新約単篇マタイによる福音 ミサ通常文について マタイ 15:21,22 ここ二 三年前からギリシャ正教の礼拝とか儀式 その神学の一部について星田の夕拝やチャペルで四 五回発表してみました what other people are doingというようなことで もちろん私の知っている other people というのはギリシャ正教とローマ カトリック位の所ですけれど 今朝はギリシャ正教ではなくローマ カトリックの ミサ通常文 のテキストについて概観します 大体こういう決まった式文というのは 何代もにわたって 時には何世紀にもわたって先人たちが磨き上げてこしらえた傑作であることは確かです 先日 二つの結婚式の式文を書いていまして あれは決して傑作ではありませんが あぁ 昔の人もこうやって後代に残る典礼文をこしらえたんだな と考えていました 由緒あるところでは日本聖公会の結婚式式文とかですね 教団のものなんかは比較的新しいのですけれど それでも委員会で何度も書き直して討議を重ねてできたものでしょう 礼拝の典礼文もやはり何人もの天才的な詩人の霊感と その後の教会会議での討議とかを通して後代の人の手に残ったものでしょう まあ我々の教会ではそういう決まった式文など使う所は少ないでしょうが それでも集会の大体の枠組とか 交読文 主の祈りの使用とか 讃美歌や頌栄だとか やはりあれも一種の traditions で伝わっているものでしょう 特にアメリカの traditions は聖歌や勝利の歌などに強烈に現れています こういう立派なものと比べますと 織田の結婚式の式文なんかは決して後 代に伝わりませんし また伝える必要もないものですけれど 礼拝の典 - 1 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
礼文 例えばギリシャ正教会で大体毎週使っている主日の典礼文 liturgy と いうのは あれはクリソストモスの名作を踏襲しているわけです 時々クリ ソストモスじゃなくヴァシリオスのものを入れ替えて使う日もあります さて ローマ カトリックのミサの話に入ります 先日来 拒絶反応の話が続いていますので ミサと聞いただけで拒絶反応のアレルギーが起こる方もあるかも知れません でも アヴェ マリアとかレクイエムの固有文なんかは マリアに祈る形の所があって私も拒否反応を起こしますが 例えばレクイエムの終わりの方など 聖なる処女よ われ地獄の火に焼かれざらんがため 審判の日にわれを守りたまえ Perte Virgo sim defensus in die judicii なんかはマリアへの祈りですから 我々は本気ではこれは祈れないのです さすがにミサ通常文はそういうことはなく 大体聖書の言葉を中心に編まれた讃美と信仰告白の形をとっています 特に第 3 章 credo は いわゆるニケア信条 ニケア コンスタンチノポリス信条ですね 7 行目の 天主よりの天主 光よりの光 の所で少し語順が違うのと それにこれは上級生と教師の方はご存じの通り 赤い星印を付けた聖霊の項目 および子より の入っている所だけ ギリシャ正教のものと違うわけです 私の文法の初版 33 頁にアクセント練習教材として入れてあった原作ではでしてはありません ところで 今日は教義上の問題には深入りしないことにしますので お手許にある ミサ通常文 もちろんラテン語ですが これをご覧ください 第一章. キリエ Kyrie 面白いことに この三行だけはギリシャ語なのです やはり東西教会分裂 の前から古代のクリスチャンたちが使っていた 一番素朴な祈りの原形をと どめております これはラテンのカナ ( ローマ字 ) で書いてあるのですが - 2 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
元通りに書きますと 語形は文法的に何に当たるか 横溝君と細川さんにあてれば一発で答える はずですが 第一アオリスト 能動命令法 二人称単数形です 右に訳文が ありますように 主よ 憐み給え キリストよ憐み給え です 主の前に出た信徒が何より先に 自分が憐みを必要とする存在だというこ とを告白しているわけですが ここは私は同感できますね ミサの第一章 私は拒絶反応は全く起こりません ところで 聖書にこれと同じフレーズがあるかですが 大体同じのが数ヶ所にあります 例えば今読んだマタイ15 章 22 節にとありますが 主よ ダビデの子よ 私を憐れんでください です ここから 私を を省いて ダビデの子 というヘブライ的表現を少し和ら げて一般化すると てまいります という二つの文章が出 人間 憐みを請うということは 余程打ちのめされて己を知らないとでき ないものですが 礼拝の最初の言葉はこれで行こう 絶対これしかない と言った人たちの信仰に同感できます 第二章. グローリア Gloia ここからは全部ラテン語です 聖書の元の言葉で言うと です Gloria in excelsis Deo. Et in terra pax hominibus bonae voluntatis. - 3 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
これはクリスマスの歌にありますが ルカ伝の原作の言葉に基づいた直訳 です この 2 行目の訳文はちょっと UBS の 3 版と違いますが 最後の一語が公 認本文と UBS で違うからです いと高き所では神に栄光 地の上では御嘉納の人々に平安! もちろんベツレヘム郊外の羊飼いたちの聞いた天の軍勢の声ですね 以下 Laudamus te, から後は 詩篇の文体を真似て まず父なる神を讃えた後 もう一度キリストに憐みを請い そのキリストこそは父の栄光であり 至高の主であるという讃美で結ばれます 私どもは学生時代にコール夫人から礼拝学を学びました時に 讃美 とか 栄光讃美 という区分の歌をどこに置くか というようなことを教わりました もちろん讃美歌全部が 讃美 の歌ですが それでも聖歌にも讃美歌にも さんび という短い区分がありますね つまり 聖餐の歌 や お願い や 祈り の歌を歌う前に まず 讃美 praise の歌を置くというのも 実は大昔からギリシャ語やラテン語で礼拝した人たちが作った伝統なのですね 大東のプログラムを自分で見ていまして ( というより自分が作ったもので すが ) なるほどこの 2 曲目と 3 曲目がグローリアかな やっぱりミサの 影響を受けているかな と自分で感心したりも致します テキスト 11 行目をご覧ください - 4 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
主は世の罪を除き給うにより 主は父の右に座し給うにより 唯一の主 唯一の至高者にてましませり さてクレードに入ります前に この通常文の他に固有文というのが入りまして 例えばこのグローリアの後には 祈り 使徒の手紙からの朗読 昇階誦 アレルヤ等が入り 続いて福音書の朗読が入ります 先日ラジオから録音しましたのは ノートルダム女子修道院のもので 中原君も聞いていたそうですが 確かここの所にフランス語で聖書を読む声が入っておりました 第三章. クレード Credo これは信仰内容の告白ですね 英語で I beleave ギリシャ語はです 讃美歌 566 番にはこれより少し短い使徒信教というのが載っておりますが 教団の教会なんかでは 主の祈り と同じように毎回唱和する所も多いようです 我は唯一の天主を信ず から始まって また 唯一の主イエス キリストを信ず また いのちの主なる聖霊を信ず と続いて 最後は 死者の甦りと来世のいのちを信ず アーメン で終わります これはもちろん聖書の信仰を先輩たちがまとめたものです 我々 Restoration Movement の伝統としては これをやらないで 各人正味 一人一人で勝手にまとめな! と突き放しておるわけです これは良いことだと思います 我々の所ではクレードに代わるものとしては 連続の講解説教とか 聖餐の司式者のすすめだとか 謙遜な証だとかがクレードに当たるのでしょう 別にこんなに整っていなくてもいい 穴だらけでもいいのです 正味 I beleave cerdo 私が信じている内容はこれです 私が信じる主はこんな方です でいいじゃありませんか - 5 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
私は一度だけ音楽のミサ曲を歌ったことがあります 歌詞はみんなこれと同じでして クレードですとベートーベンでもモーツァルトでもみんなこれなのです その頃大阪コーラルソサエティーという合唱団で永井修というとても恐い指揮者でした 三十何年前で 私も独身で学生時代でしたが シューベルトのト長調のミサ曲 確か第二番でした 今でもテノールのパート キリエとクレードはよく覚えております その時のソプラノの一人がうちに 31 年間住みついておるものですから お前シューベルトのト長調のミサ ソプラノの節 覚えてるか と申しましたら そんなん もう全然おぼえてぇへん と言います 多分テノールの方ばかり聞いていたのでしょうか 冗談はさておき 私どもにとってクレードは こういう整った文章ではない代わり 絶えず各人が聖書と取り組むことによって一人一人の内に少しずつ作り上げられて行くもの 育って膨れて充実していくものが あなたや私の credo かも知れません これは主の憐みを受けて何年も何年もかかってでき上がって行くものです マルコ伝の 9:24 に てんかんの少年の父親の告白として 私は信じます 私の不信仰にお助けを という言葉があります ラテン語で言うとやはり credo です Credo, adjura incredwlitatem meam! こんなのはミサの credo に比べるとカッコよくない告白ですが 我々はこ れで行きたいものです 第四章. サンクトゥス ベネディクトゥス Sanctus-Benedictus 前半の言葉 聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 万軍の神なる主は 主の栄は全地に満てり は もちろんイザヤ書 6 章のセラフィムの讃美です - 6 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
AdAbK. #r,a'h'-lk' al{m. taab'c. hw"hy> vadq' vadq' vadq 後半は詩篇 118 篇です いと高き所までホザンナ 主の御名によりて来れる者は祝せられさせ給え いと高き所までホザンナ これは福音書にも引用されていて 一回生諸君は来週木曜日にやる所ですが こちらの方は下手なヘブライ語でやらないで 福音書原文でやりましょう さて 何故わざわざヘブライ語で読んだりギリシャ語で読んだりキザなことをしたかというと ここは聖書の言葉そのままだということに気づいて頂きたかったからです 聖書的という言葉を使うなら この章はもっとも聖書的です ローマ カトリックのミサに拒否反応の起こる方も こういう正に聖書そのものという箇所もあることを知っておいてください このベネディクトゥスの曲で特に美しいのは ベートーベンの荘厳ミサ曲 です 独奏ヴァイオリンが天上の美しさを声楽の上に添えております 第五章. アーニュス デーイ Agnus Dei 新約聖書のギリシャ語で言うとです 1 行目の言葉は誰が言いましたか? 世の罪を除き給う天主の子羊 もちろんバプテスマのヨハネです ヨハネ福音書 1 章 29 節です オリジナルで言うと peccata が ( 罪を ) で mundi が ( 世の ) です ラテン - 7 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
語には冠詞はありません このヨハネの証言の間に我らを憐み給え miserere nobis と我らに平安を与えたまえ Dona nobis pacemが入ります これは結局第一章の主題に戻ってきたわけで 主よ われらを憐み給え ですが その 主 というのは 世の罪を負う神の子羊 なんです 私たちは十字架で死なれたその方に 主よ憐れんで下さい と叫びます 主よ あなたからしか平安を頂ける所はありません と告白します 以上 ラテン語という日本人には異質の国語でさえなければ これは年に一回位は大東の集会でもみんなでやってみたいと思うほど魅力があります どなたか日本語の訳詞に歌いやすい曲をつけて下されば 私どもも小野さんの伴奏で歌ってみたいと思う位です 讃美歌や聖歌のたいていのものと比べても 余分な贅肉がとれていて これはこれなりに優れたものだとは思われませんか 結び さて この五章からなる歌詞と言いますか 讃美と信仰告白のこの詩を何故 ミサ と言うのかですが 英語では Mass と言いますね 私は昔中学校で Christmasという単語を習った時に Christ Massであって massというのは英語で 祭 祭礼 のことだと教わりました これが真っ赤な偽りでして 辞書によりますと massのもとはやはりラテン語の missaで missa-messa -mæsse-mass となまって変わったとあり 小学館 Randam House の辞書では Original application of Latin term is uncertain とあります 元々ラテン語で何故ミサと言ったのかは不明 というのです ところが よく調べてみると これが少しも不明ではなくて 実はお手許の ミサ通常文 結び - 8 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
Dona nobis pacem の後に 聖体拝領誦 ( つまり聖餐の讃美歌ですね ) 等があった後に 式の終わりで告げる言葉というのがありまして 司祭が Ite, missa est. と言うのですね Iteというのは 行っていい ということで シャレではないのですが 行ける 去れる ですね missa est は 解散 です 集会が終わりました ですね 去れよ 解散されたり です その missa estから取ったらしい この missa を式全体の名称にしたというのですが これはどういう神経でしょうね 終わった 解散だ という名をこの儀式につけた やはり司祭にとってはこの文全部を覚えて称えるのは大変だったのでしょうか? 終わり! バンザイ そんな意味でつけたのではないでしょうが これはヘブライ語の 旧約の書名なんかとは反対ですね tyviareb. tamv. ar'q.yiw: rb;d>mib. 創 出 レビ 民 こちらは最初の言葉ではなく 結びの言葉を題にしたわけです そういうユーモラスな面もあるこの歌詞は 私はやはり名作だと思います 聖歌や勝利の歌なんかより垢抜けして立派です 最後に ミサをあまり褒めてばかりいても 織田はローマ カトリックになったのではないかとご心配をおかけするかも知れませんから 一言だけミサの嫌いな所 死んでもついて行けない所を申し上げて 私どもが主日に守っていることは決して ミサ ではないことだけを明らかにしておこうと思います ミサの中心は聖体の秘蹟と言われる聖餐式です 今その聖餐理解の背後にある神聖化体説とか そういう神学上の違いは横へ置くとして ミサの全式文は主の体と主の血というクライマックスへ盛り上げる 荘厳にして華麗なるイントロダクションになっているわけです 実にこのミサ全体が主のパンと主の杯のための式文になっている と言って過言ではないでしょう ミサ イコール高度に芸術化された聖餐式と言ってもよろしいかと思います - 9 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
ただ 司祭はミサを 上げる と言いますが あの聖食卓での司祭による儀式は 一つのドラマとして十字架の奇跡を再現して ちょうど旧約の祭壇の上のいけにえのように 主日ごとに主に 新たに奉献 されるものなのです 主はそこで罪人のために新たに肉を割き 改めて血を流されるのです もちろんカトリックの人たちに言わせれば 主の完全ないけにえは一度だけのもので 私たちが主日毎に祭壇で繰り返すものは そのフレッシュな再体験に過ぎないと弁明するでしょう しかし それが一つのドラマとはいえ祭壇の上で再演されるということと その有効な再演が有資格者の教職者の手に委ねられているという点に 私の理解する主の食卓の恵みとは程遠いものを感じます 確かに ミサを上げてもらう人たちの目から見れば 30 才に満たない高校 の理科教師が神聖な祝福を言うとか 30 才そこそこの電算機の技師の手で主 の体と血が運ばれる ということは不敬虔も甚だしいと映るのでしょうか 私たちシンプルなキリスト者にとっては そこにこそ主の食卓の恵みはより豊かに溢れると思うのです 平凡な私たちの手が直接あのパンと杯に触れる ということの中に ミサ以上に深い意味さえ感じ取ることができるのです そして本当にこの平凡な口で祝福されたパン 平凡きわまる手で受け取られた杯の中から恵みを一杯汲み取って その平安をしっかり掴んで 行っていい のだということを集会の終わるたびごとに私は確信するのです (1984/06/08) - 10 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.