千代田教会イースター礼拝 (3/27) 神の必然 イザヤ書 12: 1-6 ルカによる福音書 24: 1-12 説教四竃揚牧師 1, 途方に暮れた婦人達私たちはこのように気持ちよく晴れた春の朝のただ中で主の復活を祝うイースターを迎えました ご存じの方が多いと思いますが イースターはクリスマスのように特定の日に定められているわけではありません 世界の教会のなかにはイースターを例えば4 月の第 2 日曜日というように決めたらどうだ と提案する人もいます しかしキリスト教会は今でもユダヤの暦の過ぎ越しの祭りの決め方と同じようにしてその年のイースターの日取りを決めています つまり春分の日の次の満月の次の日曜日 となっています そのために2004 年度は 2 度イースターを迎えることになりました この年度は特に恵まれていると言えましょう 最初のイースターの朝 安息日あ けの日曜日の 明け方早くまだ暗い中に女性の弟子達は主イエスの葬られた墓に向かいました 週の初めの日 は日曜日を表す決まった形になりました イエスのお体に準備しておいた香料を塗るためです ところが墓の入り口の大きな石は既に転がされており 中に入っても主イエスの遺体はみあたりませんでした イースターの使信はこのように墓が空っぽだったという証言から始まります 勿論お墓が空っぽだったから主は復活された ということが直ちに証明されることではありません キリストの復活は理論的に証明されるようなことではないからです しかしながらそれではキリストが復活されたということはただヤミクモに信じる他ないことなのか となるとそれも簡単に否定できない様々なことにぶつかります 最初の弟子たちがキリストの復活の顕現と共に 空虚な墓の証言をしたときに誰もそれを否定することができなかったというようなことは主の復活の傍証とも言えることです いずれにしても私たちと同じようだった弟子達の集団です 福音書を読むとみんな特別に信仰深かった人とか 強い信仰を持っていた人たち 1
とは言えないような気がします 弟子達もすぐには主の復活を信じることが出来ない人達だったのです この人達はどうして主の復活を信じるようになったのでしょうか この最初の弟子達の証言によってイースターのメッセージが全世界に告げられていったことは事実です それだけにこの最初の弟子達が復活の信仰を持つようになり キリストの復活の最初の告知者になったことはすこぶる興味深い重大なことであります 2, 死んだ者の中に生きている方を探す愚かさ女達にキリストの復活を告げたのはみ使い達でした あの方は ここにはおられない 復活なさったのだ まだガリラヤにおられた頃お話しになったことを思い出しなさい と天使は告げました 前にもお話ししたことがあると思いますが 思い出す と言う言葉は単に記憶を甦らせるということとは違います 日本語では 思い当たる という言葉が一番似ていると言えます 思い当たるとは自分の心の中にとどまっているある言葉を何かの経験 何かの出来事 を契機として思い起こして納得することだ と辞書にあります 以前にいわれた言葉が心の中にとどまっていて今このときに ああそうだったのか と納得することです 天使がここで告げている ガリラヤでお話になったこと とあるのは9 章 21 節以下の場面のことです それはペトロがキリストに対して あなたは神からの救い主です メシアです という信仰の告白をした直後に主のいわれた予告でした 極めて重要な場面です メシア 救い主とは当時はこの世的な英雄や王様のように受け取られる場合が多かったのです あなたはメシアです と言ったペトロの告白に対して その救い主とは必ず多くの苦しみを受け 殺されて三日目に復活することになっている といわれた主イエスでした ああ そうかあのとき先生が言われたのは このことであったか と思い当たるのです 納得するのです その言葉の真理を漸く真実に理解するのです そして心に留めるのです そのように思い当たって 納得した言葉はその人の命の糧になります 力になります 思い出すということはそういうことなのであります 2
3 思い当たる ということは私たちの誰しも経験することです 例えば余りよくない例でいえば あの人があんなことをその時言っていたのは 自分では普通の病気ではないことに気づいて それとなくお別れを言っていたのだ というようなことが後になって分かるというような場合があります あるいはほほえましい例でいえば ああ なんだ あの二人はお互いに愛し合っていて いずれは結婚したいと思っていたからあのときあんなことを言っていたのだな と自分の鈍感さに後になって気づいて失笑する というような場合もあるでしょう いずれにしても後になってからそのときの言葉の意味を納得する というような場合があるといえばお分かりだと思います 弟子達はガリラヤで主が言われていたことの本当の意味を主の十字架と復活を経験して初めて納得したのです 主の言葉を覚えているだけではだめです 反対に主の復活に驚くだけでそのことを主の御言葉に結びつけて考えることをしないならばその場合もその出来事は所詮受け入れられないことであり たわごとに終わってしまうのです 過ぎゆく人生の一こまに過ぎなくなってしまうでしょう 復活のメッセージが教会を通して全世界に届けられるようになったのは最初の教会の弟子達が自分たちが経験したことを旧約聖書を初めとする主キリストの言葉と結びつけて得心し そのことを納得して証言し始めたからであります 主の復活の出来事を からになった墓の存在をとおして それをかねて予告しておられた主の御言葉と結びつけて理解したときに婦人達は納得したのです それは男性の弟子達よりも先でした 10 節には 婦人達はこれらのことを使徒達に話した とありますがこの場合の 話した という言葉は文法的な形から言えば 何度も話した あるいは 次々に話した と訳した方がよい形です その意味では教会の復活の信仰の担い手となったのは男達ではなく それを一生懸命に話した女性達でした 後に男性の弟子達が復活のメッセージを語るときも自分たちに先立って主の復活の使信を伝えてくれた女性達の存在を忘れることは出来なかったに違いありません 彼女らが第一発見者だ 彼女らが最初に主の墓に行ってくれたのだ そして主の言葉を思い出し 復活の証人となってくれたのだ ということは忘れることが出来ませんでした それは私たちも主の言葉を思い出して生きるということです そして教会の歴史はここに始まるのです クリスマスなどの祝会で楽しいゲームが行われることがあります その一つに 電報ゲーム というのがありました 紅白対抗で適当な長さの文章をいかに早く正確に最後の人にまで届けるかというゲームです
相手方に聞かれると負けになるので小さな声でささやかねばならないし 正確で迅速でなくてはなりません 早さを競うとつい文章が間違ってしまいます 今ならそんなゲームは時代遅れでしょうが昔の電報は聞き返すすことが出来ません 間違ったまま伝わると全く違った文章になってしまったりするおもしろさがありました 2 千年の歴史を持つキリスト教会がもしも時代と共にそのメッセージを適当に変えていたとしたら キリスト教は最初のものとひどく違ったものになってしまっていたかも知れません しかしキリスト教会はいつも原点に立ち返ってきました 最初のイースターのメッセージに立ち返ってきたのです あの方はここにはおられない 復活なさったのだ まだガリラヤにおられた頃 お話になったことを思い出しなさい という御言葉をかみしめ それに立ち返ってきたのです それが教会の歴史です 3, 十字架と復活の必然天使の告げている言葉 そして主イエスご自身が語っておられる言葉の中でもう一つ重要な言葉は 必ず という言葉です ギリシャ語ではこれは デイ という言葉ですがルカはこの言葉をよく用いています ルカ1:45 エリサベトがマリアに対して 主が仰ったことは必ず実現する と信じた方はなんと幸いでしょう ルカ4:43 しかしイエスは言われた 他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない ルカ9:22 復活することになっている ルカ18:31 人の子について予言者が書いたことは皆実現する ルカ24:26 メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないかこうしてデイという言葉をルカ福音書から取り出してみると結局それはみんな主イエスの十字架と復活に収斂していく言葉であることが分かります デイ ( 必ず ) という言葉が用いられている箇所はイエスキリストが十字架に架けられ 復活されると言うことが必ず起こると強調されている箇所です 神様の目から見れば主イエスの十字架と復活とは必然の道だったのです 4, たわごとではないか朝早く主イエスを納めたお墓に行った婦人達が目撃したこと そしてその場で天使が告げたみ言葉を女性達は使徒に伝えました しかしそれを聞いた 弟子達は女達の話を信じなかった と書いてあります なぜ初めは信じなかったのでしょうか 女の証言は信用できないと この女性差別の時代の中でその証言が信用されなかったのでしょうか しかし 4
女性であろうとなかろうと復活の使信はいつでも馬鹿にされてきたのです パウロがアテネの知識人を相手にキリストの復活を証したとき 初めは黙って聞いていた多くの人々は このことはいずれまた聞くことにする と言って立ち去ったとあります いずれまた聞くことにする と言うことは日本語では関西の人が 考えておきまひょ というのに似ていて 時期と場所を変えて改めて話を聞こうというのではなく もう 2 度と聞かないという反応です キリストの復活の話はここでも たわごと のように思われていました 私たちにとっても復活は信じにくい事柄です しかしキリスト教の信仰の根幹は復活を信じると言うことです 復活の信仰なくしてキリストを信じると言うことはあり得ない のです 弟子達は婦人達の話を聞いても信じられませんでした ところが12 節には しかしペトロは立ち上がって墓へ走った そして身を屈めて中をのぞいた と書いてあります 墓に行って からのお墓を見たのでキリストの復活を信じたというわけではありません キリストの体を包んであった亜麻布しかなかったことに驚きながらとぼとぼと家に帰っていくのです しかしながらキリストの甦りを信じると言うことはこのペトロのようにまず信じられなくてもその出来事に対して立ち上がることから始まります 不思議なことにこの 立ち上がる という言葉は復活という言葉と同じです 復活を信じさせられるには 立ち上がって墓に向かって走ることから始まります それは復活という不思議な事柄に向かって自分の出来る範囲でそれと誠実に向き合うことではないでしょうか 立ち上がって墓にまで行く ということでいっぺんに復活が信じられるわけではないかも知れない しかし敢えて立ち上がり 墓に向かって走り出してみるのです 兎も角聖書を読んでみる とにかく教会に行ってみるのです 聖書を読んだり 教会の礼拝に出席することでいっぺんに復活の信仰が与えられるわけではないかも知れません しかしペトロがその中で次第に復活の信仰に目覚めていったように私たちもその中で主の復活を信じる信仰に導かれる 5
のです 私たちの教会の中でほとんど実質的には教会員と同じような歩みをしてこられた二人の兄弟姉妹と一人の姉妹とがこのイースター礼拝で受洗と転入会をなさいました 私たちは本当に神様のなさるみ業に感謝し 神を讃美せざるを得ません 私たちの身の回りに起こる様々なこ とを私たちは主の言葉の輝きの中で思いめぐらし 思い当たるのです 主の十字架の贖いと神の子の復活が神の必然であったことに思い当たるのです ペトロの手紙といわれるものの中に次のような言葉があります あなた方は キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神をキリストによって信じています 従ってあなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです (1 ペトロ1:21) 幾たびも失敗し 挫折を繰り返してきたぺトロです ペトロにとって希望のもととなるのは神であります 自分の信仰と望みとは神にかかっているのです それは神がキリストを死人の中から甦らせたからです その神はいつも私たちにもみ旨に従って最善の道を用意しておられるのです お祈りをします 6