受胎告知 ( ルカ 1:26-38) ルカ福音書講義 (3) 2014.07.13 26 6 か月目 1 に み使いガブリエルが神からナザレ 2 という名のガリラヤの町に遣わされた 27 ダビデの家の出 3 でヨセフという名の男と婚約中 4 のおとめのもとにである おとめの名はマリヤ 5 といった 28 み使い 6 は彼女のもとにやって来て 言った ごきげんよう 7 恵まれた方 8 主があなたとともにおられます 9 29 彼女はこの言葉に戸惑い この挨拶は何のことかしら と思いめぐらした 30 すると み使いが言った 10 恐れるな 11 マリヤ あなたは神から恵みを受けたのです 12 31 なんと あなたは身ごもり 男の子を生みましょう 1 み使いガブリエルがザカリヤに現れてから ルカは洗礼者ヨハネがイエスより 6か月前に誕生したと伝える ここから 後代 ヨハネは夏至に イエスは冬至に誕生したという言い伝えがうまれた 2 ギリシア語表記は Nazaréth ナザレの町はエズレル平原北端の丘陵地の南斜面に位置する ヨセフス ユダヤ戦記 に言及される 50 ほどのガリラヤの町々に含まれないので 当時はいたって小さな寒村であったろう 現在はパレスチナ人の町で キリスト教徒とイスラム教徒が住み分ける 受胎告知の場所と伝えられる地点が二つあり 一方にはカトリックの もう一方にはギリシア正教の受胎告知教会が建てられている 3 3:23 以下のヨセフの系図参照 パウロがすでに み子は 肉によればダビデの子孫 と記す ( ロマ 1:3) 4 当時のユダヤ人の慣習にしたがえば 娘が十代前半 (12 歳半 ) になると 父親は彼女を婚約させることができた 婚約した娘は法的に妻とみなされた 5 マリヤはヘブライ語のミルヤム ( 出 15:20 他 ) に由来 マタイ福音書はイエスの母マリヤが 処女 であったことをイザ 7:14 みよ おとめが身ごもって男の子を生む を引いて説明する ( マタ 1:23) ただし イザ 7:14 のヘブライ語アルマー (ʽalmāh) 若い女 は未婚 既婚を問わない 70 人訳聖書がこれにパルテノス (parthénos) おとめ 処女 を充てた その背景には 処女性を重んじるギリシア的発想 ( アテナ=パルテノス信仰 ) があったといわれる これに影響されて メシアは処女から生まれると判断し パルテノスを充てたらしい それが おとめマリヤ の伝承に引き継がれた 乙女 や 童貞 を清いとみる伝統は 2 コリ 11:2 黙 14:4 などにも残る 当時のユダヤ人の間では パルテノスに相当するナアラー (naʽarāh) は十代前半の生娘を指した 6 原文 彼 7 原文 chaĩre は chaírō 喜ぶ (1:14 他 ) の命令形 挨拶に用いる マタ 26:49 28:9 他 8 神から恵みを受けた方 という含み 30 節でそう言い換えられる 9 士 6:12 のみ使いの言葉に似る 10 以下 原文は韻文とはいいがたいが ザカリヤへのみ告げ (1:13-17) と同じく Nestle- Aland にしたがい 行替えを一文ずつ訳出 11 1:13 にも 旧約聖書において 神やみ使いが顕現し はじめに発せられる常套句 創 15: 1 士 6:23 他 12 神から恵みを受けた を字義どおり訳せば 神のもとに恵みを見出した ヘブライ語 的語法 ( 創 6:8 他 ) 1
その子をイエスと名づけるのです 13 32 彼は成長し 14 いと高き方の子 15 と呼ばれましょう 主なる神は彼に父祖ダビデの玉座を与えられましょう 16 33 彼は永遠にヤコブの家 17 に王として君臨し その王国に終りはないでしょう 18 34 マリヤはみ使いに言った そのようなことがどうしてありえましょう 私 はまだ男を知りませんのに 19 35 み使いは答えて 彼女に言った 聖霊があなたに臨み 20 いと高き方の力があなたを覆います それゆえ 生まれる子は 聖なるもの 21 また神の子と呼ばれましょう 22 36 それに ほら あなたの親族エリサベト 23 彼女も高齢ながら男の子を身ごもっています 不妊の女と呼ばれる彼女でさえ いまや 6 か月目です 37 何であれ 神にはできないことはないのです 24 38 マリヤは言った ごらんのような主の僕女 ( しもべめ ) です お言葉どお 13 イエス (Iēsoũs) はヘブライ語の男性名ヨシュア (Yehôšūʽ ヤハウェは助け の意 短縮形は Yēšūʽ) のギリシア語形 マタ 1:21 ではイエスの名が 救い から説明される 母による命名はエバ ( 創 4:25) ハガル ( 創 16:11) レアとラケル ( 創 29:32 35:18 他 ) など 前例は多い マタイ福音書はイエスの命名をヨセフに託す ( マタ 1:21) 14 伝統的には 偉大になり などと訳される 1:14 の訳注参照 15 いと高き方 は旧約聖書の神呼称のひとつエルヨーン ( 創 14:19-20 他 ) に由来 16 クムラン文書によれば 少なくとも 2 通りのメシア 政治的メシア ( ダビデの子孫 ) と宗教的メシア ( アロンの子孫 ) が待望されていた イエスはダビデの子孫から出るメシアと信じられたが 政治指導者とはならなかった 17 イスラエルのこと アモ 3:15 イザ 2:5 6 ミカ 2:7 エレ 2:4 など預言書に多用される表現 それ以外には創 46:27 出 19:3 詩 104:1 18 このみ告げはダビデ王朝の永続の約束 ( サム下 7:16) に基づく イエスがダビデの王国を再興するかのように聞こえる ルカ福音書は しかし これが政治的国家ではなく すべての人に開かれた 神の国 であることを徐々に明らかにしてゆく 19 ザカリヤの応答 (1:18) は懐疑 マリヤの応答は戸惑い 男を知らない が現在形で記されることから 後に マリヤは生涯にわたり処女であることを誓った と解するカトリック教会の伝統が生まれ イエスの 兄弟 姉妹 ( マコ 6:3 他 ) は従弟妹とされた 20 聖霊 は人間をとおして働く神の力 次文の いと高き方の力 に同じ 聖霊 はすでに 1:15 に また 1:17 に 霊 と 力 が対で用いられる マタ 1:18 を参照すれば ルカもまたマリヤが聖霊によって身ごもったことを示唆していよう 21 お生まれになる聖なる子は とも訳しうるが イザ 4:3 の類似表現から こう訳す 22 すでにパウロが 肉によればダビデの子孫 聖なる霊によれば 神の子 ( ロマ 1:3-4) と記す イスラエル王国時代に王を 神の子 とする王権思想があり ( サム下 7:14 詩 2: 7 89:27-28 など ) その呼称が ダビデ王朝消滅後の第二神殿時代 王 として到来するメシアへと引き継がれた イエスを 神の子 と信じる信仰の淵源がここにある 23 エリサベトはアロンの家系というから (1:5) マリヤもまた祭司の家系であったか 24 神にできないことはない とは旧約時代からの神信仰 創 18:14 エレ 32:27 など ルカ 18:27 ではイエス自身の口から同じ内容の言葉が語られる 2
り わが身になりますように 25 こうして み使いは彼女から立ち去った 本日学ぶ箇所はいわゆる 受胎告知 と呼ばれる場面である 神のみ使いが子の それも男児の誕生を予告する物語は旧約聖書にもみられる 創 18 章では 3 人のみ使いの一人がアブラハムとサラに 来年の今ごろまでには男児が誕生している と告げる 士 13 章には伝えられるサムソンの誕生物語もこれに似る マノアの妻には子供ができなかったが ヤハウェのみ使いが彼女に顕現し あなたは不妊の女で 子供を産んだことがない だが いまや身ごもって男の子を生むであろう 告げられる ( 士 13:3) 王下 4 章には み使いでなく 預言者エリシャが子供のないシュネムの女に 来年の今ごろ あなたは男の子を生むであろう と告げ そのとおりになった という短い記事が載る ( この物語は エリシャが死んだその子をよみがえらせる という奇蹟物語へと続く ) エリシャの奇蹟物語を別にすれば これらの物語とマリヤへの受胎告知との間にはある共通点が見受けられる 第一に 不妊の女性と おとめ という違いはあっても いずれも 生まれるはずのない女性にみ使いがあらわれて男児誕生が予告されること 第二に いずれの場合も 男児を身ごもると告げられた女性が戸惑いをみせることである こうした共通点は認められるが マリヤの場合は 受胎自体が神の力 ( 聖霊 ) による とされる点で際だっている この点は マタイ福音書のほうがより明確に表現する ( マタ 1:20) マリヤの受胎告知もイエスの誕生物語も 最古のマルコ福音書には物語られない イエスの誕生をめぐるこうした物語の成立は イエス伝承のなかでも比較的遅かったであろうと想定される イエスの奇蹟的な誕生物語がはじめにあって イエスを神の子と信じる信仰が生まれたのではない 逆に イエスを神の子と信じたたがゆえに その誕生は特別な出来事と考えられ 奇蹟的な誕生物語が成立したのである マタイ福音書とルカ福音書とでは誕生物語自体に齟齬が生じた理由もそこにあった マタイ福音書の場合 誕生物語においてマリヤが前面にでることはない み使いもマリヤでなく ヨセフに現れる マリヤは発言していない それでもなお マリヤが 聖霊 によって身ごもるという点 誕生の場所がベツレヘムであったという点において 両福音書は共通する おそらくこの 2 点が イエスの誕生物語のなかで 最も古く 最も重要な点であったろう イエスは 神の子キリスト すなわちメシアであり 聖なる存在である と信じられたからである それが マタイとルカ両福音書において それぞれ独自に加工された物語に仕上げられたのである しかし これら両福音書を除いて マリヤが 処女 であったという記録は新 25 ゲッセマネの祈り (22:42) に通じる姿勢 ( 使 21:14 も参照 ) 3
約聖書にはない それは イエスが神の子である という信仰にとって いわゆる 処女懐胎 が不可欠の要件ではなかったことを示している ( ガラ 4:4 でパウロはみ子イエス キリストを単純に 女から生まれた者 と伝え その 処女性 に触れることはない ) いわゆる 処女懐胎 がキリスト教の使徒信条の信仰箇条とされるのは 第 2 回目の教会公会議として 381 年に開催された第一回コンスタンティノポリス宗教会議で決定された ニカイア コンスタンティノポリス信条 である 主イエス キリストは 聖霊によりおとめマリヤから肉体を受け と記された ちなみに 第 1 回公会議は 325 年にニカイアで開催され イエス キリストは神にして人間という理解に基づき いわゆる三位一体の教義が正統とされた さて イエス誕生の記事にルカ的な加工は随所に見受けられるが その一つはイエスの誕生と洗礼者ヨハネの誕生とが深く関係づけられたことである この点は 先回学んだヨハネ誕生の予告 本日の箇所の冒頭に 6 か月目 と記されること それに続いて 受胎告知を受けたマリヤがエリサベトを訪問する記事などに明らかである それは ルカ福音書が イエスの時代と旧約時代との間に連続面をみていることを示している ルカは イエスによって新しい時代が切り開かれたこと つまり旧約時代にはなかった新しい救いの時代が到来したことを述べると同時に もう一方で イエスの時代が旧約時代の約束が成就するという意味で 両者は連続しているとみる この両面が洗礼者ヨハネとイエスの関係に象徴的にあらわされる 旧約聖書と新約聖書が連続している面と断絶している面があるということ 両者の間に連続面ばかり見るのでも 断絶面ばかり見るのでもなく この両面を見て取ることが大切である 第二は 聖霊 のはたらきである 聖霊 は人間をとおして働く神の力 次文の いと高き方の力 に同じ ガブリエルはマリヤに 聖霊 が臨むことを告げる マタ 1:18 のように明言はされないが ルカもまたマリヤが聖霊によって身ごもったことを示唆する ルカは しかも イエスの誕生だけでなく 洗礼者ヨハネの誕生にも 聖霊 がはたらいたことを繰り返す (1:15 41 67) 福音書記者によれば 聖霊 は イエスの誕生に際して一回的にマリヤにはたらいたのではなく イエスの生涯にわたってはたらく神の力であった ガブリエルは続いて マリヤから生まれる子が 聖なるもの と呼ばれる と告げているが 聖なるもの という表現がそれを示す また ルカは 他の福音書とは異なり イエスの宣教活動の最初に イエスが 主の霊がわがうえにあって とはじまるイザヤ書 61 章を引用することからはじめている ルカ 11:13 には 天の父は彼に求める者には 聖霊 をお与えになる とイエスが語った伝えられる ( これもルカ特有 ) 使徒記の冒頭 (1:1) によれば イエスが弟子たちに教えた言葉もまた 聖霊 によっていた このようにイエスにおいてはたらいた 聖霊 は信徒にもはたらく神の力である そして それをルカは 使徒記において 教会の時代の最初の出来事として語り出す ペンテコ 4
ステの 聖霊降臨 の出来事 ( 使 2 章 ) がそれであった 後に三位一体の教義が成立すると 聖霊 は神の位格として 実体的に受けとめられてゆくが 元来は 人間に また人間をとおしてはたらく神の力である この点において 前田先生の発言を想い起す 聖霊 といわれても 現代人にはピンと来ないだろう しかし 罪にまみれ 自分のことしか考えない私たちが ときに 他の人の助けになり 他の人を救いに導くことがある そうした力は そもそも罪にまみれた私たち自身にはないものであるがゆえに そこに神がはたらいてくださった と知らされる 自分のなかからは生まれそうにない そうしたはたらきを 聖霊 と呼んで 何がいけないか 前田先生はそんな風に 聖霊 を説明された 十字架に処刑されたナザレのイエスが人類に新しい生命 ( 命 ) の次元を指し示してくれた 罪と弱さのただなかにありながら なお 死をこえる永遠の生命に連ならせていただいている そうした信仰と信仰に基づく生き方を示してくれた そう信じたキリスト教徒の文筆家 歴史家として ルカはイエスの誕生物語を描き出した そこにみ使いが関わり 神の力として 聖霊 がはたらく出来事として 受胎告知の最後に ルカはマリヤに ごらんのような主の仕え女 ( つかえめ ) です お言葉どおり わが身になりますように と語らせている 矢内原忠雄による ルカ伝講義 は このマリヤの言葉はすべて信ずる者の声を代表するものである という文章で 受胎告知 の講義を閉じている 5