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最初に 女の子は皆子供のとき 恋愛に興味を持っている 私もいつも恋愛と関係あるアニメを見たり マンガや小説を読んだりしていた そしてその中の一つは日本のアニメやマンガだった 何年間もアニメやマンガを見て 日本人の恋愛について影響を与えられて 様々なイメージができた それに加え インターネットでも色々

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HからのつながりH J Hでは 欧米 という言葉が二回も出てきた Jではヨーロッパのことが書いてあったので Hにつながる 内開き 外開き 内開きのドアというのが 前の問題になっているから Hで欧米は内に開くと説明しているのに Jで内開きのドアのよさを説明 Hに続いて内開きのドアのよさを説明している

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説明項目 1. 審査で注目すべき要求事項の変化点 2. 変化点に対応した審査はどうあるべきか 文書化した情報 外部 内部の課題の特定 リスク 機会 利害関係者の特定 QMS 適用範囲 3. ISO 9001:2015への移行 リーダーシップ パフォーマンス 組織の知識 その他 ( 考慮する 必要に応

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生徒用プリント ( 裏 ) 入力した内容はすべて記録されている!! 印 : 授業で学んだこと 管理者のパソコンには どのパソコンから いつ どのような書き込みがされたか記録されています 占いだけではなく メールや掲示板の内容も同じように記録されています もし 悪意のある管理者から個人情報が洩れたらど

し, 定期的に評価することで 自己の考え を自覚する場面を意図的に設定している 本教材の学習においては, 様々な情報の中から必要な情報を取り出し, 整理 分析し, それに基づいた自分の考えを表現する活動を通して, 自己の考えの深まりや広がり を実感させることによって, 課題改善につなげたいと考えてい

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6 年 No.22 my summer vacation. 1/8 単元の目標 主な言語材料 過去の表し方に気付く 夏休みの思い出について, 楽しかったことなどを伝え合う 夏休みの思い出について, 音声で十分に慣れ親しんだ簡単な語句や基本的な表現で書かれたものの意味が分かり, 他者に伝えるなどの目的

こうして 無明 = 無智などが条件 原因となって 苦しみが生じることを説いている 逆にいえば 無智がなくなれば 苦しみがなくなる ということでもある 無智と苦しみは相互依存であり どちらも絶対的な存在ではない ということになる もう少しわかりやすくいえば 十二支縁起は 無明 = 無智から来る自我執着

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93 美的共感に関する神経美学的研究に向けて - サスペンスのパラドクス を手掛かりとして - Neuro-aesthetics and the Problem of Empathy toward Fiction What is Needed to Solve the Paradox of Suspense 良峯徳和 Yoshimine Norikazu 要約 : 近年の脳研究の進歩と対象範囲の広がりは目覚しく ミラーニューロンの発見によって 他者や虚構作品への共感感情を脳神経科学の観点から解明する可能性が拓かれつつある 本論では共感に関する近年の主要な説を概観したうえで 虚構作品を読んだり 視聴した際に生ずる美的共感に焦点をあてる その中のひとつ サスペンス感情の生起には理論的な困難が指摘されており サスペンスのパラドクス として議論されてきた サスペンスに関する標準理論を概観したうえで パラドクスを解消するとされる四つの見解 ( 思考説 欲求 フラストレーション説 一時的記憶喪失説 感情の取り違え説 ) を概観し その妥当性を検討する パラドクスの解消には 虚構作品への 心理的入り込み 状態を考慮に加える必要があり この要件を加えた修正仮説を提案した この検証には 伝統的な美学的な研究と最新の脳神経科学研究とのコラボレーションが重要な役割を果たすものと期待される キーワード : 神経美学 ミラーニューロン 共感 サスペンス トランスポーテーション Abstract: Recent developments in neuroscience, including the discovery of mirror neurons, have created new opportunities to investigate the relevance of neuroscience to other research areas and to topics such as empathy towards other minds and works of art. After reviewing recent major theories of empathy, this paper focuses on the aesthetic empathy aroused by fictional works. The emotion of suspense has long been regarded as provoking some theoretical difficulties, for example when trying to explain the cognitive mechanism of its arousal. One problem is called the paradox of suspense ; there is a standard explanatory theory for this paradox, which the paper reviews. It then moves on to critically examine four theoretical attempts to challenge this approach: thought-theory, desire-frustration theory, moment-by-moment forgetting theory and emotional misidentification theory. As they all appear unconvincing, the paper suggests that a psychological condition known as transportation should be taken into consideration to resolve the theoretical difficulties, and proposes a revised version of theory of suspense which appears to resolve the paradox. He argues that studies combining traditional aesthetical investigations and contemporary neuro-scientific research could contribute to a solution. Keywords: neuro-aesthetics, mirror neuron, empathy, suspense, transportation

94 1. 序論共感感情と神経科学 1-1 ミラーニューロンの発見と共感感情物語や虚構作品を生み出し それを読んで愉しむという延々と続く営みは 人間の心に豊かさと変化をもたらしてきたことは間違いない 詩や文学など文字だけを媒体とした作品だけでなく 演劇や絵画 映画など 視覚 映像 音声を媒体とする作品 最近ではさらに振動や重力 加速度 匂いなどの感覚も含めてより現実の体験に近いバーチャルリアリティ作品も登場し 虚構の世界をさまざまなスタイルで愉しむことができるようになっている 一方で 人間の心は現実世界に適応し そこでうまく生き残るという生物学的なプロセスのなかから 進化し 形成されてきたと考えるのが 科学的な視点からみて自然である そうした何十万年もの進化のプロセスの結果として 生み出された機能が凝縮されている器官が脳である 近年の脳研究の進歩と対象範囲の広がりは目覚しい とりわけ 90 年代以降 fmri (functional magnetic resonance imaging: 磁気共鳴機能画像法 ) という人間の脳活動の非侵襲的計測法が可能になって その研究の勢いはますます加速しているといってよい それまではさまざまな動物の脳を使った生理学的実験の結果にもとづき 人間の脳の働きを類推して説明せざるをえなかったが fmri のような検査技術を用いることで さまざまな制約があるにしろ 人間の心の変化と脳の変化との対応関係をリアルタイムで調べることができるようになった そもそも物語や小説を読んだり 映画を見たり 音楽を聴いて愉しむという行為は 人間のような社会的文化的進化を遂げた生き物だけが享受できる行為だと考えられる 文学や映画 音楽などの芸術作品 美学的な作品は 人間社会のなかで培われ 進化してきたいわゆる社会脳による創造物であり 社会脳の鑑賞対象であるとみなすのが 近年のいわゆる神経美学 ( その中でも文学作品を対象とする分野は神経文学と呼ばれる ) の考え方である 1 fmriなどの計測技術の進歩とともに近年目覚しい展開を見せてきた脳神経科学であるが そのなかでもとりわけ画期的といえるのは ミラーニューロンの発見であろう 1996 年にパルマ大学のリッツォラッティ (Giacomo Rizzolatti) らのグループが マカクザルの脳細胞のなかに 相手の仕草や行動を映し出すように反応するニューロンが存在するのを見つけた マカクザルの脳の中に電極を差し込んで特定のニューロンの反応を観察していたところ 実験者がエサを拾い上げようとしたのを見たときに反応したニューロンの活動が サルが自分でエサを拾い上げる際に反応するニューロンの活動と同じだったのである 色々な実験を重ねた結果 サルのみならず人間にも 自分の身体の動きと相手の身体の動きを観察した場合の両方で 鏡のように同じ反応を示すニューロンが存在することがほぼ確実視されている その後 このミラーニューロンの働きにはたんに知覚したものを模倣して表現する能力

95 だけでなく 相手の仕草や様子を知覚しただけで その相手の意図や感情を 相手から写し取った意図 感情として 自分の内面に生じさせる機能があることがわかってきた 他者が何を考え 感じているのかを知ることは いわゆる 他者の心の問題 として 主として哲学の分野において 科学的な裏付けがないまま議論が繰り返されてきた ところが それまで自分の心と他者の心を繋ぎ合わせる確固とした根拠は存在しないと思われていたところに 脳神経科学におけるミラーニューロンの発見が両者の距離を一気に縮小し 手が届く距離まで引き寄せる可能性が生まれたのである 2 1-2 虚構作品への共感とミラーニューロンところで ミラーニューロンが心を読む能力は 目の前にいる現実の人間だけに限られない その能力は 現実の人間を超え出て 小説や物語 映画の世界にしか存在しない架空の存在の心の状態にまで及ぶとされる マルコ イアコボーニは ミラーニューロンの発見 : 物まね細胞 が明かす驚きの脳科学 のなかで 次のように書いている 映画の中のよくできた悲愴な場面を見ているときに 私たちがどっぷり感情におぼれてしまうのはなぜだろう? それは私たちの脳内のミラーニューロンが スクリーン上の苦悩を自分のものとして再現するからである 私たちがフィクションの登場人物に共感する- 彼らがどんなことを感じているのかわかる-のは 登場人物と同じ感情を文字どおりに自分が経験するからである ( 中略 ) 自分ではない別の誰かが苦悩や苦痛にさいなまれているのを目にすると ミラーニューロンが働いて私たちにその表情を読み取らせ 他人の苦悩や苦痛をそのとおりに感じさせる こうした瞬間こそが共感の土台であり 道徳の土台であるかも知れないと私は思う 3 テレビドラマや映画 演劇などの場合 登場人物はその一挙一動を表情豊かに観客に見せつける そのため 現実の場面と同じように観客のミラーニューロンが活動し 登場人物の気分や感情を文字通り写し取って 観客の脳内に再現してくれていることになる 近年のバーチャルリアリティの技術が進歩すれば 私たちのミラーニューロンの機能がより活性化し 虚構世界のリアリティをさらに臨場感をもって感ずることができるようになるかもしれない しかし 小説を読む場合のように文字を媒介とした虚構作品の場合はどうだろう この場合 登場人物の表情や仕草のパターンに読み手のミラーニューロンが反応して 登場人物の感情を読み手に再現するといった単純な戦略は使えない 文字列から必要な情報を読み取り 背景となる虚構世界の全体像 そこに登場する人物たちの特徴や置かれた状況を構築したうえで 登場人物の気持ちや考えを読み取らなくてはならない 実際にミラーニューロンが存在し それらが虚構上の登場人物の気持ちや感情を読み手側に映し出す役割

96 を担うとしても そこに至るプロセスは 映画やテレビドラマ バーチャルリアリティゲームなどのケースと違って 言語理解やそれに基づく世界観や出来事 状況 人物モデルを構築するプロセスを介した複雑な処理過程にならざるをえない 4 小説などの文学作品に登場する人物が生き生きとした思考や感情を伴って 読み手の心に映し出される認知的なメカニズムを明らかにするためには こうした一連の複雑な処理過程のどこで どのようにミラーニューロンが絡んでくるのかを解明していく必要があるだろう おそらく映画やテレビドラマを視聴する場合も その内容をより深く理解して 愉しむ場合には 単純に与えられた視覚的な印象のみならず 文学作品の場合と同じように 背景となる虚構世界の特徴や特殊な状況設定 個性的な登場人物のふるまいなどが 読み手の心の反応に何らかの形で反映しているはずである 虚構物語による共感感情の解明は イアコボーニが楽観的に語るようには すんなりといかないものと予想される 1-3 共感 概念の由来と模倣能力一般に 他者が感じている心の状態 ( 気持ち 感情 考えなど ) を共有することを 共感 という 日本語の 共感 は 例えば 相手が悲しい表情をしているとき その相手が 悲しい 思いをしているのだとわかり 同時に自分自身も 悲しい という感情を分ち持つ 今では日常的に用いられている 共感 という言葉であるが 昭和の初めまでは一般的ではなく 代わりに 同情 という言葉が使われていたという 共感 という日本語は当時の英語圏における心理学用語 "empathy" の訳語として導入され その後 徐々に一般的な日本語として定着していったとされる "empathy" の訳語としては 当初 同情 感情移入 という邦訳も使われたようだが 次第に 共感 という言葉に定着していったのではないか考えられている 5 英語の "Empathy" という概念は 20 世紀初頭 科学としての心理学の基礎を築いた心理学者 Edward Titchener(1867-1927) が "Einfühlung"( 感情移入 ) というドイツ語の翻訳として 導入したのが最初だとされる 18 世紀から 19 世紀にかけ Einfühlung という概念は とりわけロマン主義的なドイツの思想家や哲学者のあいだで 美学上の重要な概念として 例えば 芸術作品や自然に何かを感じ取るという能力がいかにして可能か それはいかなる形式で行われるかといった思潮の中で盛んに議論された 芸術や自然のような存在に対し 美的な感情を抱くのは 自然をその部分に分析 分解するような近代科学的な方法によるのではなく 何らかの詩的な同一化のプロセスを通じて 対象の存在の底に流れる精神的なリアリティを把握することだと考えられたのである こうした Einfühlung の概念をさらに発展させたのが心理学者 哲学者の Theodor Lipps(1851-1914) である Lipps は 主として美学上の概念として使われていた empathy という言葉を社会科学 人文科学の中枢概念のひとつに洗練させた つまり 共感能力をたんに芸術作品の美的鑑賞において重要な役割を果たす能力としてだけでなく いかなる対象

97 であれ 知覚を媒介として そこに心の作用や働きを認識するための基本的な能力基盤と規定したのである ちなみにここで展開された共感の能力とは 何らかの内的状態を有する対象の表情や身体的な変化を知覚することで 対象の内的状態と類似した内的状態を知覚者のうちに発生させる一種の模倣能力のことであった 今からみれば これは ミラーニューロン のように 他者の心を自分の脳内に鏡のように映し出す能力が人間に備わっていることを想定したものとも考えられる 6 2. 共感に関する理論の検討 2-1 共感の常識心理学説 (folkpsychology of empathy) 既に見たように 共感 は心理学成立当初より重要概念のひとつとみなされ 認知心理学 発達心理学 社会心理学 臨床心理学などのさまざまな観点から 研究が行われてきた とはいうものの 共感が実際にどんな心的現象であるのか それはどのような心的なプロセスを経て生み出されるのか 共感にはどのような種類ないしはレベルがあるのか などについては 定まった学説が確定していない状態である ここでは そうした近年の学説から 代表的なものを紹介したい 人間は他者が考え 感じ 行うことを 理解し 説明し 予測する能力を有する 私たちはほとんど自覚なしに 自然にこうした能力を遂行している こうした私たちの能力はしばしば folk psychology( 常識心理学 ) とも読心術 (mind reading) とも呼ばれてきた 近年 こうした能力を可能にしているのはどのような認知的メカニズムなのかということが 議論されるようになってきた そうした議論のうち 伝統的な立場を代表するものとして 理論 理論 (theory theory) と呼ばれるものがある 7 これは 自然科学者が物理的対象や物理現象に対してとっているのと同じように 私たちはつねに他者に対してある種の理論的立場をとっているという考え方である 物理的対象の性質や振る舞いを説明したり予測したりするために 人間は長いあいだ 常識物理学 (folk physics) と呼ばれる一種の理論的立場を培ってきたが これと同様に 私たちは他者に対して その特徴や振る舞いを常識的に理解し 予測するための 常識心理学 (folk psychology) と呼ばれるある種の理論的立場を培ってきたとされるのである 2-2 共感のシミュレーション説 (simulation theory of empathy) しかし 1980 年代半ばになると 人間のある領域における認知的な能力は別の領域における認知能力とかなり異なっていることが明らかになり 一般的な心の理論を前提するだけではこの能力をうまく説明できないという批判的見解が強くなってきた 今日ではこうした伝統的な 理論 理論の立場に代わって ひとは自分の心を 他者の心をシミュレーションするために使うことができるという考え方が受け入れられるようになってきた こうした見解はしばしば シミュレーション理論 (simulation theory) と呼ばれている この見

98 解では 共感の役割が 自分が他者の視点に移ったら その状況がどう見えるかを想像することで 他者がとるであろう思考や感情 決断などを引き出すことにあるとされる 例えば 友人がビールを飲みたいと欲しており ビールが冷蔵庫に冷やしてあると信じているとしたら その友人がどんな行動を取るかを予測するのに そのような場面でひとはいったいどんな行動を取る傾向にあるかについての理論をわざわざ参照する必要はない むしろ ただ自分がビールを飲みたい欲求をもち 冷蔵庫にビールが冷やしてあると信じていると想像して その場合 自分がどのような行動をとることになるかを問えば答えはおのずと分かるはずである その際の自分の思考プロセスとは まさしく他者の思考プロセス ( 欲求 信念 決断など ) を 自分の心のなかで ( 実際に行動するのでなく オフラインで ) シミュレーションしている状態にほかならない こうしたシミュレーション理論と並行して 共感が他者の思考や感情をつかみ取るより基本的で無意識的なプロセスであるとする見解が一般的になりつつある 例えば 人間は非常に幼い段階から周りにいる人の顔を見てそこから恐怖や怒りを把握したり その人が邪魔な置物を片付けたいとか 何かを食べるものが欲しいなどと思っているのを把握する能力を持っているという こうした能力の行使は きわめて瞬間的で推論によるものではないように見える また そうした能力は幼児期からすでに備わっているように見えるので 成長するとともに常識を積み重ね 他者の心や行動についての理論を獲得することで はじめてそうした能力が行使できるようになるという伝統的な 理論 理論の見解にはそぐわないと考えられている 2-3 低次の共感 (lower-level empathy) と高次の共感 (higher level empathy) こうした共感に関する近年の心理学的成果に基づき Goldman(2006) は私たちの共感能力が大きく二種類に分けられるとする提案を行っている 9 その二種類とは 高次の共感(higher level empathy) と 低次の共感(lower-level empathy) である 他の共感研究者も同様の共感分類を提案している 例えば Steuber(2006) は 前者を 再活性化共感 (re-enactive empathy) 後者を 基礎共感 (basic empathy) と呼ぶ 10 言葉からも類推できるとおり 前者はいわゆる 心の理論 (theory of mind) に基づいて人は他者の意図や欲求 信念などを解釈するという共感の捉え方であり 後者は直接的でより直感的な能力としての共感 ( ミラーリングによる共感 とも呼ばれる ) のことを指す ミラーニューロンに関する研究成果や乳幼児における共感的反応の研究成果などに付随し 低次の共感 に対する実証的証拠は集まりつつある一方で 高次の共感 に関しては いまだ実証的証拠が乏しく 低次の共感 だけでは説明できないとみなされる現象の 理論的要請ないしは仮説にとどまっている印象がある これについては 今後の脳の高次機能に関する研究の進展をまって あらためて議論が進展する可能性がある

99 3. 虚構作品における共感感情としてのサスペンスすでに見たとおり 共感概念は その言葉が使われ始めた当初から芸術や美学と密接な関係がある 絵画であれ 文学作品または映画であれ 完成した芸術作品には作者の意図や感情 思想が込められており 作品を鑑賞するということは そこに表現されている作者の精神に共感することだという見方が伝統的にある とりわけ 小説や映画などの作品では 作者の精神性のみならず そこに登場する人物の生きざまや苦境での苦しみや悲しみ それに立ち向かう努力や勇気といった登場人物の生き方や精神性に対しても 我々は共感を禁じえない こうした虚構作品によって鑑賞者の心に喚起される複雑な共感のせめぎあいが 虚構作品を鑑賞することの愉しみと快感を生み出す重要な要素となっている 事実 虚構作品はそれが扱う出来事の種類によって 歴史小説 刑事もの サイエンスフィクション ファンタジー などと分類されるだけでなく 作品が主として喚起する共感感情の種類によっても 悲劇 喜劇 ホラー ミステリー スリラー サスペンス などとジャンル分けされるのが一般的である このことから見ても 人々がある特定の虚構作品を見たい 読みたいと選択する重要な要因として 作品によって喚起される共感感情が関係していることが分かる 本論では こうした虚構作品によって引き起こされるさまざまな共感感情のなかから サスペンス (suspense) を取り上げ それがどのような条件のもとで いかに生じるのかを分析することで 虚構作品の鑑賞における共感のあり方を批判的な視点から明らかにしたい 3-1 サスペンスの標準理論 (standard account of suspense) とパラドクス サスペンス は いうまでもなく アガサ クリスティの小説やヒッチコック監督の映画に代表される人気の高い虚構作品のジャンルである サスペンス作品では 虚構的設定のなかで 危機的状況に陥った登場人物 ( とりわけ主人公 ) の様子をリアルに描き出し 登場人物が抱く不安感や緊張感といった不安定な心理を強調する 加えて それを読んだり 視聴する側にも 共感を通じた強烈な不安感 緊張感を喚起し 物語の結末を知ることへの強い欲求を抱かせ 最後まで興味と関心を持続させるという特徴を持つ こうした特徴は 作品の広告などでよく見られる ハラハラドキドキ 手に汗握る ノンストップサスペンス などのキャッチコピーにもよく表されている もちろん 感情移入した登場人物の行く末を含めて 物語の結末を知りたいがために 最後まで緊張感をもって物語を読み ( 視聴し ) 続けさせられてしまうという点に関していえば サスペンス ジャンルに特有のものではない こうした特徴は 冒険や恋愛 時代 伝記など テーマやジャンルが異なっていても よくできたエンターテイメント作品であれば 共通して保持する要素といえる このようなエンターテイメント作品がもたらすユニークな心理学的特徴は transportation( 移入 ) absorption( 熱中 ) immersion( 没入 ) などと呼ばれ 近年 心理学や脳研究の対象として注目を浴びつつある 11

100 心理学者の Ortony らのグループは サスペンスの標準理論 (standard account of suspense) とも称される説得力の強い理論を提唱している これによると サスペンスとは 恐れ (fear) と 希望 (hope) 加えて 不確定(undetermined) という認知的状態から成り立っているという 12 恐れ は 望ましくない出来事を予期することから生じる不快な心理状態で 希望 は逆に望ましい出来事を予測することで生じる快の心理状態とされる 標準理論によると 悪い結果を恐れ 良い結果を希望しつつ そのどちらが結果するかが不確かなときにサスペンスを感じることになる その際 結果の危険度や望ましくない度合いが大きくなればなるほど また 望ましくない結果が実際に起こることを強く確信していればいるほど 恐れの気持ちが強くなる 逆に 結果の望ましさが大きければ大きいほど また望ましい結果が起こると強く確信すればするほど その希望の気持ちが強くなる そして どちらの結果になるかが確定せず 恐れと希望の感情がないまぜのまま 宙ぶらりんになった状態が サスペンス の状態である そして このサスペンス感の強さは 結果の不確定さの度合い 結果の重要さに応じて変化する 事態が不確定であればあるほど そしてその結果が深刻もしくは重要なものであればあるほど 私たちのサスペンス感は強くなると予想される 例えば 荒れた天候のなか 旅客機で移動中 落雷でエンジンが1 基故障して ( 不確定性の強化 ) 墜落( 深刻な事態に対する強い恐れ ) せずに 無事に目的に到着 ( 重要な結果への強い希望 ) できるかどうかがわからないとき ( 不確定な状況 ) 私たちは典型的に強いサスペンスの感情を味わうことになる このように一般にサスペンスには 強い感情喚起とそれに伴って生じるなかば強制的な心理的没入状態 加えて事態が決着するまでの間の不安状態の継続といった心理学的 脳科学的に興味深い特徴が含まれている しかしながら サスペンスには 上記の特徴のほか さらにもうひとつ奇妙で特異な特徴を伴っているとされてきた この特徴は しばしば サスペンスのパラドクス (paradox of suspense) と呼ばれ 伝統的な美学 哲学上の興味深いトピックとして現在も議論されている サスペンスの標準理論が示したように サスペンスの感情が喚起されるためには 恐れる事態と希望する事態のどちらが結果となるかが不確定であることが前提されている したがって 同じサスペンス映画を二度見た場合 二度目はすでに物語の結果を知ってしまっているので サスペンスを感じないはずである ところが 実際には同じ小説や映画を複数回読んだり 見たりしても 作品によってはサスペンス感が喚起されることがしばしば起こる 一般に 何度読んでも飽きず 何度見てもその都度新鮮で迫真の共感感情が喚起されるような作品ほど 美学的に質の高い作品であるといわれ 真の芸術作品は 味わえば味わうほどその良さや深みが分かるようになるといわれている 当然 このことは一流のサスペンス作品についても当てはまるだろう だとすれば サスペンスが喚起されるための条件としての事態の不確定性に いったい何が起きているのだろうか

101 このような矛盾を生み出している現場を突き止めるため サスペンスのパラドクスを構成している命題を以下のように定式化する (1) サスペンス感の成立には 事態の不確定性が必要である (2) 物語のすじや結末に関する知識は 事態に関する不確定性を消し去る (3) ひとは同じ作品を二度読み ( 視聴 ) したり あらかじめあらすじを知ることで 物語の結末に関する知識を持っていても 作品によってはサスペンス感情が喚起される場合がある この (1)~(3) の命題それぞれは 間違いのない明白な事柄に思えるが これらをすべて組み合わせると 矛盾が出てくる だとすれば 一見間違いがないように見える (1)~(3) の命題のうち どれかひとつ以上が実際には間違った前提であり ここに紹介したサスペンスの標準理論自体が そもそも成立していない可能性がある 以下に これまで試みられてきたサスペンスのパラドクスに対するいくつかの解決策をまとめてみたい サスペンスのパラドクスについて論じた議論は数多いが 近年に発表されたものを中心にまとめると それらは大きく4つの立場に分類される 3-2 サスペンスの思考説 (Thought Theory of Suspense) この立場は しばしば 思考説 (Thought Theory) とも呼ばれ 1989 年に Peter Lamarque が 提唱して以来 13 多くの哲学者によって支持されている Noël Carrol もこの立場に立脚し サスペンス作品によって喚起される読み手の感情に関する議論を行っている 14 これは 上の (1)~(3) の一見自明にみえる前提のうち (2) の 物語のすじや結末に関する知識は事態に関する不確定性を消し去る という前提に 実は間違いがあるとする立場である この見解によると 虚構物語によって喚起される ( サスペンスを含めた ) さまざまな共感感情は 現実の出来事ではない想像上の出来事を心に思い描くだけで ( それを実在の出来事と信じなくとも ) 生み出される サスペンスを生み出した不確定な状況が一定の解決をみたことを 読み手が物語を読み進めるなかで知ったとしても 読み手はいつでも もしあのとき主人公が別の選択や行動をとっていたら一体事態はどうなっていたのかなど 虚構内における反実仮想的な展開をさまざまに想像することができる 例えば ヒッチコックの代表的作品 サイコ では うらびれたモーテルで たまたま訪れた女性客が 一見母親思いの気弱な支配人によって シャワー中にナイフで襲いかかられ殺害される この作品を見たあと もう一度見直すと 今度は温厚で気弱な青年にしか見えなかった支配人が 当初から女性を襲う恐ろしい多重人格の殺人鬼であることが強烈にイメージに残っている 当然 女性客はシャワー中に襲われて殺されることになるのだが そのことをあらかじめ知っていても 私たちは女性客がバスルームに入ってくる支配人の気配に早く気づいてくれないものか 支配人に抵抗して逃げ延びてくれないものかと ついつい心の叫び声を上げてしまう

102 物語が行き着く先をあらかじめ知っているにもかかわらず 別の可能性 別のシナリオをあれこれ想像することが 読み手の心の中に不確定さを生み出し サスペンス感情が生み出されるとするのがこの立場の考え方である 物語への共感感情は実際の結末やその知識には束縛されず たんに可能な状況や事態を思考するだけで生じることを積極的に認めるところに この立場の強みがある つまり この立場では 反実仮想的な可能性の想像だけで サスペンスをはじめとする共感感情が喚起されることを容認しているため 過去に起こったさまざまな出来事についても 繰り返しいろいろ思いを巡らせてはそのつど感傷に浸るといった現実の経験についても うまく説明できるとされる しかしながら この立場ではうまく説明できない経験的事実もある サスペンス作品は なんといっても初めて鑑賞するときが もっとも強いハラハラ感をもって愉しむことができる 多くのサスペンス小説の読者や映画視聴者が 一度作品を読んだり 見たりしたら あえて再度鑑賞しようとはせず 別の作品に関心が移っていくのは 何よりもその証であろう もし思考主義者が考えるように 作品の展開や結末に関する知識があっても 別の展開を想像するだけで ワクワクするサスペンスを味わえるならば 同じ作品で何度でも同じように愉しめ 新たな作品をさがす必要もないだろう だが実際には 作者の熱烈なファンやその作者の作品を研究するというのでない限り 愉しむことを目的に作品を繰り返し読もうとすることはあまりない 逆に この立場からすると 緻密な計算をつくして組み立てられたサスペンス作品であればあるほど 鑑賞する側に自由な想像の余地が少なくなり 繰り返して鑑賞した際のサスペンスが感じられにくくなると予想される しかしながら 細かな配慮と緻密な計算に裏付けられた作品というのは 一般に完成度の高い優れた作品である 優れたサスペンス作品の方が 繰り返し鑑賞した際のサスペンス感が弱く感じられるという点も この立場が抱える弱点といえるだろう 3-3 サスペンス= 欲求 -フラストレーション説(Desire-Frustration Theory of Suspense) これに対し そもそもサスペンスの感情が喚起されるためには 出来事の帰結に関して不確定の状態が存在しなければならないとする 前提 (1) にそもそもの問題があったと主張する立場も提唱されている 認知心理学者の Aaron Smuts は 2008 年の The Desire-Frustration Theory of Suspense という論文 15 で サスペンスの要件としての不確定性を否定し 物語の中で登場人物に迫りくる危機的な状況を変えてあげたいと読み手が欲求しても それが満たされないことで生じるフラストレーションの状態こそ いわゆるサスペンスの感情であると主張した この立場では そもそも状況の不確定性とサスペンス感情とは直接関係していないことになるため 作品の読み手や視聴者がすでに作品を読んだり見たりしていて すでに物語の内容を知っていたり 物語のあらすじを見聞きしていても サスペンス感情が生じる条件が阻害され

103 るわけではない サスペンス作品の中や 現実生活のさまざまな場面で 私たちは例えば愛する誰かのため 何かをしたい 苦しい状況を変えてあげたいなどの欲求を持つ しかしながら そうした欲求はさまざまな要因によって実現しない そのとき 私たちは強いフラストレーションを感じる Smuts によると 欲求実現がきわめて困難な状況にあっても 状況を打開し 目的を実現するために何かが出来ている場合には サスペンス感は弱いという しかし 例えば サイコ の不幸な登場人物が今にも背後から襲われそうになっているとき あるいは現実の知人が冬山登山で吹雪にあって遭難し 救助も連絡もできなくなっているようなときには 事態を打開する手立てが何もないという厳しい立場に立たされる こうした状況にあると 人は心理的にも身体的にも強いフラストレーションを味わう Smuts は そうしたフラストレーションの感情こそ サスペンス と呼ばれる感情の実体だと主張するのである この立場をとれば サスペンスがノンフィクション作品よりもフィクション作品において顕著なこともうまく説明される ビデオゲームなど一部の例外を除けば 虚構作品中に起こる出来事は 読み手や視聴者が見る時点ですでに書き上げられ 確定してしまった事柄である 現実世界の読み手や視聴者の登場人物への気持ち ( 欲求 ) は どうあがいても すでに出来上がってしまっている筋書きを書き換えることはできない この必然的なギャップによって生じるフラストレーションを 私たちはサスペンスとして感じ取ることになる こうした必然性が伴うからこそ フィクションは安定的なサスペンスの供給源となることができる 逆にいうと 目的のために少しでも行動ができる現実世界の方が サスペンスを感じにくい ゆえに特殊な場合を除いて ノンフィクションはサスペンス向きではないということになろう これはある程度 的を得た指摘であると受け取れる 加えて RPG など ビデオゲーム上で展開される虚構作品では プレーヤーが物語の展開 ( 主人公のサバイバルや仲間の救助など ) に関わることができる だとすれば ゲームをしているプレーヤーが感じることのできるサスペンス感は 小説や物語などで感じられるサスペンス感より弱くなるといえるのだろうか Smuts はこれについて 興味深い心理学実験を行っている それによると ビデオゲームのプレーヤーがもっともサスペンスを感じるのは ゲーム中 ツールなどを使って事態を打開するためのコントロールを行っている時ではなく アクションのあとの結果待ちで一時的にコントロールを断たれている場面だったという このことも フラストレーションとサスペンスの密接な関係を裏付ける証拠だといえる これらのことから Smuts は欲求とフラストレーションの感情こそ サスペンス と呼ばれる感情の実体であると結論づけるのだが それというのも フラストレーションを喚起する条件やフラストレーションを消失させる条件が ともにサスペンスを喚起し あるいは消失させる条件と一致するからだとしている 欲求とフラストレーションのないとこ

104 ろでは サスペンスは生じず 欲求とフラストレーションが起きるところでは 必ずサスペンスが感じられる また サスペンスを感じる場面には 必ずなんらかの形で欲求とフラストレーションが生じており サスペンス感のないところでは 欲求もフラストレーションも起きていない 論理的な形式だけで考えれば A B かつ B A A B (Aは欲求とフラストレーションの状態 Bはサスペンスの状態 ) となり 欲求とフラストレーションの状態はサスペンスの状態と同一だということになる ただし この同一性を導き出した論理式の根拠とされるのが この主張に当てはまる限定された経験的事例にすぎないことを忘れてはならない 例えば 過去に何とか助けてあげたいと思った ( 欲求 ) のに そのときは何もできなくて強いフラストレーションを感じたという経験は 多くの人が持っているだろう 経験当時 なんとか事態が良い結果にならないだろうか というサスペンスの感情を強く感じたことを覚えているかもしれない しかし 今となってはそうしたサスペンス感を感じることはない そのときに抱いた欲求とフラストレーションについては 当時の状況を思い出すと ある程度は戻ってくるように感じられるが サスペンス感については戻ってくるようには思えないのである それは 対象が過去の出来事であって 結末がすでに分かっているからだろう やはり サスペンス感情は 現在起こっている差し迫った状況 どちらに転ぶか不確定な状況に対してしか 生じないように思える こうしたケースは 当時のことを思い起こす場合と 夢にみる場合とを比較してみると さらに興味深い そうした過去の経験は ときに夢として私たちの心に蘇ってくる こうした夢は しばしばリアルで強烈なサスペンス感を伴い うなされ 冷や汗をかいて目覚めさせられるので 悪夢と呼ばれる 目覚めているときは 当時の状況を思い出す際に 同時にその結末もはっきりと意識しているが 夢の中で当時の状況が再現される際には 結末は意識にのぼらない あるいは意識にあっても 夢の中の出来事に影響を及ぼさないように感じられる そのため 夢としては何度も繰り返して経験されているにも関わらず その都度 初めて見るサスペンス映画のように 強いサスペンス感が喚起されるのである こうしたことから Smuts が主張したように サスペンス感情を読み手が抱く欲求とそれが満たされないフラストレーションにそのまま置き換えることはできないと思われる 両者の関連性には確かに強固なものがあるだろうが 意味論的な観点からも 成立条件から見ても 両者をそのまま等価だとはみなせない 虚構上の人物に対するかなうことのない思い入れが 随伴的にサスペンス感情を喚起する一方 サスペンス感の感じられない虚構作品では 登場人物への思い入れもフラストレーションも生じないのは 虚構と夢の間に共通して存在する (1)~(3) 以外の何らかの要件が関わっているためだと思われる ( この点については 以下の考察において検討する )

105 3-4 一時的記憶喪失 (Moment By Moment Forgetting) 説 Richard Gerrig も 物語や小説 映画など 虚構作品を読んだり 視聴している際の美的経験の特殊性を認知科学の観点から研究している 16 Gerrig は 標準理論の前提と同様 サスペンス感情が喚起するにはやはり結末の不確定性が必要だと主張する その場合 結末が分かってしまっている物語を読んで なぜ再びサスペンスを感じることができるのかを説明できなくてはならない これに対する Gerrig の解答は ひとは物語の帰結がどうなるかを知っていても 物語が展開している間はその帰結について不確かになるというものである すでにあげた標準理論の前提 (2) 物語の筋や結末に関する知識は事態に関する不確定性を消し去る を変更する立場である Gerrig によると 人間にはその認知的な習性として まったく同じことは起きないという前提で物事に対応する特異な傾向があるという こうした特異な傾向は 虚構作品のように 出来事を文字や映像で確定させた表現媒体を介して経験する際に顕著に表出し あたかもパラドクスのようにみえるのだと説明する そのため Gerrig が解明しようとするのは 初めから終わりまで同じ繰り返しの体験であるにも関わらず 最初に喚起された感情が慣化によって効果を失わないのはなぜかという問いである Gerrig は Kendal Walton の以下のような事例を取り上げる サスペンスは私たちがいかに作品に馴染んでいようと 作品に対する反応のうちに留まり続ける重要な要素の一つである ひとは トム ソーヤの冒険 を繰り返して読んでいる際 結果をすでに知っているにも関わらず あたかも初めてその物語を読むかのように トムとベッキーのことを強く 心配 する ジャックと豆の木 を読み聞かせてもらっている子供は 一語一語物語をすべて暗記してしまったあとでも 巨人がジャックを見つけて後を追ってくると 最初に物語を聞かされたときと同じように 興奮を感じる 同じ魅惑的なサスペンスを感じることができる 17 子供が ジャックと豆の木 の話を覚えてしまうほど 繰り返して聞かされても そのたびに興奮するのはなぜなのか Walton は 子供が物語を聞かされるたびに 物語の結末を知らないふりをする ごっこ遊び に入るからだという説を提示したが Gerrig はそれが ごっこ遊び のような人為的で社会的な学習に基づくものではなく より本能的で遺伝的ともいえる心の性質に起因するものだとしている 自然界では 類似のことが繰り返し起こることがあっても まったく同じことが繰り返し起こることはない 以前とまったく同じことが起こることを前提として 現在の出来事に過去の経験をそのまま適用するという記憶の利用法は 本来の認知能力としては 備わっていない むしろ 人間 ( おそらく自然界の生き物はすべて ) は 出来事をユニークな対象として扱うことで自然界に適応し 生き残ってきた 出来事に対しては 過去のパタ

106 ーンと類似していても 必ずどこかに違うところがあり 違う結果をもたらす可能性を含んだ出来事として扱う認知機構が出来上がっている これに対して 小説や映画などの虚構作品は確定された人工的な表現媒体であり 私たちはそうしたものに適した記憶の利用法を身につけていない そのため まったく同じ文章 同じ映像を経験しても どこかしらユニークなものとして処理してしまう傾向を持つという こうした事情で 私たちは繰り返しの経験にも関わらず 虚構作品に対するそのつどの感情的反応をユニークで 新鮮なものとして感じ取ってしまうとされるのである Gerrig の説を上記のように解釈する限り この説明には納得のいかない点が含まれているように思われる そもそも人間は出来事をつねにユニークなものとして解釈する傾向があるという点であるが 人間は出来事を過去の一連の出来事と類似したパターンとして処理する優れた能力を持っていることも事実である この優れたパターン認識の能力こそ 人間を自然界で生き延びさせてきた重要な認知的機構であるともいえる 同じ物語を何度か聞かされたとき これをまったく同じものとは認識しなくても 類似したものと認識することは十分にありうる であれば 過去のパターンの記憶から この物語には過去に聞いた話と類似した帰結が待っていることも容易に予測されるはずである こうした類似したパターンの記憶が 聞き手の理解や感情的反応に何の影響も与えないとする前提は不自然であろう また このような Gerrig の説明では 同じ作品を繰り返し読んだり 視聴したりすることで 作品についての理解が深まっていくプロセスが説明できなくなってしまう 同じ作品を複数回読むことで しばしば最初には気付かなかった伏線の存在や意味の関連性 結末にいたる重要なヒントなどが明確に見えてくることがある これによって 作品の緻密なプロット構成や作者の豊かな文筆能力への理解が深まり それまでとは別視点からも作品を愉しむことが可能になる もし Gerrig が主張しているように 私たちが作品の読みをそのつどユニークな経験として処理するのだとすると このような理解の深まりは得られないことになってしまう いつも新鮮な感動が得られることと引き換えに 繰り返されるたびに深まる理解と作品への愛着を捨て去ることになってしまうだろう 繰り返しの経験にも関わらず サスペンス感が持続することを可能にする説明としては Gerrig の説は大胆で ユニークなものではあるが 一般に同じ物語を繰り返して読んだり 聞かされたりするたびに サスペンス感が減じていくという事象が説明できないなど いくつかの点で不完全だとする批判は免れない 3-5 感情の取り違え説 (Emotional Misidentification) Gerrig 説への批判のなかで 作品を繰り返して読んだり 視聴したりすることで 作品のなかに新たな発見や理解の深まり 別視点から愉しむ可能性が生まれると述べたが こうした視点からサスペンスのパラドクスを解消しようとする試みが 感情の取り違え説 で

107 ある サスペンスの標準理論における前提でいえば (3) ひとは同じ作品を二度読みしたり あらかじめあらすじを読んだりすることで 物語の結末に関する知識を持っていても 作品によってはサスペンス感情が喚起される を否定することで パラドクスの解消を図る この立場の代表的な主唱者は文学の哲学 美学を研究する Robert Yanal 18 である Yanal は 作品を文字通り繰り返して読んだり 視聴することはできないという 作品は読むたび 見るたびに新たな側面を見せるので それによって喚起される感情もその都度必然的に異なるものになる 同じサスペンス作品によって生み出されるサスペンス感も 1 回目と2 回目 それ以降では違う感覚であり そう考える方がむしろ自然である 実のところ すでに結末を知った上で経験する2 回目以降のサスペンスは 1 回目の サスペンス と同じではなく むしろ 予期 に近い感情であって それを サスペンス と取り違えているにすぎないとされる 標準理論で規定されているように 結末に関する情報が与えられ 不確定性がなくなってしまえば 真の意味での サスペンス は感じられなくなってしまうとみなす だとすれば問われるべきは 同じ作品を繰り返して経験する読者ないしは視聴者には どうして単なる 予期 が サスペンス に間違えられるのかという問題であろう この問題に答えるため Yanal はホラー映画を例にあげる ホラーもサスペンスと同様に 同じ作品を読む ( 視聴する ) たびに その感じ方が変化する ホラー映画を最初に見るときには これから何が起こるかわからないという 恐怖 (fear) が心の大半を占める 2 回目以降は すでに何が起こるかが分かってしまっているので 恐怖 ではなく 出来事の おぞましさ (dread) がそれに代わり心を占めることになるという ではなぜ 感情の性質が変わってしまっていても 私たちはそのことに気づかないのか あるいは違いに気づいていても それを同じように 恐怖 または サスペンス と呼んでしまうのか そこには 本来主観的で客観的な分類基準のはっきりしない感情に対して その都度 何らかの類似点を見出しては同じカテゴリーに分類してきた常識心理学 (folk psychology) 的な風習の名残りがみてとれる 伝統的な感情の分類法に表われているのは Wittgenstein のいう家族的類似性の展型的な事例であるといえよう 手に入リやすく 他者と共有しやすい特徴を使って 主観的な感覚の集合体であるその都度の感情を サスペンス ホラー 悲しみ などの一般的なカテゴリーにあてはめて表現するといった私たちの認知的風習そのものに 感情混同の原因が含まれていたと考えられる 純粋で典型的な ホラー 感情 サスペンス 感情のようなものは もともと存在せず それらは所詮 類似した状況下では類似した感情が生ずるという曖昧な分類基準にもとづいた主観的表現でしかない 例えばサスペンス作品を読んでいる時に 不安や登場人物への心配を含む感情が顕著に感じられれば その感情は サスペンス 感情と分類され 他者に伝えられることになる もし読んでいた作品がホラーであったなら その同じ感情は ホラー 感情として分類され 伝えられるかもしれない 主観的な感情の質ではなく

108 その場にもっともふさわしく思われる分類基準 すなわち作品のジャンルによってそのときの感情がカテゴライズされ 他者に伝えられたり 記憶に登録されるかもしれない 細かな相違点はともかく このような大ざっぱなとらえ方をしておいた方が 顕著な特徴を把握しやすいし 他者にも理解されやすいからである 4. 考察 まとめこのような感情のカテゴリーそのものへの哲学的批判に根拠をおく感情混同説は 説得力の高い説明であることは間違いない 近年の心理学研究においても 虚構作品や物語を読んだり 映画を見たりした際の共感感情について実験 分析されている そうした研究によると 物語を読んでいる際に感じられる感情は明確で単純なものではなく さまざまな感情が入り混じり さまざまな陰影を含んだ混合感情として経験されている すでにみたように Alvin Goldman らは 私たちの 共感 能力が大きく二種類に分けられるとする提案を行っている その二種類とは 高次の共感感情 (higher level empathy) と 低次の共感感情 (lower-level empathy) であり 一般の共感感情はつねにこれらが複雑に混じりあった感情状態として経験されるという 低次の共感感情には 近年発見された脳内のミラーニューロンの働きによって喚起されるような直感的で反射に近い感情が含まれ 高次の共感感情には 物語のプロットに即して徐々に蓄積された文脈知識に基づき 推論プロセスを介して喚起される抽象的で非直観的な感情が含まれる このような複合的で複雑な内容をもった共感感情を サスペンス ホラー 悲しみ のように一語で切り取ってしまうことには もともと無理があるといえるだろう とはいえ 同じ作品を読む際には 予期に関する感情は含まれても サスペンスの感情は一切含まれないはずだという Yanal の主張は はたして正しいのだろうか サスペンスに関する標準理論に従うなら 2 回目以降の鑑賞ではすでに得られたすじ書きの知識がサスペンスを感じる理由そのものを消し去ってしまうため サスペンスは感じられなくなるはずである 2 回目以降にサスペンス感情が喚起されるためには 作品のすじ書きに関する記憶が失われていなくてはならない Gerrig の指摘は 虚構作品を読んでいるとき とりわけ読み手の気持ちが物語にすっかり入り込んで (transportation) 熱中した(absorption) 状態になっているときには 一時的であれ そうした特殊な心理的状況が生み出される可能性があるというものだった この点を考慮に入れ 標準理論におけるサスペンス感情の成立要件であった (1)~(3) を 以下のように修正することを仮説として提案したい (1 ) サスペンス感の成立には 作品に熱中している読み手 ( 視聴者 ) が事態の不確定性を認識している必要がある (2 ) 物語のすじや結末に関する知識は 作品に熱中していない読み手 ( 視聴者 ) においては 事態の不確定性の認識をさまたげる (3 ) ひとは同じ作品を二度読み ( 視聴 ) したり あらかじめあらすじを知ることで 物語の結

109 末に関する知識を持っていても 作品に熱中することによって サスペンス感情が喚起される場合がある 確かに 面白い小説を読むのに夢中になっているときには 注意が読んでいる物語の展開のみに集中し 外部からの情報が遮断されるように感じられる ついつい本を読むのに熱中しすぎて 降りるべき駅を乗り越してしまうような経験や ふと気がつくとびっくりするほど長時間 ゲームに熱中していたことに驚くような経験は 多くの人にあるだろう 物語に熱中するとトランス状態のような特殊な心理状態になるという現象については 1970 年代頃から徐々に心理学や脳科学などの研究対象になってきた しかし 物語への熱中状態のなかで 同じ物語を繰り返して読んだ際の記憶や結末に関する記憶などが 読みのプロセスにどのような影響や作用を及ぼすのか サスペンスやホラーなどにおける美的感情にどう影響するのかについては ほとんど実証的研究が行われていない 近年 fmri 磁気共鳴機能画像法などの技術が進歩したことにより 実際に機能している最中の脳の状態をかなり精密に検査できるようになった こうした技術を用いて 同じ作品を1 度目に読んだ時と 2 度目に読んだ時の脳状態の違いを比較したり 物語への熱中時の脳状態の特徴や記憶の働き方に関する新たな知見が得られるかもしれない こうした脳神経科学上の技術の進歩は サスペンスのパラドクス をはじめとする伝統的な哲学 美学上の議論に新たな光をあて 具体的な進展をもたらす可能性がある 他方で サスペンスのパラドクス のような伝統的な美学上の問題に目を向け直すことで これまで不明だった脳の働きや機能を解明するためのヒントが得られるかもしれない 人間の心 そして脳に対する研究対象領域は広大で まだ解明されていない未知の領野が広がっている 文学や芸術作品などの領域を扱ってきた伝統的な人文学研究であっても 脳神経科学という新たな研究領域とコラボレーションすることで 新しい観点 方法論のもとで 人間の文化や美的営みを可能にした認知的メカニズムの解明に貢献することができるだろう 19 注 (1) 社会脳 は英語では Social Brain と表現されるが 学術論文では Social Neuroscience ( 社会神経科学 ないしは 社会脳科学 ) という用語が用いられることのほうが一般的である 近年の社会神経科学の動向については Decety, J. T., & Cacioppo, J. T. (eds.) (2011). The Oxford Handbook of Social Neuroscience. Oxford University Press. などを参照されたい 日本における研究動向については 2012 年以降 近年の社会神経科学の進展動向をまとめた苧阪直之 ( 編 ) 社会脳シリーズ ( 全 9 巻 ) ( 新曜社 ) が出版されている (2) ミラーニューロンの機能に関しては 脳神経科学者の間でもその信ぴょう性を巡って議論が行われていることを無視すべきではない Hickok G. (2009). Eight problems for the mirror neuron

110 theory of action understanding in monkeys and humans. Journal of Cognitive Neuroscience, 21 (7), 1229 1243. などを参照されたい また ミラーニューロンの発見が 他者心の問題をはじめとする伝統的な哲学の問題に どれくらいの意義があるかなどについての議論も行われている Churchland, P. (2011). Braintrust: What Neuroscience Tells Us about Morality. Princeton University Press. (3) マルコ イアコボーニ ( 塩原通緒訳 )(2011) ミラーニューロンの発見: 物まね細胞 が明かす驚きの脳科学 早川書房, p.15. (4) 読書を通じた物語や虚構作品の認知過程に関しては Kintsch, W. & Van Dijk, T.A. (1978). Toward a model of text comprehension and production. Psychological Review, 85 (5), 363-394., Van Dijk, T. A., & Kintsch, W. (1983). Strategies of discourse comprehension. New York: Academic Press., Kintsch, W. (1988). The use of knowledge in discourse processing: A construction-integration model. Psychological Review, 95, 163-182. Balota, D. A., Flores d Arcais, G. B. Rayner, K. (eds.) (1990). Comprehension Processes in Reading, Lawrence Earle Baum Associates., 良峯徳和 (2014) 虚構理解の認知過程 量から質に迫る: 人間の複雑な感性をいかに 計る か ( 徃住彰文監修 村井源編 ) 新曜社, 29-30 頁., 良峯徳和 (2001) 虚構言説理解過程の制御システムモデル 認知科学 第 8 巻 4 号, 384-391 頁. などを参照されたい (5) empathy には対象に対する肯定的な意味合いも含まれることから, 同情 という相手を憐れむという側面が強く 上から見下すニュアンスを持つ言葉では不都合との指摘がある そのため それまではあまり一般的には使用されていなかったが 言葉としては存在していた 共感 の語を当てたのではないかと考えられる Cf. 植田千晶 (2003) 共感 の概念をどう教えるか (3) 共感と同感 和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 No.13, 56-62. (6) Empathy の概念はその後 現象学 解釈学における重要概念としても取り上げられ 自然科学とは異なる性質をもち ゆえに異なる方法論を持って構築されなくてはならない人間科学全般の方法論上の議論として展開されるようになる さらに近年では 利他行動をはじめとする社会的行動規範や道徳 倫理的価値の起源を巡る議論としても展開されている この点については Coplan and Goldie(eds.)(2011). Empathy. Oxford University Press を参照のこと (7) Cf. Carruthers, P. & Smith, P. K. (1996). Theories of theories of mind. Cambridge University Press; Davies, M., & Stone, T. (1995). Folk psychology: The theory of mind debate. Blackwell; Spaulding, S. (2012). Mirror Neurons are not evidence for the Simulation Theory. Synthese, 189:515-534. (8) Cf. Davies, M., & Stone, T. (1995). Mental Simulation: Evaluations and applications. Blackwell. (9) Goldman, A. (2006). Simulating mind: The Philosophy, psychology, and neuroscience of mindreading (philosophy of mind). Oxford University Press. (10) Stueber, K.. (2006). Rediscovering Empathy: Agency, Folk Psychology, and the Human Sciences, MIT Press.

111 (11) Cf. Johnson, D. (2012). Transportation into a story increases empathy, prosocial behavior, and perceptual bias toward fearful expressions. Personality and Individual Differences, 52(2), 150-155; Green, M. C., & Brock, T. C. (2002). In the mind s eye: Transportation-imagery model of narrative persuasion. In Green, M. C., Strange, J. J., & Brock, T. C. (eds.), Narrative Impact: Social and Cognitive Foundation, Lawrence Erlbaum, 315-341; Stanfield, J. & Bunce, L. (2004). The Relationship Between Empathy and Reading Fiction: Separate Roles for Cognitive and Affective Components, Journal of European Psychology Students, 5(3), 9-18; van Laer, T. Visconti, L. M. & Wetzels, M. (2014). The Extended Transportation-Imagery Model: A Meta-Analysis of the Antecedents and Consequences of Consumers Narrative Transportation. Journal of Consumer Research, 40(5), 797-817; Nahari, G., Glicksohn, J. & Nachson, I. (2010). Language, plausibility, and absorption. The American Journal of Psychology, Vol. 123, No. 3, 319-335; Ryan, Marie-Laure (2015). Immersion vs. Interactivity: Virtual Reality and Literary Theory. SubStance, Vol. 28, No. 2, 110-137. (12) Ortony, A., Clore,G. L. and Collins, A. (1998). The Cognitive Structure of Emotions, Cambridge University Press. (13) Lamarque, Peter (1989). How Can We Fear and Pity Fictions?" British Journal of Aesthetics 21(4), 291-304. (14) Carroll, Noël (2001). The Paradox of Suspense. in Beyond Aesthetics: Philosophical Essays, Cambridge University Press, 254-269. (15) Smuts, Aaron (2008). The Desire-Frustration Theory of Suspense. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 66(3), 281-290. (16) Gerrig, R. J. (1999). Text Processing and Narrative Worlds, in Ram, A. & Moorman, K. (eds.), Understanding language understanding: computational models of reading, 461-481; Gerrig, R. J. (1989). Reexperiencing Fiction and Non-Fiction. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 47(3), 277-280; Gerrig, Richard (1997). Is there a Paradox of Suspense? A Reply to Yanal, British Journal of Aesthetics, 37, 168-174. (17) Walton,Kendall (1978). Fearing Fictions. The Journal of Philosophy, 75, 26. (18) Yanal, Robert (1996). The Paradox of Suspense. British Journal of Aesthetics, 36, 146-158; Yanal, Robert (1999). Paradoxes of Emotion and Fiction, Penn State University Press. (19) 今日 こうした新しい総合研究領域は 従来の呼び名に 神経 (neuro) という接頭語を冠して 神経美学 神経哲学 神経文学 などと呼ばれるようになっている Received on January 31, 2015.