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はファクシミリ 装 置 を 用 いて 送 信 し 又 は 訪 問 する 方 法 により 当 該 債 務 を 弁 済 す ることを 要 求 し これに 対 し 債 務 者 等 から 直 接 要 求 しないよう 求 められたにもかか わらず 更 にこれらの 方 法 で 当 該 債 務 を 弁 済 するこ

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答申第585号

(2) 広 島 国 際 学 院 大 学 ( 以 下 大 学 という ) (3) 広 島 国 際 学 院 大 学 自 動 車 短 期 大 学 部 ( 以 下 短 大 という ) (4) 広 島 国 際 学 院 高 等 学 校 ( 以 下 高 校 という ) ( 学 納 金 の 種 類 ) 第 3 条

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定款

4. その 他 (1) 期 中 における 重 要 な 子 会 社 の 異 動 ( 連 結 範 囲 の 変 更 を 伴 う 特 定 子 会 社 の 異 動 ) 無 (2) 簡 便 な 会 計 処 理 及 び 四 半 期 連 結 財 務 諸 表 の 作 成 に 特 有 の 会 計 処 理 の 適 用 有

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Transcription:

2007 年 膠 州 湾 租 借 地 におけるドイツ 植 民 地 統 治 と 社 会 秩 序 (1897-1914) ( 千 葉 大 学 審 査 学 位 論 文 ) 浅 田 進 史

目 次 序 章 ( 1) 第 1 節 ドイツ 植 民 地 支 配 研 究 の 課 題 ( 1) 第 2 節 東 アジア 地 域 経 済 と 膠 州 湾 租 借 地 ( 7) 第 3 節 膠 州 湾 租 借 地 研 究 の 現 在 ( 11) 第 4 節 本 論 の 課 題 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 統 治 と 社 会 秩 序 ( 18) 本 論 の 構 成 および 使 用 する 史 料 (23) 第 1 章 膠 州 湾 の 植 民 地 化 ( 25) 第 1 節 ドイツの 中 国 植 民 地 構 想 ( 25) 第 2 節 国 家 間 交 渉 における 膠 州 湾 の 植 民 地 化 ( 34) 租 借 概 念 の 案 出 (36)/ 膠 州 湾 租 借 をめぐる 交 渉 (40) 第 3 節 軍 事 占 領 下 の 膠 州 湾 の 植 民 地 化 ( 46) 第 2 章 膠 州 湾 租 借 地 における 経 済 的 自 由 主 義 ( 52) 第 1 節 膠 州 領 総 督 府 の 経 済 構 想 ( 53) 第 2 節 膠 州 湾 経 済 と 自 由 港 制 度 ( 56) 占 領 以 前 の 膠 州 湾 経 済 (56)/ 自 由 港 制 度 の 導 入 (58) 第 3 節 自 由 港 制 度 の 障 壁 と 中 国 商 人 層 の 批 判 ( 64) 統 治 初 期 の 租 借 地 経 済 (64)/ 中 国 商 人 層 による 自 由 港 制 度 批 判 ( 67) 第 4 節 自 由 港 の 改 廃 から 新 たな 植 民 地 経 済 構 想 の 策 定 へ ( 70) i

第 3 章 統 治 初 期 の 膠 州 湾 租 借 地 における 社 会 秩 序 構 想 ( 75) 第 1 節 ドイツ 植 民 地 法 における 原 住 民 ( 77) 属 人 原 理 と 属 地 原 理 (77)/ 植 民 地 法 上 の 原 住 民 ( 80)/ 法 的 範 疇 の 越 境 の 可 能 性 とその 限 界 (82) 第 2 節 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 社 会 の 形 成 ( 85) 植 民 地 建 設 と 空 間 的 差 別 化 (85)/ 中 国 系 住 民 に 対 する 特 別 法 規 ( 89)/ 中 国 系 住 民 の 行 政 参 加 (90)/ 社 会 下 層 に 対 する 空 間 管 理 ( 92) 第 3 節 華 人 (Chinesen) と 青 島 人 (Tsingtauchinesen) ( 94) 租 借 地 在 住 の 中 国 系 住 民 に 対 する 主 権 の 所 在 (94)/ 租 借 地 外 での 租 借 地 在 住 の 中 国 系 住 民 に 対 する 主 権 の 所 在 (96)/ 中 国 ナショナ リズムと 政 策 の 転 換 (98)/ 中 国 系 労 働 者 移 送 の 中 継 地 としての 膠 州 湾 租 借 地 (101) 第 4 章 植 民 地 経 済 の 再 調 整 ( 106) 第 1 節 自 由 港 の 改 廃 と 輸 出 経 済 への 転 換 をめざして ( 107) 第 2 節 膠 州 領 総 督 府 の 輸 出 経 済 促 進 のための 介 入 政 策 ( 110) 麦 稈 真 田 (112)/ 絹 糸 絹 布 (113)/ 落 花 生 落 花 生 油 (114) / 家 畜 食 肉 加 工 品 (114) 第 3 節 東 アジア 商 業 ネットワークへの 参 入 ( 116) 第 5 章 植 民 地 社 会 秩 序 の 再 調 整 ( 125) 第 1 節 膠 州 湾 租 借 地 統 治 への 批 判 ( 126) 租 借 地 経 済 と 世 界 経 済 の 連 関 (126)/ 租 借 地 統 治 への 批 判 (129) 第 2 節 植 民 地 自 治 論 と 総 督 府 参 事 会 改 革 ( 132) ドイツ 系 住 民 の 植 民 地 自 治 論 と 総 督 府 参 事 会 改 革 案 (132)/ 総 督 府 参 事 会 の 再 編 と 中 国 系 住 民 代 表 の 行 政 参 加 問 題 (135) 第 3 節 埠 頭 行 政 の 再 編 と 中 国 商 人 層 の 社 会 的 地 位 の 上 昇 ( 139) 埠 頭 行 政 の 一 元 化 問 題 (139)/ 中 国 商 人 層 のボイコット 運 動 とそ の 後 の 植 民 地 社 会 秩 序 の 再 編 (141) ii

第 6 章 ドイツの 対 中 国 文 化 政 策 の 論 理 と 膠 州 湾 租 借 地 ( 146) 第 1 節 フランケの 文 化 政 策 論 ( 154) ヨーロッパ 中 心 主 義 批 判 と 中 国 の 普 遍 性 (154)/ 日 禍 論 (156) / 人 類 の 倫 理 的 合 一 とドイツ 的 なるもの(158) 第 2 節 ローアバッハの 文 化 政 策 論 ( 160) 人 種 と 文 化 (160)/ 辜 鴻 銘 のヨーロッパ 批 判 (163)/ 中 国 文 化 と ヨーロッパ 文 化 の 融 合 (165)/ 女 子 教 育 論 (167) 結 論 ( 173) 付 録 ( 177) 1 膠 州 湾 租 借 地 の 人 口 動 態 (1898-1913 年 ) ( 177) 2 1901-1914 年 青 島 港 汽 船 貿 易 輸 出 入 額 表 ( 178) 3 1906 年 出 港 地 別 青 島 寄 港 汽 船 トン 数 および 隻 数 ( 179) 4 1906 年 目 的 地 別 青 島 出 港 汽 船 トン 数 および 隻 数 (179) 5 1913 年 出 港 地 別 青 島 寄 港 汽 船 トン 数 および 隻 数 ( 180) 6 1913 年 目 的 地 別 青 島 出 港 汽 船 トン 数 および 隻 数 ( 181) 7 膠 州 領 総 督 府 財 政 変 遷 (1898-1914 年 ) ( 182) 8 膠 州 領 総 督 府 歳 出 表 (1900-1913 年 ) ( 183) 文 献 目 録 ( 184) 未 公 刊 史 料 (184)/ 公 刊 史 料 (185)/ 同 時 代 文 献 (186)/ 研 究 書 論 文 ( 193) iii

本 文 中 の 図 表 一 覧 図 1 膠 州 湾 占 領 予 定 範 囲 ( 49) 図 2 膠 州 湾 および 膠 州 湾 租 借 地 略 図 ( 58) 図 3 ドイツ 統 治 初 期 の 植 民 地 経 済 構 想 ( 64) 図 4 自 由 港 制 度 の 改 廃 による 変 化 ( 74) 図 5 青 島 都 市 図 (1912 年 頃 ) ( 86) 図 6 青 島 および 大 包 島 略 図 ( 87) 図 7 青 島 における 社 会 層 の 空 間 的 配 置 ( 105) 図 8 1911 年 頃 の 青 島 港 の 流 通 ( 124) 図 9 膠 州 湾 租 借 地 の 自 治 ( 145) 表 1 1901-1914 年 青 島 港 汽 船 貿 易 輸 出 入 額 の 変 遷 ( 109) 表 2 青 島 港 中 国 産 主 要 品 別 輸 出 額 表 (1901/02-1908/09 年 度 ) ( 111) 表 3 青 島 港 外 国 産 主 要 品 別 輸 入 額 表 (1901/02-1908/09 年 度 ) ( 112) 表 4 青 島 港 に 定 期 的 に 寄 港 した 汽 船 会 社 一 覧 ( 118) 表 5 1906 年 出 港 地 別 青 島 寄 港 汽 船 トン 数 割 合 ( 119) 表 6 1906 年 目 的 地 別 青 島 出 港 汽 船 トン 数 割 合 ( 119) 表 7 1913 年 出 港 地 別 青 島 寄 港 汽 船 トン 数 割 合 ( 120) 表 8 1913 年 目 的 地 別 青 島 出 港 汽 船 トン 数 割 合 ( 120) 表 9 1910 年 1911 年 対 外 直 接 貿 易 輸 出 入 額 比 較 表 ( 121) iv

略 記 一 覧 AA Amtsblatt BArch BA/MA DAW Denkschrift GP RMA SBVR TNN Auswärtiges Amt Amtsblatt für das Schutzgebiet Kiautschou Bundesarchiv Berlin-Lichterfelde Bundesarchiv/Militärarchiv Deutsche Asiatische Warte Denkschrift betreffend die Entwicklung des Kiautschou-Gebietes Die Große Politik der Europäischen Kabinette Reichsmarineamt Stenographische Berichte über die Verhandlungen des Reichstags Tsingtauer Neueste Nachrichten v

序 章 1897 年 11 月 14 日 ドイツ 東 アジア 巡 洋 艦 隊 は 中 国 山 東 半 島 東 南 部 に 位 置 する 膠 州 湾 を 占 領 した それ 以 降 ドイツは 1898 年 3 月 6 日 に 締 結 さ れた 膠 州 湾 租 借 条 約 を 根 拠 に 第 一 次 世 界 大 戦 勃 発 を 機 に 日 英 連 合 軍 によっ て 攻 略 されるまでのおよそ 17 年 の 間 同 湾 を 植 民 地 支 配 下 においた 本 論 は ( 1)この 膠 州 湾 租 借 地 におけるドイツ 植 民 地 行 政 の 経 済 政 策 の 導 入 変 容 帰 結 と ( 2)その 経 済 政 策 を 基 盤 として 構 想 された 植 民 地 社 会 の 秩 序 と その 変 化 を 明 らかにすることを 課 題 とする 序 章 では まず 第 1 節 第 2 節 で この 研 究 の 背 景 となる 二 つの 研 究 潮 流 すなわちドイツ 植 民 地 支 配 と 東 アジア 地 域 経 済 をめぐる 研 究 動 向 を 本 論 の 研 究 テーマに 即 して 整 理 する 次 に 第 3 節 で 本 論 と 直 接 にかかわる 膠 州 湾 租 借 地 をめぐる 研 究 水 準 の 現 段 階 を 整 理 し その 上 で 第 4 節 で 本 論 の 課 題 を 提 示 する 第 1 節 ドイツ 植 民 地 支 配 研 究 の 課 題 1960 年 代 末 から 70 年 代 初 頭 にかけて ドイツ 帝 国 主 義 をめぐる 議 論 は 主 としてその 対 外 拡 張 の 要 因 をめぐるものであったと 言 えよう 東 アジアを 例 に 挙 げれば その 要 因 は かつての 対 外 政 策 における 国 家 威 信 の 要 因 を 重 視 した 外 交 史 研 究 に 対 して ドイツ 民 主 共 和 国 で 帝 国 主 義 植 民 地 主 義 研 究 をリードしたヘルムート シュテッカーの 1950 年 代 末 の 研 究 のように ド イツ 資 本 主 義 の 有 望 な 輸 出 市 場 の 獲 得 に 力 点 を 置 くか あるいはドイツ 帝 国 主 義 に 社 会 帝 国 主 義 論 を 導 入 したハンス=ウルリヒ ヴェーラーのように 1

国 内 の 支 配 体 制 を 安 定 化 させる 対 外 政 策 の 手 段 として 論 じられた しかし ドイツの 帝 国 主 義 的 拡 張 の 要 因 をめぐる 議 論 は 主 としてドイツ 国 内 におけ る 経 済 発 展 の 段 階 あるいは 政 治 支 配 体 制 の 性 格 規 定 を 目 的 とするものであ った 研 究 視 角 とその 結 論 がドイツ 本 国 の 動 向 に 置 かれるという 点 では ド イツ 経 済 の 資 本 主 義 的 発 展 の 結 果 として 国 内 に 蓄 積 された 余 剰 資 本 を 国 外 市 場 に 捌 け 口 を 見 出 すという 経 済 的 動 機 づけをその 背 景 にもとめる 解 釈 に しても 社 会 帝 国 主 義 論 のように 国 内 の 支 配 体 制 を 安 定 化 させる 手 段 とみる 解 釈 にしても 共 通 しており ドイツ 帝 国 主 義 が 公 式 非 公 式 に 影 響 力 を 行 使 した 社 会 の 動 向 そのものはドイツ 帝 国 の 歴 史 叙 述 のなかで 周 縁 的 な 地 位 を 占 めるにすぎなかった 1 もちろん そうした 研 究 と 同 時 期 に ドイツ 植 民 地 支 配 に 関 する 研 究 が 疎 かにされていた 訳 ではない ドイツ 本 国 におけるドイツ 植 民 地 主 義 運 動 の 形 成 と 個 々の 植 民 地 における 支 配 のあり 様 については それぞれに 研 究 が 積 み 重 ねられてきた 2 こうしたドイツ 植 民 地 主 義 研 究 の 進 展 を 背 景 に 1983 1 1958 年 に 発 表 されたドイツ 資 本 主 義 の 東 アジア 進 出 に 関 するシュテッカー の 研 究 は 1970 年 に 出 版 されたヴェーラー 編 著 の 帝 国 主 義 にその 要 旨 が 掲 載 された 社 会 帝 国 主 義 自 由 貿 易 帝 国 主 義 あるいは 人 種 主 義 と 帝 国 主 義 の 関 連 など 同 書 には 当 時 を 代 表 する 帝 国 主 義 理 論 と 実 証 研 究 の 成 果 が 収 録 され ている 以 下 を 参 照 Helmuth Stoecker, Preußisch-deutsche Chinapolitik in den 1860/70er Jahren, in: Hans-Ulrich Wehler (Hrsg.), Imperialismus, 3. Aufl., Köln: Kiepenheuer & Witsch, 1976 (1. Aufl. 1969), S. 243-258; Hans-Ulrich Wehler, Sozialimperialismus, in: Wehler (Hrsg.), Imperialismus, S. 83-96. また 前 述 のシ ュテッカーの 研 究 は 以 下 Deutschland und China im 19. Jahrhundert. Das Eindringen des deutschen Kapitalismus, Berlin: Rütten & Loening, 1958. 同 様 に 山 東 鉄 道 を 事 例 として ドイツ 資 本 主 義 の 中 国 鉄 道 建 設 への 拡 張 を 論 じた Vera Schmidt, Die deutsche Eisenbahnpolitik in Shantung 1898-1914. Ein Beitrag zur Geschichte des deutschen Imperialismus, Wiesbaden: Otto Harrassowitz, 1976 も こ の 時 期 の 傾 向 を 代 表 する 研 究 として 指 摘 できる ドイツ 資 本 主 義 の 性 格 規 定 を 主 要 な 研 究 課 題 とした 熊 谷 一 男 ドイツ 帝 国 主 義 論 未 来 社 1973 年 もこの 流 れに 位 置 づけられよう 2 ここではドイツの 個 別 の 植 民 地 支 配 の 研 究 蓄 積 を 挙 げることはできないが この 時 期 のドイツのアフリカ 植 民 地 支 配 の 研 究 の 展 開 については 1971 年 に 公 表 されたバウムガルトの 以 下 の 研 究 動 向 を 参 照 Winfried Baumgart, Die deutsche Kolonialherrschaft in Afrika. Neue Wege der Forschung, in: Vierteljahrschrift für Sozial- und Wirtschaftsgeschichte, 58 (1971), S. 468-481. ま た 以 下 の 概 説 書 および 巻 末 参 考 文 献 も 参 照 Horst Gründer, Geschichte der deutschen Kolonien, 4. Aufl., Paderborn: Schöningh, 2000 (1. Aufl. 1985). 日 本 に おける 研 究 整 理 として 富 永 智 津 子 永 原 陽 子 ドイツ 植 民 地 西 川 正 雄 編 ド イツ 史 研 究 入 門 東 京 大 学 出 版 会 1984 年 259-271 頁 参 照 2

年 にドイツ 海 外 移 民 と 植 民 地 主 義 研 究 の 第 一 人 者 であるクラウス バーデは 1970 年 代 半 ば 以 降 のヨーロッパ 植 民 地 支 配 一 般 についての 研 究 史 整 理 のな かで 植 民 地 主 義 研 究 者 のパースペクティヴに 明 確 な 転 換 があることを 指 摘 し た そ の 転 換 と は 旧 来 の ヨ ー ロ ッ パ 中 心 的 な 海 外 史 ( Überseegeschichte) から 離 脱 し 海 外 へ 拡 張 する 人 々の 意 図 視 野 戦 略 と 同 時 に この 拡 張 の 対 象 となった 人 々の 反 応 そしてその 相 互 連 関 の 帰 結 を 扱 うようになったことであった バーデは これを 植 民 地 史 海 外 史 から 第 三 世 界 の 歴 史 への 転 換 と 表 現 し また ヨーロッパ アフリカ 史 のような 相 互 関 係 の 歴 史 の 可 能 性 に 言 及 していた 3 この 1970 年 代 の 植 民 地 支 配 研 究 は アフリカにおける 脱 植 民 地 化 の 波 を 同 時 代 的 に 体 感 しつつ 生 み 出 されたものであった だが 上 記 のバーデが 指 摘 したように ヨーロッパ 史 の 延 長 ではない 植 民 地 支 配 研 究 の 可 能 性 が 明 確 に 認 識 されていたにもかかわらず そのおよそ 20 年 後 にゼバスティアン コンラートは 1970 年 代 以 降 のドイツ 植 民 地 主 義 に 関 する 研 究 成 果 が 帝 政 期 ドイツの 歴 史 叙 述 に 驚 くほどに 何 の 影 響 ももたらさなかったと 指 摘 せざ るを 得 なかった たとえば ビスマルク 期 の 植 民 地 政 策 およびヴィルヘルム 期 の 世 界 政 策 は 第 一 次 世 界 大 戦 へと 至 るドイツ 史 の 延 長 線 上 におかれ あ くまで 対 ヨーロッパ 政 策 の 一 部 として 解 釈 されており またヴェーラーの 社 会 帝 国 主 義 論 では 植 民 地 主 義 の 国 内 世 論 の 影 響 力 はわずかなものであった とし それは 支 配 層 の 誤 った 意 識 とされ 植 民 地 支 配 の 国 内 社 会 への 反 作 用 は 重 視 されていないと 批 判 している 4 3 Klaus J. Bade, Imperialismusforschung und Kolonialhistorie, in: Geschichte und Gesellschaft, 9 (1983), S. 138-150. 本 文 引 用 頁 は 140 頁 ここでは この 研 究 の 方 向 転 換 を 導 いた 画 期 的 な 研 究 書 として Rudolf von Albertini (Hrsg.), Europäische Kolonialherrschaft 1880-1940, 2. Aufl., Stuttgart: Steiner, 1985 (1. Aufl. 1976)が 挙 げられている 4 Vgl. Sebastian Conrad, Doppelte Marginalisierung. Plädoyer für eine transnationale Perspektive auf die deutsche Geschichte, in: Geschichte und Gesellschaft, 28 (2002), S. 145-169.とくに 158-161 頁 を 参 照 ちなみに 初 期 のヴェーラーの 著 作 では 世 界 政 策 の 開 始 として 位 置 づけられる 膠 州 湾 占 領 か ら 義 和 団 事 件 までのヴィルヘルム 期 ドイツの 対 中 国 政 策 は 社 会 帝 国 主 義 論 の 一 環 として 解 釈 された 以 下 を 参 照 Das Deutsche Kaiserreich 1871-1918, 7. Aufl., Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1994 (1. Aufl. 1973), S. 176-177. 日 本 語 訳 は 以 下 大 野 英 二 肥 前 榮 一 訳 ドイツ 帝 国 1871-1918 年 未 来 社 1983 年 256-258 頁 しかし 結 集 政 策 は 別 として ビスマルクの 植 民 地 政 策 を 社 3

この 帝 政 期 ドイツの 歴 史 研 究 の 問 題 は 個 別 のドイツ 植 民 地 における 支 配 と 植 民 地 支 配 下 にあった 社 会 の 変 動 に 関 する 研 究 がドイツ 帝 国 の 歴 史 と 別 個 のものとして 扱 われてきたというだけにとどまらない ラテンアメリカで 提 起 された 従 属 理 論 やウォーラーステインの 世 界 システム 論 とそれらへの 批 判 は ドイツ 帝 国 の 歴 史 理 解 にはほとんど 影 響 を 及 ぼさなかった 5 帝 政 期 ドイツの 歴 史 研 究 の 課 題 は ナチズムを 経 て 戦 後 の 東 西 ドイツ(1989/90 年 のドイツ 統 一 以 降 はドイツ 連 邦 共 和 国 )へ 至 るまでの 連 続 と 断 絶 を 明 らか 会 帝 国 主 義 と 理 解 できるかどうかについては 多 くの 批 判 が 寄 せられてきた 例 えば 以 下 を 参 照 George W. Hallgarten, War Bismarck ein Imperialist? Die Außenpolitik des Reichsgründers im Licht der Gegenwart, in: Geschichte in Wissenschaft und Unterricht, 22:5 (1971), S. 257-265; ders., Wehler, der Imperialismus, und ich. Eine geharnische Antwort, in: Geschichte in Wissenschaft und Unterricht, 23:5 (1972), S. 296-303; Winfried Baumgart, Eine neue Imperialismustheorie? Bemerkungen zu dem Buche von Hans-Ulrich Wehler über Bismarcks Imperialismus, in: Militärgeschichtliche Mitteilungen, 10 (1971), S. 197-207. 近 年 の 帝 政 期 ドイツの 研 究 では ビスマルクの 政 策 が 非 公 式 の 帝 国 主 義 から 公 式 の 帝 国 主 義 に 移 行 した 理 由 として アフリカ 現 地 での 独 自 の 情 勢 変 化 によって 説 明 されている ハンス=ペーター ウルマンは 1884/85 年 のベル リン 会 議 による 実 効 占 領 の 意 義 を 強 調 し ヴィンフリート シュパイトカ ンプは ビスマルクが 植 民 地 と 名 付 けず 保 護 領 とし 植 民 地 会 社 主 導 の 植 民 地 支 配 を 志 向 したことから ビスマルクはむしろ 非 公 式 帝 国 主 義 の 路 線 を 踏 襲 していたものの 現 地 社 会 の 抵 抗 などの 動 態 によって 効 率 的 な 植 民 地 行 政 を 建 設 する 必 要 が 生 まれたと 説 明 している いずれにしても 旧 来 の 列 強 外 交 史 的 な 解 釈 も 社 会 帝 国 主 義 的 な 解 釈 も ドイツ 植 民 地 政 策 の 転 換 の 理 由 としては 充 分 な 説 明 ではないと 理 解 されており 植 民 地 化 の 対 象 となった 地 域 自 体 の 動 向 が 重 視 されるようになっている Vgl. Hans-Peter Ullmann, Das Deutsche Kaiserreich 1871-1918, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1995, S. 81-82; Winfried Speitkamp, Deutsche Kolonialgeschichte, Stuttgart: Reclam, 2005, S. 28-41. 5 従 属 理 論 世 界 システム 論 については さしあたり 森 田 桐 郎 編 世 界 経 済 論 世 界 システム 論 アプローチ ミネルヴァ 書 房 1995 年 を 参 照 ドイ ツの 工 業 化 に 関 しては 世 界 経 済 の 拡 大 と 関 連 づけられて 説 明 されたとしても その 国 内 社 会 への 影 響 に 主 眼 が 置 かれており 世 界 経 済 の 構 造 化 と 結 びつくよ うな 議 論 はほとんどみられない これは 帝 政 期 ドイツの 対 外 経 済 関 係 の 9 割 弱 をヨーロッパ アメリカが 占 めていたからであろう しかし 例 えば 最 近 の トルプの 研 究 によれば 1889 年 から 1913 年 の 間 にドイツ 対 外 輸 入 におけるヨ ーロッパの 占 める 割 合 は 79.3%から 54.7%へと 減 少 し アメリカは 15.5%か ら 27.8% アジアは 3.1%から 9.7% アフリカは 1.0%から 4.6% オーストラ リアおよびオセアニアは 0.9 から 3.0%と 増 加 している 世 界 分 業 構 造 の 解 明 に は 特 定 品 目 の 流 通 および 生 産 過 程 を 仔 細 に 分 析 することが 欠 かせない 上 記 の 割 合 の 変 化 をみれば 今 後 ドイツとヨーロッパ 外 地 域 間 の 特 定 品 目 の 流 通 生 産 過 程 を 分 析 することは 重 要 なテーマとなると 思 われる Cornelius Torp, Die Herausforderung der Globalisierung. Wirtschaft und Politik in Deutschland 1860-1914, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2005, S. 81 u. S. 376. 4

にすることであって 世 界 史 (あるいはグローバル ヒストリー)における 位 置 づけは 主 要 な 論 点 とはならなかった こうした 研 究 情 況 のなかでは ドイツ 植 民 地 支 配 について 積 み 重 ねられてきた 歴 史 研 究 は 帝 政 期 ドイツの 歴 史 においても ヨーロッパ 帝 国 主 義 植 民 地 主 義 の 歴 史 においてもエピソ ードの 位 置 にとどまらざるを 得 なかった 6 しかし 1990 年 代 初 頭 に 盛 んになった 英 語 圏 でのポストコロニアル 研 究 帝 国 論 そしてグローバリゼーションをめぐる 議 論 は 帝 政 期 ドイツの 歴 史 研 究 に 新 たな 研 究 潮 流 を 生 み 出 している そこでは ヨーロッパ 中 心 的 な 歴 史 の 見 方 を 批 判 し トランスナショナルな 歴 史 をキーワードに 問 題 提 起 的 な 研 究 が 公 表 されている 7 帝 政 期 ドイツについて そうした 研 究 動 向 の 先 鞭 をつけた 研 究 書 として 2003 年 に 出 版 されたユルゲン オースタハン メル/ゼバスティアン コンラート 編 トランスナショナルなドイツ 帝 国 世 界 のなかのドイツ 1871 1914 が 挙 げられよう その 序 論 では 2 つの 研 究 のアプローチが 提 起 されている 1つは 植 民 地 における 文 化 的 実 践 と 社 会 秩 序 の 形 成 さらに 植 民 地 支 配 の 本 国 への 反 作 用 を 分 析 の 対 象 とす るポストコロニアル 研 究 のアプローチである もう 1 つは グローバリゼー ション 研 究 のアプローチであり そこでは 19 世 紀 末 に 一 層 顕 著 になった 世 界 経 済 のネットワーク 化 に 帝 政 期 ドイツの 社 会 経 済 を 位 置 づけようとする ものである 8 この 研 究 潮 流 は ドイツ 史 における 帝 国 論 と 呼 ぶことができ 6 Vgl. Conrad, Doppelte Marginalisierung, S. 158-161. 7 トランスナショナルな 歴 史 をめぐっては 現 在 実 証 研 究 よりも 方 法 論 に 関 して 盛 んに 議 論 されている 段 階 である 以 下 を 参 照 Jürgen Osterhammel, Transnationale Gesellschaftsgeschichte. Erweiterung oder Alternative?, in: Geschichte und Gesellschaft, 27 (2001), S. 464-479; Kiran Klaus Patel, Transatlantische Perspektiven transnationaler Geschichte, in: Gechichte und Gesellschaft, 29 (2003), S. 625-647; Kiran Klaus Patel, Überlegungen zu einer transnationalen Geschichte, in: Zeitschrift für Geschichtswissenschaft, 52 (2004), S. 626-645; Michael Werner/ Bénédicte Zimmermann, Vergleich, Transfer, Verflechtung. Der Ansatz der Histoire croisée und die Herausforderung des Transnationalen, in: Geschichte und Gesellschaft, 28 (2002), S. 607-636; Gunilla Budde/ Sebastian Conrad/ Oliver Janz (Hrsg.), Transnationale Geschichte. Themen, Tendenzen und Theorien, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2006. 8 Jürgen Osterhammel/ Sebastain Conrad, Einleitung, in: Sebastian Conrad/ Jürgen Osterhammel (Hrsg.), Das Kaiserreich transnational. Deutschland in der Welt 1871-1914, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2004, S. 8-27. とくに 14-27 頁 参 照 ドイツ 史 においてポストコロニアル 研 究 の 問 題 提 起 を 持 ち 込 もうとした 研 究 書 として 以 下 を 参 照 Sebastian Conrad/ Shalini Randeria (Hrsg.), Jenseits des 5

よう 1990 年 代 後 半 以 降 日 本 の 歴 史 研 究 においても 帝 国 論 が 盛 んに 論 議 され たが その 特 徴 としては 次 の 3 点 を 挙 げておく まず 国 民 国 家 の 枠 組 みに 限 定 されて 歴 史 認 識 に 対 する 批 判 として 現 れたことである 次 に イギリス 帝 国 史 や 日 本 植 民 地 帝 国 の 問 題 設 定 が 宗 主 国 植 民 地 間 およびそれぞれの 植 民 地 間 の 相 互 作 用 を 研 究 の 枠 組 みに 入 れることを 目 指 していることであり 最 後 に 政 治 経 済 的 な 側 面 だけでなく 文 化 的 実 践 も 研 究 の 重 点 に 置 いてい ることである 9 先 述 のオースタハンメル/コンラート 編 の 問 題 提 起 におい ても 国 民 国 家 的 な 視 点 から 蓄 積 された 研 究 成 果 を 否 定 することはないと 留 保 されているが その 視 野 を 国 民 国 家 より 超 えることが 主 眼 に 置 かれ また 宗 主 国 植 民 地 間 の 相 互 作 用 および 文 化 的 実 践 にも 力 点 が 置 かれている しかし こうした 帝 国 研 究 は 帝 国 という 分 析 の 枠 組 みを 設 定 することに よって 植 民 地 から 宗 主 国 への 反 作 用 という 視 角 にすでに 表 現 されてい Eurozentrismus. Postkoloniale Perspektiven in den Geschichts- und Kulturwissenschaften, Frankfurt a. M.: Campus, 2002. また ポストコロニアル 研 究 を とくに 支 配 者 / 被 支 配 者 の 二 項 対 立 の 図 式 ではなく 植 民 地 支 配 を 植 民 地 と 宗 主 国 の 共 通 の 近 代 史 として 把 握 するアプローチという 理 解 によって ド イツ 植 民 地 ( 支 配 ) 研 究 を 整 理 したものとして 以 下 を 参 照 Sebastian Conrad, Schlägt das Empire zurück? Postkoloniale Ansätze in der deutschen Geschichtsschreibung, in: WerkstattGeschichte, 30 (2001), S. 73-83. ドイツ 語 圏 で グローバリゼーションを 歴 史 学 の 視 点 から 把 握 しようとした 試 みとして Jürgen Osterhammel/ Niels P. Petersson, Geschichte der Globalisierung. Dimensionen Prozesse Epochen, München: Beck, 2003. その 内 容 は 筆 者 の 書 評 公 共 研 究 第 1 巻 第 1 号 2004 年 12 月 128-137 頁 参 照 帝 政 期 ドイツ 経 済 をグローバリゼーションの 視 点 から 再 検 討 しようとした 試 みとして Torp, Die Herausforderung der Globalsierung. 9 イギリス 帝 国 史 研 究 の 最 近 の 成 果 として ミネルヴァ 書 房 より 刊 行 されてい るシリーズ イギリス 帝 国 と 20 世 紀 が 挙 げられる 木 畑 洋 一 は 帝 国 史 研 究 をリードしながら 同 時 に 帝 国 主 義 研 究 の 視 点 から 日 本 の 帝 国 史 研 究 の 傾 向 を 従 来 の 帝 国 主 義 研 究 の 成 果 を 継 承 する 姿 勢 が 弱 いと 批 判 している この 点 は 木 畑 洋 一 編 大 英 帝 国 と 帝 国 意 識 支 配 の 深 層 を 探 る ミネルヴァ 書 房 1998 年 への 松 村 高 夫 の 書 評 および 自 らも 寄 稿 した 北 川 勝 彦 平 田 雅 博 編 帝 国 意 識 の 解 剖 学 世 界 思 想 社 1999 年 への 永 原 陽 子 の 書 評 そしてそれを 受 け て 日 本 の 帝 国 史 研 究 に 同 様 の 傾 向 を 看 取 して 警 句 を 発 した 柳 沢 遊 ( 帝 国 主 義 と 在 外 居 留 民 帝 国 意 識 とその 社 会 基 盤 現 代 思 想 第 29 巻 第 8 号 2001 年 7 月 153 頁 )の 指 摘 に 答 えたものである 以 下 を 参 照 木 畑 洋 一 帝 国 主 義 と 世 界 システム 歴 史 学 研 究 会 編 現 代 歴 史 学 の 成 果 と 課 題 1980-2000 年 I 歴 史 学 における 方 法 論 的 展 開 青 木 書 店 2002 年 56-71 頁 とくに 62-63 頁 日 本 史 における 帝 国 史 研 究 の 方 向 性 については 駒 込 武 帝 国 史 研 究 の 射 程 日 本 史 研 究 第 452 号 2000 年 4 月 224-231 頁 を 参 照 6

るように 植 民 地 支 配 下 におかれた 社 会 をふたたび 帝 国 の 歴 史 に 統 合 してし まう 可 能 性 を 孕 んでいる トランスナショナルな 歴 史 の 試 みは 帝 国 の 枠 組 みを 固 定 的 な 分 析 単 位 とせず 研 究 者 はその 枠 組 み 自 体 の 変 容 を 看 過 し てはならないだろう そうでなければ 植 民 地 は 帝 国 の 内 部 に 組 み 込 まれた ままの 存 在 となり 研 究 者 は その 社 会 に 生 きる 人 々が 実 践 した 脱 植 民 地 化 の 営 為 に 気 づかないままになりかねない この 関 連 で 懸 念 されるのは サバ ルタン スタディーズが 提 起 したような 植 民 地 支 配 を 被 った 非 エリート 層 の 主 体 性 の 問 題 は トランスナショナルなドイツ 帝 国 のなかでは 取 り 上 げ られていないことである 10 もちろん このアプローチは 帝 政 期 ドイツ の 歴 史 において 周 縁 化 された 植 民 地 支 配 の 過 去 に より 適 切 な 位 置 づけ を 与 えるための 可 能 性 を 十 分 に 持 っている しかし それだからこそ 再 び 植 民 地 支 配 下 に 置 かれた 社 会 自 体 の 動 態 が 視 野 から 失 われる 危 険 性 があり 植 民 地 支 配 の 研 究 は 植 民 地 支 配 下 におかれた 社 会 と 本 国 との 相 互 作 用 を 視 野 に 入 れるだけではなく その 社 会 がおかれている 地 域 との 関 係 性 を 視 野 に 入 れる 必 要 があるだろう 11 第 2 節 東 アジア 地 域 経 済 と 膠 州 湾 租 借 地 帝 政 期 ドイツの 歴 史 のなかでドイツ 植 民 地 支 配 の 歴 史 が 周 縁 に 置 かれて いたとしても 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 統 治 は さらにその 植 民 地 支 配 の 歴 史 のなかでも 特 殊 例 として 以 外 に 位 置 づけられることは 稀 であった 10 ポストコロニアル 研 究 としてサバルタン スタディーズを 位 置 づけてその 研 究 動 向 を 整 理 したものに Gyan Prakash, Subaltern Studies as Postcolonial Criticism, in: American Historical Review, 99:5 (1994), pp. 1475-1490. 11 第 二 次 大 戦 後 の 日 本 の 歴 史 学 においては 地 域 概 念 を 対 象 としてではなく 方 法 として 理 解 する 研 究 潮 流 があり そこでは ある 地 域 を 設 定 することは 研 究 者 の 世 界 史 認 識 と 不 可 分 であると 理 解 された 古 田 元 夫 地 域 区 分 論 つ くられる 地 域 こわされる 地 域 岩 波 講 座 世 界 歴 史 1 世 界 史 へのアプロ ーチ 岩 波 書 店 1998 年 37-53 頁 を 参 照 本 稿 では 植 民 地 行 政 が 設 定 した 租 借 地 の 境 界 線 で 分 析 対 象 を 区 切 るのではなく それを 越 えた 人 々の 社 会 生 活 経 済 生 活 の 営 みを 把 握 するために 地 域 という 概 念 を 使 用 する 7

1897 年 11 月 14 日 の 膠 州 湾 占 領 事 件 は ヴィルヘルム 期 ドイツの 世 界 政 策 の 開 始 として 位 置 づけられているとしても そこでの 植 民 地 統 治 に 関 する 研 究 は 帝 政 期 ドイツの 歴 史 叙 述 にとってエピソード 以 上 の 位 置 づけが 与 えら れることはない 1995 年 に 出 版 されたヴェーラーの 大 著 ドイツ 社 会 史 第 3 巻 では ドイツの 中 国 植 民 地 は 非 公 式 の 経 済 拡 張 の 拠 点 となるこ とに 失 敗 した 事 例 として 挿 入 されるにとどまっている 12 これまでのドイツ 帝 国 主 義 研 究 あるいは 植 民 地 支 配 研 究 のなかで ドイツ 帝 国 主 義 がその 中 国 植 民 地 を 当 時 の 東 アジア 地 域 経 済 のネットワークにど のように 結 び 付 けようとしたのかという 問 題 が 検 討 されることはなかった ドイツ 経 済 利 害 の 中 国 市 場 への 参 入 は 通 商 条 約 の 締 結 経 済 利 権 の 獲 得 な ど むしろ 外 交 交 渉 の 問 題 として 分 析 されてきた その 結 果 膠 州 湾 租 借 地 を 当 時 の 中 国 沿 岸 諸 港 の 商 業 ネットワークへ 組 み 入 れるためにどのような 経 済 政 策 を 採 用 したのか そしてそれが 地 域 経 済 とどのように 作 用 し 合 った のか さらにその 政 策 の 帰 結 として 膠 州 湾 租 借 地 は 東 アジア 商 業 ネットワ ークとどのような 結 びつきを 持 ったのかという 問 題 は 扱 われることはなか った 言 い 換 えれば 膠 州 湾 租 借 地 の 研 究 は 東 アジア 地 域 経 済 との 関 係 か ら 孤 立 した 存 在 となっていたのである こうした 問 題 設 定 は 浜 下 武 志 の 朝 貢 貿 易 システム 論 および 杉 原 薫 のアジ ア 間 貿 易 論 とそれに 触 発 された 商 業 ネットワーク 形 成 をめぐる 研 究 潮 流 を 念 頭 に 置 いている 周 知 のように 浜 下 武 志 の 朝 貢 貿 易 システム 論 は 西 洋 の 衝 撃 論 にみられた 能 動 的 な 西 洋 に 対 して 受 動 的 なアジアを 想 定 する 図 式 を 覆 すテーゼであった 13 従 来 二 度 のアヘン 戦 争 の 軍 事 的 圧 力 によって 清 朝 政 府 と 諸 列 強 の 間 に 諸 条 約 が 締 結 され その 制 度 的 な 枠 組 みによって 旧 来 の 朝 貢 体 制 は 近 代 的 な 条 約 体 制 へと 移 行 したと 説 明 されてきた その 条 約 体 制 は 開 港 場 を 設 置 し そこでは 同 業 組 合 団 体 の 貿 易 独 占 を 排 除 する 自 由 貿 易 を 理 念 とするもの であった その 特 徴 として ( 1) 開 港 場 の 関 税 率 5%に 設 定 すること( 中 国 12 Hans-Ulrich Wehler, Deutsche Gesellschaftgeschichte 1849-1914, Bd. 3, München: Beck, 1995, S. 1141-1145. 13 浜 下 武 志 近 代 中 国 の 国 際 的 契 機 朝 貢 貿 易 システムと 近 代 アジア 東 京 大 学 出 版 会 1990 年 序 章 参 照 8

の 関 税 自 主 権 の 否 定 ) ( 2) 内 地 通 過 税 ( 釐 金 )を 免 除 する 代 わりに 開 港 場 中 国 内 地 間 の 輸 出 入 品 に 子 口 半 税 2. 5%を 課 すこと( 地 方 行 政 の 税 収 源 の 排 除 ) ( 3) 領 事 裁 判 権 ( 治 外 法 権 ) ( 4) 最 恵 国 条 款 ( 片 務 無 条 件 概 括 的 ) ( 5) 開 港 場 における 軍 艦 の 停 泊 ( 6) 外 国 人 税 務 司 制 ( 7) 内 地 旅 行 権 などが 挙 げられる 14 これらの 制 度 的 枠 組 みによって 中 国 内 地 への 列 強 の 経 済 的 浸 透 が 進 んでいったと 理 解 された こうした 西 洋 の 衝 撃 論 の 見 方 は すでにアメリカ 合 州 国 の 中 国 史 研 究 者 によっても それは 中 国 を 西 洋 の 衝 撃 に 反 応 する 存 在 として 描 く ものであると 批 判 されている 15 浜 下 は この 衝 撃 - 反 応 パラダイム に 対 して アジア 史 それ 自 体 の 内 的 構 成 要 因 および 内 的 動 因 を 導 き 出 す ことを 課 題 とし 近 代 アジア 市 場 の 形 成 という 角 度 からアジア 近 代 史 を 分 析 することを 目 指 した そのための 具 体 的 なテーマとして 多 角 的 なアジ ア 域 内 交 易 の 形 成 アジア 銀 貨 圏 と 各 国 通 貨 体 制 の 連 動 苦 力 貿 易 による 国 際 的 移 民 労 働 市 場 の 改 編 と 華 僑 印 僑 の 海 外 送 金 ネットワークを 論 じた 16 総 じて アジアという 地 域 経 済 圏 を 設 定 し それ 自 体 の 動 態 を 明 らかにしよ うとしたものであった しかし その 後 の 浜 下 の 議 論 では 東 アジア 経 済 を 開 港 の 以 前 と 以 後 で 区 切 るのではなく 交 易 港 の 歴 史 的 連 続 性 を 理 解 することに 主 眼 が 置 かれ そのために 華 僑 商 人 印 僑 商 人 の 広 域 的 な 交 易 ネットワークの 歴 史 的 連 続 性 が 強 調 されるようになった 17 しかし この 議 論 では 東 アジア 経 済 の 転 換 や 刷 新 という 視 点 は 見 られない こうした 浜 下 の 議 論 を 最 も 厳 しく 批 判 し 14 John K. Fairbank, The Creation of the Treaty System, in: John K. Fairbank (ed.), The Cambridge History of China. Late Ch ing, 1800-1911, Vol. 10 Part 1, Cambridge: Cambridge University Press, 1978, pp. 213-263. とくに 259 頁 参 照 条 約 体 制 の 成 立 時 期 は J K フェアバンクの 理 解 に 拠 った 条 約 体 制 を 構 成 する 制 度 的 枠 組 みの 詳 細 は 論 者 によって 若 干 の 相 違 があるものの 経 済 面 に 限 れば 本 文 中 に 挙 げた 項 目 で 十 分 だろう 坂 野 正 高 近 代 中 国 政 治 外 交 史 東 京 大 学 出 版 会 1989 年 3 刷 ( 初 版 は 1973 年 ) 172-173 頁 180-186 頁 258-264 頁 も 参 照 した 15 ポール A コーエン( 佐 藤 慎 一 訳 ) 知 の 帝 国 主 義 オリエンタリズム と 中 国 像 平 凡 社 1988 年 6 月 38-46 頁 参 照 ( 原 著 :Paul A. Cohen, Discovering History in China, New York: Columbia University Press, 1984) 16 浜 下 武 志 近 代 中 国 の 国 際 的 契 機 序 章 参 照 引 用 は 3 頁 17 浜 下 武 志 東 アジア 地 域 史 の 展 開 と 近 代 同 朝 貢 システムと 近 代 アジ ア 岩 波 書 店 1997 年 171-186 頁 参 照 引 用 は 174 頁 9

たのは 本 野 英 一 の 英 語 を 話 す 中 国 人 論 である 彼 は 浜 下 の 歴 史 的 連 続 性 の 主 張 を 否 定 し 伝 統 中 国 商 業 秩 序 は 崩 壊 したと 主 張 した 本 野 は 在 中 国 の 外 国 商 人 の 買 辦 となった 中 国 商 人 が その 不 平 等 条 約 に 基 いた 法 的 地 位 によって 他 の 中 国 商 人 にはない 特 権 輸 出 子 口 半 税 と 株 主 有 限 責 任 制 の 適 用 を 受 けるようになったことで 中 国 商 人 の 商 業 取 引 に 新 たな 秩 序 が 生 まれ 明 代 以 来 の 王 朝 国 家 による 商 人 支 配 体 制 は 最 終 的 に 瓦 解 した と 主 張 した 18 浜 下 の 議 論 が ヒト モノ カネ 情 報 のマク ロな 流 通 の 分 析 から 広 域 的 な 地 域 経 済 圏 の 存 在 を 実 証 しようとするもので あるのに 対 し 本 野 はその 流 通 の 担 い 手 の 経 済 的 営 為 に 着 目 し その 質 的 変 化 を 明 らかにするものと 言 えよう ヒト モノ カネ 情 報 の 流 通 網 の 形 成 を 分 析 することによってある 経 済 圏 の 動 態 を 分 析 することは ドイツ 植 民 地 支 配 の 研 究 に 欠 けていたグローバ ルな 位 置 づけを 考 察 する 上 できわめて 意 義 深 いと 思 われる しかし 同 時 に その 質 的 変 化 を 考 察 するアプローチをもたなければ 地 域 経 済 の 実 態 の 分 析 は 不 十 分 なものになるだろう 浜 下 のアジア 貿 易 ネットワーク 論 で 重 要 な 役 割 を 果 たしている 香 港 の 分 析 では 植 民 地 当 局 の 経 済 政 策 は 副 次 的 な 位 置 づ けしか 与 えられていない 19 香 港 経 済 の 場 合 は 自 由 貿 易 原 則 の 適 用 以 降 植 民 地 行 政 は 社 会 秩 序 の 安 定 維 持 に 配 慮 すれば 香 港 経 済 の 担 い 手 であ る 中 国 商 人 層 が 進 んで 香 港 を 東 アジアの 流 通 網 と 結 びつけることになった のか 本 論 が 考 察 する 膠 州 湾 租 借 地 の 港 湾 都 市 青 島 港 の 場 合 は たしかに 貿 易 統 計 上 その 輸 出 入 量 は 急 速 に 増 加 し 1913 年 に 華 北 沿 岸 諸 港 のなかで 18 本 野 英 一 伝 統 中 国 商 業 秩 序 の 崩 壊 不 平 等 条 約 体 制 と 英 語 を 話 す 中 国 人 名 古 屋 大 学 出 版 会 2004 年 浜 下 批 判 は 4-5 頁 引 用 は 185 頁 輸 出 子 口 半 税 については 買 辦 となることで 外 国 商 人 に 認 められていた 2.5%の 輸 出 子 口 半 税 を 支 払 えば 内 地 通 過 税 ( 釐 金 )の 免 除 され 競 争 相 手 となるほかの 中 国 商 人 よりも 優 位 となった 株 主 有 限 責 任 制 については 中 国 では 事 業 出 資 者 が 事 業 破 綻 の 際 に 無 限 の 責 任 を 負 うとされたが 例 えば 株 主 有 限 責 任 制 の 適 用 を 受 けるイギリス 商 人 の 買 辦 となれば ある 事 業 に 出 資 し それが 破 綻 したとしても その 負 債 の 責 任 は 国 家 の 保 障 によって 限 定 的 となった そのため 1880 年 代 以 降 中 国 商 人 華 僑 の 在 華 外 国 企 業 へ の 株 式 投 資 が 急 増 したと 指 摘 されている 本 野 前 掲 書 とくに 第 9 10 11 章 参 照 19 浜 下 イギリス 帝 国 経 済 と 中 国 - 香 港 同 近 代 中 国 の 国 際 的 契 機 173-216 頁 参 照 10

は 天 津 大 連 に 次 ぐ 貿 易 額 を 記 録 した 20 しかし 本 論 が 明 らかにする ように 山 東 鉄 道 港 湾 設 備 のインフラ 整 備 のみでも また 自 由 港 制 度 の 導 入 によっても 青 島 港 は 東 アジアの 商 業 ネットワークと 結 びついたのではな い 青 島 経 済 のダイナミズムは 植 民 地 行 政 の 経 済 政 策 上 の 意 図 と 中 国 商 人 層 の 経 済 活 動 との 間 の 協 調 競 争 対 立 を 孕 んだ 緊 張 のなかで 生 じたのであ る 本 論 は 植 民 地 行 政 の 経 済 政 策 と 地 域 経 済 の 動 態 の 相 互 作 用 を 分 析 する ことで 青 島 の 東 アジア 商 業 ネットワークの 参 入 の 様 相 を 明 らかにすること を 意 図 している 第 3 節 膠 州 湾 租 借 地 研 究 の 現 在 帝 政 期 ドイツの 歴 史 叙 述 にほとんど 影 響 を 与 えなかったとしても これま で 膠 州 湾 租 借 地 におけるドイツ 植 民 地 政 策 については 多 くの 研 究 が 積 み 重 ねられ その 主 要 な 論 点 についての 結 論 は ほとんど 揺 るぎないと 思 われる ほどに 定 まってきた その 論 点 としては ( 1) 膠 州 湾 占 領 に 至 る 過 程 とその 動 因 ( 2)ドイツの 山 東 および 膠 州 湾 におけるドイツ 経 済 利 害 の 形 成 と 海 軍 の 戦 略 の 関 係 ( 3)ドイツ 植 民 地 統 治 による 山 東 および 膠 州 湾 租 借 地 の 近 代 化 が 挙 げられる まず 膠 州 湾 占 領 にいたる 過 程 とその 動 因 については 当 初 の 外 交 史 的 な アプローチにとどまらず その 政 治 経 済 軍 事 の 複 合 的 な 性 格 が 強 調 され るようになっている これまでに 膠 州 湾 占 領 の 決 定 過 程 については 日 清 戦 争 を 契 機 として ドイツ 皇 帝 ヴィルヘルム 2 世 の 意 向 の 下 外 務 省 海 軍 省 高 官 が 他 の 欧 米 列 強 の 動 向 を 配 慮 しながら 綿 密 な 膠 州 湾 占 領 計 画 を 立 案 し ていたことが 明 らかになった 21 しかし 同 時 に 山 東 省 曹 州 府 鉅 野 県 にお 20 青 島 天 津 大 連 の 1904~ 1913 年 の 貿 易 額 の 増 加 率 を 比 較 すれば 大 連 が 1.11 倍 天 津 が 0.88 倍 であったのに 対 し 青 島 は 2.20 倍 であり 他 を 圧 倒 し ている 寿 楊 賓 編 青 島 海 港 史 ( 近 代 部 分 ) 人 民 交 通 出 版 社 1986 年 92-94 頁 21 初 期 の 外 交 史 では 戦 間 期 に 第 一 次 世 界 大 戦 の 戦 争 責 任 をめぐる 政 治 色 の 濃 11

ける 2 人 のドイツ 人 宣 教 師 殺 害 を 口 実 に 膠 州 湾 を 軍 事 占 領 するというヴィ ルヘルム 2 世 の 決 定 について その 周 囲 の 政 治 指 導 層 は 積 極 的 に 支 持 してい なかったことも 指 摘 されている 膠 州 湾 の 占 領 直 前 には 帝 国 宰 相 ホーエン ローエも 海 軍 省 ティルピッツも 宣 教 師 殺 害 を 口 実 に 膠 州 湾 を 占 領 すること には 憂 慮 を 示 していた 最 終 的 に 膠 州 湾 の 占 領 は ヴィルヘルム 2 世 が 発 し た 占 領 命 令 にもとづいて 実 行 された 膠 州 湾 の 占 領 決 定 と 実 行 に 至 る 過 程 に おいて ヴィルヘルム 2 世 が 果 たした 役 割 は 決 定 的 であったために 膠 州 湾 占 領 をめぐる 歴 史 解 釈 では この 時 期 のヴィルヘルム 2 世 による 親 政 の 統 治 システム 自 体 の 問 題 視 されるようになった 22 こうした 研 究 の 力 点 の 移 動 い 論 争 の 過 程 で 公 表 された 大 規 模 な 外 交 史 料 集 Die Große Politik der Europäischen Kabinette 1871-1914 im Auftrage des Auswärtigen Amtes hrsg v. Johannes Lepsius/Albrecht Mendelsohn Bartholdy/Friedrich Thimme, 40 Bde., Berlin: Deutsche Verlagsgesellschaft für Politik und Geschichte, 1922-1927 [ 以 下 GPと 略 記 ]に 基 づいて 研 究 されていた 同 史 料 のなかで 膠 州 湾 占 領 に 関 して 該 当 個 所 は 以 下 Der ostasiatische Dreibund. Das Zusammenwirken von Deutschland, Rußland und Frankreich in Ostasien 1894-1895, in: GP, Bd. 9, S. 241-333 およびDie Vorbereitung der Erwerbung Kiautschous durch Deutschland 1895-1897, in: GP, Bd. 14 Teil 1, S. 5-151. 初 期 の 代 表 的 な 外 交 史 研 究 として Feng Dien Djang, The Diplomatic Relations between China and Germany since 1898, Shanghai: The Commercial Press, Ltd., 1936 (reprinted, Taipei, 1971)を 挙 げておく また GPの 史 料 上 の 問 題 については さしあたり 石 田 勇 治 ヴァイマル 初 期 の 戦 争 責 任 問 題 ドイツ 外 務 省 の 対 応 を 中 心 に 国 際 政 治 96 号 1991 年 3 月 61-62 頁 および 注 73 西 川 正 雄 現 代 史 の 読 み 方 平 凡 社 1997 年 43-46 頁 を 参 照 GPは 現 在 でもその 史 料 的 価 値 は 失 われてはいないが その 後 の 研 究 では 未 公 刊 史 料 を 駆 使 して 本 文 中 に 示 した 評 価 が 加 えられている 代 表 的 なものとして 以 下 を 参 照 John E. Schrecker, Imperialism and Chinese Nationalism. Germany in Shantung, Cambridge, Mass.: Cambridge University Press, 1971, pp. 19-32; Schmidt, Die deutsche Eisenbahnpolitik, S. 54-58. 海 軍 省 の 軍 事 占 領 計 画 の 作 成 については 以 下 に 詳 しい Klaus Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand in der Musterkolonie Kiautschou. Interaktionen zwischen China und Deutschland, 1897-1914, München: Oldenbourg, 2000, S. 89-92. 最 近 の 外 交 史 研 究 では 世 紀 転 換 期 のドイツ 国 内 世 論 とくに 知 識 人 政 治 指 導 層 における 世 界 政 策 イデオロギーの 形 成 を 前 提 にしながら 膠 州 湾 占 領 の 決 定 要 因 として 他 の 欧 米 諸 列 強 に 対 するドイツ 外 交 の フリー ハンド の 選 択 肢 が 強 調 されてい る とくに 以 下 を 参 照 Konrad Canis, Von Bismarck zur Weltpolitik. Deutsche Außenpolitik 1890 bis 1902, Berlin: Akademie Verlag, 1997, S. 223-276. 22 ヴィルヘルム 2 世 の 占 領 命 令 の 撤 回 をめぐる 経 緯 は GP 所 収 史 料 において も 跡 付 けることができる 1897 年 11 月 6 日 に 発 せられたヴィルヘルム 2 世 の 膠 州 湾 占 領 命 令 に 対 して 同 日 ホーエンローエはロシアの 出 方 を 待 つように 忠 告 し また 彼 は 11 日 にもティルピッツからも 同 じ 意 見 を 得 たとして 中 国 側 の 回 答 が 不 満 足 なものである 場 合 に 占 領 を 実 行 するように 命 令 を 変 更 する ように 要 求 し それをヴィルヘルム 2 世 は 承 諾 した(GP, Bd. 14 Teil 1, Wilhelm 12

の 背 景 には ヴィルヘルム 2 世 とその 周 辺 に 形 成 された 親 政 の 意 思 決 定 メカ ニズムの 重 要 性 を 明 らかにしたジョン C G レールの 研 究 がある 彼 の 研 究 は 社 会 構 造 史 のアプローチから 後 景 に 追 いやられていたテーマを 史 料 にもとづいて 明 らかにしたものである 23 こうした 政 治 外 交 史 的 手 法 から 膠 州 湾 占 領 の 決 定 過 程 を 解 明 する 研 究 は 帝 政 期 ドイツの 対 外 政 策 の 動 向 を 分 析 する 上 で 重 要 であることは 疑 いない しかし そうした 占 領 の 決 定 過 程 の 分 析 だけでは なぜ 膠 州 湾 租 借 地 に 植 民 地 統 治 が 布 かれたのかについては 理 解 できないだろう 占 領 当 時 においてさ え ドイツ 帝 国 議 会 で 社 会 民 主 党 のアウグスト ベーベルが 言 及 したように 宣 教 師 殺 害 を 口 実 に 該 当 国 の 一 部 領 土 を 事 前 交 渉 なしに 軍 事 占 領 すること は 国 際 政 治 において 容 認 されるものではない と 認 識 されていた 24 膠 州 湾 の 植 民 地 化 については その 過 程 を 支 えた 社 会 経 済 的 な 基 盤 が 明 らかに されなければならない この 点 については 従 来 の 研 究 では ドイツの 対 中 国 経 済 利 害 の 形 成 という 視 点 から 分 析 され とくに 商 業 利 害 と 重 工 業 利 害 の 2 つの 経 済 利 害 の 形 成 過 程 が 明 らかにされている まず 商 業 利 害 については 第 一 次 アヘン 戦 争 前 後 以 来 中 国 沿 岸 部 で 次 第 に 形 成 されたドイツ 商 業 利 害 とドイツの 対 中 国 政 策 と 間 の 関 連 性 が 論 じ られている それはおおよそ 以 下 のように 説 明 されている まず ドイツ 商 業 利 害 は 他 の 列 強 と 同 様 に ドイツ( 当 時 はプロイセン)も 不 平 等 条 約 の 締 結 を 通 じて 中 国 における 条 約 体 制 に 参 入 し それによって 英 仏 などの 商 社 と 同 様 の 恩 恵 を 受 けられるように 本 国 の 政 治 指 導 層 に 訴 えた そうした 要 求 は 小 ドイツ 主 義 的 なドイツ 国 内 統 一 を 目 指 すプロイセンにとって 他 の II. an AA, Nr. 3686, S. 67; Franceson an AA, Nr. 3687, S. 67-68; Hohenlohe an Wilhelm II., Nr. 3688, S. 68; Hohenlohe an Wilhelm II., Nr. 3696, S. 78-79) 占 領 中 止 の 命 令 は 11 月 11 日 に 海 軍 司 令 部 から 東 アジア 巡 洋 艦 隊 司 令 官 ディーデリ ヒスに 向 けて 発 せられた Vgl. Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 95. 23 Vgl. John C. G. Röhl (Hrsg.), Der Ort Kaiser Wilhelm II. in der deutschen Geschichte, München: Oldenbourg, 1991. ヴィルヘルム 期 ドイツの 政 治 における ヴィルヘルム 2 世 とその 周 辺 の 政 治 的 意 思 決 定 過 程 における 重 要 性 の 再 検 討 を めぐる 研 究 動 向 については とくに 同 書 所 収 のIsabel Hull, Persöhnliches Regiment, S. 3-23 を 参 照 24 35. Sitzung, 8. 2. 1898, in: Stenographische Berichte über die Verhandlungen des Reichstags[ 以 下 SBVRと 略 記 ], 160 (1899), S. 899. 13

ドイツ 諸 国 に 対 する 声 望 を 高 める 思 惑 と 重 なり 1861 年 9 月 2 日 にプロイ センと 清 朝 の 間 で 他 の 列 強 と 同 様 に 中 国 側 の 関 税 自 主 権 の 否 定 治 外 法 権 片 務 的 最 恵 国 待 遇 条 項 を 含 んだいわゆる 不 平 等 条 約 が 締 結 された 25 もう 一 方 の 重 工 業 利 害 の 中 国 利 害 の 形 成 については 以 下 のように 説 明 さ れている まず 1880 年 代 に 入 り アメリカ 合 州 国 経 済 における 外 国 輸 入 品 とくに 鉄 道 関 連 に 対 する 国 内 競 争 力 の 強 化 に 伴 って ドイツ 重 工 業 界 は 新 たな 販 売 市 場 を 獲 得 することを 課 題 と 認 識 するようになった その 際 き たるべき 鉄 道 建 設 ブームの 到 来 が 予 測 された 中 国 市 場 がドイツの 重 工 業 資 本 の 重 要 な 戦 略 地 域 となった そして ドイツ 重 工 業 資 本 の 中 国 進 出 の 条 件 を 整 備 するために 1889 年 2 月 ドイツのほとんど 全 ての 大 銀 行 が 出 資 し たドイツ アジア 銀 行 ( 徳 華 銀 行 )が 設 立 された 26 これに 加 えて 近 年 の 研 究 では 1890 年 代 以 降 に 海 軍 省 内 部 で 構 想 され た 新 たな 軍 事 戦 略 が こうしたドイツ 商 業 重 工 業 資 本 の 対 外 経 済 拡 張 に 相 応 したものであったことが 指 摘 されている その 新 たな 軍 事 戦 略 では 巡 洋 艦 隊 後 には 外 洋 航 行 可 能 な 大 戦 艦 が 主 軸 となり 国 外 の 海 軍 拠 点 のネット ワークを 形 成 し 有 事 には 砲 艦 外 交 の 担 い 手 となってドイツの 貿 易 利 害 を 擁 護 することが 想 定 されていた 27 上 記 のような 商 業 利 害 および 重 工 業 金 融 利 害 の 中 国 市 場 への 関 与 と 海 軍 の 軍 事 戦 略 が 膠 州 湾 占 領 とその 後 の 植 民 地 統 治 の 基 盤 を 形 成 していた 最 後 に 山 東 におけるドイツ 経 済 政 策 および 膠 州 湾 租 借 地 におけるドイツ 25 このいわゆる 不 平 等 条 約 の 締 結 に 至 る 過 程 については 現 在 もなお Helmuth Stoecker, Deutschland und China, S. 37-84 が 最 も 詳 しい 条 約 締 結 のために 派 遣 されたオイレンブルク 遠 征 の 背 景 としてのプロイセンの 小 ドイツ 主 義 的 なドイ ツ 国 内 統 一 との 関 連 については Udo Ratenhof, Die Chinapolitik des Deutschen Reiches 1871 bis 1945: Wirtschaft- Rüstung- Militär, Boppard am Rhein: Boldt, 1987, S. 25-50 および 鈴 木 楠 緒 子 オイレンブルク 使 節 団 とプロイセン 自 由 主 義 者 小 ドイツ 主 義 的 統 一 国 家 建 設 との 関 連 で 史 学 雑 誌 第 112 編 第 1 号 2003 年 1 月 75-98 頁 を 参 照 オイレンブルク 遠 征 については Bernd Martin, Die preußische Ostasienexpedition in China. Zur Vorgeschichte der Freundschafts-, Handels- und Schiffahrts-Vertrages vom 2. September 1861, in: Kuo Heng-yü/ Mechthild Leutner (Hrsg.), Deutsch-chinesische Beziehungen vom 19. Jahrhundert bis zur Gegenwart. Beiträge des Internationalen Symposiums in Berlin, München: Minerva-Publikation, 1991, S. 209-240 を 参 照 26 Vgl. Stoecker, Deutschland und China, S. 190-211; Schmidt, Die deutsche Eisenbahnpolitik, 48-51. 27 Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 71-74. 14

統 治 の 評 価 をめぐっては 先 行 研 究 の 間 で 意 見 が 分 かれている 1971 年 に 発 表 されたジョン E シュレッカーの 研 究 では 以 下 の 2 つの 結 論 が 導 か れていた ( 1)ドイツは 山 東 において 当 初 の 意 図 を 実 現 することはできず 山 東 内 陸 部 に 影 響 を 及 ぼそうとした 行 為 はすべて 撤 退 を 余 儀 なくされ 山 東 経 済 利 権 は 事 実 上 無 効 となり ドイツの 勢 力 範 囲 は 消 失 した そ の 最 大 の 理 由 は 中 国 の 民 族 主 義 の 高 揚 であり とくに 山 東 地 方 行 政 の 民 族 主 義 的 な 政 策 の 結 果 である ( 2)このような 帝 国 主 義 的 な 拡 張 政 策 の 失 敗 にもかかわらず ドイツは 山 東 の 発 展 に 貢 献 した ドイツ 海 軍 は 膠 州 湾 租 借 地 を 模 範 的 植 民 地 に 変 貌 させようとする 熱 意 をもって 膨 大 な 支 出 を 行 い 商 業 政 策 を 志 向 し 租 借 地 に 効 率 的 な 行 政 と 経 済 的 な 進 歩 をもたらし た 28 まず ( 1)についてであるが 1905 年 以 降 租 借 条 約 で 設 定 されたドイ ツの 経 済 利 権 はほぼ 失 われたことは その 後 の 研 究 によっても 首 肯 されてい る まず 山 東 鉄 道 利 権 については 青 島 - 済 南 間 は 建 設 されたものの 膠 州 湾 租 借 条 約 内 に 記 載 されたもう 一 路 線 青 島 - 沂 州 - 済 南 間 は 建 設 されず 1913 年 に 公 式 にその 建 設 権 は 放 棄 された そして 山 東 鉄 道 沿 線 左 右 15km 以 内 の 鉱 山 採 掘 権 も 1911 年 に 最 終 的 に 未 設 の 範 囲 は 放 棄 され さらに 鉱 山 利 権 は 既 設 の 博 山 鉱 区 濰 県 鉱 区 の 炭 坑 と 張 店 金 嶺 鎮 の 付 近 の 鉱 区 に 限 定 され 残 りの 区 域 の 鉱 山 利 権 は 廃 棄 された 29 ただし その 原 因 とな った 中 国 側 の 様 々な 対 抗 戦 略 を 民 族 主 義 一 般 として 概 括 することにつ いては 異 論 がある 例 えば クラウス ミュールハーンは 地 方 官 僚 につい ては 国 家 主 導 の 発 展 戦 略 ( 商 戦 ) 地 方 エリート 層 については 経 済 的 愛 国 主 義 と 二 種 類 に 区 分 して 概 念 規 定 を 行 っている 30 また シュレッカーは 経 済 利 権 などの 当 初 のドイツ 植 民 地 政 策 の 企 図 の 失 敗 から 山 東 におけるド イツの 政 治 経 済 的 影 響 力 は 失 われたと 結 論 づけているが そのような 単 純 28 Schrecker, Imperialism and Chinese Nationalism, p. 249. 29 以 下 を 参 照 Ibid., chapt. 5. 王 守 中 徳 国 山 東 侵 略 史 人 民 出 版 社 1988 年 273-278 頁 Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 176-179. 30 Vgl. Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 165-168 u. 173-176. 15

化 には 疑 問 が 残 る たとえば その 後 の 研 究 では ドイツ 総 督 府 と 山 東 巡 撫 との 間 の 訪 問 外 交 がテーマとされたように つまり 植 民 地 行 政 と 山 東 行 政 の 協 調 のあり 方 が 問 われている 31 さらに 経 済 利 権 の 喪 失 と 言 っ ても 山 東 鉄 道 に 関 して 言 えば 1913 年 の 鉄 道 利 権 の 放 棄 は 山 東 鉄 道 延 長 線 (3 路 線 )の 借 款 の 交 換 であったし 鉱 山 利 権 についても 将 来 有 望 とみ なされていた 金 嶺 鎮 鉱 区 が 確 保 されており 事 業 不 振 にあった 山 東 鉱 山 会 社 に 好 都 合 な 事 業 整 理 を 行 ったとみることもできよう しかし 山 東 省 におけ るドイツの 政 治 経 済 的 な 影 響 力 が 限 定 的 であったことは 大 筋 において 認 められている ( 2)の 結 論 については 明 確 に 意 見 の 相 違 が 見 られる たとえば 王 守 中 は 青 島 貿 易 の 特 質 について 当 時 の 中 国 経 済 の 極 度 の 後 進 性 半 植 民 地 性 を 反 映 しており 外 国 製 品 が 大 量 に 輸 入 され 山 東 の 民 族 工 業 の 発 展 が 阻 害 されたと 指 摘 している 別 の 見 解 として 呂 明 灼 は 植 民 地 主 義 帝 国 主 義 がもたらす 破 壊 性 と 建 設 性 の 二 重 の 側 面 を 指 摘 している 32 こうした 近 代 化 論 およびその 批 判 に 植 民 地 における 近 代 性 の 問 題 を 対 置 したのは クラウス ミュールハーンである メヒトヒルト ロイトナーと の 共 著 論 文 で とくにシュレッカーらの 欧 米 の 先 行 研 究 にみられる 近 代 化 テ ーゼの 批 判 を 行 った 後 ミュールハーンは 1998 年 にベルリン 自 由 大 学 に 提 出 された 博 士 論 文 を 基 にして 模 範 的 植 民 地 膠 州 領 における 支 配 と 抵 抗 中 国 ドイツ 間 の 相 互 作 用 1897-1914 年 を 公 表 した 33 植 民 地 統 治 についての 彼 の 議 論 の 中 核 をなすのは 第 2 章 の 分 離 と 参 加 膠 州 31 訪 問 外 交 の 規 定 については 以 下 の 公 刊 史 料 集 の 解 説 論 文 を 参 照 Mechthild Leutner (Hrsg.)/ Klaus Mühlhahn (Bearb.), Musterkolonie Kiautschou. Die Expansion des Deutschen Reiches in China. Deutsch-chinesische Beziehungen 1897 bis 1914, Berlin: Akademie Verlag, 1997, S. 310-311. 32 王 守 中 前 掲 書 196-197 頁 呂 明 灼 徳 占 膠 澳 対 近 代 中 国 的 双 重 影 響 文 史 哲 第 250 期 1999 年 51 頁 ほかに 欒 玉 璽 ドイツ 日 本 の 進 出 と 青 島 の 工 業 化 1897~ 1945 年 を 中 心 に 経 済 論 究 関 西 学 院 大 学 第 56 巻 第 4 号 2003 年 99~ 134 頁 は シュレッカーと 同 様 ドイツ 統 治 期 が 青 島 の 工 業 化 の 基 盤 を 形 成 したと 強 調 している 33 ロイトナーとの 共 著 論 文 は 以 下 Mechthild Leutner/ Klaus Mühlhahn, Die Musterkolonie. Die Perzeption des Schutzgebietes Jiaozhou in Deutschland, in: Kuo Heng-yü/ Mechthild Leutner (Hrsg.), Deutschland und China. Beiträge des Zweiten Internationalen Symposiums zur Geschichte der deutsch-chinesischen Beziehungen, Berlin 1991, München: Minerva, 1994, S. 399-423. 16

領 における 中 国 住 民 とドイツ 植 民 地 行 政 の 相 互 関 係 である ここでは ハ ナ アーレントの 全 体 主 義 に 関 する 理 論 より 着 想 を 得 て 膠 州 湾 租 借 地 にお ける 植 民 地 支 配 を 論 じている そのコンセプトは 全 体 主 義 的 官 僚 制 と 人 種 イデオロギー の 2 つの 概 念 から 構 成 されており 以 下 のように 説 明 されている まず 青 島 における 全 体 主 義 的 官 僚 制 とは 植 民 地 が 模 範 的 植 民 地 たるべく 個 々 人 が 歯 車 としてその 機 能 を 認 識 する 社 会 的 身 体 となることを 実 現 するためにつくりあげられた 機 構 であった それは その 社 会 的 身 体 の 監 視 と 管 理 に 役 立 つ 行 政 機 関 土 地 政 策 建 築 形 態 社 会 組 織 などを 創 出 することで 達 成 されるべきものであり 社 会 の 深 部 に 至 るまでの 規 律 化 が 目 指 された 次 に 青 島 における 人 種 イデオロギー とは それ が 体 系 的 官 僚 的 に 組 織 された 人 種 隔 離 を 生 み 出 すものであり そのために 植 民 地 行 政 の 区 分 と 差 異 化 の 創 出 が 役 立 つことになった これに 加 えて 植 民 地 行 政 は 学 校 野 戦 病 院 監 獄 裁 判 所 などの 制 度 によって 中 国 住 民 の 生 活 慣 習 と 実 践 の 規 範 化 を 生 み 出 し それらを 操 作 しようとした こうし た 操 作 は 中 国 住 民 に 植 民 地 権 力 に 対 する 直 接 的 な 反 抗 を 不 可 能 したが それ にもかかわらず 中 国 住 民 は 参 加 の 要 求 を 通 じてその 排 除 と 分 離 を 克 服 し ようとした 34 この 議 論 では ミシェル フーコーの 規 律 化 概 念 が 念 頭 に 置 かれていることは 明 白 だが ミュールハーンは 膨 大 な 公 刊 未 公 刊 史 料 から 膠 州 湾 租 借 地 において 植 民 地 行 政 が 行 った 社 会 実 験 とそれに 対 する 中 国 住 民 の 多 様 な 抵 抗 のあり 方 を 実 証 しようとした ミュールハーンは その 著 書 の 第 1 章 第 3 節 をドイツ 側 の 経 済 政 策 と 中 国 側 の 対 抗 戦 略 にあてており 従 来 の 分 析 を 無 視 している 訳 ではない また 序 章 でグローバリゼーションのなかに 膠 州 湾 租 借 地 を 位 置 づけようと 試 み ている それにもかかわらず 経 済 政 策 と 植 民 地 統 治 下 の 社 会 秩 序 の 形 成 は 基 本 的 に 別 のストーリーとして 描 かれている その 結 果 彼 が 明 らかにしよ うとした 植 民 地 社 会 秩 序 は グローバル 化 の 問 題 とは 基 本 的 に 別 個 の 問 題 と なってしまっている 海 軍 省 の 宣 伝 道 具 としての 性 格 を 有 していた 膠 州 湾 租 借 地 にとって その 近 代 化 の 成 功 そのものが 植 民 地 政 策 の 要 請 であった ミュールハーンは 近 代 化 の 成 功 失 敗 を 論 じるのではなく その 近 代 化 そ 34 Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 185-187. 17

のものを 植 民 地 主 義 のプロセスの 一 環 として 捉 え 植 民 地 支 配 下 に 置 かれた 社 会 の 形 成 を 近 代 性 の 視 点 から 論 じた しかし その 植 民 地 社 会 秩 序 の 分 析 は 模 範 的 植 民 地 としての 経 済 発 展 を 至 上 命 題 とされたドイツ 植 民 地 行 政 がいかに 地 域 経 済 と 結 合 するかという 課 題 に 取 り 組 んだ 政 策 とは 切 り 離 されており その 結 果 規 律 化 とその 受 容 と 逸 脱 の 戦 略 の 問 題 に 集 中 し 膠 州 湾 租 借 地 における 社 会 秩 序 の 特 徴 がむしろ 見 えにくくなっている 第 4 節 本 論 の 課 題 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 統 治 と 社 会 秩 序 トランスナショナルな 歴 史 の 方 向 性 の 一 つとして 提 起 されたグローバ リゼーションのなかにドイツ 帝 国 を 位 置 づけるという 試 みを ドイツ 統 治 下 の 膠 州 湾 租 借 地 に 適 用 しようとするならば それは 東 アジアにおける 地 域 経 済 との 関 連 から 同 地 の 植 民 地 統 治 を 分 析 することになるだろう したがっ て 本 論 では ドイツ 資 本 主 義 の 拡 張 によって 公 式 非 公 式 の 影 響 下 におか れた 社 会 が 一 方 的 に 世 界 システムに 包 摂 されたと 断 じるのではなく ドイツ 植 民 地 統 治 が 構 想 した 当 初 の 経 済 政 策 が 地 域 経 済 の 動 態 に 直 面 し どのよ うな 変 更 を 迫 られ その 結 果 膠 州 湾 租 借 地 経 済 は 東 アジア 地 域 経 済 とどの ように 結 びついたのかということを 具 体 的 に 分 析 することを 課 題 とする そ の 上 で そうした 経 済 政 策 が 植 民 地 にどのような 社 会 秩 序 を 必 要 としたのか を 問 うことで その 性 質 を 予 断 することなく より 植 民 地 統 治 の 実 態 に 即 し て 明 らかにすることができると 考 えている こうしたアプローチをとる 理 由 は 膠 州 湾 租 借 地 のドイツ 植 民 地 政 策 担 当 者 がもっていた 植 民 地 統 治 の 構 想 にある ドイツ 植 民 地 のなかで 唯 一 海 軍 省 の 管 轄 下 に 置 かれた 膠 州 湾 租 借 地 は 当 時 海 軍 省 長 官 ティルピッツによっ て 推 進 された 艦 隊 政 策 に 肯 定 的 なドイツ 国 内 世 論 を 喚 起 するための 宣 伝 道 具 となることが 期 待 されていた そのために 膠 州 湾 租 借 地 の 都 市 部 青 島 を 最 新 の 港 湾 設 備 を 整 えた 商 業 都 市 に 変 貌 させ 模 範 的 植 民 地 ( Musterkolonie) として 健 全 な 植 民 地 経 営 を 実 現 することが 望 まれた 18

ドイツ 帝 国 議 会 に 最 初 に 提 出 された 1898 年 の 膠 州 湾 租 借 地 についての 行 政 報 告 書 では 経 済 的 な 観 点 を 優 先 し 商 業 植 民 地 として 発 展 させるこ とが 謳 われており さらに その 経 済 政 策 について 関 税 免 除 営 業 の 自 由 自 治 の 拡 大 等 の 自 由 主 義 的 な 原 則 が 提 示 されていた この 経 済 的 自 由 主 義 に 基 いた 統 治 構 想 は 当 時 の 植 民 地 政 策 論 で 盛 んに 取 り 上 げられた 植 民 地 類 型 論 に 起 因 する 当 時 の 著 名 な 国 民 経 済 学 者 ヴィルヘ ルム ロッシャーは 植 民 地 類 型 を 征 服 植 民 地 (Eroberungskolonien) 商 業 植 民 地 (Handelskolonien) 農 業 植 民 地 (Ackerbaukolonien) プランテー ション 植 民 地 (Pflanzungskolonien)の 4 つに 分 類 したが この 分 類 はその 後 の 植 民 地 政 策 論 者 の 基 盤 となっている 35 こうした 植 民 地 類 型 論 が 盛 んに なった 理 由 は 全 ての 植 民 地 に 適 用 可 能 な 一 般 的 な 植 民 地 政 策 の 追 求 よりも 支 配 地 域 内 の 資 源 の 質 量 に 応 じた 実 際 的 な 政 策 が 要 請 されていたことによ る ロッシャーによれば 商 業 植 民 地 は 売 買 がさかんに 行 われるが 何 らかの 理 由 で 通 常 の 自 由 な 貿 易 が 生 じ 得 ない 国 々に 直 接 に 設 置 されるか あ るいは 中 継 地 点 とくに 地 理 的 に 通 商 路 を 支 配 する 地 点 として その 植 民 地 を 経 由 する 貿 易 に 役 立 つ ものである つまり 商 業 植 民 地 とは モノカル チャー 化 を 進 めるプランテーション 型 植 民 地 や 本 国 から 植 民 地 への 移 住 を 目 的 とした 農 業 植 民 地 とは 異 なり ある 地 域 経 済 をより 広 域 の 市 場 に 開 放 す る 植 民 地 であった 海 軍 省 がそのような 植 民 地 としての 成 長 を 公 けに 約 束 し たとき 自 由 貿 易 主 義 に 基 いた 植 民 地 政 策 があらかじめ 念 頭 に 置 かれていた 35 Vgl. Wilhelm Roscher/ Robert Jannasch, Kolonien, Kolonialpolitik und Auswanderung, 3. Aufl., Leipzig: Winter, 1885, Kap. 1 (1. Aufl. 1848). この 分 類 に 基 いたその 後 の 植 民 地 政 策 論 として 例 えば Schäffle, Kolonisation und Kolonialpolitik, in: Deutsches Staats-Wörterbuch, Bd 5, Stuttgart; Leipzig: Expedition des Staats-Wörterbuchs, 1860, S. 626-647; Schneider, Kolonien, Kolonialpolitik, in: Staatslexikon, 2. Auflage, Bd. 3, Freiburg i. B.: Herdersche Verlagshandlung, 1902, S. 618-651. またドイツ 海 軍 本 部 顧 問 官 であり 海 軍 省 内 で 膠 州 湾 租 借 地 を 担 当 した 法 学 者 オットー ケーブナーも 1908 年 に 公 刊 した 以 下 の 書 で ( 1)かなり 大 規 模 な 入 植 者 が 土 地 を 耕 作 する 農 業 移 住 植 民 地 ( 2) 付 加 価 値 の 高 い 生 産 物 を 産 出 する プランテーション 植 民 地 ( 3) 後 背 地 の 生 産 物 とヨーロッパ 工 業 品 の 交 易 を 中 継 する 商 業 植 民 地 の 3 類 型 を 析 出 し ロッシャーに 基 きながらも 若 干 整 理 した 植 民 地 類 型 論 を 展 開 した Otto Köbner, Einführung in die Kolonialpolitik, Jena: Fischer, 1908, S. 15-21. ちなみに 同 書 は 日 本 語 に 訳 されている 塩 澤 昌 貞 植 民 政 策 大 日 本 文 明 協 会 1913 年 19

のである 実 際 に 膠 州 湾 租 借 地 が 東 アジアにおける 通 商 網 から 孤 立 しない ためには ドイツ 植 民 地 政 策 担 当 者 は 条 約 体 制 下 の 自 由 貿 易 原 則 と 反 する ような 原 則 を 提 示 することはできなかっただろう 36 しかし 注 目 すべき は この 時 期 に そのような 経 済 的 自 由 主 義 が 積 極 的 に 宣 伝 され 得 たことで ある 周 知 のように 1873 年 に 始 まったいわゆる 大 不 況 は 1896 年 によう やく 好 況 期 に 転 ずるまで たとえ 実 際 には 経 済 成 長 の 鈍 化 として 表 現 される 方 が 適 切 であったとしても ドイツ 国 内 の 社 会 心 理 に 大 きな 影 響 を 及 ぼした 1862 年 にプロイセン フランス 間 で 通 商 条 約 が 締 結 された 後 自 由 貿 易 主 義 がドイツの 経 済 政 策 路 線 であったが 大 不 況 期 に 至 ると いわゆるド イツ マンチェスター 学 派 の 影 響 力 は 失 われ ドイツは 1879 年 に 農 業 重 工 業 利 害 に 応 じた 保 護 関 税 政 策 へと 転 換 した 実 際 には 市 場 による 経 済 調 整 機 能 については 保 護 関 税 政 策 への 転 換 以 前 に すでに 工 業 化 の 進 展 に 伴 う 社 会 問 題 の 顕 在 化 によって 疑 問 に 付 されていた そのために 社 会 政 策 学 派 のなかでも 経 済 路 線 をめぐって 保 守 派 と 自 由 主 義 派 の 間 で 論 争 が 行 われ ていた 1891~ 1894 年 にカプリーヴィが 帝 国 宰 相 であった 時 期 には 主 に 中 東 欧 諸 国 との 二 国 間 協 定 による 貿 易 の 自 由 化 によって 入 超 状 態 であった 貿 易 収 支 の 均 衡 が 図 られたが しかしこの 政 策 も 保 守 層 農 業 利 害 の 反 対 に 遭 い 結 局 1902 年 帝 国 宰 相 ビューロは 農 業 利 害 を 擁 護 して 穀 物 関 税 率 を 新 たに 引 き 上 げることになった 37 こうした 背 景 を 念 頭 に 置 けば 1897 年 11 月 14 日 の 膠 州 湾 租 借 地 の 占 領 事 件 は まさに 経 済 政 策 路 線 の 選 択 をめぐる 激 しい 対 立 のさなかに 行 われた ことが 理 解 されよう この 時 期 に 商 業 植 民 地 を 建 設 することは たとえ 自 由 主 義 であっても 自 由 放 任 型 ではない 介 入 型 の 経 済 政 策 を 植 民 地 行 政 が 策 36 イギリスの 自 由 貿 易 原 則 下 のアジア 経 済 のネットワーク 形 成 に 関 する 論 考 として 籠 谷 直 人 大 英 帝 国 自 由 貿 易 原 則 とアジア ネットワーク 山 本 有 造 編 帝 国 の 研 究 名 古 屋 大 学 出 版 会 2003 年 291-321 頁 参 照 37 Vgl. Hans Jaeger, Geschichte der Wirtschaftsordnung in Deutschland, Frankfurt a. M.: Suhrkamp, 1988, S. 95-99, 111 u. 123-125. カプリーヴィの 通 商 政 策 の 動 機 に ついては Torp, Die Herausforderung der Globalisierung, S. 179ff. また 彼 は い わゆるビューロ 関 税 率 の 実 際 の 決 定 過 程 には 実 務 官 僚 の 間 で 艦 隊 政 策 との 関 連 は 言 及 されていなかったことを 指 摘 している Ebenda, S. 290. 20

定 することが 望 まれていたことは 明 らかである しかし 自 由 貿 易 ある いは 開 放 型 経 済 秩 序 の 原 則 の 下 に 置 かれていた 東 アジア 経 済 において 海 軍 省 あるいは 膠 州 領 総 督 府 は 経 済 成 長 を 可 能 にする 政 策 が 期 待 されており それは 経 済 的 自 由 主 義 に 沿 うものでなければならなかったのである それでは このような 経 済 的 自 由 主 義 に 必 要 とされた 植 民 地 の 社 会 秩 序 は どのようなものであったのだろうか ドイツ 国 内 では 1879 年 の 保 護 関 税 政 策 への 転 換 によって カルテル 形 成 が 進 んだ その 傾 向 は 好 況 期 にも 持 続 し むしろ 1890 年 から 1914 年 の 間 にその 盛 期 を 迎 えた ドイツ 内 務 省 は 1905 年 に 385 のカルテルを 1910 年 に 673 のカルテルを 確 認 しており ま た 1897 年 には 帝 国 裁 判 所 の 判 決 によって カルテルが 営 業 の 自 由 の 原 則 と 一 致 するものであり 価 格 協 定 等 に 拘 束 力 があるものと 宣 言 した ここで は 破 滅 的 な 競 争 を 阻 止 するために カルテルが 公 共 の 利 益 に 役 立 つも のであると 認 められていたのである 38 これまで この 時 期 の 資 本 の 集 中 化 は ヒルファーディングの 組 織 資 本 主 義 (Organisiserter Kapitalismus) という 理 解 に 基 いて 分 析 されていたが その 概 念 の 導 入 に 中 心 的 な 役 割 を 果 たしたH.-U. ヴェーラー 自 身 は 近 年 この 組 織 資 本 主 義 論 への 批 判 を 受 け 入 れ それに 代 わる 分 析 概 念 として コーポラティズム を 提 起 してい る 39 ここでは 比 較 的 高 度 な 水 準 の 資 本 主 義 的 発 展 を 前 提 とした 社 会 に おいて 企 業 利 害 団 体 労 働 組 合 国 家 機 関 の 間 での 合 意 をめぐる 協 調 が 分 析 の 中 心 となる この 経 済 秩 序 においては 何 らかの 経 済 的 決 定 は もは や 市 場 メカニズムと 競 争 の 優 位 の 下 に 置 かれるのではなく 政 治 の 領 域 に 委 ねられる ヴェーラーは コーポラティズム は 権 威 主 義 的 な 国 家 にも 自 由 民 主 主 義 的 な 国 家 にも 定 着 し 得 ると 指 摘 しているが 膠 州 湾 租 借 地 におい ては まさに 総 督 を 頂 点 とした 権 威 主 義 的 な 社 会 秩 序 が 形 成 されていた そ して その 総 督 の 諮 問 機 関 である 植 民 地 参 事 会 では 利 害 団 体 の コーポラ 38 Jaeger, Geschichte der Wirtschaftsordnung, S. 111-112. 39 Wehler, Die Deutsche Gesellschaftsgeschichte, S. 663ff. 組 織 資 本 主 義 概 念 への 批 判 として その 時 期 区 分 の 不 明 確 さ 未 組 織 の 資 本 主 義 は 存 在 しないこ と 概 念 の 静 態 性 政 治 的 な 発 展 過 程 の 分 析 に 不 適 当 であること 組 織 された 労 働 運 動 の 対 抗 勢 力 への 分 析 が 十 分 包 括 されないことを 挙 げている 21

ティヴ( 団 体 調 整 的 ) な 合 意 調 達 の 制 度 が 作 り 上 げられていた 40 ドイツ 国 内 政 治 との 明 確 な 相 違 は 膠 州 湾 租 借 地 においてはその 団 体 調 整 的 な 政 治 決 定 システムには 保 守 的 な 圧 力 グループも 強 固 な 労 働 運 動 も 存 在 しな かったために 商 業 植 民 地 としての 成 長 に 必 要 とされた 自 由 主 義 的 な 経 済 政 策 を ドイツ 国 内 に 比 べてより 徹 底 した 形 で 導 入 しやすかったことである 41 本 論 の 分 析 の 中 心 は 第 一 に この 東 アジア 経 済 に 相 応 するように 設 定 さ れた 自 由 主 義 的 な 経 済 政 策 の 導 入 変 容 帰 結 であり 第 二 に そうした 経 済 的 自 由 主 義 にもとづいた 社 会 秩 序 の 構 想 とその 変 化 である 行 論 で 明 らか にされるように 植 民 地 政 策 担 当 者 が 念 頭 に 置 いていたこのような 経 済 政 策 社 会 秩 序 からなる 統 治 構 想 は 現 地 経 済 および 社 会 の 動 態 に 直 面 し 変 容 を 迫 られていく 上 記 の 二 つの 分 析 の 軸 は ドイツ 植 民 地 統 治 の 構 想 と 実 際 の 統 治 の 過 程 における 現 地 社 会 の 動 態 との 相 互 作 用 に 置 かれている 先 行 研 究 は 膠 州 湾 租 借 地 における 経 済 政 策 を 経 済 的 自 由 主 義 の 刷 新 としては 見 ておらず そうした 経 済 政 策 を 単 なる 自 由 貿 易 主 義 の 延 長 と 捉 え またそ の 経 済 政 策 と 植 民 地 における 社 会 秩 序 の 形 成 を 関 連 づけて 分 析 することは なかった 42 ミュールハーンの 研 究 は その 国 家 主 義 的 な 要 素 を 強 調 し 国 家 が 積 極 的 に 社 会 に 介 入 しながら 市 場 経 済 を 促 すタイプの 自 由 主 義 的 な 40 41 ヴェーラーの 該 当 個 所 については Ebenda, S. 665. 本 国 よりも 植 民 地 の 方 が 保 守 革 新 といった 政 治 勢 力 に 影 響 を 受 けること が 少 なく ブルジョワジーの 利 害 に 沿 った 社 会 秩 序 の 実 験 を 行 うことができた という 主 張 については Ann Laura Stoler/ Frederick Cooper, Between Metropole and Colony. Rethinking a Research Agenda, in: Frederick Cooper/ Ann Laura Stoler (eds.), Tenstions of Empire. Colonial Cultures in a Bourgeois World, Berkeley: California Press, 1997, p. 5; Conrad, Doppelte Marginalisierung, S. 156. 42 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 統 治 を 自 由 主 義 的 経 済 政 策 によって 近 代 化 に 成 功 したものと 肯 定 的 に 評 価 するものとしては 前 述 のSchrecker, Imperialism and Chinese Nationalism; Dirk Alexander Seelemann, The Social and Economic Development of the Kiaochou Leasehold (Shantung China) under German Administration, 1897-1914, Toronto: Dissertation Phil. University of Toronto, 1982 を 挙 げることができる 王 守 中 の 前 掲 書 では 経 済 政 策 と 社 会 秩 序 の 関 連 につ いてほとんど 言 及 されていない Fu-teh Huang, Qingdao. Chinesen unter deutscher Herrschaft 1897-1914, Bochum: Projekt-Verlag, 1999 は 青 島 における 中 国 系 住 民 の 生 活 について 社 会 層 ごとに 詳 細 に 分 析 したものだが そうした 社 会 層 の 形 成 と 総 督 府 の 経 済 政 策 の 関 係 については 分 析 されていない 22

経 済 政 策 としては 理 解 していない 43 これらの 先 行 研 究 は その 分 析 をも っぱら 租 借 地 内 の 経 済 に 向 けており そのために 租 借 地 経 済 が 東 アジア 経 済 とどのように 結 びついていったのか そしてそのような 経 済 のあり 方 がど のような 社 会 秩 序 を 必 要 としたのかという 問 題 意 識 を 欠 くことになった 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 統 治 が ある 地 域 経 済 をより 広 域 的 な 経 済 ネット ワークに 参 入 させるものであったとするならば その 実 態 を 明 らかにするた めには 上 記 の 問 題 に 取 り 組 む 必 要 があるだろう 本 論 の 構 成 および 使 用 する 史 料 本 論 は 6 章 から 構 成 されている まず 第 1 章 では 膠 州 湾 の 植 民 地 化 の 過 程 を 明 らかにする とくに ( 1) 膠 州 湾 占 領 以 前 のドイツ 政 治 指 導 層 が 抱 いた 中 国 植 民 地 の 構 想 ( 2) 膠 州 湾 占 領 による 植 民 地 化 が 国 家 間 条 約 によ って 正 当 化 される 過 程 ( 3) 軍 事 占 領 下 での 膠 州 湾 租 借 地 の 基 盤 形 成 を 論 じる 次 に 第 2 章 では 本 論 の 課 題 にそくして 統 治 初 期 の 膠 州 領 総 督 府 の 経 済 政 策 を 分 析 する その 際 に とくに 膠 州 領 総 督 府 の 経 済 的 自 由 主 義 の 象 徴 であった 自 由 港 制 度 の 導 入 とそれに 対 する 批 判 そして 事 実 上 の 廃 止 に 至 る 過 程 を 明 らかにする 第 3 章 では 総 督 府 の 経 済 的 自 由 主 義 に 相 応 した 植 民 地 社 会 の 秩 序 がどのような 原 理 で 構 成 されていたのかを 明 らかにする そのために とくに 中 国 系 住 民 の 法 的 位 置 づけと 租 借 地 における 社 会 層 別 の 空 間 配 置 を 分 析 する 第 4 章 では 自 由 港 制 度 の 事 実 上 の 改 廃 によって 山 東 経 済 との 一 体 化 を 図 った 膠 州 領 総 督 府 の 新 たな 経 済 戦 略 すなわち 山 東 農 産 品 畜 産 品 の 多 角 的 な 輸 出 戦 略 とそれによって 形 成 された 租 借 地 経 済 のネッ トワークを 明 らかにする 第 5 章 では ドイツ 本 国 中 国 での 租 借 地 統 治 へ の 批 判 の 高 まりに 対 抗 する 形 で 現 れたドイツ 系 住 民 の 自 治 論 と 総 督 府 の 行 財 政 改 革 さらに 中 国 商 人 層 のボイコットによって 再 調 整 された 植 民 地 社 会 の 秩 序 について 論 じる 最 後 に 第 6 章 では 膠 州 湾 租 借 地 をその 政 策 の 43 Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 135-149. 23

中 心 に 置 いたドイツの 対 中 国 文 化 政 策 の 論 理 を 明 らかにする 本 論 で 使 用 した 史 料 は 主 として フライブルク 連 邦 軍 事 文 書 館 に 所 蔵 さ れている 膠 州 領 総 督 府 関 係 史 料 およびベルリン 連 邦 文 書 館 に 所 蔵 されてい る 在 北 京 ドイツ 公 使 館 関 係 史 料 である 44 また ドイツ 帝 国 議 会 に 提 出 さ れた 行 政 報 告 書 青 島 で 発 刊 されていた 官 報 および 新 聞 さらに 総 督 府 官 僚 の 公 刊 物 を 網 羅 的 に 使 用 した 本 論 の 課 題 は 植 民 地 行 政 の 経 済 政 策 とその 社 会 秩 序 の 関 係 性 と それらが 現 地 社 会 の 動 態 に 対 応 するためにどのように 変 容 したかを 明 らかにすることにあるので 分 析 した 史 料 の 中 心 はドイツ 語 史 料 になっている 実 際 租 借 地 における 中 国 系 住 民 の 社 会 に 関 する 中 国 語 史 料 に 依 拠 した 実 証 研 究 はいまだ 存 在 しない その 分 析 のためには 当 時 青 島 で 発 刊 されていた 膠 州 報 などの 新 聞 類 を 分 析 することが 最 も 適 当 と 思 われるが 未 だ 着 手 されていない 残 念 ながら 本 研 究 でも 取 り 組 むこと ができていないので 今 後 の 課 題 としたい 44 フライブルク 連 邦 軍 事 文 書 館 所 蔵 の 膠 州 領 総 督 府 関 係 史 料 については 以 下 を 参 照 Bernd Martin, Gouvernement Jiaozhou - Forschungsstand und Archivbestände zum deutschen Pachtgebiet Qingdao (Tsingtau) 1897-1914, in: Kuo Heng-yü/ Mechthild Leutner (Hrsg.), Deutschland und China. Beiträge des Zweiten Internationalen Symposiums zur Geschichte der deutsch-chinesischen Beziehungen Berlin 1991, München: Minerva, 1994, S. 375-398. また 前 掲 論 文 の 著 者 による 目 録 が 同 文 書 館 に 納 められている ベルリン 連 邦 文 書 館 の 史 料 については 拙 稿 ベルリンのドイツ 連 邦 文 書 館 所 蔵 の 中 国 関 係 史 料 中 国 駐 在 ドイツ 大 使 館 Deutsche Botschaft in China 史 料 (1920 年 まで)について 近 現 代 東 北 アジ ア 地 域 史 研 究 会 ニューズレター 第 17 号 2005 年 12 月 19-33 頁 参 照 24

第 1 章 膠 州 湾 の 植 民 地 化 本 章 では 膠 州 湾 租 借 地 における 植 民 地 統 治 の 基 盤 がどのように 形 成 され たのかについて 論 じる 序 章 第 3 節 で 述 べたように すでに 先 行 研 究 で 膠 州 湾 占 領 に 至 る 背 景 動 因 については 詳 細 に 明 らかにされている したがっ て ここでは 膠 州 湾 占 領 に 至 る 過 程 で 形 成 されたドイツの 中 国 利 害 につい ては 必 要 最 低 限 の 言 及 にとどめ 本 論 の 主 たる 関 心 である 植 民 地 統 治 におけ る 経 済 政 策 と 社 会 秩 序 形 成 との 関 係 を 分 析 するための 前 提 として 以 下 の 3 点 について 述 べる 第 1 に 実 際 に 膠 州 湾 において 植 民 地 統 治 が 開 始 される 以 前 とその 直 後 に ドイツの 植 民 地 政 策 担 当 者 がどのような 中 国 植 民 地 の 構 想 を 描 いていたの かについて 分 析 する 第 2 に 膠 州 湾 占 領 後 に 国 際 関 係 上 どのようにし て 膠 州 湾 における 植 民 地 統 治 が 正 当 化 されたのかを 論 じる 具 体 的 には 1898 年 3 月 6 日 に 締 結 された 膠 州 湾 租 借 条 約 の 締 結 にいたるまでのドイ ツ 清 間 の 外 交 交 渉 過 程 を 分 析 し どの 時 点 で どのようにして 国 際 関 係 上 での 植 民 地 化 が 行 われたのかを 明 らかにする 第 3 に 租 借 条 約 締 結 以 前 の 軍 事 占 領 下 において 膠 州 湾 現 地 においてドイツ 占 領 行 政 が 進 めた 植 民 地 化 すなわち 植 民 地 統 治 の 基 盤 創 出 の 過 程 を 分 析 する 第 1 節 ドイツの 中 国 植 民 地 構 想 25

第 一 次 アヘン 戦 争 (1840-1842 年 )と 南 京 条 約 の 締 結 (1842 年 )は 3 億 5000 万 人 を 抱 える 市 場 の 開 放 を 意 味 するものとして 同 時 代 のドイツ 諸 国 の 経 済 界 および 知 識 人 層 に 大 きな 関 心 を 引 き 寄 せた 事 件 であった 例 えば ハンブルク 商 人 は ただちに 3 隻 の 商 船 を 派 遣 し ケルン 商 業 会 議 所 はイギ リスが 中 国 市 場 を 独 占 させないように プロイセン 政 府 に 商 業 艦 隊 の 派 遣 を 要 求 している その 他 にも ザクセン 政 府 は プロイセン 政 府 にドイツ 関 税 同 盟 に 配 慮 したうえで 中 国 沿 岸 諸 港 に 領 事 館 を 設 置 するように 提 案 してい た さらに 国 民 経 済 学 者 リスト(Friedrich List)も 南 京 条 約 を 世 界 貿 易 にとっての 大 きな 出 来 事 であり ひょっとしたら 少 なくとも 目 下 の 帰 結 にかかわることは アメリカ 大 陸 の 発 見 以 上 に 大 きな 出 来 事 であると 見 て ドイツの 輸 出 経 済 にとってのこの 大 きな 機 会 を 逃 さないようにと 訴 え た 45 しかし プロイセン 政 府 は こうした 意 見 に 対 してきわめて 懐 疑 的 であった その 理 由 は 第 一 に プロイセンの 海 軍 力 はきわめて 不 十 分 であ り 海 上 ではイギリスと 軍 事 的 に 競 合 し 得 ないこと 第 二 に ハンブルクの ザクセン 領 事 さらに 中 国 へ 現 地 視 察 されたグルーベ(Grube)より 南 京 条 約 が 中 国 の 市 場 開 放 に 対 する 影 響 は 限 定 的 であり イギリスでは 過 大 評 価 されていると 報 告 されたからである 結 局 第 一 次 アヘン 戦 争 以 後 プロイ セン ザクセン ハンブルクは 中 国 沿 岸 諸 港 で 活 動 する 商 人 を 領 事 として 任 命 するにとどまった 46 第 二 次 アヘン 戦 争 (1856-1860 年 )とその 後 に 清 朝 政 府 とイギリス フ ランス アメリカ ロシアの 間 で 調 印 された 天 津 条 約 (1858 年 )は 再 び ドイツ 諸 国 の 商 業 界 に 中 国 への 関 心 を 高 めることになった なぜなら 1843 年 10 月 8 日 に 締 結 された 南 京 条 約 の 善 後 条 項 では 全 ての 外 国 商 人 にイギ リス 商 人 と 同 様 の 待 遇 が 与 えられることが 保 証 されていたが 天 津 条 約 では その 条 項 が 欠 けていたからである ドイツ 諸 国 の 商 業 界 の 要 求 を 受 けたプロ イセン 政 府 は 1860 年 5 月 11 日 付 の 命 令 で 元 ワルシャワ 総 領 事 で 後 に 1878 年 まで 内 相 を 務 めたオイレンブルク(Friedrich zu Eulenburg)に 遠 征 艦 隊 を 組 織 し 清 日 本 タイとの 通 商 条 約 を 締 結 することを 命 じた その 45 Stoecker, Deutschland und China, S. 40-41. 46 Ebenda, S. 41-43. 26

遠 征 は 該 当 諸 国 の 政 府 が 通 商 条 約 締 結 を 拒 む 場 合 には 他 のヨーロッパ 列 強 と 共 に 軍 事 的 な 示 威 行 動 をもってでも 締 結 を 目 指 すことが 期 待 されてい た プロイセン 政 府 が 東 アジア 遠 征 に 積 極 的 な 行 動 をとった 理 由 は 当 時 小 ドイツ 主 義 的 な 国 内 統 一 を 進 めるプロイセンの 声 望 を 高 めるためである 1861 年 9 月 2 日 に 清 と 締 結 された 通 商 条 約 は プロイセン 政 府 にとっては 主 としてそのような 政 治 的 な 動 機 づけによるものであった したがって こ の 時 期 でも 政 治 指 導 層 の 対 中 国 政 策 は 限 定 的 なものであった 47 たしかに この 東 アジア 遠 征 に 際 して オイレンブルクには 可 能 であれば 拠 点 とな る 植 民 地 を 獲 得 するようにとの 命 令 が 下 っており 候 補 地 として 台 湾 が 調 査 されていたが ただドイツ 拠 点 には 気 候 の 面 から 不 適 当 であるという 報 告 が 残 されたにすぎなかった この 東 アジア 遠 征 後 には ドイツの 中 国 拠 点 の 獲 得 という 問 題 について この 遠 征 に 参 加 した 地 理 学 者 リヒトホーフェン ( Ferdinand von Richthofen)などの 知 識 人 層 海 軍 関 係 者 あるいは 宰 相 ビ スマルクもたびたび 言 及 していたが それが 具 体 化 することはなかった 48 1870 年 代 以 降 中 国 対 外 貿 易 におけるドイツ 経 済 利 害 は 次 第 にその 比 重 を 増 し ドイツ 本 国 の 政 界 および 現 地 外 交 官 もそれを 積 極 的 に 支 援 するよ うになった 例 えば 1855 年 には 在 中 国 ドイツ 商 社 はわずか 7 社 にすぎな かったのが 1877 年 には 41 社 1890 年 代 には 80 社 に 増 加 した また 1880 年 代 半 ばから 10 年 の 間 に 中 国 対 外 貿 易 に 占 めるドイツの 割 合 は 2.5%から 5.1%へと 増 加 している そして その 対 中 国 貿 易 の 促 進 のために 1870 年 代 半 ば 以 降 在 北 京 公 使 ブラント(Max von Brandt 在 職 期 間 1875~ 1893 年 )は 東 アジア 向 け 航 路 に 国 庫 助 成 を 行 うように 本 国 政 府 にたびたび 要 求 し それに 応 じた 帝 国 宰 相 ビスマルク(Otto von Bismarck)は 1884 年 に 帝 国 議 会 で 東 アジア 太 平 洋 向 けの 郵 便 汽 船 に 国 庫 助 成 を 行 う 法 案 を 提 出 し 翌 年 にその 修 正 案 を 通 過 させている 49 1880 年 代 に 入 ると ドイツ 重 工 業 界 も 中 国 市 場 に 大 きな 期 待 を 寄 せるよ 47 Ebenda, S. 51-53; Ratenhof, Die Chinapolitik des Deutschen Reiches, S. 33-38; Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 75-76. 48 Stoecker, Deutschland und China, S. 69-84. 49 Schmidt, Die deutsche Eisenbahnpolitik, S. 46-47; Ratenhof, Die Chinapolitik, S. 110; Mühlhahn, Herrschaft und Widerstand, S. 82-83. 27