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紫式部の道学思想 空蝉の人物像に関する一考察 The Taoism Thinking of The Murasakisikibu ~A Study of The Character of Utusemi~ 文学研究科人文学専攻博士後期課程在学 張 楠 Zhang Nan はじめに 平安時代文学の代表的作品として 日本文学の世界に誇る文芸作品として存在する 源氏物語 は その主題 構想なりを文学者ですら全体として考察することが困難なのは 他に類をみない長編物語であることと内部構成が複雑であることに基因している 各巻々の独立性や 長編のなかにも短編 中編的な構成がみられるので無理がない一面もある そして 源氏物語 自体一貫した筋の展開を示していない この様な場合 作家論として紫式部の思想 創作意志 創造態度など内面の精神が明確化出来れば 源氏物語 の作品論的な諸問題は 解決への一歩を踏み出すのであるかもしれない 作者である紫式部が一千年も前に生きた古代の作家であり 作者の心の歴史を照明し 作品創造の過程を明らかにすることは不可能に近いけれども 平安時代の文学作品を読むと その時代の知識人たちの内面の精神の共通点が伺える この点について 増田繁夫氏は次のように指摘している 八世紀末から十二世紀末まで四百年ばかり続いた平安時代は わが国の古代と呼ばれる時代から 次の中世と呼ばれる新しい時代へと大きく変わって行く その過渡期にあたっている 此の時期に生きた人々は 日常の物質的な生活が豊かになってくると共に しだいにその内面の精神生活を深化させてゆき また繊細にしていった 古今集や源氏物語といった文学作品はその様子を具体的によく示すものである ( 中略 ) わが国の古代の支配階級や知識人には 早くから圧倒的に高度で完成された中国思想が浸透していたから 既に七世紀にもなると 中国の儒教思想に基づいた律令国家を組織し運営しようとするまでになっていた しかしながら それらの中国の先進思想の移入は 当然ながら主として完成し成熟した結果を取り入れたものであり 当時の人々にはいまだ十分に理解し実感するまでに至っていないところが多くあった 後進地域の文化のもつ宿命として 人々が日常生活を行う過程で内発的に問題を意 - 415 -

識し思索して行く中で 徐々に思想として形成し成熟させてゆくという過程を経ることなしに 高度な中国文化を次々と承け容れねばならなかったのである それらの先進思想が人々の心の中に深く定着するためには 其の思想の形成されてきた過程をある程度に追体験し実感できるほどに 受け容れる側の人々が成熟していなければならないが そうした条件が整うにはやはり長い時間が必要であろう わが国においては やっと平安時代に入ったころから 人々がそれら外来の先進思想を追体験し内面化し始めた時期に入ったと考えられる 1 日本の文化に 大きな影響を与えた中国の伝統文化は 主流とする儒 道 仏の三家が互いに対立し互いに補足しあう文化である その中の仏学はインドで生まれ 漢の時代に中国へ伝わった 東晋以後 中国の文化は儒学 道学 仏学の三家が鼎立した 仏学は外来文化であり 中国に入ってきたばかりの時には中国固有の神仙方術に従属し その教理も老荘 ( 老子 荘子 ) の道家哲学によって解釈した それは実際には道家と道教によって中国に受け入れられたが 唐代になると完全に中国の伝統文化と一体となり 中国的仏教になった 儒家文化は 漢代からずっと統治する側の位置にあって 中国の家長制の皇権政治を維持する精神的な柱であった これは封建宗法専制社会という中国の特殊な国情によるものである 道家と道教文化は中国の伝統文化の源泉であり 中国の伝統的な哲学の要素の一つである そのため 中国文化を持続的にかつ取捨選択して受容してきた日本文化の中から 道学的要素を本格的に追跡することは あるいは道学の定義以上に難しい作業であるかもしれない しかし 仏学や儒学とともに古代日本を彩った道学的要素を考察することは それなりに重要な意味があり ずいぶん視野が広がるのではないかと思う Ⅰ. 道学を底流としての 唐風 文化の影響 文学創作の場合は 作者による時代背景は 作者の思想意識の形成に対し大きな影響を与えることが認められる 源氏物語 の作者である紫式部が生きた時代は平安時代の中期にあたり 唐の文化を積極的に受け入れながら 独自の日本的な形に消化し 唐風 を基礎にした 国風 文化の時代である 隋の開皇二十年 ( 六〇〇年 ) には 日本は始めて使者を隋に派遣し 遣隋使と呼ばれている この第一回の派遣は 日本書紀 に記載はないが 隋書 は隋の高祖 文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている 開皇二十年倭王姓阿毎字多利思北孤号阿輩雞弥遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言倭王以天 為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改 之 2-416 -

( 開皇二十年 倭王 姓は阿毎 字は多利思北孤 阿輩雞弥と号づく 使いを遣わして闕に詣る 上 所司をしてその風俗を問わしむ 使者言う 倭王は天を以て兄と為し 日を以て弟と為す 天未だ明けざる時 出でて政を聴く跏趺して座す 日出ずれば すなわち理務を停めて云う 我が弟に委ぬと 高祖曰く 此れ大いに義理なし 是に於て訓えて之を改めしむ ) また 新唐書 では 用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始與中國通 3 とある この記載より 用明天皇が多利思比孤であるとしている 中国では六一九年に隋が滅び 唐が建ったので それまで派遣していた遣隋使に替え 遣唐使になったというわけである 遣隋使と遣唐使を通じて 中国の文化が絶えずに日本へ伝えられていった 日本の平安時代は 唐から取り入れた律令に基づく政治を立て直していこうとする時代で 文化の面でも唐の文化が尊ばれ 唐の文化の影響を強く受けていた時代である 唐風文化というと 日本は遣唐使と留学生などをかけ橋として 当時の東アジアの中心国 世界の一番先進国である唐から文化を摂取し 導入した唐の文化が日本で 唐風文化 と称されている 唐風文化は当時の日本に大きな影響をもたらしていた 日本人の衣装と生活習慣まで影響を及ぼしたと思われる 唐は先進的な国であり その文化が開放性を有するものだと考えられる 朝鮮半島と日本だけではなく インドなどまでに影響を与えていったという だからこそ 日本では 大きな影響力をもっている唐風文化というものが形成されるのは不思議な事ではない 繁栄した唐の文化は 当時の世界における最高水準の文化であった 道 儒 仏の三学は互いに競いながら融合していたが 道学が急進的に伸びた 唐の王朝は非常に道学と親密な王朝であるといえる 高祖を始め太宗 玄宗 武宗など唐のほとんどの皇帝は道学に心を惹かれるので 道教は唐代になると 特別の地位を与えられ 中国の国教となった このような雰囲気に従う唐の文化の一つの特徴は 底流となった道学を尊ぶ立場を守る貴族文化が繁栄したのである 唐の文学は 唐詩や伝奇などにも道学の意識を植え付け 李白 杜甫 白居易などの詩人の詩にもそのことが反映されている 道学について 道学研究の大家胡孚琛氏は 道学通論 - 道家 道教 仙学 の中に 次ぎのように定義した 我们将道学的概念定義為以老子的道的学説為理論支柱的整个文化系統 其中包括道家的哲学文化 道教的宗教文化 丹道的生命科学文化 道家与道教二者皆以老子的道為根基 道家是道教的哲学 支柱 道教是道家的宗教形式 4-417 -

これによって 中国の学界では 道学とは 中国の伝統文化の一つの重要な構成部分として 道家の哲学文化 道教の宗教文化 神仙家 ( 仙学 丹道 ) の生命科学文化を含んでいる文化システム と定義している その文化システムに含まれる老荘思想 ( 道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ ) の中では 道の陰陽大化 に関する思想が 道学の中心思想である と一般的に考えている 中国伝統文化の中では 道家は諸子百家の根本だと認められるので 老子の地位は突出していた 一般大衆の文化習俗に対して 道学は儒学以上の大きな影響力を持っていた 史記 老子韓非列伝第三 には 老子者 楚苦県厲郷曲仁裏人也 名耳 字聃 姓李氏 周守蔵室之史也 孔子適周 将問礼於老 子 5 とある つまり 老子は楚の国の苦県の出身で 姓名は李耳 ( りじ ) 通称聃( たん ) であるので 老聃で通っていたのであり 周の守蔵室の役人である 孔子は周に行きまして さえ礼について老子に問おうとしたのである 唐の王朝は老子と同じ李姓であったので 老子が唐帝の祖先であると称し 老子が羊角山などの地に現れたという政治神話はさらに多くなった 北宋の王溥 ( 九二二年 九八二年 ) が撰して 現存最古の会要である 唐会要 の巻五十には 武德三年五月 晉州人吉善 行于羊角山 見一老叟 乘白馬朱鬣 儀容甚偉 曰 謂吾語唐天子 吾汝祖也 今年平賊後 子孫享国千歲 高祖異之 乃立廟于其地 乾封元年三月二十日 追尊老君為太上元元皇帝 至永昌元年 卻称老君 至神龍元年二月四日 依旧号太上元元皇帝 至天宝二年正月十五日 加太上元元皇帝号為大聖祖元元皇帝 八載六月十五日 加号為大聖祖大道元元皇帝 十三載二月七日 加号大聖高上大道金闕元元皇帝 6 とある つまり 隋を滅ぼして唐を建国した初代皇帝 高祖となった李淵は老子が現れた羊角山などの地に宮観や老君廟を建て 唐の王室は公然と老子を 聖祖 として尊び 自ら老子の子孫であると称した また 武德八年 ( 六二六年 ) に 高祖の李淵は 先老後釈詔 を発布した この詔書には 老教孔教 此土先宗 釈教後興 宜崇客礼 令老先 孔次 末後釈 7 と言う句がある つまり 唐の高祖は王朝の思想意識に対して 道教が先 儒教が次 仏教が末とい う順位を付けて道教を尊ぶ国策を宣布した - 418 -

それから 道学に推される李世民が 仏学に夢中になっていた太子李建成を廃し 第二代皇帝太宗 となった 貞観十一年 ( 六三七年 ) に 太宗は仏教と道教の優劣を定めるために双方に議論をさせ 道士女冠在僧尼之上詔 を発布した この詔書の中に 自今已後 斎供行立 至于称謂 道士女冠可在僧尼之前 庶敦本之学 畅于九天 8 とある つまり 斎供の行位や称調においては道士女冠を僧尼の上位に置くとするように 唐の太宗は道教を推奨して仏教を抑圧した このような道学を重視する動きは 第三代皇帝高宗の時代になるとさらに強まり それは 高宗の名前が李治 ( りじ ) というところにも現れているようである 旧唐書 本紀第五高宗下 に 乾封元年 ( 六六六年 ) の条になると 二月己未 次亳州 幸老君廟 追号曰太上玄元皇帝 創造祠堂 9 と 高宗が自ら亳州に老君廟 ( 老子廟 ) を謁し 老子を 太上玄元皇帝 に封じたことを記している また 儀鳳三年 ( 六七八年 ) の条になると 五月自今已後 道德経 並為上経, 貢挙人皆須兼通 10 と 高宗は 道徳経 ( 老子 ) を上経とすることを命じ 百官や貢挙人 ( 州都から中央政府に選抜された人 ) にこれを習わせことを記している 高宗の皇后となる武則天も 太宗 李世民が亡くなった時に女性道士となり そして 新唐書 高宗本紀 の上元三年 ( 六七六 ) の条には 八月壬辰 皇帝称天皇 皇后称天后 11 と記載がある つまり武則天は高宗を 天皇 とし 自らも 天后 12 と改名しているように 高宗も武則天も 道学に大きく関わっている とりわけ 源氏物語 と関わりが深く 日本で最もよく知られている唐の最盛期を迎えた玄宗皇帝は道学に傾倒し 自ら道士から法を受けるとともに 道教を国教として定め布教に推進した 唐会要 卷七十七 貢挙下 には 开元二十九年正月十五日 于元元皇帝廟置崇元学 令習道德経 莊子 文子 列子 待習成後 - 419 -

每年随挙人例送名至省 準明経考试 通者準及第人処分 其博士置一員 13 とある つまり 玄宗は道学の学校である崇玄学 ( 崇虚館 ) を設置し 四子真経 ( 老子 莊子 文子 列子 ) を研究する課程を開き 貢挙人には 道德経 についても試験し 道挙 制度を打ち立てた また 唐鉴 14 卷五には 二十九年正月 帝 ( 玄宗 ) 梦玄元皇帝告云 吾有像在京城西南百余里 汝遣人求之 吾当与汝興 慶宫相見 帝遣使求得于周至楼観山間 闰四月 迎置興慶宫 五月 命画玄元真容 分置諸州開 元観 15 とある つまり 開元二十九年 ( 七四一年 ) の春に 玄宗皇帝は玄元皇帝 つまり老子から夢のお告げがあり 楼観山の山中で老子の大像を発見した 玄宗はその老子像を興慶宮に祀り また全国の州都に玄元皇帝廟を建てて老子像を描き 老子を祭ることを命じた 玄宗はまた自ら 老子 の注釈書である 開元御注道徳経 を撰し 士族や庶民に習わせた 道学経典も系統立てて編集させ 一切道蔵 と呼ばれ 道学を大いに発展させた 従って 唐の時代には道教の音楽 舞踏 建築 彫塑 文学芸術が全面的に発展した 特に玄宗の宮廷における宴のシンボルであり 白楽天の有名な 長恨歌 において 漁陽賢鼓動地來 驚破霓裳羽衣曲 ( 漁陽ヘ賢鼓地を動して来たり 驚破す霓裳羽衣の曲 ) と歌っている道教音楽 霓裳羽衣曲 は非常に高い芸術性を備えていた 霓とは虹のことで 霓裳とは虹の裳 即ち仙女の衣の意味となる 羽衣もまた文字通り羽衣であるので 文字表記からも 夢幻的な曲であることが理解できる さらに 道士や仙人を題材にした伝奇小説が書かれ 詩人は仙になる道を慕って詩を編み 道教文学というジャンルが成立した 道教の文学芸術が盛んになったことは道教の宗教性を少なからず向上させ 中国伝統の思想文化を道教の精神と融合させた 唐の文化の影響を強く受けた平安時代の貴族や知識人たちは 唐文化の底流をなす道学的な教養や知識を身につけ 道学文化に染まっていたであろう 紫式部の思想意識における道学の受容は当然であると思われる そのため 源氏物語 は国風文化の時代に書かれるが 道学の影響がかなり色濃く現れた文学作品でもある と考えられる ゆえに 筆者は道学の観点から 空蝉の人物像を分析することを通して 紫式部の道学思想を考察してみることにする - 420 -

Ⅱ. 空蝉 夢にはありける 源氏の恋の遍歴のスタートは 空蝉 である 空蝉と言う人物は優れた女性であり それも家族のため 一族のため わが運命と受け入れる自己犠牲の強い女性でもある また 品良く慎ましやかで 操の堅い空蝉は 紫式部の理想の女性の生き方を示し 作者の自画像にかなり近い人物と言う説もある 空蝉の容姿について 空蝉 の巻には 頭つき細やかに 小さき人のものげなき姿ぞしたる ( 中略 ) 手つきやせやせにて いたうひき 隠しためり 16 ( 源氏物語 第一巻 一九四ページ ) と書かれているが 源氏の心の中で あはれもつらさも 忘れぬふしと思し置かれたる人 ( 第二巻 三五三ページ ) というような忘れない地位をしめる 元々空蝉は上流貴族の娘 ( 父は中納言兼衛門督 ) として生まれ育ち 宮仕えを希望したこともあったが 父の死で後ろ盾を失った そのため心ならずも 伊予介を務める男のもとに後妻となる 伊予介は空蝉を非常に愛していたが 当の空蝉は受領の妻という下の身分に零落したことを恥じており 夫への愛も薄かった ある時 義理の息子の紀伊守邸で 折しも方違え中で彼女の噂を聞いていたことから興味本位に忍んできた源氏と情を通じてしまう その夜 光源氏は手探りで空蝉の寝所に侵入した 源氏は うちつけに 深からぬ心のほどと見たまふらむ ことわりなれど 年ごろ思ひわたる心のうちも 聞こえ知らせむとてなむ かかるをりを待ち出でたるも さらに浅くはあらじと 思ひなしたま へ ( 第一巻 一七五ページ ) と実に優しく言う いとやはらかにのたまひて 鬼神も荒だつまじきけはひなれば はしたなく ここに人 ともえ - 421 -

ののしらず 心地はたわびしく あるまじきことと思へば あさましく ( 第一巻 一七五ページ ) と言うように 空蝉は情けなくてならないのである 源氏は 例の いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ あはれ知らるばかり 情け情けしくのたまひ 尽くすべかめれど なほいとあさましきに ( 第一巻 一七六ページ ~ 一七七ページ ) と 情愛を込めて口説き文句を並べ立てるけれども 空蝉は抵抗して厳然と言い 現ともおぼえずこそ 数ならぬ身ながらも 思しくたしける御心ばへのほども いかが浅くは思うたまへざらむ いとかやうなる際は 際とこそはべなれ ( 中略 ) いとかく憂き身のほどの定まらぬ ありしながらの身にて かかる御心ばへを見ましかば あるまじき我が頼みにて 見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに たぐひなく思うたまへ惑はるるなり よし 今は見きとなかけそ ( 第一巻 一七七ページ~ 一七八ページ ) と 思いがけない自尊心をみせ 理路の通った抗議と手厳しい抵抗を示す その時代の 男中心の恋愛のあり方 ただ待つ側の女にとって 女側の悲しみを決して見ようとしなかった ここで 紫式部は中流階級の女の精一杯の抵抗の姿を渾身の力を込めて描いた 男中心のそんな時代に批判的なものも加えながら 男の強引さ 身勝手さ おぞましさを描きつつ 怖がる女や抵抗する女 泣き悲しむ女を描く紫式部の筆は 自身の内面の厚みも手伝って冴え渡っていく ほのかなりし御けはひありさまは げに なべてにやは と 思ひ出できこえぬにはあらねど をかしきさまを見えたてまつりても 何にかはなるべき など 思ひ返すなりけり ( 第一巻 一八四ページ ~ 一八五ページ ) と 若く高貴で魅力的な源氏の求愛に心の底では空蝉も惹かれ悩みながらも 聡明な彼女は身分が釣 り合わない立場であることを理解していた 以後 決して源氏の求愛には応じない けれども 女は さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど あやしく夢のやうなることを 心に離るる折 なきころにて 心とけたる寝だに寝られずなむ 昼はながめ 夜は寝覚めがちなれば 春ならぬ - 422 -

木の芽も いとなく嘆かしき ( 第一巻 一九八ページ ) と 人知れぬ恋には終日物思いをする 一方 源氏はつれないそぶりをみせる空蝉をどうしても忘れることが出来ない ある日 空蝉の弟 小君の手引きで 紀伊守邸に赴く 垣間見すると空蝉と伊予介の先妻の娘の軒端荻とが碁を打っている 軒端荻は空蝉よりもずっと美しい女性であるけれど 空蝉のような気品はない 源氏は 空蝉のその慎み深さにいっそうひかれる その夜 光源氏は二人の寝ているところに忍び込む 空蝉は あさましくおぼえて ともかくも思ひ分かれず やをら起き出でて 生絹なる単衣を一つ着て すべり出でにけり ( 第一巻 一九八ページ ) と 気配を察して薄衣の小袿だけを残してかろうじて逃げ出す 人違いだともいえない源氏は 何も 知らない軒端荻にも うまく取り繕ってその場をごまかし契ってしまう 源氏の気持ちが納まるはず はない かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ ( 第一巻 二 一ページ ) と 空蝉の残した薄い夏の小袿を隠して持ち帰る 源氏は かの薄衣は小袿のいとなつかしき人香に染めるを 身近くならして見ゐたまへり と 残された薄衣から空蝉を思い出す そして ( 第一巻 二 四ページ ) 空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな ( 第一巻 二 三ページ ) と 小君に託して手紙を送る 空蝉は光源氏の歌を手にとって読み その誠実な気持ちを汲み取って 空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな ( 第一巻 二 五ページ ) と 今となってはどうしようもないわが身の不運を嘆く その後 空蝉はすべてを断ち切るように 夫に伴われて伊予の国へと下って行く - 423 -

人がらのたをやぎたるに 強き心をしひて加へたれば なよ竹の心地して さすがに折るべくも あらず ( 第一巻 一七八ページ ) これは源氏から見た空蝉像であるが よく作者の性格を衝いている 古来空蝉が作者の自画像と見られたことも こういう所からきているのであろう そのため作者は 空蝉を 空蝉 巻で終わらせるに忍びない 物語の進展とは何の関係もない掌篇 関屋 巻を書き加えた 関屋 巻で 久々に再会した源氏と空蝉のエピソードが思い合わされもする ここで始めて二人が別れてから十七年の歳月が流れ 源氏は内大臣となり空蝉は依然として受領の妻である 源氏にとって空蝉は路傍の草花にすぎなかったが 空蝉にとって源氏は生涯ただ一人の忘れがたい男であったことが明らかになる 行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ え知り給はじかし と思ふに いとかひなし ( 第二巻 三五一ページ ) いとかひなし という言葉に作者は どれほどの思いをこめたか 新編日本古典文学全集 の中 に 右の歌に付されている頭注には 心の内に源氏をふかく思う心は見えたり ( 岷江入楚 ) ( 第二巻 三五一ページ ) と古注を紹介している しかし 逢坂の関やいかなる関なればしげき嘆きの仲を分くらむ 夢のやうになむ ( 第二巻 三五三ページ ) と 空蝉から源氏への返歌のように 優美な源氏に愛されることでは気が動いたが 自分の現在の身分を決して忘れず 源氏を拒み通した 間もなく夫を亡くした空蝉は出家 源氏は尼となった彼女を二条東院に迎えて住まわせた こうして源氏の庇護を受け 穏やかな仏道の日々を過ごす 孤独な空蝉が最後にたどり着いたのは 源氏との穏やかな心の交流であった 空蝉のモデルに関しては 境遇や身分が似ているため 作者の紫式部自身がモデルではないかと言われている 年老いた受領の後妻という空蝉の設定は 作者である紫式部の境遇と一致する 作者紫式部は 母親が物心のつく前になくなり 母なし子として育った 父の藤原為時は当時かなり有名な詩人であり - 424 -

学者であったため 紫式部は父から学問を教わったのだが 人よりも上達がとても早かった 父為時が長徳二年 ( 九九六年 ) 受領の職を得て 越前の守に任ぜられ 現地に赴いたときに 父に伴われて紫式部も北国に赴くが 雪深い越前には彼女の心を楽しませるものはとてもなく 一人で帰京する そして 予てから縁談のあった藤原宣孝と結婚する 結婚したとき 紫式部は二十九歳 宣孝は四十六歳であった 宣孝の身分は紫式部一族と同じように受領であったが 年も高齢であり 男ぶりもよかったため この頃既に妻妾と何人かの子供もあった 長男は紫式部よりも三歳年下にしかすぎない このような中年というよりはむしろ初老の男が 未婚女性にとって魅力のあるはずもなく 紫式部は初めの頃気が進まなかったが 田舎住まいが心の転換になって彼の求婚を受け入れたのである このように 空蝉と作者紫式部の境遇が似ていることや さらに気が強く自分の意見をはっきりと持っているという性格の面でも共通点が見られることから 空蝉を作者の自画像にかなり近い人物として考えることができる 紫式部は千年も前に 自我を持ち 誇り高き心を持った女性を 身分の高下にかかわらず作り出していった 空蝉もその一人である 彼女たちは自分の心の中に 誰にも侵されない自分自身の世界を持ちたかったのであろう それはとりもなおさず 紫式部自身の見識でもある と考えられる このような作者の自画像にかなり近い人物として 空蝉 という女性の運命を設定することは深く意味があり 道学の 無為自然 一切斉同 の思想を踏まえたことが窺える 蝉 ( セミ ) とは 半翅目に属する昆虫の一種である 卵から幼虫となり 土の中で長期にわたり過ごし その後地上に出て木に登ってから羽化し 成虫となる 空蝉 について 大歳時記 には 次ぎのような話がある 日本は 古来 セミの幼虫の抜け殻を 空蝉 と呼ぶ 空蝉とは もともとセミとは全く関係のない言葉だったようである もともとは うつしおみ で うつそみ となり うつせみ に転じたという うつしおみ うつせみ とは この世の人の姿をして 目に見える存在ということ ( 目に見えない神に対する, この世の人の意 ) で 平安時代に 空蝉 として セミの抜け殻の意が派生したようである 17 漢字の意味につられて 空蝉 は セミの抜け殻も 指すようになり 夏の季語や儚い世として 古典でも近 現代の俳句でも多く詠まれている 寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢にはありける 18 ( 古今和歌集 の八百三十三番 ) 平安時代の歌人紀友則は 藤原敏行が亡くなったあと 敏行の夢を見たので この 空蝉の世 が - 425 -

夢だった歌を詠んで遺族のもとに贈った 一方 中国では古来 蝉は高潔な人物の象徴と見られている それは蝉が餐風飲露 ( 風を食べ露を飲む ) で 何も食べないことに由来しているようである 明治の文豪小泉八雲は 蝉声にみな泣きしまふてや蝉の穀 日本の恋の歌 の文章の中に 以下のように記している 日本文學では陸雲といふ名で知られて居る有名な支那の學者が 次に記載する珍奇な蝉の五徳といふものを書いた 一 蝉は頭に或る模様か徽號かがある 19 これはその文字 文体 文學を現はして居る 二 蝉は地上のものは何も食はず ただ露だけを吸ふ これはその清潔 純粋 礼節を証明して居る 三 蝉は常に一定の時期に出現する これはその誠忠 摯実 正直を証明して居る 四 蝉は麦や米は受けない これはその廉直 方正 真実を証明して居る 五 蝉は己が棲む巣を造らぬ これはその質素 倹約 経済を証明して居る 20 陸雲といふ名で知られて居る有名な支那の學者 は 即ち西晋の玄学( 中国の魏晋南北朝時代に盛行した老荘の学 老子 荘子 周易 ( 三玄 と総称) を重んじ, 名学 神仙説などが付加されている 玄 は奥深くてよく分からない微妙な道理の意である ) の代表的人物 文学者の陸雲である 陸雲の代表的な作品の 寒蝉賦 に 小泉八雲氏の言う通り 蝉の五徳 について記されている 夫頭上有緌 則其文也 含気飲露, 則其清也 黍稷不享 則其廉也 処不巣居 則其倹也 応候 守常 則其信也 21 以上のように 高潔な人物なら名声や評判は自然に生じると詠っている そのため 空蝉は 控えめで慎み深く 小柄で容貌も美貌とはいえない地味な女性であったが 高潔な蝉のように よく理知的で 貞淑といった理想の女性の造形を示されたのではないかと考えられる 中国で セミの幼虫の抜け殻を 空蝉 と呼ばなく 蝉蜕 と呼ぶ 古代の人は動かない蛹の背中が割れ 抜け殻を残りまま 蝶が飛び出し 虚空を舞う美しい姿を見て 蝉蜕化蝶 を確信した そう思って蝶や蝉が 変態 して姿を変えるように 人間も姿を変えるのかもしれない と考える 古今独歩の哲人である荘子は 斉物の論 逍遙の遊 すなわち一切のものを斉しなみに視て 万物即一の絶対的究意的な世界に心を逍遙さすべしという考えかたを 数々の寓言に託して表現 - 426 -

するが 中でもかの 胡蝶の夢 の寓言はいみじくも香り高い出色の一文である 昔者荘周夢為胡蝶 栩栩然胡蝶也 自喩適志與 不知周也 俄然覚則遽遽然周也 不知周之夢為胡蝶與 胡蝶之夢為周與 周與胡蝶則必有分矣 此之所謂物化 22 ( 昔は荘周 夢で胡蝶たり 栩栩然として胡蝶なり 自ら喩しみて志に適えり 知らず周なるを 俄然として覚れば則ち遽遽然として周なり 知らず周の夢で胡蝶たるか 胡蝶の夢で周となるかを 周と胡蝶と則ち必ず分有り これこのいわゆる物化なり ) つまり 昔 荘周は夢を見た 夢でひらひらとして胡蝶になっていたのである 自分で楽しんで志に適っていたようである 胡蝶をみてあんなふうにひらひら舞い飛びたかったのであろう 自分が荘周だということもすっかり忘れていた でも俄に目覚めればまぎれもなく周である 周の夢で胡蝶になったのか 胡蝶の夢で周なのか どっちであろう それは分からない それが周と胡蝶とはまったく違う このように周と胡蝶という全く違ったものに 自由実在に変わることを 物化 というのである と言う意味である この説話の中に 夢と現実の区別も 胡蝶と荘周の区別同様相対的なものになっている 無為自然 一切斉同 の道学の考え方がよく現れている 道 の世界 本体の世界の高処にたって見はるかすならば よろずのものは生滅流転 きわまりなく果てしない変化 物化 ( 本来一つの事態 道であるのに胡蝶や荘周という物に分けて, その区別に固執する事を意味しているのであろうか 荘周は 物化 を いっさいの存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて, 自由自在に変化する 事と捉えているようである と考えられる ) の中に在り その一つ一つのものみなすべてが それぞれに真であり実であるともいえよう 現実の相に執着すればこそ 荘周は荘周であり 胡蝶は胡蝶であるというけれども 実在の世界にあっては荘周もまた胡蝶であり 胡蝶もまた荘周であろう 現実もまた夢であり 夢もまた現実であろう なればこそ とこの哲人は考える 道 の世界に活きる者にとっては そのいずれをも斉しなみに視て 在るがままに在ること 夢から覚めれば荘周として生き 夢みれば胡蝶として舞い 与えられた今の姿において今を楽しむこと 現在の肯定 それが本当に 自由 に生きるということの意味ではないか さかしらな人間的分別をもってすれば 荘周と胡蝶とには歴とした区別があり 夢と現実とは明らかに相違する 荘周は荘周であって 胡蝶が荘周ではあり得ないし 現実は現実であって 夢が現実ではあり得ない しかしこのような区別をつけて それにかかずらうことこそが 実は人間のさかしらであり また愚かしさでもある 夫を亡くした空蝉は 義理の息子の元紀伊の守に好奇の目で見られるのを疎んじて ついに出家してしまう 出家は女性にとって意にそまぬ 男から逃れる最後の手段であった けれども 男女の間 - 427 -

に 自然な人間性から生まれた愛情は 倫理教化が抑えられないのである うわべから見て 空蝉は浮世を離れ尼になる 空蝉と尼とには区別がある しかし 尼は女である空蝉の 物化 に過ぎない 身分も容貌も頭も良いという誰もが憧れている光源氏に対して 女の空蝉で尼になったのか 尼で女の空蝉なのか どっちであろう それは分からない おわりに 空蝉の物語を見ると 空蝉という女性の運命について 道学の文化と深い絆があると考えられる 空蝉の人物像から見ると 中国文化を積極的に摂取した平安時代に生まれた紫式部は 明らかに道学思想の真髄を好んでいることが伺える 中国の伝統文化の一つである道学の視野から 源氏物語 と道学について考察するのは 日本文化の発展変遷のみならず 中国文化の海外伝播および日中文化交流の実態を究明するためにも 新たな視点を提供してくれるのではないか 従来日本の古典文学についての研究の中で 道学を視角とするのが少ないと指摘される現状に 不十分ながらも本論がその領域拡大の一助となれば望外の極みである 注 1 増田繁夫著 源氏物語の人々の思想 論理 和泉書院 二 一 年三月出版 一ページ~ 三ページ 2 唐 魏徵編 隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷伝 倭國伝 中華書局 一九七三年八月出版 第五巻 三六一ページ 3 宋 欧陽修 宋祁編 新唐書 東夷伝 日本伝 中華書局 一九七五年二月出版 第十六巻 四十六ページ 4 胡孚琛著 道学通論 道家 道教 仙学 中国社会科学文献出版社 一九九九年一月出版 二十ページ 5 前漢 司馬遷著 史記 老子韓非列伝第三 中華書局 二 九年一月出版 第二巻 四三五ページ 6 宋 王溥撰 唐会要 巻五十 上海古籍出版社 二 一二年六月出版 第一巻 四七六ページ 7 宋 王溥撰 唐会要 巻四九 上海古籍出版社 二 一二年六月出版 第一巻 四 六ページ 8 唐 司馬光撰 資治通鑑 巻第一百九十一 唐紀七 中華書局 二 一一年九月出版 第九巻 二六七ページ 9 後晋 劉昫 張昭遠編纂 旧唐書 本纪第五高宗下 中華書局 二 二年十二月出版 第七巻 一八九ページ 10 前掲書 第七巻 一九二ページ 11 宋 欧陽修 宋祁編 新唐書 高宗本紀 中華書局 一九七五年二月出版 第六巻 三四六ページ 12 武則天は 道教の理念から皇帝を天皇に 皇后を天后という呼称に替えたが 武則天の失脚後は 再び皇帝と皇后にもどされている そのため 中国皇帝制度の中で 天皇を名乗ったのは 武則天の夫李治のみである 13 宋 王溥撰 唐会要 卷七十七 上海古籍出版社 二 一二年六月出版 第二巻 七十一ページ 14 著者范祖禹は 司馬光を補佐し 資治通鑑 の唐 五代部分の編纂を担当した北宋の著名な史学家 政論家 唐鉴 は 三 六篇の史論で反隋の旗を揚げた唐高祖から朱全忠に帝位を 禅譲 した唐昭宣帝までの唐代の歴史を記述する史学名著であり 深明唐三百年間治乱 と評価されている 15 唐 范祖禹撰 唐鉴 卷五 中華書局 二 八年九月出版 二三一ページ 16 本論に引用する 源氏物語 の本文は 昭和四十五年出版 新編日本古典文学全集 源氏物語 ( 小学館 ) - 428 -

による 17 山本健吉編 大歳時記 第一巻 句歌春夏 集英社 昭和五十年出版 五三一ページ 18 古今和歌集 角川学芸 二 七年四月出版 一三四ページ 19 日本の蝉の一種がその頭の上にあって居る妙な模様は 魂の名を示す文字であると信ぜられている 20 小泉八雲全集 第六巻 第一書房 昭和六年五月出版 一二一ページ 21 晋 陸雲 陆清河集 上海古籍出版社 二 年出版 六十八ページ 22 王先谦編 沈啸寰訳 新编诸子集成 莊子集解/ 莊子集解内篇补正 中華書局 二 六年一月出版 一四一ページ 参考文献 1 新編日本古典文学全集 源氏物語 小学館 昭和四十五年出版 2 増田繁夫著 源氏物語の人々の思想 論理 和泉書院 二 一 年三月出版 3 山本健吉編 大歳時記 第一巻 句歌春夏 集英社 昭和五十年出版 4 古今和歌集 角川学芸 二 七年四月出版 5 小泉八雲全集 第一書房 昭和六年五月出版 6 晋 陸雲 陆清河集 上海古籍出版社 二 年出版 7 王先谦編 沈啸寰訳 新编诸子集成 莊子集解/ 莊子集解内篇补正 中華書局 二 六年一月出版 8 胡孚琛著 道学通論 道家 道教 仙学 中国社会科学文献出版社 一九九九年一月出版 9 唐 魏徵編 隋書 中華書局 一九七三年八月出版 10 宋 欧陽修 宋祁編 新唐書 中華書局 一九七五年二月出版 11 前漢 司馬遷著 史記 中華書局 二 九年一月出版 12 宋 王溥撰 唐会要 上海古籍出版社 二 一二年六月出版 13 唐 司馬光撰 資治通鑑 中華書局 二 一一年九月出版 14 後晋 劉昫 張昭遠編纂 旧唐書 中華書局 二 二年十二月出版 15 唐 范祖禹撰 唐鉴 中華書局 二 八年九月出版 - 429 -