歴史の発見があるすばらしいまち中央林間! 中央林間 つきみ野の地域は 自然が豊かで閑静な住宅街というイメージがありますが すこし調べてみると さまざまな歴史を発見できるすばらしいまちであることが分かります 子ども達も大人の方も ぜひ郷土の歴史を知って さらにこの地域に愛着をもってほしいと願っています それでは 以下の 5 つのテーマについて これからご紹介していきましょう その1 その2 その3 その4 その5 日本最古の土器が見つかったまち義経の財宝が眠るまち日本で最初の上水道が通っているまち昔 用水路が通っていたまち林間都市計画があったまち
歴史発見その 1 1 日本最古の土器が見つかったまち 土器とは 土でつくったうつわを火でやいて じょうぶにしたものです 1960( 昭和 40) 年ころから 家が建てられ始めたつきみ野では 工事をするたびに赤土から多くの石器 ( 大昔の人が使った石の道具 ) が見つかりました 2 万 6 千年前ごろから この地域を流れていたメグロ川のほとりで 人々がナウマンゾウや魚などのえものをとって くらしていました つる舞の里歴史資料館 そして今のつきみ野駅近くで発見された 上野遺跡 ( かみのいせき ) からは 日本で一番古いとされる土器のかけらが見つかったのです この発見により つきみ野 という地名は その当時 日本中で有名になったそうです 右下の写真は やまと歴史マップ 2001 より転載
歴史発見その 1 2 日本最古の土器が見つかったまち この地域には 大昔 北から南に向かってメグロ川という川が流れていました 現在では 住宅地や道路に覆われて つきみ野野球場あたりからしか見ることはできません 右の絵は 旧石器時代の このあたりの生活を想像し て描かれたものです メグロ川がそばを流れて いますね 右の絵は つる舞の里歴史資料館展示パネル より転載
歴史発見その 1 3 日本最古の土器が見つかったまち 宅地開発された頃のつきみ野の写真です今のつきみ野駅は 青い丸のあたりです 左の写真は 現在の目黒川 赤い丸の付近になります残念ながら今は コンクリートで囲われたドブ川です 昔の目黒川は 大きくてきれいな川だったそうです当時の子どもたちは 魚をとったり川下りをしたりして遊んだそうです 右の写真は 市の 地名表示板 ( つきみ野野球場付近 ) より転載
歴史発見その 2 1 義経の財宝が眠るまち 1974 年頃の旧浅間神社 大和市史 第 8 巻より転載 現在のようすスカイハイツの南側に小高い丘があり 今では わずかな林が残っています 国道 16 号線が通る前には 浅間神社がこの地にありました ここには はるか昔 あの有名な義経 ( よしつね ) がおとずれて財宝をうめたという伝説が残されているのです 因みに この場所は 大和市最高標高地点 ( 海抜 90m) となっています
歴史発見その 2 2 義経の財宝が眠るまち 源義経 ( みなもとのよしつね ) は 鎌倉時代に兄の頼朝 ( よりとも ) と二人で日本を武士の世の中にした人です 戦いに強く 弁慶 ( べんけい ) という家来をしたがえて とても人気のあった人でした ここにこんな伝説があります その昔 義経が鎌倉にいる兄の頼朝に会いに行ったが 会ってもらえず しかたがなく京都に帰るとちゅう この浅間神社で一晩 泊まることにした そしてそのお礼にと 兄へのみやげの財宝をこの境内のどこかに埋めた 本当の話かどうかわかりませんが ロマンのあるお話ですね このお話は 大和市教育委員会により絵本にまとめられてあります 大和の民話 伝説シリーズ第 3 巻 浅間神社と義経の財宝 表紙の絵 (H21.3.31 大和市教育委員会 )
歴史発見その 3 1 日本で最初の上水道が通っているまち 中央林間小の南がわに さくらの散歩道 が通っています この道の下には なんと 横浜水道 がうめられているのです その水道菅は 3 号公園や田園都市線が境川を渡るあたりで見ることができます いつごろから? どうしてこの地域に水道管がとおされたのでしょうか? つきみ野 3 号公園 アーチ型の水道管
歴史発見その 3 2 日本で最初の上水道が通っているまち 明治のはじめころ 海をうめ立ててできた横浜の町では おいしい水が手に入らず 人々は困っていました そこでイギリス人のパーマーという人に頼んで 道志川 ( 当時の津久井郡三井村 ) から横浜まで水道管をうめて おいしい水をはこぶことにしました この時使われたのが 鉄製の水道管でした そこに圧力かけて水を送り込む 日本で最初の近代水道でした これで安定して水をとどけることができるようになり 横浜の人たちは喜んだということです 今 テニスコート近くの さくらの散歩道 付近に 古くなった横浜水道の仕切弁が展示されています 日本で最初の近代水道がこの地域をとおっているなんて 少しじまんしたくなりますね 1862 年頃の横浜 国立国会図書館ウェブサイトより転載 さくらの散歩道に展示の仕切弁
歴史発見その 4 1 昔 用水路が通っていたまち 学区には 右の写真のように歩行者専用道が通っています 実は この道は 以前は用水路だったということを知っていますか? この用水路の正式な名前は 相模原畑地かんがい用水 といい 神奈川県が食糧増産を目的として 昭和 23(1948) 年から長期計画で 相模原から大和 藤沢までの台地上に 相模川の水を引こうとしたものです しかし 昭和 30 年代に入り 住宅地が増えたり工業がさかんになったりしたため 完成から間もなく使われなくなった悲しい歴史があります 当時は 夏ともなると相模川からの水がいおいよく流れてきて 魚つりもできたそうです 今では人々がゆっくり散歩する場所ですね
歴史発見その 4 2 昔 用水路が通っていたまち 左下の写真は つきみ野中学校前の遊歩道 ( 大和市歩行者専用道 ) です ここにも 昔は用水路がとおっていました これは 本線 ( 太い用水路 ) で 1m 以上の深さがありました そこから両側の畑に水を引くための支線 ( 細い用水路 ) もありました この支線は 地域の人たちが自分たちでつくることが多く 作業の時には 子ども達も手伝ったそうです 右下の写真は このそばの畑に今も残っている支線の跡です ここに流れてきた水をサイホン (U 字型のホース ) という道具で 自分の畑にとり入れていたということです サイホンと使用イメージ
歴史発見その 5 1 林間都市計画があったまち 東林間都市中央林間都市南林間都市小田急江ノ島線 1929 年 ( 昭和 4 年 ) 小田急江ノ島線開通 当時の中央林間につくられた駅は 中央林間都市 ( ちゅうおうりんかんとし ) という名前でした 南林間も東林間も同じでした どうして 都市 という言葉がつけられたのでしょう? 実は 小田急電鉄は 鉄道の開通と同時に 林間都市計画 をすすめていたのです このあたりを大きな都市にしようと考えていたのです 道路を新しくつくったり 住宅地の他 公園 野球場 サッカー場 すもうの訓練所 映画の撮影所などをつくったりしました ところが 昭和のはじめころの不景気のため ここに住む人はそれほど増えず 計画は実現されませんでした そして 1941( 昭和 16) には 駅の名前から 都市 がはずされて 今のように 中央林間 となったそうです
歴史発見その 5 2 林間都市計画があったまち 現在もある相模カンツリーゴルフクラブ 南林間では 今でも道路が碁盤目のようですね 中央林間では 放射状の道路が今も残っていますね 中央林間都市駅 南林間都市駅 林間都市区割平面図 大和写真館 より転載
歴史の発見があるすばらしいまち中央林間! いかがでしたか? 中央林間 つきみ野の地域には 歴史的に見てとてもおもしろい話題がたくさんあります 学区にある つる舞の里歴史資料館 では この地域で見つかった遺物などを展示してありますので きょうみのある方は ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょう これからもますます発展していく この中央林間 つきみ野の地域です 新しいことだけでなく これまでの先人が築いてきた歴史を忘れることなく いつまでもこのすばらしい郷土を大切にしていきたいですね 本ページ作成にあたって 大和市役所より快く資料提供いただきましたことに深く感謝申し上げます 中央林間駅東側信号の近くにある 2 代目の大松