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2015 創刊号

鞠智城跡出土の鍛冶関連遺物の考察 同田貫 ( どうだぬき ) との関連について 歴史公園鞠智城 温故創生館 西住欣一郎 1 鞠智城跡の概要鞠智城跡は 東アジアの情勢が緊迫した7 世紀後半に 白村江の戦い (663) の敗戦を契機に北部九州の防衛拠点の一つとして築造された古代山城である 鞠智城跡は 北部九州の防衛施設の中で 最も南にある その場所は熊本県北部にある阿蘇外輪山から西側の有明海に流れる菊池川 ( 総延長 72km) の中流域に位置している ( 第 1 図 ) その位置は菊池川河口から直線距離で約 27km 遡った所である 鞠智城跡の城域は約 55ha あり 山鹿市と菊池市の二市に及んでいる 熊本県教育委員会では 昭和 42 年度の第 1 次から平成 22 年度の第 32 次の発掘調査を行っている その発掘調査成果は 鞠智城跡 Ⅱ (2012) に総括されている その報告書では鞠智城 Ⅰ 期 ~ 鞠智城 Ⅴ 期の時期区分と変遷を明らかにしている 鞠智城 Ⅰ 期 (7 世紀第 3 四半期 ~ 第 4 四半期 ) Ⅰ 期は鞠智城の創建期である 創建年第 1 図九州の古代山城分布図代は 続日本紀 文武 2(698) 年に 繕治 した大野 基肄の 2 城の創建 (665) とほぼ同時期と推定している Ⅰ 期は 外郭線上に 3 箇所の城門 土塁線 城内に掘立柱建物 貯水池などを緊急的に整備し 城として最低限の機能を備えた段階と考えられる ( 矢野 2012) 鞠智城 Ⅱ 期 (7 世紀末 ~8 世紀第 1 四半期前半 ) Ⅱ 期は鞠智城の隆盛期である この時期には コ 字形に掘立柱建物を配置した管理棟 - 1 -

的建物群とそれらを取り囲む区画溝が出現する この遺構群の南側に八角形建物 写真 4 や総柱建物を配置するなど [ 第 3 図 ] 城内施設の充実が図られる 土器の出土量はこの時期が最も多く 城の管理 運営に多くの人員が配置されたものと考えられる ( 矢野 2012) 鞠智城 Ⅲ 期 (8 世紀第 1 四半期後半 ~ 第 3 四半期 ) Ⅲ 期は鞠智城の転換期である 城内の建物配置はⅡ 期を踏襲しながらも 総柱建物が小型礎石を使用した礎石建物に建て替えられる 出土土器の空白期に当たることから 城の存続上必要な最小限度の維持 管理がなされていたものと考えられる ( 矢野 2012) 鞠智城 Ⅳ 期 (8 世紀第 4 四半期 ~9 世紀第 3 四半期 ) Ⅳ 期は鞠智城の変革期である 管理棟的建物群の消失や貯水池中央部の機能低下がある一方 Ⅲ 期の礎石建物が大型礎石を使用した礎石建物に建て替えられ 食糧等の備蓄機能が主体となる これら建物群は 当該期末に焼失しており 文徳実録 天安 2(858) 年の不動倉火災との関連が想定される ( 矢野 2012) 鍛冶関 鞠智城 Ⅴ 期 (9 世紀連遺物第 4 四半期 ~10 世紀第出土地 3 四半期 ) Ⅴ 期は鞠智城の終末期である 城内の建物数は減少し 城の機能は低下するものの 大型の礎石建物を建て直すなど 食糧等の備蓄機能は存続する ( 矢野 2012) 2 鞠智城跡の鍛冶関連遺物について (1) 鞴の羽口 ( 第 2 図 第 3 図 ) 第 3 図は貯水池跡の 28 トレンチ11 層から出土した鞴の羽口片である 上端部と下端部とが欠損している 外器面 第 2 図鞠智城跡の平面図 - 2 -

第 4 図鉄滓実測図 には 縦方向に面取り調整が施されている その調整面の左右端部には稜が残っ第 3 図鞴の羽口実測図ている 孔の大きさは上端部が狭く 下部ほど広くなる 孔の直径は上端部で 1.8cm 下端部で 2.3cm を測る 上半分の全周は表面から内部まで 二次焼成を受けて灰黒色に変色している ( 木村 2012) この遺物には二次焼成の痕跡があるので 鍛冶を行う時の鞴の羽口として使用したものと考えることができる (2) 鉄滓 ( 第 2 図 第 4 図 ) 第 4 図は貯水池跡 F 地区の5 層から出土した鉄滓である 底部は椀状になっている 最大長 8.6cm 幅 7.4cm 厚さ 272g である ( 木村 2012) (3) 遺物の出土層位と時期 ( 第 5 図 第 6 図 ) 鞴の羽口 鉄滓は貯水池跡から出土している その出土層位は 鞴の羽口が11 層で 鉄滓が5 層である この出土層位から遺物の時期について検討してみる 貯 第 5 図貯水池跡 11 層出土遺物実測図 (1) - 3 -

貯水池跡 11 層から出土した主な遺物は 第 5 図 第 6 図の土師器と須恵器である これらの遺物を検討した結果 11 層出土遺物の時期は 7 世紀後半 ~8 世紀後半と考えることができる この時期は貯水池跡の10 層の堆積が始まる鞠智城 Ⅳ 期以前の鞠智城 Ⅰ 期から鞠智城 Ⅲ 期にあたる ( 木村 2012) このことから 11 層から出土した鞴の羽口の年代も同様な年代とすることできる 鉄滓は貯水池跡の5 層から出土している 5 層は陶磁器が出現してから以降の堆積層である 鉄滓以外の出土遺物に古代の須恵器 土師器 瓦などが出土している ( 木村 2012) 第 6 図貯水池跡 11 層出土遺物実測図 (2) - 4 -

5 層は中世以降に堆積した層であるが 遺物自体は古代のもので 鉄滓も鞴の羽口と同時代のものと考えることができる 鞠智城跡出土の製鉄関連遺物は生産過程のどの段階のものであるかを明らかにするために 他の古代山城の状況と比較検討してみる 3 他の古代山城の出土資料との比較 検討鞠智城以外の古代山城で鍛冶関連資料が確認されているのは7 箇所ある それらは 鬼城山 大廻小廻山城 永納山城 怡土城 鹿毛馬神籠石 大野城 金田城である これらの中で 鍛冶炉を確認しているのは 鬼城山と永納山城である ( 金田他 2013) (1) 鬼城山の鍛冶遺構と遺物 ( 第 7 図 第 8 図 写真 1) 鬼城山 ( 岡山県総社市 ) ではⅢ-1 区 Ⅲ-2 区 Ⅲ-3 区で古代の鍛冶遺構を確認している この3 調査区は城内から第 4 水門に流れる水流路に沿った状態で位置している ( 第 7 図 ) Ⅲ-1 区では 鍛冶炉 1 基が確認され 周辺から鉄滓 鍛造剥片 粒状滓 鉄器等が出土している Ⅲ- 2 区では 鍛冶炉 2 Ⅲ-1 区基が確認された その周辺地区から多 Ⅲ-2 区量の鉄滓や鞴羽口 Ⅲ-3 区が出土しており 鍛冶に伴う第 7 図鬼城山跡調査区位置図廃棄物を谷川に捨てたと想定されている Ⅲ-3 区で確認された遺構は 鍛冶工房と考えられている この工房は桁行 6 間以上の掘立柱建物 ( 覆屋 ) 内に 7 箇所以上の鍛冶炉が列状に並んでいる ( 第 8 図 ) 出土遺物としては 鞴羽口 鉄滓 鍛造剥片粒状滓 鉄塊系遺物 鉄器などがある ( 写真 1) これらの鍛冶遺構の時期は第 Ⅰ 期 (7 世紀後半 ~8 世紀初頭 ) である その操業は列状に配置された鍛冶炉とそれらを覆う建物の存在から 官営工房的な性格を想定している ( 金田他 2013) これら3カ所の鍛冶関連遺構から出土した遺物を抽出し 金属学的分析を行っている - 5 -

その結果は 製鉄遺跡で生産された原料鉄が鬼城山に搬入され 鍛練鍛冶を行っていたことが鉄滓の分析で明らかにされている ( 大澤 2013) つまり 城外から持ち込まれた鉄原料を用いて 築城に必要な加工工具や釘等の建築材を城内の鍛冶で生産する体制が整っていたことになる 鬼城山の東側谷を隔てた隣接地には 6 世紀後半から8 世紀前半まで製鉄を行っていた遺跡が7 箇所確認されている ここで生産された原料鉄が鬼城山に持ち込まれた第 8 図 Ⅲ-3 区鍛冶遺構実測図と考えられている ( 金田他 2013) (2) 永納山城の鍛冶遺構と遺物 ( 第 9 図 ~ 第 11 図 写真 2) 永納山城 ( 愛媛県西条市 ) では 東南端部のH22-1トレンチ北区で鍛冶関連遺構を確認している ( 第 9 図 ) これらの遺構は鍛冶炉 炭置き場 金床石である 遺構群は約 2m 四方の範囲に分布しており 鍛冶場の一写真 1 鍛冶関連の出土遺物作業形態を反映しているものと考えられている ( 第 10 図 ) 鍛冶炉は底部付近が確認されており 平面形は円形で 炉壁の立ち上がりが僅かに残っている ( 炉の内径 17cm) 鍛冶炉の東側約 1.5mの箇所に炭置き場が作られている 炭 - 6 -

H22-1 トレンチ 置き場は不正形な平面形をした掘り込み ( 約 90 85cm) で 深さ約 12cm を測る この掘り込みの埋土には3cm 前後の炭が多量に含まれている 金床石は鍛冶炉から約 65cm 南に配置されている 金床石は一部が欠損しており隅丸方形もしくは円形に近い平面形をしていたと思われる 残存部は角がとれ全体的に丸みがある ( 長さ約 40cm 幅約 23cm 厚さ約 22cm) 石の表面に鉄分が付着している ( 第 10 図 第 11 図 ) 鍛冶関連の遺物としては 鞴羽口 炉底滓 鍛造薄片 粒状滓などが出土している ( 写真 2) 炭置き場出土の木炭片のAMSによる年代測定により 637calAD - 666calAD ( 68.2 % ) 607calAD - 675calAD(94.4%) の結果がでている ( 渡邊 2012) 第 9 図永納山城跡調査区位置図 (3) 比較 検討の結果鬼城山跡や永納山城跡の鍛冶遺構と出土遺物を比較 検討をすると 鬼山城跡 永納山城跡と鞠智城跡の出土遺物には共通点がある このことから 鞠智城跡出土遺物も鍛冶遺構に伴うものと考えることができる 鞠智城跡の遺物出土地点は貯水池跡であり この場所は鍛冶作業に不可欠な水の確保が容易である 出土状況から 鞴の羽口 鉄滓が別の遺跡から搬入されたとは考えられない 鞠智城内の貯水池跡周辺の未調査箇所に鍛冶遺構が存在していると想定できる 第 10 図鍛冶遺構実測図 - 7 -

第 11 図鍛冶炉実測図 写真 2 鍛冶関連の出土遺物 4 県内の古代山城以外の鉄生産関遺構について県内の鉄生産関連遺跡の中で その内容が明確である遺跡として西原製鉄遺跡を挙げることができる それで この遺跡を概要について述べることにする 西原製鉄遺跡は三の岳製鉄遺跡群を形成する一つの遺跡であり 玉名郡玉東町原倉に位置する 遺跡は標高約 80~85mの丘陵の北側斜面に位置している 遺跡には隣接した北側 東側に小さな渓流が存在している 第 1トレンチで 2 基の炉を確認している 2 基の炉はほぼ並行して 緩やかな斜面に築かれており 斜面上方に炉背を向けている 1 号炉は極めて良好な状態で検出された 平面形は楕円形を呈しており 長径約 1.25m 短径約 1mである 炉頂の一部を欠いているが 炉床から炉頂までの 最も深いところで約 80cm を測る 本来の深さは約 80~100cm と推定される 炉頂は整地面より約 10~15cm 露出しており 半地下式構造になっており シャフト型の類型と考えたられる 炉背には約 17 25cm の送風口を確認した その穴の直下には ずれ落ちた状態で鞴羽口が出土している 炉の年代は平安時代と考えられている ( 松本 1980 第 12 図 ) この炉から出土した鉄滓の金属学的分析では 砂鉄原料の精錬滓との結果 である ( 大澤 1991) 第 12 図西原製鉄遺跡 1 号炉実測図 - 8 -

5 鞠智城と周辺地域の自然的環境と砂鉄について鉄生産の原料としての砂鉄に関して 鞠智城及びその周辺地域の状況について考えてみる 島原湾の熊本県側の沿岸部には 金峰火山を構成する安山岩類が分布している また 白川流域には大量の阿蘇火砕流堆積物も分布している こられの岩石や堆積物の中には鉄鉱物 ( おもに磁鉄鉱 ) が相当量含まれる 鉄鉱物は岩石が風化したり 洗いだされて海底に堆積する 鉄鉱物は重いので 小規模な鉱床を形成しているので砂鉄とし採集できる ( 渡邊 1998) さらに ASO-4に含有される強磁性鉱物 ( チタン磁鉄鉱 ) の数値は採集場所や岩相での不揃いが小さく ASO-4を識別する有効な指標とすることができる ( 矢ヶ部 1986) 言い換えれば ASO-4の中には 砂鉄成分であるチタン磁鉄鉱が含まれることになる 鞠智城内の米原地区のほぼ中央部 八角形建物跡 (32 33 号 ) の南西方向に約 60m 地点でボーリングでの試掘調査を行い 深度約 108mまでの掘削しでいる その結果 阿蘇火砕流層 2 枚 (ASO-4 ASO-3) を確認している この層に挟まれた部分に 溶結凝灰岩の風化層や軽石凝灰岩層 粘土層が存在している このことから 鞠智城場内には阿蘇溶結凝灰岩及びそれに起因する堆積層が確認できている つまり 鉄原料となる砂鉄層が存在している 谷地形などの地形的条件が恵まれ 凝灰岩が露出しているなどの地質的条件が整えば 砂鉄の採集が可能である ( 熊本県 1996 川崎地質 2015) 鞠智城がある箇所から直線距離で南側に約 5~6km 離れた菊池川とさらにそこから直線距離で南側に約 4km 離れた合志川がある この両河川に挟まれた台地が花房台地である この花房台地の砂鉄鉱床は 昭和 37 年度 国内鉄鋼原料調査計画の一つとして調査されたもので 九州における内陸砂鉄鉱床では調査時点で最も大きな鉱床である 鉱床の地質は安山岩 溶結凝灰岩類からなる礫と砂 及び凝灰岩質粘土から構成されており 上層 中層 下層の大きく三つに分けられる 中層 下層は可採鉱床として不適格であるが 上層鉱床は立地条件からみて 優秀な砂鉄鉱床である ( 原田 1965) 6 同田貫 について (1) 同田貫 の起こりと展開 同田貫 は美しさよりも 剛健で 折れず 曲らない実用本位に作られたところにその特徴がある 同田貫 は 菊池氏が山城国より招いた刀工一派である延寿の分派として起こったと言われている 同田貫 の発祥は菊池市とされており その後 清国 正国兄弟をはじめてとする刀工達が玉名に移住 写真 3 玉名市 同田貫跡 - 9 -

して鍛冶を行った 兄の清国は玉名市伊倉で鍛刀したが 一代限りで廃業する 一方 弟の正国は玉名市亀甲に鍛冶場を設けて 同田貫 の全盛を築いた その後 明治初年の廃刀令布告まで 名工を輩出し 名刀を作った この鍛冶場跡には 同田貫跡 との文字を刻んだ記念碑があり その背後に刀工の墳墓があり 初代上野介正国 9 代正勝 10 代宗広などの墓碑が残っている この場所付近から鞴の羽口 鉄片が出土している ( 田添 1974 写真 3) (2) 菊池市の 同田貫屋敷跡 とその周辺について平成 27 年 8 月 7 日 菊池市文化財保護委員の柴田寛氏の御案内により 鞠智城の東側隣接地の 同田貫屋敷跡 とその周辺の関連遺跡の現地踏査をすることができた 現地踏査に同行したのは 鞠智城温故創生館職員 3 名 ( 矢野裕介文化財整備交流課長 木村龍生主任学芸員 筆者 ) と菊池市教育委員会職員 1 名 ( 阿南享文化振興係長 ) である 参加者全員で現地踏査を行い 現地の状況を把握 確認することができた 柴田氏は菊池市稗方の御出身で 幼少の頃からの体験に基づいた貴重な御指導を受けながらの現地踏査の結果 下記 1~3の重要な事実を確認することができた 暑い中での御指導に感謝する次第である 1 同田貫屋敷跡 について( 写真 4 写真 5 第 13 図 ) 刀剣と歴史 の中に 同田貫屋敷の写真が掲載してあり 次のような記載がある 隈府城から 北方に行けば同田貫鍛冶のいた稗方である 写真の小高いところが同田貫鍛冶の屋敷跡と伝えられる所である ( 写真 4) 上野介正国はここから玉名市亀甲に移住した ( 福永 1966) この同田貫屋敷の写真を柴田氏に見せたところ この土地は自分の記憶に残っており 圃場整備の工事で部分的に削られているが 現地に一部が残っている また 当時の工事関係者の話では 工事中に鉄滓や陶磁器があったとのことである 菊池市稗方の現地踏査の結果 工事で削られた斜面には 赤褐色を呈する焼土の塊が複数個所に存在している 屋敷跡の小高い丘陵上の一部が現存しており 写真 4に写っている柿の木と同 写真 4 菊池市稗方同田貫跡屋敷跡 ( 福永 1966) 写真 5 菊池市稗方同田貫跡屋敷跡 ( 現在 南西から ) - 10 -

1: 同田貫屋敷跡 2: 砂鉄採取地 さるみず 3: ため池 4: 四反田 ( しただ ) 4 1 3 2 0 1km 第 13 図菊池市稗方の製鉄関連遺跡の位置図じものが現地にある これらの事実を総括すれば この地が同田貫屋敷跡であり 鍛冶遺構が存在したと考えられることを踏査者全員で確認した ( 写真 5 第 13 図 ) 2 ずだぬく の地名( 第 13 図 ) 菊池市稗方の同田貫屋敷の北西方向に直線距離で約 250mの地点には 四反田 ( しただ ) の地名が残っている この場所の圃場整備前の地形は谷であり 細長い長方形を呈する段々田であった この南西部の谷上部には ため池が現存しており その下部にもため池が工事前には存在していた 製鉄に必要な水をここで確保していたと考えられる ( 第 13 図 ) この 四反 の 田 を貫く南西上部には ずだぬく の地名で呼ばれて箇所があり その場所が同田貫屋敷とその周辺地区である つまり 前後関係は不明であるが 呼称の由来が ずだぬく 同田貫 の関係で捉えることができる 3 稗方の砂鉄採集地 ( 写真 6 第 13 図 ) 2で述べた同田貫屋敷跡の南側に直線距離で約 100mの地点には砂鉄の採集地がある 5で上述したように 鞠智城周辺地には 良質な砂鉄鉱床が存在しており この砂鉄採集地もこのような鉱床の一つである この箇所には さるみず との地名が残っており 谷上部から水が湧き出ている ( 写真 6 第 13 図 ) この地点より下方の谷部には 耕作に適さない地面全体が岩盤の箇所が存在する 現在 何も作付されていない ( 写真 6の 部分 ) この箇所には上部から湧き出る水で運ばれた砂鉄が沈殿して集積される 砂鉄を採集するには最適な場所である 4 製錬場所について ( 第 13 図 ) 1~3で確認したことから 砂鉄を原料にした鉄製錬場所を推定すると 同田貫屋敷 - 11 -

写真 6 砂鉄採集地 さるみず ( 南東から ) 跡 砂鉄採集地 ため池周辺地域の三か所を挙げることができる 製錬に必要なものは 木炭 原料の砂鉄 水である 三か所とも山地に立地しているので 木炭の確保はできる 同田貫屋敷跡では 近接した場所から砂鉄の確保はできるが 水の確保となると 他の二か所と比べると 不便である そうなると 砂鉄採集地とため池周辺地域では水の確保が容易であり 製錬場所として適している ( 第 13 図 ) 7 日本の古代製鉄に関すること (1) 製鉄遺跡の考古学的諸相日本の古代製鉄の始まりは 6 世紀中頃で 広島県東部から岡山県にまたがる中国地方で 鉄鉱石を原料にした箱型炉での製鉄が行われている その後 大陸から導入された可能性が高い竪型炉の技術が8 世紀初頭の関東地方や東北地方南部で確立した それ以後 中世まで 箱形炉と竪形炉の二つの製鉄技術が東西日本の基本的な枠組みちなった また 砂鉄を原料にした製鉄遺跡は 6 世紀後半から20 世紀前半代までと幅広い時代での日本で確認された製鉄遺跡の9 割以上になっている 日本の製鉄技術史の特色は砂鉄製錬技術の確立と発展の過程にあると言える ( 穴澤 2003) (2) 文献から見た製鉄遺跡平城宮跡から出土している調 庸の木簡には 国 郡 里 戸主 姓名 年月日などの記載がある ところが 鉄 鉄製品に付いている木簡には 調 庸を負担した人物の姓名を記したものは1 例もない 鉄 鉄製品の付札木簡には 個人の名前がなく すべて郡または郷 里までの記載でとまっている 調 庸関係の木簡の中で 鉄に関しては例外的な扱いになっている 鉄の原料である砂鉄を採集し 炉を築くために粘土を掘り採り 砂と粘土を混ぜ合わせ 空気を追い出すために良く捏ねる これらの作業は重労働である その上で 炉を作り 火を入れて鉄を作るには 大量の木炭が必要になる これには 木を切り 炭窯につめ 木炭を作り 山から運びだし 小割にする という一連の作業も必要になる つまり 製鉄に係る作業は 労役的な重労働であり 個人の労働力では成立できず 組織的な業務である 当時 このような組織を編成するには 公民を集めることが必要である 郡 郷 里の公民の集団を組織化するには 在地の有力者である郡司 郷長 里 - 12 -

長が関与し 彼らが業務の指揮 統括をしないと成り立たない その結果 郡 郷 里 の調 庸物として鉄を納入した このことで 付札木簡に郡 郷 里の記載しかない現 象を説明できる ( 福田 1991) 8 まとめ (1) 鞠智城での鍛冶の操業について鞠智城貯水池跡から出土した鞴の羽口 鉄滓は 同じ古代山城である鬼城山や永納山城で確認された鍛冶遺構 遺物との比較 検討から 同様に鍛冶遺構に伴うもの考えた 現状では鞠智城跡内で鍛冶遺構は確認できていないが 鍛冶作業に必要な水の確保が貯水池から可能であるので 貯水池跡周辺の未調査箇所に鍛冶遺構が存在する可能性が高いと想定した 鞴の羽口 鉄滓の時期は鞠智城 Ⅰ 期 ~ 鞠智城 Ⅲ 期である 実際の操業を考えると 鞠智城 Ⅲ 期は出土遺物が極端に少なく 空白の時期である この時期には城の維持管理に必要な最低限の人員の配置をしていたと想定できる 鍛冶の操業に十分な人手が必要であるので Ⅲ 期での鍛冶操業は不可能と考えられる 鍛冶の操業は鞠智城 Ⅰ 期 ~ 鞠智城 Ⅱ 期と考えた方が理解し易い この年代観は 7で先述したように 日本の古代製鉄遺跡の全体像と比較しても矛盾ないものである (2) 古代山城の製鉄の操業形態ここでは 製鉄の操業を大きく鍛冶段階と製錬段階とに分けて考えてみる 1 鍛冶操業について鬼城山 永納山で確認された鍛冶遺構では 城内で鍛冶操業を行っていた この事例から 鞠智城でも同様な鍛冶操業を想定した 鬼山城での操業は 列状に配置された鍛冶炉とそれらを覆う建物の存在から官営的なものが考えられている 古代山城自体の築造が国家的な事業としての性格を有しているので ( 西住 2012) その城内での鍛冶操業も城と一体となった管理 運営体制の中で行われていたと想定できる 2 製錬操業について鬼城山では隣接箇所にある同時代の製錬遺跡で生産された鉄を原料として 城内に持ち込み 城内の鍛冶炉でその鉄に加工を加え 製品としていた 先述の7で検討したとおり 平城宮跡から出土した鉄 鉄製品の調 庸の付札木簡には 税として納入した個人名がなく 郡 郷 里までの記載しかない このことは 鉄製錬作業が重労働で労役的な性格が強く 個人の労働力では不可能であり 郡 郷 里の調 庸物として鉄を納入した結果であると理解されている つまり 鉄の製錬操業は郡司 郷長 里長がその管理 運営を行った官営的な体制の中で行われている (3) 鞠智城内に持ち込む鉄原料について上記 (1) で述べたように 鞠智城内で鍛冶生産を行っていた可能性が高い その原料と - 13 -

なる鉄素材については (2) で検討したように官営的な操業を行った城外の製錬地で生産し 持ち込んだと考えることができる 現状で その製錬地として最も可能性が高いのが上述した5 及び6で考察したように 菊池市稗方の製鉄関連箇所である ここでは阿蘇火砕流に起因する砂鉄を製錬の原料として確保できる 4で述べた県内の西原製鉄遺跡の事例から 製錬炉は竪型炉であった可能性が高い (4) 同田貫 との関連についてこれまで想定したことを総括すると次のようになる 古代山城である鞠智城では城内で鉄の鍛冶作業を行っていた 砂鉄が採集でき 製錬に必要な水も確保できる鞠智城東側隣接地点の菊池市稗方で鉄を生産していた その鉄を鞠智城に持ち込み 鍛冶作業の原料とした これらの一連の操業形態は官営的なものである このように考えると 同田貫 の発祥地に菊池市稗方を選定する大きな要因として 砂鉄を原料にした古代の製鉄操業地としての実績があったことが挙げられる そうであれば 強刀 同田貫 のルーツは 鞠智城にあると言うことができる 参考 引用文献 穴澤義功 2003 古代製鉄に関する考古学的考察 近世たたら製鉄の歴史 丸善プラネット株式会社大澤正巳 1991 古代鉄生産 金属学的見地からのアピローチ 日本古代の鉄生産 たたら研究会大澤正巳 2013 鬼城山出土鍛冶関連遺物の金属学的調査 史跡鬼城山 2 岡山県教育委員会金田善敬 岡本泰典 上栫武他 2013 史跡鬼城山 2 岡山県教育委員会川崎地質株式会社 2015 平成 26 年度鞠智城跡地質調査業務委託報告書 木村龍生 2012 貯水池の調査 鞠智城跡 Ⅱ 熊本県教育委員会熊本県山鹿土木事務所 千代田工業株式会社 1996 鞠智城整備事業第 2 号地質調査委託報告書 田添夏喜他 1974 肥後同田貫とその遺跡 玉名市の文化財( 総集編 ) 玉名市教育委員会西住欣一郎 2012 遺跡の性格 鞠智城跡 Ⅱ 熊本県教育委員会原田種成 1965 熊本県菊池付近の砂鉄鉱床 地質調査月報 地質調査所福田豊彦 1991 文献史学からみた古代の鉄 日本古代の鉄生産 たたら研究会編六興出版福永酔剣 1966 刀工アルバム 22 同田貫屋敷と墓 刀剣と歴史 433 松本建郎 1980 Ⅲ. 西原製鉄遺跡 生産遺跡基本調査報告書 Ⅱ 熊本県教育委員会矢野裕介 2012 遺跡の時期区分と変遷 鞠智城跡 Ⅱ 熊本県教育委員会矢ヶ部秀美 1986 阿蘇火砕流堆積物中の強磁性鉱物について 第四紀研究 第 25 巻第 3 号渡邊芳貴 2012 史跡永納山城跡 Ⅱ 愛媛県西条市教育委員会渡邊一徳 1998 第 2 章地形 地質 第 4 節地質と人間生活 新熊本市史 通史編第 1 巻熊本市 - 14 -

鞠智城研究 - 創刊号 - 平成 27 年 10 月 18 日 編集発行熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城 温故創生館 861-0425 熊本県山鹿市菊鹿町米原 443-1 TEL 0968-48-3178 HP: http://www.kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/