聖書ヨハネ 8:21~30 ( 第 49 講 ) 題 信仰的な自分本位から神本位の生き方に ( 序 ) 自分本位に生きてきた自分を否定したか * イエス様は ご自身の正体を明らかにしていかれることによって 人々に何を求められたのでしょうか 驚くべき命の光をもたらす世の光として 神が遣わされたイエス様を受け入れようとしないなら もう罪からの救いのチャンスはどこにもないということを示し 自分本位に歩んできた人たちの心をかき回すことにより 神信仰に立つ者は 自分本位から神本位の考え方に変えられる必要があることを明らかにしようとされたのでしょう * 自分本位の歩みとはどういうものでしょうか それは 自分の見方 考え方を基準にして すべての物事を判別していく歩みのことですから 自分の見方 考え方が最善であり 正しく それに沿わない事柄は誤りとし 不用とする向かい方のことです * この当時のパリサイ人たちは 彼ら自身の持っている見方 考え方の基準は 神への信仰と 律法を基にした神のお言葉によって その見方 考え方を形造ってきましたから 神本位の生き方になっていると思うのに 現実には自分本位の見方 考え方になってしまっていたので イエス様と イエス様の御言葉を受け付けなくなっていたのです * これはどうしてでしょうか 神への信仰と 神のお言葉によってその見方 考え方が形造られていると思っていたのですが 実は彼らは 自分の思いを基にして 自分の思いに合う神への信仰 神の御言葉を受け取ってきただけに過ぎないのです 言うならば 信仰的な自分本位の見方 考 1
え方になってしまっていただけなのです * これは 今日の信仰者においても言えることです それまでの自分の見方 考え方を否定しないまま そこへ自分の思いに沿った神への信仰と神の御言葉とを選んで受け止め それで信じたつもりになっているから 確かに 信仰的な見方 考え方を受け入れるようになったという大きな変化はあるものの それ以上にはなれず 自分本位のあり方から一歩も出てはいないのです その結果 自分にとって都合が悪いと思うようなことに対しては 受け付けないのです * すなわちその物差しは 信仰が加えられて少しは変形したものになっていて 世の物差しとは異なっているのですが 根底から神用の物差しに変わったわけではないのです それ故パリサイ人たちは イエス様が投げ込まれた石を受け止めることができず その石を偽りとして弾き飛ばそうとしたのです * 彼らはどうして 神本位のあり方に変わらなかったのでしょうか それは 自分の見方 考え方が罪の影響を受けて すべて世的に染まったものとして否定していないからです 否定すべきものだとまで思っていないのです しかしそれでは自分本位のままです * それ故 自分本位に生きている自分を否定した上で 神の御思いと神のお言葉が正しいとし それを物差しとして受けとめて歩み出そうとする時 神本位の信仰的あり方が形造られていき 見方 考え方も全く異なったものとなっていくのです * このことが分からないならば どれだけ長く信仰に歩んでいても 自分本位のあり方から 神本位のあり方に変わる 2
ことはありません せいぜい信仰的になった自分本位にはなるでしょうが それ以上にはならず 神が用意して下さっている恵み 祝福が本当の意味で見えないまま終わってしまうのです * 私たちも 元々自分本位で生きてきた者であり 自分本位のままで信仰を受けとめやすい者であることを悟り 神本位に生きることが神の大きな愛と導きと助けとを受け止めることができる最高の生き方であることに気づかされ 変えられていく必要があるのです その観点から今日の箇所を学び取っていく必要があると思わされるのです (1) 自分につくか 神につくか * 前回の所では 人々は信仰を持って生きていたにもかかわらず イエス様の目から見れば 闇に生きている者 闇人生を歩んでいる者と見ておられ そんな彼らに対して ご自身が神から遣わされた世の光であることを示され その光に照らし出されることによって 罪の本質から解放され 義の香りがする者に造り変えられると言う 光人間になる道を指し示されたのです * しかしパリサイ人たちにとっては 彼らが今日まで持ってきた信仰的な自分本位の思いからは イエスをうさん臭いほら話をする誇大妄想家にしか写らず 人民を惑わす危険人物としてしか写らなかったのです どれだけ神の権威に満ちた奇蹟を見ても 鋭い神の教えを聞いても 彼らの受けとめ方を変えることはできなかったのです * 彼らは イエス様がどのような姿を現せば 神から遣わされた救い主 神の子として信じることができたのでしょうか それは 律法を信仰の規範とした律法主義的な自分た 3
ちの思いを納得させてくれるもの以外では 絶対信じようとはしなかったでしょう * 結局は 自分たちのこれまでの生き方を承認し 賞賛し 保証してくれるようなものでない限り信じようとはせず 偽者として排除にするようになることは目に見えていました このように 信仰的な自分本位の生き方に凝り固まっている人々は 動かすことのできない大きな岩盤のようなものだと言えるでしょう * すなわち 彼らにとって イエス様を受け入れると言うことは これまでの自分たちの生き方を全面否定することになると感じ取っていたので 彼らは決してそうしたくなかったのです 自分を全面否定すれば これまでの自分たちの信仰は一体何だったのか すべて無駄であったのかと思わされ そのような事実を受け入れられなかったからです * それ故 彼らが取った行動は イエスの方が偽者で その語っている内容は事実ではなく 彼の作り上げた空想であり 神を父と呼ぶ とんでもない神を冒涜するまやかし者だとして退けるしかなかったのです * なぜ 信仰に生きてきた彼らが 神本位の見方 考え方 生き方になっていなかったのでしょうか それは 人間の本質を完全にゆがめてしまっている罪の恐ろしさに気づこうとしなかったことが原因なのです その罪がもたらす思い 考え 知恵 行動などすべてが罪に汚染されてしまっていて 神に逆らうものでしかないことを知ろうともしなかったのです * それ故 自分の思いをベースにして信仰を受け入れ 信仰的な自分本位の心を作り出して それで神を信じていると思い込んでいたのです それは ベースにしている自分が 4
神に逆らうものであるが故に これまでの信仰的生き方を全否定しておられる 神から遣わされたお方を受け入れることができず 反旗を翻すしかなかったのです * ここから見えてくる真理は 罪の思いに汚染されている腐った自分に付くか 自分本位に生きてきた自分を全否定される神に付くかという二者択一が迫られており 神から遣わされたお方を信じる者は命 神から遣わされたお方を退ける者は滅びという明確な福音であることが分かります * そのことは パウロがローマ書ではっきりと示しています すべての人は罪を犯したため 神の栄光を受けられなくなっている と ( ローマ 3:23) 多くの信仰者は この御言葉を読んでも 罪の思いに汚染されている自分を全否定しなければならないと言うことまで読み取ることができないので いつまでも自分の思いをベースにし続けており その結果神に付くことができないのです (2) 神との関係をつなげて下さるパイプ役を信じる * そのようなパリサイ人たちに対して 21 節で 私は去って行く するとあなたがたは信仰的な自分本位の考え方を変えようとしないままで私を捜し求める それ故 あなたがたは何も分からないまま 罪の解決を得ることができないまま 罪のうちに死ぬことになる と 彼らが 自分本位の考え方を全否定できないまま滅びを選び取るようになると言われたのです * そして わたしの行く所には あなたがたは来ることができない と言われ 私が帰ろうとしている神のみもとには あなたがたは来ることができない あなたがたは自分を全否定して 神のみもとに立ち帰ろうとせず 自分の下 5
に居り続けることになると言われたのです * パリサイ人たちは イエス様が世の光としての働きをなし すべての人のためにご自身を投げ出した後 父のみもとに帰ろうとしておられることを全く悟ろうとせず 捕えられることを恐れてどこかに逃げようと考えているのか それとも 自分が受け入れられないからと悲観して 自殺でもしようと考えているのかと思ったのです * 全く鈍くなって 完全に目が塞がれてしまっている彼らに イエス様ははっきりと示されるのです 23 節 あなたがたは人間だが 私は神から来た者 あなたがたはサタンの支配を受けている者だが 私は神の支配の中にある あなたがたはこの世に染まってしまっている者であるが 私はこの世に染まっている者ではないと 罪人と 神の子との違いをあらゆる面から示されたのです * その上で あなたがたが 私がそのような上から来た天的な存在であることを信じるならば 罪から解放され サタンの支配も 世の汚染力からも解放され 救われて神のみもとに行くことになるが 信じようとしないことが目に見えているから 罪のうちに死ぬことになると言ってきたと宣告されているのです * 自分の肉の思いを大事にして歩み続けるから 罪のうちに死ぬことの恐ろしさが見えなくなってしまっており その恐ろしさに気づいた時にはすでに遅く 滅びを前にして絶望しかないと言われ 信仰者がなおも罪の中に居り続けている様を 信仰的な自分本位の見方 考え方 生き方をしていることを指していると示されたのです * ここで言われた罪のうちに死ぬとは 神との正しい関係が回復されないまま 神からの驚くべき命の水が流れ込むこ 6
となく断絶したまま すなわち 人間としてのあるべき姿が回復されないまま死を迎え 御国から切り離されて滅びる者となるという意味です * なぜイエス様を 天的な存在者として信じることが そこまでの大きく 結果において違いができると言うのでしょうか 天的存在者として信じるということは 罪によって神との関係が断絶してしまっていて 人間の側には回復の望みが全くなくなっていたのに その関係をつないで下さるパイプ役になって下さるのが 天的存在者である救い主ですから このお方を信じるとは 神との関係をつなげて下さるお方であると信頼することに他なりません * 私だけがそれをすることができる そのために世の光として私は来たと言われたのに ここまではっきりと示されたし これまでも示して来られてきたのに 人々は全く悟ろうとはせず そこまで言われるあなたは 一体どういうかたなのですか と問い返しています * 人々の状態を考えて見ますと 彼らは 自分たちは神と断絶している状態にあるとは思ってもいないのです そうすれば イエス様に何を求めてやってきていたのでしょうか 自分たちの信仰を励ましてくれる言葉を求めていただけでしょう けれどもイエス様によって あなたがたは罪の中にあって 神と断絶している状態にあると断言され 私を信じようとしないので 罪のうちに死ぬことになると言われたのです * 人々は イエス様の話を聞こうとして来ていましたが イエス様を信頼してついていこうとまではしませんでした このお方を信頼してついていくとは これまでの信仰が自分本位のものであったことを悟り それを全否定して こ 7
のお方を神から遣わされた神性を持ったお方として受け入れ 信頼を寄せていくことが神本位の生き方であると信じてついていくことなのです (3) 信じるということが分かっていない人々 * あなたは一体どういう方なのですかとの問いかけに対して なおも丁寧にイエス様は答えられるのです 私は真実なお方から遣わされた者 真実なお方から聞いたままを語っている者です と言われたのですが それでも人々は イエス様が 父なる神様のことについて語っておられるのを悟ろうともしなかったのです * あなたがたの霊がうとくなってしまっているから 不信仰の故に 私を十字架につけてしまうことになった後になって 初めて気づくであろうと預言されるのです このことが事実となったのを 使徒行伝 2 章のペテロのメッセージによって 自分たちが十字架につけたあのお方がキリストであったと言う衝撃的な事実を聞かされた時 強く心を刺され 初めて信じるようになった様子として記されています ( 使徒 2:37~41) * 霊がうとい者は 罪に気づくまで長い時を要するのです 気づくことができる人はまだ幸いです キリストを十字架につけて それでも気づこうともせず 自分たちは神に喜ばれる正義の裁きをしたと思い込んだまま滅びに至る人の方がはるかに多いという事実も考えさせられます * まして 私を遣わされた方は わたしと一緒におられる わたしはいつも神の御心にかなうことをしているから 神はこのわたしを見捨てて独りぼっちにされることはない と言われたお言葉は 霊が聡くされない限り 受け止める 8
ことができない内容です * しかしなぜか パリサイ人たちは別にして 多くの人々は これらの語られた内容を聞いて信じたというのです 人々の現したこの時の信仰は 一時信じてみてもいいかな! 程度のものであったことが この後の記事から見て すぐ心変わりしている様子を見ると分かります * 信じるということがどういうことか分かっていないのです 信じるとは 自分の見方 考え方 生き方に凝り固まっていた心をイエス様の前に差し出し これまでの自分本位に向かってきた自分を全否定した上で 神のお心をベースにして生きていきますという強い信仰的決意を示すことなのです * この後の記事にあるように 少し納得しがたい話を聞いたら 思いを翻して噛み付いていくと言うのは 信じるということがどういう意味か分かっていない人の現す姿なのです ( 結び ) パリサイ人たちの信仰の歪みを理解する * 今日の箇所は パリサイ人たちの信仰とはどういうものであったかつくづく考えさせられました 信仰的なようで 自分本位の考え方を少し変形させただけのものでしかなく それは罪の解決がないまま闇人生を歩み続けている姿であり 世の光のすごさを味わうことができない 霊の鈍い者でしかないことが明らかにされていました * どうして彼らは このような信仰しか持つことができなかったのでしょうか どうして神から遣わされたお方を受け入れることができず 排除しようとする行動を起こしてしまうようになっていたのでしょうか 9
* これらはすべて 自分のすべてが罪に汚染された存在だと認めようとしないことが根本原因であると分かります 自分は罪深いと認めていても それは一部であって 私のすべてが罪であって 何のよいものはないとまで思いたくない心がどこかに潜んでいるのです * しかし神の目から見れば すべてが汚染物質であって よいと思える部分がどこにもない罪そのものだと見ておられるのです そこから出てくる思いをベースにしている自分本位に生きている人は たとえ信仰を持っても 世の光のすごさも分からないし 信仰も歪むし 罪の解決を得ることもできないので 神とのつながりが回復されることはないのです * せっかく 神が命の水をどんどんと流し込み その命のすごさに心躍らせ 喜びにあふれさせ 罪から解放される素晴らしさを味わわせ 神の守りと力の中に置かれる幸いを受けとめることができるように 霊を聡くしようとして下さっているのに 自分本位に生きてきた自分を全否定できないが故に その命の水を受けることができず 貧しい 力のない信仰で終わらせてしまっているのです * 信仰的な自分本位の生き方は 信仰的ではあっても 信仰ではありません 神本位の生き方へと変えられない限り 信仰の素晴らしさは分からないし 信仰に生きる幸いは見えてこないのです * 私たち人間は 下から出た者であり この世の者であり 罪のうちに死ぬ者となっていた者であります そんな私たちが このお方を上から来られたお方だと信じ 神との関係を回復して下さるパイプ役だと信じてついて行くだけで 私たちは 見た目はそのままであっても 世の者では 10
なくなるのです ( ヨハネ 17:14,16) * もはや罪にうちに死ぬことはなく 神のうちにあって生きる者となり 神の御言葉を食べ続けることができるようにして下さり その力に満たされて この地上にあって生き 終わりの時には御国へと迎え入れて頂けるのです この幸いをしっかりと味わう者でありたいのです 11