説教聖日礼拝北浜チャーチ黒田禎一郎 1 2015 年 4 月 12 日 ( 日 ) 主題 : 目を離さない信仰 -イエスの道を見るーテキスト : ヘブル人への手紙 12 章 2 節 はじめに 2015 年度の北浜チャーチの 年間聖句 は ヘブル人への手紙 12 章 2 節です 信仰の創始者であり 完成者である信仰の創始者であり 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい 1. 信仰 とはいったい何でしょうか? 私は常に 信仰は信頼することである と 語ってきました しかし 確信していることを信頼することです しかし 何を信頼するかが問題です よく 宗教は怖い と言われます イスラム教過激派組織集団であるイスラム国 アルカイダ ボコ ハラム 日本では地下鉄サリン事件を起こしたオ ム真理教 また人々を洗脳する多くの異端宗教などがあります これらの宗教信者はみな 信じ込んでいます そして不思議なことに 今もなお これらの組織 集団に加わろうとする人たちが 後を絶たないことです 彼らは確信し 信じ込んでいるのです 間違った教えを信じる確信 それは危険です 2. それでは 聖書は何を教えているでしょうか? 信仰の創始者であり 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい 聖書は イエス キリストに目を留めることを教えています イエスに目を留めるとは どういうことでしょうか なぜ イエスに目を留める必要があるのでしょうか そこに真の救いがあり 闘いに勝利する道があるからです 新改訳聖書は 目を離さないでいなさい 目を離さないでいなさい と訳しています 英訳聖書は fix your eyes on Jesus( イエスに目をしっかりと留めなさい ) です 次の三つの日本語訳聖書を読んでみましょう 12:2 信仰の導き手であり またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ 走ろうではないか 口語訳 12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら 新共同訳 12:2 信仰の創始者であり 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい 新改訳 ここの動詞が 仰ぎみつつ 見つめながら 目を離さないでいなさい と訳されていることが分かります 皆さん イエスから目を離さないでいなさい イエスから目を離さないでいなさい とありますから 木に刻まれたイエス像や イエスの聖画や 壁に掛けられたイエス像の十字架像を 見つづけるという意味ではありません それらは助けになりますが そういう意味ではありません 原語は aphorao ( アフォラオ ) ap: 道 horao: 見るです すなわち ある目的のために道を見ること を示しています イエスに目を留める とは 助けを得る目的のために 道を見る という意味です イエスは言われた わたしが言われた わたしが道であり 真理であり いのちなのです わたしを通してでなければ だれひとり父のみもとに来ることはありません ( ヨハネ 14:6)
2 イエスは大胆に わたしは道です と言われました イエスが歩まれた道です イエスが示された道です 正しく この人を見よ! です それが聖書の教えです 私たちはこの一年間 幸いなみ言葉を心に覚えて進みたいと願います 今日は この年間聖句から次の2 点を考えてみましょう 大切なポイント 1. 勝利者イエス キリストを見る 1) イエスは信仰の創始者である イエスは世界が造られた前からおられるお方です 創始者(archegos: アルケゴス ) とは 創立者 導く人 (captain,leader), 創設者 ( 源 ) という意味があります 世界創造の始まりからおられた方が 人の姿をとって現れました そして約 3 年半の公生涯を通し 多くの わざ 不思議 しゅるし を行われました そして信仰とは どんなものかを現わされました イエス キリストの生涯のクライマック それは十字架にかかられた週( 受難週 ) です 受難週のイエスの 生き方 こそ 信仰とはどんなものかを教えてくれます エルサレムの都に入城されたイエスは 群衆から 棕櫚の枝 を振って大歓迎を受けました ホサナ! と言って 歓迎の言葉を受けました しかし その週に何が起こったのでしょうか? 宮清め : 祈りの家を商売の巣としていた ( 悪に対する態度 ) 愛弟子ユダの裏切り : どんなに心痛められただろうか最後の晩餐 : 別れの食事 聖餐式の型となるゲッセマネの園の祈り : 汗を血のしたたりのように流し祈られた祭司長 律法学者たちの陰謀 : 権力者の罠 皆さん イエスはこれら全てを 従順に受け留められました 信仰とは 何かを教えてくれます 確かに イエスは信仰の創始者です イエスにこそ見習うべき信仰の源があります イエスは信仰の創始者です 2) イエスは信仰の完成者 もう一点 イエスは人として全きお方でした それは謙遜と慎みに満ち 父なる神に最後まで従順でした ピリピ人への手紙 2 章 2:8 キリストは人としての性質をもって現れ 自分を卑しくし 死にまで従い 実に十字架の死まで従われたのです 大祭司の前でも 父なる神に全き従順を示されたお方でした イエスは信仰の目標( ゴール ) を満たされたお方です 神は信仰の完成者として 私たちの前にイエス キリストを遣わされました パウロは次のように言いました ピリピ人への手紙 1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は キリスト イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです イエスこそ 信仰の最高峰である十字架の死に至るまで 父なる神に従順でした 完成者 teleiotes ( テレイオテス ) とは 目標 ( ゴール ) に至る完成を意味します へブル人への手紙には次のように書かれています 5:14 しかし 堅い食物はおとなの物であって 経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です ここで使われている おとな という語が 完成者という teleiotes ( テレイオテス ) です 信仰の完成者 とは 確かに私たちの目標です 良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人 のことです 私たちはキリストの内に テレイオテスである完成を見ることができます 聖書はこう語ります
3 エペソ人への手紙 2:10 私たちは神の作品であって 良い行ないをするためにキリスト イエスにあって造られたのです 私たちは神の作品であって 良い行いをするために造られた存在であります ですから神の救いに預かるとは それは神から贈物です 恵みのみわざを始めてくださったお方は 決して中途半端に終わらせる方ではありません ですから 神に救われたキリスト者は 神の作品として完成 ( 目標 ) へ近づく歩みをする者です * したがって イエス キリストを見上げることは大切です 2015 年 私たちは日々の生活において 信仰の創始者であり完成者であるイエスを見上げる生活をしたいと願います 2. イエス キリストの道を見る 1) イエスは模範を示された イエス キリストは 信仰の完成者として私たちに模範を現わされました へブル人への手紙は さらに次のように語ります 12:2 イエスは御自分の前に置かれた喜びのゆえに はずかしめをものともせずに十字架を忍び 神の右に着座されました 私たちは日々の生活で 心を静め 黙想する時 自分の信仰がどれほど働いているかを考えることができます 苦しみ 苦難 試練 痛み 誤解 軽蔑など 私たちの生活には試みがあります しかし やがて天の御国に入る時 それらのものから全て解放されます 今の生活は旅人のような歩みです イエスは御自分の前に置かれた喜びのゆえに はずかしめをものともせずに十字架を忍び 神の右に着座されました ここに 私たちが習うことができる 生き方 があります では どこで イエスの歩まれた道を見ることができるでしょうか 3 点 2) イエスにお会いする場 1 主との交わりの中で 私たちは心を静め黙想する中で イエスを見ることができます 目に見えないお方を見ること それが信仰です 嵐に出会ったペテロは 湖上を歩いたイエスを幽霊だと思いました そして 自分もそこに行かせてくださいと願いました しかし強風 ( 波 ) を見て 恐くなり沈みかけ始めました その時彼は 主よ 主よ 助けてください 助けてください と叫びました マタイ福音書 14 章 14:31 そこで イエスはすぐに手を伸ばして 彼をつかんで言われた 信仰の薄い人だな なぜ疑うのか 14:32 そして ふたりが舟に乗り移ると 風がやんだ イエスがペテロをつかみ 舟に入られた時 本当の意味でイエスの前での信仰を学びました そこで主イエスとの交わりが始まりました 2 みことばの中で 主はみことばを通し 私たちにお語りくださいます みことば( 聖書 ) は 今も生きて働いてくださいます 疲れた者には力を 悲しむ者には慰めを 勇気を失っている者には励ましを与えてくださいます みことばの中に 主は生きておられるからです
4 私たちが 心静めて聖書を読むならば 聖霊が働いてくださいます 神のことばに 神の御霊が働いてくださり 私たちにお語りくださいます そして そこはイエスにお出会いする場となるのです 3 主の臨在の中で 神は死んだ神ではありません 死んだ者と交わりを持つお方ではなく 今生きる者にお語りくださる方です イエスを信じる者には どんな誘惑が襲ってこようと 信仰の試練がやってこようと どんな場合においても 主はご臨在くださる方です ヨハネ福音書 1:16 私たちはみな この方の満ち満ちた豊かさの中から 恵みの上にさらに恵みを受けたのである 復活されたイエスがおられる場にいるならば 主を見るのです イエスはある時 ペテロ ヤコブ ヨハネの3 人の弟子を連れて山に登られました すると不思議なことが起こりました マタイ福音書 17:2 そして彼らの目の前で 御姿が変わり 御顔は太陽のように輝き 御衣は光のように白くなった その時の様子が次のように書かれています 17:3 しかも モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか 17:4 すると ペテロが口出ししてイエスに言った 先生 私たちがここにいることは すばらしいことです もし およろしければ 私が ここに三つの幕屋を造ります あなたのために一つ モーセのために一つ エリヤのために一つ 17:5 彼がまだ話している間に 見よ 光り輝く雲がその人々を包み そして 雲の中から これは わたしの愛する子 わたしはこれを喜ぶ 彼の言うことを聞きなさい という声がした 17:6 弟子たちは この声を聞くと ひれ伏して非常にこわがった 17:7 すると イエスが来られて 彼らに手を触れ 起きなさい こわがることはない と言われた 17:8 それで 彼らが目を上げて見ると を上げて見ると だれもいなくて ただイエスおひとりだけであった * 主の臨在に触れるとは このようなことです 信仰の創始者であり 完成者であるイエスに目を留める 生き方 それはイエスの歩まれた道を見ることです それが 目を留める という意味です 信仰の創始者であり 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい この聖句は イエスを仰ぎ見て ( 口語訳 ) イエスを見つめながら ( 新共同訳 ) とも訳せます 2015 年 私たちはこの イエスを仰ぎ見て イエスを見つめながら そしてイエスに目を留めて歩もうではありませんか この一年間 イエスの道を見る者とさせていただこうではありませんか
5 まとめテーマ : 目を離さない信仰 -イエスの道を見るー 今日 私たちは年間聖句から学びました 信仰の創始者であり 完成者であるイエスから目を離さないでいイエスから目を離さないでいなさい なさい イエスから目を離さないでいなさい なさい とは 24 時間 いつも目を留めることではありません 道を見る という意味です( 原意 ) どうすれば 道を見る ことができるでしょうか 1. 主イエスとの交わりの中で 2. 神のみことばの中で 3. 主イエスの臨在の中で * God bless you!