再録 11 住宅地計画のパイオニアとしての宮脇 檀 日本大学名誉教授 山口廣 やまぐち ひろし 日本大学名誉教授主な著書 ド イツ表現派の建築 井上書院 1972 自由様式への道 建築家 安井武雄伝 南洋堂出版 1984 編著 日本の建築 治大正昭和 6 堂 明 都市の精華 三省 1979 郊外住宅地の系譜 鹿島出版会 見 共著 1987 近代建築再 建築知識 1988 など はじめに 宮脇檀 1936-1998 はたぐい稀な建築家であ つくる術について五人のデザイナーたちと語っ 2 をいただき拾い読みしていると た 賞 作品 を受けていることからもその資質は理解 ウチなんかあんなもの 施主が書いて送ってきた できるだが宮脇檀の才能はそれだけのではない スケッチ がくると怒り狂って ぼくなんか踏み 宮脇の晩年 彼に呼び出されて宮脇塾で共に教え 潰してしまうんだけれど とか ぼくは大 た建築家 中村好文は 彼を 口八丁手八丁 変支配力が強くてどうしてもぼくの選んだ家具と と 多芸多才 という言葉を絵に描いたような人 できたら女房までぼくの選んだ女房を入れてほし 物だった と評している 1 いぐらいの感じが 施主に対してあるわけです 宮脇塾とは 正式名称を 日本大学生産工学部 よ といった宮脇檀の過激な発言に出会い驚かさ 建築工学科居住空間デザインコース といい そ れたそれに対し東孝光は持論の共同作業論を持 の主任教授として招かれた宮脇檀に教育方針も運 ち出し 施主の持っている形になる以前の体験 営も総て任された宮脇はこのデザインコースを や蓄積そしてさまざまな世界観の広さに驚き打た 彼が塾頭の 住宅設計塾 と考え 自らこの人と れ それを建築に反映させようとする のが 建 思う建築家を一本釣りして講師に迎え 教えるこ 築家であると反論するお互いを知り尊敬するが とへ共に情熱を傾けた それぞれがたどる建築家としての道は交わること さて 一度でも宮脇檀に会い話をした人は そ はない宮脇さんは一枚も絵を売らなかった画家 の頭の回転の速さと機知に富んだ話しぶりを忘れ の子だが 私 東孝光 は 建築家が棚の格好一つ ないだろう彼は講演 座談会 対談を頼まれる で大騒ぎするのは一体どういうわけだお前はそ と 忙しくとも出かけて行き 聞く者の心に残る んなばかばかしいことを職業としているのか と 話をしたまた 彼の機知に富んだ話はそのまま いう大阪商人の子なのですそれゆえ私 東 は エッセイになり 説得力ある文章となり 彼の著 だからやっぱり美しいという次元に自分を百パ 建築家宮脇檀は 美術館 庁舎 銀行 学校 住宅生産振興財団 特別寄 稿 住宅地計画のパイオニア としての宮脇檀 72 ーセント浸したくない と言う 片や宮脇檀はそうではない彼の没後だが娘の 店舗となんでも巧みに設計し どれも人々の注目 彩さんは カッコイイことは良いことだこれ を集め話題となったしかし 彼が最も情熱を注 が父の信条でした と言う 3 なにしろ彩さ いだのは住宅である世の常として 建築家は住 んが 人形であれ おもちゃであれ 服であれ 宅設計からはじめるが それしか依頼がないから 親 宮脇檀 の目から見て 格好良く なかったら 少し事務所経営の見通しが立つようになると 気 何一つ買ってもらえなかったのです という苦い 苦労の多い割りに収入の少ない住宅を敬遠し 今 経験から断言しているのだから間違いない宮脇 なら注文の多い介護施設や工場や大きな店舗など 檀と東孝光は同じ建築家であっても設計姿勢につ を受注しようと走り回るようになるだが 宮脇 いては対極にあると 二人の優れた建築家の資質 檀は常に住宅にこだわり さらに住宅を取り巻く の違いを深く印象づけてくれた対談であった 環境 具体的には道や 遊び場 そして花壇や 宮脇檀は東京芸大から東大大学院に進み 高山 木々までを含めた住宅地を 美しく楽しい生活の 研究室に籍を置いた彼は父のように赤貧に甘ん 場とするデザインへと情熱を広げていった じる画家になるのはやめ より大きく美しい建築 ここでは これまであまり語られてこなかった 家 と ま ち な み 50 号 2004 世紀も前のことである壁装館より宮脇檀対談集 る宮脇建築研究室を開いて 10 余年で建築学会 書は出版されるたびに多くの読者を得た 再録 11 山口 廣 をつくる術を学び さらに大きな都市を造る魅力 建築家宮脇檀の 住宅の先にあった住宅地のデザ に引かれて東大大学院に進んだのであろうだが インに情熱を注いだ姿に焦点を当てて記し 彼の 宮脇の法政大学時代にデザイン サーベイでしご 住宅地設計のパイオニアとしての姿を少しでも明 かれた中山繁信工学院大教授は 宮脇の事務所 らかにしたい の書棚で古びた一冊のファイルを見つけたそれ 建築家 宮脇 檀 は高山研究室に所属していたとき収集した資料で あったが 綴じられていたのは 古代ローマ都市 宮脇檀という建築家を最初に深く印象づけられ 中世のカルカソンヌ または近世の星型の城砦都 たのは 彼と建築家 東孝光とが言葉の上で鋭く 市 パリ ウィーン ローマ そしてサンジミニ 切り結んだ対談を読んだときであったもう四半 4 ヤーノなどの西欧の都市図であった 家とまちなみ 67 2013.3
特集 : 宮脇檀まちなみ読本 しかし 中山はこれらの資料に 何一つ分析も書き込みもなされていなかった のに気づき おそらく 何らかの理由で西欧の歴史的都市にたいする興味が離れていったと考えられる と推測している図上で線を引き色分けする あとは法規や行政との関わりで決まるだけで 美しい都市を目指すことへの関心の欠けるアカデミックな都市計画に絶望したのであろう宮脇檀は建築に戻り 1964 年 小さな設計事務所を開く絵を売らない画家の子として 宮脇には貧乏コンプレックスがあっただから 彼は自分の家族には貧乏生活をさせたくなかったそして建築家の道を選んだのだが 美しいもの 格好良いもの をつくる志を一歩譲って施主と妥協したら 赤貧に甘んじながら絵を一枚も売らなかった父に負ける恐怖のようなものがあったと推測できる宮脇檀は父の生きざまを思い 美しいもの をつくることから一歩も下がれなかった宮脇檀は 美しいもの をつくる志を守り 美しい住宅からさらに美しい住宅地の創造へと進んでゆくことになる宮脇研の デザイン サーベイ 高山研で学んだ宮脇檀は おそらく事務所を開く前であろうが ある住宅団地と都市再開発計画に参加しただが 神としてのデザイナーが上空から眺めているということのはかなさ むなしさみたいなものをつくづく知った と告白している (* 5) 日本でのデザイン サーベイは 1965 年夏 伊藤ていじの手引きでオレゴン大学の建築学と社会科学の教師と院生が 金沢の幸町を調査したのが初めであった宮脇が事務所を開設した翌年で すでに住宅設計のみでならず インテリア デザインに コンペに 教育に と活発な活動を始めていたそれでも 彼はオレゴン大学の調査報告を 国際建築 (* 6) 誌に発表するための編集会議に顔を出しており 新しいデザイン サーベイについてかなり正確な理解をここで得たと考えられるそして翌 1966 年春には 法政大学の宮脇ゼミでの最初のデザイン サーベイ候補地を倉敷と決めて調査に入っているこの倉敷でのデザイン サーベイの調査報告を 国際建築 (*7) に発表した折に 報告の冒頭に宮脇ゼミの デザイン サーベイの意味と姿勢 を記し オレゴン大学との違いを記しているそれは 日本の伝統的都市空間 ( これが宮脇ゼミのデザイン サーベイの記録を纏めた本のタイトルとなっている ) に関するこれまでの調査を批判反省して 感覚的な印象論 抽象論か 歴史学的な文献分析で終わってしまうもどかしさに対し 少なくとも街が僕達に与える感動の実態を客観かつ実証的に解明する必要 から 可能な限り正確な実測図を作成し また研究に利用できるデータを揃えることを目指す のだ と明言しているそして倉敷では ユニフォーミティ ( 景観としての統一性 : 伊藤ていじの命名 ) のエレメント 分析をいくつか試みているたとえば ( エレメント分析 3) 川と建築の創る空間 その人間的尺度 では 道路沿いの視野はつねに 120m か 180m の距離で遮られる とか 建物のモデュールは 90cm と 180cm であり 人がゆっくり歩く 1 秒のリズムと合致する といった興味深い数値を導き出している明らかに調査のための調査ではなく そこから日本の伝統的都市空間の 美しさ の秘密を具体的データとして取り出し これからの日本のまちなみづくりに用いようと考えている建築家の姿がそこにある翌 1967 年には 木曽路の 馬籠 の 宿 と 峠 の二つの集落を 道空間 をテーマに調査する 1968 年は山口県萩市の 南古萩町 の武家屋敷の一画を調査した後 続けて滋賀県の近江商人の出身地 五箇荘 山本郷 を調査する 1969 年は 四国 琴平 の金毘羅宮の参道沿いを 坂のシークェンス をテーマに調査するそして 1970 年には 奈良県大和平野の環濠集落 稗田 を調査するやがて 法大 宮脇ゼミのデザイン サーベイの成果が知れてくると 地方自治体からの調査依頼に応えて出かけるようになる 1971 年の瀬戸内海に面する漁村 室津 1972 年の丹波 篠山の 河原町 そして 1973 年の兵庫県の西端に近い山陽路と山陰路の分岐点 平福 の 3 ヶ所は どれも兵庫県教育委員会からの委託調査であったここで宮脇は法政大学を去り 宮脇ゼミは消滅し サーベイも終わりを告げる (* 8) 宮脇檀は 丹波 篠山である深刻な経験をしたことを告白しているインタビューで彼が語ったのを そのままここに引用する (* 9) ある時 丹波の篠山でサーヴェイしている時に 突然 町のおじさんに家を改造してくれないかと頼まれた真っ暗で住みにくくてしようがないからとその時 僕は赤や青の箱をつくる以外に建築はないと思っていた時期ですから デザイナーとしては赤や青の箱を丹波の篠山に建てなきゃいけないところがその街並みが美しいと思って調査している人間だから そこに赤や青の箱を立ててはならないということを片方では思っていたその両方が真正面からぶつかって これはいいかげんに考えてはいけないぞ というのが そもそもの内なる問題としての街並みデザイナーと作家とのぶつかり合いだったと思います このときが 前衛的な作家宮脇檀が より思慮深い日本の現代作家に変身した瞬間だったと思うかつて 盛岡では黄色の箱 ( 秋田相互銀行盛岡支店 1970) を城下町に嵌め込んだのに 角館では隣の土蔵に揃えた箱 ( 秋田相互銀行角館支店 1976) を嵌め込むことになるまだ 本人も完全に納得したわけではないが それでも それまで 家とまちなみ 67 2013.3 73
は 掃き溜めに鶴が単体として下りてきているなんて思っていたんですが 隣りと並べた時にどういう問題が起きるかということを考えはじめたのは そのへんからだと思います と話しているここに まちなみづくりに目覚めた宮脇檀の誕生を確認できるプレハブ住宅と住宅生産振興財団ここで 宮脇檀の活動を離れて プレハブ住宅の動向について述べておくかつて日本建築学会は全国の会員を動員して 現存する近代建築の悉皆調査をなし その成果を 日本近代建築総覧 ( 日本建築学会編技法堂出版 1980) なる大冊の報告書に纏め上げたその後 各地で 近代化遺産 調査が開始されたこれは 近代建築とは比較にならない多様な遺物 遺跡を含み かつその件数も膨大であるそこで 国立科学博物館は 5 年計画で 産業技術史調査会 を立ち上げて 産業技術の歴史の集大成と体系化 という壮大なプロジェクトに着手したそして 5 年目に 産業技術史資料ナショナル センター をスタートさせたここに登録された資料の中に プレハブ建築協会から提供された23 点の資料 ( すべて現存するプレハブ住宅 ) が含まれているその中から 早い時期のプレハブ住宅を拾って見る ユタカハウス :1950 ユタカプレコン株式会社 ( 耐火工業化住宅の初期商品 ) 大和式組立パイプハウス :1955 大和ハウス工業株式会社 ( 鋼管を利用したパイプハウス ) ミゼットハウス :1959 大和ハウス工業株式会社 (3 時間で建つ11 万円の勉強部屋 ) セキスイハウスA 型 :1960 積水化学工業株式会社ハウス事業部 ( 本格的住宅として開発 販売された工業化住宅の国産第一号 ) セキスイハウスB 型 :1961 積水ハウス産業株式会社 ( 世界最多累積建築棟数のセキスイハウスB 型第一号 ) 松下一号型住宅 : ナショナル住宅産業株式会社 ( 軽量鉄骨梁ラーメン構造住宅で不燃組立住宅の認定を受ける ) セキスイハウスC 型キャビン :1962 積水ハウス産業株式会社 ( レジャー用住宅として開発 FRPシェル構造でユニットハウスの原型 ) リブ付中型コンクリートパネル組立造 :1962 プレハブ建築協会 宇部興産株式会社 イワコンハウス株式会社 レカコハウス株式会社 赤平建設株式会社 ( 建設生産の近代化と住宅の不燃化を目指して開発 ローコストでもある ) ナショナル住宅 R2 型住宅 :1966 ナショナル住宅産業株式会社 ( 軽量鉄骨柱梁ラーメン構造の初めての2 階建て住宅 ) NSU(SNSU) 多層ユニット住宅 :1969-1970 ナショナル住宅産業株式会社 ( ナショナル住宅と新日鉄の共同開発 高層人工土地にカプセル化した住戸ユニットを挿入する工法 ) 鉄筋コンクリート造工業化住宅パルコン :1970 大成建設株式会社 ( プレハブ鉄筋コンクリート戸建住宅 30 年間で 60,000 棟以上建てる ) セキスイハイム M1:1971 積水化学工業株式会社 ( ユニット工法で事業的に成立させた第一号 ) こう見てくると 戦後日本のプレハブ ( 工業化 ) 住宅の基礎は ほぼ 1970 年代初頭には確立されたことがわかるそして 1980 年代にはいると 大手メーカーの中には 1 万戸以上の規模で量産 量販する企業が数社出始めて 量販メリットと量産メリットの組み合わせの中で商品化住宅として定着している と ある百科事典には記されているこれで日本の住宅問題は解決されたかといえば そうではない一番根底のところで 住宅 のつくり方が変わってしまっている昔の農民の家 ( 農家 ) でいえば 彼等は 出来るだけ身近な材料 で しかも出来るだけ安く 家をつくった軸組の木材は近くで取れる木を用いる九十九里の漁民の家の小屋組みには海風で曲がりくねった松がそのまま用いられている床材に適した広幅の板が手に入らないところでは竹を並べ その上に筵を敷いている屋根は河原の萱を順番に刈り取り乾燥させて用いる壁土は足元の土に藁をつなぎに刻んで入れよく練って寝かせてから使うしかも どの材料も再び土に返せるそれぞれの土地にあるなるべく安い材料を用いることで特色ある 家 がつくられてきた プレハブ ( 工業化 ) 住宅は 先に住宅があるそして まとまった宅地が造成され 区画割りがなされると そこに工場生産されたプレハブ住宅が一つずつ置かれていくそして これらのプレハブ住宅の数が多いほど これまでにない異様な強い景観が現れる建てられるのが自然から切り離されて大量製造された住宅だから その集合体がつくり出す景観も周囲の自然に溶け込まない場合が多いでも もっといろいろある宮脇檀の語りから引用する (* 10) 一戸一戸は住み手の欲望を満たすべく あらゆるメーカーの部材と部品の満艦飾となって妍を競い 隣家の日照を無視せざるを得ない狭小敷地に法を犯していっぱいに作り 4m に満たない道路ギリギリに コストが安いというだけで味気ないブロック塀を立て列ね ミニ開発と称する矮小住宅が人びとの持家意識にこびてのさばり 公園も緑もほとんどなく 子供たちは狭い道いっぱいに走り去る車におびえて室内に閉じこもり 主婦たちは井戸端会議の場も持てず隣り近所との交際は減る一方 火災時に消防車も進入できぬ車道の両側にこんな百鬼夜行の住宅が埋め尽くす それが日本の住宅地である と極めて手厳しいこのような批判は 住宅生産供給業界も気づかないわけではない財団法人 住宅生産振興財団初代理事長で積水ハウス社長であった田鍋健は 74 家とまちなみ 67 2013.3
特集 : 宮脇檀まちなみ読本 個々の建物の質の向上 機能の拡充から さらに一歩進んで調和の取れた住環境 街並み を創り出そうというこの全く新しい課題に個々の戸建て住宅生産企業がいくら挑んでみても 所詮 限度のあることは自明でありますそこで建設省の指導をいただき 志をおなじくする戸建て建設業界でリーダーシップをとる企業が集まってこの課題の解決を諮ろうと設立したのが この住宅生産振興財団であります と 明快に述べている (*11) 1979 年 7 月のことである住宅生産振興財団がまとめた 20 年のあゆみ (*12) に この財団の 設立趣意書 が載せられているそこでは 量から質へ を目標に 事業の第一に 戸建て住宅及び連続建て住宅等の総合展示の企画 運営 が挙げられているつまり 住宅祭 と呼ばれるイベントである同書の 20 年のあゆみ : 財団日記 によると 設立の年から住宅祭が始まっているこれについて その頃積水ハウス鹿児島営業所にいた井上泰雄が 財団住宅祭と宮脇先生 (*13) なる貴重な証言を残している 財団住宅祭第 2 回目 ( 実質的には第 1 回目 ) が ( 鹿児島 ) 県公社の伊集院妙円寺団地で開催されることが決定し 財団住宅祭 の何たるかも解らぬままに 上司にその事務局員を申しつかった このときコーディネーターとして登場されたのが宮脇先生であった しかし 妙円寺団地では宅造 施設はできており 宅地内の住宅の配置や さらにハウスメーカーの住宅もある程度決まっていた先生の街づくりの思想が反映できる部分は ほとんど外構の部分しか残されておらず これらの条件のもとで如何にしてより良い団地にするか が問われたのであった これについて 同じく宮脇檀のコメントがあるので引用する (* 14) 住宅生産振興財団もまた ハウスメーカーが会員で 各社全部 自分の会社のお家の事情を背負って来ていますから 家が動くはずがないだからわれわれにできることは 外構の部分で処理するということで かなりのあいだそれに終始したのです僕は ブスの厚化粧 と言っているんですが こんなブスばかりを外構という厚化粧でごまかしているのが街づくりじゃない 機会があれば少しでも宅造とか二次造成とかいう部分からさわりたいし 家もさわるべきだということをさかんに主張してきて 次第にさわれるケースが増えてきましたね 話の後半はその後の仕事についてであるが とにかく最初は さすがの宮脇檀も驚き怒りはしてみても マイナスをプラスにすべく奮闘した姿が伺える住宅地計画のパイオニア 宮脇檀建築家 宮脇檀が 住宅設計を通して住宅を取り巻く環境に常に関心を持っていたことは 彼の どの本を見てもわかるたとえば 暮らしをデザインする (* 15) でも 良い環境に住む なる一章を設けているでは 宮脇檀は具体的に何時から住宅地設計に関わりだしたのかそれについては積水ハウスの百瀬深の証言がある (* 16) 百瀬は東大生のころから宮脇事務所の勉強会に参加し 積水ハウスに入社が決まると宮脇夫妻に仲人を頼んで結婚した 宮脇の門外の弟子である百瀬の証言によるとこうである 入社してからは 街並みづくりに世間に先駆けて取り組んだコモンライフ長行団地の計画をしながらアイデアも枯渇してきたので 美味しい九州の魚や寿司で誘ったのが 宮脇さんが街づくりに取り組みはじめた最初である と宮脇檀にも証言がある (* 17) 北九州の積水ハウスに百瀬君という 僕が仲人をした男がいて 彼がちょっとおもしろいことをやろうとしているから助けてくれというんで呼ばれたわけです と 言うことが一致する百瀬は二重の生垣 玄関横のシンボリツリーなど その後の住宅地計画で広く用いられる手法の多くをすでにここで試みている宮脇はこれに感心しつつも それを見ながら 欠けているものは何かというんで そこでちょっとコンサルタントをして それまで彼らがやった手法を修正したのが のめり込みのはじまりです と証言する先に挙げた宮脇の著書 暮らしをデザインする の第 5 章 街並みを考える で 取上げているのは すべて彼が旅で訪れた外国のまちなみについてである宮脇の旅好きは良く知られている彼はミコノス島の狭く 曲がりくねった道を歩きながら 私たちに道は生活の場であり 生きていなければ と改めて考えているかように 彼の多くの旅の記憶とスケッチが より良い住宅地設計へと彼を駆り立てたのは間違いない宮脇檀が世を去って間もなく 弟子たちにより コモンで街をつくる : 宮脇檀の住宅地設計 (*18) が刊行された 街並みを個から全体への発想でとらえる という言葉が掲げられた後に 宮脇檀の 戸建て住宅による環境造成について と 5 つのハードと 1 つのソフト という論文が収録されている宮脇の住宅地設計の思想と手法はこの 2 篇の論文に尽くされている巻末には彼が手掛けた全住宅地 62 のデータがまとめられてあり ( 資料 1) その前に 弟子の二瓶正史が 初期のものから辿り それぞれの仕事に対する計画者としての意図を明らかにして その意味を述べて いるそして 代表的な仕事 の第一に 高幡鹿島台ガーデン 54(54 戸東京 都日野市 1984) をあげているこれについては宮脇も この宅造計画は ある方が都の開発許可の窓口にいたどこかの大学の講師をしていて 極めて前向きで 私建ちの図面を見て おもしろい 全部この通りで通しま 家とまちなみ 67 2013.3 75
19 しょうと言って 判を押した それゆえ 二瓶も 道路はすべてボンエルフ道路 要所 に配置されたポケットパーク フットパス 建 物設計は最初一宅地毎にその宅地特性を考えなが ら 街並み景観と周辺環境を考慮しながら住宅を 設計 と この住宅地には宮脇檀の初期か らの住宅地に対する考えすべてが盛り込まれ ひ とつの集大成になっていると言えよう と 記し ている 宮脇檀の住宅地計画の集大成ならぜひ訪れるべ きである と思った 引用文献 1. 宮脇塾講師室編著 眼を養い 手を練れ 彰国社 所収 はじめに 中村好文 2. 宮脇檀対談集 つくる術について五人のデザイナーたちと 語った < キサデコールセミナーシリーズ 3> 新建築社 1976 所収 構えず 揃えず 東孝光との対談 3. 宮脇彩 父の椅子 男の椅子 PHP 研究所 2001 所収 カッコイイ哲学 4. 宮脇檀 法政大学宮脇ゼミナール 日本の伝統的都市空間 デザイン サーベイの記録 中央公論美術出版 解説 篇 序文 中山繁信 5. 都市住宅 所載 のインタビュー記事 6. 金沢市幸町のデザイン サーベイの抄録は 国際建築 1966 年 11 月号 に発表される おわりに 夏の初めのある日 高幡鹿島台に宮脇さんを訪 ねた 1991 年から同じキャンパスで同じ建築工学科 に属し ときにお喋りもしたもう声が出ないの に 宮脇塾のコンパに出てきて塾生に囲まれてニ コニコしている姿は痛ましかった 車から降りて 先ず ガーデン 54 へ入る 木々の緑が濃く 道は補修の跡一つ見えずゆった りと左へカーブして伸びて行くゆっくりと歩い て行くと 左手の擁壁の下の植え込みに小さな立 て札があるかがんで読むと 笹を植えたばか りですから 犬猫を入れないでください とある 笹はきれい育っているのでほっとする一番北の 道を突き当たって赤レンガの階段を登ってく途中 で立ち止まってしまった狭い歩行者専用階段な のに横に植え込みと目立たぬが照明器具もある じっと見ていると 宮脇さんがひょっと顔を出し どうです こんなところまできれいでしょう とにこっこりしてくれるような錯覚に襲われてし まった すぐ隣のやはり宮脇さんがまちなみづくりを担 当 し た フ ォ レ ス テ ー ジ 高 幡 鹿 島 台 53 戸 1998 に足を踏み入れると 少し趣が違う道が ゆったりと左右にカーブしているこちらはコモ ンの中心に植えられた木がほどよくそびえ 取り 巻く家々をまとめているコモンからコモンへの 広い道を巡る楽しさもあるゆったりカーブして 続く道をゆっくり歩いていると また 少しベン チに腰掛けて綺麗な花を眺めませんか と また 宮脇さんが後ろから声をかけてくれたかと振り向 いてしまった でも白昼夢であったいや白昼夢のように こ の隣り合うこの二つの住宅地を歩き回る間 1 台 の車にも出会わなかったそれは良いとして 一 人の子供にも会わなかった ガーデン 54 の小 さな憩いの場は 敷きレンガの間から草がのび 木のベンチのペンキが剥げていた フォレステ ージ の台形の公園も ピンクの花が美しかった が人影はなかった 宮脇さん ちょっと寂しいけれど でもあなた のせいではありません 76 家とまちなみ 67 2013.3 7. 国際建築 1967 年 3 月号 倉敷 宮脇檀 の冒頭の 1. デ ザイン サーベイの意味と姿勢 で 自らの姿勢を記してい る 8. 宮脇檀が指導したデザイン サーベイの成果は 近年よう やく 日本の伝統的都市空間 デザイン サーベイの記録 図 面篇 解説篇 中央公論美術出版 として刊行された 9. 都市住宅 10. 9 に同じ 11. 住宅生産振興財団編 街並みを創る 境形成の理論と手法 丸善 戸建住宅による住環 1983 まえがき 田鍋健 12. 20 年のあゆみ 住宅生産振興財団 2000 13. 井上泰雄 財団住宅祭と宮脇先生 家とまちなみ 39 号 1999 14. 都市住宅 1985 年 8 月号 15. 宮脇檀 暮らしをデザインする 丸善 1995 新装版 16. 百瀬深 宮脇檀さんの想い出 家とまちなみ 39 号 1999 17. 都市住宅 18. 宮脇檀建築研究室編 コモンで街をつくる 宮脇檀の住宅 地設計 丸善 2001 19. 都市住宅 1985 年 8 月号 図版提供 宮脇檀建築研究室