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ゾラにおける 自 転 車 に 乗 る 女 1) パリ と 写 真 をめぐる 一 考 察 高 橋 愛 フランス 自 然 主 義 文 学 を 代 表 する 作 家 エミール ゾラ Emile Zola(1840-1902) は ルーゴン マッカール 叢 書 Les Rougon-Macquart(1871-1893)や 晩 年 に おけるドレフュス 事 件 への 積 極 的 な 参 加 が 知 られるが 生 涯 にわたって 視 覚 イメ ージへの 情 熱 を 持 ち 続 けた 人 物 でもあった 1870 年 代 は 小 説 の 執 筆 と 同 時 に 美 術 批 評 家 として 健 筆 を 揮 い 印 象 派 画 家 たちと 文 学 と 絵 画 の 共 同 戦 線 を 張 る 81 年 のサロン 評 を 最 後 にその 活 動 には 実 質 的 に 幕 を 下 ろしたが 88 年 からはカ メラの 世 界 に 魅 了 され 数 多 くの 良 質 な 写 真 を 残 した 本 稿 の 目 的 は ゾラの 私 的 世 界 をあらわす 写 真 を 検 討 し 作 家 が 被 写 体 へ 向 けた 視 線 や 画 像 から 浮 かび 上 がる 思 想 を 主 に 自 転 車 に 乗 る 女 性 の 表 象 を 通 して 考 察 することである そして 写 真 と 小 説 との 関 係 を 明 らかにしていきたい 2) 1) 本 稿 は 科 学 研 究 費 補 助 金 ( 若 手 研 究 B 課 題 番 号 24720158)の 交 付 による 研 究 成 果 の 一 部 である 2)ゾラの 写 真 については 以 下 を 参 照 する Album Zola, iconographie réunie et commentée par Henri Mitterand et Jean Vidal, Paris, Gallimard, coll. «Bibliothèque de la Pléiade», 1963 ; Emile Zola, Œuvres complètes, édition établie sous la direction d Henri Mitterand, Paris, Cercle du Livre Précieux, 15 volumes, 1966-1970, tome VII ; Zola photographe, 480 documents choisis et présentés par François Emile-Zola et Massin, Denoël, 1979 ; Emile Zola photographe, sous la direction de Jean Dieuzaide, Toulouse, Galerie municipale du Château d eau, 1982 ; Zola, sous la direction de Michèle Sacquin, Bibliothèque nationale de France/Fayard, 2002. 本 稿 における 引 用 はすべて 拙 訳 であるが 次 の 邦 訳 と 解 説 を 参 考 にした エミール ゾラ パリ 竹 中 のぞみ 訳 白 水 社 2010 ; エミール ゾラ 時 代 を 読 む 1870-1900 小 倉 孝 誠 菅 野 賢 治 編 訳 藤 原 書 店 2002. 555(89)

武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 46 巻 第 1 号 1. 写 真 があらわすゾラの 思 念 ゾラは 1888 年 8 月 にジャーナリストのヴィクトル ビヨーから 写 真 の 手 ほど きを 受 け 亡 くなる 1902 年 まで 撮 影 を 続 けた 3 つの 暗 室 を 構 え 10 台 以 上 の カメラを 所 有 し およそ 7 千 から 1 万 枚 の 写 真 を 残 したといわれる それらの 画 像 が 私 的 世 界 にとどまり 生 前 発 表 されることもなかったため 公 に 主 張 すべき 意 味 を 含 み 得 ない 写 真 の 中 身 については これまで 深 く 検 討 されなかった しかし ゾラが 撮 った 写 真 の 数 々を 子 細 に 見 ていくと 幸 せな 瞬 間 を 機 械 的 に 切 り 取 った 単 純 な 画 像 ばかりではなく 作 家 が 強 く 望 んだ 場 面 やその 思 想 を 可 視 化 したものも 多 いことがわかってくる 1902 年 に 撮 られた 2 枚 の 写 真 に 注 目 し てみよう ゾラが 1888 年 から 恋 愛 関 係 になったジャンヌ ロズロ ふたりの 間 に 生 まれた 長 女 ドゥニーズ 長 男 ジャックと 収 まった 家 族 写 真 である 1 枚 目 の 写 真 図 版 1 では オーロール 紙 L Aurore を 手 にしたゾラが 家 族 を 見 守 る 中 ジャンヌは 娘 の 読 み 書 きを 指 導 している ジャックは 自 習 に 励 んでいるよう だ 2 枚 目 の 写 真 図 版 2 へ 移 ると 今 度 はゾラがジャックの 勉 強 を 見 ており 鉤 針 で 編 むジャンヌはドゥニーズの 前 で 女 性 としての 模 範 を 示 す これらの 画 像 からは 当 時 のフランスで 広 く 議 論 された 家 族 の 役 割 や 教 育 について ゾラも 強 く 意 識 していたことが 見 て 取 れる つまり 1898 年 に 私 は 告 発 する! を 発 表 した オーロール 紙 を 子 どもたちの 前 で 広 げるゾラからは 外 の 公 の 世 界 の 体 現 者 として 市 民 の 義 務 を 全 うするよう 志 す 父 親 像 3) が ジャンヌからは 出 産 授 乳 しつけに 加 えて 子 どもたちの 基 礎 的 教 育 に 関 わる 役 割 を 引 き 受 けた 母 親 像 4) が 浮 かび 上 がってくるのである この 時 期 になると 多 くのフランス 人 の 家 庭 で 子 どもたちが 学 業 面 で 良 い 成 績 を 収 めることは 一 家 の 重 要 課 題 となってい 3)19 世 紀 フランスにおけるこうした 父 親 像 については 以 下 を 参 照 Elisabeth Badinter, L Amour en plus Histoire de l amour maternel, XVII e -XX e siècle, Paris, Flammarion, 2010, pp. 342-343. 邦 訳 :E バダンテール 母 性 という 神 話 鈴 木 晶 訳 ちくま 学 芸 文 庫 1998. 4) 当 時 の 社 会 で 議 論 されたこのような 母 親 像 に 関 しては 主 に 次 を 参 考 にした Ibid., pp. 305 et 312. 444(90)

た 5) ジャンヌに 宛 てた 数 々の 手 紙 の 中 で 我 が 子 の 学 業 成 績 を 尋 ね 教 育 熱 心 な 父 親 であったゾラは これらの 写 真 を 撮 影 するにあたっても 徳 育 (éducation) だけではなく 知 育 (instruction)にも 取 り 組 むジャンヌを 通 して 当 時 の 社 会 で 称 揚 された 良 き 母 のイメージを 表 している こうした 両 親 の 下 で 子 ども たちは 勉 学 熱 心 な 姿 を 見 せる 2 枚 の 写 真 はシャッターの 作 動 装 置 を 使 って 撮 影 されたので 4 人 は 各 々の 役 割 を 示 し 合 わせ どのように 撮 られるべきかを 意 識 し カメラの 前 でポーズを 取 ったと 思 われる つまり ここには 不 慮 の 死 を 遂 げ る 数 週 間 前 のゾラが 写 し 出 した 最 後 の あるべき 家 庭 のイメージ が 記 録 され ているのである 2. 人 口 減 少 と 自 転 車 に 乗 る 女 このように 写 真 は 撮 る 者 が 被 写 体 へ 向 けた 視 線 だけではなく その 理 想 や 思 想 も 浮 かびあがらせるのだが こうした 家 族 の 表 象 について 検 討 するには ゾラ が 1896 年 に 書 いた 人 口 減 少 を 思 い 出 す 必 要 があるだろう フランスにおけ る 出 生 率 の 低 下 を 懸 念 するゾラは この 問 題 と 文 学 との 関 係 を 次 のように 考 えて いた わが 国 の 文 学 で 最 近 奇 妙 に 流 行 しているデカダン 派 象 徴 派 と 名 づけられた ものへ 下 りていき もはや 目 にするのは 子 を 産 み それを 誇 らしく 思 う 健 やかで 誠 実 な 愛 への 抵 抗 ばかりである 性 を 喪 失 して 竿 のように 細 く 母 や 乳 母 となる 器 官 を 持 たなくなった 女 性 たちであふれている 人 間 の 糧 と なる 偉 大 な 麦 は 刈 られ 白 百 合 の 野 が 世 の 中 を 毒 しているのだ 6) 19 世 紀 後 半 のフランスでは 1871 年 の 普 仏 戦 争 の 敗 北 と 家 庭 における 産 児 制 限 5) 工 藤 庸 子 宗 教 vs. 国 家 フランス< 政 教 分 離 >と 市 民 の 誕 生 講 談 社 現 代 新 書 2007, p. 149. 6)Emile Zola, «Dépopulation», Le Figaro, 23 mai 1896, dans Œuvres complètes, tome XIV, p. 788. 444(91)

武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 46 巻 第 1 号 の 影 響 で 人 口 が 停 滞 し 人 口 増 加 策 をめぐる 議 論 が 活 発 に 行 われていた 政 府 が 1895 年 に 実 施 した 人 口 調 査 で 死 亡 数 が 出 生 数 を 上 回 っている 事 実 が 明 るみとな り ジャック ベルティヨン Jacques Bertillon(1851-1922)の 提 唱 で 96 年 に フランス 人 口 増 加 のための 国 民 連 合 L Alliance nationale pour l accroissement de la population française が 設 立 されると この 国 では 家 庭 における 子 育 て や 母 性 がかつてないほどクローズアップされる 豊 饒 を 謳 う 作 家 ゾラは 言 葉 や 新 聞 書 物 を 通 してこうした 現 状 を 打 破 しなくてはならないと 考 え 人 間 の 糧 となる 偉 大 な 麦 を 刈 る デカダン 派 や 象 徴 派 に 批 判 の 矛 先 を 向 けたのであ る この 記 事 が 書 かれた 1896 年 には 同 様 のテーマがさまざまな 場 面 で 扱 われて いた 12 月 27 日 の グルロ 紙 Le Grelot を 見 ると やはり 人 口 減 少 とい うタイトルで 子 どもを 生 みたがらない 女 性 たちに 関 する 風 刺 画 が 載 っている 図 版 3 出 産 で 体 形 が 崩 れるのを 恐 れる 細 身 の 貴 族 女 性 ( 左 上 ) 財 産 の 分 割 を 望 まない 豊 満 なブルジョワ 女 性 ( 左 下 ) 口 を 糊 する 労 働 者 女 性 ( 右 下 ) 出 産 と 子 育 てに 無 関 心 な 遊 女 ( 右 上 )と 並 んで もはや 女 性 ではない と 書 かれた 自 転 車 に 乗 る 女 性 ( 中 央 上 )が 登 場 している 点 に 注 意 したい フランスでは 1880 年 代 に 自 転 車 が 普 及 し 90 年 代 に 入 るとサイクリングブームが 到 来 した 風 刺 画 で 描 かれた 女 性 が 着 ている 大 きな 袖 のブラウス 細 くしぼったウエスト 裾 を 絞 って 膨 らませたブルーマーという 装 いは 当 時 の 自 転 車 に 乗 る 女 性 たちの 間 で 流 行 し このような 形 で 多 くの 女 性 がズボンを 履 くようになると それをジ ェンダーの 侵 犯 と 捉 え 男 性 優 位 の 社 会 に 対 する 女 性 の 挑 戦 男 女 同 権 の 象 徴 と 見 なす 向 きが 強 くなったのである 同 年 12 月 19 日 の リール 紙 Le Rire にお ける 最 後 の 婦 人 騎 手 図 版 4 では ブーローニュの 森 に 集 まった 自 転 車 に 乗 る 女 性 たちが 孤 軍 奮 闘 するスカート 姿 の 婦 人 騎 手 を 圧 倒 している 自 転 車 のハ ンドルに 前 屈 みになって 挑 戦 的 な 視 線 を 投 げ 両 手 を 腰 にあてる 威 嚇 的 なポーズ を 見 せる 彼 女 たちは 自 転 車 に 乗 る 女 性 に 対 する 当 時 の 社 会 の 見 方 を 伝 えている こうした 風 刺 画 がフランスで 出 回 り 人 口 減 少 を 書 いた 1896 年 に ゾラは ヴェルヌイユで 一 枚 の 写 真 を 撮 った 図 版 5 スカート 姿 のジャンヌが 自 転 車 444(92)

に 乗 っているのだが 良 く 見 ると 右 の 足 下 には 台 が 置 かれている 紋 切 型 の 自 転 車 に 乗 る 女 とは 異 なるイメージを 求 めて ゾラが 庭 で 周 到 に 準 備 をし ジャンヌが 長 い 間 ポーズをして 撮 影 を 行 ったと 思 われる その 後 もゾラは 当 時 の 風 刺 画 とは 異 なる 文 脈 の 女 性 像 を 次 々とカメラに 収 めており 98 年 には ドレ フュス 事 件 の 影 響 で 亡 命 したゾラを 追 って 渡 英 したジャンヌを 再 び 自 転 車 と 撮 る 図 版 6 出 国 の 準 備 をする 恋 人 に ゾラは フランスからブルーマーは 持 って 来 ないように 7) と 書 き 送 ったが それはブーローニュの 森 で 自 転 車 を 走 らせる 女 性 たちと 亡 命 先 で 観 察 した 若 い ミス(miss)たち とを 比 較 したうえでの 言 葉 であった 8) 鉄 骨 ガラス 張 りの 建 築 を 主 な 物 語 空 間 としてきたゾラは イギリス でも 水 晶 宮 にカメラを 向 けたが スカート 姿 で 自 転 車 に 乗 る 女 性 が 見 せる 現 代 性 にも 着 目 してシャッターを 切 っている 図 版 7 自 転 車 に 乗 る 男 女 の 風 景 に 関 心 を 持 つゾラがフランスで 撮 った 写 真 図 版 8 と 比 較 しても 両 国 における 女 性 の 装 いの 違 いなどがわかって 興 味 深 い 帰 国 した 99 年 には 子 どもたちとサ イクリングを 楽 しむジャンヌをファインダー 越 しに 捉 える 図 版 9 このように ゾラのカメラに 収 まった 自 転 車 に 乗 る 女 性 たちは 同 時 期 の 風 刺 画 で 揶 揄 された 大 衆 的 な 表 象 とは 異 なる 姿 を 提 示 する これらの 写 真 と 当 時 の 風 刺 画 の 間 で 見 られる 相 違 に 行 き 当 たるたびに 双 方 を 見 る 者 は 性 を 喪 失 して 竿 のように 細 い 女 性 たち を 描 く 芸 術 を 否 定 したゾラの 姿 勢 を 思 い 起 すのである 3. パリ におけるマリー クチュリエ フランス 国 内 で 人 口 減 少 についての 意 識 が 高 まり その 問 題 と 関 わる 自 転 車 に 乗 る 女 の 風 刺 画 が 数 多 く 描 かれた 1896 年 に ゾラは 三 都 市 Les Trois 7)Lettre de Zola à Fernand Desmoulin, 6 août 1898, dans Emile Zola, Correspondance, sous la direction de B. H. Bakker, Montréal-Paris, Presses de l Université de Montréal / CNRS Editions, 10 volumes, 1978-1995, tome IX, p. 242. 8) 当 時 英 国 女 性 は 長 い 襞 の 入 ったスカート 姿 で とても 優 雅 に 背 筋 を 伸 ばして 自 転 車 に 乗 っている (ibid., pp. 243-244.)と 記 したゾラは 1900 年 のアンケートでも イギリスでは 毎 朝 スカート 姿 で 自 転 車 を 走 らせて 買 い 物 へ 行 く 若 い 女 性 たちに すっかり 魅 了 された と 答 えて その 印 象 を 伝 えている Cf. «La Femme dans les sports modernes (Enquête)» in La Revue, vol. XXXIV, 1900, p. 23. 444(93)

武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 46 巻 第 1 号 Villes(1894-1898)の 最 終 巻 にあたる パリ Paris(1898)の 執 筆 を 開 始 した ルルドとローマでカトリック 教 会 の 実 態 を 知 った 若 い 神 父 ピエール フロマンは 政 治 が 腐 敗 し 無 政 府 主 義 やテロが 横 行 するパリへ 戻 ってくる 彼 の 信 仰 の 揺 ら ぎは 強 まるばかりだが 科 学 者 の 兄 ギヨームの 家 族 と 交 流 し 一 家 に 引 き 取 られ ていたマリー クチュリエと 出 会 って 日 々の 労 働 と 愛 に 支 えられた 健 やかな 生 活 の 意 味 を 理 解 する 主 人 公 が 労 働 と 科 学 を 土 台 とする 新 しい 宗 教 に 可 能 性 を 見 出 し 世 俗 の 世 界 で 生 き 抜 く 決 意 をあらわす 場 面 によって 小 説 は 閉 じられる 絶 望 するピエールを 救 い 出 し 生 の 世 界 へと 導 くマリー クチュリエの 創 造 に あたっては ジャンヌ ロズロの 影 響 が 大 きいと 言 われてきた 9) 背 は 高 くなく 中 背 で 頑 強 で 立 派 な 体 つきをし 大 きな 腰 回 りと 豊 かな 胸 を 持 ち その 喉 は 戦 士 のように 細 く 引 き 締 まっていた 健 康 的 で 筋 肉 は 引 き 締 まり 活 力 を 感 じさせ ながらも その 背 筋 をぴんと 伸 ばした 歩 き 方 はゆったりとして 女 性 らしい 淑 や かさにあふれている 黒 い 髪 で 肌 はとても 白 かった 10) というマリーが 象 徴 す るのは 豊 饒 であり 人 口 減 少 の 中 で 批 判 したデカダン 派 や 象 徴 派 の 作 品 に 登 場 する 性 を 喪 失 して 竿 のように 細 い 女 性 像 とは 対 照 的 である ゾラが 撮 った 写 真 を 見 ても このように 描 写 されるマリーはジャンヌの 身 体 的 な 特 徴 を 多 く 有 しているのがわかる 図 版 10 ゾラはマリーを 形 成 した 環 境 について 次 のように 書 く 彼 女 はとても 清 純 で 健 全 で 無 邪 気 すぎるほどであり 生 まれつき 実 直 だ ったので 純 潔 を 保 っていたが 立 派 な 教 育 を 受 け 学 んだことを 知 識 欲 旺 盛 でしっかりとした 頭 脳 にきちんと 蓄 えていた また とても 女 らしくて お 9)Jacques Noiray, notice à son édition de Paris, Paris, Gallimard, coll. «folio», 2002, p. 664 ; Brigitte Emile-Zola et Alain Pagès, préface de Lettres à Jeanne Rozerot 1892-1902, édition établie, présentée et annotée par Brigitte Emile-Zola et Alain Pagès, Paris, Gallimard, p. 18 ; Michelle Perrot, «De Lourdes à Vérité : les femmes du troisième Zola», in Zola, op. cit., pp. 158-162. 邦 訳 :ミシェル ペロー ルル ド から 真 実 まで 第 三 のゾラにおける 女 性 たち ゾラの 可 能 性 表 象 科 学 身 体 所 収 小 倉 孝 誠 宮 下 志 朗 編 藤 原 書 店 2005, pp. 135-152. 10)Emile Zola, Paris, dans Œuvres complètes, tome VII, p. 1275. 444(94)

金 をかけなくてもお 洒 落 ができたし 楽 しく 過 ごす 術 を 心 得 ていて いつで も 明 るく 嬉 しそうにしていた メール グラン(Mère-Grand)のよう に 彼 女 もほとんど 無 意 識 のうちに 穏 やかな 無 神 論 に 至 っていた 11) メール グランは ギヨームの 亡 くなった 内 縁 の 妻 マルグリットの 母 親 で プロ テスタントの 家 庭 で 育 ち 夫 の 感 化 を 受 けて 信 仰 を 捨 てた 女 性 である リセ フ ェヌロンで 教 育 を 受 け メール グランと 過 ごす 日 々の 中 で 信 仰 の 実 践 を 断 るよ うになったマリーは 第 三 共 和 政 下 のフランスで 進 められた 国 民 教 育 の 世 俗 化 や 女 子 中 等 教 育 を 確 立 したカミーユ セー 法 の 成 立 (1880)などの 影 響 を 受 けてい る さらに ゾラは 女 らしさ と 結 びつけたこの 人 物 を 間 違 いなく 彼 女 は 優 しさと 献 身 のすべてを 兼 ね 備 えて 存 在 していた 伴 侶 としての 女 性 だった 12) と 書 くのである それは 教 会 から 娘 たちを 引 き 離 そうとした 当 時 の 共 和 政 主 導 の 教 育 改 革 が 女 性 の 自 立 よりも 夫 の 良 き 助 言 者 や 家 庭 の 良 き 母 親 を 育 てる ことに 重 きをおき 母 性 を 称 揚 する 当 時 の 社 会 において 優 しさ や 献 身 が 女 性 の 本 性 として 語 られていた 事 情 13) を 浮 かび 上 がらせている モダンな 教 育 を 受 け ギヨームとマルグリットの 間 に 生 まれた 3 人 の 息 子 を 子 どもたち と 呼 ぶ 若 い 母 親 としての 振 る 舞 いを 身 につけたマリーは 14) 刺 繍 を 好 み 朗 らかに 家 事 をこなして 家 庭 の 安 寧 に 必 要 な 役 割 15) を 引 き 受 けていた 当 時 の 女 性 たち の 状 況 を 映 し 出 す ここに 至 って 子 どもたちの 徳 育 と 知 育 に 取 り 組 む ことができるマリーと 1902 年 の 家 族 写 真 [ 図 版 1 2]でゾラがジャンヌを 通 11)Ibid., p. 1273. 12)Ibid., p. 1275. 13)こうした 事 情 については 以 下 を 参 照 Elisabeth Badinter, L Amour en plus Histoire de l amour maternel, XVII e -XX e siècle, op. cit., pp. 316-325 ; Françoise Mayeur, «L éducation des filles : le modèle laïque» in Histoire des femmes en occident, sous la direction de Georges Duby et Michelle Perrot, Paris, Plon, 1991, tome IV, pp. 231-246. 邦 訳 :フランソワーズ マイユール 娘 たちの 教 育 非 宗 教 的 モデル ジョルジュ デュビィ ミシェル ペロー 監 修 女 の 歴 史 IV 19 世 紀 1 所 収 杉 村 和 子 志 賀 亮 一 監 訳 藤 原 書 店 1996, pp. 375-401. 14)Emile Zola, Paris, op. cit., p. 1278. 15) 工 藤 庸 子 前 掲 書 p. 153. 444(95)

武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 46 巻 第 1 号 して 写 し 出 そうとした 良 き 母 の 肖 像 が 重 なる 興 味 深 いのは ゾラがマリーを 自 転 車 に 乗 る 女 性 としても 創 造 していることで ある 作 家 は 草 稿 段 階 からサイクリングの 場 面 を 検 討 しており 16) 実 際 に 決 定 稿 の 第 4 の 書 第 3 章 で サン=ジェルマンの 森 を 自 転 車 で 走 るピエールとマリ ーを 描 いている 信 仰 が 揺 らぎ 苦 しみ 続 けた 若 い 神 父 は ついに 僧 衣 を 脱 ぎ 捨 てて 自 転 車 に 乗 り 自 然 と 太 陽 の 下 へ 立 ち 戻 る 彼 と 連 れ 立 って 森 でサイクリン グを 楽 しむマリーはブルーマーの 信 奉 者 で 自 転 車 が 女 性 を 解 放 すると 考 える 理 由 を 次 のように 語 る ブルーマーで 足 が 自 由 になれば 男 女 が 一 緒 に 出 かけられて 平 等 になるし 妻 子 は 夫 の 行 く 所 へどこでも 行 くことができて 私 たちのように 仲 間 ふたり で 野 原 や 森 を 走 っても 誰 も 驚 きません これこそ 自 転 車 によって 獲 得 で きたものですね 大 自 然 の 中 で 空 気 を 存 分 に 吸 って 光 を 浴 び 私 たちの 母 なる 大 地 へと 帰 るのです 17) マリーが 家 庭 という 単 位 を 念 頭 に 置 いたうえで 女 性 と 自 転 車 の 関 係 や ブ ルーマーを 着 用 する 意 味 を 述 べているのに 注 意 したい 妻 としての 視 点 から 自 転 車 に 乗 る 意 義 を 説 明 する 点 で この 人 物 は 当 時 の 風 刺 画 で 流 布 した 女 性 たちのイ メージとは 一 線 を 画 するのである ゾラの 小 説 世 界 で 太 陽 と 教 会 が 生 と 死 の 関 係 にあることを 思 い 出 すならば マリーの 役 割 とは ピエールを 死 から 生 の 世 界 へ 引 き 戻 すことに 他 ならない ピエールを 先 導 して 自 転 車 を 漕 ぐマリーが 徐 々 に 速 度 を 落 として 横 に 並 び 仲 良 く 風 を 切 って 進 む 様 子 は 主 人 公 を 虚 無 から 引 き 出 し やがて 結 婚 する 伴 侶 としての 女 性 という 小 説 内 での 彼 女 の 役 割 を 象 徴 的 に 表 している 陽 光 を 浴 び 自 然 の 懐 に 抱 かれたピエールとマリーを 揃 っ て 滑 翔 するつがいの 鳥 18) に 例 えるゾラは 上 の 引 用 における 母 なる 大 地 へ 帰 16)Plan de Paris, Bibliothèque Méjanes d Aix-en-Provence, Ms. 1472, f o 376. 17)Emile Zola, Paris, op. cit., p. 1448. 18)Ibid., p. 1450. 444(96)

る というマリーの 言 葉 を 通 じて 彼 らを 豊 饒 と 結 びつける 19) サイクリン グの 場 面 からは 自 転 車 と 女 性 を 通 して 新 しい 家 庭 のイメージを 描 き 出 そうとしたゾラの 意 思 が 見 て 取 れるのである 自 転 車 を 通 して マリーは 自 らの 教 育 観 も 詳 らかにする もし いつか 私 に 女 の 子 が 生 まれたら 10 歳 になり 次 第 自 転 車 に 乗 せて 生 きる 術 を 教 えます 女 の 子 を 小 さなうちに 自 転 車 に 乗 せて 道 路 に 出 してあげるの そうすれば その 子 は 目 を 開 き 小 石 にぶつかりそうにな ったら 避 け 曲 がり 角 が 見 えたら 適 当 な 時 に 正 しい 方 向 へハンドルを 切 ら なくてはならないでしょう 小 石 を 避 け 適 当 な 時 にハンドルを 切 る ことができる 女 性 は 社 会 生 活 や 恋 愛 でも 困 難 を 乗 り 越 えられ 柔 軟 に 真 っ 当 でしっかりした 判 断 力 をもって 最 善 の 決 断 を 下 せると 思 うのです 20) 1860 年 代 から ゾラがブルジョワ 階 級 の 女 子 教 育 にきわめて 批 判 的 な 作 家 であ ったことを 思 い 出 そう 鋳 型 にはめられた 寄 宿 学 校 の 少 女 たちは 実 生 活 で 求 められる 現 実 的 な 知 恵 を 身 につける 機 会 もなく 一 様 にマネキン 人 形 のような 女 性 に 成 長 する 家 庭 教 師 をつけて 自 宅 で 教 育 を 受 けた 場 合 も 純 粋 さを 求 める 両 親 によって 無 知 なまま 密 室 で 育 ち 貞 淑 が 何 たるかも 理 解 せずに 結 婚 する こ れらの 女 性 たちは 結 局 社 会 に 不 健 全 な 気 風 や 退 廃 をもたらす 21) こうした 論 をさまざまな 形 で 展 開 してきたゾラは 20 世 紀 を 目 前 とする 時 期 に 世 の 中 19)この 点 は 女 性 を 出 産 と 家 庭 に 結 びつける 当 時 のブルジョワ 的 なイデオロギーの 枠 内 にゾラが 留 まったことを 浮 き 彫 りにしている パリ を 視 野 に 入 れて こうし た 問 題 を 取 り 上 げた 論 考 は 例 えば 次 のとおり Chantal Jennings, «Zola féministe? II» in Les Cahiers naturalistes, n o 45, 1973, pp. 1-22 ; 坂 本 浩 也 自 転 車 をめぐるフィクション 19 世 紀 末 フランスにおける 速 度 の 詩 学 と 性 差 のイデオロ ギー ヨーロッパ 研 究 第 3 号 東 京 大 学 ドイツ ヨーロッパ 研 究 センター 2004, pp. 81-98. 20)Emile Zola, Paris, op. cit., p. 1447. 21)Cf. Emile Zola, «L Adultère dans la bourgeoisie», Le Figaro, 28 février 1881, dans Œuvres complètes, tome XIV, pp. 531-537 ; «Femmes du monde», Le Figaro, 27 juin 1881, ibid., pp. 681-685. 444(97)

武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 46 巻 第 1 号 で 子 どもを 生 みたがらない 女 性 の 代 名 詞 となっていた 自 転 車 に 乗 る 女 性 を 母 の 視 点 を 持 った 人 物 像 へと 変 化 させた マリーの 創 造 を 通 じて 新 しい 女 子 教 育 への 視 界 を 開 こうとしたのである ゾラはこの 女 子 を 自 転 車 に 乗 せる という パリ で 示 した 論 を 1900 年 に 受 けたアンケートの 中 でも 繰 り 返 しており 22) 自 転 車 に 乗 った 10 代 のドゥニーズ を 同 年 カメラに 収 めている 図 版 11 実 生 活 において この 作 家 は 娘 を 積 極 的 に 自 転 車 に 乗 せていたのである ドゥニーズ ルブロン=ゾラは カメラの 前 で 大 きな 自 転 車 に 乗 り ポーズをとるのは 苦 労 に 満 ちた 体 験 であったと 回 想 し 父 親 に 怒 られた 唯 一 の 記 憶 が 自 転 車 と 結 びついていると 明 かす 父 は ジャックに 支 えられて 自 転 車 に 乗 る 私 を 撮 ろうとしていた 私 は 自 転 車 から 落 ちるのではないかと 思 うと 死 ぬほど 怖 くなり 泣 き 出 してしまった 父 はいらいらしながら 写 真 を 撮 った 23) 1896 年 にスカート 姿 で 自 転 車 に 乗 るジャンヌを 撮 ったように ゾラにとっては 自 転 車 に 乗 る 10 代 のドゥニーズもカメラに 収 めるべき 一 枚 であったに 相 違 ない この 写 真 には ドゥニーズが 真 っ 当 でしっかりとした 判 断 力 を 持 ち 社 会 生 活 のさまざまな 場 面 において 現 実 的 な 知 恵 で 最 善 の 決 断 を 下 せる 柔 軟 な 女 性 に 成 長 してほしいと 願 ったゾラの 父 親 としての 思 いが 表 れている 自 転 車 に 乗 る 女 性 の 表 象 を 通 じて 作 家 の 小 説 世 界 と 私 的 世 界 は 確 かに 重 なる 部 分 を 見 せる のである ジャンヌ 母 子 と 自 転 車 をめぐる 写 真 を 検 討 すると 晩 年 のゾラがファインダー の 先 に 見 出 し 写 し 留 めようとしたのは 家 族 を 軸 とする 幸 福 な 生 の 輝 きであっ たことがわかる 2 枚 の 写 真 が 示 すように 図 版 9 12 サイクリングをするゾ ラ 一 家 は 全 員 が 同 じ 速 度 で 自 転 車 を 走 らせ 横 一 列 に 並 び サン=ジェルマンの 22)«La Femme dans les sports modernes (Enquête)», op. cit., p. 22. 23)Denise Le Blond-Zola, Emile Zola raconté par sa fille, Paris, Grasset, 2000, pp. 182-183. 444(98)

森 を 疾 駆 したピエールとマリーのように 揃 って 滑 翔 する 鳥 となって カメラ に 自 分 たちの 姿 を 収 めたのだった 結 論 以 上 のように 主 に 自 転 車 に 乗 る 女 性 の 表 象 を 通 して ゾラの 小 説 と 写 真 の 問 題 を 概 観 した 1890 年 代 半 ばから ジャンヌと 子 どもたちは 夏 をヴェルヌイユで 過 ごすよう になり ゾラがメダンの 自 宅 と 彼 らの 家 を 自 転 車 で 毎 日 往 復 したのは 良 く 知 られ る 24) 当 初 から 離 れて 暮 らす 彼 らを 結 びつけるのに 自 転 車 は 欠 かせないものだ ったのである 家 族 全 員 でサイクリングを 楽 しむようになると ジャンヌ 母 子 は ゾラと 連 れ 立 って パリ のマリーが 述 べたように 大 自 然 の 中 で 空 気 を 存 分 に 吸 い 光 を 浴 び 自 転 車 によって 獲 得 したものを 享 受 した 作 家 にとって それは 確 かな 幸 福 の 風 景 であった ゾラにおける 自 転 車 に 乗 る 女 性 の 表 象 は 同 時 代 に 流 布 した 風 刺 的 なイメージ とはかなり 異 なるものであったが その 相 違 は 人 口 減 少 などを 発 表 する 当 時 の 作 家 の 中 で 家 族 が 無 視 できないものとして 常 に 意 識 されていた 問 題 に 帰 着 する この 問 題 は 晩 年 のゾラの 文 学 世 界 だけではなく カメラで 為 された 私 的 世 界 の 記 録 においても 最 も 重 要 な 主 題 であり 続 けた 25) 人 生 の 記 録 を 次 々とカメ ラに 収 めた 晩 年 のゾラの 様 子 からは 自 分 を 取 り 巻 く 世 界 の 記 録 を 残 したいとい う 本 能 が 透 けて 見 える 写 真 を 通 して 見 えてくるゾラの 欲 求 と 文 学 創 造 との 関 係 については 今 後 もさまざまな 面 から 検 討 を 重 ねる 必 要 がある 24)Ibid., p. 183. 25)この 問 題 については 別 稿 も 参 照 されたい 高 橋 愛 ゾラ パリ と 写 真 をめぐる 視 覚 体 験 窓 辺 の 記 憶 からたどる 母 子 の 表 象 Gallia, 第 53 号 大 阪 大 学 フラン ス 語 フランス 文 学 会 2014, pp. 21-30. 444(99)

武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 第 46 巻 第 1 号 図 版 1 図 版 2 444(100)

図 版 3 図 版 4 444(101)

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図 版 11 図 版 12 444(105)