今 般 の 東 日 本 大 震 災 の 現 状 と 問 題 点 (その8) 東 日 本 大 震 災 から3 年 目 の 河 北 新 報 [2014.3.11] [2014 年 4 月 7 日 ( 月 )] 遅 ればせながら 東 日 本 大 震 災 から3 年 目 の3 月 11 日 を, 当 日 の 新 聞 社 説 に 目 を 通 してみる ことで 振 り 返 っておきたい. 河 北 新 報 は, 復 興 がなぜ 期 待 通 りに 進 まないのか,どうす れば 被 災 地 が 元 気 を 取 り 戻 す ことができるのかを, 極 めて 冷 静 に 分 析 しようと 試 みてい る. 復 興 の 作 法 に 込 めら れた 意 味 は 恐 らく, 本 来 復 興 に 注 がれるべき 政 治 の 不 在 を 嘆 く 地 元 の 声 であろうと 理 解 河 北 新 報 [2014.3.12] 東 日 本 大 震 災 から3 年 目 の 東 京 新 聞 [2014.3.11] したい. 同 じ 河 北 新 報 に 翌 日 掲 載 された 死 者 数 と 行 方 不 明 者 数 の 重 みについても,ここで 改 めて 確 認 しておきたい. 一 方, 東 京 新 聞 は 死 者 の 声 に 耳 傾 けよ と 題 して, 津 波 災 害 に 対 しては 過 去 の 苦 い 経 験 を 後 世 に 伝 え, 失 敗 を 繰 り 返 さな
いことの 重 要 性 を 指 摘 している. 文 中 に 引 用 されている 釜 石 市 の 野 田 武 則 市 長 の 犠 牲 者 が 多 かったのは, 沿 岸 部 ではなく, 海 の 存 在 を 忘 れがちな 市 街 地 だった 防 潮 堤 や 防 波 堤 は 高 くなるほど 危 ない. 海 が 見 え なくなるからだ との 言 葉 には 不 思 議 な 説 得 力 がありそうに 思 われる. 去 る3 月 9 日 には, 東 北 大 災 害 科 学 国 際 研 究 所 主 催 の 記 念 シンポジウムが 仙 台 市 で 開 催 されていた.その 冒 頭 挨 拶 の 中 で 紹 介 された 以 下 のフレーズは 心 に 深 く 突 き 刺 さるものであった. 3 月 11 日 のあの 日 から,3 年 目 の 春 がやってきました. もし,あの 日 あの 時 の10 分 前,20 分 前 に 戻 ることができるのなら, 誰 もが, 避 難 しよう, 逃 げよう,と 考 えるのではないでしょうか. あの 日 あの 時,あの 人 が 逃 げてくれていたなら,と 今 も 考 えている 方 々がたくさんおられるのではないかと 思 います. 私 たちはこのたびの 大 津 波 で,あまりにも 多 くの 命 を 失 いました. その 悲 劇 を 繰 り 返 さないために, 海 辺 で 大 きな 地 震 があったなら, 警 報 が 出 なくても, とにかく 高 台 に 逃 げる ということを 身 体 に 刻 みこむ 必 要 があります. それが 未 来 の10 分 前,20 分 前 になるのです. 先 月 の 仙 台 滞 在 中 に, 石 巻 市 役 所 を 訪 問 し, 市 民 課 で 東 日 本 大 震 災 における 石 巻 市 の 町 字 別 犠 牲 者 数 と いう 統 計 資 料 を 見 せていただいた.この 資 料 に 大 川 小 学 校 事 故 検 証 報 告 書 や, 宮 古 市 田 老 地 区, 名 取 市 閖 上 地 区 の 被 害 統 計 資 料 を 加 えて, 津 波 災 害 による 死 者 率 の 比 較 を 試 みた 結 果 は 以 下 の 通 りであった. 死 者 率 の 持 つ 重 みを 真 摯 に 受 け 止 め,その 数 値 の 大 きさの 理 由 を 明 らかにしておくことは 是 非 とも 必 要 であろう. 住 所 ( 町 字 別 ) 人 口 ( 人 ) 死 者 不 明 者 ( 人 ) 死 者 率 (%) 備 考 石 巻 市 立 大 川 小 学 校 119 ( 児 童 + 教 職 員 ) 84 70.6 *1 釜 谷 地 区 ( 入 釜 谷 を 除 く) 209 175 83.7 *1 石 巻 市 金 谷 字 韮 島 222 105 47.3 *2 人 口 は 上 段 と 不 一 致 石 巻 市 金 谷 字 新 町 裏 110 49 44.6 死 者 の 合 計 は 上 段 の 石 巻 市 金 谷 字 谷 地 中 48 21 43.8 釜 谷 地 区 と 一 致 石 巻 市 長 面 字 江 畑 247 34 13.8 *2 金 谷 より 海 側 石 巻 市 門 脇 町 3 丁 目 492 50 10.2 *2 石 巻 日 和 山 南 石 巻 市 南 浜 町 2 丁 目 671 63 9.4 *2 日 和 山 南 沿 岸 石 巻 市 松 原 町 556 79 14.2 *2 石 巻 渡 波 地 区 石 巻 市 長 浜 町 416 44 10.6 *2 石 巻 渡 波 地 区 石 巻 市 雄 勝 町 雄 勝 字 味 噌 作 325 32 9.9 *2 雄 勝 地 区 の 中 心 宮 古 市 田 老 地 区 旧 市 街 地 1,610 72 4.5 *3 二 重 防 潮 堤 の 中 宮 古 市 田 老 地 区 新 市 街 地 566 55 9.7 *3 二 重 防 潮 堤 の 外 名 取 市 閖 上 1 丁 目 655 49 7.5 *4 最 も 内 陸 側 名 取 市 閖 上 2 丁 目 873 211 24.2 *4 貞 山 堀 の 内 陸 側 名 取 市 閖 上 3 丁 目 342 45 13.2 *4 貞 山 堀 の 海 側 名 取 市 閖 上 4 丁 目 762 89 11.7 *4 港 地 区 *1 大 川 小 事 故 検 証 報 告 書 *2 石 巻 市 市 民 課 *3 毎 日 新 聞 震 災 検 証 取 材 班 *4 NHKスペシャル 取 材 班 4 月 2 日 に 南 米 チリ 沖 でM8.2の 地 震 が 発 生 した. 例 によって, 気 象 庁 は3 日 未 明 に 北 海 道 から 千 葉 外 房 に 至 る 太 平 洋 沿 岸 と 伊 豆 小 笠 原 諸 島 に 津 波 注 意 報 を 発 令 し,NHKはラジオ 放 送 等 によってそれを 伝 えたが,その 内 容 は 単 調 極 まりないもので, 津 波 予 想 高 さが 最 大 でも1メートルということと,ひたすら 各 地 の 津 波 到 達 予 想 時 刻 を 繰 り 返 すのみであった. 東 日 本 大 震 災 を 経 験 し,その1 年 前 のチリ 地 震 津 波 では 津 波 高 さを 過 大 評 価 して 気 象 庁 が 謝 罪 会 見 をするなどの 苦 い 経 験 もあった 訳 で,それにも 関 わらず 津 波 高 さの 予 測 方 法 や 津 波 警 報 の 伝 達 方 法 については 何 の 進 歩 もなかったのであろうか. 最 近 の 津 波 監 視 体 制 の 拡 充 と 解 析 精 度 の 向 上 によって, 津 波 予 報 はこの 程 度 に 改 善 されました と 説 明 してくださることを 期 待 しているのであるが
[2014 年 4 月 22 日 ( 火 )] 先 月 の 石 巻 市 役 所 に 続 いて, 今 月 の 仙 台 滞 在 中 には 仙 台 市 役 所 を 訪 問 し てみた. 仙 台 市 役 所 はもう 何 度 も 訪 ねているが, 新 たな 疑 問 にぶつかる 度 にお 世 話 になっている. 今 回, 市 役 所 のロビーで 目 を 引 いたのはソチ の 冬 季 オリンピックで 活 躍 した 羽 生 結 弦 選 手 の 写 真 展 であった. 仙 台 出 身 では 荒 川 静 香 選 手 以 来 の 金 メダルで, 近 々 祝 勝 パレードも 予 定 されて いるとのことである.それはともかくとして, 今 回 の 目 的 は, 石 巻 市 役 所 で 前 回 入 手 したような 詳 細 な 津 波 被 害 資 料 を 得 ることであった. 様 々 な 部 署 を 回 って,またもや 助 けられたのは 市 政 情 報 センターであった. そこで 紹 介 された 危 機 管 理 室 減 災 推 進 課 応 急 対 策 係 には 実 に 親 切 に 応 対 して 戴 いた. 石 巻 市 のような 詳 細 な 町 字 別 犠 牲 者 数 は 仙 台 市 では 公 表 し ていないとのことであったが, 公 表 していないと 云 う 事 実 を 知 ることが 当 初 は 困 難 なことであった.また, 教 えて 戴 いた 統 計 情 報 せんだい は 人 口 動 態 や 国 勢 調 査 の 内 容 を 網 羅 した 大 変 貴 重 な 資 料 であった. 何 よ りも 大 きな 成 果 は, 町 字 別 の 人 口 に 加 えて, 同 じ 町 字 別 の 昼 間 人 口 を 推 定 できたことであった.これには, 国 勢 調 査 に 記 載 されている15 歳 以 上 羽 生 選 手 に 仙 台 市 長 より 賛 辞 の 楯 を 贈 呈 の 就 業 者 通 学 者 のうち, 他 区 県 内 他 県 への 就 業 者 通 学 者 を 総 人 口 から 差 し 引 いたものを 昼 間 人 口 とする 仮 定 が 入 っているが,さらに[ 昼 間 人 口 ]/[ 人 口 ]=[ 在 宅 率 ]を 定 義 す ることによって 死 者 率 を 見 直 してみたのが 次 の 表 である.ここでは, 全 地 域 における 在 宅 率 を 一 律 55%と 仮 定 した 場 合 の 死 者 率 を 示 しているが, 明 治 の 三 陸 津 波 や 昭 和 の 三 陸 津 波,さらには1960 年 のチリ 地 震 津 波 など 夜 間 に 発 生 した 多 くの 津 波 災 害 との 比 較 の 意 味 では,この 在 宅 者 に 対 する 死 者 率 の 方 が 真 実 に 近 いのではな いかと 考 えている 次 第 である.そして 今 回 の 津 波 災 害 は, 我 々が 漠 然 と 想 像 しているよりも 遥 かに 悲 惨 なも のだったのではないか,さらに,もし 今 回 の 津 波 災 害 が, 過 去 の 多 くの 津 波 災 害 のように 夜 間 に 発 生 してい たならば, 犠 牲 者 の 数 は 恐 らく2 倍 近 くに 増 えていたのではないかと 推 察 される.
[2014 年 4 月 23 日 ( 水 )] 今 朝 の 東 京 新 聞 で 最 も 注 目 したのは 斎 藤 美 奈 子 氏 による 右 のコラム 中 立 って 何 であった. 筆 者 も 以 前 (2012.9.16.の 本 欄 )に 同 じようなことを 考 えていたので,このコラムの 印 象 は 正 に 我 が 意 を 得 たりであった. 冒 頭 に 出 てくるNHKニュースの 政 治 的 中 立 への 配 慮 がどのようなニュアンス で 報 じられたのかは 良 く 判 らないが, 自 治 体 等 が 所 有 する 公 共 施 設 は 何 のためにあるのだろうか. もしかして NHKのど 自 慢 や 何 でも 鑑 定 団 の 様 な 娯 楽 目 的 でないと 利 用 できないのだろうか. 中 立 と 云 うのは,どちらにも 偏 らない 座 標 の 原 点 ( 真 ん 中,もしくは 平 等,あるいは 公 平 )と 云 うような 意 味 であろうが, 神 様 でもない 限 り 絶 対 座 標 の 原 点 には 立 てる 訳 がないので,その 座 標 と 云 うのは 相 対 的 なものでしか 有 り 得 ないのではなかろうか. そうであるならば,その 人 の 思 想 信 条 によって,あるいは 価 値 感 によって, 座 標 の 原 点 は 右 にも 左 にも 揺 れ 動 くものと 考 える 方 が 自 然 であって, 中 立 軸 を 厳 密 に 定 義 しようとするよりは 許 容 範 囲 を 広 くして, 様 々な 考 え 方 を 受 容 することの 方 が 好 ましいのではないだろうか.もし 自 分 は 中 立 の 立 場 に 立 って 物 事 が 判 断 で きる と 云 う 人 が 居 たら, 筆 者 はその 人 のことを 決 して 信 用 しないであろう.かつて,エルサレム 賞 の 受 賞 講 演 で 高 く 強 固 な 壁 (システム)と,それにぶつかって 割 れる 卵 があるなら,どれだけ 壁 が 正 しく,どれだ け 卵 が 間 違 っていようとも, 私 は 常 に 卵 の 側 に 立 つ と 明 言 した 村 上 春 樹 氏 の 方 が, 人 間 的 にはよほど 好 感 が 持 てそうに 思 われる. [2014 年 5 月 1 日 ( 木 )] 5 月 3 日 の 憲 法 記 念 日 を 前 に, 東 京 新 聞 は 全 国 の 有 権 者 約 1500 人 を 対 象 に 世 論 調 査 を 実 施 している.その 結 果 は 右 の 通 りで, 憲 法 9 条 につい てどう 思 うか, 安 倍 政 権 に よる 集 団 的 自 衛 権 の 行 使 容 認 をどう 思 うか, 原 発 の 再 稼 働 について 賛 成 か 反 対 か など,それらのいずれにつ いても 安 倍 政 権 の 考 えとは
反 対 の 意 見 の 方 が 圧 倒 的 多 数 を 占 めている. 不 思 議 なのは,それにも 拘 わらず 安 倍 内 閣 や 自 民 党 の 支 持 率 が 一 向 に 下 がらないことである. 因 みに 内 閣 支 持 率 をネットで 検 索 してみると,テレビ 朝 日 が 継 続 的 に 行 っている 前 ページのような 世 論 調 査 の 結 果 を 見 ることができる. 上 段 は 内 閣 支 持 率, 下 段 は 政 党 支 持 率 の 推 移 を 示 していて, 東 日 本 大 震 災 の 発 生 前 後 から 現 在 までの 推 移 を 見 てみると, 政 権 が 民 主 党 から 自 民 党 に 代 わった2012 年 12 月 の 時 点 で 劇 的 な 変 化 があったものの,それ 以 降 には 大 きな 変 化 は 認 められない.なんとも 不 思 議 なことである. [2014 年 5 月 15 日 ( 木 )] 最 近 印 象 に 残 った 新 聞 記 事 のいくつかをこの 備 忘 録 に 残 しておきたい. その 一 つは 5 月 4 日 の 東 京 新 聞 筆 洗 で, 草 花 写 真 家 埴 沙 萠 氏 の 著 書 を 引 用 し, のろまな,はみだしもの は 自 然 界 のみならず, 農 業 の 品 種 改 良 の 世 界 においても 見 直 されるべきではないかと 述 べている. 5 月 5 日 の 投 書 欄 では わだつみ ぜひ 読 んで が 特 に 印 象 に 残 った. ここで 紹 介 された 木 村 久 夫 さんは 京 大 経 済 学 部 学 生 の 昭 和 17 年 に 入 営, 昭 和 21 年 5 月 にシンガポールの 刑 務 所 において 戦 犯 刑 死. 当 時 28 歳 の 陸 軍 上 等 兵 であったそうである(きけわだつみのこえ 日 本 戦 没 学 生 の 手 記 第 1 集, 光 文 社 KAPPA BOOKS,1959). 早 速 読 ませて 頂 いたが, 手 記 を 紙 に 書 くことを 許 されない 状 況 の 中, 愛 読 書 の 余 白 に 連 綿 と 綴 られた 手 記 は 言 語 を 絶 するものであった.いかに 悟 りの 境 地 を 得 たとは 云 え 私 は 生 きるべく, 私 の 身 の 潔 白 を 証 明 すべく,あ らゆる 手 段 を 尽 くした. 私 の 上 級 者 たる 将 校 連 より, 法 廷 におい て 真 実 の 陳 述 をなすことを 厳 禁 せられ,それがため, 命 令 者 たる 上 級 将 校 が 懲 役, 被 命 者 たる 私 が 死 刑 の 判 決 を 下 された.これは 明 らかに 不 合 理 である( 以 下 略 ) さぞかし 無 念 だったであろう. 5 月 10 日 の 東 京 新 聞 1 面 では 五 輪 改 修 国 立 競 技 場 で の 記 事 が 目 を 引 いた.この 代 替 案 は 中 沢 新 一 氏 の 提 案 を 建 築 家 の 伊 東 豊 雄 氏 が 現 競 技 場 の 構 造 を 生 かした 改 修 案 として 具 体 化 したもので, 安 倍 首 相 の 云 う 東 北 の 復 興 と 東 京 五 輪 の 両 立 は 矛 盾 してお り, 改 修 して 良 いも のを 造 ることができ るならば もったい ない の 文 化 を 日 本 の 建 築 思 想 として 世 界 に 発 信 できる と の 言 は 正 論 であろう と 思 われた. 5 月 11 日 の 東 京 新 聞 本 音 のコラム では, 山 口 二 郎 氏 の 国 防
の 本 旨 が 断 然 光 っていた. 政 治 経 済 のエリートがいま,この 瞬 間 の 利 益 を 追 求 するあまり, 若 い 世 代 を 牛 馬 同 然 の, 食 べて 寝 るだけの 低 賃 金 労 働 力 として 扱 い, 家 族 を 持 つ 余 裕 を 与 えないことこそ, 人 口 減 少 の 最 大 の 原 因 である. 人 がいなくなり,スカスカになった 国 土 を 防 衛 することに 何 の 意 味 があるのか. 日 本 と いう 国 をここまでやつれさせて, 政 治 経 済 の 指 導 者 として 恥 ずかしくないのか. 正 にその 通 りである. 2014 年 5 月 15 日 文 責 : 瀨 尾 和 大