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1 井 澗 裕 ウラジミロフカから 豊 原 へ -ユジノ サハリンスク( 旧 豊 原 )における 初 期 市 街 地 の 形 成 過 程 とその 性 格 - はじめに ユジノ-サハリンスク(Южно-Сахалинск)は 日 本 とロシアにとって 大 きな 歴 史 的 意 味 を もつ 街 である この 街 は 19 世 紀 の 末 に 成 立 した 帝 政 ロシア 時 代 の 開 拓 集 落 ウラジミロフ カ(Владимировка)を 母 胎 としている 20 世 紀 初 頭 には 豊 原 と 名 を 変 え 日 本 の 植 民 地 樺 太 の 中 央 政 庁 ( 樺 太 庁 )を 擁 する 都 市 に 成 長 した さらに 第 二 次 世 界 大 戦 後 にはロシア 人 の 手 によってユジノ-サハリンスクとなり 現 在 はサハリン 州 の 州 都 としてロシア 極 東 地 域 社 会 の 拠 点 都 市 の 一 つとなっている つまり 日 本 とロシアが 交 互 に 手 を 加 えて 発 展 し た 都 市 であり そこには それぞれの 時 代 における 両 者 の 地 域 経 営 や 都 市 計 画 的 な 視 点 思 惑 の 違 いを 見 て 取 ることができよう ゆえに この 都 市 の 成 り 立 ちと 変 貌 の 過 程 は と くに 近 代 における 日 ロ 関 係 史 を 考 える 上 で 無 視 できない 側 面 である のみならず 日 本 の 植 民 地 研 究 の 一 環 としてもこの 街 には 重 要 な 意 味 がある 豊 原 は 日 本 における 南 部 サハ リン 経 営 の 策 源 地 として 計 画 的 に 建 設 された 都 市 であるからだ ゆえに 後 述 するモーリ ス=スズキのように その 計 画 理 念 や 立 地 選 定 や 市 街 地 の 基 本 構 造 ばかりでなく 市 街 地 そのものに 日 本 の 帝 国 主 義 な 支 配 と 抑 圧 の 構 図 を 見 る 研 究 者 も 存 在 する また こうした2つの 視 角 は 現 代 の 日 本 におけるサハリン 史 研 究 に 対 する2つの 潮 流 をそのまま 示 している 第 一 の 潮 流 はオーソドックスな 通 史 を 志 向 するサハリン 史 であ る すなわち 太 古 から 現 代 への 時 間 的 変 遷 の 中 で 先 史 時 代 への 考 古 学 的 なアプローチ 先 住 民 族 と 日 本 モンゴル 中 国 ロシアなど 周 辺 地 域 における 諸 民 族 との 関 係 近 世 以 降 の 日 ロ 関 係 サハリンにおける 近 現 代 史 などの 研 究 活 動 を 進 めるもので いわば 通 時 的 な 歴 史 研 究 である 第 二 の 潮 流 は 特 にいわゆる 日 本 期 (1905-45 年 )に 焦 点 をあてたもの のうち それを 近 代 日 本 ( 帝 国 主 義 )の 植 民 地 研 究 の 一 環 としてとらえるものであり 日 本 の 植 民 地 としての 実 態 を 明 らかにしつつ 他 地 域 の 植 民 地 研 究 との 比 較 考 察 を 踏 まえ そ の 中 に 樺 太 をいかに 組 み 入 れていくかを 重 要 な 命 題 としている これは 近 代 日 本 の 共 時 性 を 重 視 した 研 究 といいかえることができよう 近 年 ではむしろ 比 較 的 若 手 の 学 究 に 後 者 を 志 向 する 傾 向 が 強 い こうした 背 景 には 90 年 代 以 降 サハリンに 関 する 研 究 環 境 が 急 速 に 改 善 していることがあげられ 注 目 すべき 研 究 成 果 もいくつか 存 在 する とはいう ものの こうした 研 究 成 果 があくまでも 個 別 分 野 のものにとどまり 学 際 的 連 関 性 や 通 時 的 視 野 での 相 対 化 に 欠 けることは 明 らかであり 問 題 とすべきであろう とりわけ 急 務 とい えるのは いかなる 形 にせよ とかく 離 散 傾 向 を 示 しがちなサハリンの 歴 史 研 究 成 果 の 取 1 スラブ 研 究 センターCOE 非 常 勤 研 究 員 博 士 ( 工 学 ) -45-

りまとめを 図 ることである しかしながら 従 来 の 日 ロ 関 係 史 を 基 軸 とする 通 時 的 研 究 と 近 年 の 植 民 地 研 究 の 一 部 をなす 共 時 的 な 研 究 の 間 には とくに 深 刻 な 概 念 的 対 立 こそ 存 在 しないものの その 認 識 や 視 座 には 若 干 の 懸 隔 があり 歴 史 研 究 の 進 捗 集 積 総 合 化 を 図 る 上 でいささか 厄 介 な 断 層 を 形 成 しつつあるように 思 われる さて 本 稿 のテーマは ウラジミロフカから 豊 原 市 街 地 成 立 までの 事 情 と 初 期 におけ る 豊 原 市 街 地 の 基 本 構 造 である とりわけ なぜ 豊 原 だったのか という 疑 問 を 重 視 した この 疑 問 に1つの 答 えを 出 すことで 都 市 としての 豊 原 がどういう 成 り 立 ちを 持 っていた のかを 明 らかにし 今 後 の 都 市 史 的 研 究 に 対 して 基 本 的 な 視 座 を 構 築 することができると 考 えたためである この 問 いには 2 つの 意 味 があり すなわち なぜ 樺 太 庁 をウラジミロ フカ= 豊 原 に 置 いたのか という 疑 問 と なぜ 豊 原 と 名 付 けたのか という 疑 問 である 本 稿 は 後 者 の 疑 問 に 応 えることで 前 者 の 疑 問 を 解 決 しようという 試 みでもある それは 通 時 性 と 共 時 性 という 2 つの 研 究 動 向 を 踏 まえつつ その 断 層 面 と 言 うべき 1905 年 前 後 に 焦 点 を 当 て 共 時 的 な 意 味 での 課 題 である 豊 原 市 街 地 の 成 立 事 情 に 対 し 通 時 的 な 研 究 アプローチを 試 みることで 今 後 の 研 究 動 向 の 示 準 をなそうという 目 論 見 も 含 んでいる なお 本 稿 は 2004 年 7 月 29 30 日 に 行 われたスラブ 研 究 センター 連 続 セミナー 第 5 回 アジアの 中 のロシア/ロシアの 中 のアジア 研 究 会 において ユジノ-サハリンスク その 都 市 史 論 的 予 備 考 察 として 発 表 した 内 容 を 加 筆 修 正 して 成 立 したものである ことを 付 記 しておく 1 ウラジミロフカ 以 前 本 稿 が なぜ 豊 原 だったのか という 問 いに 起 因 している 以 上 豊 原 という 地 名 の 語 源 について 言 及 しないわけにはいくまい 言 うまでもなく 豊 原 とは 豊 かな 平 原 という ほどの 意 味 であり 日 本 の 地 名 としてはありふれた 印 象 があるものの 新 しい 農 業 移 住 地 域 の 拠 点 として ある 種 の 願 望 を 含 んだものであったと 考 えられる 地 名 である しかしな がら 他 の 地 名 を 見 ていくと たとえば 真 岡 (Холмск)は マウカ 野 田 (Чехов)は ノ ダサン 大 泊 (Корсаков)は ポロアントマリ ( 大 きな 港 の 意 )というように どちらかと 言 えば 先 住 民 族 が 用 いていた 地 名 を 翻 字 するか その 意 味 を 和 訳 したものが 多 い 豊 原 の 場 合 は 明 らかにそれとは 異 なるが その 正 確 な 由 来 は 当 時 から 不 明 であったようだ 樺 太 の 地 名 によれば 安 政 中 の 唐 太 日 記 を 典 拠 として ヲロトコイ が 豊 原 である とし その 原 義 を 奥 の 荒 野 又 は 奥 の 窪 地 と 解 題 している 2 ただ その 論 拠 は 必 ずしも 明 らかではない また 葛 西 猛 千 代 は 樺 太 土 人 研 究 の 中 で 豊 原 /パーセヘ/ 此 地 も 元 アイヌ 部 落 にして 明 治 八 年 樺 太 千 島 交 換 以 来 露 人 漸 次 南 下 移 住 してウラジミロカ(ママ)と 2 葛 西 猛 千 代 西 鶴 定 嘉 菱 沼 右 一 樺 太 の 地 名 ( 復 刻 ) ( 第 一 書 房 1982 年 原 本 は 樺 太 郷 土 会 発 行 1930 年 ) pp. 132-134 -46-

改 称 せしものなり アイヌ 語 パーセヘの 意 義 不 明 調 査 中 と 記 している 3 松 浦 武 ( 竹 ) 四 郎 の 竹 四 郎 廻 浦 日 記 によれば ハアセ/ 止 宿 所 に 宿 す 此 処 平 地 樹 木 多 し 只 款 冬 と 虎 杖 の 鬱 葱 たる 傍 を 刈 り 取 りて 小 屋 二 ヶ 所 と 三 角 屋 一 ヶ 所 を 建 たり 此 三 角 屋 へ 入 て 宿 す 今 日 の 道 凡 六 里 と 思 わる 然 し 土 人 は 七 里 と 云 ぬ としている 4 この ハアセ または パ ーセヘ だが 田 村 将 人 によると あえて 解 釈 すれば paase-h で< 重 い もの>というほ どの 意 味 を 持 つか という 5 管 見 する 限 りだが この ハアセ についてもウラジミロフ カ= 豊 原 の 旧 名 称 である 確 証 はない 近 年 の 研 究 成 果 には 西 村 いわおの 南 樺 太 概 要 地 名 解 史 実 があり ハアセ クシ( 灌 木 の 茂 っているそこを 通 過 するところ) 開 拓 が.... 進 展 し 豊 かな 原 になるように 豊 後 出 身 の 樺 太 占 領 司 令 官 原 口 兼 済 中 将 など 8 通 り の 語 源 説 を 述 べているが やはり 確 証 はないようである 6 きりがないのでここらで 止 めて おくが ヲロトコイ にせよ パーセヘ にせよ トヨハラ に 近 い 音 ないしは 豊 かな 平 原 という 語 義 はウラジミロフカ 以 前 の 地 名 から 見 出 すことはできない 少 なくと も 現 段 階 では ユジノ-サハリンスクの 起 源 をウラジミロフカ 以 前 に 求 めることは 難 しい といえよう 2 ウラジミロフカの 起 源 一 方 開 拓 集 落 ウラジミロフカの 起 源 は 当 時 の 南 部 サハリン(コルサコフ) 管 区 長 官 であ ったウラジミール Н. ヤンツェビッチ 少 佐 (Владимир Наполеонович Янцевич)の 名 を 冠 し たものであった 7 ウラジミロフカに 関 してはコスタノフ(Костанов, А.И.)などの 研 究 成 果 がある 8 ここではこれを 援 用 しつつ ウラジミロフカの 成 立 事 情 について 簡 単 に 見 ておき たい コスタノフによれば 1879 年 以 降 義 勇 艦 隊 の 蒸 気 船 やシベリアからニコラエフス ク 経 由 で 囚 人 が 次 々と 送 り 込 まれ 1882 年 までに 島 の 人 口 は 5,600 名 ( 先 住 民 を 含 む)にま でふくれあがっていた このうちの 60%は 囚 人 あるいは 国 外 追 放 者 であったが サハリン における 監 獄 の 収 容 人 員 はわずか 2,400 名 に 過 ぎなかった これに 加 えて 物 資 供 給 の 問 題 がより 深 刻 であり これらの 解 決 のために 各 地 に 開 拓 集 落 の 建 設 が 卓 絶 した 重 要 性 を 持 つ 課 題 としてすすめられた ウラジミロフカはこの 時 に 開 かれたサハリンで 最 も 早 いコ 3 葛 西 猛 千 代 樺 太 土 人 研 究 資 料 ( 私 家 版 出 版 年 不 詳 ) p. 153 右 4 松 浦 武 ( 竹 ) 四 郎 高 倉 新 一 郎 解 題 竹 四 郎 廻 浦 日 記 ( 上 ) ( 北 海 道 出 版 企 画 センター 1978 年 ) p. 592 5 千 葉 大 学 大 学 院 社 会 文 化 科 学 研 究 科 の 田 村 将 人 氏 から 教 示 をえた 6 西 村 いわお 南 樺 太 概 要 地 名 解 史 実 ( 高 速 出 版 1994 年 ) pp. 172-173 7 С. Гальцев-Безюк. Топонимический словарь Сахалинской области. Южно-Сахалинск, 1992. с. 163 なお 後 述 する А.И. Костанов の 研 究 によれば このウラジミル ヤンツェビッ ツはポーランドの 貧 しい 貴 族 の 末 裔 で カトリック 教 徒 であったという 8 А. И. Костанов. Владимировка -- селение на черной речке из истории Южно- Сахалинска. Краеведческий бюллетень. 1993. 4, Южно-Сахалинск. с. 26-55 -47-

ミュニティの1つだという 9 ウラジミロフカの 開 基 年 については 一 般 には 1881 年 とされているが コスタノフ 論 文 では 1882 年 8 月 6 日 開 基 というユジノ サハリンスク 教 育 大 学 ( 当 時 ) 教 授 ブラスラベッ ツ(Враславец, К. М.)の 説 を 一 部 修 正 し 1882 年 9 月 ころと 見 るべきだとされている 10 1885 年 夏 にはサハリンにおいてガルナーク 大 佐 (Гарнак, А. Л.)の 調 査 隊 がサハリンで 活 動 し 報 告 書 を 残 している 彼 らは ススヤ ナイバの 将 来 の 居 住 適 地 と 西 海 岸 への 適 切 な 連 絡 路 を 調 査 し いくつかの 居 住 地 はこの 地 を 全 く 知 らないがゆえに 生 まれた 代 物 だ が 少 しでもいい 印 象 を 抱 けたのは 唯 一 ウラジミロフカであった と 報 告 している 11 ガ ルナーク 大 佐 は ウラジミロフカ 村 は 2 年 間 存 在 したが 南 サハリンで 唯 一 若 干 整 備 さ れ よくつくられた 家 々ができあがっている と 評 価 している 12 さらに 彼 は ススヤ 川 流 域 の 悪 い 状 況 は 道 路 がなかったためである とし コルサコフ~ナイブチ 間 に 直 線 状 に 点 在 する 集 落 群 は 単 なる 踏 み 分 け 道 でつながっており ウラジミロフカまでの 道 は 確 か に 存 在 したが 馬 が 通 るのは 難 しく 主 として 冬 に 橇 で 移 動 することに 使 われていていた とも 記 している 13 これらの 報 告 書 は 開 基 当 初 のウラジミロフカが 街 道 の 要 衝 でも 西 海 岸 への 分 岐 点 でもなかったことも 示 唆 している 1887 年 にコルサコフとナイブチを 結 ぶ 街 道 が 開 通 し ススヤ 平 野 における 開 拓 集 落 の 形 成 の 起 爆 剤 となるが ウラジミロフカはこ れよりも 早 く 形 成 が 促 されたことは 確 かであろう とはいうものの このウラジミロフカについて 最 も 具 体 的 で かつよく 知 られた 情 報 は やはりチェーホフ(Чехов, А. П.)の サハリン 島 の 一 節 であろう 彼 が 訪 れた 1890 年 に おいて ウラジミロフカの 人 口 は 46 戸 91 名 うち 女 性 が 36 名 であった この 一 節 でチ ェーホフは ウラジミロフカは 豊 かな 牧 草 地 を 抱 えているものの 世 帯 を 構 成 しうる 女 性 の 不 在 が 健 全 な 農 村 の 発 展 を 妨 げていることを 述 べているのだが ここで 注 目 したいのは «Как сельско-хозяйственная колония, это селение стоит обоих северных округов, взятых вместе» つまり 農 業 植 民 地 としては この 村 は 北 部 の 両 管 区 を 合 わせたほどの 価 値 を もっている という 部 分 である 14 この サハリン 島 においてこうした 表 現 で 土 地 の 肥 沃 さを 強 調 している 部 分 はほとんど 見 られない 少 なくとも チェーホフにとってのウラ ジミロフカは 豊 かな 牧 畜 農 村 の 可 能 性 を 感 じさせる 地 であった ちなみに 古 写 真 で よく 知 られたウラジミロフカの 教 会 ( 礼 拝 堂 )は 1890 年 の 聖 母 ( 生 神 女 ) 庇 護 祭 の 日 ( 露 暦 10 月 1 日 )に 聖 別 式 が 行 われており チェーホフは 式 のために 村 を 訪 れた 聖 職 者 たちと 雑 魚 寝 9 Костанов. 1993. с.34 10 コスタノフによれば この 説 は 公 式 に 認 められ ユジノ-サハリンスク 開 基 100 年 の 式 典 は ソビエトの 命 令 で 1982 年 9 月 に 実 施 されたという というものの 開 基 120 年 を 祝 う 記 念 パレードは 2001 年 7 月 に 行 われており 1881 年 説 もいまだに 一 般 的 であるようだ 11 Костанов. 1993. с. 46 12 Костанов. 1993. с. 47 13 同 上 14 А. П. Чехов. Остров Сахалин (из путевых записок). Южно-Сахалинск, 1995. с. 259 なお 訳 文 は 中 村 融 訳 サハリン 島 ( 上 ) ( 岩 波 文 庫 1953 年 ) p.277 に 拠 った -48-

していたという 15 3 その 後 のウラジミロフカ ところで 日 本 期 に 関 する 著 作 において 豊 原 以 前 について 述 べる 場 合 古 今 を 問 わず 前 記 チェーホフの 翻 訳 をもって 説 明 に 代 える 傾 向 が 強 い とはいえ これはどちらかと 言 えばウラジミロフカの 黎 明 期 であり これが 豊 原 と 名 を 変 えるまでには 15 年 以 上 の 歳 月 が 存 在 することを 無 視 することはできない そこで チェーホフ 以 後 日 露 戦 争 以 前 の ウラジミロフカの 様 子 を 概 説 しておきたい 1892 年 11 月 1 日 に 正 教 会 の 僧 侶 ピョートル ロハツキー(Петр Лохацкий)は 開 拓 者 子 弟 のための 学 校 をウラジミロフカに 開 いた 1897 年 までにこの 学 校 には 30 名 の 児 童 ( 男 子 17 女 子 13)が 学 んでいた 16 また この 学 校 は 1900 年 までに 2 クラス 編 成 に 拡 充 され ていた 17 また コルサコフ 地 域 病 院 の 内 科 医 であったスルミンスキー(Сурминский, В. А.) による 1893 年 の 衛 生 状 況 報 告 書 によれば ウラジミロフカには 46 戸 の 人 口 に 対 して 13 棟 の 浴 場 があったが ノボ-アレキサンドロフスク(Ново-Александровск)は 89 戸 に 対 し 9 棟 しかなく ルゴヴォエ(Луговое)にいたっては 53 戸 に 対 し 2 棟 だけであった 18 さらに ウラジミロフカには 少 なくとも 複 数 の 商 店 が 存 在 していたようである このう ちで 最 大 のものはタタール 商 人 サドゥク ガファーロフ(Садык Гафаров)のものであり あ らゆる 商 品 は 国 内 関 税 をかけられておらず 流 通 事 情 のよいウラジオストクよりも 廉 価 で 提 供 されていたという 19 坂 本 泰 助 樺 太 之 豊 原 の 中 にも 而 してウラジミロフカ 市 街 は 北 は 草 野 西 は 軍 川 及 び 追 分 西 南 は 並 川 南 は 大 澤 等 の 部 落 に 圍 繞 され 廣 範 なる 鈴 谷 平 野.. の 中 央 都 市 として 住 民 は 市 街 続 きに 牧 舎 を 建 でて 牧 畜 業 の 傍 ら 商 業 等 にも 従 事 する 等 鈴 谷... 平 野 各 部 落 の 物 資 の 集 散 は 概 ねウラジミロフカに 依 って 行 はれたのであると 云 ふ ( 傍 点 筆 者 ) という 一 節 がある 20 また 次 節 で 後 述 する 岩 田 房 次 郎 も ウラジミロフカにあっ た 商 店 2 軒 について 言 及 している これによると 一 つは 官 憲 の 物 品 販 売 の 商 店 で 恰 も 本 邦 の 僻 陬 なる 土 地 の 荒 物 屋 の 大 なるもの のようであり 占 領 当 初 は 旅 団 司 令 部 として 1906 年 初 頭 には 守 備 隊 経 理 部 員 の 宿 舎 および 当 地 高 等 文 武 官 の 倶 楽 部 として 利 用 されていた そして この 官 営 商 店 は 此 村 及 近 郊 の 土 民 は 諸 物 品 及 諸 食 料 迄 も 売 下 げられておったので 貴 重 なる 装 飾 品 及 家 具 鍋 釜 等 の 類 に 至 るまで 鬻 ぎおったのである と している 21 もう 一 軒 は 民 間 の 商 店 で 急 峻 なる 斜 面 に 建 てられたる 二 階 建 ての 民 家 15 Костанов 1993. с. 48-49 16 Костанов 1993. с. 49-50 17 А. Т. Кузин. Южно-Сахалинск: с вершины века. Южно-Сахалинск, 1996. с. 22-24 18 Костанов 1993. с. 50 19 同 上 20 坂 本 泰 助 樺 太 之 豊 原 ( 樺 太 著 名 町 村 史 刊 行 会 [ 私 家 版 ] 1922 年 ) p. 24 21 岩 田 房 次 郎 南 部 樺 太 所 見 ( 建 築 雑 誌 第 219 号 1906 年 ) p. 52-49-

中 最 近 に 建 築 された もので 規 模 も 整 然 として いたという 22 1897 年 に 行 われたロシア 全 域 を 対 象 とした 最 初 の 国 勢 調 査 によれば ウラジミロフカに は 123 名 の 居 住 者 がおり 150 以 上 の 家 やそのほかの 建 造 物 があったという 23 同 様 に 樺 太 及 北 沿 海 州 から 1899 年 末 におけるコルサコフ 州 の 集 落 一 覧 を 見 ていくと ウラ ジミロフカの 人 口 は 56 戸 136 名 と 微 増 しているだけだが 建 物 数 が 233 棟 と 多 いのが 目 立 つ これはダリ 子 ー(143 戸 326 名 256 棟 ) ベレズニヤキ(90 戸 238 名 241 棟 ) ノウオ アレキサンドロフスク(115 戸 239 名 239 棟 )に 次 いで 多 く コルサコフ(74 戸 263 名 163 棟 )を 大 きく 凌 駕 している 24 ウラジミロフカ 以 外 にも 200 棟 以 上 の 建 物 をも つ 集 落 は 存 在 するが それらはいずれも 200 名 以 上 の 人 口 を 抱 えていたことがわかる 加 えて 日 露 開 戦 後 の 1904 年 には 予 想 された 日 本 軍 の 侵 攻 に 備 えて 野 戦 病 院 が 建 設 され 日 露 戦 争 時 にアニワ 湾 において 撃 沈 されたロシア 軍 艦 ノーヴィクの 乗 組 員 が 収 容 された またこの 野 戦 病 院 は 後 述 する 樺 太 守 備 隊 兵 営 地 の 母 胎 となった 以 上 の 点 から 見 て ウラジミロフカには 戸 数 や 人 口 に 比 して 建 物 数 が 多 く 住 宅 以 外 の 施 設 群 が 他 の 集 落 よりも 充 実 していたことを 裏 付 けている こうした 状 況 をまとめてコス タノフは 20 世 紀 はじめにおいて ウラジミロフカは 大 きくはないものの 十 分 に 力 のあ る 村 の 体 裁 をなしており それはシベリア 極 東 にある 幾 千 のロシアの 村 々とよく 似 てい た と ウラジミロフカを 評 価 している 25 4 日 本 人 の 見 たウラジミロフカ 次 に 日 露 戦 争 期 のウラジミロフカが 日 本 人 の 目 からはどのように 見 えたのかを 確 認 し ていく まず 大 江 志 乃 夫 兵 士 たちの 日 露 戦 争 中 で 引 用 された 南 部 サハリン 攻 略 作 戦 に 参 加 した 兵 士 新 屋 新 宅 の 手 紙 には (7 月 8 日 にコルサコフを 占 領 し) 翌 九 日 急 進 して... 追 撃 せしも 軽 装 にて 九 里 半 ばかり 進 み 浦 占 る ウラジミロフカ という 大 村 落 の 北 端 に... 至 り 始 めて 敵 に 会 戦 浦 占 るは 戸 数 僅 かに 三 百 内 外 なれど 著 名 の 地 にて 昨 年 開 戦 以 来 新... 築 したる 大 なる 兵 営 二 戸 あり ( 傍 点 筆 者 ) という 一 節 がある 26 大 村 落 という 曖 昧 な 表 現 に 解 釈 上 の 余 地 はある しかしながら ここでの 戸 数 は 戦 時 中 ゆえに 世 帯 数 では なく 建 物 数 であると 見 るべきだから 前 出 の 233 棟 に 日 露 戦 争 時 に 野 戦 病 院 などを 増 強 し たとなれば 戸 数 僅 かに 三 百 内 外 も 誇 張 とは 言 えない 同 じくサハリン 攻 略 作 戦 に 参 加 し その 後 は 樺 太 民 政 署 と 樺 太 庁 で 建 築 技 手 を 勤 めた 岩 田 房 次 郎 は 建 築 雑 誌 ( 日 本 建 築 学 会 の 機 関 誌 )に 南 部 樺 太 所 見 と 題 する 報 告 文 を 寄 22 同 上 23 Костанов 1993. с. 50 24 東 亞 同 文 會 編 纂 局 編 鈴 木 陽 之 助 校 樺 太 及 北 沿 海 州 ( 東 亞 同 文 會 1905 年 ) pp. 66-69 25 Костанов 1993. с. 50 26 大 江 志 乃 夫 兵 士 たちの 日 露 戦 争 五 〇 〇 通 の 軍 事 郵 便 から ( 朝 日 選 書 1988 年 ) p. 233-50-

稿 している ここにも ウラジミロフカはコルサコフに 次 ぐ 南 部 樺 太 の 枢 区 である 故 に 諸 般 の 設 備 又 コルサコフと 殆 んど 並 立 してある 如 く 思 考 せらるゝされば 露 国 の 官 有 建 物 とし て 官 衙 病 院 寺 院 学 校 其 外 官 営 商 店 僧 侶 の 官 舎 病 院 附 職 員 の 官 舎 等 あり 殊 に 倉 庫 も 二 三 ある としている 27 同 様 に 殊 に 当 地 ( 筆 者 注 :ウラジミロフカ)は 将 来 の 枢 府 を 以 て 擬 すべき 所 で 今 後 大 に 発 展 すべき 地 である 夫 れかあらぬか 今 や 内 地 人 の 来 り 住 む 者 多 く 旅 人 宿 雑 貨 店 小 間 物 商 料 理 展 等 の 開 設 するもの 連 日 の 如 くである という 一 節 も 見 逃 すべきではないだろう 28 また 長 谷 場 純 孝 の 樺 太 紀 行 の 記 述 を 見 ると ウラジミロフカは 恰 も 北 部 に 於 るルイコフに 類 し 其 の 地 形 も 南 部 平 原 の 中 央 に 位 し コルサコフを 以 て 内 地 の 大 阪 と...... すれば ウラジミロフカは 京 都 に 似 たり 露 国 も 南 部 内 地 の 枢 区 として 其 経 営 をコルサ... コフと 同 様 にし 兵 営 病 院 監 獄 学 校 等 規 模 宏 壮 にして 殊 に 現 今 建 築 中 の 兵 営 の 如 きは 中 々 壮 大 なるものにして 此 辺 の 村 落 が 兵 火 に 罹 らざりしは 実 に 我 軍 に 取 りては 大 なる 幸 の 事 と 謂 ふべし ( 傍 点 筆 者 ) とあり 南 部 内 地 の 枢 区 あるいは 其 経 営 をコ ルサコフと 同 様 という 表 現 でウラジミロフカ 市 街 地 施 設 の 充 実 ぶりを 記 している 29 最 後 に 樺 太 守 備 隊 司 令 官 山 田 保 永 陸 軍 少 将 による 報 告 書 軍 事 上 施 設 ニ 関 スル 意 見 進 達 の 件 (1906 年 4 月 14 日 付 )には ウラジミロフカ は 露 領 時 代 ニ 於 テモ 稍 枢 要 ノ 地 ト 見 倣 サレタルモノゝ 如 シ 即 チ 寺 院 ヲ 建 テ 第 二 区 殖 民 監 督 官 ヲ 駐 在 セシメ 病 院 ヲ 開 設 セル 等 ヲ 以 テ 其 一 斑 ヲ 推 知 スヘシ 而 シテ 帝 国 領 樺 太 ノ 為 ニハ 将 来 尤 モ 有 望 ノ 市 街 ヲ 建 設 シ 得 キ 価 値 ヲ 有 ス という 一 節 がある 30 樺 太 守 備 隊 もまた ウラジミロフカが 枢 要 の 地 であっ たとの 認 識 を 持 っていたわけである 図 1および 写 真 1 は 実 際 のウラジミロフカの 様 子 を 示 すものである 北 方 へ 至 る 街 道 の ためにチョールナヤ レーチカ( 黒 い 川 の 意 日 本 語 では 晴 気 川 と 呼 ばれた)に 架 けら れた 橋 を 基 点 として 南 方 に 広 がる 線 状 集 落 がウラジミロフカであった 厳 密 な 意 味 で 言 え ば 街 道 の 分 岐 点 ではないことがわかる また 周 辺 には 広 葉 樹 林 と 荒 地 が 広 がっていた こと 現 在 ウラジミロフカと 通 称 される 一 帯 はブリジネエという 集 落 であり また ウラ ジミロフカ 西 方 に 位 置 するダリ 子 ーやルゴヴォエと 合 わせて ある 程 度 連 関 する 集 落 群 を 形 成 していたように 見 える 写 真 1からは 現 在 でも 北 サハリンなどで 見 られる 線 状 集 落 に よく 似 た 情 景 が 見 て 取 れるものの 率 直 に 言 えば コルサコフと 並 ぶ 南 部 の 枢 区 にはとて も 見 えない 私 たちはこの 写 真 にチェーホフの 描 写 を 重 ねて 投 影 することで 豊 原 につ ながるウラジミロフカの 真 価 を 見 誤 ってきたと 言 えるかもしれない しかしながら これらの 記 述 から 判 断 する 限 り チェーホフが 訪 れてより 15 年 が 経 過 27 岩 田 p. 50 28 岩 田 p. 54 29 長 谷 場 純 孝 樺 太 紀 行 ( 民 友 社 1907 年 ) pp. 305-306 30 軍 事 上 施 設 ニ 関 スル 意 見 進 達 の 件 ( 陸 軍 省 陸 満 密 大 日 記 満 密 受 第 179 号 1906. 10. 2) 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 図 書 館 所 蔵 なお 同 報 告 書 の 内 容 は 陸 軍 省 編 明 治 三 十 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 第 八 巻 ( 復 刻 版 湘 南 堂 書 店 1983 年 ) pp. 780-781 にも 記 載 されている -51-

した 1905 年 のウラジミロフカには 教 会 堂 や 複 数 学 級 を 持 つ 学 校 があり 近 隣 の 物 産 が 集 まる 商 業 地 区 もあった おおよそ 250 棟 ほどの 建 物 が 軒 を 並 べ それは 貧 しい 山 村 出 身 の 日 本 人 兵 士 から 大 村 落 に 見 える 程 度 には 発 達 していた チェーホフが 惜 嘆 したよう な 辺 鄙 な 寒 村 の 時 は 過 ぎ 去 り 誰 の 目 から 見 てもススヤ 平 原 部 における 枢 要 な 農 村 として の 役 割 が 確 立 されていた もしくは 確 立 されつつあったと 見 なければならないだろう 5 断 章 晴 気 村 次 に ウラジミロフカが 豊 原 となるまでの 変 遷 を 簡 単 にたどりつつ この 時 期 における 市 街 地 構 造 について 言 及 してみたい 日 本 軍 がサハリン 攻 略 に 乗 り 出 すのは 日 露 戦 争 の 第 二 年 目 である 1905 年 7 月 のことである 第 13 独 立 師 団 を 北 部 と 南 部 の 二 方 面 に 分 け このうち 南 部 方 面 部 隊 は 7 月 7 日 に 女 麗 (пос. Пригородное)に 上 陸 翌 8 日 はコルサコフを 占 領 した コルサコフ 官 衙 地 はこの 時 に 炎 上 している 内 陸 部 に 撤 退 したロシア 軍 は 11 日 からウラジミロフカ 西 北 のダリネエ(Дальнее)の 森 林 地 帯 で 頑 強 な 防 衛 活 動 を 行 ったが 12 日 には 敗 退 し 南 部 戦 線 は 日 本 軍 による 掃 討 段 階 に 入 った ウラジミロフカ 付 近 でも 前 述 した 兵 士 新 屋 新 宅 が 9 日 前 後 からウラジミロフカ 北 端 付 近 ルゴヴォエでロシア 軍 の 抵 抗 に 遭 ったと 手 紙 に 記 している 翌 年 9 月 にこの 地 を 訪 れた 柳 田 國 男 も ルゴウォエ 迄 の 路 は 草 深 き 野 地 なり 昨 年 の 戦 に 露 軍 ここにて 防 御 陣 地 を 設 けたる 跡 のこれり としてい るから 31 南 部 におけるロシアの 防 衛 線 はダリネエ~ルゴヴォエのラインであったと 見 る べきだろう それゆえに ウラジミロフカの 旧 市 街 地 は 直 接 の 兵 火 を 免 れることができた ところで 戦 役 時 やその 直 後 においては 新 たな 地 名 を 占 領 軍 ( 第 13 独 立 師 団 )の 将 校 に ちなんでつけた 例 が 多 々 存 在 した 例 えば コルサコフを 竹 内 ガルキノウラスコエ( 落 合 Долинск)を 太 秦 としたのだが ウラジミロフカもその 例 に 漏 れず 晴 気 村 と 呼 ばれた 時 期 が 存 在 した 32 当 時 の 新 聞 記 事 によれば 各 地 のロシア 語 による 地 名 が 難 解 であったため 一 種 の 方 便 として 命 名 されたとされているが 高 級 軍 人 の 露 骨 な 功 名 心 を 示 唆 するような このエピソードは 幸 いなことに 地 名 の 改 称 は 勅 許 を 経 ざるべからず という 理 由 で 取 り 消 されたという 33 実 際 には 占 領 直 後 に 竹 内 少 将 の 名 で 地 名 改 称 の 申 し 出 がなされた 31 柳 田 國 男 樺 太 紀 行 ( 定 本 柳 田 國 男 集 第 二 巻 筑 摩 書 房 1968 年 ) p.449 32 それぞれ 竹 内 正 策 少 将 ( 歩 兵 第 25 旅 団 長 ) 太 秦 供 康 少 佐 ( 同 連 隊 第 3 大 隊 長 ) 晴 気 市 三 少 佐 ( 歩 兵 第 49 連 隊 第 2 大 隊 長 )に 因 んだもの... 33 小 西 海 南 南 樺 太 巡 遊 記 ( 八 ) 東 京 朝 日 新 聞 1905. 11. 17 によれば 露 国 式 の 地 名 / 由 来 樺 太 の 地 には 土 人 の 名 けたる 地 名 多 しされど 露 国 の 之 を 改 めたるもの 或 は 其 新 に 開 拓 し たる 箇 所 に 呼 称 を 下 したるもの 一 層 多 きに 居 れり 此 等 は 勿 論 露 国 式 の 名 称 にして 本 邦 人 に は 之 を 唱 ふること 頗 る 難 く 記 憶 に 存 し 或 は 意 味 を 解 するは 一 層 困 難 なり 我 将 卒 の 之 に 苦 み 為 に 軍 隊 の 行 動 上 尠 からぬ 障 害 ありしと 云 ふは 決 して 無 理 ならず この 故 に 嚮 に 我 軍 は 其 必 要 に 迫 られて 地 名 を 改 めたるもの 多 し 哥 薩 港 を 竹 内 ウラジミロフカを 晴 気 ガルキノウ ラスコエを 太 秦 と 云 ふが 如 きは 其 一 例 然 るに 地 名 の 改 称 は 勅 許 を 経 ざるべからずとして 其 筋 の 内 命 により 悉 く 之 を 取 消 したりとか 而 して 再 び 露 式 の 呼 唱 を 用 ひつゝあり 其 不 便 実 -52-

が 即 座 に 地 図 上 記 載 ノ 地 名 ヲ 占 領 軍 隊 ニ 於 テ 妄 リニ 改 称 スルヲ 許 可 セサル という 陸 軍 次 官 からの 素 気 ない 回 答 がなされ 彼 らの 野 望 はもろくも 崩 れていた 34 いささか 余 談 ながら このエピソードと 類 似 した 占 領 軍 軍 人 たちの 余 禄 を 戒 めたと 見 られる 通 達 は 他 にもある 1905 年 8 月 6 日 付 の 司 令 官 宛 の 令 達 中 に 占 領 地 ニ 於 ケル 軍 衙 ノ 権 力 ハ 占 領 中 軍 事 上 及 地 方 人 民 ノ 統 括 上 必 要 ノ 施 設 ヲ 為 スニ 止 マルヘキモノナルカ 故 ニ 占 領 軍 ニ. 於 テ 土 地 建 物 等 ノ 不 動 産 ヲ 人 民 ニ 払 下 ケ 又 ハ 長 期 ノ 貸 下 ヲ 為 シ 其 他 此 等 ノ 不 動 産 ニツキ 諸... 種 ノ 永 久 的 特 権 ヲ 許 可 スルコトアラムカ 占 領 ノ 性 質 ト 相 容 レサル結 果 ヲ 生 スルノミナラス... 将 来 該 地 方 ノ 経 営 上 少 ナカラサル 支 障 ヲ 来 タス 至 ルヘキカ 故 ニ 占 領 中 ハ 此 等 永 久 的 ノ 処 分... ヲ 為 ササルト 共 ニ 特 別 ノ 事 情 ニ 依 リ 其 必 要 アル 場 合 ニハ 理 由 ヲ 具 シ 本 大 臣 ノ 承 認 ヲ 受 クヘ シ( 傍 点 筆 者 ) ( 第 13 師 団 長 へ 令 達 満 発 第 6795 号 )という 一 項 があり 35 とかく 専 横 に 走 りがちな 当 時 の 占 領 軍 の 様 子 をうかがうことができよう 6 ウラジミロフカ 遷 都 ともあれ 日 露 戦 争 の 終 結 後 第 13 独 立 師 団 を 母 胎 として 樺 太 守 備 隊 が 編 成 され 旭 川 の 第 7 師 団 隷 下 とされた 8 月 28 日 には 樺 太 民 政 署 が 組 織 され 9 月 3 日 は 本 署 をコル サコフに 移 し ウラジミロフカには 支 署 が 設 置 された そもそもサハリン 攻 略 作 戦 は ル ーズベルト 大 統 領 の 勧 告 を 受 け 36 ロシア 領 を 占 領 することで 講 和 条 約 を 有 利 に 導 くため のものであったから サハリン 島 それ 自 体 の 領 有 を 目 的 としていたわけではなく ゆえに 国 策 的 なレベルにおける 経 営 方 針 があらかじめ 定 められているはずはなかった 当 然 の 帰 結 として 守 備 隊 司 令 部 と 民 政 署 すなわち 現 場 の 判 断 によりなされたものであったと 見 るべきだろう 当 時 の 民 政 署 長 官 熊 谷 喜 一 郎 も 新 聞 のインタビュー 記 事 の 中 で 政 府 には 相 談 しなかった と 証 言 している 37 後 の 樺 太 庁 をウラジミロフカに 設 置 することは 守 備 隊 司 令 部 や 民 政 署 の 間 では 相 当 に 早 い 時 期 から 意 見 の 一 致 を 見 ていたようである また この 時 の 遷 都 論 はいくつかの 報 告 書 で 展 開 しているが これらはすべて 共 通 の 文 脈 で 構 成 されていることにも 注 目 すべき であろう これらの 報 告 書 はいずれも 中 央 政 庁 の 位 置 をコルサコフとウラジミロフカの に 名 状 すべからず 余 の 如 き 忘 健 家 に 至 りては 之 に 苦 しむこと 極 めて 大 速 やかに 日 本 式 の 地 名 に 改 めたしと 思 ふもの 決 して 余 のみに 非 さるべし 34 明 治 三 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 第 八 巻 p. 198 に 八 月 七 日 樺 太 地 名 改 称 方 竹 内 少 将 ヨ リ 申 出 シ 趣 ヲ 以 テ 参 謀 次 長 ヨリ 本 省 ノ 意 見 ヲ 求 メ 来 リシカ 地 図 上 記 載 ノ 地 名 ヲ 占 領 軍 隊 ニ 於 テ 妄 リニ 改 称 スルヲ 許 可 セサル 意 見 ナルヲ 以 テ 其 旨 次 官 ヨリ 回 答 ス( 満 発 第 6806 号 ) と 出 ている 35 明 治 三 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 第 八 巻 pp. 191-192 36 松 村 正 義 日 露 戦 争 と 金 子 堅 太 郎 広 報 外 交 の 研 究 ( 新 有 堂 1987 年 ) p. 393 37 お 役 所 は 土 人 小 屋 三 畳 間 の 長 官 殿 小 樽 新 聞 1936. 8. 24 中 に 大 泊 の 民 政 署 を 中 央 に 移 さうと 調 査 した 結 果 ウラジミルコフカ 豊 原 に 設 定 政 府 にも 相 談 せず 庁 舎 官 舎 市 街 地 も 区 制 等 の 移 転 準 備 をはじめ 札 幌 を 基 範 として 近 代 都 市 の 建 設 に 着 手 した とある -53-

二 者 択 一 にしている その 上 で コルサコフの 欠 点 とウラジミロフカの 利 点 を 挙 げ 中 央 政 府 を 置 くべくの 地 をウラジミロフカにすべきだとしている 理 由 も 字 句 こそ 違 えど 趣 旨 は 同 じであり コルサコフは 土 地 丘 陵 多 ク 大 ナル 市 街 ヲ 建 設 スルニ 不 利 で 位 置 的 に も 南 海 岸 ニ 偏 スル とし ウラジミロフカは 農 業 上 ニモ 尤 モ 有 望 ナル 平 野 部 ノ 中 央 部 ニ 位 置 しており コルサコフ マウカ ドブキ リュトカ に 至 る 道 路 の 集 合 点 であること 軍 事 上 ヨリスルモ 亦 枢 要 ノ 地 であるとしていた 38 こうした 意 見 に 基 づきウラジミロフカへの 遷 都 を 公 式 に 定 めたのは 1906 年 1 月 31 日 から 2 月 2 日 に 実 施 された 市 街 地 設 計 に 関 する 決 議 の 席 上 であった これは 樺 太 将 来 の 行 政 を 如 何 にするかという 大 会 議 であり その 要 旨 は 日 露 戦 役 に 依 る 占 領 地 施 政 一 件 樺 太 ノ 部 に 記 されている ここでは 中 央 政 庁 の 所 在 地 をウラジミロフカとし コルサコフ-ウラジミロフカ 間 に 鉄 道 を 敷 設 すべきことが 決 議 されている 39 この 時 に 市 街 地 として 予 定 されたのは ウラジミロフカノ 北 端 ヨリ 同 村 ノ 南 方 約 千 米 附 近 (37.3 標 高 点 )ニ 至 リ 其 東 方 一 帯 ノ 地 及 現 ウラジミロフカ 西 南 方 道 路 ノ 西 側 幅 五 百 米 長 千 米 ノ 地 であった さらに 旧 露 国 病 院 を 兵 営 敷 地 とし 官 衙 ノ 位 置 ハ ブリジネエ 街 道 分 岐 点 ノ 東 方 七 百 米 附 近 とすることも 定 められた 40 新 市 街 地 の 設 定 作 業 は 雪 解 けを 待 って(おそらく 5 月 ころより) 始 められ この 年 はそれに 費 やされたと 見 られる 東 西 13 丁 南 北 14 丁 と 称 された 新 市 街 地 がこうして 姿 を 現 した 7 新 旧 市 街 地 の 関 係 さて 具 体 的 にはウラジミロフカのどのあたりに 市 街 地 を 設 けたのであろうか いくつ かの 市 街 地 図 で 確 認 する 限 り 新 市 街 地 の 基 点 が 二 本 の 街 道 の 分 岐 点 付 近 であったこと はほぼ 明 らかである 事 実 豊 原 市 街 ( 大 字 豊 原 )の 条 丁 目 の 呼 称 はこの 地 点 ( 大 通 と 真 岡 通 の 交 差 点 )を 起 点 としているし 旧 露 国 病 院 付 近 を 兵 営 敷 地 とする という 一 項 とも 一 致 しているからである 官 衙 ノ 位 置 についても 東 6~7 条 といった 界 隈 は 官 舎 街 であった ことはわかっているため 前 記 と 一 致 するとしてもよいだろう ただ 官 衙 の 要 となるべ き 政 庁 の 位 置 が 若 干 ずれているのは 検 討 を 要 するが 今 後 の 課 題 としたい こうした 新 旧 市 街 地 の 位 置 関 係 を 非 常 に 具 体 的 に 記 述 しているのが 前 掲 樺 太 之 豊 原 である 領 有 直 後 のウラジミロフカ という 項 で 豊 原 市 街 地 との 比 較 という 形 で 旧 市 街 地 の 状 況 を 描 写 している これによると 現 遠 藤 木 工 場 の 川 向 ひに 一 軒 の 製 粉 水 車 があり 南 は 市 街 地 の 大 通 りより 玉 川 橋 を 渡 って 左 に 曲 がった 辺 から 守 備 隊 方 面 及 西 一 条 北 三 四 丁 目 辺 に 点 々 露 式 家 屋 があり 守 備 隊 の 煉 瓦 造 り 兵 舎 の 所 には 元 露 式 の 広 壮 な 建 築 物 があ 38 前 掲 樺 太 守 備 隊 施 設 ニ 関 スル 意 見 進 達 ( 明 治 三 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 第 八 巻 pp. 804-805) 39 鈴 木 陽 之 助 ほか 日 露 戦 役 ニ 依 ル 占 領 地 施 政 一 件 樺 太 ノ 部 ( 復 命 報 告 書 綴 外 務 省 外 交 史 料 館 所 蔵 ) 40 日 露 戦 役 ニ 依 ル 占 領 地 施 政 一 件 p. 20-54-

り 大 通 五 丁 目 現 郵 便 局 裏 通 りより 北 は 西 一 条 学 校 附 近 南 は 停 車 通 り 辺 に 至 る 一 帯 は 露 人 の 墓 地 があり 現 王 子 製 紙 会 社 工 場 所 在 地 一 帯 は 混 地 の 牧 草 畑 及 放 牧 地 であり 西 方 鈴 谷 川 に 面 した 所 に 穀 菜 畑 があり という 状 況 であったらしい 41 新 市 街 地 の 界 隈 も 前 記 の 墓 地 以 外 は 開 闢 斧 鉞 を 加 へざる 樹 木 の 密 生 していた 箇 所 であり 東 三 条 の 辺 より 東 方 旭 ヶ 岡 に 至 る 方 面 は 大 森 林 地 帯 であったという これらの 記 述 は 基 本 的 に 前 出 図 1に 見 られ るウラジミロフカ 集 落 の 周 辺 状 況 を 裏 付 けるものであるし 1906 年 9 月 15 日 にウラジミ ロフカを 訪 れた 柳 田 國 男 の ウラヂミロフカ 林 地 を 区 画 して 市 街 を 設 けんとす 林 の 中 に 露 人 の 墓 地 あり 末 は 如 何 になるべきかと 思 ふ 此 の 村 今 は 一 筋 の 家 つづきにて 露 人 の 建 てたる 大 なる 家 も 少 なからず 日 本 人 の 住 みあふれたるものはテントをつくりて 商 を いとなむもあり という 記 述 とも 一 致 している 42 このロシア 人 墓 地 については セール ギー 主 教 の 旅 行 記 などでも 計 画 的 に 区 割 りが 進 められている 市 街 地 の 一 角 に ロシア 人 が 置 き 残 していった 墓 地 が 見 つかったが 棺 は 全 て 掘 り 返 され 遺 骨 や 遺 体 とともに 焼 き 捨 てられた と 言 及 され 43 ロシア 側 にも 広 く 知 られている 第 二 次 世 界 大 戦 後 の 日 ソ 交 替 期 においても 同 様 のことは 主 客 を 転 倒 して 見 られたが これらは 日 ロ 両 国 民 が 本 質 的 に 相 手 の 文 化 に 対 する 敬 意 や 配 慮 に 欠 ける 傾 向 にあった 証 左 として 記 憶 しておくべきだ ろう 8 区 画 測 設 基 準 と 市 街 地 構 造 この 時 に 設 定 された 市 街 地 の 区 画 構 造 は 明 らかに 北 海 道 のそれを 踏 襲 していた より 具 体 的 にいうと 北 海 道 の 土 地 利 用 制 度 である 大 区 画 制 が ほぼそのままの 形 で 導 入 され ていた その 経 緯 については 以 前 に 言 及 したが 44 ここで 簡 単 にまとめておく 必 要 があろ う 南 サハリンの 市 街 地 における 市 街 地 区 画 の 具 体 的 な 基 準 については 前 掲 日 露 戦 役 二 依 ル 占 領 地 施 政 一 件 の 中 に 収 められた 殖 民 地 選 定 及 区 画 施 設 規 程 に 見 ることがで きる これは 文 字 通 り 拓 殖 地 の 選 定 とその 土 地 区 画 法 について 定 めたもので ここにあ る 方 300 間 という 基 本 区 画 ( 中 区 画 という)に 基 づいた 土 地 制 度 は 北 海 道 のそれを 明 らか 41 坂 本 泰 助 樺 太 之 豊 原 ( 樺 太 著 名 町 村 史 刊 行 会 [ 私 家 版 ] 1922 年 ) pp. 23-24 42 柳 田 國 男 樺 太 紀 行 pp. 443-463 なお 坪 井 英 人 棄 却 されたものたち ( 小 森 陽 一 成 田 龍 一 編 日 露 戦 争 スタディーズ 紀 伊 國 屋 書 店 2004 年 ) pp. 172-192 によれば 講 話 調 印 と 北 緯 五 〇 度 線 の 国 境 画 定 前 後 に 志 賀 重 昮 野 口 雨 情 長 与 善 郎 柳 田 国 男 らが 樺 太 に 渡 ったほか 岩 野 泡 鳴 などもこの 時 期 に 渡 樺 していることを 指 摘 している ここでは 後 年 の 刊 行 であっても 直 接 ウラジミロフカの 市 街 地 の 情 景 に 言 及 している 柳 田 の 一 節 のみを 引 用 した 43 М. С. Высоков и др. История Сахалинской области с древнейших времен до наших дней. Южно-Сахалинск, 1995. с. 135 訳 文 は 板 橋 政 樹 訳 サハリンの 歴 史 ( 日 本 ユーラシア 協 会 北 海 道 連 合 会 2000 年 ) p. 157 に 拠 った 44 詳 細 は 拙 稿 南 サハリンにおける 日 本 統 治 初 期 (1905-1915 年 )の 建 設 活 動 と 営 繕 組 織 ( 修 士 論 文 1997. 3)と 日 本 期 南 サハリンにおける 建 設 活 動 に 関 する 研 究 ( 学 位 論 文 2000.3)を 参 照 のこと -55-

に 踏 襲 したものである 北 海 道 の 場 合 では 中 区 画 を 6 等 分 して 1 戸 分 の 貸 付 地 にしている が サハリンではこれが 4 等 分 になっているだけである 45 この 土 地 区 画 制 度 は 佐 藤 昌 介 がアメリカにおいて 研 究 し 帰 朝 後 に 北 海 道 庁 に 献 策 したものである 1889 年 に 新 十 津 川 の 拓 殖 地 区 画 に 採 用 されて 以 降 北 海 道 ではおしなべてこの 制 度 により 拓 殖 地 の 開 発 が 行 われた 46 樺 太 民 政 署 にこの 制 度 をもたらしたのは おそらく 南 鷹 次 郎 であろう 彼 は 樺 太 民 政 署 の 農 業 政 策 顧 問 を 委 嘱 されて 渡 樺 しているが ごく 常 識 的 に 考 えても 北 海 道 の 農 業 制 度 政 策 を 移 植 するための 人 選 であることは 疑 いない 拓 殖 の 拠 点 となるべき 市 街 地 の 設 定 基 準 については 第 12 条 でふれられている これ も 北 海 道 とほぼ 同 じといってよく 市 街 地 ハ 一 戸 ノ 間 口 六 間 奥 行 二 十 六 間 で 道 幅 十 間 裏 通 八 間 トシ 方 六 十 間 トスヘシ とあり 市 街 地 区 域 外 ニ 幅 二 十 間 ノ 風 致 林 ヲ おくこ とも 指 示 されている 実 際 の 豊 原 市 街 地 は 方 60 間 街 路 10 間 中 通 8 間 を 基 本 にした 街 区 構 成 であったこと また 周 辺 部 に 林 地 が 残 っていたことがわかっており この 規 格 に 忠 実 に 測 設 されたことは 疑 いない つまり 豊 原 は 区 画 制 度 的 な 点 においては 明 治 後 期 に 北 海 道 各 地 に 建 設 された 拠 点 市 街 地 群 の 兄 弟 とみなすべきである 豊 原 市 街 地 ( 大 字 豊 原 ) の 住 所 表 記 が 札 幌 とは 異 なり 東 条 南 丁 目 というように 北 海 道 の 地 方 都 市 と 同 一 表 記 となっていたのは 決 して 偶 然 ではない 実 際 に 区 画 設 定 作 業 を 担 ったのは 民 政 署 嘱 託 技 師 として 市 街 地 設 計 ニ 関 スル 決 議 にも 署 名 していた 関 山 良 助 であった 彼 は 札 幌 農 学 校 土 木 科 の 卒 業 生 ( 第 7 期 )であり 北 海 道 の 土 地 区 画 制 度 については 学 んでいただろ うから 制 度 の 委 嘱 が 実 行 者 によって 歪 められる 可 能 性 はかなり 低 かったと 見 てよいだろ う 9 初 期 豊 原 の 点 描 こうして 整 えられたグリッド 上 に 新 市 街 地 が 建 設 されたわけだが ここでは 官 衙 施 設 群 を 中 心 としてその 経 緯 を 時 系 列 上 で 確 認 していく 豊 原 における 最 初 の 公 共 建 設 ラッシュ は 1906 年 12 月 1 日 に 開 通 したコルサコフ~ウラジミロフカ 間 の 軍 用 軽 便 鉄 道 による 格 段 に 増 強 された 輸 送 能 力 を 駆 使 して 1907 年 度 から 本 格 化 した 交 通 の 不 便 を 補 うために 新 市 街 地 の 建 設 には 最 初 から 鉄 道 の 敷 設 が 前 提 となっていた 点 は 見 逃 せない 新 市 街 地 の 官 衙 施 設 は 真 岡 通 沿 いに 配 された 樺 太 守 備 隊 施 設 群 と 後 の 神 社 通 を 軸 とした 樺 太 庁 施 設 群 に 大 別 される このうち 樺 太 守 備 隊 関 連 施 設 については 請 け 負 った 伊 藤 組 が 新 築 工 事 請 負 契 約 書 9 通 など 関 連 文 書 を 保 管 しており そのあらましを 知 ることができる こ れによると 1940 年 11 月 30 日 に 竣 工 した 樺 太 守 備 隊 司 令 部 庁 舎 を 皮 切 に 翌 年 10 月 45 この 事 情 について 後 に 南 鷹 次 郎 は< 樺 太 は 寒 冷 地 なので 1 戸 あたりの 牧 草 地 が 多 く 必 要 と 考 えた>という 趣 旨 の 発 言 をしている 46 上 田 陽 三 北 海 道 農 村 地 域 における 生 活 圏 域 の 形 成 構 造 変 動 に 関 する 研 究 ( 学 位 論 文 1991)などを 参 照 -56-

30 日 には 樺 太 守 備 隊 司 令 官 官 舎 樺 太 守 備 隊 衛 戌 病 院 が 新 築 している 樺 太 庁 の 関 連 施 設 群 については 1908 年 8 月 23 日 に 樺 太 庁 が 正 式 に 豊 原 に 移 転 しており この 時 までに 庁 舎 は 完 成 していたと 見 るべきであろう なお 同 日 付 で 樺 太 地 名 改 正 令 が 公 布 され ウラ ジミロフカは 豊 原 と 改 称 された さらにこの 後 1908 年 11 月 には 初 代 の 豊 原 郵 便 局 も 竣 工 し 首 都 豊 原 の 陣 容 はひとまず 整 えられた これらの 公 共 建 築 は 多 くがスティックス タイルという 建 築 様 式 を 採 用 していたこと これらの 建 築 工 事 は 陸 軍 技 師 田 村 鎮 が 主 導 し 旭 川 における 第 7 師 団 建 設 工 事 で 活 躍 した 伊 藤 亀 太 郎 と 遠 藤 米 七 が 殆 どの 工 事 を 請 け 負 って 活 躍 していたと 見 られることは 拙 稿 で 指 摘 したとおりである 47 スティックスタイ ルは 木 造 下 見 板 の 外 壁 に 装 飾 的 なオーナメントを 付 加 した 様 式 で 旧 札 幌 駅 ( 北 海 道 開 拓 の 歴 史 村 に 復 元 保 存 )などに 代 表 されるように 明 治 期 北 海 道 の 公 共 建 築 についてもひろく 一 般 的 に 見 られるものである 比 較 的 簡 便 な 工 法 でありながら 瀟 洒 な 雰 囲 気 を 醸 成 できるこ のスタイルは 開 拓 の 拠 点 として 位 置 づけられた 新 興 市 街 地 にふさわしい 景 観 を 作 り 出 し ていた 今 ひとつ 様 式 という 側 面 で 注 目 しておくべきことは 日 本 期 以 前 にサハリンで 一 般 化 していたロシア 式 建 築 をあえて 踏 襲 せず 範 を 北 海 道 に 求 めたことであろう 先 述 した 陸 軍 技 師 田 村 は 日 露 戦 争 中 の 1905 年 8 月 11 日 付 で 陸 軍 省 雇 員 として 樺 太 守 備 隊 に 派 遣 され 守 備 隊 関 連 の 建 築 工 事 の 指 揮 とともに 将 来 建 築 スヘキ 永 久 建 築 物 に 関 する 調 査 を 命 ぜられている 48 彼 の 書 いた 報 告 書 そのものは 残 されていないものの その 後 に 書 かれた 守 備 隊 司 令 官 竹 内 少 将 の 報 告 書 には 永 久 建 築 ノ 方 法 ハ 慎 重 ノ 調 査 ヲ 要 スヘキコ トナルカ 露 国 ガ 多 年 ノ 研 究 ノ 上 採 用 シタル 丸 太 積 ミノ 設 計 ニハ 蓋 シ 本 島 ニ 適 セルモノト 考 フ とあり 49 当 初 ロシア 式 建 築 の 評 価 は 決 して 低 いものではなかったことがわかる し かしながら 実 際 にはロシア 式 建 築 は 豊 原 にはほとんど 採 用 されていない 現 在 のところ その 理 由 は 推 測 によるしかないのだが 実 際 に 工 事 にあたった 建 設 業 者 の 大 部 分 が 北 海 道 からの 渡 航 者 たちであり 彼 らはおしなべてロシア 式 建 築 の 経 験 がなく 施 工 段 階 で 生 じ る 諸 問 題 が 解 消 できなかったこと 50 あるいは 南 鷹 次 郎 が 農 民 家 屋 ノ 構 造 ハ 通 シテ 丸 太 式 で 築 造 ニ 便 利 ニシテ 寒 地 ニ 適 スル ものの 其 保 存 期 限 ノ 短 キハ 欠 点 トスヘシ と 報 告 書 で 述 べているように 51 対 応 年 数 の 短 さを 問 題 視 した 可 能 性 があることなどが 挙 47 詳 細 は 拙 稿 南 サハリンにおける 日 本 統 治 初 期 (1905-1915 年 )の 建 設 活 動 と 営 繕 組 織 ( 北 海 道 大 学 修 士 論 文 1997) 日 本 期 南 サハリンにおける 建 設 活 動 に 関 する 研 究 ( 北 海 道 大 学 学 位 論 文 2000)などを 参 照 のこと 48 明 治 三 十 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 第 六 巻 pp. 750-751 49 兵 舎 建 築 に 関 する 意 見 書 ( 守 備 隊 司 令 官 竹 内 正 策 による 報 告 書 満 密 受 第 1627 号 1905. 7. 20) 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 図 書 館 所 蔵 50 実 際 に 明 治 初 期 の 北 海 道 において 開 拓 使 がロシア 式 建 築 を 試 験 的 に 用 いたことがあるが そ の 後 は 利 用 されていない 北 海 道 明 治 期 の 洋 風 建 築 に 詳 しい 越 野 武 は 原 因 は 校 木 間 のコ ケ 充 填 がうまくいかなかったためと 伝 承 されているが この 程 度 の 些 細 な 問 題 を 克 服 するだ けの 強 い 需 要 がなかった というのに 尽 きるだろう としている 越 野 武 アメリカ 建 築 の 移 植 ( 建 築 雑 誌 第 1384 号 1996.2) p.19 51 南 鷹 次 郎 農 事 視 察 復 命 書 ( 前 掲 日 露 戦 役 ニ 依 ル 占 領 地 施 政 一 件 付 第 六 号 1905. 11. 16) -57-

げられる また 単 純 にロシア 風 の 景 観 と 一 線 を 画 そうとしたという 意 図 もあったであろ う ともあれ こうした 豊 原 における 公 共 建 築 工 事 ラッシュが 一 段 落 するのは 1911 年 8 月 23 日 の 樺 太 神 社 鎮 座 式 によってである 従 来 のロシア 的 な 農 村 であったウラジミロフ カは 旧 市 街 地 となり その 南 側 に 明 治 期 北 海 道 の 市 街 地 を 移 植 したような 新 市 街 地 が 並 んでいたというのが 当 時 の 豊 原 の 姿 であった この 時 点 における 豊 原 市 街 地 は この 鎮 座 式 の 時 に 北 日 本 新 聞 に 掲 載 された 略 地 図 ( 図 2)に 見 ることができる これを 見 ると 樺 太 守 備 隊 施 設 の 周 辺 ( 大 通 北 1~3 丁 目 )に 将 兵 を 目 当 てにした 旅 館 貸 座 敷 群 が 軒 を 並 べていたことがわかる 豊 原 市 街 地 は 東 三 条 通 りを 境 にして 官 用 地 と 民 用 地 にはっきりと 区 画 されていた 西 一 条 大 通 東 一 条 の 3 丁 はほとんどが 民 用 地 として 貸 し 下 げられ ここが 新 しい 豊 原 経 済 の 拠 点 となっていった 一 方 で 真 岡 通 には 樺 太 守 備 隊 司 令 部 のほか 衛 戍 病 院 や 司 令 官 官 舎 など 関 連 施 設 が 軒 を 並 べ 官 舎 群 のある 一 帯 が 官 舎 街 (かんしゃまち) と 称 されたことも 記 事 に 載 せられている その 官 舎 群 を 挟 むようにして 南 5~6 丁 目 に 樺 太 庁 の 関 連 施 設 が 建 設 されていた これら は 停 車 場 通 ( 後 の 神 社 通 )と 呼 ばれる 街 路 を 軸 として 並 んでいた また この 図 を 見 る 際 に 注 目 すべきことは 市 街 地 北 部 の 街 区 間 隔 が 広 く 反 対 に 南 部 を 狭 く 描 いていることであ る 記 載 事 項 はむしろ 南 部 の 方 が 多 いにもかかわらず こうした 描 き 方 をした 背 景 には むろん 断 言 はできないが 当 時 の 市 街 地 の 中 心 が 北 部 にあり 南 部 はまだ 辺 縁 的 意 味 合 いが 大 きかったということがあるだろう 写 真 2 は 伊 藤 組 が 所 蔵 していた 古 写 真 の1つで 建 設 途 上 の 官 舎 街 の 様 子 である 撮 影 位 置 方 位 街 区 などから 1908 年 の 夏 から 秋 頃 樺 太 守 備 隊 司 令 官 官 舎 の 建 設 工 事 中 に 同 建 物 の 建 築 工 事 足 場 上 から 南 側 を 撮 影 したものであると 推 測 される 手 前 に 広 がるのは 方 60 間 の 基 本 街 区 を 4 等 分 したものに 官 舎 1 棟 を 割 り 当 てた 非 常 に 低 密 度 な 住 宅 街 区 で ある 官 舎 は 官 庁 建 築 のスティックスタイルに 呼 応 するように 下 見 板 の 平 家 建 木 造 建 築 で 脇 便 所 あるいは 物 置 と 見 られる 別 棟 が 附 属 している また 写 真 の 奥 のほうには 2 戸 1 棟 形 式 の 官 舎 群 が 並 んでおり 手 前 の 官 舎 群 との 階 級 的 相 違 を 感 じさせる 位 置 的 な 点 から 推 測 して 手 前 が 守 備 隊 の 将 校 用 官 舎 奥 の 方 が 樺 太 庁 の 官 舎 群 と 推 測 される さらに 遠 景 に 目 をやると 官 舎 街 の 向 こうにはまだ 街 区 が 設 定 されておらず 緩 衝 帯 的 な 空 き 地 の 向 こうに 伐 採 面 を 剥 き 出 しにした 森 林 が 山 すそを 覆 うように 広 がっている 森 林 を 切 り 開 いて 市 街 地 を 建 設 したばかりの 雰 囲 気 が 色 濃 く 残 っている 写 真 である 続 く 写 真 3 の 撮 影 時 期 は 不 明 だが 手 前 に 写 っている 灯 篭 状 の 棟 飾 りにより 豊 原 郵 便 局 ( 初 代 1911 年 竣 工 ) の 屋 根 上 から 撮 影 されたものであることがわかる この 建 物 は 1920 年 に 焼 失 しているた め 少 なくともそれ 以 前 の 豊 原 市 街 地 を 撮 影 したものである 写 真 の 右 手 に 見 えるのが 北 向 きに 眺 めた 大 通 りである 市 街 地 のメインストリートとはいえ 並 んでいるのは 簡 素 な 木 造 平 家 の 建 物 ばかり しかも 一 歩 裏 通 りに 入 れば 中 心 市 街 地 にさえ 広 々とした 空 き 地 が 展 開 していたことがわかる ただ 奥 の 方 ( 南 3 丁 目 界 隈 )までは 高 密 とは 言 えないまでも 街 区 は 家 屋 で 埋 められていたこともわかる この 写 真 も 初 期 市 街 地 においては 北 部 の 方 -58-

から 発 展 を 始 めていたという 証 左 のひとつと 言 えそうである また 遠 景 中 央 よりやや 左 手 に 伸 びる 煙 突 は 豊 原 乾 溜 工 場 のものである このことと 写 真 中 の 棟 飾 形 状 を 考 え 合 わ せれば この 初 代 郵 便 局 が 駅 前 広 場 や 神 社 通 りに 面 しておらず 北 向 きに 建 てられていた ことも 知 ることができる これは 次 節 で 述 べる 北 部 市 街 地 と 神 社 通 りの 関 係 性 を 考 える 上 で 重 要 な 示 唆 である 1912 年 市 街 地 北 辺 部 の 重 要 性 は 樺 太 守 備 隊 の 撤 退 により 消 滅 した 守 備 隊 司 令 部 は 裁 判 所 に 司 令 官 官 舎 は 博 物 館 に 順 次 転 用 されていった また 守 備 隊 宿 営 地 は 有 事 に 備 え て 陸 軍 用 地 として 確 保 されることとなった 一 方 で 守 備 隊 将 兵 を 目 当 てとした 商 売 は 立 ち 行 かなくなり 森 林 資 源 活 用 の 担 い 手 として 期 待 されていた 乾 溜 工 場 (1910 年 操 業 開 始 ) も 捗 々しい 成 果 を 収 めえず 元 号 が 大 正 と 変 わった 頃 の 豊 原 には 斜 陽 の 雰 囲 気 が 漂 ってい た そうした 状 況 の 打 開 は 王 子 製 紙 の 工 場 誘 致 によってなされていくのだが 以 降 の 展 開 については 後 の 機 会 にゆだねたい 10 三 木 論 文 とモーリス=スズキ 論 文 いささか 順 序 が 逆 になるが こうした 市 街 地 形 成 過 程 について 共 時 的 な 研 究 (あるいは 植 民 地 研 究 )ではどのような 展 開 がなされていたのかにも 言 及 しておかなければなるまい 黎 明 期 の 豊 原 に 関 しては 三 木 理 史 やテッサ モーリス=スズキの 研 究 がよく 知 られている が 52 こうして 明 らかになった 初 期 の 豊 原 市 街 地 の 姿 は これらの 研 究 成 果 とは 若 干 異 な る 様 相 を 示 している 三 木 論 文 は 最 初 期 の 豊 原 市 街 地 に 関 して 地 理 学 的 な 分 析 を 試 みてお り 樺 太 が 空 間 的 位 置 や 歴 史 的 経 過 さらには 民 族 政 策 経 済 においても 内 国 植 民 地 北 海 道 と 深 い 関 係 にあり その 延 長 地 域 として 捉 えうる 可 能 性 を 有 しながらも 北 海 道 と 樺 太 の 間 には 内 地 と 外 地 という 歴 然 たる 教 会 が 存 在 していた ということからも 明 らか と の 認 識 から 53 移 住 型 植 民 地 という 特 性 を 重 視 しつつ 豊 原 の 新 市 街 地 は 札 幌 に 準 じた 碁 盤 目 状 の 区 画 が 測 設 され 中 心 軸 は 鉄 道 線 路 に 求 められ 後 にそれを 境 に 官 民 施 設 分 離 が 進 んだ こと 豊 原 は 内 地 北 海 道 樺 太 という 都 市 計 画 技 術 の 流 れの 末 端 に 位 置 づ けられていた としている 54 そして 土 地 区 画 の 点 で 札 幌 や 北 海 道 の 諸 都 市 との 共 通 性 を 強 く 影 響 されていた ことを 指 摘 しているが 前 述 した 明 治 後 期 の 土 地 制 度 に 関 する 言 及 が 欠 けており その 指 摘 は 推 測 にとどまっている 確 かに 豊 原 と 札 幌 は 計 画 的 に 内 陸 部 に 開 発 された 政 庁 都 市 であり 方 60 間 という 基 本 区 画 を 持 ち 小 樽 や 大 泊 といった 港 湾 都 市 との 連 携 により 本 国 との 連 絡 が 取 られている 52 三 木 理 史 移 住 型 植 民 地 樺 太 と 豊 原 の 市 街 地 形 成 ( 人 文 地 理 第 51 巻 第 3 号 1999 年 ) pp. 221-239 テッサ モーリス=スズキ 植 民 地 思 想 と 移 民 豊 原 の 眺 望 から ( 小 森 陽 一 ほか 岩 波 講 座 近 代 日 本 の 文 化 史 6 拡 大 するモダニティ 1920-30 年 代 2 岩 波 書 店 2002 年 ) pp. 183-214 53 三 木 理 史 移 住 型 植 民 地 樺 太 と 豊 原 の 市 街 地 形 成 pp. 2-3 54 三 木 p. 21-59-

点 など 共 通 点 が 多 い 前 述 した 熊 谷 民 政 署 長 官 も 札 幌 を 規 範 にして と 証 言 しているし 豊 原 町 勢 要 覧 昭 和 四 年 度 も 都 市 測 定 の 範 を 北 海 道 札 幌 にとり とうたっている 55 豊 原 には 小 札 幌 という 俗 称 すら 存 在 したようだ だが 三 木 のいうように 豊 原 と 札 幌 のみの 類 似 を 強 調 することは 難 しい ことも 確 かである 56 とはいうものの ウラジミロフ カへの 遷 都 を 図 った 際 に 先 行 事 例 というべき 北 海 道 と 札 幌 のことは 誰 の 頭 にも 浮 か んでいたに 違 いない 彼 らにとって その 時 の 札 幌 は 当 初 から 豊 原 が 目 指 した あるいは 目 指 さなくてはいけないもの つまり 理 念 的 な 目 標 であったとみるべきではないか 確 か なことは 制 度 的 な 側 面 ではその 発 展 形 態 といえる 北 海 道 の 後 発 市 街 地 群 の 制 度 を 用 いた ことである とはいえ 少 なくとも 土 地 制 度 に 関 して 北 海 道 との 関 連 性 を 重 視 した 三 木 の 言 説 には 同 意 できる 部 分 が 多 い なお 直 接 豊 原 には 言 及 していないが 高 倉 新 一 郎 も 北 海 道 拓 殖 史 の 序 文 中 で 北 海 道 拓 殖 史 の 叙 述 に 当 つて 私 は 樺 太 を 除 外 することは 出 来 な かった ( 中 略 ) 尠 くとも 南 樺 太 のそれは 北 海 道 の 拓 殖 の 延 長 と 考 へられ 我 が 国 の 活 動 に 関 する 限 り 切 り 離 すことはむづかしく 且 つ 北 海 道 拓 殖 の 辺 境 として 尤 も 端 的 にかつ 露 骨 にその 結 果 を 現 実 化 してゐると 言 ふ 点 で 北 海 道 拓 殖 の 運 命 の 洞 察 とその 批 判 に 欠 くべ からざるものであり 是 を 樺 太 が 分 離 されてしまった 現 状 に 即 して 捨 て 去 ることは 出 来 な かつたからである とし 57 結 論 においても 北 海 道 樺 太 の 拓 殖 は 樺 太 のそれはそ の 延 長 と 見 ることが 出 来 る 我 が 国 に 於 ける 最 初 の 大 規 模 な 計 画 的 植 民 事 業 であった と 拓 殖 活 動 から 見 た 両 地 の 連 関 性 を 強 調 している 58 一 方 でモーリス=スズキ 論 文 は 文 化 史 論 的 な 立 場 から 植 民 都 市 豊 原 を 対 象 として 移 民 経 験 のもつヨリ(ママ) 広 い 含 意 を 考 察 している 彼 女 は 格 子 状 に 交 差 する 比 較 的 広 い 街 路 に 沿 って 展 開 する 豊 原 の 市 街 地 を 最 高 の 近 代 都 市 計 画 の 方 針 を 体 現 し 植 民 地 権 力 の 重 要 なシンボルが 入 念 に 組 みこまれ たものとし さらに 台 北 や 京 城 ( 現 ソウル) といった 日 本 の 他 の 植 民 地 都 市 に 適 用 された 都 市 計 画 と 大 きな 共 通 点 があった こと 帝 国 主 義 的 な 権 力 の 誇 示 をもくろむ 街 路 計 画 と 表 裏 一 体 をなすもの としている 59 後 者 の 例 として 鉄 道 と 神 社 は 二 つの 対 照 的 な 神 話 国 家 の 神 話 と 植 民 地 主 義 の 神 話 を 体 現 するものだった ことを 挙 げ 当 時 神 社 通 りと 呼 ばれた 駅 から 樺 太 神 社 までまっすぐ に 伸 びる 通 り の 重 要 性 を 強 調 している 樺 太 庁 はもちろんのこと 役 所 や 郵 便 局 を 含 む 主 だった 政 府 の 建 物 は 神 社 通 り という 軸 線 上 に 官 公 庁 施 設 が 集 中 していたことを 植 民 地 権 力 や 帝 国 主 義 的 な 権 力 の 誇 示 の 論 拠 として 挙 げている 60 彼 女 の 主 張 のうち 最 高 の 近 代 都 市 計 画 の 方 針 や 台 北 や 京 城 との 共 通 点 それに 付 随 した 帝 国 主 義 的 な 権 力 の 誇 示 をもくろむ 街 路 計 画 については 豊 原 の 初 期 市 街 地 55 豊 原 町 役 場 豊 原 町 勢 要 覧 昭 和 四 年 度 ( 豊 原 町 役 場 1929 年 ) p. 4 56 三 木 p. 13 57 高 倉 新 一 郎 北 海 道 拓 殖 史 ( 柏 葉 書 院 1946 年 ) pp. 4-5 58 高 倉 p. 305 59 モーリス=スズキ pp. 191-192 60 モーリス=スズキ pp. 193-195 -60-

において 政 治 的 な 中 心 軸 は 真 岡 通 や 大 通 であり 少 なくとも 神 社 通 ではなかったことが 指 摘 できるのである そうした 北 側 の 有 利 性 を 最 も 明 瞭 に 示 唆 するのは 樺 太 庁 庁 舎 の 向 きである 写 真 4 か らもわかるように 神 社 通 に 面 している 樺 太 庁 は 実 は 神 社 通 りに 背 を 向 け 北 側 に 正 面 を 向 けていた もし 神 社 通 が 中 心 街 路 であったなら こんな 向 きで 建 てられるはずがない また 前 節 で 指 摘 したように 豊 原 郵 便 局 も 元 来 北 向 きに つまりは 樺 太 庁 と 同 じ 通 りに 面 して 建 てられていた すなわち 初 期 市 街 地 にとってプライオリティが 高 かったのは 樺 太 守 備 隊 施 設 のある 北 側 ( 真 岡 通 方 面 )であり 南 側 ( 神 社 通 )ではなかったのである 確 か に 後 の 豊 原 市 街 地 においてこの 通 りが 重 要 な 軸 線 となっていたことは 確 かだが それは 時 間 的 経 過 や 市 域 の 発 達 に 伴 うものであり 計 画 都 市 上 の 植 民 地 権 力 の 誇 示 という 指 摘 は 事 実 との 懸 隔 があまりに 大 きいと 思 われる 豊 原 市 街 地 において 広 幅 15 間 で 設 定 さ れたのは 基 線 である 真 岡 通 と 大 通 のみであり 神 社 通 は 他 の 通 りと 同 様 に 10 間 幅 の 通 りであったことも 指 摘 しておかねばならない だから 彼 女 の 権 力 の 誇 示 をもくろむ 街 路 計 画 という 表 現 にふさわしいのは 神 社 通 ではなくむしろ 真 岡 通 ではないだろうか あえて 言 うならば 神 社 通 という 東 西 の 軸 線 よりも 大 通 西 一 条 通 といった 南 北 の 軸 線 の 方 がより 重 要 であったと 思 われる ここだけに 限 らず 彼 女 の 記 述 には 全 般 的 に 言 って 樺 太 の 植 民 地 性 を 過 剰 に 意 識 した 部 分 が 目 立 つ それは 台 湾 朝 鮮 半 島 満 洲 ( 中 国 東 北 部 ) といった 他 地 域 における 植 民 地 研 究 の 成 果 を 樺 太 において 演 繹 的 に 適 用 しすぎた 結 果 現 実 と 乖 離 した 帝 国 主 義 の 幻 影 を 豊 原 市 街 地 に 粉 飾 してしまったために 他 ならない ただ その 駅 から 神 社 への 軸 線 の 意 味 性 は 検 討 を 要 する 課 題 といえよう だが 少 なく とも 土 地 制 度 や 市 街 地 に 関 して 言 及 するならば 比 較 対 象 としては 他 の 植 民 地 ではなく 北 海 道 の 方 がはるかに 重 要 であり 彼 女 の 論 考 においてその 視 点 を 欠 いていることは 致 命 的 な 問 題 と 言 わざるを 得 ない しかしながら 最 も 問 題 とすべきなのは この 論 考 がまか り 通 る 日 本 の 植 民 地 研 究 の 現 状 にあると 思 うのだが これは 後 の 機 会 に 項 を 譲 りたい まとめに 代 えて はじめに 述 べたように 本 稿 は なぜ 豊 原 だったのか という 問 いの 答 えとして 成 立 し た それは 以 下 のように 要 約 できる 1ウラジミロフカは 日 露 戦 争 以 前 に コルサコフに 次 ぐ 形 での 地 域 拠 点 の1つとして 発 達 を 遂 げつつあり それは 日 本 人 の 目 からも 内 陸 部 の 枢 区 と 映 っていたこと 2その 当 然 の 帰 結 として 中 央 政 庁 をウラジミロフカに 置 く という 決 定 に 至 ったこと 3 中 央 政 庁 の 市 街 地 として 建 設 された 豊 原 新 市 街 地 は 北 海 道 の 拓 殖 地 区 画 基 準 を 踏 襲 した 規 格 により 設 定 されたこと これは 以 前 の 拙 稿 でも 述 べたこ とではあるが 都 市 史 的 な 意 味 での 重 要 性 を 鑑 みて 改 めて 述 べておく 必 要 はあると 判 断 した 4 初 期 における 豊 原 市 街 地 の 中 枢 は 設 定 の 基 点 であった 大 通 と 真 岡 通 の 交 差 点 一 帯 の 界 隈 であったこと 後 に 樺 太 守 備 隊 の 撤 退 や 市 域 の 南 部 への 拡 大 に 伴 い 政 治 的 な 中 -61-

心 は 樺 太 庁 周 辺 に 移 っていくものの それがモーリス=スズキの 言 うような 近 代 最 高 の 都 市 計 画 あるいは 帝 国 主 義 的 な 権 威 の 誇 示 をもくろむ 街 路 計 画 の 産 物 でなかったこ とは 確 かである 5 以 上 の 点 を 判 断 して 初 期 の 豊 原 がすでにその 名 に 恥 じない 地 域 的 拠 点 であったこともここで 強 調 しておきたい 確 かに 豊 原 はある 程 度 将 来 的 な 願 望 を 含 んだ 命 名 であったかもしれないが 同 時 に 当 時 のウラジミロフカをとりまく 状 況 を 全 く 考 慮 に 入 れないものでもなかった むしろ 命 名 者 たちの 見 識 はその 後 の 発 展 と 現 状 が 証 明 していると 言 ってもいいだろう また 本 稿 が 示 唆 するものは 研 究 アプローチとしての 通 時 的 視 座 の 重 要 性 である 初 め に 言 及 したように 現 在 の 日 本 期 研 究 はおもに 共 時 的 視 座 に 基 づき 海 外 植 民 地 の 一 つとし て 研 究 がなされているが 本 稿 で 取 り 上 げた 課 題 のように 同 時 代 的 な 比 較 検 証 だけでは 解 決 し 得 ない 課 題 も 多 いだろう とくに 近 世 以 降 のサハリンは 時 間 的 にも 空 間 的 にも 様 々 な 境 界 が 混 在 した 地 域 であるために その 複 雑 さがもつ 歴 史 の 輪 郭 は 通 時 性 と 周 辺 地 域 を 念 頭 に 置 かなければ 見 えてこないだろう 今 後 サハリンの 歴 史 研 究 が 進 捗 するにつれ 帝 政 ロシア 期 および 日 ソ 交 替 期 ソ 連 期 との 連 続 性 と 同 時 に 周 辺 地 域 との 連 関 性 とり わけロシア 極 東 地 域 や 北 海 道 との 関 わりが 必 然 的 に 重 要 な 意 味 を 持 つようになることは 疑 いない したがって こうした 側 面 における 研 究 アプローチの 構 築 も 今 後 の 大 きな 研 究 課 題 といえるだろう 最 後 に 本 稿 の 結 びにあたり 単 に 才 筆 という 表 現 では 語 りえないチェーホフの 慧 眼 と 筆 力 へ 改 めて 賛 嘆 の 念 を 抱 いたことを 告 白 しておく すなわち 彼 はまず 寒 村 のウラ ジミロフカのイメージを 強 く かつ 緻 密 に 印 象 づけることで 私 たちからその 後 のウラジ ミロフカの 姿 を 包 み 隠 してしまったが にもかかわらず その 同 じ 一 節 の 中 でウラジミロ フカという 地 が 持 つポテンシャル いわば 豊 原 の 可 能 性 を 暗 示 してのけているので ある その 意 味 では 豊 原 という 名 は その 命 名 者 がチェーホフのこの 名 句 を 知 ってい たか 否 かはともかく あるいはチェーホフへのオマージュとして 存 在 したのかもしれな い そして それはユジノ-サハリンスクの 歴 史 の 中 で 最 も 文 学 的 なエートスの1つとし て 記 憶 されるべきことのように 思 えるのである 謝 辞 本 稿 作 成 にあたり とくに 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 図 書 館 外 務 省 外 交 史 料 館 北 海 道 立 図 書 館 から 文 献 資 料 の 提 供 を 受 けました また 原 暉 之 荒 井 信 雄 松 井 憲 明 山 崎 秀 樹 池 田 裕 子 田 村 将 人 の 各 氏 に 資 料 提 供 アドバイスをいただきました 末 尾 ながらここに 記 し 改 めてお 礼 を 申 し 上 げます -62-

引 用 文 献 一 覧 ( 発 行 年 順 ) A. 外 国 語 文 献 С. Гальцев-Безюк. Топонимический словарь Сахалинской области. Южно-Сахалинск, 1992. А. И. Костанов. Владимировка-селение на черной речке из истории Южно-Сахалинска. //Краеведческий бюллетень. 1993. 4. Южно-Сахалинск. А. П. Чехов. Остров Сахалин (из путевых записок). Южно-Сахалинск, 1995 М. С. Высоков и др. История Сахалинской области с древнейших времен до наших дней. Южно- Сахалинск, 1995 А. Т. Кузин. Южно-Сахалинск: с вершины века. Южно-Сахалинск, 1996 А. И. Костанов. Топонимика Южно-Сахалинска // Краеведческий бюллетень. 1996. 2. А. И. Костанов, В. В. Семенчик. Южно-Сахалинск: три цвета времени. Владивосток, 2002. B. 公 刊 書 東 亞 同 文 會 編 纂 局 編 鈴 木 陽 之 助 校 樺 太 及 北 沿 海 州 ( 東 亞 同 文 會 1905) 長 谷 場 純 孝 樺 太 紀 行 ( 民 友 社 1907) 坂 本 泰 助 樺 太 之 豊 原 ( 樺 太 著 名 町 村 史 刊 行 会 [ 私 家 版 ] 1922) 豊 原 町 役 場 豊 原 町 勢 要 覧 昭 和 四 年 度 ( 豊 原 町 役 場 1929) 葛 西 猛 千 代 樺 太 土 人 研 究 資 料 ( 私 家 版 北 海 道 大 学 附 属 図 書 館 北 方 資 料 室 所 蔵 ) 高 倉 新 一 郎 北 海 道 拓 殖 史 ( 柏 葉 書 院 1946) チェーホフ 中 村 融 訳 サハリン 島 ( 上 ) ( 岩 波 文 庫 1953) 柳 田 國 男 定 本 柳 田 國 男 集 第 二 巻 ( 筑 摩 書 房 1968) 松 浦 武 ( 竹 ) 四 郎 高 倉 新 一 郎 解 題 竹 四 郎 廻 浦 日 記 ( 上 ) ( 北 海 道 出 版 企 画 センター 1978) 葛 西 猛 千 代 西 鶴 定 嘉 菱 沼 右 一 樺 太 の 地 名 ( 復 刻 ) ( 第 一 書 房 1982 原 本 は 樺 太 郷 土 会 発 行 1930) 陸 軍 省 明 治 三 七 八 年 戦 役 陸 軍 政 史 第 八 巻 ( 復 刻 版 湘 南 堂 書 店 1983) 松 村 正 義 日 露 戦 争 と 金 子 堅 太 郎 広 報 外 交 の 研 究 ( 新 有 堂 1987) 大 江 志 乃 夫 兵 士 たちの 日 露 戦 争 五 〇 〇 通 の 軍 事 郵 便 から ( 朝 日 選 書 1988) 西 村 いわお 南 樺 太 概 要 地 名 解 史 実 ( 高 速 出 版 1994) ヴィソコフ 他 著 板 橋 政 樹 訳 サハリンの 歴 史 ( 日 本 ユーラシア 協 会 北 海 道 連 合 会 2000) C. 公 文 書 新 聞 記 事 南 樺 太 巡 遊 記 ( 八 ) 小 西 海 南 東 京 朝 日 新 聞 1905.11.17. 日 露 戦 役 ニ 依 ル 占 領 地 施 政 一 件 樺 太 ノ 部 ( 鈴 木 陽 之 助 ほか 1906.10) 外 務 省 外 交 史 料 館 所 蔵 樺 太 守 備 隊 施 設 ニ 関 スル 意 見 進 達 ( 満 密 受 第 179 号 ) ( 守 備 隊 司 令 官 山 田 保 永 少 将 1906.4.14) 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 図 書 館 所 蔵 豊 原 案 内 記 北 日 本 新 聞 1911.8.23-63-

お 役 所 は 土 人 小 屋 三 畳 間 の 長 官 殿 小 樽 新 聞 1936.8.24. 豊 原 警 察 署 東 四 条 巡 査 派 出 所 勤 務 細 則 サハリン 州 公 文 書 館 (ГАСО: Ф. 1-Ис, оп. 1, д. 143) D. 研 究 論 文 岩 田 房 次 郎 南 部 樺 太 所 見 ( 建 築 雑 誌 第 219 号 1906.1) 上 田 陽 三 北 海 道 農 村 地 域 における 生 活 圏 域 の 形 成 構 造 変 動 に 関 する 研 究 ( 北 海 道 大 学 学 位 論 文 1991) 越 野 武 アメリカ 建 築 の 移 植 ( 建 築 雑 誌 第 1384 号 1996.2) 井 澗 裕 南 サハリンにおける 日 本 統 治 初 期 (1905-1915 年 )の 建 設 活 動 と 営 繕 組 織 ( 北 海 道 大 学 修 士 論 文 1997) 三 木 理 史 移 住 型 植 民 地 樺 太 と 豊 原 の 市 街 地 形 成 ( 人 文 地 理 第 51 巻 第 3 号 1999.6) 井 澗 裕 日 本 期 南 サハリンにおける 建 設 活 動 に 関 する 研 究 ( 北 海 道 大 学 学 位 論 文 2000.3) テッサ モーリス=スズキ 植 民 地 思 想 と 移 民 豊 原 の 眺 望 から ( 小 森 陽 一 ほか 岩 波 講 座 近 代 日 本 の 文 化 史 6 拡 大 するモダニティ 1920-30 年 代 2 岩 波 書 店 2002) 坪 井 秀 人 棄 却 されしものたち ( 小 森 陽 一 成 田 龍 一 編 著 日 露 戦 争 スタディーズ 紀 伊 国 屋 書 店 2004) -64-