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アルスシムラ 2019.11.16 形は生きている ゲーテ形態学とは何か 1 前回 若きゲーテの出発点が恋愛体験と自然体験にあるという話をした 恋愛によって彼 は自分の内なる生命に目覚めた 生きること より深く生き ゆり豊かに生きることが人生 で一番大切なことである お金や名声や権力は ないよりはあったほうがいいかもしれない が それらはすべて副次的なものである お金や名声や権力のために 生を蔑ろにしてはな らない 内なる生命に目覚めた人はかならずそう思うであろう 自分の内なる生命に目覚めた人は 自然の内なる生命をも感じることができる 自然は生 きている 山歩きで見つけた白や黄色や赤の小さな花々 これらの花は生きている 山のな かにはオコジョがいる 雷鳥もいる 空には鳥が舞っている それらもまた生きている い や 花や動物だけではない 山もまた生きている 谷間もまた生きている 残雪もまた生き ている 大きな岩もまた生きている 自然の大いなる生命が自分を包んでいる そして自分 の内なる生命と自然の大いなる生命とはどこかでしっかりと繋がっている そんな自分の 眼に 自然はますます生き生きとして見え ますます美しく輝いて見える ああ なんとい う幸福だろうか これがゲーテの自然体験である ゲーテは自然をこよなく愛した 18 世紀当時 登山は まだスポーツとしては確立されていなかったが ゲーテは山歩きを好んだ 白雪に覆われた 冬のブロッケン山に登るという 当時としては非常識なこともしている ゲーテが暮らしていたヴァイマルにはテューリンゲンの森があり そこにあるキッケル ハーン(Kickelhahn)という山にゲーテは 28 回も登っている 1780 年 9 月 6 日 キッケル ハーン山頂に登ったゲーテは そこで 旅人の夜の歌 という シューベルトの作曲でも有 名な詩を書いた Ueber allen Gipfeln Ist Ruh', In allen Wipfeln Spürest Du Kaum einen Hauch; Die Vögelein schweigen im Walde. Warte nur! Balde Ruhest du auch. 1

山々は安らぎに包まれ 梢を揺する風も 小鳥の声もない 待つことだ 待てば そのうち安らぎを得るだろう 拙訳 ヴァイマルへ移って 5 年後 ゲーテは深い心の悩みを抱えていた そんなとき 彼はキ ッケルハーンの山に登って 心の安らぎを得た 詩では そのうち安らぎを得るだろう と 記されているが そう記したとき 安らぎはすでに半ば訪れていたにちがいない ゲーテはこの詩を書いた紙をキッケルハーンの山小屋の壁に貼った 1831 年 キッケル ハーンへの最後の登頂をしたとき 彼はこの紙片がまだ残っているのを見つけ 思わず泣い た 1780 年当時 若きゲーテにはよほど辛いことがあったにちがいない キッケルハーン山頂からは遠くハルツ地方と そこに聳えるブロッケン山を眺めること ができる ある日 ゲーテはこの景色をスケッチに描いている 山のなかでゲーテはスケッチをし 草花を観察した 草花を観察していると その名前を 知りたくなる そこでゲーテはリンネの 植物哲学 Philosophia botanica, 1755 を片手 に 数多の植物を観察した 後にゲーテは 自分に最も大きな影響を与えたのは 自然研究 者リンネ 哲学者スピノザ 作家シェイクスピアの三人であると書いている ツェルター宛 手紙 1816 年 11 月 7 日 リンネによってゲーテは植物学の世界へと導かれた ゲーテ時代の生物学は リンネの影響下にあった リンネの植物学とは 新しい草花を見 つけ それを分類するものだった 押し花にし標本にするのがリンネの仕事であり 当時の 生物学だった だが そのうちゲーテはリンネに何か飽き足らないものを感じるようになっ た たしかにリンネの方法は生物を分類し命名するのには便利である だが 何かが足りな い そうゲーテは感じた もともとゲーテの植物観察において大切なのは植物の生命を見る ことだった その生命がリンネの植物学に欠けている リンネの仕事は植物を押し花にして 標本にすることだが 押し花には当然のことながら生命はない 形と色しかない 押し花に は動きがない それは本物の自然ではない そうゲーテは思った そのあたりの事情を ゲ ーテは小論文 著者はその植物研究の歴史を伝える のなかで率直に語っている こうして私は私の同時代人たちと同じようにリンネの洞察力 誰をも惹きつける彼 の影響力を認めずにはいられなかった 私は完全に信頼しきって 彼と彼の学説に没頭 した それにもかかわらず リンネによって定められた道を行ったのでは 迷いはしな いまでも 歩みを妨げられるようなことが往々にしてあるのを 次第に感じずにはいら れなくなった さて 当時の私の状態を意識的に明確にしなければならないのなら 私が生来の詩人 であるということを考えていただきたいと思う 詩人というものは そのつどそのつど 2

対象に接しながら自分の言葉や自分の表現をつくりあげ それによって対象を多少な りとも満足させようとするものだが リンネのやり方にしたがえば このような詩人で さえも既成の述語を憶えこまされ 一定数の名詞や形容詞をあらかじめ貯えておいて 何らかの形態が現れたら その貯えのなかから適切な言葉を選び出し その形態の特徴 を表示するためにそれを利用し 配列することができなければならない リンネのこう いうやり方は 私にはいつでも一種のモザイクのように思われた モザイクというもの は 既成の石片を次々に並べ 無数の石片から最後には絵の外観を作り出すものであ る こういうわけでリンネが要求していることは 私にはいささか厭わしいものだっ た (LA I-10, 330f.) 自然は生きている その自然を写しとる詩もまた生きている だが モザイクは生きてい ない 押し花は生きていない そしてリンネ植物学中の草花もまた生きていない だが 自 分は生きた自然 みずみずしい自然を知っている だから自分は生きた植物学を目指すの だ そうゲーテは言うのである これは アルス シムラで学んでいるみなさまにとってとても重要なことだと思う 自分 たちが織る着物はモザイクのようであってはならない 死んでいてはならない 生命が通っ ていなければならない 生きていなければならないというのである では 生きた植物学とはどういうものだろうか 生きた植物を生きたまま捉えるとはどう いうことだろうか ゲーテは それは植物の動きを捉えることだと思った 生きているもの はかならず動き生成している その生成の動きを捉えなければならないと思った 後にゲーテは自らが主宰する雑誌 形態学に寄せて の序文に次のように記している ドイツ人は現実に存在するものの複雑なあり方に対して形態 Gestalt という言葉 を用いている 生きて動いているものは こう表現されることによって抽象化される 言いかえれば 相互に依存しながら一つの全体を形成しているものも 固定され 他と のつながりを失い 一定の性格しか持たなくなってしまうのである しかしありとあらゆる形態 特に有機体の形態を観察してみると 変化しないもの 静止したもの 他とのつながりを持たないものはどこにも見いだせず すべてはたえま なく動いて已むことを知らないことがわかる だからわれわれのドイツ語が 生み出さ れたものや生み出されつつあるものに対して形成(Bildung)という言葉を普通用いてい るのは 十分に根拠のあることなのである それだけに形態学の序文を書こうとすれば 形態について語ることは許されない や むなくこの言葉を使ったとしても それは理念や概念を つまり経験のなかで束の間固 定されたものを指しているにすぎない (LA I-9, 7) ゲーテは雑誌 形態学に寄せて の創刊号の裏扉に 有機的自然の形成と変形 と記し 3

た これこそはゲーテにとっての形態学の定義にほかならない では 有機的自然の形成と変形 とは何だろうか 有機的自然 とは植物と動物のこと である 形成 とは動植物の生長ないし発生のこと そして 変形 とはメタモルフォー ゼのことである 植物や動物は生きている 生きている以上 その形も色も生きている 形 や色が生きているとは それらが変化することだ ところがリンネの博物学では形や色の変 化 動きが捨象されてしまっている だから自分は新しい学を創始する それは動植物の動 きや生命を捉えた学 メタモルフォーゼを核にした学 生きた形を捉える学である そして そのような植物学をゲーテは 形態学 と名づけた 2 ここではゲーテ形態学の学問的な内容にはあまり踏み込まず ゲーテがどのように自然 を見ていたのかを追跡してみたいと思う 先ほど引いた 著者はその植物研究の歴史を伝え る のなかでも ゲーテは 自分が形態学という学問を創始したのは 自分が 生来の詩人 であったからだ と述べていた そして彼は 植物学 動物学 色彩論を学問的に追究する のみならず その学問的営為を詩にしている 学問と詩が両立している すでにここにゲー テ的学問の大きな特徴がある ファウスト 第一部初めの 夜 の場に登場するファウストは年老いた大教授である 彼は 自分はありとあらゆる学問を究めたが それは生から乖離した作業だった 学問を究 めた代わりに 自分は歓びというものをすべて奪われてしまった (V.370)と嘆き 自分の 書斎を 牢獄 (V.398) いまいましい黴臭い壁の穴 (V.399)と呼ぶ このような世界は息 苦しく 思いのまま生命を発揮することができない と言う 彼は自問自答する お前は思っているだろう どうして自分の心は 胸のなかで不安な息苦しさを感じているのか どうして言いようのない苦しみが 生命の動きのすべてを阻んでいるのか 神によって人間は生き生きとした 自然のなかに生み出されたというのに 自分は煤と黴にまみれ 動物や人の骨格に囲まれて生活しているのではないか と (V.410-417) 手塚治虫 ネオファウスト 見せる ここで提起されているのは 学問と生命とは二律背反ではないかという問題提起である 4

学者はうず高く積まれた本を読み 夜中まで実験をし 化学薬品の匂いのする部屋 動物や 人間の骨格の並べられた部屋で生活する そのような人は生気や若々しさを欠いている と いう指摘である ところがそう書いたゲーテ自身が 30 代半ばになると動物学 植物学を研究し始め 40 歳 をすぎると 光学や色彩論の研究も手がけるようになった かつて嫌っていた学者になっ た 35 歳頃 彼は毎日のように顕微鏡を覗き 滴虫類という微小生物の観察をしているが そういう彼の姿を見て 年長の友人ヘルダーは そんなちっぽけなものばかり見ていると お前自身の精神がちっぽけなものになってしまうぞ と警告している ヘルダーはそんなゲ ーテのなかに ファウスト 第一部の 夜 の場における老教授ファウストの姿を見たの であろう だが そうではなかった 自然の死んだ姿ばかり見ていたのでは 彼の精神も干乾びてし まったかもしれない だが ゲーテが見ていた自然は生きた自然だった 生きた自然を見る ことによって 彼は自分自身の生命が生き生きと活性化していくのを覚えた それは 不安 な息苦しさ に満ちた作業ではなく 歓びに満ちた作業だった そうした自然研究の 歓び をゲーテは パラバーゼ はじめに という詩のなかに書き記している パラバーゼ はじめに ああ それはげに歓びにみちていた いくとせも前 ぼくは夢中になっていた 創造しつつ生きてゆく自然のさまを 探り 知ろうとひたすらに試みながら さまざまな姿かたちをとるものも 永遠にひとつのもの 大は小さく 小は大きく 万物は得手勝手に身を変えて 絶え間なく変化しつつも 己を固持し 近づいては遠ざかり 遠ざかっては近づいて 自らを創りあげ また創りかえてゆく 自然よ 眼を瞠るためにこそぼくはいる 自然と象徴 14 頁 自然観察や自然研究は歓びに満ちている 自然界では 大は小さく 小は大きく 万物は 得手勝手に身を変え る 植物の葉もそうだ 植物の大きく開いた葉が小さく縮むと 蕚に なる 蕚が大きく拡張すると 花弁になる 花弁がまた収縮すると 雄蕊雌蕊になる それ が拡張すると 種子になる なんという自然のリズムだろうか 植物の葉がこうして収縮し 拡張していくさまを見ていると 自分の人生も収縮と拡張の反復であることが分かる 1780 年 キッケルハーンの山頂に登ったとき自分の心は沈み 鬱の極にあったが その後 自分 5

の心はふたたび開かれ幸福になった そうだ 植物が収縮と拡張を繰り返すように 人もま たその人生のなかで歓びと悲しみ 幸福と苦悩を繰り返す反復するのだ 植物の生がそうで あるように 人生もまたリズムなのだ 植物を観察していると そのリズムを会得できそう な気がする ああ なんとすばらしいことだろうか そう彼はうたっているのである 植物の大きく開いた葉が縮小して蕚に 蕚が拡張して花弁に 花弁が収縮して雄蕊雌蕊 に 雄蕊雌蕊が拡張して種子になる これが植物のメタモルフォーゼである 学問的に見れ ば そこには 3 つの教えが含まれている 第一に 植物の基本的器官は葉である 今日の生 物学では葉と葉柄 第二に 葉は縮小と拡張を繰り返しながらメタモルフォーゼする 第 三にそうしてメタモルフォーゼしながら植物という全体を形成する この3つの教えを ゲーテは 植物のメタモルフォーゼ という詩にしている 植物のメタモルフォーゼ この庭に咲きあふれる花々の群が いとしい人よ きみの心をかきみだし 聞き慣れぬ多くの花の名称が つぎからつぎにきみの耳を戸惑わす 似かよいながら 形はひとつも同じものがない 5 そこで花々は咲きみだれながら 暗示している 秘めた法則 聖なる謎を きみにいま すばらしい言葉の鍵を献げられたら さあ 眼をこらして見てごらん 植物が 花や果実へつぎからつぎに育ってゆくのを 10 ひめやかに草木を実らす大地の母が い のち 種子に生命を吹き込むと 草木は種子から こうべ 頭 をもたげ 聖くあまねき光の刺激を受けて も 萌えそめた子葉がじつに巧みにつくられる 15 種子のなかには素朴な力が眠っていた 生れ始めた原型も 外皮をまとい 身を固く閉じ 葉も根も芽も 形はまだ整わず 色もなかった 固い殻に包まれ 安らかな生命を保っていた種は 水分をしとど含むと 懸命に伸びはじめ 20 四囲の闇からたちどころに身を起す 生れたばかりの形態は単純で 植物も赤子のごとし だがやがて 形成の意欲にうながされ 身を高め 装いながら 6

節から節へ伸びてゆく いつまでも初めの姿を 保ちながら いつも身を変え伸びてゆく 25 ごらん 葉は次々とさまざまな姿形に生みなされ 造られて 先程の器官では畳みこまれていたものが 身をひろげ 切込みを入れ 先端を尖らせる こうして葉は確たる完成をなしとげた 幾種もの葉にそれを見てきみは眼を瞠っているね 30 厚くふくらむ葉面の 多くの脈 刻まれた縁 形成の意欲は 自由気ままで溢れるようだ しかし自然は形成の手綱を固くひきしめて おだやかに もっと完全な形へと導いてゆく 樹液が減らされ 管がまたせばめられると 35 形にも こまやかな効力があらわれる ひ 縁をひろげる形成の意欲はひそかに退いて 葉柄の脈がひとしお完成されてゆき しなやかな茎が葉もつけず 速やかに伸びてゆく すると不思議な眺めが眼を惹きつける 40 似かよった小さな葉が幾枚も 数知れず 葉の周りに並び立ち 円い土台をつくりあげると うてな 蕚 はやがて体を開き ついにあらわす 花冠という色あざやかな至高の姿を あるいは横に葉を並べ あるいは縦に積み重ね 45 自然は完成された長身を誇らしげに見せつける さあ きみはまたもや眼を瞠る 茎の先に咲く花が 葉の作る しなやかな足場の上で揺れているとき でもこの花は つぎの新たな創造を告げている 色あざやかな花びらが 神のその手に導かれ 50 たちどころに収縮すると 愛しあう 雌雄となって 契りの時を待ちうける 仲むつまじい連れ合いとなるために 多くの雄蕊が聖い祭壇をとり囲む 婚礼の神があらわれ かぐわしい香り馥郁と漂い 甘美な匂いがあたりすべてに生きた力を注ぎこむ すると たちまち無数の萌芽が次々とふくらんで 身ごもった果実のなかに しとやかに包まれる そしてここに自然は久遠の力の環を閉じる 7 55

60 だがすぐに新しい環が前の環をひきついで 果てしない連鎖があらゆる時をしかと貫き 全体もまた個とともに生きつづけてゆく さあ いとしい人よ 色とりどりの花々を見ても もうきみの心はかきみだされることがない と わ 65 草木はどれも永遠の法則を告げている どの花も一層大きな声できみと言葉を交わしあう こうしてきみは 解きほぐした聖なる文字を 至るところに読みとれよう 字体が違っていても 毛虫が這い 蝶がせわしく舞っていようとも 70 人間が自分の姿をみずから変えてゆこうとも ああ そうだ 出会い芽生えたその日から はぐく やさしさがおもむろにぼくたちのうちに 育 まれ 友情が胸のうちから生き生きと溢れ出て ア モ ル ついに愛の神が花と実を授けてくれた 75 さあ 見てごらん ぼくたちの胸のなかにも 自然はそっと多様な形を繰り広げてくれている きみは今日という日を歓びたまえ 聖なる愛が 二人の心を結びつけ 至高の実りを恵んでくれる 想いの等しいぼくたちが 調和にみちた直観のなか め おと 80 夫婦となって より高い世界を開かんために きみ と呼ばれているのはゲーテの妻クリスティアーネである ゲーテは彼女と一緒に ヴァイマルの自宅の庭のなかを歩いている 庭には多くの草花が植えられている だが 彼 女はそれら草花の名を知らない ましてやバラとワレモコウが親戚同士であることを知ら ない そのため 聞き慣れぬ多くの花の名称が つぎからつぎにきみの耳を戸惑わす (V.34)ことになる 植物界はまことに多様である だが これら豊かな多様性のなかにも統一性 がある それが 秘めた法則 と わ と わ 聖なる鍵 (V.7) 永遠の法則 である 秘めた法則 永遠 の法則 とはメタモルフォーゼのことである 葉は 形成の意欲にうながされ 身を高め 装いながら いつも身を変え伸びてゆく 葉は次々とさまざまな姿形に生みなされ 造 られて 先程の器官では畳みこまれていたものが 身をひろげ 切込みを入れ 先端を尖 らせる (V.23-28) つまり葉は子葉に始まり 茎葉となり それがさらに円環をなし 蕚と なる 蕚が体を開くと 花冠という色あざやかな至高の姿 (V.44)が現出する そして花冠 をつくる花弁が 収縮 (V.51)すると 雌雄 (V.52) すなわち雄蕊と雌蕊が現れる そし て 雌雄 が 契りの時 (V.52)を迎え 婚礼の神があらわれ (V.55)ると 植物は子を身 ごもり 果実 を生み出す(V.58) これが植物の一生である この植物はやがて枯れてゆ 8

く だが この植物の生み出した子は 新しい環 となり 前の環をひきついで ゆく(V.60) 果てしない連鎖があらゆる時をしかと貫き 全体もまた個とともに生きつづけてゆく (V.61-62) 果てしない連鎖 とは親から子へ 子から孫へと受け継がれる連鎖のことであ る 草花はいずれ枯れる だが たとえばひとつのオールドローズが枯れても その子は育 ち オールドローズという種は生き残る 全体もまた個とともに生きつづけてゆく とは そういう意味で 全体 とはオールドローズという種全体 あるいはバラという科全体 個 とは目前にある一輪のオールドローズのことである メタモルフォーゼするのは葉という基本器官である こうしてきみは 解きほぐした聖 なる文字を 至るところに読みとれよう 字体が違っていても (V.67-68)とある 聖なる 文字 とはさまざまにメタモルフォーゼする葉のことである 自然は多種多様だが それを支えている原理は単純である それはメタモルフォーゼであ り 葉という基本器官であり 収縮と拡張であり(V.51) 雌雄(V.52) あるいは男と女であ る 植物の場合 雄蕊と雌蕊が 契り を結び 果実 という 子 をつくる クリステ ィアーネよ それは人間でも同じだ ぼくたちの関係は最初は 友情 だったが(V.73) そ ア モ ル れはやがて 愛 へと変わり ついに愛の神が花と実を授けてくれた (V.74) そうだった だろう という ゲーテは庭のなか 自然のなかを歩きながらも 植物と自分とが同じひと つの原理で結びつけられていると感じていたのである この詩のなかには 形成の意欲 という言葉が3回出てくる V.21-25 には 生れたばかりの形態は単純で 植物も赤子のごとし だがやがて 形成の意欲にうながされ 身を高め 装いながら 節から節へ伸びてゆく いつまでも初めの姿を 保ちながら いつも身を変え伸びてゆく とある また V.31-39 は 厚くふくらむ葉面の 多くの脈 刻まれた縁 形成の意欲は 自由気ままで溢れるようだ しかし自然は形成の手綱を固くひきしめて おだやかに もっと完全な形へと導いてゆく 樹液が減らされ 管がまたせばめられると 形にも こまやかな効力があらわれる ひ 縁をひろげる形成の意欲はひそかに退いて 葉柄の脈がひとしお完成されてゆき しなやかな茎が葉もつけず 速やかに伸びてゆく 9 35

という 形成意欲 というのはブルーメンバッハという当時の生物学者が 形成意欲につ いて 1781 年 という本のなかで提起した概念で その第 3 版のなかでブルーメンバッ ハはこれを以下のように定義している 前もって形づくられた(präformiert)萌芽が前もって存在しているのではない 有機 体をつくる素材は最初は形をなさない粗野なものにすぎないが しかしこれが自己規 定のある段階とそれにふさわしい場を得ると 自分に固有の形態をまず身につけ さら には一生涯それを保持し そしてかりにそれが損傷を受けたときには できるだけそれ を復元しようとするある特別な意欲 その後生きているかぎり活動しつづけるある特 別な意欲が脈動しはじめるのだ この意欲はしたがって生の諸力のひとつをなしているが しかしこれは有機体に備 わる他のさまざまな生の力 伸縮力 刺激に対する反応力 感受力等 とは明らかに異 なっている 他の諸力は有機体一般に見られるごく一般的な物質力にすぎないが この 意欲は ありとあらゆる発生 扶養 再生の第一にして最も重要な力をなしているよう に思われる そこでわれわれはこの意欲を 他の生の諸力と区別して これに形成意欲 (nisus formativus)という名称を与えることにしよう 形成意欲 という名称は別として そのようなものが動植物に存在するなんて 別に大 騒ぎすることではない 当たり前だ と言う人は多いだろう だが 西欧ではそうではない それまでヨーロッパで支配的だった教えは 精神は人間にのみある 動物にはない 動物は 機械のようなものだ というデカルトの動物機械論だったからである 動物機械論は 動物 に伸縮力 刺激に対する反応力 感受力があることは認めるが 形成意欲があるとは決して 言わない 動物機械論はほぼ唯物論に近い それに対して形成意欲説は あらゆる生物のなかに前進 しよう 向上しようとする生命を認める そしてこれはほぼ 神 に近い とゲーテは言う そしてじつはこの途轍もない活動が擬人化されて 創造者としての神 扶養者としての神 としてわれわれの前に現われるのであり われわれはこの神を崇め 讃美するよう ありと あらゆる仕方で求められている (LA I-9. 100)とゲーテは言う つまり 形成意欲 はゲー テのスピノザ主義 ありとあらゆるもののなかに神を認める汎神論と結びつくものだった のである さらに彼は妻に向って言う クリスティアーネよ その神は愛するぼくたちのなかにもい る と それが V.75f.の さあ 見てごらん ぼくたちの胸のなかにも 自然はそっと多 様な形を繰り広げてくれている の意味である ゲーテは 庭の草花を見ながら 草花のな かに神を見 そして自分自身のなかに神を見ている 汎神論者としてのゲーテの面目がここ に躍如としている 10

3 妻クリスティアーネは この庭に咲きあふれる花々の群 に 心をかきみだ され 聞 き慣れぬ多くの花の名称 に 耳 が 戸惑わ (V.1-4)わされていたかもしれない だが それはじつはかつてのゲーテ自身だった ゲーテは 1786 年 イタリアに足を踏み入れた 陽光振り注ぐ南国の地である そこで彼 は それまで見たこともないような多種多様な植物のすがたに眼を瞠った 名前を知らない 数多の植物の大海のなかで 彼は言葉を失った 植物の世界は何と豊饒で 多様で 差異に 満ちていることだろうか この世界に圧倒された彼は しばらくのあいだそれを捉える言葉 を持てなかった しかし彼はいつまでも 心をかきみだ されてはいなかった 彼はやがて 素晴らしい言 葉の鍵 (V.8)を見いだした それは 原植物 (Urpflanze)ないし 原型 (Typus)と メタ モルフォーゼ という言葉である これら多種多様な植物は それが植物であるという点で はやはり同一なのではあるまいか ドイツでは見たこともない数多の不可思議な植物がこ こに咲きあふれている しかし不可思議とはいえ 自分の眼はそれらが植物であることを一 度たりとも疑ったことがあるであろうか 似かよいながら 形はひとつも同じものがない (V.5) これらの植物は 原植物 植物原型 という同一なるものの多様なメタモルフォーゼ なのではなかろうか ここパドヴァの植物園で真新しい多種多様な植物に取り囲まれていると すべての植 物の形態はひょっとするとただひとつの植物から発展してきたのかもしれないという 例の思想が いっそう牢固としたものになってくる 属や種の真の規定は これによっ イタリア紀行 1786 年 9 月 27 日 てのみ可能になるであろう 北ヨーロッパの植物も 南ヨーロッパの植物も 単子葉植物も双子葉植物も 植物である ことに変わりはない以上 それらはすべて原植物という ただひとつの植物 のうちに包摂 されうる 原植物を念頭に置いていれば いかに多くの花々が庭に咲きあふれていようと も 聞き慣れぬ多くの花の名称があろうとも もはや心をかきみだされることはあるまい 原植物 を通してゲーテは世界を単一なるものとして理解した イタリアにいるとよく分 かる とどのつまり生物の世界には原植物と原動物しかない 自然はじつは同一なるものの 多様化である 一のない多がないように 多のない一もまたありえないのだ と ゲーテは一方において自然の単純性 同一性 不変性を示す原型 原植物と原動物 を 他方において自然の差異 多様性 変幻自在性を示すメタモルフォーゼを見いだした そし てこれら二つの 鍵 を手にすることによって 彼にはイタリアという南国の地において 植物の産出と組織の秘密 を掌を指すようにはっきりと掴むことができた その喜びは 11

詩 植物のメタモルフォーゼ の後段で いとしい人 に託されている さあ いとしい人よ 色とりどりの花々を見ても もうきみの心はかきみだされることがない と わ 草木はどれも永遠の法則を告げている どの花も一層大きな声できみと言葉を交わしあう こうしてきみは 解きほぐした聖なる文字を 至るところに読みとれよう 字体が違っていても 毛虫が這い 蝶がせわしく舞っていようとも 人間が自分の姿をみずから変えてゆこうとも (V.63-70) イタリア旅行がゲーテの原型研究の第一段階であったとすれば 第二段階はシラーとの 出会いに始まる 1794 年 7 月のある日 イェナの自然科学研究会からの帰り たまたまシ ラーと一緒になったゲーテは 彼と初めて親しく言葉を交わし 話に誘われて彼の家に入 り シラーの眼の前で原植物をデッサンしてみせた しかしゲーテの話を聞き終えたシラー は首を振りながら それは経験ではない 理念です と言った はっとするとともに い ささか腹を立てたゲーテは それでも気を取り直して こう答えた 私が自分でも知らず に理念を持っていて しかもそれを眼で見ているということは とてもうれしいことです と シラーと出会うまで ゲーテは 原植物は経験的認識であると単純に考え それをイタリ アで見つけることができるとさえ考えていた しかしシラーとの出会いによって 彼の素朴 な信念は一時的にもせよぐらついた 原植物は経験界に実在するものではない と彼は教え られた それは苦々しいことでもあったろう だが 彼は原植物を哲学的で抽象的な 理念 と同一視するわけにはいかなかった 原植物は彼にとってはやはり具体的なものだったの である そこで彼は 私が自分でも知らずに理念を持っていて しかもそれを眼で見てい るということは とてもうれしいことです と切り返した そう切り返すことによって彼は 自分でも気づかずに 眼で直観できる理念 超越的な具体というものもありうるという哲学 的マニフェストを行っていた そしてそれをゲーテは後に 超感性的な原植物の感覚的な 形 と呼んだ 超感性的な原植物の感覚的な形 なんて ずいぶん難しい言葉だと思われるだろうが これはカントの 判断力批判 を踏まえて言われた表現である カント論に入る前に まず 動植物の違いについて考えてみよう ぼくたちは 動物と植物を色々と定義する 動物は動 く生き物 植物は動かない生き物のことだ と言うのが一番簡単な定義である 植物 は 光合成を行うが 動物は光合成を行わない と定義する人もいるだろう 植物は細胞壁を持 つが 動物は細胞壁を持たない という別の定義もある これらの定義をカントは分析的普遍と呼ぶ 動植物の特徴を分析的に捉えて言葉にして 12

いるからだ ところがぼくたちは 目の前の生物を見て それが動物であるか 植物であ るか 瞬時に分かる 山を登っていて 突然イノシシが出てくれば それが動物であると すぐに分かるし ニッコウキスゲの群生地に出れば それが植物であると誰でも分かる その際に 学校で習った上記の定義を別に思い浮かべることはない では どうして動物 だとか植物だとか すぐに分かるのだろう 人間にはもしかしたらそういう能力があるか もしれないと考えたカントは その能力を直観的悟性 あるいは原型的知性と名づけた 直観的悟性は総合的普遍から特殊へ 全体から部分に進むことができる 簡単に言えば タヌキを見れば それが動物だと分かる バラを見れば それが植物だと分かる 動植物 より対象をもっと狭めてもいい シェパードを見ても柴犬を見ても ぼくたちはそれがイ ヌだと分かる ノイバラを見てもクイーン エリザベスを見ても それがバラだと分か る それが直観的悟性である しかし簡単に分からないものもある ゲーテが一生懸命顕 微鏡で観察した滴虫類 ゾウリムシなど は動物だか植物だか すぐには分からない イ ソギンチャクもよく分からない 個々の生物を見て これが動物だとか植物だとかと言う ためには 動植物の形の本質を持っていなければならない だが そんなものを人間は持 っていない とカントは思った 神様なら持っているかもしれないが 人間には動植物の 本質的な形は直観できない 残念だが 人間には分析的総合しか与えられていない 判 断力批判 77 節のなかでカントはそう主張している ところがそれに続く 80 節で彼は カエルやヘビやイヌといった動物の数多の 類 は いずれも 動物 という共通の図式 において一致していることに注目する カエルやヘビやイヌがカエルやヘビやイヌであり つづけるのは それらがやはり動物という 普遍的母胎 に属しているからではないか そればかりではない もしかすると 魚が変化してカエルのような両生類になり 両生類 がさらに変化してイヌのような陸生動物になったのかもしれないと カントはその後の進 化論を先取りしたような見解も提起している だが このような仮説はやはり 理性の大 胆な冒険 であろう そういう冒険にわれわれは気軽に手を出してはいけない と書いて いる 以下の引用は 判断力批判 80 節の一部である 動物にはじつに多くの属があるが それらはある共通の図式(Schema)にお いて一致しているし この図式は 動物の骨格においてのみならず その他の部分の配 列においてもその根柢をなしているように思われる しかもこの基本的構造は驚くほ ど単純なものなのに その或る部分を短くしたり長くしたりすることによって また或 る部分を畳みこんだり開いたりすることによって じつに多様な種を産み出すことが できる こう考えてみると 自然の機械論的原理 これがなければ 自然科学という ものはありえない を採用することによって 何ごとかが達成させられるのではな かろうかという かすかな希望の光が心中に兆してくるであろう 生物のさまざまな形 は それらが有している幾多の差異にもかかわらず 或る共通の原形象(Urbild)にもと づいて産出されているように見えるが 生物の諸々の形のあいだのこのような類似 13

(Analogie)は これらの形が或る共通の根源的な母胎から産み出されたために 現実に 親縁関係(Venvandtschaft)を有しているのではあるまいかという推測を強める 或る動 物の類は別の類へと段階的に接近してゆく つまり 自然 目的の原理が最も確証され ているように見える人問から始まってポリープにいたるまで またポリープに始まっ なま て蘚苔類や地衣類に そして最後にはわれわれが知っている自然の最下段である生の なま 物質にいたるまで 段階的な接近があると推測されるのだ 逆に言えば この生の物 質とその諸力から 結晶化作用に見られる法則にも似た 機械論的法則にしたがって 自然の技巧のすべてが繰り拡げられてきているのではないかと思わずにはいられない 有機体における自然の技巧はわれわれにはまことに理解しがたいものなので そのた めわれわれは 機械論とは違った ある別の原則を考えざるをえないのである みなさんはすでにお分かりだろう ゲーテは カントが人間にはないと考えた直観的悟 性が人間のなかにもあると考えた ゲーテは日常生活での常識的な立場に立ち われわれ は普通に動植物の本質的な形を見ている と確信していた しかもカントが 神は人間の 外にいると思っていたのに対し スピノザ的な汎神論者であったゲーテは 人間のなかに も神はいる われわれも神の眼を持っている われわれも動植物の本質的な形を直観でき る と考えていた そこでゲーテは次のように言う 言うまでもなく著者はここで神的な悟性を指していると思われるが しかしわれわれ は精神的な領域において 神や道徳や霊魂不滅に対する信仰を通して高度の次元へ高め られ 第一存在者へと近づいてゆかなければならない以上 おそらく知的な領域におい ても この悟性を積極的に活用し たえまなく創造する自然を直観することによって 自然の所産に精神的に関与する資格を獲得しなければならない 私とて 初めは無意識 に やがては内的な意欲に燃えて あの原型という原形象を倦むことなく追究し さら に幸いなことに こうして自然に即した記述を成し遂げることができるようになったの だ さてそうなってみると あのケーニヒスベルクの老翁 カント の言葉を借りて言 えば 理性の冒険 に果敢に挑むことを妨げるものは何ものももはや残っていなかった (LA I-9, 95f.) こう書いたとき ゲーテはシラーとかつてしたやりとりを思い出していたにちがいない シラーは ゲーテがスケッチした原植物を見て それは経験ではない 理念です と言っ た シラーはカントと同じように 人間に与えられているのは分析的普遍 すなわち概念だ けだ と思っていたからである 他方 ゲーテはそれに対して切り返し 私が自分でも知 らずに理念を持っていて しかもそれを眼で見ているということは とてもうれしいことで す と思わず口にした あのときは思わずそう切り返したが あの切り返しの言葉にはとて も大事な真理が含まれていた ゲーテは改めてそう思ったであろう ゲーテは原植物のことをスピノザの エチカ にならって 植物の 形相的本質 essentiae 14

formalis ヤコービ宛書簡 1786 年 5 月 5 日 とも 植物の 本質的な形 シュタイン夫 人宛書簡 1786 年 7 月 9 日 とも呼んでいる アルス シムラのみなさま方にとっておそ らく重要なことは ゲーテが多種多様な植物を見ながら そこに植物の形の本質を見ていた ということである 植物一般でなく 桜でもバラでもいい 子犬でもいい 造形芸術に携わ る人は 対象をありのまま描こうとするのではなく その本質的な形を捉えようとする あ りのままリアルに描いていても それを芸術と呼ぶことはできない 本質的な形が浮かび上 がっていて初めて その作品は芸術になる それを知っていただくことが大事である 私は昔 福井県の香住町にある大乗寺という田舎の小さな寺に円山応挙の襖絵をわざわ ざ見にいったことがある 京都から一泊二日の旅である 松に孔雀の図 の襖絵は 黒い 墨で描かれていながら 松の幹は茶色に 葉は緑に 孔雀は青に見える これは 次回お話 しするゲーテ色彩論との関係でもまことに興味深いものだった 大乗寺のその襖絵 松に孔雀の図 がいま京都国立近代美術館で展示されており あの名 画にもう一度会いたいと思って つい先日 見にいった そこで初めて見た作品のひとつに 竹内栖鳳の 爐邊 昭和 10 年 があった 二匹のかわいらしい子犬の形の本質が浮かび 上っていて 感心した 本質的な形というと 動かないもの 固定したものと思われがちである ところがこの絵 で二匹の子犬は私の帰宅を喜び じゃれて私に飛びかかってきそうだ この絵の子犬は生き ている ここに描かれているのは 生きている本質的な形である もう一枚も竹内栖鳳である 雨霽(アマバレ) 明治 40 年 という作品で これも展示され ていた 雨が上がった後 木に鳥が多数集まっている 鳥の動き 樹々の動き 葉の動き 風の動きが感じられる 絵には動きがなければならない この絵を見ていると 山中を一人 で歩いているような心持になる 樹々が動き この山が生きている と感じられる そうい う山歩きの幸福な一時を浮かび上がらせた作品である 同じように 植物の本質的な形である原植物も生きていなければならない 動きがなけれ ばならない 残念ながら ゲーテがシラーの目の前でデッサンした原植物図は残っていな い だがゲーテ以後 何人かの人たちが原植物図を描いている そのなかで最も原植物図に 近いと思われるものを最後に紹介しよう パワポ 繰り返すが 原植物は植物の本質的な形である 人はみな 物事の本質を見つけると 心 が落ち着き 高められる 植物界 動物界でもそうだが 日常生活でもそうである 新しく クラス担任になった小学校の先生は クラスの生徒たちがあまりに多種多様なので 最初の うちは戸惑ってしまう だがそのうち 一人ひとりの生徒について この子はこういう子な んだ この子の本質はこうなんだと知ると 自分のクラスが次第に掴めてくる 父親にずっ と反抗してきた息子も ある日 おやじってこういう人なんだ おやじの本質はこうなんだ と知ると 急に父親を許せるようになる ぼくたちは限りある人生を送っているが そのな かで 自然の本質 人の本質 物事の本質をより深く掴んだ人は より豊かな人生を送った と言うことができる 旅行でもそうだ ツアー旅行は効率よく名所の各所をまわってくれる 15

が あまりにも効率がよすぎて 旅先の町の本質 町のこころが見えない インターネット やスマホもそうで それをごちゃごちゃと触っているばかりでは 物事の本質は見えてこな い 自然の美しさは分からない みなさま方にはぜひ自然の本質を見つめ それを一枚の着物にし そうやって豊かな人生 を送っていただきたい こんなに薄っぺらになってしまった時代 誘惑の多い時代のなかで は そう意識的に心がけて生きることが大切だ そう思っている 16