2005 年度 第 1 問 次の平安時代初期の年表を読み, 下記の設問に答えなさい 809 年 嵯峨天皇が即位する 810 年 蔵人所を設置する 812 年 この頃, 空海が 風信帖 を書く 814 年 凌雲集 ができる 816 年 この頃, 検非違使を設置する 818 年 平安宮の諸門 建物の名称
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- たいち わたぬき
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1 東大日本史の研究 さくらの個別指導 ( さくら教育研究所 )
2 2005 年度 第 1 問 次の平安時代初期の年表を読み, 下記の設問に答えなさい 809 年 嵯峨天皇が即位する 810 年 蔵人所を設置する 812 年 この頃, 空海が 風信帖 を書く 814 年 凌雲集 ができる 816 年 この頃, 検非違使を設置する 818 年 平安宮の諸門 建物の名称を唐風にあらためる 文華秀麗集 ができる 820 年 弘仁格 弘仁式 が成立する 821 年 唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書 内裏式 が成立する 藤原冬嗣が勧学院を設置する 823 年 嵯峨天皇が譲位する 827 年 経国集 ができる 833 年 令義解 が完成する 842 年 嵯峨上皇が死去する 設問嵯峨天皇は, 即位の翌年に起きた藤原薬子の変を経て権力を確立し, 貴族をおさえて強い政治力をふるい, 譲位した後も上皇として朝廷に重きをなした その結果, この時期 30 年余りにわたって政治の安定した状態が続くこととなった 古代における律令国家や文化の変化の中で, この時期はどのような意味をもっているか 政策と文化の関わりに注目して,6 行以内で説明しなさい
3 第 2 問 次の文章は, 鎌倉幕府執権北条泰時が, 弟の六波羅探題重時に宛てて書き送った書状の一節 ( 現代語 訳 ) である これを読んで, 下記の設問 A B に答えなさい この式目を作るにあたっては, 何を本説 ⑴として注し載せたのかと, 人々がさだめて非難を加えることもありましょう まことに, これといった本文 ⑵に依拠したということもありませんが, ただ道理の指し示すところを記したものです ( 中略 ) あらかじめ御成敗のありかたを定めて, 人の身分の高下にかかわらず, 偏りなく裁定されるように, 子細を記録しておいたものです この状は, 法令 ⑶の教えと異なるところも少々ありますが,( 中略 ) もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです これによって, 京都の御沙汰や律令の掟は, 少しも改まるべきものではありません およそ, 法令の教えは尊いものですが, 武家の人々や民間の人々には, それをうかがい知っている者など, 百人千人のうちに一人二人もおりません ( 中略 ) 京都の人々が非難を加えることがありましたなら, こうした趣旨を心得た上で, 応答してください ( 注 )⑴ 本説,⑵ 本文 : 典拠とすべき典籍ないし文章 ⑶ 法令 : 律令ないし公家法 設問 A この式目 を制定した意図について, この書状から読みとれることを,2 行以内で述べなさい B 泰時はなぜこうした書状を書き送ったのか 当時の朝廷と幕府との関係をふまえて,4 行以内で説明しなさい
4 第 3 問 次の ⑴ ⑶ の文章を読んで, 下記の設問に答えなさい ⑴ 江戸時代, 幕府の軍事力は直参である旗本 御家人とともに, 大名から差し出される兵力から成っていた 大名は, 将軍の上洛や日光社参には家臣団を率いて御供したが, これらも軍事動員の一種であった ⑵ 幕府は, 動員する軍勢の基準を定めた 寛永年間の規定によると, 知行高 1 万石の大名は, 馬上 ( 騎乗の武士 )10 騎 鉄炮 20 挺 弓 10 張 鑓 30 本などを整えるべきものとされ, 扶持米を幕府から支給された ⑶ 村々から百姓が兵糧や物資輸送などのために夫役 ( 陣夫役 ) として徴発された たとえば幕末に, 幕府の年貢米を兵糧として戦場まで輸送した際には, 村高 1000 石につき5 人が基準となった 設問 このような統一基準をもった軍事動員を可能にした制度について, 江戸時代の支配の仕組みにふ れながら,5 行以内で説明しなさい
5 第 4 問 次の文章は, 吉野作造が 1916 年に発表した 憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず の一部である これを読んで, 下記の設問に答えなさい 憲法はその内容の主なるものとして, 人民権利の保障, 三権分立主義, 民選議院制度の三種の規定を含むものでなければならぬ たとい憲法の名の下に, 普通の法律よりも強い効力を付与せらるる国家統治の根本規則を集めても, 以上の三事項の規定を欠くときは, 今日これを憲法といわぬようになって居る ( 中略 ) つまり, これらの手段によって我々の権利 自由が保護せらるる政治を立憲政治というのである 設問大日本帝国憲法と日本国憲法の間には共通点と相違点とがある たとえば, いずれも国民の人権を保障したが, 大日本帝国憲法では法律の定める範囲内という制限を設けたのに対し, 日本国憲法にはそのような規定はない では, 三権分立に関しては, どのような共通点と相違点とを指摘できるだろうか 6 行以内で説明しなさい
6 解法の研究 第 1 問問われているのは, 嵯峨天皇 上皇が朝廷に重きをなした時期が, 古代における律令国家や文化の変化の中でもつ意味 条件として, 政策と文化の関わりに注目することが求められている まず, 嵯峨天皇 上皇が朝廷に重きをなした時期 ( 嵯峨期と表現しておく ) が 律令国家や文化 という面でどのような特徴をもっているのかを, 考えよう 参考年表は嵯峨期に限定されているから, そこに掲載されているデータから, 嵯峨期の特徴をつかもう 特徴をつかむためには, それらのデータをグループ分け ( 特徴づけ=ラベルづけしながら ) することが不可欠 ⑴ 蔵人所を設置する 検非違使を設置するこれらは嵯峨天皇により新設された令下官であるが, どのような特徴をもつ令下官か? それまでに置かれた令下官と何が異なるのか? 1989 年第 1 問に類題が既出だが, 嵯峨期に新設され,9 世紀を通じて整備される蔵人所, 検非違使 ( 庁 ) は, それまでの令下官 ( 参議 中納言など ) と異なり, 官職に就いているもののなかから天皇が特別に任命する職であり, つねに他の官職を兼ねながら蔵人所 検非違使 ( 庁 ) としての職務に従事した それゆえ, 蔵人所 検非違使 ( 庁 ) は, その職員が兼ねている本官 ( もともと就任していた官職 ) の職務を吸収するようになる 検非違使が弾正台や刑部省, 京職などの職務を吸収したというのは, そうした事態についての説明である さらに, この2つの令下官は天皇直属であった それゆえ, 天皇は蔵人所 検非違使庁を通じて令制諸官庁の重要な機能を ( 太政官とは独自のルートで ) 掌握することが可能となったのであり, 天皇が貴族をおさえて強い指導力を発揮する基盤がこうして形成されたのである つまり, 天皇権力の強化という平安初期の特徴的な動向を象徴的に示すのが, 蔵人所 検非違使 ( 庁 ) の設置 整備なのである ⑵ 弘仁格 弘仁式 が成立する 令義解 が完成するしばしば法典の編纂 整備とまとめられるところ なぜこれらの編纂 整備が必要とされたのだろうか? たとえば, 格はこのときに初めて定められたわけではない いいかえれば, 社会の実情にあった形に律令を補足 修正する作業がこのときに初めて着手されたわけではない では, 格や式をまとめ直すこと, 養老令の公的な注釈書を作成し, 条文解釈を統一することは, いったい誰にとって意味, もしくは効果があったのか? -それは行政を担う貴族 官人であることは言うまでもない このことを念頭におけば, 格式や令の公的注釈書の編纂は, しばしば律令政治の立て直しと特徴づけられるが, 官僚制の整備 充実のための施策であったと位置づけることができる ⑶ 唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書 内裏式 が成立する朝廷での儀式とは, 天皇と貴族 官人, さらには貴族 官人相互のあいだの関係や秩序を ( 再 ) 確認する象徴的行為である それについて, 唐風, 儀式次第の整備, という2 点が指摘されている これは, どういう意味をもつのか? 朝廷のもとでの政治秩序を律する作業が, 伝統的な儀礼 ( だけ ) ではなく唐風をとり入れた形で進められたというのだから,⑴と関連づければ, 天皇を頂点とする貴族社会の再編成, 古くからの氏族という枠組みを取っ払ったところの新しい貴族社会の構築の第 1 歩と位置づけることができる ⑷ 凌雲集 ができる 文華秀麗集 ができる 経国集 ができる
7 これらは勅撰漢詩文集 この時期は唐風文化の全盛期で, それを象徴したことがら しかし, これほどまで漢詩文が隆盛したのはなぜなのか? 文章経国思想の普及といえばそれまでだが, この表現を知らずとも, 貴族 官人に対して行政能力とともに漢詩文など中国的な ( 唐風の ) 教養が要請された結果と考えればよい つまり, 行政や貴族社会のあり方だけでなく貴族 官人の教養についても唐風化が図られたのであり, いいかえれば,( 天皇権力の強化も含め ) 唐の政治制度 文化の定着 浸透が意識的に図られた結果, 勅撰漢詩文集の編纂が続いたのだと言える ⑸ 空海が 風信帖 を書くこれも唐風文化の全盛を象徴することがら それ以外の意味を考えてもよいが,(1) (4) で見てきたこととの関連から, 唐風の教養が浸透した事例のひとつとおさえておく ⑹ 藤原冬嗣が勧学院を設置する勧学院などの大学別曹が設けられるようになったのは, 大学が隆盛したため 奈良時代は, 蔭位の制ゆえに大学はそれほど盛んではなかったというのに, なぜ嵯峨期には大学が隆盛したのか? それは⑷ですでに確認した通り, 貴族 官人には行政能力とともに漢詩文など唐風の教養が要請されたからであり, それらを身につけない限り ( 古くからの氏族という枠組みに依拠するだけでは ), 貴族社会では生き残れない時代が訪れたからである ⑺ 平安宮の諸門 建物の名称を唐風にあらためるこれは 律令国家 に関連するのか, それとも 文化 に関することがらなのか? 行政のあり方でもなければ唐風の教養にかかわることがらでもなさそうだ これ以上の考察が進まない場合, 唐風が全盛であった嵯峨期の雰囲気を示すものと考えておいて, それで十分だろう なお, 嵯峨期までの諸門は律令以前から宮門の警備を担っていた氏族の名を冠して称されていたが ( 朱雀門は例外 ), それが, 氏名の読みにちなみながらも, 唐風の名称へ変更されたのである つまり, 現象的な唐風化にとどまらず, 古くからの氏族という枠組みを取っ払ったところの新しい貴族社会を構築しようという方向性のなかでの政策と位置づけることができる このように特徴をつかんでくれば, 律令国家や文化の変化の中でもつ意味 はすぐに推理できるだろう もし特徴づけはできるが 変化の中でもつ意味 は分かりにくいというのなら, 嵯峨期に始まった格式や儀式書の編纂が清和天皇期 (9 世紀後半 ), 醍醐天皇期 (10 世紀前半 ) と継続され, そこで一つの完成を向かえること ( だからこそ摂関政治期は貴族男性による日記が隆盛するのだし, 儀式や先例を研究する有職故実という学問が登場する ) を想起すればよい 嵯峨期に始まった政策は, 次の清和 醍醐期へと継承されていくのだ ( 国風文化が唐風の教養を規範としていたことについては 1987 年第 1 問を参照のこと ) まとめれば, 嵯峨期は, 天皇権力の強化とそのもとでの官僚制の整備 充実, 新しい貴族社会の編成原理の創出が本格的に始まっていった時代だったのであり, 古くからの氏族の枠組みに依拠した政治 社会秩序 ( 伝統的な社会 ) が大きく変容する画期をなしていたのである 解答例 9 世紀前半は, 格式や令の公的注釈書が編纂され, 実情に即した官僚制の整備 充実が進むとともに, 天皇直属の令外官を中心とした官庁の再編, 唐風を取り入れた儀礼の整備が進んで天皇の権威 権力の強化が図られ, それに伴って貴族 官人には行政能力と儒教 漢詩文など唐風の教養が求められた こうして唐風の政治制度や文化が社会に浸透 定着し, 伝統的社会を変容させる画期となった (180 字 )
8 第 2 問 A 問われているのは, この式目 を制定した意図について, この書状から読みとれること ポイントは この書状から読みとれること という設定にある つまり, 史料の内容把握が求められているのだが, 史料がたいていの教科書に掲載されている著名な史料であるため, 足をすくわれかねない 史料をきちんと検討せずに, あるいは先入観にとらわれた状態で史料を読んでしまうと, 出題者のねらいをつかみそこなう 著名な史料がわざわざ現代語訳されているのである その形式に疑念をいだきながら史料を読みたいところである 御成敗式目 ( 貞永式目 ) については, ⑴ 公平な裁判を行うために定められた ⑵ 道理と先例に基づく ⑶ 初めての武家法で, 適用範囲は幕府の勢力範囲に限られたくらいの知識はすぐに出てくるだろう 実際, 史料にも ⑴ あらかじめ御成敗のありかたを定めて, 人の身分の高下にかかわらず, 偏りなく裁定されるように ⑵ ただ道理の指し示すところを記したものです ( 先例については記されていない ) ⑶ もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです と, 対応する内容が書き記されている これで答案が書けてしまいそうだが, 冷静にデータを確認し直してほしい ⑴はともかく,⑵や⑶は 制定した意図 なのか? 道理 ( 武家社会の慣習 道徳 ) に基づいた法を作ろうとしたのだとの反論がかえってきそうだが, では, なぜ武家社会の慣習 道徳に基づいた成文法が必要なのか? 御家人 ( 武家 ) のための独自の法が必要だったのだとの反論もあるだろうが, では, なぜ御家人 ( 武家 ) だけに適用される成文法が必要だったのか? もう一つ, 発問してもよい 律令, もしくはその系譜をひく公家法があるのに, それとは別個に新しく法を制定する必要がどこにあったのか? このような発問についてはさまざまな答えがあるだろうが, 設問の要求に従えば, それらの答えを史料から読みとってくる必要がある さて, この史料 ( 北条泰時消息文 ) はたいてい教科書や史料集に掲載されているが, そこでは滅多に目にすることのない文章に気づかないか? およそ, 法令の教えは尊いものですが, 武家の人々や民間の人々には, それをうかがい知っている者など, 百人千人のうちに一人二人もおりません という部分である 御家人 ( 武家 ) や民間の人々のほとんどは律令 ( 法令の教え ) を知らない, と述べられているのだ つまり, 御家人は律令 ( 公家法 ) を知っておらず, だからこそ, 彼らを対象とした独自の法を彼らの慣習 道徳に基づいて制定する必要があると, 泰時はここで述べているのだ 要するに, 武家独自の法典を制定することで武家社会を秩序づけることを意図していたわけである B 問われているのは, 泰時が こうした 書状を書き送った理由 条件として, 当時の朝廷と幕府との関係をふまえることが求められている 問題文で明記されているように, この書状は泰時が六波羅探題に宛てて書き送った書状であるから, 六波羅探題に式目制定の事情を説明しておく必要があったのだとわかる では, なぜ六波羅探題に説明しておく必要があったのか? 六波羅探題の主な職務は, 朝廷との交渉, 京都周辺の治安維持, 西国の政務 裁判などであるが, さて, どれに関連するのか? 史料に, 京都の人々が非難を加えることがありましたなら, こうした趣旨を心得た上で, 応答してください とある
9 のだから, 朝廷との交渉に際しての説明 応答の便宜を図ろうとしたわけだ 次に, 設問文では こうした 書状と記されているが, こうした の中味を確認しておこう Aで問われた制定の意図 ( 武家独自の法典を制定することで武家をめぐる裁判の基準を明らかにし, 武家社会を秩序づけること ) を除けば, 道理に基づいた成文法であること, 式目制定後も朝廷の政治や律令 ( 公家法 ) は変更されないことの2 点 このうち, 朝廷 ( の非難 ) への説明 応答に関連するのは後者である つまり, 朝廷からの非難に対し, 式目制定後も朝廷の政治や律令 ( 公家法 ) は変更されないことを説明してもらうため, 六波羅探題に宛てて書状を書いたのである ところで, 泰時はこのような内容の説明 応答を, なぜ朝廷に対して行おうとしているのだろうか? それを考えるためには, 条件として求められている 当時の朝廷と幕府との関係 を確認しておくことが必要である 当時 とは北条泰時の時代だが, 朝廷と幕府との関係 という視点からすれば, 承久の乱後 と表現することができる 承久の乱という後鳥羽上皇の倒幕運動に勝利した幕府は, 乱後, 皇位継承や朝廷の政治に介入するとともに, 新しく西国に多くの地頭を任じた そして, 新しく新補地頭が任じられた荘園では経営 支配権をめぐって本所と地頭との争いも激しくなっていた とりわけ, 当時は寛喜の大飢饉のさなかであり, 紛争が頻発して秩序が瓦解しかねない危機に直面していた こうした状況のもとで幕府が式目を定めたとき, 朝廷側の人々はどのように反応するか? 京都の御沙汰や律令の掟は, 少しも改まるべきものではありません と書き送っているところに, 朝廷側の関心がうかがえる 泰時は, 朝廷側の非難に対し, その警戒を解きたかったのである このように泰時は, 道理と先例に基づき, 幕府と御家人の果たすべき任務と限界を成文化し ( これが御成敗式目 ), これによって武家社会を秩序づけ, 朝廷を頂点とする旧来の秩序との間で一定の折り合いをつけようとしたわけだが, ここには, 朝幕間の協調関係, いいかえれば公武二元支配を維持しようとする泰時の姿勢があらわれている この点も指摘しておきたいところ 解答例 A 幕府は独自の武家法を制定することで, 公家法を理解しない御家人に対して裁判の基準を明示し, 武家社会を秩序づけようとした (60 字 ) B 承久の乱後, 幕府は朝廷に対して優位に立ち, 朝廷の政治に干渉し, 西国にも勢力をのばした そのなかでも朝幕間の協調関係の維持をめざす北条泰時は, 式目の制定が公家法や朝廷の政治に変更をもたらすものではないことを示し, 朝廷側の警戒を解こうとした (120 字 ) 第 3 問問われているのは, このような 統一基準をもった軍事動員を可能にした制度について説明すること 条件として, 江戸時代の支配の仕組みに触れることが求められている まず, 資料文の内容を確認しておこう ⑴ 江戸幕府の軍事力は, 直参と 大名から差し出される兵力 で構成された ⑵ 動員する軍勢の基準 = 知行高に応じ, 大名の差し出す兵馬の数量が決められている ⑶ 村々から百姓を夫役 ( 陣夫役 ) として徴発 = 村高に応じて夫役の人数が決められている次に確認しなければならないのは, 以上のことがら ( 資料文 ) のどこに軍事動員についての 統一基準 が示されているのか, である 動員 基準 との表現が用いられているのは資料文 (2) だけなのだが, では, 設問でいう このような統一基準をもった軍事動員 とは資料文 (1)(2) をうけた表現なのか? だとすれば, 資料文 ⑶は一体どのような意味をもつのか? 資料文 ⑶を含めて 統一基準をもった軍事動員 を考えることができたかどうか, それがこの問題の最大のポイントで
10 ある いいかえれば, 陣夫役 ( 兵糧や物資輸送などのために徴発された夫役 ) も, 一種の軍事動員だと判断できたかどうかが, ポイントなのである では, 統一基準 とは何か? 資料文 ⑵では大名から軍勢を動員する際の基準, 資料文 ⑶では村々から陣夫役を徴発する際の基準がそれぞれ説明されているのだから, この基準に 統一性 をみつけなければならないし, それが判断できれば, その 統一性 を明確に表現しなければならない これが第 2のポイントである 資料文では知行高 (⑵), 村高 (⑶) と異なった表現が用いられているものの, 単位 ( 石 ) をみればわかるように, それらは石高である 知行高は大名 ( 武士 ) が知行を保障された石高であり, 村高は百姓が所持を保障された田畑 屋敷地の石高の村全体の総計である つまり, 統一基準 とは石高であり, そのことを何らかの形で答案のなかに表現することが不可欠である もし知行高, 村高という資料文中に含まれる表現のみを使い, それぞれが石高であることを表現していないのであれば, その答案は単に資料文を抜粋しただけにすぎず, 相当低い得点しか得られないものと覚悟したほうがよい さて, 石高制について確認しよう 石高制とは土地の生産力を米量で統一的に表示したものだが, 石高は, 検地を通じて反あたりの米の標準生産高を見積もり ( 石盛 ), それに面積を乗ずることで算出された 検地に際しては, 石盛 石高の算出とともに田畑 屋敷地に対して権利をもつ百姓をひとりに確定する作業が行われたが, その結果, 石高は ( 検地帳に登録された ) 百姓に対して土地所持を保障する基準とされるとともに, 年貢などを賦課する基準とされた 同時に, 中世の複雑な権利関係が整理されて年貢収取権をもつ領主もひとりに定められ, 石高は領主に対して知行を給付 保障し, 軍役などを賦課する基準ともされた つまり, 武士による百姓支配と武士どうしの主従関係を統一的に把握する基礎となったのが石高制だったのである 類題として, 一橋大 1996 年第 1 問 ( 問 3) がある なお, 所属している集団ごとに固有の役 ( 義務 ) を果たしているという視覚からの別解も作成できる 解答例 江戸時代は, 土地の生産力を米量で統一的に表示する石高制を基盤とし, 武士間の主従関係と武士による百姓支配が石高という基準のもとで統一的に把握された 武士は主君から石高の知行を保証され, 石高にみあった軍役を負担し, 百姓は検地により田畑 屋敷地の所持を保証され, 石高に応じた年貢や陣夫役を村ごとに負担した (150 字 ) ( 別解 ) 江戸時代は全国の土地の生産力を米量で統一的に表示する石高制を基盤とし, 人びとは所属する身分集団ごとに固有の義務を石高に応じて負担していた 武士は主従制のもと, 主君から知行として給付された石高を基準に, 軍役を負担して兵力を提供し, 百姓は検地によって確定された村ごとの石高に応じ, 年貢や陣夫役を負担した (150 字 ) 第 4 問問われているのは, 明治憲法と昭和憲法の三権分立をめぐる共通点と相違点 共通点 相違点を考えるまえに, 三権分立 が一般的にどのような事態をいうのかを確認することが不可欠 三権 とは行政 立法 司法で, それらが (1) 相互に独立し,(2) 相互に監視 抑制機能を果たしていることを 三権分立 という ここから, 両憲法において三権がどのように規定されているのかを確認することも必要だが, それよりも, 相互にどのような関係をもっていたのかを考えていくことがポイントであることがわかる まず三権がどのように規定されているか 明治憲法天皇が統治権を総覧しているのだから行政 立法 司法の三権は天皇のもとに集中している しかし, 天皇は憲法
11 の規定に基づいて統治権を行使するものとされ, その統治権の行使には内閣, 帝国議会, 裁判所が関与した つまり, 形式的には三権分立ではなかったが, それらの国家機関が天皇の統治権行使を補佐する形で実質的に三権を担った点からいえば, それらは全て天皇に直属していたのだから, 相互に独立していた 内閣 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス ( 第 55 条 ) 議会 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ ( 第 5 条 ) 裁判所 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ ( 第 57 条 ) なお, 内閣が担う行政 ( 国務 ) には枢密院も関与した 枢密院 枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス ( 第 56 条 ) 昭和憲法行政 立法 司法の三権はそれぞれ内閣 国会 裁判所に属するものと規定され, 相互に独立していた 内閣 行政権は, 内閣に属する ( 第 65 条 ) 国会 国会は, 国権の最高機関であつて, 国の唯一の立法機関である ( 第 41 条 ) 裁判所 すべて司法権は, 最高裁判所及び法律 ( 裁判所法 ) の定めるところにより設置する下級裁判所に属する ( 第 76 条 ) 次に行政 立法 司法の相互関係について 昭和憲法 内閣 国会 ( 特に衆議院 ) の信任にもとづき, 国会に対して責任を負う そして, 衆議院の不信任決議に対しては衆議院解散権をもつ 内閣は, 行政権の行使について, 国会に対し連帯して責任を負ふ ( 第 66 条 ) 内閣は, 衆議院で不信任の決議案を可決し, 又は信任の決議案を否決したときは, 十日以内に衆議院が解散されない限り, 総辞職をしなければならない ( 第 69 条 ) 国会 国権の最高機関, すなわち国政の決定において指導的な統合的な地位を占める国家機関 その意味では三権の間の総合調整作用を果たすべき存在 裁判所 法律の合憲性審査権 ( 違憲立法審査権 ) を持ち, 議会や内閣の動向を監視 抑制する役割をもっている 最高裁判所は, 一切の法律, 命令, 規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である ( 第 81 条 ) このように, 国権の最高機関たる国会を頂点として相互の監視 抑制が制度化されている 明治憲法天皇が議会の関与なしに行使できる天皇大権をもち, その行使には内閣が関与したため ( 統帥権を除く ), 内閣は議会に対して優越的な地位をもっていた そして, 内閣は天皇の信任にもとづき天皇に対して責任を負うものと規定され, 議会に対する責任は規定されていなかった また, 内閣や議会の政策を憲法に合致するかどうかを判断する権限は裁判所にはなく ( 枢密院が担っていた ), 行政からの指揮 監督を受けないという意味では司法権は独立していたが, 内閣 ( や議会 ) に対する監視 抑制の機能はもっていなかった 以上のデータを念頭に答案を作成すればよいのだが, 明治憲法のもとでの三権分立をどのように評価するかにより, 少なくとも2つのバリエーションがあるように思う 1 実質的な運用の側面に注目し, 三権分立主義が採用されていると評価したうえで, 行政の権限が大きく立法や司法の行政に対する監視 抑制機能が弱い, いいかえれば三権相互の抑制 均衡が確保されておらず, 三権分立主義としては不十分であると評価する 2 天皇による統治権の総覧を規定している以上, 形式面からいえば三権分立は採用されていないと評価したうえで, 実質的な運用面では三権が内閣, 帝国議会, 裁判所によって担われ, 三権の相互独立が確保されていると評価する そこで, この2つのパターンに従って解答例を作成してあります
12 解答例 両憲法ともに三権の相互独立を採用している点が共通する しかし大日本帝国憲法では, 統治権を総覧する天皇のもとに三権が集中する形式が採られたうえ, 天皇を輔弼する内閣のもとで行政が強い権限を握り, 立法や司法が抑制されたのに対して, 日本国憲法では国会が国権の最高機関と規定されたうえ, 内閣の衆議院解散権や司法の違憲立法審査権などが規定され, 三権相互の抑制が確保された (180 字 ) ( 別解 ) 大日本帝国憲法では, 行政, 立法, 司法はそれぞれ内閣, 帝国議会, 裁判所が実質的機能を担ったが, 統治権を総覧する天皇がすべて親裁する構造をとっており, 形式的には三権分立とはいいがたい それに対して日本国憲法では, 行政, 立法, 司法の権限がそれぞれ内閣, 帝国議会, 裁判所に帰属すると規定されたうえ, 議院内閣制, 司法の違憲立法審査権などが採用され, 三権分立が整っている (180 字 )
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14 2004 年度 第 1 問 次の年表を読み, 下記の設問に答えなさい 57 年 倭の奴国の王が後漢の光武帝から印を授かる ( 後漢書 東夷伝) 239 年 魏の明帝, 親魏倭王とする旨の詔書を卑弥呼に送る ( 三国志 魏書) 4 5 世紀 百済から和邇吉師が渡来し, 論語 千字文 を伝えたという( 古事記 ) 471 年カ 稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が記される 478 年 倭王武が宋の皇帝に上表文を送る ( 宋書 倭国伝) 607 年 遣隋使小野妹子が隋の煬帝に国書を届ける ( 隋書 倭国伝) 701 年 大宝律令が成立 地方行政区画の 評 を 郡 に改める 712 年 太安万侶が漢字の音訓を用いて神話等の伝承を筆録した 古事記 ができる 720 年 編年体の漢文正史 日本書紀 ができる 751 年 懐風藻 ができる 8 世紀後半 万葉集 が編集される 8 9 世紀 この時代の各地の国府 郡家などの遺跡から木簡が出土する 814 年 嵯峨天皇の命により, 最初の勅撰漢詩文集 凌雲集 ができる 905 年 醍醐天皇の命により, 勅撰和歌集 古今和歌集 ができる 935 年頃 紀貫之, 最初のかな日記である 土佐日記 を著す 11 世紀 紫式部, 源氏物語 を著す 設問古代の日本列島に漢字が伝えられ, 文字文化が広まっていく過程の歴史的背景について, 政治的動向にもふれながら,6 行以内で説明しなさい なお, 解答には下に示した語句を一度は用い, 使用した語句には必ず下線を引きなさい 国風文化勅撰漢詩文集唐風化政策渡来人万葉仮名
15 第 2 問 次の三種類の銭貨は,12 世紀以降の日本で流通したもので, 左から発行の古い順に並んでいる こ れを見て下記の設問 A C に答えなさい 設問 A 1は鎌倉時代の日本で使われていた銭貨の一例である これらはどこで造られたものか また, 流通した背景に国内経済のどのような変化があったか 2 行以内で述べなさい B 2は日本の遺跡で相当数がまとまった状態で発掘されることがある それが造られてから, 土中に埋まるまでの経過を,2 行以内で説明しなさい C 12が流通していた時代から 3 が発行されるまでに, 日本の国家権力にどのような変化があり, それが貨幣のあり方にどのような影響を与えたか 3 行以内で述べなさい
16 第 3 問 次の ⑴ ⑶ の文章は, 江戸時代における蝦夷地の動向について記したものである これらを読んで, 下記の設問に答えなさい ⑴ アイヌは, 豊かな大自然の中, 河川流域や海岸沿いにコタン ( 集落 ) を作り, 漁業や狩猟で得た ものを, 和人などと交易して生活を支えた 松前藩は蝦夷地を支配するにあたって, 有力なアイヌを乙名などに任じ, アイヌ社会を掌握しようとした また藩やその家臣たちは, アイヌとの交易から得る利益を主な収入とした ⑵ 18 世紀に入ると, 松前藩は交易を広く商人にゆだねるようになり,18 世紀後半からは, 全国から有力な商人たちが漁獲物や毛皮 木材などを求めて蝦夷地に殺到した 商人の中にはアイヌを酷使しながら, 自ら漁業や林業の経営に乗り出す者も現れた また同じころ, 松前 江差 箱館から日本海を回り, 下関を経て上方にいたる廻船のルートが確立した にしん ⑶ 蝦夷地における漁業は, 鯡 鮭 鮑 昆布などが主なものであった 鯡は食用にも用いられたが, 19 世紀に入ると肥料用の〆粕などに加工された 鮭は塩引として, 食用や贈答品に用いられ, また, なまこや鮑も食用に加工された 設問 18 世紀中ごろまでには, 蝦夷地は幕藩体制にとって, なくてはならない地域となっていた それはどのような意味においてだろうか 生産や流通, および長崎貿易との関係を中心に,6 行以内で説明しなさい
17 第 4 問 地租改正と農地改革は, 近代日本における土地制度の二大改革であった これらによって, 土地制度 はそれぞれどのように改革されたのか, あわせて 6 行以内で説明しなさい
18 解法の研究 第 1 問設問で問われているのは, 古代における文字文化の普及過程の歴史的背景 条件として, 政治的動向にもふれること, 5つの指定語句 ( 国風文化 勅撰漢詩文集 唐風化政策 渡来人 万葉仮名 ) を用いることが求められている この問題で最も注意しなければならないのは,< 文字文化の普及過程 >が問われているのではなく<その歴史的背景 > が問われている点である ところが, 年表形式で文字文化の普及に関するデータがしっかりと示されているため,< 普及過程 >の説明に終始してしまいかねない < 歴史的背景 ( 政治的動向を中心に )>に言及することを忘れていては, 設問の要求に応えたことにはならない その点を肝に命じておこう とはいえ, まずは< 文字文化の普及過程 >を時期区分しながら確認しよう ⑴ 弥生時代 57 年倭の奴国の王が後漢の光武帝から印を授かる ( 後漢書 東夷伝) 239 年魏の明帝, 親魏倭王とする旨の詔書を卑弥呼に送る ( 三国志 魏書) 漢字が中国との外交関係のもとで中国からもたらされた ただし, それに伴って倭内部で漢字使用が進んだかどうかは, 史料もなく, 分からない ⑵ ヤマト政権の展開期 4 5 世紀百済から和迩吉師が渡来し, 論語 千字文 を伝えたという( 古事記 ) 471 年カ稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が記される 478 年倭王武が宋の皇帝に上表文を送る ( 宋書 倭国伝) 607 年遣隋使小野妹子が隋の煬帝に国書を届ける ( 隋書 倭国伝) 渡来人により漢字がもたらされ, ヤマト政権は彼らに記録 出納 外交文書作成などの職務を担わせた ( 史部 ) それにともなって倭内部で漢字の使用が始まったことが, 稲荷山古墳鉄剣などの金石文 ( 地方豪族とヤマト政権との関係を記す文字資料 ) や中国への国書によりわかる さらに, 地名や人名といった日本語 ( 倭語 ) が漢字の音訓を借りて表記されるようになった ⑶ 律令国家の展開期 701 年大宝律令が成立 地方行政区画の 評 を 郡 に改める 712 年太安万侶が漢字の音訓を用いて神話等の伝承を筆録した 古事記 ができる 720 年編年体の漢文正史 日本書紀 ができる 751 年 懐風藻 ができる 8 世紀後半 万葉集 が編集される 8 9 世紀この時代の各地の国府 郡家などの遺跡から木簡が出土する 律令国家のもとでは文書行政 ( 文書を用いた情報伝達 ) が行われ, 漢字の使用が本格化 浸透する そして漢文学 ( 漢詩文 ) が展開するとともに, 漢字の音訓を用いて日本語を表記する万葉仮名が成立する なお, 各地の国府 郡家などの遺跡から木簡が出土する というデータが, 文書行政を意識させるためのデータであることはわかると思うが, 大宝律令制定により 地方行政区画の 評 を 郡 に改める とのデータも, そのことが藤原宮出土の木簡により判明したことを考えれば, 同じように文書行政を意識させるデータと考えることができる ⑷ 律令国家の再編期 ( 弘仁 貞観文化期 ) 814 年嵯峨天皇の命により, 最初の勅撰漢詩文集 凌雲集 ができる 平安初期は唐風文化の全盛期で, 文章経国思想 ( 漢文学の政治的な有効性を強調する考え ) のもと漢文学が隆盛し, 漢字文化の習熟が進む ⑸ 国風文化期 905 年醍醐天皇の命により, 勅撰和歌集 古今和歌集 ができる
19 935 年頃紀貫之, 最初のかな日記である 土佐日記 を著す 11 世紀紫式部, 源氏物語 を著す 文化の国風化が進む それを象徴するのが仮名文字の発達で, その結果, 日本人特有の感情や感覚を生き生きと伝えることが可能になっ た ( 詳説日本史 山川 ) などと評価されるように, 文字文化が広く日本社会のなかに浸透していった 以上を概観すれば, ⑴ 弥生時代 = 中国との外交関係のもとで< 漢字が流入 > ⑵ヤマト政権の展開期 =< 漢字の使用が始まる> ⑶ 律令国家の展開期 =< 漢字の使用が本格化 浸透 > 漢文学が展開, 漢字の音訓を用いた万葉仮名も成立 ⑷ 律令国家の再編期 =< 漢字文化の習熟が進む> ⑸ 国風文化 =かな文字の発達のもとでかな文学が展開 < 独自の文字文化が形成 > このように< 文字文化の普及過程 >を整理することができるが, ここで答案を書いてしまってはダメだ 最初に確認したように,< 文字文化の普及過程の歴史的背景 >が問われているだから, 普及過程を説明しつつも< 歴史的背景 >( 政治動向を含む ) をメインにすえた答案を作り上げることが不可欠である そのことを意識してデータを編成し直すと ⑴と⑵は, まとめてしまえば< 漢字の流入 使用開始 >の時期だが, それは中国との外交関係が契機のひとつとなっている つまり, 中国を頂点とする国際秩序に組み込まれるなかで, いいかえれば, 中国を中心とする漢字文化圏に包摂されるなかで, 日本に漢字という文字が流入し, その使用が始まる 用途は記録, 外交文書の作成などであり, その担い手となったのは渡来人であった ⑶について 行政の実務において, また天皇による支配の正統性を主張する史書の編纂において漢文が用いられただけでなく, そもそも律令が漢文で書かれていた つまり, 唐にならった律令国家の建設ゆえに, 漢字使用が本格化し, 社会のなかに浸透していったのだと言える なお, 律令国家の建設事業は唐を模倣したものだから, その事業そのものを 唐風化政策 と形容することが可能かもしれない 受験生の答案としてはそれでもよいとは思うが, 実際には大宝律令制定以降, 律令国家が展開し, 社会の実情に適合させようと再編が進められるなかで唐風化政策が進む その典型が平安初期, 特に嵯峨天皇の時代である その意味では, 唐風化政策 という指定語句は, 律令国家建設を説明する語句としてではなく, 平安初期のところで用いるのが適当だろう ⑷は, 唐風化政策が推進された律令国家再編期で, 文章経国思想のもと, 貴族 官人に漢文学 ( 漢詩文 ) の教養が要請された時代である それゆえ, 漢文学が全盛を向かえ, 漢字文化の習熟が進む このように⑶ ⑷の時期を通じて漢字文化の浸透 習熟が進むなかで, 漢字の音訓を用いて日本語を表記しようとする動きが展開し ( 万葉仮名 ), さらに仮名文字が発達してくる つまり, 仮名文字を使った独自の文字文化 (⑸) が展開していく背景 基礎には, 唐風化政策のもとでの漢字文化の習熟があったのである つまり,⑷は⑸の歴史的背景と位置付けることができる 解答例 中国を中心とする漢字文化圏に包摂される中, 外交や国内支配の必要上, 渡来人を担い手に漢字使用が進んだ 律令制が成立すると, 国家を正統づける法典や史書の編纂, 文書行政の浸透から漢字使用が拡大し, 万葉仮名も成立した 唐風化政策が進んだ平安前期には, 文章経国思想から勅撰漢詩文集の編纂など行われて漢字文化の習熟が進み, かな文字の成立を基礎とする国風文化の前提となった (180 字 )
20 第 2 問 A 問われているのは, ア1がどこで造られたものか, イ流通した背景としての国内経済上の変化 アについて 写真は見たことがなくとも, 設問文に 鎌倉時代の日本で使われていた銭貨の一例 と説明してあることから, 宋銭であることは察しがつくだろう イについて 国内経済のどのような変化が宋銭の流通を促したのかが問われているのだから, 考えることは,< 国内経済のどのような変化 >が貨幣に対する需要を高めたのか, である その点を考える前に, まず, 貨幣とはどのような役割を果たすものなのかを概観しておこう a 価値尺度品物がどれくらいの価値 ( 交換価値 ) をもつかを表示する基準 b 交換 ( 流通 ) 手段品物を交換するに際し, それへの対価を支払うために用いられる そのため, 貨幣を媒介することで商品はさまざまな人々の手を経て流通していく c 支払手段人々が国家へ租税を納入したり, 国家や企業などが給与を支払うのに用いられる d 蓄財手段貨幣は, 蓄えている財産の規模を表示してくれ, そのため, 貨幣を蓄えることが財産蓄積の行為ともなる e 価値増殖の手段他人に貸付け, 利子をつけて返済させることで, 価値を増殖させることができる f まじないの手段通過儀礼 祭礼など社会的儀礼の一環として授受され, 呪力をもつものとして, あるいは呪力そのものとして機能することがある このように貨幣はさまざまな役割を果たすが,< 経済 >に限ればa eの4つ これらのうち, 国内経済上の変化に伴って需要が増えたのはどれだろうか 鎌倉時代には, 農業生産が発達するとともに, 荘園年貢の輸送を媒介として商品流通が活発化していったことを念頭におけば,bの役割を果たす貨幣に対する需要が増加していたことが推察できるだろう これで答案はできあがるが, 後は商品流通が活発化した様相を具体的に説明することを忘れないでおこう なお, ( 代 ) 銭納 は書いてはダメだ ( 代 ) 銭納 とは年貢などを貨幣で納入することなのだから, 貨幣が流布した結果 影響ではあっても, その原因 背景ではない ちなみに, 貨幣は素材面からみると, 物品貨幣 ( 米 布など ), 金属貨幣 ( 金銀銅など ), 信用貨幣 ( 紙幣など ) があるが, 金属貨幣は物品貨幣に比べて, 分割しやすく, 持ち運びに比較的便利であり, また耐久性があるなどの理由から交換手段として適していた B 問われているのは,2の貨幣が造られてから, 土中に埋まるまでの経過 まず考えることは, どこで造られたのか 図版では旧字が用いられているが, 永楽通宝 であることが判読できれば ( 推測できれば ),2 が明で造られたことがわかる 次に考えることは, 明で造られた2がどのような経緯で日本に相当数流入したのか 15 世紀には日明間で勘合貿易が行われ, それを通じて2に代表される明銭が大量に輸入されたことは知っているはず さて, 次は何を考えればよいだろうか まさか, 明から輸入されてそのまま, まとまった状態で土中に埋まったわけではないだろう となると, 輸入されてから土中に埋まるまでに, どのような経過をたどったのかを考える必要がある その際, 注意しておきたいのは次の2 点 ア問題文では 土中に埋まる と書いてあるが, 貨幣 ( 明銭 ) が自然に埋まったのか, それとも誰かによって人為的に埋められたのか イ問題文で 相当数がまとまった状態で と書かれていることから, どのようなことを推論できるか まず, アについて 発掘されているのが1,2 例であれば自然に埋まった可能性もある しかし, 発掘例がそれほど少ないのなら, わざわざ問題として出題されるだろうか? となれば, 人為的に埋められたと考えておくのがよさそうだ 誰かが一人で, ある
21 いは複数の人間が共同して明銭を埋めたのだろう 続いて, イについて 相当数がまとまった状態で ということは, 埋めた人 ( もしくは人々 ) が相当数の明銭を手元にもっていたはずで, 言い換えれば, 相当数の明銭を蓄蔵していたはず ここで,Aで確認した貨幣の果たす役割を思い出してほしい dとして蓄財手段という役割を指摘したはず これと総合して考えれば, 明銭は日本に流入して以降, 交換 ( 流通 ) 手段として機能するとともに, 人々によって蓄えられ, 蓄財手段としても機能するようになっていたことが想像できるだろう これで, 明銭が土中に埋まる直前までの経過は推論できた 残るは, 埋めた理由である 実は, 理由については学者のなかでも議論が分かれていて, 戦乱などから財産を守るため, あとで掘り返すために土中に埋めておいたのだという説と, 土地開発を行う際に神仏にささげたものだという説 ( 今でも家を建てるときに神主に来てもらってお払いすることがある ) がある こうなると受験レベルではお手上げとも言え, 最低限, 銭貨が蓄財手段としても機能するようになっていたことが指摘できれば十分なのではないかと思う C 問われているのは,12が流通していた時代から3が発行されるまでに, ア日本の国家権力にどのような変化があったか, イそれが貨幣のあり方にどのような影響を与えたか アについて 最初にやっておかなければならないのは,123が流通していた時代それぞれについて国家権力のあり方を整理することである 1 鎌倉時代鎌倉時代は鎌倉に武家政権, 京都に公家政権が存在し, 公武二元支配が行われた時代であり, 承久の乱 蒙古襲来を経るなかで武家政権の支配力が拡大していくものの, 最後までこの枠組みは維持され続けていた さらに, 荘園公領制のもと, 天皇家や摂関家, 延暦寺 興福寺 伊勢神宮といった権力者が荘園や知行国によって家産を形成し, 私的な勢力として割拠しており ( 権門体制 ), 鎌倉幕府もそうした権門としての性格を共有していた つまり, 一元的な国家権力が存在しなかったのが鎌倉時代であった 2 室町時代南北朝動乱を経て全国支配を形成した室町幕府は, 朝廷の権限を吸収して公武一統を実現していったが, その全国支配は守護領国制に依拠することで初めて実現しており, 地方分権的な性格が強かった また, 天皇家や摂関家, 有力寺社の領主権はその実質を失っていった ( 経済的な権益へ転化 ) とはいえ, 荘園公領制は社会の基本構造として残っており, 室町幕府 守護大名もそれを否定できていなかった つまり, 室町時代も一元的な国家権力が不在であった 3 江戸時代江戸時代の支配体制は幕藩体制と呼ばれ, 各地に諸大名が領地 ( 領知 ) をもち, ある程度の自由裁量を認められ地方統治を担っていた この意味では江戸時代も地方分権的だが, 室町時代とは異なり, 中央集権的な性格が強かった それは, 石高制を基礎とする大名知行制が形成されていたからである つまり, 石高制のもと, 幕府が所領与奪の権限を握り, 諸大名の領知は一時預かりと認識されていたのである 以上のデータをもとに,12の時代と3の時代とで国家権力がどのように異なっていたのかを整理すると, 次のようになる 12の時代 = 一元的 統一的な支配力をもつ国家権力が不在 3の時代 = 石高制を基礎に統一権力が出現次にイについて 貨幣のあり方にどのような影響を与えたか を考える前に, 貨幣のあり方 を考えておこう そのうえで 影響 を考えればよい 12が流通していた時代中国から流入した各種の宋銭 明銭が流通し, さらに室町時代後期には私鋳銭が流通するなど, さまざまな銭貨が混在し, 統一性が欠如していた
22 3が発行された時代 3は江戸幕府が発行した寛永通宝だが, これが大量に鋳造 供給されることで全国に流通する銭貨の統一が実現した このことは, 江戸幕府が石高制を基礎とする統一権力として成立し, それゆえ貨幣鋳造権を独占したために可能となった-これが問われている 影響 である 解答例 A 宋 荘園公領制下での畿内への年貢輸送を媒介に遠隔地間商業が発達し, 各地で定期市が開催されるなど貨幣需要が高まっていた B 明で鋳造されて勘合貿易で流入し, 経済発展にともなって蓄財の手段ともみなされ, 戦乱の中で隠匿などを目的に埋納された C 統一権力が不在の中世は, 中国銭を中心に多様な貨幣が混在したが, 石高制を基礎に統一権力が樹立された江戸時代は, 貨幣鋳造権を掌握した幕府のもと, 同じ規格をもつ貨幣が全国的に通用した 第 3 問問われているのは, 蝦夷地が幕藩体制にとって, どのような意味で, なくてはならない地域となっていたか 蝦夷地が幕藩体制において果たした役割, と言い換えることができるだろう そして条件として, ア生産, イ流通, ウ長崎貿易との関係を中心に説明することが求められている まず 蝦夷地 とは何か, どのような地域であったのか, を確認しておこう 蝦夷地 とは, ほぼ現在の北海道を指す呼称 ( 千島や樺太の一部も含む ) であり, この地域にはアイヌが居住していたが, アイヌの居住地域は北海道から東北北部まで及んでおり, 蝦夷地 とアイヌ居住地が一致していたわけではない では, 蝦夷地 はなぜ 蝦夷 地と称されたのか 蝦夷地とは, 厳密にいえば北海道全域を指すのではなく, 松前地 ( 和人地 )= 松前氏の領地を除いた地域の呼称である 松前氏は将軍と主従関係を結んだ大名だから, その領地以外の地域ということは, 結局, 江戸幕府による幕藩制支配の及ばない地域 ( 異域 ) だ ( だった ) と言える だからこそ 蝦夷 地なのである とはいえ, 幕藩制支配 ( 幕藩体制 ) と無関係だったわけではない 蝦夷地は松前氏が交易の独占権を保障されており, 松前藩はそのことを基盤として存立していた ( 石高に裏づけられた土地の支配権ではなく, 蝦夷地交易の独占権のみを存立基盤としていた点において, 松前氏は非常に特異な大名である ) 松前氏は, 家臣に対して交易権を分与すること ( 商場知行制 ) を通じて藩制を成り立たせていたのである このように, 蝦夷地は松前氏を通じて幕藩体制と関係づけられており, ある意味では, 宗氏を介した朝鮮, 島津氏を介した琉球と共通するものがあったと言える 実際, 蝦夷地は朝鮮や琉球とともに江戸幕府に服属する存在と位置づけられ ( だからこそ 蝦夷 地と称されたのだと言えよう ), 朝鮮や琉球のように幕府のもとへ使節を派遣することこそなかったが, 将軍の代替りに際して諸国に派遣された巡見使に対して服属儀礼 ( ウィマムという ) を行っていた では続いて, 資料文の内容確認に入ろう ⑴ アイヌは漁業や狩猟で得たものを和人などと交易 松前藩はアイヌとの交易から得る利益を主な収入とする 松前氏は江戸幕府から蝦夷地交易の独占権を認められていた ( 家臣に対してその交易権を分与 = 商場知行制 ) ⑵ 18 世紀以降, 松前藩 = 場所請負制へ移行 商人が漁獲物や毛皮 木材などを求めて殺到 18 世紀後半頃 = 松前 江差 箱館 日本海 下関 上方という廻船のルートが確立 ⑶ 蝦夷地での漁獲物とその用途 鯡 食用, 肥料用の〆粕への加工 (19 世紀 ) 鮭 食用や贈答品 なまこや鮑 ( あわび ) 食用
23 さて, 以上を念頭におきながら, 蝦夷地とア生産, イ流通, ウ長崎貿易との関係について確認していこう ア生産との関係 資料文 ⑶に 肥料 への加工についての説明があり, 農業生産の発展に関わっていたことがわかる 〆粕は干鰯と同じように, 綿作などの商品作物生産にかかせない肥料であった なお, 設問では 18 世紀中ごろまでには, 蝦夷地は幕藩体制にとって, なくてはならない地域となっていた と記されているものの, 資料文 ⑶によれば, 〆粕への加工は 19 世紀以降のことという ここに注目すれば, 〆粕を考察の材料から除外した方がよいようにも見える しかし, 〆粕を除外すれば 生産との関係 を考える素材がなくなってしまう また, 出題者があえて資料文に書き込んだということは, 受験生に考察の材料として提示したことを意味している それゆえ, 時期のズレを意識する必要はないだろう ( なお, 実際には 18 世紀にも〆粕への加工は行われており, もしかすると誤植かもしれない ) イ流通との関係 松前 江差 箱館 日本海 下関 上方という廻船のルートを通じて漁獲物が各地に流通した とまとめようと考えた受験生が多いのではないか思う しかし, それは, 蝦夷地と 流通 との関係についての説明なのだろうか 蝦夷地の産物が流通する様子を説明しただけのことではないのか そもそも流通とは, 商品の物理的な移動, そして移動させるための活動を指す言葉であり, それは商品の運輸 保管や商品取引などの業務を専門とする業者が活躍する舞台である このことを念頭におけば, 単に蝦夷地の産物が流通する様子を説明するのにとどまるのではなく, その流通に関わる業者や経路 機構に関する説明が必要となってくることがわかるだろう さて, 資料文 ⑵には,18 世紀後半頃に 松前 江差 箱館から日本海を回り, 下関を経て上方にいたる廻船のルート が確立したと書かれているが, このルートに活躍したのが 北前船 である この点は答案に明記しておきたいところだ 注この点については, 山川 詳説日本史 だけを参照している場合は, 気がつかなかったかもしれない なにしろ, 記載こそあるものの, 蝦夷地や日本海海運との関連についての説明はないのだから なお, 北前船はそれまでの廻船とはタイプの異なる新しい廻船であった それまでの廻船 ( たとえば南海路を就航する菱垣廻船など ) が荷主との契約で荷物を輸送し, その運賃を収益とする運賃積方式であったのに対し, 北前船は買積方式の廻船で, 船主が自ら買い入れた商品を積み, 輸送先で売却して利益をあげていた ( 尾張を拠点とした内海船も同様 ) 実教 日本史 B では, 次のように説明されている 西回り航路を利用して蝦夷地や北陸と大坂との間を運航した北前船は, 各寄港地で特産物の買い入れと積み荷の販売をおこなう買積方式によって大きな利益をあげた つまり, 北前船の船主たちは,( この問題に即していえば ) 鯡 鮭 鮑 昆布などの海産物 - 各地で食用品や贈答品などとして大きな需要がある商品 -を, 蝦夷地から日本海沿岸, そして下関, 瀬戸内海沿岸, 上方といった消費地へと運び, それによって大きな利益をあげていたのである-そのことが大坂 ( や江戸 ) の問屋を介さない商品流通を拡大させていく このように蝦夷地は, 北前船という新しいタイプの廻船業者を成長させる媒介となったわけである ウ長崎貿易との関係資料文 ⑶に なまこや鮑も食用に加工された とあるが, ここから 俵物 が想起できれば問題はない つまり蝦夷地は, 清向け輸出品として重要度を増していく俵物の重要な供給地だったのである 条件として列記された3 点は, 以上のように整理することができるが, これらだけで答案を書いてしまわないように注意してほしい 設問の要求は, 蝦夷地が幕藩体制にとって, どのような意味で, なくてはならない地域となっていたか である さらに, 資料文 ⑴にはア ウに集約できないことがらも記されている これらの点を考慮すれば, 解説の最初に確認した, 松前氏 ( 藩 ) の蝦夷地交易の独占権や商場知行制についても答案のなかに盛り込むことが不可欠であることがわかるだろう
24 忘れないようにしてほしい 解答例 蝦夷地では, 幕府から交易独占権を認められた松前氏が商場知行制を介して藩制を整備しており, そうした形で幕藩体制に組み込まれていた 18 世紀以降, 場所請負制が広がり, 和人商人により漁場経営が拡大すると, 西廻り航路を就航した買積の北前船に交易物を提供するとともに, 商品作物栽培に不可欠な〆粕, 長崎貿易での清への主要な輸出品である俵物の供給地として重要な役割を果たした ( 別解 ) 蝦夷地は, 幕府に交易独占権を認められた松前藩を通じて幕藩体制に組み込まれていた 松前藩は当初, 商場知行制を介して藩制を整えたが, のち場所請負制へ移行し, 漁場経営拡大を促した その結果, 上方など西日本各地と蝦夷地を結ぶ買積の北前船が成長する基盤となると共に, 商品作物栽培に不可欠な〆粕, 長崎貿易での清への主要な輸出品である俵物の供給地として重要な役割を果たした 第 4 問問われているのは,1 地租改正,2 農地改革によって, 土地制度がどのように改革されたか 平易な問題だが, 土地制度がどのように改革されたか と問われている点には注意が必要である 農地改革についてはそれほど注意を払わずとも問題ないが, 地租改正は一般的には税制改革として説明され, 理解していることが多い したがって, 納税者や課税対象, 納税方法を説明し, 影響についても国家財政や反対一揆についてしか説明しないような答案を書いていたら, 設問の要求に応えたことにならず, まともな得点は望めない 平易に見える問題ほど, 細心の注意を払ってほしい 1 地租改正について 地租改正は, 廃藩置県で全国の徴税権が中央政府のもとに集中したことを前提とし, 政府の財政基盤の安定を目的として実施された税制改革であった 1873 年に地租改正条例が出され, 大久保政権のもと,75 年から本格化し,80 年までにほぼ完了した 内容と影響は次のようにまとめることができる < 内容 > 地主 自作農に地券を交付し, 土地所有権を保障 ( 土地所有権者を確定 ) 納税者を確定 ; 入会地のうち, 所有権の確定できないものは官有地に編入 ( 法定 ) 地価に基づく定額金納制を導入 ; 小作料については現物納のまま < 影響 > 近代的な土地所有制度が確立 封建的な領有制が最終的に解体 ( 石高に基づく年貢収納権が家禄という形で, いわば遺制として存続していたが, その根拠が消滅 ) 農村社会と貨幣経済との結び付きがより深くなる ( 生産物の換金が不可欠 定額ゆえに物価変動が直接影響 ) 商業的農業が拡大, 農民の階層分化を促す基礎となる 地主制発達 2 農地改革について 農地改革は, 第 2 次世界大戦後,GHQが実施を指令したもので, 幣原喜重郎内閣が農地調整法を改正して着手するものの,GHQにより内容が不徹底とされ, 第 1 次吉田茂内閣が農地調整法を再改正, 自作農創設特別措置法を制定して実施した 軍国主義の基盤の一つとみなした寄生地主制を解体し, 自作農を広範に創出することで農家の所得水準の向上をめざしたものであった 内容と影響は次のようにまとめることができる
25 < 内容 > 地主の貸付地を制限 ( 不在地主を否定, 在村地主は北海道を除いて1 町歩 北海道は4 町歩 ) 小作農へ有償解放 ( 超過分を国が買収 小作農に売却 ) < 影響 > 寄生地主制が解体 自作農が広範に創出 山林原野は未解放 零細経営問題は未解決 解答例 地租改正では, 地主 自作農に地券を交付して土地所有権を保障して納税者を確定した上で, 地価に基づく定額金納地租を導入した その結果, 封建的領有制が解体されて近代的土地所有制度が確立したが, 階層分化が促されて地主制発達の契機となった 農地改革では, 地主の貸付地を制限し, 超過分を国家が買収して小作農に売却した その結果, 寄生地主制が解体し, 自作農が広く創設された
26 2003 年度 第 1 問 次の ⑴ ⑷ の 8 世紀の日本の外交についての文章を読んで, 下記の設問に答えなさい ⑴ 律令法を導入した日本では, 中国と同じように, 外国を 外蕃 蕃国 と呼んだ ただし唐を他と区別して, 隣国 と称することもあった ⑵ 遣唐使大伴古麻呂は, 唐の玄宗皇帝の元日朝賀 ( 臣下から祝賀をうける儀式 ) に参列した時, 日本と新羅とが席次を争ったことを報告している 8 世紀には, 日本は唐に 20 年に1 度朝貢する約束を結んでいたと考えられる ⑶ 743 年, 新羅使は, それまでの 調 という貢進物の名称を 土毛 ( 土地の物産 ) に改めたので, 日本の朝廷は受けとりを拒否した このように両国関係は緊張することもあった ⑷ 8 世紀を通じて新羅使は 20 回ほど来日している 長屋王は, 新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし, 使節と漢詩をよみかわしたことが知られる また,752 年の新羅使は 700 人あまりの大人数で, アジア各地のさまざまな品物をもたらし, 貴族たちが競って購入したことが知られる 設問 この時代の日本にとって, 唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか た て前と実際の差に注目しながら,6 行以内で説明しなさい
27 第 2 問 次の ⑴ ⑶ の文章を読んで, 南北朝内乱に関する下記の設問 A B に答えなさい ⑴ 南北朝内乱の渦中のこと, 常陸国のある武士は, 四男にあてて次のような譲状をしたため, その所領を譲った 長男は男子のないまま, すでに他界し, 二男は親の命に背いて敵方に加わり, 三男はどちらにも加担しないで引きこもってしまった 四男のおまえだけは, 味方に属して活躍しているので, 所領を譲り渡すことにした ⑵ 1349 年に高師直のクーデターによって引退に追い込まれた足利直義は, 翌年京都を出奔して南朝と和睦した 直義はまもなく京都を制圧し, 師直を滅ぼした その後, 足利尊氏と直義が争い, 尊氏が南朝と和睦した ⑶ 1363 年のこと, 足利基氏と芳賀高貞との合戦が武蔵国で行われた 高貞は敵陣にいる武蔵国や上野国の中小の武士たちを見ながら, 次のように語って味方を励ましたという あの者どもは, 今は敵方に属しているが, われわれの戦いぶりによっては, 味方に加わってくれるだろう 設問 A 当時の武士の行動の特徴を,2 行以内で述べなさい B 南朝は政権としては弱体だったが, 南北朝内乱は全国的に展開し, また長期化した このようなことになったのはなぜか,4 行以内で述べなさい
28 第 3 問 次の文章を読んで, 下記の設問 A B に答えなさい 17 世紀後半になると, 歴史書の編纂がさかんになった 幕府に仕えた儒学者の林羅山 林鵞峰父子は, 神代から 17 世紀初めまでの編年史である 本朝通鑑 を完成させ, 水戸藩では徳川光圀の命により 大日本史 の編纂がはじまった また, 儒学者の山鹿素行は, 戦国時代から徳川家康までの武家の歴史を記述した 武家事紀 を著した 山鹿素行はその一方,1669 年の序文がある 中朝事実 を書き, 国と国の優劣を比較して, それまで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや, 王朝の交替がなかったことなどを根拠に, 日本こそが 中華 であると主張した 設問 A 17 世紀後半になると, なぜ歴史書の編纂がさかんになったのだろうか 当時の幕藩体制の動向に関連させて,3 行以内で述べなさい B 下線部のような主張がうまれてくる背景は何か 幕府が作り上げた対外関係の動向を中心に, この時期の東アジア情勢にもふれながら,3 行以内で述べなさい
29 第 4 問 次の文章は民俗学者柳田国男が 1954 年に著したものである これを読んで下記の設問 A C に答え なさい 1878 年 ( 明治 11 年 ) の報告書を見ると, 全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない 以後平氏その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると, 米の使用量は漸次増加している とはいえ明治時代には農民は晴れの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい ( 中略 ) こんどの戦争中, 山村の人々は1 米の配給に驚いた 当局とすれば, 日常米を食わぬ村だと知っていても, 制度ともなれば配給から除外出来るものではない そうした人々は, 戦争になって, いままでよりよけいに米を食べるようになったのである ( 中略 ) それにしても大勢は明治以後, 米以外には食わぬ人々が増加し, 外米の輸入を余儀なくさせる状勢であった こうした食糧事情に伴って,2 砂糖の消費量の増加, 肉食の始まりなど, 明治年代の食生活の風俗は目まぐるしいほど変化に富んだものであった 設問 A 下線部 1 米の配給 はどのような背景の下で何のために作られた制度か,2 行以内で説明しなさい B 下線部 2のような食生活の変容をもたらした要因は何か,2 行以内で説明しなさい C 明治時代の農村の人々はなぜ都市の人々ほど米を食べていなかったのか,3 行以内で説明しなさい
30 解法の研究 第 1 問設問の要求は,8 世紀の日本にとって, 唐との関係 と 新羅との関係 のもつ意味にどのような違いがあるか 条件として, たて前 と 実際 の差に注目することが求められている 設問では, 唐や新羅との個別的な関係に焦点があたっているが, まずは律令国家日本の国際認識を考えておきたい その際に注目してよいのは, 資料文 ⑴にある 中国と同じように という表現である ここから, 日本は自国と外国との関係を 中国と同じように 作り上げようとしていたことがわかる つまり, 律令国家日本は自らを 中華 とみなし, 周辺地域は 野蛮な地域, 日本に服属すべき地域と考えていたのである このことを念頭におけば, 資料文 ⑴の 外国を 外蕃 蕃国 と呼んだ ことがどういうことなのか, 外蕃 蕃国 とはどのような意味をもっていたのかが了解できるだろう 蕃国 とは, 単に外国, 異国というのではなく, 日本に服属すべき ( する ) 国 を意味するのである では, 唐との関係 についてみていこう 資料文 ⑴では, ただし唐を他と区別して, 隣国 と称することもあった と書かれている ここから, 新羅や渤海といった諸国は 蕃国, 服属国と扱われていたのに対し, 唐は必ずしも 蕃国 とは扱われていなかったことがわかる ただし, 称することもあった という表現に注目すれば, 実は唐を 蕃国 と扱わなかったのではなく, 蕃国 と扱おうとすることもあれば, それとは区別して 隣国 と扱うこともあった, と考えるのが適当である これはどういうことか タテマエとしては唐も含めて日本に服属すべき地域と意識された ( 意識したかった ) のだろうが, 東アジアには唐を政治的 文化的中心とする国際秩序が成立しており, 日本としてもその存在を認めざるをえない- 実際, 白村江の戦いで唐に敗北している- それだけではない 資料文 ⑵によれば, 日本からの遣唐使は, 唐への 朝貢 と扱われ, 唐の皇帝のもとで催される儀式に 臣下 として参加している こうしたタテマエと実際のズレが, 唐を他と区別して, 隣国 と称すること " も " あった という事態をもたらしていたと考えることができる 次に 新羅との関係 について 最初に確認したように, 日本は周辺諸国を服属させ, それらに君臨する帝国を自認していたのだから, 新羅も服属国, 朝貢国と扱おうとしていた 資料文 ⑶のなかで新羅使が日本の朝廷にもたらした物資について それまでの 調 という貢進物の名称 と書かれている点 - 特に 貢進物 との表現 -からも, そのことがわかる ところが, 新羅側は,8 世紀半ばに, 貢進物の名称を 土毛 ( 土地の物産 ) に改めた という この行為は, それに対して日本の朝廷が 受けとりを拒否した ことも念頭におけば, 日本への服属国 朝貢国という立場から離脱し, 対等な立場を主張しようとして取った態度であることがわかる つまり, 新羅を服属国 朝貢国として扱うという日本側の姿勢は, 必ずしも新羅によって受容されていたわけではないのである-だからこそタテマエなのである- さらに, 資料文 ⑷をみると, 新羅を服属国, 新羅使を朝貢のための使節として扱おうとするタテマエと実際のズレは, それ以外にもあったことがわかる それによれば, 新羅使は貴族たちが 競って購入 しようとした アジア各地のさまざまな品物 をもたらしたという また, 長屋王のような, 遣唐使として派遣される可能性のない ( 少ない ) 皇族 上級貴族たちが大陸の文化 ( 漢詩など ) に直接接することのできる, またとない機会であったこともわかる さらに, 新羅使 (8 世紀に 20 回 ) は遣唐使 (20 年に1 回 ) に比べてきわめて頻繁に来日しており, 大陸の文化 文物を摂取する機会としては遣唐使とは比べものにならないくらい貴重なものであったことがわかる 解答例 独自の律令法を制定した日本は, たて前では唐とは独自に周辺諸国を服属させる帝国との立場をとったが, 実際には
31 唐を頂点とする国際秩序が成立しており, 日本の遣唐使も皇帝に臣下の礼をとる朝貢形式に従った 一方, 新羅をた て前では従属国として扱ったが, 実際には新羅が対等な立場を主張して緊張が生じていたし, 頻繁な新羅使の来日は 大陸文化摂取の貴重な機会という意味も持っていた 第 2 問 A 問われているのは, 南北朝内乱のころの武士の行動の特徴 行動 と尋ねられてピンとこない人は,Bから手をつけるとよい B 問われているのは, 南北朝内乱が全国的に展開し, また長期化した理由 基本的なテーマからの出題である 大きく言って柱は2つ 1 室町幕府の内紛 2 地方での武士団内部の分裂 抗争もう少し具体的にデータを補えば 1 室町幕府の内紛室町幕府において運営を分担していた将軍足利尊氏と弟の足利直義が対立し, 守護クラスの有力武士をまきこんで観応の擾乱が発生したことを出発点としている これは, 公武協調 ( 荘園公領制の秩序維持を第一に考える ) にたつ足利直義と, 荘園 公領の領主の権威を否定し, 在地での武士の権益拡大の動きを支持する高師直 ( 尊氏の執事 ) との対立を発端としており, 避けることのできない事態だったと言える 尊氏 直義両派は, 情勢の変化に応じて南朝と和睦して戦った ( 資料文 ⑵) が, 結局,1352 年に鎌倉で足利直義が殺害されて終結した こうして観応の擾乱は終結したものの, 直義派の守護たちの反乱は継続し, 中国地方では直義の養子足利直冬が山名氏などに擁されて抵抗を続けた 2 地方での武士団内部の分裂 抗争南北朝内乱期は, 所領相続法の転換を大きな要因として惣領制が解体していった時期である 鎌倉時代の武家社会においては, 所領は惣領 庶子 ( 女子も含めて ) で分割相続されていたが, 鎌倉後期以降, 惣領による単独相続へと移行しはじめ, それにともなって惣領の地位が強化, 庶子の地位が低下し, そのため, 一族 = 武士団の内部では対立 抗争が生じるようになっていた ( 資料文 ⑴ 二男は親の命に背いて敵方に加わり ) さらに, 鎌倉後期には, 荘園 公領の領主や幕府の支配に敵対する武士たちが地縁に基づいて党を結び, 悪党と称されて討伐の対象とされる状況が拡大しており, 鎌倉幕府の滅亡, 建武新政とその下での在地社会の混乱を経て, 南北朝内乱期には, 戦乱に乗じる形で, 荘園 公領の領主に対抗しながら所領支配権の拡大をめざす地方武士の動きも活発化していた このように抗争をくり広げる各階層の武士たちが, 情勢の変化に応じて, ある時は室町幕府 ( 北朝 ) 方に, ある時は南朝方についたため, 南北朝動乱は全国化, 長期化したのだ これらのデータをまとめれば答案ができるが, だからと言ってすぐにBの答案を書き始めてはダメだ 設問 Aでどのようなデータが求められているのかを考えたうえで, データを書き分けることが必要である さてAに戻ろう 問われているのは, すでに確認したように, 南北朝内乱のころの武士の行動の特徴であるが, 武士の行動 といえば, 先ほど確認した設問 Bで出てきた 完全に重複しそうだ そこで考えたいのは, 特徴 が問われたときは前後の時代との対比を意識する必要があることである そのように頭を働かせれば, 鎌倉前期 = 血縁に基づく惣領制 鎌倉後期 南北朝期 = 惣領制が解体して地縁重視の傾向 という図式が思い浮かぶだろう これに基づけば, 南北朝期の武士の行動は一族 ( 一家 ) として行動する惣領制が崩れているという点に特徴がありそうだと想像がつく 資料文 ⑴- 一家がまとまって行動するという形態が崩壊していること, 所領の単独相続が始まっていること-が, その事態を表している これは最低限,Aの答案に書き込みたい( ただし所領の
32 単独相続への移行は 武士の行動 ではないので省く ) とはいえ, それだけでは2 行の字数には不足する そこで資料文 ⑵⑶の内容も見ておこう 資料文 ⑵- 観応の擾乱のなかで, 足利尊氏 直義とも情勢の変化に応じて南朝と和睦して相手に対抗した 資料文 ⑶- 戦いぶりによって ( 合戦の状況によって ) 敵 味方がいれ代わる可能性が十二分にあった この両者に共通しているのは, 敵味方が理念により区別される ( 固定される ) のではなく, 情勢 状況の変化に応じて変化していっているという事態であり, これは当時の 武士の行動の特徴 と言ってよいだろう このように見てくれば, 足利尊氏 直義の対立や各地の武士団内部での対立 抗争はBで扱い, そうした抗争の当事者が情勢の変化に応じて, ある時は室町幕府 ( 北朝 ) 方に, ある時は南朝方についたことはAで書いておけばよいことがわかる 解答例 A 惣領の統率下に一族として行動する惣領制が崩壊し, 個々の武士団がその時々の利害関係や情勢に応じて敵味方に分かれて戦った B 各地の武士団では単独相続への移行に伴って所領支配をめぐる抗争が展開し, 室町幕府では足利尊氏 直義の対立が観応の擾乱へ発展して以降, 有力守護をまきこんで内部抗争が激しく, それに伴って南朝が京都を占領することもあり, 内乱は全国化 長期化した 第 3 問 A 問われているのは,17 世紀後半に歴史書の編纂がさかんになった理由 条件として, 当時の幕藩体制の動向に関連させることが求められている まず, どのような人びとが歴史書の編纂に携わったのか, を確認しよう 問題文では, 歴史書の編纂に携わった人びととして 儒学者の林羅山 林鵞峰父子, 儒学者の山鹿素行 が挙げられている いずれも 儒学者 である 水戸藩の 大日本史 については編纂者に関するデータが記されていないが, 大日本史 編纂の過程で水戸学と称される独自の朱子学派が形成されたことは知っているはず また, 林羅山 鵞峰父子は 幕府に仕えた 人物であり ( そこから幕府の命に基づいて 本朝通鑑 を完成させたことも推測できる ), 大日本史 の編纂主体は水戸藩( 親藩の一つ ) であった 山鹿素行の場合は異なるが, 幕藩領主 ( 特に徳川家 ) の側で歴史書編纂への動きが進んでいたことがわかる- 新井白石 読史余論 も想起したい- これらのことを念頭におけば, この問題は 17 世紀後半, 儒学者により, 主に幕藩領主のもとで歴史書の編纂がさかんになった理由 が問われていると, 読みかえることができる さて, ここで条件に目を向けてみよう 当時の幕藩体制の動向 に関連させることが条件づけられているが, まず 当時 = 17 世紀後半がどのような時代であったかを確認しよう 17 世紀後半 =4 代家綱,5 代綱吉の治世 政治面 文治政治が展開 経済面 小農経営を特徴とする本百姓体制が確立 農業生産力の向上東 西廻り航路の整備 = 全国的流通網が確立 経済流通の発達 文化面 元禄文化 外交面 明清の動乱 ( 明滅亡 清の中国支配 旧明勢力の抵抗 ) これがおさまった後は清船の来航が増加 = 長崎での貿易額が増加これらのデータのうち, 儒学者により, 主に幕藩領主のもとで歴史書の編纂がさかんになったことと関連があるのは, どれか? それを考えるには, 何を目的として歴史書が編纂されたのかを考える必要があるが, 三省堂 日本史 では次
33 のように説明されている 幕府や藩では, 統治者のふるまいがどのように政権の盛衰を左右したかを武士に自覚させようとしたので, 歴史の研究がさかんになった つまり, 武士に対して戦士 ( それが武士本来の役目である ) として以上に, 統治者 ( 為政者 ) としての自覚を求めようとする動き- 儒学の徳治主義を想起したい!-のなかで, 歴史研究がさかんになったというのである 武断政治から文治政治への転換という動向が, 歴史書編纂の活発化と関連していることがわかるだろう B 設問で問われているのは, 日本こそが 中華 である との主張がうまれてくる背景 条件として, 幕府が作り上げた対外関係の動向 を中心として説明すること, この時期 (17 世紀後半 ) の東アジア情勢にもふれることが求められている この問題を解くにあたって意識してほしいのは, 中華 である とは, どういう意味か 日本 こそ が 中華 である と, なぜ こそ と表現されているのか の2 点である これらを意識しながら, 条件についてデータを確認していこう まず, 幕府が作り上げた対外関係の動向から いわゆる鎖国制下の対外関係といえば, 次の3 点がポイント 1 日本人の海外渡航 帰国を禁止 2 対外交渉の窓口を四口に限定 = 自由な民間貿易を禁止 長崎口を幕府が直轄したほかは, 対馬口 鹿児島口 松前口はそれぞれ宗氏 島津氏 松前氏に委ねた 3 交渉相手を朝鮮 琉球 オランダ 中国 アイヌ ( 蝦夷地 ) に限定ところが, これだけの知識では 日本こそが 中華 である という主張との関連が見えてこない もう少し突っ込んだ知識 理解が必要になってくる 果たして, 幕府はこのような対外関係を作り上げることで何を実現させたのか, あるいは実現させようとしたのか 鎖国制形成の要因としては, キリスト教禁制を徹底させるための貿易統制の強化が指摘されるが, しかしそれは, 日本人の海外渡航 帰国を全面禁止するとともに, ポルトガル船の来航を禁止し, キリスト教国との交渉をオランダに限ったことの背景でしかない 交渉をもった朝鮮 琉球 オランダ 中国 アイヌをどのように位置づけたのかを考えなければならない そうでなければ, 当時 ( 鎖国制下 ) の対外関係の動向は見えてこない その際, 貿易 交易に交渉が限られていたオランダ 中国 アイヌを除外し, 国交をもった朝鮮 琉球に考察の対象を限定してもよいだろう 朝鮮からは将軍の代替りに ( 朝鮮 ) 通信使が来日し, 島津氏支配のもとで幕藩体制の枠内に組み込まれつつも独立国としての体裁が存続した琉球からは, 将軍の代替りに慶賀使, 国王の代替りに謝恩使が来日していた 琉球使節が異国風の風俗を強制されたことは教科書にも記載されているが, これらの使節来日は, 幕府の権威が海外へも及んでいるように見せかけるための儀礼 ( 演出 ) としての意味をもっていたのである ここから, 幕府が朝鮮や琉球といった異国を臣従させるかのような国際関係を作り上げていたことが分かるだろう-なお, オランダ商館長は毎年, 江戸へ参府することが義務づけられていたが, これもオランダ商館長の将軍への臣従を演出させるセレモニーであった- つまり, 幕府は, かつて明が東アジア世界において作り上げていた国際秩序を, 日本を中心として独自に作り上げようとしていたのである 中華 の模倣である ( 日本型華夷秩序などと呼ばれる ) 次に,17 世紀後半の東アジア情勢 この知識が欠落している受験生が多いだろう しかし, たとえば山川の 詳説日本史 では, 中国では漢民族の建てた明が 17 世紀半ばに滅び, 中国東北部からおこった満州民族の清が成立した と記述されており, この程度の知識で十分に対応できる その際, リード文に それまで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや, 王朝の交替がなかっ
34 たこと と記述されていることに注目しよう この記述を念頭におけば, 当時の中国では明清交替が進み, 異民族支配が成立していた - 華夷変態と称された-と整理することができる ここに 日本 こそ が 中華 である という主張の含意がある 異民族による征服 支配が進展した中国 ( という儒学の本国 ) よりも, 異民族による征服 支配を経験していない日本の方が 中華 としてふさわしいとの優越意識が生じたのである-とはいえ, 清が琉球に対して朝貢を求めた際, 幕府は琉球にそれに応じさせ, 清との争いを回避している- 以上を総合すれば, 山鹿素行という儒学者が 日本こそ 中華 である と主張した背景はおのずと見えてくる 江戸幕府は, 自らを 中華 と位置づけ, 中国とは独自に華夷秩序を作り上げていた ところが, 中国では 夷狄 による支配が形成されていた 日本も清もどちらも 夷狄 であることに違いはないのだが, 異民族による征服 支配を経験していないことを根拠に, 中国 ( という儒学の本国 ) よりも日本が 中華 としてふさわしいとの優越意識が生じたのである 解答例 A 幕藩体制が安定し, 礼儀による秩序を重視する文治政治が展開するにともない, 幕府の正統性を論証すると共に, 武士に対して為政者としての自覚を求めるため, 歴史書の編纂がさかんになった B 幕府は朝鮮 琉球 オランダを将軍に臣従する異国と位置づけ, 独自の華夷秩序を形成したが, 中国では明から清へと王朝が交替して異民族支配が進展したため, 中国に対する優越意識が生じた 第 4 問 A 設問で問われているのは, 米の配給制が作られた1 背景と2 目的 まず, 米の配給制が作られた時期を確認しよう 資料文では こんどの戦争中 とあるが, 米の配給制が導入されるのが日中戦争が長期化するなかでのこと (1941) であることは知っているだろう ところで, 米の配給とは米を国民に分配 支給していく制度だが, 米が食糧であることを考えれば, 国民に食糧を分配 支給していく制度であるといいかえることができる しかし, なぜ市場での流通ではなく, 米を分配していかなくてはならないのだろうか? 当然, 市場に出まわっている米が不足しているからだと推論できる つまり, 市場で不足している米を ( ある程度 ) 公平に分配し, 国民への食糧供給を ( それなりに ) 確保しようというのが, 配給制である では, なぜ市場への米の供給が不足しているのか? これを日中戦争の長期化と関連させて考えてみよう 日中戦争が長期化するなかで展開したのは戦時統制経済への移行であったが, それは軍需優先 民需抑制という原則のもとに資金 物資 労働力を統制運用するものであった それゆえ, 労働力や生産資材の不足により米作を中心とする食糧生産は次第に低下し, 市場への食糧供給が不足し, 食糧難が深刻になりはじめていたのである B 設問で問われているのは, 明治期に 砂糖の消費量の増加, 肉食の始まりなど のような食生活の変容をもたらした要因 砂糖の消費量の増加, 肉食の始まりなど と聞けば, 西洋的な食生活の普及が思い浮かぶだろうから, その理由を考えればよい 明治維新以降, 官吏や軍人をはじめとして西欧で成立していた近代的な生活様式の摂取が進んでいく いわゆる文明開化の風潮である ( そのなかで牛鍋が流行していたことは知っているはず) これで答案を終えるのも一つだが, 文明開化はあくまでも明治前期の風潮をあらわす表現にすぎない それで明治期全体を説明するのは不適切だといえる 明治中期以降に西洋的な食生活 - 広く考えれば西洋的な生活様式 -が普及していく背景も考えよう さて, どこで西洋的な生活様式が普及していくのか? それは, 官庁や軍隊, 小学校や工場 ( 機械制工場 ) であり, 官庁や工場 ( 機械制工場 ) の集中した都市においてである このことを念頭におけば, 工場 ( 機械制工場 ) が相次いで設立され,
35 資本主義経済が発展していったこと, そのもとで都市化が進展していったことが, 西洋的な生活様式 ( 西洋的な食生活 ) が普及した背景だと気づくだろう C 設問で問われているのは, 明治期の農村の人々が都市の人々ほど米を食べていなかった理由 明治期の農村 と問われて, 何が思いつくか? 地主制 ( 寄生地主制 ) を想起できれば解答の糸口はつかめたと言えるが, しかし, 地主制と農村での 日常米を食わぬ という状況をどのように関連づけるのか- 日常米を食わぬ 状況が, 農民の手許に米がほとんどないという事情によるものと推論すれば, その事情と地主制との関連を考えればよいことになる では, まず地主制 ( 寄生地主制 ) の内容を確認しよう 稲作中心の零細農家が基盤 小作料は現物で, 収穫のなかばに達するほど高率小作に従事した人びとは, 借金の担保とした土地を手放した没落農民を主体としていたが, 明治後期には産業革命が進展していたとはいえ, 工業発達がいまだ未熟であったため, 都市での就労機会がわずかで, 農村に滞留する人口が農地に比べて過剰であった そのため, 小作農の耕地は零細, 小作料も高率となったため, 農業経営は零細なものにとどまった 地主 収益を企業に投資したり, みずから企業をおこす 小作農 出稼ぎによって家計を補充次に, 農民 ( 農業生産者 ) の手許に米がほとんどなかった要因を考えてみよう 米生産がわずかであった なんらかの形で農民が生産米の大半を手放していたこの2つのいずれか, または両方を想定しえるだろう あとは, この2つと地主制の内容 とを関連づけて考えていけばよい + 零細経営を基盤としていたため米生産が停滞的 + 高率小作料により生産米の大半を収奪されていた他にも要因を考えることができる 特に については生活必需品や肥料などを購入するために, 残った生産米の多くも換金されたという要因も無視できない 最低限のところ, ここまでのデータがでそろえばよいが, これら以外としては, 以下の2 点を考えることができる 江戸時代には, 農村では米食が一般化しておらず, 雑穀をも主食としていた その食生活が明治期にも継承されていた 米は武士や町人らの主食となり, 農民は赤米や雑穀を主食とし,1 汁に野菜 魚の煮物など季節の産物や漬物ものなどをそえた食事をとるようになった ( 詳解日本史 三省堂) 都市人口の増加にともなって米需要が増大したため, 米は都市へと集中し ( それでも米供給が不足したため米の輸入が増加する ), 農村では不足した 解答例 A 日中戦争下に軍需優先の統制経済が展開し, 労働力不足などから米の生産 供給が低下したため, 最低限の国民生活維持を図った B 明治初期以来の文明開化の風潮と共に, 資本主義経済が発展して都市化が進展するにともない, 西洋的な生活様式が普及したため C 零細経営を基盤とする寄生地主制が発展し, そのもとで米の生産が停滞したうえ, 生産米の大半が高率小作料として地主により収奪され, 残った米も生活物資や肥料などの購入のため換金された ( 別解 ) 近世以来, 雑穀が主食であった さらに寄生地主制のもと, 米の生産が停滞したうえ, 高率小作料により大半が収奪され, 残った米も生活物資などの購入のため, 都市向け商品として換金された
36 2002 年度 第 1 問 平安時代に日本に伝来し広まった密教や浄土教の信仰は, 人々にどのように受け入れられていったか 10 世紀以降平安時代末に至るまでの, 朝廷 貴族と, 地方の有力者の受容のあり方について,7 行以内で説明しなさい なお, 解答には下に示した語句を一度は用い, 使用した語句には必ず下線を引きなさい ひじり 阿弥陀堂 加持祈禱 聖 寄木造
37 第 2 問 次のア エの文章を読んで, 下記の A D に答えなさい ア室町時代, 国人たちは在地に居館を設け, 地侍たちと主従関係を結んでいた 従者となった地侍たちは惣村の指導者層でもあったが, 平時から武装しており, 主君である国人が戦争に参加するときには, これに従って出陣した イ戦国大名は, 自分に従う国人たちの所領の検地を行い, そこに住む人々を, 年貢を負担する者と, 軍役を負担する者とに区別していった そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした ウ近世大名は, 家臣たちを城下町に強制的に集住させ, 領国内外から商人 手工業者を呼び集めたので, 城下町は, 領国の政治 経済の中心地として発展していった エ近世の村は, 農民の生産と生活のための共同体であると同時に, 支配の末端組織としての性格も与えられた 設問 A 室町時代の地侍たちは, 幕府 大名 荘園領主たちと対立することもあった 具体的にどのような行動であったか 3 行以内で述べなさい B 戦国大名は, 何を目的として城下町に家臣たちを集住させようとしたのか,4 行以内で述べなさい C 近世大名は, 城下町に呼び集めた商人 手工業者をどのように扱ったか 居住のしかたと与えた特権について,3 行以内で述べなさい D 近世の村がもつ二つの側面とその相互の関係について,4 行以内で説明しなさい
38 第 3 問 次の文章は, ジャーナリスト徳富蘇峰が,1916( 大正 5) 年, 政府のロシアに対する外交政策を支 持する立場から, 国民の対露感情を批評したものである これを読んで, 下記の設問に答えなさい 明治三十七八年役の, 大なる収穫あり そは百年来, 我が国民を悪夢の如く圧したる, 怖露病を一掃したること是れなり ( 中略 ) 対馬海の大海戦, 奉天の大陸戦は, 我が国民の自恃心を刺戟し, 憂うべきは, 怖露にあらずして, 却って侮露たらんとするの傾向さえも, 生じたりしなり ( 中略 ) 吾人は漫りに帝国の前途を悲観する者にあらず されど我が国民が小成に安んじ, 小功に誇り, 却って其の当面の大責任を, 放却しつつあるにあらざるかを, 憂慮せざらんとするも能わざるなり 設問 A 上の文章に言う 怖露病 がもっとも激しかったのは日清戦争直後のことであったが, その国際関係上の背景を,2 行以内で説明しなさい B 明治三十七八年役 の後, 上の文章の執筆時において, 日露両国政府の関係は, 戦争前とは大きく変化していた その変化の内容と理由とを,4 行以内で説明しなさい
39 解法の研究 第 1 問設問の要求は,10 世紀 平安時代末において密教や浄土教の信仰が朝廷 貴族と, 地方の有力者にどのように受容されていったか 注意しなければならないのは 10 世紀以降 に限定されていることである 平安初期には などと書き始めてしまうと設問での時期限定を読んでいないと受け取られかねない こう書くと, では 密教 が説明できないではないかと思ってしまう受験生がいるかもしれないが, 教科書をよく読んで欲しい 山川 詳説日本史 でも, 国風文化のところで 摂関時代の仏教は, 天台 真言の 2 宗が圧倒的な勢力を持ち, 祈祷を通じて現世利益を求める貴族と強く結びついた と書かれているように, 密教は 10 世紀以降においても圧倒的な勢力を誇っていたのである ( 鎌倉時代も同様 ) まず, 密教や浄土教が人びとのどのような期待に応えたのかを確認しよう 密教 ; 平安初期に本格的に導入されて以降, 加持祈祷により鎮護国家の役割を担うとともに, 病気平癒や安産, 立身出世など皇族 貴族たちの現世利益に応えた 浄土教 ; 人びとの極楽浄土への往生を約束した阿弥陀如来に対する信仰で, 死後における幸福 ( 地獄に落ちることなく浄土に往生すること ) を説く両者をまとめてしまえば, 密教や浄土教は人びとの現世や死後に対する不安に応えたのだと言える では, そうした不安が広がった背景は何であったか 10 世紀 平安時代末期といえば, 律令国家が大きく変質 解体して地方政治 在地の社会秩序が混乱し, そのなかで荘園公領制成立へ向けた動きが進んでいた 一言でいえば, 社会秩序の動揺 再編が進んでいた時代であった さらには, 地震 火山の噴火 長雨などの災厄や疫病の流行があいつぎ, 人びとは死と隣り合せの生活を続けていた ( それが陰陽道の浸透にもつながる ) 一方, 仏教の末法思想 - 釈迦の死後, 正法, 像法を経て, 修行する人も悟りを開く人もいなくなる ( 釈迦の教えだけが残る ) 末法の時代が訪れるとする思想 -が普及し, 当時,1052 年から末法となると信じられていた こうしたことが, 人びとの社会不安を増幅させていたのである さて, 密教や浄土教がどのように受容されたのか 密教 ; 朝廷 鎮護国家 ( 護国 ) の法会や祈祷を行わせる皇族 貴族の帰依 造寺造仏や荘園寄進浄土教 ; 市聖空也や源信, さらには各地を遍歴した民間の僧侶 ( 聖 ) の活動により貴族, 奥州藤原氏のような地方の有力者や庶民に普及 浄土教美術の発達阿弥陀堂建築 = 藤原頼通の平等院鳳凰堂, 奥州藤原氏による陸奥平泉の中尊寺金色堂寄木造の阿弥陀如来像, 来迎図など 解答例 律令体制が解体して社会秩序の動揺 再編が進むなか, 政変や疫病など災厄が相次ぎ, 社会不安が高まっていたことを背景に, 密教や浄土教は広く受容された 密教は加持祈禱によって鎮護国家の使命や現世利益に応え, 造寺造仏や荘園の寄進など朝廷 貴族から保護を受けた 来世での幸福を説く浄土教は天台僧源信や空也など聖の活動により普及し, 貴族や地方の有力者によって阿弥陀堂が建立され, 寄木造の阿弥陀如来像や来迎図など浄土教美術が発達した 第 2 問 A 設問の要求は, 室町時代の地侍たちの, 幕府 大名 荘園領主への対立的な行動を具体的に説明すること
40 まず, 地侍とはどのような存在であるかを資料文アで確認しておこう そこには2つのデータが示されている 1 国人たちと主従関係を結び, 国人に対して軍役をつとめていた 2 惣村の指導者層でもあったそして, ここから次の行動パターンを導き出すことができる 1 国人たちと軍事行動をともにする 2 惣村の百姓たちと行動をともにするそれぞれ具体的にはどのような行動だったのか この設問では, 幕府 大名 荘園領主との関係においてとられた行動のうち, それらに対する 対立的な行動 を説明することが求められている ( つまり協力的な行動については説明不要 ) 1 国人とともに国一揆を結び, 大名支配を排除して一定地域の自治を実現した 2 惣村の百姓たちとともに荘家の一揆を結んで強訴 逃散を行い, 荘園領主に対して年貢減免などを求める広域に結んで土一揆を起こし, 自ら徳政実施行動を展開するとともに, 幕府に対して徳政令発布を求める B 設問の要求は, 戦国大名が城下町に家臣たちを集住させた目的 資料文イがこれに対応するが, そこでは 家臣 という語が用いられていない したがって, まず 家臣 とはどのような人々を指すのかを資料文イを使って明確化しておく必要がある 資料文イでは 自分に従う国人たち との表現があるが, 家臣とは 国人たち だけを指すわけではない 国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした と書かれているのだから, 城下町に集住させられた家臣とは 国人や軍役を負担する人々 である ところで, 軍役を負担する人々 とはどのような人々なのか 在地に居住するもので, 国人以外に軍役を負担する人々といえば, 資料文アで 平時から武装しており, 主君である国人が戦争に参加するときには, これに従って出陣した と説明されている地侍を指すものと想像できる しかし, 資料文イでは注意深く 地侍 という語が避けられている もともと地侍とは百姓身分でありつつ武士身分でもあった人々なのだから, 年貢を負担する者 であるとともに 軍役を負担する者 でもある そのことを念頭におけば, 地侍のなかには 軍役を負担する者 として城下町へと集住していった者もおれば, 年貢を負担する者 ( つまり百姓身分 ) として在地に留まった者もいるということがわかる この作業を通して戦国大名は, 軍役負担を軸として領主 - 百姓関係を確定しなおそうとしているのであり, いいかえれば, 兵農分離を推進しているのである さらに, 領主として把握された 国人 や 軍役を負担する人々 ( 地侍 ) は, もともと 在地に居館を設け ( 資料文ア ), あるいは 惣村の指導者層 として, 百姓に対して直接的な関係をもっていた人々であったが, 彼らを城下町に集住させることは在地から引き離すということであり, 彼らの在地に対する支配力 ( 在地性 ) を弱体化させるとともに, 年貢を負担する人々 = 百姓に対する戦国大名の直接支配を志向するものであった さて, 戦国大名の家臣に編成された 国人や軍役を負担する人々 は, 戦国大名が戦争を行うときは これに従って出陣した 人々であり, すなわち戦国大名のもとでその軍隊を構成した人々である そして, 城下町とは戦国大名の居城の回りに形成された町であり, 戦国大名の直接監視下にある地域といえる ここから, 家臣を城下町に集住させることは, 軍隊 ( 家臣団 ) に対する統制を確保するとともに迅速な軍事動員 ( 軍隊編成 ) を可能にするという効果をもっていたこともわかる C 設問の要求は, 近世大名が城下町に呼び集めた商工業者の扱い方に関し,1 居住のしかた,2 与えた特権について説明すること 1について 城下町には武家地, 寺社地とならんで町人地と称される地域が設定され, 商人や手工業者はその地域のなかに職種ごとに居住させていた 2について 商人や手工業者の集住を促すため, 地子銭を免除し, 営業の自由を保障するなどの特権を与えた そして, このようにして城下町に呼び集めた商人や手工業者は, 城下町に集住する家臣団に対して生活物資や軍事物資を供給することが期待されていた
41 D 設問の要求は, 近世の村がもつ1 二つの側面,2その相互の関係 対応するのは資料文エであるが, そこでは 近世の村は, 農民の生産と生活のための共同体であると同時に, 支配の末端組織としての性格も与えられた と書かれており, 二つの側面 がア農民の生産と生活のための共同体, イ支配の末端組織であることがわかる まずはそれぞれの具体的内容を確認しよう ア農民の生産と生活のための共同体室町時代に惣村が形成されて以降, 村では用水や山野などの入会地を管理し, 祭礼などの行事をともにし, 結とよばれる相互扶助による共同労働もさかんであった さらに, 有力名主 = 地侍を指導者層として自治が行われ, 領主に対する年貢の百姓請 ( 地下請 ), 警察権を自ら行使する自検断などにより在地における行政の基本単位としても機能していた イ支配の末端組織太閤検地では村ごとに検地帳を作成し, 村を支配の末端組織として把握していった ( 村切り ) が, 江戸時代でもそれが継承された 幕藩領主は, 村方三役と総称される村役人を中心とする自治を保障するとともに, 年貢 諸役は村高を基準として賦課し, 村全体の責任のもとで納入させる村請制を採用した 次に, 相互の関係 である 上ですでに確認したように, 室町時代以来, 在地では百姓たちの生産と生活の共同体として村が形成されてきており, さらに百姓たちによる自治も進展してきていた それに対して幕藩領主は, 自治を保障し, 村内部のことがらについてはその自律性にゆだねたのであるから, 二つの側面相互の関係は, 幕藩領主が村の自治 共同体的慣行を百姓支配のために利用した と表現することができる 解答例 A 惣村の指導者として荘園領主に対して年貢減免などを求めて強訴 逃散を行い, 土一揆を主導して幕府に対して徳政令発布を求めた また, 大名支配の排除をはかる国一揆に参加することもあった B 軍役負担を軸として領主 百姓関係を確定しなおして兵農分離を進め, 家臣に編成した国人や軍役を負担する人々を在地から切り離して百姓の直接支配を志向するとともに, 彼らを直接監視下において家臣団統制を強化しつつ迅速な軍事動員を確保しようとした C 城下町に集住する家臣団に対する生活物資と軍事物資の供給を安定的に確保するため, 地子銭免除などの特権を与えて商工業者を集め, 武家地とは区別された町人地に職種ごとに居住させた D 村は用水や入会地などの管理, 結とよばれる相互扶助が行われる生産と生活のための共同体であったため, 幕藩領主は村方三役を中心とする自治を保障し, 年貢の村請制を採用して村を支配の末端組織として位置づけ, 共同体的慣行に依拠した百姓支配を行った 第 3 問 A 設問の要求は, 日清戦争直後に 怖露病 がもっとも激しかったことの国際関係上の背景 いいかえれば, 国民のなかにロシアを恐れる意識 ( 敵対意識 対抗意識と読み替えてよい ) が高まっていたことの背景を, 国際関係, つまり日清戦争直後におけるロシアとの対立関係から説明せよ, というわけである まず三国干渉 日清戦争に勝利した日本が下関条約で遼東半島の割譲をうけたことに対し, ロシアがフランス ドイツとともに, 日本の遼東半島領有は朝鮮の独立を有名無実にするなど極東の平和に対する障害となるとの理由から, 遼東半島の清への返還を求めたものである 結局, 日本政府は干渉を受け入れて遼東半島を清へ返還したが, 国民のなかには 臥薪嘗胆 のスローガンに象徴されるロシアへの敵対感情が増大していった
42 そして朝鮮情勢 日清戦争を通じて日本の内政干渉が強まると, 朝鮮政府内部では, 閔妃を中心としてそれへの反発も強まっていった その結果, 三国干渉を契機として閔妃や国王高宗らはロシアに接近し, 日本に対抗しようとする動きをみせた これに対し, 日本の駐朝公使三浦悟楼らが朝鮮王宮に乱入して閔妃を殺害するという暴挙にでるが ( 閔妃殺害事件 ), かえって国王高宗のロシア公使館への避難という事態を招き, 親日派政府も瓦解に追い込まれてしまう このような動向が日本国民のロシアに対する敵意を増幅していたのである もっとも, 朝鮮内部の独立自主をめざす運動が高まるなか, 朝鮮政府に対するロシアの影響力も後退し, さらに日露間でも西 ローゼン協定などが結ばれ, 朝鮮での勢力均衡がはかられていった なお, 設問での設定時期は 日清戦争直後 なので, 北清事変を契機とするロシアの満州占領 については触れてはならない B 設問の要求は, 明治三十七八年役 前と 資料文の執筆時 における日露両国政府の関係の1 変化の内容と2その理由まず, 明治三十七八年役 が何という戦争であったか, 資料文の執筆時 (1916 年 ) はどのような国際情勢にあったのかを確認しておこう 明治三十七八年役 これが, 満州 韓国問題をめぐって日露両国が戦った日露戦争を指すことはすぐに判断できるはず その際, イギリスとアメリカが日本を支援した 資料文の執筆時 (1916 年 ) の国際情勢第一次世界大戦のさなかであり, 前年の 1915 年には第 2 次大隈内閣が中華民国袁世凱政府に対して二十一か条要求をだし, 最後通諜を突きつけてその大半を認めさせており, さらに 1916 年には同内閣により第 4 次日露協約 ( いわゆる日露同盟 ) が締結されている これは秘密条項で条約の適用範囲を満州 蒙古から中国全土へと拡大し ( 日露両国による中国の独占を企図 ), 第三国の中国支配を防ぐと規定しており, 攻守同盟ともいえる性格をもっていた 問題文の冒頭にある 政府のロシアに対する外交政策 とは, 具体的にはこの第 4 次日露協約を指すものと考えられる さて, 先に第 4 次日露協約 ( 日露同盟 ) では秘密条項で第三国の中国支配を防ぐことが規定されていたと書いたが, その 第三国 とは具体的にはどこをさすのか 条文では何ら明示されていないが, ドイツやアメリカを念頭においたものである 以上のことから, 日露両国政府の関係の1 変化の内容は明らかで, 対立関係から提携 協調関係への変化である まず日本の韓国支配に対するロシアの承認であり, 第二に日露協約 ( 日露協商 ) の締結である 日露協約は 1907 年に締結され, 満州における日露の勢力範囲を確定し, 両国間の提携 協調関係を築き上げた条約 もともと日本は, 日露講和条約 ( ポーツマス条約 ) でロシアから旅順 大連の租借権, 長春 旅順間の東清鉄道とそれに付属する利権を譲り受けたが, その結果, ロシアと権益地域が隣接することとなった 日本国内にはロシアの復讐を警戒する動きもあったが ( 特に陸軍 ), 南満州権益を安定して経営していくにはまずロシアとの緊張緩和が不可欠であり, そこに日露が提携関係を結ぶきっかけがあった もう一つの要因はアメリカの満州進出への積極的姿勢である ポーツマス会議のさなか, アメリカの鉄道企業家ハリマンが日本を訪れ, 長春 旅順間の東清鉄道の共同経営を申し入れ, 桂太郎首相との間で予備覚書を交わしたのが最初 この計画は, ポーツマス条約締結をすませて帰国した小村寿太郎外相の反対によって白紙撤回され, その結果, 日本は 1906 年, 半官半民の国策会社として南満州鉄道株式会社を設立し, アメリカ資本の直接投資を排除して南満州権益の独占を図った 翌 07 年に締結された日露協約はそうした日本の南満州政策を補完するものであった この後, アメリカは 1909 年, ノックス国務長官が満鉄中立化を提案するが,1910 年, 日露両国はその提案を拒否するとともに, 第 2 次日露協約を結んで緊密な協調関係をきずいた ( これにより日露再戦の危機がほぼ消滅した ) 1912 年の第 3 次日露協約は, 辛亥革命の発生と中華民国の成立, 清の滅亡という中国情勢の激動をうけて締結されたもので, 相互の勢力範囲を内蒙古にまで広げたもので ( 東部 = 日本 西部 =ロシア ), そして 1915 年の二十一か条要求に対するアメリカの反発をうけて, 翌 16 年に第 4 次日露協約 ( 日露同盟 ) が結ばれ, 両国の勢力範囲が中国全土に拡大された
43 解答例 Aロシア主導の三国干渉により遼東半島の清への返還を強いられ, 朝鮮では閔妃殺害事件もあってロシアの影響力が拡大していた B 日露戦争後, ロシアが日本の韓国支配を承認し, 南満州権益を譲渡したため, 対立は解消し, 他方でアメリカが満州進出を図って日本と対立したため, 協調関係へ転じた 日露協約を結んで満蒙での相互の権益を確保し, 第 1 次大戦期には軍事同盟へと発展させた
44 2001 年度 第 1 問 次の ⑴⑵ の史料と文章を読み, 下記の設問に答えなさい ⑴ ( 表 ) 尾張国智多郡冨具郷和邇部臣人足 ( 裏 ) 調塩三斗天平勝宝七歳九月十七日 ⑵ 一, 進上する調絹の減直 ( 価値を低めに設定すること ) ならびに精好の生糸について裁断を請う事右, 両種の貢進官物 ( 調の絹と生糸 ) の定数は, 官の帳簿に定めるところである ただし, 先例では, 絹 1 疋を田地 2 町 4 段に対して割り当て, 絹 1 疋の価値は米 4 石 8 斗相当であった ところが,( 藤原元命が国守となってから ) 実際に絹を納める日に定めとする納入額は, 絹 1 疋を田地 1 町歩余に割り当てている また精好の生糸にいたっては, 当国の美糸を責め取って私用の綾羅を織り, 他国の粗糸を買い上げて政府への貢納に充てている 平城宮から出土する奈良時代の木簡には, 地方からの貢納品に付けられて都に運ばれてきた荷札が多数見られる ⑴は, 調として貢納された塩 ( 調塩 ) の荷札で, 調塩を課された者の本籍地と氏名, 納めた塩の量, 納めた日付が記されている 調の課税は, 平安時代になっても存続した ⑵は, 同じ尾張国で国守藤原元命の暴政を訴えて 988 年に朝廷に提出された 尾張国郡司百姓等解文 の一部 ( 現代語訳 ) である 元命が先例を破って非常な重税を課していることを記しているが, 平安時代中期には, 調という税のあり方が律令制本来の姿とは変化していたことがわかる 設問奈良時代と平安時代中期で, 調の課税の方法や, 調が徴収されてから中央政府に納入されるまでのあり方にどのような違いがあったか ⑴⑵の史料からわかることを,5 行以内で具体的に説明しなさい
45 第 2 問 次の ⑴ ⑶ の文章は, おもに鎌倉時代の荘園について述べたものである これらを読み, また図をみ て, 下記の設問に答えなさい ⑴ 上野国新田荘は, 新田義重が未墾地の開発を進め, 既墾地とあわせて中央貴族に寄進して成立した のち義重の子息は地頭職に任命された ⑵ 東寺は, 承久の乱後に任命された地頭との間で, 丹波国大山荘の年貢のことについて契約を結んだ それによれば, 地頭は東寺に, 米 142 石, 麦 10 石のほか, 栗 1 石, また少量ながら干柿 くるみ 干蕨 つくしなどを納めることになっていた ⑶ 伯耆国東郷荘では, 領家と地頭の間で土地の折半がなされ, 領家分には地頭の支配は及ばなくなった 右の図は, このとき作成された絵図の略図である 設問 A 東国と西国では, 地頭がもっている荘園支配の権限にどのような違いがあったか 2 行以内で説明しなさい B 西国では, 荘園領主と地頭の間にどのような問題が生じたか また, それをどのように解決したか 2 行以内で説明しなさい C 荘園では, どのような産業が展開していたか 上の文章と図から読み取れることを2 行以内で述べなさい
46 第 3 問 次の文章は,1770 年代に生まれたある村の知識人が 1840 年代に村の変化を書き留めた記録から抜 粋し, 現代語訳したものである これを読んで, 下記の設問に答えなさい 昔, この村には無筆 ( 読み書きのできない ) の者が多かった 今では, そのようなことを言っても, 誰も本当のことだとは思わないほどである もっとも, 老人にはまだ無筆の人もいるが 以前, たいへん博学な寺の住職が隠居した後に, 儒教の書物などを教授することはあったが, そのころは村の人々に余裕がなかったためか, 学ぶことは流行しなかった しかし, そのうちに素読 ( 儒教書などを声を出して読むこと ) が流行し, 奉公人までが学ぶようになった さらに現在では, 学問, 俳諧, 和歌, 狂歌, 生け花, 茶の湯, 書画などを心がける人が多い この村では, まことに天地黒白ほどの変化が生まれたが, この村だけではなく世間一般に同じ状況である 設問 い 上の文章のような変化が生まれた背景を, 化政文化の特徴にもふれながら 5 行以内で説明しなさ
47 第 4 問 明治時代の日本における銅をめぐる問題について, 下記の設問に答えなさい 設問 A 次のグラフを手がかりとして, 銅の生産がこの時期の日本の経済発展にはたした役割について, 2 行以内で述べなさい B 銅の生産がもたらした社会問題について,3 行以内で述べなさい
48 解法の研究 第 1 問設問の要求は, 調の課税の方法と 調が徴収されてから中央政府に納入されるまでのあり方を, 奈良時代と平安時代中期とで対比すること 注意点は の要求に答えることを忘れないことである ⑴⑵の史料の字面だけを追って答案を作成しようとすると, に関するデータを書きもらしてしまう恐れがある 注意して欲しい まず最初に, 律令税制と平安中期以降の税制を対比しておこう 律令税制戸籍 計帳による公民支配を基礎 成年男子が負担する調庸など人頭税が中心調庸は公民の運脚により都へ運ばれた 平安中期以降の税制国司に対して一定の租税納入を請け負わせた人頭税から土地税への転換 名の広さを基準に官物 臨時雑役を賦課このデータを念頭におきながら⑴⑵の史料の内容を把握していこう ⑴- 奈良時代 - 問題文の説明のなかで, 史料 ⑴に記されたデータが 調塩を課された者の本籍地と氏名, 納めた塩の量, 納めた日付 であることは明記されている このうち, 本籍地 とは戸籍 計帳で登録されている住所であることはすぐにわかると思う また, 調を課された者の氏名が表記されていることから, 律令税制のもとでは調が成年男子を対象に課された人頭税であったことも改めて確認できるだろう とはいえ, これだけでは 調が徴収されてから中央政府に納入されるまでのあり方 には答えていない 公民みずからが都まで運搬したこと ( 運脚 ) を補ってほしい ⑵- 平安時代中期 - 調絹について 絹 1 疋を田地 2 町 4 段に対して割り当て と課税の方法が明記されており, 田地の広さを基準に課税されていることがわかる それ以外に述べられていることがらは, 元命が先例を破って非常な重税を課していること 当国の美糸を責め取って私用の綾羅を織り, 他国の粗糸を買い上げて政府への貢納に充てている ことの2 点である 史料 ⑵の最初のところで, 糸 ( 生糸 ) が調であったことが記述されており, そのことを念頭におけば, 後者のデータを 調が徴収されてから中央政府に納入されるまでのあり方 の説明のなかで活用すればよいことがわかる ( 前者については必ずしも活用する必要はない ) 国守藤原元命が 政府への貢納 を自ら調達している様子が描かれているが, それは, 先に確認したように, 平安時代中期以降, 国司が一定の租税納入を請け負うようになっていたことが背景にあった 国司が徴税請負人としての性格を強め, 課税率をある程度自由に上下させることができるなど権限が強化されたため, 非常な重税を課したり, 他国から交易により調達したものを政府への貢納に充てたりすることができたのである 解答例 奈良時代の調は, 戸籍 計帳による公民支配を基礎とし, 令の規定に従って成年男子に賦課 徴収された人頭税で, 公民の運脚により納入された 平安時代中期には徴税単位として新たに名が編成され, 調は名の広さを基準に賦課される土地税へと転換し, 国司が税率 調達方法ともある程度の裁量を認められ, 定額納入を請負った
49 第 2 問 A 設問の要求は, 地頭がもっている荘園支配の権限について, 東国と西国とで比較すること さて, 東国と西国で何が異なるのか まずは資料文を参照してみよう 資料文 (1) は上野国新田荘についての記述だから, 東国での事例 そこでは地頭に任じられたものは開発領主の子孫であることがわかる つまり, 本領安堵のケースである 次に資料文 (2) これは丹波国大山荘についての記述だから, 西国での事例 そこでは, 承久の乱後に任命された地頭との間で と記されており, 丹波国大山荘では承久の乱後に地頭が任じられたことがわかる つまり, 新恩給与のケースである しかし, 資料文 (1)(2) を傍証として, 東国 = 本領安堵の地頭, 西国 = 新恩給与の地頭, という風に特徴づけることができるのだろうか もちろん, 東国には本領が多く, 西国に新恩が多いことは事実であるが, 東国にしても平氏や奥州藤原氏に加担した謀叛人跡に地頭が置かれているし, 逆に西国でも本領安堵をうけて地頭に任じられるケースもある つまり, 東国 = 本領安堵, 西国 = 新恩給与と特徴づけて説明することには無理がある なお, 本領 = 下地支配権が強い, 新恩 = 下地支配権が弱い ( ない ), とも言い切れない なにしろ, 新恩給与の地頭設置は, 御家人による敵方所領 ( 謀叛人跡 ) の軍事占領 ( とその永続化 ) であったため, 本所の権限を大きく侵害することが多く, 本所との間で紛争が生じやすかったのである だからこそ, 新恩の地頭は前任者の職権 得分を継承するという形で設置されていたのであり, 承久の乱後に新しく補任された新補地頭については ( 宣旨により ) 得分率を定め, そのことによって地頭の行動をその枠内に抑制 限定し, 本所との共存 協調がはかられていたのである となると, 東国 = 幕府の支配領域, 西国 = 本所の支配が尊重された地域, と特徴づけたうえで, そのもとでの地頭の権限を考えるのが適当と言える そして, 教科書で, 地頭の権限について東国と西国で内容が異なっていたことは明記されておらず, また資料文でもそれに関するデータが示されているわけでもないことを考えたら, 荘園支配の権限の内容については強弱の程度レベルにとどめておいてよいだろう B 設問の要求は, 西国で荘園領主と地頭の間で生じた問題とその解決策 資料文 ⑵ 丹波国大山荘で地頭請の契約資料文 ⑶ 伯耆国東郷荘で下地中分 2つとも西国での事例なのだから, これを答案に活用しよう ただし, そこに記されているのは 解決策 のみ その前提としての荘園領主 地頭間の懸案については, 自分の知識にもとづいて説明してほしい 背景 全国支配権を強化した幕府の権威, 朝廷よりも優位にたった幕府の権威懸案 地頭の非法や荘園侵略が活発化 C 設問の要求は, 荘園でどのような産業が展開していたか 条件として, 資料文と図からデータを読み取ることが求められている 資料文で活用できるのは⑵のみ そこでは, 荘園領主への貢納品のなかに, 米や麦の他, 栗, 干柿, くるみ, 干蕨, つくしなどが含まれていることが述べられている そこから推理できるのは, 米と麦の二毛作山野の産物の採集が行われていたこと 次に図からデータを読み取ろう そこに, 馬や船が描かれているに気づいただろうか 馬については放牧 ( 馬の飼育 ) が行われていたと, すぐに判断できると思うが, 船は何に活用されたのか? 漁業か水運か? 図の下部に 大湊宮 という文字があることに注目すれば, この荘園には 湊 が存在したこと, つまり水運業 ( 海運業 ) が展開していたことを類推することが可能だ
50 解答例 A 東国は幕府の支配領域で, 本領も多く, 強い権限を握った 西国は新恩の地頭が多く, 本所の支配が尊重され, 権限は抑制された B 地頭が年貢横領など非法を活発化し現地の支配権をめぐって荘園領主と対立したため, 地頭請や下地中分で両者の調停が図られた C 米と麦の二毛作, 周辺の山野河海を利用した栗 柿などの採集, 馬の飼育, 漁業が営まれたほか, 水上輸送業者も往来していた 第 3 問設問の要求は, 史料で述べられている変化が生まれた背景 条件として, 化政文化の特徴にもふれることが求められている まずは, 史料の内容把握から 1 村のほとんどの人間が読み書きできるようになった= 識字率の向上 2 学問, 俳諧, 和歌, 狂歌, 生け花, 茶の湯, 書画などを学ぶ人が多くなった= 学問 教養を身につけることの流行この2 点が史料で述べられている変化であるが, これらの内容を把握するだけでなく, そのころは村の人々に余裕がなかったためか, 学ぶことは流行しなかった という表現にも注意しよう そこには 変化 の背景が示唆されている では, どのようにして村の人々に余裕ができるようになったのか そのことから考えていこう 史料は,1840 年代に書き留められた記録の一部なのだから,19 世紀前半 ( 文化 文政期 ) における経済発展を想起すればよい 18 世紀後半以降, 農村では商品作物の栽培を中心とする商業的農業がいちじるしく発展し, さらに商品作物を農村内部で集荷 加工する動きも進む そして,19 世紀前半には, 文政金銀の鋳造で通貨流通量が増加したこともあいまって, 商品経済はさらに大きく発展した そして, 農業経営を拡大したり商売に成功した豪農や在郷商人 ( 在方商人 ) が現れるし, また農村への行商人の出入りも頻繁となる さらに交通の便がよい在郷町 ( 在方町 ) を中心に地域市場が生まれていく この結果, 農民たちの経済的余裕が生じ, 寺子屋が普及して識字率が向上する ( 動機は?) と共に, さまざまな行商人や出稼ぎから戻ってきた人びとが江戸の情報や文化を伝え, それに影響されて, 学問や教養を身につけようとする農民たちの意欲も高まっていた ( 農民層の分解, 村の共同体秩序の動揺という側面についても注意しておきたい ) 次に, 化政文化の特徴 を確認しよう 化政文化といえば, まず< 江戸の人口の大半を占める中下層の町人を主役とする文化 >という特徴を思い浮かべると思うが, それではこの設問 ( 農村での文化 ) と関連が見出せない 江戸の文化をうけ入れながら各地方で地域独自の文化が育まれた という特色もあることを思い起こしたい それが, 史料に書き留められた農村の状況でもある 解答例 19 世紀前半には, 商業的農業や農村工業の発展を背景として農民の経済的余裕が生じ, 寺子屋が普及して識字率が向上した さらに豪農や在郷商人が台頭し, 地域市場が生まれて行商人の往来も頻繁になり, 江戸など都市と農村との交流が活発化した その結果, 江戸の町人文化 学問を受け入れながら, 地域独自の文化が育まれた 第 4 問 A 設問の要求は, 銅の生産が この時期 の日本の経済発展にはたした役割 条件として, グラフ ( 年における銅の生産 輸出量の推移 ) を手がかりとすることが求められている
51 まず, この時期 とは具体的にいつのことなのかを確認することが必要 グラフは 年の統計なので, この時期 とは明治時代全般を指すのではなく,1881 年以降の松方財政期と産業革命が進展した時期を指すものと考えるのが適当である そのことを念頭におけば, 設問のなかで言及されている この時期 の日本の経済発展 とは 産業革命の進展 を意味していると判断できるだろう 次に, グラフの読み取り 1 生産量が増大している 2 国内での消費量もそれなりに増加しているが, 基本的には輸出中心 ここから, 銅の増産が外貨獲得に貢献していることがわかる 以上を総合すれば, 製糸業が明治後期における日本の経済発展にはたした役割を問う設問 (1984 年第 3 問 ) と同じだということがわかるだろう そこまで分かれば, 作成すべき論旨はおのずと決まってくる B 設問の要求は, 銅の生産がもたらした社会問題 足尾鉱毒事件について記述できれば十分 古河経営の足尾銅山から鉱毒が渡良瀬川に流出 流域の農民 漁民に被害田中正造らが解決に尽力 政府の対応 = 洪水対策のみ ( 谷中村の廃村 遊水池の建設 ) これ以外に, 別子銅山煙害問題, 足尾銅山争議などもあるが, ここまで書ける必要はない 解答例 A 産業革命の進展により綿花などの原料や重工業製品の輸入が増加しており, 銅生産は製糸業同様, 外貨獲得に大きく貢献した B 古河経営の足尾銅山から鉱毒が渡良瀬川に流出して流域の農民らに被害を与え, 社会問題化した 田中正造らが解決に尽力したが, 政府は洪水対策をとったのみで, 根本的な解決策を講じなかった
52 2000 年度 第 1 問 律令国家のもとでは, 都と地方を結ぶ道路が敷設され, 駅という施設が設けられて, 駅制が整備された 発掘の結果, 諸国の国府を連絡する駅路のなかには, 幅 12 メートルにも及ぶ直線状の道路があったことが知られるようになった 次の⑴ ⑸の文章を読んで, 下記の設問に答えよ ⑴ 山陽道 ( 都と大宰府を結ぶ道 ) の各駅には 20 頭, 東海道と東山道の各駅には 10 頭, その他の 4つの道には駅ごとに5 頭の馬を置いて, 国司に監督責任を負わせた ⑵ 反乱や災害 疫病の発生, 外国の動向などは, 駅馬を利用した使者 ( 駅使 ) により中央に報告された 藤原広嗣の反乱の情報は,5 日目には都に報告されていた ⑶ 737 年, 疫病の流行と干ばつにより, 高齢者などに稲を支給することを命じた詔が出された 但馬国が中央に提出した帳簿には, この詔を伝えて来た隣国の駅使と, 次の国へ伝える但馬国の駅使に対して, 食料を支給した記録が残されている ⑷ 駅長 ( 駅の責任者 ) は, 調 庸 雑徭を免除され, 駅馬や鞍の管理を行った また, 駅子 ( 駅での労役に従事させるために設定した駅戸の構成員 ) は庸と雑徭を免除され, 駅馬の飼育に従事し, 駅長とともに, 駅使の供給 ( 必要な食料の支給や宿泊の便宜を提供すること ) にあった ⑸ 駅馬を利用する使者は, 位階に応じて利用できる馬の頭数が定められていた しかし,838 年には, 都と地方を往来するさまざまな使者が, 規定より多くの駅馬を利用することを禁ずる太政官の命令が出された 設問 A 律令制のもとで, 駅は, どのような目的で設置されたと考えられるか 山陽道の駅馬が, 他の道に比べて多いことの背景にふれながら,3 行以内で述べよ B 850 年に, 太政官は, 逃亡した駅子を捕らえるようにとの命令を出した なぜ駅子は逃亡したのか, 4 行以内で説明せよ
53 第 2 問 次の史料は, 豊臣秀吉が天正 15 年 (1587)6 月 18 日に出したキリシタン禁令の第 6 条と第 8 条で ある ( 意味を通りやすくするため原文に少し手を加えた ) これを読んで, 下記の設問に答えよ ( 第 6 条 ) 一, 伴天連門徒の儀は, 一向宗よりも外に申し合わせ候由,( 秀吉が ) 聞こし召され候 一向宗, その国郡に寺内を立て, 給人へ年貢を成さず, ならぶに加賀一国を門徒に成し候て, 国主の富樫を追い出し, 一向宗の坊主のもとへ知行せしめ, その上越前まで取り候て, 天下の障りに成り候儀, その隠れなく候事 ( 第 8 条 ) 一, 国郡または在所を持ち候大名, その家中の者共を伴天連門徒に押し付け成し候事は, 本願寺門徒の寺内を立て候よりもしかるべからざる儀に候間, 天下の障りに成るべく候条, その分別これなき者 ( そのことをわきまえない大名 ) は, 御成敗を加えらるべく候事 設問 A 第 6 条には戦国時代の一向一揆の行動が記されている その特徴を2 行以内で説明せよ B 伴天連 ( キリスト教宣教師 ) は, 日本布教にあたってどのような方針を採ったか 第 8 条から読みとって,2 行以内で述べよ C 秀吉が, 一向宗や伴天連門徒を 天下の障り と考えた理由は何か 2 行以内で述べよ
54 第 3 問 幕末の開港後, 国内の情勢は急速に不穏さを増していった 文久 3 年 (1863) 末, 幕府は使節団をヨーロッパに派遣して, これに対応しようとした 使節は条約を締結した各国をまわる予定であったが, 翌年春にフランス一国と交渉を行ったのち, 与えられた使命の遂行を断念し, 予定を打ち切って帰国の途についた 以下の史料は, 使節が書きとめたフランス外務大臣との交渉記録の一部である ( 原文には一部手を加えてある ) これを読み, 下記の設問に答えよ 幕府使節 外国貿易の儀は, 最初より天朝において忌み嫌われ, 民心にも応ぜず, 一種の凶族ありて, 人心不折合の機会に乗じ, さかんに外国人排斥の説を主張す すでに, 不都合の事ども差し重なり, このまま差し置き候ては, かえって交誼も相破れ申すべく候 ひとまず折り合いをはかり候ため, 神奈川港閉鎖いたし候わば, 外国へ対し不都合の次第も差し起こらず, 国内人心の折り合いの方便にも相成り, 永久懇親も相遂げられ申すべし フランス外務大臣 神奈川港閉鎖の儀はできかね候 天朝御依存のところ, 強いて条約御取り結びなされ候政府の思し召しはよく相分かり候 さりながら, ただ今にいたり条約御違反相成り候わば, 戦争に及ぶべきは必定にこれあり 御国海軍は, たとえば大海の一滴にて, 所詮御勝算はこれあるまじく存じ候 設問 A 幕府使節のフランスへの要求は何か 1 行以内で述べよ B 幕府がこのような使節を派遣するにいたった背景は何か 下線部の内容に留意しながら,3 行以内で述べよ C 幕府使節はなぜ交渉を断念したのか フランス外務大臣の対応にふれながら,2 行以内で述べよ
55 第 4 問 下のグラフは外国為替相場 ( 年平均 ) と商品輸出金額の変動を示したものである このグラフを見て, この時期の経済政策と経済状況について,5 行以内で説明せよ 解答には下記の 4 つの語句を一度は用 い, 使用した箇所には下線を引くこと 緊縮政策金輸出解禁金輸出再禁止世界恐慌
56 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 駅が設置された目的 条件として, 山陽道の駅馬が他の道に比べて多いことの背景にふれることが求められている 資料文からデータを引き出そう ⑴ 山陽道は都と大宰府を結ぶ道 ここから, 山陽道が他よりも重視されていた理由が推察できる ⑵ 地方での反乱や災害 疫病の発生, 外国の動向などを中央に報告する使者が駅馬を利用 ⑶ 中央で出された詔 ( 公文書 ) を地方に伝達する使者が駅馬を利用し, 食料の支給をうける ⑷ 駅を利用する使者に対し, 必要な食料の支給や宿泊の便宜を提供 問題文に 都と地方を結ぶ道路が敷設され, 駅という施設が設けられて とあることも念頭におけば, 駅は中央と地方との政治的な情報伝達をスムーズに行うために設置されていたことがわかる 駅は, 中央政府の命令を迅速に諸国に伝達するとともに, 大宰府にもたらされる対外情報や諸国の政務内容などを中央に伝達するために整備されたのであり, 律令国家の中央集権的な全国統治を支えるための存在であった さらに, ⑸ 駅馬を利用する使者は位階に応じて利用できる馬の頭数が定められていた 駅は, 位階をもった人びと, つまり貴族 官人しか利用できず, 位階をもたない農民など一般の人びとが利用できるものではないことがわかる あくまでも官吏公用の施設であった この点も答案のなかに活かしたい B 9 世紀半ばころに駅子が逃亡するようになった理由 駅子については資料文 ⑷で説明されている 駅馬の飼育に従事し, 駅長とともに駅使の供給 ( 必要な食料の支給や宿泊の便宜を提供すること ) にあたった人びとである 資料文 ⑸によれば, 駅馬を利用する使者は, 位階に応じて利用できる馬の頭数が規定されていたものの,9 世紀前半には, 都と地方を往来するさまざまな使者が規定より多くの駅馬を利用することが頻繁におこっていた ここから駅子の逃亡を招いた背景を推察することができる ただ, そこでとどまらず, 資料文 ⑴にある 駅は国司が監督責任を負った というデータを活用したい つまり,9 世紀になると国司による監督が弛緩してしまっていることが, 明示されない形で表現されていることを読み取りたい 国司による監督が弛緩してしまったからこそ, 駅使が規定より多くの駅馬を利用するというような不法行為が横行するようになっていたのだ では, なぜ9 世紀に駅に対する国司の監督 ( 国司による地方支配 ) が弛緩してしまったのだろうか?( このように問題を設定すると 1996 年第 1 問が関連問題として浮かんでくる ) 答案としては 律令制の衰退 で十分だが, 院宮王臣家 ( 皇族 貴族 ) が地方の有力農民 ( 富豪百姓 ) と結びながら私的な土地所有に走っていたことを想起したい また, 皇室のための直営田である勅旨田が各地に設置されたり ( 国司が開発 運営 ), 皇族には天皇から賜田とよばれる田地が与えられるようになっていたことを思い出そう 特権的な皇族 貴族たちが天皇の権威や国家機構をよりどころに私領の形成にいそしんでいたのが9 世紀である 解答例 A 駅は, 中央集権的な律令国家の下, 中央と地方の政治的な情報伝達を迅速に行うために設置された官吏公用の施設で, 外交上の要衝大宰府と都を結ぶ山陽道は外国使節の往来もあり特に重視された B 駅子は庸 雑徭を免除されたが, 駅馬の飼育や駅使の供給などの労役があった そのうえ,9 世紀に入ると, 律令制の衰退に伴って駅に対する国司の監督が弛緩し, 駅使による規定以上の駅馬利用が横行した そのため, 駅子の負担が過重となり, 逃亡が続出した
57 第 2 問 A 設問の要求は, 戦国時代の一向一揆の行動の特徴 条件 ( というよりヒント ) として, 伴天連追放令の 第 6 条 を参考にすることが求められている 第 6 条には, 一向宗, その国郡に寺内を立て, 給人へ年貢を成さず, ならぶに加賀一国を門徒に成し候て, 国主の富樫を追い出し, 一向宗の坊主のもとへ知行せしめ, その上越前まで取り候て とある ここで表現されているのは,1 寺内町を建設していたこと,2 年貢の納入を拒否していたこと,3 加賀や越前では本願寺を頂点とする門徒領国を実現したことである この3 点をどのように答案のなかに活かすかがポイント 字数が2 行 (60 字 ) と非常に短いため, これらのデータをそのまま順番に記述すれば答案がつくれてしまう 入試本番ではそれも1つの対応策だが ( あくまでも本番でのテクニックにすぎない ), 受験勉強のなかでこの問題を解く際にはそうした手法を採ってはならない 全く勉強にならないし, 単に史料のデータをピックアップしただけでは設問で要求されている 特徴 を記述することはできない BやCとの関連を考えるならば, 信仰のもとで団結, 大名支配を拒否 排除 の2 点をなんらかの形で表現することが不可欠である まず一向一揆がどのような組織なのかを確認しよう 浄土真宗本願寺派は交通の要地に寺院を中心とした寺内町を建設し ( 商工業者が集住 ), 惣村には道場をつくり, 門徒を講に組織していた 一向一揆は, そうした形で本願寺を頂点とする教団組織に編成された門徒たちが結んだものだった 次に一向一揆の行動 加賀で守護富樫氏を排除して自治支配を実現し門徒領国をつくりあげたことは, 周知のことがら 伴天連追放令第 6 条では越前も挙げられている 朝倉氏滅亡後に織田信長の支配を排除して門徒領国を実現していたのである ( それに対して信長は徹底した弾圧を断行 ) これらは, 国規模で大名支配の排除を実現した事例である これら以外に一向一揆に関する知識はないか 伴天連追放令第 6 条には 寺内町 や 年貢納入の拒否 が挙げられているが ( 年貢納入の拒否については知識がないと思うのでそのまま答案に活かせばよい ), 寺内町については教科書で次のように書かれている 寺内町は周囲に土塁や堀をめぐらし, 商人や鍛冶 番匠などの職人らが住み, 不入や免税などの特権を獲得した ( 三省堂 日本史 ) こうした特権は, 細川晴元政権との争乱のなかでまず石山本願寺 ( 大坂 ) が獲得し, 次いで各地の寺内町も本願寺末寺であることを根拠に獲得していったものであるが, 大名領国のなかにあって局地的に大名の支配を拒否するものであり ( 不入権 と大名支配については 1988 年第 2 問も参照 ), 惣村での 年貢納入の拒否 という動きと共通した性格をもつものである これらのデータをコンパクトにまとめれば答案ができ上がる B 設問の要求は, 日本布教にあたって伴天連 ( キリスト教宣教師 ) はどのような方針を採ったか 条件として, 伴天連追放令の 第 8 条 から読み取ることが求められている 第 8 条には, 国郡または在所を持ち候大名, その家中の者共を伴天連門徒に押し付け成し候 とある 教科書では 大名のなかにはキリスト教の信仰にひかれて洗礼をうけるものもあった くらいの記述しかないが, この第 8 条からすると, キリシタン大名は 家中の者共 = 家臣や領内の民衆に対してキリスト教への改宗を 押し付け ていたことがわかる このことをキリスト教宣教師の立場から表現すればよい C 設問の要求は, 豊臣秀吉が一向宗や伴天連門徒を 天下の障り と考えた理由 伴天連追放令発令の背景について, 教科書では 秀吉のつくりあげようとした国家体制にさまたげになる ( 山川 ), 全国統一のさまたげになる ( 三省堂 ) などと記述されているが, それだけでは設問の要求にこたえたことにならない 前提作業として,1 豊臣秀吉がつくりあげようとした国家体制がどのようなものであり, さらに2 一向宗門徒やキリシタンの行動がどのようなものであったかを確認することが必要である 1 秀吉は, 太閤検地 刀狩 身分法令を通して兵農商分離を進め, 土地 人民の一元支配 ( 在地支配の貫徹 ) をめざしていた それに対し,2 一向宗門徒やキリシタンには武士 農民 商工業者などさまざまな身分のものが含まれ, それらが信仰のもとに強く団結し, 大名支配から独立した勢力を築きあげていた
58 解答例 A 本願寺の下に団結し, 大名支配を拒否して自治を実現した 寺内町では不入 免税の特権を獲得し, 惣村では年貢納入を拒否した B 伴天連はまず大名を布教対象とし, その上で大名を通じてその家臣や領内の民衆に対してキリスト教への改宗を強制しようとした C 武士 農民らが信仰の下に強く団結した一向一揆やキリシタンは, 秀吉がめざす兵農分離 大名知行制の確立にとって障害だった 第 3 問 A 設問の要求は, 幕府使節のフランスへの要求 史料の 幕府使節 の発言のなかに 神奈川港閉鎖いたし候わば とあり, 内容把握に困難はないだろう ただし, 字数に余裕があるので, 横浜 ( 神奈川 ) の開港が何に基づくものであるかを記しておくとよい B 設問の要求は, 幕府が横浜鎖港を要求する使節を派遣するにいたった背景 条件として, 下線部の内容に留意することが求められている まず, 史料の内容を読み取ろう 1 横浜鎖港の目的 ねらい ひとまず折り合いをはかり候ため とか, 外国へ対し不都合の次第も差し起こらず, 国内人心の折り合いの方便にも相成り とある つまり, 国内における 人心の折り合い を実現させるために横浜鎖港を企図しているのである 2 人心不折合 とはどのような事態を指しているのか 外国貿易の儀は, 最初より天朝において忌み嫌われ, 民心にも応ぜず とある ( 天朝 とは天皇 朝廷のこと ) 欧米諸国との貿易開始には当初から天皇が反対していたし ( 当時も反対しているということを含意 ), 貿易開始にともなう経済混乱 物価騰貴は民衆の生活を圧迫し, そのため, 条約調印をおこなった幕府や貿易相手の欧米人に対する反発が民衆のなかに強まっていた 3 下線部 すでに, 不都合の事ども差し重なり について その直前に 一種の凶族ありて, 人心不折合の機会に乗じ, さかんに外国人排斥の説を主張す とあるが, この 一種の凶族 が攘夷派であることはすぐにわかるだろう そのことを念頭において 不都合な事ども とは何かを考えよう その際, 使節団が派遣されたのが 文久 3 年 (1863) 末 である点に留意してほしい 攘夷派による外国人排斥事件としては, ハリスの通訳ヒュースケンが殺害された事件 (1860 年 ), イギリス公使館が2 度にわたって襲撃をうけた事件 (1861 年の東禅寺事件と 1862 年のイギリス公使館焼き打ち事件 ), さらに生麦事件 (1862 年 ) などが, 教科書で紹介されているが, 1863 年末 にはやや時期が離れている 1863 年におこった 不都合な事ども を思い起こすのが妥当である 1863 年といえば, 攘夷をうながす朝廷の要請をうけて将軍家茂らが上洛, 幕府は5 月 10 日を攘夷決行の日とすることを公約している そして, その当日に長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃したことに対し, アメリカやフランスが下関を報復攻撃する一方,6 月イギリスは生麦事件への報復のため薩摩藩と交戦していた ( 薩英戦争 ) 先に列挙した個別的なテロ事件よりも 不都合の事ども差し重なり と表現するのにふさわしい情勢ではないだろうか なお,1863 年は八月十八日の政変が起って長州藩ら尊王攘夷派が薩摩 会津藩により朝廷から排除され, 朝廷と幕府の和解 ( 公武合体 ) が実現していた とはいえ, 攘夷の気運が抑制されたわけでもなければ, 孝明天皇の攘夷の意思がくつがえったわけでもない それ故, 幕府にとっては, 朝廷との和解を維持しつつ, 攘夷運動を抑制して全国支配を確保するためにも横浜鎖港が不可欠な課題とされたのである さて, 欧米諸国 ( 特に貿易の主要相手国であるイギリス ) から見た場合, 幕府には攘夷運動を完全に取り締まって治安を確保するだけの政治力が欠けているということになる こうした幕府のもとで安定した自由貿易体制が将来にわたって
59 保障されうるのだろうか やや疑念が生じる それ故, イギリスとフランスは, 開港場の治安をみずからで確保するため, 居留地に軍隊を駐留させる一方, 長州藩の外国船砲撃事件に対する報復として 1864 年, 四国艦隊が下関を砲撃して長州藩を屈伏させ ( 下関戦争 ), さらに翌 65 年, 神戸沖に艦隊を並べ, その圧力で条約勅許 ( 兵庫開港を除く ) を実現させたのである C 設問の要求は, 幕府使節が交渉を断念した理由 条件としてフランス外務大臣の対応にふれることが求められている そもそも横浜鎖港問題が教科書レベルを超えた知識なので, 史料文からの読み取りで答案を作成するしかない 史料の フランス外務大臣 の発言のなかで関連しそうな箇所は,1 ただ今にいたり条約御違反相成り候わば, 戦争に及ぶべきは必定にこれあり と,2 御国海軍は, たとえば大海の一滴にて, 所詮御勝算はこれあるまじく存じ候 解答例 A 安政の五カ国条約で開港された横浜港を閉鎖すること B 朝廷の意に反した貿易開始やそれに伴う経済混乱 物価騰貴は幕府への民衆の反発を強め, 攘夷気運を高めた 幕府は攘夷決行の確約を余儀なくされ, 下関や鹿児島で外国との交戦も起こっていた ( 別解 ) 貿易開始に伴う経済混乱は攘夷気運を高め, 外国人殺傷事件が頻発していた さらに朝廷の条約反対の態度は変わらず, 幕府は攘夷決行を確約させられ, 長州では外国船砲撃事件も起きていた C 横浜鎖港は条約違反であり, 欧米諸国との戦争に発展する可能性が高く, さらにその際, 日本には勝算はないと忠告されたため 第 4 問設問の要求は,1920 年代末 1930 年代前半の経済政策と経済状況 条件として, 緊縮政策 金輸出解禁 金輸出再禁止 世界恐慌の4つの語句を使うこと ( 下線を施す ) が求められている 指定されている時期 語句のいずれからも, 1 井上財政 2 昭和恐慌 3 高橋財政 4 恐慌からの脱出 という筋道が思いつくだろう その際, グラフに示されている 外国為替相場の変動, 商品輸出金額の変動について説明することを忘れないように 1 井上財政 前提 慢性的な不況 ( 物価のインフレ傾向と工業の国際競争力不足 ) により, 輸入超過が継続し, 円為替相場が下落と動揺を繰り返していた 内容 緊縮財政 ( 物価引下げ ) と産業合理化で準備旧平価での金解禁を実施 = 円為替相場の安定とともに経済界の整理を促進 2 昭和恐慌事実上の円切上げ ( 旧平価での解禁 ) と世界恐慌の影響とにより輸出が激減 3 高橋財政 前提 満州事変にともなう軍事費の増大, イギリスの金本位制離脱 内容 金輸出再禁止 金兌換停止 管理通貨制度に移行積極財政 (= 軍事費と時局匡救費の増大 ) 低為替政策 = 円為替相場の下落を利用して輸出を拡大 4 恐慌からの脱出 (1933 年には ) 世界にさきがけて恐慌から脱出
60 解答例 経済界の整理を促すため, 浜口内閣は緊縮政策を進め, 旧平価で金輸出解禁を断行した ところが, 事実上の円切上げであった上に世界恐慌の影響が重なり, 輸出が激減して昭和恐慌となった そこで, 犬養内閣は金輸出再禁止により管理通貨制度に移行した そして, 積極政策と低為替の下での輸出増進により恐慌から脱出した
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62 1999 年度 第 1 問 次の文章を読み, 下記の設問に答えよ 天武天皇が,13 年 (684 年 ) 閏 4 月の詔で 政ノ要ハ軍事ナリ とのべたとき, かれは国家について一つの真実を語ったのである ( 中略 ) 政ノ要ハ軍事ナリ の原則には, 天武の個人的経験を越えた古代の国際的経験が集約されているとみるべきであろう これは, 古代国家の形成について, ある著名な歴史家が述べたものである 軍事力の建設の視点からみると, 律令国家の支配の仕組みや, 正丁 3 4 人を標準として1 戸を編成したことの意味がわかりやすい 設問 7 世紀後半の戸籍作成の進展と, 律令国家の軍事体制の特色について, 両者の関連, および背景 となった 天武の個人的経験 古代の国際的経験 をふまえて,7 行以内で説明せよ
63 第 2 問 次の ⑴ ⑷ の文章を読んで, そこからうかがわれる室町時代の文化の特徴について, 当時の民衆の状 況と関連づけて 6 行以内で述べよ ⑴ 観阿弥は, はじめ伊賀国の山間部の農村地帯で猿楽座を結成したが, のちに能を大成し, 子の世阿弥ともども足利義満の称賛を受けた ⑵ 村田珠光は, 上流階級の間で流行していた貴族的な喫茶にあきたらず, 京都や奈良の町衆の間で行われていた質素な喫茶を取り入れて, わびを重んじる茶道を始めた ⑶ 戦国時代のはじめごろ, 和泉国のある村に滞在していた一人の公家は, 盆に村人たちが演じるお囃子や舞を見て, 都の熟練者にも劣らぬものであると驚嘆している ⑷ 大和国のある村の神社には, 連歌会を催すための掟が残されている そこには, 連歌会の実施や作品の評定を行う役は, 参加者のうちから多数決によって互選することが定められている
64 第 3 問 次の ⑴ ⑸ の文章は, 江戸時代の有力な商人たちが書いた, いくつかの 家訓 ( 子孫への教訓書 ) から抜粋し, 現代語に訳したものである これらを読んで, 下記の設問に答えよ ⑴ 家の財産は, ご先祖よりの預かりものと心得て, 万端わがままにせず, 子孫へ首尾よく相続するように, 朝暮心掛けること ⑵ 天子や大名において, 次男以下の弟たちはみな, 家を継ぐ長男の家来となる 下々の我々においても, 次男以下の者は, 長男の家来同様の立場にあるべきものだ ⑶ 長男については, 幼少のころから学問をさせること ただし, 長男の成長が思わしくないときは, これに相続させず, 分家などの間で相談し, 人品を見て適当な相続者を決めるように ⑷ 血脈の子孫でも, 家を滅亡させかねない者へは家の財産を与えてはならない このような場合には, 他人でも役に立ちそうな者を見立て, 養子相続させること ⑸ 女子は他家へ嫁がされるものだ 親の家に暮らす子供のうちから気ままに育てられると, 嫁ぎ先の家で辛抱することができなくなり, これがついには離縁されるもととなる 親元で厳しくされれば, 他家にいるほうがかえって楽に思えるようになるものだ 設問 江戸時代の有力な商人の家における相続は, 武士の家とくらべてどのような特徴をもったか 上 の文章に見られる長男の地位にふれながら,5 行以内で述べよ
65 第 4 問 近代日本の教育は, 初等教育でも高等教育でも, 明治初年より戦後までの間, 制度 内容の両面にお いて幾多の変遷をみてきた その概略を, 次の年表を参考にしながら,8 行以内で述べよ 1872( 明治 5) 年 学制公布 1886( 明治 19) 年 帝国大学令公布 1890( 明治 23) 年 教育勅語発布 1907( 明治 40) 年 義務教育 4 年から6 年に延長 1918( 大正 7) 年 大学令公布 1941( 昭和 16) 年 国民学校令公布 1943( 昭和 18) 年 学徒出陣開始 1947( 昭和 22) 年 教育基本法 学校教育法公布
66 解法の研究 第 1 問設問の要求は,17 世紀後半の戸籍作成の進展,2 律令国家の軍事体制の特色 条件として, 両者の関連, 背景となった 天武の個人的経験 古代の国際的経験, をふまえることが求められている 1 戸籍作成の進展 について述べなければならないのだから, 天智朝の庚午年籍, 持統朝の庚寅年籍の両方とも答案のなかで具体的に触れておかなければならない 2 律令国家の軍事体制の特色 とある 単に兵役 軍団制の内容を説明するのでは 特色 について述べよという要求には応えたことにならない 前後の時代と比較して律令国家のもとでの軍事体制 ( 軍団制 ) がどのような特色をもっていたかを明確にしておく必要がある 前の時代 ( 氏姓制度 ) の軍事体制についての知識はほとんどないと思うので, 軍団制解体以降の健児制や平安中期に登場する武士と対比すると, 兵力を ( 豪族ではなく ) 豪族の支配下にあった人民 ( 農民 ) に求めたことに特色があることに気づくだろう (1980 年度第 1 問を参照のこと ) 戸籍と軍団制の関連について 問題文に 正丁 3 4 人を標準として1 戸を編成した とあることに注目しよう そして, 成年男子 3 4 人に1 人の割合で兵士が徴発された ( 山川 ) ことは周知のはずだから, そこから両者の関連を考えよう 戸を単位として徴兵 戸はほぼ兵士 1 人を徴兵するための単位 などの表現が可能である 天武の個人的経験 古代の国際的経験 それぞれが何を指すのかは, 説明の必要もないだろう 天武の個人的経験 壬申の乱という大規模な内乱をへて権力を掌握 古代の国際的経験 白村江での敗戦とそれによる国際的緊張の高まりこれらのデータを答案のなかで使う際, 政ノ要ハ軍事ナリ の原則には, 天武の個人的経験を越えた古代の国際的経験が集約されているとみるべきであろう という表現を活用するとよい 内容を少し補足しておく 天武天皇は, 軍事力の掌握を政治の要諦ととらえていたが, その判断は 壬申の乱という大規模な内乱をへて権力を掌握した という天武の個人的経験だけによるものではない 唐の対外膨張策に対抗した形での百済復興の支援とその失敗 ( 白村江の敗戦 ) によって生じた国際的緊張が国内におよぼした権力集中への圧力を認識したうえでの判断であった 白村江の敗戦後に即位した天智天皇のもとでは, 唐 新羅との軍事的緊張に対応しうる軍事体制の創出をめざして, 最初の本格的戸籍である庚午年籍が作成され, 国造たちの支配下の人民を戸籍に登録して人民支配の最小単位である郷戸に編成するという作業が進められる ( それが同時に国造層の豪族を評の官人 [ のちの郡司 ] へと再編していく作業でもあった ) 律令体制の基礎が 戸籍作成にもとづく個別人頭支配 であることを考えれば, この天智朝の施策が, 天武が律令国家の確立にむけた作業を着手するうえでの前提状況となっていたことを了解しえるだろう 解答例 白村江の戦での敗戦による対外的危機の高まりを背景に, 天智天皇のもとで軍事体制の強化のための人民把握が進められ, 最初の全国的戸籍である庚午年籍が作成された 壬申の乱を勝ち抜いて権力を掌握した天武天皇は, それを基礎として豪族支配下の人民に基盤をおく軍事体制の構築を進め, その事業は持統天皇のもとで庚寅年籍として完成した こうして全人民は, 兵士を徴発するための単位として編制された戸のもとに正丁 3 4 人を標準として組織された 第 2 問 設問の要求は,⑴ ⑷ の文章からうかがえる室町時代の文化の特徴 条件として, 当時の民衆の状況と関連づけること, が求められている
67 条件の 当時の民衆の状況 を考える際, 室町時代 という時代の限定からすぐに想起することができなかったときは, ⑴ ⑷の文章 にどのような語句が用いられているかをチェックすることから始めるとよい ⑴に 農村地帯,⑶に 村,⑷ にも 村 とあり, また,⑵には 京都や奈良の町衆 とある 前者から百姓による自治村落 惣村 ( 惣 ), 後者から町衆 ( 富裕な商工業者 ) による自治組織 町 が思い浮かぶ つまり, 農業や商工業の発展のなかで百姓や町衆による地縁的な自治組織が形成され発展していたのが 当時の民衆の状況 である なお, 惣はそれを構成する人々の全員の集会によって物事を決定するところからその名を生じたとされており, 次のような特色をもっていた (1992 年度第 2 問も参照のこと ) 鎮守社の祭礼をおこなう組織である宮座を中軸として形成され, 村民全員参加による寄合で村の運営を協議し, 秩序維持のために独自の村掟を制定, 警察 裁判を村民みずからが行使し ( 自検断 ), 農業生産に不可欠な村民たちの共同利用地である入会地 ( 肥料源の山野 ) や灌漑施設を惣有財産として確保して管理, 年貢納入については百姓請を実現していた 室町時代の文化の特徴 をどう表現するかについては, 教科書の記述を参照して表現を盗み取ろう 山川 詳説日本史 この時代の文化の特徴は, 幕府が京都におかれたことや東アジアとの活発な交流にともなって, 武家文化と公家文化, 大陸文化と伝統文化の融合が進み, また当時成長しつつあった惣村や都市の民衆とも交流して, 広い基盤を持つ文化が生み出されたことである 中央文化と地方文化の融合も進み, それが洗練され, 調和されるなかから, しだいに日本固有の文化ともいうべきものが形成されていった 今日, 日本の伝統文化の代表とされる能 狂言 茶の湯 生花などの多くは, この時代に中央 地方を問わず, 公家 武家 庶民の別なく愛好され, 洗練されながら, その基盤を確立していったのである 室町時代には, 民衆の地位の向上により, 武士や公家だけでなく, 民衆が参加し楽しむ文化も生まれた 当時, 茶や連歌の寄合は民衆のあいだでも多くもよおされていたが, 能も上流社会に愛好されたもののほか, より素朴で娯楽性の強い能が各地の祭礼などでさかんに演じられた 能のあいだに演じられるようになった風刺性の強い喜劇である狂言は, その題材を民衆の生活などに求め, せりふも日常の会話が用いられたので, とくに民衆にもてはやされた 解答例 室町時代には, 農業や商工業の発展を背景に惣村や町といった地縁的な自治組織が発展して, 百姓 町衆が文化の担い手として登場し, 猿楽能 喫茶 連歌など集団で楽しみ共同で行う芸能が営まれた そして, 公家 武家がそれら民衆文化を受容する一方, 各地の民衆も公家 武家文化を取り入れるなど, 身分を超えた相互の融合が進み, 幅広い基盤をもつ文化が形成された 第 3 問設問の要求は, 江戸時代の有力な商人の家における相続の特徴 条件として, 武士の家における相続のあり方との対比, 示された文章に見られる長男の地位にふれること, が求められている 条件 について 武家の相続 は長子単独相続だったが, けっこう見落としている受験生が多いのではないか ただ, 文章 ⑵に 天子や大名において, 次男以下の弟たちはみな, 家を継ぐ長男の家来となる とあることに注目すれば, 長男が単独で相続していたというデータを引き出すことが可能だ そして, 同じ文章 ⑵に 下々の我々においても, 次男以下の者は, 長男の家来同様の立場にあるべきものだ とあるのだから, 商家の相続 も長子単独相続だったことがわかる しかし, 同じなのなら 武士の家とくらべてどのような特徴をもったのか という問いの意味がない ⑶に 長男の成長が思わしくないときは, これに相続させず, 分家などの間で相談し, 人品を見て適当な相続者を決めるように とあり, ⑷に 血脈の子孫でも, 家を滅亡させかねない者へは家の財産を与えてはならない このような場合には, 他人でも役に
68 立ちそうな者を見立て, 養子相続させること とあることを参考にすれば, 相続者の選定には 能力 資質 という観点も重視されていることがわかる 長男がいても, 相続者としての 能力 資質 が欠ける場合は, 次男以下の者や他家からの養子に相続させるというのだ 示された文章群からすれば, これが 武家との相違 だと推定できるだろう その点を明確に表現していくことが必要だ 解答例 武家と同様, 有力な商家でも長男による単独相続が原則であった しかし, 武家の財産が固定的な家禄であるのに対し, 商家の財産は経営状態に左右されたため, 相続者には経営者としての資質 能力が求められ, 次男以下の者や他家からの養子が相続することもあったが, 女子は他家へ嫁ぐものとして相続権を認められなかった 第 4 問 設問の要求は, 教育 ( 初等 高等教育 ) の制度 内容の両面における変遷 条件として, 年表を参考にすることが求め られている 使うべき語句が年表という形で提示されているため簡単な問題のように見える しかし, それぞれの語句について知っ ていることがらをただ順々と書き並べただけでは, 論旨のない, 単なる語句 ( とその説明 ) の羅列に終わってしまい, 解 答としては不十分 いくつかに時期区分し ( グルーピング ), 時代背景に関連させながら特徴づけすること ( ラベリング ) が必要だ 時期区分の一例 1 明治初期 : 富国強兵のために国民皆学と実学の普及をめざす 1872( 明治 5) 年 学制公布 2 明治中期 : 明治憲法体制の確立期 1886( 明治 19) 年 帝国大学令公布 国家官僚の養成機関を整備 高等 学校制度の確立 1890( 明治 23) 年 教育勅語発布 忠君愛国を教育理念として提示 初等 3 資本主義の確立と発達 : 教育の普及 拡大 1907( 明治 40) 年 義務教育 4 年から6 年に延長 初等教育の定着 初等 1918( 大正 7) 年 大学令公布 高等教育機関の拡充 高等 4 十五年戦争期 : 総力戦体制への編成 1941( 昭和 16) 年 国民学校令公布 小学校の改組 ( 皇国民の練成 ) 初等 1943( 昭和 18) 年 学徒出陣開始 文系大学生などの徴兵 高等 5 占領期 : 教育の民主化 1947( 昭和 22) 年 教育基本法 学校教育法公布 教育基本法 教育勅語に変わる新しい教育理念 学校教育法 新しい学校制度の導入 解答例 学校制度の導入をはかる明治政府は, まず実学重視を掲げて学制を制定した そして明治中期, 官僚養成機関として帝国大学を設立すると共に, 義務教育制を整備し, 教育勅語で道徳重視の教育理念を提示した その後, 資本主義発達を背景に, 明治末には義務教育が普及し, 大正期には高等教育が拡充された 十五年戦争期には皇国民の練成が教育目的に掲げられたが, 戦争末期になると学童疎開 学徒出陣などにより教育の崩壊が進んだ 敗戦後は教育の民主化が図られ, 個人の尊厳重視などを理念として新制度が導入された
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70 1998 年度 第 1 問 次の文章を読み, 下記の設問に答えよ 奈良時代から平安時代の地方行政は, 中央政府が任命し派遣する国司を中心として運営されたが, その下には, その地域で力をもつ豪族や有力者から採用される現地の役人が置かれ, 地方行政の実務を遂行する上で大きな役割を果たしていた こうした現地の役人について, 奈良時代のあり方と平安時代後期のあり方とを比較すると, 外形的には似たように見えるところもあるが, 任命 設置の形態や, 管轄の範囲 内容が異なるなど, 役職の性格は大きく変化していた 設問 A 現地の役人として, どのような人々が, 何という役職に任命されたか 奈良時代と平安時代後期とにわけて,2 行以内で説明せよ B 現地の役人の役職としての性格は, 奈良時代と平安時代後期とで, どのようなところが異なっていたか 具体的に5 行以内で説明せよ
71 第 2 問 次の表は, 遣明船の派遣状況を示したものである この表を参考にして, 下記の設問に答えよ 入明年 渡航船 1401 幕府船 1403 幕府船 1404 幕府船 1405 幕府船 1407 幕府船 1408 幕府船 1408 幕府船 1410 幕府船 1433 幕府船 相国寺船 山名船 大名寺社十三家船 三十三間堂船 1435 幕府船 相国寺船 大乗院船 山名船 三十三間堂船 1453 天竜寺船 伊勢法楽舎船 九州探題船 ( 聖福寺造営船 ) 大友船 大内船 大和多武峯船 1468 幕府船 細川船 大内船 1477 幕府船 相国寺勝鬘院船 1484 幕府船 内裏船 1495 幕府船 細川船 1511 大内船 細川船 1523 大内船 1523 細川船 1540 大内船 1549 大内船 設問 A 遣明船による貿易は, 当時の日明間の外交形式にもとづき, 明の認める枠内で行われていた その外交形式や統制の手段はどのようなものであったか,3 行以内で説明せよ B 前頁の表にあらわれた遣明船貿易の変化について, 変化のきっかけとなった事件や国内情勢にふれながら,4 行以内で述べよ
72 第 3 問 次の文章を読み, 下記の設問に答えよ 1722 年, 江戸幕府は全国の大名に対して石高 1 万石あたり 100 石の上げ米を命じ, その代償として参勤交代の江戸在府期間を半減する措置をとった この上げ米制は8 年後には廃止が決定され, 在府期間ももとに戻されることになるが, 参勤交代制の緩和に対しては, 幕府に近い人々から, 幕府と大名の関係に重大な変化をもたらすおそれがあるものとして批判的な見解が示された 設問 A 幕府が上げ米を発令せざるをえなくなった理由について, その歴史的背景に触れながら3 行以内で述べよ B 参勤交代の緩和策がなぜ重大な変化をもたらすおそれがあると考えられたのか 幕藩体制における幕府と大名の関係に留意しながら,4 行以内で述べよ
73 第 4 問 1910 年代から 1940 年代までの労働組合運動の変容について, 社会的な背景に触れながら,8 行以 内で述べよ 解答には下記の語句を一度は用い, 使用した箇所には必ず下線を付せ 米騒動産業報国会第一次世界大戦日本労働総同盟労働組合法
74 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 国司の下で地方行政の実務を遂行した現地の役人について,1 役職,2 任じられた人々を, 奈良時代と平安時代後期とにわけて明らかにすること 奈良時代 1 郡司 2もと国造などの地方豪族 ( 在地の豪族 ) 平安時代後期 1 郡司 郷司 保司 2( 新興の ) 開発領主平安後期について, 国衙の実務をになった役人 ( 在庁官人 ) も書くべきかどうか, 迷った人がいるかもしれない しかし, 問題文で 現地の役人について, 奈良時代のあり方と平安時代後期のあり方とを比較すると, 外形的には似たように見えるところもある と表現されていることからすれば, 在庁官人ではなく郡司 郷司 保司のみを答えるのが適切である B 設問の要求は, 現地の役人の役職としての性格を奈良時代と平安時代後期とで対比させること 役職としての性格 とは何なのか, この表現だけでは漠然としてわかりにくい しかし, 問題文に 任命 設置の形態や, 管轄の範囲 内容が異なるなど, 役職の性格は大きく変化していた と表現されているのだから, 任命 設置の形態, 管轄の範囲 内容, の2 点について対比すればよいことがわかるだろう 奈良時代の 郡司 任命 設置の形態国 郡 里制のもとで郡に設置 太政官が任命 管轄の範囲 内容戸籍作成 徴税などの民政全般の実務を担当平安時代後期の 郡司 郷司 保司 任命 設置の形態国内を新たに再編成して成立した郡 郷 保を単位に設置 国司が任命 管轄の範囲 内容 ( 開発の促進や ) 徴税を請け負うなお, 律令制下の郡司については,1988 年度第 1 問も参照のこと 解答例 A 奈良時代には旧国造などの地方豪族が郡司に任命され, 平安時代後期には新興の開発領主などが郡司 郷司 保司に任命された B 奈良時代の郡司は, 律令制下の郡を管轄対象として太政官から任命され, 国司の指揮のもとで徴税 勧農など地方行政の実務を担当した 平安時代後期の郡司 郷司 保司は, 開発領主の勢力範囲に従って公領を新たに再編制した郡 郷 保を管轄対象として国司から任命され, 国司に対して開発 徴税を請負った 第 2 問 A 設問の要求は, 日明貿易の基礎にあった1 日明間の外交形式,2 日明貿易の統制の手段 1 外交形式明から冊封を受けた日本国王が明皇帝へ朝貢するという形式 2 統制の手段明の政策 海禁策により自由な交易を禁止 遣明船には勘合の所持を義務づけて倭寇と区別し, 入港地を寧波に限定
75 B 設問の要求は, 遣明船貿易の変化 条件は, 変化のきっかけとなった事件や国内情勢にふれること まず表から時期区分をおこない, それぞれの時期の変化の背景を説明すればよい 足利義満による開始 年幕府船だけ= 幕府が独占足利義持による中断 義教による再開 ( 貿易の利益に着目 ) 年幕府船だけでなく守護大名 寺社が参加応仁の乱後, 幕府の勢力後退 年大内船と細川船だけ= 実権をめぐって大内氏と細川氏が競合 ( 参加数が減少した 1468 年で時期区分してもよい ) 寧波の乱後, 大内氏が独占 年大内船だけ 解答例 A 明皇帝に臣従して日本国王に冊封された将軍が明に朝貢するという形式で行われた 明が海禁政策をとったため, 遣明船は明から交付された勘合の所持を義務づけられ, 入港地を寧波に限定された B 当初は幕府独占のもとで頻繁に派遣されたが, 朝貢形式を嫌った義持が中断した 利益に注目して義教が再開したが, 守護 寺社も参加し, 派遣回数は減少した 応仁の乱以降, 幕府を掌握した細川氏が大内氏と実権を競ったが, 寧波の乱を機に大内氏が独占した 第 3 問 A 設問の要求は, 幕府が上げ米を発令せざるをえなくなった理由 条件として, 歴史的背景に触れることが求められている この条件づけは, 新田開発と年貢増徴による財政再建の成果があらわれるまでの一時的な措置 という直接的な発令意図だけに終わらないようにとの指示である 上米令発令の背景は 幕府の財政窮乏 だが, その背景をきちんと表現しておきたい まず収入面 財源は年貢米収入 当然, 米を換金する必要がある ところが, 当時の米価はどうだったか? そして支出面 兵農分離のもと武士は生産から離れ, 都市で消費生活を送るようになっていたが,17 世紀後半以降の商品経済の発達は, 武士の消費支出を増大させる 幕府は政府組織であるだけでなく将軍家の家政機関でもあったから, 幕府の支出も増大していた また, 明暦の大火にともなう江戸復興, 文治政治への転換にともなう儀礼費用, 元禄期の寺社造営の増大なども, 幕府支出の増大の原因であった B 設問の要求は, 参勤交代の緩和策がなぜ重大な変化をもたらすおそれがあると考えられたのか 条件として, 幕藩体制における幕府と大名の関係に留意することが求められている 条件の 幕藩体制における幕府と大名の関係 が 将軍 大名の主従関係 を指していることはわかるだろうが, この問題が解けるかどうかの分かれ目は, 参勤交代が 将軍 大名の主従関係 においてどのような意義をもっていたかについて考えたことがあるかどうかにある ( 類題 :1983 年度 ) 将軍 大名の主従関係は将軍による石高の給付 保障と大名による軍役の負担という相互関係によって成り立っていたが, 大坂の陣で戦国の争乱が終わって以降, 軍事動員の機会が消滅してしまった ( 将軍家光の上洛など臨時には存在したが ) そこで, 将軍への忠誠を示す平時の軍役として参勤交代が制度化されていたのだ こうした参勤交代が緩和されることは, 将軍 大名の主従関係にどのような変化をもたらすおそれがあるか?-それを答案の〆にもってくるとよい 解答例 A 幕府財政は石高制のもと天領からの年貢米収入を基礎としたが, 米価が低迷して収入が落ち込み, さらに金銀産出 量も減少した上, 明暦の大火後の江戸復興, 商品経済の発達などで支出が増大した
76 B 将軍 大名の主従関係は, 将軍による知行地の給付と大名による軍役の負担によって成り立ち, 参勤交代は平時の軍役として, 大名の将軍に対する忠誠を示す儀礼であった それゆえに参勤交代の緩和は, 幕府による大名統制を弛緩させる恐れがあると考えられた ( 別解 ) 参勤交代は大名の将軍に対する忠誠を示す軍役に準じる奉公であり, 幕府にとっては大名を江戸に隔年で滞在させることでその地方割拠を抑制し, 大名統制を確保する手段であった それ故, 参勤交代の緩和は幕府の大名統制を弛緩させる恐れがあると考えられた 第 4 問設問の要求は,1910 年代から 1940 年代までの労働組合運動の変容 条件は, 社会的な背景に触れること, 5つの指定語句を使用すること まずは,5つの指定語句を年代順に並べることから始めよう 第一次世界大戦 米騒動 日本労働総同盟 産業報国会 労働組合法これらの語句のうち, 第一次世界大戦と米騒動は労働組合運動そのものに関わる語句ではなく, 社会的な背景に関わるもの 日本労働総同盟は 1921 年友愛会が発展 改組する形で成立した労働組合の全国組織なので ( 正確には 1919 年に大日本労働総同盟友愛会と改称したあと日本労働総同盟へと再改称されている ), その2つは日本労働総同盟成立の背景についての説明のなかで使えばよい あとは, 産業報国会と労働組合法に関してその社会的な背景を明確にすることだ ただし, これだけで終わってはダメ なにしろ, 日本労働総同盟 (1910 年代 ) を説明し, そのあとに産業報国会 (1930 年代 ), 労働組合法制定 (1940 年代 ) を説明しただけでは,1920 年代が欠落してしまっている その欠落を埋めるため, 指定語句以外の歴史用語を使うことが必要だ ILO( 国際労働機構 ) 設立を国際的な背景として高まった労働組合法制定への動き, 日本労働総同盟の分裂 日本労働組合評議会の結成という労働運動分裂の動き-いずれかを説明しておきたい なお, 最後に, 労働組合運動の変容 がきちんと説明できているかを確認し, 全体的な論旨を明確にすることを忘れないように 1910 年代労働組合の組織化と参加人員の拡大 背景 大戦景気のなかで都市労働者の増加, ロシア革命と米騒動の影響 内容 労働者の修養 共済団体としての性格の強かった友愛会 本格的な労働組合として日本労働総同盟へ発展 1920 年代労働組合公認への動き= 挫折 背景 ILO( 国際労働機構 ) の設立 内容 労働団体による治安警察法第 17 条 ( 労働者の団結と争議行為を実質的に禁止 ) 撤廃 労働組合法制定の要求, 官僚による労働組合法案の策定 治安警察法第 17 条の廃止 (1926 年 労働争議調停法の成立とひきかえ ) 労働組合法制定は資本家団体の反対で実現せず 1920 年代後半労働組合の分裂と弾圧 背景 労働運動の激化, コミンテルン ( 共産党勢力 ) の影響拡大 内容 総同盟が分裂し, 左派が日本労働組合評議会を結成 = 治安維持法のもとで弾圧 結社禁止 昭和恐慌のもとで労働争議が激化 ( 戦前最大の発生件数 ) 1930 年代 40 年代前半労働組合の右傾化と解散 背景 十五年戦争の展開, 日中戦争のもとで労働者の戦争協力体制への再編成 内容 労働組合も戦争協力に積極的 各地で産業報国会の結成 労働組合の解散 大日本産業報国会の結成 1940 年代後半労働組合の合法化と復活 背景 占領期の民主化政策 内容 労働組合法により労働組合の結成とその活動が初めて合法化 ( 団結権 団体交渉権 ストライキ権の法認 )
77 解答例 第一次世界大戦中の経済成長により労働者が増加し, ロシア革命と米騒動を契機に労働運動が高揚した 労資協調の友愛会は階級闘争主義を掲げる日本労働総同盟へ発展し, 労働組合公認を求める動きも高まったが実現しなかった その後, 共産主義の浸透のなかで総同盟は分裂したが, 共産党系の労働組合は治安維持法により厳しく弾圧された 満州事変以降, 労働組合は戦争協力の傾向を強め, 日中戦争期に労資一体の産業報国会に吸収された 敗戦後, 民主化政策により労働組合法が制定され, 労働運動が初めて合法化された
78 1997 年度 第 1 問 次の文章を読み, 下記の設問に答えよ 775 年に 81( または 83) 歳で没した吉備真備は, 吉備地方の豪族の出身である 717 年に遣唐使に従い留学, よく経史を学び, 日本の留学生で唐で名をなした者は真備と阿倍仲麻呂の二人のみである とまで称された 753 年に, 多くの書物などを携えて同期の留学僧玄昉らとともに帰朝, その最新の知識は朝廷で重んじられた のちの孝謙天皇の皇太子時代の教師となったのもこの頃である 740 年には, 重用される玄昉や真備の排除をめざして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしたが, 鎮定された やがて藤原仲麻呂が権力を持つと左遷され, さらに 751 年には入唐副使となって再び唐に渡った 帰国後は大宰府の次官となり国際的緊張下に筑前国の怡土城を造った のちに京にもどった真備は,764 年の藤原仲麻呂の乱では, 兵法の知識をいかして孝謙上皇側の参謀として乱の鎮圧に活躍した その後, 称徳天皇のもとで真備は昇進を重ね,766 年にはついに右大臣にまで上った 設問 A 吉備真備は二度にわたり唐にわたった経験をもつ 古代の遣唐使が日本にもたらした制度や文物について, 具体例をあげながら4 行以内で述べよ B 多くの政治的争乱がくりかえされた中で, 地方豪族出身の吉備真備は, なぜ長期にわたって政界で活躍し, 右大臣にまで上ることができたのだろうか その理由について, 考えられることを3 行以内で述べよ
79 第 2 問 次の ⑴ から ⑸ の文を読み, 下記の設問に答えよ ⑴ 1203 年, 北条時政は, 孫にあたる将軍源実朝の後見役として政所の長官に就任し, 幕府の実権をにぎった この地位を執権といい, 以後北条氏一族に世襲された ⑵ 1219 年に実朝が暗殺された後, 北条義時は, 幼少の藤原頼経を摂関家から将軍に迎えた ⑶ 1246 年, 北条時頼が前将軍藤原頼経を京都へ追放したとき, 有力御家人の三浦光村は, 頼経の輿にすがって, かならずもう一度鎌倉の中にお入れしたく思う と涙ながらに言い放った 翌年, 時頼は三浦泰村 同光村ら三浦一族をほぼ全滅させた ( 宝治合戦 ) ⑷ 1266 年, 北条時宗は,15 年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した この事件について, 史書 増鏡 は, 世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が, この宮に昼夜むつまじく仕えている間に, いつしか同じ心の者が多くなって, 宮自身に謀反の意向があったかのように言いふらされたものだろう と説明している ⑸ 1333 年, 後醍醐天皇の皇子護良親王は, 諸国の武士や寺社に送った幕府打倒の呼びかけのなかで, 次のように述べた 伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもが, 承久以来, わがもの顔で天下にのさばり, 朝廷をないがしろにしてきたが, ついに最近, 後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た 天皇の心を悩ませ国を乱すその所業は, 下剋上の至りで, はなはだ奇怪である 設問 A 鎌倉幕府の体制のなかで, 摂家将軍 ( 藤原将軍 ) や皇族将軍はどのような存在であったか 北条氏と将軍との関係, 反北条氏勢力と将軍との関係の双方に触れながら,3 行以内で述べよ B 護良親王は, 鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗 ( 北条氏嫡流 ) を, あえて 伊豆国の在庁官人北条時政の子孫 と呼んだ ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら, 得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった ( あるいは, ならなかった ) 理由を考えて,4 行以内で述べよ
80 第 3 問 米沢藩のある医師は,1768( 明和 5) 年に, 早くも そろりそろりと天下のゆるゝ兆し と警告していたが,1787( 天明 7) 年に, 松平定信は 政務の取り計らい違いといいながら, 上を見透かしぬいたること前代未聞なり, 世の衰えこの上あるべからず, 誠に戦国より危うき時節と世は覚えたり と語ったといわれている さらに杉田玄白は,1807( 文化 4) 年ころに, この時節, 世まさに乱の萌し見えたる様なり と書いている 松平定信や杉田玄白は, なぜそのように考えたのだろうか 当時の国内および対外情勢から, その理由を5 行以内で説明せよ
81 第 4 問 次の ⑴ から ⑶ の文章を読み, 下記の設問に答えよ ⑴ 明治元年 2 月晦日にイギリス公使が襲撃される事件が発生し,3 月 12 日にイギリスは太政官に, 外国人への暴行厳禁を命ずる新令を掲示するよう督促した しかし, 太政官のなかでは, そのような新令の掲示は外国人に屈したように見えるという意見がでて, 直ちに決定ができなかった ⑵ 明治元年 3 月 15 日に, 太政官から呼出しがあったので熊本藩の重役が出頭すると, 次の5 枚の高札の文面と前日に出された五箇条の誓文が手渡された Ⅰ 五倫 ( 父子, 君子, 夫婦, 長幼, 朋友 ) の道徳を守ること Ⅱ 徒党を禁止する Ⅲ キリシタンを禁止する Ⅳ 開国和親の政策をとるので, 外国人殺害を禁止する Ⅴ 戦乱に乗じ, 本来居住すべき地から脱走することを禁止する ⑶ 太政官の高札が江戸日本橋に掲示されるのは, 明治元年 7 月になってからである このとき政府が掲示を督促した高札は,ⅠからⅢの3 枚であった 設問 A 五箇条の誓文と5 枚の高札の文面が同時に手渡され, しかも両者が共通して対外関係について触れているのはなぜか ⑴で述べられている事実を踏まえて,3 行以内で説明せよ B ⑶を手がかりに, 維新初期の民衆政策のあり方について2 行以内で説明せよ
82 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 古代の遣唐使が日本にもたらした制度や文物について説明すること 制度 律令 都城制 貨幣制度文物 儒教 ( 儒学 ) 鎮護国家の仏教 漢詩文 国際色豊かな美術工芸 ( 儒教や仏教は, 制度といった方が適切かもしれないが, とりあえず文物に分類しておいた ) B 設問の要求は, 地方豪族出身の吉備真備が長期にわたって政界で活躍し右大臣にまで上ることができた理由 設問では 考えられることを述べよ と書かれているが, ヒントは問題文のなかにある データを引き出して要約したい 問題文から引き出すことができるデータは, 以下の通り 1 留学 経史を学ぶ 唐で名をなした 最新の知識が朝廷で重んじられた 唐の最新の知識に精通した貴重な人材 2 二度にわたって唐にわたった経験をもつ 国際関係に精通 ( 唐 新羅との国際的緊張 ) 3 国際的緊張下に筑前国の怡土城を造る 兵法の知識をいかして乱の鎮圧に活躍 有能な兵学者 4 孝謙天皇の皇太子時代の教師 孝謙上皇側の参謀 孝謙からの信任これらのうち,1 3は吉備真備の個人的能力に関するもの,4は律令制のもとでの絶対君主たる天皇との人間関係に関するものである 解答例 A 律令制度が導入されて中央集権国家の形成が進み, 唐にならって都城の建設や貨幣の鋳造 国史の編纂などが行われた 鎮護国家思想に基づく国家仏教体制が整備され, 貴族の教養として漢詩文が重視された また, さまざまな美術工芸品やその技術が伝えられた B 吉備真備は二度にわたって入唐した経験から唐の最新知識をもち, 兵法家としても有能で, 国際関係にも精通した貴重な存在であったうえ, 皇太子時代から孝謙 = 称徳天皇の厚い信任を受けていた 第 2 問 A 設問の要求は, 鎌倉幕府の体制のなかで, 摂家将軍 ( 藤原将軍 ) や皇族将軍はどのような存在であったか 条件として, 北条氏と将軍との関係, 反北条氏勢力と将軍との関係, の双方にふれることが求められている まず 鎌倉幕府の体制 を考え, そのなかで 将軍 がどのような存在であったかを考えた上で, この設問の要求に直接答えるとよい 鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係を基礎として成り立っており ( もともと幕府は将軍家のこと ), 幕府にとって将軍は不可欠な存在である そして, 源氏将軍が断絶して以降, 摂関家や皇族から将軍を迎え, 幕府の権威付けとしていた 次に, 問題文から引き出すことのできるデータは, 以下の通り ⑴ 北条氏は将軍の後見役として実権を握った ⑵ 源氏将軍断絶後は摂関家から将軍を迎えた ただし幼少 ( 名目的な存在 ) ⑶ 北条氏と対立した将軍は追放された 将軍は反北条氏勢力の結集点 ⑷ 将軍本人に北条氏と対立する意向があったかどうかに関わりなく, 将軍は反北条氏勢力の結集点となっているネックは,3 行 (90 字 ) と字数が非常に少ないことだ 以上のデータをいかに 90 字以内で書けばよいのか, 頭をひねっ
83 てみよう その際, 問題文を単に要約していては, 設問の要求にきちんと答えきれるかどうか危うい 設問の要求が 摂家将軍 皇族将軍がどのような存在だったか であることを忘れないように B 設問の要求は, 得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった ( あるいは, ならなかった ) 理由 条件として, 護良親王が得宗 ( 北条氏嫡流 ) をあえて 伊豆国の在庁官人北条時政の子孫 と呼んだことにあらわれている日本中世の身分意識と関連づけることが求められている 条件に 日本中世の身分意識 との関連づけが求められていることから,91 年度の建武新政に関する出題 ( なかでも設問 B) が類似問題であることに気づけば解きやすいが, おそらくほとんどの受験生は 日本中世の身分意識 についての知識を持ち合わせていないのではないだろうか- 山川 詳説日本史 には全く説明がないが, 三省堂 日本史 には 中世社会の身分 という項目で説明がある- その意味で難問である とりあえず問題文 ⑸からデータを引きだそう 伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷ども わがもの顔で天下にのさばり, 朝廷をないがしろにしてきたが, ついに最近, 後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た 下剋上の至り と評価つまり, 在庁官人の子孫 が朝廷の政治を左右し, 天皇の地位を処断することを, 護良親王は 下剋上の至り と評している ということは, 護良親王がもっていた身分意識は, 天皇が身分秩序の頂点 で, 在庁官人 ( 御家人 ) はしもじもの身分, しもじもの身分が天皇の地位を処断することなどもってのほか というものだとわかる さてここで, 後醍醐天皇の討幕運動の思想的な背景となったとされる朱子学の大義名分論を思い起こそう 君臣の上下関係を基礎とする階層秩序に正義をもとめ, 人びとがその階層秩序におけるそれぞれの社会的地位に応じた行動 義務を遂行すべき, とする考え方である そして当時の日本には, 天皇を頂点とする身分秩序が存在していた 鎌倉幕府が成立し, その勢力が拡大していたとはいえ, 天皇を中心とする朝廷が京都に存続し, その支配がまだまだ効力をもっている状態では- 幕府はあくまでも公武協調の姿勢を貫いていた-, 天皇を頂点とする位階 官職の体系が存続し, 官位と家柄の結びついた階層秩序が社会を規定していた これが護良親王 ( や北畠親房 ) の準拠していた身分意識であった そして幕府も, 朝廷の全国支配を ( 理念的に ) 前提としつつ公武協調の姿勢を貫く以上, その身分意識から自由ではありえず, 将軍家は天皇家 摂関家に並ぶ家柄として意識され ( なにしろ将軍家は天皇家 摂関家同様, 権門すなわち荘園領主であり知行国主であった ), 将軍は貴種であることが条件とされていた 在庁官人出身の北条氏が将軍となるには, この身分意識の存在が障害とならざるをえなかった -もともと源頼朝は, 流人という立場で挙兵して幕府を組織したため, 幕府の中核となるべき強固な主従制をもっていなかった だからこそ, 頼朝は以仁王令旨や寿永二年十月宣旨など朝廷の権威を活用することにより自らの権力と御家人制の確立を進めていた このことを考えれば, 幕府の存在が朝廷の権威, そのもとでの身分秩序を前提とするものであることも想像できるだろう- なお, もともと幕府の地位 権限 ( 治安維持の機能 ) は朝廷の法令 ( 新制 ) により規定されていたが- 建久の新制 (1191 年 )-,1230 年代以降は朝廷側の新制では規定されなくなり, かわって幕府による弘長の新制 (1261 年 ) 以降, 御成敗式目を根拠として幕府自身の法令 ( 新制 ) によって規定されるようになっていた もともと朝廷下の軍事権門として位置づけられていた幕府が, 朝廷から独立した政権としての地位を確保するにいたったというわけだ そうした状況のなか北条得宗家は, 惣領制のもとでの血縁的結合から離れた中小御家人 ( 庶子家 ) たちを御内人へと組織し, 独自の主従制を形成しはじめていた こうした主従制の形成は, 天皇を頂点とする身分秩序を直接の媒介とせず, それゆえに得宗はあえて将軍となる必要がなかったといえる さらに言えば, 支配の正統性は朝廷からのみ付与されるものではなく, その統治の是非にもとずいて被治者からも与えられるものである以上, 北条得宗家が支配の正統性を確立するのに必ずしも将軍になる必要はなかった とはいえ, すべての御家人を主従制下に編成できたわけでなく, 武家政権の首長としての将軍の存在を否定することはできない また, 幕府は蒙古襲来に対応するための軍事体制の構築をきっかけに, 朝廷からの権限委譲を通じて公家 寺社の支配領域へ介入する ( 非御家人の動員など ) ようになったが, それにともなって幕府のもつ権限の正統性の根拠とし
84 て再び朝廷 ( 天皇 ) がクローズアップされることになる 結局のところ, 北条得宗家も天皇を頂点とする身分秩序から逃れることはできなかったということだ なお,< 天皇からの血筋の遠近による身分意識 >をここで持ち出した人がいるかもしれない しかし, 確かに天皇と外戚関係をもつものが朝廷で主導権を握ったのは鎌倉時代でもそうだが ( たとえば西園寺氏 ), 天皇との血縁にかかわりなく摂関家から摂政 関白が出ていた 摂関家は 天皇からの血筋 が近いのだろうか? また, 天皇の親族のみによって上位の身分が占められていたとでもいうのか? 門閥 あるいは 貴種 であることと 天皇からの血縁の近さ とは必ずしも一致しないはずである 三省堂 日本史 では次のように記述されている 中世社会にはさまざまな身分の者がいたが, 大きく分けると, 公家 ( 貴族 ), 侍 ( 武士 武家 ), 百姓 ( 凡下 ), 下人の四つであった 公家は古代以来の支配者で, 朝廷から官位をあたえられていた ( 中略 ) 武士は戦闘を職業とする身分とみなされ, 低くはあったが, 朝廷から官位をあたえられた 彼らの多くは御家人であったが, 幕府に属さず, 貴族や大寺院 大寺院などに属する非御家人もいた 武士は幕府や主人の兵役をつとめるとともに, 地頭や荘官として荘園や公領の実際的な支配を行なった ここで述べられた枠組みを前提とすれば, 北条氏は侍身分で, 朝廷から官位があたえられたが, 公家に比べると低かった と言える では, 将軍は 公家 ( 貴族 ) なのか, 侍( 武士 ) なのか 源頼朝が二位の位階をもっており ( 吾妻鏡 のなかの守護 地頭設置に関する史料中に 二品 と出てくることは知っているはず ), 右近衛大将兼権大納言に任じられたこと, さらに実朝暗殺後は摂関家や皇族から将軍が招かれていることを考えれば, 将軍は 公家 ( 貴族 ) 身分であった-あるいはそれに準ずる身分であった- ことが推論できる 解答例 A 幕府は将軍と御家人の主従関係を基礎としたため, 北条氏が執権として実権を握る限り将軍は不可欠で, 摂家 皇族将軍が名目的存在として推戴されたが, かえって反北条勢力の結集点となった B 鎌倉時代にあっても天皇を頂点とする身分秩序が機能しており, 幕府もその身分秩序を前提とし, 将軍家は天皇家や摂関家に準ずる家柄と意識されていた それ故, いくら専制的な権力を掌握しようと, 伊豆国の在庁官人出身の北条氏は将軍にはなれなかった ( 別解 ) 中世社会でも天皇を頂点とする身分的上下関係が存在しており, 将軍は皇族や摂関など公家身分に準ずる存在とみなされたが, 在庁官人出身の北条氏は侍身分に過ぎず, 一段低い身分と意識されていた この身分意識ゆえに, 北条氏は将軍にはなれなかった 第 3 問設問の要求は, 松平定信が 政務の取り計らい違いといいながら, 上を見透かしぬいたること前代未聞なり, 世の衰えこの上あるべからず, 誠に戦国より危うき時節と世は覚えたり と考えたり, 杉田玄白が この時節, 世まさに乱の萌し見えたる様なり と考えた理由 条件として, 当時の国内および対外情勢から説明することが求められている なお, 当時 とは,1768( 明和 5) 1807( 文化 4) 年ころ まず条件から考えていこう その際,1768( 明和 5) 1807( 文化 4) 年ころという時期設定から思い浮かぶことがらをリストアップしてみるとよい 国内情勢 田沼政治 天明の大飢饉 百姓一揆 打ちこわし (1787 年天明の打ちこわしが発生 )
85 寛政の改革 関東取締出役の設置 (1805 年 ) 対外情勢 ロシア人の南下 ラックスマンやレザノフの来航 松前 蝦夷地全域の直轄化 松前奉行の設置 (1807 年 ) 次に, 問題文で与えられた史料に関して 松平定信が 政務の取り計らい違いといいながら, 上を見透かしぬいたること前代未聞なり と評しているが,1787( 天明 7) 年という年代から判断すれば, それが 天明の打ちこわし に対する評価であることは推測できるだろう 打ちこわしとは, 飢饉などによる物価の上昇を原因として, 都市民衆が米穀商や豪商を襲撃しその家屋 家財を破壊したもの その主体となった人びとは, 零細な長屋に住み, 日用稼ぎなどに従事してわずかな貨幣収入でどうにか暮らしていた貧しい都市民衆であったが, 都市下層民 ( 貧民 ) が増加した背景は何か また, 杉田玄白が この時節, 世まさに乱の萌し見えたる様なり と書いた 1807( 文化 4) 年ころと言えば, 関東取締出役が設置された直後であり, レザノフ来航をきっかけとして高まったロシアとの緊張に対処するために松前 蝦夷地が上知されたころである 関東取締出役という関東全域にわたって警察権を担う役職が新設された背景は博徒や無宿 ( 定職や住居をもたない人びと ) の横行による治安の悪化であるが, 博徒や無宿が横行するようになった社会的背景は何か 都市貧民が増加したのも, 博徒や無宿が横行するようになったのも, 農村社会への商品経済の浸透を背景としている 商品経済の浸透は本百姓経営 ( 家族を働き手とする小農経営 ) を分解させ- 享保改革以来の年貢増徴策と商業重視の政策がそれを助長 -, 質流れ地を集積して地主となるものが出る一方, 土地を手放し, 出稼ぎに出たり村を離れて都市へ流入するものが増えた それに加え, 商品経済の浸透は消費的な生活文化の浸透を伴い,( 意識レベルでの ) 生活水準の向上も招いていた- 必ずしも生活が豊かになったとか楽になったという話ではないが- 豊かさを夢見て都市へと流入する人びとの流れも引き起こし, また物見遊山の旅に出る人びとも増えていく こうして 18 世紀半ば以来の経済発達のなか, 農村社会での住人の流動性が高まり ( そこに発生した天明期の飢饉は, 農村から都市に向けた人口の流出をいっきに加速させた ), その結果, 都市では零細な長屋に住み, 日用稼ぎなどに従事してわずかな貨幣収入でどうにか暮らしていた貧しい都市民衆が増加し, 家持町人を中心とする都市構成が大きく変化した こうして人びとの社会的流動性のたかまりのなかで, 村や町の共同体としての規制が弛緩する ところが, もともと近世身分社会の基本単位は村 町といった社会集団 ( 共同体 自治組織 ) であった-さらにそれら社会集団は家によって構成され, そして人びとは家に所属, 家を通じて家中や村 町に所属し, その分際 ( 分限 ) に応じた権利を保証され生業 ( 家業 ) を営んでいた- したがって, 村や町の共同体秩序が弛緩することは身分制の動揺を意味していた なお, このあたりのテーマについては 1993 年第 3 問,1996 年第 3 問も参照のこと 対外情勢について 1807 年ころまでという時期の限定があるのだから, イギリス ( フェートン号事件やアヘン戦争 ) やアメリカ ( モリソン号事件 ) との関係については記述してはならない 解答例 年貢増徴と商品経済の発展により本百姓経営の分解が進み, 離農者の流入により都市下層民が増加し, 博徒などの無宿も横行した 天明の飢饉はその動向に拍車をかけ, 百姓一揆や村方騒動, 打ちこわしが頻発し, 村や町の共同体秩序が動揺した また, ロシアが通商を求めて接近して対外関係が緊張し, 内外の危機が深まっていた 第 4 問 A 設問の要求は, 五箇条の誓文と5 枚の高札 ( 五榜の掲示 ) の文面が同時に手渡され, しかも両者が共通して対外関係について触れている理由 条件として,⑴で述べられている事実を踏まえることが求められている
86 まず, 対外関係について触れている というのだが, 具体的にはどのように記されているのかを確認しよう 五箇条の誓文 一, 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ一, 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ一般に 開国和親 と説明される箇所だが, そこでは攘夷意識を取りのぞき万国公法にもとづくことが表明されている 五榜の掲示 IV 開国和親の政策をとるので, 外国人殺害を禁止する 外国人殺害 とは攘夷行為である 両者に共通しているのは, 開国和親 ( 欧米諸国との友好 ) という外交姿勢を明確化していること, 攘夷行為の抑制 排除をはかろうとしていること, である -( ア ) 次に, 問題文 ⑴について イギリス公使が襲撃される事件が発生 ( 明治元年 2 月晦日 ) イギリスが外国人への暴行厳禁を命ずる新令を掲示するよう太政官に督促 (3 月 12 日 ) ここから, 攘夷行為が現実に発生していたこと, 欧米諸国がその抑制を政府に求めていたことがわかる -( イ ) さて,( ア ) と ( イ ) をまとめれば答案ができてしまいそうだが, そこで思考を止めてしまってはダメ 問題文 ⑴に 太政官のなかでは, そのような新令 ( 注 : 攘夷厳禁の法令 ) の掲示は外国人に屈したように見えるという意見がでて, 直ちに決定ができなかった (3 月 12 日 ) とあるものの, 問題文 ⑵にあるように3 月 日には攘夷厳禁の姿勢が示されていることに注目して欲しい 即日 という意味では 直ちに ではないが, それでも2 3 日後なのだから対応としては早い 外国人に屈したように見えるという意見がで たにもかかわらず, 早い段階で攘夷厳禁の姿勢が公に示されるようになっているのだが, それはなぜなのだろうか 当時, 戊辰戦争の最中であったことを思い起こそう- 五箇条の誓文が発せられた3 月 14 日は江戸城総攻撃の予定日だったが, イギリスの反対もあり江戸城総攻撃はすでに中止され, 無血開城が約束されていた- 欧米諸国の戊辰戦争への干渉を排除し, また明治新政府が欧米諸国から承認を受けるためにも, 草莽層の攘夷行為への暴走は避けなければならなかったわけだ B 設問の要求は維新初期の民衆政策のあり方 条件として問題文 (3) を手がかりとすることが求められている 維新初期 とあるが, いつ頃までを指すのかがきわめて曖昧 問題文 ⑶を手がかり というのだから, 問題文 ⑶にある明治元年 7 月あたりまでを指すと判断しておくしかない さて, 五榜の掲示に示された明治政府の民衆政策といえば, 江戸幕府の民衆政策を継承 につきる とはいえ, それだけでは条件を満たすことができない 問題文 ⑶を確認しよう 明治元年 7 月になって五榜の掲示が日本橋に掲示された 政府が掲示を督促した高札は I から III の3 枚 ( これが幕府の民衆政策を継承したもの ) つまり,IV の攘夷厳禁,V の草莽層の行動抑制は明治元年 3 月 7 月という期間の一時的な ( 時限的な ) 施策ということになる IV はイギリスの督促した攘夷厳禁の新令であり,V は攘夷行為にはしる草莽層の発生を抑制しようとしたもので IV の前提となる規定 これらが一時的な施策とされ,7 月段階では掲示を督促されなかったのは, 政府内部にも存在した 外国人に屈したように見えるという意見 に配慮したものだと言える なお, イギリスの督促した攘夷厳禁の新令が攘夷厳禁の新令として単独に発令されたのではなく5 枚の高札の1つとして出されたこと自体, 外国人に屈したよう な印象を避けるという効果が意図されていたものと考えることができる ところで 明治元年 7 月 とはどのような時期だったか 5 月に上野彰義隊を鎮圧し, そして江戸を東京へ改称したのが7 月 つまり, 明治新政府が江戸掌握を果たした時期である しかし, ここまで細かな知識を出題者が求めているのだろうか もしそうだとすれば悪問である ( 戊辰戦争の経過を年表として提示しておいてほしかったが ) したがって, そこまで配慮する必要はない
87 解答例 A 欧米から攘夷厳禁を督促された新政府は, 戊辰戦争の中で欧米からの支持 承認を得る必要があったため, 内外に対して開国和親の方針を明確化し, 攘夷厳禁を民衆にまで徹底させる必要があった B 旧幕府の政策を継承して儒教道徳の遵守, 徒党 キリシタンの禁止を掲げると共に, 時限的に攘夷厳禁を掲げて治安確保を図った
88 1996 年度 第 1 問 次の史料は,914 年, 醍醐天皇が臣下の意見を求めたときに, 三善清行が当時の政治の欠点を指摘し, 12 か条にわたってその改善策を述べたうちの 1 条である これを読んで, 下記の設問に答えよ 一, 諸国に勅して見口の数 1に随いて口分田を授けんと請うこと右, 臣伏して諸国の計帳を見るに, 載するところの百姓, 大半以上は, これ無身の者 2なり ここに国司ひとえに計帳に随いて口分田を宛て給い, 即ち正税を班ち給いて3, 調庸を徴納す ここにその身ある者は, わずかに件の田を耕作し, すこぶる租調を進る その身なき者は, 戸口一人, 私に件の田を沽り4, かつて自ら耕さず 租税調庸に至りては, ついに輸納の心なし ( 中略 ) 牧宰 5 空しく無用の田籍 6を懐き, 豪富いよいよ并せ兼ねたる地利を収む ただ公損の深きのみにあらず, また吏治の妨げとなる 注 1 実在する人数 2 実在しない者 3 出挙を行うこと 4 1 年を限ってその耕作を他人に委ねること 5 国司のこと 6 口分田を班給した結果を記した帳簿 設問三善清行は, 国家財政が悪影響を受け, 国司の地方政治が妨げられている と指摘している 国司の職務の妨げとなるどのような事態が起きているのか, さらにどのような 百姓 の動きがこの事態をひきおこしたのかについて,5 行以内で説明せよ
89 第 2 問 次の ⑴ ⑹ の文を読んで下記の設問に答えよ ⑴ 1346 年, 室町幕府は山賊や海賊, 所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守護に取り締らせる一方, 守護請や兵粮米と号して, 守護が荘園や公領を侵略することを禁じた ⑵ 1400 年, 信濃の国人たちは, 入国した守護に対して激しく低抗してついに合戦となり, 翌年, 幕府は京都に逃げ帰っていた守護をやめさせた ⑶ 1414 年, 九州の一地方の武士たちが作成した契約状によれば, 喧嘩を起した場合, 双方が処罰されることとなっている ⑷ 1526 年に制定された 今川仮名目録 では, 喧嘩の両当事者は, その主張が正当てあるかどうかにかかわりなく, 死罪と規定されている ⑸ 1563 年, 武田氏が作成した検地帳によれぱ, 検地をして新たに把握された増加分は, その地の家臣に与えられている ⑹ 発掘調査の結果, 朝倉氏の城下町一乗谷は計画的につくられており, 館を中心に, 武士の屋敷や庶民の家, 寺などが周囲をとりまいていることがわかった 設問 A ⑴の文を参考にして, 室町時代の守護は, 鎌倉時代の守護とどのような点が異なっているのか, 2 行以内で説明せよ B ⑵ ⑹の文を参考にして, 室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方と, それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策について,5 行以内で説明せよ
90 第 3 問 1830 年 3 月ごろ, 阿波地方から始まった御蔭参りは, 御札が降ったという噂とともにまたたく間に各地にひろがった 老いも若きも, 子や孫を引き連れ, 中には家を閉じて抜け参りに出かける者が多く, 下女も台所や井戸端での仕事をそのままにして着のみ着のまま飛び出る者もいる といわれるように, 人々はわれ先に伊勢神宮へと殺到したのである 幕府は当初, 主人や親 夫また家主などに無断で家を出て参詣に行くことを禁したが, 人々の熱狂をしずめることはできなかった こうして 御蔭でさ, ぬけたとさ と歌い踊りながら伊勢神宮に参詣した人々は, この年の秋までに 500 万人近くにも達したとされている このような熱狂的な御蔭参りはなぜ発生したのだろうか 参加した人々の階層や行動様式の特徴にふれながら,5 行以内で説明せよ
91 第 4 問 下の図は 1900 年前後の時期の貿易の動向を示したものである 輸出入ともに急速に伸びているが, その動向について下記の設問に答えよ 設問 A 1890 年代半ば以後は, 綿糸輸出が増加するなと資本主義が発達していった時期であるが,1910 年代初めまで, ほとんどの年が輸入超過になっている その主な理由を3 行以内で述べよ B 1910 年代半ばからの数年間は, 輸出が急速に増加し, 大幅な輸出超過が生じている その主な理由を3 行以内で述べよ
92 解法の研究 第 1 問設問の要求は,1 国司の職務の妨げとなるどのような事態が起きているのか,2どのような 百姓 の動きがこの事態をひきおこしたのか まず, 与えられた史料が三善清行の意見封事 12 カ条 (914 年 ) であることから 律令制の解体 がテーマになっていることに気づけば, 次のような 枠組み が思い浮ぶだろう 戸籍 計帳にもとづく公民支配の崩壊 調庸 ( 人頭税 ) の減収 = 朝廷の財政悪化 原因 富豪層 ( 富豪の輩 有力農民 ) の動向経営形態 : 貧農を隷属 ( 私出挙を通じて ) 墾田を開発国司による国内支配に抵抗 徴税行為を忌避 ( 手段 = 浮浪や偽籍, 中央の皇族 有力貴族との結託 ) 次に史料文について 設問に 国家財政が悪影響を受け, 国司の地方政治が妨げられている とあるが, それが史料文中の ただ公損の深きのみにあらず, また吏治の妨げとなる を現代語に置き換えたものであることはすぐに気づくだろう そしてその直前に 牧宰 ( 国司 ) 空しく無用の田籍を懐き, 豪富いよいよ并せ兼ねたる地利を収む とあるが, その 豪富 が 富豪層 ( 富豪百姓 ) をさすことも推察できるはず つまり, 国司の地方政治を妨げている 百姓 の動きとは, 富豪層の動きである さらに, 最初の方に 諸国の計帳を見るに, 載するところの百姓, 大半以上は, これ無身の者なり とあるのは 浮浪 もしくは 偽籍 に関する指摘であることもわかるだろう ( 浮浪した百姓のなかからも富豪層が生じていたについては 90 年第 1 問を参照のこと ) 史料文の内容は次の通り 諸国に勅して見口の数に随いて口分田を授けんと請うこと 三善清行は, 実在する人数に従って口分田を班給することを提案している そして, 続く文章で現状分析を行っている 諸国の計帳を見るに, 載するところの百姓, 大半以上は, これ無身の者なり 諸国の計帳に掲載されている百姓の大半以上は, 実在しない者である つまり, 登録されてた者が浮浪していたり, 実在していない者が偽って登録されていたりいるケースが非常に多い ここに国司ひとえに計帳に随いて口分田を宛て給い, 即ち正税を班ち給いて, 調庸を徴納す もともと, 国司は計帳 ( 正確には戸籍 ) に従って口分田を班給し, そのうえで出挙を行い, 調庸を徴収している ここにその身ある者は, わずかに件の田を耕作し, すこぶる租調を進る その身なき者は, 戸口一人, 私に件の田を沽り, かつて自ら耕さず 租税調庸に至りては, ついに輸納の心なし 実在する者は, 班給をうけた口分田を耕作し, 租や調などの租税を納めている ところが, 実在しない者の分については, 同じ戸の百姓たちが自ら耕作せずに, 他人に貸し付けて耕作させ, そのうえ, 租や調庸を納めようとしない 牧宰空しく無用の田籍を懐き, 豪富いよいよ并せ兼ねたる地利を収む つまり, 国司のもとにある田籍 ( 口分田を班給した結果を記した帳簿 ) が全くの無用のものとなってしまっている一方で, 豪富の百姓 ( 富豪百姓 ) たちは, 貸し付けた田地からの地子収入により富を蓄積している ただ公損の深きのみにあらず, また吏治の妨げとなる その結果, 国家財政が悪影響を受け, 国司の地方政治が妨げられている 解答例 律令税制の重い負担を忌避しようとして浮浪 逃亡や偽籍が増加する一方, 私出挙を通じて周辺の貧農を支配下にお き墾田開発を進めて大規模な農業経営を行う富豪百姓が現れ, 彼らは中央の皇族 貴族と結んで国司の徴税行為に抵
93 抗した その結果, 戸籍 計帳による人民支配は形骸化し, 班田制の実施や徴税が困難になっていた ( 別解 ) 農民の階層分化が進むなか, 私出挙を通じて周辺の貧農を支配下におき墾田開発を進めて大規模な農業経営を行う富豪百姓が現れた 彼らは浮浪や偽籍を行うと共に, 中央の皇族 貴族と結ぶなどして国司の徴税行為に抵抗した その結果, 戸籍 計帳を基礎とする公地公民制は形骸化し, 班田制の実施や徴税が困難になっていた ( 別解 ) 平安前期には, 私出挙を通じて周辺の貧農を支配下におき墾田開発を進めて大規模な農業経営を行う富豪百姓が各地に現れた 彼らは偽籍という手段で, 口分田を確保しながら調庸など律令制下の租税負担を忌避しようとしていた その結果, 戸籍 計帳による人民支配が形骸化し, 班田制の実施や徴税が困難になっていた 第 2 問 A 問われているのは, 室町時代の守護が鎌倉時代の守護とどのような点が異なっているのか 条件として, 資料文 ⑴の文を参考にすることが求められている まず, 資料文 ⑴の内容を確認しよう そこで述べられているのは次の3 点である ア 山賊や海賊 を守護に取り締らせる これは鎌倉時代, 御成敗式目のなかで権限として追加されたもので, 鎌倉後期にはこれを根拠として守護が悪党追捕に携わっていく イ 所領争いにおける実力行使などの暴力行為 を守護に取締らせる 刈田狼藉の検断権についての説明 この2つは守護の軍事警察権が強化されたことを具体的に記したものである ウ 守護請や兵粮米と号して, 荘園や公領を侵略することを禁止 これは禁止事項であるが, ここから, 荘園領主との間で正式に守護請の契約を結んでいないにもかかわらず, また, 勝手に兵粮米の徴収と称して, 不法に荘園 公領を侵略する動きがあったことがわかる ( なお, 資料文 ⑴は 1346 年とあり, まだ半済令が出されていない段階であるが, 半済令は兵粮米徴収を年貢半分に限って認め, 荘園 公領への侵略行為を一定限度内に抑制したものである ) 次に, 鎌倉時代の守護と室町時代の守護 ( 守護大名 ) とを対比しながら, それぞれの特徴を確認しよう 鎌倉時代の守護国ごとに任じられた軍事指揮官 = 権限は大犯三箇条に限定 室町時代の守護幕府による権限強化 一国全体に及ぶ地域支配 ( 領国支配 ) を実現国人を被官 ( 家臣 ) 化, 荘園 公領を侵略, 国衙機能を吸収 B 問われているのは,1 室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方,2それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策 条件として資料文 ⑵ ⑹を参考にすることが求められている まず,1 室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方について 資料文 ⑵ 国人たちが守護の入国に抵抗 排除資料文 ⑶ 国人一揆の取り決めのなかで喧嘩両成敗が規定されている国人一揆の取り決めのなかに喧嘩両成敗の規定があることは知らないと思うが, 資料文 ⑶と⑷( 戦国大名による喧嘩両成敗の規定 ) を対比させれば, 国人たちが自ら喧嘩両成敗を取り決め, 私的な武力行使を禁止することで安定した地域秩序をつくりあげようとしていたことを推論するのは難しくないはず 以上をまとめれば, 地方武士 ( 国人 ) は守護からの自立性が強く, 一揆を結んで相互の紛争を解決し, 自主的な地域権力を形成していた なお, 守護はこうした国人たちを家臣 ( 被官 ) に編成することによって一国全体に及ぶ地域支配 ( 領国支配 ) を実現させることができたのだが, それを保障したのが幕府から任じられた守護職であった つまり, 幕府の権威に依拠することで初めて領国支配の正統性を確保することができたのである それに対し, 実力でもって一元的な地域支配の実現をめざしたのが戦国大名である 次に,2 地方武士のあり方に対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策について 資料文 ⑷ ⑹に示されている施策の内容を簡潔に表現するとともに, それがどのような意義をもったか 戦国大名が支配権を確立するうえでどのような役割を果たしたかを考えよう
94 資料文 ⑷ 分国法で喧嘩両成敗を規定 国人一揆の取決めを吸収しながらも, 国人たちによる私的な武力行使を禁じて紛争解決機能を戦国大名に集中させ- 一揆の解体!-, 戦国大名が地域の平和的秩序を保障する公権力であることを示そうとした 資料文 ⑸ 検地を実施 家臣に編成した国人や地侍らの収入額を銭に換算した貫高という基準で統一的に把握し, その収入を保障する代わりに, 貫高に応じた一定の軍役負担を義務づけた こうして貫高という統一的基準に基づく新たな知行制をつくりあげて戦国大名と家臣との主従関係を強化しようとした なお, 貫高は百姓支配にも用いられ, 年貢なども貫高に応じて賦課された こうして貫高を基礎として< 年貢を負担する者 = 百姓 >と< 軍役を負担する者 = 武士 >との身分的区別 ( 兵農分離 ) が進められていった 資料文 ⑹ 家臣の城下集住策 検地を通じて軍役を負担する者として把握された国人 地侍らを城下町に集住させようとすることは, 次の2つの意味をもっていた 第一に, 迅速な軍事動員を確保することであり, 第二に, 彼らを在地から切り離して戦国大名の直接監視下におくことで彼らの自立性を弱め, 家臣団統制を強化しようとした 解答例 A 新たに獲得した刈田狼藉の検断権や半済 守護請などにより国人の被官化, 土地侵略, 国衙機能の吸収を進め, 領国支配を進めた B 在地領主であった国人は一揆を結んで自主的な地域権力を形成し, 守護の支配に抵抗したり, 相互の紛争を解決していた それに対して戦国大名は, 国人による私的な武力行使を禁じて紛争解決機能を自らに集中させ, 検地を実施して主従関係を強化し, 城下町集住策により国人の在地支配権を否定し, 支配権を確立しようとした 第 3 問設問の要求は, 熱狂的な御蔭参りが発生した理由 条件として, 参加した人々の 階層や 行動様式の特徴にふれることが求められている まず条件から考えよう 参加した人々の階層問題文には 下女も台所や井戸端での仕事をそのままにして着のみ着のまま飛び出る者もいる 主人や親 夫また家主などに無断で家を出て参詣に行くことを禁じたが, 人々の熱狂をしずめることはできなかった と説明してある ここから, 参加した人々の具体例として徒弟 丁稚 下女のような奉公人, 子供 妻, 借家人があげられるが, こうした人々の共通点は何だろう? その際, 近世身分制社会に関する次のような 枠組み を想起しよう 民衆支配 ( 身分制社会 ) の基本単位 村 町といった社会集団 家により構成 < 人びとは家に所属 家を通じて村 町に所属 > 家内部に厳しい上下関係主人と住み込みの奉公人 ( 商家の場合は丁稚, 職人の場合は徒弟 ) 家長 長男とそれ以外の家族 ( 次三男や女性 ) 家どうしの間には家格 ( 厳しい階層秩序 ) 村政や町政への参加 : 高持百姓 家持町人 水呑百姓 借家人この 枠組み をもとに考えれば, 御蔭参りに参加した人々は, 身分社会の階層秩序のなかで下位に置かれた人々であることがわかる 参加した人々の行動様式の特徴問題文からデータを引き出そう
95 着のみ着のまま飛び出る者もいる 主人や親 夫また家主などに無断で家を出て参詣に行く ここから, ア金銭を持たず, イ許可なく旅に出た ( 要するに抜け参り ), という行動様式が抽出できる アから, 金銭を持たずとも伊勢神宮まで旅することが可能な環境 システムが整っていたことがわかる とはいえ, これに関する知識は教科書レベルを越えている ( 御師の活動により伊勢信仰が各地に浸透し, 伊勢参宮のためのシステムも整備されていた ) イは, 上記の 枠組み のような社会的な規範から逸脱する行動様式 こちらを軸に答案を作成するとよい ここで考えるべきことがらは, 身分制社会の規範 厳しい階層秩序の束縛から逸脱しようとする衝動が広範に発生するにいたった背景である 問題となっている 1830 年ころといえば, 文政金銀の鋳造で通貨流通量が増加したこともあいまって商品経済が大きく発展していた時期であり, それにともなって農村では農民の階層分化が進んで本百姓を中心とする村の共同体秩序が動揺, 都市では出稼ぎ農民や無宿などの流入により貧民が増加して家持町人を中心とする町の共同体秩序が動揺していた つまり, 上記のような身分制社会の 枠組み が大きく動揺していたのである これを背景として, 御札が降ったという噂を契機に日常生活のなかでのうっぷんを爆発させる形で御蔭参りが各地に広がっていった 解答例 幕藩体制下では人びとは家を単位として身分集団ごとに組織され, そのもとで分際にかなった行動を求められていた 御蔭参りは, そうした束縛から逸脱しようとする庶民の衝動が伊勢信仰を背景に爆発したものであり, 奉公人や女性, 借家人などが主人や親 夫, 家主の許可なく, 金銭も持たずに集団的熱狂のもとで参加していた 第 4 問設問の要求は, 資本主義が発達していった 1890 年代半ば 1910 年代初めに輸入超過が継続した主な理由 問題文で 綿糸輸出が増加するなど資本主義が発達していった時期であるが ほとんどの年が輸入超過になっている と書かれていることを念頭におけば, 資本主義が発達して綿糸輸出が増加したものの, それ以上に輸入が増加したため, ほとんどの年が輸入超過になったのだ, と推論することができる では, 具体的にどのような品目の輸入が増加したのだろうか その輸入増加と資本主義の発達とはどのような関連があるのだろうか さて, 右のグラフを見て欲しい たいていの教科書に掲載されている貿易統計のグラフである これらのグラフからどのような内容を読み取ることができるだろうか まず,1890 年代半ば以後, 綿花, 機械類, 鉄類の輸入が増加していることが読み取れる 綿花と機械類は,1880 年代初めには輸入のグラフには登場しないものの,1890 年代半ば以後, 主要な輸入品となっている また, 鉄類は輸入品全体に占める割合が徐々に増加している 次に,1880 年代初めには輸入第 1 位であった綿糸が, 資本主義が発達していった時期 である 1890 年代半ば以後, 輸入に占める割合が少なくなり, さらに主要な輸出品へと転化していることが読み取れる 問題文で指摘されている通りであるが, それは,1880 年代半ば 1890 年代半ばに綿糸の国
96 内市場において輸入綿糸の占めるシェアが減少し, 国産綿糸が大きなシェアを占めるようになったこと, さらに綿糸が輸出にも向けられるようになったことを示している つまり, 綿糸を製造する綿紡績業の発展である ここで, 綿紡績業の原料は 1890 年代半ば以後, 輸入第 1 位を占めるようになった綿花であることを考えれば, 原料綿花を輸入に依存する形で綿紡績業が発展していったことが輸入増加 ( 輸入超過の継続 ) の原因の一つであったことがわかる もっとも, 原料綿花を輸入に依存して綿紡績業が発達したとしても, 原料綿花や紡績機械の輸入額をはるかに上回る綿糸輸出が実現すれば, 輸入超過が継続することはないはずである ところが現実には, その実現は困難であった その理由は, 綿紡績業で生産された綿糸がまずは国内需要に向けられたことにある 1880 年代初めに綿糸が主要な輸入品であったこと,1880 年代半ば以降, 綿紡績業で大規模な民間会社が相次いで設立されて生産が拡大したことは, そもそも国内での綿織物業の発展を前提としていた そのことを念頭におけば, 国産綿糸がまず国内需要に向けられたのは了解できるだろう ところで, このように原料綿花を輸入に依存して生産を拡大し, 輸入綿糸を国内市場から駆逐し, さらに輸出産業へと転換した綿紡績業では, 生産手段はどのように供給されていたのか 国産器械が普及した製糸業とは異なり, 綿紡績業ではイギリスやアメリカから新鋭の紡績機械 ( はじめミュール紡績機, のちリング紡績機 ) が導入されていた- 大紡績資本による兼営という形で機械化が進展した綿織物業でも機械の多くは輸入品であった- このことは, 機械製造業がなかなか発達しなかったこと, その国際競争力が未熟であったことを示しており, ここに機械類の輸入が増加していく原因があった また, 鉄類の輸入が次第に増加していたことを先に確認したが, それは, 軍備拡張にともなって陸海軍直属の軍事工業や造船業が発達して原材料である鉄類に対する国内需要が高まっていたにもかかわらず, 鉄鋼業の発達が未熟だったためであった 鉄鋼の国産化をめざして官営八幡製鉄所が設立されるなどしたものの,1910 年代初めまでの段階では, まだまだ鉄鋼の国産化は実現に程遠かったのである つまり, 生産手段の製造部門である重工業では, 軍事工業と造船業を除いてなかなか発達しなかったことが機械類や鉄類の輸入増加を招いていたのである B 設問の要求は,1910 年代半ばからの数年間に輸出が急速に増加し, 大幅な輸出超過が生じた主な理由 一言で言ってしまえば, 第一次世界大戦の勃発にともなう世界貿易構造の変化, と表現できるが, 具体的に確認すれば, 第一次世界大戦の勃発にともなって次の3つの事態が発生したことが輸出が急速に拡大した背景である ⑴ 欧州諸国がアジア市場から後退 ⑵ 協商国からの軍需 ⑶ 戦争景気にわくアメリカへの輸出拡大ちなみに, 輸出が増加した品目はそれぞれ,⑴= 綿糸 綿織物,⑵= 軍需品,⑶= 生糸, である なお,⑴ については 欧米諸国がアジア市場から後退 と表現してはならない 後退したのはヨーロッパの国々であり, アメリカは含まれないのだから 解答例 A 綿紡績業における産業革命にともなって原料の綿花や紡績機械の輸入が増大した上, 重工業が未熟な中での軍備拡張政策が武器 鉄鋼などの輸入を増加させたため, 輸入額が輸出額を上回った ( 別解 ) 産業革命の中心である綿業では, 紡績業が原料綿花を輸入に依存した上, 綿糸の国内需要が増加していた さらに重工業が未成熟で, 産業革命や軍拡の進展に伴って鉄鋼 機械類の輸入も増加した B 第一次世界大戦の勃発にともない, ヨーロッパ諸国が後退したアジア市場への綿糸 綿布の輸出, イギリス ロシアへの軍需品の輸出が激増した上, 戦争景気のアメリカ向けの生糸輸出も増加した
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98 1995 年度 第 1 問 摂関政治について下記の設問に答えよ 設問 A 摂政と関白の共通点と相違点を,2 行以内で述べよ B 摂関政治については,9 世紀後半から 10 世紀中頃までの前期と,10 世紀中頃から 11 世紀中頃までの後期の二期に分けて考えることがある この前期の特徴を, 後期と比較して4 行以内で述べよ
99 第 2 問 下の絵巻物の一場面は, 鎌倉時代末期から室町時代にかけての商業 貨幣流通のあり方をよく示して いる まず, 右下の (A) の男は, 道路工事の寄付を求めて柄杓をさしだしている それに対して,(B) の釣り竿をもった男は, 腰の袋を開けて, その中に入っている銭を取り出そうとしている さらに, この男たちの左手を重そうな荷物に蓑をかぶせて歩む (C) の男は, その姿形から行商人であると推定される また, 画面の向こう側には茶を飲ませる施設 ( 茶店の一種と考えてよい ) が描かれている これは当時の町場の常設の店棚の様子を示している この絵と説明にもとづき, この時期における商業 貨幣流通のあり方について,6 行以内で述べよ その際, かならず, 代銭納 中国銭 為替の三つの語句を使用せよ
100 第 3 問 近世の大坂は, 全国最大の米の集散地であった とりわけ 17 世紀の間には, 諸国からの廻米量が急速に増加した 17 世紀末, 堂島に設けられた米市場は,18 世紀前半になると幕府によって公認され, 蔵米を中心とする数千石, 数万石単位の米が日常的に取引きされて, 連日大変な活況を呈した 近世前期から中期にかけてのこの時期, 米の商品化がこのように進展したのはなぜか 幕藩体制のしくみや生産面 流通面で生じた変化について触れながら,5 行以内で説明せよ
101 第 4 問 次の文を読んで下記の設問に答えよ ( 明治 31) 年に施行された民法は, 家の戸主の地位を重んじ, これにふさわしい人をあてるため, 男女のいずれでも家督を相続できると定めた ( 明治 44) 年に公布された工場法は, 女性と少年の深夜労働を原則として禁止した ( 大正 11) 年に改正された治安警察法は, 女性が政治演説会に参加することを認めた ( 大正 14) 年に改正された衆議院議員選挙法は,25 歳以上の男女にひとしく選挙権を認めた ( 昭和 22) 年, 新憲法にあわせて改正された民法は, 男女の結婚を家でなく個人の意志によるものとし, 遺産相続の権利を妻にも与えた 設問 A 上の五つの文の中には, 歴史的事実の説明として誤ったものが2つある それはどの文で, どのように改めれば正しくなるか 誤り一つにつき1 行を用い, 初めに文頭の番号を記したうえで, 誤った部分に対する修正案を記せ B 以上を参考にし, 時代背景に留意しながら, 大日本帝国憲法の時代における女性の地位とその変遷について,6 行以内で説明せよ
102 解法の研究 第 1 問 A 問われているのは, 摂政と関白の1 共通点,2 相違点 摂政は天皇が幼少のとき, 関白は天皇が成人のとき というのが最低限の知識だが, それだけでは相違点しか明らかにならない では, 共通点は何か 摂政 天皇が幼少の間に政務を代行する 太政官から天皇に奏上される文書をチェックし, 天皇へ取り次がずに自ら裁可を下すことができる 関白 太政官から天皇に奏上される文書や天皇から太政官に下される文書を事前にチェックする権限 ( 内覧という ) をもち, 天皇が最終的決定を下す際に必ず合議を行わねばならない相手 ( 相談役 ) 関白と合議せずに天皇一人だけで決定するということはなかった形式にやや違いがあるものの, いずれも, ア最終的な意思決定という天皇の権限に深く関与すると共に, イ天皇と太政官の中間に位置して, 他の公卿が天皇に直接結びついて自立して行動する可能性を排除し ( 天皇との結びつきを摂関が独占 ), そうした形で公卿を統率し, 太政官政務を統轄していた ここに摂政と関白の共通点があったのである なお, 摂関政治のもとでも国政の重要事項は太政官での協議を経て決定されており ( 内裏の近衛の陣で行われて陣定と称された ), 律令制下の太政官政治の枠組みが踏襲されていた B 設問で問われているのは, 前期摂関政治 (9 世紀後半から 10 世紀中頃まで ) の特徴 条件 限定として後期 (10 世紀中頃から 11 世紀中頃まで ) と比較することが求められている 後期摂関政治とは設問にある時期から判断すれば 摂関政治の全盛期 であり, まずその時期の特徴を明確にすることから始めよう 摂政 関白がほぼ常置 藤原氏の氏長者が摂政 関白に就任することが慣例化 ( 藤原北家が摂政 関白の地位を独占 ) 藤原北家 ( 摂政 関白 ) が天皇との外戚関係を確保先に確認したように, 関白は天皇が最終的決定を下す際に合議を行う相手 ( 相談役 ) にすぎなかったため, 摂関が政治の主導権を確保できるかどうか (= 摂関政治がうまく機能するかどうか ) は, 成人の天皇と関白との一体性いかんにかかっており, その一体性を支えたのが天皇と摂関との姻戚関係, とりわけ藤原北家出身の母后の存在であった 後三条天皇以降, これを確保できなかったため, 摂政 関白が存続したものの摂関政治は終焉したのである これらを念頭におけば, 摂政 関白がまだ常置されるに至っていない 藤原北家が天皇との外戚関係を維持できていない ( 特権的地位が未確立 ) の 2 点を前期の特徴として整理できる ところで, 藤原良房 基経の時代には,Aで問われているような摂政と関白の違いは明確ではなかった 良房が正式に摂政に就任したのは応天門の変に際してのことであったが, その時すでに清和天皇は元服をすませており ( つまり成人 ), さらに基経が宇多天皇から関白の詔をうけたが, 摂政も関白も当初から職名として固定したものではなかった ( 任命の詔には 太政大臣に勅して天下の政を摂行せしむ や 摂政太政大臣に万機を関白せしむる詔を賜ふ としかない ) しかし, 忠平が朱雀天皇の即位と同時に摂政となり, ついで天皇の元服後, 摂政を辞して関白に任ぜられるに及び, 幼少の天皇のもとで政務を代行する摂政と, 成人天皇の後見役である関白との区別が明確になった 解答例 A 摂政は天皇の幼少時に政務を代行し, 関白は成人後の後見役である ともに人事権など天皇の権限に関与して最高 権力を掌握した
103 ( 別解 ) ともに太政官の政務を統括し, 天皇の権限にも深く関与したが, 摂政は天皇の幼少時に政務を代行し, 関白は成人天皇を後見した B 後期には摂政 関白が常置され, 藤原北家が就任することが慣例化した しかし前期は, 摂政 関白が未だ制度化されず, 醍醐 村上朝のように不設置の時期があり, また藤原北家の天皇家との外戚関係も安定しておらず, 応天門の変など他氏排斥が相次いだ 第 2 問設問の要求は, 鎌倉時代末期から室町時代にかけての商業 貨幣流通のあり方 条件として, 絵と説明にもとづくこと, 代銭納 中国銭 為替の三つの語句を使用することが求められている 説明文を要約しただけでは単なる事実の羅列に終わってしまう この問題でもっとも大切なことは, 単なる事実の羅列に終わらせずに論旨を明確にすることである そのためにも, 鎌倉末 室町期に商業活動が活発になった背景 構造, それと貨幣流通の活発化との関連をしっかり把握しておくことが必要である 説明文に 行商人 と 町場の常設の店棚 ( 見世棚 ) が登場しているが, それらは⑴ 都市と農村 ( 地域 ) を結ぶ商業活動, ⑵ 地域のなかでの商業活動, という2つの局面を象徴している ⑴ 都市と農村 ( 地域 ) を結ぶ商業活動は, 荘園公領制のもとでの年貢 公事の荘園領主 ( 京都 奈良に集住 ) への運送を媒介として活発化していた それを担ったのが問丸や行商人である とりわけ問丸は, もともと荘園年貢の保管 輸送などを担当した荘官の一種で, しだいに独立化して一般物資の中継ぎ取引や輸送に従事するようになっていく そして, こうした遠隔地取引きにおける代金決済の安全を確保するため, 手形 ( 割符 ) を使って決済する為替が普及した ( なお, こうした商業活動の基盤として道路の整備が進んでいたことも, 説明文から推察できるだろう ) ⑵ 地域のなかでの商業活動は, 地域での農業生産や漁業 手工業の発達を背景として活発化 宿駅や交通の便のよい荘園や国衙領では定期市や常設の見世棚が生まれた なお,⑴⑵ともまとめて 農業生産や漁業 手工業の発達が, 地域のなかだけでなく, 都市と地域を結ぶ商業活動を活発化させた という風に立論することも可能である 実際のところ, 年貢 公事の輸送が都市と地域を結ぶ商業活動へと飛躍していった背景には, 農業生産や漁業 手工業の発達があった ( 中国との貿易の活発化という要因も無視できないが ) こうした商品流通の発達は貨幣への需要を増大させる とりわけ都市で生活する荘園領主たちは多くの貨幣を必要とするようになったため, 年貢の代銭納が普及していくことになる ところが, 平安中期以降, 国内では貨幣は鋳造されておらず, 宋銭や明銭といった中国銭が用いられた 解答例 荘園公領制のもとでの畿内への年貢輸送を媒介として経済流通が活発化していた 僧侶の勧進などにより道路の整備が進み, 諸物資の中継や輸送をになう問丸などが活躍して遠隔地間商業がさかんで, 決済手段として為替が利用されていた 交通の要地では定期市が開催されて行商人が往来し, なかには常設の見世棚も出現した それに伴って中国銭が貨幣として普及し, 年貢の代銭納も一般化した ( 別解 ) 農業生産や漁業 手工業の発達が, 地域のなかだけでなく, 都市と地域を結ぶ商業活動を活発化させていた 交通の要地や荘園の中心地などで定期市が開催されて行商人が往来し, 常設の見世棚も出現した 都市と地域を結ぶ遠隔地間商業では, 諸物資の中継や輸送をになう問丸などが活躍し, 決済手段として為替が普及した それに伴って中国銭が貨幣として流通し, 年貢の代銭納も一般化した 第 3 問 設問の要求は, 近世前 中期に米の商品化が進展した理由 条件として, 幕藩体制のしくみ, 生産面で生じた変化,
104 流通面で生じた変化について触れることが求められている まず, 問題文に注目しよう 蔵米を中心とする とあることから, 商品化していた米の多くが, 大名が換金のために蔵屋敷に廻送し保管していた年貢米であることがわかる つまり, 米の商品化が進展したのは大名が年貢米を換金のために大坂に廻送したからである しかし, なぜ年貢米を換金することが必要だったのか -1 近世の大坂は, 全国最大の米の集散地であった とあるが, なぜ大坂が全国最大の米の集散地となったのか 言い換えると, なぜ蔵米の廻送が大坂に集中するようになったのか 世紀の間には, 諸国からの廻米量が急速に増加した とあるが, なぜ急速に増加したのか -3 1 なぜ大名は年貢米を換金することが必要だったのか 条件に 幕藩体制のしくみ とあるが, 将軍 大名間の主従関係や大名の百姓支配がなに基づいていたかを思い起こそう 将軍 大名間の主従関係は石高制に基づくものであり, 大名は将軍から石高を給付され, それにみあった領地をあてがわれると同時に, その石高に応じた軍役を負担していた そして, 軍役に準ずる奉公として参勤交代の義務を課されていたが, 参勤交代の費用をまかなうためには貨幣を入手することが必要であった さらには兵農分離のもと, 大名とその家臣は城下町に集住し, 都市生活者として消費生活を送っており, そのうえでも貨幣を入手することが不可欠であった 他方, 大名の百姓支配も石高制に基づいて行われ, 大名は百姓に対して石高に応じた年貢を賦課していた ところが, 年貢は石高制に基づき米納が原則だったため, 大名は年貢米を売却して貨幣を入手することが必要であった 2 なぜ蔵米の廻送が大坂に集中するようになったのか 城下町を中心とする領内市場では年貢米を売却するだけの需要がなかったため, 江戸初期からすでに中央市場に廻送して売却される傾向にあったが,17 世紀後半に河村瑞賢によって西廻り航路が整備され, 大坂が物資の集散地としての地位を確立すると, 諸藩の年貢米は大坂へ集中するようになった なお, 藩財政が悪化するなかで, 大坂を中心とする豪商 ( 両替商など ) からの借金 ( 大名貸 ) が累積してくると, 借金返済のために年貢米を廻送しなければならない事態が生じていたことも知っておいてよいが, 答案には含める必要はないだろう 3 17 世紀の間に諸国からの廻米量が急速に増加したのはなぜか 新田開発の結果,17 世紀初めに 160 万町歩だった耕地面積は 18 世紀前半には 300 万町歩へと増大し, それにともなって年貢収納高も増加していた ( 年貢収納率は漸減していたが ) なお, 農業生産力の向上にともなって, 百姓が余剰米を商品 ( 納屋物 ) として都市向けに販売することも増えており, 廻米量の急速な増加の一因であった しかし, 問題文に 蔵米を中心とする と書かれており, さらに 幕藩体制のしくみ に触れることが求められている点を考慮すれば, 答案のなかで 納屋物として流通した米 について触れる必要はない 解答例 石高制のもと, 武士は米納を原則とする年貢を経済基盤としたが, 兵農分離や参勤交代により城下町や江戸での消費生活を余儀なくされたため, 年貢米の換金が不可欠だった 新田開発などにより米の生産量が増大し, 東西廻り航路が整備されて全国的流通網が確立すると, 中央市場に大量の年貢米が廻送され, 米の商品化が進んだ 第 4 問 A 設問の要求は,5つの問題文中で歴史的事実の説明として誤ったものを2つ指摘し, 訂正すること 1 家督相続は男子, なかでも ( 嫡出の ) 長男が優先された 4 選挙権は女性には認められていない B 設問の要求は, 大日本帝国憲法の時代 (1889 年 1947 年 ) における女性の地位とその変遷 条件として 問題文を参考にすること, 時代背景に留意することが求められている 時代順に女性史のトピックを列挙すると, 以下の通りになる
105 明治民法 地位が低い 家に従属 法的に無能力と規定 ( 1) 産業革命 : 労働力として社会進出 ( 女性は繊維産業の主要な労働力 ) 不十分ながら保護 ( 2): 女性問題が政治問題として取り上げられるようになった ( 他の事例として廃娼問題 ) 大正デモクラシー : 政治参加 政治活動の自由は部分的に得たが ( 4), 参政権は得られず ( 4) 戦時動員 : 戦争協力体制への編成 = 婦人運動の弾圧 社会進出の促進 戦後改革 : 婦人参政権の実現問題文を参考にするだけでは 1920 年代までの過程しかフォローできない 1930 年代 40 年代の動向, とりわけ戦時動員のなかでの女性の社会進出と戦後改革のもとでの婦人解放についても説明することを忘れないで欲しい ただし, 民法改正については新憲法のもとでのことなので記述する必要はない 解答例 A1 家督相続は男子が優先され, 長男が相続するものとされた 4 25 歳以上の男子に選挙権を認めたが, 女性には認められていない B 封建的な家制度のもとで女性の地位は極めて低く, また繊維産業の産業革命を劣悪な労働条件のもとで支えたが, 工場法による保護も不十分であった しかし第一次世界大戦以降, 女性の社会進出が進むにつれて婦人運動が高揚し, 政治活動の自由を部分的に承認された 十五年戦争期には婦人運動は抑制されたが, 勤労動員により社会進出が促進され, 敗戦後になって婦人参政権が実現した ( 別解 ) 家制度のもと, 女性は家に従属し, 法的地位が極めて低かった しかし資本主義の発達に伴い, 繊維産業を中心に社会進出が進むと, 劣悪な労働条件下にあった女性の保護が政治問題化した そして大正デモクラシーの中, 婦人運動が高まり, 政治活動への参加が一部承認された 婦人運動は十五年戦争期には翼賛体制に組み込まれたが, 敗戦後,GHQの民主化政策に基づき婦人参政権が実現した
106 1994 年度 第 1 問 次の史料を読み, 下記の設問に答えよ ⑴ 興死して弟武立つ ( 略 ) 順帝の昇明二年 (478 年 ), 使を遣して上表して曰く, 封国は偏遠にして藩を外に作す 昔より祖彌 ( 父祖, または祖父の彌 珍 か ) 躬ら甲冑を擐き, 山川を跋渉して寧処に遑あらず 東は毛人を征すること五十五国, 西は衆夷を服すること六十六国, 渡りて海北を平らぐること九十五国 ( 略 ) 臣 ( 武 ), 下愚なりといへども, 忝なくも先緒を胤ぎ, 統ぶる所を駆率して, 天極 ( 皇帝のこと ) に帰崇し, 道百済を遙て船舫を装治す ( 略 ) 詔して武を使持節都督倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す ( 宋書 倭国伝, 原漢文 ) ⑵ 大業三年 (607 年 ), 其王多利思比孤, 使を遣して朝貢す 使者曰く, 聞く, 海西の菩薩天子, 重ねて仏法を興すと 故に遣して朝拝せしめ, 兼ねて沙門 ( 僧侶 ) 数十人をして, 来って仏法を学ばしむと 其の国書に曰く, 日出づる処の天子, 書を日没する処の天子に致す 恙無きや, 云云 と 帝 ( 煬帝 ), 之を覧て悦ばず 鴻臚卿 ( 外交を司る官 ) に謂ひて曰く, 蛮夷の書, 無礼なる有らば, 復た以て聞する勿れ と ( 隋書 倭国伝, 原漢文 ) 設問 A 史料 ⑴と史料 ⑵の間では, 倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか 2 行以内で述べよ B 設問 Aの変化をもたらした歴史的な背景を, 国内 国際両面について5 行以内で述べよ
107 第 2 問 鎌倉末期から南北朝期にかけての時代には, 文化が大きく変化した 次に掲げる の史料はこの 時代の世相を述べたものであるが, これらを手掛かりにして, この時代の文化の新しい傾向とそれをも たらした要因について,5 行以内で述べよ 人ごとに, 我が身にうとき事をのみぞ好める, 法師は兵の道を立て, 夷 1は弓ひく術知らず, 仏法知りたる気色し, 連歌し, 管絃をたしなみあへり,( 中略 ) 法師のみにもあらず, 上達部 殿上人 上ざままで, おしなべて, 武を好む人多い ( 徒然草 ) 誰ヲ師匠トナケレドモ, アマネクハヤル小笠懸 2, 事新シキ風情ナリ, 京 鎌倉ヲコキマゼテ, 一座ソロハヌエセ連歌, 在々所々ノ歌連歌, 点者 3ニナラヌ人ゾナキ, ( 二条河原落書 ) 異国の唐物, 高麗の珍物, 螢のごとく霞に似たり, 交易売買の利潤は, 四条 五条の辻 1に超過し, 往来出入の貴賤は, 京都 鎌倉に異ならず, およそ御領 5 豊穣にして, 甲乙人 6 富裕なり ( 庭訓往来, 原漢文 ) 注 1 東国の武士 2 小規模な笠懸の遊び 3 連歌の良し悪しを定め, 評点を加える人 4 京の繁華街として知られた町 5 土地, 所領 6 貴族や武士以外の庶民
108 第 3 問 江戸時代の朝廷に関する研究は近年になって盛んとなり, 江戸時代におけるその存在の意義や果たし た機能が, さまざまな側面から解明されてきている 下に掲げた年表を参考にして, 江戸時代初期の幕 府と朝廷との関係の特徴を,5 行以内で記せ 1603( 慶長 8) 年 徳川家康, 征夷大将軍に任命される 1605( 同 10) 年 徳川秀忠, 征夷大将軍に任命される 1615( 元和 1) 年 幕府, 禁中並公家諸法度を定める 1617( 同 3) 年 朝廷, 亡くなった徳川家康に, 東照大権現の神号を勅許する 1623( 同 9) 年 徳川家康, 征夷大将軍に任命される 1627( 寛永 4) 年 幕府, 大徳寺などの僧の紫衣着用の勅許を無効とする 1645( 正保 2) 年 朝廷, 日光東照社に宮号を勅許する この結果, 日光東照宮となる 1646( 同 3) 年 朝廷, 幕府の要請により, 日光例幣使 1を派遣する 幕府, 朝廷の要望をいれ, 長く中絶していた伊勢例幣使 2の再興を認める 注 1 日光例幣使 日光東照宮に礼拝のため, 朝廷から毎年派遣された使い 朝廷の東照宮に対する 崇敬を示す 2 伊勢例幣使 朝廷から, 伊勢神宮に毎年派遣された使い 15 世紀後半以来, 中絶していた
109 第 4 問 1873( 明治 6) 年, 大久保利通は岩倉使節団の欧米視察の経験をもとに, 政府に対して政体を定め るよう建言した 次の引用文はその一部である これを読んで下記の設問に答えよ なお, 引用文は現 代語に改め, 一部は要約してある ⑴ 政体には, 君主政治, 民主政治, 君民共治 ( 後にいう立憲君主制 ) の三種類がある ⑵ 民主の政は, 天下を一人で私せず, 広く国家全体の利益をはかり, 人民の自由を実現し, 法律や政治の本旨を失わず, 首長がその任務に違わぬようにさせる政体であって, 実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである アメリカ合州国はじめ, 多くは新たに創立された国, 新しく移住した人民によって行われている ⑶ 君主の政は, 蒙昧無知の民があって, 命令や約束によって治められないとき, ぬきんでた才力をもつ者が, その威力 権勢に任せ, 人民の自由を束縛し, その人権を抑圧して, これを支配する政体で, 一時的には適切な場合もある ⑷ イギリスは土地 人口の規模が日本とほぼ同じであるが, その国威は海外に振い, 隆盛をきわめている それは 3200 万余の人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかり, 君長もまた人民の才力を十分にのばす良政を施してきたからである 設問 大久保は諸国の政体を比較した上で, 日本には君民共治の制がふさわしいと主張した なぜそう 考えたのか 当時の日本がおかれていた条件や国家目標を考えて,5 行以内で説明せよ
110 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 史料 ⑴と史料 ⑵の間で倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか 史料 ⑴は倭王武で, 史料 ⑵は推古朝の遣隋使 前者が中国皇帝に朝貢し冊封を求めているのに対し, 後者が中国皇帝との対等の立場をとろうとしている B 倭王武の時代には中国と朝貢 冊封関係を結んだものの, 推古朝になると冊封をうけず対等外交をめざすようになった歴史的背景が問われている 倭王武は,1 国内の諸豪族に対する優越性の確保と,2 朝鮮南部の諸国に対する軍事指揮権の確保 ( 高句麗に対抗するための政治的 軍事的地位の確保 ) を目的として中国皇帝からの冊封をうけたのだから, 推古朝に冊封をうけなくなった理由としては,12のそれぞれを実現するうえで中国皇帝の権威をよりどころにする必要がなくなったからだと推論することがとりあえず可能である 果たしてこの推論は妥当なのか 1 国内の諸豪族との関係について 倭王武 =ワカタケル ( 雄略 ) の時代は, 古墳文化の転換期の1つであり, 近畿中央部以外で前方後円墳が小型化し, 大和 河内の勢力の他地域に対する優越性が確立しはじめる段階であった つまり, 各地の地域的な豪族連合が大和 河内の勢力を頂点として連合体を形成するというあり方から, 大和政権の盟主に対する呼称として 大王 号が成立し, 各地の諸豪族が大王との間に個別に服属 奉仕関係をもつというあり方へと, 大和政権の性格が大きく転換しはじめる時期であった 当時, 杖刀人 ( 埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘 ) や 典曹人 ( 熊本県江田船山古墳大刀銘 ) などと表現された個人や集団が, それぞれ特定の職務 ( 杖刀 や 典曹 の部分が職務内容を指す) をになって大王に奉仕するという統治組織がすでに存在していたことが分かっている こうした 人 制を原型とし, のちに百済の制度を参照して整えられたのが, 伴造 - 伴 - 品部の統治組織 ( 伴造制 部民制 ) であり, やや遅れて国造制が導入される このように大和政権による地方統治がシステムとして整っていったのが6 世紀の継体 欽明朝以降であった さらに, 中央においても大臣 大連とそれに次ぐ地位にある有力豪族たち ( 大夫という役職に任じられた ) の合議制が整っていき, 彼らが伴造クラスの諸豪族を統率する体制が成立していった もっとも, 継体朝に磐井の乱という九州北部勢力の大規模な離反があり, さらに大王の継承をめぐる王族どうしの対立にからんで有力豪族の権力抗争が展開されたが-それゆえに6 世紀は大和政権の動揺期とも評価されるが, 動揺を伴いながら統治組織の整備が進展していった時期である-, 最終的には蘇我氏による権力掌握のもと, 大和政権の国内統治は安定を迎えることになる それが推古朝の前提であり, だからこそ実務を担う伴造クラスの諸豪族を対象に冠位十二階の制を導入することが可能だったのである ( もちろん冠位十二階の制の導入は統治組織の新たな変化 - 官僚制原理の導入 -の始まりでもある ) なお, 推古朝の6 世紀末 7 世紀初めは, 前方後円墳が消滅するという古墳文化のもう一つの転換期である ( 近畿中央部では大型の方墳が造成される ) こうしたことから, 推古朝では大王は独自の権威にもとづいてその地位を正当化することができるようになっており, 中国皇帝から冊封をうけ, その権威をよりどころとして諸豪族に対する優越性を確保することはもはや必要とされなくなっていたことがわかる 2 朝鮮半島との関係について 5 世紀後半には中国皇帝から朝鮮南部 ( 新羅や伽耶など ) に対する軍事指揮権を認められたが, 国内の統治組織の整備が進んだ6 世紀は, 朝鮮半島から大和政権の勢力が後退した時期であった まず6 世紀初め, 高句麗の圧迫をうけた百済が南下して伽耶諸国に侵攻し, 一部を領有するという事態が発生すると ( いわゆる任那四県割譲問題 ), これを大和政権 ( 大連大伴金村 ) は追認する 次いで, 新羅が伽耶諸国に侵攻すると, 軍勢を派遣するものに有効な対応ができず ( その過程で 527 年に磐井の乱が発生する ), 最終的に 562 年, 新羅が安羅を領有する こうして伽耶諸国は最終的に消滅してしまう 欽明朝のことであった さらに推古朝には, 旧伽耶 ( 加羅 ) 地域における勢力回復をはかって新羅出兵が計画されたものの, 成果をあげることができなかった
111 このように6 世紀を通じて大和政権は朝鮮半島から勢力を大きく後退させていた もちろん, この過程で百済や新羅から大和政権のもとへ使節が派遣され, 大和政権ではそれを 朝貢 とみなしていたが, それは大和政権のもとでの外交儀礼の場においてのみ成り立つ観念であり, 朝鮮への出兵を計画したものの成果をあげることができないようでは, 朝鮮南部における政治的 軍事的地位をみずからの力で確保しているなどとは言えない つまり,2については先の推論は成り立たないのである ということは, このような朝鮮からの勢力後退という情勢ゆえ, 朝鮮諸国に対する優越性を確保するために中国皇帝との対等外交をめざしたのだと考えるのが適当だといえる 東アジア世界に君臨する中国皇帝 - 当時の隋は中国の統一を達成していた-との対等性を確保できるならば, 百済や新羅といった朝鮮諸国 ( ちなみに百済 新羅は隋に朝貢し冊封をうけていた ) に君臨しうる国際的地位を確保することが可能である もちろん現実的な国力の規模からいえば中国皇帝との対等な立場を確保できるはずもないのだが, 隋が高句麗と敵対関係にあること ( 煬帝のときだけでなく文帝のときにも高句麗遠征を実施し失敗に終わっていた ) を前提とすれば必ずしも不可能なことではない こうした判断から隋との対等外交がめざされたと考えることができる なお, 中国皇帝を 海西の菩薩天子 と呼んでいることに留意すれば, 中国の中華思想を相対化しうる仏教的世界観 ( 釈迦生誕の地である天竺 [ インド ] を聖なる世界の中心と考える ) の受容が中国皇帝との対等外交を可能にしたと考えることも可能である ただし, 推古朝において大王の統治が仏教によって正当づけられていたわけではなく, 過大な評価はできないだろう 解答例 A⑴では中国皇帝に朝貢し, 冊封を受けているが,⑵では中国の冊封体制から離脱し, 中国皇帝と対等の立場を主張している B5 世紀末以降, 統治組織の整備が進んで国内統治が安定し, 大王の権威が向上していたため, 中国の冊封を受ける必要はなかった 他方, 伽耶滅亡後, 朝鮮での勢力回復をはかったが成果があがらず, 隋と高句麗との敵対状態を利用して中国皇帝との対等な立場を主張することで朝鮮諸国に君臨しうる立場を確保しようとした ( 別解 )⑴の頃は, 中国皇帝の権威をよりどころに倭の諸豪族への優越性や朝鮮南部への軍事指揮権を確保した しかし⑵の頃には, 国内統治が安定して大王の権威が向上し, 中国の冊封を受ける必要はなかった さらに, 隋と高句麗との敵対状態を利用して隋との対等な立場を主張し, 朝鮮諸国に独自に君臨しうる立場を固めようとした 第 2 問設問の要求は, 鎌倉末期から南北朝期の1 文化の新しい傾向と2それをもたらした要因 条件として, 史料 で述べられたその時代の世相を手掛かりとすることが求められている まず史料の内容把握から 東国の武士 = 仏法や文芸 ( 連歌など ) をたしなむ 僧侶 公家 = 武を好む人が多い 京都で小規模な笠懸, 公家 武家の区別をとわず連歌が流行 中国 ( 元 ) や高麗からの船載品があふれ, 交易の利潤は京の繁華街を上回り, 京都 鎌倉同様に身分を問わず多くの人びとが往来し, 所領は繁栄し庶民も裕福である これらのうち, の内容把握がやや難しい 地方の町場での経済活動を主題とした文章だと判断できるかどうか 四条 五条の辻に超過し や 京都 鎌倉に異ならず との表現から, 京都 鎌倉以外の地方での状況を記したものだとの判断を下してほしい さて, と から公家 武家のあいだで文化交流が進んでいたこと, 身分の違いをこえて文化が共有され流行していたことがわかる これらの要因は何か? 鎌倉末期 南北朝期といえば, 武家だけでなく公家もまきこんだ動乱の時代であり, 悪党の横行 ばさら の流行に象徴されるように身分秩序が大きく動揺, 下剋上がおこっていた ( 二条河原落書 にも 下
112 克上する成出者 との表現が含まれていることは知っているはず ) また, 文芸の具体例として連歌があげられているが, これは集団で楽しむ 寄合の文芸 とも形容される 中小武士どうしが対等な資格で提携する国人一揆, 名主 小百姓による惣村など, 地縁的 自治的共同体 ( 社会集団 ) の形成が 寄合の文芸 を支えていた からは, 貿易 商業活動の活発化を背景として, 地方でも庶民が台頭していたことがわかる 京都や鎌倉で庶民 ( 商工業者 町衆 ) が台頭していたことは言うまでもない ここから, や では具体的には触れられていないが, 庶民 ( 町衆や農民 ) が文化のにない手として大きな存在を占めるようになっていたことがわかる なお, この問題で取り上げられている 文化の新しい傾向 は, なにも鎌倉末期 南北朝期に限られたものではなく, 室町時代に共通した特徴である ( 教科書を参照のこと ) 解答例 鎌倉末期以降の全国的動乱は, 武士だけでなく公家もまきこんで展開し, 身分 地域の違いを超えた社会的交流が深化した また, 農業生産の発達 貿易の活発化などにより各地で農民や商工業者の成長が著しかった それらを背景に, 伝統的な公家文化と新興の武士や庶民の文化の融合が進み, 幅広い基盤をもつ文化が形成された 第 3 問設問の要求は, 江戸時代初期の幕府と朝廷との関係の特徴 条件として, 掲げられた年表を参考にすることが求められている まず, 年表からデータを引き出そう ⑴ 家康の征夷大将軍就任 豊臣秀頼に対抗し全武士の統率権を確保 ⑵ 秀忠の征夷大将軍就任 徳川家による将軍の世襲を示す ( 豊臣秀頼への対抗 ) ⑶ 禁中並公家諸法度 天皇ならびに公家の行動を規制 ⑷ 朝廷が家康に東照大権現の神号を勅許 幕府独自の権威確保のため朝廷の許可のもとで家康の神格化を進める ⑸ 紫衣事件 幕府の法度が勅許 ( 天皇の意思 ) より優越することを示す ⑹ 朝廷の勅許により日光東照社が宮号を得る ⑺ 朝廷が日光例幣使を派遣し, 東照宮に対する崇敬を示す ⑻ 幕府が朝廷による伊勢例幣使の再興を承認次に, これらのデータを分類すればどうなるか? ⑶⑸ 幕府による朝廷統制 ( ねらい 朝廷が独自の政治権力をもったり大名と個別的に結びつくことを防止 ) ⑴⑵⑷⑹⑺ 幕府が国家支配の権威付けとして ( 国家支配の正統性を確保するために ) 天皇を利用 ⑻ 幕府許可による朝廷の儀礼復興 ( 朝廷は幕府に依存する形でその権威を維持 ) あとは, これらをまとめれば答案ができあがるが, ここで注意してほしいのは 幕府と朝廷との関係の特徴 が問われている点である まず 幕府の対朝廷政策 が問われているわけではないのだから, 幕府は と書き出し, 幕府を主題とする文章で終始してしまってはならない さらに 特徴 が問われているのだから, 幕府が朝廷に対して行ったことがらと朝廷が幕府に対して行ったことがらだけを説明していては, 答案としては不十分である 相互に利用 依存しあっていた 持ちつ持たれつの関係であった などのまとめの表現が不可欠である ただ, このまとめの表現 ( 要するに特徴 ) は, 答案の締めくくりでもよいし, 最初に提示しておいてもよい 解答例 幕府と朝廷は, 幕府の政治的優位のもと, 相互に依存しあっていた 幕府は禁中並公家諸法度を定め, 朝廷の政治関 与や寺院への影響力を排除する一方, 征夷大将軍への補任, 家康への神号勅許など, 朝廷を全国支配の権威付けとし
113 て利用していた それに対して朝廷は, 幕府に依存して儀礼復興を図り, その権威を確保していた 第 4 問設問の要求は, 大久保利通が日本には君民共治の制がふさわしいと主張した理由 条件として, 当時の日本がおかれていた条件, 国家目標を考慮することが求められている まず, 当時 の情勢を確認しよう 当時 とは 1873( 明治 6) 年のことであり, 当時, 征韓論争がくり広げられていた 史料にあげられている大久保の建言が提出された段階と明治六年の政変との前後関係は, 問題文からは判断できないが, 政変以前であれ征韓論をめぐって政府内部は分裂をおこしていたし, 政変後は文字通り, 政府は分裂した ( 答案にデータをいかすときは 征韓論をめぐって政府が分裂 などの表現して 明治六年の政変 という言葉を避けておけばよい ) さらに, 岩倉遣外使節が外遊中に残った西郷 板垣を中心とする政府が実施した徴兵令 学制などの近代化政策は, 国民各層の反発を引き起こしていた このように政治情勢はきわめて不安定であった また,1873 年は岩倉遣外使節が帰国した年でもある その使節団は, もともと近代化政策が実現するまでの条約改正交渉の延期を要請するとともに, 近代化政策実施にむけた欧米諸国の視察のために派遣されたものであった そして, アメリカに渡ったときになって急遽条約改正を打診することが目的に追加されたものの失敗し, 結局, 欧米諸国の政治体制や経済状態を視察して帰国していた そして, 遣外使節の一員であった大久保利通は征韓論争のなかで 内治優先 を主張していた つまり, 欧米諸国の実情を目の当たりにした大久保は, 条約改正を実現させるためにも, 欧米諸国なみの国家づくりをめざして近代化政策を進めることが急務だと認識していたのであり, それが当時の国家目標であった ただし, 問題となるのは近代化政策の進め方である そこで想起してほしいのは, 政府の実権を掌握して以降 ( ) に大久保が実施した政策である 彼は, 警察 地方行政だけでなく殖産興業も担当する内務省を新設, 内国勧業博覧会を開催して在来産業の技術革新を促進, さらに岩崎弥太郎ら 民間の大事業家に手厚い保護をあたえて, 民間企業の育成をはかった ( 三省堂 詳解日本史 B 改訂版 p.220) つまり, 民間の経済活動を政府の保護 指導により活性化させることに力点を置いていたのである 財政 金融政策に関連づけて説明すれば, 地租改正 (1875 年から本格化 ) と秩禄処分で国家財政の基礎をかため, 国立銀行条例改正で金禄公債の資本化をはかって民間レベルでの資金供給を確保し, そのうえで政府指導のもとで民間での在来産業の育成をめざしたのが大久保政権だった 次に, 史料の内容を確認しよう 設問にあるように大久保は君民共治 ( 後にいう立憲君主制 ) が日本にふさわしいと判断していたが, 君民共治については⑷でイギリスを例に説明されている そこでは, ア 人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかる と, イ 君長もまた人民の才力を十分に伸ばす良政を施す という2 点が指摘されている それに対し, 民主政治については, 天下を一人で私せず, 広く国家全体の利益をはかり, 人民の自由を実現 しており, 実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである と最大の評価を与えているが, 多くは新たに創立された国, 新しく移住した人民によって行われている とも述べている また, 君主政治については, 蒙昧無知の民があって, 命令や約束によって治められないとき に 人民の自由を束縛し, その人権を抑圧して, これを支配する政体 と説明し, 一時的には適切な場合もある と指摘している さて, 民主政治は最大の評価を与えられるにもかかわらず, なぜ日本の政体としてふさわしくないのか 人民の政治的意識がまだ低いとの判断から< 時期尚早 >と考えられたからなのか? しかし, 人民の政治的意識が低い = 蒙昧無知 な場合には君主政治が 一時的には適切 と述べられているものの, 政治的意識の低さと君民共治の優越性については関連づけられてはいない ( 人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかる のは人民の政治的意識が低いからなのか!?) 民主政治を日本にふさわしくないと考えた理由は,( 大久保の表現では ) 多くは新たに創立された国, 新しく移住した人民によって行われている 点に求めるのが妥当である そもそも明治政府は 神武創業の始め への復古 - 天皇親政 -を掲げることで国家支配の正統性を基礎づけていたのである とはいえ, 天皇 ( 親政 ) のもとでの中央集権的な支配をめざした 国家の統一を確保しようとした ことを説明しただ
114 けでは, 今度は, 大久保が君主政治ではなく君民共治をふさわしいと考えていた理由の説明にはならない 君主政治は 人民の自由を束縛し, その人権を抑圧 するが, 君民共治は人民の権利実現 人民の才力を十分に伸ばす良政 がおこなわれている, と大久保は説く この違いに注目する必要がある 君民共治は人民の自由を保障し, その権利を実現させる政体だから日本にとってふさわしいと大久保は判断しているのだ では, 人民の自由 権利を実現させることがなぜ必要なのか? それが 国の自由独立をはかる ための基礎であり目的であると考えられていたからだ- 大久保は官民一体を予定調和的に考えている- ここが, 当時の国家目標 条約改正を実現させるためにも, 欧米諸国なみの国家づくりをめざして近代化政策を進めることが急務 につながる なお, 君民共治 ( 後にいう立憲君主制 ) がふさわしいと考えているからといって ( カッコのなかは出題者の注記 ), 公選制議会の設立を大久保が提案していると判断するのは性急である もしそうなら大阪会議の結果が違ったものとなっていたはずである もちろん, 明治 5 年ころには, 憲法制定と民撰議院設立の構想が政府内部 ( 左院 ) でも議論されていたし, その構想に参議板垣退助は賛同を示し, 左院で調査 立案作業が進んでいた しかし, 大久保の 立憲政体ニ関スル意見書 ( これが出題史料の典拠 ) にはいまだ国会開設の具体的構想は盛り込まれていない 基本的に彼は時期尚早論にたっていた ( その点で民撰議院論争における加藤弘之と同じ立場 ) 解答例 当時の日本は, 条約改正を実現させるため, 欧米諸国なみの国家づくりを目標としていたが, 征韓論をめぐって国論が分裂していた そのなかで大久保はイギリスを模範とし, 天皇のもとで国家的統一を確保すると共に, 政府の指導のもとで民間活力を振興して国力の増進を図ろうと考え, 君民共治の制をふさわしいと主張した
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116 1993 年度 第 1 問 日本に渡来した朝鮮 中国の僧侶や, 大陸に渡った日本の僧侶は,7 世紀から 9 世紀にかけて, 仏教 の伝播と発展にどのような役割を果たしたと考えられるか 次の ⑴ ⑸ の文章を参考にしながら, いく つかの段階に整理して 7 行以内で述べよ ⑴ 聖徳太子は,595 年に来日して飛鳥寺に住んだ高句麗の僧慧慈から, 仏教を学んだといわれる ⑵ 遣唐使に従って中国に渡った玄昉は,743 年, 多くの経典をたずさえて帰国し, 吉備真備とともに聖武天皇の朝廷に重く用いられた ⑶ 唐僧鑑真は, 日本の要請に応じ, いくども渡航に失敗しながら 753 年日本に着き, 人々に戒を授け, また唐招提寺を開いた ⑷ 804 年, 最澄は天台の教えを求めて唐に渡った 同時に渡唐した空海も, 青竜寺の恵果から密教の教えを伝授された ⑸ 最澄の弟子の円仁は,838 年の遣唐使に従って渡唐し, 密教の教えや中国の浄土信仰を比叡山に伝えた
117 第 2 問 3 世紀におけるモンゴルの対日本戦争に対して, 下記の設問に答えよ 設問 A 二度の合戦 (1274 年文永の役,1281 年弘安の役 ) における日本軍の戦いかたには, モンゴル軍とくらべてどのような特徴があったか 日本の武家社会の特質と関連させて, 下の語句をすべて使い,3 行以内で述べよ 語句はどんな順で使ってもよい 恩賞武士団集団戦一騎討ち B 朝鮮半島の国高麗の政府や人民は, この戦争でどのような役割を果たし, モンゴルの対日本戦略 にどのような影響を与えたか 下の文章を参考にして,4 行以内で述べよ ⑴ 1266 年, モンゴル皇帝フビライの外交使節が, 日本へ渡るべく高麗に来た 高麗の宰相は使節にはたらきかけ, 対馬を目前にひきかえすよう工作した ⑵ 1270 年, 高麗の軍隊三別抄が, モンゴルに屈伏した王室に対して反乱を起こし, 海中の島をねじろにモンゴル軍 高麗軍に抵抗し,1273 年に鎮圧された ⑶ 1274 年と 1279 年の2 度にわたって, 高麗はフビライから日本征討用の軍船 900 艘の建造を命ぜられ, 人民に大きな負担を強いつつ, 期日までに完成させた ⑷ 文永の役には約 6000 人, 弘安の役には約 1 万人の高麗軍 ( 非戦闘員を除く ) が, フビライの命をうけて従軍した
118 第 3 問 次の文章を読み, 下記の設問に答えよ お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ伝統的な日本の法意識では, 法とは政治的支配者による命令禁止の規範であって, 私的権利の体系ではなかった ( 中略 ) 厳命厳禁ばかりを羅列した高札に向かっては, 笠などを脱いで礼をするのが, よい心掛けとされた こうした社会では, 自己を主張することなく, 既存の団体秩序に密着し, 同一化するのが世渡りの方便であり, 長きには巻かれよ, 太きには呑まれよ という知恵は根深く残った ( 中略 ) 上に掲げた俳句の作者は小西来山 ( 承応 3- 享保元, ), 大坂の人で, この句の前書きには, 大坂も大坂, まん中に住みて とある 奉行とはいわば裁判を主務とした行政官, 大坂では東西両町奉行が幕府の権威を代表した 各奉行の名は任命, 着任に際して町人に触れられ, 町触にはその名を連ねるから, 来山も目にし耳にしたに違いない ( 平松義郎 江戸の罪と罰 ) 設問 小西来山は職業的な俳人であったが, 知らないはずのない奉行の名を おぼえず とするこの俳 句は, 幕府の権威に対してどのような姿勢を表明していると考えられるか 5 行以内で述べよ
119 第 4 問 次の文章を読み, 下線部 A,B,C に関する下記の設問に答えよ 第二次世界大戦が終わってまもなく,A1945( 昭和 20) 年 12 月, 衆議院議員選挙法が改正公布され, 翌年 4 月, 戦後はじめての衆議院議員総選挙が実施された その結果, 第一党となった日本自由党が日本進歩党との連立内閣を組織した B 第二次世界大戦前の最後の政党内閣が崩壊してから,14 年ぶりの政党内閣の復活であった 1947( 昭和 22) 年 5 月に施行された C 日本国憲法により, 国会は国権の最高機関となり, 議院内閣制が制度化された こうして, 政党政治は国政運営の基本として確立した 設問 A このときの衆議院議員選挙法の主要な改正点を2 点あげよ B 第二次世界大戦前の最後の政党内閣の首相の氏名とその政党名を, ともに漢字で記せ また, その内閣が崩壊した事情, および政党内閣が継続しなかった事情を, あわせて4 行以内で説明せよ C 大日本帝国憲法下の帝国議会には認められていなかった権限で, 日本国憲法により国会に認められた主要な権限を2 点あげよ
120 解法の研究 第 1 問設問の要求は, 日本に渡来した朝鮮 中国の僧侶や大陸に渡った日本の僧侶が,7 世紀から9 世紀にかけて, 仏教の伝播と発展にどのような役割を果たしたか 条件として, ⑴ ⑸の文章を参考にすること,(b) いくつかの段階に整理することが求められている ⑴ ⑸の文章をいくつかの段階に整理したうえで ( 推古朝 奈良時代 平安初期の3 段階に整理できる ), 答案全体の論旨をどのように組み立てるか-これがポイントになる 氏族仏教 国家仏教 貴族仏教 という推移を軸に論旨を組み立ててもよいが ( その枠組みは, 密教が貴族仏教 - 皇族 貴族の現世利益にこたえる-であるだけではなく国家仏教 - 鎮護国家の役割をになう-でもある点を看過しているところが難点なのだが ), その際,(1) や (2) で仏教理論 経典の研究に関するデータが示されている点に対する配慮を忘れないでほしい 推古朝 : 氏族仏教 ( 氏族繁栄のため 権威誇示の手段 ) ⑴ 一部で仏教理論の受容 ( 経典研究 ) 奈良時代 : 国家仏教 = 鎮護国家思想にもとづく 国家の積極的な保護 統制 ⑵ 経典の招来 経典研究の活発化 ⑶ 仏教に関する制度 儀礼 ( 戒壇 ) を整備平安初期 : ⑷ 天台宗 密教 ( 新たな国家仏教 ) の伝来 政府から独立した教団の形成 ⑸ 浄土信仰の伝来 信仰の対象としての ( 個人救済の ) 仏教の導入 解答例 仏教は, 推古朝には氏族繁栄のための呪術として普及したが, 渡来僧を通して理論の受容も進んだ 律令形成期以降, 鎮護国家の立場から朝廷の保護と統制をうけ, そのもとで留学僧が多くの経典を伝え, 教理研究を中心とする南都六宗が成立すると共に, 唐僧により戒律がもたらされ戒壇も整った 平安初期には留学僧によって密教や浄土信仰が導入され, 山林修行を基礎に自主的な宗教教団が成立する一方, 現世利益や来世での往生を願う貴族に広く普及した 第 2 問 A 設問の要求は, 蒙古襲来における日本軍の戦いかたはモンゴル軍とくらべてどのような特徴があったか 条件として, 日本の武家社会の特質と関連させること, 恩賞 武士団 集団戦 一騎討ちの語句をすべて使うことが求められている 指定された語句をみれば, 集団戦 ( モンゴル軍) と一騎討ち ( 日本軍 ) を対比させて答案を作成すればよいことがわかる そして 武家社会の特質 との関連が条件として求められていることから, 惣領制にもとづく軍事力編成 に関連づけて説明する必要があることがわかる ( 武家社会の特質 という問い方については 1985 年第 2 問も参照のこと ) 惣領制 血縁関係にもとづいて武士団を編成 < 惣領が一族 ( 庶子 ) を統率, 所領は惣領 庶子で分割相続 > 鎌倉幕府は惣領の一族統率権を保障, それに依拠して軍事動員を確保 ( 所領給付も軍役賦課も惣領を通じて行う ) B 設問の要求は, 高麗の政府や人民が (1) モンゴルの対日戦争で果たした役割,(2) モンゴルの対日戦略に与えた影響 条件は,⑴ ⑷の文章を参考にすること まず説明文の内容を確認しよう
121 ⑴モンゴルの外交使節が日本に渡ることを宰相が妨害 (1266) ⑵ 王室がモンゴルに屈伏した後も軍隊三別抄が抵抗を継続 ( ) ⑶ 日本征討用の軍船を多数建造 (1274,1279) 人民に多くの負担 ⑷ 多くの高麗人民が戦闘員として動員されたこれらの内容をまとめれば次のようになる 対日戦争での役割 : 兵員 装備 ( 兵船 ) を供給 ( 兵站基地 ) 対日本戦略への影響 : 服属した高麗政府ですら非協力的 高麗人民の抵抗 モンゴルの日本遠征の遅れなお, 高麗人民の抵抗や戦闘に動員された高麗の士気の低さは, モンゴルの日本遠征の失敗の原因の1つであり, モンゴルに第 3 次遠征を断念させた背景の1つでもある 解答例 A 鎌倉武士は惣領を中心に血縁的武士団を編成し, 恩賞を求めて幕府の軍事動員に応じた そのため日本軍は, 組織的な集団戦を行う元軍に対し, 軍功を明らかにするために一騎討ちで戦った Bモンゴルの対日本戦略において, 高麗は日本との交渉の先導役であり, 兵員 装備を供給する兵站基地であった しかし, 政府の屈伏後も高麗人民の抵抗が続き, 高麗政府ですら日本への使節派遣に非協力的であったことは, 日本遠征の遅れと失敗の原因となった 第 3 問設問の要求は, 大坂の職業的な俳人 小西来山の詠んだ, 知らないはずのない奉行の名を おぼえず とするこの俳句は, 幕府の権威に対してどのような姿勢を表明しているか 正面きった批判 抵抗はしないものの無関心 反権威の姿勢を示している と答えればよいのだが, それだけでは5 行という字数を埋めることはできない となれば, なぜ小西来山はこのような姿勢を表明することが可能だったのかを説明する必要がある その際, 平松義郎 江戸の罪と罰 からの引用がヒントとなるのだが, 難問 ポイントは, 近世身分制社会 ( あるいは幕府 大名による民衆支配 ) の基本単位がなにか, にある 民衆支配の基本単位は村や町 ( 百姓や町人による地縁的自治的な共同体 ) であり, 幕府 大名は大枠において規制を加えながらも, 村や町の自治を保障し, それに依拠して民衆支配を実現していた したがって, 法とは政治的支配者 = 幕府 大名 による命令禁止の規範であって, 私的権利の体系ではなかった そして村や町では, 村役人 町役人の指導のもとで独自の法にもとづいて自治運営が行われており, 村や町という共同体 = 既存の団体秩序 に順応しておりさえすれば, 代官や町奉行のまえへ引き出されてその裁きをうけることもなく, 平穏に生活することができた つまり, 既存の団体秩序に密着し, 同一化するのが世渡りの方便 であった それゆえ, 村役人や町役人でもなければ代官や町奉行と面識を持つことはなく, 彼らの名前を覚える必要もなかった だからこそ, 大坂も大坂, まん中に住みて いる小西来山は, 大坂町奉行の存在を意識しながら お奉行の名さへおぼえず とうそぶく 茶化すことができたのだ 解答例 幕府の民衆支配の基本単位は村や町などの諸団体であり, 厳しく統制しながらも村や町などの自治を保障し, それに依拠して民衆支配を実現していた それゆえ, 既存の団体秩序をはみ出さない限り, 民衆にとって代官や奉行は無縁な存在でありえた こうした体制のもと, 小西来山は無関心を装うことで反権威の姿勢を表明した
122 第 4 問 A( 省略 ) B 第二次世界大戦前の最後の政党内閣の首相の氏名 犬養毅, その政党名 立憲政友会設問の要求は, 犬養毅内閣が⑴ 崩壊した事情,⑵ 政党内閣が継続しなかった事情 ⑴ 崩壊した事情 五 一五事件で犬養毅首相が暗殺されたため ⑵ 政党内閣が継続しなかった事情 海軍首班の斎藤実内閣に代わった と説明するだけでは不十分 なぜ海軍軍人斎藤実が首相に選出されたのか, その事情を説明しなければ, 政党内閣が継続しなかった事情の説明とはならない 考えることは, 首相の選出を実質的に担っていたのは誰か- 元老 ( 当時は西園寺公望だけ ) が首相を推挙, 元老西園寺はなぜ政党党首を首相に推挙しなかったのか, 元老西園寺は穏健派の海軍長老を首相にすえ挙国一致内閣を組織させることで何をめざそうとしたのか C( 省略 ) 解答例 A 婦人参政権が実現したことと, 選挙人資格が満 20 歳以上となったこと B 犬養毅, 立憲政友会 五 一五事件で犬養首相が暗殺されて内閣は崩壊した 昭和恐慌のもとで財閥と癒着した政党への反発が高まり, 満州事変に伴って軍部の発言力が強まるなか, 元老西園寺公望は軍部の急進を抑制するために穏健派軍人を後継首相に推挙した C 首相を指名する権限, 憲法改正を発議する権限
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124 1992 年度 第 1 問 次の文章を読み, 下記の設問に答えよ 西暦 660 年百済が唐 新羅の連合軍の進攻によって滅亡したとき, 百済の鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め, あわせて, 日本に送られてきていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい, と要請した 日本の朝廷はこれに積極的に応え, 翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ, 王位を継がせた 次いで翌 662 年には, 百済軍に物資を送るとともに, みずからも戦いの準備をととのえた 663 年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み, 百済と連係して唐 新羅連合軍に立ち向かい, 白村江の決戦で大敗するまで, 軍事支援をやめなかった 設問 このとき日本の朝廷は, なぜこれほど積極的に百済を支援したのか 下の年表を参考にしながら, 国 際的環境と国内的事情とに留意して 5 行以内で説明せよ 612 隋, 高句麗に出兵する ( 614) 618 隋滅び, 唐起こる 624 唐, 武徳律令を公布する 高句麗 新羅 百済の王, 唐から爵号を受ける 637 唐, 貞観律令を公布する 640 唐, 西域の高昌国を滅ぼす 645 唐 新羅の軍, 高句麗に出兵する 以後断続的に出兵を繰り返す 648 唐と新羅の軍事同盟成立する 660 唐 新羅の連合軍, 百済を滅ぼす 663 白村江の戦い 668 唐 新羅の連合軍, 高句麗を滅ぼす
125 第 2 問 下記の ⑴ ⑸ の文章は, 中世後期, 近畿地方に発達した惣 ( 惣村 ) が, みずから定めた惣掟の条項の 大意を述べたものである これらの文章から惣の特徴を読みとり, それを 5 行以内にまとめて述べよ ⑴ 宮座のメンバーが交代でつとめる神主になった者は御酒 5 斗を奉納しなければならない ⑵ 寄合を行なう知らせを 2 回うけても, なお出席しない者には,50 文の罰金を課す ⑶ 惣が所有する森林で, 繁った木の葉を採取した者は村人の身分を剥奪する ⑷ たとえ, 盗みのような重罪を犯したものであっても, 村人達が勝手に処罰してはいけない 惣の乙名 中乙名 若衆が, 犯罪の証拠をよく調べ, その上で, 惣としての定まった処置をとるべきである ⑸ わが村の乙名である清九郎は, 地頭との間に軍事同盟を結び, 惣が武力を提供するみかえりに, 惣にかかる年貢を半分に減らし, 惣がその年貢の納入を請負う契約を結ぶことに成功した このことは, 当所の地下人に長く記憶されなければならない
126 第 3 問 下の図は, 江戸の版元 ( 出版社 ) として有名な蔦屋の店舗の情景を描いた葛飾北斎の作品である 武士などの客が店先をのぞき, 店内では店員が忙しげに書物を製本中である また, 多量の書籍や版画が出荷を待っている 文化 文政期 (1804 年 1829 年 ) にこれらの出版物は, 蔦屋のような板元から, 小売や貸本屋の手を経て無数の人々の手に届けられ, 数多くの作家や絵師が人気を博した このように, 出版が盛んになった原因は何か 時代的背景にふれながら,5 行以内で説明せよ
127 第 4 問 情報の伝達のあり方がどうであったのかは, その時代を理解するうえで重要な側面である 幕末 明 治前期において, 民衆が情報を得るメディアがどのように展開してきたか, 下記の語を参照し,6 行以 内で述べよ ( 参照すべき語 ) 瓦版 ⑴, 新聞紙条例, 電信 ⑵, 別段風説書 ⑶, 横浜毎日新聞 ⑴おもに街頭で読み売られた木版印刷物 ⑵ 長崎 上海間に海底電信線が敷設されたのは 1871 年のことであった ⑶ 幕府はアヘン戦争の時から, 従来のオランダ風説書よりも詳細な海外情勢報告書をオランダ商館長に提出させた 全国各地の幕末期史料の中には, 別段風説書の写しがよく見られる
128 解法の研究 第 1 問設問の要求は,660 年の百済滅亡の際, 日本の朝廷はなぜ積極的に百済を支援したのか 条件として, 年表を参考にすること, 国際的環境と国内的事情とに留意することが求められている 条件のなかに 国内的事情に留意すること が含まれているが, 年表は国際関係だけに限定されている 自分の知識で補わなければならない 国際的環境について まず年表の内容をチェック 扱われている時期は,612 年の隋による高句麗遠征から 668 年の高句麗滅亡まで 隋 唐という中国に新たに出現した統一国家による朝鮮半島への軍事侵攻の過程である 列挙されているデータは以下の通り 隋が高句麗遠征を行ったこと唐が律令を整備したこと高句麗 新羅 百済が唐から冊封をうけたこと唐が西域へと領土を拡大したこと唐が新羅と同盟を結んで高句麗 百済を攻め, 滅ぼしたこと唐は律令法による中央集権国家を整備しながら西域や朝鮮へと領土を拡大していき, そしてその過程で百済が唐 ( と新羅の連合 ) により滅ぼされた, とまとめることができる とはいえ, こうした事情だけでは 百済が日本に支援を求めた理由 の説明とはなっても, 日本の朝廷が百済を支援した理由 の説明にはならない そこで, 律令国家の国際認識, つまり 新羅 渤海を朝貢国 ( 従属国 ) と位置づけ, 中国皇帝とは独自の立場から君臨しようとした - 唐にならった中華帝国の形成をめざした-を念頭において考えよう 隋 唐の軍事侵攻により朝鮮半島の緊張が高まり, そのなかで高句麗や百済が外交政策の必要から倭との協調関係を強く求めるようになれば, 倭が高句麗や百済を朝貢国 ( 従属国 ) と位置づけて君臨することも可能である ( たとえば天武 持統朝では, 唐との対立関係から日本へ遣使していた新羅を朝貢国 ( 従属国 ) として扱い, 新羅もそれを容認していた 唐との対立が解消されると新羅は対等の立場を主張して日本と対立するようになる ) つまり, 百済の滅亡は朝貢国 ( 従属国 ) の消滅である 逆にいえば, 倭の支援により百済が再興されたとすれば, 倭は朝貢国 ( 従属国 ) を確保し朝鮮半島への影響力を維持することができる 次に国内的事情 大化の改新以降, 急速に進められた政府への権力集中は, 有力豪族や地方豪族に不安や不満をもたらしていた それが蘇我石川麻呂の変, 孝徳天皇と中大兄皇子の対立, 有間皇子の変などの形で表面化していた そこで, 対外戦争を遂行することにより, こうした不安 不満をそらし, 一層の権力集中を図ろうとしていた 解答例 隋 唐の軍事侵攻により朝鮮半島の緊張が高まり, 唐が新羅と提携して百済を滅ぼすと, 中国皇帝とは独自の立場から朝鮮諸国に君臨しようとしていた倭は, 百済再興を通じて朝鮮半島への影響力を確保すると同時に, 対外戦争を通して権力集中を図り, 改新政治のなかで生じた豪族の不満を解消しようとした 第 2 問 設問の要求は, 資料文 ⑴ ⑸ から読み取れる惣村の特徴
129 まず資料文からデータを引き出そう ⑴ 鎮守社の祭祀組織である宮座が存在 惣村の自治的運営が宗教活動と結びついている ⑵ 寄合への出席義務 全員参加の寄合で村政運営 ⑶ 惣有地を私的に利用することを禁止 共同利用の山野を惣有地 ( 惣有財産 ) として共同管理 ( 村政運営の財政的基盤 ) ⑷ 私的制裁を禁止 警察 裁判権は惣村が掌握 ( 自検断 ), 乙名など指導層が存在 ⑸ 惣村が国人 ( 地頭 ) に武力を提供する代わりに年貢の軽減と年貢の百姓請を実現 最低限 年貢の百姓請 を引き出すこれらのデータをまとめあげれば, とりあえず答案が完成する とはいえ, もう少しデータを引き出してみよう まず, 資料文 ⑵⑶⑷から住民への管理 規制が強いこと ( 共同体としての規制が強いこと ) がわかるが, それは, 村の個々の住民よりも惣村全体の利益 意思が優先されているということである また資料文 ⑸では, 乙名が個別にもっていた武家との軍事同盟関係 ( 被官関係 ) が年貢の軽減を実現させる手段となっていることも述べられているが, そのことからも惣村の共同体的な規制が強いことがわかる 乙名 = 有力名主 ( 地侍 ) 層も惣村全体の利害を代表する形で行動しているのである なお, もともと百姓たち-とりわけ経営の不安定な小百姓 -は, 惣村という共同体に所属することではじめて農業経営 ( 家 ) を成り立たせることができたのであり, 惣村は百姓たちが経営としての自立を果たすための手段という性格をもっていた だからこそ共同体的な規制が求められていた 他方, 資料文 ⑸では乙名の業績が強調されている そのことを考慮に入れれば, 乙名は年貢軽減を実現させることによって惣村での指導的地位を確保していたこともわかる つまり, 惣村の共同体的な規制は, 乙名 = 有力名主 ( 地侍 ) 層が惣村での特権的な地位を確保 維持するための手段であったとも評価できるのである ここで意識しておいてよいのは,⑶ や⑷では 村人 と表記されているが,⑸ では 地下人 と, 用語に違いがある点である 村人 は惣村の正式メンバー( 宮座の構成員と重複 ) を指す言葉で, 階層的には有力名主 ( 地侍 ) 層であった それに対して, 地下人 とは, 身分関係のさまざまな場面において,2つの相対する身分階層のうち下位のものを呼ぶのに用いられた呼称だが, 惣村内部では有力名主 ( 地侍 ) 層に対してそれ以外の百姓 ( 新興の中小名主や小百姓 ) を指す呼称として 地下人 という言葉が用いられていた-なお百姓請を 地下請 とも称するが, そのときの 地下 は 荘園領主 - 百姓 という身分関係における下位の階層 = 百姓を指す言葉として用いられている- もっとも, 惣村を構成する百姓たちの間に有力名主 ( 地侍 ) とそれ以外の百姓 ( 新興の中小名主や小百姓 ) という階層が存在していたことは教科書レベルの知識だが, それらが 村人 と 地下人 の区別にどのように関連 対応するのかは資料文からはわからないし, 教科書でも説明はない したがって, この用語法の違いまで答案に生かすのは難しいが, 惣村内部に階層や内部矛盾が存在していたことは把握しておきたい なお, 惣村が法の制定者であり, 執行者であること, さらに資料文 ⑶によれば, 村人の身分を剥奪することが刑罰の1 つとされていること ( 村人の身分 を剥奪されたからといって村の領域外へ追放されたかどうかは不明だが ) から, 惣村は 村人の身分 を認定する主体であったことも推論できる 解答例 惣村は鎮守社の祭祀組織である宮座を基礎に成立した地縁的自治組織で, 有力名主から選ばれた乙名などを指導層とし, 全村民が参加を義務づけられた寄合で運営された 秩序維持のために惣掟を定め, 私的制裁を禁じて村全体で警察 裁判権を行使すると共に, 農業生産に必要な入会地などを共同管理し, 年貢の百姓請を行った ( 別解 ) 惣村は鎮守社の祭祀組織である宮座を基礎とする, 広い階層の百姓による自治村落であった 地侍を指導層とし, 全村民が参加を義務づけられた寄合で運営され, 自主的な地域権力を形成した 独自の財政基盤と軍事力を保持し, 私的制裁を禁じて自検断を行い, 構成員の身分認定を行うと共に, 領主への年貢納入を一括で請負った
130 第 3 問設問の要求は, 文化 文政期 (1804 年 1829 年 ) に書籍や版画の出版が盛んになった原因 条件として, 時代的背景にふれることが求められている この設問で取り上げられている時期が文化 文政期なのだから, まず最初に⑴ 文化 文政期の文化の特色を確認しておく必要がある その上で, 書籍や版画の出版がさかんになった原因を考える際,⑵どのようなものが出版され,⑶ 誰によって享受されたのか, を明確にする必要がある ⑴ 文化 文政期の文化の特色 ひとことで表現すれば, 江戸 を中心とする 中下層の町人 を主役とする文化である 江戸 が中心 元禄期とは違い, 文化 文政期には江戸が文化の中心地となるにいたったが, その背景には江戸地廻り経済圏の成長にともなう江戸の繁栄 経済的地位の向上がある 関東各地に手工業産地が次々と生まれ, 株仲間以外の在郷 ( 在方 ) 商人らによって安価な商品が江戸へともたらされるようになっていた 中下層の町人 が主役 18 世紀後半以降, 江戸などの都市では商家の奉公人も増加し, 出稼ぎ農民や無宿などが流入し, 中下層の町人が増加していた 文政期に品位の劣った文政金銀が大量に鋳造 流通されたことで経済活動がさらに活発となるなか, 貧しい中下層の町人もその生活水準を向上 安定させ, さらに寺子屋の普及を背景に識字率も向上していた このことは, 書籍 版画の新たな購買層が拡大したことを意味しており, 上記の⑶ 書籍 版画の享受者に関するデータである なお, 貸本屋を通じた書籍の安価な流通が普及したことは書籍の購読層を一層拡大していた 次に ⑵どのような書籍 版画が出版されたのか いくら都市人口の多くを占める中下層の町人が識字率を向上させたとしても, 彼 彼女らのニーズにあったものが出版されなければ, 出版活動は盛んにはならない 文化 文政期に人気のあった文芸といえば滑稽本 人情本 合巻 読本などである 滑稽本は笑い 駄洒落をベースに江戸の庶民の野暮な生態を描いたもの, 人情本は男女の恋愛小説で女性に人気を博し, 合巻は黄表紙を合冊にしたもので文章もあるが絵を主体とする絵草紙で ( 問題の図には 絵草紙店 ( 右から左へ読む ) と書かれている ), 読本は読むことを主体とし ( さし絵もある ) 勧善懲悪をテーマとした歴史物語 いずれも人気の浮世絵師がさし絵を描いていた また, 当時の庶民娯楽の代表は歌舞伎と相撲で, それらの興行と結びついた力士絵や役者絵が浮世絵版画として出版された さらに, 経済発展を背景とする生活水準の向上もあって物見遊山の旅がさかんになり, それにともない浮世絵版画で風景画が描かれたり, 名所図会 とよばれる地誌が刊行されるようになっていた 問題の図のなかに 東都名所一覧 のタイトルが見えるが, そうした地誌の1つである 解答例 化政期には江戸地廻り経済圏の発達を背景として江戸が経済的に繁栄し, 中下層の庶民の生活も次第に安定した それに伴い, 寺子屋が普及して識字率が向上し, 歌舞伎などの庶民娯楽や物見遊山の旅もさかんになった こうして滑稽本 人情本などの戯作や名所図絵など庶民のニーズにあった書籍や版画の出版が活発になった 第 4 問設問の要求は, 幕末 明治前期において, 民衆が情報を得るメディアがどのように展開してきたか 条件として, 瓦版 新聞紙条例 電信 別段風説書 横浜毎日新聞の語を参照することが求められている-そのうち瓦版 電信 別段風説書には内容説明が付せられている-
131 参照 することと 答案のなかで使用すること とは異なるので, 設問の形式からすれば必ずしも列挙された語を答案のなかで使用する必要はない しかし, 使用することで 参照 したという事実を示すことができるので, 答案のなかで全ての語を使用しておくのが安全である 対象とされている時期を 幕末期 と 明治前期 とに分けると, 与えられた5つの語句は以下のように配置される 幕末期瓦版 - 注 ⑴では時期が明記されていないが江戸時代の一般的な木版印刷物別段風説書 ( アヘン戦争時 ) 明治前期電信 (1871 年長崎 上海間 ) 横浜毎日新聞 (1870 年創刊の最初の日刊紙 ) 新聞紙条例 (1875 年 ) 次に, 与えられた5つの語句から, 設問でとりあげられている 情報 がとりわけ 何に関する情報 なのかを推測してみよう 別段風説書 がオランダ商館長が幕府に提出したものであり, 電信 に関する注 ⑵に 長崎 上海間の海底電信線 が指摘されていることを考えれば, ここで取り上げられているのが 海外情報 であることがわかる また, 横浜毎日新聞 は最大の開港場横浜で発行されていることから, 海外情報 にも関連する語句だろうとの想像もつく ( 横浜毎日新聞は- 教科書レベルをこえた知識だが- 当初上海方面からの航路による入港予定の商船の記事が中心であった ) そして 別段風説書 がアヘン戦争時からのものであることからすると, 開国の以前と以後とで対比させながら, 海外情報 がどのようなメディア ( 媒体 ) を通じて民衆のもとにもたらされたのかを考えていけばよいとの見通しもたつ 鎖国制下オランダ風説書を通じて幕府が海外情報を独占別段風説書へ変化して報告内容が詳細になったとはいえ速報性に弱い 幕末期 ペリー来航以降の対外情勢の激動のなか幕府から海外情報が洩れ, 人づてに各地に伝えられた 注 ⑶ 全国各地の幕末期史料の中に別段風説書の写しがよく見られる 瓦版を通じて, ペリー来航などをめぐる風聞 うわさが街頭での読み売りという形で伝えられた 明治前期電信により海外情報の速報性が高まる横浜毎日新聞など日刊紙の出現で活字メディアが発達 自由民権運動のなかで 新聞 = 政治的意見を闘わす場 へ 政府 : 新聞紙条例で情報 言論の統制大枠をまとめると, 幕末期 人づて から 明治前期 活字 へ変化, ということになる 解答例 幕末期には別段風説書を通じて幕府が海外情報を独占したが, 速報性に欠け, また民衆へは瓦版を通して風聞として洩れ伝えられるにすぎなかった しかし, 明治期には電信の整備が進むと共に横浜毎日新聞など活字メディアが発達し, 海外情報の速報性と伝達量が拡大して情報の民衆への影響力が増加した そのため, 活字メディアが政論主張の場の性格を強めると, 政府は新聞紙条例で統制した
132 1991 年度 第 1 問 次の文章を読み, 下記の設問 A,B に答えよ 大化改新の詔の第 2 条 ( 日本書紀 大化 2 年正月 1 日条 ) には, およそ郡は四十里をもって大郡とせよ と,646 年に郡の設置を定めた記事が見える 一方, 藤原宮 ( 年 ) から出土した木簡にも, 地方制度の成立過程を示すものがある すなわち, 藤原宮以前の時期のものも含めて, 地方から中央政府に貢進された租税などの物資に付けられた荷札の木簡である それらのいくつかには次のように記されている 1. 癸未年 [683 年 ] 七月三野 [ 美濃 ] 大野評阿漏里 2. 辛卯年 [691 年 ] 十月尾治 [ 尾張 ] 国知多評入家里 3. 庚子年 [700 年 ] 四月若佐 [ 若狭 ] 国小丹生評木ッ里 4.< 表 > 尾治国知多郡 ( 後欠 ) < 裏 > 大宝二年 [702 年 ] 設問 A 上に掲げた文章を参考にして, 律令国家の地方制度の成立過程について,4 行以内で述べよ B 木簡が,7 8 世紀の歴史の研究に果たす役割について,3 行以内で述ベよ
133 第 2 問 次の文章を読んで, 下記の設問に答えよ 1333( 元弘 3) 年, 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して一身に権力を集中し, 天下一統 を実現した 平安時代以来, 貴族社会では, 先例 に従うことが正しい政治のありかただとする考えが支配的であった 天皇は, 今の先例も昔は新儀だった. 私の行う新犠は未来には先例となるだろう ( 梅松論 という言葉に示されるような意気ごみで, つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出した この急進的な改革に対しては, 領地の所有に不安を抱いた武士だげでなく, 貴族のなかからも批判があった 政権の中枢にいた北畠親房は, 一統の世 の実現をふり返って, 今こそ積年の弊を一掃する好機だったのに, それどころか, 本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられ, 由緒ある家がほとんど名ぱかりになってしまった例もある こうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた結果, 皇威もますます軽くなるかと見えた ( 神皇正統記 ) と記している 設問 A 後醍醐天皇がこの政治改革でめざしたものは何か 3 行以内で述べよ B 北畠親房は, 天皇の政治に対して, どのような立場からどのような批判をもっていたか 3 行以内で述ベよ.
134 第 3 問 近世中期,18 世紀半ばから 19 世紀初めにかけての藩政改革の特色は, 藩が木綿 塩 紙などの特産物の生産を奨励し, それを独占的に購入して他ヘ販売する専売制度の実施である 藩は専売制度によって領内の生産や流通に対する統制を徹底し, 窮乏した財政を建て直して藩権力を強化した しかし, これを藩経済の自立ということは困難である それはなぜか, 幕藩体制の下での都市や商品流通のあり方を視野に入れて,5 行以内で説明せよ
135 第 4 問 明治維新を通して権力を撃握した藩閥政府は, 欧米諸国を範とする近代国家の建設を進めた その一つの到達点が 1889( 明治 22) 年に制定された大日本帝国憲法であり, 翌年憲法の規定にもとづき帝国議会が開設された 衆議院では民党か多数を占め, 政府と激しく対立した そこでの争点の最大のものは地租問題であったか, 条約改正もまた大きな問題であった 議会開設前後から初期議会期を通じて, 条約改正をめぐる議論が展開された その際, 政府と民党との間に, 改正の内容や方法について, どのような論点をめぐる対立が生じたのかについて,5 行以内で説明せよ
136 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 律令国家の地方制度の成立過程 条件として, 説明文を参考にすることが求められている 説明文からデータを抽出する ⑴ 646 年大化改新の詔第 2 条 ( 日本書紀 ) で郡の設置が規定されている およそ郡は四十里をもって大郡とせよ ⑵ 地方制度の成立過程を示す木簡が藤原宮から出土 年の木簡 (1 3) 国 評 里 702 年の木簡 (4) 国 郡 ( 後欠 ) 次に教科書レベルの知識として改新直後には評が設置され, 大宝律令の施行により郡へ改称されたことは知っているはず (1999 年に難波宮跡から発見された木簡からも改新直後に評が設置されていたことが確認された ) 評は国造の支配領域を再編成して設置されたもので, 国造をはじめとする地方豪族がその役人に任じられた ところで, 説明文のなかに引用されている改新詔第 2 条では郡とともに里の設置も規定されているが, 果たしてその時期に里が設置されたのだろうか 50 戸で1 里を構成するという律令の規定を念頭におけば, 戸が編成されていない段階では里が設置されているとは想定しにくい 最初に ( 全国的な ) 戸籍が作成されたのは 670 年の庚午年籍なのだから, 支配の最小単位である戸が編成されたのは天智朝のことで, 里の編成はそれ以降ということになる ( 木簡 1から判断すれば天武朝ですでに里が設置されていたことがわかる ) B 設問の要求は, 木簡が7 8 世紀の歴史の研究に果たす役割 藤原宮から出土した木簡によって 改新直後には評が設置され大宝律令の施行により郡へ改称されたこと が判明したことは知っているはず つまり, 後世に編纂された 日本書紀 の記事を修正して史実を確定するうえで重要な役割を果たしている 解答例 A 大化改新で公地公民が宣言され, 国造の支配領域を再編成して評が設置された さらに天智朝に庚午年籍が作成されて人民の戸への編成が進み, 天武 持統朝に国 評 里の行政区画が整った そして大宝令の施行により評が郡と改称され, 地方制度が確立した B 日本書紀や続日本紀は後世に編纂された国史で, 潤色を含む可能性がある それに対して木簡は当時のもので, 史書の内容を確認 修正する根拠となると共に, 生活の実態を知る手かがりともなる 第 2 問 A 設問の要求は, 後醍醐天皇が建武新政という政治改革でめざしたものは何か まず, 問題文をチェックしよう 鎌倉幕府を倒して一身に権力を集中 もともと鎌倉時代は朝廷 幕府による公武二元支配であり, 鎌倉幕府が滅亡したことにより朝廷の全国支配が復活するとしても, 後醍醐天皇個人に権力が集中するとは限らない 一身に権力を集中 させるとはどういうものかを明確にする必要がある 次の文章を参照しよう 平安時代以来, 貴族社会では, 先例 に従うことが正しい政治のありかただとする考えが支配的であった 天皇は, 今の先例も昔は新儀だった. 私の行う新儀は未来には先例となるだろう ( 梅松論 ) という言葉に示されるような意気ごみで, つぎつぎに目新しい政治改革を打ち出した
137 後醍醐は, 公家社会に支配的な 先例 に従うことが正しい政治のありかただとする考え を否定するような政治改革を実施したという となれば, 先例, いいかえれば公家政治の慣習とは何なのかを考え, そのうえで後醍醐がやろうとした政治改革を特色づけする必要がある- 天皇親政 との表現では特色づけがやや曖昧 - その際, 後醍醐が院政や摂政 関白を否定したことを思い起こそう B 設問の要求は, 天皇の政治に対し, 北畠親房がどのような立場からどのような批判をもっていたか 北畠親房が後醍醐天皇による建武新政に批判的だったという事実を初めて知る受験生が多いと思う そうなれば, 問題文を参考にするしか対処法はない 神皇正統記 からの引用 今こそ積年の弊を一掃する好機だったのに 由緒ある家がほとんど名ばかりになってしまった例もある 後醍醐の 急進的な改革 への貴族のなかの批判の一例として北畠親房 神皇正統記 からの引用が紹介されているのだから, 北畠親房が 由緒ある家 を重視する立場, 先例 に従うことが正しい政治のありかただとする 貴族社会に支配的な考えに立っていることが推測できる こうして勲功を鼻にかけた者たちが天皇の政治を堕落させた結果, 皇威もますます軽くなるかと見えた 後醍醐天皇の政治改革がかえって天皇の権威を低下させてしまったと批判している 解答例 A 後醍醐天皇は中国の宋の政治運営に影響をうけ, 院政や幕府を否定すると共に, 公家政治の慣習を無視して摂政 関白を廃止し, 絶大な権力をもつ天皇の下に公武を統一した新たな政治をめざした B 北畠親房は, 公家政治の慣習を重視する立場から, 勲功を優先した恩賞給付や家柄を無視した人材登用が公家中心の身分秩序と政治を混乱させ, かえって天皇の権威低下を招いたと批判している 第 3 問設問の要求は, 藩営専売によっても藩経済の自立が困難な理由 条件として, 幕藩体制下での 都市のあり方や 商品流通のあり方を視野に入れることが求められている まず, 藩経済の 何からの自立 が問題になっているかを確認することが必要である 問題文では 何からの自立 なのかが明記されていないが, 幕藩体制下であることを考えれば 幕府の統制 からの自立であることは想像つくだろう そのことを念頭において条件 の内容をチェックしよう まず, 条件 幕藩体制下の商品流通のあり方大坂 江戸といった中央市場に流入する商品流通のパターンといえば,⑴ 大名ルートの蔵物の流通,⑵ 民間商人ルートの納屋物の流通という2パターンがあった まずはそれらの流通のあり方を確認しておく ⑴ 蔵物の流通大名の収入源は年貢だが, 石高制にもとづいて米納が原則であり, 参勤交代や都市消費生活の費用をまかなうには年貢米の換金が不可欠となる そこで大名は,17 世紀後半に河村瑞賢により整備された東西廻り航路を通じて江戸 大坂に年貢米を廻送, 蔵屋敷に保管し, 蔵元を通じて売却した ⑵ 納屋物の流通 17 世紀後半以降, 小農経営が安定して農業生産が発達するなか, 農村部では商品作物の栽培がさかんになり, その結果, さまざまな商品が民間商人の手によって大坂 江戸へと集荷されていく この2つのパターンは大坂 江戸という中央市場への商品の移入 ( 流入 ) のあり方であるが, 大坂から江戸への商品の移出, 大坂 江戸という中央市場から全国各地への商品の移出のあり方といえば, 民間商人ルートの流通に一本化される このような形で商品流通をになっていた民間商人が組織していた同業者組合を仲間という それに対して幕府は, 享保
138 期以降になると, 価格統制をはかるため, 運上 冥加という営業税を納入することを条件にそれらを株仲間として公認して営業の独占を認め, 流通統制を担わせていた いいかえれば, 幕府は株仲間を通じて商品流通への統制力を確保していたのである 次に, 条件 都市のあり方について この設問に限定すると, 問題となるのは中央市場である大坂 江戸であるが, ともに幕府の直轄都市 これらのデータをもとに, 設問の要求にこたえよう その際, 考えるべきは専売品 = 特産物の販売経路である 条件 (a) で確認した通り, 東西廻り航路を通じて江戸 大坂という中央市場に廻送し, 蔵元を通じて売却するというのが大名ルートの商品流通であり, それ以降の販路も, 江戸 大坂の民間商人に依存せざるをえなかった 年貢米と同様に, 専売品 = 特産物もこの流通経路で販売されることになる ところが, 江戸 大坂は幕府の直轄都市であり, 江戸 大坂の民間商人は株仲間として幕府の統制下にある こういう仕組みになっているから, 藩経済は幕府の統制から自立が困難なのである なお, 諸藩の財政は参勤交代の財政的負担などにより慢性的に窮乏し, 江戸 大坂の豪商からの大名貸をうけて蔵物は担保としておさえられていたため, 江戸 大坂の商人から自立するのはなかなか困難であった- 権力権力を笠にきて借金をふみたおすことも実際には行われたが- もっとも, 大坂や江戸という中央市場を介さない地方市場相互間の交易もさかんになり, 株仲間の流通統制力 - 集荷力 -が低下していた( そのことが大坂 江戸での物価騰貴となって現象することになる ) そのことも忘れないように 解答例 もともと諸藩は中央市場である大坂 江戸に蔵屋敷を設けて蔵物を換金しており, 専売品の販売も同様の販路をとった ところが, 大坂 江戸は幕府の直轄都市であり, 問屋商人が幕府から株仲間結成を公認されて営業を独占していた そのため, 専売制度を実施して窮乏した財政を建て直したとしても, 藩財政の自立は困難だった 第 4 問設問の要求は, 政府と民党との間に条約改正についてどのような論点 ( 改正の内容や方法 ) をめぐる対立が生じたか 対象時期は議会開設前後から初期議会期 条約改正交渉の担当者は, 岩倉具視 寺島宗則 井上馨 大隈重信 青木周蔵 陸奥宗光 小村寿太郎, と移り変わっているが, 議会開設前後から初期議会期 という対象時期に該当するのは 大隈 ( 黒田内閣 ) 青木 ( 山県 松方内閣 ) 陸奥 ( 第 2 次伊藤内閣 ) - 井上外交は内閣制度創設の前後なので対象時期から除外して考えるのがよい- 大隈 領事裁判権を撤廃するかわりに大審院に限定して外国人判事を任用青木 英露の対立を背景にイギリスが相互対等の原則での条約改正 ( 領事裁判権の無条件撤廃 ) に応じる 大津事件で失敗陸奥 日英通商航海条約調印で領事裁判権の撤廃 関税自主権の一部回復 内地雑居 ( 発効を5 年後とする 重要輸入品について協定関税制を残すとの譲歩 ) さて, 政府と民党のあいだでの条約改正をめぐる論点に移ろう ここで気になるのは 民党 という言葉である 議会開設前については何を指すのかが曖昧なためちょっと面食らうが ( 立憲改進党は存続していたが自由党は解党していて存在しない ), 民権派の政党勢力 を指すものとおおざっぱに把握しておこう それにしても, 井上外交に対してならいざ知らず, 大隈 青木 陸奥外交に対する 民権派の政党勢力 の態度について, 何か知識をもっているだろうか? 教科書で確認してみてほしい ⑴ 大隈外交について大隈案に対して政府内外から批判が出, 大隈外相が反対派のテロにあって失敗に終わった こうした内容は知っていたとしても, 民権派の政党勢力 がどのような対応をしていたのかはたいていの教科書には記述がなく, 正確な知識をもたない受験生が多いだろう ただ大隈案が井上案を基本的に継承したものであることから, 民権派も同様に反対していたも
139 のと推測すればよい ⑵ 青木外交について民党の対応については教科書に記述はないが, 国内に反対運動はなかった ⑶ 陸奥外交について 予算問題をめぐる第 2 次伊藤内閣と民党との対立が天皇の詔書 ( 和衷協同の詔書 建艦詔勅 ) をきっかけに妥協にいたり, それ以降, 条約改正問題が新たな争点になった とはいえ, 民党 = 自由党 立憲改進党が一致して条約改正問題をめぐって政府と対立したわけではない 自由党が政府へ接近し, それに対して立憲改進党は野党にとどまって政府に対抗する ( かつて吏党であった国民協会は改進党と共同行動をとる ), という形に対応がわかれ, 条約改正問題をめぐって特に政府を攻撃したのは, 立憲改進党を中心とするいわゆる対外硬派であった とはいえ, 彼ら対外硬派の主張内容が何であったかについては, 伊藤内閣の条約改正交渉は軟弱であると攻撃する 対外硬 論を主張した ( 実教 日本史 ), 条約改正問題で政府を攻撃した ( 山川 詳説日本史 ) などと説明される程度であり, これでは対立の論点が何であったかはわからない その意味で, 教科書レベルの知識では対応しきれないと言える 本番で勝つ! 日本近現代史 では, 次のように説明した 民党のうち自由党は伊藤内閣に接近したが, 立憲改進党はかつての吏党の国民協会 ( 選挙干渉の責任をとって内相を辞した品川弥二郎らが結成 ) などと野党連合 ( 対外硬派 ) をつくり, 条約改正問題をめぐって政府を攻撃した 彼らは内地雑居 ( 外国人の国内通商の自由 ) に反対して現条約励行 ( 外国人の通商を居留地に制限している現行条約を厳格に実行すること ) を主張した (p.89) 現条約励行論について少し説明を補っておく 日本政府が性急な交渉をしようとするから欧米諸国への譲歩が必要になってくる 内地雑居の禁止を厳格に実行して欧米人の経済活動に制約を加えれば, 欧米諸国は不自由を感じ, 向こうからから条約改正を申し出てくるはずで, そうすれば条約の内容で譲歩する必要も生じない という主張である 解答例 議会開催前の改正交渉は外国人判事任用が民権派などの反対をうけて失敗した 初期議会時には英露対立を背景にイギリスとの条約改正交渉が進んだが, 外国人の内地雑居を認める政府に対し, 改進党など民党は強く反対し, 外国人の通商を居留地に制限した現条約を励行することで欧米からの改正の申し出を待つべきだと主張した
140 1990 年度 第 1 問 古代の農民はしばしば浮浪 逃亡を行った それに関する以下の ⑴ ⑸ の文章を参考にして, 下記の 設問に答えよ ⑴ 689( 持統 3) 年に, 政府は, 国司に対して, 今年の 10 月から, 戸籍を造れ 9 月までに, 浮浪を探し出してつかまえよ と命令した ⑵ 732( 天平 4) 年に作成された山城国愛宕郡の計帳には,350 人ほどの住民の名が見え, その約 10 パーセントにあたる人々が逃亡 移住していることが記されている ⑶ 785( 延暦 4) 年の越中国のある東大寺領荘園に関する文書には, その北の境界の標識として, 浪人の家が記載されている 9 世紀中ごろには, この荘園は, 耕作していた浪人が他の荘園で耕作するようになったために, 経営が衰退してしまったという ⑷ 797( 延暦 16) 年に, 政府は, 浮浪した者, 各地の荘園に集まり, その主の勢力を借り, 調庸を納めることを免れている 国司 郡司はその人数を調ベ, 毎年, 浮浪人帳に登録し, 調庸を徴収せよ と命令した ⑸ 881( 元慶 5) 年に, 政府は, 中央官司の運営のために畿内諸国に設置した田の経営を, 一般の農民とともに浪人にゆだねることとした [ 設問 ] A 浮浪 逃亡に対して, 政府がとった政策は, どのように変化していったと考えられるか 4 行以内で述ベよ B 政府の政策の変化の背景には, 浮浪 逃亡した者たちのどのような活動があったと考えられるか 2 行以内で述べよ
141 第 2 問 次の文章をよみ, 下の図 ( 京都 鎌倉 ) を参考にして, 院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉 の都市の発展について, それぞれの特徴を記せ 解答は,5 行以内で答えよ 1086 年に院政を始めた白河院は, 京の南, 烏羽に離官 ( 鳥羽殿 ) をもうけ, 鴨川の東, 白河に御所 ( 白河殿 ) や法勝寺を建てた こののち白河には御所や六勝寺と総称される寺々が立ち並ぶが, なかでも法勝寺は 国王の氏寺 とよばれ, その九重の大塔は院政時代の京都を象徴する建物として威容を誇った ところで鎌倉時代の 1223 年に京を立った 海道記 の作者は, この九重の塔に別れをつげ, 車馬で賑わう粟田口を通り, 琵琶湖畔の大津を経て, 鎌倉に下った 源頼朝が幕府を開いてからの鎌倉の発展は目覚ましく, 作者は由比ガ浜の繁栄ぶりを京の近くの大津や淀にたとえ, ついで浜と鶴岡八幡宮とを結ぶ若宮大路を通って, 宿所に向かった この時に八播宮の東隣にあった幕府 ( 幕府 1) は, 数年後に若官大路ぞい ( 幕府 2) に移されている
142 第 3 問 1804( 文化元 ) 年, ロシアの使節レザノフは長崎に来航して通商を求めたが, 翌年幕府はこれを拒 絶した 次の文章は, この時レザノフに読み聞かせた申渡しの最初の部分である これを参考として, 鎖国下の対外関係について 5 行以内で説明せよ 我国昔より海外に通問する諸国少なからずといえども, こと便宜にあらざるが故に, 厳禁を設く 我国の商戸 ( 商人 ) 外国に往く事をとどめ, 外国の賣船 ( 商船 ) もまた, もやすく ( 容易に ) 我国に来る事を許さず しいて来る海舶ありといえども, 固く退けていれず ただ唐山 ( 中国 ) 朝鮮 琉球 紅毛 ( オランダ ) の往来することは互市 ( 貿易 ) の利を必とするにあらず, 来ることの久しき素より其いわれあるを以てなり 其国 ( ロシア ) の如きは, 昔よりいまだ曾て信を通ぜし事なし
143 第 4 問 次の表は,1900 年前後 ( 年平均 ) の外国貿易の状況を示したものである この表を 手掛りにして, このころにおける製糸業, 綿糸紡績業それぞれの発展の特徴を,6 行以内で記せ 輸 出 輸 入 総 額 261,225 千円 総 額 262,141 千円 生糸 60,172 綿花 61,572 ( うち横浜港 ) (60,140) 繭 472 綿糸 22,119 ( うち神戸港 ) (20,063)
144 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 浮浪 逃亡に対して政府がとった政策は, どのように変化していったか 律令制のもとでの公民支配が 戸籍 計帳に基づく人頭支配 であったことを前提としながら, 資料文を読もう 資料文のなかで参考となるのは⑴,⑷,⑸ ⑴ 7 世紀末 浮浪した者を 探し出してつかまえよ つかまえ た後どうするのかは記されていないが, 戸籍 計帳に登録されている本籍地に連れ戻すのだろうということは推測がつくはず ⑷ 8 世紀末 浮浪した者 ( 浪人 ) を浮浪人帳に登録して調庸を徴収 浮浪人帳に登録するということは, 浮浪という事実を追認し, 現住所で把握する ( 浮浪人を身分として公認する ) ということである ⑸ 9 世紀末 官田の経営を一般の農民とともに浮浪人にもゆだねる 直営田の経営にあたって, 浮浪人と公民 ( 一般の農民 ) を区別なく扱うようになっていることがわかる B 設問の要求は, 政府の政策の変化の背景には浮浪 逃亡した者たちのどのような活動があったか A で問われているように, 律令政府の政策は,9 世紀末には 浮浪人を現住所で把握して調庸を賦課し, 直営田の経営にも公民同様に起用する というものに変化していた その政策の内容からすると, 政策変化の背景として考えられるのは, 浮浪は禁止しても止むことがなかった, 田地の経営をゆだねることのできるくらい農業経営能力をもつものが浮浪人のなかに存在した ( 実際に貧農を隷属化させ墾田開発を進め, あるいは院宮王臣家の荘園経営に関与する富豪百姓が台頭していた 1996 年度第 1 問を参照 ), ということである 資料文のなかで参考となるのは⑵,⑶,⑷ ⑵ 計帳に登録されている住民のうち約 10% が浮浪 逃亡している なお, 移住 という表現が用いられていることに注目しよう 浮浪は 移住 なのである ⑶ 浮浪人 ( 浪人 ) が荘園内に居住し耕作に従事していたこと, 浮浪人 ( 浪人 ) が他へ移住してしまうと荘園の経営が衰退してしまったこと-この2つのデータが記してある そこから, 浮浪人 ( 浪人 ) は荘園領主に隷属しておらず, 自由に移住 ( 浮浪 ) する存在であり, さらに荘園経営を左右するだけの実力 ( 農業経営能力 ) をもっていたことがわかる ⑷ 浮浪人は, 移住先の荘園領主の権勢をかりて調庸の徴収から逃れている 解答例 A 律令政府は戸籍を人民支配の基礎としており, 浮浪人を本籍地に連れ戻す政策をとっていた ところが,8 世紀後半には浮浪を追認し, 公民とは別に現住所で把握する政策へと転換し, さらに9 世紀後半には, 公民 浮浪人の区別なく直営田の経営を請け負わせた B 浮浪人のなかに, 私出挙や墾田開発を通じて富を蓄え, 荘園経営を請け負うなど, 大規模な農業経営を行う富豪百姓が出現した 第 2 問設問の要求は, 院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展の特徴 条件として京都 鎌倉の図を参考にすることが求められている 当該の時期の京都と鎌倉については三省堂 日本史 B では説明があるものの, 一般的にいえば, 教科書レベルの知識
145 ではなかなか対応できない 与えられている資料文と図を読み解いていくしか, 対処の方法はない ⑴ 京都について 京都はもともと平安京 ( 朱雀大路を中心に計画的な街路がつくられた ) であり, 貴族 官人の集住する政治都市として建設されていたことは知っているはず そして, 荘園公領制が確立する院政期以降は, 荘公領主の集住地として各地の荘園 公領からの物資の集散地となり ( 一橋大 1991 年度第 1 問も参照のこと ), 政治 経済の中心地としての都市へと変化していたことも知っているだろう それらを前提に資料文と図からデータを読み取ろう 資料文から 白河上皇は, 京の南に離宮 ( 鳥羽殿 ), 鴨川の東に御所 ( 白河殿 ) や法勝寺を建立 粟田口 車馬で賑わう - 図から 太線になっているのが朱雀大路 - 平安京の南に鳥羽殿, 東に白河殿や法勝寺 六波羅邸 ( 平清盛邸 )- 法住寺殿 ( 後白河院の御所 ) や三十三間堂 ( 後白河院の発願により建立 ) がどういう意味をもつのかは受験レベルを超えるので判断の対象外においておけばよい - これらは政権中枢に関連する語句だが, すべて鴨川ぞい - 粟田口 大津 淀が黒点 ( ) となっている - ⑵ 鎌倉について 鎌倉は幕府の所在地なのだから政治 軍事都市である そのことを前提に資料文と図からデータを読み取ろう 資料文から 由比ガ浜の繁栄ぶり 京の近くの大津や淀にたとえられる -ア由比ガ浜と鶴岡八幡宮とを結ぶ若宮大路幕府は八幡宮の東隣 ( 幕府 ) から若宮大路ぞい ( 幕府 ) に移転 -イ図から 鶴岡八幡宮と由比ガ浜を結ぶ若宮大路が太線となっている -ウ和賀江津と材木座が黒点 ( ) となっている -エ寿福寺 ( 北条政子が建立した臨済宗寺院 ) どう扱うか? 判断の対象外においておけばよい ⑴- と⑵-ウをあわせて考えれば, 鎌倉の若宮大路が京都の朱雀大路に相当していること, つまり鎌倉は平安京をモデルとして若宮大路を中心に都市建設が進められたこと ( 鶴岡八幡宮が大内裏に相当 ) が推測できる ⑴ - と⑵ - アを総合すると, 大津 淀も粟田口と同様に交通 流通の拠点として繁栄していたことがわかり, 黒点 ( ) は 交通 流通の拠点 をあらわす印だと判断できる したがって和賀江津も材木座も鎌倉における 交通 流通の拠点 だとの推測がなりたつ ( なお和賀江津は北条泰時のときに整備された港湾 ) 政治 軍事都市という性格が強い鎌倉も経済的な発展を遂げていたのである ⑴ - と⑵ - イは 政権中枢の移動 に関するデータである 京都では大内裏から洛外の鴨川ぞいへ, 鎌倉では鶴岡八幡宮の隣から若宮大路ぞいへと移動している いずれも 交通 流通の拠点 により近い場所へ移動していることがわかる あとは, これらのデータをまとめればよい そのとき, 都市の性格 あり方ではなく発展の特徴が問われているのだから, 都市としての性格だけ対比して説明しても, 答案としては不十分である 注意してほしい なお, 三省堂 日本史 B では次のように説明されている 京都は, 政治だけでなく, 経済の中心地としても発展しつつあった 京都市中は, 大路 小路などの道路に沿って町屋がつくられた 武士と商工業者の増加はいちじるしく, 武士の多くは六波羅探題や京都大番役につとめる者で, 屋敷をかまえる者もいた またさまざまな職種の手工業者や貴族 武家 寺院 神社などの使用人として働く者もおり, 猿楽や田楽などの芸能を専門とする芸人も生まれた (p.90 91) 鎌倉も政治都市( 武者の都 ) として発展し, 若宮大路を中心に計画的な街路がつくられ, 市中は保という行政区画
146 に分けられた 保には保奉行人がおかれ, 盗人 悪党の逮捕や路上での売買の取り締まりも行なった また, 由比ヶ浜 の和賀江島の修築などを行なって港湾を整備し, 海運で物資が鎌倉に集められるようになった (p.91) 解答例 荘園公領制の確立する院政期以降, 左京を中心とする京都は, 各地の荘園 公領からの物資輸送路である東や南へと都市域を発展させ, 鴨川沿いに政権中枢が形成された それに対して鎌倉は, 幕府権力の安定にともない, 港湾整備の進んだ由比ケ浜と鶴岡八幡宮を結ぶ若宮大路を中心に平安京を模して計画的に都市域が整備された 第 3 問問われているのは, 鎖国下の対外関係 条件として, 史料 ( レザノフへの申渡し ) を参考にすることが求められている まず, 史料の内容を確認しておく 我国の商戸( 商人 ) 外国に往く事をとどめ 日本人の海外渡航を禁止 外国の賣船( 商船 ) もまた, もやすく ( 容易に ) 我国に来る事を許さず しいて来る海舶ありといえども, 固く退けていれず 外国とは新たな通交を持たない ただ唐山( 中国 ) 朝鮮 琉球 紅毛( オランダ ) の往来 来ることの久しき素より其いわれあるを以てなり 通交は, 故事来歴により中国 朝鮮 琉球 オランダに限定されている 其国( ロシア ) の如きは, 昔よりいまだ曾て信を通ぜし事なし これまで一度も外交交渉をもったことがないとの理由でロシアの通商要求を拒絶 は日本人の海外渡航を禁じた海禁政策を表明したもの は対外交渉を四口に限定する体制に関する説明で, 四つの口 が固定的なものと捉えられ, 中国 朝鮮 琉球 オランダ以外の諸国とは新たな通交を結ぶ意思がないことが示されている そして, それを前提として ロシアの通商要求を拒否している 答案を作成するには以上を確認するだけで十分だが, いわゆる鎖国制についてその内容を確認しておく いわゆる鎖国制は次の2つの側面から成り立っていた 1 日本人の海外渡航 帰国を禁止日本人の海外渡航 帰国を通じてキリスト教が流入する危険性を恐れて 1635 年に全面的に禁止された ( 東アジア貿易の独占をめざしていたオランダがその危険性を強調したことも禁止の要因の一つであった ) 対外貿易がキリシタン問題に従属する形で制限されていったのである この結果, 商船や漁船に乗っていて漂流すると2 度と帰国できなくなってしまったのだが, 日本との通交をもとめる欧米諸国は, そうした漂流民の送還を対外交渉の手がかりとして活用した なお, 当時の東アジア地域はポルトガル, オランダというヨーロッパの新旧勢力, そして日本の朱印船によって武力をともなった激しい競争が展開していたが, そうしたなかで幕府が日本船の保護を掲げる限り, 日本船が紛争に巻きこまれた場合, 幕府はそれに対する報復を行うことが必要となってくる ところが, 幕府は日本人の海外禁止した ということは, 当時の幕府には, 海外で貿易活動に従事する日本人を保護するだけの政治力も軍事力も持たなかったということになるだろう 2 対外交渉を四つ口において特定国とだけに限定する政策しばしば ポルトガルの来航禁止により鎖国が完成した と言われる 貿易とキリスト教布教を一体化させていたポルトガルとの通交を断絶することにより, キリスト教禁制を徹底させようとしたのであるが ( これも対外貿易をキリシタン問題に従属する形で制限しようとするもの ), そのきっかけとなったのが 1637 年に発生した島原 天草一揆 ( 島原の乱 ) であった この一揆は, 小西 有馬氏の旧家臣であった土豪や牢人たちを指導者とし, キリスト教の信仰を軸として発生した宗教一揆であったが, これをきっかけに, 幕府はキリスト教の信仰を軸に民衆が団結し, さらには外国と結びついて反権力的行動をおこすことを恐れ, キリスト教を徹底して排除するためにポルトガルの来航を禁止したのである なお, オランダ 朝鮮 琉球や民間中国船などキリスト教の布教と関係のないルートで ( 特に民間中国船の来航が増加していたことが大きい ), ポルトガルのもたらす中国産生糸などの輸入品を確
147 保できる目途がついていたことも, ポルトガル来航禁止の背景の一つであった さて, こうしてポルトガル船の来航を禁止したからといって, 残った5つの国 地域 ( オランダ 中国 朝鮮 琉球 蝦夷地 ) との通交をめぐる形式 作法が固まるわけではない それぞれの事情がある まずオランダについて それ以前から正式な外交関係を結ばずに貿易活動だけに従事するという形式をとっていたが ( 通商国 ), 商館長 ( カピタン ) は将軍の命によって江戸へ参府して将軍に拝謁していた つまり, オランダ人は将軍の威光にひれふし, 将軍に臣従する異国の1つとして扱われていたのである オランダ人にしてみれば, そこまですることによって日本貿易の主導権をなんとか確保しようとしていたわけである 次に朝鮮について 豊臣政権による朝鮮出兵により断絶していた朝鮮とは, 対馬の宗氏の努力により国交回復が実現して朝鮮から使節が来日し, さらに己酉約条 (1609) により宗氏独占のもとで貿易も再開される ところが, 日朝両国が対等な立場で通交していたわけではなく, 幕府は朝鮮を将軍に臣従し入貢する異国の1つとみなしていたし, 朝鮮側でも日本を一段低くみていた ( 朝鮮からの国書に書かれた将軍表記に含まれる 大君 は朝鮮では国王より下位であった ) この微妙な関係は, 対馬の宗氏を緩衝材とすることでなんとか成り立っていたのだが, もう一つ, 朝鮮が北方からの軍事的脅威にさらされていたこと ( 満州に成立した後金 = 清からの軍事的脅威 1630 年代初めに朝鮮は清の侵攻をうけて降伏し, 清との冊封関係に入った ) も背景にあった そして琉球について 幕府は琉球を対明交渉の窓口 ( の一つ ) とみなし, 島津氏の琉球侵攻 (1609) とその支配権を認めたうえで琉球の独立国としての体裁は維持させ, 明への朝貢を継続させた ( この琉球侵攻が明の強い疑念をよび, 明との国交回復 公的な貿易の復活は実現しなかった ) 一方, 幕府は琉球王府に対し, 将軍の代替りごとに慶賀使, 琉球国王の代替りごとに謝恩使 ( 恩謝使 ) を江戸へ送らせ, さらに使節に異国の風俗を強制することで, 異国が将軍のもとに入貢しているような演出を行った なお, 明が滅んで清が中国全土を制圧する段階になると, 日清間で琉球の帰属が大きな外交課題となるが, その際, 幕府 (4 代家綱 ) は, 清との武力衝突を極力回避するとの方針から清から琉球への冊封使の来航を容認する姿勢をとった そして, 清が琉球に風俗 服制の強制を行わなかったため, 日清の軍事的緊張は回避され, 琉球の両属関係は継続されることとなった このようにオランダと朝鮮 琉球は, 前者が通商国 ( 貿易のみ ), 後二者が通信国 ( 貿易と国交 ) という違いはあるものの, 将軍に臣従し入貢する異国 として扱われ, 将軍の権力 権威の誇示のための手段とされていた では, 中国や蝦夷地との関係はどうであったか それぞれの事情は異なるにせよ, 幕府とは政治的関係をもたず, 交易関係だけに限定されていた ( それぞれ長崎奉行, 松前藩を交易相手とする ) 中国については, 明との国交回復交渉は失敗に終わり ( 大坂の陣のころ ), それ以降, 幕府も国交回復 公的な貿易の復活を求めることはなかったが, 来航する中国船は増加していく そして 1630 年代には, 中国船のもたらす生糸の量はポルトガルが一年に長崎に持ってくる生糸の量を陵駕するほどになった こうなれば, わざわざ公的な貿易を復活させる必要はなく-つまり中国を頂点とする国際秩序の枠外であっても差し支えない-, あとは中国船の寄港地を制限して貿易管理を強化していけばよいだけのことであった (1635 年長崎だけに制限 ) ところが,1644 年に明が滅亡し, さらにその混乱のなかで清が中国本土へ侵攻し, 東アジア秩序は激動する 明王朝一族を擁した清への抵抗運動が中国南部各地で起こり, そのうちの勢力の一つが幕府へ援軍派遣を要請してくる それに対して幕府内部には出兵論もあったが, 将軍家光は結局, 出兵拒否を決定している つまり, 東アジアの激動に日本も巻きこまれる可能性を回避したのである さらに将軍家綱のときには, 清の冊封使が琉球に派遣されたときの対応を島津氏から問われたのに対し, 幕府は清の要求に従うよう指示している このように幕府は清との武力衝突を極力回避する姿勢をとり, 清を頂点とする新たな東アジア秩序の枠外に自らを位置させ, 一方で必要な輸入品を確保するため, 中国船の来航は容認していったのである ( なお幕府は, 将軍綱吉期の 1688 年, 中国商人の居住地として唐人屋敷を設け, 交易をその館内に限定させた ) 次に蝦夷地について すでに豊臣政権のもとで蠣崎氏が蝦夷地との交易独占権を認められ, 大名の一員として編成されていたが,17 世紀に入って蠣崎氏は松前氏と改姓し, さらに江戸幕府からも同様に交易独占権を認められた そして, 松前氏の支配する和人地と蝦夷地とは境界がはっきりと区別されて, 往来を管理する関所 ( 番所 ) が設置され, 和人と蝦夷地のアイヌとの交易は松前氏の管理下におかれていた ( 松前氏はアイヌとの交易場所 [ 商場 ] を家臣に知行として給付
148 した ) 一方, 蝦夷地のアイヌ社会では, 国家形成こそなかったが, コタンと称された村落を基盤とし, コタンを統率する首長をさらに大首長が統合するという形で階層社会が存在していた しかし, 和人との交易をめぐるアイヌの不満を背景に, 大首長シャクシャインが全蝦夷地に呼びかけて蜂起したシャクシャインの戦い以降, 蝦夷地は松前藩の支配下へと編成されていく 蝦夷地と和人地以南の間のアイヌの自由な往来は禁止され, さらにアイヌは漁場の労働力として和人に従属していくことになる このように幕府は,1630 年代に鎖国制を導入して交渉をもつ国家 地域を限定し, 人と物の出入りを四口で統一的に管理する体制を整えた ( 近代に比べれば分権的だが ) そして, オランダ人や朝鮮, 琉球を 将軍に臣従し入貢する異国 として扱い, 将軍の権力 権威を誇示するための手段として活用した オランダ商館長 ( カピタン ) や朝鮮通信使, 琉球からの慶賀使 謝恩使による江戸参府は, 将軍がそれらの異国を従え, 東アジアに君臨するかのような威光を成り立たせるものとして演出されたのである ところがこの国際秩序は, 現実の武力発動によって確保 維持しえたわけではなく, ヨーロッパ諸国の東アジアでの軍事的プレゼンスの弱さとともに, 明清交替という東アジア秩序の転換期であったがゆえに, いわば他律的に成立しえたのである したがって軍事力を強化した欧米諸国 -それゆえ 列強 と称される-が, 軍事力を背景として対等な通交 ( 形式面での話だが ) を求めてきたとき, この国際秩序 - 鎖国制 -を果たして維持できるのかと言えば, 極めて微妙な問題であった 幕府が欧米諸国の軍事的優位性を認識したとき ( アヘン戦争での清の敗北!), 幕府は欧米諸国との対立を回避しながら消極的に鎖国制を維持していくという姿勢をとるに至る また, 朝鮮のところで確認したように, この国際秩序は幕府の観念において成立していた虚構であり, その成り立ちを保障していたのが, 対朝鮮でいえば宗氏という緩衝材の存在であった したがって, 明治政府が朝鮮との交渉当事者を宗氏から外務省へと変更すれば, それだけで日朝間に大きな摩擦が生じるのは当然のことであった 解答例 幕府は日本人の海外渡航を禁止すると共に, 通交を中国 朝鮮 琉球 オランダに限定した 中国 オランダは通商国として長崎で貿易のみを行い, 朝鮮 琉球は通信国としてそれぞれ対馬の宗氏 薩摩の島津氏に交渉を独占させて貿易と国交を結んだ そして, この関係を固定的に考え, 他国と新たな関係を結ぶことを拒否した 第 4 問設問の要求は,1900 年前後における製糸業, 綿糸紡績業それぞれの発展の特徴 条件として,1900 年前後 ( 年平均 ) の外国貿易の状況を示した表を手掛りにすることが求められている まずは知識を確認しておく (1984 年第 3 問 B,1996 年第 4 問も参照のこと ) 綿糸紡績業 ( 原料綿花 製品綿糸 ) 綿糸 : 明治前期の輸入第 1 位原料綿花と機械を輸入に依存 1880 年代後半に始まった産業革命を主導したのが綿糸紡績業であるが, その時期に綿糸紡績業が発展した背景は, 明治前期にすでに, 輸入綿糸を原料 問屋制家内工業の形態で綿織物業が復活し, 国内での綿糸需要が増大していたことにあった つまり, 国内市場における国産綿糸のシェアを確保することをめざして企業が勃興したのである ( 大阪 名古屋周辺に多い ) その際, 輸入綿糸に対抗するために, 原料 機械 ( 動力源は蒸気機関 ) ともに輸入に依存して機械制大工業の導入がはかられていった その結果,1890 年には綿糸国産高が輸入高を上回り ( 国内市場を回復 ), さらに 1897 年には輸出高が輸入高を上回るにいたった 綿糸紡績業が対外的に自立し, さらには輸出産業へと転換していったのである そして, 綿糸紡績業の発展を前提として, 大紡績資本が織物工場の兼営に乗りだし, 綿織物業の機械化も徐々に進展する こうして綿織物という大衆衣料の生産部門で機械化がすすんだことは, 自家用の衣料生産を衰退させ, 国民生活のあり方を大きく変革していく 製糸業 ( 原料繭 製品生糸 ) 生糸 : 幕末以来の輸出第 1 位原料繭と器械を国産でまかなう製糸業は, 教科書では, 綿糸紡績業とともに産業革命を主導した産業の1つとして説明されることが多い しかし, 綿
149 糸紡績業が新鋭のイギリス製機械を導入し大工場中心に急速に機械制生産を普及させていったのに対し, 製糸業は中小工場が中心で, フランスの技術をもとに改良された国産器械 ( 動力源は水車 ) を使い, 機械化の進展もゆるやかなものであった ( 器械製糸は長野 群馬県を中心に普及 ) そして 1894 年に器械製糸の生産高が座繰製糸の生産高を上回って以降も, 座繰製糸が福島 栃木県を中心に存続して生産水準は衰えなかった 次に表からデータを引き出そう 輸出 生糸 (60,172/261,225=23%) と綿糸 (22,119/261,225=8.5%) が多い 生糸はほとんどが横浜港から輸出 綿糸はほとんどが神戸港から輸出輸入 綿花 (61,572/262,141=23.5%) が多い 繭 (472/262,141=0.2%) は少ないこれらのデータをすべて利用して答案を作成しよう ( 数値は活用しなくてよい ) ポイントは, 繭と生糸 ( うち横浜港 ) 綿糸 ( うち神戸港 ) をうまく答案のなかに表現できるかどうか そこで点数に差がつく 繭の輸入高が少ない 繭はほとんど国産でまかなわれている生糸 ( うち横浜港 ) 綿糸( うち神戸港 ) 輸出先か工場の立地に関連させて活用するとよいなお, 製糸業 綿糸紡績業の 発展の特徴 を書けばよいので, 貿易収支に関するデータまで触れる必要はない 解答例 幕末以来の最大の輸出産業である製糸業は, 甲信 北関東での養蚕業の発展を背景として原料繭を国産でまかない, 長野 群馬県などの中小工場で生産を拡大し, 横浜港からアメリカへ輸出された 綿糸紡績業は, 原料綿花をインドなどからの輸入に依存して大阪などの大工場で機械制生産を普及させ, 国内市場を回復したうえ, 日清戦争で獲得した中国 朝鮮市場に向けて神戸港から輸出された
150 1989 年度 第 1 問 下の文章は, 北畠親房が律令制いらいの朝廷官職の大綱を解説した 職原抄 の一節を意訳したもの である これを読んで下記の設問に答えよ 検非違使のちに検非違使庁ともいわれるようになる 淳和天皇の天長年間に ( 正確には前代の嵯峨天皇の弘仁年間のことである 天長年間は, 検非違使別当が置かれ, 検非違使庁に発展する出発点となった時期 ), はじめてこれが置かれた 朝廷がこれを設置してから, しだいに衛府の追捕, 弾正台の糾弾, 刑部省の判断 ( 判決ないし処断 ), 左右京職の訴訟などは, 検非違使庁がいっさい扱うようになった したがって, これは国家の枢機であり, 歴代の朝廷はこれを重職として扱うようになった 蔵人所嵯峨天皇の弘仁年間にはじめて置かれた 四位の殿上人の中からとくに才能のある人を選んで蔵人頭とする およそ内廷のことは, 蔵人頭以下の蔵人たちが奉公する したがって, 蔵人頭は古来重職である また蔵人頭は内廷以外の種々の行政にもあずかるようになったので, 力量のない者には希望しても無理な仕事である ( 備考 ) 意訳するにさいし, 語句 表現や原文の配列を変え, 文章を省略補足した個所がある 設問 A 検非違使庁と蔵人所の形成過程について, 上の文章を参考としながら,4 行以内で説明せよ B 検非違使庁や蔵人所などの令外官が形成されるのは, どのような歴史的背景によるものと考えられるか 4 行以内で説明せよ
151 第 2 問 下の文章を読み, 設問 A C に答えよ 韓国西海岸の新安の沖の海底に沈没していた難破船の積荷や船体の一部が,1976 年以来, 数年間にわたって引きあげられた その結果, 一万数千点に及び中国産の陶磁器や, 莫大な量の中国の銅銭, あるいは紫檀などの貴木, 胡椒などの香料を積んでいたことが判明し, 水中考古学のすばらしい成果として注目を集めた 遺物の内容などから, この船は 1323 年, 中国の寧波を出港して日本に向かう途中, 不幸にも遭難した貿易船であることがほぼ明らかになったが, 積荷につけられた木札に 東福寺 と記されているものが多いので, 京都の東福寺の修理造営と深い関係をもっていたのではないかとの想定もされている 設問 A この船が日本から中国に向かう場合には, 日本からの輸出品として, どのような物資を扱ったと推定されるか 主要なものの名を二つ記せ B 下線部は, 同じような目的をもった船の例からの想定である その船の名を一つ記せ C 問題文をふまえ, 日明貿易との関連にも注意しながら, 元寇後の日元貿易について4 行以内で述ベよ
152 第 3 問 江戸時代には,17 世紀末に宮崎安貞の 農業全書 (1697 年 ) が刊行された この書物は中国の農書の影響を受けながらも, 実際の観察と経験にもとづく農業の知識を集大成したものと評価されている さらに 19 世紀になると, 大蔵永常の 農具便利論 (1822 年 ) や 広益国産考 (1844 年 ) が刊行され, 広く全国に流布した このような現象から, 江戸時代の農村社会では, どのようなことが起きていたと考えられるか 5 行以内で記せ
153 第 4 問 ( 明治 15 16) 年, 伊藤博文らは, ドイツをはじめヨーロッパ諸国において, 憲法や立憲的諸制度の調査にあたった その際, 彼等はしばしばドイツの政治家や学者などから, 明治維新以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり, 日本がいま立憲政治を取り入れようとするのは, 必ずしも賢明なこととはいえない, とする忠告を受けたといわれる そこで, 諸君が伊藤博文らの調査団に加わっていたと仮定し, 上述のようなドイツ側の忠告に対して, 日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明する文章を8 行以内で記せ
154 解法の研究 第 1 問 A 設問の要求は, 検非違使庁と蔵人所の形成過程 条件として史料文を参考とすることが求められている まず, 検非違使や蔵人について知っていることを整理してみよう 検非違使 嵯峨天皇のもとで設置され, 京内の治安維持など警察の任務にあたったが, のちには衛府や弾正台 刑部省 京職の職務を吸収し, 訴訟 裁判の業務も担うようになった 役所が検非違使庁蔵人 平城上皇と嵯峨天皇の対立にともなう朝廷の分裂 ( これが薬子の変に発展 ) に対処するため, 嵯峨天皇が 810 年に設置したもので, 機密文書を扱わせ, 天皇の側近にあって詔 勅の伝達や訴訟などを太政官にとりつぎ, 太政官をつうじないで天皇の命令をくだせるようにした 役所が蔵人所 次に, 史料文を参照しよう 先に確認したことがら以外のデータといえば, 蔵人所について 蔵人頭は内廷以外の種々の行政にもあずかるようになった だけ これを先のデータに追加して答案を完成させよう B 設問の要求は, 検非違使庁や蔵人所などの令外官が形成される歴史的背景 設問の など には一体どのような令外官が含まれているのか不明 非常に曖昧な ( 悪くいえばいい加減な ) 表現だが, ここでは, 検非違使庁と蔵人所だけに限定して, その歴史的背景を考えよう さて, 検非違使 蔵人が設置されたのは嵯峨天皇のときだが, 嵯峨天皇を含む平安初期といえば, 律令体制の再編期である まずそこから考えてみよう 公民支配が動揺するなか, 朝廷の財政難がますます深刻となり, それに対処するため, 朝廷では官司や官人の整理 統合が行なわれて律令政治の効率化 簡素化とともに, 財政負担の軽減がはかられていた そして, それ以前から社会の変化に応じてさまざまな法令がだされたが, それらの法令を, 律令の規定を改正するものとしての格と, 施行細則としての式とに分類 編集し, 律令体制を当時の政治や社会の実情に即したものへと再編成しようとする動きも進んでいた こうした時代背景を考慮に入れれば, 新たな令外官が設置されてそのもとにさまざまな官庁の職務が吸収されていったことは, 官庁の整理 統合 ( 統廃合 ) を進め, 財政負担の軽減をはかるという意味をもっていたことは察しが付くはず また, 検非違使庁や蔵人所は天皇直属の官庁であり, さらに検非違使や蔵人は, 官職に就いている者のなかから天皇が特別に任命する職であった たとえば蔵人頭の場合, 近衛中将 ( 左右近衛府の次官 ) や大弁 中弁 ( 左右弁官の長官 次官 ) という官職についている貴族が任じられ, もとの官職を兼任したまま, 蔵人所を構成した ( なお頭中将は蔵人頭兼近衛中将のこと ) その結果, 天皇は, 検非違使庁や蔵人所を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになったのである 桓武天皇以来, 天皇に権力を集中させて貴族をおさえながら, 積極的に政治を改革しようとする動きが進んでいたが, 検非違使庁や蔵人所といった新しい令外官の形成はそうした動きの一環でもあったのである なお, 天皇への権力集中とそのもとでの律令官庁の再編成は宇多 醍醐朝に完成を迎えるが, それを前提として摂政 関白が制度として定着する 天皇への権力集中が進んだがゆえに, 天皇個人の能力いかんにかかわりなくその権限を行使できる体制として, 摂政 関白が登場されたのである 解答例 A 検非違使庁は嵯峨天皇が設置し, 京内の治安維持にあたったが, 後には弾正台などの職務を吸収した 蔵人所は, 平城上皇と嵯峨天皇の対立にともなう朝廷の分裂に対処するために嵯峨天皇が設置し, 機密文書を扱ったが, 後には朝廷内の様々な実務に関与した B 律令制が動揺するなか, 桓武天皇以降, 律令政治の再編成が進められていた 嵯峨天皇は検非違使庁や蔵人所といった新しい天皇直属の令外官を設置し, そのもとで律令官制の統廃合を進めることで, 天皇の政治的主導権を確保すると共に, 財政負担の軽減を図った
155 第 2 問 A Bの解説は省略 C 設問の要求は, 元寇後の日元貿易 条件として, 問題文をふまえること, 日明貿易との関連にも注意すること, が求められている 日元貿易の内容 特徴を確認しておこう まず, 日宋貿易に共通する特徴として ⑴ 正式な国交はなかったものの, ⑵ 民間商人による私的な貿易が活発 - 中国を中心とする東アジア通商圏 ( 民間貿易のネットワーク ) のなかに組み入れられていた- また, 設問 Bで問われているように ⑶ 鎌倉 室町両幕府も貿易船を派遣して寺院の修理造営費用を調達 ( 建長寺船や天竜寺船など ) さらに, 中国だけでなく朝鮮も対象としていたが, ⑷ 倭寇 ( 日本人を中心とする海賊集団 = 武装商人集団 ) がさかんに活動次に, 条件について 問題文のデータ 韓国沖から引き上げられた難破船は, 京都の東福寺の修理造営の費用を調達するために中国に派遣された貿易船で, 莫大な中国産の陶磁器, 中国の銅銭, 紫檀などの貴木 胡椒などの香料を積んでいた ここからは, 寺院の修理造営のための資金を得るために幕府 朝廷が貿易船を派遣したというデータ ( ⑶) 以外に, ⑸ 中国から陶磁器や銅銭などを輸入していたという日元貿易の内容に関するデータを引き出すことができる これは日明貿易に共通していることがわかる 日明貿易との関連 日明貿易との対比 ではないから 相違点 を指摘するのではなく 共通点 を指摘しておきたい まず⑵に関連して 日元貿易は私的な貿易であるのに対し, 日明貿易が国家間の公的な貿易であるという相違点はあるものの, 日明貿易も民間レベルでの活発な貿易活動 中国を中心とする東アジア通商圏を前提としている点では共通している 次に⑶に関連して 建長寺船や天竜寺船は寺院の修理造営費を調達するために派遣されているが, その内容として新たに次の2 点を指摘できる 幕府公認の貿易船 ( 公許貿易船と称される ) 民間貿易の利益に着目した ( 民間貿易の利益を吸収しようとした ) これに対して日明貿易は 中国への渡航船を日本国王 = 将軍派遣の遣明船に限定 ( 中国皇帝から与えられた勘合を所持 ) そのことを通じて幕府が貿易の利益を独占という特徴をもち, 建長寺船のような公許貿易船の延長線上に日明貿易があることがわかる なお,⑷の倭寇は 私的な貿易が活発 の一例として挙げてもよい 解答例 A 銅 刀剣 ( 硫黄) B 建長寺船 C 元寇後も元との正式な国交はなかったが, 僧侶や商人がさかんに往来し私的な貿易が活発だった 鎌倉 室町両幕府も貿易の利益に着目して公認の貿易船を派遣し, 中国産の銅銭や陶磁器を輸入したが, こうした貿易の延長線上に日明間の勘合貿易が展開する
156 第 3 問設問の要求は, 農書の流布 普及という現象から, 江戸時代の農村社会でどのようなことが起きていたと考えられるか 農書が農業技術の普及を目的として出版されたことを考えれば, 農書が広く流布 普及した背景に, 新しい農業技術を摂取しようとする百姓の積極的な姿勢が存在したことがわかるだろう つまり, 百姓が新しい農業技術を摂取しようとした背景 を考えていけばよいのである その際,⑴ 百姓がどのような状態にあったか ( 経営のあり方 特徴 ),⑵ 農書には どのような農業の技術 知識 が紹介されているのか, の2 点に注意しよう ⑴ 百姓がどのような状態にあったか ( 経営のあり方 特徴 ) 問題文には 17 世紀末の宮崎安貞 農業全書 と,19 世紀前半の大蔵永常 農具便利論 広益国産考 があげられているのだから,17 世紀末 ( 元禄期 ) と 19 世紀前半 ( 化政 天保期 ) に分け, 百姓の経営のあり方とその変化を考えていこう 17 世紀末 ( 元禄期 ) 江戸時代 ( とりわけ前期 ) の農業経営は, せまい耕地 と 小規模な家族の労働 を基礎とする小農経営を特徴とするが, 17 世紀後半, 幕府 大名による小農維持策 -- 稲作を第一とし商業的農業を抑制して没落を防止 --を背景として確立 安定した (1987 年第 3 問も参照のこと ) その時期は耕地の拡大がほぼ限界に達した時期でもあり, 稲作中心の農業経営を安定させるため, せまい耕地と小規模な家族の労働を効率的に活用することによって単位面積あたりの収穫高を増加させるかたちで, 農業生産力の向上がはかられていく 具体的には, 二毛作の拡大, 肥料の多用, 農具の改良による農作業の省力化 集約化である 他方,17 世紀後半に全国的流通網が整備されて商品流通が発達すると, 都市での消費需要の拡大に対応して桑 麻 綿 菜種 楮 櫨などを商品作物として栽培する動きも進む 元禄期は, このような農業生産の発展が先進地域を中心にめざましく進んでいた時期であり, それにともなって農民が商品経済にまきこまれ, 農村では階層分化が進んで本百姓を中心とする村の共同体秩序が動揺しはじめた時期でもあった 19 世紀前半 ( 化政 天保期 ) 享保期以降に幕府 諸藩が稲作第一の農政を転換し, 商品作物の栽培を奨励するなど殖産興業政策を進めたこともあって- 農民政策も小農維持策から地主 豪農の存在する現実を認めた農政へと転換 -,18 世紀以降, 農村では商品作物の栽培を中心とする商業的農業がいちじるしく発展する さらに, 商品作物を農村内部で集荷 加工する動きも進む 手工業はもともと都市を中心に存在していたが, 農村の副業としても広く行われるようになったのである こうして都市向けの商品生産が拡大するにつれて, それぞれの地域の特性に応じた特産物が各地に生まれていく ( 全国的流通網の発達を背景とした社会的分業の進展 ) これが 17 世紀末から 19 世紀前半の間に生じた変化であり,19 世紀前半には文政金銀の鋳造で通貨流通量が増加したこともあいまって商品経済はさらに大きく発展していた ⑵ 農書には どのような農業の技術 知識 が紹介されているのか 問題文では, 宮崎安貞の 農業全書 について 中国の農書の影響を受けながらも, 実際の観察と経験にもとづく農業の知識を集大成したものと評価されている との説明がなされているだけで, 大蔵永常の 農具便利論 広益国産考 については説明がない しかし, 広益国産考 が商品作物の栽培法やその加工製造法について書かれた農書であることは知っているはずだから, 両者の違いは判断できるだろう 簡潔に言えば, 宮崎安貞の 農業全書 が 農業の知識を集大成 したものであるのに対し, 大蔵永常の 農具便利論 広益国産考 は農具や商品作物といった個別の技術を専門的に扱ったものである より具体的に説明すると, 次のようになる 農業全書 は新しい農業知識や栽培技術を集大成したもので, 小農経営に適応した集約農業の進め方を網羅的に紹介していたが, それをもとにしながら, 会津の 会津農書 や加賀の 耕稼春秋 など, 各地の農業の実情に応じた農書も多数刊行されるようになる そうして先進地域の農業知識 技術が各地に普及するなか, 先に確認したような都市向けの商品生産 - 商品作物の栽培 ( 商業的農業 ) や農村加工業 -が展開する それに対応して, 商品経済の進展に対応した農業経営のあり方, より効率よく収益を高めることのできる農業知識 技術が, 個別的かつ専門的に要求されるようになって
157 いく 大蔵永常の 農具便利論 や 広益国産考 は, そうした要求に応えるかたちで刊行され, 広く流布していったの である 解答例 17 世紀後半には小農経営が広範に成立し, 耕地拡大もほぼ限界に達したため, 農具の改良など労働の集約化が進展して農業生産力が向上する一方, 全国的な商品流通の発達や都市での需要拡大を背景として商品作物の栽培がさかんになった その結果,18 世紀以降, 稲作第一から商品経済の進展に対応した農業経営への転換が進んだ 第 4 問設問の要求は, ドイツ側の忠告に対し, 日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明すること ドイツ側の忠告は, 明治維新以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり, 日本がいま立憲政治を取り入れようとするのは必ずしも賢明なこととはいえない, というもの まず, ( 明治 15 16) 年という時代状況を確認しよう 伊藤博文が憲法調査のために渡欧したのは明治 14 年の政変後のことだが, まず, その政変の背景に注目しよう 自由民権運動の高揚 国会期成同盟 私擬憲法の作成 議会のあり方など憲法の内容をめぐる検討が政府の最優先事項となる イギリス型( 議院内閣制 ) の大隈とドイツ型 ( 強い君主権 ) の岩倉 伊藤らの対立 明治 14 年の政変 参議大隈重信の罷免 国会開設の勅諭 1890 年の国会開設を公約 欽定憲法の方針を明示 民間での憲法論議を封じ込める( 議会の組織 権限を政府主導で規定 ) つまり,1890 年の国会開設を公約した以上, 藩閥の政治的主導権を確保するには, それまでに欽定憲法を制定することが不可欠だったのである 次に, 同時期における他の諸政策を思い起こそう 松方正義大蔵卿の緊縮財政緊縮財政 紙幣整理により銀本位制確立をめざす (1882 年日本銀行の設立 ) 自由民権運動 激化事件 政府による徹底した弾圧 朝鮮で壬午軍乱 (1882 年 ) 甲申政変(1884 年 ) 清との緊張が高まる ( 1885 年の天津条約で関係改善 ) 井上馨外務卿の条約改正交渉領事裁判権の撤廃 ( 法権回復 ) をめざして条約改正の会議が開始されたのは 1886 年のことだが ( 翌 87 年に三大事件建白運動がおこる ), 外国要人接待の社交場として活用された鹿鳴館が竣工したのは 1882 年のこと これらのなかで憲法に関連するのは条約改正交渉 法権回復のためにも, 欧米にならった法治国家としての体裁を整えることが必要であった 解答例 各地で私擬憲法がつくられるなど自由民権運動が高まるなか, 藩閥の政治的主導権を確保するため, すでに国会開設の勅諭を発して明治二十三年の国会開設を公約し, 欽定憲法制定の方針を明示してしまっている それゆえ, 公約した国会開設の期日までに是が非でも憲法を制定する必要がある さらに, 旧幕府から継承した不平等条約の改正は明治維新以来の悲願であり, すでに井上馨外務卿のもとで領事裁判権の撤廃をめざして条約改正交渉に着手しており, そのためにも欧米諸国にならった法治国家の体裁を整える必要がある
158 1988 年度 第 1 問 律令制のもとでの郡司は, 政治的 社会的にどのような存在であったか 次のア エの文章を参考に して,7 行以内で述べよ ア他田日奉部直神護という人は, 自分の祖父も, 父も, 兄も下総国の郡司をつとめたので, 自分も郡司に任じてほしいと願い出た イ相模国のある郡司は, 貧しい人々に代って, 調 庸の布 700 端余り, 出挙の稲 l 万 1000 束余りを納め, また, 飢えに苦しむ人々に稲 5000 束余りを支給して, 表彰された ウ律令の規定では, 郡司は, 道路でその国の国司に出あった場合, 原則として馬から下りなげればならなかった 郡司の勤務成績は, 毎年国司によって判定され, 中央に報告された エ律令の規定では, 刑罰のうち最も軽い笞罪については, 郡司が執行することが認められていた 郡司はまた, 戸籍 計帳の作製や, 調 庸を都に運ぶ人夫の監督, 租や出挙の稲穀を納める正倉の管理などにもたずさわった
159 第 2 問 守護大名と戦国大名のちがいは, 室町幕府が戦国時代においても存続し, 戦国大名の多くか将軍から守護に任命され, みずから守護と称したこともあって, 形式的には必ずしも明瞭ではない 下記の文章は, 今川仮名目録 のなかの条文の一部を現代文に訳したものである ここで, 戦国大名今川氏は, みずから 守護 ( 使 ) 不入地 に対する位置づけの相違をとおして, 両者のちがいを明らかにしている これを中心にして, 守護大名と戦国大名のちがいを,6 行以内で述べよ もともと, 守護使不入 というのは, 将軍が全国の支配権をもち, 諸国の守護を任命していた時代のものである ( ところで, そのような政治体制のもとでは,) 守護使不入であるといつても,( 将軍から守謹使不入の特権を与えられた者が,) 不入地に対する将軍の干渉を拒否することはできないであろう ( それと同じ理屈で,) 現在は, 一般に ( 大名が,) 自分の力で国法を制定し, 領国内の秩序と平和を維持しているのであるから,( 大名が認めてやった守護使不入地に対し,) 大名の干渉をまったく許さないということは, あってはならないことなのである
160 第 3 問 1853( 嘉永 6) 年から 1899( 明治 32) 年に至る日米関係の変遷を 10 行以内で述べよ なお, 解 答文では下記の語句 ( 年次は省略してよい ) を少くとも 1 回は使用し, 最初に用いたところに下線を施せ 日米和親条約 (1854 年 ) 日米修好通商条約 (1858 年 ) 改税約書 (1866 年 ) 日米通商航海条約 (1894 年 )
161 解法の研究 第 1 問問われているのは, 律令制度のもとでの郡司が政治的 社会的にどのような存在であったか まず, 資料文ア エの内容を確認しておく ア事実上の世襲制 イ貧民や飢えに苦しむ人びとの保護 扶助を積極的に行った ウ国司に厳しく監督 統制をうけた エ地方行政の実務を担当した これらのうち, 資料文イの内容が最も把握しづらいだろう 郡司にはもと国造クラスの伝統的な地方豪族 ( 在地の豪族 ) が任じられ, 彼らは 農民に対する実質的な支配力 ( 山川 詳説日本史 ) を持っていたというが, その 実質的な支配力 の具体例が資料文イ いいかえれば, 地域の民衆たちの農業経営と租税負担能力を維持 保障することのできる力である それを基礎づけていたのは彼らが掌る神々の祭祀であり, 地方豪族たちは神々の祭祀を通じて地域の民衆を共同体秩序のもとに編成し, そのことによって民衆の農業経営と租税負担能力を保障 再生産していたのである こうした地方豪族の支配力があってはじめて律令制にもとづく地方支配が実現しえたのであるが, 郡司は国司に対して従属的地位におかれ, その厳しい監督 統制のもとにあった そのことによって律令政府は律令制原理の地方への徹底をはかったわけだが, 伝統的な地方豪族にしてみれば,6 世紀以降の有力農民の台頭という事態のなかでその支配力を低下させており, 律令国家 - 郡司という官職 -をよりどころとすることによって地域の民衆に対する実質的な支配力を確保しえたという側面も持っていたのである 解答例 郡司は, 民衆に対する実質的な支配力をもつ旧国造など在地の豪族から世襲的に登用され, 貧しい人々や飢えに苦しむ人々の保護など在地の相互扶助活動において指導的役割をはたした 中央から派遣される国司に対して従属的地位に置かれたものの, 戸籍 計帳の作製や調庸を都に運ぶ人夫の監督, 租や出挙の稲穀を納める正倉の管理など地方行政の実務にたずさわった このように律令制的地方支配は, 郡司による在地社会の把握に依拠して初めて機能した 第 2 問設問の要求は, 守護大名と戦国大名のちがい 条件として, 今川仮名目録における 守護 ( 使 ) 不入地 に対する位置づけを中心とすることが求められている 問題文に 戦国大名今川氏は, みずから 守護 ( 使 ) 不入地 に対する位置づけの相違をとおして, 両者のちがいを明らかにしている とある 守護使 ( 守護大名の派遣する役人 ) の介入を拒否できる 守護使不入地 が 今川仮名目録 ( 史料文 ) のなかでどのように位置づけられているのかを明確にしよう 守護大名は, その領国支配を実現するにあたって, 将軍から守護職に任じられることを不可欠な要素としており, 将軍の全国支配を背景として領国支配を実現していた つまり, 地域の最高権力者は守護大名ではなく将軍であった 史料文によれば, 守護使不入 の特権が有効なのは, そうした時代においてのことである そして, 守護使不入 とは守護大名の干渉を拒否できる特権でしかなく, その特権を付与した将軍権力の干渉は拒否することができない ところが, 戦国大名は自分の実力で領国 ( 分国 ) 支配を実現している つまり, 戦国大名が地域の最高権力者であり, あらゆる特権を付与する主体である 史料文でも, 自分の力で国法を制定し, 領国内の秩序と平和を維持しているのである と表現されている そうした段階では, 旧来の 守護使不入 という特権は有効ではなく, もし 不入 の特権が改めて認められたとしても, あらゆる特権を付与する主体である戦国大名の干渉を拒否することはできない つまり, 両者の違いは 守護使不入 という特権を許容するか否かにあるが, そのことは 守護使不入 という特権を
162 付与する主体 = 地域の最高権力を誰が掌握しているかをめぐる相違である なお, 戦国大名は城下町に新しく楽市を開設するだけではなく, 寺内町など, すでに楽市として存在していた市場や町 を対象としても楽市令を出し, これら既存の楽市の特権を保障している 同じ話である 解答例 守護大名は任国に対して地域的支配権を実現したものの, その権限は守護職への補任によって幕府から与えられたものであり, 幕府により設定された守護使不入地を否定することはできなかった しかし, 戦国大名は形式的には守護を称すことはあれ, 自己の実力で分国を形成しており, そのことを根拠に地域の最高権力を掌握し, 守護使不入などあらゆる特権を付与する主体であることを標榜した 第 3 問設問の要求は,1853( 嘉永 6) 年から 1899( 明治 32) 年に至る日米関係の変遷 条件として,4 つの指定語句を使用し, 最初に用いたところに下線を施すことが求められている 簡単そうに見えるが, 見た目以上に難しい どこが難しいかというと,- 指定語句でいえば- 日米和親条約 (1854 年 ) と日米修好通商条約 (1858 年 ) については, アメリカを主語にして記述できるのだが, それ以降について書こうとすると, 南北戦争がはじまるとアメリカが対日外交から後退してイギリスが対日外交を主導していくこともあって, アメリカと日本との関係を中心にすえて記述するのがなかなか難しくなる その点を意識していないと, 米国が南北戦争のため対日政策に消極的になると, 代わって英国が貿易の主導権を握り, 英公使パークスは改税約書を締結して税率を引き下げた (Z 会 ) や 幕末の貿易の中心は英国で, パークスは改税約書を締結して関税を大幅に引下げさせた ( 青本 ) のような文章を書いてしまう これでは, 改税約書の調印が日米関係とは関係のない出来事として記述されてしまい ( 改税約書の調印にはアメリカも関与している ), 設問の要求に適切に応えたことにはならない いくつかの段階で時期区分し, それぞれの特徴を明確化しよう ⑴ 対日外交を主導ペリー来航 北太平洋での捕鯨業の補給基地 中国貿易の中継基地を確保するために日本の開国を要求日米和親条約 日本との国交樹立に成功日米修好通商条約 不平等条約のもと日本を世界市場に包摂 ( 自由貿易体制に組み入れる ) ⑵ 南北戦争による後退 対日外交の主導権がイギリスに移るイギリスに追随 四国艦隊下関砲撃事件や改税約書 自由貿易体制の堅持 日本市場の欧米経済へのさらなる従属化を推進イギリスとの違い 条約改正交渉に友好的 岩倉遣外使節の交渉には応じなかったが, 寺島の協定関税撤廃交渉には応じる ( 日本市場をめぐる貿易上の利害関係が希薄だったことが背景 ) ⑶イギリスの日本接近 対等な外交関係への移行 日米通商航海条約 (1894 年調印 1899 年発効 ) なお, アメリカは 1898 年ハワイを併合, フィリピン群島を領有して太平洋地域に進出し,1899 年には中国を対象として門戸開放 機会均等主義を表明している 一方, 日本は 1895 年台湾を領有,1898 年清に福建省の不割譲を約束させるなど, 南進の動きを見せていた ( その延長線上に 1900 年北清事変に乗じた厦門占領の計画がある ) このように, 1899 年ころは中国 太平洋地域をめぐって日米関係が緊張する時代が幕をあけはじめたころである ただし, 日露戦後ほどの緊張状態は存在せず ( ハワイ併合をめぐって若干の軋轢は存在したが 対立 として特記するほどのものではない ), 教科書レベルでも日米関係の緊張は 日露戦後の南満州市場をめぐる対立 として初めて記述されるのが一般的なので, そこまで答案のなかに含める必要はない
163 解答例 アメリカは捕鯨や中国貿易の拠点を求めて日本に接近し, 日米和親条約で開国させ, 日米修好通商条約で不平等条約のもと世界市場へ強制的に編入するなど, 対日外交を主導した 南北戦争で後退した後は, 対日外交を主導したイギリスに追随して改税約書調印などに参加し, 不平等条約体制の維持 強化に努めた 明治維新後, 岩倉による条約改正予備交渉の打診には拒否の態度をとったが, 次第に好意的立場へと変化し, 寺島の税権回復交渉に応じる態度を示した その後, イギリスの対日姿勢の転換に伴い, アメリカも日米通商航海条約を調印して領事裁判権の撤廃 協定関税制の一部廃止を実現させ, その結果, 日米関係は対等な外交関係へ移行していった
164 1987 年度 第 1 問 弘仁 貞観期から摂関期にかけての文化の展開を, 文芸 宗教 生活などの各分野の動向に触れなが ら,7 行以内で述ベよ
165 第 2 問 下の文章とグラフを読み, 設問 A,B に答えよ 治承 4 年 (1180), 源頼朝が伊豆国に, 義仲が信濃国に兵を挙げた 早速, 平氏は追討使を東国に派遣するとともに, 奥州の藤原氏, 越後国の城氏と連絡をとり, 彼らに頼朝 義仲の追討を託した やがて城氏は信濃に入り, 義仲と戦って敗れるが, 以後, 東国は全くの戦乱状態に陥った 元暦元年 (1184) になると, 頼朝は北陸道にまで支配圏を伸ばし, 所々に鎌倉から地頭を送りこんでいった グラフは, 城氏の根拠地の一つであった摂関家の荘園, 越後国白河荘の作田数の変化を, 建久 8 年 (1197) に荘官が荘園領主ヘ提出した報告書から作成したものである 作田数とは, 荘園領主が年貢 公事を収納する基準となる田数のことで, 治承 4 年に限って報告のないのは, 城氏がすベて兵糧米にとってしまったからである 越後国白河荘の作田数の変化 設問 A 朝廷は治承 5 年に養和, 翌年に寿永と改元したが, 報告書では治承の年号がそのまま使われ ている それは何によると考えられるか 2 行以内で答えよ 設問 B グラフから荘園と東国武士団との関係を読みとり, そこに見出される武家政権の成立の意義 を考え,5 行以内で記せ
166 第 3 問 以下の江戸幕府法令を読み, その農民政策の基調と農民観とについて 5 行以内で述ベよ 1 寛永 20 年 3 月の代官に対する法令から一, 身上よき百姓は田地を買い取り, いよいよ宜しくなり, 身上成らざるものは田畑を沽却 ( 売却 ) せしめ, 猶々身上成るべからざるの間, 向後 ( 以後 ) 田畑売買は停止たるベき事 一, 身上ならざる百姓は, 諸代官精を入れ, 万事差し引き致すベし, その上にても続きがたきものには, 見合いに食物の類これを貸し, 身代もち立て侯ように念を入るベき事 2 慶安の御蝕書から一, 公儀御法度を恐れ, 地頭 ( 領主 ) 代官の事をおろかに ( おろそかに ) 存ぜず, さて又名主 組頭をば其の親と思うベき事 一, 耕作に精を入れ, 田畑の植えよう, 同じく拵えように念を入れ, 草はえざるように仕るべし, 草をよく取り, 切々作の間ヘ鍬入れを仕り候えば, 作もよく出来, 取り実も多くこれ有り 付けたり, 田畑の境に大豆 小豆など植え, 少々足りにも仕るベき事 一, 朝おきを致し, 朝草を刈り, 昼は田畑耕作にかかり, 晩には縄をない, 俵をあみ, 何にても, それぞの仕事, 油断なく仕るベき事 一, 家主 子供 下人等迄, ふだんは成程 ( でざるだけ ) 粗飯を食うベし 但し, 田畑をおこし, 田をうえ, いねを刈り, 一入ほねおり申す時分は, ふだんより少し食物をよく仕り, たくさんに食わせ, つかい申すべく候 その心づけあれぱ, 精を出すものに候事 年貢さヘすまし候ヘば, 百姓ほど心やすきものはこれ無し よくよくこの趣をこころがけ, 子々孫々まで申し伝え, よくよく身持ちをかせぎ申すべきもの也
167 第 4 問 第一次大戦の際の日本をめぐる国際環境と第二次大戦の際のそれとを比較し, その相違点を,5 行以 内で述ベよ
168 解法の研究 第 1 問設問の要求は, 弘仁 貞観期から摂関期にかけての文化の展開 条件として, 文芸 宗教 生活などの各分野の動向に触れることが求められている まず弘仁 貞観期と摂関期 (10 世紀半ば以降 ) の違いから確認しよう 弘仁 貞観期の文化 ( 弘仁 貞観文化 ) 文芸漢詩文がさかん ( 貴族 官人の教養として漢詩文の素養が重視された ) 宗教天台宗 真言宗という修行を重視する新仏教が伝来 密教 生活それまでの風習に多くの唐風の儀礼を取りいれて宮廷の儀礼が整備された摂関期の文化 ( 国風文化 ) 文芸かな文字の確立 和歌 かな物語が隆盛 宗教極楽浄土への往生を求める浄土教 ( 浄土信仰 ) が普及 生活宮廷では年中行事が発達し, 貴族はタブー ( 禁忌 ) にしばられた生活を送った 寝殿造 ( 白木造と桧皮葺 ) 服装の和風化 ただし, このような単純な対比で終わってしまっては, 答案としては不十分だろう 第一に, 設問では 文化の展開 が求められている 弘仁 貞観文化と国風文化を対比して相違点を指摘にするだけでなく, 連続している点 ( 継承 発展という側面 ) についても記述することができるかどうかがポイントとなる 文芸漢詩文は摂関期においても貴族の教養として重視され, 勅撰漢詩文集こそ編纂されなかったが, 和漢朗詠集 などが編纂されている また, 古今和歌集 は漢詩の形式にならいつつ和歌の形式を確立しようとする目的意識から編まれたものだとされ, 源氏物語 にしても 白氏文集 に対する教養が1つのベースになっていると言われる つまり, 漢詩文の教養を基礎として, その吸収のうえにたって文化の国風化が進んだのである 宗教天台 真言の顕密仏教は摂関期においても鎮護国家の仏教としての役割を果たすと共に, 現世利益をもたらすものとして皇族 貴族の尊崇を集め, その勢力をのばしていった また奈良時代以来の神仏習合がいっそう強まり, 日本の神は仏が仮に姿をかえて現われたものとする本地垂迹説が唱えられるようにもなった 生活弘仁 貞観期以降, 天皇を中心とする貴族社会の秩序維持のために儀礼が導入 整備されていった結果が, 摂関期における年中行事の発達であり, タブー ( 禁忌 ) の肥大化であった 第二に, 上記のような違いが生じるに至った背景を明確にする必要がある 国風文化形成の背景を, 遣唐使廃止 大陸文化の影響が減少 文化の国風化 という図式で理解している受験生が多いのではないかと思うが, 遣唐使が廃止されたからといって大陸文化の流入 大陸からの直接の影響が減少するわけではない 遣唐使が廃止されたのは,⑴ 唐の混乱 衰退,⑵ 朝廷の財政難とともに,⑶9 世紀ころから唐や新羅の民間商人が九州に盛んに来航して大陸の文物 ( 唐物と称された ) を今まで以上にもたらすようになっていたことが原因であった つまり, 大陸の文物が流入しなくなったから文化の国風化が進んだのではなく, 大陸の文物がさかんに流入するという状況のもとで文化の国風化が進んでいたのである では, 文化の国風化が進んだ背景はなにか 一つには, 唐の衰退 = 東アジアにおける唐を頂点とした国際的な政治秩序の崩壊と, そのなかでの周辺諸民族の自立化 その日本における発現形態の1つが, かな文字の確立に象徴される文化の国風化であった 二つには, 律令国家 貴族社会の変質 律令国家の再編過程のなかで, 貴族社会の編成原理が官僚制原理から天皇との私的関係へと変質していったこと 弘仁 貞観期 ( つまり平安前期 ) は律令国家の再編が進んだ時期であるが, その時期は天皇が強い権力をにぎって貴族をおさえ, 律令制原理の徹底 ( 中国化の徹底 ) が進められた時代であった
169 もともと日本の律令国家は, 法 ( 律令 ) による支配が導入されていたものの, 貴族社会や地方豪族のもとでの在地社会の秩序維持を神話 ( 神々の信仰 ) に依存していた そのための措置が神祇官の設置であり, 天皇家の神話を軸とする諸神話の統合 ( 日本書紀 や 風土記 の編纂) であった ところが,8 世紀半ばころから神話 ( 神々の信仰 ) にもとづく社会秩序は動揺を迎える その象徴が, 飢饉 疫病に直面して昂じた仏教の鎮護国家思想であり, 国分寺 大仏造立事業の展開である それらは, もはや神話 ( 神々の信仰 ) では社会秩序の維持が果たせず, 仏教にその役割を期待する時代が訪れていたことを示している そうしたなかで桓武天皇以降, 法 ( 律令格式 ) による支配がさらに徹底される一方, 儀礼による秩序維持がしだいに重視されるようになる 弘仁 貞観 延喜 3 代にわたる格式の編纂, 令義解の編纂が進み, さらに貴族 官人に対して漢詩文や歴史の教養が強く求められていく一方で, 弘仁 貞観 延喜 3 代の儀式 ( 朝廷の礼儀作法やその次第を規定した書 ) の編纂を経て, 宮廷の儀礼が形成されていったのだ 注こうした儀礼の整備とは, いわば天皇が 神 にかわって現実世界を操作しようとする過程であり, タブー ( 禁忌 ) をフィクション化して観念的操作の対象とし, 社会の秩序維持を図ろうとする過程である ( フィクションにより天皇の身体 内裏 - 京という空間を浄化させていく ) ところが, 天皇への権力集中をともないながら律令国家の再編がすすめられた平安前期は, 天皇が検非違使庁や蔵人所を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになっていく過程であり (1989 年度第 1 問を参照 ), それゆえに貴族社会の編成原理が官僚制原理から次第に天皇との私的関係 ( 個人的な結びつき ) へと変質していく過程でもあった いわば公 ( 漢文 ) への私 ( かな ) の浸透という事態 中国化の延長としての脱中国化, それが文化の国風化だった 解答例 唐を中心とする国際秩序が解体し, 国内では律令国家が変質して貴族社会が成熟するなか, 唐風文化の吸収の上に文化の国風化が進んだ 文芸では漢詩文の教養が重視される一方, かな文字の確立を背景に和歌などかな文学が隆盛した 宗教では密教が現世利益をもとめる貴族に普及する一方, 神仏習合が進み, さらにケガレ忌避意識が肥大化するなかで新たに浄土信仰が広がった 生活では貴族の住宅が和風の寝殿造へ変化し, 服装や調度品などの和風化も進んだ 第 2 問設問 A 設問の要求は, 朝廷が治承 5 年に養和, 翌年に寿永と改元したにもかかわらず, 報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由 問題文によれば, 報告書は 建久 8 年 (1197) に荘官が荘園領主ヘ提出した ものであり, 元暦元年 (1184) 以降, 源頼朝が 北陸道にまで支配圏を伸ばし, 所々に鎌倉から地頭を送りこんで いる ということは, 報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ, 源頼朝の支配下にあることがわかるし ( 十月宣旨で東山 東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡 (1184 年 ) にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう ), 報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる つまり, 朝廷が治承 5 年に養和, 翌年に寿永と改元した 当時に, 越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては, 考慮する必要はない 朝廷が制定した年号を使用しないこと, または別の年号を使用することは, 朝廷の支配に服さず, そこから独立することを意味する 源頼朝は以仁王の令旨に応じ, 安徳天皇を擁する朝廷に対して反乱を起こしているのだから, 朝廷による改元 ( 年号の変更 ) を認めるわけはない なお, 平氏の都落ちにともなって京都では後鳥羽天皇が即位し, その朝廷との間で和解を果たした源頼朝は, 後鳥羽天皇を擁する朝廷が用いる年号を使用するようになる 設問 B 設問の要求は,⑴グラフから荘園と東国武士団との関係を読みとること,⑵そこに見出される武家政権の成立の意義 まず東国武士が荘園公領制における職の秩序のなかでどのような位置を占めていたかを考える
170 彼らは開発領主層であり, 荘園では荘官, 公領では郡司 郷司 保司として, 現地の管理 年貢の徴収と荘園領主や国司への納入をにない, その職務にみあった収益を得ていた ( 荘官職や郡司 郷司 保司職を保持していた ) つまり, 荘園や公領 ( 郡 郷 保 ) は, 東国武士の生活基盤であるとともに, 武士団を養うための経済基盤であった したがって戦乱により荘園領主 国司の支配力が後退すると, それに乗じて支配権 収益の拡大をめざし, 兵糧米と称して荘園 公領の年貢 公事を横領することもあったのである ( 荘園公領制下の職の秩序そのものの否定にまで及ぶことがあったということ ) グラフの作田数が治承 3 年以降, 文治 1 年ころまで徐々に減少していることが, そのことを示している 次に, 地頭がどういうものであったかを確認しよう 治承 寿永の内乱のなかで源頼朝により設置された地頭 ( 荘郷地頭 ) とは, 頼朝反乱軍に参陣した東国武士たちにその所領の支配権 ( 荘官職や郡司 郷司 保司職 ) を保証する ( 本領安堵 ) とともに, 敵方武士の所領を軍事占領してそこから収益を得ることを公認する ( 新恩給与 ) という制度であった 荘園領主や国司ではなく源頼朝によって荘園 公領での職を保証されたということは, 職の補任権が荘園領主や国司から源頼朝へと移ったことを意味しており, 上述のような職の秩序そのものの否定にまで及びかねない東国武士の利害と行動を一定程度保証するものであった こうした地頭は, 反乱当初は源頼朝が独自に補任していたが, 朝廷から十月宣旨 (1183 年 ) をえて東山 東海道の荘園 公領の維持 年貢徴収を任されて ( これが支配権を獲得したことの実態 ) 以降 翌 84 年源義仲滅亡で北陸道の支配権も獲得, 東国では朝廷公認のものとなっていく それにともなって地頭は, 荘園領主や国司の荘園 公領支配を支え, 荘園領主や国司による年貢収取を保証するという役割を強く求められるようになる 北陸道が源頼朝の支配下に入った元暦 1 年以降 ( 翌文治 1 年は減少しているものの ) 次第に作田数が復活していることが, そのことを裏付けている つまり, 東国武士の利害を一定程度まで貫徹させつつも, 同時に, 荘園公領制の職の秩序そのものの否定にまで及んだ彼らの行動を抑制して荘園公領制の枠内におさえ, 荘園公領制 ( 職の秩序 ) の安定を図ろうとするもの それが地頭という制度であった 解答例 A 源頼朝は以仁王の令旨に応じ, 安徳天皇を擁する朝廷に対して反乱を起こしていたため, 安徳天皇のもとでの改元を認めなかった B 東国武士団は本所から荘官に任じられていたが, 治承 寿永の乱に乗じて年貢横領など荘園侵略を進めた 頼朝は彼らを御家人に組織して武家政権を樹立し, 彼らを地頭に補任すると共に本所への年貢納入を義務づけた その結果, 東国武士団の在地領主権が保障される一方, 彼らの侵略行為は抑制され, 荘園制の安定が確保された 第 3 問設問の要求は, 江戸幕府の⑴ 農民政策の基調 ( 農民政策の根底にある基本的な考え方 ),⑵ 農民観 ( 農民をどのような存在とみなしていたか ) 参考資料としてあげられている史料が田畑永代売買の禁令と慶安の触書であることはすぐに判断できると思うが ( 後者は明記してある ), まずは先入観にとらわれることなく史料の内容を把握しよう 1 寛永 20 年 3 月の代官に対する法令 身上よき百姓 と 身上成らざるもの の階層差が激しくなるのを防ぐために田畑永代売買を禁止するとともに, 身上ならざる百姓 に対する保護を代官に命じている 2 慶安の触書封建領主 村役人への服従を説くとともに, 農業や食生活に至るまで生活の細部にわたって規制を加えている ( 耕作効率の向上や勤労 倹約を強調 ) これらの内容把握をふまえて, 農民政策の基調 ( 基本的な考え方 ) と農民観を確認しよう 農民政策の基調小農経営の安定をはかる 模範的な農業経営のあり方を提示
171 階層分化の抑制 必要最小限の生活を保障代官 村役人を通じて政策的にそれを実現させようとしている農民観年貢負担者として重視 = 幕藩体制の基礎 解答例 小農民を検地帳に登録して土地の保持 耕作権を保障し, 年貢負担者として確定した太閤検地以来の政策を継承し, 江戸幕府は小農経営による本百姓を幕藩体制の基礎として重視した そのため, 田畑の売買を禁止して階層分化を抑制し, 模範的な農業経営のあり方を示して生活の細部にまで規制を加え, 小農経営の維持を図った 第 4 問設問の要求は, 第一次大戦の際の日本をめぐる国際環境と第二次大戦の際の国際環境の相違点 第一次 第二次大戦ともに, 日本と密接な関係をもった諸国はイギリス ロシア ( ソ連 ) ドイツ アメリカ 中国の五か国である まず諸外国との関係を整理しよう 第一次大戦 第二次大戦 イギリス日英同盟で提携 ( 参戦の口実 ) 交戦相手 ロシア ( ソ連 ) 日露協約で提携はじめ日ソ中立条約で提携 のち戦争相手 ドイツ交戦相手日独伊三国軍事同盟で提携 アメリカ次第に対立激化交戦相手 日本占領の主力 中国日本は権益拡大をねらう 反日運動それ以前から日中戦争が展開 これら諸国との関係をできる限り答案のなかに盛り込みたいが, ただ羅列しただけでは 日本をめぐる国際環境, とりわけ日本が両大戦に参加するにいたった背景は説明できない 両大戦とも中国侵略が参戦の動機だったのだから, その点を軸にして答案を作成するとよい なお, 英仏と独との対立がヨーロッパでの両大戦勃発の背景なので, それを含めて答案を作成するという方法もあるが, それにしても日本の参戦動機となった利害関係を明確化することを忘れないように また, 設問では 大戦の際の日本をめぐる国際環境 としか書かれておらず, 参戦の背景 あるいは 参戦にあたっての国際環境 とは限定されていない その意味では, できれば大戦中のできごとや結果についても, 日本をめぐる国際環境の変化 という文脈に関連する限りで記述しておきたいところだ 解答例 第一次大戦では中国での権益拡大の好機と判断して日英同盟を口実に対独参戦し, ロシアとの提携を強化しながら中国侵略を進めた結果, アメリカとの対立 中国民衆の反日民族運動を惹起した 第二次大戦では, 中国との戦争を打開するために日独伊三国軍事同盟 日ソ中立条約をもとにイギリス アメリカと開戦したが敗北した
172 1986 年度 第 1 問 1 世紀から 8 世紀にかけては, 日本の古代国家の形成の時期である この時期における文字の受容と 使用の発展について,10 行以内で述べよ なお, その際,⑴ 国際関係における文字の受容と利用,⑵ 国内統治における文字の利用を考慮すること
173 第 2 問 下の文章を読み, 設問 A,B に答えよ 応永 35 年 (1428) 正月, 将軍足利義持が跡継ぎを定めないままなくなると, すでに仏門に入っていた弟の一人 ( 後の義教 ) が後継者に定められ, 直ちに還俗して, 幕府の首長としての政務を行なった 前年からの飢饉に加え, 悪性の伝染病が流行して多くの死者が出たので, ながく続いてきた応永の年号も改められて, 四月から正長元年となつた 七月には称光天皇がなくなり, 後花園天皇が跡を継いだ その八月に近江で馬借が徳政をもとめて蜂起し, たちまち京都 奈良にも波及した 興福寺の大乗院の門跡の日記の九月の条には, 一天下の土民蜂起す 徳政と号し, 酒屋 土倉 寺院等を破却せしめ, 雑物等恣にこれを取り, 借銭等ことごとくこれを破る 日本開白以来, 土民蜂起これ初めなり とあり, 奈良の春日神社の神官の日記も, 京都での蜂起を記したあと, コレヲハジメテ, 伊賀 伊勢 宇陀 吉野 紀伊国 和泉国 河内 堺, 惣ジテ日本国ノコリナク御徳政ナリ 当国ニモ里別ニ徳政ヲカル ( 施行される ) ナリ と記している また奈艮市柳生の峠口の, 地蔵尊を彫りこんだ巨石の一部には, 正長元年ヨリサキ者, カノべ四カンガウ ( 神戸四カ郷, 春日社領の大和国大柳生 坂原 小柳生 邑地のこと ) ニフヰメ ( 負目, 負債 ) アルべカラズ と正長元年の徳政の実施をつたえる碑文がきざみこまれている A この時の徳政が非常に広汎なものとなった背景には, どのような事情が考えられるか 箇条書にして3カ条以上,4 行以内で答えよ B この時の徳政と永仁の徳政令の場合との相違点について2 行以内で述べよ
174 第 3 問 次の文章は, 式亭三馬作 浮世風呂 序言の一部を読みやすく書き改めたものである これを読んで, 下記の設問に答えよ つらつ鑑みるに, 銭湯ほど近道の教えなるは無し その故如何となれば, 賢愚 邪正 貧福 貴賤, 湯を浴びんとて裸形になるは, 天地自然の道理, 釈迦も孔子も,⑴おさんも権助も, 生まれたままの姿にて, 惜しい欲しいも西の海, さらりと無欲の形なり, 欲垢と煩悩と, 洗い清めて,⑵ 陸湯を浴びれば,⑶ 旦那様も折助も, どれかどれやら同じ裸体 ( 中略 ) 色好みの若い者も, 裸になれば, 前をおさえて, おのれから恥を知り, 猛き武士の, 頭から湯をかけられても, 人込みじゃと堪忍を守り, 目に見えぬ鬼神を片碗に彫りたる侠客も, ごめんなさいと⑷ 石榴口にかがむは銭湯の徳ならずや 心ある人に私あれとも, 心なき湯に私なし たとえば, 人, 密かに湯の中にて撒屁をすれば, 湯はぶくぶくと鳴りて, たちまち泡を浮み出す ( 中略 ) 湯の中の人として, 湯の思わくをも恥ざらめや すペて, 銭湯に⑸ 五常の道あり 注 ⑴ 下女も下男も ⑵ 体を洗う湯 ⑶ 武士もその下男も ⑷ 湯ぶねへの入口で, 体をかがめて出入する ⑸ 儒教でいう, 仁 義 礼 智 信 設問銭湯 ( 公衆浴場 ) こそ, 五常の道が守られる場であるという, 三馬の上のような主張は, 厳しい身分制度のもとにあった, 当時の社会的状況のなかで, どのような意味を持つと考えられるか 5 行以内で述べよ
175 第 4 問 明治維新で成立した政府にとって, 幕末に欧米諸国との間で結ばれた不平等条約の改正は, 最大の課題の一つであった そのため明治初年以来, さまざまな努力と交渉をくり返してきたが, なかなか成果をあげることができなかった しかし最大の難関であったイギリスが, 条約改正に応じる態度を示すようになったので,1894( 明治 27) 年, 政府は領事裁判権の撤廃と税権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の調印に成功し, ついで各国とも同様の新条約を結んだ 日本が条約改正を達成できたのはなぜか イギリス側の事情も考慮して4 行以内で述べよ
176 解法の研究 第 1 問設問の要求は,1 8 世紀における文字の受容と使用の発展 条件として,⑴ 国際関係における文字の受容と利用,⑵ 国内統治における文字の利用を考慮することが求められている ここでは 文字 = 漢字 であることはすぐにわかるだろう そして, 漢字がもともと中国で使われていた文字であることを考えれば, 条件 ⑴の 国際関係 とは中国との関係が主であることがわかる というわけで, まず中国との交渉のなかで文字 = 漢字がどのように受容され利用されたかを考えてみよう とはいえ, 朝鮮諸国も倭と同様に ( いや倭以上に ) 中国とさかんに交渉をもち, 漢字文化圏の一部を構成したこと, そして, 倭は中国以上に朝鮮諸国 ( とりわけ百済 ) と密接な関係をもっていたことを念頭におくならば, 条件 ⑴の 国際関係 には朝鮮諸国との関係も含まれていることに気づくはずである 中国との交渉だけではなく, 朝鮮諸国との交渉のなかで文字 = 漢字がどのように受容され利用されたかも考えなければならない 中国との関係 1 世紀奴国王が後漢に朝貢 光武帝から印綬 ( 漢委奴国王 印) を授与される 2 世紀倭国王帥升が後漢に生口を献上 3 世紀邪馬台国連合の女王卑弥呼が魏に朝貢 親魏倭王 の称号を授与される 5 世紀倭の五王が南朝宋に朝貢 ( 倭武は上表文を提出 ) 冊封を受ける 7 世紀遣隋使 遣唐使 ( 8 世紀 ) 朝鮮諸国との関係 4 世紀七支刀 百済から贈られたもの 漢字の銘文が刻まれている 5 世紀渡来人の阿知使主 王仁 文筆を伝える 6 世紀百済から儒教や仏教が伝えられる 7 世紀滅亡した百済から大量の渡来人 7 8 世紀新羅との間で使節の往来次に条件 ⑵ 国内統治 といったとき, 何が思い浮かぶか まず国内における文字 ( 漢字 ) の使用例をピックアップしてみるとよい そのうえで, どのような形で文字 = 漢字が使用されたのかを整理していこう 5 6 世紀 稲荷山古墳鉄剣銘 江田船山古墳大刀銘 隅田八幡神社人物画像鏡銘など ( 日本語の発音を漢字の音をつかって表記 ) 東漢氏 ( 阿知使主 ) 西文氏( 王仁 ) 大和政権のもとで文筆担当 ( 外交文書の作成や出納など ) 7 世紀 律令の導入 律令そのものが漢字表記 戸籍や計帳の作成で漢字使用 中央と地方の情報伝達は文書で行なわれる木簡 調庸の荷札などに使用 ( 評 の存在が確認された藤原宮出土の木簡など) 8 世紀 漢字の使用が定着 歴史書 地誌の編纂や漢詩文の普及 万葉仮名 解答例 1 世紀以降, 日本は中国を頂点とする冊封体制下に入り, 漢字文化圏に包摂された 同じ漢字文化圏に属した朝鮮諸国とも密接に交流し,5 世紀に朝鮮から多くの渡来人が移住してくると, 大和政権は彼らを品部に組織して外交文書の作成や出納など文筆を担当させた その結果, 倭王武が中国南朝の宋へ上表文を提出するなどで文字使用が本格化し, 日本の地名や人名を漢字の音を使って表記することも行われ始めた 7 世紀には遣隋使 遣唐使が派遣され, さらに律令制度の導入にともなって戸籍が全国的に作成され, 中央と地方の情報伝達も文書で行われたため, 文字使用が大きく普及した そして8 世紀には万葉仮名が創出され, 文字使用が定着していった
177 第 2 問 A 設問の要求は, 正長元年 (1428) の徳政が非常に広汎なものとなった背景 (3つ以上) 問題文で引用されている史料からわかるように, この時の徳政は土民蜂起 = 土一揆のもとで実施されたものである そのことを考慮に入れれば, この設問の要求は, 1428 年に徳政を掲げた土一揆が畿内近国で広く発生した背景 と読みかえることができる そして, 設問の要求に含まれているポイントは次の3つ 1なぜ 1428 年か 2なぜ徳政という要求が広汎な人びとによって掲げられたのか 3なぜ土一揆が広く発生したのか このうち2と3はオーソドックスなテーマ 2について 徳政 とは 負債の破棄 であり, 酒屋 土倉 寺院などの高利貸業者の活動がさかんになり, 農村での経済発達を背景として農村へもその活動が浸透していたことが背景 3について 畿内近国では, 農業発達を背景として小農民の自立化が進み, 名主と小農民を構成員として自治村落である惣 ( 惣村 ) が形成され, さらに荘園 公領の枠 ( つまり領主の違い ) を超えて広く結びつくようになっていた そのことが土一揆の基盤であった さて,1については問題文からデータを読み取ろう 問題文によれば, 正長の土一揆がおこった 1428 年 8 月の直前には 将軍足利義持が死去 義教が新たに幕府の首長としての政務を行なった 称光天皇が死去 後花園天皇が跡を継いだ 前年からの飢饉に加え, 悪性の伝染病が流行して多くの死者が出た 年号を改めたここからわかることは, 将軍 ( 幕府の首長 ) も天皇もともに代替りが行なわれたこと, 飢饉や伝染病の流行により社会不安が広がっており, それからの解放を願って年号改正が行なわれたこと, の2 点である これらのことが 徳政 を求める気運が引き出していたといえる B 設問の要求は, 正長元年の徳政と永仁の徳政令の場合との相違点 永仁の徳政令は, 窮乏した御家人の救済を目的として鎌倉幕府が発令したもので, 適用対象は御家人に限られていた 正長元年の徳政は, 土民蜂起 ( 土一揆 ) の実力を背景として徳政が実施された そして土民らは室町幕府に対して徳政令の発布を求めたが, 幕府は徳政禁制を出した ( 徳政を承認しなかった ) 売却 質入所領の無償返還か負債の破棄かという相違があるが, 金銭貸借関係をなかったことにするという点では共通しており, 無視してよい ところが, 徳政実施の主体や適用対象, 幕府の対応が大きく相違している 字数が2 行と短いので, それら相違点をコンパクトに記述する必要がある 解答例 A 自治村落である惣村を基盤として農民が階層や地域の違いをこえて結束を強めていた 高利貸業者への借金が農民や運送業者たちの生活をおびやかしていた 将軍 天皇が代替りし, 飢饉や疫病にともなう社会不安からの解放を願って年号改正が行われた B 永仁の徳政令は幕府が御家人救済策として実施したのに対し, この時の徳政は土民が幕府の承認なく実力行動により自ら実現させた 第 3 問設問の要求は, 銭湯こそ五常の道が守られる場であるとの式亭三馬の主張が, 厳しい身分制度下の社会的状況のなかで持った意味 ここで注意しておきたいのは, 銭湯がもった意味 ではなく 式亭三馬の主張がもった意味 が問われてい
178 ることである 読み間違えないようにしよう まずは, 五常の道 とは何なのか 注 ⑸によれば 儒教でいう, 仁 義 礼 智 信 儒教 とあるところから, それが身分制度維持のための支配イデオロギー = 守るべきものとして推奨された社会的規範であることは想像がつくだろう 身分序列を重視し, 分に応じた思想 行動を強制する道徳規範である 次に, 式亭三馬作 浮世風呂 とはどのようなジャンルの読み物で, どのような人びとを読者層としていたのか ジャンルは滑稽本 田沼期の洒落本が粋や通を扱ったのに対し, 滑稽本は野暮な世界に生きる庶民の生活を滑稽な笑いとともに軽妙なタッチで描いた 江戸の中下層の庶民が主な読者層であった 式亭三馬が活躍したのは文化 文政期だが, 最後にその 当時の社会的状況 を中下層の庶民に即して確認しよう すでに 18 世紀後半以降, 経済発達を背景として江戸などの都市では商家の奉公人が増加し, また農村から出稼ぎ農民や無宿などが流入し, 中下層の庶民が増加していた その結果, 家持町人を中心とする比較的均質な構成をもった町の共同体秩序が動揺していた もともと近世身分社会の単位は村 町といった社会集団 ( 共同体 ) であり, 村や町の共同体秩序が弛緩することは身分制の動揺を意味していた だからこそ幕藩領主は, 身分制度維持のため社会的規範として五常の道 = 儒教道徳をいっそう強調して分限 ( 分際 ) をわきまえることを民衆に求めたのである ここでもう一度, 最初で確認した点に戻ろう 式亭三馬は 浮世風呂 序言のなかで, 銭湯では五常の道が実現されていると説いているのだが, 幕藩領主から言われずとも銭湯では実現しているぞ と支配イデオロギー = 社会的規範を茶化しているわけである 社会的規範にとらわれた日常生活をすごす中下層の庶民に一種の清涼感を与えたことだろう 解答例 18 世紀後半以降, 江戸では経済発達を背景として中下層の庶民が増加し, 町人社会の階層構成が変動して身分秩序が動揺していた そうした状況下, 庶民生活の場たる銭湯でこそ為政者が身分秩序維持のために強調する五常の道が実現しているという三馬の主張は, 身分社会の規範意識を相対化させ, 中下層の庶民に清涼感を与えた 第 4 問問われているのは, 日本が条約改正 (1894 年の第一次条約改正 ) を達成できた理由 条件として, イギリス側の事情も考慮することが求められている 条件として イギリス側の事情も考慮する ことが挙げられているからといって, イギリス側の事情だけで答案を構成しようとしてはダメだ そもそも イギリス側の事情 も であって イギリス側の事情 を ではない 日本側の事情を説明することも忘れてはならない まず, 井上案や大隈案が領事裁判権撤廃の条件として外人判事の任用を挙げられていたにもかかわらず,1894 年の条約改正では無条件で領事裁判権が撤廃されていることに注意したい 1880 年代後半の条約改正交渉で 外人判事の任用 が求められたということがどういうことを意味するのかを考えてみよう そのためには, 領事裁判権がどういうもので, 領事裁判権が撤廃されるとどうなるのかを意識しておくことが必要である 領事裁判権は, 日本人に対して犯罪を犯した外国人 ( たとえばイギリス人 ) が自国 ( たとえばイギリス ) の裁判所で自国の法律により裁かれるというもので, 日本の法律にもとづく日本の裁判所での裁判に服さないということである つまり, 欧米諸国が領事裁判権を手放そうとしなかったということは, 日本の法律も裁判所も信用していなかった ( 欧米の基準からみて野蛮なものと判断してた ) ということである さらに, 領事裁判権は撤廃しても裁判所への外人判事の任用が規定されるということは, 日本の法律の内容は尊重しても, 日本人によるその運用 ( 裁判 ) は信用しないということである ところが,1894 年の条約改正では領事裁判権は無条件に撤廃された そのことは, 欧米諸国が日本の法律の内容 運用ともに欧米なみのもの ( 欧米の基準にかなったもの ) と評価する 信用するということを意味していた 1890 年前後には, 欧米にならう形で憲法を中心とする諸法典が整備されていったが, それに対する欧米諸国の評価の結果であった さらに,
179 1891 年の大津事件をめぐる裁判で, 裁判所が政府の政治的介入を排除して司法権の独立を示し, 罪刑法定主義の原則を守る姿勢を示したことも, 法の運用に対する信用を確保する上では大きな効果をもった つまり, 欧米なみの法治国家として確立したことが無条件での領事裁判権の撤廃を実現させた背景の一つであった 次に,1894 年に条約改正 ( 第一次 ) が達成されたことの背景を確認しよう 言い換えれば, イギリスは青木周蔵外相時代 (1890 年ころ ) から条約改正に応じる態度を示すようになっていたが, その背景は何か これが条件で求められている イギリス側の事情 である その背景は, 東アジアにおけるロシアとの対立の顕在化である その第一弾が, 年のイギリスによる巨文島占領事件 朝鮮半島南海岸と済州島のほぼ中間にある巨文島を軍事占領することで, 極東ロシアの海軍拠点ウラジオストックに対抗しようとしたのだが, アフガニスタンをめぐってロシアとの軍事的緊張が高まっていたこと, 日清間の天津条約により日清両国軍が朝鮮から撤退すると, 清からの自立をめざす朝鮮政府がロシアへの接近をはかったことが原因であった そして第二弾が,1891 年ロシアがシベリア鉄道建設に着手したことである ( 日露開戦直後の 1904 年 9 月に東清鉄道経由でシベリア鉄道が完成 ) それにより極東ロシアの防衛が強化され, ロシアの東アジア進出が本格化することをイギリスは強く警戒するようになったのである そして, こうした情勢のなか, イギリスはロシアの南下に対する防壁としての役割を日本に期待するようになり, それゆえ条約改正に応じるようになったのである 解答例 日本は憲法を中心とする諸法典を整備して議会も開設し, 欧米にならった法治国家の体制を整えていた その上, 最大の難関であったイギリスが, ロシアのシベリア鉄道起工による極東進出を警戒し, ロシアへの防壁としての役割を求めて日本に好意的になった
180 1985 年度 第 1 問 7 世紀から 9 世紀にかけて, 朝廷は, 遣隋使や遣唐使を派遣した この派遣によってもたらされたも のは, 当時の日本の政治および文化にどのような影響を与えたか 10 行以内で述べよ
181 第 2 問 下記の文章は, 鎌倉幕府の執権北条泰時が行った裁判についての説話である この文章から知ること のできる, この時代の武士社会の特質について,6 行以内で述べよ 鎮西に, ある国の地頭, 世間不調にして ( 世渡りの才なく ), 所領を分ち売りけるを, 嫡子なりける者の, 世間賢く貧しからぬ者にて, この所領を買ひて, 父に知らせけること ( 領有させること ), 度々になりぬ さて, かの父死して後, かの嫡子には譲らずして, 次男にさなから跡を ( 全部の遺領を ) 譲りけり 嫡子鎌倉にのぼりて訴訟す 弟召しのぼせて対決におよぶ この事ともにその謂れあり 兄不便に思はれけれども, 弟譲文を手に握りて申しあぐ 押しても成敗なくして ( 直ちには判決せずに ), 明法の家ヘ尋ねらる 法家に勘じ申さく ( 法曹官僚が答申するには ), もと嫡子たり また奉公ありといヘども, 子として父につかうるは, 孝養の義なり 奉公は他人にとりての事なり しからば父にすでに子細あればこそ, 弟に譲り候けめ されば弟が申すところ, その道理あり と申しける上は, 弟安堵の下文 ( 相続承認の公文書 ) 給はりて下りにけり
182 第 3 問 下の文章を読み, 設問 A,B に答えよ その国民がどのくらい読み書き能力を持っているかということは, その国が近代化を遂行するに当たって大きな要因となる 日本の場合, 徳川三百年の平和の中で, 寺子屋などによる庶民教育の普及が行われ, 幕末の段階で識字率 30% に達したといわれる これは当時の世界の水準としては極めて高いものであった 儒学を中心とした学問も徐々に武士や豪農 豪商に広がっていた 明治維新以後の欧米風の教育の急速な普及はこうした土台の上に達成された 以後今日まで, 初等, 中等, 高等の各レベルの教育とも, 一貫してその普及の度を高めて来た A 近世の豪農はなぜ学問を必要としたのか 彼らの農村内における役割にも留意しながら 4 行以内 で述べよ B べ 明治以後の教育の発達について, 時期区分をし, それぞれの時期の特徴を合わせて 6 行以内で述
183 解法の研究 第 1 問設問の要求は, 遣隋使 遣唐使派遣によってもたらされたものが当時 (7 9 世紀 ) の日本の政治と文化に与えた影響 遣隋使に随行して中国に留学した人びとが帰国したのは大化改新の直前頃なので, それ以降に話を限定してよい 政治 大化以前 : 大王家と豪族が土地 人民を個別に支配 公地公民制にもとづく律令制度の導入唐にならった国家事業として都城制の採用 貨幣の鋳造や国史 地誌の編纂 文化 律令制確立期の天武朝以降, 国家仏教の進展 : さまざまな経典や宗派 ( 南都六宗 天台 真言宗 ) の摂取漢詩文が貴族 官人の素養として定着 = 唐風文化の繁栄 ( 白鳳 天平 弘仁 貞観 ) なお, 漢詩文にならって和歌の定型化が進んだことや, 神仏習合の進展にともない仏教理論にもとづいて神祇信仰の体系化が進んだことなど, のちの文化につながる動きについて触れてもよい 解答例 隋 唐は律令法に基づく中央集権体制を整えており, 遣隋使や遣唐使はそうした隋 唐の国家体制のあり方を伝えた 政治面では, 大王家と豪族が土地 人民を個別に支配し, 豪族が朝廷の職務を世襲するという体制を改め, 公地公民を原則とする官僚制的な支配体制を樹立しようとする動きを促進し,7 世紀後半に律令体制が確立し, さらに都城の建設, 貨幣の鋳造や国史 地誌の編纂などの国家事業が展開した 文化面では, さまざまな仏教教理が伝えられ, 鎮護国家思想に基づく国家仏教体制が整うと共に, 現世利益を求める貴族層を中心に仏教が普及して仏教美術が開花する一方, 漢詩文が貴族の教養として重んじられるなど, 唐風の貴族文化が発達した 第 2 問設問の要求は, 史料 ( 北条泰時がおこなった裁判についての説話 ) から知ることのできる, 鎌倉時代の武士社会の特質 鎌倉時代の 武士 ( 武家 ) 社会 のあり方が問われている場合 ( 他の表現としては 武士の社会的結合のあり方 とか 軍事力の構成原理 など ), たいていは惣領制に関する設問である そのことを念頭において史料の内容を把握しよう まず, 惣領制の内容を確認しよう ⑴ 一族としてのまとまり所領は惣領 庶子などにより分割相続されたが, 本家の長を惣領とあおいで結びつきを維持 = 武士団を構成 ⑵ 将軍 ( 幕府 ) との関係惣領が一族 ( 一門 ) を統率して将軍と主従関係を結ぶ ( 庶子も御家人だが惣領を介して将軍と主従関係を結ぶ ) 将軍 ( 幕府 ) は惣領の一族統率権を尊重 ( 一族内部には介入しないのが原則 ) 親の悔返し権を認める ( 御成敗式目 ) 親権を絶対とする 惣領を通じて軍事動員 恩賞給与次に, 史料の内容把握である 父に孝養を尽した兄 父から所領相続を受けなかった 所領相続権確認のために幕府へ訴訟父 孝養を尽した兄ではなく, 弟に対して所領すべてを相続幕府の裁決父に孝養を尽した兄の所領相続の訴えを正当とは認めず, 父から譲状を受けた弟に対して所領安堵の下文を発給
184 解答例 鎌倉時代の武士社会では血縁的結合に基づく惣領制が存在し, 惣領が一族庶子を統率して将軍と主従関係を結んでいた そして, 幕府は惣領の統率権を認めて一族内部には干渉せず, また御成敗式目で親の悔い返し権を認めるなど, それぞれの家での親権の絶対性を認めていた この説話でも, 兄弟間の所領相続争いに対し, 父にすでに子細あればこそ と親の意思に基づいて裁決を下している 第 3 問 A 設問の要求は, 近世の豪農が学問を必要とした理由 条件として, 彼らの農村内における役割にも留意することが求められている まず条件から考えていこう 豪農の農村内における役割といえば 村の指導層であること につきるが, 村が⑴ 百姓たちの生活共同体であり,⑵ 幕藩体制下における支配の末端機構 ( 基本単位 ) であったことを考えれば, 大きくわけると2つの役割を担っていたことがわかる ⑴ 地域の農業を指導 農書 ( 農業技術書 ) を読むことが必要 ⑵ 村役人 領主との折衝 法令の伝達 年貢の割当などを担うなお, 江戸時代も後期になると村の共同体秩序は大きく動揺し, そのなかで村民教化のためにも学問が必要とされた ( 儒学や国学などの学問の浸透 ) さて, ここまでの考察でほとんど設問の要求を満たしたように思える ただ, 設問では 農村内での役割に も 触れ とある点から考えると, 農村内での役割に由来する理由だけではなく, それ以外についても求められているようにも読める ⑶ 経済発展にともなって商業的農業や手工業へと経営を拡大していたこともあげられる 経営を維持 拡大していくためには, 物価動向など市場に関する情報の収集 処理の能力が不可欠である とはいえ, この⑶については必ずしも答案に含める必要はないのではなかろうか B 設問の要求は, 明治以後の教育の発達 条件として, 時期区分をし, それぞれの時期の特徴を説明することが求められている いつまでを対象として説明すればよいのかが明記されていないが, 少なくとも占領期の教育改革までは説明しておく必要があるだろう 1 明治初期 : 富国強兵のために国民皆学の実現をめざす ( 試行錯誤の過程 ) 1872 年学制頒布 小学校の設立をめざす 実学重視 学制反対一揆 1879 年教育令 地方分権的な教育制度へ変更 翌年の改正で国家統制が復活 2 明治中期 : 国家主義的な学校制度が確立 1886 年学校令 義務教育 4 年制 帝国大学を頂点とする学校制度の確立 1890 年教育勅語 忠君愛国を教育理念として提示 1903 年小学校教科書の国定化 3 資本主義の確立と発達 : 教育の普及 拡大 1907 年義務教育 4 年から6 年に延長 1918 年大学令 高等教育機関の拡充 ( 私立大学 単科大学などを公認 ) 民間では自由教育運動 文部省主導の画一的な教育に反対 児童の個性を尊重 4 十五年戦争期 : 総力戦体制への編成 1941 年国民学校令 小学校の改組 ( 皇国民の練成 ) 5 占領期 : 教育の民主化 1947 年教育基本法 教育勅語に変わる新しい教育理念 ( 教育の機会均等 男女共学 義務教育 9 年制など )
185 学校教育法 新しい学校制度 ( 制 ) の導入 1948 年教育委員会法 教育行政の地方分権化 ( 公選制の教育委員会設置 ) 解答例 A 村は百姓の生活共同体であったが, 幕藩体制下の行政支配の末端に位置づけられていた 豪農は村の指導層として自治 勧農を主導する一方, 村役人として年貢の村請制や人別改などの行政を担い, 村民教化や年貢割当て, 文書作成などのために学問を必要とした B 明治初期に学制が公布され国民皆学が目指されたがすぐには実現せず, 立憲体制の形成に伴って学校令で学校体系整備が進み, 教育勅語で徳育重視の教育理念が示された 明治末 大正期には資本主義発達を背景に教育が普及 拡大し, 個性尊重を掲げる自由教育運動も起こったが, ファシズム進展のなかで教育の軍国主義化が進んだ 敗戦後, 個人の尊厳重視などを理念として教育が民主化された
年間授業計画09.xls
使用教科書 東京書籍 地理 A 科目名 : 必 地理 A 国際社会の一員として必要な地理的感覚 教養を身につける 修 対 象 1 年 小辻 三橋 磯山 学習内容 時間配当 球面上の世界と地域構成 結びつく現代社会多様さを増す人間行動と現代社会 8 7 身近な地域の国際化の進展 教材等 教科書プリント視聴覚教材 世界的視野からみた自然環境と文化諸地域の生活 文化と環境近隣諸国の生活 文化と日本 計 1
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モンゴル襲来の授業開発 - 生徒の既有知のゆさぶりを視点に - M145889 辻本成貴 M142401 杠拓哉 小学校教科書にあるモンゴル襲来 御家人たちが命がけで戦う でも御恩をもらえた者はわずか 幕府に不満をもつ御家人が出る 鎌倉幕府は足利氏によって倒される 武士は 御恩と奉公の関係で成り立っていたが その関係が崩れると 幕府は成り立たない 御恩と奉公の崩壊 幕府の滅亡? 授業開発者の教材観
教科 : 地理歴史科目 : 世界史 A 別紙 1 (1) 世界史へのいざない 学習指導要領ア自然環境と歴史歴史の舞台としての自然環境について 河川 海洋 草原 オアシス 森林などから適切な事例を取り上げ 地図や写真などを読み取る活動を通して 自然環境と人類の活動が相互に作用し合っていることに気付かせ
(1) 世界史へのいざない 学習指導要領ア自然環境と歴史歴史の舞台としての自然環境について 河川 海洋 草原 オアシス 森林などから適切な事例を取り上げ 地図や写真などを読み取る活動を通して 自然環境と人類の活動が相互に作用し合っていることに気付かせる [ 大河流域の生活と歴史 ] 大河流域に形成された古代文明周辺の自然環境の特色と人類の生活や活動とのかかわりについて知る [ 草原の生活と歴史 ]
第 2 問問題のねらい青年期と自己の形成の課題について, アイデンティティや防衛機制に関する概念や理論等を活用して, 進路決定や日常生活の葛藤について考察する力を問うとともに, 日本及び世界の宗教や文化をとらえる上で大切な知識や考え方についての理解を問う ( 夏休みの課題として複数のテーマについて調
現代社会 問題のねらい, 及び小問 ( 速報値 ) 等 第 1 問問題のねらい 功利主義 や 正義論 に関して要約した文書を資料として示し, それぞれの基盤となる考え方についての理解や, その考え方が実際の政策や制度にどう反映されているかについて考察する力を問うとともに, 選択肢として与えられた命題について, 合理的な 推論 かどうか判断する力を問う ( 年度当初に行われる授業の場面を設定 ) 問
学習指導要領
(1) 世界史へのいざない ア自然環境と歴史歴史の舞台としての自然環境について 河川 海洋 草原 オアシス 森林などから適切な事例を取り上げ 地図や写真などを読み取る活動を通して 自然環境と人類の活動が相互に作用し合っていることに気付かせる [ 大河流域の生活と歴史 ] 大河流域に形成された古代文明周辺の自然環境の特色と人類の生活や活動とのかかわりについて知る [ 草原の生活と歴史 ] 内陸アジア北部にひろがる大草原の自然環境の特色と人類の生活や活動とのかかわりについて知る
平成 30 年度年間授業計画 教科 : 地理歴史科目 : 世界史 A 校内科目名 : 世界史 A 対象年次 :1 2 単位 使用教科書 教材 教科書 現代の世界史 改訂版( 山川出版社 ) 補助教材 ニューステージ世界史詳覧 ( 浜島書店 ) 1 学期 2 学期 指導内容指導目標評価の観点 方法 <
教科 : 地理歴史科目 : 世界史 A 校内科目名 : 世界史 A 対象年次 : 単位 現代の世界史 改訂版( 山川出版社 ) 補助教材 ニューステージ世界史詳覧 ( 浜島書店 ) < > 世界史へのいざない 諸地域世界の特質 東アジアの文明 南アジアの文明 西アジアの文明 ヨーロッパの文明 諸地域世界の交流 4 世界の一体化とヨーロッパ 5 アジア諸国の繁栄 6 近世ヨーロッパの成長 7 近代の欧米社会
景品の換金行為と「三店方式」について
景品の換金行為と 三店方式 について 1 景品の換金が行われる背景と法令の規定について 2 三店方式 の歴史について 3 三店方式 を構成する3つの要素について 4 三店方式 に関する行政の見解について 5 三店方式 に関する裁判所の見解について 6 三店方式 とパチンコ店の営業について 株式会社大商姫路 - 1 - 1 景品の換金が行われる背景と法令の規定についてパチンコは 遊技客が 遊技機で遊技した結果獲得した玉
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経済学第 4 章資源配分と所得分配の決定 (2) 4.2 所得分配の決定 中村学園大学吉川卓也 1 所得を決定する要因 資源配分が変化する過程で 賃金などの生産要素価格が変化する 生産要素価格は ( 賃金を想定すればわかるように ) 人々の所得と密接な関係がある 人々の所得がどのように決まるかを考えるために 会社で働いている人を例にとる 2 (1) 賃金 会社で働いている人は 給与を得ている これは
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歴史 2-_02020 History 教員室 : B02( 非常勤講師室 ) 環境都市工学科 2 年 会的諸問題の解決に向けて主体的に貢献する自覚と授業の内容授業授業項目授業項目に対する時間. 近代世界の成立 - 近代ヨーロッパの成立と世界 -2 絶対王政と近代国家の形成 -3 市民革命と産業革命 -4 ナショナリズムと 国民国家 の成立 -5 アジアの植民地化 2- 帝国主義 の成立と世界分割
学習指導要領
(1) 私たちの時代と歴史 現代の社会やその諸課題が歴史的に形成されたものであるという観点から 近現代の歴史的事象と現在との結び付きを考える活動を通して 歴史への関心を高め 歴史を学ぶ意義に気付かせる 開国前後から第二次世界大戦終結までの政治や経済 国際環境 国民生活や文化の動向について 相互の関連を重視して考察させる 都立世田谷泉高校学力スタンダード身近な社会 地域の事象や 現代の課題を追求するなかで
社会系(地理歴史)カリキュラム デザイン論発表
社会系 ( 地理歴史 ) カリキュラム デザイン論発表 批判的教科書活用論に基づく中学校社会科授業開発 (1): 産業革命と欧米諸国 の場合 発表担当 :5 班 ( ごはんですよ ) 論文の構成 論文の構成 Ⅰ. 問題の所在 : 教養主義の授業づくりでは 国家 社会の形成者は育成 できない 批判的教科書活用論に基づく授業を開発 Ⅱ. 産業革命と欧米諸国 の教授計画書と実験授業の実際 Ⅲ. 産業革命と欧米諸国
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58 韓国の歴史教科書 現在韓国では 国定教科書 検定教科書 認定教科書とい 二 現在の韓国の歴史教科書とその構成要素 が審査 認定したものです 歴史関連の教科書は 表1 の 通り 小学校以外はすべて検定教科書です 教科書を構成する諸要素と深く関係しています その構成要 どの教科がどのような種類の教科書として編纂されるかは 部が著作権を持つ教科書であり 教育部で編纂し ひとつの 素を概観してみると
社会的責任に関する円卓会議の役割と協働プロジェクト 1. 役割 本円卓会議の役割は 安全 安心で持続可能な経済社会を実現するために 多様な担い手が様々な課題を 協働の力 で解決するための協働戦略を策定し その実現に向けて行動することにあります この役割を果たすために 現在 以下の担い手の代表等が参加
私たちの社会的責任 宣言 ~ 協働の力 で新しい公共を実現する~ 平成 22 年 5 月 12 日社会的責任に関する円卓会議 社会的責任に関する円卓会議 ( 以下 本円卓会議 という ) は 経済 社会 文化 生活など 様々な分野における多様な担い手が対等 平等に意見交換し 政府だけでは解決できない諸課題を 協働の力 で解決するための道筋を見出していく会議体として 平成 21 年 3 月に設立されました
日B 314 高校日本史 改訂版
編修趣意書 ( 教育基本法との対照表 ) 受理番号 学校 教科 種目 学年 28-11 高等学校 地理歴史科 日本史 B 発行者の番教科書の号 略称記号 番号 教科書名 81 山川 日 B314 高校日本史改訂版 1. 編修の基本方針 (1) 平成 21 年 3 月改訂の高等学校学習指導要領 日本史 B の目標 内容 内容の取り扱いの趣旨に従ったが 高等学校における日本史学習上の問題点や教育現場における指導例などを考慮して
なぜ社会的責任が重要なのか
ISO 26000 を理解する 目次 ISO 26000-その要旨... 1 なぜ社会的責任が重要なのか?... 1 ISO 26000 の実施による利点は何か?... 2 誰が ISO 26000 の便益を享受し それはどのようにして享受するのか?... 2 認証用ではない... 3 ISO 26000 には何が規定されているのか?... 3 どのように ISO 26000 を実施したらいいか?...
10SS
方 方 方 方 大 方 立立 方 文 方 文 田 大 方 用 方 角 方 方 方 方 方 1 方 2 方 3 4 5 6 方 7 方 8 9 大 10 自 大 11 12 大 13 14 自 己 15 方 16 大 方 17 立立 18 方 方 19 20 21 自 22 用 23 用 24 自 大 25 文 方 26 27 28 文 29 田 大 30 文 31 方 32 用 方 文 用 用 33
IFRS基礎講座 IAS第11号/18号 収益
IFRS 基礎講座 収益 のモジュールを始めます このモジュールには IAS 第 18 号 収益 および IAS 第 11 号 工事契約 に関する解説が含まれます これらの基準書は IFRS 第 15 号 顧客との契約による収益 の適用開始により 廃止されます パート 1 では 収益に関連する取引の識別を中心に解説します パート 2 では 収益の認識規準を中心に解説します パート 3 では 工事契約について解説します
問 2 次の文中のの部分を選択肢の中の適切な語句で埋め 完全な文章とせよ なお 本問は平成 28 年厚生労働白書を参照している A とは 地域の事情に応じて高齢者が 可能な限り 住み慣れた地域で B に応じ自立した日常生活を営むことができるよう 医療 介護 介護予防 C 及び自立した日常生活の支援が
選択式 対策編 平成 28 年厚生労働白書 問 1 次の文中のの部分を選択肢の中の適切な語句で埋め 完全な文章とせよ なお 本問は平成 28 年厚生労働白書を参照している 1 国民医療費とは 医療機関等における保険診療の対象となり得る傷病の治療に要した費用を推計したものであり 具体的には 医療保険制度等による給付 後期高齢者医療制度や公費負担医療制度による給付 これに伴う患者の一部負担などによって支払われた医療費を合算したものである
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第 3 章 GDP の決定 練習問題の解説 1. 下表はある国の家計所得と消費支出です 下記の設問に答えなさい 年 所得 (Y) 消費支出 (C) 1 年目 25 15 2 年目 3 174 (1) 1 年目の平均消費性向と平均貯蓄性向を求めなさい (2) 1 年面から 2 年目にかけての限界消費性向を求めなさい 解答 (1).6 と.4 (2).48 解説 (3 頁参照 ) (1) 所得に対する消費の割合が平均消費性向です
[ 指針 ] 1. 組織体および組織体集団におけるガバナンス プロセスの改善に向けた評価組織体の機関設計については 株式会社にあっては株主総会の専決事項であり 業務運営組織の決定は 取締役会等の専決事項である また 組織体集団をどのように形成するかも親会社の取締役会等の専決事項である したがって こ
実務指針 6.1 ガバナンス プロセス 平成 29( 2017) 年 5 月公表 [ 根拠とする内部監査基準 ] 第 6 章内部監査の対象範囲第 1 節ガバナンス プロセス 6.1.1 内部監査部門は ガバナンス プロセスの有効性を評価し その改善に貢献しなければならない (1) 内部監査部門は 以下の視点から ガバナンス プロセスの改善に向けた評価をしなければならない 1 組織体として対処すべき課題の把握と共有
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近世① 16世紀 想像図 を使ってこんなことができる 別 P.15で紹介する使い方の他に 図の各部分から通史の授業でこのように活用できます また イラストの① ⑩は 別 P.15の中で位置を示しています ①天守閣の築城 教科書P.94 95 信長 秀吉による全国統一 導入として イラストの天守閣築城に注目させ その 元祖として織田信長の安土城を紹介する 天守閣をもつはじめての城は 織田信長の安土城であ
法第 20 条は, 有期契約労働者の労働条件が期間の定めがあることにより無期契約労働者の労働条件と相違する場合, その相違は, 職務の内容 ( 労働者の業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度をいう 以下同じ ), 当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情を考慮して, 有期契約労働者にとって不合
Q45. 有期契約労働者が正社員と同じ待遇を要求する 1 問題の所在有期契約労働者の労働条件は個別労働契約, 就業規則等により決定されるべきものですので, 正社員と同じ待遇を要求することは認められないのが原則です しかし, 有期契約労働者が正社員と同じ仕事に従事し, 同じ責任を負担しているにもかかわらず, 単に有期契約というだけの理由で労働条件が低くなっているような場合には, 期間の定めがあることによる不合理な労働条件の禁止
課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください
課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください 課題研究の進め方 Ⅰ 課題研究の進め方 1 課題研究 のねらい日頃の教育実践を通して研究すべき課題を設定し, その究明を図ることにより, 教員としての資質の向上を図る
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ドルの需要ドルの供給国際金融論 29 秋講義メモ 第 2 章為替レートの決定理論 : アセット アプローチ ( 教科書第 4 章 ) イントロダクション円 ドル レート 円で測ったドルの価格 他の製品と価格と同様に, ドルの需要と供給の相互作用で為替レートは決まる. ところで, ドルが需要されたり供給されたりするのはどんな時? 米国製品 サービスの輸入 ( ドルの需要 ), 自国製品 サービスの輸出
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マクロ経済学 [6] 第 6 章乗数理論と IS-LM 分析 目次 6- ケインズ経済学の登場 6- 有効需要の原理 6-3 乗数理論 中村学園大学吉川卓也 6- ケインズ経済学の登場 古典派経済学に代わるマクロ経済学の考え方. 一般理論 が生まれた背景 ケインズ経済学とは 総需要 ( 一国全体の需要 マクロの需要 ) に注目した経済学である ケインズJohn Maynard Keynes (883-946)
平成 年度授業改善 ( 中学校社会 ) 第 2 学年社会科 ( 歴史的分野 ) 学習指導案 1 単元名 近代国家の歩みと国際社会 - 新しい価値観のもとで - ( 帝国書院 ) 2 単元について 本単元は, 学習指導要領の内容 (1) ウ及び (5) イを受け, 開国とその影響, 富国強
第 2 学年社会科 ( 歴史的分野 ) 学習指導案 単元名 近代国家の歩みと国際社会 - 新しい価値観のもとで - ( 帝国書院 ) 2 単元について 本単元は, 学習指導要領の内容 () ウ及び (5) イを受け, 開国とその影響, 富国強兵 殖産興業政策, 文明開化などを通して, 新政府による政策の特色を考えさせ, 明治維新によって近代国家の基礎が整えられて, 人々の生活が大きく変化したことを理解させる
学習指導要領
(4) 諸地域世界の結合と変容 イヨーロッパの拡大と大西洋世界ルネサンス 宗教改革 主権国家体制の成立 世界各地への進出と大西洋世界の形成を扱い 16 世紀から 18 世紀までのヨーロッパ世界の特質とアメリカ アフリカとの関係を理解させる 思想 芸術 科学などの分野におけるルネサンスの展開を理解する 宗教改革と対抗宗教改革の具体的な展開を理解する スペイン
社会科 歴史的分野 学習指導案 授業者 広島市立 中学校 教諭 1 日時平成 19 年 月 日 2 学年 学級第 1 学年 組 3 単元名 なぜ文化が国風化したのか? ~ 国風文化は平安時代を映す!~ 4 単元について (1) 教材観 文化 はその時代の背景を強く映し出している 国風文化が形成された
社会科 歴史的分野 学習指導案 授業者 広島市立 中学校 教諭 1 日時平成 19 年 月 日 2 学年 学級第 1 学年 組 3 単元名 なぜ文化が国風化したのか? ~ 国風文化は平安時代を映す!~ 4 単元について (1) 教材観 文化 はその時代の背景を強く映し出している 国風文化が形成された要因も, 平安時代という政治や社会を背景としている 遣唐使が廃止された 藤原氏の隆盛と摂関政治 藤原氏が,
「経済政策論(後期)」運営方法と予定表(1997、三井)
007 年 月 6 日 ( 木曜 限 )/5. 法人所得課税. 法人税 ( 法人所得課税 ) の意義 法人擬制説 法人は株主の集合体 法人税は株主に対する所得税の前取り ( 源泉徴収 ) 法人税と配当課税の存在は二重課税 ( 統合の必要性 ) 配当控除制度法人実在説 法人は個人から独立した存在 法人税は法人自体が有する担税力を前提にした租税. 法人所得と経常利益 < 経常利益 ( 企業会計 )> 目的
SGEC 附属文書 理事会 統合 CoC 管理事業体の要件 目次序文 1 適用範囲 2 定義 3 統合 CoC 管理事業体組織の適格基準 4 統合 CoC 管理事業体で実施される SGEC 文書 4 CoC 認証ガイドライン の要求事項に関わる責任の適用範囲 序文
SGEC 附属文書 2-8 2012 理事会 2016.1.1 統合 CoC 管理事業体の要件 目次序文 1 適用範囲 2 定義 3 統合 CoC 管理事業体組織の適格基準 4 統合 CoC 管理事業体で実施される SGEC 文書 4 CoC 認証ガイドライン の要求事項に関わる責任の適用範囲 序文この文書の目的は 生産拠点のネットワークをする組織によるCoC 認証を実施のための指針を設定し このことにより
<4D F736F F F696E74202D208ED089EF959F8E F958B5A8F70985F315F91E630338D E328C8E313393FA8D E >
第 2 章では ソーシャルワーク実践を方向づけるものとして ソーシャルワークの価値を学習しました ソーシャルワーク専門職は ソーシャルワークの価値を深く理解し ソーシャルワーク実践のなかにしっかりと位置づけ 具現化していかなければなりません 1 価値 は 人の判断や行動に影響を与えます ソーシャルワーカーの判断にも 価値 が大きく影響します ソーシャルワークとしてどのような援助の方向性をとるのか さまざまな制約の中で援助や社会資源の配分をどのような優先順位で行うか
年間授業画 地理 歴史 2 年必修世界史 A( 理系 ) 数 2 2 年 56 組 書 教材世界史 A( 実教出版 ) プロムナード世界史 ( 浜島書店 ) 1 近代ヨーロッパの成立以後の近現代史を全世界的観点から体系的に理解させる 今日的な諸課題の解決の一助として歴史的理解 意識を習得させる 2
年間授業画 地理歴史 地理 A 数 2 1-1,1-2,1-3,1-4,1-5,1-6,1-7 書 教材高校生の地理 A( 帝国書院 ) 新詳高等地図 ( 帝国書院 ) フォトグラフィア地理図説 2018( とうほう ) 世界の諸地域の生活 文化 産業及び課題について 地域性や歴史的背景を踏まえて考察し 世界の多様性を知るとともに 現代世界の地理的認識を深める また 地図や表 グラフや映像などを活用して
1 A 所有の土地について A が B に B が C に売り渡し A から B へ B から C へそれぞれ所有権移転登記がなされた C が移転登記を受ける際に AB 間の売買契約が B の詐欺に基づくものであることを知らなかった場合で 当該登記の後に A により AB 間の売買契約が取り消された
1 A 所有の土地について A が B に B が C に売り渡し A から B へ B から C へそれぞれ所有権移転登記がなされた C が移転登記を受ける際に AB 間の売買契約が B の詐欺に基づくものであることを知らなかった場合で 当該登記の後に A により AB 間の売買契約が取り消されたとき C は A に対して土地の所有権の取得を対抗できる (96-51) 2 A が B の欺罔行為によって
O-27567
そこに そこがあるのか? 自明性 (Obviousness) における固有性 (Inherency) と 機能的クレーム (Functional Claiming) 最近の判決において 連邦巡回裁判所は 当事者系レビューにおける電気ケーブルの製造を対象とする特許について その無効を支持した この支持は 特許審判部 (Patent and Trial and Appeal Board (PTAB))
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NHK 平和に関する意識調査 単純集計結果 調査期間 2017 年 6 月 21 日 ( 水 )~7 月 25 日 ( 火 ) 調査方法 郵送法 調査対象 18 歳 19 歳限定地域 : 全国 2017 年 7 月末時点で18 歳 19 歳の国民 1200 人 20 歳以上の成人地域 : 全国 2017 年 7 月末時点で20 歳以上の国民 1200 人 いずれも住民基本台帳から層化無作為 2 段抽出
いる 〇また 障害者の権利に関する条約 においては 障害に基づくあらゆる差別を禁止するものとされている 〇一方 成年被後見人等の権利に係る制限が設けられている制度 ( いわゆる欠格条項 ) については いわゆるノーマライゼーションやソーシャルインクルージョン ( 社会的包摂 ) を基本理念とする成年
成年被後見人等の権利に係る制限が設けられている制度の見直しについて ( 議論の整理 ) 平成 29 年 12 月 1 日 成年後見制度利用促進委員会 成年後見制度の利用の促進に関する法律第 11 条において 成年後見制度の利用促進に関する施策の基本方針として 成年被後見人等の人権が尊重され 成年被後見人等であることを理由に不当に差別されないよう 成年被後見人等の権利に係る制限が設けられている制度について検討を加え
平成23年度全国学力・学習状況調査問題を活用した結果の分析 資料
平成 23 年度全国学力 学習状況調査問題を活用した結果の分析 1 調査結果の概要 (1) 全体的な傾向 伊達市教育委員会 市内の小 中学校においては 全体として以下のような特徴がみられた 平成 23 年度全国学力 学習状況調査問題を活用した北海道における学力等調査は 札 幌市を除く178 市町村 及び特別支援学校小学部 特別支援学校中学部 中等教育学校 が実施をした 実施した学校数と児童生徒数については
日本列島の 歴史 を記した 日本書紀 ~ (720 年 ) や 古事記 ~ 漢書 ~ ~ 三国 三国志 の編纂の方が古い ~ 後漢書 にも 1 世紀の列島を示した独自記事がある ~ 集安高句麗碑 ~ 求めたのである こうして 倭国王の名前と系譜などを知ることができる ~. 宋書 倭国伝には 宋 の古代史 ~ ~ 古事記 仁徳段 ) と歌っている 後の蕎城氏につながる氏族が 本拠地としていた可能性がある
第28回介護福祉士国家試験 試験問題「社会の理解」
社会の理解 5 地方自治法に基づく法的な権利のうち, 市町村の区域内に住所があれば日 本国民でなくても有する権利として, 適切なものを 1つ選びなさい 1 市町村からサービスを受ける権利 2 市町村の選挙に参加する権利 3 市町村の条例の制定を請求する権利 4 市町村の事務の監査を請求する権利 5 市町村議会の解散を請求する権利 6 日本の人口に関する次の記述のうち, 適切なものを 1 つ選びなさい
論文題目 大学生のお金に対する信念が家計管理と社会参加に果たす役割 氏名 渡辺伸子 論文概要本論文では, お金に対する態度の中でも認知的な面での個人差を お金に対する信念 と呼び, お金に対する信念が家計管理および社会参加の領域でどのような役割を果たしているか明らかにすることを目指した つまり, お
論文題目 大学生のお金に対する信念が家計管理と社会参加に果たす役割 氏名 渡辺伸子 論文概要本論文では, お金に対する態度の中でも認知的な面での個人差を お金に対する信念 と呼び, お金に対する信念が家計管理および社会参加の領域でどのような役割を果たしているか明らかにすることを目指した つまり, お金に対する信念の構造の把握と関連領域の整理を試みた 第 Ⅰ 部の理論的検討は第 1 章から第 5 章までであった
1 BCM BCM BCM BCM BCM BCMS
1 BCM BCM BCM BCM BCM BCMS わが国では BCP と BCM BCM と BCMS を混同している人を多く 見受けます 専門家のなかにもそうした傾向があるので BCMS を正 しく理解するためにも 用語の理解はきちんとしておきましょう 1-1 用語を組織内で明確にしておかないと BCMS や BCM を組織内に普及啓発していく際に齟齬をきたすことがあります そこで 2012
[2] 株式の場合 (1) 発行会社以外に譲渡した場合株式の譲渡による譲渡所得は 上記の 不動産の場合 と同様に 譲渡収入から取得費および譲渡費用を控除した金額とされます (2) 発行会社に譲渡した場合株式を発行会社に譲渡した場合は 一定の場合を除いて 売却価格を 資本金等の払戻し と 留保利益の分
相続した財産を譲渡した場合の税務 坂本和則相談部東京相談室花野稔相談部大阪相談室 相続した財産 ( 不動産や株式など ) を譲渡し 相続税の納税資金を捻出する場合があります 特に譲渡する株式が非上場株式である場合は 譲渡しようとしても流通性が乏しく また買取資金を用意する関係などからも その株式を発行会社に買取ってもらうケースが多いと思われます そうしたケースをはじめ 財産の譲渡による所得には 原則として所得税と住民税が課税されますが
学習指導要領
(1) 世界史へのいざない 学習指導要領ア自然環境と歴史歴史の舞台としての自然環境について, 河川, 海洋, 草原, オアシス, 森林などから適切な事例を取り上げ, 地図や写真などを読み取る活動を通して, 自然環境と人類の活動が相互に作用し合っていることに気付かせる イ日本列島の中の世界の歴史日本列島の中に見られる世界との関係や交流について, 人, もの, 技術, 文化, 宗教, 生活などから適切な事例を取り上げ,
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金融論第 4 章金融取引が生み出す利益 1 交換の利益 中村学園大学 吉川卓也 1 2 重要なセンテンス POINT 金融取引は現在のお金と将来のお金の交換 金融取引は貸し手と借り手の双方に利益をもたらす 金融取引が生む第 1 の利益は交換の利益 互いに足りないものを交換しあうことで, 貸し手と借り手の双方の状態が改善します 3 4 5 6 1 2 実物投資を実現する金融取引 重要なセンテンス 金融取引が社会を豊かにするのは,
はじめに 会社の経営には 様々な判断が必要です そのなかには 税金に関連することも多いでしょう 間違った判断をしてしまった結果 受けられるはずの特例が受けられなかった 本来より多額の税金を支払うことになってしまった という事態になり 場合によっては 会社の経営に大きな影響を及ぼすこともあります また
はじめに 会社の経営には 様々な判断が必要です そのなかには 税金に関連することも多いでしょう 間違った判断をしてしまった結果 受けられるはずの特例が受けられなかった 本来より多額の税金を支払うことになってしまった という事態になり 場合によっては 会社の経営に大きな影響を及ぼすこともあります また 会社の税金に関する判断は 会社だけにとどまらず 経営者の個人の税金にも関係します 税金の問題は複雑で
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16 297 297 297 297 14 140 13 13 169 81 32 32 24 409 P48 P54 P56 P50 P52 2 3 4 5 6 7 8 9 11 12 13 14 15 みちしるべ 調べるほどに興味深い Q&A 上総国分寺 国分尼寺 Q 国分寺という地名は全国に多数ありますが どうしてなのですか A てんぴょう しょうむてんのう 国分寺は 天平13年(741)に聖武天皇が国情不安を鎮めるため
解いてみましょう ( 第 3 講 )A について 1 問われている ( 求められている ) ことを確認する ア イ について書く の関係に与えた影響について書く ウ の関係に与えた影響について書く エ に触れながら書く オ 3 行 (90 字 ) 以内で書く 2 資料の内容と教科書 ( プリント )
第 3 講 藩の存続を賭けて石を積め! - 江戸時代初期の城普請とその影響 - (2011 年度第 3 問 ) 1 世紀前半 江戸幕府は各藩に 江戸城や大坂城等の普請を命じた そのことに関する 次の (1)~(4) の文章を読んで 下記の設問 A B に答えなさい (1) 城普請においては それぞれの藩に 石垣や堀の普請が割り当てられた その担当す る面積は 各藩の領知高をもとにして決められた (2)
ISO9001:2015規格要求事項解説テキスト(サンプル) 株式会社ハピネックス提供資料
テキストの構造 1. 適用範囲 2. 引用規格 3. 用語及び定義 4. 規格要求事項 要求事項 網掛け部分です 罫線を引いている部分は Shall 事項 (~ すること ) 部分です 解 ISO9001:2015FDIS 規格要求事項 Shall 事項は S001~S126 まで計 126 個あります 説 網掛け部分の規格要求事項を講師がわかりやすく解説したものです
生徒用プリント ( 裏 ) 入力した内容はすべて記録されている!! 印 : 授業で学んだこと 管理者のパソコンには どのパソコンから いつ どのような書き込みがされたか記録されています 占いだけではなく メールや掲示板の内容も同じように記録されています もし 悪意のある管理者から個人情報が洩れたらど
生徒用プリント 実施日月日 ( ) 年組番氏名 占いで個人情報の入力を求められたら あなたはどうしますか? 占いや懸賞に応募するとき 個人情報 ( 名前や誕生日 星座など ) を入力するけど この個人情報は どうなっているのだろう? 設問 1 占いで個人情報の入力を求められたら あなたはどうしますか? ア入力する 入力しないと占いの結果が出ないから イ入力する たくさんの人が書き込んでいるので 時間が経つと個人情報は消えてなくなってしまうから
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不動産登記簿の表題部 表題部の落とし穴 基礎知識 司法書士法人 1 建物の所在地番と底地について 建物登記簿表題部の 所在 欄 建物登記簿表題部の 所在 欄にはその建物が建っている土地 ( 底地 ) の地番が記載されます ところが 底地の地番と建物の所在地 番が一致しないことがあります なぜ そのようなことが起こるのでしょうか たとえば 建物の表示登記をした後に 底地が分筆されたり合筆されたりして底地の地番に変更の生ずることがあります
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2 介護予防支援関係 1 委託について ( 問 1) 地域包括支援センターは 担当区域外 ( 例えば 別の市町村 ) の居宅介護支援事業所に 新予防給付のマネジメントを委託することができるのか 利用者が地域包括支援センターの担当区域外の居宅介護支援事業所を選択する場合もあることから 地域包括支援センターは 担当区域外の居宅介護支援事業所にもマネジメントを委託することができる ( 問 2) 新予防給付のマネジメントを委託する場合の委託費用は介護予防サービス計画費のどの程度の割合とするべきか
Microsoft Word - 学習指導案(公民的分野 ②).doc
社会科学習指導案 生徒 第 3 学年 A 組男子 2 名女子 8 名計 39 名 指導者教諭郡司直孝 Ⅰ 単元 公民的分野 (2) 私たちと経済イ国民生活と政府の役割 Ⅱ 単元の目標国民の生活と福祉の向上を図るために 市場の働きにゆだねることが難しい諸問題に関して 国や地方公共団体が果たしている役割や財政 租税の意義と役割について考えることができる Ⅲ 単元について本単元では 国民の生活と福祉の向上を図るために,
5 仙台市債権管理条例 ( 中間案 ) の内容 (1) 目的 市の債権管理に関する事務処理について必要な事項を定めることにより その管理の適正化を図ることを目的とします 債権が発生してから消滅するまでの一連の事務処理について整理し 債権管理に必要 な事項を定めることにより その適正化を図ることを目的
仙台市債権管理条例 ( 中間案 ) について 1 条例制定の趣旨 債権 とは 仙台市が保有する金銭の給付を目的とする権利のことで 市税や国民健康保険料 使用料 手数料 返還金 貸付金など様々なものを含みます そして 債権が発生してから消滅するまでの一連の事務処理を 債権管理 といい 具体的には 納付通知書の送付や台帳への記録 収納状況の管理 滞納になった場合の督促や催告 滞納処分 強制執行 徴収の緩和措置等の手続きを指します
では もし企業が消費者によって異なった価格を提示できるとすれば どのような価格設定を行えば利潤が最大になるでしょうか その答えは 企業が消費者一人一人の留保価格に等しい価格を提示する です 留保価格とは消費者がその財に支払っても良いと考える最も高い価格で それはまさに需要曲線で表されています 再び図
産業組織 B 講義資料 (8) (8) 企業戦略 (ⅰ)- 価格差別 - 産業組織 A では主に寡占市場の構造について学びました ここからは企業の利潤最大化行動を詳しく分析していきましょう まず 価格差別 について学びます 映画館で映画を観るとき 大学生である皆さんは学生証を提示し 大学生料金 を支払いますよね? いわゆる 学割 というもので 普通の大人料金よりも安く映画を観ることが出来るわけです
