ペテロの手紙第一 4 章 節 キリストのゆえに苦しみ 1A 燃えさかる火の試練 B 驚き怪しまない 12 2B 栄光の喜び 13 3B 留まる御霊 14 2A キリスト者としての苦しみ B 加害者としての苦しみ 15 2B 御名をあがめる 16 3A 神の家か

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2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

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2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

創世記5 創世記2章4節b~25

2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

創世記5 創世記2章4節b~25

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* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱


2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

マタイ 25 章 14 節 各自に任された財産 1A 神より与えられている財産 1B 創造の源 2B 信仰の量り 2A 清算の時 1B 永遠の報い 2B 報酬の時 3A 求められていること 1B 心のはかりごと 2B 自分の行程 3B 小さな事への忠実 4B 信じる事 本文 マタイによる福音書 25

1.1 節 Rev 14:1 また私は見た 見よ 小羊がシオンの山の上に立っていた また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて その額には小羊の名と 小羊の父の名とがしるしてあった (1) ヨハネは キリストの再臨後の状況を見ている 1 実際にキリストの再臨が起こるのは 19 章になってからである

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

(1) 千年王国の最後に サタンが底知れぬ所から再び解き放たれる 1 その理由は 再び人類を試すためである 2 神は 人類がいかに堕落しているかを証明される (2) 千年王国にも罪は存在する 1 千年王国が始まった時点では 未信者は存在しない 2 千年王国では ほぼ理想に近いような生活環境が実現する

テモテへの手紙第一 5 章 節 指導の任への尊敬 1A 二重の尊敬 A 監督者への監査 B 公正な裁き B 慎重な按手 B 透明性 本文 テモテへの手紙第一 5 章を開いてください 17 節から読んでいきます 私たちは

ヘブル人への手紙1章

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

牧会の祈り

1イエスがバプテスマを受けたとき 天が開かれて聖霊が鳩のように下った 2ここでは 天が開かれて再臨のメシアが地に下ってこられる 3 黙 4:1 では ヨハネを招くために天が開かれた 4ここでは キリストが地に下るために天が開いた (2) 白い馬に乗った方 1ローマ軍の将軍は 白い馬に乗った 2 再臨

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に

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大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

2016 年 10 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 7 回 フィラデルフィアの教会 フィラデルフィアにある教会 黙 3:7~13 1. はじめに (1) 黙示録の 3 区分 1 黙 1:19 は 黙示録を 3 区分している Rev 1:19 そこで あなたの見た事 今ある事 この後に起こ

な声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った ここに上れ この後 必ず起こる事をあなたに示そう (1) ヨハネは 7 つの教会への手紙の啓示を聞いた後 天の御座の幻を見た 1 その後 私は見た とは 時間の流れを示す言葉である (2) 招きの言葉がかかった 1 一つの開いた門があった * ヨ

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

Rev 7:1 この後 私は見た 四人の御使いが地の四隅に立って 地の四方の風を堅く押さえ 地にも海にもどんな木にも 吹きつけないようにしていた (1) この後 私は見た 1 物事の時間的流れではなく ヨハネが見た幻の順番を示している 2この幻は 神の裁きが迫っていることを示唆している 3 地の四方

神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

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Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

牧会の祈り

sermon

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

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に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか (1) ここで場面は 地から天に移行する 1 大患難時代を通して継続している状況の描写である (2) ヨハネは キリストに対する信仰のゆえに殉教の死を遂げた人々の幻を見た 1 彼らは 祭壇の下にいた 2 旧約時代のいけにえの血が祭壇の土台に注がれたこと

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

2018 年 2 月 4 日 ( 日 ) 5 日 ( 月 ) 29 回 善行の勧めと信仰上の勧め 善行の勧めと信仰上の勧め ヘブル 13:1~17 1. はじめに (1) この手紙は ユダヤ教への回帰を考えていた第 2 世代のメシアニック ジューたちを励ますために書かれた 1 教理的学び 2 学んだ

に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において 神の霊を満たした (2~3 節 ) (1) ユダ部族のフル その子ウリ その子ベツァルエル 1フルとはモーセの手を両側から支えた 2 人のうちのひとり ( 出 17 章 ) 2フルの孫がベツァルエルである (2) 神の霊を満たした 1 知恵 (wisdom)

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

3 仲介者としての祭司たちが存在していた (2) 新約時代の状態 1すべての信者が まことの聖所に入ることができる * 天の聖所で 神の臨在の前に出ることができる 2これは 万人祭司の教えである 3 訳文の比較 こういうわけですから 兄弟たち 私たちは イエスの血によって 大胆にまことの聖所に入るこ

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で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

2017 年 2 月 5 日 ( 日 ) 6 日 ( 月 ) 22 回 イスラエルに対する戦い (2) イスラエルに対する戦い (2) 黙 12:7~17 1. はじめに (1) キリストの再臨の前に何が起こるかを見ている 110 章 ~14 章は 挿入箇所である * 物語の進展はなく 状況の説明が

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

黙示録 3 章 7-13 節 忠実な教会 1A 聖なる 真実な方 7 2A 主に知られた行ない 8 3A 報い B 中傷者からの擁護 9 2B 試練の時からの守り 10 3B 冠 11 4B 都での安全 本文 黙示録 3 章 7 節からです フィラデルフィヤにある教会に対する

2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

そして 11 章の最後には 信仰のゆえに苦しみを受け 拷問を受け 飢えて さまよった人々について書いてありました これらの人々がみな あなたがたにとって励ましを受けるための証人になっているというのがここでの著者の意図です 雲のように とありますが ギリシヤ語では非常に濃くて大きな雲の群を言い表してい

《 耕地を開拓せよ 》 羽石兄  ‘05

2 イエスは大胆に わたしは道です と言われました イエスが歩まれた道です イエスが示された道です 正しく この人を見よ! です それが聖書の教えです 私たちはこの一年間 幸いなみ言葉を心に覚えて進みたいと願います 今日は この年間聖句から次の2 点を考えてみましょう 大切なポイント 1. 勝利者イ

현장 전도를 위한 1단계 전도훈련교재 4

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夢を超えたもの_Culture A.indd

勧めるところから始まります それは いつでも祈るべきであり 失望しない ことです 1B 祈りによって C 忍耐を尽くす訴え :1 いつでも祈るべきであり 失望してはならないことを教えるために イエスは彼らにたとえを話された 18:2 ある町に 神を恐れず 人を人とも思わない裁

あなたへの 聖書メッセージ ヨハネの福音書 3 章 16 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神は 実に そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された それは御子を信じる者が ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つためである この ヨハネ 3 章 16 節のみことばは 聖書 66 巻の

テモテ第二 2 章 1-13 節 キリストの兵士 1A 共にする苦しみ 1-7 1B ゆだねる教え 1-2 2B 立派な務め 3-7 2A イエス キリストの福音 B つながれていない御言葉 B 共に生き 死ぬ 本文 テモテへの手紙第二 2 章を見ていきます 私た

(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

(1) 神殿の聖所と至聖所を分ける幕である 1 長さが約 18 メートル 厚さが約 10 センチ 2この幕の内側に入れたのは 大祭司だけである それも年に一度だけ 3 大祭司 アロンの家系 ケハテ氏族 レビ族 イスラエルの民 全人類 (2) この幕が 上から下まで真っ二つに裂けた 1 神の御手がこれ

ラム原理主義過激派組織がおり 国を不安定にさせているからです そして ハマス等 過激派組 織を助けているのがイランです そこで エジプト ヨルダン サウジと首長国連邦は イスラエルと 共に緩い連携を持つようになってきました これは あり得ないことでした そしてロシアの拡張主義が止まることを知りません

(1) 獣の形状 (1~2 節 ) (2) 獣の復活 (3~4 節 ) (3) 獣の支配 (5~8 節 ) (4) 励ましのことば (9~10 節 ) 3. 結論 : 反キリストはキリストの真似をする 反キリストの働きについて学ぶ Ⅰ. 獣の形状 (1~2 節 ) 1.1 節 Rev 13:1 また

1 それは キリストにのみ適用される御名である (2) 旧約聖書では 御使いたちは 神の子たち と呼ばれた Job 38:7 そのとき 明けの星々が共に喜び歌い / 神の子たちはみな喜び叫んだ 1 新約聖書では 信者が 神の子たち と呼ばれる ( ヨハ 11:52) 2しかし 御子 ( ヒュイオス

2010 年 4 月 18 日 ( 日 ) 19 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京出エジプト記 19 出エジ 19 出エジプト記 14 章 15 節 ~15 章 21 節 紅海を渡る 1. 文脈の確認 (1) イスラエルの民は 430 年後にエジプトを脱出した (2) エジプト脱出の記録は

比喩:その他

テサロニケ人への手紙第一 第5回聖書フォーラムキャンプ 基調メッセージ メッセージ 中川健一

ヨハネの手紙講解 神のあかし ヨハネの手紙第一 5:1~21 1. 油注がれた者 新改訳改訂第 3 版 Ⅰヨハネ 5:1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも 神によって生まれたのです 生んでくださった方を愛する者はだれでも その方によって生まれた者をも愛します イエスがキリストであると信じる

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/4/12

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

人には 非日常性が必要です いつもの生活ではなく これは見たことがない 聞いたことがないという意外性 あるいは奇跡と言ってよいでしょう いつも自分のできること していること中で生きているならば 虚しさが残り 死に至ります しかし これまで経験しなかったこと 知り得ないことを知れば そこに命があり 希

牧会の祈り

2010 年 2 月 21 日 ( 日 ) 22 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京出エジプト記 13 出エジ 13 出エジプト記 9 章 13 節 ~10 章 29 節 最後の 3 つの災い 1. 文脈の確認 (1) エジプトに主からの 10 の災いが下る (2)10 の災いの記述は 考え抜

れています ローマの大火事とネロ皇帝による迫害は ペテロの第一の手紙の読者がまもなく体験することであり ペテロもパウロもそのとき殉教していますので 少し長くなりますが タキトゥスの年代記 15 巻 44 章から読んでみたいと思います しかし 人々のあらゆる努力も 皇帝の多大のほどこしも 神々へのなだ

2016 年 12 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 16 回 ラッパの裁き 5 ラッパの裁き 5 黙 9:1~11 1. はじめに (1)6 章から 9 章までの流れ 16 章で 巻き物の封印が解かれる 最初の 6 つの封印 * ここから大患難時代が始まる 27 章は 挿入句である

4 伝承によれば 彼はクレテ島のゴルティナで監督となり 94 歳で召されたと言われています では 今日は発信人であるパウロと 受信人であるテトスから学びたいと思います 発信人であるパウロはどのような教訓を与えているか また受信人であるテトスがどういう信仰を送ったか大切なポイント 1. 発信人パウロ

カインの性格

ヨハネの福音書講解 ヨハネの福音 ヨハネの福音書 21:15~25 1. 愛する 新改訳改訂第 3 版 ヨハネ 21:15 彼らが食事を済ませたとき イエスはシモン ペテロに言われた ヨハネの子シモン あなたは この人たち以上に わたしを愛しますか ペテロはイエスに言った はい 主よ 私があなたを愛

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さい あなたはこのために召され また 多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました Ⅱ テモテ 4:7 私は勇敢に戦い 走るべき道のりを走り終え 信仰を守り通しました これらの箇所では 戦い となっています b. 苦闘 コロサイ 2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと そのほか直接私の顔を見たことの

2017 年 6 月 11 日 ( 日 ) 12 日 ( 月 ) 39 回 新しいエルサレムの特徴 ( 後半 ) 新しいエルサレムの特徴 ( 後半 ) 黙 22:1~5 1. はじめに (1) 旧約聖書の預言のハイライトは メシア的王国である 1 黙示 20 章は メシア的王国が千年で終わることを啓

このメッセージは 父なる神について考えようとするものである Ⅰ. 聖書が使用する比喩的言葉 1. 神という言葉について (1) ヘブル語でエロヒム ( エル ) ギリシア語でセオス 1 普通名詞 神々を指す言葉である 2 日本語の神も 多くの神々を指す言葉である 3 聖書の神は どういう神かを示す必

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ペテロの手紙第一 4 章 12-19 節 キリストのゆえに苦しみ 1A 燃えさかる火の試練 12-14 1B 驚き怪しまない 12 2B 栄光の喜び 13 3B 留まる御霊 14 2A キリスト者としての苦しみ 15-16 1B 加害者としての苦しみ 15 2B 御名をあがめる 16 3A 神の家から始まる裁き 17-19 1B 福音に従わない人たちへの裁き 17 2B 救われない罪人 18 3B 創造者に任せる魂 19 本文 ペテロの第一の手紙 4 章の後半 12 節からです 私たちは ペテロによる第一の手紙で 迫害下にあるキリスト者に対する励まし がその主題になっていることを見て行っています 普通 人々が宗教を持つことの理由として 何か良いことが起こるから というものがあります 病気が治ったり 逼迫していた経済が元通りになる 家族や夫婦が円満になるとか 何か良いことが起こることを期待します しかし キリスト者の信仰が必ずしもそうなることではない むしろキリスト者だということで苦しみを受けることがあります その時に キリスト者がその信仰を持つ意味というのが 試されます それは キリストの命にあずかることだということを思い出すことです キリストが死なれ 甦られたように 私たちが罪に支配された古い人に死に 甦りの命をもって生きることです そして このキリストにある神の命にあずかることこそが 救いであります ゆえに 迫害や苦しみを受けることによって かえって信仰が強められ 教会が前進したという歴史を 私たちキリスト教会は持っています そして その御霊の働きが今も続いているのだというのが 現代を生きる私たちへの御言葉でもあるのです 1A 燃えさかる火の試練 12-14 1B 驚き怪しまない 12 12 愛する者たち あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を 何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく ペテロが 同じ兄弟として また教会の指導者として 愛する者たち という言葉から始めてい ます あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練 とあります ペテロはこ 1

れまでも 信仰の試練を 火によって精錬される 道具として語っていました 1:7 信仰の試練は 火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって イエス キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります ですから 私たちは試練を受けると 自分が何を信じているのかが明らかにされて 試されます 何も起こっていなければ 自分も回りも 信仰は持っていると自負しているかもしれませんが 真実にキリストへの信頼 信仰を持っている関係なのかを知るために 神が試練をお許しになることがあります ある大きな教会の牧師が 罪を犯して辞任したのですが それで一部の人は教会を去り 信仰からも離れてしまいました その人たちは その牧師のカリスマ その話し方や身振り手振りで魅了されていたかもしれません けれども 多くが残りました そして新しく任命を受けた牧師の指導の下で 教会がさらに強められました 周囲の他の教会も 全面的にその教会に助けの手を伸ばしたそうです 私たちの人生で いろいろなことが起こりますが それらは信仰を清める道具として神は用いておられます そしてここでは 燃えさかる火の試練 と言っています ペテロは ここにおいてこれまでの試練とは違うもの とてつもなく激しい試練であることを強調しています キリスト者に対する迫害は 初めはユダヤ人からのものでした ユダヤ教の中で異端とみなされていたからです けれども ローマ帝国が組織的に迫害を行なったのは 皇帝ネロによるものです 64 年にローマで大火事が起こりました それをネロはキリスト教徒の仕業であるとでっち上げました ネロ自身の自作自演 彼が放火したのではないかとも言われています それで 彼はキリスト者をなぶりものにし 殺していきました キリスト者は 野獣の毛皮をかぶせられ 犬に噛み裂かれ倒れました ネロは カイサル家の庭園で彼らを十字架に縛り付け 火を付けて 松明代わりにしていました そして これらのことはローマの都から始まっていました 今 ペテロは おそらくは自分自身ローマにおり そしてパウロは既に皇帝ネロによって処刑され そしてパウロが牧会していた小アジヤの諸教会に対してペテロは手紙を書いていると思われます したがって これまでもいろいろな形で試練や困難 また迫害があったのですが 今 ローマで起こっている大迫害の程ではありませんでした けれども 小アジヤのところまで来るのは時間の問題でした そして 90 年代になると 皇帝ドミティアヌスが小アジヤに対しても迫害の手を伸ばしました それが黙示録の七つの教会に対するヨハネの言葉に表れています そこから 250 年ぐらいずっと キリスト教会はローマによって迫害され続けたのです ゆえに ペテロは今 まだ迫害がそれほど激しくなっていない時に これから 燃えさかる火の試練が来るのだ と警告しているのです そこでペテロは 何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく と戒めています これは想定内のことである とペテロは話しているのです ペテロはかつて 驚き惑っていることはないと言ったことがあります 五旬節に聖霊が降った時のことです 世界中から集まってきたユダヤ人が自分たちの出身地方の言葉で弟子たちが神を賛美しているのを見て 驚きまどったのですが これは前もってヨエルが預言していたことだと言いました 神は言われる 終わりの日に 2

わたしの霊をすべての人に注ぐ ( 使徒 2:17) 大迫害も 同じように驚き怪しむようなことではなく 義のゆえに迫害を受けられたキリストに倣う者たちなのだから 自分たちが迫害を受けるのは想定内のことなのだ ということです ヨハネ 15:19-20 もしあなたがたがこの世のものであったなら 世は自分のものを愛したでしょう しかし あなたがたは世のものではなく かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです それで世はあなたがたを憎むのです しもべはその主人にまさるものではない とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい もし人々がわたしを迫害したなら あなたがたをも迫害します もし彼らがわたしのことばを守ったなら あなたがたのことばをも守ります 私たちは 将来 大きな問題が起こった時に信仰を守れるのかどうか? ということで心配する必要はありません しかし 将来 大きな問題が起こるかもしれない という心の用意は必要です そして日頃から 小さなことについて 肉の思いではなく御霊の思いによって反応し 神に応答していることが必要です 大きな事が起こってからは 感情的に反応してしまい 驚き怪しむだけになり 御心にかなった行動に移せないからです 2B 栄光の喜び 13 13 むしろ キリストの苦しみにあずかれるのですから 喜んでいなさい それは キリストの栄光 が現われるときにも 喜びおどる者となるためです ペテロはこの手紙で 何度となく 焦点をイエス様ご自身に合わせようとしています キリストの苦しみにあずかれる と言っています 私たちがキリスト者になった目的は キリストにあずかることです この方に結ばれており ちょうど妻が夫を知るようにキリストを知ることであります そこでそこには キリストの苦しみに会うことも含まれるのです 2 章 21 節以降にありました 2:21-23 あなたがたが召されたのは 実にそのためです キリストも あなたがたのために苦しみを受け その足跡に従うようにと あなたがたに模範を残されました キリストは罪を犯したことがなく その口に何の偽りも見いだされませんでした ののしられても ののしり返さず 苦しめられても おどすことをせず 正しくさばかれる方にお任せになりました そして そのことについて 喜んでいなさい と言っていますね このことを知ってほしいですね 私たちの喜びは キリストにあって 罪や世の思い煩いから離れていることですね 主との関係のことです 自由にされていることです パウロが 主にあって喜ぶと何度も話したピリピ人への手紙では 彼自身はローマで獄中の身でした 世界の迫害されている教会を眺めてみると 迫害を受けてきた教会では たとえ外部からの脅しがあっても それでも人々が教会に訪れるとのことです パキスタンにある教会では 金属探知機が入口にあるけれども それでも自爆テロをする人が後を絶ちません それで 手足がもぎれる兄弟姉妹が出て来ます けれども それでも教会には数多くの人が危険を顧みずに礼拝に集うのです そこにある喜びは 何にも代えがたいものだから 3

です そして それは キリストの栄光が現われるときにも 喜びおどる者となるため と言っていますが これは終わりの日のことです イエス様が言われました マタイ 5:11-12 わたしのために ののしられたり 迫害されたり また ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき あなたがたは幸いです 喜びなさい 喜びおどりなさい 天においてあなたがたの報いは大きいのだから あなたがたより前に来た預言者たちも そのように迫害されました そして弟子たちは 確かに喜んで迫害を忍びました 使徒 5:40-41 使徒たちを呼んで 彼らをむちで打ち イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した そこで 使徒たちは 御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら 議会から出て行った 主が再び来られる時に 主は全てのことについて正しい裁きを行われます またキリストの栄光が目で見える形で現れるので キリストを待ち望む者たちにとっては最高の時となります 2テサロニケ 1:8-10 そのとき主は 神を知らない人々や 私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます そのような人々は 主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて 永遠の滅びの刑罰を受けるのです その日に 主イエスは来られて ご自分の聖徒たちによって栄光を受け 信じたすべての者の そうです あなたがたに対する私たちの証言は 信じられたのです 感嘆の的となられます 主が これまでの全てのことについて 報いをもたらされます この地上において不正があり 道が曲がっており 義は踏みにじられていました けれども それを全て正すために戻ってこられます その時に 義のゆえに迫害されてきた者たち 苦しみを受けていた者たちは喜び踊るのです 3B 留まる御霊 14 14 もしキリストの名のために非難を受けるなら あなたがたは幸いです なぜなら 栄光の御霊 すなわち神の御霊が あなたがたの上にとどまってくださるからです ペテロは あなたがたは幸いです と言って まさに主イエスの山上の垂訓における宣言を思って 話しているようです この幸いは外的な要因ではなく 内にある確信から出て来る幸いです キリストの名のために非難 ということですが キリストの名とはこの方のご性質 栄誉 名声 そういったものです ただキリスト者だということだけで それが原因で非難や中傷 そしりを受けるのであれば それは幸いなことですと言っています そして 栄光の御霊 すなわち神の御霊が あなたがたの上にとどまってくださる と言っていますね ここはとても大事です 今 キリストの栄光が現われる とペテロは言いましたが その再臨の時を待たずして キリストの栄光が御霊によって迫害を受けている者たちに留まります 献身している人の顔や手は美しいですね この前 戦争映画を見ていて 負傷した兵士たちを救護す 4

る看護師の手が チョコレートを掴んで割ろうとしています その手がボロボロになっていて 手から血痕がどんなに水洗いしても取れないぐらいこびりついています 美しい手です けれども 献身ではなく 殉死する人々 殉教する人々の魂は栄光に輝いています 斬首されるのを見るにも それは単に残虐な場面ではなく そこに聖い空気が漂っています 主が死なれる時 その十字架の残酷さには 単に犯罪者がそこで惨たらしく死んでいくのとは異なり 聖さと 神の栄光が留まっています 同じように キリストの名のゆえに迫害される者はそこに栄光の御霊が留まっているのです そして それが証しの機会ともなります 迫害を受けているからこそ 良い行ないに裏付けされた証言は人々に強いメッセージを与えます ルカ 12:11-12 また 人々があなたがたを 会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき 何をどう弁明しようか 何を言おうかと心配するには及びません 言うべきことは そのときに聖霊が教えてくださるからです こうやって 教会が困難な時にある時に 御霊の注ぎによって力強い証しを立て それで御言葉が広がります 2A キリスト者としての苦しみ 15-16 1B 加害者としての苦しみ 15 15 あなたがたのうちのだれも 人殺し 盗人 悪を行なう者 みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません 今 キリスト者が犯罪人のようにして捕らえられています 犯罪人のようにして 懲らしめられています もし 人殺し 盗人 悪を行なう者 みだりに他人に干渉する者として苦しみを受ける ということであれば 何の誉れもそこにはありません 2:20 罪を犯したために打ちたたかれて それを耐え忍んだからといって 何の誉れになるでしょう 当時は このことについて大きな圧迫 誘惑だったことでしょう ちょうどペテロ自身が イエス様のところに捕える者たちがやって来て 剣でもって抵抗しましたが イエス様ややめさせたのと同じです 世において不正が行われ 不当なことが行なわれ その権力者に対して抵抗しなければいけないと感じます 世界の歴史の中で そして現代においても 抵抗の名の下で不当な行為を是認する動きがあります 例えば パレスチナ解放戦線というものは そうです イスラエルに占領されているということで その抵抗運動であるから イスラエル兵士だけでなく 一般人も殺傷してよいとしています また キリスト教会でさえ キリストは弱者の味方であるから そうした動きを戒めるどころか 一緒になって力ある者を非難することによって 是認しています しかし それをやってはいけないとペテロは教えているのです 2:13-17 人の立てたすべての制度に 主のゆえに従いなさい それが主権者である王であっても また 悪を行なう者を罰し 善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても そうしなさい というのは 善を行なって 愚かな人々の無知の口を封じることは 神のみこころだからです あなたがたは自由人として 5

行動しなさい その自由を 悪の口実に用いないで 神の奴隷として用いなさい すべての人を敬いなさい 兄弟たちを愛し 神を恐れ 王を尊びなさい キリストの国は 世のものではありません イエス様がピラトの前で告白したとおりです もし世のものであれば 弟子たちが戦ったはずだと言われました そうではないのは 世のものではないからです 2B 御名をあがめる 16 16 しかし キリスト者として苦しみを受けるのなら 恥じることはありません かえって この名の ゆえに神をあがめなさい キリスト者 という言葉ですが 今は 信仰を持った者たちが普通に使っている言葉です けれども これは当時 不信者が信者たちを見て 軽蔑して使った蔑称です かつて 日本で ヤソ と呼んでいたのに似ています 使徒の働きでは アンテオケにおいて教会の者たちが 周囲の人々から キリスト者 と呼ばれたとあります (11:26) そしてヘロデ アグリッパ二世の前で弁明をしたパウロに向かって 26:38 あなたは わずかのことばで わたしをキリスト者にしようとしている と言っています ですから ヤソとして苦しみを受けるのであれば という意味合いになります ヤソなのですから 恥じ入ることですね けれども ペテロはむしろ 恥じることはありません と言っているのです キリストの名 イエスの名によって辱めを受けるのであれば むしろ神をあがめなさいと勧めています 3A 神の家から始まる裁き 17-19 1B 福音に従わない人たちへの裁き 17 17 なぜなら さばきが神の家から始まる時が来ているからです さばきが まず私たちから始まるのだとしたら 神の福音に従わない人たちの終わりは どうなることでしょう ペテロは またパウロも自分の手紙の中で 世から迫害を受けることを話してから 必ず神が世界を裁かれることを語っています 世がキリストにある者を迫害するならば その苦しみに応じて 世に対して苦しみを与えるということを語っておられます 2テサロニケ 1:4-7 それゆえ私たちは 神の諸教会の間で あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを 誇りとしています このことは あなたがたを神の国にふさわしい者とするため 神の正しいさばきを示すしるしであって あなたがたが苦しみを受けているのは この神の国のためです つまり あなたがたを苦しめる者には 報いとして苦しみを与え 苦しめられているあなたがたには 私たちとともに 報いとして安息を与えてくださることは 神にとって正しいことなのです そのことは 主イエスが 炎の中に 力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります 私たちの神は 焼き尽くす火 ( ヘブル 12:29) であると聖書に書いてあります 出エジプト記を 見れば ホレブ山にいたモーセのところに 柴の中からモーセを呼ばれましたが 火で燃えていま 6

した またシナイ山に降りてこられた時も火によるものでした それは 恐ろしい光景でありましたが それと同時に神の聖なる姿を表していました イスラエルの民にとっては この方の聖なる姿にあずかることであり また同じイスラエルの家にいても 反逆者を選り分けるための火でもありました コラの反乱の時に その反逆に加担した者は持っていた火皿の火によって焼き尽くされましたね そして その火は神を敬わない異邦人に対しては 裁きの火でありました ソドムとゴモラに対する火と硫黄がそれです ここで話している 神の裁きもそれと同じです さばきが神の家から始まる 時であると言っていますが それは第一に聖徒たちをますます聖なる者とするためのものです 今 見ました火のように燃えさかる試練は その信者たちをますます聖めるものでした 火の中で精錬されるように精錬され その信仰によって神に賞賛を受けます コリント第一 3 章において 各人の働きが 金 銀 宝石 木 草 藁のようなもので 火とともに主が現れ それで各人の働きの真価を試すと書かれています その建物が残っていれば それにしたがって報いを受けます そして次に 神の家の選り分け が行なわれます 神の家に属していると言われている者たちであっても 神は実はそうではないものを選り分けなさいます エゼキエル書 9 章において 亜麻布を着て 腰の書記の筆入れをつけている者が神殿にいました 神殿では 長老たち 祭司たち 女たち 一般のイスラエル人が堂々と 偶像礼拝と忌まわしいことを行なっていました そこで 主は裁きを行われます けれども その前にその筆入れを持っている者に 9:4 町の中 エルサレムの中を行き巡り この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き 悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ と主は言われます 額にしるしを受けていない者たちが 六人の武器を持っている者たちによって殺されていきます このようにして 神の裁きは神の家から始まっていました それから周囲の異邦人の国々へ裁きを神が行なわれます 神の家から裁きが行なわれた様子は 例えば アナニヤとサッピラが偽善の罪 聖霊に偽る罪を犯して その場で倒れました 彼らが地獄に行ったということではなく 神の聖なる御霊のおられるところで 人々が偽っているのかそうでないのかが明らかにされるということです パウロは テモテに罪も また良い行ないも後で明らかにされることを話しました 1テモテ 5:24-25 ある人たちの罪は それがさばきを受ける前から だれの目にも明らかですが ある人たちの罪は あとで明らかになります 同じように 良い行ないは だれの目にも明らかですが そうでないばあいでも いつまでも隠れたままでいることはありません このようにして 信仰を持っている者たちでさえ 神の裁きがあるのだから 福音に反抗している 者たちがどうして裁きから免れることがあるだろうか? と言っています そこには 彼らが神に対し て個々人が犯している罪もあるでしょうが 信者たちを苦しめている迫害の罪も含まれます 7

2B 救われない罪人 18 18 義人がかろうじて救われるのだとしたら 神を敬わない者や罪人たちは いったいどうなるの でしょう これは 箴言から影響を受けている言葉です 11:31 もし正しい者がこの世で報いを受けるなら 悪者や罪人は なおさら その報いを受けよう 正しい者が 地上で神の懲らしめを受けることがあります ダビデを思い出しますが 彼がバテ シェバとの姦淫の罪 そしてその夫ウリヤを殺す罪によって 彼の家の中に剣が離れなくなるという裁きを受けました もし彼が神を信じる者でなければ これは単に自分のしたことの報いであり 自業自得ということになりますが 彼は神の憐れみを信じていたがゆえに 悔い改めに導かれ 神の救いへとつながっていったのです このようにして 正しい者がこの世で報いを受けます ですから 全く信ぜずに 悔い改めずに 神に立ち返らなかった者にとっては 救われる可能性がないということになります ロトのことを思い出してください 彼は 神を信じていました けれども かろうじて救われた人の一人です 彼の家族 既婚の娘の家族は全く御使いの警告の言葉に耳を傾けませんでした たわごとのように思われたからです そして未婚の娘二人と妻を連れて ソドムから出て行きました しかもためらっていました そして振り向いたロトの妻は 塩の柱となってしまいました そして未婚の娘二人だけが残りました このことについて ペテロは第二の手紙で書き記しています 2:7-8 また 無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました というのは この義人は 彼らの間に住んでいましたが 不法な行ないを見聞きして 日々その正しい心を痛めていたからです 3B 創造者に任せる魂 19 19 ですから 神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は 善を行なうにあたって 真実 であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい ここです これがペテロが信者たちに言いたかったことです 自分が受けている不当な仕打ちについては 神に任せなさい ということです 初めに 神のみこころに従ってなお苦しみに会っている 苦しみが 神の御心を行なっていてなおのこと受けているものだ ということです 神が願っておられることを行なっているかどうか? であります 私たちは御心という言葉を聞いた時点で 占いの結果のように考えます 御心というのはそういうものではありません 自分たちに知らないものではなく 既に知らされていることです すでに行ないなさいと命じられていることです それから 善を行なうにあたって と言い換えています 神の御心を まだ神を知らない異邦人に対して行なっているのであれば それは良い行ないであります 2 章 12 節で 異邦人の中にあって りっぱにふるまいなさい と教えていました 8

そして 真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい と最後に勧めています これは興味深いですね ここで救い主 裁き主とか呼ばれてもいいのに 主は 真実であられる創造者 と呼ばれています それは 創り主であられる方は その子どもたちの必要を知らないことはなく 全ての必要を満たしてくださるからです あなたがたの父なる神は あなたがたがお願いする先に あなたがたに必要なものを知っておられるからです ( マタイ 6:8) ですから 初代教会の聖徒たちは ペテロとヨハネが捕えられ イエスの名によって語ってはいけないと厳に命じられた時に 次のように祈りました 使徒 4:24 これを聞いた人々はみな 心を一つにして 神に向かい 声を上げて言った 主よ あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です そして 彼らは大胆に御言葉を語ることが出来るように祈り 聖霊に満たされて 語り始めました 彼らは迫害から免れるのではなく 迫害の中にあっても 御言葉を語り 主の御名によって不思議としるしを行なわせてくださいと祈ったのです 任せる という言葉に 2 章 23 節にある思いがあります 正しくさばかれる方にお任せになりました イエス様が正しくさばく父なる神に任せられたのです ご自身が最後の息を引き取られるときに 父よ わが霊を御手にゆだねます ( ルカ 23:46) と言われました 神ご自身の主権に また主が掌握しておられる将来に 自分の命を任せるということです 真実な方ですから 必ず報いてくださいます 私たちがいかに この方に身を任せられるかにかかっています 身を任せてしまったものは 楽になります イエス様がゲッセマネの園の後で十字架に向かわれたのと同じです 9