聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

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聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

た私の霊が住んでいる大事な住居として用いるようにされており 私であるという強い自意識を持ちながら からだも心も性格もあらゆる特徴も 私らしさという特質を持った者として生かされているのです * それは 後に与えられると言われている霊のからだ 朽ちないからだと表現されている 天に属するよみがえりのからだ

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

創世記5 創世記2章4節b~25

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  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

牧会の祈り

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

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2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

牧会の祈り

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

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2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

聖書マタイによる福音書 11:15~19 ( 第 53 講 ) 題 肉の思いから解放された信仰によって変えられる ( 序 ) 自己願望から物事を見る弊害を理解する * すべての人間は アダムが犯した罪人として 汚染された DNA を受け継ぎ 自己中心の生き方をするようになってしまいました それが当た

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

(1) 千年王国の最後に サタンが底知れぬ所から再び解き放たれる 1 その理由は 再び人類を試すためである 2 神は 人類がいかに堕落しているかを証明される (2) 千年王国にも罪は存在する 1 千年王国が始まった時点では 未信者は存在しない 2 千年王国では ほぼ理想に近いような生活環境が実現する

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

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最初に 女の子は皆子供のとき 恋愛に興味を持っている 私もいつも恋愛と関係あるアニメを見たり マンガや小説を読んだりしていた そしてその中の一つは日本のアニメやマンガだった 何年間もアニメやマンガを見て 日本人の恋愛について影響を与えられて 様々なイメージができた それに加え インターネットでも色々

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2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

しイエス様は 5 章 20 節でこう言っておられました わたしはあなたがたに言います あなたがたの義が 律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ あなたがたは決して天の御国に入れません 律法学者やパリサイ人は 当時のユダヤの社会で最も道徳的な人たちと敬われていた人々です 彼らは当然 自分たちは正

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失敗がこわいから ルールに反するから 仕事をしてるから 恥ずかしいから 人脈がないから 女だから で ほんとはどうしたいの?名言集 01.indd p11 修正時間 2016 年 10 月 13 日 17:35:42 名言集 01.indd p10 修正時間 2016 年 10 月 13 日 17:

Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

Derek Prince Ministries Asia-Pacific THE TEACHING LEGACY OF DEREK PRINCE MINISTRIES ARCHIVE The Battlefield of the Mind - Derek

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

현장 전도를 위한 1단계 전도훈련교재 4

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Rev 7:1 この後 私は見た 四人の御使いが地の四隅に立って 地の四方の風を堅く押さえ 地にも海にもどんな木にも 吹きつけないようにしていた (1) この後 私は見た 1 物事の時間的流れではなく ヨハネが見た幻の順番を示している 2この幻は 神の裁きが迫っていることを示唆している 3 地の四方

課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください

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牧会の祈り

2017 年 6 月 11 日 ( 日 ) 12 日 ( 月 ) 39 回 新しいエルサレムの特徴 ( 後半 ) 新しいエルサレムの特徴 ( 後半 ) 黙 22:1~5 1. はじめに (1) 旧約聖書の預言のハイライトは メシア的王国である 1 黙示 20 章は メシア的王国が千年で終わることを啓

2016 年 12 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 16 回 ラッパの裁き 5 ラッパの裁き 5 黙 9:1~11 1. はじめに (1)6 章から 9 章までの流れ 16 章で 巻き物の封印が解かれる 最初の 6 つの封印 * ここから大患難時代が始まる 27 章は 挿入句である

ます しかしこれでは義に飢え渇いているとはとても言えないのではないでしょうか また自分の生活を振り返って こう質問してみてください 自分は果たして毎日をどんな基準によって歩んでいるだろうか と 神から見て何が正しいことかを考え その義に従って義の道を歩もうとしているか それとも義のことはあまり考えず

を与えられて 祈りつつ取り組んで行くように導かれる ですから私たちは自分の願い事を一方的に神に祈る祈りはやめて まず聖書を通してまず神を見上げること 御名を賛美することから始めたいのです そのような神への賛美また信仰告白から始まる祈りこそ祝福される祈りの基礎です さて第 2 の祈りは 御国が来ますよ

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癒しの業と宣教 ( ルカ 4:38~44) 1) ルカ福音書講義 (23) 章 38 イエス 2) は会堂から立ちあがり シモンの家 3) に入った シモンのしゅうとめが 高熱 4) で苦しめられており 彼らは 5) 彼女のことをイエス 6) に願った 39 彼は彼女の枕

HからのつながりH J Hでは 欧米 という言葉が二回も出てきた Jではヨーロッパのことが書いてあったので Hにつながる 内開き 外開き 内開きのドアというのが 前の問題になっているから Hで欧米は内に開くと説明しているのに Jで内開きのドアのよさを説明 Hに続いて内開きのドアのよさを説明している

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裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に


Taro .01元旦礼拝

で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

Taro-2019年7月7日 礼拝

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礼拝の恵み 牧師チャールズ フレドリクソン どうして クリスチャンは日曜日に礼拝するの? 多くのクリスチャンやまだクリスチャンではない人たちも この疑問を持っています そもそも 聖書時代には 今日でもそうなのですが 安息日を守るという律法がありました 安息日は 金曜日の夜から土曜日の日没までの一日で

6ユダヤ人は 人種的 宗教的理由によって サマリヤ人を軽蔑した * ユダヤの格言 私の目が サマリヤ人を見ることがないように 7サマリヤ人も ユダヤ人を軽蔑し 敵対した * ユダヤ人がエルサレムから下ることは許したが 上ることは許さなかった 8 現代もサマリヤ人の子孫たちが存在している ( 千名以下

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============================== < 第 6 章 > 高校生 大学生 社会人の反応 ============================== 本調査研究では 高校生が社会に出ていく上での実効性のある資質 能力の重要性が感じられ また 調査問題そのものについての興味 関

あなたへの 聖書メッセージ ヨハネの福音書 3 章 16 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神は 実に そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された それは御子を信じる者が ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つためである この ヨハネ 3 章 16 節のみことばは 聖書 66 巻の

生徒用プリント ( 裏 ) 入力した内容はすべて記録されている!! 印 : 授業で学んだこと 管理者のパソコンには どのパソコンから いつ どのような書き込みがされたか記録されています 占いだけではなく メールや掲示板の内容も同じように記録されています もし 悪意のある管理者から個人情報が洩れたらど

2017 年 2 月 5 日 ( 日 ) 6 日 ( 月 ) 22 回 イスラエルに対する戦い (2) イスラエルに対する戦い (2) 黙 12:7~17 1. はじめに (1) キリストの再臨の前に何が起こるかを見ている 110 章 ~14 章は 挿入箇所である * 物語の進展はなく 状況の説明が

 

とは言えないような気がします 弟子達もすぐには主の復活を信じることが出来ない人達だったのです この人達はどうして主の復活を信じるようになったのでしょうか この最初の弟子達の証言によってイースターのメッセージが全世界に告げられていったことは事実です それだけにこの最初の弟子達が復活の信仰を持つようにな

3 仲介者としての祭司たちが存在していた (2) 新約時代の状態 1すべての信者が まことの聖所に入ることができる * 天の聖所で 神の臨在の前に出ることができる 2これは 万人祭司の教えである 3 訳文の比較 こういうわけですから 兄弟たち 私たちは イエスの血によって 大胆にまことの聖所に入るこ

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Transcription:

聖書ヨハネ 8:21~30 ( 第 49 講 ) 題 信仰的な自分本位から神本位の生き方に ( 序 ) 自分本位に生きてきた自分を否定したか * イエス様は ご自身の正体を明らかにしていかれることによって 人々に何を求められたのでしょうか 驚くべき命の光をもたらす世の光として 神が遣わされたイエス様を受け入れようとしないなら もう罪からの救いのチャンスはどこにもないということを示し 自分本位に歩んできた人たちの心をかき回すことにより 神信仰に立つ者は 自分本位から神本位の考え方に変えられる必要があることを明らかにしようとされたのでしょう * 自分本位の歩みとはどういうものでしょうか それは 自分の見方 考え方を基準にして すべての物事を判別していく歩みのことですから 自分の見方 考え方が最善であり 正しく それに沿わない事柄は誤りとし 不用とする向かい方のことです * この当時のパリサイ人たちは 彼ら自身の持っている見方 考え方の基準は 神への信仰と 律法を基にした神のお言葉によって その見方 考え方を形造ってきましたから 神本位の生き方になっていると思うのに 現実には自分本位の見方 考え方になってしまっていたので イエス様と イエス様の御言葉を受け付けなくなっていたのです * これはどうしてでしょうか 神への信仰と 神のお言葉によってその見方 考え方が形造られていると思っていたのですが 実は彼らは 自分の思いを基にして 自分の思いに合う神への信仰 神の御言葉を受け取ってきただけに過ぎないのです 言うならば 信仰的な自分本位の見方 考 1

え方になってしまっていただけなのです * これは 今日の信仰者においても言えることです それまでの自分の見方 考え方を否定しないまま そこへ自分の思いに沿った神への信仰と神の御言葉とを選んで受け止め それで信じたつもりになっているから 確かに 信仰的な見方 考え方を受け入れるようになったという大きな変化はあるものの それ以上にはなれず 自分本位のあり方から一歩も出てはいないのです その結果 自分にとって都合が悪いと思うようなことに対しては 受け付けないのです * すなわちその物差しは 信仰が加えられて少しは変形したものになっていて 世の物差しとは異なっているのですが 根底から神用の物差しに変わったわけではないのです それ故パリサイ人たちは イエス様が投げ込まれた石を受け止めることができず その石を偽りとして弾き飛ばそうとしたのです * 彼らはどうして 神本位のあり方に変わらなかったのでしょうか それは 自分の見方 考え方が罪の影響を受けて すべて世的に染まったものとして否定していないからです 否定すべきものだとまで思っていないのです しかしそれでは自分本位のままです * それ故 自分本位に生きている自分を否定した上で 神の御思いと神のお言葉が正しいとし それを物差しとして受けとめて歩み出そうとする時 神本位の信仰的あり方が形造られていき 見方 考え方も全く異なったものとなっていくのです * このことが分からないならば どれだけ長く信仰に歩んでいても 自分本位のあり方から 神本位のあり方に変わる 2

ことはありません せいぜい信仰的になった自分本位にはなるでしょうが それ以上にはならず 神が用意して下さっている恵み 祝福が本当の意味で見えないまま終わってしまうのです * 私たちも 元々自分本位で生きてきた者であり 自分本位のままで信仰を受けとめやすい者であることを悟り 神本位に生きることが神の大きな愛と導きと助けとを受け止めることができる最高の生き方であることに気づかされ 変えられていく必要があるのです その観点から今日の箇所を学び取っていく必要があると思わされるのです (1) 自分につくか 神につくか * 前回の所では 人々は信仰を持って生きていたにもかかわらず イエス様の目から見れば 闇に生きている者 闇人生を歩んでいる者と見ておられ そんな彼らに対して ご自身が神から遣わされた世の光であることを示され その光に照らし出されることによって 罪の本質から解放され 義の香りがする者に造り変えられると言う 光人間になる道を指し示されたのです * しかしパリサイ人たちにとっては 彼らが今日まで持ってきた信仰的な自分本位の思いからは イエスをうさん臭いほら話をする誇大妄想家にしか写らず 人民を惑わす危険人物としてしか写らなかったのです どれだけ神の権威に満ちた奇蹟を見ても 鋭い神の教えを聞いても 彼らの受けとめ方を変えることはできなかったのです * 彼らは イエス様がどのような姿を現せば 神から遣わされた救い主 神の子として信じることができたのでしょうか それは 律法を信仰の規範とした律法主義的な自分た 3

ちの思いを納得させてくれるもの以外では 絶対信じようとはしなかったでしょう * 結局は 自分たちのこれまでの生き方を承認し 賞賛し 保証してくれるようなものでない限り信じようとはせず 偽者として排除にするようになることは目に見えていました このように 信仰的な自分本位の生き方に凝り固まっている人々は 動かすことのできない大きな岩盤のようなものだと言えるでしょう * すなわち 彼らにとって イエス様を受け入れると言うことは これまでの自分たちの生き方を全面否定することになると感じ取っていたので 彼らは決してそうしたくなかったのです 自分を全面否定すれば これまでの自分たちの信仰は一体何だったのか すべて無駄であったのかと思わされ そのような事実を受け入れられなかったからです * それ故 彼らが取った行動は イエスの方が偽者で その語っている内容は事実ではなく 彼の作り上げた空想であり 神を父と呼ぶ とんでもない神を冒涜するまやかし者だとして退けるしかなかったのです * なぜ 信仰に生きてきた彼らが 神本位の見方 考え方 生き方になっていなかったのでしょうか それは 人間の本質を完全にゆがめてしまっている罪の恐ろしさに気づこうとしなかったことが原因なのです その罪がもたらす思い 考え 知恵 行動などすべてが罪に汚染されてしまっていて 神に逆らうものでしかないことを知ろうともしなかったのです * それ故 自分の思いをベースにして信仰を受け入れ 信仰的な自分本位の心を作り出して それで神を信じていると思い込んでいたのです それは ベースにしている自分が 4

神に逆らうものであるが故に これまでの信仰的生き方を全否定しておられる 神から遣わされたお方を受け入れることができず 反旗を翻すしかなかったのです * ここから見えてくる真理は 罪の思いに汚染されている腐った自分に付くか 自分本位に生きてきた自分を全否定される神に付くかという二者択一が迫られており 神から遣わされたお方を信じる者は命 神から遣わされたお方を退ける者は滅びという明確な福音であることが分かります * そのことは パウロがローマ書ではっきりと示しています すべての人は罪を犯したため 神の栄光を受けられなくなっている と ( ローマ 3:23) 多くの信仰者は この御言葉を読んでも 罪の思いに汚染されている自分を全否定しなければならないと言うことまで読み取ることができないので いつまでも自分の思いをベースにし続けており その結果神に付くことができないのです (2) 神との関係をつなげて下さるパイプ役を信じる * そのようなパリサイ人たちに対して 21 節で 私は去って行く するとあなたがたは信仰的な自分本位の考え方を変えようとしないままで私を捜し求める それ故 あなたがたは何も分からないまま 罪の解決を得ることができないまま 罪のうちに死ぬことになる と 彼らが 自分本位の考え方を全否定できないまま滅びを選び取るようになると言われたのです * そして わたしの行く所には あなたがたは来ることができない と言われ 私が帰ろうとしている神のみもとには あなたがたは来ることができない あなたがたは自分を全否定して 神のみもとに立ち帰ろうとせず 自分の下 5

に居り続けることになると言われたのです * パリサイ人たちは イエス様が世の光としての働きをなし すべての人のためにご自身を投げ出した後 父のみもとに帰ろうとしておられることを全く悟ろうとせず 捕えられることを恐れてどこかに逃げようと考えているのか それとも 自分が受け入れられないからと悲観して 自殺でもしようと考えているのかと思ったのです * 全く鈍くなって 完全に目が塞がれてしまっている彼らに イエス様ははっきりと示されるのです 23 節 あなたがたは人間だが 私は神から来た者 あなたがたはサタンの支配を受けている者だが 私は神の支配の中にある あなたがたはこの世に染まってしまっている者であるが 私はこの世に染まっている者ではないと 罪人と 神の子との違いをあらゆる面から示されたのです * その上で あなたがたが 私がそのような上から来た天的な存在であることを信じるならば 罪から解放され サタンの支配も 世の汚染力からも解放され 救われて神のみもとに行くことになるが 信じようとしないことが目に見えているから 罪のうちに死ぬことになると言ってきたと宣告されているのです * 自分の肉の思いを大事にして歩み続けるから 罪のうちに死ぬことの恐ろしさが見えなくなってしまっており その恐ろしさに気づいた時にはすでに遅く 滅びを前にして絶望しかないと言われ 信仰者がなおも罪の中に居り続けている様を 信仰的な自分本位の見方 考え方 生き方をしていることを指していると示されたのです * ここで言われた罪のうちに死ぬとは 神との正しい関係が回復されないまま 神からの驚くべき命の水が流れ込むこ 6

となく断絶したまま すなわち 人間としてのあるべき姿が回復されないまま死を迎え 御国から切り離されて滅びる者となるという意味です * なぜイエス様を 天的な存在者として信じることが そこまでの大きく 結果において違いができると言うのでしょうか 天的存在者として信じるということは 罪によって神との関係が断絶してしまっていて 人間の側には回復の望みが全くなくなっていたのに その関係をつないで下さるパイプ役になって下さるのが 天的存在者である救い主ですから このお方を信じるとは 神との関係をつなげて下さるお方であると信頼することに他なりません * 私だけがそれをすることができる そのために世の光として私は来たと言われたのに ここまではっきりと示されたし これまでも示して来られてきたのに 人々は全く悟ろうとはせず そこまで言われるあなたは 一体どういうかたなのですか と問い返しています * 人々の状態を考えて見ますと 彼らは 自分たちは神と断絶している状態にあるとは思ってもいないのです そうすれば イエス様に何を求めてやってきていたのでしょうか 自分たちの信仰を励ましてくれる言葉を求めていただけでしょう けれどもイエス様によって あなたがたは罪の中にあって 神と断絶している状態にあると断言され 私を信じようとしないので 罪のうちに死ぬことになると言われたのです * 人々は イエス様の話を聞こうとして来ていましたが イエス様を信頼してついていこうとまではしませんでした このお方を信頼してついていくとは これまでの信仰が自分本位のものであったことを悟り それを全否定して こ 7

のお方を神から遣わされた神性を持ったお方として受け入れ 信頼を寄せていくことが神本位の生き方であると信じてついていくことなのです (3) 信じるということが分かっていない人々 * あなたは一体どういう方なのですかとの問いかけに対して なおも丁寧にイエス様は答えられるのです 私は真実なお方から遣わされた者 真実なお方から聞いたままを語っている者です と言われたのですが それでも人々は イエス様が 父なる神様のことについて語っておられるのを悟ろうともしなかったのです * あなたがたの霊がうとくなってしまっているから 不信仰の故に 私を十字架につけてしまうことになった後になって 初めて気づくであろうと預言されるのです このことが事実となったのを 使徒行伝 2 章のペテロのメッセージによって 自分たちが十字架につけたあのお方がキリストであったと言う衝撃的な事実を聞かされた時 強く心を刺され 初めて信じるようになった様子として記されています ( 使徒 2:37~41) * 霊がうとい者は 罪に気づくまで長い時を要するのです 気づくことができる人はまだ幸いです キリストを十字架につけて それでも気づこうともせず 自分たちは神に喜ばれる正義の裁きをしたと思い込んだまま滅びに至る人の方がはるかに多いという事実も考えさせられます * まして 私を遣わされた方は わたしと一緒におられる わたしはいつも神の御心にかなうことをしているから 神はこのわたしを見捨てて独りぼっちにされることはない と言われたお言葉は 霊が聡くされない限り 受け止める 8

ことができない内容です * しかしなぜか パリサイ人たちは別にして 多くの人々は これらの語られた内容を聞いて信じたというのです 人々の現したこの時の信仰は 一時信じてみてもいいかな! 程度のものであったことが この後の記事から見て すぐ心変わりしている様子を見ると分かります * 信じるということがどういうことか分かっていないのです 信じるとは 自分の見方 考え方 生き方に凝り固まっていた心をイエス様の前に差し出し これまでの自分本位に向かってきた自分を全否定した上で 神のお心をベースにして生きていきますという強い信仰的決意を示すことなのです * この後の記事にあるように 少し納得しがたい話を聞いたら 思いを翻して噛み付いていくと言うのは 信じるということがどういう意味か分かっていない人の現す姿なのです ( 結び ) パリサイ人たちの信仰の歪みを理解する * 今日の箇所は パリサイ人たちの信仰とはどういうものであったかつくづく考えさせられました 信仰的なようで 自分本位の考え方を少し変形させただけのものでしかなく それは罪の解決がないまま闇人生を歩み続けている姿であり 世の光のすごさを味わうことができない 霊の鈍い者でしかないことが明らかにされていました * どうして彼らは このような信仰しか持つことができなかったのでしょうか どうして神から遣わされたお方を受け入れることができず 排除しようとする行動を起こしてしまうようになっていたのでしょうか 9

* これらはすべて 自分のすべてが罪に汚染された存在だと認めようとしないことが根本原因であると分かります 自分は罪深いと認めていても それは一部であって 私のすべてが罪であって 何のよいものはないとまで思いたくない心がどこかに潜んでいるのです * しかし神の目から見れば すべてが汚染物質であって よいと思える部分がどこにもない罪そのものだと見ておられるのです そこから出てくる思いをベースにしている自分本位に生きている人は たとえ信仰を持っても 世の光のすごさも分からないし 信仰も歪むし 罪の解決を得ることもできないので 神とのつながりが回復されることはないのです * せっかく 神が命の水をどんどんと流し込み その命のすごさに心躍らせ 喜びにあふれさせ 罪から解放される素晴らしさを味わわせ 神の守りと力の中に置かれる幸いを受けとめることができるように 霊を聡くしようとして下さっているのに 自分本位に生きてきた自分を全否定できないが故に その命の水を受けることができず 貧しい 力のない信仰で終わらせてしまっているのです * 信仰的な自分本位の生き方は 信仰的ではあっても 信仰ではありません 神本位の生き方へと変えられない限り 信仰の素晴らしさは分からないし 信仰に生きる幸いは見えてこないのです * 私たち人間は 下から出た者であり この世の者であり 罪のうちに死ぬ者となっていた者であります そんな私たちが このお方を上から来られたお方だと信じ 神との関係を回復して下さるパイプ役だと信じてついて行くだけで 私たちは 見た目はそのままであっても 世の者では 10

なくなるのです ( ヨハネ 17:14,16) * もはや罪にうちに死ぬことはなく 神のうちにあって生きる者となり 神の御言葉を食べ続けることができるようにして下さり その力に満たされて この地上にあって生き 終わりの時には御国へと迎え入れて頂けるのです この幸いをしっかりと味わう者でありたいのです 11