地下壕 には 70 年の歴史が詰まっていました 第 19 回 歴史ウォーキング ご報告です 2 月 6 日 ( 金 ) 前日の雪模様な空は一転して快晴 陽光は確実に 春 でした 慶応義塾日吉キャンパスには戦争の遺構を見て戦後史に重なる自分を見ようと43 名が集まりました 午前 10 時 30 分 保存の会 ボランティアの皆さんに案内されて地下壕入口に この入り口は戦後に造られたもの 本当の入り口は地上にある 慶応義塾学生寮 から繋がっていました 学徒出陣でガラガラになった学生寮を旧海軍が 連合艦隊 司令部にしたのです これをきっかけに海軍軍令部第 3 部や 海軍艦政本部などが 日吉台に壕を造って入りました 入り口は 蝮谷 と呼ばれる谷間です すぐ前に新幹線がとおり その工事で壕の一部が破壊されたと言います ここからは持参の懐中電灯が頼りです 保存の会 の皆様にランタンを準備して戴きました ヘッドランプは頑丈な 地下壕 を照らしだしました 内部は温かく 22 度 ぐらいでした 一日に一回内部の空気が入れ替わる壕の配置だそうです
大きな機械などを持ち込むために階段は無く 隧道は坂道でした 入り口付近は厚い煉瓦状のものが積み上げられていました 天井は高く 隧道の両側に排水溝がありました このしっかりした舗装は誰がしたのですか 当時からの舗装でそのままです さすが海軍 昔見た陸軍の 松代大本営 とは大違いでした 明かりは蛍光灯でした と言う 記録によると 昼間のように明るかった とのことでした 水洗トイレ完備 側溝の完備など海軍の技術力を感じさせます この地下壕の管理では 色々論争があったようです 地上権は慶応義塾ですが 大学とは関りなくトンネルが縦横に掘られています 敗戦とともに米軍が接収 米軍から国へ 国から慶応義塾に 数年前トンネルの奥で若干の崩落があったそうです その修復に当たったのは慶応義塾 今回立ち入り許可を戴いたのは慶応義塾日吉キャンパス 運営サービス課です また トンネルの上は 民有地のところもあります 民有地へ繋がるトンネルは閉鎖されています 開戦時の 連合艦隊司令長官 は山本五十六大将 開戦時兵力は 第一航空艦隊 ( 南雲忠一中将 ) 第十一航空艦隊 ( 塚原二四三中将 南遣艦隊 ( 小澤治三郎中将 ) 第六艦隊 ( 清水光美中将 第五艦隊 ( 細管成子郎中将 ) 第四艦隊 ( 井上成美中将 ) 第三艦隊 ( 高橋伊望中将 ) 第二艦隊 ( 近藤信竹中将 ) 第一艦隊 ( 高橋四郎中将 ) これで見ると空母 同護衛艦隊を含む 機動部隊 は 2セット
パールハーバー襲撃時 連合艦隊司令部は戦艦 大和 を旗艦として 瀬戸内海で指揮をとっていた 航空機による襲撃は第一航空艦隊の南雲中将が指揮しました 終戦時の連合艦隊司令等官は小澤治三郎中将 もはや航空艦隊は壊滅状態で レイテ海戦を契機に空母を失った戦闘機が ラバウルなど基地から特攻攻撃を続けました この地下壕でも 特攻 隊が編成されて行くのを見守った星将達が居たに相違ありません 多少いやな事を書かなければなりません 軍令部第一部が日吉に移って来ました 軍令部と言えば戦争遂行の上で最高の 統帥機関 です 特攻隊の編成は誰の命令で行われたのでしょうか 通説となっているのはレイテ作戦で 第一航空艦隊の大西瀧治郎中将が 神風 ( しんぷう ) 特別隊を編成 とされています 戦後 軍令部を含む海軍の幹部は あれは命令ではない 志願だ と言っています 神風隊の隊長は当初特攻に反対した関大尉でした 敷島隊 を指揮した関大尉は最後まで反対し そのまま出陣したと言われます 戦後米国の調査で 特攻機の命中率は18% 内外とあります 壮絶な特攻も残念ながら効果低しと言う結果でした 軍令部の一部長 ( 終戦時 )N 氏は 軍令部として命令書に印を押したことは無いと言います 一線の将校たちは 神風隊編成の2 年前に水中特攻回天の製造を始めていた それも軍令部は知らなかったと言うのか と激怒していました 軍令部の参謀は華やかな飾り緒を肩から提げていました 飾緒 ( しょくお ) または ( しょくちょ ) と言います 飾緒 は 陸海軍共に 参謀職 が付けます 現在の海上自衛隊でも 参謀 職か 幕僚 職が付けています フランス陸軍やドイツでの 参謀 職が儀礼か 式服で使います 軍令部は参謀職ですので一線の戦闘服にも 飾緒 を付けたと言います 由来は諸説ありますが 命令伝達をより迅速 正確に行うために 青 と 赤 の鉛筆又は筆を肩から下げたことに始まったともいわれます 日吉に移転してきた 軍令部 部員 連合艦隊司令部は ほとんどが参謀職でしたので 飾緒 を付け闊歩していたのでしょう 闇の中にどんな 歴史 をみたのでしょうか 戦争 を知っている世代は少なくなりました 歩いている最中 俺たちは知っている と話しかけてくれた方が居ました 空襲の中で家族はバラバラだった 戦争孤児になっても不思議じゃなかった と一人ごとのようにつぶやいていました そう言えば私もそうだ 父は海軍に 祖父母と私は仙台に 姉は新潟に 母と妹は東京に 3 月 10 日の東京大空襲はかろうじて生き残りました 地下壕 の空気はそうした片隅の歴史を語る匂いで満ちているようでした 参加した小林康昭さんから幹事にメールを戴きました { 前略 } 私の郷里の松代には 大本営の移転を企図した未完成の地下壕がいくつも残っており 幼少のころからこれを見聞していたので 日吉の地下壕には以前から関心を持っておりました 専門が土木なので 古いトンネルの構造や工事に興味があります 地下壕に入りましたら 側壁や天井の壁面に縦方向に細やかな筋が無数に浮き出ておりました これはコンクリートを打ち込む際に 設けた木製型枠の隙間なのですね 今では 鉄鋼型枠を使いますから このような筋目は出来ません 松代大本営の地下壕は堅い岩盤を刳り抜いたので コンクリート
の巻き立てはせずに掘りっぱなしです 今でも崩れる心配はありません しかし日吉は土の丘陵ですから 地下を掘ると土が崩れます 工事に苦労したと思いますね このような土質条件では 人一人が入れるくらいの小さな空間を掘って コンクリートの壁を造りながら空間を少しずつ広げて行きます それでも 落盤事故が起きます たぶん多くの犠牲者が出たはずです 昨日の説明では出なかったが 軍需 軍事の事業では 死亡災害は闇に葬られて表には出ません ( 略 ) 私の20 歳年長の従兄が 東京帝国大の電気をでて海軍にはいり 軍令部の情報に所属していました 多分 通信関係の情報将校だったのでしょう 外地に転属する際の 霞が関で面会した叔父たちに向かって 叔父さん この戦争は負けますよ と言ったそうです 彼は トラック島で戦死したので 日吉の地下壕に入ったことはありませんでした 様々な因縁を感じた半日でした ( 略 ) 先の大戦から 70 年 日本人の誰れもがその痕跡を心に抱えて生きてきました トンネルは未だに 闇 の中へと続いています 70 年前 戦争 が残した 2 発の銃弾 父が死んで数年後に遺品を片付けていた時 奇妙な銃弾 2 発を見つけました 父は士官でもなく街の片隅の 和様雑貨商 で 海軍に召集されました 横須賀海兵団から 茅ケ崎の 砲術学校 を出て 木更津航空隊で射手として対空戦闘にあたったと聞いています 同封のメモによると 木更津基地は昭和 20 年春から連日小型機による空襲があったようです 本来なら戦闘機の座乗射手として戦うつもりだったらしいのですが 乗るべき戦闘機は無く で25ミリ高角砲での防戦だったのでしょう この8ミリ弾は明らかに私の一番機銃を攻撃した戦闘機から発射された弾で 私の鉄兜の前庇を削り取り 射撃座の中央に当たったもので やや太いのが曳光弾 左上が普通弾 と書かれていました メモは 昭和 2 0 年 5 月 18 日 P51 戦闘機 ワイルドキャット戦闘機混合編成にて約 150 機のの当日第 1 回空襲 とあります 戦争のことは多く語りませんでした いま 遺品は小生の机の中にあります 感傷的になりがちな歳になっていますが この遺品を息子に伝える機会を待っています 日吉台で地下壕を見た時にしきりに父の事を思いました 地下壕の中央に 連合艦隊司令部 の 長官室 がありました 海軍のシンボルだった 大和 が沖縄に向かったあと その特攻戦の様子は ここで無線を傍受していたと言います モールス信号が途絶えた時 大和は海底に沈みました その 歴史 の場に立つと かすかに覚えている 戦争 の記憶が蘇ります 父が海兵団から任地に赴くのを機会に 鎌倉八幡宮境内 で 面会できるかも と言う手紙で 母と一緒に行ったことがあります 八幡宮の階段の上から 母と必死で探しました 小生は6 歳ぐらいだったと思います 結局逢えずに電車で帰りました 泣いている母を覚えています そうした戦争のかすかな思い出が 何故かこの地下壕のなかで蘇りました 歴史はイマジネーションの世界だ と言っていますが それが忌々しく思いました
地下壕 の中心部分で 保存の会 の若いメンバーから説明を聞きました 戦争の遺構 は歴史的にも残すべきだとの解説に その通りだ とも思った ここで任務を果たした軍令部の将校たちは恐らく戦場の濃密な空気を吸うことなく去ったはずだ 元軍令部一部員 佐薙大佐に会ったことがある 戦後航空幕僚長になった 海軍組織 の取材だったが やはり特攻については 軍令部で作戦を立てた事実はない と言った 日吉台のことは何も語らなかった 今回の 陸にあがった連合艦隊 をテーマにした 地下壕ウォーキング は 歩いた距離は短かったのですが 歴史 の遥か彼方に 新しい世代の存在を実感じた方もいたかもしれません 企画して良かった と思っています 少しばかりセンチな報告になりましたが 何時か皆さんと沖縄の 海軍壕 や 硫黄島の 司令部壕 を訪問できないか考えています 最後に 2 枚の写真を添付させていただきました いずれも小生が撮ったものです 硫黄島 の西海岸で採取した砲弾の破片です 西河岸は 硫黄島 へ米軍が上陸した激戦地です 下を向くと無数の鉄片が散っていました 薬きょうも一面に落ちていました 硫黄島 の陥落時も日吉の地下壕で作戦が錬られ 特攻機が九州から発進していました 硫黄島 は陸軍が防衛主力でしたが 急ごしらえの部隊編成で関東周辺の兵士が多く 小生の友の父も戦死しました 遺骨もありません これと同じ様な鉄片を小生が拾いお墓に納めております
まだ 1 万 3 千柱の遺骨がそのままです 毎年収集されて遺骨は 千鳥ヶ渕 戦没者慰霊所 に納められ ています 写真は 硫黄島 の海上自衛隊基地で写したものです 高角砲と かなたに 擂鉢山 が見えます 昭和 45 年当時に撮影した記憶があります まだ塹壕跡には 火炎放射器 跡がありました 不発弾が多く遺骨収集は危険な作業でした 文責加藤順一 終わります