Title マハーマーユーリーの 図 像 学 的 研 究 Author(s) 相 田, 愛 子 Citation 博 士 論 文 要 旨 Abstract Issue Date 2013-09-26 Type Thesis or Dissertation Text version none URL http://hdl.handle.net/2297/36831 Right 学 位 授 与 機 関 金 沢 大 学 学 位 の 種 類 博 士 ( 文 学 ) 学 位 授 与 年 月 日 2013 年 9 月 26 日 学 位 授 与 番 号 甲 第 3944 号 *KURAに 登 録 されているコンテンツの 著 作 権 は, 執 筆 者, 出 版 社 ( 学 協 会 )などが 有 します *KURAに 登 録 されているコンテンツの 利 用 については, 著 作 権 法 に 規 定 されている 私 的 使 用 や 引 用 などの 範 囲 内 で 行 ってください * 著 作 権 法 に 規 定 されている 私 的 使 用 や 引 用 などの 範 囲 を 超 える 利 用 を 行 う 場 合 には, 著 作 権 者 の 許 諾 を 得 てください ただし, 著 作 権 者 から 著 作 権 等 管 理 事 業 者 ( 学 術 著 作 権 協 会, 日 本 著 作 出 版 権 管 理 システムなど)に 権 利 委 託 されているコンテンツの 利 用 手 続 については, 各 著 作 権 等 管 理 事 業 者 に 確 認 してください http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspac
様 式 7 学 位 論 文 要 旨 学 位 請 求 論 文 題 名 マハーマーユーリーの 図 像 学 的 研 究 ( 和 訳 または 英 訳 ) An iconographic study of mahamayuri (Kujyaku-myoo) 人 間 社 会 環 境 学 専 攻 氏 名 橋 村 愛 子 主 任 指 導 教 員 氏 名 森 雅 秀 ( 注 ) 学 位 論 文 要 旨 の 表 紙
This paper aims at the integrative studies of art history about Mahamayuri Kujyaku-myoo over the Asian countries. I clarify the cultural interchange by connecting the Buddhism iconographic images with texts and rituals of Mahamayuri in the extensive area such as India, China, Japan, etc. Chapter one deals with the iconographic studies of Mahamayuri in South Asia. In section 1, considering the development of previous studies of the group of texts of the Mahamayuri sutra, I indicate that the Mahamayuri was constructed as a female Boddhisatva from magic spell of the Mahamayuri sutra, which had been compiled by the combination of Murasarvastain sect and the idea of the sovereign power. In section 2, all the images of Mahamayuri in the Ellora caves were the representations of magic spell in the Mahamayuri sutra, because all of them have one or several feathers of peacock in her hand. It could be indicated that her character is defined according to what kind of attributes she holds in her first right hand. In section 3, the images of Mahamayuri from the ninth century to the twelfth century in the Ellora caves and Bengal region can be roughly divided into two types, according to whether she holds the feather in her right or left hand. These images show the development of number of arms: two, four, six and eight arms. Chapter two deals with the iconographic studies of Mahamayuri in Central Asia. In section 1, the images of Mahamayuri painting of the tenth century to the early eleventh century at the Dunfang caves in Western China. These paintings are considered to depend on both Chinese sutras and Sanskrit texts. In section 2, the images of Mahamayuri on the frontispieces of the Buddist manuscripts during the Xi Xia dynasty shows that the Tibetan Tantric Buddhism had been accepted completely in this area. Chapter three deals with the iconographic studies of Mahamayuri in Japan. In section 1, I confirm that the Tantric ritual of Mahamayuri was practiced for both illness and easy delivery of a baby of Fujiwara Syoshi for the first time in Japan. She was estimated as a patron who ordered to create the hanging picture of Mahamayuri owned by the Tokyo National Museum judging from her social position. In section 2, I clarify that the Tantric ritual of Mahamayuri for praying the rainfall had been developed by Ono school at Daigo-ji temple since the late eleventh century. A new iconographic style of Mahamayuri transmitted from Central Asia are employed in the ritual for rainfall, I can indicate that the pictures of Mahamayuri owned by the Agency for Cultural Affairs (Bunka-cho) or Konryu-ji temple are good instances.
本 論 文 は 仏 教 尊 であるマハーマーユーリー( 孔 雀 明 王 )の 造 形 を 主 題 とした 総 合 的 な 美 術 史 研 究 を 骨 子 としている(ここでは 古 代 インドで 誕 生 した 梵 名 マハーマーユーリー ヴィディヤラ ージニー( 大 マーユーリー 呪 文 のなかの 女 王 のように 優 れた 呪 文 ) の 名 称 として その 一 般 的 な 呼 称 であるマハーマーユーリーを 採 用 した ) マハーマーユーリーの 図 像 と テクスト 儀 礼 とを 国 境 や 文 明 圏 を 超 えた 地 域 において 相 互 に 関 係 づけ 文 化 交 流 史 を 明 らかにすることを 試 みた 従 来 の 美 術 史 研 究 においては マハーマーユーリーの 性 格 について 正 確 に 把 握 されておらず イ ンドから 西 域 日 本 までという 大 変 広 範 な 地 域 に 残 されているマハーマーユーリーを 包 括 的 に 扱 っ た 研 究 はこれまでにはなかった そこで 本 研 究 では 考 察 の 手 順 として 地 域 を 南 アジア 中 央 ア ジア 東 アジアの 三 つに 分 けて 全 編 を 三 章 立 てとして 地 理 的 民 族 的 な 繋 がりの 中 で 変 遷 する 図 像 とテクストとの 対 応 関 係 をより 厳 密 に 考 察 することで 本 編 全 体 としてアジア 仏 教 文 化 圏 におけ る 図 像 体 系 を 明 らかにすることを 目 指 した 第 一 章 南 アジアのマハーマーユーリー では 南 アジアにおけるマハーマーユーリーについて テクストと 造 形 作 例 の 双 方 から 図 像 の 誕 生 から 二 系 統 に 大 別 される 図 像 系 譜 への 流 れを 明 らかに し その 意 図 の 解 明 に 努 めた 第 一 章 第 一 節 マハーマーユーリーの 性 格 では 本 論 における 図 像 研 究 の 前 提 として マハー マーユーリーが 孔 雀 経 の 呪 文 の 神 格 化 した 女 性 尊 格 であることを 確 認 したうえで 先 行 研 究 に よりながら 孔 雀 経 類 本 テクストの 問 題 を 整 理 し その 結 果 として 次 のような 新 しい 見 解 を 提 示 した すなわち 同 尊 格 は 仏 教 パンテオンにおいて 女 性 的 な 性 質 をもつ 菩 薩 に 分 類 されるべき 属 性 で 時 間 的 に 普 遍 の 存 在 であり こうした 性 格 が 根 本 説 一 切 有 部 と 王 権 の 結 合 のもとに 女 性 を 重 視 することで 形 成 された 可 能 性 があることを 導 いた 第 一 章 第 二 節 マハーマーユーリー 図 像 の 生 起 では 呪 文 を 神 格 化 した 女 性 的 な 菩 薩 であると いう 事 実 を 前 提 として 西 インド 仏 教 石 窟 において 筆 者 が2013 年 に 実 施 した 実 地 調 査 をふまえ 現 存 最 古 の 遺 例 であるエローラ 石 窟 第 6 窟 をはじめとするマハーマーユーリー 図 像 7 例 を 分 析 した そ の 結 果 マハーマーユーリーの 性 格 は 右 第 1 手 のアトリビュートにより 決 定 されることを 明 示 し た その 分 析 の 過 程 で 右 手 に 孔 雀 尾 をとるものが 最 初 期 の 図 像 であり そののち 右 手 に 果 実 / 与 願 印 を 図 像 が 現 れ この 二 系 統 のなかでそれぞれ 図 像 が 展 開 していく 発 展 過 程 を 提 示 した 第 一 章 第 三 節 マハーマーユーリー 図 像 の 展 開 では エローラ 石 窟 やベンガル 地 方 ネパール チベットなどの 地 域 における13 世 紀 までの 作 を 分 析 した 梵 漢 テクストとの 照 合 をもとに これら の 図 像 は 孔 雀 尾 を 左 右 のどちらに 持 つかで 二 つに 大 別 でき それぞれの 系 統 で 二 臂 四 臂 六 臂 八 臂 へと 展 開 したことを 明 らかにした 第 二 章 中 央 アジアのマハーマーユーリー では 南 アジアと 東 アジアとを 結 節 する 主 要 な 交 通
路 西 域 において 造 形 化 されたマハーマーユーリーの 図 像 分 析 を 試 みた 第 二 章 第 一 節 曹 氏 帰 義 軍 節 度 使 時 代 敦 煌 におけるマハーマーユーリー では 10 世 紀 から11 世 紀 初 頭 の 敦 煌 を 支 配 した 曹 氏 帰 義 軍 節 度 使 による 密 教 受 容 の 一 断 面 として マハーマーユーリー の 天 井 画 壁 画 を 位 置 づけた この 絵 画 事 例 は 莫 高 窟 と 楡 林 窟 に 合 計 8 例 存 在 することが 先 行 研 究 に よって 知 られていたが 一 部 を 除 いて 詳 細 は 公 開 されておらず 図 像 についてはほとんど 不 明 であ った 筆 者 は2010 年 に 現 地 調 査 を 行 い すべての 作 例 を 確 認 しえた 図 像 分 析 の 結 果 10 世 紀 後 半 には 漢 訳 経 典 にもとづき 四 臂 の 菩 薩 形 として 描 かれていたこと しだいに 漢 訳 経 典 からはなれサン スクリット 文 献 に 依 拠 して 六 臂 や 二 臂 の 菩 薩 形 として 描 かれたことを 明 らかにした その 背 景 に 王 権 にからむウイグルやホータン ソグドなどのオアシス 国 家 や 遊 牧 系 民 族 からの 影 響 を 想 定 した 六 臂 の 図 像 は その 当 時 最 先 端 のインド 仏 教 が 敦 煌 に 伝 えられていたことの 証 左 となるが マハ ーマーユーリーの 性 別 は 男 性 のまま 変 更 されなかったことは この 地 域 においてどれほど 唐 時 代 の 仏 教 の 影 響 が 根 強 かったかを 想 起 させた 第 二 章 第 二 節 西 夏 黒 水 城 のマハーマーユーリー 経 典 と 見 返 絵 では 前 節 よりものちの 時 代 の 西 域 を 支 配 した タングート 族 の 西 夏 における 仏 教 の 状 況 を 明 らかにすることができた 11 世 紀 から13 世 紀 にかけて チベット 密 教 の 影 響 を 受 けて パンチャラクシャー( 五 守 護 ) のひとり として 経 典 見 返 絵 に 表 されたマハーマーユーリーを2 作 例 確 認 し その 図 像 を 比 較 作 例 とあわせて 分 析 した どちらもマハーマーユーリーとしては 最 多 臂 である 八 臂 を 採 用 しつつも より 古 くに 制 作 された 作 例 は 乳 房 のない 女 性 の 菩 薩 形 という 奇 異 な 身 体 的 特 徴 を 有 していることに 着 目 された 女 性 的 な 性 格 をもつ 菩 薩 あるいは 女 尊 という 仏 教 パンテオンにおける 属 性 を 受 容 するまでには 唐 時 代 の 仏 教 からの 完 全 な 脱 却 を 待 たねばならなかったと 推 定 された しかし 同 時 代 の 北 宋 南 宋 や 遼 ( 契 丹 ) 日 本 などの 他 の 地 域 では 守 旧 的 な 唐 時 代 の 仏 教 が 志 向 されていたことに 比 べて 西 夏 におけるチベット 密 教 の 受 容 はユニークな 個 性 を 放 っていた 第 三 章 東 アジアのマハーマーユーリー では 東 アジア すなわち 北 宋 や 日 本 平 安 朝 などに おいて 造 形 化 されたマハーマーユーリーを 中 心 に 論 じた 第 三 章 第 一 節 安 産 と 治 病 のマハーマーユーリー では 安 産 と 治 病 を 目 的 とした 孔 雀 経 法 の 勤 修 歴 をしらべ 時 代 的 な 特 徴 を 分 析 した その 結 果 天 皇 の 治 病 を 目 的 とした 孔 雀 経 法 は 10 世 紀 後 半 以 降 ようやく 仁 和 寺 僧 によって 行 われはじめ 11 世 紀 初 頭 まで 継 続 されたことが 確 認 できた しかし 中 断 がしばらくつづき 白 河 院 と 堀 河 天 皇 にのみ 醍 醐 寺 僧 と 仁 和 寺 僧 によって 勤 修 され た 治 病 目 的 の 孔 雀 経 法 が 11 世 紀 後 半 以 降 から12 世 紀 半 ばにかけて 確 認 された またこれと 並 行 す る 時 期 に 安 産 を 目 的 とする 孔 雀 経 法 が 藤 原 道 長 の 娘 たちと 鳥 羽 院 の 妃 である 藤 原 璋 子 ( 待 賢 門 院 ) にのみ 仁 和 寺 僧 により 加 持 されていた こうした 安 産 と 治 病 を 目 的 とした 孔 雀 経 法 で 用 いられる マハーマーユーリーの 図 像 は 先 行 研 究 によっていわゆる 第 一 類 として 分 類 され 不 空 訳 仏 説 仏 母 大 孔 雀 明 王 画 像 壇 場 儀 軌 に 依 拠 するものである この 第 一 類 の 図 像 をもつ 絵 画 作 例 が ほぼす
べてが 同 一 の 図 像 を 継 承 しているなかで 東 京 国 立 博 物 館 所 蔵 孔 雀 明 王 像 (12 世 紀 第 2 四 半 期 ) の 一 幅 のみは 持 物 を 五 茎 の 孔 雀 尾 石 榴 荷 葉 のある 蓮 華 とするなど 細 部 に 異 色 の 図 像 表 現 が 採 用 されている このことと 勤 修 歴 等 を 重 ね 合 わせ 当 時 藤 原 璋 子 が 孔 雀 経 法 を 一 元 化 していた ことから この 絵 画 の 願 主 に 他 ならないと 推 定 した 第 三 章 第 二 節 祈 雨 のマハーマーユーリー では 降 雨 または 止 雨 を 祈 る 孔 雀 経 法 の 勤 修 歴 をし らべ 時 代 的 な 特 徴 を 分 析 した その 結 果 祈 雨 の 孔 雀 経 法 は10 世 紀 後 半 に 記 録 上 が 一 件 のみ 確 認 されたものの その 後 は 長 く 沈 黙 し 11 世 紀 後 半 以 降 に 醍 醐 寺 を 中 心 とした 小 野 流 で 勤 修 されるよ うになったことが 明 らかとなった こうした 祈 雨 を 目 的 とした 孔 雀 経 法 で 用 いられるマハーマーユ ーリーの 図 像 は 事 相 書 や 図 像 集 などのテクスト 類 を 分 析 することにより 文 化 庁 所 蔵 孔 雀 明 王 像 (12 世 紀 第 4 四 半 期 )や 醍 醐 寺 所 蔵 孔 雀 明 王 像 (12 世 紀 第 2~3 四 半 期 ) 今 滝 寺 所 蔵 孔 雀 明 王 像 (13~14 世 紀 )などの いわゆる 第 一 類 とは 異 なる 西 域 を 経 由 してもたらされた 系 統 の 図 像 であったことを 証 明 した
学 位 論 文 ( 甲 ) 審 査 報 告 書 論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨 橋 村 氏 による 学 位 論 文 マハーマーユーリーの 図 像 学 的 研 究 は 密 教 の 仏 であるマハーマーユ ーリーに 焦 点 を 当 てて その 作 例 の 全 体 像 と 信 仰 のあり 方 を ひろくアジア 全 域 から 解 明 した 研 究 である マハーマーユーリーはインドで 誕 生 した 女 性 の 仏 ( 女 尊 )であるが 漢 訳 経 典 では 孔 雀 明 王 と 翻 訳 され 平 安 時 代 初 期 には 日 本 にも 伝 播 し いくつかの 重 要 な 作 例 を 残 している 本 来 はイン ドの 土 着 的 な 女 神 のひとりと 考 えられているが インドにおける 初 期 の 密 教 の 主 要 な 流 れのひとつ である 陀 羅 尼 信 仰 に 組 み 込 まれ 密 教 のパンテオンの 中 でも 主 要 な 位 置 を 占 めるようになった そ の 後 インド 後 期 密 教 に 至 るまでひろく 信 仰 されたことが 文 献 や 作 例 から 知 られ 13 世 紀 にイン ドから 仏 教 が 滅 びたあとも チベット ネパール 中 央 アジア そして 中 国 日 本 へと 連 綿 と 受 け 継 がれたきわめて 息 の 長 い 尊 格 である これまで マハーマーユーリーに 関 する 研 究 は おもにサンスクリット 語 の 経 典 にもとづく 文 献 学 的 な 研 究 と インド チベット 日 本 などのそれぞれの 地 域 における 重 要 な 作 品 に 関 する 個 別 の 図 像 学 的 研 究 がいくつか 発 表 されてきたが それらを 統 合 するような 本 格 的 な 研 究 は 行 われていな い 橋 村 氏 の 研 究 は インドで 成 立 したマハーマーユーリーに 関 わる 文 献 の 内 容 をふまえ アジア の 主 要 な 地 域 におけるマハーマーユーリーの 作 例 を 体 系 的 にとらえることで この 仏 の 汎 アジア 的 な 展 開 を 示 した さらに 図 像 作 品 と 儀 礼 との 関 係 に 着 目 し 単 に 図 像 形 式 の 変 化 をたどるだけで はなく マハーマーユーリーに 対 する 人 々の 信 仰 のあり 方 にまで 踏 み 込 んだ 考 察 を 進 めている と くに 女 性 の 仏 というあり 方 に 注 目 して 従 来 の 仏 教 美 術 史 や 図 像 学 において 見 過 ごされてきた 女 性 による 女 尊 信 仰 というあらたな 視 点 を 提 唱 している 本 論 文 は 三 つの 章 から 構 成 されいている 第 一 章 南 アジアのマハーマーユーリー は 三 つの 節 に 分 かれ そのうち 第 一 節 ではサンスク リット 文 献 に 現 れるマハーマーユーリーを 取 り 上 げている この 節 は 論 文 全 体 の 基 礎 的 な 情 報 を 提 示 する 部 分 でもあり インドで 成 立 したマハーマーユーリーについて その 起 源 や 信 仰 形 態 とく に 陀 羅 尼 信 仰 の 中 に 包 摂 され 密 教 の 仏 としての 位 置 を 占 めるに 至 る 過 程 で どのような 変 化 をた どったかを 明 らかにしている さらに 当 時 の 有 力 な 部 派 の 一 つであった 根 本 説 一 切 有 部 が そこ に 大 きく 関 わったことを 指 摘 している 第 二 節 は 西 インドの 著 名 な 石 窟 寺 院 であるエローラにみられるマハーマーユーリーの 作 例 の 分 析 である 従 来 マハーマーユーリーの 最 初 期 の 作 例 が この 地 に 残 されていることは 指 摘 されて きたが 橋 村 氏 は 現 地 における 詳 細 な 調 査 をふまえ これまで 未 比 定 であった 浮 彫 彫 刻 の 中 から あらたに 5 例 のマハーマーユーリー 像 を 発 見 した そして これらの 作 例 に 関 して 図 像 上 の 形 態
による 分 類 を 試 み 類 型 化 を 行 った この 類 型 は その 後 のアジア 各 地 のマハーマーユーリー 像 の 図 像 系 統 を 知 る 上 で 重 要 な 指 標 となる 第 三 節 は おもにインド 東 部 に 残 るマハーマーユーリー 像 の 分 析 である ブロンズ 像 や 経 典 挿 絵 の 絵 画 作 品 を 対 象 として エローラで 成 立 したマハーマーユーリーの 類 型 が この 地 域 でどのよう に 継 承 されたかを 明 らかにしている あわせて サンスクリット 文 献 との 照 合 もふまえ チベット やネパールに 伝 播 した 流 れがあることを 指 摘 し 次 章 であつかう 西 域 のマハーマーユーリー 像 への 橋 渡 しの 役 割 も 果 たしている 本 論 文 の 第 二 章 は 中 央 アジアのマハーマーユーリー と 題 して おもに 敦 煌 石 窟 と 西 夏 のマハ ーマーユーリー 像 を 扱 う 第 一 節 は 敦 煌 のマハーマーユーリーの 作 例 をもとに その 図 像 上 の 特 徴 の 整 理 と 信 仰 の 背 景 を 考 察 している 敦 煌 石 窟 はシルクロードを 代 表 する 遺 跡 の 一 つであるが 大 乗 仏 教 を 主 題 とする 作 例 の 研 究 に 比 べて 密 教 系 の 美 術 作 品 の 研 究 は 著 しく 立 ち 遅 れている 橋 村 氏 は 現 地 において お もにマハーマーユーリーが 描 かれた 壁 画 の 調 査 を 実 施 し 未 発 表 の 作 品 を 含 め 網 羅 的 なデータの 収 集 を 行 った その 結 果 敦 煌 における 図 像 の 類 型 石 窟 内 において 占 める 位 置 銘 文 から 読 み 取 れる 在 地 為 政 者 との 関 わりなどを 明 らかにした 第 二 節 は 西 夏 の 中 心 地 であるハラホト( 黒 水 城 )から 出 土 した 孔 雀 経 の 見 返 絵 として 描 か れたマハーマーユーリーを 分 析 した これらの 作 例 は 版 本 であることから この 地 において 相 当 な 数 のマハーマーユーリーの 印 刷 物 が 流 通 していたことが 推 測 され しかも その 特 徴 が 漢 訳 経 典 に 記 述 されるこの 尊 格 の 姿 ではなく チベットに 伝 播 したそれであることを 明 らかにしている 第 三 章 は 東 アジアのマハーマーユーリー と 題 されているが 実 際 には おもに 日 本 における 孔 雀 明 王 の 信 仰 を 取 り 上 げている とくに さまざまな 史 料 にもとづいて 日 本 に 伝 わる 主 要 な 孔 雀 明 王 の 作 例 が どのような 信 仰 世 界 を 背 景 にして 成 立 したかについて 考 察 を 進 めている 第 一 節 は 平 安 時 代 における 孔 雀 明 王 の 信 仰 のうち 治 病 と 安 産 に 関 わるものを 中 心 とする こ れらを 目 的 とした 勤 修 の 記 録 をさまざまな 史 料 から 収 集 し 全 体 的 な 傾 向 と 変 化 を 跡 づけた その 結 果 孔 雀 明 王 の 修 法 ( 密 教 儀 礼 )は 10 世 紀 後 半 以 降 とくに 天 皇 の 治 病 のために 行 われ そ れを 担 っていたのが 仁 和 寺 の 僧 たちであったこと その 後 空 白 期 間 をはさんで 11 世 紀 後 半 か ら 12 世 紀 半 ばにかけて 修 法 の 目 的 が 摂 関 家 出 身 の 中 宮 や 女 院 の 安 産 に 集 中 していたことを 明 らかにした とりわけ 鳥 羽 院 の 中 宮 であった 待 賢 門 院 璋 子 がその 修 法 に 深 く 関 わっていたことを 指 摘 し 有 名 な 東 京 国 立 博 物 館 所 蔵 の 孔 雀 明 王 像 の 制 作 の 背 景 に この 女 院 の 存 在 を 認 めてい る 第 二 節 は 請 雨 法 すなわち 祈 雨 の 儀 礼 で 用 いられる 孔 雀 明 王 に 関 する 考 察 である この 儀 礼 で 用 いられる 孔 雀 明 王 が 前 節 の 類 型 とは 異 なるタイプの 図 像 であったこと 勤 修 の 記 録 が 史 料 に 集 中 的 に 現 れるのが 11 世 紀 後 半 以 降 で とくに 醍 醐 寺 を 中 心 とした 小 野 流 の 真 言 僧 によること 地 方
寺 院 にその 図 像 が 伝 えられていることなどを 指 摘 している 以 上 三 つの 章 にわたる 考 察 をふまえ 橋 村 氏 は アジア 各 地 に 展 開 したマハーマーユーリー( 孔 雀 明 王 )の 独 特 の 信 仰 世 界 が この 尊 格 が 女 性 の 仏 であるという 特 異 なあり 方 に 起 因 することを 結 論 づけている 実 際 これまでの 仏 教 美 術 史 とくに 特 定 の 尊 格 を 対 象 とする 研 究 は 主 要 な 作 品 の 様 式 的 あるいは 図 像 学 的 特 徴 の 分 析 が 中 心 で その 背 後 にある 人 々の 豊 かな 信 仰 世 界 にまで 踏 み 込 んだ 研 究 は 稀 であった もちろん 観 音 菩 薩 や 阿 弥 陀 如 来 のように その 両 者 に 関 する 相 当 の 研 究 の 蓄 積 がある 尊 格 もいるが 逆 に あまりに 多 様 な 様 相 を 示 すことから そのすべてを 統 合 し 体 系 化 することは 困 難 であった その 点 マハーマーユーリー( 孔 雀 明 王 )という 比 較 的 限 定 的 な 信 仰 と 結 びついた 尊 格 を 取 り 上 げたこと 自 体 評 価 すべきであろう このような 積 極 的 な 評 価 ができる 一 方 で 本 論 文 にはいくつか 問 題 点 や 不 十 分 なところがある たとえば 第 一 章 でおこなわれている 図 像 作 品 の 類 型 化 の 根 拠 は 作 例 の 面 数 と 臂 数 最 も 重 要 な アトリビュートである 孔 雀 の 尾 を 持 つ 手 の 位 置 の 相 違 など 限 定 的 な 図 像 上 の 特 徴 に 集 約 されてい る そして それにもとづいたマハーマーユーリーの 伝 播 の 仮 説 から 第 二 章 以 下 の 論 が 進 められる が その 根 拠 は 必 ずしも 十 分 読 者 を 納 得 させるものではない また 類 型 化 そのものも いささ か 恣 意 的 に 感 じられ さらなる 工 夫 がなされるべきである さらに 第 三 章 に 関 しては 第 一 章 第 二 章 で 取 り 上 げたインド 西 域 の 図 像 の 制 作 が 日 本 におけ る 目 的 とどう 重 なり またどう 重 ならないかが 明 確 ではない 点 キーパーソンとされる 待 賢 門 院 璋 子 と 小 野 流 における 修 法 の 展 開 との 関 係 をどう 説 明 するのかという 点 特 権 階 級 の 儀 礼 であるにも かかわらず 安 産 を 目 的 とするということで 女 性 の 感 情 として 一 般 化 してよいのかという 点 な ど 論 理 的 な 展 開 が 必 ずしも 明 確 ではない 箇 所 がしばしば 見 られる いずれも より 丁 寧 な 考 察 と 記 述 が 必 要 なところであるが なるべく 説 明 の 選 択 肢 を 多 くして さまざまな 可 能 性 を 提 示 してか ら 結 論 を 絞 り 込 むことを 心 がけてほしかった このような 瑕 疵 はあるものの 本 論 文 が 広 い 視 野 をそなえ 着 実 な 調 査 研 究 をふまえた 労 作 で あることは 審 査 委 員 一 同 認 めるところである 仏 教 美 術 史 の 領 域 に 軸 足 を 置 きつつ 仏 教 学 歴 史 学 国 文 学 などの 関 連 分 野 の 成 果 にも 眼 が 行 き 届 いた 学 際 的 な 研 究 であるという 点 も 評 価 できる 以 上 の 点 より 本 論 文 が 博 士 ( 文 学 )にふさわしい 内 容 であることを 審 査 委 員 会 として 結 論 づけ た