ルカの福音書 3 章 バプテスマ - 神と人との接近 1A 主の道の用意 悔い改めのパブテスマ B 罪の赦しの説教 C 背景 1-6 1D 歴史 1-2 2D 聖書 3-6 2C 内容 D 神の怒り 7-9 2D 悔い改めにふさわしい実 C 目的 -

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2012 年 7 月 1 日 ( 日 ) 2 日 ( 月 ) 17 回目 Ⅴ-020~021 バプテスマのヨハネの登場 バプテスマのヨハネの登場 ルカ 3:1~2 マコ 1:2~6 1. はじめに (1) 文脈の確認 1バプテスマのヨハネの誕生 2イエスの誕生 3イエスの幼少期 (2) 今日の箇所は

2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

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2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

創世記5 創世記2章4節b~25

* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

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2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

創世記5 創世記2章4節b~25

2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

2019 年 7 月 28 日 ( 日 ) 29 日 ( 月 ) 70 回 12 人の弟子たちの救い 12 人の弟子たちの救い 使徒 19:1~7 1. はじめに (1) 第三次伝道旅行が始まった 1 使 18:23~21:17( 紀元 53 年の春から 56 年の春 ) 2パウロは ひとりで出かけ

Heb 11:7 信仰によって ノアは まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき 恐れかしこんで その家族の救いのために箱舟を造り その箱舟によって 世の罪を定め 信仰による義を相続する者となりました (1) ノアは 神から警告を受けた 1 創 6:17 Gen 6:17 わたしは今 いの

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

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Rev 7:1 この後 私は見た 四人の御使いが地の四隅に立って 地の四方の風を堅く押さえ 地にも海にもどんな木にも 吹きつけないようにしていた (1) この後 私は見た 1 物事の時間的流れではなく ヨハネが見た幻の順番を示している 2この幻は 神の裁きが迫っていることを示唆している 3 地の四方

2. アウトライン (1) 過去の回顧 (1~4 章 ) (2) 律法の解説 (5~26 章 ) (3) 未来の展望 (27~30 章 ) (4) 指導者の交代 (31~34 章 ) 3. 結論 (1) 律法の本質 (2) イスラエルの将来 (3) 申命記とイエスの教え 申命記を通して イエスの教え

2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

牧会の祈り

(1) 神殿の聖所と至聖所を分ける幕である 1 長さが約 18 メートル 厚さが約 10 センチ 2この幕の内側に入れたのは 大祭司だけである それも年に一度だけ 3 大祭司 アロンの家系 ケハテ氏族 レビ族 イスラエルの民 全人類 (2) この幕が 上から下まで真っ二つに裂けた 1 神の御手がこれ

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

2017 年 2 月 5 日 ( 日 ) 6 日 ( 月 ) 22 回 イスラエルに対する戦い (2) イスラエルに対する戦い (2) 黙 12:7~17 1. はじめに (1) キリストの再臨の前に何が起こるかを見ている 110 章 ~14 章は 挿入箇所である * 物語の進展はなく 状況の説明が

4きょう取り上げる 3~5のパターンは ユダヤ的に解釈する必要がある 5イエス時代のユダヤ教のラビたちの旧約聖書引用法 * 直接引用とその成就 * その箇所の解釈ではなく 適用である * きょうの3~5 のパターンは すべて適用である 6マタイは 5 つの引用によってイエスのメシア性を証明しようとし

2010 年 4 月 18 日 ( 日 ) 19 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京出エジプト記 19 出エジ 19 出エジプト記 14 章 15 節 ~15 章 21 節 紅海を渡る 1. 文脈の確認 (1) イスラエルの民は 430 年後にエジプトを脱出した (2) エジプト脱出の記録は


07/06/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

牧会の祈り

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

束の地カナンに入ることが許されなかった 9 死を前にして ヨシュアを後継者に任命し 120 歳でモアブのネボ山で死んだ 10 モーセという人は 地上のだれにもまさって非常に謙遜であった ( 民数記 12:3) 11 自分を しもべとして神の家全体のために忠実でした ( ヘフ ル 3:5) 新約聖書に

神学総合演習・聖霊降臨後最終主日                  2005/11/16

ったその初代皇帝であります そして クレニオは今まで 紀元後 7 年から 9 年までの総督である とされていましたが 最近の歴史的文献によりますと それは 2 回目の統治であったということが わかりました 紀元前にも総督になった時があったのです ルカがこの福音書を テオピロという おそらくはローマの

に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において 神の霊を満たした (2~3 節 ) (1) ユダ部族のフル その子ウリ その子ベツァルエル 1フルとはモーセの手を両側から支えた 2 人のうちのひとり ( 出 17 章 ) 2フルの孫がベツァルエルである (2) 神の霊を満たした 1 知恵 (wisdom)

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2014 年 10 月 7 日 ( 火 ) 60 分で分かる創世記 60 分で分かる創世記 1. はじめに (1) 60 分で分かる〇〇 のシリーズを開始する 11 節 1 節の解説も重要であるが 鳥瞰図的な理解も必要である 2その場合重要なのは センス オブ プロポーション である (2) 創世記

は歯が痛くなるとズキンズキンとして何をしていても繰り返し襲って来る痛みに悩まされますが そのように 絶えず痛みがある と言わずにいられないような痛みを感じ続けていた 一体それはどんな悲しみ 痛みだったのでしょうか それが同胞ユダヤ人の不信仰に関することでした パウロがどんなに同胞 同国人のことを思っ

1 パンの家 という意味 農業生産の豊かな地 ダビデの町とも呼ばれた 2ガリラヤのベツレヘムと区別するために ユダヤのベツレヘムと書かれている 年代 200 軒の家 クリスチャンとイスラム教徒が平和に住んでいる 4 今日 パレスチナ自治区 2 万 2 千人 クリスチャンは迫害に会っている

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子たちも オリーブ山から神殿を眺めて これはまあ 何とみごとな石でしょう 何とすばらしい建物でしょう ( マルコ 13:1) と感嘆の声を挙げました しかし イエス様は この大きな建物を見ているのですか 石がくずされずに 積まれたままで残ることは決してありません ( マルコ 13:2) と言われたの

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

2017 年 2 月 21 日 ( 火 ) 60 分でわかる旧約聖書 (24) エレミヤ書 60 分でわかる旧約聖書 (24) エレミヤ書 1. はじめに (1) 預言者たちの中でのエレミヤの位置づけ 1 預言書を書いた預言者 (the writing prophet) * 王国が南北に分裂して以降

聖書に聞く会 ( 第 2 回 ) マルコによる福音書 1 章 1-8 節 2014 年 5 月 8 日 古本靖久 1 聖歌 60 番 ヨルダンのほとりヨハネはさけべり 2 お祈り 3 テキストの位置 今日の箇所はマルコ福音書のはじめの部分であり この福音書は何について書くのか決定づける所です 特に

3 仲介者としての祭司たちが存在していた (2) 新約時代の状態 1すべての信者が まことの聖所に入ることができる * 天の聖所で 神の臨在の前に出ることができる 2これは 万人祭司の教えである 3 訳文の比較 こういうわけですから 兄弟たち 私たちは イエスの血によって 大胆にまことの聖所に入るこ

1.1 節 Rev 14:1 また私は見た 見よ 小羊がシオンの山の上に立っていた また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて その額には小羊の名と 小羊の父の名とがしるしてあった (1) ヨハネは キリストの再臨後の状況を見ている 1 実際にキリストの再臨が起こるのは 19 章になってからである

Taro-主日礼拝順序

裁きます けれども 実は自分たち自身も その基準には到達できていないのです これが偽善の始まりです 律法主義に陥ると 相手をこき下ろし けれども こき下ろしている基準に自分自身が満ちていないことが起こります 高らかに主張している人ほど 実はその教えを行なっていないという問題が起こるのです パウロは

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕

牧会の祈り

このメッセージは 父なる神について考えようとするものである Ⅰ. 聖書が使用する比喩的言葉 1. 神という言葉について (1) ヘブル語でエロヒム ( エル ) ギリシア語でセオス 1 普通名詞 神々を指す言葉である 2 日本語の神も 多くの神々を指す言葉である 3 聖書の神は どういう神かを示す必

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2 を重んじてきた人たちがいたからでした そういう人たちに対して 自分は宗教に熱心であると思っても つまり 形 を整えることに一生懸命であっても と語りかけているのです 今の私たちに当てはめるならば 洗礼を受けたといっても とか どんなに礼拝を守っているとしても とか あるいは 奉仕を一生懸命やって

癒しの業と宣教 ( ルカ 4:38~44) 1) ルカ福音書講義 (23) 章 38 イエス 2) は会堂から立ちあがり シモンの家 3) に入った シモンのしゅうとめが 高熱 4) で苦しめられており 彼らは 5) 彼女のことをイエス 6) に願った 39 彼は彼女の枕

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

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6ユダヤ人は 人種的 宗教的理由によって サマリヤ人を軽蔑した * ユダヤの格言 私の目が サマリヤ人を見ることがないように 7サマリヤ人も ユダヤ人を軽蔑し 敵対した * ユダヤ人がエルサレムから下ることは許したが 上ることは許さなかった 8 現代もサマリヤ人の子孫たちが存在している ( 千名以下

(1) イゼベル 彼にとっては ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった それどころか彼は シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり 行ってバアルに仕え それを拝んだ (1 列 16:31) 1オムリの子アハブは イゼベルと結婚し バアル礼拝をイスラエルに導入した 2 預言者

2000 年は二日です ですからこちらも 遅い! と言えるほど 時は経っていないと言えます もちろん 1000 年イコール一日と言われているのではなく 一日のようだと言われていますので 単純計算できる話ではないのですが 先ほど引用した詩篇 90 篇 4 節では 私たちの時間のはかなさ 些細さという側

2010 年 2 月 21 日 ( 日 ) 22 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京出エジプト記 13 出エジ 13 出エジプト記 9 章 13 節 ~10 章 29 節 最後の 3 つの災い 1. 文脈の確認 (1) エジプトに主からの 10 の災いが下る (2)10 の災いの記述は 考え抜

大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

* オバデヤがヨエルやエレミヤよりも前の預言者であることを考えると 前者の可能性が高いと思われる * オバデヤ書は 前 845 年前後に執筆されたと考えてよいだろう 4オバデヤは 小預言書の 12 人の預言者の中で最初に登場する預言者である (4) オバデヤ書のテーマ 1イスラエルに敵対する不信仰な

Ⅱ. 信仰生活の再建 : エズラの指導 (7~10 章 ) 1. エルサレムに到着するエズラ (7~8 章 ) 2. 民の罪を告白するエズラ (9 章 ) 3. 国を清めるエズラ (10 章 ) 結論 : 私たちへの適用 1. 悔い改めの力 2. みことばの力 エズラ記を通して リバイバルの原則につ

* ペリシテ人の古代都市ガザは 前 93 年に破壊され 前 57 年に再建された * この道路は ガザの遺跡を通過し 新ガザに至る荒野の道である 5 ピリポは その命令に従順に従った 2.27b~28 節 Act 8:27b すると そこに エチオピヤ人の女王カンダケの高官で 女王の財産全部を管理し

聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

5 節ごとに 洗礼者ヨハネ 殺される 6:14-15 ( そして ) イエス ( 彼 ) の名が知れ渡ったので ヘロデ王の耳にも入った 人々は言っていた 洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ だから 奇跡を行う力が彼 ( のうち ) に働いている そのほかにも 彼はエリヤだ と言う人もいれば 昔

ヘブル人への手紙1章

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Taro-2016 礼拝週報 2.14

B2 神はどのようなお方か 1Chro.29:10-12 Dt.10:12-13 Ps.95:1-7 B3 イエス キリストはどのようなお方か John.14:8-10 Mk.6:31-56 John.10:30-33 Heb.2: John.4:2-3 2John.7-10 B4 三位

よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

1:14 ことばは人となって 私たちの間に住まわれた 私たちはこの方の栄光を見た 父のみもとから来られた ひとり子としての栄光である この方は恵みとまことに満ちておられた 今日はこの後 神が人となってくださったことについて考えたいと思いますが まずこの聖句にある 住まわ れた について ご一緒に考え

比喩:その他

マタイ 25 章 14 節 各自に任された財産 1A 神より与えられている財産 1B 創造の源 2B 信仰の量り 2A 清算の時 1B 永遠の報い 2B 報酬の時 3A 求められていること 1B 心のはかりごと 2B 自分の行程 3B 小さな事への忠実 4B 信じる事 本文 マタイによる福音書 25

のはよいものの 何か別のことを行なっているようで結局 同じところに行き着くことがあります 思い出すと 私は高校生の時に勉強に行き詰まりました それで落ち込むことが多くなったのですが 主の憐れみで 推薦入試で 大学に早めに入学できたのです それで私は思いました これで やり直そう 大学生になったのだか

1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

2008 年 7 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) ハーベストフォーラム東京創世記 8 創世記 8 創世記 3 章 14 節 ~24 節 アダム契約 イントロ : 1. 前回までの復習 (1) 創世記には 11 の区分 ( トルドット ) がある (2) 第 1のトルドットには 人類の

(3) まっすぐにしなさい 1 されば衰へたる手 弱りたる膝を強くし ( 文語訳 ) 2ギリシア語の アノルソオウ である 上げる まっすぐにする 強くする 3ルカ 13:13(18 年も病の霊につかれ 腰が曲がって 伸ばすことができない ) Luk 13:13 手を置かれると 女はたちどころに腰が

聖書マタイによる福音書 11:15~19 ( 第 53 講 ) 題 肉の思いから解放された信仰によって変えられる ( 序 ) 自己願望から物事を見る弊害を理解する * すべての人間は アダムが犯した罪人として 汚染された DNA を受け継ぎ 自己中心の生き方をするようになってしまいました それが当た

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勧めるところから始まります それは いつでも祈るべきであり 失望しない ことです 1B 祈りによって C 忍耐を尽くす訴え :1 いつでも祈るべきであり 失望してはならないことを教えるために イエスは彼らにたとえを話された 18:2 ある町に 神を恐れず 人を人とも思わない裁

新約聖書の学び

sermon

らしめ ということばが使われています 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である 子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる また箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている 懲らしめの杖がこれを断ち切る また申命記 8:5 あなたは 人がその子を訓練するように あなたの神 主 があ

たと聞いて 一緒に集まった 22:35 そして彼らのうちの一人の律法の専門家がイエスを試そうと尋ねた 私が救われるためにどうしたらいいの 教えて -- そういう気持ちがなかったんです 22:36 先生 これも偽善的な態度でした 先生と言う時 結局教えてください どうしたらいいの 知らせて けれどそう

3 章 蝮の裔よ ( ルカ 3:7~14) ルカ福音書講義 (15) そこで 彼から洗礼を受けよう 1) として出て来た民衆 2) に彼は言った 3) 蝮 の裔よ 4) 誰があなた方に 来るべき怒り 5) から逃れるように教えたのか 8 さ あ 悔い改め 6) にふさわしい

を与えられて 祈りつつ取り組んで行くように導かれる ですから私たちは自分の願い事を一方的に神に祈る祈りはやめて まず聖書を通してまず神を見上げること 御名を賛美することから始めたいのです そのような神への賛美また信仰告白から始まる祈りこそ祝福される祈りの基礎です さて第 2 の祈りは 御国が来ますよ

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ルカの福音書 3 章 バプテスマ - 神と人との接近 1A 主の道の用意 悔い改めのパブテスマ 1-20 1B 罪の赦しの説教 1-18 1C 背景 1-6 1D 歴史 1-2 2D 聖書 3-6 2C 内容 7-14 1D 神の怒り 7-9 2D 悔い改めにふさわしい実 10-14 3C 目的 - キリストの到来 15-18 2B 悪事に至る責め 19-20 2A 人の道の用意 民衆といっしょのパブテスマ 20-38 1B 神による任命 21-22 2B 神に至る系図 23-38 1C マリヤの先祖 2C アダムの子 3C 神の子 本文 私たちは バプテスマのヨハネの誕生と イエスのご降誕 そしてその成長の話を読み終えました そしてついに イエス様が公の働きを始めることになります 福音書の全てにおいて そして使徒の働きにおいて メシヤが来られる あるいは神の国が到来するということに対して バプテスマのヨハネの働きを書き記しています それは イエスご自身の働きを受け入れるには ヨハネの働きによる道備えが必要だからです 彼の父 ザカリヤがこの子の誕生において預言しました 主の御前に先立って行き その道を備え 神の民に 罪の赦しによる救いの知識を与えるためである (1:76 77) 前回の学びでは シメオンが赤子イエスを見た時に 私の目があなたの御救いを見たからです (2:30) と預言しましたが 救い主はイエス様です けれども 何からの救いであり 何をもって救いを受けるのか 多くの人が分からないでいます イエスが救い主であると告げても それが自分に当てはまることとして捉える人は少ない訳です そこでバプテスマのヨハネの働きをじっくりと見ることは 神の救いを受け入れるための重要な一歩になります 1A 主の道の用意 悔い改めのパブテスマ 1-20 1B 罪の赦しの説教 1-18 1C 背景 1-6 1

1D 歴史 1-2 3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年 ポンテオ ピラトがユダヤの総督 ヘロデがガリラヤの国主 その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主 ルサニヤがアビレネの国主であり 3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ 神のことばが 荒野でザカリヤの子ヨハネに下った パブテスマのヨハネに神のことばが下った歴史的背景を記しています 皇帝テベリオが イエスのご降誕の時の皇帝アウグストを引き継ぎ 皇帝になっています 時は 紀元後 29 年のことです けれども 実際にイスラエルの地を統治しているのは ここに書いている人物たちです 皇帝と良い関係をもっていたヘロデ大王が 本人はイドマヤ人でありましたが ユダヤ教に改宗した者としてユダヤ人の王として君臨しました 彼の死後 そこがヘロデの息子たちに分割されました ユダヤ地域はアルケラオスが支配しましたが 彼の悪政により追放され そこはローマ直轄の属州になり ピラトが総督として統治しました ここにある歴史的な状況は 時が満ちた という言葉で言い表すことができます 前回お話ししたように ダニエル書 7 章にローマが鉄の獣として描かれており 征服する民をことごとく牙で噛み砕く姿が描かれていました パックス ロマーナと呼ばれる平定によって秩序はありましたが 一般の民は圧迫を受けていました 政治家らが語るその 言葉 は空疎なものであり 人々の不満は鬱積していました その中で必要だったのは 人ではなく 神のことば でありました ところが その時に神の律法を任せられた祭司たちの間にも 混乱がありました アンナスとカヤパが大祭司であったとありますが カヤパはアンナスの義理の息子ですが それはローマの意向によって大祭司になりました アンナスがユダヤ人の中では精神的な大祭司であり それでカヤパが大祭司となってもアンナスをそのまま大祭司とみなしたという状態です 彼らの中に政治が入ってきており 彼らの属していたサドカイ派はローマとの妥協によって 神殿礼拝を守るために現実路線を取っていました 神の律法は彼らによって解釈はされましたが 力を持っていなかったのです その中で 神のことば がヨハネに下りました ここの ことば は ギリシヤ語でレーマであり ロゴスではありません ロゴスは神の書かれた言葉ですが レーマは神に語られた言葉です 最後の預言者マラキ以来 約四百年後に与えられた生きた御言葉です イスラエルにとっては ちょうど族長に語られてから四百年後にモーセに主が現われてくださったような 途方もない長い期間でありました そして ヨハネは神の律法と預言にあるものを その時代の民にまっすぐに語り 人々に力を与えたその言葉を語ったのです そして 荒野 にヨハネはいたとありますが ちょうどユダの荒野であると考えられます 死海の北 エリコのそばの辺りでありますが 荒野 というのは十戒が与えられたのも荒野であり ダビデがサウルから逃げて神に祈り求めたのも ここユダの荒野であり 主が特別に啓示を与えてくださる場所としてふさわしいところです 2

私たちにも 霊的復興が日本で起こることを願わざるを得ません そこには ユダヤ人たちの間にあるように 歴史的背景にある時があると思います 韓国でリバイバルが起こったのは 朝鮮戦争という悲惨の後でした 中国のリバイバルも文化大革命という試練を通してのものでした アメリカのヒッピーの間にあったイエス革命も ベトナム戦争や冷戦の混乱期に 物質主義の中にあったアメリカで 生きた神の御言葉が語られる人々によって起こったリバイバルです リバイバルは 誰かが始めるものではなく 時が満ちるときに神が行ってくださることです そして そこで神のことばが語られます それは その世代の人々にレーマとして語られる 書かれた御言葉が生きた神の言葉として語られる時であります ヒッピーで伝道者として用いられたロニー フリズビーについて チャック スミスが初めて会った時に まるで福音書のイエスについさっき会ってきたばかりのように 恵みを分かち合っていた と述懐しています 2D 聖書 3-6 3:3 そこでヨハネは ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って 罪が赦されるための悔い改め に基づくバプテスマを説いた 場所は ヨルダン川のほとり であります 父ザカリヤに対してガブリエルが ヨハネが エリヤの霊と力で主の前ぶれをし (1:17) と予告しました エリヤは アハズ王に雨が降らなくなることを告げると ヨルダン川に生き そこで水を飲み 烏が持ってくる肉とパンで命をつなぎました そして エリヤはエリシャが付いてくるところで外套でヨルダン川を分け そこから火の戦車によって天に引き上げられました さらに遡ると 神の約束が実現していくのはヨシュアたちがヨルダン川を渡るところから始まります したがって ここから新たに神の約束が実現していくその分岐点であるわけです そして 大事なのはどのような言葉か メッセージだったのかということです 罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ ということです バプテスマというのは 浸かることです あまり深く 難しく考えないほうがいいです 例えば ある人が自分の親が死んで悲しみの中に沈むとき その人は 悲しみのパブテスマを受ける と言うことができます したがって 悔い改めに基づくバプテスマ とは 本当に自分自身のことを悔いて 真剣に神を求めることを意味します ここに 福音の始まりがあります 18 節にヨハネは 福音を知らせたとありますが 福音は悔い改めから始まります 悔い改めがないところに イエスの福音を聞いて信じるという働きは決して起こりません イエスが来られても 悔い改めの心がなければこの方を受け入れようがないのです ここが 私たちが伝道しようとする時に福音が拒まれていく原因であり またキリスト者として霊的成長ができない理由となっています 悔い改め という言葉を聞くときに 何らかの行ないを変えなければいけないという印象がこの 日本語には与えられます 例えば たばこを吸うのをやめなければクリスチャンになれない 教会 3

に集っている他の人々のように自分が行ないを正して 身だしなみをしなければクリスチャンにな れないと考えます しかし 聖書の語る悔い改めは もっと深いものです 次に ある牧師が書い た文章を引用します ******* 聖書では 悔い改め と訳されているギリシャ語の メタノイア は もともと 考えを変える 心を変える という意味です ここには 後悔 や 行いを改める という意味は最終的には含まれてはいますが しかし第一ではありません 悔い改めというのは まず考えを変えることです では 考えとはなんでしょうか それは 私はこの人生を自分の好きなように生きていこう という考えです この考えは ほとんどすべての人の心にあるものです 一般的には 当たり前な考えと言っていいかもしれません 自分の人生は自分だけのものだ だから 自分の力で 自分の好きなように生きるのが当然だ そう思うのは特別なことではありません ほとんどの人々がそう考えているのです ところが聖書からすると この考えが 罪 の姿の最たるものなのです この考えに基づいて生きることによって 私たちは自分自身と他者とを限りなく傷つけていく ここが変わること それが悔い改めです どう変わるのかといえば 私の人生は神のものだ 神の御心に従って生きていこう と変わるのです つまり 自分の人生の主権 主導権を 自分のものにするのではなく 神にお返しするのです 言ってみれば それまで自分で操縦していた船の舵を 神にお渡しして 神に操縦していただく これが悔い改めです そもそも 聖書からすれば私たちは神によって造られたものです 私たちは自分でこの人生を始めたわけではありません 始めたのは 神なのです 私たちの本当の主人は 自分ではなく神なのです それなのに 私たちはこの事実を無視してどんどん神から離れていきます しかし人生のどこかで神の福音を聞いて 自分の人生は神のものなんだ というこの事実を受け入れ そして人生の主権 舵を神にお返しして あなたに従って歩ませてください と自らを神にゆだねること これが悔い改めなのです この最も深いところにある人生を生きていくうえでの原則が変更される そして自分中心から神中心の歩みへ変えられるのが悔い改めなのです 表面的に 行い を後悔して改めることではありません 1 ******* そして悔い改めは 罪の赦し をもたらします ここにおいても 多くの日本人はつまずきます 自分が過ちを犯したことを認めると 自分を赦せなくなります だから なかなか罪の告白ができないとも言えるでしょう しかし 神は一貫して 悔い改めて神に立ち返る人に対して 豊かな憐れみと罪の赦しをもたらすことを行なっておられます わたしは悪者の死を喜ぶだろうか 神である主の御告げ 彼がその態度を悔い改めて 生きることを喜ばないだろうか ( エゼキエル 18:23) 罪を認めることは 自分に死をもたらすのではなく むしろ命をもたらすのです これが神の憐れみであり 恵みなのです ここを一心に受け入れなければいけません 1 信仰の救急箱 34 ページ http://pastor-maiku.jimdo.com/ 信仰の救急箱 / 4

3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである 荒野で叫ぶ者の声がする 主の道を用意し 主の通られる道をまっすぐにせよ 3:5 すべての谷はうずめられ すべての山と丘とは低くされ 曲がった所はまっすぐになり でこぼこ道は平らになる 3:6 こうして あらゆる人が 神の救いを見るようになる これはもちろん イザヤ書 40 章からの引用です 前回 シメオン イスラエルが慰められることを待ち望んでいた人であることが紹介されていましたが それもイザヤ書 40 章から来ています 読んでみましょう 慰めよ 慰めよ わたしの民を とあなたがたの神は仰せられる エルサレムに優しく語りかけよ これに呼びかけよ その労苦は終わり その咎は償われた そのすべての罪に引き替え 二倍のものを主の手から受けたと 荒野に呼ばわる者の声がする 主の道を整えよ 荒地で 私たちの神のために 大路を平らにせよ すべての谷は埋め立てられ すべての山や丘は低くなる 盛り上がった地は平地に 険しい地は平野となる このようにして 主の栄光が現わされると すべての者が共にこれを見る 主の口が語られたからだ (1-5 節 ) これが イスラエルに対する慰めです 慰めよ 慰めよ という呼びかけから始まっています そして その慰めは エルサレムに対して豊かな罪の赦し 二倍の赦しが与えられるところに現れ ます その慰めを受けるために ここにあるように 主の道を整えよ と叫ぶ声があるのです これは 王がある地方を通るとき その前にやって来て 道を整えるように命じる人が来ることを話しています 平らな道にするために へこんでいるところは埋めて 高くなっているところは低くされます これを同じように 人々の心の中で行うというのがここの預言の内容です マリヤがエリサベツと会い 主へ賛歌を歌った時のことを思い出しますか? 主は 御腕をもって力強いわざをなし 心の思いの高ぶっている者を追い散らし 権力ある者を王位から引き降ろされます 低い者を高く引き上げ 飢えた者を良いもので満ち足らせ 富む者を何も持たせないで追い返されました (1:51-53) 心の高ぶりが砕かれます そして反対に低くされている者たちが引き上げられます そのことによって あらゆる人が 神の救いを見るようになる とあります これが高いところにいる者たちを低くする目的です 世は 高いところにいる人々のようになりなさいと教えます 財産 流行 学位 他にもあらゆる形で高められることを教えます しかし 自己を高められるように求められるところには神の栄光は見えません イエスが ベツレヘムの飼い葉おけでお生まれになり 羊飼いがそれを礼拝して しかもその両親は貧しい家庭であったというように 低い者のみがこの方に会う特権に預かれるのです 反対に低められている者には 大いなる霊的祝福があります その人は幸せ者になり 高く引き上げられるのです 2C 内容 7-14 1D 神の怒り 7-9 3:7 それで ヨハネは 彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った まむしのすえたち だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか 3:8 それならそれで 悔い改めにふさ 5

わしい実を結びなさい われわれの先祖はアブラハムだ などと心の中で言い始めてはいけません よく言っておくが 神は こんな石ころからでも アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです 3:9 斧もすでに木の根元に置かれています だから 良い実を結ばない木は みな切り倒されて 火に投げ込まれます ヨハネは エリヤの霊と力で預言を行っています マラキ書の最後にこう預言があります 見よ わたしは 主の大いなる恐ろしい日が来る前に 預言者エリヤをあなたがたに遣わす 彼は 父の心を子に向けさせ 子の心をその父に向けさせる それは わたしが来て のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ (4:5-6) 主の大いなる恐ろしい日 終わりの日の大患難が地上に降り注ぐ預言です エリヤを始めとして その後現れた数々の預言者たちは イスラエルとユダに下る激しい神の怒りを預言しました そして 主の日 と神が定められている患難が終わりの日に下り それで悔い改めて神の救いを得なさいというメッセージを行っていました ヨハネからバプテスマを受けようとして群衆が来ています 彼らは ヨハネの悔い改めの言葉を聞いて それで受けようとしていたのですが ヨハネは彼らの救いの基がアブラハムの子孫だから という誤った考えを持っているのを責めています まず アブラハムの子孫ではなく まむしのすえたち と呼んでいます 聖書では ペリシテ人など 神の裁きを受ける邪悪な国民に対して使っている表現です ユダヤ人は 終わりの日に救われることが預言書に数多く書かれています しかし それは残された者たち へりくだって 真実に悔い改めた者たちが救われることを教えています ところが いつの間にかユダヤ人であれば アブラハムの血縁的子孫であれば救いを受けると考えたのです しかし 子 という言葉は 聖書では従順を意味しています 光の子 と言えば 聖さの中に生きている信者のことを話しています サラの子と言えば サラが夫アブラハムに従ったように 夫に従う妻のことを差しています イエス様がご自分を殺したいと殺意を抱いていたユダヤ人に対して 彼らは自分たちの父はアブラハムだと言ったのですが あなたがたは あなたがたの父である悪魔から出た者であって あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです ( ヨハネ 8:44) とはっきりと語られたのです 神にはえこひいきはないのです 患難と苦悩とは ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも 悪を行なうすべての者の上に下り 栄光と誉れと平和は ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも 善を行なうすべての者の上にあります 神にはえこひいきなどはないからです ( ローマ 2:9-11) 私たちキリスト者に対しても 同じ警告が当たられています 自分は神の子どもだ と言っていることが その人が神の子供になっている証拠とはなりません 罪のうちを歩む者は 悪魔から出た者です 悪魔は初めから罪を犯しているからです 神の子が現われたのは 悪魔のしわざを打ちこわすためです だれでも神から生まれた者は 罪のうちを歩みません なぜなら 神の種がその人のうちにとどまっているからです その人は神から生まれたので 罪のうちを歩むことができないのです そのことによって 神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします 義を行な 6

わない者はだれも 神から出た者ではありません 兄弟を愛さない者もそうです (1 ヨハネ 3:8 10) そして それならそれで 悔い改めにふさわしい実を結びなさい と言いました 真実に悔い改めたのであれば その人のうちに必ず行ないの実が結ばれます 行ないによって実を自分で結ばせるのではなく 悔い改めによって行いに導かれ 結果として実を結びます しばしば 悪かった 赦してくれ とお願いする 横暴な夫の言葉がありますね 妻がもう実家に戻るといったら そのように言って戻って来てくれるよう懇願します しかし 戻って来たら同じことを繰り返します 彼は 妻がいなくなったことで自分が惨めな思いになっているから謝っているのであって 悔い改めていないのです 悔い改めとは 自分が惨めになったからではなく 神に対して傷を与えてしまった 神に害を与えたという 神を信じているからこそ生まれてくるものです 先ほど話したように 神中心の生活に軸足を移します と言う告白であります そしてヨハネは 神は こんな石ころからでも アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです と言いました これは神の力を示しています アブラハムの子孫というものを大事にしているけれども もっと大事なのは石から子孫を起こすような復活の力なのだ ということです 私たちが 礼拝において 全き信仰をもって御言葉を聞き それに応答しようとする時に イエス キリストの復活の力が働き 自分ではなく神の力によって変えられるのです そして 斧もすでに木の根元に置かれています と言いました それだけ神の国の到来が切迫しているのだということです さらに だから 良い実を結ばない木は みな切り倒されて 火に投げ込まれます と言いましたが 神に選ばれた理由は実を結ぶためであります もし実を結ばなければ 役に立たないものであり 捨てられます イエス様も ぶどうの木とその枝の例えで イエスに留まれば多くの実を結ぶが 実を結ばない枝は火で焼かれることを語られました その人の生活に変化の見えない人は その人がクリスチャンだと言っていながら 実はクリスチャンではないのです 2D 悔い改めにふさわしい実 10-14 3:10 群衆はヨハネに尋ねた それでは 私たちはどうすればよいのでしょう 3:11 彼は答えて言った 下着を二枚持っている者は 一つも持たない者に分けなさい 食べ物を持っている者も そうしなさい 3:12 取税人たちも バプテスマを受けに出て来て 言った 先生 私たちはどうすればよいのでしょう 3:13 ヨハネは彼らに言った 決められたもの以上には 何も取り立ててはいけません 3:14 兵士たちも 彼に尋ねて言った 私たちはどうすればよいのでしょうか ヨハネは言った だれからも 力ずくで金をゆすったり 無実の者を責めたりしてはいけません 自分の給料で満足しなさい 群衆の それでは どうすればよいでしょうか という問いに対して ヨハネが勧めたのは全て他 者に対するものです イエス様が最も大切な教えとして言われたように 神を愛する者は そのま 7

ま隣人を自分自身のように愛することにつながります この二つを分離することはできません 神 を愛する人は その愛がその人に留まり他者を愛します そして他者を愛するためには 自分で やることではなく 神の愛を自分のうちに留まらせます 群衆に対して話しているのは 下着を 2 枚持っている者は 一つも持たない者に分けなさい 食べ物を持っている者も そうしなさい という言葉ですが 律法においては何度となく貧しい者に対して施しをしなければいけないことを教えています その教えは新約時代の教会に受け継がれています 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は 孤児や やもめたちが困っているときに世話をし この世から自分をきよく守ることです ( ヤコブ 1:27) そして特筆すべきは 取税人が来ていることです 取税人は ユダヤ人に憎まれていました ユダヤ人はもともと ローマに納税することを嫌いました 自分たちが白 -マに従属していることを認めたくなかったからです なのに ローマの肩入れをしたのが取税人です ローマは 取税人が決められた額以上に課税しても何も文句を言わなかったので 彼らはその差額を手に入れていました しかし すべての者が神の救いを見るというイザヤの預言のように このような者たちに対しても福音は存在するのです しばしば教会が ある一定の人々を受け入れないという過ちを犯します 一つの信条が強くある時 それは確かに高尚な基準なのかもしれませんが それを前面に出すことによって 人々を排除してしまうのです しかし福音は すべての人々に与えられるものです 例えば 居酒屋で働いている人が来た時に どうでしょうか? もちろん 酒に酔いしれることが罪であることは キリスト者が御霊に満たされる中でしっかりと守らなければいけないことです しかし それをいつも話していたときに キリストの福音から何かしらずれてしまいます さらに 兵士たちも来ています これはローマ兵ではなく おそらく取税人を護衛するためのユダヤ人たちの兵たちだと言われています ヨハネはユダヤ人の間の預言者なので この時にローマ兵が来ていると考えにくいからです 彼らに対しても その力を乱用して人々から金を取ることをやめなさい と勧めました ですから群衆に対しても 取税人に対しても そして兵士に対しても 貧しい人や弱者から奪い取ってはいけないという モーセの律法を具体的に適用できるよう教えたのです ここで大事なのは 取税人に対しても兵士に対しても その職を止めなさいと言っていない事です 取税人が徴税することそのものは 神から来たものであります 当時のユダヤ人は ローマに納税することそのものに怒りを覚えていました しかしヨハネは その権威を否定しなかったのです しかし 神から与えられた権威だから それをきちんと管理する人になりなさいということを教えたのです 同じように 兵士をやめなさいと言いませんでした 警備すること 武力を行使することそのものを否定せず それも神から与えられた権威だと認めたのです しかし それを乱用してはならない やはり良き管理者になれ と教えたのです これは新約聖書の教えであります 人 8

はみな 上に立つ権威に従うべきです 神によらない権威はなく 存在している権威はすべて 神によって立てられたものです ( ローマ 13:1) またこうも言っています あなたがたは だれにでも義務を果たしなさい みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め 税を納めなければならない人には税を納め 恐れなければならない人を恐れ 敬わなければならない人を敬いなさい ( ローマ 13:7) ですから 直接的に不法なことを行なっていない限り 教会において 職業によって差別をしてはいけないと思います 主から与えられた良心にしたがって やめるべきだと考えれば 神が機会を与えてくださった時にやめればよいのです おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい 奴隷の状態で召されたのなら それを気にしてはいけません しかし もし自由の身になれるなら むしろ自由になりなさい 奴隷も 主にあって召された者は 主に属する自由人であり 同じように 自由人も 召された者はキリストに属する奴隷だからです あなたがたは 代価をもって買われたのです 人間の奴隷となってはいけません 兄弟たち おのおの召されたときのままの状態で 神の御前にいなさい (1コリント 7:20-24) 今の風潮であれば 東電に勤めておられる方が教会に来ることは非常に辛いことでしょう 自衛隊の方はどうでしょうか? 主がそれぞれに与えられたその場所で神に仕えるべきです しかし もしそれが主に喜ばれないと示されるならば その機会が与えられた時にやめればよいのです このようにヨハネは 当時のユダヤ社会にあったような ローマに対する政治的な反発を説くことはしませんでした むしろ ユダヤ人自身が神に対して罪を犯しているという 内部の改革を説きました そして そしてその悔い改めは 他者を憐れみ 他者の基本的な必要を満たし 弱い人に自分のものを分かち合い 自己中心的になって他者に傷を与えるようなことをやめるというところに現れています 今日は ここまでにしたいと思います 内容がとても深いです 主の道を備えるということが 悔い改めるということを話しました 福音は この悔い改めから始まります 私たちに与えられている戒めをはたして守っているのかどうか? わたしがあなたがたを愛したように 互いに愛し合いなさい という戒めを守っているかどうか にかかっています 9