本多静六通信第 19 号 ( ) 1 平成 3(011) 年 2 月 15 日第 ₁₉ 号発行 通信おはようございます私は本多静六の孫にあたります本多健一でございます 孫と申しましても 大正の生まれでございますので 現在 後期高齢者の仲間でございます 本多静六は 明治以前の慶応二年の生まれでございますので もし 現在生きておれば もう一四〇歳を超えているという年齢でございます 本日は 埼玉学生誘掖会の皆さんにここで初めてお目にかかりまして また ここでお話をする機会をいただいて 大変ありがとうございます また 地元菖蒲町の 本多静六博士を顕彰する会 の皆様方大勢の方にお出でいただきまして 私の方が光栄に存ずる次第でございます 今日は 学生の皆様方が多いと思っておりましたので 本多静六の人となりを半分ぐらいお話しまして 後の半分を私がこれまで専門でやってまいりましたエネルギーのお話をしようかと思って参りました 祖父本多静六の思い出 本多静六の専門は 林学 造林学でございまして それに伴って 森を造る それから 公園を造る という仕事でございます これは先ほど本多静六記念室でご覧いただけましたし また午後の予定でビデオをご覧いただくようでありますから 私はむしろ 身近な孫としての本多静六の思い出などをお話したいと思っております 私は大正の生まれと申しましたが その頃の本多静六は もう東大の教授を定年になり 名誉教授となっていた時期でありまして 私が物心ついたのがちょうどその頃であります ですから 孫から見た本多静六 というお話になると思います 本多静六が亡くなりましたのは 私が大学院の学生の時でございました 学問の専門は別としまして 本多静六は人生の処世に特徴がありまして 遺族から見ますと 非常に厳しい人生論と申しますか それを自分で実行してきた人間であると思います 私が孫として可愛がられていた頃は そんなことは分りませんでしたけれども 今思い出しますと なるほどな あるいは 中々真似が出来ないことだな と思うことが沢山ございます これを一言で申しますと 倹約でつつましい生活をするという人生であったと思います つまり 贅沢をしないという生活であります 私が後になってから思いますと 二宮尊徳のような生活の仕方だったのだな と思って 私自身が大学の先生をしておりましたので 学生さんに 二宮尊徳 という言葉を出しても それは誰ですか という返事がくるような時代になってきました 要するに 贅沢をしないで 倹約をして 一所懸命勉強をする というような 非常に単純な言葉で言った方がお分りやすいと思います 本文章は財団法人埼玉学生誘ゆうえき掖会が平成二十一年十一月十四日 菖蒲町生涯学習文化センター(アミーゴ)で主催した講演会から収録したものを提供頂きました 本紙への掲載については講師本多健一博士のご了解を頂いております 本多健一博士は本多静六博士のお孫さんにあたられ 東京大学工学部教授を定年退官された後 この間に紫綬褒章 日本学士院賞 勲三等旭日中綬章 文化功労者 日本国際賞など数々の表彰を受けられております 本多健一先生と言えば 太陽光エネルギー(太陽電池)の開発者として世界的に有名であり ノーベル化学賞の候補としても推薦されています (本多静六博士を顕彰する会会長小山千秋記) 本多健一本多健一氏
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日 人生即努力 努力即幸福 というのが 我が家の人生訓モットーでありまして それを書いた色紙が 今でも私の家に飾ってございます もっとも その色紙を書きましたのは本人ではございません なぜかと申しますと 本多静六はお世辞にも字が上手ではなかったのです その反面 今の言葉で言えば大変なメモ魔でございまして 手帳が沢山残っております 毎日その手帳を必ず持参して これは と思うことはメモしてありますから いろんな事柄が書いてあるのですが よほど考えないと判読が出来ないような字でした そういう人生の考え方ですから とにかくのんびりとどこかへ行って遊んだり 娯楽に興じて楽しく過ごしたという記憶がありません 我々現代の人間としては 人生を愉しむ ということも大事なことですから当たり前のことですが 本当は好きなのを我慢して愉しまなかったのか あるいは人生訓に基づいて勉強ばかりしていたのか それは分りませんけれども 私が子供の頃一緒におりましても ぼんやりと何かを眺めているとか 今で言えばテレビを観るということでしょうが 当時ですからラジオで歌を聞いているとか そんなことはなかったと思います まず 贅沢をしない ということから申しますと 私の父親は本多静六の長男でありましたが 私の伯母に当たる父の姉を含めて実の子は非常に厳しく育てられたそうであります しかし 孫の私はそういう厳しさを実感するような記憶は全くありません 祖父本多静六は 四分の一貯金法 という人生の設計を立てまして これの実行をしております 四分の一貯金法 というのは 言葉どおり自分の給料の四分の一は まず最初に天引いて貯金をするということです 近年は 財テクとか言って 貯金をすることがあまり好ましくないように考える世の中の変化がございますが 当時は倹約をして貯金をするというのが 難しいことであると同時に 大事なことだったわけであります 本多静六は そういう人生の計画を自分で立てて それを厳格に実行しました すなわち 四分の三の給料でその月の全てを賄うわけでありますので 月給日から段々時間が経ってまいりますとお金が無くなりまして 私の祖母に当たる本多静六の連れ合いは どうしてもおかずが乏しくなって ごま塩だけでご飯を食べなければならないという苦労を強いられたようであります 子供たち つまり私の父親や伯母たちは ごま塩をご飯に振りかけただけの食事という経験をしたそうであります 孫の私にとりましては 物心がやっとついた頃ですから ぼうや ぼうや と頭をなでてもらうことだったろうと思いますが 子供ですから祖父の部屋でも茶の間でも遠慮なく入っていって 私に対してはそんなふうに扱ってくれました むしろ 親が祖父に会うときは 相当に緊張して気構えて話をしていたようです 思い出してみますと ぼうや とは言ってくれたのですが じゃ お菓子を一つ なんて貰った記憶は全くありません 大体がお菓子なんてものは家に置いてありませんでした 食事は本人一流であって そのことは後でも申しあげますが お菓子をもらったこともないし 玩具なんかを買ってもらった記憶も一つもありません 小学 中学生の頃は 祖父のお供をしていろんな所に参りましたが 勉強の本なら買ってくれるかな と子供なりに考えて 本屋の前を通ったときに 英語の参考書が欲しい と言ってみました そうしましたら ぴしゃっと ダメ と言われまして 勉強に必要なものは 親に言いなさい 必要なものなら親が買ってくれる それを親以外の人にねだったりしてはいけません と 逆に説教をくらって 諭された次第であります 先ほど 一流の食事 ということを申しましたが 勿論 贅沢な食事ではなくて 特に晩年になりますと菜食主義になりましたが 禅宗のお坊さんのように 魚や肉を一切食べないということではなくて 色んな野菜の芽の方を ホルモン漬 という名前をつけまして 毎食それを山のように食べておりました 本多静六については沢山思い出がありますが いろいろな方から 到来品 と申しまして 物を頂戴することが多くありました 昔の贈答品というのは 今のように
本多静六通信第 19 号 ( ) 3 平成 23(2011) 年 2 月 15 日デパートに頼んで配達するというようなものではありませんで その方の地元の産物をミカン箱などの木箱に詰めて ミカンだとか 柿だとか 梨だとか 野菜とかを一杯詰めて送ってくれます そうしますと 家の者だけでは食べきれないので お裾分け と言いまして それを近所の方や知り合いの方にお分けをするのであります 私の母は そういう役目をしょっちゅうやっておりまして ミカンを頂戴したから 誰と誰に上げなさい ということで お裾分けの仕事をやっていたようでございます それから 先ほど二宮尊徳流ということを申しましたが 倹約 というのは 勿論贅沢なことはとんでもないことでありまして 一銭でも倹約できるものは 倹約しろ と言うのが 口癖のようであったようです たとえばどういうことかと言いますと 私が小学生 中学生ぐらいになりますとお使いを命ぜられまして どこそこのお宅へ行って これをお届けしろ などと言われて参ります かなり遠くまで行くことがありまして市電に乗って行くとしますと 私の記憶では 戦争前の話ですから当時七銭でした 銭の単位なんかは今の学生さんにはピンとこないと思いますが そういう時代でしたが 歩いていけよ と言うのです 大変だなと思いましたが 1 時間かあるいはそれ以上をかけて歩いて行って 言い付かった用をして戻ってくると 電車賃を 小遣いだよ と言って 往復十四銭を小遣いとして貰うという生活を過ごしてまいりました 先ほど 人生即努力 努力即幸福 がモットーであったと申しましたが 本多静六は少年時代に大変努力したようでありまして お米を搗きながら勉強したようであります その頃お米を搗くというのは 杵のところに立って 足で杵を動かして搗いていたようでありまして 足を動かしながら勉強したと言っておりました そういう努力の結果 祖父の父親から お前は東京へ行って勉強しろ と言われたようでありまして まず 東京山林学校 に入学しました これは 当時で言うと官立の学校でしたが そこに何とか入学することができました ですが その山林学校にはよく出来る生徒が集っていたので いろんな勉強を一所懸命したけれど 最初の年は見事に落第ということになってしまいました それで非常にショックを受けて 井戸に身を投げようと思って井戸のところへ行って身を投げたのだそうですが それまで働いて体を鍛えていたので 井戸の縁を手で捕まえて それを離すことが出来なくて 暫く井戸の淵にぶら下がっていて そのうちに思い直して又這い上がって 思いとどまったということを言っておりました それから物凄い勉強をして 無事卒業が出来たわけであります その 東京山林学校 というのは 明治の二十年代に出来て その後 東京農林学校 と一緒になりまして それが 後の東京帝国大学農学部になって現在の東京大学農学部の前身の学校でございます その後 すぐにドイツの大学に留学することになりますが 今日では観光でヨーロッパでもアメリカでも簡単にいける時代ですが 明治二十年代に留学をするということは 今とは全く比較できないほど大変なことでありまして 勿論飛行機などありませんから 船で一か月以上もかけていくわけであります お金も大変かかるわけですが 曾祖父に当たります本多静六の義父(岳父)から お金を出してやるから留学しろ と言われて ドイツに留学をいたしました その時の写真などは 先ほどの記念室にありましたのでご覧いただけたと思いますが そこに足掛け三年おりまして帰国をいたしまして 直ちに母校の助教授に任命されたわけであります 留学中の写真などを見ますと 日本刀を差して向こうの先生と向き合って話をしているというような写真が記念室に飾ってありました そんな思いで何とか留学をしたようでございますが そのときの面白い逸話がありまして 曾祖父がお金を出してくれていたわけですが その曾祖父が一 二年経ってから破産をしたそうです どういう理由で破産をしたのかは存じませんが そこでお金が途絶えてしまって 留学を続けることが出来なくなりましたので 留学の期間を短縮せざるを得ない状況に追い込まれました そこで猛勉強をしまして それで向こうの学位試
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日 森林組合の改革により地域林業を振興昭和四十七年から林業経営を始め 平成九年から森林組合長として組合の改革に取り組みました また 県内でいち早く 高性能林業機械等を導入し 生産 搬出 販売経費を削減するなど高能率 高精度な施業等を実践しています 安定して持続的な林業を経営価格面からみて 日本国内で外国産材と対等に競争しうる人工林の伐木 販売及び現行補助制度を利用した植付 保育を実践し 持続的な森林経営に取り組んでいます 社会的な貢献 山づくりは人づくり という理念のもと 人材の育成に力を入れています また 県森林審議会会長や埼玉県森林組合連合会副会長等の要職を務め 県の森林 林業 木材産業の振興にも寄与しています 三表彰式表彰式は 平成二十二年五月二十八日に知事公館で行い 知事から表彰状と副賞としてヒノキ材を使ったレプリカ 賞金が贈られました 表彰式の中で 原さんから すべては基本理念に基づいて~120点満点を目指して~ と題して 組合の事業方針 基本理念を実現するためのインフラ整備や人材の育成について 説明があり 意見交換を行いました 四終わりに県では本多静六賞の表彰を通じて 博士を顕彰するとともに 緑と共生する社会づくりに取り組んでいます 引き続き皆さんの御理解 御支援をお願いいたします 第三回本多静六賞受賞者の紹介埼玉県農林部森づくり課主査竹詰一一第三回本多静六賞について県では 本県出身で日本最初の林学博士となった本多静六博士の精神を受け継ぎ 緑と共生する社会づくりに貢献した個人 団体を 平成十九年度から表彰しています 第三回本多静六賞については 平成二十二年一月十五日まで募集を行い 個人八名及び九団体の計十七の応募があり こだま森林組合長の原邦紘さんが受賞されましたので御紹介します 原邦紘さん験に受かって 学位を貰って帰国が出来たわけでございます そのときの勉強の仕方が日記に書いてありまして 向こうのプロフェッサーから大変褒められたということが書いてあります 注エネルギーと環境問題は通信の第二十号に続きます 左田中久喜市長 中左原多喜子氏 中右原邦紘氏 右知事 すべては基本理念に基づいて~120点満点を目指して~ 一こだま森林組合の基本理念組合員(森林所有者)のための組合地域 社会 国土 水源 環境などに寄与する1事業方針 組合員と森林組合の信頼 利害関係人と組合の信頼関係の構築 組合職員と組合の信頼関係二組合長の職務1林業 木材加工流通業者 木造建築業者の調査研究2組合員及び利害関係人への啓蒙活動3人材の育成4組合の運営三基本理念を実現するために1インフラの整備2機械の大型化3人材の育成新しい課題を生みながら一〇~一五年で解決の道筋がつく四人工林以外の森林について林相を観察すること(専門家を養成すること)注意点 自然力(林床) 林分の状態(優勢種 着葉量) 県単独事業の武蔵野の森再生事業 里山 平地林再生事業が今後に役立つ二原邦紘さんの功績
本多静六通信第 19 号 ( ) 5 平成 23(2011) 年 2 月 15 日市の顕彰事業への取り組みについて久喜市長田中暄二久喜市は 平成二十二年三月二十三日に 旧久喜市 旧菖蒲町 旧栗橋町 旧鷲宮町の合併により誕生しました 現在 本市では 旧一市三町それぞれの地域の歴史や文化を生かした一体的なまちづくりを進めているところです 本多静六博士は わが久喜市の生んだ 全国に誇れる偉人であります 私は やさしさ あんしん かいてき の三つをまちづくり重点政策として位置付けており 本多静六博士顕彰事業はその一環として実施しています 本多静六博士の顕彰事業がスタートしたのは 博士生誕の地 旧菖蒲町において 平成四年に本多静六博士に名誉町民の称号を贈り 博士の業績を後世に残そうとしたものです その後 博士の没後五十年となる平成十四年には 本多静六博士顕彰事業基金 を設置するなど 継続して実施してまいりました 本市でもそれを旧菖蒲町から引き継ぎ 実施しています 顕彰事業につきましては まず 本多静六通信を 本多静六博士を顕彰する会 の皆様のご尽力により 年に一回又は隔年で発行しています また 博士にゆかりのある地を訪問する 本多静六博士ゆかりの地訪問 を 年に一回 顕彰する会との共催により実施しています 平成二十二年度は 九月十六日に 市民三十人の皆様が参加し 明治神宮の森 日比谷公園を訪れました 過去には 秩父市の羊山公園や水戸偕楽園等を訪問しています このゆかりの地訪問は 博士の偉大な業績に直接触れることができることから 大変好評をいただいています 続いて 埼玉県の事業になりますが 緑と共生する社会づくりに貢献した方を表彰する 本多静六賞 を平成十九年度より共催しています 私自身も合併後 選考委員として参加しており 第一回表彰式は 平成二十年六月に旧菖蒲町役場にて行われました 市内には 博士の業績を紹介する施設があります 菖蒲文化会館(アミーゴ)内には 本多静六記念室 が設置されています 記念室では 博士の肖像画をはじめ 写真や自筆の手紙 衣類 著書などが展示され 博士の人柄や業績などを知ることができます また 展示品のほか 全国各地の公園の資料やドイツ留学のときの 洋行日誌 等貴重な資料が保管されています 博士の生誕地の近く 菖蒲町台地区の国道一二二号沿いの道のオアシス内には 本多静六博士生誕地記念園 が整備されています 記念園では 博士の胸像を設置しているほか 博士ゆかりのイチョウ(日比谷公園の 首かけイチョウ を接ぎ木したもの)やユリノキが植えられています また 本多静六博士の手がけた全国の公園等一覧 の記念碑も設置してあります 菖蒲南部産業団地内の三崎の森公園内には 本多静六博士の森 が整備されています この森は 埼玉県の 本多静六博士の森づくり の一環として整備されたもので 博士生誕の地である旧菖蒲町が第一号として選ばれ 平成二十一年二月に植栽が行われました 県内に古くから生育する在来種のコナラやクヌギ カシやシイといった樹種を中心に植栽し 百年後の森の姿を見越して整備されています そのほか 市内には 博士の胸像が本多静六博士生誕地記念園 三箇小学校 菖蒲総合支所正面玄関前の三ヶ所に設置されており 市民の皆様に親しまれています 以上 本市の本多静六博士顕彰事業の取り組みを紹介いたしました 本事業の実施に当たりましては 本多静六博士を顕彰する会の本多静六記念室
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日皆 様に格別なるご協力をいただいています 今後も 本多静六博士を顕彰する会の会員の皆様のお知恵をお借りし また ご協力をいただきながら 本多静六博士顕彰事業をより一層充実してまいりたいと考えています 結びに 本通信の刊行に当たり ご尽力いただきました 本多静六博士を顕彰する会の小山会長様をはじめ 会員の皆様や関係各位に対し 深く感謝申し上げますとともに 顕彰する会の益々のご発展をご祈念申し上げます 遠山益氏生誕地菖蒲で講演会久喜市菖蒲町文化団体連合会会長小山千秋平成二十二年十月三十一日 久喜市菖蒲文化会館で本会主催 市教育委員会共催 本多静六博士を顕彰する会後援 第二十五回町民文化祭と新久喜市誕生を祝して記念講演会が行われた 講師は お茶の水女子大学名誉教授遠山益先生 演題は 郷土の偉人本多静六博士を顕彰する であり 文化祭の初日とあって会館の大ホールは市民で溢れ 市長 教育長 議会議長の臨席を賜り盛大に開演された 遠山先生には親しみ易い口調で博士の生い立ちと 数々の偉業を称え 中でも大学演習林の創設と大学の経営改革について述べられた 林学教育に演習林の必要性は文部省も認めるところであるが 応急的に国有林で実施したところ 不便極まりなく 大学独自で設置することになり すべてが本多に一任されることとなった とは言え 本多一人の力では無理があり 幸いにも先輩で恩師の志賀泰山(農商務省技官兼務)先生が 国有林の大学移管の職務にあり 格別の支援を頂き順調にことが運んだ 留学先のターラント山林学校では 数千ヘクタールの演習林を有し 実習のみならず 学校の基本財産として また 唯一の収入源として学校の運営を支えていたという ちなみに東京大学では 千葉県の清澄に二千二百ヘクタールの演習林の設置が決定した ところで 当時の国立大学の最大の悩みは 定年制実施のとどこおりであった これを ときの総長と本多静六の誠意 統合により演習林の収入の一部を運用して 退職金を支給することで解決をみることができた このように 大学の経営に関してまで先を読み 実行するところに本多静六の処世哲学があること講師紹介福島県会津若松市生まれ 東京教育大学卒業 理学博士 カリフォルニア大学ポストドクトラルフェローとして渡米 文部省在学研究員としてオックスフォード大学に派遣される 現在 お茶の水女子大学名誉教授 専門は生物学 多くの専門書外に 本多静六日本の森を育てた人 を出版され 本多静六博士の遠戚に当たられます 本多静六博士生誕地記念園を話された さらに 四分の一貯金や投機による莫大な蓄財を社会に喜捨したり 全国に手掛けた百余の公園が 百年後の今日 環境文化都市構想の核として脚光を浴びていること 日比谷公園 明治神宮の森などの話で時間となる 参加者からは 大変にわかり易く面白かった またの開催を希望します との感想をいただき閉会した 遠山先生はじめ 関係各位 各団体の皆様に厚くお礼申し上げます
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日本多静六博士ゆかりの地訪問について石塚勝夫明治神宮の森と日比谷公園の二ヶ所見学した まず明治神宮の森は 博士が百年後の森の姿を考え 植栽計画をたて 全国から約十万本寄進されたいろいろな樹木を天然林の法則にしたがって混植し 一切手を加えない姿が九十年経って現在の森となっている うっ蒼とした森と神宮の鳥居や社殿が見事調和し 夜来の雨に心地よい冷気が漂って荘厳さを感じた 次に小山会長の案内で日比谷公園を見学した この公園は 博士がドイツ留学から帰国し はじめて造った公園という 日本初の洋式庭園を取り入れ 日本庭園と組み合わせた公園である それにテニスコート 音楽堂 公会堂 図書室など兼ね備えている これは博士の漸新な発想のもと次の三つの目的をもった公園という 1憩の場2芸術 スポーツの楽しめる場3教養を高める場として総合的な公園を設計した しかもいつでも誰でも出入り自由とし 出入門は設けなかった 今では 当たり前だが当時としては大変なことだったという また博士が 日比谷公園の 首かけイチョウ 切り倒される寸前の樹齢四百年という大銀杏を生命を賭して守り 移植に大変苦労した 首賭け大銀杏 が公園の一角に見事に息づいている この大銀杏は かつての学生運動で隣接する料亭が焼かれた際 消失を免れ 奇跡的に助かり生き延びて写真のように見事な姿に復活している その姿に当時の博士の意気込みを感じた 現在 日比谷公園は都会のど真ん中で緑を保ち 多くの人々に利用され 憩いの場所となっている 今回の見学を通して 国家百年の計 と一口に言うが 博士が身をもって 百年後の姿や社会を見通し 今それが見事に実を結んでいる姿に感動した そして現代社会がかかえるさまざまな環境問題や都市緑化の在り方の原点になっていると感じた 終わりに見学会を企画され ご案内いただいた小山会長をはじめ 主催者の皆様に心から感謝申し上げます 明治神宮で説明を受ける参加者
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日簡素生活は人生の幸福本多式貯金法本多静六博士を顕彰する会中野紀代子本多静六博士を顕彰する会では月に一度博士について 学修会 を催しています その中から表題について学んだ事をまとめてみました 誰も貯金の必要な事は充分感じており 貯金しようと決心はするが長続きしない 中には 貯金の秘訣 とか 誰にでも出来る 貯金法 とか 表題を見つけると 何とかして遊びながら貯金の出来る方法はないかと 日夜研究している人もいるようであるが 大切な心の問題を忘れて出来るものではなく 貯金 には不断の実行と その実行を促す確たる信念がなければならない 博士の五十年来実行してきた貯金法は 全く血の滲むような必要に迫られたことと こうすれば必ず出来ると云う確信があったればこそ楽しく実行し続けられたのである 博士が一家を背負って立つ頃には 親類なども含め大家族であった 幼い時から貧なるが故の屈辱を嘗め また この現実の生活苦を切り抜けて行く為には 思い切った節約をしなければならない そこで将来の生活安定のため 先ず貯蓄の必要性を痛切に感じたのである 貯金が如何に必要だからと云っても また その方法が如何に合理的と云っても 家族全体が前途に希望を抱いて実行して行くのでなければ長続きしない 家族一同に理解してもらうために仔細に計算して 努めて前途に希望と光明とを認めさせるようにし買物はすべて現金買としたのであるが 月末になるとおかずが買えず胡麻塩だけで過ごした事も度々あった 然し 負けてはならないと 貯金はみんなお前たちのためだよ と云って苦労している奥さん名義の貯金にしたのである 奥さんも初めは ずいぶん苦労したが 何の不安もなく暮せるようになってみると 貯金を断行してくれた事が誠にありがたく 涙がこぼれる思いであった 前途に確実な光明を認めさせて 貯金が家族一同の幸福になる事をよく認識しさえすれば 案外簡素な生活に堪え得るばかりではなく 喜んで節約に協力してくれるものである 貯金をしようと思ったら決して幸運を望んではならない 一にも努力 二にも努力 自分の働き出した汗水の蓄積でなければ溜るものではなく 賭事などで貯金の出来た人はいない 次に貯金をしようと思ったら虚栄心を捨てる事である 家柄とか しきたりに捕われずに現在の自分の力量 即ち収入に則した簡易生活こそ幸福の根底であると悟り 一切の見栄を捨てされば 貯金は自然に出来るものである ご馳走も時々食べてこそ美味であって 働いた後に食べれば何でも美味であり贅沢な食生活を続ければ 成人病で後々苦しむ事になるのである 子供は如何なる場合でも貧乏育ちにすべきで 幼少の時に贅沢の習慣をつけると それが一生を支配して前途に破滅を招くものである 苦学をさせる事も なんら教育の本義に背くものではなく かえって人生と実社会に則した真の教育が出来るのである また 身分不相応な生活 世間並以上に派手に暮してみたいと云うような見栄坊では 決して貯金は出来るものではなく へり下って実の生活をする事こそ 真の幸福を招き 謙遜の精神も養われるものである ここま博士の著書 人生と財産
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日では博士の体験 人生観と云うものである さて 本多式貯金法と云うのは 四分の一貯金法 である あらゆる通常収入は入った時 天引きし 四分の一を貯金する ほか臨時収入及び利息も含め すべて貯金する方法である 先ず倹約して残ったら貯金しよう と云う人もいるが そんな手厚い日明主義では到底だめである 初めから容赦なく天引して 四分の三で出来るだけ節約に暮す なお そこに残りが出来れば臨時収入として全部を貯金するのである 予定以外の収入はすべて貯金して決してそれを不断の生活には使わない事にしたのである 即ち通常の歳出は通常の収入で賄い 臨時収入は平常の暮し向に当ててはならない この事は ドイツ留学時代に 命がけで勉強し 経験した経済学の原則なのである この方法を二十五歳の時から始める 最初は随分苦労もしたが 給料も上る 利息も増えるで 二十年経った時には 実に予想外の額となり 利殖法を株式 山林 土地に拡大し給料よりも臨時収入の方が多くなり 莫大な財産が出来たのである もともと財産を作るのが目的での貯金ではなく 出来るだけ生活を質素にして不必要な費用は節約し 将来の生活安定を計るために始めた貯金である それがいつの間にか 大金持になったのである 博士には 実業家の考えはなく学者であり どこまでも学究者として立つのが目的であった 金持になってみると 金持ぐらいめんどうで 厄介で 馬鹿気たものはないと云う気になる 子孫に財産を残したら 貧乏苦労の味を知らずに かえって不幸な生活を送る事になると考え 生活に必要以外の財産は 名を伏して 公共事業や 慈善事業に寄贈されたのである 博士は自ら所有していた森林を県に寄贈 その森林から生まれる収益は毎年 奨学金として今なお その富をわれわれに与え続けているのである 役員研修会渋沢史料館に企画展学生寄宿舎の世界と渋沢栄一 埼玉学生誘掖会の誕生 平成二十二年十一月十九日 王子の飛鳥山に渋沢史料館を尋ねる 参加者十二名は王子駅中央口に新設されたケーブルカーで 帝都に唯一の都電荒川線を眺めながら飛鳥山公園に上る 江戸時代の三大桜名所の面影を今も残しながら三つの博物館(紙の博物館 飛鳥山博物館 渋沢史料館)と旧渋沢邸庭園を含めた歴史と文化の公園に変っている 紅葉した樹間の広い園路をそぞろ歩いていると史料館に辿り着く 本多健一先生から事前のご案内を頂き 館長自らのお出迎えと丁重なあいさつに続き 企画展の主旨 特に本多静六博士と誘掖会の係わり 本多の果した役割について篤と説明をいただき感謝に絶えない次第である 膨大な資料の展示をいともわかり易く感動と感嘆の中に一巡し 誘掖会について改めて理解を深めることが出来た 渋沢栄一を中心に 埼玉出身の各界の要人が 郷土出身の学生を支援する埼玉学生誘掖会の設立について 時間と討議を尽し渋沢の即断 即行を待ったが埒が明かず 遂に本多の直訴するところとなり 渋沢の胸中容易ならざる事情が明らかになった 会の設立 寄宿舎の建設奨学金の貸与はよいが これを民間事業として存続することの困難さを熟青淵文庫前にて
本多静六通信第 19 号 ( ) 平成 23(2011) 年 2 月 15 日慮10 すれば条件が必要である それは渋沢自ら終生会頭を続ける決断であった これこそ自ら身を以って事に当る渋沢哲学であり 後世への教訓であると思われる しかし 本多はこれを予知していた しばらくして明治三十五年(一九〇二)誘掖会が設立され 以来第二代会頭を本多静六 第三代を渋沢元治が継いで 五千名に及ぶ有為な埼玉学生の支援と育成を果して百年 平成十三年(二〇〇一)に 時世の変化に即応して育英制度を支給制とし 寄宿舎を廃止した 改めて先人の偉大な業績に敬服しながら庭園に足を伸ばせば 古色ゆかしい青せいえんぶんこ淵文庫や晩ばんこうろう香蘆 山モミジの紅葉 真黄色に色づいた楷かいノ木が静かな森の庭へと誘い しばしの疲れを癒してくれた 参考文献 図録 学生寄宿舎の世界と渋沢栄一 埼玉学生誘掖会の誕生 (文責広報部清水ひとみ)NHKいっと6けん地域の未来を育てる 埼玉久喜 平成二十二年十一月四日 NHKいっと6けんの番組に久喜市が紹介された アナウンサーとリポーターの対話で 今年三月二十三日 一市三町の合併により 人口十五万の県東北部中核都市が誕生して と話していると広大な田園が現れ その奥の方に本市唯一の大学 東京理科大学久喜キャンパスが見えてきた リポーターは大学の説明をしながら玄関に入り サイエンス夢工房 という部屋に向かった 学生たちの中に子供が交じって即席の押花作りをやっている 数分で色鮮やかに出来上がり 歓声の場面が放映されていた 一方では綿あめ作りに挑戦中 アルコールランプと電気ドリルで簡単に作り リポーターの試食顔 観察と体験を通して 不思議と感動の中に理科の面白さを満喫している子供たちの明るい顔 突如として小山会長が現れ 樹木医として紹介された 何やら木の治療のようである 前町長宅の門前である (ここから編集部員が密着して取材に当たった )門の両側には樹齢百年を超え 樹高二十メートルの自じば生えのケヤキがあり 片方は見事な双幹であったが 平成十九年の五月 突風で引き裂かれて倒れた映像が写された 樹木医は車のトランクから治療器具を取り出して診察に当たる カメラは逐一捕え リポーターは興味深く質問していた 木槌を指して これ何に使うのですか これが私の聴診器なんですよ この大きな傷跡を見てください 中は空洞になっていて折れる心配があるので 鉄筋で補強してあります 回復の見込みは如何ですか 樹木医は病気や怪我を治すのではなくて 綿密な診察と正確な診断によって原因を取り除き 木の持っている治癒力を助けてやるんですよ そして 回復又は延命の応援をすることですね と話しながら木槌で打診を始めた 治療した後を数ケ所叩くと 微妙な反響音をマイクが捕らえた これが健常部の音 これが枯死部 腐朽部 空洞部の異状音を人間の耳より正確に捕らえているようである 場面は三箇小学校へ移った 三箇小学校は本多静六博士の母校であり 百三十年の歴史を持ち 本多が手掛けた寄せ植えの松がシン三箇小児童と樹木医小山千秋氏
本多静六通信第 19 号 ( ) 11 平成 23(2011) 年 2 月 15 日ボルとして保存されている 林学者は百年先を見て仕事をするもので 本多は今日の姿をイメージして植えたに違いない この健康美 優雅さ 見る人ぞ知る生きた美術品 芸術品であり 名品盆栽を見るようである その木の下で子供達と何やら話をしている 矢継ぎ早に質問をしたり 質問されると 二人も三人も一緒に答える賑やかなショットである カメラは数百メートル離れた本多静六博士の森へ移動した 埼玉県では開発によって失われた平地林を再生するため 本多静六博士の森造り事業 を施行し その第一号地を博士ゆかりの菖蒲町とし ここ菖蒲南部開発流通団地内に二十アールの森を造成し平成二十一年二月 植樹祭が行われた 県 町の関係者 市民の有志 三箇小学校緑の少年団 本多静六博士を顕彰する会の会員で植林を行った カメラは既に森に入り 折から作業している会員の作業風景を捕らえ インタビューをしていた 何の仕事をなさってるんですか 支柱が腐って木が曲がってしまうので 支柱を交換して誘引(しばりつけ)してるんですよ ここは 冬の季節風が強いんで これをやらないと駄目なんです 以下樹木医の対話を紹介する 何本位植えてあるのですか 五百本です どんな木が植えてあるのですか 本多林学に習い 昔からこの土地に自生していた木 つまりこの土地を好む木を植えました コナラ クヌギ ミズキ エゴ ガマズミ エノキ シラカシ スダジイ クスノキの九種類です 管理も大変なんでしょうね 夏の除草が大変でしたね 苗木ですから草に覆われると枯れてしまうので 背の高くなる草を刈取り 抜き取りもしたり 除草剤も使いました なお 次のとおり力説していた 木を植える時は 人の好みや都合でなくて 木に聞いて植えるのです 動物と違って動けないのですから 嫌いな所に植えられた木は一生苦しみながら 醜い姿で枯死していきます 反対に好きな所に植えられると健やかに成長して虫や鳥を誘い 周囲の草とも友達になり楽しい楽園を作り 音楽会や演舞会を開いたりします 次第に動物たちも参加し 地中の小虫たちも浮かれて出て来ます これが生物多様性社会で環境の理想郷なのです 然し こんな所にも不法者が侵入し森の治安を乱すことがあります 外来植物や蔓性植物です これらは木と相談して早期に駆除しなければなりません そうなんですか?楽しい森ができそうですね 大人にとっては休養林 子供にとっては昆虫の森となります でも人が仲間入りするには木と交流 話し合いが出来なければ駄目なんです 木の許しを得て野生の食草(セリ ノビル)や染色植物(アカソ コブナグサ)等減少植物を入園させてもらい 保護者として協力するのがよいでしょう カメラは種類別にラベルと木を映し 森の全景を紹介して 最後に会員一同 森をバックに 百年の森造り頑張ろう と檄を飛ばして終了した ちなみに木は一メートルから二メートルに伸び 標準的と思われる (広報部)森を管理する顕彰する会の皆さん
本多静六通信第 19 号 ( ) 12 平成 23(2011) 年 2 月 15 日 編集後記 本多静六博士の森 の木は すくすくと伸びて 漸く草を凌ぐようになったが 酷暑と酷寒に驚き柱にしがみついて関東の空っ風に耐えているようです 市町の合併により いち早く市長から顕彰事業推進の所信表明を頂き 勇気を与えられました 埼玉学生誘掖会からは 本多健本多静六博士が体験したドイツ留学の美談から本多静六博士を顕彰する会本多静六が東京農林学校(東京大学農学部の前身)を脅威的な努力により一年を残して変則卒業し 明治二十三年三月二十三日横浜港よりドイツ留学に出発した 最初はターラントの山林学校に入学した しかし ドイツの制度では 大学の教授になるためには別にドクトル試験のある大学でドクトル免許を取る必要があった そこで 静六はミュンヘン大学に転校し 四年間の留学生活が始まったが 半年も経過しない時に 本多家が詐欺にあい 学費の送金がとまってしまった 少年時代に父の借金で味わった 水行塩菜 の緊縮生活を体験したが 異郷の地で再び実行に移さねばならなくなったのには さすがに閉口したという そこで 静六は四年の課程を半分の二年で卒業する決心をし 下宿屋も可能な限り安宿に変え 四年の学科もすべて二年間で聴講して 学位請求論文を提出した この学位請求論文は 無事に通過することができたが 当時 世界的に有名な財政学の大家でブレンタノという少し偏屈な教授は ミュンヘン大学では 在学二年以下で学位を与えたことは未だ嘗てない と反対したが ようやくブレンタノ教授の口頭試験を受けることとなった この教授の書いたエーヤベルクの財政学を三週間で全部暗記し みごと合格 ドイツに留学して満一年十一ヶ月で 国家経済学ドクトル の学位を得ることができた 学位授与式後 学校差し回しの二頭立ての馬車で 意気揚々下宿に帰ってくると 当時十一歳の末娘のリーナがランドセルを背に小学校から帰ってきた 母親が リーナ 本多さんにおめでとうをおっしゃい すばらしい出来なんですって リーナは 澄ました顔で お母さん そりゃア当り前よ! さすがの静六も ア然としてリーナを見つめた こんなに痩せる思いで やっとパスしたのに 冗談じゃない 母親の説明によると 必ず合格すると思ってはいても 子供心に心配でたまらず 三人姉妹で相談し ずっと毎朝教会に行き 静一博士の講演収録を提供頂き巻頭を飾らせて頂きました NHKには 新生久喜市を紹介するに当り顕彰事業の一端を一都六県に放映して頂き 大きな反応を頂いております 埼玉県からは 本多静六賞 の受賞者の実績紹介を頂き ゆかりの地訪問 役員研修会等の記事も登載することが出来ました ひとえに関係各位 各機関の絶大なるご支援の賜と心より感謝申し上げます 編集発行 本多静六博士を顕彰する会 窓口 久喜市役所企画政策課 346-8501 埼玉県久喜市下早見85 3電話0480 22 1111 久喜市菖蒲総合支所総務管理課 346-0192 埼玉県久喜市菖蒲町新堀38 電話0480 85 1111 本多静六博士を顕彰する会では 会の活動をさらに充実させるため 一緒に活動していただく会員の方を広く募集しています また 当会の趣旨にご賛同いただける団体会員の皆さんも募集しています 入会受付 随時年会費 個人会員 1,000 円団体会員 5,000 円問合せ 本多静六博士を顕彰する会窓口会員を募集しています六の合格を祈願していたのだというのである 神様にお願いさえすればどんなことでも叶うものと信じきっているリーナのことですから 当り前よ と言ったのでしょう たった二年足らずの同じ屋根の下で暮したに過ぎない 一介の外国の貧乏学生のために 何という有難さ 何という羨ましさ 感激は 学位の取得以上に気持ちが高ぶり 涙が止まらなかったそうである この下宿は ババリヤ王宮の御士長を務めるヤコブという人の家で エーヤベルグの財政学 の暗記が三週間で出来たのも この家族の協力の賜であったという (文責広報部柴崎一)