずれも運動器が関係している 骨粗しょう症のメカニズムの解明
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基にして小 三原市立久井中学校第 2 学年国語科学習指導案単元名 : いろいろな説明を書き分けよう書き分けよう 食の世界遺産食の世界遺産 小泉武夫 指導者 : 三原市立久井中学校井上靖子 1 日時 : 平成 2 6 年 1 2 月 16 日 ( 火 ) 第 2 校時 9:4 5~1 0:3 5 2 場所 : 2 年 A 組教室 3 学年 学級 : 第 2 学年 A 組 ( 男子 1 3 名女子 1
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東京都市計画の変更 ( 新宿区決定 ) 都市計画を次のように変更する 面積欄の ( ) 内は変更前を示す 種類面積建築物の高さの最高限度又は最低限度備考 第 1 種 第 1 種第 2 種 第 2 種 30m 第 2 種最高第 3 種限 度第 3 種 30m 第 3 種 40m 第 3 種 30m 40m 約 ha 建築物の各部分の高さ ( 地盤面からの高さによる 以下同じ ) は 当該部分から 121.2
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1 Chikatada Kurata MITSUO OHKAWA 1950 1984 1992 1997 2008 281895226 219139 419159 91920 111922 11 2 5193061931 1 6 19261927 1927 9q werty 61920 192019281928 1929 1927 10 41930 1926 4 INAX REPORT No.177
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教育実践学研究 23,2018 1 Studies of Educational Psychology for Children (Adults) with Intellectual Disabilities * 鳥海順子 TORIUMI Junko 要約 : 本研究では, の動向を把握するために, 日本特殊教育学会における過去 25 年間の学会発表論文について分析を行った 具体的には, 日本特殊教育学会の1982
習う ということで 教育を受ける側の 意味合いになると思います また 教育者とした場合 その構造は 義 ( 案 ) では この考え方に基づき 教える ことと学ぶことはダイナミックな相互作用 と捉えています 教育する 者 となると思います 看護学教育の定義を これに当てはめると 教授学習過程する者 と
2015 年 11 月 24 日 看護学教育の定義 ( 案 ) に対するパブリックコメントの提出意見と回答 看護学教育制度委員会 2011 年から検討を重ねてきました 看護学教育の定義 について 今年 3 月から 5 月にかけて パブリックコメントを実施し 5 件のご意見を頂きました ご協力いただき ありがとうござい ました 看護学教育制度委員会からの回答と修正した 看護学教育の定義 をお知らせ致します
