< > 英 国 海 軍 路 誌 や 欧 製 諸 地 図 には すべて 南 北 東 島 はボロジノ 諸 島 (Borodino Island)< > と 記 載 されている ボロジノ 諸 島 という 名 称 については 政 三 年 ( 〇 )ロシアの 海 軍 佐 官 ポナフィディン (Ponafidin) が 南 北 東 島 を 発 その 位 置 を 北 緯 五 度 五 六 分 東 経 三 度 五 分 とし 彼 が 指 揮 した 艦 名 ボ ロジノに 因 んで 命 名 したとされている ( 編 者 注 前 回 発 した 南 東 村 誌 では ポナフィディンについて 英 国 海 軍 尉 と 記 載 したが その 後 得 た 資 料 によると ロシアの 海 軍 佐 官 となっている 明 治 三 六 年 ( 九 〇 三 ) 瀬 佳 太 郎 の 東 島 探 検 記 事 では 尉 ポナフィディンとだけ 記 載 され 同 の 国 籍 などについてはなんら 記 載 され ていない ボロジノという 名 称 からして ロシアに 関 係 してはいないかという 疑 問 と 艦 を 指 揮 する 者 というこ とになると 佐 官 クラスの 地 位 にある 者 ということなどから 正 しくは ロシアの 海 軍 佐 官 と 考 えるべきであろう また 彼 が 指 揮 した 艦 名 ボロジノについては 年 ナポレオンが 指 揮 するフランスの 軍 と これを 迎 え 撃 つロシア 軍 との 間 で 激 戦 となったボロジノ 村 の 地 名 に 因 んでの 命 名 であったことが 推 察 される)
マニラから 国 北 海 岸 へ 向 けて 航 する 途 中 私 たちは つの 発 をすることになりました 昨 年 の8 20 穏 やかな 北 のもと 早 暁 まもない 平 線 にまだほの 暗 さが 残 るころ 推 定 12 ないし 15 イタリ アマイル [12~15キロ] 先 の 真 北 向 に 低 い 砂 地 の 島 が 発 されました その から 東 までの 幅 はおよそ 10 マイル [10 キロ ] でした 向 きがよかったので 近 づいてみることにしました 島 の 緯 度 は 正 午 の 太 陽 の さを 数 台 の 調 整 済 みの 機 器 を いて 艦 の 天 測 位 置 で 測 定 し 経 度 には マニラ 滞 在 時 に 精 度 点 検 をして 今 まで 機 器 相 互 間 の 算 定 の 作 動 差 がほ んの 数 秒 しかないものを いました 前 者 は 北 緯 25 50 14 後 者 はグリニッジから 東 経 131 11 39 という 結 果 でした 午 後 になって 間 もなく 同 じ のもとで 島 にそって 航 を 続 けていたところ そこから 北 北 東 向 に 最 初 のによく 似 た 島 がもう つ 12 マイル(12 キロ)ほどの 位 置 関 係 で 姿 を せました 両 島 間 は 海 がおだやかなところから 海 峡 の 深 は 深 いものと 判 断 します 本 船 の 本 来 の 使 命 とは 異 なりますし その 時 はこれらの 島 からほとんど 真 向 かいに 吹 いてくる も 弱 く 島 の 形 そのも のからして 航 海 者 にはなんら 有 益 なものはもたらしそうもなかったため 近 くに 留 まることはいたしませんでした 測 定 は 正 確 に 完 全 かつ 成 功 裏 になされたはずであると 思 いましたので るからに 不 と 断 定 してよい 砂 上 の 丘 陵 や 岬 をこ れらの 島 の 近 によってスケッチするためため 航 を 遅 らせても また を 確 保 できない 島 だと 判 断 できることもあって なんら 益 するところはないと 考 えました 2 度 にわたり 船 から 100 サージェン の 段 索 に 繋 いだ 鉛 錘 を 投 げ れてそれらの 島 の 位 測 定 をした 際 海 底 には 達 せず コンパスの 傾 きは 両 島 から 1 28 東 寄 りであると 算 定 されました 新 旧 いずれの 地 図 にも またこの 経 度 の 海 域 を 通 った 著 名 な 航 海 者 たちの 航 海 記 にも このあたりには 岸 らしきものは 毫 も いだせな いので これらの 島 はみな あえて 我 ら の 発 に 帰 してよいと 考 え したがってこれらの 島 を 艦 名 に 因 んでボロジノ 諸 島 と 命 名 しました