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Transcription:

明治能楽小史 主として東京の役者の動向および能楽社の流れについて 小林責 Zusammenfassung Kobayashi Seki: Eine kleine Geschichte des Meiji-zeitlichen Nô anhand von Schauspielerbiographien der Tôkyôter Schulen Die Meiji-Zeit markiert die schwerste Krise in der Geschichte des Nô-Theaters. Während der ungefähr 250 Jahre andauernden Edo-Zeit zur Zeremonialkunst der Kriegerklasse avanciert, sieht sich das Theater mit Beginn der Meiji-Restauration mit dem Entzug seiner institutionellen Grundlage und dem daraus resultierenden Wegfall seiner finanziellen Basis konfrontiert. Im vorliegenden Artikel wird die Geschichte des Nô während der Meiji-Zeit in zeitlicher Abfolge dargestellt: vom Zusammenbruch über den zunehmenden Aufwärtstrend bis zur Entfaltung zu neuer Blüte. Zuerst werden die Aktivitäten der tayû (Leiter) der fünf shite- (Hauptspieler-) Schulen, sowie von Umewaka Minoru I. (Kanze-Schule, tsure-za) während der Phase des Zusammenbruchs dargestellt. Daran anschließend folgen Ausführungen zur Neubelebung des Nô, welche mit der von Iwakura Tomomi im Jahr 1876 organisierten Nô-Aufführung vor dem Tennô beginnt. Darüber hinaus werden der Aufstieg von Umewaka Minoru, dem Organisator der Aufführung im Aoyama-Palast, sowie die Gründung der Gesellschaft für Nô-Theater (Nôgaku-sha; später Nôgaku-dô bzw. Nôgaku-kai) 1881, die sich die Protektion und Unterstützung des Nô zum Ziel setzte, dargelegt. Die Zeit des einsetzenden Aufwärtstrends kann mit dem Tod Iwakuras 1883 angesetzt werden, ist allerdings auch mit finanziellen Schwierigkeiten der Nôgaku-sha verbunden. Nach der Überwindung dieser Schwierigkeiten, beginnt jedoch eine neue Blütephase des Nô. In dieser Zeit sind neben den Subventionen der Musiker (hayashi-kata) durch Ikenouchi Nobuyoshi die Publikation von Nôgaku, der ersten Fachzeitschrift des Nô, wie auch die für die weitere Nô-Forschung bahnbrechende Veröffentlichung der Traktate Zeamis von großer Bedeutung. Hôshô Kurô XVI sowie Umewaka Minoru I. sind die zentralen Figuren des Nô in der Meiji-Zeit. Beide förderten den Schauspieler-Nachwuchs und trugen wesentlich dazu bei, daß sich das Nô der Taishô- und Shôwa-Zeit zu einer faszinierenden Kunst entwickeln konnte. (Übersetzt von Eike Großmann) 185 197

186 小林責 Ⅰ 衰微期 明治維新は能楽史上最大の危機であった 江戸時代 250 余年 能楽 1 の役者は身分制度上 士農工商 の最上階である 士 つまり武士階級に属し 身分と俸給を世襲し 安定した生活を送っていた それが明治維新によって一挙に崩れたのである 江戸時代を通じ演能集団として存続してきた観世 金春 宝生 金剛 喜多の 5 座それぞれの統轄者であった大夫の明治維新時の対応を見てみよう 観世大夫清孝は 長年保護を受けた幕府に義理立てし 将軍から駿河 70 万石の領主に落とされた徳川宗家に従って静岡へ下って苦労した 宝生大夫九郎 2 は 新政府の家臣となったが ほどなく士族から平民籍に転じて商売を営んで失敗し 東京北郊の板橋で農業に従事した 金春大夫広成 ( ひろしげ ) は知行地のあった奈良へ移住したが 領内に発行していた金春札 ( こんぱるさつ 紙幣 ) の兌換 ( だかん ) のため面 装束など財産一切を手放し困窮した 喜多当主 3 の六平太能静 ( のうせい ) は 1869( 明治 2) 年 5 月に没し あとを継いだ婿養子の勝吉は生活苦から面 装束を手放し 1872 年には妻と離婚して しばらく喜多宗家は中絶する 大夫たちでさえこうした有様であったから 他のシテ方や三役 ( ワキ方 囃子方 狂言方 ) たちも ほとんどが日々の生活さえ立てかね 廃業する者も多かった ただ 金剛大夫唯一 ( ゆいいち ) だけは息子の泰一郎 ( たいいちろう ) らとともに芝飯倉の旧来の稽古用の舞台で公開の能を演じていた 明治維新当時滞日していたイギリスの外交官であるアーネスト M サトウは 1868 年 12 月ごろに金剛能舞台で能や狂言を見ており 観客は侍階級の者ばかりだったと書いている 4 金剛能舞台はその後も 1872 年 8 月には日数能を催すなど 継続的に能興行を続けている 明治維新後に能楽を衰微させなかった功労者として 金剛唯一のほかにもう一人 梅若実 5 を挙げなければならない 梅若家は江戸時代には観世座のツレ家 ( 翁 上演のとき千歳 せんざい を勤める座内の名家 ) であった 明治維新に際し朝臣願いを出して江戸に留まり 浅草 1 能と狂言は 1881( 明治 14) 年の 能楽社 が設立されるまでは 猿楽 と通称されてきたが 本稿では 1881 年以前の記述にも今日の呼称である 能楽 を用いていく 2 九郎 は宝生宗家の世襲の通称で 明治維新に会ったのは 16 世九郎知栄 ( ともはる ) であるが 本稿には他の九郎は現われないので ただ 宝生九郎 あるいは 九郎 と書いていく 3 喜多座の統領は 大夫 と称されなかった 喜多座が成立時以来 金剛座の分流として扱われたためであろうか 4 Ernest M. SATOW: A Diplomat in Japan 一外交官の見た明治維新 ( 下 ) 1960 昭和 35 岩波文庫 5 梅若宗家の世襲通称は 六郎 で この梅若実は 52 世六郎であり 1872 年 9 月に隠居名の 実 を名のっており また後年 次男 54 世六郎も隠居名として 2 世実を名のっているので 正確には初世実とすべきであるが 本稿では ほとんど 2 世実の名は現われないので ただ 梅若実 あるいは 実 と書いていく

明治能楽小史 187 南元町の自邸に 1865( 慶応元 ) 年 4 月に作った本舞台 2 間四方 橋掛リ 1 間半の小寸法かつ粗末な敷舞台で装束を着けない袴能など略式能を演じていたが 1871 年 11 月に元大名である青山下野守 ( しもつけのかみ ) の屋敷にあった舞台を買い受け それを自邸に移築した 本格舞台は持つことができたが 費用に 500 円を要した この借金返済の必要もあり 梅若実は 1872 年 73 年 74 年にそれぞれ 10 日間の日数能を催し 初回には 3 月 14 日付の 東京日日新聞 に新聞に掲載した最初の能楽広告記事を出し 東京中心部六ヵ所に広告札を立てるなど宣伝に努めた その効あって 初回は相当の利益を揚げることができ 同時に能楽の健在と梅若実の活躍を一般に知らせるために大きな役割を果たした とはいえ 明治初年の岩倉遣外使節団の一員で後述する能楽社の世話人にもなる久米邦武は 1873 年に梅若能舞台に行ったときの模様を 今でこそ梅若だがその当時はまことに微々たるもので 見物は老人や 町人 印絆纏 上の方では公卿 大名と雑多な階級の人が 唯 ( た ) った二三十人来て居た計りであった 6 と述べている サトウの見た金剛能舞台の様子と数年ながら時代の違いがうかがわれておもしろい こうした状況であったから 1873 年と 74 年の日数能では大幅な欠損が出て 借金返済はとてもできそうになくなってしまった 実は そこで 倒れるなら倒れる前に盛んに先祖の祭をして倒れようと思ひ 7 187 5 年 5 月に 3 日にわたり実質上の始祖である梅津友時の 988 年遠忌祭能を興行したところ これが大入りで 席料のほかに供物料の収入も多額に上ぼり 舞台建設の借財を皆済し 梅若家の経済的基礎を確立することができた 後世 明治維新時に能楽を保持した役者として 梅若実の名のみが喧伝され 金剛唯一の名が忘れられがちであるのは 金剛唯一と梅若実の資質の違い およびその違いが影響したであろう両家がたどった家運にもよっている 金剛唯一は金剛大夫家の御曹子に生まれ 穏健な性格で 国学を学んでいたらしく 明治維新後の一時期 金剛能舞台から程近い芝西之久保にあった八幡社の神官になっていた 廃仏毀釈の世相に順応したのであろうが 日本近代化の流れに乗じていく積極的な性格だったとは思えない 飯倉の能舞台が老朽化したため 1878 年 9 月 芝愛宕 ( あたご ) 下に舞台を新築すると なにかと舞台建設にかかわる悶着が起こってきたのに嫌気がさし 1880 年 11 月に後援者であった旧大名 稲葉家の神田小川町の邸内に舞台を移築した ところが 新築後ほどなく翌年初めに類焼により舞台は全焼 面 装束の大部分を失ってしまった 唯一がこの悲運に抵抗し起死回生を計った動きはまったく伝えられていない 18 84 年 1 月に唯一は失意のうちに死去 火災後喪心状態に陥っていた嗣子の泰一郎も 1887 年 12 月に没し 嫡男鈴之助 ( れいのすけ のち右京 ) 6 久米邦武 能楽の過去と将来 ( 能楽 1911 年 7 月 ) 7 梅若実 舞台を得るまで ( 能楽盛衰記 下 1926 大正 15 能楽会 )

188 小林責 が 15 歳の若さで残され 金剛流の流勢は衰微する 後年 金剛右京が男子に恵まれず 坂戸金剛 8 が廃絶したことが 明治維新時の金剛唯一の功績が称揚されない大きな原因になっていると思われる 一方 梅若実は 少年時代に上野寛永寺 日光山輪王寺 ( りんのうじ ) の金主 ( きんしゅ 融資業者 ) だった鯨井家から多額の持参金を持って梅若家へ養子に入った人である 生まれながら経営の才が遺伝子に組み込まれていた 1865 年 8 月に 5 世観世銕之丞 ( のち紅雪 ) の弟 源次郎 ( のち 53 世六郎 観世清之 きよし ) を娘 つると結婚させることを前提に養子とし 1875 年 12 月には 5 世銕之丞に姪 ゆきを妻合わせる 観世銕之丞家は観世宗家の唯一の分家である 銕之丞家を婚姻を通じて従属させることによって 梅若家の観世流内での立場を強固なものとした また梅若実は維新直後から絶えず宝生九郎と接近し 装束を買ったり 自分の舞台に出勤させたりしている 宝生宗家は 11 世徳川家斉 ( いえなり ) の代から将軍指南役となり江戸末期にはことに威勢を誇っていた また九郎の人格と識見の高さを見抜いており 九郎を盟友とすることによって能楽界での地位を補強できると信じていたと思える 実は能楽衰微期にこうした周到な布石を打っていたのである またそれが明治維新後に能楽を復興に導いた役者として梅若実がことに高く評価される理由ともなっているのである Ⅱ 復興期 1876 年 4 月 4 日 岩倉具視邸で天覧能が催された 岩倉は 1871 年から 73 年にかけて 全権大使として使節団を率い欧米を視察し 夜 礼服着用でオペラを観覧させられたとき 今後日本が来朝する外国高官に見せるべき国劇として能楽を想定した 岩倉は能楽を世に現わす機会をうかがっていたが それをこの天覧能として実現したのである 明治の政変は天皇の権勢を極端に強大なものにすることによって達成された そこで 天皇が見たということは 能楽の存在を一般に知らせ 能楽の価値を高めるために 大きな効果があった 岩倉の能楽顕揚の第一着手であった 岩倉具視はこの催しの運営を皇室の祭典 儀式などを司る式部頭 ( しきぶのかみ ) だった坊城俊政 ( ぼうじょうとしただ ) に依頼した 坊城は 九条道孝とともに公家中の能好きであり かねて梅若実の弟子となっていたので 委細を実にまかせた この日の能の番組は ( カッコ内はシテ ) 小鍛冶 ( 前田利鬯 としか ) 橋弁慶 ( 前田斉泰 なりやす ) 土蜘蛛 ( 梅若実 ) であったが 実は入能 ( いりのう 追加能 ) として宝生九郎に半能 熊坂 を舞わせた 九郎が能楽界復帰を明確に覚悟するのはこのときであり ここに九郎と実の提携がはっきり成立したのである 8 室町時代は大和の国にあった坂戸座の流れを受ける金剛宗家をいう 現在の金剛宗家は江戸末期に金剛姓を許された弟子家で 元の姓を野村といったので 野村金剛 と通称する

明治能楽小史 189 次いで 1878 年 7 月 英照皇太后 ( えいしょうこうたいごう ) 9 の青山大宮御所に能舞台が建設される これにも岩倉具視の力が強く働いたらしい この能舞台が建てられるについて 観世清孝 宝生九郎 金剛唯一 梅若実 三宅庄市の 5 名が 宮内省から御能御用係に任命される このとき岩倉から この人選について過去の家格だけでなく 当節ハ人才登用ノ義 を仰せつけられた 10 と見える 従前の家格に従ったのが観世 宝生 金剛の旧 3 大夫であり 人材登用が梅若実と三宅庄市であった 梅若は既述のように観世座のツレ家だったが これで梅若実は観世清孝と同格となったのであり 以後長年続く観世宗家と梅若家との観世流内での勢力争いの一要因となる 三宅庄市は 江戸時代には幕府にも召し抱えられていなかったローカルな和泉流の中の 1 派で京都に住んでいた三宅派の当主にすぎなかったが 京都で皇室や公家と関係が深かったので 特別に贔屓され取り立てられたのだろう こののち和泉流が東京中心の主要な流儀に成長する契機となった この大宮御所能舞台の開設が岩倉の能楽顕揚の第二着手だった その翌 1879 年 7 月 来日した前アメリカ大統領のグラントと会談した岩倉具視は グラントから 貴国ニハ固有ノ音楽アリヤ と尋ねられて 雅楽と能楽を挙げ ことに能楽を 高尚優美ノ技芸ナリ 11 と褒めたたえた そこでグラントが観能を望んだので 岩倉は自邸で能と狂言を見せた 殖産興業 富国強兵を国是とした日本政府は 1873 年ごろから主として外務省の方針として 芸能を 国家に益なき遊芸 のキャッチ フレーズをもって低俗な無用の存在とする方針を打ち出していたが 岩倉はグラントとの会議やグラントの観能を通じ 芸能に 文化 という物指しがあることを教えられたようである 12 皇室を通じ能楽顕揚を意図していた岩倉は グラントという刺激を得て 本格的な能楽保護の急務であることを感じ 此後具視 華族ノ有志者等ト商議シ 欧洲各国ニ於テ帝王貴族ガ彼ノ オペラ ヲ保護スルノ例ニ倣 ( なら ) ヒ 此能楽ヲ保護シテ之ヲ永久ニ伝ヘンコトヲ図ルト云フ と伝えられる 13 行動に出る 文化政策の重要さは認識されたが ゆとりのない国家財政にはそれをゆだねるだけの決断はつかなかった そこで 華族ノ有志者等ト商議シ すなわち旧公家 大名らの華族にその肩代わりを求め 能楽好きの九条道孝 前田斉泰 池田茂政 坊城俊政 藤堂高潔 ( たかきよ ) 前田利鬯の 6 人を発起人とし 歴史学者で官吏であった重野安繹 ( やすつぐ ) や久米邦武および岩倉家家令の山本直成らを実務担当の世話人とし 岩倉はその組織作りを勧奨した 従来の能 9 英照皇太后 は死後の追号であるが 生前についてもこの称を用いる 10 梅若実が 1849( 嘉永 2) 年から 1908 年までの 60 年間ほぼ毎日執筆した日記 ( 通称 梅若実日記 ) の 1878 年 6 月 14 日の条 11 岩倉公実記 ( 下 ) 1906 宮内省皇后職蔵版 なお はたしてこのときグラントが 音楽 といったかどうかは 後年の修史であり 明らかでない 12 倉田喜弘 芸能の文明開化 (1999 平成 11 平凡社 ) 記載の説に従う 13 注 11 に同じ

190 小林責 と狂言の呼称である 猿楽 が穏当でないという意見が出 皆楽社 の名で準備が進んでいたが おそらく九条道孝の提案により決められた 能楽社 が 1881 年 4 月 発起人は前記 6 名 社員は華族および華族夫人 42 名 世話人 14 名 総員 62 名で発足した 以後 能と狂言の総称は 能楽 が正式名称となっていくのである 能楽社規則の第 1 条には 能楽社設立ノ主意ハ能楽ノ芸道ヲ維持シ永ク公衆ノ歓娯ニ供スル為メ其演技場ヲ設ケ益 ( ますます ) 其技ニ爛熟セシムルニ在リ と見え 演技場が必須の存在だったのであり 能楽社開設と同時に 芝公園内に能楽堂も舞台開きが催されたのであった ここに 能楽堂 の呼称を用いたが これ以前は正式の能舞台は野外に建てられ その三方を囲む白州によって遠く隔てられた住居部分や仮設桟敷などが観客席になっており 能舞台と観客席を同じ屋根の下に取り込んだ能楽専用の劇場である能楽堂は この能楽社の演技場である通称 芝能楽堂 をもって嚆矢とする もっとも 当然木造で 能舞台の大屋根が見所や楽屋の屋根より一段高く突出する程度の天井の高さであったが 舞台開きの 3 日目の公開能では 700 余名が入場したというのであるから 畳敷きの観客席は相当に広く 当時としては大建築であったといえる 舞台開きは 初日の 4 月 16 日が英照皇太后の行啓能 2 日目の 17 日は華族らの招待能 3 日目の 18 日が切符を売り一般観客が見られた公開能であった 3 日とも翁付 5 番立てであったが 連日シテを舞ったのは宝生九郎と梅若実だけであり 観世清孝も金剛唯一も初日 1 番にすぎず 初日の 翁 が宝生九郎 2 日目の 翁 が梅若実で 九郎 実という序列は明らかにされたが この 2 人が明治能楽界を代表する能役者であることを内外に示した催しだったのである なお 能楽社の世話人の最後に三井武之助と安田善次郎の ともに近代日本で財閥を形成する人名が並んでいるのも興味深い 梅若実の記録 14 によれば 三井一家の人々が入門するのは 1880 年ごろからであり 安田善次郎が宝生九郎の稽古を受けるようになるのも同年のころらしく 江戸時代には武家の式楽 ( 儀式用芸能 ) である能楽に近づきにくかった平民の富裕層が この時期にパトロンとして台頭してくるのである 芝能楽堂舞台開きの報道記事は 読売新聞 にも連日掲載されており 能楽社の設立は能楽の復興を社会に明示するものであった Ⅲ 漸進期 しかし 以後 能楽は順調に繁栄するわけではない だいたい能楽社も発足時から経済的不安を抱えていた 能楽社全会員からの集金など収入約 8000 円に対し 能楽堂建設費だけで約 1 万円で 舞台開き経費などを含め 不足額約 4000 円を九条道孝 岩倉具視 坊城俊政から借用した 赤字の出発であった 14 梅若実が 1848 年からの入門者を自筆記録した 門入性名年月扣 ( もんにゅうせいめいねんげつひかえ ) による

明治能楽小史 191 しかも 1883 年 7 月に岩倉具視が没する 政府の要人の中で文化政策として能楽保護の必要性を感じていたのは岩倉具視だけだったのでは

192 小林責 Abb. 1: 靖国神社内に移築された芝能楽堂 ( 撮影 神田佳明 ) Die Nô-Bühne von Shiba, jetzt im Kirschgarten des Yasukuni-Schreins (Photo: Kanda Yoshiaki) Abb. 2: 青山家の能舞台は厩橋の梅若家に移築され さらに 1919( 大正 8) 年に改装の施された梅若家能楽堂 Nô-Bühne, ursprünglich in der Villa von Aoyama Shimotsuke no kami, von dort in das Haus von Umewaka Minoru in Umayabashi verlegt, 1919 renoviert.

明治能楽小史 193 なかろうか 能楽の復興にとって岩倉の死は決定的打撃だったといえる 岩倉の死後 岩倉の立場に三条実美 ( さねとみ ) が据えられるが 三条には実行力も決断力もなく なんの力にもならなかった 能楽社は発足したものの 能楽堂の演能に観客が入らず 寄付金も思うように集まらない 能楽堂には借地料も税金もかかり 芝山内の陰湿地に建てたので破損甚だしく修繕費はかさんだ こうした状況に発起人や世話人の中から辞退希望者が出るようになったので 梅若実の弟子で能楽好きだった皇太后宮亮 ( こうたいごうぐうのすけ ) 15 の林直庸 ( なおつね ) が尽力し 1890 年 10 月 能楽社の名称を 能楽堂 と改め 主宰者の職名も取締とし 取締長に近衛忠熙 ( ただひろ ) を委任 能楽振興の活性化を計ろうとしたが 林が 1894 年 5 月に没してほとんどなにもなされず 会務は取締に任じられていた内蔵助 ( くらのすけ ) 16 だった飯田巽 ( たつみ ) にゆだねられることとなった 飯田は組織の拡大を意図し 1896 年 7 月 能楽堂を 能楽会 と改称し 会頭に宮内大臣 土方 ( ひじかた ) 久元 副会頭に九条道孝を据え 相変わらず皇室や華族の後援を頼みとしたが 寄付金 5 円以上の者を会員 5 円未満 1 円以上の者を賛助員とすることとし一般資産家の参加にも期待した 構想は大きく シテ方 三役から物着セ 17 まで計 152 名の助成を予定し 予算として 10 万円と 5 万円の 2 案を組んだ 発足当初は富豪の岩崎 三井両家から 500 円ずつを筆頭に続々寄付の申込みがあり 容易に目標は達成できるかに思えた ところが設立後 2 ヵ年で 実収 1 万にも満たないさんざんの結果であった また 1897 年 1 月に能楽好きだった英照皇太后が没したことにより 能楽保護者は精神的支柱を失った感を懐き 実質的にも芝能楽堂に対し開設以来毎年与えられてきた寄付金がなくなり 薨去後 2000 円の下賜金をもって援助は打ち切りとなってしまった 岩倉の死に次ぐ 能楽振興にとっての大きな打撃であった 能楽会は ごく少人数の囃子方の助成と能楽堂の維持に汲々たる有様で 目立つ活動としては 発足時から 3 年ごとに 5 回催した式能 (5 番立てを原則とする演能 ) と 1898 年 4 月に豊臣秀吉を顕彰する豊国会の依頼を受け京都で東西楽師出演により興行した 4 日間の豊国祭能が挙げられるにすぎない 能楽会の財政難は 財力豊かな華族や財閥を形成するような資産家が 能楽会のような公的組織より 自分の贔屓する役者の後援に資金を出すようになったためと考えられる そこで彼らの後援を受けた家元クラスの名家は態勢を整えていく 時代を遡らせる 明治維新直後に中絶した喜多宗家が再興され 1884 年 3 月 六平太能静の外孫である 9 歳の千代造 ( のち六平太静心 ) が家元継承披露能を催しているが 千代造の後ろ盾には元津 32 万石の大大名 15 皇太后宮に関する事務を司 ( つかさど ) った皇太后宮職 ( しき ) の次官 16 中務省 ( なかつかさしょう ) に属し天皇の宝物や日常用品の調達 保管などを司った内蔵寮 ( くらりょう ) の次官 17 装束を着せることを職掌とする役 1920 年ころまで存在したらしい

194 小林責 で能楽社の発起人にもなっている藤堂高潔がいた 高潔は千代造に能も教えており 手厚く後援したであろう 観世流では 清孝は 1888 年 2 月に没するが 嫡男で家元を継いだ清廉 ( きよかど ) は 1890 年 3 月に 22 歳の若さで麹町飯田町に仮舞台を建てた 喜多六平太も 1893 年初め 若干 18 歳で 新たに結成した喜多流能楽会の拠点として同じ飯田町に能舞台を造った 少壮の家元たちの精励が注目されるが 補佐する弟子とともに 経済的に援助する資産家がいたからできたことであろう 宝生流は 九郎の股肱 ( ここう ) の弟子である松本金太郎が 1885 年に神田猿楽町に狭い粗末な敷舞台を建設し素人の演能会を始めたところから出発した宝生会が 1898 年 7 月 規約を定めて組織を確立し 同時に舞台改築の募金を始めて 短期間に約 3450 円の寄付金を集め 建築費約 4000 円で約 650 円の不足が生じたが 無事同年 10 月には宝生九郎の 翁 で舞台開きを催すことができた 翌年 9 月発行の宝生会会員名簿を見ると 元加賀大聖寺藩主で能楽社の発起人だった前田利鬯や元阿波徳島 25 万石の大大名だった蜂須賀茂韶 ( もちあき ) ら数多くの華族らのほか 財閥として安田善次郎の名も挙がっている 宝生会の経済的基盤は安泰だったであろう 1897 年 6 月 20 日 梅若舞台で催された会において 蝉丸 のキリで 1 人の女性が舞台へ駆け上がり ツレの観世清廉の首筋をつかんで引き据え 大声で悪口を叫ぶという 能楽界未曾有の珍事が出来した 女性は田中泰太郎の妻で村上とくという こうした大事件を起こした原因について田中泰太郎 とく夫妻の説明が明確を欠き 清廉もなんら釈明していないので 真相はわからずじまいであったが これが清廉にとって不祥事だったことは誤りない 清廉は公式の演能への出演を 3 ヵ年謹慎すると宣言し 能楽界も之を諒とした しかし 田中夫妻が相当の変人であったので この謹慎はむしろ清廉に一般の同情が集まった そこで 田中夫妻が清廉を放免するのは 1903 年 7 月に至ってのことであったが 3 年が経過した 1900 年暮ごろからワキ方や囃子方の清廉復帰を望む声が挙がってきた 清廉は こうした雰囲気を察知し 不羈な性格であったから 醜聞がまだすっかり解消していなかった 1901 年 6 月 牛込新小川町に舞台を新築して 3 日間の舞台開きを催し 当然初日の 翁 を舞っている 舞台の建築費 1 万 8000 円は寄付金でまかなったが 最高の醵金者は三井得右衛門で 三井家の人々はほぼ梅若家に師事していたにもかかわらず 得右衛門だけは一途な清廉贔屓であった このとき観世会も創立されたと思われる このように 能楽堂や能楽会の助成が頓挫しているうちに 明治維新後絶えず活発な演能活動を続けてきた梅若家のほかに喜多 宝生 観世の家元たちも演能拠点を整備した しだいに能楽会付属の芝能楽堂は使われることが少なくなり 1903 年 ついに能楽堂は靖国神社に寄付されるに至った ( 能楽堂は以後 九段能楽堂 あるいは 靖国神社能楽堂 と通称されるようになる ) 能楽会は以後も存続するが その存在はまことに稀薄なものになっていく

明治能楽小史 195 Ⅳ 煥発期 しかし 総合芸術である楽劇としての能楽が三役などを含め本当に再生できるのか 多くの課題を抱えていた こうした状況を打開するため力を尽くそうと 1902 年 5 月 四国の松山から伊予鉄道株式会社支配人の職を投げ捨て上京してきたのが池内信嘉 ( のぶよし ) である 池内 44 歳であった 池内は 上京以前に 太鼓方の観世元規 ( もとのり ) に当て 自分の能界改革案につき意見を問うた書状の初めに 上京の度毎其観察を怠らず候処近来謡曲狂とでも称すべき野性的謡曲者は日に其数を増し表面には能楽隆盛を装ひ居り候へ共其内実を見る時は堪能なる囃子方は次第に其数を減じ脇方の如きも唯猿の物真似を為す如き者が堂々たる能楽堂を汚し居り候有様にて此儘に押移り候へば自然能楽と称すべき堂々たる美術 18 は廃滅に至る外なしと存候 19 と能楽界の現状を分析し嘆いている 池内信嘉の上京後の行動は速かった 能楽会が唐突に上京してきた正体不明の人物を受け入れるはずはなかったので 自身即座に 能楽館 を起こし 上京 3 ヵ月目の 7 月には 長期間続いた最初の能楽雑誌 能楽 を創刊し 引き続き 9 月には囃子方養成費の寄付引き受け組織として 能楽倶楽部 を発足させた ところが これを待っていたかのように 大鼓方の不足に端を発した 囃子方の出勤料値上げ問題が起こってきて その調停が能楽倶楽部に持ち込まれた 池内は まず大鼓方に要求が通らなければ出勤を拒否するよう 団結を固めさせた 結果的には団結が効を奏し 能 1 番の大鼓出勤料の 1 円程度だったものが皮料を含め 3 円程度に増額され これは囃子方の他の役にも恩恵を及ぼすこととなった 初め池内が宝生九郎に増額案を示したとき 九郎は早晩起こってくるであろう問題と予期しており ほぼ提示に賛成したので 問題は意外に早く埒が明くかに思えた ところが 梅若実が反対し 団結の切り崩しを計ってさまざまな策を弄し 囃子方の右往左往に池内も巻き込まれ 解決までに約 2 年を要してしまった 池内はこの事件に関し 差引き損となつたのは私一人であつたが 池内といふ男もやりかゝつた事は損得に拘らず責任を以てやる男だといふだけの信用は得たやうであつた 20 同時に能楽倶楽部本来の囃子方助成事業も推進していたのであり 池内の行動力には驚嘆させられる さらに 日露戦争最中の 1904 年 10 月 後年長く早稲田大学総長を務めた高田早苗に能楽研究推進の斡旋を頼み 当時における国文学 国史 18 fine arts ではなく arts( 芸術 ) の意で用いられたものと思われる 19 池内信嘉 能楽盛衰記 ( 下 ) (1926 能楽会 ) の内 能楽館の設立 20 池内信嘉 能楽盛衰記 ( 下 ) (1926 能楽会 ) の内 囃子方勤料値上げの紛議

196 小林責 学 演劇学などの第一流の学者 20 数名を糾合して 能楽文学研究会 を発足させた そして 研究会での発表の概要を雑誌 能楽 に載せ ここに本格的な能楽研究が緒に就くのである さらに この研究会の熱心かつ有力な会員だった吉田東伍が 1908 年に財閥の安田善次郎の架蔵に帰した 16 種の世阿弥伝書を わずか数十日で読破し原稿化する 池内は 後述するようにその事務責任者となっていた能楽会が発行所となり 1909 年 2 月 吉田東伍校注 能楽古典世阿弥十六部集 を 自身を発行者として刊行するのである この書の出現により能楽研究は革命的な出発点を迎えることができたのであり 能楽研究史上 吉田東伍とともに池内信嘉の功績も高く評価しなければならない 池内はまた能楽倶楽部の事業として 1906 年 3 月から 夜能 を始めている 能楽文学研究会の会員はみな多忙で 通常の日の夕刻から夜にかけ 能 2 番に狂言 1 番くらゐを見せてくれる道はつかないものか 21 という人が多かった このころの演能はほとんど日曜日で通常 5 番立てであったから 終日観能していなければならなかった 能楽文学研究会の会員のような要求を持つ人は他にも相当いたのである しかも周到に学割まで用意したので 毎回盛況で この試みは成功した こうした池内の真摯な的を射た活動は 初めは白眼視していた能楽会関係者の評価をしだいに変化させ 1908 年 1 月には 能楽倶楽部を能楽会に併合させる形で 池内が能楽会の理事として事務責任者に任じられ 囃子方養成や夜能は能楽会の事業に移管されることとなった そして 池内が奔走した 邦楽保護に関する建議案 が 1908 年に衆議院で可決され それに基づく東京音楽学校 ( 現 東京芸術大学音楽学部 ) の邦楽調査を経て 東京音楽学校に能楽囃子科が設置されたのは明治から改元された大正元年 1912 年の 10 月のことであった しかし 実際上は東京音楽学校が能楽囃子科の学生の養成を能楽会に委託したのであるから 民間の囃子方事業が国の事業に変わったにすぎないわけであるが 能楽の養成事業に国費が使用された最初として記憶されるべきであろう さらに 東京音楽学校能楽囃子科の卒業生の中に 昭和期の能楽囃子界を代表する小早川靖二 ( せいじ のち幸宣佳 よしのぶ 小鼓方 ) 亀井俊雄 ( 大鼓方 ) 森重朗 ( 小鼓方 ) 安福 ( やすふく ) 春雄 ( 大鼓方 ) 寺井政数 ( まさかず 笛方 ) 幸円次郎 ( 小鼓方 ) らの名を見出すと 池内信嘉の努力は見事に結実したとの感を深くする 明治末期は池内信嘉の出現によって画期的な諸事業が展開されたのだった Ⅴ まとめ こうした池内の活躍があったとしても 明治能楽界を俯瞰すると 1876 年 4 月の岩倉具視邸での天覧能以後は宝生九郎と梅若実の双頭の世紀であった 21 池内信嘉 能楽盛衰記 ( 下 ) (1926 能楽会 ) の内 夜能開催

明治能楽小史 197 1902 年 10 月ごろに起こってきた囃子方値上げの紛争では 九郎が能楽界全体を見通す江戸時代の大夫を思わす鷹揚な態度を取ったのに対し 実は商家から能の家に入った役者らしく自家の利益に固執する利己的な行動に終始した 2 人は性格上相当の隔りがあった しかし 2 人は生涯争うことがなかったという 実は九郎の度量の広さを尊敬し能楽界の二番手であることに甘じ 九郎は岩倉邸の天覧能で実が入能まで設けて自分を能楽界に復帰させてくれたことに生涯恩義を感じていた 多くの場合 2 人は手を携えて能楽界をリードしていくことができた しかも 宝生九郎は松本長 野口政吉 ( のち兼資 かねすけ ) という弟子を 梅若実は長男 万三郎 次男 54 世六郎 ( のち 2 世実 ) 女婿 6 世観世銕之丞 ( のち華雪 ) という嗣子を 大正期および昭和前期の能楽界を魅力あるものとした名人に育て上げた功績も大きい ともに仕事をなしとげ 梅若実は 1909 年 1 月に 80 歳で 宝生九郎は 1917( 大正 6) 年に 79 歳で没し 明治能楽史は終焉する