聖書ヨハネの黙示録 21:1~8 その 1( 第 31 講 ) 題 新天新地に入れて頂けることが意味するもの ( 序 ) キリスト信仰の特徴は 待ち望む信仰 * 人間は希望を持って生きることが大事だと言います それは 言わば 目標なしに生きることは虚しくなるからです けれども 世における希望とはどのようなものか 希望と言う言葉を辞書で引きますと 現在と将来に期待や見込みを立て それをあてにする意味だと言います それは 自分の願いを目標に掲げ それに向かって その願いをかなえようと進むことを希望と考えています それは 物質的なものもあれば 精神的なものや地位 名誉などの社会的なものもあるでしょう * 子供たちに 将来何になりたいですかと聞いたりするのは 希望を持つことが大事だと言いたいためでしょう 老人に何になりたいですかとは聞かないものです 聞くとするならば 老後はどのように過ごしたいですかと言う そんなできる範囲のささやかな希望になってしまいます * それでは 信仰者にとって希望とは何でしょうか パウロは 信仰者にとって大事なことは いつまでも存続するものであって それは信仰と希望と愛だと言いました (Ⅰ コリント 13:13) その結論は愛の大事さを語るためでありましたが 信仰と希望の大事さは決して劣るものではありません 今日は希望について見ていきたいのです * それでは 信仰者にとって希望とはどのようなものを指しているのでしょうか ペテロは第 2 の手紙でこう言いました 私たちは 神の約束に従って 義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる と (3:13) 信仰者にとっ 1
ての希望とは 驚くべき最高の 神の約束が実現することだと言い それは 終わりの時に約束されている新しい天と新しい地であって それを 信仰者としてなくてはならない希望として抱き それが実現することを待ち望むのが信仰者だと言っています * ここに世の人が持つ希望と 信仰者が持つべき希望との間に大きな違いがあることが分かります 世の人は 自分の願いが希望の根拠ですが 信仰者は 神が約束された必ず実現する 信仰者が今か今かと待ち望むべきもっとも祝された 必ず受けることができるもののことだと言います しかし うっかりすると 信仰者も 希望よりも 今苦しみから解放され 幸いな人生を送ることができたらいいと考えてしまう人があります こういう人の信仰は ご利益信仰であり 希望も愛もありません * なぜ希望を持つことが大事だと言うのでしょうか キリスト信仰の特徴は 待ち望む信仰だと言っても過言ではありません それは神が真実で 実現されることしか語られないお方であると信じていますから 神の約束のお言葉は 信仰者にとって必ず実現すると信じることができる希望を意味し それを待ち望むように導かれているのです * それ故 希望のない信仰は 言うならば 調味料の入っていない料理のようなもので 食べられなくはありませんが あまりおいしくないものです 終わりの時に用意されている希望を持たない信仰者は 頼りない信仰でしかないでしょう その希望について明確に示している今日の箇所を見ていくことにしましょう (1) 神が新しい天と 新しい地とを創造される 2
* ヨハネに示されている幻は 延々と続いた恐ろしい裁きの光景が終り 悪と罪をもたらした張本人であったサタンも滅ぼされ 後は 信仰者の希望の実現が控えているだけでありました ヨハネは わくわくする思いで期待して見ていると これまでの古い天と古い地は完全に崩れ去り 新しい天と新しい地を見たと言います ここから見て ヨハネが立っているところは 天上であったと考えられます * この言葉は 古い天と地は 古い天が地球を取り巻く宇宙空間の天体を指すと見た場合ですが (Ⅱ ペテロ 3:10) それらは目に見えていたものであります けれども それが太陽や月も含めすべてが滅びて 新しい天と地が一瞬にして現れるのですが それは 目に見えるものではなく 見えない神による 霊的な空間表現であることは言うまでもないことでしょう どうして見える天と地と 見えない天と地を同じ表現で呼び 混乱させているのでしょうか * もう一つの疑問が出てきます それは 天と言うのが 単に天体を指すのではなく 黙示録でも天が開かれたと言っているように 神のおられるところを指す表現でもあるとするなら 古い天が滅びると言うのも理解しにくいことになります 人間の罪の故に汚れた古い地 ( 地上と地上に住むものすべて ) だけが滅びるのであれば 理解できます これがどういう意味なのか考えて見なければなりません * 神は このことをすでにイザヤに示しておられます 65: 17 で 神が新しい天と 新しい地とを創造されることが語られ 同じ 66:22 では 私が造ろうとしている新しい天と 新しい地と言う表現で 最初の天と地を造られた時のように 古い天と地の改訂版ではなく 全く異なった新しい天と 新しい地とを創造されることが言われています 3
この神の啓示が黙示録につながっており これが黙示録の幻の背景であることは言うまでもありません * ここから分かることは 罪と汚れに満ちた最初の世を完全に消去され 新しいと言う言葉で 全く質の違った新たな世界を創造されると強調しているのでしょう そこには海がないと言うことで これはおそらく 不安定で 汚物を吐き出すという ( イザヤ 57:20) 悪しきものの象徴のように語られているところから考えると それらが一切ない きよい世界を意味しているのでしょう * 全く異なった古い天と地と 新しい天と地をここに並べて示しておられる意図は何でしょうか これは 神の最初の創造が 滅ぼすしかないものに堕落してしまい もはや修正 再生ではどうにもならないものとなってしまっているのをご存じですから 神の御心の中では 最初から第 2 の創造が考えられていたのでしょう * しかも 第 2 の創造は 第 1 の創造のように 堕落する可能性のあるものではなく また 目に見える物質的なものではなく 完全な 目に見えないものであることを 並べて示すことによって その違いを明らかにするためだったと考えられます その違いが 海はないと言う この表現の中に込められているのでしょう * この新しい天と 新しい地と言う表現をもって信仰者に語りかけておられる希望とはどのようなものなのでしょうか それは 古い天と地の中でもがき苦しみ 罪と悪に憑りつかれ 抜け出すことができない そんな人間の内に染み込んでいる古い人が ここで完全に処分され 罪と悪が入り込むことのない新しい天と地の中で 全く新しい人に造り変えられた者たちとして招き入れて下さると言う朗報を明 4
らかにすることにあったのでしょう (2) 霊的空間に造られた新天新地と新しいエルサレム * 2 節にも理解しがたい点が幾つかあります 第 1 は 古い天と地は 今の世界のことですから その中心として 神が臨在されるところをエルサレムに定められたことは分かります しかし 古い世界は焼却され 新しく創造された天と地には 神を信じる者しか入られないところでありますから その中心として 神の臨在される新しいエルサレムを定められる必要があるのかと言う点です * 第 2 は この新しいエルサレムが キリスト教会の象徴だと言う人があります 確かに新しいエルサレムが 夫であるキリストのために着飾った花嫁のように用意を整えていると言い 9 節では 小羊の妻なる花嫁と言う表現で キリスト教会を指していると言えるのですが この状態において キリスト教会だけの町を 天から下らせる必要性があるとは到底考えられません * 第 3 は 新しい天と 新しい地とは一体のものと考えるべきか 新しいエルサレムが天から下ってきたと言われているところから考えて見ると 新しい地は下にあって そこに新しいエルサレムが下りてきたと考えるべきか * 第 4 は 新しい地と 新しいエルサレムとの関連はどう考えるべきでしょうか 新しいエルサレムに 神が共にいて下さる幕屋があり そこに神がいて下さると言う事実の故に もはや死も 悲しみも 叫びも 痛みもないと言う 古い世において味わわなければならなかったものが すべて解消されると言っているのはどのような状態を指すのか 信仰者である私たちを迎え入れて下さると言われている新 5
しい世界のイメージがなかなか持てない部分がありますから それを考えていくことにしましょう * 第 1 の疑問は 新しい天と地は創造されたと言い もう一方では新しいエルサレムが神から下りてきたと言う内容に 整合性 一貫性が感じられないことにあります 第 1 の疑問だけではなく 1~4 までの疑問はすべて一つの神の示し方を受けとめることができるかどうかにかかっていると言えるでしょう 全体として見ていくことにしましょう * 新しい天と地と言っても 人間はどうしても物質的 位置的 状態的な受けとめ方をしようとする考え方からなかなか離れられないところに この幻を受けとめる難しさの壁があるのです それは何かと言いますと 新しい天と地は見えないものであり 古い天と地とは全く別の異空間と言うか 見えない 形のないものであり それを創造されたと言われても 人間が感じ取ることも 理解することもできないものです * 更に新しいエルサレムと言われても エルサレムの町を思い浮かべるように言われているのではなく すべて比喩であり 人間が聞きやすいようにと擬人法と比喩とを混ぜ込んでおり 人間の知恵による理解力では全く歯が立たないのです この比喩を通して言われていることは 神を中心とし 神が共にいて下さり 神と完全に結び合わされた状態にされていることを示すことにあったのです * 新しい天と地は創造されたと言い もう一方の 新しいエルサレムは天から下りてきたと言っていますが これは 同じだと考えるべきでしょう 新しい天と地は 御国全体を指し 新しいエルサレムは そこに入れて頂いた者たちの霊的な状態を示すことに この幻の意味があったのだと 6
考えられるからです すなわち 新しい天と地と 新しいエルサレムが同じ状態を示し 一方は人間が考えもできない異空間を指し 新しいエルサレムと言うことによって そこに入れて頂いている者たちの霊的状態を示していると考えるべきでしょう * この新天新地は 神が異空間にと言うよりもっと適切に言うならば 霊的空間に造られ それが 新しいエルサレムとして天から下ったと言うのは 高低差を示しているのではなく 一番高い神の下から霊的空間の新天新地へ注がれたと言う 霊的な状態を比喩的表現で示していると言えます ですから 新天新地も 新しいエルサレムも 御国におけるキリスト教会そのものだと言えます そこには 死も 悲しみも 叫びも 痛みもない神の下だと言うのです (3) 古いものが過ぎ去り すべてが新たになる * こうして先のものがすでに過ぎ去ったと言う事実が 御国に入れて頂いた信仰者にとってどんなにすごい事実であるかを明らかにした上で そこに 御座にいます神から明白な言葉があったと言います 見よ 私はすべてのものを新たにする と 更にこれらのことは信ずべき真理であるから 後世の人が知ることができるように書き記せ と言われたのです この後の語られた内容は もう少し深く学びたいですから 次回に見ることにしましょう * すべてのものを新たにすると言う神の宣言は 古いものをもはや見ることがなくなり 罪のない新しい世界の出発だと言われているのです 何一つ過去にこだわることなく 時間に制約され 時間に追われ 時間の中で格闘し続ける昔の生き方が終わり 時間を超越した新しい今を生きるこ 7
とができることを すべてのものを新たにすると言う言葉で言い表しているのです * そればかりではなく うそと偽りと欺瞞で塗り固められていた古い人生はすべて終わり 全く新しい 義の住む世界で 義の思いに溢れた新しい人生を生きることができるように すべてのものを新たにして下さったのです そこには政治もなく 経済もなく 駆け引きもなく 憎しみもなく 混乱もなく 4 節に記されていたように 死も 悲しみも 叫びも 痛みもない それらのものはすべて過ぎ去ったと言われているからです * 古い世界に生きている者は 古い生き方に染まっているので 政治もなく 経済もなく 駆け引きもなく 憎しみもなく 混乱もなく 死も 悲しみも 叫びも 痛みもないと言う全く新しい世界の情景を理解することができず 果たしてそんな生活はつまらないのではないかと考えたりする人があります 肉の思いからしか見ることができない人は 当然そのような思いになるでしょう 新しいこと 新しい世界が分からないからです * まして あの Ⅱ ペテロ書で言っていた 義の住む新しい天と新しい地と言う世界など理解不可能です もっと分かりやすく言うならば キリストが罪をあがなって下さったと言う福音を信じて 神が義と認められた者たちだけの世界だと言っているのです 終わりの時が来たら 新しいからだが与えられ 救いが完成し 神の前に何の問題もない義人とされた者たちだけがいる世界 それが新天新地だと言っているのです * すべてが新しくなるから 喜ぶことも 楽しむことも うれしいことも 幸いなことも 新しい世界でのものに変化 8
するので 古い世界での感覚では分からないものです そして このことが信ずべき真理であると後世に書き残すようにヨハネに命じられたのです ( 結び ) 信仰者にとって希望がイメージされているか * 信仰者は何を望みとして生きているべきかと言うことについて見てきました しかし 今 肉の世界に住んでいるので 多くの信仰者も 肉の思いに妨げられて 正しい霊的イメージを持つことができていないので ただこのことを なくてはならない大事な希望として抱いていないのではないか ただ御国に入れて頂けると言う かすかな希望で済ませてしまってはいないか問われています * もちろん それが悪いと言っているのではありません 御国に入れて頂くことは希望となりますが もっと明確な希望を持つように示されているのが 黙示録が記された目的であると言えます それでは 今日の箇所からどのような明確な希望をイメージすることができるのでしょうか * 今日は その前半を学んだだけであり 9 節からは新しいエルサレムについての詳細が更に記されており それを学ばない限り正確とは言えませんが 今日の箇所の前半において示されているものを正しくイメージできるなら 最も重要な大枠を理解した 素晴らしい 期待が持てる 信仰者として持つべき希望を抱いていると言っていいでしょう * それは 古いものはすべて過ぎ去って すべてが新しくなると言われたことを イメージを描く前提にする必要があります 新天新地では 古い世界の考え方は全く通用せず 古い世界での生き方 求めていたものはすべてなくなり これまでとは全く異なった新しい霊的世界に突入すると言 9
います そこは 救いが完成した者たちだけの世界であり 神に義とされた者たちだけが住み 罪と悪が入り込むことのない これまで生きてきた世界からするなら 全く異質の世界であり 驚くべき世界だと言います * それでは 古い世界とどう違うのでしょうか 霊的に言えば そこは新しいエルサレムとなり そこを神の幕屋として 一人一人に神が共にいて下さり その住民は神の民 神の子としてどこまでも愛して下さり その住民の歩みすべてに全責任を持って下さり 幼子を見守る母親のように 目を留めておられると言う霊的な光景が記されています * 政治 経済 社会生活 仕事 趣味 娯楽 料理 飲食 音楽 家 車 服装 おしゃれ スポーツ 健康 等々 それはすべて人との比較の中で 人の目を気にし 見栄 ごまかし きれいごと 欲などがうごめいており 誰ひとりそこから逃れることができないものでした しかし 新天新地では それらがすべてなくなり 神との関係において同等であり 比較する者はなく 神が共にいて下さると言う事実の故に 人目を気にする必要がなく 神だけを見上げて 喜びと感謝にあふれるようにされるのです * そして最も理解しているべきことは 私たち人間においても 古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなると言う 世にいた時と全く異なった完成された人間となると言う点です それでは以前の私ではなくなるのか そうではありません 以前の私のまま 私と言う自覚を持ったまま霊が 100% 解放され 完成され 肉が入り込んでいたからだがなくなって新しいものが与えられ 肉が染み込んでいた心が 新しい心になって もはや肉の思い 罪と悪が入り込まない 肉欲から解放された者にされると言うことです 10
* それが 人の目から涙を全くぬぐい取って下さると言うことです これは 涙することがない状態にしようと働いて下さると言うことではなく 涙することがない人間に 根底から造り変えて下さると言っているのです 死もなく 悲しみも 叫びも 痛みもないと言う表現で 外側からではなく 内側から人間性をすべて造り変えて 恐れも 不安も 不信も 疑いも 惑いも持たない人間となり 混乱のない 本物の喜びと内なる力を感じ取る者とされると言っているのです 人間はもはや自分を見て嘆く部分は全くなくなり 落ち込む必要はなくなるのです * 何と言う希望 何という変化でしょうか この世の感覚を持ち続けることなく この世の不満 不足 不純な思いはすべて消去されると言う 古いものは過ぎ去って すべてが新しくされると言う 神による最高難度のみわざが 新天新地において実現されると言うのです 信仰者が持つべき希望は この世の延長線上の よりよい希望と言うようなものではなく 全く次元を超えた 人間を完成され 真の喜びと平安を味わえる者にすると言う希望なのです 11