解 題 一 はじめに 小 平 市 史 料 集 第 十 五 集 からは 村 の 生 活 に 関 する 史 料 を 順 次 刊 行 することにし 第 十 五 集 には 事 件 事 故 訴 訟 に 関 する 小 川 村 の 文 政 年 間 ( 一 八 三 〇 )までの 史 料 を 収 めました この 第 十 六 集 には 小 川 村 の 天 保 年 間 以 降 明 治 五 年 ( 一 八 七 二 ) 迄 の 続 きと 小 川 新 田 鈴 木 新 田 野 中 新 田 の 事 件 事 故 訴 訟 に 関 する 史 料 四 五 一 点 を 収 録 しまし た 網 野 善 彦 氏 は 無 縁 公 界 楽 をはじめとして 中 世 の 庶 民 の 歴 史 を 著 して 中 世 史 ブームを 巻 き 起 こしました そ の 透 徹 した 慧 眼 を 養 ったのは 数 多 くの 古 文 書 を 読 み 込 み 多 様 な 実 例 を 熟 知 していたからこそであったことは 中 沢 新 一 僕 の 叔 父 さん 網 野 善 彦 からも 明 らかに 読 み 取 れます 近 世 史 料 は 中 世 史 料 とは 比 べ 物 にならない 膨 大 な 史 料 群 が 残 されていますが 庶 民 の 生 活 に 関 する 史 料 集 は 限 られています しかし 今 まであまり 脚 光 を 浴 びなかった 事 件 事 故 訴 訟 といった 出 入 り 関 係 史 料 をまとめてみると 庶 民 生 活 の 様 々な 部 分 が 浮 き 彫 りになってきます これらの 史 料 を 活 用 することによって 近 世 庶 民 の 歴 史 を 克 明 に 描 くことができるものと 思 われ 今 後 の 研 究 の 進 展 に 期 待 します さて 前 集 では 名 主 と 入 村 者 の 村 方 騒 動 と 開 発 当 初 の 作 物 をトピックとして 取 り 上 げて 解 説 しましたが 今 回 は 小 川 村 の と 五 人 及 び 小 川 村 の 無 法 者 の 系 譜 について 触 れてみましょう 二 小 川 村 の と 五 人 小 川 村 の と 頭 については 古 文 書 目 録 第 十 二 集 諸 家 文 書 目 録 の 解 題 で 既 に 触 れたところですが 村 の 生 活 を 考 えるうえで 重 要 な 係 わりがありますので 改 めて 調 べてみることにします 国 史 大 辞 典 には 頭 について 江 戸 時 代 の 村 役 人 名 主 庄 屋 の 補 佐 役 で 地 方 ( 村 方 ) 三 役 の 一 つ 一 村 に 一 人 ないし 数 人 いた と 説 明 されており それほど 力 はなく と 記 されていますが この 出 入 り 関 係 史 料 をはじめ 多 くの 史 料 に 当 事 者 たちの 名 前 だけでなく や 頭 の 名 前 が 記 されていることからも 分 かるように 頭 は 年 貢 勘 定 や 質 地 証 文 及 び 訴 訟 事 等 の 立 会 人 や 保 証 人 として 深 く 村 政 や 治 安 に 係 わっています また 十 五 集 の 名 主 と 入 村 者 の 村 方 騒 動 に 記 したように 頭 又 右 衛 門 は 名 主 を 相 手 に 村 方 騒 動 を 起 こし 長 年 にわたって 名 主 を 苦 しめており 何 十 人 も の 村 人 をまとめるだけの 求 心 力 と 指 導 力 を 持 っていたことが 分 かります 小 川 村 の 頭 については 古 文 書 目 録 第 十 二 集 諸 家 文 書 目 録 の 解 題 で 既 に 触 れており 小 川 村 は 始 めは 十 一 に 分 かれていましたが 上 中 下 の 三 が 頭 不 在 の 明 になります また 新 たに 有 付 いた 出 百 姓 は 大 半 が 長 兵 衛 に み 込 まれたものと 思 われ によって 子 の 数 に 甚 だしい 差 異 が 生 じたので 享 保 七 年 ( 一 七 二 二 ) 十 月 に 八 に 割 をし 直 したことが 分 かります としています 基 本 的 にはこの 説 明 で 合 っていますが もう 少 し 補 足 するとともに 頭 と 五 人 についても 調 べてみたいと 思 います 頭 の 実 態 を 補 足 するためにほぼ 完 全 な 形 で 残 っていて 名 が 記 載 されている 貞 享 元 年 ( 一 六 八 四 )から 寛 保 二 年 ( 一 七 四 二 )までの 年 貢 小 割 帳 から 小 川 村 名 一 覧 表 を 作 成 すると 別 表 1のようになります 別 表 1 小 川 村 名 一 覧 表 西 暦 年 代 名 1684 貞 享 元 年 五 郎 兵 衛 長 四 郎 重 三 郎 長 左 衛 門 弥 兵 衛 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1691 元 禄 4 年 五 郎 又 右 衛 門 十 三 郎 長 左 衛 門 弥 兵 衛 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1692 元 禄 5 年 五 郎 又 右 衛 門 十 三 郎 長 左 衛 門 弥 兵 衛 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1697 元 禄 10 年 忠 三 郎 重 三 郎 庄 兵 衛 弥 兵 衛 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1702 元 禄 15 年 藤 左 衛 門 事 又 右 衛 門 重 三 郎 庄 兵 衛 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1710 宝 永 7 年 儀 左 衛 門 又 右 衛 門 上 庄 兵 衛 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 弥 五 右 衛 門 1717 享 保 2 年 儀 左 衛 門 又 右 衛 門 上 中 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 弥 五 右 衛 門 1719 享 保 4 年 又 右 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 弥 五 右 衛 門 1721 享 保 6 年 又 右 衛 門 上 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1725 享 保 10 年 五 郎 兵 衛 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛
1729 享 保 14 年 五 郎 兵 衛 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1736 元 文 元 年 五 郎 兵 衛 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1738 元 文 3 年 五 郎 兵 衛 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 1742 寛 保 2 年 五 郎 兵 衛 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 西 暦 年 代 名 1684 貞 享 元 年 平 兵 衛 九 郎 右 衛 門 庄 兵 衛 長 兵 衛 1691 元 禄 4 年 伊 右 衛 門 伝 右 衛 門 三 郎 兵 衛 源 右 衛 門 1692 元 禄 5 年 伊 右 衛 門 伝 右 衛 門 三 郎 兵 衛 源 右 衛 門 1697 元 禄 10 年 伊 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 三 郎 兵 衛 源 右 衛 門 1702 元 禄 15 年 伊 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 三 郎 兵 衛 源 右 衛 門 1710 宝 永 7 年 伊 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 下 源 右 衛 門 1717 享 保 2 年 伊 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 下 源 右 衛 門 1719 享 保 4 年 伊 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 下 源 右 衛 門 1721 享 保 6 年 伊 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 下 長 兵 衛 1725 享 保 10 年 伊 右 衛 門 源 右 衛 門 又 右 衛 門 1729 享 保 14 年 伊 右 衛 門 源 右 衛 門 又 右 衛 門 1736 元 文 元 年 伊 右 衛 門 源 右 衛 門 又 右 衛 門 1738 元 文 3 年 伊 右 衛 門 源 右 衛 門 又 右 衛 門 1742 寛 保 2 年 伊 右 衛 門 源 右 衛 門 又 右 衛 門 年 貢 小 割 帳 は 最 初 に 名 が 記 され 次 に 子 毎 に 地 目 別 の 反 別 と 年 貢 永 が 記 されています 年 貢 小 割 帳 によって 名 の 変 遷 を 辿 ることができるとともに 子 の 数 や 所 有 地 の 様 子 を 知 ることができます 諸 家 文 書 目 録 の 解 題 で は 長 四 郎 忠 三 郎 重 三 郎 を 除 いて 符 合 するので 基 本 的 に 頭 名 が 名 として 用 いられていたことが 分 かり ます と 書 きましたが 貞 享 元 年 の 年 貢 小 割 帳 の 長 四 郎 には 長 四 郎 の 存 在 が 確 認 でき 元 禄 十 年 の 年 貢 小 割 帳 には 忠 三 郎 が 確 認 できるだけでなく 重 三 郎 の 存 在 についても 確 認 することができました 小 平 市 史 料 集 第 十 五 集 の 史 料 128 に 当 村 新 田 発 反 より 十 一 ニ 仕 壱 ニ 壱 人 宛 頭 ニ 定 置 御 公 用 相 勤 させ 候 所 ニ 重 三 郎 と 申 もの 先 年 相 果 跡 次 無 二 御 座 一 候 ニ 付 拙 者 方 ニて 諸 事 申 付 置 候 而 罷 有 候 処 と 記 されていて 小 川 村 の は 新 田 開 発 の 当 初 から 十 一 に 分 けされていて に 一 人 宛 頭 が 置 かれていたが 重 三 郎 は 先 年 亡 くなり 跡 継 ぎが 居 なか ったので 名 主 が 直 接 事 務 を 取 り 扱 っていることが 分 かります 従 って 年 貢 小 割 帳 に 重 三 郎 の 名 前 は 見 出 せないものの 名 は 元 禄 十 五 年 ( 一 七 〇 二 )までその 名 跡 が 残 されていたことが 分 かります また 又 右 衛 門 については 延 宝 三 年 ( 一 六 七 五 ) 以 降 頭 役 を 務 めていることが 確 認 できますが 貞 享 元 年 には 長 四 郎 が 元 禄 十 年 には 忠 三 郎 が 頭 となり 元 禄 十 三 年 から 十 五 年 までは 藤 左 衛 門 の 名 前 に 替 わっています 貞 享 元 年 の 長 四 郎 は 短 期 間 の 代 役 のようで 一 反 二 畝 十 二 歩 の 屋 敷 を 所 有 しており この 時 又 右 衛 門 は 長 兵 衛 の 子 として 書 き 上 げ られており 二 反 三 畝 十 歩 の 屋 敷 を 所 有 しています 忠 三 郎 は 前 集 の 解 題 で 触 れたとおり 又 右 衛 門 の 弟 であり 藤 左 衛 門 は 元 禄 十 五 年 の 年 貢 小 割 帳 に 藤 左 衛 門 事 又 右 衛 門 と 記 されていることから 明 らかなように 二 代 目 又 右 衛 門 と 同 一 人 物 で 襲 名 する 前 の 名 前 であることが 分 かります 別 表 1に 見 るように 享 保 六 年 ( 一 七 二 一 )までは 年 貢 小 割 帳 の 二 番 目 に 記 されている 又 右 衛 門 が 享 保 十 年 からは 最 後 に 記 されるようになります それはなぜなのでしょうか その 謎 を 解 く 鍵 は 次 の 享 保 七 年 十 月 の 相 定 申 割 連 判 之 事 という 史 料 ( 小 川 家 文 書 D-2 14)にあります この 史 料 には 小 川 新 田 村 中 頭 之 儀 貴 殿 祖 父 并 親 父 当 村 開 発 之 節 被 二 定 置 一 候 頭 之 内 或 ハ 身 上 不 勝 手 ニ 付 役 義 難 レ 成 其 節 之 御 代 官 様 え 御 訴 申 上 頭 役 上 ケ 申 候 而 其 跡 明 ニ 而 有 レ 之 只 今 程 頭 八 人 御 座 候 惣 而 当 村 新 田 場 故 従 二 先 年 一 百 姓 連 々と 有 付 候 ニ 付 子 殊 外 多 少 有 レ 之 右 明 旁 々 以 テ 急 御 用 等 諸 事 不 勝 手 ニ 御 座 候 依 レ 之 頭 惣 百 姓 不 レ 残 寄 合 村 中 軒 役 数 大 方 多 少 無 レ 之 様 ニ 割 致 度 旨 相 談 申 候 得 者 村 中 合 点 之 上 ハ 割 合 可 レ 然 由 ニ 而 左 之 合 之 通 相 極 メ 則 連 判 致 置 申 候 と 記 されています つまり 頭 は 新 田 開 発 の 当 初 に 小 川 九 郎 兵 衛 と 市 郎 兵 衛 が 定 めたもので 頭 の 内 で 身 上 不 勝 手 によって 役 儀 が
務 められないところは 明 としたので 現 在 頭 は 八 人 である 当 村 は 新 田 場 なので 次 々と 入 村 者 があり によって 子 の 数 に 差 がある 上 に 明 は 何 かにつけて 勝 手 が 悪 いので 子 の 軒 数 を 均 等 に 割 って 新 しく を 決 め 直 したとい うことになります そして 小 川 村 の は 開 発 当 初 の 十 一 から 八 に み 替 えられ 現 存 する 八 人 の 頭 が 子 の 軒 数 を 均 等 に 割 った 結 果 又 右 衛 門 が 最 後 の を 預 かることになったものと 思 われます しかし これだけではなぜ 又 右 衛 門 が 最 後 の に 移 ったのかは 分 かりませんし がどのように 分 けられ 頭 が 何 処 に 住 んでいたのかも 不 明 です また 五 人 と との 関 係 はどうなっていたのでしょうか の 数 の 変 化 について 分 かったことによって 次 々と 新 たな 疑 問 がわいてきます そこで この 謎 の 解 明 に 取 り んでみることにしましょ う 史 料 の 限 界 がありますので 享 保 七 年 の 現 状 を 復 元 することは 困 難 ですが 安 永 六 年 ( 一 七 七 七 )の 名 寄 帳 と 安 永 四 年 ( 一 七 七 五 )の 五 人 帳 を 分 析 し 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 )の 地 割 図 ( 小 平 市 史 料 集 第 二 十 六 集 絵 図 史 料 1) と 比 較 することによって 図 1 小 川 村 分 け 地 割 図 ( 安 永 六 年 ) を 作 成 することができましたので 見 てみましょ う 図 1 小 川 村 分 け 地 割 図 ( 安 永 6 年 ) 南 西 北 地 名 改 検 地 時 所 有 者 現 所 有 者 番 番 現 所 有 者 検 地 時 所 有 者 改 地 名 1 市 左 衛 門 七 兵 衛 酉 くみ 窪 1 弥 五 兵 衛 九 郎 左 衛 門 酉 くみ 窪 1 喜 平 次 庄 八 郎 酉 くみ 窪 1 五 郎 右 衛 門 権 助 酉 上 ノ 南 道 側 寅 又 右 衛 門 七 兵 衛 19 1 源 五 右 衛 門 七 郎 左 衛 門 酉 くみ 窪 上 町 頭 南 側 酉 九 郎 兵 衛 八 右 衛 門 19 2 五 権 左 衛 門 久 左 衛 門 寅 上 北 側 酉 九 郎 兵 衛 杢 右 衛 門 19 2 郎 八 左 衛 門 与 五 左 衛 門 寅 酉 九 郎 兵 衛 [ 文 蔵 ] 19 2 兵 喜 右 衛 門 喜 右 衛 門 寅 五 酉 助 右 衛 門 彦 右 衛 門 19 2 衛 又 七 九 右 衛 門 寅 郎 酉 仁 右 衛 門 和 吉 20 2 五 兵 衛 九 郎 兵 衛 酉 上 町 北 側 町 頭 兵 (のみち) 3 平 八 忠 右 衛 門 酉 衛 酉 助 兵 衛 茂 平 次 20 3 喜 兵 衛 三 左 衛 門 酉 酉 茂 右 衛 門 五 兵 衛 ( 北 側 ) 3 忠 兵 衛 酉 酉 甚 兵 衛 権 [ 平 ] 20 3 儀 兵 衛 佐 次 右 衛 門 酉 上 町 頭 北 側 酉 甚 兵 衛 仁 左 衛 門 20 3 三 郎 右 衛 門 長 右 衛 門 酉 中 町 北 側 酉 甚 兵 衛 太 兵 衛 20 3 喜 八 平 四 郎 酉 酉 甚 兵 衛 市 三 郎 21 4 重 兵 衛 三 人 分 酉 酉 甚 兵 衛 伝 左 衛 門 21 4 定 右 衛 門 酉 酉 甚 兵 衛 源 六 21 4 重 左 衛 門 助 五 郎 酉 酉 長 兵 衛 仁 右 衛 門 21 ( 神 明 免 ) 九 酉 長 兵 衛 小 川 寺 4 重 次 郎 八 兵 衛 酉 左 ( 小 川 寺 ) 4 九 清 右 衛 門 八 兵 衛 酉 衛 酉 市 郎 右 衛 門 権 兵 衛 21 5 左 文 次 郎 五 左 衛 門 酉 門 酉 九 左 衛 門 弥 五 兵 衛 21 5 衛 彦 助 久 左 衛 門 酉 酉 半 兵 衛 次 郎 左 衛 門 21 5 門 太 郎 左 衛 門 三 左 衛 門 酉 酉 茂 左 衛 門 茂 左 衛 門 22 5 重 郎 右 衛 門 重 郎 右 衛 門 酉 酉 庄 右 衛 門 重 蔵 22 5 孫 七 善 九 郎 酉
酉 権 左 衛 門 左 右 馬 22 5 助 右 衛 門 作 左 衛 門 酉 酉 権 左 衛 門 平 右 衛 門 5 新 助 作 左 衛 門 酉 酉 作 重 郎 五 郎 兵 衛 22 武 兵 衛 清 右 衛 門 酉 酉 七 兵 衛 孫 八 22 金 右 衛 門 清 右 衛 門 酉 酉 孫 右 衛 門 勘 左 衛 門 23 5 彦 兵 衛 清 右 衛 門 酉 酉 長 右 衛 門 平 右 衛 門 23 6 伝 兵 衛 佐 次 右 衛 門 酉 酉 九 郎 左 衛 門 与 兵 衛 23 (のみち) (のみち) 6 定 七 権 四 郎 酉 酉 善 太 郎 九 左 衛 門 23 6 重 郎 左 衛 門 加 左 衛 門 酉 酉 佐 右 衛 門 林 平 23 6 武 兵 衛 九 郎 兵 衛 酉 酉 佐 右 衛 門 平 蔵 23 6 重 兵 衛 清 左 衛 門 酉 酉 庄 三 郎 八 右 衛 門 伴 24 7 伴 甚 五 兵 衛 忠 右 衛 門 酉 酉 庄 三 郎 久 右 衛 門 蔵 7 蔵 金 右 衛 門 忠 右 衛 門 酉 酉 作 内 伴 蔵 ( 野 道 ) 酉 長 兵 衛 五 左 衛 門 7 弥 次 右 衛 門 忠 庵 酉 中 町 南 側 酉 善 右 衛 門 弥 右 衛 門 7 治 郎 兵 衛 忠 庵 酉 (のみち) 7 源 次 郎 忠 庵 酉 酉 八 郎 右 衛 門 八 郎 右 衛 門 8 与 兵 衛 佐 五 右 衛 門 酉 酉 八 兵 衛 太 郎 右 衛 門 24 8 忠 三 郎 忠 左 衛 門 酉 酉 久 兵 衛 伊 兵 衛 24 8 五 郎 右 衛 門 半 右 衛 門 酉 酉 七 郎 兵 衛 勇 次 郎 24 ( 市 郎 兵 酉 善 七 郎 勘 三 郎 源 左 衛 門 24 衛 ) 酉 [ 孫 ] 右 衛 門 兵 右 衛 門 24 8 四 郎 兵 衛 九 郎 左 衛 門 酉 中 町 北 側 東 酉 七 郎 左 衛 門 次 兵 衛 25 8 佐 左 衛 門 助 十 郎 酉 酉 次 郎 助 五 郎 兵 衛 25 9 喜 兵 衛 庄 八 酉 酉 孫 兵 衛 三 右 衛 門 25 八 兵 蔵 庄 八 酉 (のみち) 9 郎 弥 五 右 衛 門 甚 太 郎 酉 酉 彦 右 衛 門 平 右 衛 門 八 25 9 右 庄 九 郎 彦 左 衛 門 酉 中 町 北 側 酉 利 兵 衛 孫 兵 衛 郎 25 衛 八 郎 右 衛 門 彦 左 衛 門 酉 酉 利 兵 衛 茂 兵 衛 右 25 門 小 川 寺 彦 左 衛 門 酉 中 町 北 側 東 酉 利 兵 衛 五 郎 右 衛 門 衛 9 彦 兵 衛 彦 左 衛 門 酉 中 町 北 側 酉 久 太 郎 甚 右 衛 門 門 26 9 金 兵 衛 平 兵 衛 酉 酉 五 兵 衛 市 郎 左 衛 門 26 半 七 七 郎 右 衛 門 酉 中 町 北 側 東 酉 甚 右 衛 門 伊 兵 衛 代 佐 兵 衛 (のみち) 酉 平 右 衛 門 彦 右 衛 門 26 10 織 右 衛 門 三 郎 兵 衛 酉 酉 角 右 衛 門 武 右 衛 門 26 10 喜 八 孫 三 郎 酉 下 町 南 側 酉 八 左 衛 門 喜 八 10 政 右 衛 門 三 郎 右 衛 門 酉 酉 八 左 衛 門 嘉 右 衛 門 26 10 太 右 衛 門 久 次 郎 酉 酉 八 左 衛 門 太 郎 兵 衛 26 10 八 兵 衛 与 兵 衛 酉 政 酉 八 左 衛 門 弥 次 右 衛 門 27 11 六 兵 衛 長 五 郎 酉 右 酉 八 左 衛 門 七 兵 衛 政 27 11 兵 五 郎 与 惣 右 衛 門 酉 衛 酉 八 右 衛 門 吉 兵 衛 右 27 11 長 兵 衛 市 右 衛 門 酉 門 酉 源 太 郎 八 右 衛 門 衛 27 11 源 兵 衛 五 兵 衛 酉 酉 源 太 郎 惣 右 衛 門 門 27 11 市 左 衛 門 庄 七 郎 酉 ( 妙 法 寺 ) 12 彦 左 衛 門 太 郎 左 衛 門 酉
酉 加 右 衛 門 平 六 ( 原 山 ) 12 利 右 衛 門 次 郎 右 衛 門 酉 酉 庄 兵 衛 庄 左 衛 門 28 12 甚 五 左 衛 門 平 左 衛 門 酉 酉 庄 兵 衛 新 五 右 衛 門 28 12 忠 右 衛 門 利 右 衛 門 酉 酉 利 右 衛 門 伝 八 28 12 喜 八 七 郎 兵 衛 酉 酉 利 右 衛 門 伊 兵 衛 28 ( 川 越 海 道 ) 酉 与 三 左 衛 門 弥 右 衛 門 28 12 佐 兵 衛 好 庵 酉 酉 与 三 左 衛 門 源 七 29 13 惣 左 衛 門 弥 五 左 衛 門 酉 酉 与 三 左 衛 門 佐 次 兵 衛 29 13 茂 左 衛 門 弥 五 左 衛 門 酉 (のみち) 13 郷 右 衛 門 市 左 衛 門 酉 酉 市 郎 兵 衛 平 八 29 13 善 左 衛 門 市 左 衛 門 酉 佐 酉 市 郎 兵 衛 五 兵 衛 29 13 六 左 衛 門 五 右 衛 門 酉 兵 酉 勘 十 郎 権 兵 衛 29 13 孫 市 甚 右 衛 門 酉 衛 酉 勘 十 郎 仁 兵 衛 29 13 藤 右 衛 門 甚 右 衛 門 酉 酉 九 郎 兵 衛 又 市 30 14 与 兵 衛 市 兵 衛 酉 佐 酉 九 郎 兵 衛 長 左 衛 門 30 14 利 左 衛 門 太 郎 兵 衛 寅 北 側 兵 南 側 寅 茂 兵 衛 勝 右 衛 門 30 14 佐 右 衛 門 助 兵 衛 寅 衛 寅 九 郎 右 衛 門 市 左 衛 門 ( 北 ) ( 府 中 海 道 ) ( 府 中 海 道 ) 14 権 兵 衛 彦 左 衛 門 寅 鎌 倉 海 道 添 寅 七 左 衛 門 吉 右 衛 門 30 14 与 左 衛 門 市 之 助 寅 南 側 寅 所 左 衛 門 勘 左 衛 門 30 15 長 五 郎 佐 次 右 衛 門 寅 寅 所 右 衛 門 徳 左 衛 門 30 弥 市 郎 次 郎 兵 衛 寅 寅 庄 左 衛 門 庄 右 衛 門 30 弥 市 郎 八 郎 兵 衛 寅 寅 庄 兵 衛 宇 平 次 31 ( 前 沢 海 道 ) 寅 市 右 衛 門 六 郎 兵 衛 31 15 重 右 衛 門 市 郎 兵 衛 寅 寅 八 兵 衛 次 郎 兵 衛 31 15 藤 八 平 右 衛 門 寅 寅 市 郎 兵 衛 三 右 衛 門 31 15 佐 吉 庄 五 郎 寅 寅 市 郎 兵 衛 庄 右 衛 門 31 次 右 衛 門 八 郎 右 衛 門 寅 彦 寅 孫 左 衛 門 長 兵 衛 31 重 五 郎 平 兵 衛 寅 八 ( 天 神 社 ) 彦 16 勘 右 衛 門 勘 左 衛 門 寅 寅 利 左 衛 門 与 五 右 衛 門 八 32 16 八 左 衛 門 八 右 衛 門 寅 寅 作 左 衛 門 利 右 衛 門 32 16 孫 左 衛 門 清 兵 衛 寅 寅 与 三 左 衛 門 次 郎 右 衛 門 16 七 郎 兵 衛 与 次 右 衛 門 寅 寅 久 兵 衛 彦 八 32 16 文 左 衛 門 三 郎 右 衛 門 寅 寅 長 左 衛 門 彦 惣 32 17 四 郎 左 衛 門 安 太 夫 寅 寅 仁 左 衛 門 茂 右 衛 門 32 17 五 平 次 安 太 夫 寅 寅 市 郎 兵 衛 又 兵 衛 33 安 右 衛 門 七 郎 右 衛 門 寅 寅 八 左 衛 門 重 郎 兵 衛 33 17 八 郎 兵 衛 市 郎 兵 衛 寅 寅 利 左 衛 門 忠 兵 衛 33 17 又 右 衛 門 又 右 衛 門 寅 寅 市 郎 兵 衛 彦 右 衛 門 33 17 又 四 郎 左 衛 門 長 兵 衛 亥 下 北 側 寅 忠 庵 藤 兵 衛 34 17 右 五 郎 左 衛 門 市 郎 兵 衛 亥 寅 忠 庵 太 左 衛 門 又 34 衛 元 兵 衛 市 郎 兵 衛 亥 下 南 側 亥 与 兵 衛 彦 助 右 34 門 元 兵 衛 市 郎 兵 衛 亥 亥 孫 右 衛 門 孫 右 衛 門 衛 34 18 九 兵 衛 市 郎 兵 衛 亥 亥 仁 兵 衛 五 兵 衛 門 34 18 伊 八 市 郎 兵 衛 亥 亥 仁 兵 衛 金 左 衛 門 35 18 喜 平 次 伝 蔵 亥
亥 浅 右 衛 門 惣 左 衛 門 35 18 忠 左 衛 門 三 郎 左 衛 門 亥 亥 浅 右 衛 門 権 左 衛 門 35 18 平 右 衛 門 庄 次 郎 亥 亥 助 左 衛 門 小 左 衛 門 35 は 天 明 7 年 に 有 り は 宝 暦 11 年 に 有 り 亥 助 左 衛 門 助 左 衛 門 35 は 別 名 は 別 の 場 所 に 有 り 亥 助 左 衛 門 佐 次 右 衛 門 35 は 頭 屋 敷 は 畑 地 亥 久 助 平 四 郎 35 又 右 衛 門 は 明 和 8 年 まで 頭 この 年 は 百 姓 代 南 東 北 この 図 は 延 宝 二 年 の 地 割 図 で 小 川 村 の 道 や 寺 社 及 び 名 主 家 といったアウトラインを 描 き 名 寄 帳 から 安 永 六 年 の 屋 敷 地 の 持 ち 主 と 検 地 時 の 所 有 者 及 び 検 地 年 と 地 名 を 地 図 に 落 とした 上 で 頭 の 管 轄 範 囲 を 示 すことによって 分 け の 実 態 を 表 記 し 頭 の 屋 敷 地 を 網 掛 けしたものです また 安 永 四 年 の 五 人 帳 によって 五 人 の 区 分 けを 順 番 に 数 字 に 置 き 換 えることによって 図 示 しました 但 し 名 寄 帳 と 五 人 帳 が 照 合 しないものについては 宝 暦 十 一 年 ( 一 七 六 一 )と 天 明 七 年 ( 一 七 八 七 )の 五 人 帳 を 参 照 して 符 号 を 付 けました この 図 によって 安 永 六 年 の 小 川 村 の を 見 ると 西 から 五 郎 兵 衛 九 左 衛 門 伴 蔵 八 郎 右 衛 門 政 右 衛 門 佐 兵 衛 彦 八 又 右 衛 門 の 八 に 分 かれ 頭 は 基 本 的 に 自 分 の に 居 住 しています しかし 五 郎 兵 衛 と 九 左 衛 門 は 自 分 の に 屋 敷 地 を 所 有 しておらず 頭 八 人 の 内 五 郎 兵 衛 九 左 衛 門 伴 蔵 八 郎 右 衛 門 の 四 人 ま でが 伴 蔵 の 南 側 に 屋 敷 地 を 持 っています また の 屋 敷 地 数 を 数 えると 五 郎 兵 衛 が 29 軒 九 左 衛 門 が 25 軒 伴 蔵 が 31 軒 八 郎 右 衛 門 が28 軒 政 右 衛 門 27 軒 佐 兵 衛 が 26 軒 彦 八 が 26 軒 又 右 衛 門 が 26 軒 となっていて ほぼ 平 均 した 軒 数 に 分 かれています また 五 人 については 明 らかに 北 側 の 西 端 から 東 端 へ 次 に 南 側 の 西 端 から 東 端 へといった 順 番 に5 人 から8 人 で 区 切 られており 三 十 五 の 五 人 が 存 在 します しかも 五 人 は 寺 社 や 名 主 の 所 有 地 を 除 いて の 範 囲 や 道 とも 関 係 なく 順 番 に 割 り 振 られており 二 重 に 屋 敷 を 持 っている 者 はどちらか 一 方 に み 込 まれています 以 上 のことから 又 右 衛 門 が 最 後 の に 移 ったのは 屋 敷 地 が 北 側 東 端 に 在 って 御 用 等 諸 事 勝 手 が 良 かったからだと 言 えます ちなみに 享 保 七 年 の は 五 郎 兵 衛 長 左 衛 門 兵 左 衛 門 八 郎 右 衛 門 善 兵 衛 伊 右 衛 門 源 右 衛 門 又 右 衛 門 の 八 で 安 永 六 年 の は 西 から 五 郎 兵 衛 九 左 衛 門 伴 蔵 八 郎 右 衛 門 政 右 衛 門 佐 兵 衛 彦 八 又 右 衛 門 となっています 九 左 衛 門 は 長 左 衛 門 を 継 ぎ 伴 蔵 は 兵 左 衛 門 を 政 右 衛 門 は 善 兵 衛 を 佐 兵 衛 は 伊 右 衛 門 を 彦 八 は 源 右 衛 門 を 継 承 しているわけですから 又 右 衛 門 を 最 後 に 移 すことによって 頭 の 居 住 地 の 順 に み 分 けができたことになります 図 1 小 川 村 み 分 け 地 割 図 によって や 五 人 についての 謎 が 解 け 安 永 六 年 の 小 川 村 の 家 並 みが 明 らかにな ったものと 思 われます 三 小 川 村 の 無 法 者 の 系 譜 ところで 頭 又 右 衛 門 は 寛 文 二 年 ( 一 六 六 二 )から 延 宝 八 年 ( 一 六 八 〇 )までの 名 主 と 入 村 者 の 村 方 騒 動 の 党 取 として 活 躍 した 人 物 であることは 既 に 前 集 で 述 べましたが 同 史 料 集 の 貞 享 三 年 ( 一 六 八 六 ) 閏 三 月 十 六 日 の 史 料 65 には 博 奕 打 ちの 党 取 として 姿 を 現 します この 史 料 によると 小 川 村 は 去 年 までは 静 かだったのに 今 年 になって 苗 木 が 引 き 取 られ 作 物 の 独 活 が 切 り 取 られ 薪 や 粗 朶 が 盗 み 取 られといったことが 起 きている これは 百 姓 仲 間 に 博 奕 打 ちが いて 村 中 の 子 供 や 召 使 い 等 の 若 輩 の 者 どもを 勧 誘 して 博 奕 をさせている 党 取 がいるからだとして 詮 議 したところ 頭 又 右 衛 門 同 伊 右 衛 門 立 のき 申 候 然 上 ハ 此 者 共 村 中 之 博 奕 打 党 取 ニ 紛 無 二 御 座 一 候 と 記 され 頭 又 右 衛 門 と 伊 右 衛 門 が 博 奕 打 の 党 取 に 間 違 いないと 言 っています このことが 単 なる 嫌 疑 に 終 わらずに 事 実 だったことが 次 の 翌 十 七 日 の 史 料 70 に 拙 者 儀 日 比 身 持 悪 敷 其 上 頭 ニ 而 罷 有 御 公 儀 様 御 法 度 之 博 奕 をこのみ 殊 ニ 世 間 之 ばくち 打 迄 出 入 為 レ 致 候 と 記 され 私 は 日 頃 から 身 持 ちが 悪 く 頭 でありながら 博 奕 を 好 み 世 の 中 の 博 奕 打 ちまで 出 入 りさせていると 言 っている ことによって 明 らかです そして 今 後 は 博 奕 を 打 つことは 言 うまでもなく 行 衛 の 知 れない 者 を 寄 せ 付 けないこと 公 事 等 の 取 り 持 ちをしないこと 百 姓 仲 間 で 小 百 姓 から 掠 め 取 り 言 いがかりをつけて 難 儀 をさせないことを 誓 約 し 起 請 文 を 差 し 出 しています また 三 月 二 十 四 日 の 史 料 71 は 前 欠 文 書 で 全 容 は 不 明 ですが 重 而 博 奕 宿 之 義 ハ 不 レ 及 レ 申 惣 而 用 所 無 レ 之 ニ 人 之 子 共 召 仕 之 者 引 入 候 而 あそばせ 申 間 敷 候 として 博 奕 宿 七 郎 兵 衛 と 伊 兵 衛 及 び 両 人 五 人 の
弥 左 衛 門 忠 左 衛 門 二 郎 兵 衛 三 右 衛 門 惣 兵 衛 源 左 衛 門 勘 右 衛 門 が 手 形 を 出 しています この 史 料 は 史 料 65 や 70 の 関 連 史 料 であり 又 右 衛 門 や 伊 右 衛 門 の 博 奕 宿 は 七 郎 兵 衛 と 伊 兵 衛 の 屋 敷 だったことが 分 かります このように 又 右 衛 門 は 絶 大 な 権 力 を 持 つ 名 主 に 対 して 訴 訟 を 起 こし 名 主 給 の 減 免 を 実 現 して 生 活 に 苦 しんでい た 入 村 者 達 の 経 済 的 な 負 担 を 軽 減 させることに 成 功 した 立 役 者 である 反 面 名 主 からの 借 金 の 返 済 を 訴 訟 によって 先 延 ばしするしたたかさを 持 ち 終 には 博 奕 打 ちの 党 取 として 村 中 の 子 供 や 召 使 い 等 の 若 輩 の 者 どもを 勧 誘 して 博 奕 をさ せる 無 法 者 となります 小 川 村 の 博 奕 の 史 料 の 初 出 は 延 宝 三 年 ( 一 六 七 五 )で 忠 左 衛 門 です( 史 料 14) 忠 左 衛 門 は 博 奕 宿 をしていたとし て 手 形 を 差 し 出 していますが この 忠 左 衛 門 の 屋 敷 は 延 宝 二 年 の 小 川 村 地 割 図 及 び 図 1で 明 らかなように 名 主 市 郎 兵 衛 の 屋 敷 の 二 軒 西 隣 です また 貞 享 三 年 ( 一 六 八 六 )に 又 右 衛 門 と 同 時 に 博 奕 打 ちの 党 取 として 名 前 の 上 がって いる 頭 伊 右 衛 門 は 史 料 66 によって 親 子 関 係 が 明 らかであり 伊 右 衛 門 親 平 兵 衛 と 記 されていますので 名 主 市 郎 兵 衛 屋 敷 の 十 軒 東 隣 の 平 兵 衛 の 悴 であることが 分 かります そして この 博 奕 宿 の 伊 兵 衛 と 七 郎 兵 衛 は 直 近 の 年 代 の 史 料 である 貞 享 元 年 の 年 貢 小 割 帳 (C-2 2)によって 当 人 と 五 人 の 印 鑑 が 符 合 することから 弥 兵 衛 に 属 している ことが 確 認 できます その 上 で 延 享 二 年 の 小 川 村 地 割 図 と 貞 享 元 年 の 年 貢 小 割 帳 との 照 合 によって 伊 兵 衛 は 名 主 屋 敷 の 三 軒 西 隣 であることが 分 かり 図 1と 元 禄 四 年 の 年 貢 小 割 帳 (C-2 5) 及 び 正 徳 元 年 の 名 寄 帳 (A-2 1)によって 七 郎 兵 衛 は 名 主 屋 敷 のすぐ 南 側 であったということが 判 明 します 初 期 の 博 奕 宿 が 三 軒 とも 全 て 名 主 屋 敷 のすぐ 近 く にあり 博 奕 の 党 取 をしていたのが 頭 であり その 頭 が 名 主 屋 敷 の 近 く 中 宿 に 居 るというのは 意 外 です しかし 意 外 なのはそれだけではなく 元 禄 七 年 ( 一 六 九 四 ) 五 月 には 小 川 寺 が 博 奕 宿 をしていたことが 露 見 しま す( 史 料 98) 本 来 ならば 悪 事 に 荷 担 しないように 諭 し 村 人 を 指 導 すべき 立 場 にある 檀 那 寺 が 博 奕 宿 になるという のですから 言 語 道 断 であり 治 安 の 悪 化 が 懸 念 されます そして 元 禄 十 四 年 ( 一 七 〇 一 ) 六 月 にはその 悪 い 予 感 が 的 中 するような 事 件 が 起 こります それは 史 料 112 見 るように 助 左 衛 門 の 所 に 六 月 六 日 の 夜 に 盗 賊 が 入 り 八 つ 程 の 品 物 が 盗 まれ 召 使 いの 左 次 兵 衛 に 嫌 疑 が 掛 かり 折 檻 されます その 結 果 盗 賊 は 村 内 の 彦 右 衛 門 与 次 兵 衛 左 次 兵 衛 の 三 人 であることが 判 明 して 土 地 屋 敷 諸 道 具 を 売 り 払 い 闕 所 所 払 いとなり 江 戸 追 放 の 処 罰 が 下 されます( 史 料 117 118) ちな みに 彦 右 衛 門 は 源 右 衛 門 に 住 んでいて 元 禄 十 年 には 一 町 八 反 九 畝 七 歩 の 土 地 を 所 有 しています( 同 C-2 9) しか も 史 料 114 に 此 度 中 宿 助 左 衛 門 内 ニ 盗 人 之 儀 ニ 付 拙 者 屋 敷 裏 ニて 今 月 六 日 ニはくち 御 座 候 ニ 付 貴 殿 内 由 兵 へ 打 候 而 金 子 三 両 まけ 候 ニ 付 助 左 衛 門 所 ニて 盗 仕 候 由 左 次 兵 衛 申 候 というわけで 博 奕 の 負 けを 取 り 返 すために 盗 みに 入 ったというのですから 博 奕 が 更 に 大 きな 犯 罪 の 引 き 金 になっていることは 明 白 です こうして 小 川 村 に 出 現 した 博 奕 の 風 潮 は 徐 々に 広 がっていきますし 次 の 村 方 騒 動 は 史 料 186 から 史 料 190 に 記 されているように 宝 暦 九 年 ( 一 七 五 九 ) 閏 七 月 に 友 右 衛 門 によって 引 き 起 こされます この 訴 訟 の 概 要 は 史 料 190 の 惣 百 姓 の 返 訴 状 によって 把 握 することができます それによれば 次 のように 記 されています 一 名 主 親 東 蟠 が 村 方 出 入 の 節 賄 賂 を 出 した 方 へ 有 利 な 取 り 計 らいをしていると 言 っているが 賄 賂 を 東 蟠 へ 差 し 出 した 者 は 一 人 もいない 一 幸 助 跡 目 相 続 の 事 で 東 蟠 が 慈 悲 の 心 で 婚 儀 を 整 えたのを 友 右 衛 門 は 後 家 の 家 代 金 を 横 領 するつもりで 邪 魔 をした 一 村 林 が 松 食 い 虫 で 枯 れたので 村 中 相 談 の 上 で 年 々 伐 り 取 り 玉 川 上 水 野 火 止 用 水 の 橋 や 呑 水 樋 口 等 の 掛 け 替 え 修 復 料 として 名 主 方 に 預 けた 二 十 両 は 元 文 四 年 から 寛 延 元 年 迄 は 東 蟠 方 で 行 い 村 中 立 ち 合 い 間 違 いなく 勘 定 が 済 んでいる それを 友 右 衛 門 は( 百 姓 達 に 割 り 返 すように 訴 え) 金 額 も 十 五 両 も 高 く 申 し 振 らしている 一 東 蟠 が 友 右 衛 門 に 頼 んで 村 方 より 質 物 を 借 り 受 けて 返 していないとゆすり 同 然 のことを 言 っているが 友 右 衛 門 の 口 入 れで 用 立 てた 者 は 一 人 もいない 却 って 友 右 衛 門 は 人 を 騙 し 衣 類 等 を 強 引 に 借 りて 返 却 が 滞 り 困 窮 している 者 がいる 一 寛 保 二 年 夏 の 麦 種 拝 借 金 五 十 七 両 を( 東 蟠 が 渡 さないと 言 っているが) 割 り 渡 し 請 け 取 っている 一 荏 胡 麻 芥 子 相 場 で 東 蟠 が 売 り 手 と 馴 れ 合 い 下 値 の 相 場 に 操 作 していると 言 っているが そのような 事 は 一 切 ない 一 友 右 衛 門 は 村 方 御 用 や 伝 馬 役 を 勤 めず 村 方 で 穴 埋 めしている 一 友 右 衛 門 は 撞 鐘 堂 建 立 のために 二 十 両 も 集 め 十 二 両 も 横 領 している 一 友 右 衛 門 は 困 窮 の 百 姓 が 竹 木 や 家 財 を 売 り 払 う 所 へ 頼 まれもしないのに 強 引 に 立 ち 合 い 代 金 を 払 わな
かったり 横 取 りしたりしている 一 友 右 衛 門 は 金 子 や 借 り 物 の 衣 類 を 持 っている 者 を 見 かければ 強 引 に 借 り 売 り 払 い 物 を 強 引 に 買 い 取 る 等 迷 惑 千 万 である 一 友 右 衛 門 は 百 姓 同 士 で 挨 拶 しているのを 差 し 置 いて 高 慢 な 態 度 をとるので 面 目 を 失 う しかも 惣 百 姓 が 尤 平 日 友 右 衛 門 世 悴 弁 治 同 様 之 悪 党 ニ 而 甚 以 迷 惑 至 極 仕 候 ( 中 略 ) 此 度 東 蟠 存 寄 之 仕 置 ヲ 請 不 レ 申 不 埒 之 事 共 申 掛 候 儀 人 情 も 不 レ 奉 レ 存 盗 人 同 前 之 悪 党 御 坐 候 上 ハ 此 度 ゆるかせニ 被 二 仰 付 一 候 ハヽ 中 々 小 川 村 相 立 申 間 敷 奉 レ 存 候 と 願 い 上 げており 友 右 衛 門 は 盗 人 同 前 の 悪 党 と 呼 ばれています ここに 描 かれている 友 右 衛 門 の 姿 は 名 主 の 親 東 蟠 に 対 して 言 いがかりをつけて 金 銭 を 出 させようとした り 村 人 達 に 対 しては 強 引 に 物 を 借 りたり 土 地 や 物 の 売 買 に 割 り 込 んで 仲 介 して 金 銭 を 横 領 したり 撞 鐘 堂 建 立 の 勧 進 元 として 金 を 集 めて 横 領 したりといった 悪 行 を 重 ねた 上 に 村 方 御 用 や 伝 馬 役 といった 一 人 前 の 百 姓 として 当 然 果 たさなければならない 勤 めを 他 人 に 押 しつけ 自 分 勝 手 で 横 暴 な 人 物 であり 盗 人 同 前 の 悪 党 と 呼 ばれていたことが 分 かります また この 年 には 十 月 に 重 兵 衛 が 博 奕 宿 をしたことによって 過 銭 二 貫 五 百 文 を 申 し 付 けられています( 史 料 191) この 時 は 五 人 と 隣 及 び 向 三 軒 までが 過 銭 を 取 り 立 てられ その 銭 を 残 りの 百 八 十 五 軒 に 二 十 九 文 宛 均 等 に 割 り 渡 しています 重 兵 衛 は 図 1の 五 郎 兵 衛 の 北 側 東 端 から 二 軒 目 で 上 宿 に 位 置 しています そして 宝 暦 十 一 年 ( 一 七 六 一 ) 三 月 の 史 料 198 には 友 右 衛 門 は 榛 名 山 代 参 のくじに 当 たり 路 用 銭 等 を 請 け 取 っているが 訴 訟 の 関 係 で 代 官 所 からいつ 呼 び 出 しがあるか 分 からないので 他 出 しないように 制 止 し ても 聞 き 入 れないので 頭 も 五 人 も 匙 を 投 げています その 上 同 年 五 月 には 近 所 に 出 掛 けると 言 って 出 走 してしまったことが 記 されています( 史 料 199) この 友 右 衛 門 は 明 和 三 年 ( 一 七 六 六 )の 史 料 232 に 茂 兵 衛 親 友 右 衛 門 と 記 されているところから 茂 兵 衛 の 親 であり 図 1の 八 郎 右 衛 門 に 属 して 中 宿 に 住 んで いたことが 分 かります この 後 暫 くは 博 奕 の 史 料 が 見 あたりませんが 文 化 元 年 ( 一 八 〇 四 ) 五 月 には 藤 蔵 が 重 五 郎 の 屋 敷 で 花 会 を 開 き 賭 勝 負 をしています( 史 料 298~304) この 時 の 過 料 銭 は 三 百 文 でした 藤 蔵 は 寛 政 五 年 ( 一 七 九 三 )の 宗 門 人 別 帳 (F-1 5)で 織 右 衛 門 の 悴 であることが 分 かりますので これも 図 1の 八 郎 右 衛 門 の 北 側 東 端 から 二 軒 目 に 位 置 し 中 宿 に 居 たことになります 藤 蔵 はその 後 文 政 六 年 ( 一 八 二 三 )にも 博 奕 をして 手 鎖 になっています( 史 料 313) そして いよいよ 幸 八 と 幸 蔵 の 登 場 となります 小 川 の 幸 蔵 については 既 に 諸 家 文 書 目 録 の 解 題 の 三 章 小 川 の 幸 蔵 の 実 像 で 触 れ 多 摩 のあゆみ 第 73 号 では 侠 客 小 川 の 幸 蔵 と 五 十 両 の 卵 焼 き と して 紹 介 したところです また 北 原 糸 子 氏 が 不 行 跡 者 と 博 奕 打 村 の 悪 党 をめぐって ( 日 本 村 落 史 講 座 7 生 活 Ⅱ 近 世 雄 山 閣 平 成 2 年 )で 論 究 し 最 近 では 高 尾 善 希 氏 が 博 徒 小 川 の 幸 蔵 とその 時 代 史 実 の 小 川 の 幸 蔵 からみる 幕 末 博 徒 ( 近 世 における 地 域 支 配 と 文 化 大 河 書 房 2003 年 ) で 研 究 が 進 められていますので 詳 しくはこれらの 研 究 を 参 照 いただきたいと 思 います しかし ここで 改 めて 幸 八 と 幸 蔵 について 取 り 上 げることによって この 章 でこれまでに 紹 介 してきた 事 例 との 関 連 を 辿 って みたいと 思 います 幸 八 については 文 化 八 年 ( 一 八 一 一 )の 宗 門 人 別 帳 (F-1 13)に 喜 八 悴 八 才 として 記 されています しか し その 父 喜 八 は 文 政 二 年 ( 一 八 一 九 )には 亡 くなっているようで(F-1 21) この 時 幸 八 は 十 五 才 です その 幸 八 も 天 保 十 四 年 ( 一 八 四 三 )には 記 録 されておらず(F-1 24) この 時 幸 八 の 悴 幸 蔵 は 十 一 才 です 史 料 322 に 忠 兵 衛 申 口 として 私 義 三 ケ 年 以 前 より 市 五 郎 勘 蔵 両 人 引 請 け 相 成 り 幸 八 店 横 居 住 罷 在 候 処 と 記 されており 幸 八 は 天 保 五 年 ( 一 八 三 四 )に 店 を 営 んでいたことが 分 かります ところが 史 料 350 に 見 るように 天 保 十 三 年 ( 一 八 四 二 ) 八 月 十 四 日 に 賭 勝 負 を 開 催 していた 現 場 に 踏 み 込 まれ 銭 やかるたを 差 し 押 さえられます しかし 当 人 はその 場 をすり 抜 けて 逃 げ 去 りますが 当 人 身 分 ハ 兎 も 角 一 軒 退 転 ニも 相 成 候 而 ハ 不 便 之 次 第 厚 御 勘 弁 被 二 成 下 一 御 慈 愛 を 以 今 般 之 儀 も 品 物 御 差 出 之 義 ハ 御 勘 弁 之 上 私 共 へ 御 預 ケ 置 当 人 幸 八 立 戻 り 候 ハヽ 合 より 能 々 御 趣 意 之 趣 申 諭 已 後 改 心 帰 農 決 而 人 寄 セケ 間 敷 義 為 レ 致 間 敷 候 と 五 人 の 勝 五 郎 と 政 右 衛 門 が 請 合 って 代 官 所 へは 届 けず 当 人 が 帰 ってきたら 合 からよく 諭 して 改 心 さ せ 農 業 に 励 ませるということになり 九 月 三 日 には 已 後 ハ 所 々 突 合 等 も 相 止 小 売 酒 渡 世 相 始 メ 罷 在 候 得 共 素 々 不 身 持 之 私 自 然 身 持 不 レ 宜 もの 等 立 入 可 レ 申 哉 之 御 推 察 御 尤 至 極 此 上 ハ 急 度 心 附 といった 詫 証 文 を
出 して 許 されています それにも 係 わらず 十 月 十 八 日 の 夜 に 幸 八 は 野 口 村 の 正 福 寺 で 小 川 村 の 辰 五 郎 と 口 論 の 上 重 傷 を 負 わせて しまいます( 史 料 353) そして 史 料 354 によると 辰 五 郎 はこの 傷 が 元 で 二 十 三 日 に 死 亡 してしまい 幸 八 は 逃 亡 したまま 行 衛 知 れずになり 翌 年 五 月 には 村 方 人 別 除 帳 仕 候 ということで 人 別 帳 から 外 されて しまいます その 後 召 捕 らえられて 事 情 調 査 の 結 果 次 のようなことが 明 らかになります 辰 五 郎 の 所 に 居 た 岩 五 郎 と 幸 八 の 所 に 居 た 治 助 の 博 奕 の 貸 借 から 口 論 になり 幸 八 は 辰 五 郎 所 沢 村 無 宿 鉄 五 郎 保 谷 村 無 宿 巳 太 郎 田 無 村 無 宿 岩 五 郎 久 米 川 村 無 宿 増 五 郎 の 五 人 を 相 手 に 喧 嘩 をしたということです これはどう 見 ても 博 徒 の 出 入 りであり この 事 件 により 幸 八 は 無 宿 の 博 徒 になったとみて 間 違 いないだろうと 思 われま す 捕 縛 された 幸 八 がその 後 どうなったのかは 分 かりませんが この 時 悴 の 幸 蔵 は 十 一 才 で 母 叔 父 叔 母 姉 弟 の 六 人 家 族 です 弘 化 二 年 ( 一 八 四 五 )の 宗 門 人 別 帳 (F-1 26)には 叔 父 と 叔 母 の 名 前 はなく 十 三 才 の 幸 蔵 が 家 を 支 える 立 場 に 置 かれます 幸 八 が 無 宿 になったと 言 いましたが この 時 代 になると 小 川 村 にも 少 なからず 無 宿 人 が 居 たことが 天 保 十 五 年 ( 一 八 四 四 ) 十 一 月 の 史 料 363 によって 明 らかです この 史 料 によると 一 忠 五 郎 は 普 段 に 酒 食 商 いをしており 昼 夜 の 差 別 なく 無 宿 共 が 立 ち 寄 っている また 内 の 若 者 を 無 宿 の 手 合 いに 加 わらせ 度 々 博 奕 をさせている 一 辰 五 郎 外 六 人 の 者 は 先 日 坂 上 久 五 郎 宅 で 召 し 捕 らえられた 無 宿 安 五 郎 の 手 合 いに 加 わり 博 奕 をしている 一 久 五 郎 は 普 段 に 無 宿 の 者 共 を 置 いて 博 奕 をさせ 先 日 手 入 れの 節 に 博 奕 をしていた 無 宿 安 五 郎 が 召 し 捕 ら えられた 一 国 八 外 二 人 は 安 五 郎 手 合 いに 加 わり 忠 五 郎 方 で 博 奕 をしていた という 趣 旨 のことが 記 されており 二 十 四 人 の 者 が 博 奕 に 携 わったとして 合 預 けとなり 連 印 の 請 書 を 差 し 出 しています このことから 居 酒 屋 を 営 んでいる 忠 五 郎 店 や 坂 上 の 久 五 郎 宅 には 普 段 から 無 宿 人 共 が 出 入 りしており 若 者 たちを 誘 って 博 奕 をしていることが 明 るみに 出 ています ところで 幸 八 の 家 はどこに 在 ったのでしょうか それが 大 きな 問 題 だと 思 われます 幸 八 の 家 は 何 と 図 1 八 郎 右 衛 門 の 北 側 東 端 の 喜 八 の 家 ですから 藤 蔵 の 家 の 隣 であり 友 右 衛 門 の 家 の 近 くで 在 ったことが 分 かります また 中 宿 は 忠 左 衛 門 や 伊 左 衛 門 以 来 の 博 奕 打 ちを 輩 出 しており この 地 域 から 幸 八 が 出 たこと は 偶 然 の 結 果 ではなく 無 法 人 の 系 譜 に 繋 がる 地 域 であることが 少 なからず 影 響 していたと 言 えるのではな いでしょうか このような 時 代 背 景 と 家 庭 環 境 の 中 で 幸 蔵 は 父 の 歩 んだ 博 徒 の 道 へ 進 んでいくわけですが 幸 八 が 召 し 捕 らえられた 時 悴 の 幸 蔵 は 十 一 才 で 母 叔 父 叔 母 姉 弟 の 六 人 暮 らしです しかし 島 流 しになった 翌 年 弘 化 二 年 ( 一 八 四 五 )の 宗 門 人 別 帳 ( 小 川 家 文 書 )には 叔 父 と 叔 母 の 名 前 はなく 十 三 才 の 幸 蔵 が 母 とらを 支 えて 家 を 守 る 立 場 に 置 かれます その 幸 蔵 が 歴 史 の 表 舞 台 に 登 場 するのは 二 十 四 歳 の 時 です 安 政 3 年 ( 一 八 五 六 ) 六 月 の 預 り 証 文 史 料 382 に 見 るように 幸 蔵 と 弟 の 梅 五 郎 は 捕 縛 されて 縄 手 鎖 のまま 小 川 村 預 けとなり 番 人 足 が 付 けられています この 時 の 経 過 を 記 した 史 料 420 によると 当 村 無 宿 幸 蔵 儀 当 拾 四 ケ 年 前 辰 年 六 月 十 四 日 隣 村 野 口 村 天 王 祭 礼 え 幸 蔵 并 ニ 弟 梅 次 郎 伝 六 三 人 連 ニて 罷 越 同 村 百 姓 新 右 衛 門 悴 外 壱 人 え 喧 嘩 仕 掛 所 持 之 短 刀 ヲ 以 疵 為 F-1 26 レ 負 候 ということで 安 政 三 年 六 月 十 四 日 に 野 口 村 天 王 社 ( 現 八 坂 神 社 )の 祭 礼 に 出 掛 けて 喧 嘩 となり 相 手 を 短 刀 で 傷 つけてしまいます この 結 果 幸 蔵 はその 場 から 逃 亡 して 人 別 帳 から 外 され 無 宿 となります これは 十 四 年 前 の 父 幸 八 の 事 件 と 同 じパターンで 結 局 幸 蔵 も 無 宿 人 になってしまいます しかも 同 人 叔 父 甚 蔵 と 申 もの 豆 腐 屋 渡 世 罷 在 同 人 方 ニて 雇 置 候 職 人 名 前 失 念 右 之 もの 〆 殺 御 上 水 え 投 込 候 という ことで 豆 腐 屋 を 営 んでいる 叔 父 甚 蔵 の 職 人 を 絞 め 殺 して 玉 川 上 水 に 投 げ 込 むという 旧 悪 人 殺 し 事 件 を 起 し ているというのです その 後 の 幸 蔵 の 消 息 について 諸 家 文 書 目 録 の 解 題 ( 前 掲 書 73 ページ~75 ページ)を 要 約 すると 次 の ようになります こうして 無 宿 人 になった 幸 蔵 は 十 年 後 の 慶 応 二 年 ( 一 八 六 六 ) 九 月 に 田 無 村 の 名 主 半 兵 衛 の 取 り 計 らいで 小 川 新 田 の 名 主 弥 一 郎 の 親 準 平 を 通 じて 今 後 は 改 心 して 農 業 に 従 事 したい と 詫 びを 入 れ 代 官 所 に 帰 住 願 が 出 されて 再 び 小 川 村 に 立 戻 ることになります 幸 蔵 はこうして 小 川 村 に 帰 住 したもののとても 農 業 に 精
出 すことにはならなかったようで 明 治 二 年 ( 一 八 六 九 ) 五 月 には 八 王 子 宿 で 糸 繭 商 人 の 繭 売 買 取 扱 の 問 題 で 民 部 省 に 訴 えられ 吟 味 中 の 七 月 二 日 に 再 び 逃 亡 します そして 翌 三 年 五 月 二 十 八 日 には 永 尋 者 として 再 び 無 宿 人 となります しかし 今 度 の 逃 亡 生 活 は 永 続 きせず 同 年 九 月 三 日 山 口 町 谷 村 で 所 沢 村 の 名 主 詳 平 に 捕 縛 され 明 治 四 年 ( 一 八 七 一 ) 五 月 二 十 四 日 には 親 分 と 称 して 長 脇 差 を 差 し 博 奕 を 行 い 脅 迫 する 等 の 所 業 で 准 流 五 ケ 年 の 刑 に 処 せられています その 後 も 幸 蔵 は 改 心 することなく 明 治 十 二 年 ( 一 八 七 九 ) 十 一 月 二 十 九 日 から 十 五 年 ( 一 八 八 二 ) 五 月 二 十 六 日 まで 八 王 子 警 察 署 に 入 監 し 十 七 年 ( 一 八 八 四 ) 六 月 十 一 日 に 懲 罰 四 年 の 刑 で 同 署 に 入 監 中 肋 膜 兼 肺 炎 で 獄 死 しています 五 十 一 歳 の 生 涯 でした 幸 蔵 は 親 分 と 呼 ばれ 長 脇 差 を 差 し 博 奕 を 事 として 脅 迫 がましい 所 業 を 行 なっていたことが 分 かりますが 所 業 の 内 容 を 史 料 459 によってもう 少 し 具 体 的 に 追 ってみると 次 のようになります 幸 蔵 は 若 い 頃 から 博 奕 渡 世 を 専 門 とする 悪 風 を 好 む 性 質 で 盗 心 があり 御 法 度 であるにも 拘 らず 村 内 は もとより 近 村 までも 帯 刀 して 公 然 と 往 来 する 大 変 な 大 悪 徒 である また 博 徒 からはかすりと 称 して 大 金 を 取 上 げ 悪 徒 の 中 でも 親 分 として 悪 事 を 働 いている 村 方 だけでも 五 六 百 両 の 借 金 をして 一 向 に 返 済 せず 催 促 をすれば 却 って 仕 返 しをされるのでそのままに 打 ち 捨 て ただ 歎 息 をついている 外 はない 無 宿 人 共 の 子 分 を 抱 えて 悪 事 見 分 と 称 して 悪 行 を 働 いている これも 御 取 締 筋 の 御 用 を 勤 めているからで 御 用 と 称 し てどんな 事 をされるかと 片 時 も 安 心 できずに 恐 々として 暮 らしている 幸 蔵 の 手 下 子 分 と 称 するものは 五 十 人 余 も 居 て 酔 い 倒 れの 者 を 見 付 けては 博 奕 に 誘 って 大 金 の 負 債 を 負 って 家 に 帰 れない 者 も 居 る そして 幸 蔵 の 暮 らしている 家 はといえば 三 百 両 も 掛 けて 建 てたものだというのである また 史 料 460 に 記 されている 話 は 侠 客 小 川 の 幸 蔵 と 五 十 両 の 卵 焼 き ( 多 摩 のあゆみ 第 七 十 三 号 たましん 地 域 文 化 財 団 平 成 5 年 11 月 123 ページ~125 ページ 所 収 )に 紹 介 してありますので 詳 しくは そちらを 参 照 していただくとして ここでは 概 要 だけを 記 しておきたいと 思 います ある 日 幸 蔵 の 経 営 する 茶 屋 に 一 人 の 酔 客 が 来 て 極 上 の 品 物 を 注 文 したのでした それを 聞 いた 幸 蔵 は 何 食 わぬ 顔 でこの 客 に 卵 焼 きを 出 したのです ところが この 客 は 翌 日 七 十 五 両 の 請 求 書 を 突 き 付 けられて 腰 を 抜 かしてしまいます 昨 夜 出 した 料 理 は 極 上 の 品 物 を という 注 文 だったので 外 国 から 輸 入 した 特 別 の 卵 焼 き で 卵 一 個 二 十 五 両 のものを 二 個 使 ったので 材 料 費 が 五 十 両 その 他 に 酒 食 代 が 二 十 五 両 で 合 計 七 十 五 両 の 請 求 だというのです これはあまりにも 法 外 な 話 ですが この 客 は 結 局 五 十 二 両 を 支 払 って 勘 弁 してもらったというのです 異 国 の 卵 というのがそれ 程 に 説 得 力 のある 時 代 だったのかも 知 れません が それだけに 幸 蔵 の 時 代 感 覚 の 鋭 さと 頭 の 良 さには 驚 かされます 小 川 村 での 博 奕 の 最 初 は 延 宝 年 間 で 開 発 着 手 後 二 十 年 も 経 たない 内 の 出 来 事 で 名 主 屋 敷 のすぐ 近 くで 博 奕 宿 をしています その 次 が 貞 享 年 間 の 又 右 衛 門 と 伊 右 衛 門 で 二 人 とも 頭 です この 時 の 博 奕 宿 も 名 主 屋 敷 のすぐ 近 くです この 時 代 は 厳 しい 処 罰 をされずに 今 後 博 奕 をしないという 本 人 と 五 人 の 誓 約 書 と 起 請 文 で 済 まされており 二 人 ともその 後 も 頭 を 務 め 続 けます 元 禄 年 間 には 中 宿 の 百 姓 が 盗 難 に 遭 い その 盗 賊 として 下 宿 の 彦 右 衛 門 が 捕 縛 され 土 地 屋 敷 諸 道 具 を 売 り 払 い 闕 所 所 払 いとなり 江 戸 追 放 という 大 変 厳 しい 処 罰 が 下 されます 宝 暦 年 間 には 中 宿 の 友 右 衛 門 が 名 主 相 手 に 言 いがかりをつけ 村 人 の 金 銭 を 横 領 し 村 の 勤 めを 果 たさず 自 分 勝 手 で 横 暴 な 振 る 舞 いをして 盗 人 同 前 の 悪 党 と 呼 ばれていますが 頭 も 五 人 も 制 止 できなくなっています また 上 宿 の 重 兵 衛 は 博 奕 宿 をしたことによって 本 人 はもとより 五 人 や 向 三 軒 まで 過 料 銭 を 支 払 わされています 文 化 文 政 年 間 には 中 宿 の 藤 蔵 が 花 会 の 賭 け 事 で 過 料 銭 を 支 払 わせられ 博 奕 では 手 鎖 となっています 文 化 文 政 年 間 までは 彦 右 衛 門 や 友 右 衛 門 の 事 例 を 除 き 農 業 に 従 事 して 散 発 的 で 手 慰 み 程 度 の 博 奕 が 主 流 の 無 法 者 だったものが 天 保 年 間 の 仲 宿 の 幸 八 になると 居 酒 屋 を 営 み 徒 党 を んで 喧 嘩 出 入 りをして 人 殺 しをす るようになります また 無 宿 人 が 普 段 から 居 酒 屋 等 に 出 入 りして 博 奕 に 係 わる 人 数 が 増 え 二 十 人 を 超 え る 者 が 預 けになっています 安 政 年 間 以 降 の 幸 蔵 になると 親 分 と 呼 ばれ 長 脇 差 を 差 し 博 奕 を 事 として 脅 迫 がましい 所 業 を 行 ない 博 徒 からはかすりと 称 して 大 金 を 取 上 げ 無 宿 人 共 の 子 分 を 抱 えて 悪 事 見 分 と 称 して 悪 行 を 働 いているが 御 取 締 筋 の 御 用 を 勤 め 手 下 子 分 と 称 するものは 五 十 人 余 も 居 るので 名 主 も 手 が 出 せない 状 態 になっています 四 あとがき 今 回 は 小 川 村 の と 五 人 及 び 小 川 村 の 無 法 者 の 系 譜 について 触 れてみました 安 永 七 年 頃 の 町 並 みを 復 元 するこ とによって 小 川 村 がどのように 分 けされていたのかが 分 かり 五 人 が 青 梅 街 道 北 側 の 西 端 から 東 へ 向 けて 順 番
に 分 けられ 次 に 南 側 の 西 端 から 東 に 向 けて 分 けられていたことが 判 明 しました また 小 川 村 の 無 法 者 の 系 譜 を 辿 ることによって 様 々な 形 で 挫 折 し 困 窮 した 村 人 が 世 間 や 権 力 に 対 して 抵 抗 したり 貨 幣 経 済 の 坩 堝 の 中 で 博 奕 に 僥 倖 を 求 めたりしていく 生 き 様 が 見 えてきたかと 思 われます このような 時 代 背 景 の 中 で 小 川 村 からは 幸 八 や 幸 蔵 といった 博 徒 の 親 分 が 現 われ 激 動 の 時 代 をしたたかに 生 きた 人 間 像 に 触 れることができました この 史 料 集 にはこの 外 にも 病 気 や 火 事 不 図 家 出 をして 旅 に 出 る 事 例 など 興 味 の 尽 きないテーマも 数 多 く ありますが それらのことについては 別 の 機 会 に 譲 ることにして 今 回 はここまでにしたいと 思 います 最 後 になりましたがこの 史 料 集 の 作 成 に 当 たり 原 文 の 解 読 は 梅 林 富 子 加 藤 とみ 小 林 正 雄 小 堀 恵 美 子 藤 井 一 栄 の 各 氏 にお 願 いし 校 訂 と 解 題 作 成 は 蛭 田 廣 一 が 行 いました また 印 刷 のための 原 稿 作 成 は 古 文 書 嘱 託 の 三 野 行 徳 が 担 当 し 岡 田 美 枝 子 さんと 羽 山 淳 子 さんに 労 を 煩 わしました 関 係 各 位 の 尽 力 に 感 謝 します 平 成 十 七 年 一 月 二 十 一 日 小 平 市 中 央 図 書 館