聖書マタイによる福音書 11:15~19 ( 第 53 講 ) 題 肉の思いから解放された信仰によって変えられる ( 序 ) 自己願望から物事を見る弊害を理解する * すべての人間は アダムが犯した罪人として 汚染された DNA を受け継ぎ 自己中心の生き方をするようになってしまいました それが当たり前になって 自己中心がなぜ悪いと思うほどになっています なぜ聖書は 自己中心が悪の根源だとまで言うのでしょうか * それは 自己願望からしか物事を見ようとしなくなり 神がおられると信じる思いも 自己願望を満たしてくれる存在として崇め奉ろうとしているだけの信仰にしてしまい 自己願望を満たしてくれるものではないと分かったならば そそくさと神から思いが離れていくのです * それは 神の御心を取り継ぐ者に対しても同様の態度を取ります 自己願望を満たしてくれる話をしてくれる伝道者であるなら それが聖書の内容から少しぐらいずれていようと 喜んで耳を傾けますが 自分の意に沿わない 神の御心そのまま話をする伝道者であるなら さっさと背を向けるか 後ろ足で砂をかけて去っていきます これは当然だと言えます 自己願望を満たしてくれないから 自分の思いに沿わないものは不要という思いが強いからです * これが世の思いに沿って生きている信仰者の姿でもあります 自己願望の思いに合う人間と付き合い 自己願望を満たしてくれそうな人を大事にし 信仰者であっても 自己願望の視点からしか見ることができない利害中心の肉の思いを強いまま放置していると 神が見えなくなっていき 形だけの信仰になっていくのです * この人間の思いに付け込んでいるのが 預言書で語られてい 1 る偽預言者たちの姿です 彼らは 民の心にしっかりと残っている自己願望の思い中心の心を満たすことに重きを置いて預言することによって 自分の立場を安定させようとする偽預言者であり 彼らは手軽に私の民の傷をいやし 平安がないのに 平安 平安 と言っている ( エレミヤ 6:14, 14:13 23:16,17) とあります 自己願望を満たす預言をすれば民は喜ぶから 偽預言者はそう言うのです これは今日で言えば詐欺の手口ですが 自己願望に囚われている者は いとも簡単に引っ掛かります * 偽預言者は 民が何を望んでいるか百も承知です 人を甘い言葉で釣れば 騙せるということが一目瞭然だからです それと比較して預言者エレミヤは 神の御心しか伝えないから 民にとっては あまり聞きたいと思わない厳しい語り掛け 今の信仰状態では神から見放されるという神の義の基準をそのまま伝えるので それは民の自己願望の思いを砕いてしまうものでしかなく 人々はその預言を聞きたくはなく 耳を背け 預言者を迫害しようとするのです いつの時代でも同じだと言えるでしょう * もっとこうであってほしいと言う自己願望の視点から生きる時 神の御心が見えなくなってくるのです この当時の民がそうであったと イエス様は明確に指摘され 視点を変えないならば 神を信じているつもりで 神から遠く離れていることを諭そうとされるのです そのことは 今日の私たちにおいても同様です 私たちがどういう向かい方をすればいいのか ここから見ていくことにしましょう (1) 譬えを通して 批判する基準点の過ちを指摘される * 前回 バプテスマのヨハネが現れた時から 世界は旧約の約束を待つ時代から 新約の約束実現の時代へと大転換してい 2
くことを ヨハネが偉大な預言者以上の存在であることを示す中で 明らかにして来られたのです この転換点が見えないなら 天国行きの列車に乗り遅れてしまうことを 天国は激しく襲われているという表現で語られてきました すなわち 飢え渇く信仰の重要性を示されたのです * しかし 何でも飢え渇きさえすればいいというものではなく 真の飢え渇きとは何かを 今日の個所でイエス様は語っていかれるのです 確かに この当時の民も飢え渇いていました それは神を信じながら 世的に満たされることを必死になって飢え渇いていたのです 神がそれを満たしてくださると信じて期待していたのです * しかし イエス様の目には それは飢え渇きではなく ただ自己願望の満たしを求める肉の思いでしかなかったのです 信仰者は信仰を持つことによって 聖霊の導きにより 自己願望が正しく整えられていく筈なのですが 肉の思いの強い人は 世的自己願望から抜け出ることができず 一見信仰的に見える願望を主に押し付け 主よもっとこうしてください あなたは偉大なお方ですから そうする力をお持ちですと あたかも子が親に対して そうする責任があると言わんばかりに要求するところを持っているのです * これはいつの時代の人間も同じだと言えます それをイエス様は 16 節で今の時代と言われることによって 今のあなたがたがその生き方をしている人間だと 自分のこととして受けとめるように語り始められたのです * ここに取り上げている 当時の子供たちの遊び方の身勝手さを例に取り上げて 笛を吹くとは 結婚式ごっこをしようという表現で 後半の弔いの歌をとは 葬式ごっこをしようという表現で 自分がやりたいことを一緒に無理やりやらせようと 仲間に入れようとし それに加わらない者たちは 自 3 分たちの思い通りにならないので あいつらは一緒に遊ぼうとしないので 仲間に入れてやらないと仲間はずれにする子供たちと同じだと言われたのです * もちろんこれは譬えですから 結婚式や葬式に焦点が合わされているわけではありません 自分の思い通りにしない あるいは要求通りにしてくれないと文句をつけ 耳を傾けようとしない民の姿を表現された内容だと分かります ヨハネは きよい神の前に立ち返るように 人々に悔い改めを迫ると 自分は神を信じて生きている もっと自分たちをほっとさせる話をしてくれと言い イエスは 取税人と仲良くして食事している こんな人間がメシヤなどと考えられない もっと 自分たちの思いを満足させる働きをしてくれと言うのです * 自分たちの願っている通りの者でない限り 自分たちの益にならないので 何らかの文句をつけ 自分たちは耳を傾けようとしない理由付けをするのです 人間の身勝手さは 子供ばかりではありません 自己願望の視点からしか見ようとしない人間は 多かれ少なかれこのような見方をして壁を作り 少しでも益になると思えば 自分に都合のいい部分だけを取り入れようとするのです 結局は自己願望の裏返しにしかすぎません * 神が約束をされ 時が来て それを実現しようと先駆者を遣わし メシヤを遣わしても その観点からしか見ようとしない民は たとえ一部分を受け入れたとしても 受け入れられない部分が目につき出すと 何らかの理由をつけて離れていきます これがサタンの注入した肉の思いの強さがあるからだと言えます それは 私たちの中にもしっかり残っている事実を見させられるのです (2) 自己願望が満たされないと分かった後の判断 4
* それでは 民がどんな理由付けをしているか もちろんイエス様には分かっていました その理由付けからもう少し自己願望に囚われている人々の姿を 語られている内容の詳細について見ていく必要があるでしょう ヨハネが来て 食べることも 飲むこともしないと あれは悪霊に憑かれているのだと言うと言われました * 民衆からヨハネを見ると 確かに預言者らしく 大胆に 厳しい口調で神からの語り掛けをしていることは認めていました けれども堅物すぎて 自分たちには到底近寄れないし 荒野でラクダの毛衣を着物にし 腰に皮の帯を締め いなごと野蜜とを食物としていた ことが民にも知れていたのでしょう (3:4) 常人ではない生き方をしていたヨハネの形相は あたかも悪霊に憑りつかれていたかのように見えたのかもしれません * そこに 神の権威を感じる人たちもいたと思われますが ほとんどの人は 尋常ではない様に 悪霊が憑りついているのではないかと言っていたのでしょう 世から完全にかけ離れた生き方 様など 自分たちはそんな生き方はできないと考えていた当時の人々は 否定的に見たのでしょう * 確かに 最初は多くの人々が ブームに乗り遅れないようにと 悔い改めのバプテスマを受けようとしてヨハネのもとにきて バプテスマを受けたと思われますが どれだけの人が その厳しい語り掛けに 古い心が砕かれて 神に立ち返る生き方に向かうことができたかを考えてみますと ごく一握りの弟子たちしか残らなかったのではないかと考えられます 心を打たれたところもありましたが その後のイエス様に対する向かい方を見れば これまでの生き方を修正して 神の方に歩み始めた人がどれだけいたか バプテスマを受けた数の 1 割も残らなかった いやもっと少なかったのではないと 5 私は考えています * このように言う根拠は 変わりたいと願ってもほとんどの人は変わらないから 途中で挫折するのが目に見えていました 納得できることと その生き方に従っていくことの間には大きな開きがあるからです だから この時のイエス様のご判断は ごく少数の残った者以外は ほとんどの人が 自分も変わることができると期待してバプテスマを受けたが 何も変わらず 失望して離れていき ヨハネは悪霊に憑かれていたとしか考えられないと思うことによって 自己正当化しようとしたのではないかと考えられます * また一方で イエス様が 驚くべき奇跡を行われ 神の権威を持って教えられ この方こそメシヤではないかと思われるような様は感じられたのですが 律法は破られるし 罪人の部類に入っていた取税人や 汚れた罪人だと思われる人々と交わったり あろうことか食事を共にしたりする様を見ては ついていけないと感じ 罪人の仲間に違いないと批判していたとあります 自分たちが求めていたものとかけ離れていると感じて受け付けなかったのでしょう * ヨハネには もっと懐の大きなところ 柔らかい心を見せてほしいと言い イエス様には もっと律法に忠実なきよい生き方を見せてほしいと言うのです 彼らは自分の基準から判断し これではどっちも私たちの思いを満足させてくれるとは考えられないと判断を下したのでしょう これが自己願望を満たす者が下した決断だったのです * これでは 誰が神から遣わされても 自己願望を大事にした生き方を続けている者にとっては 最初は受け入れようとする思いが起きたとしても 都合の悪いこと 思い通りにならないことが判明してくると 相手がおかしいと決めつけ 問題はそういう人を遣わした神の方が悪いと言っている結果と 6
なるのです * 自己願望の恐ろしさを知らせようとされているイエス様の御心が見えてこない限り それから解放されることはなく 結局は 神を自分の奴隷として 自分の思い通りに事を行ってくれるように要求し 思い通りにならなかったならば 信仰が薄れ 思いが神から離れていくのです 自己願望の満たしという恐ろしい肉の思いが 信仰にとって最も恐ろしい罠だと言ってもいいでしょう この当時の民はほとんどこの罠に落ち込んでいたのです (3) 自分の立場理解の信仰が 肉の思いに勝った * ここから見えることは 人々は正しい判断 理解をすることができず 自己願望の満たしを基準に置いた肉の思いから離れることができず その思いによって生きていた人々の霊の目は完全にふさがれ せっかくの驚くべき福音が示され 天国行きの道が示されたにもかかわらず 自ら地獄行きを選んだ愚かさが見させられますが これは 置いた基準の誤りという一点にあると見てきました * ということは この基準から解放されない限り 信仰を持って歩むことができないと分かります 理屈では分かりますが しっかりと根付いているこの肉の思いから解放されることができるのでしょうか 解放されるための方法をしっかりと身につけなければ いつまで経っても 自己願望の思いを基準にする思いから逃れることはできません * しかし 解放されるための特別な方法があるわけではありません ただ ある信仰を身に着け 何があっても落とさないようにするだけだと言えます ある信仰とは 少女であった時代のマリヤの信仰です ( ルカ 1:26~38) およそ 13~ 15 歳頃であったと考えられますが 婚約していたマリヤは 7 ある時 御使いガブリエルがやってきて あなたは身ごもって男の子を産むでしょう その名をイエスと名付けなさい との御告げを受けたのです これはマリヤにとって全く考えられない神からのお言葉でした そんなマリヤが最終的に現した信仰は 私は主のはしためです お言葉通りこの身になりますように と告白したのです これを 神は喜んで受け入れてくださったのです * どうしてマリヤは このような告白ができたのでしょうか マリヤにも自己願望の思いが全くなかったとは思えません 今の自分は 神の導きを頂いて祝福された結婚をすることでした そんな状態のマリヤに 今の願いを根底から崩しかねない驚天動地の御告げがあったのです 無理だと言うしかなかったはずであります しかし そうは言わなかったのです なぜでしょうか * マリヤの信仰の根底にあったものは 自分の立場理解でした これが彼女の信仰を支えていたのです 若かったから持てたというようなものではありません それは 神の前における自分の立場理解でした 私は主のはしためです と彼女は信仰告白しました 私の人生は 神によって贖い取られたものですから もはや自分のものではなく 神のものであるから 神の御心のままにされることが最も正しく 幸いだと信じる信仰に立っていました * この信仰が強くされていたから 自己願望の思いは抑えられ お言葉通りこの身になりますように と告白することができたのです 自己願望の思いが全くなかったとは思えませんから 自分の立場認識を持つ信仰の方が強くされていたので 自己願望の思いが抑えられたのです 人間の思いは強い方が勝るのは当然のことです ほとんどの民は 全く信仰がなかったとは思えませんが 自己願望の思いの方がはるかに強か 8
っただけです ( 結び ) 自己願望の思いを神の前に差し出す * 当時 まだ反発しないで このお方から何かを得ることができると考えて御許に集まってきていた 一般民衆に向かって イエス様が語られたことは 自己願望の生き方の延長線上の中で信仰を持って生きていた人々であったと言えますから 神を 自己願望を満たしてくれる実現者のように考えることの愚かさを明らかにし それは 信仰とは言えないと示し 自己願望の思いから解放されなければ信仰に生きることができないと語られてきたのです * どれだけの人が このようなイエス様の語り掛けに聞き従おうとしたか推測してみますと ほとんどの人は 語られた意図を受けとめることができず 自己願望の思い中心の信仰を改めようとはしなかったと思われます その向かい方が 信仰の妨げになると考えることもなかったからです 少女時代のマリヤや その他の 神の御心優先にして生きていた忠実な少数の信仰者以外は 聞く耳を持ってはいなかったと思われるのです * イエス様は なぜここまで根底から変わることを求められたのでしょうか それが 罪を贖うための必須条件だと言っていいからです イエスさまだけが人間の代わりに死んでくださっても それで解決するわけではありません 人間の側が根底から変わりたいと願い 罪に汚染された DNA から出てくる 自己願望の思い中心の自分を差し出し 変えられることを求めなければ 変わらないのです * 根底から変わらないで 信仰を持っているつもりでいても それは自己願望の裏返しの信仰にすぎず 神の目から見れば 結婚式ごっこや葬式ごっこをして 神が動いてくれるのを待 9 つ ずるい信仰でしかないのが見えているからです 信仰に見えて 信仰でない信仰でよしとしている人間の甘さがそこに潜んでいるのです * それでは私たちは どうすれば根底から変えられる信仰に立つことができるのでしょうか 最後にそれを整理してみる必要があります 罪に汚染された DNA から出てくる肉の思いをとどめようとしても 自分の力で変えることは誰にもできません 人間の決心や 努力で変えられるような そんな簡単なものではないからです * 人間の側ができることは 自己願望の思い中心の自分を差し出し 変えられることを求めることだけです そうすることによって イエス様の贖いのみわざが有効なものとなり あのマリヤのように 私は主のしもべです あなたが贖い取ってくださったあなたのものです あなたの御言葉通りこの身になることが 私の一番の願いです と答えるようにされていきます * もちろん 一度で完全に変えられるとは言いませんが 霊が育てられていくことによって 素直にそう告白する者に変えられていくのです 一気に変えて頂きたいと言う思いは分かりますが それも自己願望の思いの一つですから 神様に全部お任せすることです * パウロは ローマ 6:13 において あなたがたの肢体を ( 体を構成する部分のことで 心や思いのことも含んでいると考えられる言葉 ) 不義の武器として罪に捧げてはならない と言っています ここの表現で言うならば 自己願望の思いに差し出すなという意味になります さらに 死人の中から生かされた者として 自分自身を神に捧げ 自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい と言いました 自己願望の思いに差し出さず 神のものとして神に差し出しなさい そ 10
うすれば神が義の武器として用いてくださると言われています 神が変えて下さると言うのです * ここから見えてくる結論を整理してみますと 罪に汚染された DNA から出てくる肉の思いを 根底から変えることは人間にはできないが キリストの贖いのみわざだけでもできない キリストの贖いを信じ 私たちを根底から変えてくださると信じて 自分の思い中心とした自分を神に差し出すことにより 神は 即座にではないが変えてくださると信じることができます * その差し出し方は 神の前における自分の立場を認識し すなわち 神に贖い取って頂いたしもべであると認識し 神に要求できる立場にはなく 即座にそうしてくださいとも要求しないで ただ神の御心通りになりますようにと信じて告白し お任せすることなのです 私たちは罪の中に死んでいた人間であったのに 今では神によって新しく生きる者とされたのですから 自分を囚えている思いからも変えてくださると信じることができるのです 11