た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

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(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

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2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

を与えられて 祈りつつ取り組んで行くように導かれる ですから私たちは自分の願い事を一方的に神に祈る祈りはやめて まず聖書を通してまず神を見上げること 御名を賛美することから始めたいのです そのような神への賛美また信仰告白から始まる祈りこそ祝福される祈りの基礎です さて第 2 の祈りは 御国が来ますよ

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

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2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

創世記5 創世記2章4節b~25

牧会の祈り

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

Derek Prince Ministries Asia-Pacific THE TEACHING LEGACY OF DEREK PRINCE MINISTRIES ARCHIVE The Battlefield of the Mind - Derek

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

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神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

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牧会の祈り

2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

牧会の祈り

最初に 女の子は皆子供のとき 恋愛に興味を持っている 私もいつも恋愛と関係あるアニメを見たり マンガや小説を読んだりしていた そしてその中の一つは日本のアニメやマンガだった 何年間もアニメやマンガを見て 日本人の恋愛について影響を与えられて 様々なイメージができた それに加え インターネットでも色々

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た私の霊が住んでいる大事な住居として用いるようにされており 私であるという強い自意識を持ちながら からだも心も性格もあらゆる特徴も 私らしさという特質を持った者として生かされているのです * それは 後に与えられると言われている霊のからだ 朽ちないからだと表現されている 天に属するよみがえりのからだ

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

3 仲介者としての祭司たちが存在していた (2) 新約時代の状態 1すべての信者が まことの聖所に入ることができる * 天の聖所で 神の臨在の前に出ることができる 2これは 万人祭司の教えである 3 訳文の比較 こういうわけですから 兄弟たち 私たちは イエスの血によって 大胆にまことの聖所に入るこ


聖書 :Ⅱ サムエル 20:1~26 説教題 : シェバの反乱 日時 :2019 年 2 月 10 日 ( 夕拝 ) サムエル記第二は 24 章までありますが 最後の 21~24 章は 20 章までと区別されます 最後の 4 章はサムエル記を閉じるにあたっての結びあるいは付録の部分です ですから今日

で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

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  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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B2 神はどのようなお方か 1Chro.29:10-12 Dt.10:12-13 Ps.95:1-7 B3 イエス キリストはどのようなお方か John.14:8-10 Mk.6:31-56 John.10:30-33 Heb.2: John.4:2-3 2John.7-10 B4 三位

29 Vol.127

2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

HからのつながりH J Hでは 欧米 という言葉が二回も出てきた Jではヨーロッパのことが書いてあったので Hにつながる 内開き 外開き 内開きのドアというのが 前の問題になっているから Hで欧米は内に開くと説明しているのに Jで内開きのドアのよさを説明 Hに続いて内開きのドアのよさを説明している

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

ます しかしこれでは義に飢え渇いているとはとても言えないのではないでしょうか また自分の生活を振り返って こう質問してみてください 自分は果たして毎日をどんな基準によって歩んでいるだろうか と 神から見て何が正しいことかを考え その義に従って義の道を歩もうとしているか それとも義のことはあまり考えず

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

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2014 年 10 月 7 日 ( 火 ) 60 分で分かる創世記 60 分で分かる創世記 1. はじめに (1) 60 分で分かる〇〇 のシリーズを開始する 11 節 1 節の解説も重要であるが 鳥瞰図的な理解も必要である 2その場合重要なのは センス オブ プロポーション である (2) 創世記

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に

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一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

あなたへの 聖書メッセージ ヨハネの福音書 3 章 16 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神は 実に そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された それは御子を信じる者が ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つためである この ヨハネ 3 章 16 節のみことばは 聖書 66 巻の

현장 전도를 위한 1단계 전도훈련교재 4

(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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しイエス様は 5 章 20 節でこう言っておられました わたしはあなたがたに言います あなたがたの義が 律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ あなたがたは決して天の御国に入れません 律法学者やパリサイ人は 当時のユダヤの社会で最も道徳的な人たちと敬われていた人々です 彼らは当然 自分たちは正

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

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例えば こちらの商品 私は何枚か売っている美味しい商品です ただ ランキングは結構上がったり 下がったりしています 5,000 位に入ってることもあれば 20,000 位とか 初めてこの商品を扱う人だと た

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2 A. その正体この獣について その正体 いったいだれのことなのかを見ていきましょう 黙示録 16:13を見てください また 私は竜の口と 獣の口と にせ預言者の口とから かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た 竜の口 獣の口 にせ預言者の口 と書かれています すでに 私たちは竜はサタン

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マタイ 10 章 39 節 失うから見出す命 1A 天の御国と闇の国 1B 狼の中の羊 2B 主人の受けた仕打ち 3B キリストの告白 2A 平和でなく剣 1B 家族関係 2B 社会関係 3B 自己実現 3A 自己中心な社会 1B 自分探し の援助活動 2B 自分探し の弟子活動 3B 探せば失う原

ヘブル人への手紙1章

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失敗がこわいから ルールに反するから 仕事をしてるから 恥ずかしいから 人脈がないから 女だから で ほんとはどうしたいの?名言集 01.indd p11 修正時間 2016 年 10 月 13 日 17:35:42 名言集 01.indd p10 修正時間 2016 年 10 月 13 日 17:

学びの技・1章

Transcription:

聖書 : ローマ 8:1~4 説教題 : いのちの御霊の原理 日 時 :2015 年 10 月 25 日 聖書の中で最も好きな章はどこか? と尋ねたら 色々な答えがあると思いますが このローマ書 8 章と答える人は多いのではないでしょうか この章を読み始めてすぐ分かることは 御霊 についての言及が多いことです 7 章で 御霊 という言葉は 1 回しか出て来ませんが 8 章では 19 回出て来ます そして前の章で出て来た 7 章 6 節が 8 章の内容を予告していたと言えます 7 章 6 節では私たちは今や律法から解放され 新しい御霊によって仕えていると言われました その 新しい御霊によって仕える とはどういう生活なのか パウロは直ちに書き始めても良かったのですが 律法についての話が誤解されないように まずしっかりこれについて語っておく必要を感じ そのことを 7 章後半で述べて来ました それを終えていよいよ 8 章で御霊によって仕えるクリスチャンについて語って行くのです このように 御霊 が 8 章のキーワードになっていますが これと関わる形で前面に出て来るのは クリスチャンの救いの確かさ というテーマです 最後の 8 章 38~39 節では高らかな勝利の賛歌が歌われます ローマ書の一つの頂点と言えます 私はここを開くと 以前 天に召されようとしていた姉妹が病院の床で聖書を最初からずっと読んで やはりこのローマ書 8 章が一番ですね! とお話された時のことを思い起こします あらゆる不確実なものに取り囲まれている私たちにとって 何よりも確実なことを示してくれているのがこのローマ書 8 章と言えます また個人的にこの章には私が献身へと押し出されたみことばもあります その 8 章を開いていけることは本当に幸いなことと思います まず 1 節 : こういうわけで 今は キリスト イエスにある者が罪に定められることは決してありません 出だしから高らかな勝利宣言です キリスト イエスにある者はもう大丈夫である! と キリスト教信仰は 自分はどうなるのか最後まで分からないものではなく 確信を持ってこのように告白できるものです そう言える人は キリスト イエスにある者 と言われています すなわちキリスト イエスと結ばれている者です しかしもう少し具体的にこの節は何を言っているのでしょうか 罪に定められることは決してない とは この手紙の前半で見て来

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが 6 章 7 章で見て来たテーマです そしてすぐ思い起こすのは前回見た 7 章 23 節の言葉でしょう そこに 私は罪の律法のとりこになっている というパウロの言葉がありました そこで 律法 と訳された言葉は 法則 とか 原理 とも訳されるものです 8 章 2 節の 原理 と同じ言葉です パウロは 7 章 23 節で 自分は罪の律法あるいは法則の奴隷状態にあると述べて 24 節で 私は ほんとうにみじめな人間です だれがこの死の からだから 私を救い出してくれるのでしょうか と叫びました しかしこの 8 章 2 節では その罪と死の原理から解放された! と言われています 確かに地上にある限り 私たちには罪との戦いがあります しかし今や罪と死の原理からキリストにある者たちは解放された そのようにパウロは述べています ではキリストにある私に対して今 支配的力を持っているのは何でしょうか それが 2 節に いのちの御霊の原理 と記されています すなわちいのちをもたらす御霊こそ 私を支配し 統制する力であるということです パウロはこのことを心に覚えつつ 1 節で こういうわけで 今は キリスト イエスにある者が罪に定められることは決してありません と語ったと考えられます 罪に定める と言うと 裁判における裁判官の宣言的行為だけを指すように思いますが 注解書を見ると これは宣言の後に続く刑罰の状態をも含むと記されています すなわち罪と宣言され 罪の下に置かれること 罪の奴隷状態に置かれることです しかしその恐ろしい隷属状態からクリスチャンは今や解放されている! ということをパウロは言いたい キリストにある者は今や以前とは異なる力の下にある! ということをパウロは言おうとしているのだと考えられます このことをもう少し具体的に述べたのが 3 節です この 3 節のエッセンスを抜き書きすれば 律法にはできないことを神がしてくださった となるでしょう 律法にはできなくなっていること 律法の無力性 まさにこのテーマについて私たちは 7 章で見て来ました 7 章 12 節で見たように 律法は言うまでもなく聖なるもの 良いものです ところがその良い律法は私たちを救えない 律法は正しい道

を示してくれますが そうすればそうするほど それに違反している私たちの姿をさらけ出します そればかりが律法があると それに反抗しようとする私たちの罪の性質が目を覚まして起き上がり 一層悪へ進むための起爆剤になってしまう ですから律法は私たちを救えないのです その律法の下で私たちは だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか! と叫ぶより他ない しかし律法にはできなくなっていることを神はしてくださった! ここに神のみわざについての注目すべきいくつかのことが語られています まず一つ目は 神が これをしてくださったということです 私たちの救いは神から始まったということです 時々 イエス様は私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださった私たちの味方だが 神はイエス様に懇願されて渋々私たちを赦し 受け入れる厳しい方のように考える人がいますが そうではありません 聖書の多くの箇所が示していますように ここでも私たちの救いのために行動してくださったのは神であると述べられています ですから私たちはイエス様を礼拝するだけでなく このイエス様を遣わしてくださった父なる神に心からの礼拝をささげる者でなくてはなりません 二つ目に神は律法にはできないことを私たちにしてくださるために ご自分の御子を 遣わされました 御子 というのは神の最愛の御子なる神です 神は最も大事な方を私たちのために遣わしてくださった 三つ目に神はその御子を罪深い肉と同じような形でお遣わしになったとあります 微妙な言い方がここでなされています 罪深い肉と同じ という部分は 御子が私たちと同じ人間になられたことを指しています しかしよく注意して見ると 罪深い肉と同じ形 ではなく 同じような形 と言われています すなわちほとんど同じだが ある点は違う それは何かと言えば イエス様には罪がないということでしょう 罪があったら救い主にはなれません そこでこの点においては違う方として私たちのところに来られたのです そして四つ目に 肉において罪を処罰された イエス様は私たちの罪を背負って十字架で代わりにさばきを受けてくださいました しかしイエス様はただ受け身的に私たちの身代わりになっただけではありません イエス様はその死において死が持つ力を滅ぼされたのです 肉を切らせて骨を断つ という言葉があります イエス様が払われた犠牲は 肉を切らせる という程度では表現できない あまりにも大きいものです 神の御子が人となって払われた代償は無限の価値を持ちます しかしイエス様はその死によって 人間の上に圧倒的な支配権を持っていた罪の力を粉砕された 神はこの御子の肉において罪を

処罰 されたのです こうして私たちの上に力を振るっていた罪は無力化された のです そしてキリストを信じる者たちは いのちの御霊の原理に生かされる者と なったのです 私たちはこの御言葉に沿った自己イメージを持つことが大切だと思います すでに 6~7 章で私たちは 罪に対して死んだ とか 罪から解放されている とか 罪は私たちを支配しない と言われていることを見て来ました 私たちは今や罪のとりこの状態にはない もし自分はなおも罪のとりこの状態にあるかのように考えるなら どうなるでしょうか その結果は罪の生活を肯定することにつながるでしょう 私が罪に負けるのは当然である なぜなら私は今も罪の力の下にあるのだから と そして罪と戦うようにとの聖書の勧めは土台無茶な注文にしか聞こえなくなる 天国に行くまで罪に負け続けるのはやむを得ない これを知っているのが良くわきまえたクリスチャンであると逆に胸を張ったりもする しかしパウロが言っていることは クリスチャンを取り巻く原理は変わったということです なお最後の日まで罪との戦いはあるが キリストにある者は新しい原理 法則 力に生きている 罪と死の原理ではなく いのちの御霊の原理に生きている 罪はすでに処罰された 圧倒的な力を今の私に対しては持っていない ここに聖化の基礎があるのです そして今やいのちの御霊の原理のうちにあるということこそ 私たちが必ず最後の勝利へと至るという確実性の根拠なのです 最後の 4 節には この神のみわざの目的が述べられています 神がいのちの御霊の原理によって私たちを罪と死の原理から解放してくださったのはなぜでしょうか その目的としてここに 律法の要求が全うされるため とあります すなわち私たちが律法に従って歩むということです ある人はこれは一見矛盾しているのではないかと思うかもしれません 律法から解放されたと言われて来たのに その律法を行なうことがここに語られている と しかしここに聖書の救いは何であるかが示されています 聖書が言う救いは キリストを信じて罪の罰を免れ 後は好き勝手に歩んでも良いというものではありません 律法から解放された とは もはや律法にとらわれず 自分が良いと思う方法で神に従って行けば良いということではありません 救いとはさばきを免れるだけではなく 私たちが聖く変えられていくことも含みます Ⅰテサロニケ 4 章 3 節 : 神のみこころは あなたがたが聖くなることです では聖くなるとは具体的にどうすることなのでしょうか それ

が律法に従って歩むということです 律法は聖なる良いものであり 聖なる神ご自身を映し出す鏡です ですからこの律法に従う歩みに 神に益々似る者となるための道があるのです あるいはキリストに似た者となるための具体的な道があるのです 律法が私たちの救いと切り離せないものであることは 旧約時代から言われて来ました たとえばエゼキエル 36 章には神の約束として あなたがたに新しい心を与え あなたがたのうちに新しい霊を授ける とあり こう続きます わたしの霊をあなたがたのうちに授け わたしのおきてに従って歩ませ わたしの定めを守り行なわせる またエレミヤ書 31 章 33 節にも わたしはわたしの律法を彼らの中に置き 彼らの心にこれを書きしるす とあります ですから律法は捨てるべきものではないのです むしろ律法の要求が私たち一人一人の生活に具体的に全うされて行くことが救いなのです これはエゼキエル書も述べていたように 御霊によって私たちに可能になることです 人間の肉の力では 律法そのものが良くても 何ら良き実は結べません しかしいのちの御霊の原理のもとでこれは全うされて行くのです これは私たちにとってチャレンジであり 励ましでしょう 私たちはイエス様を信じて私は救われたと言って あとは天国に入るまで何もすることがない暇な人間であるかのように思ってはならないのです あるいはイエス様を信じて義と認められても 相変わらず自分は罪の下にあると考えて どうせ私は罪の力には打ち勝てないと敗北宣言をし 罪の生活を肯定し そこに居座ってもならないのです パウロが今日の箇所でも述べていることは 私たちは義認の恵みを頂いただけでなく 新しい状態にも生かされているということです 今や私を支配する原理は変わった キリストにある私はいのちの御霊の法則の下にある その私に対して神は明確な目的を持っています それは律法の要求が私のうちに全うされていくことです 神に益々似る者へと造り変えられて行くことです 神が御子を遣わし その十字架の犠牲を通して罪の力から解き放ってくださったのは この新しい生に私たちが生きるためなのです