或 問 WAKUMON 49 No.21,(2011)pp.49-57 17 世 紀 中 葉 18 世 紀 中 葉 における 暹 羅 船 の 中 国 日 本 への 蘇 木 輸 出 王 竹 敏 要 旨 : 蘇 木 は 南 方 の 熱 帯 地 方 に 産 する 豆 科 の 常 緑 樹 であり 古 来 より 蘇 方 蘇 枋 蘇 芳 とも 記 され 赤 色 の 染 料 または 鎮 痛 剤 などの 薬 剤 として 珍 重 されてきた そのため 14-15 世 紀 の 東 アジアでは 明 朝 中 国 琉 球 日 本 暹 羅 の 間 に 蘇 木 をめぐる 貿 易 が 展 開 されて きた しかし 17-18 世 紀 において 繁 栄 した 蘇 木 貿 易 とはどのようなものであったか また 日 本 と 中 国 における 蘇 木 の 使 用 の 差 異 について 充 分 に 検 討 されていない そこで 本 稿 は 17 世 紀 中 葉 18 世 紀 中 葉 の 暹 羅 国 から 中 国 や 日 本 へ 輸 出 された 蘇 木 の 貿 易 の 情 況 と 中 国 日 本 両 国 における 蘇 木 の 消 費 状 況 について 明 らかにしたい キーワード:17 世 紀 中 葉 18 世 紀 中 葉 暹 羅 蘇 木 中 国 日 本 1 はじめに 暹 羅 国 は 東 南 アジアに 位 置 し 東 西 航 路 の 中 継 地 として 優 れた 地 理 的 条 件 にあり 東 南 アジ アにおける 貿 易 の 重 要 な 拠 点 の 一 つであった 明 清 時 代 の 暹 羅 国 は 国 王 をはじめとする 王 室 が 独 占 貿 易 を 実 施 していた その 暹 羅 国 の 輸 出 品 は 基 本 的 に 同 国 の 特 産 物 で 構 成 されていた 暹 羅 国 から 中 国 や 日 本 へ 輸 出 された 最 大 のものが 蘇 木 であった 1 蘇 木 は 古 来 より 蘇 方 蘇 枋 蘇 芳 とも 記 され 南 方 の 熱 帯 地 方 に 産 する 豆 科 の 常 緑 樹 であ り 古 くから 赤 色 の 染 料 の 材 料 として また 鎮 痛 剤 などの 薬 剤 として 珍 重 されてきた 2 特 に 蘇 木 は 赤 と 紫 の 染 料 とし 布 地 や 衣 服 の 染 色 に 使 用 された 14-15 世 紀 の 東 アジアでは 明 朝 中 国 琉 球 日 本 暹 羅 の 間 に 蘇 木 をめぐる 貿 易 が 見 られる 琉 球 国 は 暹 羅 国 からもたらされた 蘇 木 を 朝 貢 品 として 中 国 へ 輸 出 した また 日 本 も 琉 球 からもた らされた 蘇 木 を 朝 貢 品 として 遣 明 船 で 中 国 に 輸 出 した 永 享 四 年 (1432) 度 の 遣 明 船 では 10,600 1 乾 隆 廣 東 通 志 巻 五 十 八 永 積 洋 子 編 唐 船 輸 出 入 品 数 量 一 覧 (1637~1833) ( 創 文 社 1987 年 2 月 )を 参 照 2 小 葉 田 淳 中 世 南 島 通 交 貿 易 史 の 研 究 日 本 評 論 社 1939 年 1 月 田 中 健 夫 蘇 木 貿 易 国 史 大 辞 典 8 吉 川 弘 文 館 昭 和 62 年 9 月 662 頁
50 或 問 第 21 号 (2011) 斤 を 輸 出 し さらに 宝 徳 三 年 (1451) 度 の 場 合 は 実 に 106,000 斤 の 多 量 に 達 したとされる 3 このような 状 況 から 15 世 紀 の 東 アジアにおける 蘇 木 貿 易 が 注 目 されてきた 曽 我 部 静 雄 氏 4 は 15 世 紀 の 日 本 が 東 南 アジアから 琉 球 を 経 由 してもたらされた 蘇 木 が 日 本 からさらに 中 国 へ 再 輸 出 された 事 実 を 解 明 した 金 柄 夏 氏 5 は 15 世 紀 前 半 から 日 本 が 朝 鮮 に 対 して 大 量 の 南 海 産 品 特 に 蘇 木 を 輸 出 したことを 明 らかにした 島 田 竜 登 氏 6 は 長 崎 来 航 の 唐 船 来 航 の 航 路 の 変 化 に よって 不 足 した 蘇 木 に 対 して 近 世 日 本 では 国 産 代 替 化 の 問 題 が 派 生 したとしている そこで 本 稿 は これまでの 先 学 の 成 果 において 看 過 された 17 世 紀 中 葉 ~18 世 紀 中 葉 の 暹 羅 国 から 中 国 や 日 本 に 輸 出 された 蘇 木 貿 易 の 実 情 を 明 らかにするとともに 中 国 や 日 本 両 国 における 蘇 木 の 消 費 状 況 について 考 察 したい 2 暹 羅 国 船 による 中 国 日 本 への 蘇 木 輸 出 暹 羅 国 は 歴 代 の 首 都 をメコン 川 辺 に 設 置 したため 帆 船 が 重 要 な 交 通 輸 送 手 段 であった こ のことは 都 市 を 中 心 に 統 治 した 皇 室 の 独 占 貿 易 に 便 宜 を 提 供 した Somdet Phra Songtham 王 (1620-1628)が 皇 室 による 独 占 貿 易 を 確 立 した 後 に 皇 室 は 独 占 品 目 を 初 期 の 貴 重 品 から 日 常 用 品 にまで 拡 大 している 7 暹 羅 皇 室 の 独 占 貿 易 の 品 目 は 基 本 的 には 暹 羅 国 の 特 産 物 であった 永 楽 年 間 における 鄭 和 の 航 海 に 同 行 した 馬 歓 の 瀛 涯 勝 覧 や 費 信 の 星 槎 勝 覧 には 暹 羅 の 特 産 物 が 記 録 されている 馬 歓 の 瀛 涯 勝 覧 8 には 暹 羅 国 の 特 産 品 として 次 のものを 掲 げている 其 国 産 黃 連 香 羅 褐 速 香 將 真 香 沉 香 花 梨 木 白 豆 蔻 大 風 子 血 褐 藤 結 蘇 木 花 錫 象 牙 翠 毛 等 物 其 蘇 如 薪 之 廣, 顏 色 絶 勝 他 国 費 信 の 星 槎 勝 覧 9 にも 暹 羅 国 の 特 産 品 に 蘇 木 が 見 られる 地 産 羅 斛 香 大 風 子 油 蘇 木 犀 角 象 牙 翠 毛 黃 蠟 以 上 のように 暹 羅 国 の 特 産 物 には 蘇 木 を 含 め 香 料 薬 草 などがあった このことから 暹 羅 国 では 蘇 木 が 大 量 に 産 出 され 暹 羅 国 のみならず 各 国 に 搬 出 された その 蘇 木 は 染 料 として 色 も 鮮 やかであり 暹 羅 国 以 外 の 国 々 産 のものよりも 奇 麗 であったことがわかる このように 暹 羅 国 は 蘇 木 を 重 要 な 輸 出 品 として 東 アジア 各 国 と 貿 易 していた 3 小 葉 田 淳 中 世 南 島 通 交 貿 易 史 の 研 究 日 本 評 論 社 1939 年 1 月 4 5 6 田 中 健 夫 蘇 木 貿 易 国 史 大 辞 典 8 吉 川 弘 文 館 昭 和 62 年 9 月 662 頁 曽 我 部 静 雄 日 華 貿 易 史 上 における 蘇 木 文 化 1951 年 7 月 11~21 頁 金 柄 夏 李 朝 前 期 における 対 日 蘇 木 取 引 大 阪 大 学 経 済 学 1966 年 5 月 17~48 頁 島 田 竜 登 唐 船 来 航 ルートの 変 化 と 近 世 日 本 の 国 産 代 替 化 蘇 木 紅 花 を 事 例 として 早 稲 田 経 済 学 研 究 1999 年 9 月 59-71 頁 7 8 9 石 維 有 暹 羅 王 室 在 壟 断 貿 易 中 重 用 華 僑 的 原 因 東 南 亜 縱 横 2004 年 5 月 53~57 頁 馬 歓 瀛 涯 勝 覧 中 華 書 局 1985 年 28~32 頁 費 信 星 槎 勝 覧 ( 台 北 ) 廣 文 書 局 1969 年 7 月 16~17 頁
17 世 紀 中 葉 -18 世 紀 中 葉 における 暹 羅 船 の 中 国 日 本 への 蘇 木 輸 出 ( 王 ) 51 19 世 紀 20 年 代 まで 暹 羅 国 王 は 錫 象 牙 燕 巣 胡 椒 砂 糖 蘇 木 犀 角 などの 七 種 類 の 商 品 を 他 国 に 輸 出 する 独 占 貿 易 を 展 開 していた 1) 暹 羅 国 と 中 国 との 蘇 木 貿 易 暹 羅 国 が 中 国 との 間 で 行 った 貿 易 は 主 に 朝 貢 による 貿 易 であり その 朝 貢 貿 易 により 様 々な 貨 物 を 中 国 へ 運 んだ 中 国 との 貿 易 を 通 じて 300% 程 に 至 る 利 益 を 得 たとされる そして 暹 羅 国 の 朝 貢 船 が 中 国 に 来 航 した 際 に 中 国 側 で 圧 艙 貨 物 と 呼 称 される 底 荷 として 大 量 の 蘇 木 を 中 国 へ もたらした 10 乾 隆 廣 東 通 志 11 と 明 清 史 料 に 見 る 档 案 によって 17 世 紀 中 葉 -18 世 紀 中 葉 において 暹 羅 国 から 朝 貢 貿 易 により 中 国 の 皇 帝 及 び 皇 后 に 献 上 された 蘇 木 の 数 量 を 表 1 に 作 成 した 暹 羅 国 による 清 朝 中 国 への 朝 貢 が 康 煕 雍 正 年 間 に 合 計 9 回 が 見 られ 康 煕 二 十 三 年 (1684) や 雍 正 十 三 年 (1735)の 記 録 が 残 されていないことを 除 いて この 表 1 から 暹 羅 国 から 中 国 へも たらされた 蘇 木 は 基 本 的 に 毎 次 皇 帝 に 3,000 斤 や 皇 后 に 1,500 斤 にのぼっていた 暹 羅 国 から 中 国 への 朝 貢 品 の 重 要 な 品 目 として 蘇 木 は 明 代 以 来 重 要 な 位 置 を 占 めていた 12 2) 暹 羅 国 の 日 本 への 蘇 木 貿 易 暹 羅 国 は 清 朝 中 国 へ 朝 貢 するのみならず 中 国 の 朝 貢 国 でない 日 本 へも 貿 易 船 を 派 遣 している 17-18 世 紀 の 長 崎 へ 蘇 木 をも たらした 国 は 暹 羅 国 意 外 に 福 建 からの 安 海 船 やカンボジア からの 柬 埔 寨 船 そしてベトナ ムからの 広 南 船 などがあった 暹 羅 国 から 長 崎 へ 来 航 した 商 船 は 慶 安 四 年 (1651) 年 から 毎 年 一 艘 程 度 があった その 中 には 東 南 アジアあるいは 台 湾 より 暹 羅 国 に 貿 易 に 赴 き 暹 羅 国 で 貨 物 を 積 載 した 後 に 長 崎 へ 来 航 した 船 もあり また 暹 羅 国 に 居 住 する 華 人 の 商 船 もあ 表 1 清 康 煕 雍 正 年 間 に 暹 羅 国 が 中 国 に 輸 出 した 蘇 木 蘇 木 ( 斤 ) 年 号 中 国 歴 西 暦 皇 帝 皇 后 二 年 十 二 月 1663 3000 1500 六 年 六 月 1667 3000 1500 康 煕 十 年 十 一 月 1671 3000 1500 二 十 三 年 六 月 1684 3000 1500 四 十 七 年 二 月 1708 六 十 年 十 月 1721 3000 1500 二 年 七 月 1724 3000 1500 雍 正 七 年 七 月 1729 3000 1500 十 三 年 十 月 1735 った 明 暦 元 年 (1655 年 )に 徳 川 幕 府 が 糸 割 符 制 度 を 廃 止 したことにより 一 時 的 に 自 由 貿 易 が 進 10 11 12 梭 木 薩 束 梯 羅 古 泰 國 從 封 建 制 到 資 本 主 義 法 政 学 報 1982 年 第 六 期 郝 玉 麟 等 監 修 魯 曾 熀 等 編 纂 乾 隆 広 東 通 志 巻 五 十 八 四 庫 全 書 564 冊 649~657 頁 萬 暦 大 明 會 典 巻 一 〇 五 暹 羅 国 貢 物 条 参 照 康 煕 四 年 (1665)の 朝 貢 の 際 の 貢 物 として 掲 げ られた 13 種 類 の 中 に 蘇 木 も 含 まれている( 乾 隆 大 清 會 典 事 例 巻 九 三 参 照 )
52 或 問 第 21 号 (2011) 展 した そのため 長 崎 に 来 航 した 中 国 船 や 東 南 アジア からの 商 船 も 急 増 した 華 夷 変 態 によれば 来 航 した 暹 羅 船 は 毎 年 三 艘 にのぼっ ている 和 漢 三 才 図 会 によれ ば 日 本 産 の 蘇 木 について 次 のように 記 録 されている 倭 樹 皮 濃 白 色, 葉 似 拔 葜 葉 而 薄, 有 光 伹 葉 莖 長 三 月 有 花 淡 紫 生 大 可 麦 粒 結 莢 状 似 紫 藤 子 而 小 中 有 細 子 春 種 子 生 然 未 見 大 木 故 不 知 其 汁 染 物 否 13 とあり 日 本 においても 蘇 木 を 産 出 したが 木 の 幹 が 細 いため 染 料 として 使 用 するには 困 難 であったよう 表 2 1654~1756 年 に 暹 羅 国 船 が 日 本 に 輸 出 した 蘇 木 日 本 歴 西 暦 艘 数 蘇 木 ( 斤 ) 総 量 毎 艘 平 均 量 承 応 三 年 1654 2 6,600 本 3,300 本 明 歴 二 年 1656 2 38,000 19,000 明 歴 三 年 1657 3 521,645 260,823 万 治 元 年 1658 5 817,800 163,560 万 治 三 年 1660 4 980,000 245,000 寛 文 三 年 1663 2 275,000 137,500 天 和 二 年 1682 6 416,700 69,450 元 文 五 年 1740 1 40,000 40,000 延 享 二 年 1745 2 318,000 159,000 延 享 四 年 1747 3 1011,250 337,083 寛 延 一 年 1748 1 20,000 20,000 宝 暦 一 年 1751 1 418,700 418,700 宝 暦 六 年 1756 1 50,000 50,000 注 : 本 表 の 数 量 は 全 て 永 積 洋 子 編 唐 船 輸 出 入 品 数 量 一 覧 (1637 ~1833) によった 承 応 三 年 のみ 本 数 であるが 他 は 全 て 斤 数 である である このため 日 本 は 南 アジアから 蘇 木 を 大 量 に 輸 入 した 永 積 洋 子 氏 の 唐 船 輸 出 入 品 数 量 一 覧 (1637~1833) 14 によって 江 戸 時 代 において 暹 羅 国 から 長 崎 に 輸 入 された 蘇 木 の 数 量 は 表 2 の ようになる 1654~1756 年 の 間 に 日 本 に 来 航 した 暹 羅 船 は 33 艘 にのぼる 表 2 に 示 したように 日 本 に 輸 入 された 蘇 木 は 最 大 は 延 享 四 年 (1747)の 一 隻 当 たり 377,000 余 斤 から 明 暦 二 年 (1656)の 19,000 斤 まで 差 があるが 暹 羅 船 1 隻 当 たり 最 大 約 226 トンから 最 小 約 11.4 トンと 長 崎 来 航 の 暹 羅 国 船 は 各 船 最 小 でも 10 トン 以 上 の 蘇 木 を 積 載 してきたことがわかる この 数 量 は 中 国 の 皇 帝 皇 后 へ 献 上 した 朝 貢 品 としての 蘇 木 の 合 計 4,500 斤 の 約 2.7 トンと 比 較 しても 4 倍 から 80 倍 もの 数 量 に 達 した このように 大 きな 差 は 清 朝 中 国 の 場 合 が 朝 貢 による 定 額 であったのに 対 し 日 13 14 寺 嶋 良 安 和 漢 三 才 図 絵 吉 川 弘 文 館 明 治 39 年 11 月 1184~1185 頁 永 積 洋 子 唐 船 輸 出 入 品 数 量 一 覧 (1637~1833) 創 文 社 1987 年 2 月 58~134 頁
17 世 紀 中 葉 -18 世 紀 中 葉 における 暹 羅 船 の 中 国 日 本 への 蘇 木 輸 出 ( 王 ) 53 本 は 輸 入 貿 易 品 の 数 量 を 限 定 していなかったことによると 考 えられる 3 中 国 日 本 における 蘇 木 の 消 費 清 朝 中 国 そして 江 戸 日 本 にもたらされた 蘇 木 が 両 国 でどのように 使 用 されたかについて 考 え てみたい そこで 中 国 における 有 用 な 薬 剤 古 典 である 明 李 時 珍 の 本 草 網 目 と 日 本 の 百 科 事 典 として 知 られる 寺 嶋 良 安 の 和 漢 三 才 図 会 の 記 述 から 当 時 の 両 国 の 人 々が 蘇 木 についてど のように 理 解 し 利 用 していたかについて 見 てみたい 李 時 珍 本 草 網 目 15 時 針 曰 海 島 有 蘇 方 國, 其 地 產 此 木, 故 名 今 人 省 呼 為 蘇 木 爾 恭 曰 蘇 方 木 自 南 海 昆 侖 來, 而 交 州 愛 州 亦 有 之 樹 似 庵 羅, 葉 若 榆 葉 而 無 澀, 抽 條 長 杖 許, 花 黃, 子 生 青 熟 黑 珣 曰 按 徐 表 南 州 記 雲 : 生 海 畔 葉 似 絳, 木 若 女 貞 時 珍 曰 按 嵆 含 南 方 草 木 壯 雲 : 蘇 木 樹 類 槐, 黃 花 黑 子, 出 九 真 其 木 蠧 之 糞 名 曰 紫 納, 亦 可 用 暹 羅 國 人 賤 用 如 薪 氣 味 幹, 咸, 平, 無 毒 寺 嶋 良 安 和 漢 三 才 図 会 16 蘇 方, 樹 木 の 名 熱 帶 地 方 に 産 する 常 綠 木 の 名 豆 科 植 物 蘇 坊 樹 類 槐 黄 花 黒 子 出 九 真 とあり 蘇 木 は 又 小 蘇 方 とも 言 われ 東 南 アジアつまり 熱 帶 地 方 に 産 した 蘇 木 は 槐 と 似 ていて 花 は 黄 色 いで 果 実 は 生 青 熟 黑 であったとされる この 蘇 木 が 中 国 と 日 本 でどのように 消 費 されたのであろうか 1) 蘇 木 の 中 国 における 消 費 15 世 紀 初 から 16 世 紀 前 半 に 明 朝 と 日 本 との 間 で 展 開 された 朝 貢 貿 易 があり 日 本 の 朝 貢 使 節 が 蘇 木 胡 椒 香 蠟 等 を 大 量 に 舶 載 し 明 朝 へもたらした 各 国 からもたらされた 蘇 木 は 明 朝 で は 胡 椒 蘇 木 は 一 種 の 貨 幣 として また 賞 金 や 俸 給 などとして 支 給 された 諸 官 識 掌 17 に 奏 及 賞 賜 胡 椒 蘇 木 銅 銭 等 項 亦 如 之 其 在 外 如 有 欽 依 賞 賜 官 軍 及 賑 擠 饑 民 等 項 とあり 蘇 木 は 官 員 や 武 人 への 賞 金 として 支 給 された しかしこのような 支 給 方 法 は 15 世 紀 後 半 に 蘇 木 に 代 わり 綿 布 を 支 給 することで 見 られなくなった 18 清 代 中 国 において 蘇 木 は 主 に 薬 剤 として 使 用 された 本 草 網 目 に 蘇 木 の 薬 剤 としての 効 用 や 制 法 について 詳 しく 説 明 している 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 に 凡 使 去 上 粗 皮 並 節 若 得 中 心 橫 如 紫 角 者, 號 曰 木 中 尊, 其 力 倍 常 百 等 須 細 銼 重 搗, 拌 細 15 16 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 による 寺 嶋 良 安 和 漢 三 才 図 絵 吉 川 弘 文 館 明 治 39 年 11 月 1184~1185 頁 17 諸 官 識 掌 戸 部 度 支 課 経 費 賞 賜 による 玄 覧 堂 厳 書 第 十 二 冊 国 立 中 央 図 書 館 15 頁 18 中 島 楽 章 永 楽 年 間 の 日 明 朝 貢 貿 易 史 淵 140 輯 2003 年 3 月 51-99 頁
54 或 問 第 21 号 (2011) 梅 樹 枝 蒸 之, 從 已 至 申, 陰 乾 用 煎 之 忌 鐵 器, 則 色 黯 19 とあり 製 薬 人 は 蘇 木 の 粗 皮 を 剥 いて 節 を 折 る 中 心 が 紫 角 に 似 ている 木 が 最 高 の 蘇 木 と 考 え 薬 性 も 普 通 の 蘇 木 より 百 倍 にのぼる 蘇 木 の 細 かい 枝 が 銼 で 強 く 押 しつぶして 梅 の 枝 と 混 ぜて 蒸 したあとに 陰 干 しするとされた また 蘇 木 を 煎 じるときに 鉄 製 器 の 使 用 が 禁 止 された 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 に 產 後 血 脹 婦 人 血 氣 心 腹 痛, 月 候 不 調 及 蓐 労 排 膿 止 痛, 消 癰 腫 撲 損 瘀 血, 女 人 失 音 血 噤, 赤 白 痢, 並 後 分 急 痛 虛 勞 血 癖 氣 壅 滯, 產 後 惡 露 不 安, 心 腹 絞 痛, 及 經 絡 不 通, 男 女 中 風, 口 噤 不 語 破 瘡 瘍 死 血, 產 後 敗 血 20 蘇 木 性 涼, 味 微 辛, 發 散 表 裡 風 氣, 宜 與 防 風 同 用 又 能 破 死 血, 產 後 血 腫 脹 滿 欲 死 者 宜 之 蘇 方 木 乃 三 陰 經 血 分 藥 少 用 則 和 血, 多 用 則 破 血 21 とあり 蘇 木 は 主 に 婦 人 が 妊 娠 後 の 血 脹 心 腹 痛 生 理 不 調 や 腫 れて 痛 む 鬱 血 中 風 など 症 状 によって 血 液 の 流 れを 促 進 させ また 止 痛 薬 として 使 用 された 本 草 網 目 22 によって 蘇 木 の 薬 方 について 整 理 し 次 の 表 3 を 作 成 した 表 3 蘇 木 に 関 する 薬 方 症 状 產 後 氣 喘 破 傷 風 病 薬 方 用 蘇 木 二 兩, 水 兩 碗, 煮 一 碗, 入 人 參 末 一 兩 服, 隨 時 加 減 蘇 方 木 為 散 三 錢, 酒 服 立 效 腳 氣 腫 痛 蘇 方 木, 鴛 鴦 藤 等 分, 細 銼, 入 定 粉 少 許, 水 二 鬥, 煎 一 鬥 五 升, 先 熏 後 洗 偏 墜 腫 痛 斷 指 及 刀 斧 傷 蘇 方 木 二 兩, 好 酒 一 壺 煮 熟, 頻 飲 立 好 用 真 蘇 木 末 敷 之, 外 以 蠶 繭 包 縛 完 固 產 後 血 運 蘇 方 有 木 三 兩, 水 五 升, 煎 取 二 升, 分 再 服 中 風 並 宜 細 研 乳 頭 香 末 方 寸 匕, 以 酒 煎 蘇 方 木, 調 服 表 3 から 蘇 木 は 各 種 類 の 症 状 によって 蘇 木 を 加 工 し 朝 鮮 人 参 あるいは 鴛 鴦 藤 などと 調 合 し 酒 あるいは 水 で 煮 たことがわかる 中 国 では 蘇 木 を 染 料 として 使 用 方 法 するは 本 草 網 目 にはあまり 説 明 されていないが 恭 曰 其 木, 人 用 染 絳 色 とあるように 蘇 木 は 絳 色 の 染 料 として 用 いられていたことは 確 かであろう 19 20 21 22 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 による 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 による 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 による 李 時 珍 本 草 網 目 三 十 五 巻 木 部 蘇 芳 木 による
17 世 紀 中 葉 -18 世 紀 中 葉 における 暹 羅 船 の 中 国 日 本 への 蘇 木 輸 出 ( 王 ) 55 2) 蘇 木 の 日 本 における 消 費 14~15 世 紀 において 明 朝 は 海 禁 政 策 を 実 施 したことで 東 アジア 各 国 との 間 における 民 間 の 貿 易 による 往 来 が 見 られなくなった 琉 球 国 は 暹 羅 国 からの 輸 入 貨 物 として 蘇 木 等 の 産 物 を 自 国 の 朝 貢 物 に 充 当 し 日 本 や 中 国 へ 輸 出 した 日 本 も 蘇 木 を 輸 入 した 後 に 朝 貢 品 として 中 国 へ 再 輸 出 した このような 貿 易 形 態 は 明 朝 の 16 世 紀 後 半 の 明 朝 嘉 靖 後 期 に 暹 羅 貨 物 が 減 少 するに つれ 最 終 的 には 無 くなった 23 そして 14~15 世 紀 に 日 本 が 輸 入 した 蘇 木 が 自 国 の 使 用 のみ ならず 中 国 への 朝 貢 品 にも 充 当 されたのであった 蘇 木 は 日 本 の 最 古 の 輸 入 染 料 しかも 藍 草 と 楊 梅 と 共 に 江 戸 時 代 の 最 も 重 要 な 染 料 として 紅 花 染 および 茜 根 染 の 代 用 として 広 く 利 用 されていた また 江 戸 時 代 になると 蘇 芳 は 貴 族 の 染 料 だ けでなく 庶 民 の 染 色 になった 24 日 本 の 最 も 早 い 百 科 事 典 としての 和 漢 三 才 図 絵 には 明 代 の 本 草 網 目 と 反 対 に 蘇 木 が 染 料 としての 利 用 を 詳 しく 説 明 している 和 漢 三 才 図 絵 には 蘇 木 の 染 料 としての 効 用 について 次 のように 見 られる すはう 其 の 皮 を 紅 色 の 染 料 に 用 ひる 南 人 以 染 績 漬 以 大 庾 之 水 則 色 愈 深 本 網 南 海 島 有 蘇 芳 国 其 地 産 此 木 故 名 今 人 呼 為 蘇 木 爯 崑 崙 交 趾 暹 羅 多 有 特 暹 羅 国 賤 如 薪 其 樹 類 槐 葉 如 楡 葉 而 無 澀 柚 條 長 丈 許 花 黄 子 青 熟 黒 其 木 煎 汁 染 絳 色 忌 鉄 器 則 其 色 黯 其 木 蠧 之 糞 名 曰 紫 納 桉 蘇 方 暹 羅, 咬 留 吧, 交 趾, 東 京, 六 甲, 柬 埔 寨 等 之 南 方 多, 將 來 之, 煎 汁 雜 帛, 及 紙 絳 色, 次 幹 紅 花 25 とあり 日 本 では 南 アジアに 産 した 蘇 木 がもたらされ その 皮 を 煎 じて 絳 色 紅 色 の 染 料 とし て 紙 及 び 絹 織 物 に 使 用 されていた しかし 蘇 木 の 染 色 の 質 は 紅 花 より 劣 ると 言 われた 日 本 の 古 代 の 律 令 制 度 では 官 員 の 身 分 が 服 色 により 表 示 されていた 8 世 紀 に 編 纂 された 延 喜 式 には 蘇 木 の 染 色 の 調 合 法 も 記 録 されている 延 喜 式 巻 十 四 縫 殿 寮 雑 染 用 度 の 条 には 蘇 木 をどのように 調 合 すれば 服 地 の 色 合 いを 出 せるかが 詳 しく 記 されている 深 蘇 芳 稜 一 疋 蘇 芳 大 一 斤 酢 八 合 灰 三 斗 薪 一 百 二 十 斤 中 蘇 芳 稜 一 疋 蘇 芳 大 八 両 酢 六 合 灰 二 斗 薪 九 十 斤 浅 蘇 芳 稜 一 疋 蘇 芳 小 五 両 酢 一 合 灰 八 升 薪 六 十 斤 黄 櫨 稜 一 疋 櫨 十 四 斤 蘇 芳 十 一 斤 酢 二 升 灰 三 斛 薪 八 荷 とあり 蘇 芳 は 赤 だけでなく 紫 色 にも 染 めることができた また 他 の 染 料 と 併 用 して 茶 色 に 類 似 する 色 にも 染 めることができた それは 染 色 の 程 度 につれて 材 料 の 使 用 量 を 変 えると 深 蘇 芳 は 浅 蘇 芳 より 使 用 量 が 多 く 何 回 も 繰 り 返 すことで 可 能 であったと 考 えられる 蘇 芳 色 と 黄 櫨 色 の 染 色 の 差 異 は 櫨 の 有 無 と 使 用 量 の 相 違 によっていたことがわかる 23 24 25 小 葉 田 淳 中 世 南 島 通 交 貿 易 史 の 研 究 日 本 評 論 社 1439 年 1 月 山 川 隆 平 後 藤 捷 一 染 料 植 物 譜 民 芸 織 物 図 鑑 刊 行 会 はくおう 社 1937 年 151~155 頁 寺 嶋 良 安 和 漢 三 才 図 絵 吉 川 弘 文 館 明 治 39 年 11 月 1184~1185 頁
56 或 問 第 21 号 (2011) 田 中 健 夫 氏 によれば 蘇 木 の 詳 しい 染 色 方 法 が 次 のように 指 摘 されている 蘇 芳 幹 の 心 材 は 黄 色 いだが 空 気 にさらすと 酸 化 して 赤 褐 色 になる そのため 木 工 芸 品 の 素 材 にもされてきたが 心 材 を 煮 沸 して 得 た 煎 汁 は 木 材 布 帛 紙 など の 染 色 に 用 いられてきた その 経 果 蘇 芳 は 色 名 にもされてきた また 橧 材 をこれ て 染 めた 赤 漆 小 櫃 も 正 倉 院 に 現 存 している 幹 材 はその 後 も 調 度 品 の 素 材 に 用 いら れていたようであり 煎 汁 は 染 色 液 として 重 用 されていた 明 礬 で 赤 灰 汁 で 紫 赤 鉄 塩 で 暗 紫 に 発 色 するように 媒 染 剤 を 替 えることによって また 黄 の 下 染 で 緋 に 藍 に 上 染 することで 紫 色 を 呈 するところから 利 用 度 がおおかった 江 戸 時 代 蘇 芳 染 は 赤 染 に 代 わるものとして また 青 との 交 染 や 鉄 媒 染 によって 紫 根 染 の 代 用 として 衣 服 の 染 色 に 多 用 されていた 26 このように 蘇 木 が 染 色 の 原 材 料 として 重 用 されたことと 蘇 芳 染 の 使 用 方 法 がわかる 蘇 木 を 薬 草 として 使 用 した 記 録 は 和 漢 三 才 図 絵 に 次 のようにある 木 甘 醎 破 血 治 産 後 血 尿 及 月 経 不 調 排 膿 止 痛 消 腫 撲 損 瘀 血 乃 三 陰 経 血 分 薬 多 用 則 活 血, 少 用 則 破 血, 凡 使 去 上 粗 良 並 節 金 瘡 接 指 凡 指 斷 及 刀 斧 傷 者 蘇 芳 末 熬 之, 外 以 包 紮, 完 固 数 日 27 とあり 基 本 的 に 李 時 珍 の 本 草 綱 目 から 引 用 されている 記 述 であり 薬 草 としての 使 用 方 法 があまり 説 明 されていないことから 同 時 代 の 中 国 とは 反 対 に 江 戸 時 代 の 日 本 は 蘇 木 を 薬 草 と しての 使 用 することが 少 なく 17~18 世 紀 の 日 本 では 蘇 木 が 主 に 染 料 として 使 用 されていたと 考 えられる また 江 戸 時 代 に 輸 出 された 暹 羅 蘇 木 の 発 売 状 況 がどんな 様 子 であったかについて 長 崎 オ ランダ 商 館 の 日 記 には 次 のように 見 られる 一 六 四 一 年 九 月 十 三 日 本 日 蘇 芳 木 水 牛 の 角 黒 砂 糖 白 砂 糖 を 賣 りに 出 したところ 多 くの 人 が 見 に 来 たが 買 う 人 がなかった また 商 人 らは 商 品 を 入 札 によらず 任 意 に 少 量 ずつ 買 受 ける 許 可 を 奉 行 から 得 た この 方 法 が 悪 いと 思 うが 試 みとして 實 行 せねばならぬ 28 一 六 四 一 年 九 月 二 十 二 日 正 午 頃 入 札 により 台 湾 鹿 の 皮 カンボジアにくずく 雌 黄 土 茯 苓 ガリガ 蘇 枋 木 の 一 部 砂 糖 丁 子 および 胡 椒 を 賣 ったが 皆 甚 だ 廉 価 であった 29 一 六 四 一 年 九 月 二 十 七 日 26 27 28 29 田 中 健 夫 蘇 芳 国 史 大 辞 典 8 吉 川 弘 文 館 昭 和 62 年 9 月 51 頁 寺 嶋 良 安 和 漢 三 才 図 絵 吉 川 弘 文 館 明 治 39 年 11 月 1184~1185 頁 村 上 直 次 郎 訳 長 崎 オランダ 商 館 の 日 記 第 一 輯 岩 波 書 店 昭 和 31 年 1 月 95 頁 村 上 直 次 郎 訳 長 崎 オランダ 商 館 の 日 記 第 一 輯 岩 波 書 店 昭 和 31 年 1 月 100 頁
17 世 紀 中 葉 -18 世 紀 中 葉 における 暹 羅 船 の 中 国 日 本 への 蘇 木 輸 出 ( 王 ) 57 シャム 蘇 枋 木 鹿 の 皮 トンキン 織 物 の 一 部 水 銀 犀 の 角 などを 賣 盡 し 昨 日 着 いた 平 戸 からの 船 の 積 荷 を 卸 し タ 刻 商 務 員 ルカス 宛 の 書 翰 を 託 して 再 び 平 戸 に 遣 わした 30 一 六 四 二 年 九 月 五 日 最 初 の 試 みとして 蘇 枋 木 十 万 斤 シャム 鹿 の 皮 二 万 六 千 枚 黒 漆 四 千 八 百 斤 水 牛 の 角 二 千 六 百 本 プーチョク 二 千 斤 カチョウ 三 千 斤 胡 椒 七 千 五 百 斤 とにく ずく 末 三 千 斤 を 展 示 し 明 朝 入 札 で 賣 ることにした 31 蘇 木 が 販 売 された 1641 年 9 月 13 日 から 9 月 27 日 までほぼ 2 週 間 が 経 過 した しかし 最 初 は 見 物 者 が 多 いが 買 手 が 一 人 もなかった 一 週 間 後 に 蘇 木 の 一 部 は 売 れ 出 したが 値 段 が 安 かった 二 週 間 後 に やっとすべての 蘇 木 が 売 却 できた 1642 年 9 月 5 日 に 大 量 の 蘇 木 胡 椒 などの 商 品 は 入 札 で 販 売 されている また 文 献 には 販 売 された 蘇 木 は 暹 羅 から 輸 入 した 貨 物 を 明 確 に 指 摘 していないが 1641 年 9 月 27 日 の シャム 蘇 枋 木 によって これが 暹 羅 国 の 蘇 木 と 考 えられる 17 世 紀 に 長 崎 にもたらされた 蘇 木 は 量 が 多 くしかも 安 価 であったことがわ かる 文 政 三 年 (1820)に 編 纂 された 舶 載 薬 物 録 に 江 戸 時 代 に 輸 入 された 唐 薬 の 記 録 がみられ 蘇 木 は 染 料 として 丹 柄 礬 金 などの 伝 統 染 料 と 同 様 に 紹 介 されている 32 4 おわりに 以 上 のように 17-18 世 紀 の 暹 羅 国 は 蘇 木 を 自 国 の 特 産 物 として 海 外 へ 輸 出 していたが 中 国 とは 朝 貢 による 皇 帝 皇 后 への 献 上 品 であった 清 朝 の 朝 貢 規 定 のため 1663 年 から 1735 年 まで 中 国 へ 来 航 した 暹 羅 国 が 中 国 へ 朝 貢 したのは 11 回 があった 蘇 木 の 量 は 基 本 的 に 毎 次 皇 帝 に 3,000 斤 や 皇 后 に 1,500 斤 に 限 られた 他 方 1655 年 に 徳 川 幕 府 は 糸 割 符 制 度 を 廃 止 したこ とで 一 時 的 に 自 由 貿 易 が 進 展 したため 毎 年 日 本 に 来 航 した 暹 羅 船 はほぼ 3 艘 となった 蘇 木 も 中 国 の 皇 帝 皇 后 へ 献 上 した 数 量 より 何 倍 もの 数 量 にのぼった 暹 羅 国 から 中 国 と 日 本 へもたらされた 蘇 木 の 使 用 方 法 は 同 一 ではなかった 李 時 珍 の 本 草 綱 目 に 見 られるように 中 国 では 蘇 木 が 主 に 漢 方 薬 として 使 用 されていた しかし 日 本 では 蘇 木 は 永 らく 主 に 染 料 として 重 視 されていた このことから 明 らかなように 暹 羅 国 から 中 国 へもたらされた 蘇 木 は 重 要 な 薬 剤 として 使 用 さ れ 日 本 へもたらされた 蘇 木 は 主 に 重 要 な 染 料 として 使 用 されていたことがわかる 30 31 32 村 上 直 次 郎 訳 長 崎 オランダ 商 館 の 日 記 第 一 輯 岩 波 書 店 昭 和 31 年 1 月 101 頁 村 上 直 次 郎 訳 長 崎 オランダ 商 館 の 日 記 第 一 輯 岩 波 書 店 昭 和 31 年 1 月 186 頁 羽 生 和 子 江 戸 時 代 における 輸 入 唐 薬 について 江 戸 時 代 漢 方 薬 の 歴 史 清 文 堂 2010 年 7 月
58 或 問 第 21 号 (2011)