生殖補助技術 (ART) 現状と将来 橋本 肇 生殖補助技術 (Assisted Reproductive Technology : ART) は 今や不妊症の最も重要な治療法となっている 元来 不妊症とは 健康な夫婦が結婚後 避妊していないのに 2 年以上子供が生まれない状態をいい 全夫婦の約 10% に看られるといわれる ( 表 -1) 表 -1 結婚後各年次の妊娠率 (%) 結婚後の年数 1 2 3 4 5 平均妊娠率 65.6 84.4 91.2 94.9 96.6 これには 1 度も妊娠しない場合のほかに 子供を 1 人出産したあと妊娠しなくなる場合もふくまれる 妊娠しても 出産までいたらない場合は不育症として 区別されている 不妊の原因はさまざまであり 男性 女性のそれぞれに原因が考えられる ( 表 -2) 子供がほしいのに 妊娠する兆しがみえないときは 夫婦ともに検査をうけて原因をしらべる必要がある 男性については 性器や精液を検査たり ホルモン検査などをおこなう 女性については 基礎体温を測定して 排卵やホルモンの分泌が正常かどうかをしらべる また 子宮内膜の組織や 卵管の状態などの検査をおこなう そのほか 夫婦の血液型や精子と子宮頸管粘液との適合性の検査などもおこなわれる 表 -2 不妊夫婦の責任率 区 分 夫婦数 % 夫婦ともに異常が見られる 63 33.2 妻に異常が見られる 23 12.1 夫に異常が見られる 104 54.7 男性側の原因 ( 表 -3) としては インポテンスや病気による性交障害 精液の異常 精子の異常などがある もっとも多いのは生殖巣に起因するもので 精子の異常で精液中に精子がまったくないか極端に少ないと 妊娠はむずかしくなる また数は一定量あっても 精子の活動性がじゅうぶんでないと受精の場である卵管膨大部までたどりつけず やはり妊娠はできない 表 -3 男性不妊の原因分類と頻度 (%) 生殖巣因子 内分泌系異常 停留精巣 放射線障害等 45~50 生殖輸管因子 精管欠損 逆行性射精 精管結紮等 25~30 副性器系因子 副生殖腺の炎症または異常拡張等 15~20 心因子 性交不全 ( 情動 運動障害 ) 0~5 81
女性側では ( 表 -4) 生殖輸管に起因するものが最も多い 無排卵や排卵回数が少ないなど 排卵や月経の異常による不妊もまた多い この場合もホルモン療法などがおこなわれるが もっとも有効なのは排卵誘発剤による治療である しかし 双子以上の多胎妊娠がおこる可能性もある そのほか 子宮に異常があって受精卵が着床できない場合や 子宮に炎症や腫瘍がある場合も妊娠不能となる 表 -4 女性不妊の原因分類と頻度 (%) 生殖巣因子 内分泌機能系の異常 20~25 生殖輸管因子 機能 形態の異常 腹膜の異常 30~40 子宮因子 着床の場としての形態 機能異常 15~20 頸管因子 精子侵入の異常 ( 免疫学的不適合 ) 10~15 原因に応じて治療をしても効果がないときは 人工授精 (artificial insemination : AI) や体外受精 (in vitro fertilization : IVF) 等の ART が検討される 欧米では 出生児の 1~4% は ART によるといわれている 日本においても ART の登録施設は約 600 あり 100 人に 1 人強は体外受精児というまでにこの技術は普及定着してきた このような人工的な不妊症治療には さまざまな技術があり ( 表 -5) 現在問題のある方法もあり 倫理的 法律的な面からの検討もなされている ART は どのような背景で研究されてきたのかを年表 -1 に示しておいた 特に ヒトでは 1978 年 Steptoe と Edwards による体外受精児第 1 号ルイーズ ブラウン嬢の誕生である 日本では 1983 年 東北大学の鈴木雅洲教授らによって IVF 児が誕生している 年表 -1 生殖医学 生殖工学 遺伝子治療の主な歴史 年 事 項 1720 イヌによる人工授精 ( 伊 ) 1799 ヒト配偶者間人工授精 ( 英 ) 1890 ウサギ受精卵の子宮への移植 ( 英 ) 1948 非配偶者間人工授精 ( 日 ) 1952 ウシ精液凍結保存 ( 英 ) 1966 クローン ガエル ( 体細胞使用 ) の作出 ( 英 ) 1978 ヒト体外受精児の誕生 ( 英 ) 1980 サラセミアの患者にヒト正常 bグロビン遺伝子導入 ( 米 ) 1983 マウスの初期胚を用いて核移植法を確立 ( 米 ) 1984 ヒト凍結受精卵による出産 ( 豪 ) 1985 NIHは遺伝子治療のガイドラインを作成 ( 米 ) 1986 ヒツジ初期胚の核移植による仔ヒツジが誕生 ( 英 ) 1988 ヒト顕微受精児の誕生 ( シンガポール ) 1990 日本初の初期胚によるクローン ウシの誕生 ( 日 ) 1990 アデノシン デ アミナーゼ欠損症の遺伝子治療実施 ( 米 ) 1995 ADA 遺伝子治療開始 ( 日 ) 82
1996 体細胞核移入によるクローン ヒツジ誕生 ( 英 ) 1997 体細胞核によるクローン ウシ誕生 ( 日 ) 1997 クローン マウスの誕生 ( 米 ) 不妊治療にはさまざまな方法があり 化学的 ( 薬物 ) 療法 物理的 ( 手術 ) 療法などの他 配偶子凍結保存 人工授精 体外受精 配偶子移植 顕微授精などが利用されているが 表 -5 に示すように操作対象により種々技術の利用法がある 表 -5 生殖に関係する技術 対象物 技 術 備 考 卵子卵胞発育 ホルモン剤 配偶子 排卵誘発 人工授精 配偶子の選択 体外授精 凍結保存 出産時期の調節 精子凍結保存 精子銀行 X Yの分離 の産み分け 受精卵 凍結保存 出産時期の選択 分割 双生児の作出 多胎児の防止 間引き 体外培養核移植 クロ-ンの作出 借り腹 代理母 胎児 妊娠期間の調節 分娩日の調整 体外培養 母胎の解放 凍結保存 (Cryopreservation) 精子銀行 (Sperm Bank) 精子凍結保存の歴史は古く 1952 年に 表 -6 精子銀行のカタログの一部 ウシ精液凍結保存の報告がなされ 翌年には ヒト凍結保存精液を人工授精することにより妊娠例を得たとの報告がある 凍結保存に使用される精液は 健全な男性の場合から不妊原因を有する男性まで 幅広い範囲の男性から提供された精子が使用される 特に米国では 非配偶者間人工授精用として健全男性の精液が 企業化され精子銀行として利用されている ( 表 -6) 83
凍結受精卵 (Frozen Embryo) 冷凍受精卵ともいう 体外受精では 成功率を高めるために排卵誘発剤を用いて一度に多数の卵子を成熟させて採取し体外で受精させる 受精した卵子の数個以上を子宮に移植するが 余分の受精卵が残る 腹腔鏡を使用する場合には採卵のために患者に負担がかかるうえ 受精卵を子宮に戻す時期は排卵の直後に限られるため一部の卵子は使用できないことになる もし受精卵を凍結保存して次の最適な機会に子宮に移植できれば 受精卵が無駄にならないばかりでなく成功率も上昇する 1983 年オーストラリア メルボルンのモナシュ大学で凍結受精卵による妊娠に初めて成功した 日本産科婦人科学会は 88 年 ( 昭和 63)2 月 ヒト胚および卵の凍結保存と移植に関する見解 を発表し 条件付きでこの方法を許可した 卵の保存期間は妻の生殖年齢を超えない 婚姻の継続期間中つまり夫婦の一方か両方が死亡したときには廃棄される この治療を行うものは学会に登録する などを定めた 凍結卵を治療に使用する施設数は 96 年末には 106 に達し妊娠数も 96 年中に 449 例あった 卵巣から採取した複数の卵を受精させて子宮に戻して妊娠出産させるとともに 残りの受精卵を凍結保存して 数年後に子宮に戻して妊娠出産させる方法も成功している 凍結卵は 長期間保存が可能であるから 従来の常識では予知できなおことや 現行の法律では判断できない事態が生じることも予想される 現在アメリカでは精子銀行と同様に 凍結卵の商業化も進行しているし 日本への進出も計画されていると言われている 実施の普及にあたっては倫理的問題の議論を含め多くの面で慎重な配慮が必要である 人工授精 (Artificial Insemination) 不妊症の治療のひとつで 精子を直接注射器で子宮または卵管にいれ そこで自然に受精させる方法 人工授精はもともと 家畜を改良するために研究が進められてきた ヒトでは おもに男性に原因がある場合の不妊症の治療としてつかわれる 妊娠できそうな期間をえらび その間に精液を注射器で腟から子宮内または卵管内におくりこむが 1 回だけでは妊娠の可能性は低いため 2~3 回おこなう 夫の精子をつかう配偶者間人工授精と 夫以外の精子をつかう非配偶者間人工授精とがある 配偶者間人工授精とは (1) 夫の精液そのものには異常はないが うまく腟の中に射精できない場合 (2) 精子の数が少なかったり運動能力が弱い場合 (3) 子宮の入り口 ( 頸管 ) の粘液の量が少なかったり 酸性に強くかたむいている場合など (4) 夫婦のどちらにも特別な不妊の原因がみあたらないのに妊娠しない場合 いずれも新鮮な精液をつかう 非配偶者間人工授精は (1) 夫に精子がまったくないか ひじょうに少ない場合 (2) 遺伝的にみて 夫の子を生まないほうがいい場合 (3) 血液型の不適合のため 健康な子が生めない場合 84
ただしどの場合も 夫婦が子供を熱望し しかもお互いに完全に了解していないといけない 精子は夫婦にまったく関係ない第三者からえるが 文書で同意することが必要となる 夫婦と精子提供者の間は完全に秘密がたもたれる 配偶者間の場合は一般の施設でもおこなえるが 非配偶者の場合は一部の病院でしかおこなっていない 体外受精 (In Vitro Fertilization) 不妊症の治療のひとつで 精子と卵子を体の外にとりだし 試験管の中で人工的に受精させて子宮にもどす方法 女性の卵管がつまっていると 精子が卵子のところにたどりつけず 受精できないため 妊娠が成立しない 体外受精は当初 この卵管の閉塞を原因とする不妊症の治療法として研究された 現在では 精子の数が少ない 運動能力が弱いなど 男性側に問題がある場合などにも適用されている 世界ではじめての体外受精児は 1978 年 エドワーズとステプトーの手によって イギリスで生まれた 日本での最初の例は 83 年で それ以降 1 万人をこえる体外受精児が生まれている 体外受精の方法は まず排卵誘発剤で多数の卵子の成熟を促進する 排卵直前に 腹腔鏡あるいは超音波をつかって成熟した卵子をとりだし 特別な培養液の中にいれる 精子はじゅうぶんに洗浄し とくに元気のいいものを卵子のはいっている培養液にうつして 12~16 時間ほマイクロマニピュレーターどそのままにしておく 受精がおこなわれたかどうかを確認し さらに 24 時間培養をつづける 卵子が受精し 分割して胞胚期まで正常に発育していたら 子宮にもどす その後 プロゲステロンというホルモン剤を毎日投与する 通常はなるべく妊娠しやすいように 子宮にもどす胚は 2 つ以上にしている ただし 4 つ以上の胚ができていたら 冷凍保存して後に解凍してつかうこともできる ( 凍結胚移植 ) 4 つ以上の胚を一度に子宮にもどすと 双子や三つ子などができる可能性が高い しかし 現実には 4 つ以上の胚がもどされることが多く 双子以上の胎児を妊娠する確率は 自然妊娠の場合の 10 倍以上になっている 妊娠率はおよ 85
そ 20% 程度で 年々成功率はあがってきているが まだまだ研究の余地があるだろう 体外受精のほかに 配偶子である卵子と精子をとりだして培養し その後いっしょに卵管にいれる配偶子卵管内移植 (GIFT またはギフト法 ) 精子の成熟分裂の各段階の精子を顕微鏡下で受精させる所謂 顕微授精あるいは卵細胞質内精子注入法 (intracytoplasmic sperm injection : ICSI) など いくつかの授精方法がある 代理母 (Surrogate mother) 生物学的な母親に関していえば 人工授精や体外受精の技術がすすんだことで 夫婦以外の第 3 者 ( 代理母 ) の子宮 卵子 ( 卵子販売 ) 精子( 精子銀行 ) をつかった出産も可能になっている アメリカでは女性に報酬をはらって代理母をひきうけさせる業者もある 日本の産婦人科学会は代理母をみとめておらず 日本人夫婦がアメリカにいって代理出産を依頼した例もある 人工授精の研究がすすんで体外受精が実用化されてからは 卵子だけを提供してもらう方法 精子だけを提供してもらう方法 その両方をくみあわせた方法 さらには代理母による出産もできるようになった 代理母とは別の女性の子宮をかりる方法だが 夫婦間で体外受精した胚を別の女性の子宮に移植するもの 夫の精子と妻以外の女性の卵子で体外受精をしたうえで子宮をかりるものがある こうして生まれてきた子供が法律的にだれの子かという問題がおこってくるのは当然である また 冷凍保存した精子や卵子 胚をつかえば 両親が死んだあとでも子供を生ませることもできるわけで 法律的な問題はますます複雑になる 自然の性関係に人工的な技術をくわえることは倫理に反するとの考えも根強くあり 卵子 精子 子宮の提供をすることによってお金をえるということに対する反発もある こういうさまざまな技術をどこまでみとめるかということについては慎重にならざるをえない アメリカでは妊娠を補助する技術がいろいろみとめられているが 日本やその他の国ではみとめられていないものもある 日本では体外受精 凍結胚移植は夫婦間のみでみとめられているが 人工授精については非夫婦間でも適用される 生まれた子供は 夫婦間の場合は法律でも実子とされる 非夫婦 86
間の場合は妻の実子であっても夫の実子ではないため 夫が自分の実子として承認した場合でないと 法律的にも実子とはみなされない ART に関して動物では 世界でも常に良い成績を収めてきている日本では 1986 年 上原と柳町がハムスター 入谷等がウサギ 1990 年後藤等がウシでそれぞれ精子の状態は異なるが 精子の microinjection に成功しており 2004 年には河野等が哺乳類で初めて単位発生マウス かぐや の誕生に成功している またヒトでは 不妊患者のほとんどが治療可能と言われるようになった現在 より好成績が得られるために 更なる基礎的研究や臨床的研究の必要性が求められる また今後の生殖生理学分野の発展は 生殖工学 発生工学 遺伝子工学分野の技術的研究手法を導入し 患者側の意見等を取り入れ 法の制度化や視野の広い医療政策の実施を行うことが必要ではないのか あらゆる先端技術は社会共有の財産であり社会の構成員に必要に応じて還元されるべきものではないのかと思われる 87