東 北 大 学 中 国 語 学 文 学 論 集 第 19 号 (2014 年 12 月 30 日 ) 冼 星 海 の 自 伝 をめぐる 問 題 平 居 高 志 1 はじめに 私 は これまでに 現 代 中 国 で 最 も 有 名 な 作 曲 家 であり 人 民 音 楽 家 と 讃 えられて 来 た 冼 星 海 (1905~1945)という 人 物 と その 生 きた 時 代 についての 考 察 を 重 ね *1 てきた そして 前 稿 においては 冼 が 延 安 に 着 いてから 約 半 年 の 間 に 生 産 大 合 唱 と 黄 河 大 合 唱 によって 大 合 唱 という 様 式 を 発 明 確 立 させるなど 創 作 面 で 大 き な 成 果 を 上 げたことを 指 摘 した それに 続 き 本 稿 では 政 治 面 について 検 討 を 加 えたい 冼 に 関 する 政 治 的 出 来 事 のハイライトは 1939 年 12 月 3 日 に 正 式 に 中 国 共 産 党 の 一 員 となったことであろう *2 そのための 手 続 きは 1939 年 5 月 15 日 に 自 伝 を 提 出 することから 始 まった 半 年 間 にわたる 彼 の 入 党 の 経 緯 は 当 時 の 共 産 党 の 組 織 事 情 をよく 表 しており 考 察 に 値 するのだが 一 本 の 論 文 で 論 じ 尽 くせるものではない そ こで 本 稿 では 入 党 手 続 きの 出 発 点 となった 自 伝 について 考 察 することにする 冼 の 自 伝 には 三 つ もしくは 四 つの 版 があり 成 立 事 情 にも 問 題 があって そこには やはり 当 時 の 時 代 状 況 がよく 反 映 されていると 思 われる なお 人 民 音 楽 家 冼 星 海 に 関 して 書 かれた 論 文 は 特 に 中 国 において 膨 大 な 量 にの ぼる その 中 で 入 党 について 考 察 したものとしては 孫 国 林 冼 星 海 入 党 前 後 *3 があり 自 伝 の 内 容 について 考 証 をしたものとしては 戴 鵬 海 の 冼 星 海 全 集 编 辑 工 作 刍 *1 拙 論 冼 星 海 武 漢 から 延 安 へ~ 生 産 大 合 唱 の 成 立 まで ( 集 刊 東 洋 学 第 110 号 2014 年 ) 同 黄 河 大 合 唱 の 成 立 ( 東 北 大 学 中 国 語 学 文 学 論 集 第 18 号 2013 年 ) *2 冼 の 日 記 12 月 3 日 の 条 に 永 不 能 忘 記 的 日 子 ( 永 く 忘 れることのできない 日 だ) とあり それが 共 産 党 の 正 式 党 員 になったことを 意 味 することは 日 記 を 収 める 冼 星 海 全 集 第 1 巻 ( 広 東 高 等 教 育 出 版 社 1989 年 以 下 全 集 と 略 )290 頁 の 編 注 にある *3 党 史 博 采 2006 年 第 2 期
议 ( 上 ) *4 がある 必 要 に 応 じて 本 文 中 で 触 れたいと 思 う しかし 自 伝 の 版 に 関 す る 問 題 について 検 討 を 加 えたものは 見 当 たらない 2 抗 日 戦 争 時 期 の 入 党 申 請 書 類 について まず 最 初 に 冼 が 入 党 に 当 たって 自 伝 を 書 いたことが 自 発 的 なことなのか 党 が 求 めたことなのかを 考 えておきたい 銭 立 勇 入 党 申 請 書 的 演 変 歴 程 *5 によれば 第 六 次 党 大 会 の 決 定 が 生 きていた 時 期 (1 928~1945)においては 入 党 申 請 に 当 たって 提 出 する 書 類 の 形 式 について 明 確 な 規 定 はなかった 特 に 無 産 階 級 においては 教 育 が 普 及 しておらず 文 盲 も 多 かったと いう 事 情 によっているようだ 後 に 作 家 となった 高 玉 宝 は 入 党 の 時 点 ではまだ 文 盲 であ って 一 枚 の 紙 に 絵 を 描 いて 入 党 の 意 志 を 伝 えたという 話 もあり 銭 が 写 真 と 共 に 紹 介 し ている しかし 抗 日 戦 争 時 期 に 関 する 様 々な 回 想 類 に 目 を 通 すと 入 党 に 当 たって 自 伝 を 書 いている 事 例 がいくつか 見 られる 入 党 に 触 れた 回 想 も 時 期 が 違 えば 事 情 が 違 うし 詳 しさにおいても 大 きな 違 いがあるので 一 概 に 書 かれていることだけによって 判 断 する ことはできないのだが 例 えば 1940 年 秋 頃 の 陝 北 公 学 について 馬 興 恵 は 学 校 号 召 每 个 学 员 详 细 地 写 一 份 自 传, 以 便 学 校 对 每 个 人 进 行 全 面 了 解 ( 学 校 は 一 人 一 人 の 学 生 に 詳 しく 自 伝 を 書 くよう 呼 び 掛 け それによって 学 校 は 一 人 一 人 について 全 面 的 な 理 解 を 進 めていた) と 書 いている *6 ここだけ 読 めば 当 時 の 学 校 の 教 育 活 動 の 一 環 であるかのよ うだが 前 後 の 文 脈 から 考 えると これは 明 らかに 入 党 に 関 わる 作 業 である また 私 が 知 る 限 りにおいて 個 別 の 事 例 として 最 も 明 瞭 に 詳 しく 入 党 経 緯 が 記 録 されているのは 呉 銘 という 人 物 についてであるが 彼 女 は 延 安 女 子 大 学 に 在 籍 していた1941 年 に 入 党 申 請 書 と 共 に 自 伝 を 提 出 した *7 したがって 党 としての 指 示 を 文 書 で 確 かめることはできないが 少 なくとも 知 識 分 *4 中 央 音 乐 院 学 报 1997 年 第 2 期 なお( 下 )は 楽 曲 についての 考 察 である *5 上 海 党 史 与 党 建 2013 年 第 8 期 *6 馬 興 恵 从 陕 公 生 活 看 延 安 精 神 ( 刘 葆 观 主 编 血 与 火 的 洗 礼 ~ 从 陕 北 公 学 到 华 北 大 学 回 忆 录 (1937 ~ 1949) 上 巻 ( 中 国 人 民 大 学 出 版 社 2007 年 ) 所 収 *7 林 恒 她 牺 牲 于 共 和 国 屹 立 的 前 夕 ~ 回 忆 吴 铭 烈 士 ( 延 安 鲁 艺 回 忆 录 光 明 日 报 出 版 社 1992 年 所 収 )
子 は 自 伝 を 書 くことが 入 党 申 請 に 当 たって 重 要 視 された 作 業 であった 可 能 性 が 高 い だから 冼 も 決 して 自 発 的 に 自 伝 を 書 いたわけではなく 誰 かの 指 示 または 当 時 の 明 文 化 されていない 規 定 に 従 って 書 いたはずである 自 伝 を 書 くことは 入 党 との 関 係 だけではなく 整 風 や 幹 部 審 査 との 関 係 で 求 められる ことも 多 く それは 時 代 が 下 るに 従 って 重 要 視 されるようになっていった では いった いなぜ 自 伝 を 書 くことが 必 要 とされたのか? 上 の 陝 北 公 学 に 関 する 証 言 では 学 校 が 学 生 一 人 一 人 について 詳 しく 理 解 するためであったとしているが 1940 年 末 延 安 の 最 高 学 府 であるマルクス レーニン 学 院 で 書 かれた 马 列 学 院 审 查 干 部 工 作 中 的 一 些 经 验 (マルクス レーニン 学 院 の 幹 部 審 査 活 動 における 多 少 の 経 験 ) *8 かれている には 次 のように 書 提 高 干 部 的 政 治 觉 悟 程 度, 启 发 干 部 自 动 报 告 自 己 的 一 切 历 史 材 料, 并 重 视 这 些 材 料, 是 熟 悉 审 查 干 部 的 第 一 步 工 作 ( 幹 部 の 政 治 的 覚 悟 のレベルを 向 上 させ 幹 部 が 自 ら 自 分 の 一 切 の 過 去 を 報 告 するように 啓 発 し これらの 内 容 を 重 視 することは 幹 部 を 十 分 に 審 査 することの 最 初 の 一 歩 としての 作 業 だ) 自 伝 という 言 葉 こそ 使 われてはいないものの 幹 部 の 政 治 的 な 意 識 の 向 上 とそのチ ェックのため 自 らその 生 い 立 ちを 報 告 することが 重 要 な 作 業 として 認 識 されている こ れは 幹 部 審 査 に 当 たっての 自 伝 の 働 きを 述 べたものだが 入 党 申 請 に 当 たっての 自 伝 も 働 きとしては 同 様 であろう 自 伝 は 入 党 を 求 める 人 物 の 人 となりを 判 断 す るための 重 要 な 材 料 であると 同 時 に 書 くことによって 政 治 的 意 識 を 高 め 強 固 にすると いう 教 育 効 果 をも 期 待 されていたと 考 えられる 3 自 伝 のテキストについて 冼 星 海 の 自 伝 テキストについては 大 きな 問 題 ( 後 述 )があるため そもそも 冼 の 文 章 が どのように 扱 われてきたかについて 確 認 しておく 必 要 がある 冼 の 文 章 は 書 簡 と 日 記 1940 年 以 降 に 出 張 先 のソ 連 で 書 かれた 創 作 雑 記 そ *8 馬 洪 勤 学 三 年 受 益 终 生 (1990 年 2 月 17 日 筆 呉 介 民 主 編 延 安 马 列 学 院 回 忆 录 中 国 社 会 科 学 出 版 社 1991 年 47 頁 所 収 )に 附 件 一 として 収 録 されている 執 筆 は1940 年 12 月 25 日
して 入 党 申 請 のための 自 伝 を 別 にすると 基 本 的 に 書 かれた 直 後 の 新 聞 雑 誌 類 に 発 表 されている 1945 年 11 月 に 冼 の 訃 報 がソ 連 から 延 安 に 届 くと 毛 沢 東 が 為 人 民 的 音 楽 家 冼 星 海 同 志 致 哀 ( 人 民 の 音 楽 家 冼 星 海 同 志 のために 哀 悼 の 意 を 表 す) という 弔 詞 を 寄 せ 共 産 党 は その 約 1 年 後 に 冼 星 海 作 品 保 管 委 員 会 を 発 足 させて 冼 の 作 品 が 散 逸 することのないよう 党 として 取 り 組 んだ *9 このおかげで 共 産 党 が 抗 日 戦 争 勝 利 の 余 韻 に 浸 る 暇 もなく 国 民 党 との 決 戦 を 迎 え 1947 年 には 延 安 からの 戦 略 的 撤 退 を 行 うなど 常 に 混 乱 の 中 にありながら 冼 の 作 品 は 楽 曲 文 章 ともにほとんど 無 傷 で 保 存 されることになった こうして 保 護 された 冼 の 文 章 の 中 から 一 部 がまとめられて 出 版 されたのは 1949 年 10 月 のことである 人 民 歌 手 冼 星 海 ( 生 活 読 書 新 知 三 聯 書 店 ) *10 がそれであり 中 には8 編 の 文 章 と14 曲 の 楽 譜 ( 数 字 譜 ) 10 人 の 同 時 代 人 による 回 想 などが 収 めら れている 8 編 の 中 に 自 伝 は 含 まれていない 次 に 冼 の 文 章 がまとめられたのは 1962 年 のことである 中 央 音 楽 学 院 中 国 音 楽 研 究 所 が 中 国 近 現 代 音 楽 史 資 料 叢 刊 のひとつとして 冼 星 海 専 輯 ( 以 下 専 輯 と 略 )の 刊 行 を 始 めたのである 6 月 刊 の 専 輯 ( 一 ) は 音 楽 作 品 目 録 と 文 字 著 作 目 録 そして22 編 の 文 章 を 載 せ 11 月 刊 の 専 輯 ( 二 ) にはその 時 点 で 研 究 所 が 存 在 を 把 握 していた 残 りの 冼 の 文 章 とともに 28 人 による 回 想 類 その 他 を 載 せる 自 伝 一 自 伝 二 という 二 種 類 の 自 伝 は 専 輯 ( 二 ) に 収 録 されて 初 めて 世 に 出 た その 後 発 見 された 冼 の 文 章 は 1983 年 11 月 刊 の 専 輯 ( 四 ) *11 に 収 録 された *9 紫 光 紀 念 星 海 (1946 年 10 月 27 日 筆 同 30 日 解 放 日 報 所 載 冼 星 海 専 輯 ( 二 ) (*11 で 詳 述 ) 所 収 ) ただし この 記 事 には 委 員 会 の 責 任 者 が 自 分 ( 金 紫 光 )であったという 明 確 な 記 述 はない そ の 点 は *3 前 掲 論 文 による *10 人 民 歌 手 冼 星 海 には 同 じ 時 に 同 じ 出 版 社 から 毛 子 良 編 として 出 版 されたものと 丘 遠 編 として 出 版 さ れたものの 二 種 類 がある 体 裁 内 容 は 全 く 同 じで 奥 書 の 様 式 と 紙 質 にごくわずかな 違 いがあるだけで ある どのような 事 情 があってこのようなことになったかについては 未 詳 である *11 専 輯 は 特 異 な 書 物 である 文 革 を 挟 んだとは 言 え ( 二 )が 出 てから( 三 )が 出 るまでに20 年 が 経 過 し ている 他 編 集 出 版 について 以 下 のような 違 いがある ( 一 ) 中 央 音 楽 院 中 国 音 楽 研 究 所 編 輯 出 版 内 部 参 考 資 料 ( 二 ) 同 ( 三 ) 中 国 芸 術 研 究 院 音 楽 研 究 所 編 輯 広 州 音 楽 学 院 出 版 内 部 資 料 1982 年 11 月 刊 楽 譜 ( 歌 曲 143 曲 分 の 数 字 譜 )のみ 収 録 ( 四 ) 中 国 芸 術 研 究 院 音 楽 研 究 所 広 州 音 楽 学 院 編 輯 広 東 高 等 教 育 出 版 社 出 版 ( 内 部 資 料 との 指 定 無 し )
1985 年 には 冼 星 海 全 集 ( 以 下 全 集 と 略 ) 出 版 の 準 備 が 始 まった *12 全 部 で 10 巻 からなる 冼 の 全 集 で 文 章 は 全 て1989 年 刊 の 第 1 巻 に 収 められた その 中 *13 には 致 中 共 魯 芸 支 部 的 自 伝 ( 中 共 魯 芸 支 部 に 提 出 する 自 伝 ) 我 的 履 歴 ( 簡 単 歴 史 ) *14 と 題 された 二 種 類 の 自 伝 が 含 まれる さて 私 は 当 初 極 めて 不 用 意 に 専 輯 ( 二 ) 所 収 の 自 伝 一 と 自 伝 二 が 全 集 所 収 の 致 中 共 魯 芸 支 部 的 自 伝 と 我 的 履 歴 であると 考 えていた ところが ある 時 専 輯 所 収 のものと 全 集 所 収 のものが 相 当 大 きく 異 なることに 気 付 いた のである それは 手 稿 を 読 み 取 ったり 印 刷 したりする 時 の 単 なる 手 違 いというレベルで はない それら4 種 類 の 自 伝 の 性 質 を 概 観 すると 以 下 のようになる 専 輯 所 収 自 伝 一 ( 以 下 専 輯 版 1 とする) 約 4500 字 魯 芸 中 共 支 部 趙 毅 敏 同 志 という 宛 名 で 始 まり 署 名 と 日 付 (193 9 年 5 月 15 日 ) 地 名 ( 延 安 )で 終 わる 前 書 きと 六 つの 章 からなる 整 った 体 裁 の 自 伝 である 校 記 には 据 0124 号 手 稿 校 録 と 書 かれている 専 輯 所 収 自 伝 二 ( 以 下 専 輯 版 2 とする) 約 1900 字 宛 名 とそれに 続 く 前 書 きの 部 分 第 6 章 対 党 的 意 見 がなく 専 輯 版 1 の 第 1 章 ~ 第 5 章 に 相 当 する 部 分 だけがある 日 付 はないが 第 5 章 の 作 品 リスト に 1939 年 3 月 末 作 曲 の 黄 河 大 合 唱 までしか 書 かれていないので 冼 の 入 党 手 続 きが6 月 14 日 であったことを 考 えると 執 筆 時 期 は 同 年 4~5 月 と 考 えられる 校 記 には 据 0131 号 手 稿 校 録 と 書 かれている 全 集 所 収 致 中 共 魯 芸 支 部 的 自 伝 ( 以 下 全 集 版 1 とする) 約 5300 字 印 刷 上 のタイトルこそ 異 なるものの 体 裁 形 式 は 専 輯 版 1 と 同 じ で 魯 芸 中 共 支 部 趙 毅 敏 同 志 という 宛 名 で 始 まり 署 名 と 日 付 (1939 年 5 月 1 5 日 ) 地 名 ( 魯 芸 延 安 )で 終 わる 本 文 末 尾 には 括 弧 書 きで ( 关 于 入 党 的 手 续 已 *12 冼 星 海 全 集 编 委 会 第 一 次 会 议 纪 要 (1985 年 12 月 23 日 )( 文 化 部 中 国 音 乐 家 协 会 关 于 转 发 冼 星 海 全 集 编 委 会 第 一 次 会 议 纪 要 的 通 知 ( 文 化 部 と 中 国 音 楽 家 協 会 の 冼 星 海 全 集 編 集 委 員 会 第 1 回 会 議 の 摘 要 を 転 送 することについての 通 知 ) ( 中 国 音 楽 年 鑑 1987 年 394 頁 )) *13 冼 が 勤 務 していた 延 安 の 魯 迅 芸 術 学 院 のこと 以 下 本 論 の 中 でも 同 様 に 略 記 する *14 この( )は 原 文 である
与 赵 毅 敏 同 志 说 过, 他 愿 意 作 介 绍 ( 入 党 の 手 続 きについては 既 に 趙 毅 敏 同 志 に 話 してお り 彼 は 紹 介 したがっている)) というメモのようなものが 書 き 加 えられている 編 注 に は 本 篇 是 冼 星 海 为 申 请 加 入 中 国 共 产 党, 写 给 中 共 延 安 鲁 迅 艺 术 学 院 支 部 的 自 传 原 件 现 存 中 央 档 案 馆 ( 本 文 は 冼 星 海 が 中 国 共 産 党 への 加 入 を 申 請 するため 中 共 延 安 魯 迅 芸 術 学 院 支 部 に 対 して 書 いた 自 伝 である 実 物 は 現 在 中 央 档 案 館 にある) と 書 かれている 専 輯 ( 四 ) に 収 録 されなかったことから 中 央 档 案 館 で1980 年 代 半 ばに 発 見 され たと 考 えられる 全 集 所 収 我 的 履 歴 ( 簡 単 歴 史 ) ( 以 下 全 集 版 2 とする) 約 2000 字 簡 略 版 の 自 伝 であることがタイトルに 明 記 されており 前 書 きと 交 友 関 係 ( 人 脈 )に 関 する 章 を 欠 いている 宛 名 や 署 名 日 付 もない 編 注 には 这 是 冼 星 海 加 入 中 国 共 产 党 后 写 给 组 织 的 履 历 原 件 现 存 中 央 档 案 馆 本 篇 写 作 时 间 不 详 (これは 冼 星 海 が 中 国 共 産 党 に 入 った 後 で 組 織 に 対 して 書 いた 履 歴 である 実 物 は 現 在 中 央 档 案 館 に ある 本 文 は 書 かれた 時 期 が 分 かっていない) と 書 かれている しかし 本 文 中 の 作 品 リストに1940 年 3 月 作 曲 の 犠 盟 大 合 唱 ( 共 六 段 ) が 見 られることと 冼 が194 0 年 5 月 早 々に 延 安 を 離 れ ソ 連 に 向 かっていることから 1940 年 3~4 月 に 書 かれ たことは 間 違 いがない 中 央 档 案 館 に 保 管 されていることから 正 式 な 提 出 書 類 であった と 思 われるが 執 筆 時 期 も 目 的 も 明 らかに 他 の3 種 類 と 異 なっている 私 が 見 る 限 り 専 輯 版 と 全 集 版 が 大 きく 異 なることに 言 及 した 人 は 中 国 にもい ない それどころか 2005 年 に 冼 の 生 誕 100 周 年 を 祝 って 原 籍 地 とされる 広 州 市 番 禺 にオープンした 大 規 模 な 冼 星 海 紀 念 館 には 自 伝 手 稿 の 最 初 の2ページ(レ プリカ)と 全 集 の 自 伝 ( 全 集 版 1 )の 最 初 の2ページとが 左 右 に 置 かれ 比 較 対 照 できるように 展 示 されているのだが 驚 くべきことに 手 稿 は 専 輯 版 1 のもので あって 当 然 のことながら 全 集 のものとは 文 章 が 大 きく 異 なっている *15 異 同 につ いての 説 明 が 何 もないことから 考 えると そのことは 紀 念 館 の 展 示 監 修 者 でさえ 専 輯 版 1 と 全 集 版 1 が 別 のものであることに 気 付 いていないことを 表 しているだろう *15 紀 念 館 (2014 年 7 月 26 日 訪 問 )では その 他 の 文 章 や 楽 譜 の 一 部 についても 手 稿 と 全 集 が 対 照 できるように 並 置 されているが 資 料 が 古 く 読 み 取 りにくい 部 分 も 多 い 冼 の 作 品 が 全 集 で 見 事 に 復 元 された ということを 示 す 以 上 の 意 味 を 持 っていないように 思 われる なお 専 輯 版 1 と 全 集 版 1 が 異 なることに 気 付 きにくいのは 冒 頭 の1 段 落 にほとんど 違 いがないからであろう
性 質 のまったく 違 う 全 集 版 2 を 除 く3 種 類 の 自 伝 の 性 質 について 限 られた 情 報 によって 検 討 を 加 えると まず 入 党 申 請 に 当 たって 党 に 提 出 された 正 式 な 自 伝 は 全 集 版 1 であることが 間 違 いない それが 中 央 档 案 館 に 保 管 されていることから 分 かる だとすれば 専 輯 版 1 は 全 集 版 1 の 下 書 きで 更 にその 下 書 きが 専 輯 版 2 だと 考 えるのが 自 然 である しかし 専 輯 版 1 には 日 付 と 署 名 が 書 かれており 通 常 草 稿 にそれらを 書 くことはないと 思 われるので 専 輯 版 1 を 全 集 版 1 の 下 書 きとすることには 慎 重 でなければならないだろう 全 集 編 纂 に 当 たって 編 集 委 員 会 では 除 星 海 生 前 本 人 已 作 否 定 或 经 过 整 理 也 难 以 正 式 出 版 的 草 稿 之 外, 尽 量 收 入 全 集 ( 星 海 が 生 前 自 ら 否 定 していたか 或 いは 整 理 して も 正 式 に 出 版 するのが 難 しい 草 稿 以 外 できるだけ 全 集 に 収 録 する) との 方 針 を 確 認 し *16 その 上 で 専 輯 版 を 収 録 しなかった 二 つの 専 輯 版 は 全 集 の 編 集 委 員 によっ て 生 前 本 人 已 作 否 定 と 判 断 されたのだろう 専 輯 版 1 の 性 質 を 明 らかにするためには 手 稿 による 紙 質 や 筆 跡 などの 確 認 が 不 可 欠 である しかし 中 央 档 案 館 は 外 国 人 に 対 して 固 く 門 戸 を 閉 ざしている また 全 集 版 1 全 集 版 2 以 外 の 冼 の 手 稿 を 管 理 している 中 国 芸 術 研 究 院 図 書 館 でも 冼 の 手 稿 は 最 重 要 の 保 護 文 献 となっていて 実 物 を 見 ることは 今 のところ 不 可 能 である *17 ところが 幸 いにして 自 伝 の 手 稿 として 専 輯 版 1 のものを 展 示 するという 紀 念 館 監 修 者 の 不 手 際 により かろうじて 専 輯 版 1 手 稿 の 最 初 の2ページを 点 検 する ことができる それによれば 冼 は もともと 光 華 書 店 製 ほぼB4 版 500 字 詰 め 原 稿 用 紙 に 丁 寧 に 文 字 を 書 き 込 んだ 上 で 後 から 行 間 にいくつかの 部 分 を 書 き 加 えていることが 分 かる このことは 専 輯 版 1 の 原 型 をもともと 清 書 のつもりで 書 いたものの 書 き 終 えた 後 でいろいろと 問 題 のあることが 分 かったため 加 筆 したことを 意 味 するだろう この 加 筆 部 分 をそのまま 挿 入 して 印 刷 したのが 専 輯 版 1 である *18 冼 は 専 輯 版 1 *16 *12 前 掲 紀 要 *17 2012 年 8 月 13 日 全 集 の 編 集 責 任 者 であった 斉 毓 怡 先 生 に 閲 覧 の 紹 介 を 直 接 お 願 いしたことがあ るが 今 や 自 分 でさえも 手 稿 は 見 せてもらえない と 言 っておられた *12 前 掲 紀 要 によれば 全 集 編 集 委 員 会 は 文 化 部 に 対 して 冼 の 全 手 稿 の 影 印 本 を 出 版 すること 中 国 文 芸 研 究 院 音 楽 研 究 所 と 星 海 音 楽 学 院 によって 全 集 とは 別 に 計 画 を 立 て その 作 業 を 進 行 させるように という 進 言 をしたと のことであるが それが 完 成 したという 話 は 今 のところ 聞 いていない *18 専 輯 では この 挿 入 部 分 を 一 部 は でくくり 一 部 はそのまま 本 文 中 に 挿 入 して 印 刷 している 従 って 専 輯 版 1 の 手 稿 3ページ 目 以 降 に 当 たる 部 分 は の 部 分 がないものの それによって 加 筆 がなかったとも 言 えない また でくくられた 部 分 についても それが 後 から 挿 入 された 一 節 である ことを 意 味 するとの 注 記 はない なお 行 間 の 文 字 は 冼 の 筆 跡 であると 思 われる マ マ
に 更 に 加 除 訂 正 を 加 えて 全 集 版 1 を 書 いたので 専 輯 版 1 は 全 集 版 1 の 下 書 きのような 形 になってしまった 加 除 訂 正 が 冼 自 身 の 判 断 なのか 党 支 部 からの 指 摘 なの か 或 いはその 両 方 なのかは 判 然 としない ところで 専 輯 版 1 と 全 集 版 1 は どちらも 日 付 が5 月 15 日 で 同 じであるが それぞれ5000 字 前 後 にも 及 ぶ2 種 類 の 自 伝 が 細 かな 訂 正 も 含 めて1 日 のうちに 書 か れたとは 思 えない この 点 をどう 考 えるべきだろうか そもそも 冼 の 日 記 をたどっても 魯 芸 における 日 常 の 業 務 をこなしながら にわ かに 始 まった 生 産 大 運 動 に 参 加 し 生 産 大 合 唱 や 黄 河 大 合 唱 の 作 曲 演 奏 といっ た 大 仕 事 に 相 次 いで 取 り 組 んでいた1939 年 の 上 半 期 に 自 伝 の 執 筆 に 大 きな 時 間 を 費 やせた 日 はなかったように 見 える *19 冼 の 日 記 によれば 冼 が 王 明 夫 人 孟 慶 樹 から 魯 芸 の 新 しい 副 院 長 に 内 定 してい る 人 物 として 趙 毅 敏 を 紹 介 されたのは 1939 年 4 月 2 日 のことである 4 月 22 日 に は 趙 とお 互 いの 生 い 立 ちについて 語 り 合 い 趙 が 自 分 に 強 い 関 心 を 持 ってくれたという 記 述 が 見 える *20 だとすれば 入 党 の 際 の 紹 介 者 となってもらうことを 依 頼 したのはこの 日 以 降 である 4 種 類 の 自 伝 で 最 も 古 いと 思 われる 専 輯 版 2 が 1939 年 4 月 以 降 に 書 かれたことも 間 違 いない 自 伝 の 日 付 となっている5 月 15 日 は 冼 が 魯 芸 音 楽 系 主 任 として 発 令 された 日 で ある ただし 冼 の 日 記 によれば 冼 がそのことを 知 ったのは5 月 17 日 である 5 月 15 日 冼 は 朝 から 自 伝 の 宛 先 となっている 趙 毅 敏 に 会 っているが 桂 林 抗 敵 演 劇 第 9 隊 のメンバーを 魯 芸 副 院 長 であった 趙 に 紹 介 するためであって 入 党 に 関 する 話 ができ る 状 況 だったかどうかは 分 からない もっとも 全 集 版 1 末 尾 の 括 弧 書 きメモからは 自 伝 が 趙 毅 敏 を 宛 名 としつつ それ 以 外 の 場 所 ( 中 共 魯 芸 支 部 )に 提 出 されたことが 分 かるわけだから この 日 の 面 会 も 入 党 とは 無 関 係 と 考 えるべきだろう そして 6 月 *19 魯 芸 は 院 長 がいなかったので 副 院 長 は 実 質 的 なトップであり 冼 の 日 記 でも 三 箇 所 で 趙 院 長 と 書 かれている 1938 年 4 月 の 創 設 以 来 1 年 以 上 にわたって 院 長 ポストが 空 席 だったのは 毛 沢 東 に 就 任 を 依 頼 して 断 られたからだ という 指 摘 が 劉 増 傑 王 文 金 迟 到 的 探 询 ( 河 南 大 学 出 版 社 199 6 年 )に 引 かれた 龔 亦 群 の 話 として 王 培 元 延 安 鲁 艺 风 云 录 ( 広 西 師 範 大 学 出 版 社 2004 年 )に 見 える *20 原 文 晚 上, 马 达 汪 鹏 来 谈 话 赵 毅 敏 副 院 长 来 坐,( 中 略 ) 谈 及 他 的 出 身, 我 也 谈 了 很 多 我 的 出 身 他 很 关 心 我 们, 谈 到 十 二 时 才 回 去 ( 夕 方 馬 達 と 汪 鵬 が 来 て 話 をした 趙 毅 敏 副 院 長 が 来 て 座 り ( 中 略 ) 話 が 彼 の 生 い 立 ちに 及 び 私 も 私 の 生 い 立 ちについてたくさん 話 をした 彼 は 私 たちに 強 い 関 心 を 示 し 12 時 まで 話 し 込 んでようやく 帰 った) ( 全 集 271 頁 ) 趙 が 関 心 を 示 したのは 冼 だけではなく 馬 達 や 汪 鵬 も 含 めた 私 たち である
14 日 に 趙 毅 敏 と 徐 一 新 の 紹 介 によって 入 党 手 続 きが 行 われた( 日 記 ) 以 上 から 冼 は1939 年 4 月 以 降 に 専 輯 版 2 を 書 き それに 基 づいて 専 輯 版 1 の 原 型 を 完 成 させ 問 題 のある 点 について 加 筆 の 上 更 にそれをもとにして 加 除 訂 正 を 重 ね 6 月 14 日 までに 全 集 版 1 を 完 成 させたと 考 えられる 5 月 15 日 という 日 付 は 専 輯 版 1 の 原 型 を 書 き 上 げた もしくは 党 支 部 に 提 出 した 日 であるか 魯 芸 音 楽 系 主 任 になったことと 関 係 する 何 かの 事 情 に 基 づく 形 式 的 なものだったと 思 われる 4 全 集 版 1 専 輯 版 1 の 異 同 について 前 章 で 検 討 したような 経 緯 で 全 集 版 1 が 成 立 し しかも 専 輯 版 2 から 全 集 版 1 まで 表 現 内 容 が 順 次 変 化 しているとすれば 党 の 指 導 によるか 冼 自 身 の 判 断 であ るかに 関 わらず そこには 共 産 党 員 たる 者 いかにあるべきか という 模 索 の 跡 が 表 れてい ると 考 えられる 従 って 全 集 版 1 は あるべき 党 員 像 党 員 はどのような 考 え 方 を すべきか ということについての 当 時 なりの 結 論 が 示 されていることになるだろうし そ の 特 徴 は 専 輯 版 2 から 全 集 版 1 への 変 化 をたどることで より 一 層 明 瞭 になる と 思 われる しかし 専 輯 版 2 は 書 き 方 がかなり 雑 であることが 活 字 を 通 しても 伝 わってくる 一 方 専 輯 版 1 は 実 際 に 党 に 提 出 されたかどうかは 明 らかでないとは 言 え その 原 型 が 清 書 として 書 かれたことはほぼ 間 違 いないと 思 われる 従 って より 一 層 デリケートで 重 要 な 書 き 換 えは 専 輯 版 1 から 全 集 版 1 への 過 程 で 行 われたと 考 えられる 故 に 本 論 では 専 輯 版 1 と 全 集 版 1 を 比 較 することで 当 時 の 共 産 党 にとって 大 切 なことが 何 だったのかを 考 察 したいと 思 う ただし 残 念 ながら 手 稿 を 全 て 見 ることが できない 上 専 輯 編 集 の 際 に どこが 加 筆 部 分 であるかが 明 記 されなかったため 本 稿 で 比 較 検 討 できるのは 手 を 加 えられた 後 の 専 輯 版 1 と 全 集 版 1 である 原 型 への 加 筆 については 紀 念 館 で 見 ることができる 専 輯 版 1 手 稿 の 最 初 の2ページ 分 についてのみ 触 れたいと 思 う なお 専 輯 版 1 と 全 集 版 1 には 約 800 字 の 字 数 の 違 いがある 上 そのほと んど 全 体 にわたって おびただしい 文 章 上 の 違 いがある それら 全 てについて 比 較 対 照 す ることはできないので 比 較 的 大 切 と 思 われる 異 同 を 私 の 判 断 で 選 んで 比 較 対 照 すること にし 以 下 にその 対 照 表 を 掲 げる 両 者 の 間 で 異 同 が 大 きいなど 重 要 な 箇 所 には 民 衆 無 産 階 級 といった 階 級 に 関 わる 言 葉 には 音 楽 には を 私 が 付 した a
bといった 記 号 も 私 が 便 宜 的 に 付 けたものである 専 輯 版 1 手 稿 の 最 初 の2ページ で 行 間 に 挿 入 された 部 分 は 太 字 とした 全 集 版 1 専 輯 版 1 ( 前 書 き) a 关 于 本 人 的 音 乐 创 作, 希 望 在 理 解 马 列 主 义 的 艺 术 a 关 于 本 人 的 音 乐 创 作, 因 明 了 马 理 论 和 党 员 们 互 相 勉 励, 能 给 自 己 进 步, 使 作 品 能 真 列 主 义 的 艺 术 理 论 和 党 员 们 的 互 相 正 创 作 出 民 族 的 呼 声, 能 代 替 群 众 怒 吼, 反 映 现 实 的 勉 励, 更 可 鼓 励 自 己 的 作 品 能 够 深 艺 术 作 品 ( 私 の 音 楽 創 作 に 関 しては マルクス 入 到 民 族 心 灵 的 最 深 处 使 作 品 能 レーニン 主 義 の 芸 術 理 論 の 理 解 と 党 員 同 士 の 努 力 に 真 正 的 创 作 出 民 族 的 呼 声, 能 代 替 よって 自 分 自 身 を 進 歩 させ 作 品 を 真 に 民 族 の 叫 群 众 怒 吼, 反 映 现 实 的 艺 术 作 品 び 声 を 表 現 したものにでき 群 衆 に 代 わって 怒 号 し 現 実 を 反 映 した 芸 術 作 品 にさせられるよう 希 望 す る) b 我 感 觉 自 己 太 缺 乏, 我 非 加 入 组 织 不 可 因 自 己 的 b 因 为 自 己 缺 乏, 而 又 想 把 自 己 的 缺 乏, 我 希 望 党 能 给 我 一 切 的 指 示 和 领 导, 使 我 能 成 创 作 贡 献 给 工 农 大 众 的 原 故, 因 此 为 一 个 堪 称 为 共 产 党 的 党 员, 不 顾 一 切, 为 党 努 力 和 就 有 要 求 加 入 中 国 共 产 党, 加 入 组 奋 斗, 实 现 了 我 们 同 一 的 最 高 的 想 望, 用 行 动 来 实 现 织, 实 行 锻 炼 自 己, 使 我 的 作 品 能 这 理 想 共 产 主 义 ( 私 は 自 分 があまりにも 未 熟 够 真 正 为 工 农 群 众 而 写 我 的 缺 乏 であるため 党 組 織 に 入 らなければならないと 感 じ 由 党 来 领 导 成 为 一 个 堪 称 为 党 员 ている 自 分 が 未 熟 であるゆえ 私 は 党 が 私 にあら 的 一 人 不 顾 一 切, 为 党 努 力 ゆる 指 示 と 指 導 とを 与 え 私 を 共 産 党 員 と 称 するに ふさわしい 人 間 すなわち 一 切 を 省 みず 党 のた めに 努 力 と 奮 闘 をし 私 たちみんなの 最 高 の 希 望 を 実 現 させ 行 動 によってこの 理 想 = 共 産 主 義 を 実 現 する 人 間 に 育 ててくれることを 希 望 する) aでは 専 輯 版 1 に 加 筆 したことで 過 剰 になった 表 現 が 全 集 版 1 で 整 理 されて いる 加 筆 された 部 分 は もともと 更 可 ~ 深 処 を 削 除 する 前 提 で 書 き 込 まれたもの だったかも 知 れない 加 筆 部 分 で 需 要 なのは 反 映 现 实 的 艺 术 作 品 という 部 分 である 共 産 党 の 文 芸 理 論 は 1929 年 の 古 田 会 議 の 決 議 にその 基 本 的 な 考 え 方 が 表 れ 19 30 年 代 前 半 に 江 西 ソヴェトで 時 の 教 育 部 長 瞿 秋 白 が 提 示 した 諸 方 針 によって 具 体 化
された その 瞿 の 指 示 のひとつに 大 众 化 艺 术 的 创 造 者 必 须 深 入 生 活, 到 斗 争 最 尖 锐 的 地 方 去, 与 群 众 紧 密 联 系, 绝 不 能 闭 门 造 车 ;( 大 衆 化 芸 術 の 創 造 者 は 深 く 生 活 の 中 に 入 り 込 み 闘 いが 最 も 激 しい 場 所 に 行 き 群 衆 と 緊 密 に 連 携 しなければならず 絶 対 に 閉 鎖 的 で 自 分 勝 手 になってはいけない) というものがある *21 ここには 文 芸 が 民 衆 の 生 活 を 反 映 し 観 念 的 なものになってはいけないという 考 え 方 が 見 られる 民 衆 の 生 活 とは とり もなおさず 現 実 である そして 冼 の 自 伝 が 書 かれる 直 前 魯 芸 が 創 立 1 周 年 を 迎 えた1939 年 4 月 10 日 共 産 党 幹 部 教 育 部 副 部 長 羅 邁 ( 李 維 漢 )は 魯 芸 で 鲁 艺 的 教 育 方 针 与 怎 样 实 施 教 育 方 针 ( 魯 芸 の 教 育 方 針 とどのように 教 育 方 針 を 実 施 するか) *22 という 報 告 を 行 い 次 のように 述 べている 世 界 文 艺 界 的 导 师 高 尔 基, 常 常 号 召 青 年 文 学 家 文 艺 工 作 者 到 实 际 生 活 中 去 认 识 现 实 与 体 验 现 实, 这 是 完 全 正 确 的 然 而 要 密 切 地 认 识 现 实 体 验 现 实, 从 现 实 反 映 出 真 正 的 东 西 ( 不 是 幻 影 ), 就 必 须 掌 握 住 马 列 主 义 的 武 器, 并 会 使 用 这 个 武 器 ( 世 界 の 文 芸 界 の 指 導 者 ゴーリキーは いつも 青 年 作 家 や 文 芸 工 作 者 に 実 際 の 生 活 の 中 に 行 って 現 実 を 認 識 することと 現 実 を 体 験 することを 呼 び 掛 けていたが これはまったく 正 しい しかしながら もしも 切 実 に 現 実 を 認 識 し 現 実 を 体 験 して 現 実 から 真 実 ( 幻 では なく)を 反 映 させようと 思 えば マルクス レーニン 主 義 という 武 器 を 手 に 入 れ こ の 武 器 を 使 用 できなければならない) 芸 術 作 品 が 現 実 を 反 映 させなければならないというのは 明 らかに 共 産 党 の 考 え 方 であ り それは 常 に 確 かめられていなければならない 大 切 な 原 点 であった bにおいては 専 輯 版 1 では 因 此 就 有 要 求 加 入 中 国 共 产 党, 加 入 组 织, 实 行 锻 炼 自 己, 使 我 的 作 品 能 够 真 正 为 工 农 群 众 而 写 (このため 中 国 共 産 党 に 加 入 し 組 織 に 加 入 し て 自 分 を 鍛 錬 し 私 の 作 品 を 十 分 に 労 働 者 農 民 群 衆 のために 書 いたものとさせられるよ うにしたい) と 入 党 することで 自 分 の 作 品 をどう 変 化 させるかという 書 き 方 が 為 され ているのに 対 し 全 集 版 1 では 因 自 己 的 缺 乏, 我 希 望 党 能 给 我 一 切 的 指 示 和 领 导, 使 我 能 成 为 一 个 堪 称 为 共 产 党 的 党 员, 不 顾 一 切, 为 党 努 力 和 奋 斗, 实 现 了 我 们 同 一 的 最 高 的 想 望, 用 行 动 来 实 现 这 理 想 共 产 主 义 と 音 楽 に 関 する 記 述 が 消 え 党 活 動 の 最 終 *21 劉 綬 松 老 根 拠 地 文 芸 活 動 ( 初 出 は 劉 綬 松 中 国 新 文 学 運 動 史 初 稿 上 作 家 出 版 社 1956 年 中 国 人 民 解 放 軍 文 芸 史 料 選 編 紅 軍 時 期 上 冊 解 放 軍 出 版 社 1986 年 125 頁 所 収 ) *22 *7 前 掲 書
的 な 目 標 が 共 産 主 義 の 実 現 であると 明 確 化 されている 以 下 で 検 討 する 自 伝 の 最 終 章 ( 第 7 章 対 党 的 意 見 )を 見 ると より 一 層 明 瞭 となるのだが 専 輯 版 1 には 音 楽 という 言 葉 が 頻 出 し 思 考 が 常 に 音 楽 との 関 係 で 為 されていることがよく 表 れている かつて 確 認 したとおり *23 冼 星 海 は 音 楽 に 対 する 並 々ならぬ 愛 着 と 自 分 の 音 楽 的 能 力 に 対 する 強 いプライドを 持 っていた 人 である 専 輯 版 1 は そのような 冼 の 音 楽 に 対 す る 意 識 を 強 く 反 映 しているが それに 対 して あくまでも 共 産 党 員 が 目 指 すのは 音 楽 に 限 定 されない 共 産 主 義 であり それこそが 自 分 たちにとっての 理 想 なのだというこ とを 明 示 したのが 全 集 版 1 であると 言 える これらのことと 関 係 するので 順 番 を 変 えて 次 に 第 7 章 を 示 しておこう 全 集 版 1 専 輯 版 1 ( 七 ) 对 党 的 意 见 c 中 国 共 产 党 在 今 日, 已 经 是 雄 大 起 来, 发 展 得 很 快, c 中 国 共 产 党 在 今 日 已 经 雄 大 起 来, 而 且 做 了 不 少 惊 天 动 地 的 大 事 业, 的 确 站 立 在 无 产 阶 发 展 得 很 快, 不 但 是 西 北 抗 日 的 根 级 民 族 立 场 去 领 导 群 众, 而 且 在 保 卫 祖 国 保 卫 边 据 地, 也 是 全 国 重 要 的 抗 日 根 据 地 区 的 责 任 上, 中 国 共 产 党 已 尽 了 很 大 力 量, 不 但 是 成 中 共 在 抗 战 以 来, 保 卫 祖 国 的 责 任 了 西 北 抗 日 根 据 地, 而 且 成 为 全 世 界 注 目 的 中 共 中 央 已 经 尽 了, 而 且 还 把 大 部 分 的 无 产 的 反 侵 略 的 最 重 要 地 方 抗 战 以 来, 中 共 中 央 曾 栽 培 阶 级 小 资 产 阶 级 等 团 结 的 非 常 密 出 成 千 成 万 的 抗 日 战 士 和 干 部 到 前 线 后 方 工 作, 还 联 切 培 养 许 多 干 部 上 前 线, 或 留 在 合 起 各 党 派 各 阶 层 的 群 众, 团 结 在 共 产 党 领 导 之 下, 后 方 工 作 使 敌 人 不 敢 轻 易 侵 犯 西 坚 持 持 久 战 争, 使 抗 战 能 够 达 到 最 后 胜 利 中 国 共 产 北! 我 是 认 识 共 产 党 工 作 的 重 要, 党 是 全 国 唯 一 最 进 步 的 党, 是 无 产 阶 级 的 政 党, 是 坚 和 他 将 来 的 前 途 持 抗 日 抗 战 到 底 的 党, 是 青 年 的, 是 前 进 的, 是 有 国 际 意 义 的 党 他 的 前 途 和 发 展 都 是 伟 大 的, 也 是 全 世 界 劳 苦 大 众 所 冀 望 的 一 个 党, 弱 小 民 族 被 压 迫 民 族 所 共 同 拥 护 的 一 个 党 我 觉 得 自 己 创 作 幼 稚, 政 治 认 识 太 薄 弱 因 此, 我 希 望 能 接 受 党 的 领 导, 从 马 列 我 希 望 能 接 受 党 的 指 示, 学 习 马 列 主 义 的 理 论 学 习 创 作 我 常 觉 得 不 加 入 组 织 成 了 离 开 主 义 应 用 在 中 国 新 音 乐 的 建 设 上 党 的 领 导 一 样 渺 茫 似 的 因 此, 愿 加 入 党, 同 时 希 望 以 补 昔 日 我 没 有 加 入 组 织 的 遗 憾 党 能 吸 收 音 乐 的 专 门 人 才, 使 党 的 各 部 门 都 同 时 雄 大 尤 其 在 我 个 人, 我 感 到 需 要 党 来 领 *23 拙 論 冼 星 海 伝 小 考 ~パリ 留 学 時 代 を 中 心 として ( 集 刊 東 洋 学 第 104 号 2010 年 ) 同 救 亡 音 楽 家 冼 星 海 の 誕 生 ( 同 第 107 号 2012 年 )
起 来, 在 新 中 国 建 设 或 在 抗 日 的 战 争 中, 成 为 一 支 导 我, 使 创 作 和 我 政 治 的 认 识 能 够 不 可 侵 犯 的 力 量! 我 像 许 多 青 年 人 一 样, 愿 意 把 自 己 得 到 彻 底 使 我 能 达 到 大 众 化 民 献 给 党!( 中 国 共 産 党 は 今 日 既 に 強 大 になってき 族 化 的 中 国 新 兴 音 乐 的 创 作 目 的 て 速 やかに 発 展 しており 多 くの 驚 くべき 大 事 業 使 中 国 音 乐 能 有 真 正 的 代 表 群 众 的 を 成 し 遂 げ 確 実 に 無 産 階 級 と 民 族 の 立 場 に 立 って 马 列 主 义 理 论 去 增 强 抗 战 的 音 乐 群 衆 を 導 いている また 祖 国 を 守 り 辺 区 を 守 る 我 还 觉 得 中 共 文 艺 家 有 很 多, 但 音 という 責 任 において 中 国 共 産 党 は 既 に 非 常 に 大 き 乐 人 材 很 缺 乏, 因 此 我 更 要 中 共 注 な 力 を 尽 くしており 西 北 抗 日 根 拠 地 となるという 意 音 乐 的 人 材 中 共 能 得 更 伟 大 的 だけでなく 全 世 界 が 注 目 する 中 共 中 央 の 反 侵 略 の 发 展 是 需 要 多 量 的 干 部, 而 且 要 有 最 重 要 地 点 となっている 抗 日 戦 争 が 始 まって 以 来 强 大 的 干 部, 像 音 乐 人 材 也 是 其 中 中 共 中 央 はおびただしい 数 の 抗 日 戦 士 と 幹 部 とを 育 一 个 部 门 因 此 我 诚 恳 地 願 加 入 党, てて 前 線 後 方 で 活 動 させ 更 に 各 党 派 各 階 層 の 加 入 组 织, 并 学 习 把 自 己 贡 献 给 群 衆 と 連 合 して 共 産 党 の 指 導 の 下 で 団 結 し 持 久 党! 戦 争 を 堅 持 し 抗 日 戦 争 を 最 後 の 勝 利 へと 導 くこと が 出 来 るようにしている 中 国 共 産 党 は 全 国 で 唯 一 の 最 も 進 歩 的 な 党 であり 無 産 階 級 の 党 であり 抗 日 抗 戦 を 最 後 まで 堅 持 する 党 であり 青 年 の 前 進 する 国 際 的 な 意 義 を 持 つ 党 である その 将 来 と 発 展 はいずれも 偉 大 なものであり 同 時 に 全 世 界 の 苦 しむ 大 衆 が 期 待 している 党 であり 弱 小 民 族 や 抑 圧 された 民 族 が 共 に 守 ろうとしている 党 である 私 は 自 分 の 作 品 が 幼 稚 で 政 治 意 識 も 非 常 に 薄 弱 であ ることを 自 覚 している そこで 私 は 党 の 指 導 を 受 け 入 れ マルクス レーニン 主 義 の 理 論 から 創 作 を 学 ぶことを 希 望 している 私 はいつも 党 組 織 に 入 らなければ 党 の 指 導 を 離 れたのと 同 じように ど うしていいか 分 からなくなってしまうと 感 じてい る そこで 入 党 を 希 望 し 同 時 に 党 が 音 楽 の 専 門 人 材 を 取 り 込 んで 党 のあらゆる 部 門 を 同 時 に 強 大 にし 新 中 国 の 建 設 や 抗 日 戦 争 の 中 において 侵 すことのできない 力 となるよう 希 望 する 私 は 多 く の 青 年 と 同 様 に 自 分 を 党 に 捧 げたいと 思 う)
言 葉 に 表 れた 意 識 の 違 いは 明 らかである 前 にも 書 いたとおり 専 輯 版 1 は 徹 頭 徹 尾 音 楽 を 意 識 した 書 き 方 になっている 冼 にとってまず 大 切 だったのは 音 楽 であ り 党 はそれとの 関 係 を 中 心 に 意 識 されていたと 思 われる 一 方 全 集 版 1 では 共 産 党 の 意 義 や 具 体 的 役 割 をより 詳 しく 述 べていること しかも 群 衆 労 苦 大 衆 弱 小 民 族 といった 低 い 階 級 や 弱 者 への 意 識 が 強 く 表 れているのは やはり 共 産 党 にとっ て 音 楽 が 一 つの 手 段 に 過 ぎず 最 終 的 な 目 標 は 抑 圧 された 民 衆 の 解 放 であること 党 員 たるものはそれを 強 く 自 覚 しているべきだという 思 想 に 基 づいているだろう 専 輯 版 1 にあった 小 資 産 階 級 という 言 葉 が 全 集 版 1 にないことも 目 を 引 く 次 稿 で 詳 しく 検 討 するが 共 産 党 は 1938 年 10 月 に 出 された 毛 沢 東 の 新 段 階 論 を 受 け 知 識 人 を 中 心 とする 小 資 産 階 級 の 党 組 織 への 取 り 込 みに 努 めていた ところが 1939 年 5 月 23 日 に 陳 雲 が 为 什 么 要 开 除 刘 力 功 的 党 籍 (なぜ 劉 力 功 の 党 籍 を 剥 奪 し なければならなかったのか) *24 を 発 表 し 劉 力 功 という 党 員 が 党 員 としてあるまじき 言 動 を 取 ったため 除 籍 したことを 伝 え 6 月 25 日 には 党 の 総 政 治 部 が 总 政 治 部 关 于 大 量 吸 收 知 识 分 子 和 培 养 新 干 部 问 题 的 训 令 ( 総 政 治 部 の 大 量 に 知 識 人 を 吸 収 し 新 しい 幹 部 を 育 てる 問 題 についての 訓 令 ) *25 を 出 し 知 識 人 の 取 り 込 みは 進 めつつも 思 想 行 動 を 慎 重 にチェックし 教 育 に 意 を 注 ぐよう 指 示 している 共 産 党 は 党 勢 の 拡 大 に 慎 重 な 態 度 を 取 るようになったのである 冼 が 自 伝 を 書 いたのは 微 妙 な 時 期 である も しも 冼 が5 月 15 日 に 全 集 版 1 を 提 出 したとしたら 劉 の 事 件 は 公 になっていない ので 共 産 党 にとって 知 識 人 を 中 心 とする 小 資 産 階 級 は 歓 迎 すべき 存 在 だった だが 5 月 15 日 は 専 輯 版 1 の 原 型 を 提 出 した 日 であって 全 集 版 1 の 提 出 は5 月 23 日 以 降 だったとすれば この 間 に 小 資 産 階 級 を 見 る 目 が 変 わり それとの 団 結 は 書 かな い 方 がいいということになったかも 知 れない わざわざ 小 資 産 階 級 を 削 除 したからに はそれなりの 理 由 があるはずである だとすれば 全 集 版 1 は 5 月 23 日 以 降 に 劉 力 功 事 件 を 受 けて 書 いたと 考 えるべきではないだろうか また 全 集 版 1 では 抗 战 以 来, 中 共 中 央 曾 栽 培 出 成 千 成 万 的 抗 日 战 士 和 干 部 到 前 *24 初 出 は 解 放 第 73 期 ( 陳 雲 文 選 第 1 巻 人 民 出 版 社 1984 年 所 収 2014 年 10 月 1 日 現 在 中 国 共 産 党 新 聞 人 民 網 陳 雲 記 念 館 で 公 開 さ れ て お り (http://cpc.people.com.cn/gb/69112/83035/83317/83595/5738028.html) 本 稿 はそれによった) *25 中 央 档 案 馆 编 中 共 中 央 文 件 选 集 第 十 二 册 ( 中 共 中 央 党 校 出 版 社,1991 年 )134 頁 正 因 为 出 身 的 关 系, 他 们 常 常 表 现 出 思 想 上 行 动 上 的 弱 点, 因 此 要 使 他 们 成 为 一 个 健 强 的 干 部 必 须 经 过 长 期 的 教 育 与 锻 炼 ( 正 に 生 い 立 ちの 関 係 から 彼 らはしばしば 思 想 上 行 動 上 の 弱 点 を 見 せる よってもしも 彼 らを 立 派 な 幹 部 にしようと 思 えば 長 期 間 の 教 育 と 鍛 錬 とを 経 なければならない) とある
线 后 方 工 作, 还 联 合 起 各 党 派 各 阶 层 的 群 众, 团 结 在 共 产 党 领 导 之 下, 坚 持 持 久 战 争, 使 抗 战 能 够 达 到 最 后 胜 利 と 抗 日 戦 争 も 非 常 に 強 く 意 識 して 書 かれている 堅 持 持 久 戦 争 という 表 現 は 明 らかに 毛 沢 東 の 持 久 戦 論 を 受 けた 表 現 である 安 内 攘 外 を 標 榜 して 国 内 の 敵 である 共 産 党 を 壊 滅 させることを 第 一 と 考 え 日 本 に 対 して 妥 協 的 な 態 度 を 取 りがちであった 国 民 党 に 対 し 共 産 党 は 一 貫 して 抗 日 団 結 を 呼 び 掛 けていた それが 祖 国 を 守 ろうとする 人 々から 共 産 党 が 大 きな 支 持 を 得 る 原 因 と なっていたのだが 一 方 で 共 産 党 を 階 級 政 党 ではなく 抗 日 政 党 として 誤 解 する 人 々をも 生 み 組 織 内 で 問 題 視 されるようにもなっていく だが それを 指 摘 した 決 定 的 な 例 であ る 劉 少 奇 の 論 共 産 党 員 的 修 養 ( 共 産 党 員 の 修 養 を 論 じる) *26 が 発 表 されたのは7 月 8 日 のことであって 冼 の 入 党 手 続 きが6 月 14 日 であることを 考 えると それは 明 らかに 全 集 版 1 の 執 筆 よりも 後 である よって 冼 が 全 集 版 1 を 書 いた 時 には むしろ 抗 日 に 対 して 積 極 的 な 姿 勢 を 取 ることが 共 産 党 員 として 望 ましいことだと 考 えられてい たことになる 全 集 版 1 専 輯 版 1 ( 二 ) 家 庭 関 係 d 我 和 母 亲 靠 着 双 手 去 奋 斗, 还 过 了 将 近 三 十 年 的 惨 d 我 和 母 亲 靠 着 自 己 两 手 去 奋 斗 淡 生 活, 飘 流 无 定 的 生 活, 到 现 在 我 和 母 亲 还 是 为 着 一 直 到 现 在 生 活 奋 斗 ( 私 と 母 は 自 分 たちの 両 手 に 頼 って 奮 闘 し 30 年 近 い 苦 心 の 生 活 根 無 し 草 の 生 活 を 送 り 現 在 に 至 ってもやはり 私 と 母 は 生 活 のために 奮 闘 し ている) ( 三 ) 教 育 経 過 e 母 亲 操 工 养 活 我, 并 且 从 工 钱 里 面 所 得 来 的 钱 给 我 e 母 亲 操 工 养 活 我 做 学 费 ( 母 は 働 いて 私 を 養 ってくれ その 上 賃 金 の 中 から 得 たお 金 を 私 の 学 費 にしてくれた) *26 延 安 のマルクス レーニン 学 院 で 行 った 講 演 ( 劉 少 奇 選 集 ( 上 ) 人 民 出 版 社 1981 年 所 収 *24 同 サ イ ト 劉 少 奇 記 念 館 で 公 開 さ れ て い る も の (http://cpc.people.com.cn/gb/69112/73583/73601/73623/5068947.html)による) 目 的 を 誤 って 入 党 する 人 の 例 として 今 天 也 有 不 少 的 人, 主 要 是 由 共 产 党 坚 决 抗 日, 主 张 抗 日 民 族 统 一 战 线 而 来 加 入 党 的 ( 今 日 でも 少 なからぬ 人 々が 主 として 共 産 党 が 抗 日 を 堅 持 し 抗 日 民 族 統 一 戦 線 を 呼 び 掛 けていることによって 入 党 している) とある
f 当 时 以 国 文 图 画 音 乐 几 种 学 科 成 绩 最 好 ( 当 fなし 時 国 文 図 画 音 楽 などいくつかの 学 科 で 成 績 が 最 もよかった) g 在 广 州 岭 南 大 学 附 中 半 工 半 读, 我 也 读 过 大 学 的 文 g 在 广 州 岭 南 大 学 附 中 读 至 中 学 和 科, 大 学 的 图 画 系 ( 高 奇 峰 教 ) 我 做 过 打 字 员 班 大 学 文 科, 都 是 半 工 半 读, 任 打 字 长 暑 期 华 侨 学 校 教 员 和 大 学 的 音 乐 教 授 ( 広 州 嶺 班 长 暑 期 华 侨 学 校 教 员 音 乐 私 南 大 学 付 属 中 で 学 びながら 働 き 更 に 大 学 の 文 科 と 人 教 授 和 曾 经 担 任 过 两 年 大 学 的 银 図 画 系 ( 高 奇 峰 が 教 えていた)で 勉 強 した 私 はタ 乐 队 教 授 イピストや 級 長 夏 休 み 華 僑 学 校 の 教 員 そして 大 学 の 音 楽 教 授 などをしたことがある) h 也 曾 在 北 大 听 过 鲁 迅 先 生 的 小 说 史, 我 又 学 过 古 琴 hなし 和 其 它 的 中 国 乐 器 (かつて 北 京 大 学 で 魯 迅 氏 の 小 説 史 の 授 業 を 聞 いたこともあり 私 はまた 古 琴 やそ の 他 の 中 国 楽 器 を 学 んだこともある) i 但 在 经 济 万 分 困 难 时, 我 仍 不 断 地 向 上 努 力, 求 得 iなし 我 所 需 要 的 学 识 (しかし 経 済 的 に 極 めて 困 難 な 時 でも 私 はなお 不 断 に 向 上 の 努 力 をしたし 必 要 とするところの 学 識 を 得 ようとした) j 每 天 我 要 工 作 十 小 时 以 上, 但 我 利 用 下 午 休 息 时 间 j 下 午 我 还 抽 出 一 点 时 间 看 书 及 音 和 晚 上 十 时 后, 我 还 在 饭 店 的 地 下 ( 地 窖 ) 里 写 作 或 乐 理 论 书 拉 琴 有 时 还 看 音 乐 理 论 书 ( 毎 日 私 は 十 時 間 以 上 働 かなければならなかったが 私 は 午 後 の 休 憩 時 間 と 夜 10 時 以 降 を 利 用 し ホテルの 地 下 ( 穴 蔵 )で 作 曲 やバイオリンの 練 習 をした 時 には 更 に 音 楽 理 論 の 本 を 読 んだ) k 我 又 遇 到 一 位 苏 联 的 大 音 乐 家 S.Prokofieff, 给 我 k 我 又 遇 到 了 一 位 俄 国 音 乐 家 S.Pro 很 多 帮 助 一 个 俄 国 的 大 文 学 家 屠 格 涅 夫 的 女 儿 和 Ma kofieff, 一 个 女 文 学 家 ( 俄 国 )Ma
dame Neggo 都 给 我 很 多 文 学 的 帮 助,( 私 はまたソ 連 dame Maggo の 大 音 楽 家 S プロコフィエフと 出 合 い 多 くの 援 助 をしてもらった ロシアの 大 文 学 者 ツルゲーネフ の 娘 とネッゴ 夫 人 はどちらも 私 に 多 くの 文 学 上 の 手 助 けをしてくれた) l 我 在 法 国 学 习, 全 由 自 己 奋 斗, 从 未 有 接 受 过 任 何 l 我 在 法 国 学 习, 全 是 由 于 奋 斗, 的 公 款, 也 得 不 到 任 何 的 鼓 励 在 这 七 年 奋 斗 中 我 却 从 未 接 受 过 公 家 一 文 钱! 也 没 有 接 到 过 瑞 士 伦 敦 比 利 时 罗 马 柏 林 等 国 我 已 做 到 国 内 的 文 化 人 一 句 勉 励 话 但 在 了 相 当 的 音 乐 成 绩, 替 我 们 旅 法 的 侨 胞 争 光 不 过 我 七 年 中 是 不 断 地 努 力 学 习, 预 备 将 还 觉 得 自 己 很 不 够, 除 了 音 乐 以 外 我 还 更 要 增 强 其 它 来 的 学 识!( 私 がフランスで 学 んだのは すべて 自 分 の 奮 闘 によるものであり いまだかつていかなる 公 金 をも 受 け 取 ったことはなく いかなる 励 ましをも 受 けたことはない この7 年 間 の 奮 闘 の 中 で 私 は スイス ロンドン ベルギー ローマ ベルリン 等 の 国 を 訪 ねた 私 は 既 に 相 当 の 音 楽 の 成 績 を 収 め 私 たちフランスに 行 っていた 中 国 人 を 代 表 して 名 誉 を 得 た しかし 私 は 自 分 がまったく 不 十 分 である ことをまだ 自 覚 しており 音 楽 以 外 についても 私 はまだその 他 の 学 識 を 深 めなければならない ) ここには 苦 労 と 努 力 を 強 調 し(d i j) 自 分 の 優 秀 さを 誇 示 する(f g k l)という 傾 向 が 見 られる これも 全 集 版 1 の 全 体 的 特 徴 であると 言 ってよい 自 分 の 優 秀 さを 誇 示 する 場 合 そのことをストレートに 書 くだけでなく 高 奇 峰 魯 迅 プロ コフィエフ ツルゲーネフといった 著 名 人 と 直 接 間 接 に 関 わったことを 示 すという 権 威 主 義 的 な 手 法 を 採 っている 場 合 もある kでプロコフィエフについて 音 乐 家 を 大 音 乐 家 に 書 き 換 えたことには その ような 権 威 主 義 的 な 方 向 性 が 感 じられるし 俄 国 を 苏 联 と 書 き 換 えたことは 帝
政 ロシアよりも 共 産 党 ソ 連 と 親 和 的 な 中 国 共 産 党 側 の 立 場 を 反 映 しているだろう *27 gの 大 学 的 音 楽 教 授 という 書 き 方 は 大 学 の 正 規 の 教 授 であったと 理 解 できる だ が 嶺 南 大 学 在 学 中 に 大 学 教 授 を 努 めていたというのが いかに 突 飛 であり 得 ないか というのは 戴 鵬 海 も 指 摘 しているとおりである *28 もちろん ここで 言 う 大 学 教 授 とは いわゆる 教 授 ではなく 大 学 のブラスバンドのリーダーもしくは 指 導 者 という 意 味 であることが 専 輯 版 1 の 表 現 から 推 測 できる だからこそ そのように 読 み 取 るための 材 料 を 削 除 して 大 学 的 音 楽 教 授 と 表 現 した 全 集 版 1 の 作 為 性 が 問 題 と なるのである lにおいて フランスでの 学 習 が 金 銭 的 に 自 分 自 身 の 努 力 によってのみ 支 えられたこと は 全 集 版 1 で 从 未 有 接 受 过 任 何 的 公 款 専 輯 版 1 でも 从 未 接 受 过 公 家 一 文 钱!(いまだかつて 公 金 を 一 銭 も 受 け 取 ったことがない) と 書 かれていることから 分 か るのだが 専 輯 版 1 の 全 是 由 于 奋 斗 を 全 集 版 1 では 全 由 自 己 奋 斗 と 奋 斗 の 前 に 自 己 を 入 れてより 一 層 明 瞭 にしている わずか2 文 字 とは 言 え これは 意 識 的 な 強 調 に 当 たる もちろん 公 的 には 誰 からも 金 銭 的 な 援 助 を 受 けなかったというの は 国 民 党 の 援 助 は 受 けたことがないということを 意 味 するだろう hで 魯 迅 や 中 国 楽 器 が 持 ち 出 されているのは 共 産 党 が 魯 迅 を 高 く 評 価 して 冼 も 教 員 を 務 めていた 延 安 の 芸 術 学 院 にその 名 を 冠 したことや 1938 年 秋 以 降 共 産 党 が 民 族 形 式 を 問 題 とするようになった *29 こととの 関 係 で それらに 触 れることが 有 利 になると 考 えられたためであろう しかし 共 産 党 による 評 価 が 高 かった 魯 迅 を 別 にすると 著 名 人 たちと 接 し 優 秀 な 成 績 を 収 めたことは 見 方 によっては 非 常 にプチブル 的 な 実 績 であり それらに 触 れること が 入 党 に 際 してむしろマイナス 要 素 に 働 くのではないかと 危 惧 されるような 内 容 である しかし 逆 に 言 えば それらを 強 調 詳 述 した 全 集 版 1 が 入 党 用 の 自 伝 として 通 用 したことにより それらの 要 素 が 1939 年 5 月 頃 の 共 産 党 内 で 決 してマイナス の 要 素 とは 考 えられていなかったことを 知 ることができる 全 集 版 1 専 輯 版 1 *27 プロコフィエフはロシア 革 命 の 勃 発 により 亡 命 したが 1935 年 前 後 にソ 連 に 戻 った 一 方 ツルゲーネ フは1883 年 すなわちロシア 革 命 よりも 早 く 没 し ソ 連 の 人 間 にはなり 得 ないため 俄 国 のま まにしたと 考 えられる *28 *4 前 掲 論 文 *29 *1 前 掲 拙 論 冼 星 海 武 漢 から 延 安 へ
( 四 ) 社 会 経 過 m 我 喜 欢 学 习, 我 已 实 行 了 半 工 半 读 的 事 实 但 在 学 m 为 着 学 习, 我 也 曾 说 过 实 行 半 工 习 当 中, 我 曾 在 北 平 参 加 很 多 次 的 学 生 游 行 示 威, 罢 半 读 去 求 学 因 此 知 道 社 会 的 重 要 课 在 上 海, 我 也 曾 亲 自 领 导 过 罢 课 ( 私 は 勉 強 が 和 自 己 的 关 系 是 非 常 密 切 我 最 初 好 きで 私 は 既 に 働 きながら 勉 強 するということを 和 社 会 接 触 是 在 北 平, 我 曾 参 加 了 実 行 していた しかし 勉 強 の 最 中 私 は 北 平 で 多 很 多 学 生 运 动 不 过 我 并 不 是 主 要 くの 学 生 デモや 授 業 ボイコットに 参 加 した 上 海 で 分 子 も 私 はかつて 自 ら 授 業 ボイコットを 指 導 したこと がある ) n 此 外, 我 和 少 数 留 法 的 党 员 接 近 (この 他 私 は n 此 外 和 留 法 的 党 员 颇 接 近 少 数 のフランスにいた 党 員 と 親 しくしていた ) o 这 时 候 我 们 的 部 长 是 陈 诚, 副 部 长 是 周 恩 来, 厅 长 o 这 时 候, 我 们 的 副 部 长 是 周 恩 来 郭 沫 若, 处 长 是 田 汉 (この 時 私 たちの 部 長 は 陳 同 志, 我 们 的 厅 长 是 郭 沫 若, 处 长 誠 で 副 部 長 は 周 恩 来 庁 長 は 郭 沫 若 処 長 は 田 漢 是 田 汉 だった ) mにおいて 専 輯 版 1 では 冼 の 参 加 した 政 治 的 活 動 として 北 京 のものだけが 学 生 運 動 という 漠 然 とした 形 で 書 かれており そこで 冼 が 果 たした 役 割 も 大 きくなかった とされているが 全 集 版 1 では 学 生 運 動 の 内 容 が 学 生 游 行 示 威, 罢 课 と 少 し 具 体 的 に 記 述 されている 上 上 海 での 授 業 ボイコットに 触 れ そこでは 自 分 がリーダーで あったことを 書 いている 冼 は 嶺 南 大 学 ( 広 州 ) 在 学 中 の1925 年 に 北 京 に 行 き 国 立 芸 術 専 科 学 校 ( 以 下 芸 専 と 略 )でトノフというロシア 人 に 就 いてバイオリンを 勉 強 している 冼 がたくさんの デモや 授 業 ボイコットに 参 加 したというのは この 時 のことである 1927 年 8 月 に 国 民 党 によって 芸 専 が 閉 鎖 されると 冼 は 一 時 的 に 広 州 に 戻 るが 1928 年 の 秋 に 上 海 で 国 立 音 楽 院 ( 以 下 音 楽 院 と 略 )が 開 校 すると そこで 勉 強 すべく 上 海 に 出 た その 音 楽 院 で 1929 年 夏 学 校 が 夏 休 みに 寮 生 から8 元 の 雑 費 を 徴 収 しようとしたことを きっかけとして 学 生 運 動 が 起 こった 寮 生 でなかった 冼 に 実 質 的 な 被 害 はなかったのだ が 冼 は 義 憤 を 感 じて 立 ち 上 がり 先 頭 に 立 って 活 動 した その 結 果 として 秋 に 音 楽 院
が 国 立 音 楽 専 科 学 校 に 改 組 される 際 のどさくさに 冼 は 除 籍 となってしまう *30 音 楽 院 での 学 生 運 動 が 貧 しい 寮 生 を 援 護 するためのものだった 以 上 義 憤 を 感 じてそ れに 積 極 的 に 関 わることは 下 からの 運 動 を 組 織 したことも 合 わせて 共 産 党 が 高 く 評 価 するに 値 することだったであろう だから むしろ 専 輯 版 1 の 段 階 で 冼 が 触 れなかっ たのが 不 思 議 であるようなことである nは 専 輯 版 1 の 頗 が 程 度 を 表 し 全 集 版 1 の 少 数 が 数 を 表 していると いう 点 で 同 列 に 比 較 はできないが 珍 しく 全 集 版 1 の 方 がトーン ダウンした 印 象 を 与 える 表 現 になっている これについては 党 による 調 査 が 容 易 であって 虚 偽 が 発 覚 しやすいため 誇 張 傾 向 の 強 い 冼 が あえて 事 実 を 書 いたものと 想 像 できる oは 1938 年 に 武 漢 で 第 2 次 国 共 合 作 の 賜 物 と 言 うべき 国 民 党 軍 事 委 員 会 政 治 部 第 三 庁 ( 以 下 第 三 庁 と 略 )に 所 属 していた 時 の 話 として 書 かれている 政 治 部 長 の 陳 誠 は 国 民 党 の 有 力 者 である その 名 前 を 書 くかどうかは 国 共 合 作 に 対 する 意 識 の 程 度 を 表 しているだろう 西 安 事 件 によって 力 尽 くで 実 現 した 第 2 次 国 共 合 作 には 無 理 があり 両 党 の 関 係 は 短 期 間 のうちに 悪 化 した 冼 が 自 伝 を 書 いた1939 年 というのは 国 民 党 が 共 産 党 を 敵 視 する 姿 勢 を 特 別 に 強 化 した 時 期 に 当 たっており 後 にそれは 第 1 次 反 共 高 潮 と 呼 ば れるようになった この 時 期 の 国 民 党 の 動 きを 平 野 正 抗 日 民 族 統 一 戦 線 と 憲 政 運 動 ( 講 座 中 国 近 現 代 史 第 6 巻 抗 日 戦 争 東 京 大 学 出 版 会 1978 年 所 収 )によってごく 簡 単 に 抜 き 出 すなら 次 のようになる 1 月 国 民 党 5 期 5 中 全 会 内 政 重 視 ( 抗 日 よりも 共 産 党 対 策 優 先 ) 一 党 専 制 支 配 の 強 化 を 決 議 3 月 国 民 精 神 総 動 員 綱 領 を 公 布 ファッショ 的 体 制 への 傾 斜 を 強 める 5 月 1 日 蒋 介 石 によるスローガン 提 起 で 国 民 党 を 中 心 とした 強 権 的 支 配 の 合 理 化 6 月 30 日 異 党 活 動 制 限 弁 法 を 公 布 共 産 党 を 奸 党 であると 称 するに 至 る 一 方 共 産 党 は 抗 日 優 先 の 考 え 方 を 取 り 第 2 次 国 共 合 作 成 立 時 の 合 意 を 守 ろうという 努 力 をしていた 合 意 とは 蒋 介 石 を 中 国 のリーダーとして 認 め その 指 導 の 下 に 挙 国 一 致 で 抗 日 する というものである だから 国 民 党 が 上 のような 形 で 共 産 党 に 圧 力 を *30 陳 聆 群 从 国 立 音 乐 院 到 国 立 音 乐 专 科 学 校 的 创 业 十 年 ( 音 乐 艺 术 ( 上 海 音 乐 学 院 学 报 ) 2007 年 第 3 期 )
かける 中 様 々な 文 書 スローガンの 中 で あくまでも 国 共 合 作 民 族 統 一 戦 線 を 堅 持 し 蒋 介 石 のもとで 一 致 団 結 して 抗 日 活 動 を 行 うよう 呼 び 掛 けている 日 本 国 際 問 題 研 究 所 中 国 部 会 編 中 国 共 産 党 党 史 資 料 集 第 9 巻 ( 勁 草 書 房 1974 年 )から 若 干 の 例 を 抜 き 出 すと 次 のようになる 2 月 16 日 張 聞 天 共 同 防 共 即 是 滅 亡 中 国 中 華 民 族 と 中 国 人 民 は 共 同 防 共 をもって 中 国 を 滅 亡 させようとする 日 本 侵 略 者 の 悪 辣 な 計 画 には 二 度 と 乗 せられてはならない 強 固 な 抗 日 民 族 統 一 戦 線 を 堅 持 せよ! 国 共 両 党 の 長 期 合 作 を 堅 持 せよ! 抗 戦 必 勝 建 国 必 成 の 国 策 を 堅 持 せよ! これが 中 華 民 族 の 唯 一 の 活 路 である! 5 月 1 日 中 共 中 央 宣 伝 部 国 民 精 神 総 動 員 口 号 (1) 国 民 精 神 総 動 員 を 擁 護 し *31 全 国 人 民 は 団 結 しよう (6) 中 国 の 軍 隊 は 兄 弟 のように 共 同 で 抗 日 しよう (15) 蒋 委 員 長 を 擁 護 し 国 民 政 府 を 擁 護 しよう (1 6) 国 共 合 作 を 擁 護 し 統 一 戦 線 を 擁 護 しよう 7 月 7 日 中 共 中 央 中 国 共 産 党 中 央 委 員 会 為 抗 戦 両 週 年 紀 念 対 時 局 宣 言 国 内 団 結 を 強 化 し 内 部 分 裂 に 反 対 しよう! 蒋 委 員 長 を 擁 護 し 国 民 党 を 擁 護 して あくまで 抗 戦 しよう! しよう! 三 民 主 義 を 擁 護 し 国 共 合 作 を 守 り 誠 心 誠 意 団 結 このような 共 産 党 の 姿 勢 は 少 なくとも 1941 年 1 月 に 国 民 党 が 共 産 党 軍 をだま し 討 ちにする( 皖 南 事 件 )までは 継 続 されたように 見 える だからこそ 第 2 次 国 共 合 作 の 象 徴 的 存 在 であった 第 三 庁 について 触 れる 時 その 上 部 機 関 の 代 表 者 であった 国 民 党 員 陳 誠 を 無 視 することは 許 されなかったのである 同 時 に 専 輯 版 1 の 周 恩 来 の 名 前 には 付 けられていた 同 志 という 呼 称 を 全 集 版 1 で 外 したのは 陳 誠 の 扱 いと のバランスを 考 慮 した 結 果 であると 思 われる このことは 同 志 という 呼 称 が 共 産 党 *31 前 頁 で 見 たとおり 国 民 精 神 総 動 員 は 蒋 介 石 による 共 産 党 弾 圧 のスローガンである 共 産 党 は しばし ば 国 民 党 側 の 言 葉 を 逆 手 にとって 自 分 たちの 主 張 を 行 っていた
員 にしか 用 いられなかったことをも 明 瞭 に 示 しているであろう *32 全 集 版 1 専 輯 版 1 ( 五 ) 认 识 哪 一 界 人 o 我 的 交 游 很 广, 文 艺 界 军 政 界 工 农 商 界 我 都 o 我 的 交 游 很 广, 文 艺 界, 军 政 界, 有 很 好 的 往 来 ( 私 の 交 友 関 係 は 非 常 に 広 く 文 芸 工 农, 商 界 我 都 有 来 往 界 軍 政 界 労 働 者 経 済 界 全 ての 分 野 の 人 々とと てもよく 付 き 合 ってきた ) p 一 般 青 年 学 生 都 爱 好 我 的 歌 曲 和 音 乐 但 我 日 常 生 p 一 般 的 青 年 学 生 都 爱 好 我 的 歌 曲 活 是 大 部 分 时 间 放 在 创 作, 而 不 是 专 门 交 际 式 应 酬 和 音 乐 但 我 大 部 分 时 间 是 用 在 创 ( 若 い 学 生 たちはみな 私 の 歌 曲 と 音 楽 とを 好 んだ 作 しかし 私 の 日 常 生 活 は 大 部 分 の 時 間 が 作 曲 に 費 や されたので 彼 らと 交 際 のための 交 際 はしなかった) q 杨 仲 子 刘 天 华 qなし r 军 界 方 面 也 认 识 很 多, 尤 其 我 到 前 后 方 工 作 时 认 识 rなし 了 师 长 们 一 般 来 说, 他 们 都 喜 欢 我 教 唱 歌, 每 到 一 个 地 方, 他 们 都 要 挽 留 我 学 生 士 兵 老 百 姓 都 欢 迎 我 去 指 导 唱 歌 ( 軍 関 係 でも 知 っている 人 は 多 く 特 に 私 が 前 線 や 後 方 で 仕 事 をしていた 時 に 将 官 たち と 知 り 合 った 一 般 的 に 言 えば 彼 らはみな 私 が 歌 を 教 えるのを 好 み どこに 行 っても 彼 らはみな 私 を 引 き 留 めようとした 学 生 下 級 軍 人 民 衆 は 全 て 私 が 歌 の 指 導 に 行 くのを 歓 迎 してくれた ) *32 張 光 年 ( 光 未 然 )によれば 第 三 庁 で 党 員 の 身 分 が 公 開 されていたのは 第 三 庁 特 別 支 部 幹 事 会 の3 名 すなわち 張 光 年 馮 乃 超 劉 季 平 だけであった( 回 忆 第 三 厅 中 共 特 支 工 作 ( 初 出 は 抗 戦 初 期 中 共 中 央 長 江 局 湖 北 人 民 出 版 社 1991 年 張 光 年 文 集 第 四 巻 人 民 文 学 出 版 社 2002 年 所 収 ) 従 って 郭 と 田 は 共 産 党 の 地 下 党 員 であり 表 向 きは 無 党 派 人 士 であった 郭 (1927 年 入 党 )につい ては 第 三 庁 庁 長 就 任 に 際 し 共 産 党 員 としての 身 分 を 公 開 して 活 動 したいとの 希 望 を 周 恩 来 に 示 した が 周 が 許 可 しなかったという 話 が 金 冲 及 主 編 狭 間 直 樹 監 訳 周 恩 来 伝 1898-1949( 中 ) ( 阿 吽 社 1992 年 原 著 は 人 民 出 版 社 中 央 文 献 出 版 社 1989 年 )に 見 える
( 六 ) 有 何 种 创 作 ( 在 上 海 写 ) 比 较 好 的 有 传 遍 了 全 国 军 队 各 民 众 口 中 如 比 较 好 的 有 : ( 比 較 的 よくできていて 全 国 の 軍 隊 や 各 民 衆 に 広 く 唱 われたものとして ) 全 集 版 1 の 方 が 第 5 章 では 交 友 関 係 をより 広 範 囲 かつ 親 密 なものとして 扱 おう という 姿 勢 が 見 られ 第 6 章 では 自 分 の 作 った 曲 が 多 くの 人 から 歓 迎 されていたこと を 強 調 している 全 集 版 1 第 5 章 に 見 られる 楊 仲 子 は 北 京 の 芸 専 で 教 えていた 音 楽 教 育 者 劉 天 華 は 二 胡 の 大 家 である 劉 天 華 については 第 3 章 教 育 経 過 の 部 分 で 触 れた とおり 民 族 形 式 問 題 との 関 係 で 交 際 があったとすることが 有 利 に 働 くと 考 えられた 可 能 性 がある 以 上 全 集 版 1 と 専 輯 版 1 における 内 容 上 の 違 いとその 意 味 を 検 討 してきた 全 集 版 1 の 方 が 字 数 が 多 いということにもよるが 明 らかに 専 輯 版 1 よりも 詳 細 であり 音 楽 よりも 民 衆 運 動 との 関 係 を 強 調 したものになっている また 冼 自 身 の 能 力 や 社 会 関 係 を 大 きなものとして 描 いている 特 徴 も 明 瞭 である 結 局 のところ 修 正 を 加 えたことについて どれが 冼 自 身 によるものであり どれが 党 の 指 導 によるものであるかは 分 からない ただ 専 輯 版 1 の 原 型 が 清 書 として 書 かれ たものであるらしいことを 考 えると それを 書 き 上 げた 後 で 以 上 全 ての 変 更 点 について 短 期 間 に 冼 自 身 が 自 力 でその 問 題 を 発 見 し 訂 正 したと 考 えることには 相 当 に 無 理 があ る 作 品 は 現 実 を 反 映 したものであるべきこと(a) 党 の 最 終 目 標 が 共 産 主 義 の 実 現 で あること(b) 第 三 庁 の 関 係 者 として 陳 誠 を 書 き 加 えていること(o)などを 中 心 に 明 らかに 党 の 指 導 があったように 思 われるし そう 考 えてこそ 本 稿 第 2 章 で 確 認 したよ うな 単 に 自 分 の 過 去 を 振 り 返 るだけでなく 書 くことによって 共 産 党 員 としての 正 しい 見 方 考 え 方 を 身 に 付 け 自 らの 政 治 姿 勢 を 強 固 なものにしていくという 自 伝 の 役 割 は 果 たされる と 考 えられる 5 おわりに 冼 星 海 の 自 伝 の 成 り 立 ちと 内 容 について 考 察 してきたが その 中 に 書 かれたことが 事 実 として 正 しいか 否 かについては また 別 の 議 論 が 必 要 である 本 論 中 でも 一 部 には 触
れたが 戴 鵬 海 は 全 集 版 1 と 全 集 版 2 の 異 同 や 内 容 についての 丁 寧 な 考 証 を 行 い 大 きく 分 けて10の 点 について 虚 偽 である 可 能 性 を 指 摘 している *33 戴 の 指 摘 は 正 しいであろう 私 も 冼 の 自 伝 が 虚 偽 を 含 むことは かつて 指 摘 したことがある *34 1940 年 6 月 以 降 延 安 のマルクス レーニン 学 院 で 日 中 開 戦 後 に 入 党 した291 人 の 党 員 について 党 に 申 請 した 経 歴 と 実 際 とが 一 致 するかどうか 調 査 したところ 一 致 したのはわずか33%で 残 りの67%は 党 による 度 重 なる 指 導 を 受 けてようやく 自 伝 を 書 き 改 め 補 うことができた という *35 同 様 の 調 査 をすれば 冼 も67%の 中 の 一 人 に 入 ったはずだ にもかかわらず 党 が 冼 の 自 伝 に 含 まれる 事 実 関 係 についての 虚 偽 を 放 置 したままで 正 式 に 入 党 を 認 めたのは 1939 年 時 点 では 審 査 をさほど 厳 しくしていなかったということか 冼 のそれ 以 前 の 様 々な 活 動 実 績 を 尊 重 して 自 伝 の 内 容 に 関 係 なく 入 党 を 認 める 方 向 で 考 えていたか 党 にも 調 査 できない 部 分 が 多 かった からであると 考 えられる 冼 が 自 伝 を 提 出 してから 正 式 に 入 党 が 認 められるまでには 半 年 以 上 の 時 間 が 必 要 であった それがなぜなのか その7ヶ 月 近 くの 間 に 何 が 行 われていたのか それが 当 時 の 社 会 情 勢 や 共 産 党 の 組 織 事 情 とどのように 関 係 するのか 次 稿 においては これらの 点 について 考 察 を 加 えてみたいと 思 う *33 *4 前 掲 論 文 参 照 *34 *23 の 拙 論 特 に 冼 星 海 伝 小 考 参 照 *35 *8 前 掲 附 件 一 に 从 1940 年 6 月 马 列 学 院 291 个 抗 战 后 入 党 的 党 员 测 验 中, 前 后 表 册 填 写 一 致 的 仅 103 人, 占 全 数 测 验 的 33%, 其 他 67% 都 是 经 过 了 党 的 无 数 次 的 教 育 解 释 工 作 才 改 正 了 补 充 了 自 己 的 历 史 的 (194 0 年 6 月 に 行 ったマルクス レーニン 学 院 の291 人 の 抗 戦 以 後 に 入 党 した 党 員 の 調 査 の 中 から 調 査 の 前 後 で 入 党 申 請 書 の 記 述 が 一 致 したのはわずかに103 人 で 全 部 の 調 査 対 象 の33%を 占 めるだけであ り その 他 の67%は 全 て 党 の 何 度 にも 渡 る 教 育 指 導 活 動 を 経 てようやく 自 分 の 歴 史 を 書 き 改 め 補 った 人 たちだ) とある 103 人 は291 人 の35%に 当 たるので 数 字 には 少 し 問 題 がある