《 耕地を開拓せよ 》 羽石兄  ‘05

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神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

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2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

創世記5 創世記2章4節b~25

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

創世記5 創世記2章4節b~25

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

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2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

* ペリシテ人の古代都市ガザは 前 93 年に破壊され 前 57 年に再建された * この道路は ガザの遺跡を通過し 新ガザに至る荒野の道である 5 ピリポは その命令に従順に従った 2.27b~28 節 Act 8:27b すると そこに エチオピヤ人の女王カンダケの高官で 女王の財産全部を管理し

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

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현장 전도를 위한 1단계 전도훈련교재 4

07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱


2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

                 

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

牧会の祈り

(1) 神殿の聖所と至聖所を分ける幕である 1 長さが約 18 メートル 厚さが約 10 センチ 2この幕の内側に入れたのは 大祭司だけである それも年に一度だけ 3 大祭司 アロンの家系 ケハテ氏族 レビ族 イスラエルの民 全人類 (2) この幕が 上から下まで真っ二つに裂けた 1 神の御手がこれ

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2012 年 7 月 1 日 ( 日 ) 2 日 ( 月 ) 17 回目 Ⅴ-020~021 バプテスマのヨハネの登場 バプテスマのヨハネの登場 ルカ 3:1~2 マコ 1:2~6 1. はじめに (1) 文脈の確認 1バプテスマのヨハネの誕生 2イエスの誕生 3イエスの幼少期 (2) 今日の箇所は

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

牧会の祈り

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において 神の霊を満たした (2~3 節 ) (1) ユダ部族のフル その子ウリ その子ベツァルエル 1フルとはモーセの手を両側から支えた 2 人のうちのひとり ( 出 17 章 ) 2フルの孫がベツァルエルである (2) 神の霊を満たした 1 知恵 (wisdom)

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

たと聞いて 一緒に集まった 22:35 そして彼らのうちの一人の律法の専門家がイエスを試そうと尋ねた 私が救われるためにどうしたらいいの 教えて -- そういう気持ちがなかったんです 22:36 先生 これも偽善的な態度でした 先生と言う時 結局教えてください どうしたらいいの 知らせて けれどそう

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

ヘブル人への手紙1章

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

癒しの業と宣教 ( ルカ 4:38~44) 1) ルカ福音書講義 (23) 章 38 イエス 2) は会堂から立ちあがり シモンの家 3) に入った シモンのしゅうとめが 高熱 4) で苦しめられており 彼らは 5) 彼女のことをイエス 6) に願った 39 彼は彼女の枕

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

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このメッセージは 父なる神について考えようとするものである Ⅰ. 聖書が使用する比喩的言葉 1. 神という言葉について (1) ヘブル語でエロヒム ( エル ) ギリシア語でセオス 1 普通名詞 神々を指す言葉である 2 日本語の神も 多くの神々を指す言葉である 3 聖書の神は どういう神かを示す必

Rev 7:1 この後 私は見た 四人の御使いが地の四隅に立って 地の四方の風を堅く押さえ 地にも海にもどんな木にも 吹きつけないようにしていた (1) この後 私は見た 1 物事の時間的流れではなく ヨハネが見た幻の順番を示している 2この幻は 神の裁きが迫っていることを示唆している 3 地の四方

牧会の祈り

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

私自身 OIC に来てまだ 2 年弱です ですから この教会の歴史は少ししか知りません けれども 神は OIC の歴史のすべてをご存じです 創立当時から 神ご自身がこの教会を支えてこられました そして この教会に来た人 去っていった人すべての心をご存じです この 42 年の歴史をとおして 神は OI

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2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に

で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

2 イエスは大胆に わたしは道です と言われました イエスが歩まれた道です イエスが示された道です 正しく この人を見よ! です それが聖書の教えです 私たちはこの一年間 幸いなみ言葉を心に覚えて進みたいと願います 今日は この年間聖句から次の2 点を考えてみましょう 大切なポイント 1. 勝利者イ

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聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

を与えられて 祈りつつ取り組んで行くように導かれる ですから私たちは自分の願い事を一方的に神に祈る祈りはやめて まず聖書を通してまず神を見上げること 御名を賛美することから始めたいのです そのような神への賛美また信仰告白から始まる祈りこそ祝福される祈りの基礎です さて第 2 の祈りは 御国が来ますよ

あなたへの 聖書メッセージ ヨハネの福音書 3 章 16 節 ヨハネの福音書 3 章 16 節 神は 実に そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された それは御子を信じる者が ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つためである この ヨハネ 3 章 16 節のみことばは 聖書 66 巻の

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6ユダヤ人は 人種的 宗教的理由によって サマリヤ人を軽蔑した * ユダヤの格言 私の目が サマリヤ人を見ることがないように 7サマリヤ人も ユダヤ人を軽蔑し 敵対した * ユダヤ人がエルサレムから下ることは許したが 上ることは許さなかった 8 現代もサマリヤ人の子孫たちが存在している ( 千名以下

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

マタイ 25 章 14 節 各自に任された財産 1A 神より与えられている財産 1B 創造の源 2B 信仰の量り 2A 清算の時 1B 永遠の報い 2B 報酬の時 3A 求められていること 1B 心のはかりごと 2B 自分の行程 3B 小さな事への忠実 4B 信じる事 本文 マタイによる福音書 25

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ヨハネの手紙講解 神のあかし ヨハネの手紙第一 5:1~21 1. 油注がれた者 新改訳改訂第 3 版 Ⅰヨハネ 5:1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも 神によって生まれたのです 生んでくださった方を愛する者はだれでも その方によって生まれた者をも愛します イエスがキリストであると信じる

Derek Prince Ministries Asia-Pacific THE TEACHING LEGACY OF DEREK PRINCE MINISTRIES ARCHIVE The Battlefield of the Mind - Derek

最初に 女の子は皆子供のとき 恋愛に興味を持っている 私もいつも恋愛と関係あるアニメを見たり マンガや小説を読んだりしていた そしてその中の一つは日本のアニメやマンガだった 何年間もアニメやマンガを見て 日本人の恋愛について影響を与えられて 様々なイメージができた それに加え インターネットでも色々

2016 年度 成長 カリキュラム表 155 号単元 25 イスラエル王国単元目標イスラエル建国の歩みをたどりながら 神に従うことを学ぶ月日週題聖書箇所主題 10/2 10/9 10/16 10/23 10/30 11/6 11/13 11/20 11/27 アドベント 少年サムエル 救い主の道備え

ことをはたと思い出します クリスマスは キリストのミサです ミサは礼拝することですが 具体的 にはイエス キリストがご降誕されたことを記念して この方を礼拝します 1A 肉体を取られる神先ほど読んだ箇所は 紀元前 734 年から ユダにアハズという王がいた時に 預言者イザヤに与えられた数々の預言の中

神殿とは 神の住まいです 自分の中に神が住まわれたということが救いであり このよ うにしてイエス様とつながっているから イエス キリストを知ることができるようになる のです 神とのつながりを断ち切ることはできない わたしは彼らに永遠のいのちを与えます 彼らは決して滅びることがなく また だれ もわた

マタイによる福音書 10 章 イエスに遣わされる 1A 十二人の指名 1-4 2A 宣教の性質 B 先駆者 5-8 2B 全権大使 A 迫害 B 人々への用心 B 人々への恐れ B 仲間との確執 A 受け入れる者への報い

人には 非日常性が必要です いつもの生活ではなく これは見たことがない 聞いたことがないという意外性 あるいは奇跡と言ってよいでしょう いつも自分のできること していること中で生きているならば 虚しさが残り 死に至ります しかし これまで経験しなかったこと 知り得ないことを知れば そこに命があり 希

さまいイエス様は生きておられる! ふくいんしょしょうふくいんしょしょうふくいんしょマタイによる福音書 28 章とマルコによる福音書 16 章とルカによる福音書 24 章ふくいんしょしょうかはなしさいわヨハネによる福音書 20 章に書かれているお話の再話 しょうと せいしょものがたり ミニ聖書物語 フ

主に仕えるために救われた

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

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2014 年 10 月 7 日 ( 火 ) 60 分で分かる創世記 60 分で分かる創世記 1. はじめに (1) 60 分で分かる〇〇 のシリーズを開始する 11 節 1 節の解説も重要であるが 鳥瞰図的な理解も必要である 2その場合重要なのは センス オブ プロポーション である (2) 創世記

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

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良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

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< 聖会説教 > 説教題 ; 思い切って大胆に 箇所 ; 使徒行伝第 4 章 23~31 節 説教者 ; 錦織寛師 第 65 回年会聖会 2013 年 3 月 27 日収録 錦織寛です えー この 4 月から 聖書学院の学院長という そういうこともありまして ほんとに皆さんが聖

Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

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とは言えないような気がします 弟子達もすぐには主の復活を信じることが出来ない人達だったのです この人達はどうして主の復活を信じるようになったのでしょうか この最初の弟子達の証言によってイースターのメッセージが全世界に告げられていったことは事実です それだけにこの最初の弟子達が復活の信仰を持つようにな

1 それは キリストにのみ適用される御名である (2) 旧約聖書では 御使いたちは 神の子たち と呼ばれた Job 38:7 そのとき 明けの星々が共に喜び歌い / 神の子たちはみな喜び叫んだ 1 新約聖書では 信者が 神の子たち と呼ばれる ( ヨハ 11:52) 2しかし 御子 ( ヒュイオス

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

聖書に聞く会 ( 第 2 回 ) マルコによる福音書 1 章 1-8 節 2014 年 5 月 8 日 古本靖久 1 聖歌 60 番 ヨルダンのほとりヨハネはさけべり 2 お祈り 3 テキストの位置 今日の箇所はマルコ福音書のはじめの部分であり この福音書は何について書くのか決定づける所です 特に

B2 神はどのようなお方か 1Chro.29:10-12 Dt.10:12-13 Ps.95:1-7 B3 イエス キリストはどのようなお方か John.14:8-10 Mk.6:31-56 John.10:30-33 Heb.2: John.4:2-3 2John.7-10 B4 三位

2017 年 6 月 11 日 ( 日 ) 12 日 ( 月 ) 39 回 新しいエルサレムの特徴 ( 後半 ) 新しいエルサレムの特徴 ( 後半 ) 黙 22:1~5 1. はじめに (1) 旧約聖書の預言のハイライトは メシア的王国である 1 黙示 20 章は メシア的王国が千年で終わることを啓

2010 年 2 月 21 日 ( 日 ) 22 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京出エジプト記 13 出エジ 13 出エジプト記 9 章 13 節 ~10 章 29 節 最後の 3 つの災い 1. 文脈の確認 (1) エジプトに主からの 10 の災いが下る (2)10 の災いの記述は 考え抜

テモテ第二 2 章 1-13 節 キリストの兵士 1A 共にする苦しみ 1-7 1B ゆだねる教え 1-2 2B 立派な務め 3-7 2A イエス キリストの福音 B つながれていない御言葉 B 共に生き 死ぬ 本文 テモテへの手紙第二 2 章を見ていきます 私た

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

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聖霊に満たされなさい 2006. 5.30( 火 ) ベック兄メッセージ ( メモ ) 引用聖句ルカの福音書 3 章 21 節 22 節さて 民衆がみなバプテスマを受けていたころ イエスもバプテスマをお受けになり そして祈っておられると 天が開け 聖霊が 鳩のような形をして 自分の上に下られるのをご覧になった また 天から声がした あなたは わたしの愛する子 わたしはあなたを喜ぶ エペソ人への手紙 5 章 18 節また 酒に酔ってはいけません そこには放蕩があるからです 御霊に満たされなさい 今 司会の兄弟が言われましたように イエス様の救いは本当に素晴らしいものです 私たちが生きている間には ピンと来ないかもしれませんし はっきり理解できないかもしれません けれども この主イエス様の人間に対する救いのために 私たちは永遠に亘って礼拝せざるを得なくなります イエス様から目を離さないでいなさい これこそ最も大切な呼びかけです なぜなら イエス様から目を離すなら すぐ落ち込みます そして私たちはすぐ悩むようになるからです イエス様は人間に何も要求なさいません 豊かな知識も 立派な人間になることも お金も要求されません 主イエス様は与えるお方なのです 多くの人たちは与えられるものだけを考えて求めていますが それは的外れです 大切なことは 与えられるものよりも 与え主を知ることではないでしょうか イエス様は本物を与えてくださいます この 良い牧者であられるイエス様は 私たちのような者を 導きたい 教えたい 守りたいと心から望んでおいでになるのです イエス様は おいで 私のところに来なさい と招いてくださっているのです イエス様は 光 です 光であられるイエス様に近づくと 大変な恐れを感じるようになります それは罪が明るみに出されるからです まさにショックです そして光のうちに 私はもう駄目 全然駄目 ゼロ以下 と分かるようになれば これもまたショックです けれども イエス様は罪を明るみに出すお方だけではなく 喜んで赦してくださるお方です イエス様は いつも聞く耳を持つお方です 必ず応えてくださるお方です この素晴らしい主イエス様の救いは ただ なのです 価なしに提供されています 1

ほむべきお方は もちろん父なる神です 父なる神が救いの計画をお立てになったからです しかしこの父のお立てになった救いのご計画を実現してくださったのは イエス様でした イエス様の死 こそが 聖書の中心テーマです けれども このイエス様のなされた 救いのみわざ を人間が自分のものにしなければ 何の役にも立ちません 救いのみわざ を自分のものとするそのために 聖霊 が与えられたのです イエス様は わたしがあなたがたの中から出て父のみもとに行くことは あなたがたのためによい とおっしゃいました しかし弟子たちは 何を話しておられるのだろう イエス様は と思ったに違いありません もしそうなれば もっともっと大変なことになってしまいます もう行くところがないと弟子たちは思ったに違いありません けれど イエス様は本気でそうお語りになられたのです 御霊が教えてくださるから わたしが離れても大丈夫 それは 御霊としてわたしがあなたがたの中に住むようになるからです と それまでの弟子たちは イエス様と一緒だっただけなのです 聖霊降臨によって今度 イエス様は聖霊を通して弟子たちの中に住むようになられます 今度の日曜日は五旬節 ( ペンテコステ ) です T 兄弟は この間の日曜日 この五旬節について話してくださいました ドイツのアイドリンゲンでは 毎年若者が五 六千人集まるのです 私たちも来週 またアイドリンゲンに行くつもりです 五旬節は 本当に大切なのです そして今 司会の兄弟のお読みになりました最後の箇所は 18 節の後半です エペソ人への手紙 5 章 18 節後半御霊に満たされなさい 単なる提案ではなく はっきりとした命令です 聖霊に満たされなさい 信じる者にとって最も大切なのは このことではないでしょうか なぜなら聖霊に満たされている人の苦しみは 平安のうちに保たれています 聖霊に満たされている人の問題は 解決されているのです 聖霊に満たされている人の欠乏は 取り除かれているのです ですから 聖霊に満たされることこそ考えられないほど大切なのです 今日は イエス様の経験 について考えたいと思います でもその前に イエス様に用いられるために 私たちは何を経験しなければならないかについて考えたいと思います 始めに読んで頂きました箇所は ルカ伝 3 章でしたが よく知られている箇所です 結局 民衆は例外なく バプテスマを受けました ヨハネのバプテスマとは 悔い改めのしるしでした 当時 水のバプテスマを受けた人たちは 私たちは反省します 悔い改めます 赦してもらいたい そういう気持ちの表われでした 私たちの洗礼とは 全然違う意味です 私たちはどうして洗礼を受けるかと言いますと もうすでに本当の洗礼を受けたからです イエス様を信じ 受け入れる者は 聖霊によるバプテスマを受けています 本人がそれを分かっても 分からなくても 感じても 感じ 2

なくても関係ありません 事実なのです ですから その人たちは 聖霊の宮 神の住まい と呼ばれています バプテスマのヨハネの奉仕は 素晴らしい奉仕でした 悔い改めなければもうおしまい さばきが来る そして結果として みなバプテスマを受けました 素晴らしい恵みでした ルカの福音書 3 章 21 節 22 節さて 民衆がみなバプテスマを受けていたころ イエスもバプテスマをお受けになり そして祈っておられると 天が開け 聖霊が 鳩のような形をして 自分の上に下られるのをご覧になった また 天から声がした あなたは わたしの愛する子 わたしはあなたを喜ぶ 父のみ声が聞こえるようになり イエス様はバプテスマを受けられ それから 聖霊が 鳩のような形をしてイエス様の上に下られたとここに書かれています 三位一体の働きについての箇所です イエス様の洗礼は イエス様の公のご奉仕の出発点でした イエス様は ご存じのように三十歳までお語りになりませんでした 当時 許されていなかったからです 三十歳になるまでは 黙っていて 公の場で口を開いてはならなかったのです そのような決まりだったのです ですから イエス様は三十歳まで大工としてお働きになったのです けれども 三十歳になってからは公にお話しになり 福音を宣べ伝えるようになられたのです つまり イエス様の受洗は イエス様の公のご奉仕の出発点でした この洗礼のとき 聖霊が鳩のようにイエス様の上に下りました けれども イエス様が経験なさったことは 私たちの経験でもなければなりません ですから 私たちも聖霊に満たされた者でなければなりません イエス様は聖霊によってマリヤの胎に宿られ お生まれになられたということを私たちは知っています マタイ伝 1 章 20 節 天の使いがヨセフに現われたのです マタイの福音書 1 章 20 節彼がこのことを思い巡らしていたとき 主の使いが夢に現われて言った ダビデの子ヨセフ 恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい その胎に宿っているものは聖霊によるのです ヨセフは いったいどういうことか もちろん分からなかったはずです まだ結婚していないのに マリヤは妊娠しました ヨセフはその事実を知ったとき マリヤは心から主を恐れる女性だと思ったでしょうけれど もういいです 別の男性と一緒になっていたに違いない と しかし御霊はブレーキをかけたのです 説明したのです ヨセフ 違います 聖霊によるものです と ルカ伝 1 章 35 節 今度は 御使いがマリヤに現われたのです ルカの福音書 1 章 35 節 3

御使いは答えて言った 聖霊があなたの上に臨み いと高き方の力があなたをお おいます それゆえ 生まれる者は 聖なる者 神の子と呼ばれます もちろんマリヤも いったいどういうことかと理解に苦しんだことでしょう けれども 主に用いられるのであれば嬉しい と彼女は思ったに違いありません イエス様は 聖なる者 神の子と呼ばれる とあります その証拠として 聖書は イエス様が完全な 聖い 罪のない人生を送られたということを語っています イエス様を裏切ったユダでさえも 何と言ったかと言いますと 貰った金を返して 私はとんでもない罪を犯した 罪を知らない方を裏切った と しかし 残念ですが 彼は後悔しただけだったのです 十字架につけられたイエス様のところに飛んで行って 私は三年半 大嘘つきでした いつも 主よ 主よ と言いましたが 一回もそう思ったことがありません 私は泥棒です と言ったなら イエス様は何とお答えになられたでしょうか 必ず あなたはきょう わたしとともにパラダイスにいる とおっしゃったに違いありません けれど 彼は後悔しただけ また反省しただけであり それは全く意味のないことでした しかし彼でさえも イエス様は罪を知らないお方だと認めざるを得なかったのです ヘブル書の著者は 次のように書いたのです ヘブル人への手紙 7 章 26 節また このようにきよく 悪も汚れもなく 罪人から離れ また 天よりも高くされた大祭司こそ 私たちにとってまさに必要な方です とあります イエス様は 自発的に 罪人を救おう という目的をもって この世に来てくださいました けれど イエス様が公のご奉仕を始められる前に 聖霊が 鳩のようにイエス様の上に下ったのです のちに イエス様はこの経験について ご自分が育ったナザレの会堂で次のように話されたのです ルカの福音書 4 章 18 節 19 節 わたしの上に主の御霊がおられる 主が 貧しい人々に福音を伝えるようにと わたしに油を注がれたのだから 主はわたしを遣わされた 捕われ人には赦免を 盲人には目の開かれることを告げるために しいたげられている人々を自由にし 主の恵みの年を告げ知らせるために 油 とは 御霊 です ペテロはのちに そのことについて次のように報告したのです 使徒の働き 10 章 38 節前半 それは ナザレのイエスのことです 神はこの方に聖霊と力を注がれました 4

と書いています 神の御子である主イエス様にとって 上からの力を着せられることは イエス様の三年半に及ぶご奉仕を特徴づけた経験でした 聖霊はイエス様の上にとどまり イエス様は絶えず聖霊に満たされておられたのです イエス様の弟子たちは バプテスマのヨハネが既に言っていたことと似たような経験をしたのです ルカの福音書 3 章 16 節ヨハネはみなに答えて言った 私は水であなたがたにバプテスマを授けています しかし 私よりもさらに力のある方がおいでになります 私などは その方のくつのひもを解く値うちもありません その方は あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります イエス様はまた 弟子たちにそのような経験を約束してくださいました ルカの福音書 24 章 49 節 さあ わたしは わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります あなたがたは いと高き所から力を着せられるまでは 都にとどまっていなさい 力を得るまで待ちなさい 弟子たちはこの聖霊の力を受けるようになりました よく知られている使徒行伝の1 章 8 節です 使徒の働き 1 章 8 節 しかし 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき あなたがたは力を受けます そして エルサレム ユダヤとサマリヤの全土 および地の果てにまで わたしの証人となります 初めに エルサレムにとどまりなさい 次に 地の果てまで行きなさい 聖霊を受けた者として イエス様の約束なさったことは すぐに成就されました 使徒の働き 2 章 1 節五旬節の日になって みなが一つ所に集まっていた 使徒の働き 2 章 4 節前半すると みなが聖霊に満たされ とあります イエス様は私たちも同じ聖霊に満たされるようにと願っておられ 私たちの人生が変えられて イエス様が栄光をお受けになり 多くの人が真理を知るに至るようにと願ってお 5

られます 疑いもなく 聖霊に満たされることほど 信じる者にとって大切なことはありません イエス様は 聖く 罪なく 汚れもなく 罪人から聖別されておいでになりました それにも関わらず なぜイエス様は聖霊に満たされることを必要となさったのでしょうか 私たちには分かりません それは奥義です 弟子たちの場合は違っています その点については 私たちもはっきりしていて疑問の余地はありません 弟子たちは聖霊に満たされることなしには イエス様の福音を宣べ伝えられなかったに違いありません 弟子たちが聖霊に満たされたとき 彼らの人生そのものは いっぺんに変わりました 私たちが主に喜ばれる人生を送りたいと思うなら また 主は私たちを主への奉仕のために用いたいと願っておいでになられるのなら 私たちもまた聖霊に満たされなければなりません 一つの質問について 考えたいと思います 聖霊は なぜ鳩のような形をして イエス様の上に下ったのでしょうか 聖書は 鳩について四つの特徴を挙げています 1. 純粋さ 2. 美しさ 3. 謙虚さ 4. 喜んで従う覚悟 です 1. まず 鳩の 純粋さ について考えてみると 雅歌 6 章 9 節に 次のように書かれています 雅歌 6 章 9 節汚れのないもの 私の鳩はただひとり これは花嫁についての花婿の判断でした 鳩は純粋なものであり 汚れのないものです 2. 次に 鳩の 美しさ について考えると 例えば 詩篇の作者は68 篇の13 節に 次のように書き記したのです 詩篇 68 篇 13 節後半銀でおおわれた 鳩の翼 その羽はきらめく黄金でおおわれている とあります 即ち 鳩は非常に美しいものであると聖書は記しています 3. それから 鳩の 謙虚さ について考えると よく知られているみことばは マタイ伝 10 章 16 節でしょう 6

マタイの福音書 10 章 16 節後半 鳩のようにすなおでありなさい 4. もう一つ 鳩の 喜んで従う覚悟 について考えると 詩篇の作者は55 篇の6 節に次のように書き記したのです 詩篇 55 篇 6 節前半 ああ 私に鳩のように翼があったなら 鳩の特徴は 何かあればすぐに飛んで行くということです 聖霊は 鳩のように 主イエス様の上に下りました なぜなら イエス様はすでに鳩の特徴 即ち 完全な純粋さ 美しさ 謙虚さ 喜んで従う覚悟を身につけておられたからです 父なる神は このことを次のようなことばではっきり証明してくださったのです ルカの福音書 3 章 22 節後半 あなたは わたしの愛する子 わたしはあなたを喜ぶ 私たちの場合は 非常に異なります 私たちは 聖霊に満たされることを必要とします なぜなら 私たちはこれらの鳩の特徴を少しも持っていないからです けれど 聖霊に満たされることによって これらの特徴は 御霊の実として私たちの生活の中に見出されるものです イエス様の人生は 全く聖く 美しい人生でした イエス様は 謙遜で いつも喜んで父のみ旨に従う覚悟を持っておられました 私たちとは本質的に正反対なのではないでしょうか 純粋というものを考えることができず 私たちはみな 汚れている者です 美しさというものをも考えられません 主の前に私たちは忌むべき者です 謙虚さということも考えられません 私たちはみな 誇り高く 傲慢です 喜んで従う覚悟ということも考えられません 私たちはみな 自己追求的 自己中心的であり 自分の意思を通そうとします 私たちはみな 生まれたときからそういう者であり 死ぬまでそういう者にとどまるの です もしも聖霊に満たされなければ 聖霊は 鳩のようにイエス様の上に下りました なぜなら イエス様こそ 鳩の特徴 即ち 全き純粋さ 美しさ 謙虚さ そして喜んで従う覚悟を持っているただ一人のお方だからです 実際 聖霊に満たされる人の人生には イエス様の純粋さ 美しさ 謙虚さ 喜んで従う覚悟のうちの何かが明らかに表われるのです 蛇のような性格の持ち主である私たちのような人間は 聖霊に満たされることによって 鳩のような性格の持ち主になるのです 7

聖霊に満たされるとは いったい何を意味しているのでしょうか 御霊の満たしは次のようなことを意味します 1. イエス様の純粋さを知ること 2. イエス様の美しさを反映すること 3. イエス様の謙虚さにあずかること 4. イエス様の喜んで従う覚悟を経験すること 1. 聖霊に満たされている人は 主の純粋さを知っています 聖霊は 聖い御霊です 即ち イエス様は 私たちの人生をきよめてくださるのです 聖霊に満たされる前 弟子たちは肉的であり 彼らの人生は絶えず上がったり下がったりしていました イエス様の弟子たちは 誇りに満ち ねたみ深く 党派心に満ち 復讐心が強く 批判的精神の持ち主です けれど 彼らは聖霊に満たされたときもはや 誇り ねたみ 党派心 復讐心 批判的精神などの余地が無いほど満たされたのです 彼らは内面的に聖められ 純化されることを経験しました そしてまさにこのことは 私たちも必要としていることなのではないでしょうか 即ち あらゆる汚れからの聖めです 主の霊が私たちを満たすことができるなら 私たちはイエス様の聖さを知ると同時に 私たち自身の不純さと汚れを知ります けれど 私たちには このようなありのままの状態で ( つまり 汚れた者として ) 主のみもとに行くことが許されており 主の前で罪を告白することができます そうすると 主はあらゆる罪と汚れから聖めてくださいます 力を持つために聖霊に満たされたいと思っている人たちがいます けれど 私たちがすべてのものにまさって必要としているものは力ではありません 内面的に聖くされることです そのときに初めて 主は 私たちを主の器として用いることがおできになるのです 2. 聖霊に満たされている人は 主の美しさを反映するようになります 本当の美しさは 聖霊が私たちを満たしてくださることがおできになるのではないでしょうか 使徒行伝の中で 一人の美しい人について書いてあります それは 初代教会の最初の殉教者であるステパノです 彼は大胆に主を証ししました イエス様の御手のうちにある用いられた器でした 彼は攻撃され 議会に引き渡され 弁明せざるを得ませんでした この出来事について 簡潔に次のように記されています 使徒の働き 6 章 15 節議会で席に着いていた人々はみな ステパノに目を注いだ すると彼の顔は御使いの顔のように見えた 御使いの顔は 疑いもなく綺麗なものです ステパノは美しかったに違いありません 8

どうしてでしょう それは 生まれつきの自然の美しさではなかったのです ステパノは 聖霊に満たされていたからです 使徒の働き 7 章 55 節しかし 聖霊に満たされていたステパノは 天を見つめ 神の栄光と 神の右に立っておられるイエスとを見て ステパノのように主を見る者は 神の栄光をも見るようになります 彼はイエス様を見 るようになり イエス様の美しさが彼の顔に反映するようになったのです その前の4 章を読むと ペテロとヨハネについていろいろなことが書かれていますが ペテロとヨハネとは 同じように聖霊に満たされた人たちでした 彼らについて次のように報告されています 使徒の働き 4 章 13 節彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見 またふたりが無学な 普通の人であるのを知って驚いたが ふたりがイエスとともにいたのだ ということがわかって来た とあります 御霊に満たされることによって 弟子たちはイエス様に似た者となりました 彼らはイエス様の美しさを反映したのです 綺麗になるための最良の手段と方法は 次のようなものでしょう 美しくなりたいと思うなら 聖霊によって聖められ 満たしていただくことです そうすると ほかの人たちを惹き付けるようになります 但し あなたにではなく イエス様に惹き付けられるようになります 周りの人たちは この主を知りたいと思うようになります なぜなら 主は 人生を変えることがおできになるお方であるからです 3. 聖霊に満たされている人は イエス様の謙虚さにあずかるようになります 聖書全体の語ろうとしていることは ヤコブの言ったことです ヤコブの手紙 4 章 6 節後半 神は 高ぶる者を退け へりくだる者に恵みをお授けになる 最も重い罪とは 謙遜の足りなさではないでしょうか 自分は無力で 自分の思っていることはもしかすると間違っているかもしれないと 絶えず思うべきではないでしょうか わたしは 心優しく 心へりくだっている者です とは イエス様しか言えなかったのです 鳩の特徴は 胆のうを持っていないことです 胆のうを持っていない動物はほかにいません 鳩だけです みなご存じでしょう 胆汁は苦いものです 苦さと争いと高ぶりとは 私たち人間の性質の特徴です 鳩は柔和 謙虚さ 温和によって特徴づけられています 何と多くの人々の人生が 誇りの胆汁によって破壊されたことでしょう 9

鳩の謙虚さはどのようにして表われるのでしょうか あなたは 間違ったことをしたと気が付いたなら そのことを正直に告白しなさい 即ち 私が最近言ったことを赦してください 言わなかったほうがよかった と 或いは 私はあなたに対して批判的な態度をとってしまい 深く考えもせずあなたのことについて話してしまった ごめんなさい と これこそが謙虚さです けれど ある人があなたに謝罪を要求すると言うなら これは高ぶり 辛らつ 喧嘩好きのしるしです イエス様は次のように言われました マタイの福音書 11 章 29 節 わたしは心優しく へりくだっているから あなたがたもわたしのくびきを負って わたしから学びなさい そうすればたましいに安らぎが来ます そうすればそのとき初めて たましいに安らぎが来ます 私たちの主イエス様は 心の優しい方でしたが 決して弱い方ではなかったのです イエス様の心からの願いは それまでのいわゆる弟子たちに 本当の弟子になってもらいたい ということでした イエス様は ご自身のみ足のあとに踏み従って来る人たちが欲しかったのです これはどのようにして可能となるのでしょうか それは 聖霊に満たされたときであり 彼らの傲慢さ 自己追求や闘争心から解放されたときです 聖霊に満たされた人たちとともに生活することは 本当に楽しみであり 喜びです 人の心はどのようにして変えられるのでしょうか 聖霊に満たされることによって 初めて変えられるようになります 4. 最後に 聖霊に満たされていると イエス様のご命令に喜んで従うことの素晴らしさを経験します 別のことばで表現するなら 主のあらゆる願いに喜んで従おうとする人が聖霊によって満たされている人の特徴です 主にだけ仕えようとする心 主の合図に応じて即座に行なおうとする従順 主がなさりたいと思っていることを行ないたいという切なる願い これらが私たちの生活の特徴でもなければなりません 詩篇の作者の預言は 詩篇 40 篇 7 節 8 節 今 私はここに来ております 巻き物の書に私のことが書いてあります わが神 私はみこころを行なうことを喜びとします あなたのおしえは私の心のうちにあります これは 私たちの告白でもあるのでしょうか これは 私たちの心からの叫びなのでしょうか 私たちは心から喜んで みこころだけを行ないたいのでしょうか このことは いったいどうしたら可能なのでしょうか 10

聖霊が私たちを満たす時 私たちは 何があってもみこころだけがなるように という 切なる願いによって満たされるようになります 私たちは 主に次のように叫ぶようになります 主よ たとえどんなことがあろうとも みこころが私の人生において成就されますように 使徒行伝 8 章に 一つの実例が出てきます ピリポという弟子にですが 主は彼に命令なさいました 使徒の働き 8 章 26 節 27 節 立って南へ行き エルサレムからガザに下る道に出なさい ( このガザは今 荒れ果てている ) そこで 彼は立って出かけた これは まことにすばやい従順です 29 節を読むとわかります 29 節 30 節御霊がピリポに 近寄って あの馬車といっしょに行きなさい と言われた そこでピリポが走って行くと これは 一人の弟子に明らかにされたもので 父なる神のみこころに応じるイエス様の覚悟です 使徒行伝 6 章 3 節 5 節によると ピリポは聖霊に満たされていたと記されています これが ピリポが用いられた秘訣です ですから ピリポはすぐに立ち上がって出かける備えが出来ていたのです ピリポは 人間的に見るなら愚かと思われることを喜んで従順に行なったのです 即ちどこへ行くのかわからなくても御霊の声に従ったのです ピリポは 主がなさりたいことだけを行ないたいという切なる願いを持っていたのです 最後に 次のような問いが登場してきます 私たちは 聖霊に満たされるために何をしなければならないのでしょうか パウロは 次のように証しすることができました コリント人への手紙 第一 2 章 4 節私のことばと私の宣教とは 御霊と御力の現われでした では 御霊に満たされる生活の秘訣は何でしょうか 1. イエス様は父のみこころに完全に従われました 私たちの思いではなく あなたのみこころだけがなるように と イエス様は 父の御手の中にある従順な器でした その態度は常に次のようなものでした お父様 わたしはここにいます どうか あなたのご自由になさってください わたしはこの地上で ただあなたのみこころだけが行なわれますように何でも致します イエス様はこの態度をおとりになられたので 聖霊は高いところからの力としてイエス様のうちに宿るようになりました 11

2. 前に読みました箇所ですが ルカ伝 3 章 21 節によると イエス様が祈っておられると 聖霊がイエスの上に下った と記されています 祈りこそ 聖霊に満たされるための前提条件です 五旬節のとき 百二十人の兄弟姉妹が祈っている間 聖霊に満たされました その少しあとで 祈りの答えとして 弟子たちが新しく聖霊に満たされたと 使徒行伝 4 章 31 節に書かれています それから 使徒行伝 9 章 11 節 17 節 18 節においては サウロ ( のちのパウロ ) について 次のようなことが記されています 見よ 彼は祈っています すぐそのあとで 彼は聖霊に満たされました 私たちが聖霊に満たされたいと願うなら 私たちの人生はすべて主に明け渡さなければなりません また主のみこころだけを行なうということが 私たちの願いとならなければなりません そしてまた 私たちの祈りは 主よ 私はただあなた様の名誉だけを望みます というものでなければなりません 主がヨルダン川の中に立たれたとき 主の切なる願い イエス様の祈り 主の心からの叫びは 次のようなものだったでしょう 父よ わたしはここにいます あなたのみこころだけが わたしを通して行なわれますように 与えられた使命を果たすために 聖霊は主が必要とされる 高いところからの力 として イエス様の上に下りました 今日 イエス様は 私たちに次のように語っておられます 父がわたしを遣わしたように わたしはあなたがたを遣わします 父はわたしを遣わしました しかし 父はわたしをひとりにさせず 聖霊がわたしの上に下り わたしの中にとどまりました わたしを通して 父が聖霊の力によって贖いのみわざを成就してくださいました そして今 わたしはあなたがたを遣わします あなたがたを通して だれでも罪の赦しと 神との平和 そして永遠のいのちをただでいただくことができるということを 宣べ伝えるべきです しかし わたしはあなたがたを一人では行かせません わたしにあなたがたの人生の全支配権を与えなさい そうすれば わたしはあなたがたを用いることができるようになります わたしの霊はあなたがたを満たし 器として用いるようになります 聖霊に満たされること またイエス様の御手にある器となることにまさる大いなる喜びは何一つありません 了 12