らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

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2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

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創世記5 創世記2章4節b~25

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

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2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

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そして 11 章の最後には 信仰のゆえに苦しみを受け 拷問を受け 飢えて さまよった人々について書いてありました これらの人々がみな あなたがたにとって励ましを受けるための証人になっているというのがここでの著者の意図です 雲のように とありますが ギリシヤ語では非常に濃くて大きな雲の群を言い表してい

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

創世記5 創世記2章4節b~25

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

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このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

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さい あなたはこのために召され また 多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました Ⅱ テモテ 4:7 私は勇敢に戦い 走るべき道のりを走り終え 信仰を守り通しました これらの箇所では 戦い となっています b. 苦闘 コロサイ 2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと そのほか直接私の顔を見たことの

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

  聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

3 仲介者としての祭司たちが存在していた (2) 新約時代の状態 1すべての信者が まことの聖所に入ることができる * 天の聖所で 神の臨在の前に出ることができる 2これは 万人祭司の教えである 3 訳文の比較 こういうわけですから 兄弟たち 私たちは イエスの血によって 大胆にまことの聖所に入るこ

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

テモテ第二 2 章 1-13 節 キリストの兵士 1A 共にする苦しみ 1-7 1B ゆだねる教え 1-2 2B 立派な務め 3-7 2A イエス キリストの福音 B つながれていない御言葉 B 共に生き 死ぬ 本文 テモテへの手紙第二 2 章を見ていきます 私た

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

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あなたへの 聖書メッセージ ヨハネの福音書 3 章 16 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神は 実に そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された それは御子を信じる者が ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つためである この ヨハネ 3 章 16 節のみことばは 聖書 66 巻の

1 それは キリストにのみ適用される御名である (2) 旧約聖書では 御使いたちは 神の子たち と呼ばれた Job 38:7 そのとき 明けの星々が共に喜び歌い / 神の子たちはみな喜び叫んだ 1 新約聖書では 信者が 神の子たち と呼ばれる ( ヨハ 11:52) 2しかし 御子 ( ヒュイオス


(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

れています ローマの大火事とネロ皇帝による迫害は ペテロの第一の手紙の読者がまもなく体験することであり ペテロもパウロもそのとき殉教していますので 少し長くなりますが タキトゥスの年代記 15 巻 44 章から読んでみたいと思います しかし 人々のあらゆる努力も 皇帝の多大のほどこしも 神々へのなだ

2 神はイスラエルをぶどうの木 ぶどうの実にたとえられました 神に選ばれたイスラエルは 本来その実を結ばせるべき存在でした しかし 聖書は次のように語っています エレミヤ書 2:21 わたしは あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに どうしてあなたは わたしにとって 質の悪い雑種のぶど

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

牧会の祈り

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2 を重んじてきた人たちがいたからでした そういう人たちに対して 自分は宗教に熱心であると思っても つまり 形 を整えることに一生懸命であっても と語りかけているのです 今の私たちに当てはめるならば 洗礼を受けたといっても とか どんなに礼拝を守っているとしても とか あるいは 奉仕を一生懸命やって

牧会の祈り

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牧会の祈り

で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

テモテへの手紙第一 5 章 節 指導の任への尊敬 1A 二重の尊敬 A 監督者への監査 B 公正な裁き B 慎重な按手 B 透明性 本文 テモテへの手紙第一 5 章を開いてください 17 節から読んでいきます 私たちは

Derek Prince Ministries Asia-Pacific THE TEACHING LEGACY OF DEREK PRINCE MINISTRIES ARCHIVE The Battlefield of the Mind - Derek

テサロニケ人への手紙第一 第5回聖書フォーラムキャンプ 基調メッセージ メッセージ 中川健一

B2 神はどのようなお方か 1Chro.29:10-12 Dt.10:12-13 Ps.95:1-7 B3 イエス キリストはどのようなお方か John.14:8-10 Mk.6:31-56 John.10:30-33 Heb.2: John.4:2-3 2John.7-10 B4 三位

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

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このメッセージは 父なる神について考えようとするものである Ⅰ. 聖書が使用する比喩的言葉 1. 神という言葉について (1) ヘブル語でエロヒム ( エル ) ギリシア語でセオス 1 普通名詞 神々を指す言葉である 2 日本語の神も 多くの神々を指す言葉である 3 聖書の神は どういう神かを示す必

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

                 

ヘブル人への手紙1章

2017 年 2 月 5 日 ( 日 ) 6 日 ( 月 ) 22 回 イスラエルに対する戦い (2) イスラエルに対する戦い (2) 黙 12:7~17 1. はじめに (1) キリストの再臨の前に何が起こるかを見ている 110 章 ~14 章は 挿入箇所である * 物語の進展はなく 状況の説明が

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2 イエスは大胆に わたしは道です と言われました イエスが歩まれた道です イエスが示された道です 正しく この人を見よ! です それが聖書の教えです 私たちはこの一年間 幸いなみ言葉を心に覚えて進みたいと願います 今日は この年間聖句から次の2 点を考えてみましょう 大切なポイント 1. 勝利者イ

係ない 私がやりたいことをやる 私の欲望を満たしたいのだと まさに このような人のことがここに記されているのです 先にも言ったように このような人たちはどこの国にもどの時代にも溢れていることを私たちは知っています このような 性的な罪 について話した後 次に 2. 偶像崇拝の罪 20 節 20 節に

比喩:その他

たと聞いて 一緒に集まった 22:35 そして彼らのうちの一人の律法の専門家がイエスを試そうと尋ねた 私が救われるためにどうしたらいいの 教えて -- そういう気持ちがなかったんです 22:36 先生 これも偽善的な態度でした 先生と言う時 結局教えてください どうしたらいいの 知らせて けれどそう

マタイ 25 章 14 節 各自に任された財産 1A 神より与えられている財産 1B 創造の源 2B 信仰の量り 2A 清算の時 1B 永遠の報い 2B 報酬の時 3A 求められていること 1B 心のはかりごと 2B 自分の行程 3B 小さな事への忠実 4B 信じる事 本文 マタイによる福音書 25

2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

《 耕地を開拓せよ 》 羽石兄  ‘05

2008 年 7 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 6 創世記 6 創世記 2 章 4 節 b~25 エデンの園に置かれた人 イントロ : 1. 前回の復習 : ここまでで創造の 7 日間について学んだ (1) カオスからの創造であった (2) 神は 6

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4きょう取り上げる 3~5のパターンは ユダヤ的に解釈する必要がある 5イエス時代のユダヤ教のラビたちの旧約聖書引用法 * 直接引用とその成就 * その箇所の解釈ではなく 適用である * きょうの3~5 のパターンは すべて適用である 6マタイは 5 つの引用によってイエスのメシア性を証明しようとし

黙示録 3 章 7-13 節 忠実な教会 1A 聖なる 真実な方 7 2A 主に知られた行ない 8 3A 報い B 中傷者からの擁護 9 2B 試練の時からの守り 10 3B 冠 11 4B 都での安全 本文 黙示録 3 章 7 節からです フィラデルフィヤにある教会に対する

このメッセージは ヨセフとキリストに起こったことは私たちにも起こることを学ぼうとする ものである Ⅰ. 第 1のステップ正直な性格 (2 節 ) 1. ヨセフは 17 歳 (1) ビルハの子ら ( ダン ナフタリ ) (2) ジルパの子ら ( ガド アシェル ) (3) ヤコブは レアの子ら ( ル

Ⅰ. 管理人の不正の発覚 (1~2 節 ) 1.1 節 a Luk 16:1 イエスは 弟子たちにも こういう話をされた (1) イエスは 弟子たちに話している 1これは 弟子訓練のためのたとえ話である 2 聴衆が誰かを判断することが たとえ話の解釈のために重要である (2) その周りで パリサイ人

さまいイエス様は生きておられる! ふくいんしょしょうふくいんしょしょうふくいんしょマタイによる福音書 28 章とマルコによる福音書 16 章とルカによる福音書 24 章ふくいんしょしょうかはなしさいわヨハネによる福音書 20 章に書かれているお話の再話 しょうと せいしょものがたり ミニ聖書物語 フ

た私の霊が住んでいる大事な住居として用いるようにされており 私であるという強い自意識を持ちながら からだも心も性格もあらゆる特徴も 私らしさという特質を持った者として生かされているのです * それは 後に与えられると言われている霊のからだ 朽ちないからだと表現されている 天に属するよみがえりのからだ

英語の女神 No.21 不定詞 3 学習 POINT 1 次の 2 文を見てください 1 I want this bike. ワント ほっ want ほしい 欲する 2 I want to use this bike. 1は 私はこの自転車がほしい という英文です 2は I want のあとに to

箴言 1-3 章 知恵の初め 1A 父の訓戒 1 1B 知恵の習得 1-7 2B 避けるべき罪人の道 B 知恵への呼びかけ A 守られる道 2 1B 知恵の探り求め B 悪の道からの救い A 長い命と平安 1B 御教えの留意 B 富より

ヨハネの福音書講解 ヨハネの福音 ヨハネの福音書 21:15~25 1. 愛する 新改訳改訂第 3 版 ヨハネ 21:15 彼らが食事を済ませたとき イエスはシモン ペテロに言われた ヨハネの子シモン あなたは この人たち以上に わたしを愛しますか ペテロはイエスに言った はい 主よ 私があなたを愛

マタイ 10 章 39 節 失うから見出す命 1A 天の御国と闇の国 1B 狼の中の羊 2B 主人の受けた仕打ち 3B キリストの告白 2A 平和でなく剣 1B 家族関係 2B 社会関係 3B 自己実現 3A 自己中心な社会 1B 自分探し の援助活動 2B 自分探し の弟子活動 3B 探せば失う原

6ユダヤ人は 人種的 宗教的理由によって サマリヤ人を軽蔑した * ユダヤの格言 私の目が サマリヤ人を見ることがないように 7サマリヤ人も ユダヤ人を軽蔑し 敵対した * ユダヤ人がエルサレムから下ることは許したが 上ることは許さなかった 8 現代もサマリヤ人の子孫たちが存在している ( 千名以下

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2016/10/23 礼拝メッセージ成田宜庸長老 主題 : 霊の父の懲らしめ聖書箇所 : ヘブル人への手紙 12 章 5-11 節 きょうは皆さんとともにヘブル 12:5-11 を学んで行きたいと思います 前回 私たちはこの 12:1-4 をともに学び 私たちを愛して忠実に従われたイエス キリストのことを見ました 1 イエス キリストの十字架 a. 罪人たちの反抗 12:2 に イエスは ご自分の前に置かれた喜びのゆえに はずかしめをものともせずに十字架を忍び と書かれています みことばが教えるように イエス キリストの十字架は罪人たちの 反抗 でした 反抗 というギリシャ語の意味する所は 敵意 です この 反抗 の頂点があの十字架でした マタイはマタイ 16:21 にイエス キリストのことばとして私は十字架に架かる このような受難の予告を記しています また マタイ 27 章には人々のさまざまな 反抗 のことを記しています b. だれのためにあの十字架はだれのためにあったのか パウロはローマ 5:8-10 で しかし私たちがまだ罪人であったとき キリストが私たちのために死んでくださったことにより 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます ですから 今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが 彼によって神の怒りから救われるのは なおさらのことです もし敵であった私たちが 御子の死によって神と和解させられたのなら 和解させられた私たちが 彼のいのちによって救いにあずかるのは なおさらのことです と述べています イエス キリストは私たち罪人のためにあの十字架を忍ばれ イエス キリストは私たち罪人のためにあの十字架で血を流されたのです 2 私たちの信仰における戦い著者はまた 4 節で私たちの信仰における戦いについても書き記しています 救われた者 キリスト者となった者たちにもさまざまな戦いがあります それは内なる戦いであったり 外なる戦いです 内なる戦いは内に潜む罪と肉の欲との戦いです それは皆さんがよくご存じです パウロはローマ 7: 19 で自分のことを 私は 自分でしたいと思う善を行わないで かえって したくない悪を行っています と言っています こういう戦いが実際に私たちの内にある これは現実のことです また私たちには外なる戦いもあります それは外から来る迫害や困難 苦しみです Ⅱ テモテ 3:1 2 で 確かに キリスト イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな 迫害を受けます とパウロは述べています 私たちには内なる戦い 外なる戦いがあります 著者はここで しかし 私たちクリスチャンはこの戦いでまだ血を流したことがありませんと教えています ヘブル書の著者は あなたがたはまだ 罪と戦って 血を流すまで抵抗したことがありません と 12:4 で述べています 私たちはいのちが取られるような局面にまだ出会っていないと教えます 私たちを愛するがゆえに 神は私たちを懲らしめられるそして きょう私たちは 5-11 節を通して 神が 主が私たちをどのように取り扱おうとしているのかを一緒に学んで行きたいと思います 私たちを取り扱う私たちのお父様の根本をなすものは愛です 私たちを愛するゆえにお父様は私たちを懲らしめられるとこの後教えています きょうこの箇所で一番大切なことばを最初に学んで行きたいと思います それは 懲らしめ ということばです これはギリシャ語で パイデイア ということばが使われているのですが 訓練 とか 有益な訓練 教育的な訓練 という意味です 当時のユダヤ教において 父親は子どもたちを訓練して子どもたちによい振る舞いを教えるという役目がありました 父親はその訓練の手段の一つとして 子どもをむち打つことも認められていました この 懲らしめ には二つの面があります 一つは 矯正する ということです 誤り あるいは欠点を正して直すことです そしてもう一つの面は 罰を加える 懲罰 という面です 懲らしめ ということばを日本語の辞書で引くと ほとんどの説明は 懲罰 に関してです 矯正する という説明をしているものは私が調べた中にはありませんでした この 懲らしめ に使われているギリシャ語は ほかの聖書の箇所では違う日本語に訳されています エペソ 6:4 父たちよ あなたがたも 子どもをおこらせてはいけません かえって 主の教育と訓戒によって育てなさい ここに使われている 訓戒 ということばが同じことばです また Ⅱ テモテ 3:16 聖書はすべて 神の霊感によるもので 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です の 訓練 に 懲

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があなたを訓練されることを 知らなければならない で同じことばが使われています この 懲らしめ ということばは 確かに 矯正 と 懲罰 という二つの面があるのですが これから私たちが見て行く 懲らしめ ということばの持つ意味は 矯正する 訓練する という意味合いのことばとして使われています A. 懲らしめの動機 1. 主は愛する者を懲らしめられる 5-6 節まず最初に この霊の父の 懲らしめ の動機を考えてみたいと思います 5-6 節をお読みします そして あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています わが子よ 主の懲らしめを軽んじてはならない 主に責められて弱り果ててはならない 主はその愛する者を懲らしめ 受け入れるすべての子に むちを加えられるからである あなたがたはこの主のことばを忘れていませんかと言って著者は箴言 3:11-12 を引用しています 主はその愛する者を懲らしめ られる これが霊の父の 懲らしめ の動機です 1) 励ましとして 5 節 5 節に この勧めを忘れています と 勧め ということばは パラクレーシス というギリシャ語が使われています このことばには 励ます という意味もあります 恐らくこの パラクレーシス ということばを聞いた時 皆さんはある箇所を思い出したかもしれません それはヨハネ 14:16 で天のお父様はあなたがたにもうひとりの助け主を送ってくださると言われたイエス様のことばです 助け主 それは パラクレートス というギリシャ語が使われていて 励ます者 あるいは 協力者 支持者 助言者 力づける者 という意味のことばです 勧め は 励ます です だからこの励ましを忘れていませんかと著者は私たちに問いかけるわけです わが子よ これはすべてのキリスト者に対する呼びかけです 主の懲らしめを軽んじてはならない の 軽んじ るということばの意味は 矮小化する 小さくする あるいは つまらないものとして扱う です 主の懲らしめをつまらないものとして扱ってはだめだとここで教えているのです 私たち ひとりひとり自分のことを考えてみると もともとこの 懲らしめ というのは喜ばしいものではありません むしろ 懲らしめ はない方がいいと思っているものです 自分の身にその 懲らしめ が及んだ時 その 懲らしめ を非常に軽く扱い またそれによって私たちはすぐ元気を失ってしまうもので その 懲らしめ を受けることを その 懲らしめ の大切さを認めたくない そういうものであります 2) 愛から生じるものとして 6 節そして 6 節 主はその愛する者を懲らしめ 私たちが受ける主の 懲らしめ は 愛 と結びついたものです 愛 から生じる 懲らしめ は懲罰的なものではありません それは常に子どもにとっては有益なことです むちを加え ると書かれています 過ち 正しくないことを矯正するということです 先ほども言いましたように 当時ユダヤ教では父親が子を懲らしめる 矯正するために むちを加え ることをも認められていました B. 懲らしめの目的そしてこの後 7-11 節で著者は 引用した箴言 3:11-12 について霊の父の 懲らしめ とはどういうものであるのかを私たちに詳しく教えてくれています :7 訓練と思って耐え忍びなさい 神はあなたがたを子として扱っておられるのです 父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか :8 もしあなたがたが だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば 私生子であって ほんとうの子ではないのです :9 さらにまた 私たちには肉の父がいて 私たちを懲らしめたのですが しかも私たちは彼らを敬ったのであれば なおさらのこと 私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか :10 なぜなら 肉の父親は 短い期間 自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが 霊の父は 私たちの益のため 私たちをご自分の聖さにあずからせようとして 懲らしめるのです :11 すべての懲らしめは そのときは喜ばしいものではなく かえって悲しく思われるものですが 後になると これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます 1. 肉の父の懲らしめ 9-10 節今読んだところからふたりの 懲らしめ を見ることができます ひとりは肉の父の 懲らしめ です 実際に私たち父親のことです 親の権威は 2000 年前の時代にあっても 現代にあっても 社会にお

いては権威の縮図であります ここでみことばはその肉の父の 懲らしめ がどういうものであるのか教えています 1) 短い期間一つは 10 節に 短い期間 と書かれています これは時間的なことです 今世界で一番長く生きている方でも 115 歳か 116 歳です 私たち人間が生きる寿命というのはそのくらいです また親として子どもに親権を発揮できる時間は非常に短いものです その短い期間だけ肉の父親は子を 懲らしめ るということです 2) 自分が良いと思うままにまた 自分が良いと思うままに とあります このみことばから教えられることは 肉の父親の動機が自己的だということです それはどういうことかと言いますと 親の知識や経験に基づいて 自分がよいと思ったことを 懲らしめ の動機にしているということです だからこの 懲らしめ には時として間違いがあります 過ちがあるのです 肉の父の 懲らしめ は子どもにとって有益でないこと 最良でないことがあるのです それは親の知識や経験だけに基づいて与える 懲らしめ だからです 2. 霊の父の懲らしめ 7-11 節 1) 霊的親子の関係 (1) 自分の子として 7-11 節もうひとりは 霊の父 です まず 霊の父 の 懲らしめ は子どもとの関係において霊的な親子の関係です 7 節を見ると 神はあなたがたを子として扱っておられるのです 8 節 だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば 私生子であって ほんとうの子ではないのです とあります 霊の父 が与える 懲らしめ は 霊の父 が子どもとして扱ってくれる者だけに与えられるものです ヨハネはヨハネ 1:12 で この方を受け入れた人々 すなわち その名を信じた人々には 神の子どもとされる特権をお与えになった と書き記しています イエス様を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった その子どもだけが 霊の父 の 懲らしめ を受けることが可能となったということです (2) 子に対する訓練である 7 節そして 7 節 訓練と思って耐え忍びなさい この 霊の父 の 懲らしめ は子に対する 訓練 です ここに書かれている 訓練 ということばは この 懲らしめ と同じギリシャ語が使われています 日本語では 訓練 と訳されていますが 内容は 懲らしめ と同じです そして 訓練と思って耐え忍びなさい 懲らしめ と思って耐え忍びなさい この 耐え忍 ぶですが 前回あの十字架を耐え忍んだひとりの方を見ました まさに著者はそのことを受けて イエス キリストが忍ばれたように忍耐を持ってこの訓練を受け入れなさいと勧めるのです 当時は子を 懲らしめ ることを軽く見る そのような父親はその資格が不十分な者として見られていました だから子を 懲らしめ る その親の権威を持って 懲らしめ ない父親は周りからその資格が不十分な者と見られていました また 親の 懲らしめ から逃げようとする子はその身分を失うこともありました だからこの当時の親子関係からしても 親が子を懲らしめる 子が親の懲らしめを受ける それは大切な教えでした そのことを受けてこの著者は 霊の父 なる方は子として扱っている者にこの 懲らしめ を与えられると教えているわけです 2) 霊の父に服従すべき 9 節二つ目はこの 霊の父 の 懲らしめ は 霊の父 に服従することを教えるものであるということです 9 節 私たちには肉の父がいて 私たちを懲らしめたのですが しかも私たちは彼らを敬ったのであれば なおさらのこと 私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか とあります 私たちもよくわかるのです 私の父が私を懲らしめる 正しい方向に導いてくれる そういう父親を私たちは尊敬します みことばはそのことをもって なおさらのこと と 霊の父 の 懲らしめ のことを解いているわけです ここで 霊の父 という非常に珍しい使い方をされています まさに神 主はキリスト者の霊的なお父さんである この 霊の父 と使われているのは新約ではここだけです 英語の聖書ではどういうふうに書かれているか調べてみると the father of our spirits and live と書かれていました 英語の方が少しわかりやすいのかなと思ったのですが 霊の父 の 懲らしめ によって私たちキリスト者がより霊的な者へと変えられる時 その生活こそ私たちの本質的なもの 真実のものであるということです だから キリスト者は神をうやまい服従して生きることが自身の信仰において唯一の道であるとみことばは教えるわけです ヨハネは Ⅰ ヨハネ 5:3 で 神を愛するとは 神の命令を守ることです と教えています 神を愛するとは神に従うことだとヨハネは言います ヤコブもヤコブ 4:6-7 で しかし 神は さらに豊かな恵みを与えてくださいます ですから こう言われています 神は 高ぶる者を退け へりくだる者に恵みをお授け

になる ですから 神に従いなさい と教えています 霊の父 の 懲らしめ は霊的な親子関係にある者に訓練として与えられる またその 懲らしめ はお父様に服従することを教えるものであると 3) 霊の父は私たちのために 10-11 節そして三つ目は その 霊の父 の 懲らしめ は私たちのために与えられるものであるということです 肉の父の 懲らしめ は肉の父が自分の思うままに子どもに与えるものでした だから時には 子どもにとって最良でない 最善でない 懲らしめ もあるわけですが 霊の父 の 懲らしめ は私たちキリスト者にとって 最善 最良 最高のものです それが 10-11 節で書かれています 神は私たちキリスト者が成長するためにどんな 懲らしめ が必要で どんな試練が必要なのかをすべて完全に知っておられます ヤコブはヤコブ 1:2-4 で 私の兄弟たち さまざまな試練に会うときは それをこの上もない喜びと思いなさい 信仰がためされると忍耐が生じるということを あなたがたは知っているからです その忍耐を完全に働かせなさい そうすれば あなたがたは 何一つ欠けたところのない 成長を遂げた 完全な者となります 霊的な大人になるとここで教えています (1) キリスト者の益のために 10 節まずこの 霊の父 の 懲らしめ は私たちの益のために与えられるものだとみことばは教えます 1 0 節 霊の父は 私たちの益のため 懲らしめるのです 私たちが霊的に成長するために お父様は私たちを懲らしめられる 神を愛する人々 すなわち 神のご計画に従って召された人々のためには 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを 私たちは知っています パウロはローマ 8:28 でこのように教えます 頭で知っているのではなく 体験的に知っているとパウロは言います 霊の父 の 懲らしめ は私たちの益のために与えられるものであると 1 他の人の苦しみをも分かち合える者へとその中身を少し見てみたいと思うのですが 一つ目は他の人の苦しみをも分かち合える者へと私たちが造り変えられて行くということです 苦しんでいる人の苦しみがわかるということです それも心から Ⅱ コリント 1:4 で 神は どのような苦しみのときにも 私たちを慰めてくださいます こうして 私たちも 自分自身が神から受ける慰めによって どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです 私たちは周りにいる苦しみにある人の苦しみを分かち合うことができる者として成長するために 霊の父 の 懲らしめ があるということです 2 永遠の栄光を待ち望む者へとまた 私たちを霊的に成長させる このような 懲らしめ は私たちクリスチャンを永遠の栄光を待ち望む者へと変え続ける働きをも私たちのうちになすということです 今の時の軽い患難は 私たちのうちに働いて 測り知れない 重い永遠の栄光をもたらすからです Ⅱ コリント 4:17 です このように 霊の父 の 懲らしめ は私たちキリスト者の益のために 霊的成長のために与えられるものだとみことばは教えます (2) きよい者とするために 10 節そして二つ目 それは私たちをきよい者とするために与えられるものだと 10 節に 私たちをご自分の聖さにあずからせようとして 懲らしめるのです とあります ペテロは Ⅰ ペテロ 1:15-16 で あなたがたを召してくださった聖なる方にならって あなたがた自身も あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい それは わたしが聖であるから あなたがたも 聖でなければならない と書いてあるからです と書き記しています きよい者となるために 霊の父 は私たちを 懲らしめ られる こうみことばは教えます 神が私たちを召されたのは 汚れを行わせるためではなく 聖潔を得させるためです Ⅰ テサロニケ 4:7 です 神が私たちを救いへと導いてくださったのは 汚れを行わせるためではなく 聖潔を得させるためです と (3) よりキリストに似た者へと 聖化 11 節そして三つ目は 私たちをよりキリストに似た者へと変えるために 霊の父 は私たちに 懲らしめ を与えられるということです 11 節 すべての懲らしめは そのときは喜ばしいものではなく かえって悲しく思われるものですが 後になると これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます とあります 確かに私たちはよくわかるのです 私たちが実際に 懲らしめ に遭っている時 それは苦痛を伴います だから悲しく思う ペテロもパウロもそのことを私たちに教えています しかし そのような 霊の父 の 懲らしめ は 後になると これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます ここで使われている 訓練 ということばは 7 節の 訓練 と違うことばが使われています この 11 節の 訓練 はギムナゾーというギリシャ語が使われているのですが それはトレーニングするということです 英語のギムナジウム いわゆる体育館とか屋内競技場ということばはこのギムナゾーということばからできたと言われています 7 節の 訓練 は 懲らしめ る 11 節の 訓練 は トレーニングする という意味です だから 懲らしめ によってトレーニングされた人々に 後になると 平安な義の実を結

ばせます となります この 平安な義の実を結ばせます というのは 英語の聖書では produces a harbest of righteousness and peace. と書かれていました この英語を訳すと 正義と平安はその収穫を生み出します あるいは もたらします となります 何がかというと 懲らしめ がです その 懲らしめ によってトレーニングを受けた者たちのうちに正義と平和の収穫を生み出しますとみことばは教えています この 生み出す もたらす という表現は 農夫が果物を刈り込みしたことによって一層よりよい実を結ぶという原則を用いたことばです そのことをヨハネの福音書から教えられます ヨハネ 15: 2 でこう書かれています イエス様が語られたことばです わたしの枝で実を結ばないものはみな 父がそれを取り除き 実を結ぶものはみな もっと多く実を結ぶために 刈り込みをなさいます 私たちに与えられる主の 懲らしめ はまさにこの 刈り込み なのです 私たちに与えられる主の 懲らしめ は私たちを 刈り込 む働きをなすものです だから私たちはその 刈り込み によって 多く実を結ぶ 者となって行くということです 私たちはきょうこのヤコブ 12:5-11 で 非常に大切なことを教えられました それは私たちのお父様 霊の父 が私たちに与える 懲らしめ はお父様の愛が動機であるということ その愛ゆえに私たちにその 懲らしめ が与えられるということです その 懲らしめ の意味するところは 私たちがまさに天のお父様の子どもであるという証明です みことばははっきりとそう教えています 二つ目は天のお父様の 懲らしめ は私たちが主に服従する訓練のために与えられるものだということです そして三つ目 この 懲らしめ は私たちが霊的に成長して聖い者となり またよりイエス キリストに似た者へと変えられるために私たちに与えられるということです 箴言 3:11-12 を引用してこの箇所が進んで行ったわけですが この箴言 3 章をもう一回見てみたいと思います わが子よ 主の懲らしめを軽んじてはならない それは私たちが霊的な成長を遂げて行くために必要なことだからです みことばは私たちに主の 懲らしめ をしっかりと受け止めるようにと教えています