聖書 Ⅰ ペテロ 1:13~16 ( 第 6 講 ) 題 聖なる者とされた者の聖なる生き方 ( 序 ) 今置かれた状態を保つために心掛けること * どろどろに汚れていたボールを きれいにし 磨き上げたとしましょう これから先 もう使わなければきれいなままですが また使えばどろどろになります それを常にきれいな状態で保持しようと思えば 大変な努力が必要となってきます * 信仰者の霊的な状態も同様のことが言えます どうにもならないぐらいどろどろに汚れていた私たちを 神は ただイエス キリストを私の救い主だと信じるだけで 魂を根本から洗浄して下さって救って下さり ( テトス 3:5) それによって私たちは全く新しく生まれ変わったのです これが キリストによって魂の救いを頂いた 神によって 神のものとなるように 聖別された状態だとペテロは示してきました * このようにペテロは あなたがたがどのような主のあわれみと恵みによって 神の前における 今 自分たちに与えられている祝福された立場を得ることができたのか それを正しく受けとめることが その立場を与えられた者としての 天国人人生を生きる上において欠かすことのできない姿勢であると語ってきました * 自分の立っている位置が見えない人は これから歩むべき道筋を見ることもできません 言わば 現状確認が次の行動に移るためになくてはならない作業であることはいうまでもないことでしょう 信仰の場合は 神がこの私を愛して 再創造人生を歩ませるために 今どこまで取り扱っ 1
て下さったのか これからどこに向けて取り扱おうとして下さるのか 神による私の人生設計を受けとめていくことが重要になってくるのです * それが ここまで記されてきた内容だと言っていいでしょう 小アジアのクリスチャンたちは 現状において クリスチャンであるということで 迫害の規模がどの程度のものか正確には分かりませんが 迫害という苦難の中を通されていたことが記されています しかし すべてのことは 神があなたがたを導き 祝福するために通しておられる道であり その道をどのような信仰認識を持って 進んでいくべきかを示してきたのです * 今 与えられている霊的身分 立場などの信仰認識が弱いと 今をどのように歩むべきかという現状判断 その現状を踏まえた上で どう対応していくかが難しくなってきて 置かれている状況に振り回されやすくなるのです * 霊的に聖なる者として下さったその恵みを喜び その状態が世にあって保たれるためには どのようなことを心掛けていればいいのか すなわち 神の側でして下さったことが完成していくためには 人間の側が何を注意し どのような信仰的努力をし どのように 思いをコントロールしていかなければならないかを ペテロはここに示していくのです そのことは 今日の私たちに対する神からの語り掛けでもあると言えます (1) せっかく得た恵みが奪われないために * それだから あるいは そういうわけですからと言って 神が 愛を持って与えて下さった霊的身分 立場などの素晴らしさに対する信仰認識を持ったならば まず次の 3 つ 2
の点に心掛けていないと 外から 内からの敵に攻められて せっかく得た恵みが奪われかねないと言うのです * 第 1 に 心の腰に帯を締める必要があると言いました これは 当時長い衣を着ていましたから 走ったり 仕事をしたりする時に すそが邪魔になるので 腰紐でしっかりとたくし上げる必要がありました これを霊的な意味で 敵の攻撃に対して対抗するように 身構える必要性を示しているということが分かります * 神に愛され この地上にあって天国人人生として生きることができるように 神は助けて下さるのですが 何の問題も 戦いも 苦難に会うこともないように助けて下さるというわけではありません 地上は サタンの支配領域でありますから 天国人として喜んで歩ませないために あらゆる働き掛け 妨げ 罠 策略など無数の攻撃を仕掛けてくるのは目に見えています * 霊的には 神の目から見て キリストのあがない よみがえりの恵みを受けた者として 何の汚れもない 神の目に適った聖なる者と見て頂いているのですが それで肉の汚れがなくなったわけではありませんから その人の内にある肉の思いを刺激して 神の目に適った聖なる者としての位置から引き摺り下ろそうとして サタンはあらゆる手を出してくるのです * サタンのあらゆる手というのは 一見して分かるものもありますが 巧みに仮面をかぶって 世の方 肉の欲の方へと引き込もうとするものもあります それに対して どのように対抗することができるのでしょうか * サタンの巧みさ 強さを思えば 到底太刀打ちできるものではありません しかしペテロは だからと言ってあきら 3
めるのではなく 神が助けて下さるのを信じながら 恵みから目を離さず 気を引き締め これ位いいかとゆるみやすい心の隙を作らないで 帯で腰をしっかりと締めなさいと言うのです * これは 具体的に何を言おうとしているのでしょうか 働きかけてくるサタンを強く意識して 簡単に落とされないように注意をするようにとの意味でしょう * 第 2 は 身を慎みなさいと言いました 聖なる者として頂いた状態を崩そうとしてくる外からの働き掛けに注意すれば大丈夫かと言いますと それを守ろうとする内部にも敵がいて すなわち 内側にももろい所があり そこをつかれると内側から崩れていきやすいので 身を慎むようにと言うのです * この身を慎むという言葉は しらふでいること 節制して酔わないでいることを指す動詞で 酒で紛らわせる向かい方をすることにより 内側から崩され 敵に対抗することができなくなるから 慎むようにと示している言葉です * ここでは 酒を飲むなと言っているのではなく 酒に酔うような生き方をするな と言っているのです すなわち 現実逃避して 現実から目を背けてはならないと言います これはどのような意味でしょうか * この当時の小アジア地方のクリスチャンたちは 信仰の喜びに溢れていました それは 苦難を受けている中にあって持っていたことですから すごいことだと言えます しかし そこに一つの落とし穴があることに注意する必要があるのです * というのは この世から完全に目を背け 主が与えて下さっている恵みにのみ心を傾け 終わりの日に用意されてい 4
る御国への希望に心を置いて生きるということは これは大事な向かい方でありますが そこには 現実逃避信仰になりかねない道もそばに走っているのです 希望に心を置きながら 今の現実から目を逸らさず 寄留者でありつつ 天国人として生きるようにされていることから目を背けてはならないのです * それ故 そこで重要になってくるのが すべての事柄において 限度を見極めて身を慎むことが大切だと言っているのです このことは 第 3 の点について語られた後 14 節において第 2 と第 3 の点に関連して 少し具体的に勧めているので そのことは項を改めて見ていくことにしましょう * それでは 第 3 の点について見てみましょう それは イエス キリストが現れて下さる終わりの時に与えられると約束されている恵みを いささかも疑わずに待ち望みなさいと言いました 口語訳は意訳して訳していますが 元々は ひたすら待ち望みなさいという意味ですが それは信じて 僅かの疑いも持たずにという内容ですから 口語訳の訳は その意味をよく伝えていると言えるでしょう * 人間の肉の思いの中に 疑いの心が潜んでいるのを ペテロはよく知っていますから いつのことか分からない キリストの現れの時を 神はうそをつかれないお方であると知って ひたすら待ち望みなさいと言ったのです * これは 疑いの思いが 信仰を内側から崩していくものになりますから 現状がどんなに戦いを覚えるようなものであっても 振り回されず 現実から逃避せず 今を生きながら 終わりの時に約束されている恵みをひたすら待ち望むこと これが霊を高く引き上げるコツだと言うのです 5
(2) 古い肉の欲に引っ張られないこと * このように 聖なる者にして頂いた天国人人生を この地上において生きようとすると 外からの働き掛け 内から崩そうとする働きかけがあり 特に 疑いの思いは信仰を激しく損傷させるから せっかく頂いた恵みを奪われないように心することの大切さを勧めてきました * 14 節では 内から崩そうとする働き掛けの素となっている点を具体的に示していくのですが あなたがたは キリストに従順に従う子供となったのですから 救われる以前の 人間として何がくだらないかということに 全く無知であった頃に持っていた欲望 むさぼりの心に引っ張られてはならないと言いました * これはどういうことでしょうか 救われた者の思いの中に 救われる以前の欲望が処理されないまま残っているということでしょうか これは 人間は魂の救いを頂いても 人間性や性格まで新しくなったのではありません 古い心が残っているのです これが サタンの働き掛けを受けたり 世の人々の考え方に引っ張られたりすることによって欲望が引き出されることがあるのです * ヨハネも手紙においてこう語っています 世の欲 目の欲 持ち物の誇りは 父から出たものではなく 世から出たものである と (Ⅰ ヨハネ 2:16) 欲望は 新しく造られた者の中から出てくるのではなく 残っている古い思い 世から出てくると言っているのです * それでは 欲はすべて世から出たものなのでしょうか 欲と 欲望とは異なっています 食欲 金銭欲 性欲 名誉欲 生命欲など 欲がすべて汚れだと言っているのではありません 例えば食欲があることは必要なのです それが 6
限度を越すと貪欲となり むさぼりとなり 汚れた思いとなるのです その限度はどこで見分けるのかと言いますと 天国人としてこの地上で生きるために それが体を支える必要な部分にあるものなのかで判断することができます * すなわち 必要以上欲すると欲望となります 例えば お酒そのものは 飲むことを欲望によるものだとは言わないのです お酒に酔うことが 必要以上を通り越して欲望となると言うのです * 世の思いから出てきた欲望を満たそうとすることは 聖なる者にして頂いた天国人人生を引き落とす要素となるのです それが食欲であれ 金銭欲であれ 名誉欲であれ 性欲であれ 生命欲であれ 古い肉の思いを引き出し 神の思いよりも 自分の思いの方を優先するのです * 例えば 生命欲について考えますと 人間は健康で長生きしたいと考えます その欲そのものは何も問題ではありません けれども必要以上に死を恐れ 病を恐れ 医者に頼り 薬に頼るということは 人間的判断を最優先し 平安をなくします 死を恐れ 病を恐れるのではなく この命は神にあがなわれた命として 神の手の中にある神の命として明け渡していることが必要です なぜなら 私たちの命数は神のお考えの中にあるのですから その上で 必要な措置を取っていくことが大事なのです * それ故 古い肉の欲に引っ張られないことが 外からの巧みな働き掛けに対しても 内側にいる敵の攻撃に対しても 終わりの日の希望に対しても 崩されないために重要なことになってくるのです 欲望は信仰者の進むべき道を誤らせるから 十分注意しなければなりません 7
(3) 聖なる者と召された者にふさわしく * そしてペテロは 最後に あなたがたを召して下さったかたにならって あなたがた自身も聖なる者になりなさいと言うのです これは 私が聖なる者だから それにふさわしく聖なる者でなければ受け入れないぞと脅されているのではありません * あなたがたを召して下さったという言葉に目を向ける必要があります それは 聖なるお方がご自分にふさわしい者として 罪の世から呼び出し 引き上げて下さり 聖なる者にして下さったという意味が込められている言葉なのです * 神が聖なると言われているのは すべてにおいて完全な意味で汚れがどこにもない 完璧なお方であることを指していますが このお方に召し出された者としての聖とは 神のものにより分けられた者との意味で その意味においてきよいのであって 人間的な汚れが一切ない人のことを指しているのではありません * ですから 神により分けられ 神によって聖とされた者としての意識を持って その聖なる状態を保持する歩みをしなさいと言われているのです それが 心の腰に帯を締めることであり 身を慎むことであり 終わりの日の希望をひたすらに望むことだと言われてきたのです * すなわち 信仰者とは 天国を目指して 今の時を寄留者として生き 神によって 世の汚れから救い上げ 神のものとしてより分けて頂いた者との強い自覚を持って 神のきよさにふさわしい きよい生き方をしていこうと努めることです * 引用されているレビ記 11:44,45 のお言葉は ヘブル 8
語で 分離 を意味する言葉ですから 汚れたものから離れることを表現しており それは古い心から離れよという意味で ペテロは引用しているのだと考えられます * すなわち あなたの心の中に残っている古い心は 欲の思いを土台としており パウロが エペソのクリスチャンたちに あなたがたも元は 肉の欲に従って日を過ごし 肉とその思いとの欲するままを行ってきた者であり 生まれながらの怒りの子であったと言っているように (2:3) この古い心から離れる生き方をしていくことが 聖なる者として生きていこうとすることだと分かります ( まとめ ) * ペテロは 天国人人生を与えられた者として受けている恵みを落とすことがないように 何を注意しなければならないか どこに目を向けていなければならないか どんな努力が必要かについて勧めてきたのです * 聖なる者となりなさいと勧めたのは すでに聖なる者にして頂いたのに それを無駄にするような生き方をしてはならないというためであったと分かります * なぜこのように勧める必要があったのでしょうか 人間は 感覚を重んじる心が強く 見える部分でどうしても自分が聖なる者にされているという意識を持つことが難しく 古い心に引っ張られる生き方になりやすいので それでは神によって選り分けられた者としての人生が無駄になる 世から 罪から選り分けられた者 神によって聖なる者にして頂いた者との意識を持ち 古い心の中心にいる欲望に引っ張られる汚れを避けるようにしなさい と勧めずにはおれなかったのです 9