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古代 朝鮮半島と大陸 人物往来 敦賀の地名とツヌガアラシト 敦賀は 古くはツヌガと呼ばれていまし た その名の起源の一つは 朝鮮半島大加 羅国から来た王子ツヌガアラシトがこの地 に来着したことに由来すると 日本書紀の 崇神天皇の条に記されています いに繁栄しました 近世 北前船で賑わう港 国の東北地方にあった渤海国からの使節も 橋とされ それが転じて笙 しょう ノ橋 鷹を手渡したことから その場所が兄鷹の のある 日本海側最大級の港でした 北国 世紀後半の敦賀は人口15 0 00 人 を 超 え 年 間1 8 0 0 艘 あ ま り の 入 り 船 北国と結ぶ流通拠点 敦賀津 港 に入り 彼らをもてなす施設 松 の大名が京都などで売り払うために運ん 軒 ほどあり 広い商圏の商いをしていました 170軒を超え 地域別の諸国問屋も 木 材 紅 花 な ど を 扱 う 品 物 別 の 諸 問 屋 は だ米を取り扱う蔵宿のべ 軒 米や大豆 となったと伝えられています 大谷吉継の港まちづくり 中世 原客館 が敦賀に置かれていました その 位置は特定されていませんが 唐や新羅と の関係が疎遠になるなかで 渤海との交渉 に欠かせない重要な施設だったことがうか がえます れ 敦賀城主となりました 秀吉が吉継を 豊臣秀吉のもとで五奉行に次ぐ地位に あった大谷吉継は 秀吉から敦賀を与えら 発達したのが 昆布の加工技術 酢に漬け 荷が飛躍的に増加しました そんな敦賀に 江戸中期以降には 昆布やニシンなどの 松前物と呼ばれる蝦夷地 北海道 からの 昆布加工業の発達 仁徳天皇の頃 鷹を使って狩りをする鷹 匠が大陸から渡来したといわれ 敦賀は鷹 敦賀に置いたのは 天下統一が進むなかで た昆布を包丁で薄く削る技法は 現代に受 豊臣秀吉の物資調達の要 匠の日本発祥の地とされています 大陸か 次に目を向けた大陸と向き合う位置にあり け継がれ 敦賀は 手すきおぼろ昆布 の 鷹匠発祥の地 ら来た鷹匠が兄鷹 せう と呼ばれる雄の また北国からの物資の集散地である敦賀港 ました まちづくりと敦賀の繁栄 吉継は 笙ノ川の河口付近に城を造り 新たな町割りを行いました また大阪城や 伏見城などの築城に用いる建設材を 秋田 外国貿易港の指定 国際都市敦賀の幕開け 近代 生産量日本一を誇っています 敦賀の名の起源の一つとされているツヌガ アラシト像 JR 敦賀駅前広場 氣比神宮 内の角鹿神社には ツヌガアラシト 都怒 我阿羅斯等 が祀られています 渤海国使節を迎えた松原客館 こうした来着は古くから多く 現在の中 90 明治になると 敦賀は鉄道と港の時代を 迎えました 明治 年 日本海側初の鉄道 15 から敦賀経由で送る中継基地としての機能 を発達させ 敦賀は物流のまちとしておお 15 64 17 を有能直系の家臣に掌握させることにあり ツヌガアラシト像
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敦賀と世界をつなぐ 敦賀港 港湾 古くからの港発祥の地 本 敦賀港は 港地区 と 昭和 年の港湾計画改訂 も整備されています また 新港地区の背後には 石炭火 力発電所やセメント工場が立地してお り 大型船舶が頻繁に入港しています した本港地区では 誰もが港や海に親 すでに金ヶ崎縁地や臨港トンネル 水 深7 5 メ ー ト ル 岸 壁 の 整 備 を 完 了 た さらに物流機能を強化するため フェリー岸壁が供用されています ま 結ぶ大型フェリーに対応するための この地区には 公共岸壁と専用岸壁 北海道苫小牧港 秋田港 新潟港とを しめる空間づくりや 安全で健全な海 コンテナ貨物などの増大に対応する多 大型フェリー航路 新潟 秋田 苫小牧 洋性レクリエーション活動の場の整備 RORO船 Roll On Roll Off Ship 航路 苫小牧 目的国際ターミナルや鞠山防波堤など 外貿コンテナ定期航路 韓国 釜山 を 行 っ て お り 人 道 の 港 敦 賀 ム ゼ ウ 480 主な取り扱い品目 石炭 木材 鉱物 ガラス類 再利用資材 化学薬品など 国内外からの様々な貨物が敦賀港を 利用しています の整備に取り組んでいます 分かれます 鞠山地区に展開した 新港地区 とに に伴う物流機能の拡充のため 新たに 52 ム 敦賀鉄道資料館 など観光施設 国内及び対岸諸国との航路のイメージ図 18
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時代 時代に生きた人々によって受け継がれる 歴史文化 古くから交通の要所として栄えてきた敦賀には さ まざまな歴史の足跡が刻まれています 南北朝時代争 乱の舞台となった金ヶ崎城 戦国大名朝倉氏と 信長 秀吉が覇権を争った古戦場があり 芭蕉が名月を訪ね た湊があり 命のビザを握りしめてユダヤ人難民が降 り立った港のある敦賀 このまちのそんな数々の歴史 おおたによしつぐ や文化を 市民は愛し 大切に守り継いでいます 大谷吉継 戦 国 時 代 の 終 り を 告 げ る 関 ヶ 原 の 合戦 から四百余年 戦国の世に 盟友 石田三成に味方したといわれ る敦賀城主 大谷刑部少輔 吉継 豊臣秀吉の小姓から 着々と実績を重ね 豊臣政 年 間 の 治 世 に 軍 事 物 流 の 年 15 8 9 年 に は 敦 賀 城 主 と 権 の 下 で 重 用 さ れ ま す 天 正 な り 充を図りました 最重要拠点であった敦賀城下の整備拡 12 17 22
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