アルベール ベガン 不 可 視 なるもの をめぐる 冒 険 ロマン 的 魂 とバルザック 東 海 麻 衣 子 はじめに アルベール ベガンが 没 してから 20 年 後 の 1977 年 ジュネーヴ 州 の 小 さな 村 カルティニーにて アルベール ベガンとマルセル レイモンについてのシンポジ ウムが 開 かれた そこで 一 同 に 会 したのは ジョルジュ プーレ ジャン ルーセ ジャン ストロバンスキといった 大 批 評 家 たち 彼 らは 数 日 間 にわたり ベガン とレイモンの 残 した 偉 大 な 仕 事 について 議 論 を 交 わした その 中 で プーレは 40 年 前 はじめてベガンの ロマン 的 魂 と 夢 を 手 に 取 っ たときの 感 動 を 語 るとともに ベガン 批 評 の 出 発 点 となる 精 神 について 端 的 に 分 析 してみせている 我 思 う 我 あり と 断 じるかわりに ベガンは こう 言 っているか のようだ あるのは 我 なのか 彼 の 出 発 点 はすなわち 不 可 知 ある いは 存 在 の 欠 如 の 確 認 と 言 ってもいい 1) プーレは 私 は 夢 見 ている 存 在 ではないか と 常 に 疑 うベガンの 姿 を 映 し 出 す そして さらに 次 のように 言 う 自 己 認 識 におけるベガンの 決 定 的 な 進 歩 は 自 己 からの 脱 出 孤 独 と の 決 別 にかかっている ミスティックたちの 言 語 を 用 いながら ベガン は 書 く 切 り 離 された 私 を 乗 り 越 えなければならない ゆえに 何 よ りも 大 切 なのは 他 者 とつながることであり 交 流 あるいは ベガン がより 頻 繁 に 用 いる 語 によれば 共 通 感 覚 の 中 に 入 っていくことなので ある 2) ジョルジュ プーレによるこの 分 析 は ベガン 批 評 の 核 心 をつくものだろう ベガンの 批 評 とは 他 者 を 媒 介 にして さらに 他 者 に 同 化 «identification» す - 25 -
ることによって 自 己 を 探 究 し 乗 り 越 え ようとするためにある さらにそこか ら 共 同 体 との 同 化 すなわち すべての 人 との 共 通 感 覚 «communion» を 得 ようとするものであると プーレは 言 う 3) ゆえに ベガンは 自 己 をその 内 に 見 出 すことができる 精 神 のみを 批 評 しなけ ればならなかった その 批 評 行 為 は 常 に 不 可 知 である 自 己 を そしてその 自 己 が 把 握 しきれない 何 ものかを 探 究 するための やむにやまれぬ 衝 動 に 基 づくものであ ったのだから ベガンは ネルヴァル ペギー ブロワ ラミュズ パスカル ベルナノスをは じめ ロマン 派 から シュールレアリストまで 多 くの 文 学 者 を 論 じたが 彼 らは 皆 ベガンと 同 質 の 精 神 をもつ 者 たちである すなわち 人 間 は 不 可 知 であり 不 可 視 なものに 取 り 囲 まれて 生 きているという 認 識 から 出 発 し 直 感 だけが 知 りうる この 領 域 に 踏 み 入 ろうとする 作 家 たちである 彼 らは 常 に 根 源 的 不 安 と 闘 いな がら 言 葉 にし 得 ないものを 言 葉 にしようと 試 みる ベガンは こうした 魂 を ロ マン 的 魂 として ロマン 的 魂 と 夢 の 中 で 論 じた しかしながら その 中 にあって 一 人 だけ 抜 きんでている 作 家 がいる ロマン 主 義 的 でありながら 他 の 詩 人 とは 一 線 を 画 す 幻 視 者 «visionnaire» オノレ ド バルザックである ロマン 的 魂 と 夢 に 付 された 1939 年 の 緒 言 を 見 てみよう 私 がより 遺 憾 に 思 うのは 二 人 の 天 才 に 対 して 正 当 な 位 置 づけを 行 えなか ったことである 私 にとってとりわけ 大 切 で また 少 なくとも 彼 らの 作 品 のいくつかの 面 において 私 の 探 究 が 向 かうべき 方 向 にまさしく 位 置 してい る 二 人 の 天 才 つまり バルザックとクローデルである 弁 明 すると 彼 ら は 二 人 ともあまりに 偉 大 すぎ まったく 異 なるやり 方 で あまりに 独 特 であるために この 書 において 私 が 検 討 するような 限 られた 伝 統 のうちに 含 めることは 無 理 だと 判 断 したのである だが 私 は 彼 らの 教 えを たっ た 一 章 ではなくもっと 大 きなかたちで 再 び 取 り 上 げることをあきらめては いない 4) さらに ロマン 的 魂 と 夢 において この 二 人 の 天 才 を 並 べてみると クロ ーデルに 関 しては 多 くの 引 用 と 言 及 が 散 見 できるのに 対 し バルザックに 関 して は その 作 品 や 精 神 に 触 れた 箇 所 が 一 切 ないことに 気 づく ベガンにとって バル ザックを その 他 の 魂 と 並 列 させることは どんなかたちであっても 不 可 能 であっ - 26 -
たのだろう そして ここで 取 り 置 かれた 情 熱 は 幻 視 者 バルザック を 皮 切 りに バルザック 小 選 集 12 巻 バルザック 全 集 14 巻 の 編 集 個 別 作 品 の 刊 行 序 文 エッセーとなって 結 実 する 一 方 クローデルについては その 後 まとまっ た 著 作 として 公 刊 されることはなかった こうしたことから 我 々は ベガンにおけるバルザック 研 究 の 特 権 的 地 位 を 認 め るのだが その 理 由 は ベガンが 論 じた 多 くの ロマン 的 魂 において 認 められる 特 質 を バルザックが 最 も 豊 かに 体 現 しているからにほかならない では 一 体 その 特 質 とは 何 だろうか 1937 年 学 位 論 文 として 執 筆 された ロマン 的 魂 と 夢 5) そして 1937 年 から 1939 年 に 執 筆 された 幻 視 者 バルザック 6) この 二 つの 代 表 作 を 比 較 分 析 するこ とは アルベール ベガンの 批 評 に 対 する 基 本 姿 勢 を 理 解 するのに 役 立 つだろう 本 稿 では ベガンが 同 化 しようとする ロマン 的 魂 の 特 質 を 把 握 し その 上 で バルザックの 天 才 の 強 度 を 推 し 量 ろう それによって アルベール ベガン の 試 みた 冒 険 の 意 味 を 考 えてみたい 1. ロマン 的 魂 ロマン 的 魂 と 夢 第 一 章 において ベガンは 一 人 の 特 異 な 作 家 7) として リヒテンベルグを 取 り 上 げ 引 用 とともに 次 のように 語 っている 多 くの 点 で こうした 観 念 が 完 全 な 明 晰 さへと 導 かれえないことは きわめて 幸 福 なことである なぜなら たとえ 人 間 が 自 然 のこのような 秘 密 を 洞 察 しうる 可 能 性 が 大 いにあるとしても 人 間 がそれを 立 証 する ことは 自 然 の 利 益 にまったく 反 することであろうから してみれば 恐 怖 が 彼 をとどめ われわれの 真 の 条 件 である 不 知 を 彼 に 祝 福 させるのだ 8) ベガンは 不 知 «l ignorance» を われわれの 真 の 条 件 ととらえる 不 知 であ るとする 認 識 は 目 に 見 える 現 実 以 外 に 自 己 の 知 りえない 何 ものかが 存 在 するか もしれない その 可 能 性 を 認 めるということである では 何 ものか とは 何 だろ うか ベガンは 次 のように 言 う 統 一 性 を 知 覚 すること このことこそロマン 派 の 人 々が 外 界 に 適 用 す る 前 提 である だがこの 前 提 は まったく 内 的 な かつ まさしく 宗 教 - 27 -
的 な 体 験 にその 根 源 を 有 している すなわち この 出 発 点 は あらゆる 時 代 あらゆる 流 派 のミスティックたちの 出 発 点 である ミスティック たちにとって 根 源 的 主 題 は 聖 なる 統 一 性 である 彼 らはそこから 除 外 されていると 感 じ そこへ 神 秘 的 合 一 によって 戻 ろうと 渇 望 している 9) ロマン 的 魂 なるものは すべからず こうした 絶 対 の 探 究 に 赴 くよう 運 命 づけられている そのため 彼 らは ときに 信 仰 に 救 いを 求 める ベガン 自 身 も 39 歳 の 時 カトリックの 洗 礼 を 受 けている しかしながら ベガンが 信 仰 の 内 に 没 我 し 救 われることは 決 してない 以 下 の 言 葉 は それを 裏 付 けるものだろう だが 彼 (モーリッツ)は 自 分 が 提 起 する 問 いに 答 えを 出 すことが まったくできない 一 つの 行 為 のほかには 答 えはまったくないからで ある すなわちその 行 為 とは 光 を 存 在 するもの 一 切 に 伝 達 する ある 実 在 にたいする 信 仰 行 為 いいかえれば 人 間 の 節 度 が 不 可 解 なものに 深 くはいりこむのを 断 念 し この 不 可 解 なものを 説 明 しようと 熱 望 せずに この 世 に 生 きることを 甘 受 する まったく 単 純 な 行 為 である 10) ベガンにとって カトリック 信 仰 は ある 実 在 を 崇 め 神 秘 に 頭 を 垂 れる 行 為 であって それ 以 上 ではない その 行 為 にしがみつき この 不 可 解 なものを 説 明 し ようと 熱 望 せずにこの 世 に 生 きることを 甘 受 する ことではないのである では この まったく 単 純 な 行 為 によって 問 題 を 解 決 することはできないとしたら ベガンの 赴 くべき 場 所 はどこなのだろうか 無 意 識 の 深 淵 にこそ われわれの 生 の 完 全 な 豊 かさは 属 しているのだ だがいかにしてそれを 知 覚 するのか? 内 部 の 冥 府 への 下 降 はいかにし て 行 われるのか? 言 葉 によって またポエジーによってである 11) ベガンにとって 夢 や 無 意 識 は 目 に 見 える 現 実 の 源 泉 である 詩 人 たちは 神 秘 の 世 界 がより 身 近 に 感 じられるその 場 所 に 降 りていき そこからポエジーを 拾 い あげてくるのだ そして その 冥 府 への 下 降 はまた 自 らの 幼 年 期 にもつなが っている ベガンが 引 用 するモーリッツの 言 葉 が その 意 味 を 物 語 る - 28 -
幼 児 のイデーは 切 れやすい 糸 のようなもので この 糸 によって 私 たちは 生 命 の 鎖 につながれるのであるが 可 能 なかぎり それ 自 身 で 存 在 する 孤 立 した 生 命 であるようにつながれているのである この 場 合 私 たちの 幼 時 は 忘 却 の 河 であるにちがいない 私 たちは 前 世 や 未 来 の 全 体 のなかに 溶 けこまないように また 適 度 に 制 約 をうけた 個 性 を 持 つように この 河 から 水 を 飲 んだのであろう 私 たちは 一 種 の 迷 路 のな かに 置 かれている 私 たちは 私 たちの 脱 出 を 可 能 にする 糸 を 見 いだせ ない おそらく この 糸 を 見 出 してはならないのだろう それで 私 たちは 私 たちの [ 個 人 的 な] 思 い 出 の 糸 が 切 れる 箇 所 に 歴 史 の 糸 を 結 び つけ かつ 私 たち 自 身 の 生 が 私 たちから 逃 れさるときに 私 たちの 祖 先 の 生 のなかに 生 きるのである 12) ベガンが 驚 くべき 一 節 13) として 引 用 しているモーリッツのこの 言 葉 は ロ マン 的 魂 が 拠 って 立 つ 幼 年 期 の 意 味 を 明 らかにしている モーリッツにとどまらず ロマン 的 魂 は さまざまなイマージュを 信 じ 現 実 という 外 界 と 想 像 という 内 界 とが 存 在 することを 知 らなかった 幼 年 という 黄 金 時 代 14) を 意 識 的 無 意 識 的 に 回 想 することによって 源 泉 に 回 帰 しようとする それは 彼 らのポエジーが 自 伝 的 であるということではまったくない 精 神 分 析 的 方 法 に 疑 問 を 抱 くベガンにとって 重 要 なのは 歴 史 的 事 実 ではなく 象 徴 なので ある では 夢 や 無 意 識 幼 年 期 の 内 に 彼 らは 何 を 探 ろうとしているのだろうか 合 一 を 確 実 さを 実 在 を 求 める 呼 び 声 や 欲 求 に 答 えるものは 何 も ない あの 神 秘 的 で 予 告 的 な 稀 な 瞬 間 をのぞいては その 瞬 間 には 自 然 発 生 的 な 記 憶 が われわれに 語 りかけるように 思 われる 何 かが 現 存 している 何 かがある と 15) この 現 存 «présence» という 言 葉 が ベガン 思 想 の 核 を 成 す 16) 現 存 と は 目 に 見 える 現 実 の 中 に 何 ものかがあるということである 神 の 現 存 を 表 す 大 文 字 の «Présence» よりも 頻 繁 に ベガンは 小 文 字 の «présence» を 用 い 不 知 な 人 間 が 決 して 認 識 できない 何 ものかの 現 存 を 信 じる ここで 重 要 なのは この 何 ものか が まさに 現 実 の 中 にこそ 見 出 される という 信 念 である それゆえに 彼 は 現 実 主 義 者 も 観 念 論 者 も 共 に 退 ける 目 に - 29 -
見 える 現 実 のみを 信 じる 者 と 同 様 生 の 不 合 理 性 に 幻 滅 し 現 実 から ランガージ ュの 檻 の 中 に 身 を 潜 める 者 にも 共 感 しない ベガンの 愛 する 詩 人 たちに 共 通 するの は 夢 想 や 郷 愁 に 浸 りながらも いまここでこそ 生 きる 必 要 性 «la nécessité de vivre déjà hic et nunc» 17) を 強 く 意 識 する 者 たちに 限 られるのだ そして 他 の ロマン 的 魂 とバルザックを 隔 てている 最 も 重 要 な 差 異 は ほか ならぬこの 現 存 のうちに 見 られるのである 2. 幻 視 者 バルザック 幻 視 者 バルザック の 冒 頭 には バルザックによる 以 下 の 言 葉 が 引 用 されてい る 僕 という 人 間 は 万 人 にとって 不 可 解 なのです なぜなら 誰 も 僕 の 生 の 秘 密 をにぎっていないからで また 僕 は 何 ぴとにもそれを 明 かす 気 はあ りません 18) バルザックが 明 かさなかった 以 上 彼 の 生 の 秘 密 がいかなるものであったの か 我 々には 分 かりようもないのだが ベガンは それをできる 限 り 解 き 明 かそう とした そして ボードレールら 少 数 の 人 々にしか 認 められていなかった 幻 視 者 バルザック の 姿 を この 書 においてはっきりと 映 し 出 した それまで 評 価 の 低 か った 哲 学 的 研 究 に 正 当 な 評 価 を 与 えると 共 に 通 俗 的 としか 思 われていなかっ た 風 俗 小 説 群 に 暗 示 された 内 的 な 生 19) を 見 るという 読 み 方 を 改 めて 提 示 した のである バルザックは 人 間 の 感 知 し 得 ない 神 秘 の 存 在 を 認 めていた 他 のロマン 的 魂 と 同 じく それによって 彼 も 根 源 的 苦 悩 を 強 いられる その 苦 悩 の 痕 は ルイ ランベール や 絶 対 の 探 究 等 の 哲 学 的 研 究 のうちに 残 されている バルザ ックの 化 身 たちは 狂 気 の 淵 をさまよいながら 絶 対 を 探 究 しようとする ベガン は 哲 学 的 研 究 のうちに 見 られる 一 連 の 神 秘 主 義 的 作 品 に かつてないほどの 重 要 性 を 見 出 しているが しかし バルザックがこうした 作 品 のみを 残 したのであっ たとしたら ベガンのバルザック 研 究 は これほどの 広 がりを 見 せなかったであろ う 哲 学 的 研 究 に 対 して ロマン 的 魂 と 夢 の たった 一 章 を 捧 げるにとど まっていたかもしれない というのも ベガンが バルザックを 別 格 に 扱 ったのは ほかでもなく バルザックの 小 説 群 が 内 包 する 現 存 の 大 きさゆえだったからで ある ベガンは 次 のように 言 う - 30 -
真 のバルザック 的 神 話 すなわち 彼 の 根 源 的 な 苦 悩 に 答 え 神 秘 につ いての 彼 の 知 覚 を 訳 し 出 していることから 彼 にとって 真 の 思 考 形 式 に なっている 神 話 それは 初 期 の 短 編 においてと 同 じほどに でなければ もっとそれ 以 上 にさえ 写 実 主 義 的 な 彼 の 小 説 のなかに 見 つけ 出 せる と 私 は 信 じる 20) そして 写 実 主 義 的 ではない セラフィタ を 例 外 的 な 道 として 以 下 の ように 分 析 する このように 例 外 的 な 道 で 試 みられた 体 験 が 彼 に 示 唆 したこと それは まさしく 人 間 の 精 神 的 上 昇 はどんなに 高 く 達 しようとも 所 詮 地 上 の 物 語 であり うつし 身 の 物 語 である ということだ 真 の 神 話 は 日 常 のな かで 時 のなか 生 身 の 世 界 のなかで 創 造 されるものでなくてはならな い 21) ベガンは セラフィタの 悲 劇 が 象 徴 する 初 期 の 幻 想 物 語 が こうした 教 訓 をバル ザックにもたらしたと 言 う そして その 教 訓 から バルザックは ゴリオ 爺 さん や 幻 滅 を 象 徴 の 世 界 として 描 いたのである 自 分 はほんとうに 生 の 中 にいるという 感 情 を 人 は 持 っているが もし 知 覚 し 得 るものが 不 可 視 なるものの 象 徴 や 発 顕 でなかったら そうした 感 情 はもてないだろう なぜなら 生 というものは 自 然 主 義 作 家 たちが お 粗 末 にも 信 じたように その 直 接 的 な 外 観 に 限 られているのではない からだ 生 が 生 たりうるのは そのぐるりに すなわちその 真 上 とその 真 下 かなた 高 く また 低 くに とりわけその 内 部 に それを 越 えたな にものかが 考 えられまた 知 覚 される 時 だけである このように 生 をその 真 の 現 実 において 眺 めるためには 夢 想 を 喚 びおこす 時 よりもさらにい っそう 幻 視 の 力 を 備 えていなくてはならない 22) ベガンはまた チボーデの 言 った 人 間 喜 劇 は 父 なる 神 のまねびである 23) と いう 言 葉 に 重 要 性 を 見 出 す バルザックは この 現 実 社 会 を 不 可 視 なるものの 象 徴 や 発 顕 «le symbole et la manifestation de l invisible» ととらえ 神 の 御 業 を 理 解 - 31 -
するために その 模 倣 を 行 った 他 の ロマン 的 魂 が 夢 想 を 喚 びおこす にと どまったのに 対 し バルザックは 天 才 的 な 幻 視 の 力 をもって 生 をその 真 の 現 実 において 眺 め ようとしたのである むすびにかえて 以 上 我 々は アルベール ベガンの 二 大 著 書 ロマン 的 魂 と 夢 そして 幻 視 者 バルザック を 比 較 することによって ベガンの 思 想 を 理 解 しようと 努 めてきた では ベガンの 冒 険 とは 何 を 目 指 すものだったのだろうか ベガンの 親 友 であったマルセル レイモンは アルベール ベガンの 道 程 1930-1940 と 題 する アルベール ベガン 著 作 集 夢 の 現 実 の 序 文 において 次 の ように 述 べている ミスティックというものは 存 在 の 衰 退 にほかならない 時 «temps» から 解 放 されようとする と フェヌロンは 言 う 一 方 ベガンは 時 を 飛 び 越 え 時 の 中 で 時 によって «d un saut du temps, dans le temps, par le temps» 完 全 な 人 間 性 を 目 指 すことを 夢 見 る 24) レイモンは ベガンと 自 分 が やがて 訪 れる 戦 争 という 悪 夢 を 予 感 し 現 実 から 目 を 離 せないでいたと 語 っている その 中 で ベガンは ポエジーによる 現 実 の 変 容 を 目 指 した その 主 観 的 で 共 感 的 «sympathique» 25) な 批 評 活 動 は 暗 黒 の 時 代 を 目 前 にしたベガンの 切 羽 詰 った 選 択 だったのだろう ベガンは ロマン 的 魂 と 夢 の 序 論 において 次 のように 述 べている 客 観 性 というものは 記 述 的 諸 科 学 の 掟 であり おそらくそうでなけれ ばならないが それは 精 神 の 諸 科 学 を 有 効 に 支 配 することはできまい この 意 味 におけるいっさいの 私 心 をさしはさまない 活 動 は おのれ 自 身 と 研 究 される 対 象 とに 対 する 許 しがたい 背 反 を 要 求 するの だ 26) それゆえ ベガンは 体 系 的 な 書 物 をものしようとはせず 個 人 に 関 わる 避 けら れない 問 いの 存 在 を 実 感 する 27) ための 探 究 を 行 うべく 独 自 の 方 法 を 採 用 した それはまた 次 のような 信 念 に 裏 付 けられている - 32 -
これらのロマン 主 義 的 原 理 に わたしが 自 分 の 探 究 の 手 つづきを 一 致 させようと 試 みたのは わが 詩 人 たちと 哲 学 者 の 場 合 のように ひとが おのれのうちにあるものしか 識 りえず ロマン 主 義 についてはロマン 主 義 的 にしか 語 りえないことを わたしが 確 認 したからである ゲーテ 的 な 一 視 点 (だけ)からゲーテの 同 時 代 者 たちを 裁 こうとした あまりに も 多 くの 批 評 家 の 挫 折 が 共 感 以 外 の 方 法 に 対 して わたしを 警 戒 させ るのに 充 分 だったのかもしれない 28) 分 類 することも 定 義 を 下 すこともせず ただ 共 感 «la sympathie» という 方 法 のみに 拠 るベガンの 批 評 その 無 謀 とも 思 われる 企 てによって ベガンは ロマ ン 的 魂 に 寄 り 添 い バルザックの 奥 深 さを 見 出 した こうして ベガンが 意 図 し たこととは 新 たなテクストの 読 みへ さらなる 夢 想 へと 読 者 をいざなうことで あった 読 者 は ベガンに 導 かれ 詩 人 たちのテクストから われわれの 運 命 とい う 旋 律 を 他 のすべての 旋 律 のあいだから 耳 を 澄 まして 聞 き 取 る 29) 方 法 を 学 ぶ それは やがてやってくる 悪 夢 唯 一 の 現 実 となり 実 在 しないロマン 主 義 的 な 世 界 夢 の 世 界 にまで 侵 食 してくるだろう 悪 夢 30) の 予 感 に 導 かれ ベガンが 必 死 に 鳴 らした 警 鐘 であったのではないだろうか 今 必 要 なのは 不 可 視 なるも の を 分 析 することではなく 感 じることであり それが 全 体 主 義 的 思 考 から 解 放 される 方 法 なのだ アルベール ベガンは その 不 可 視 なるもの をめぐる 冒 険 を 通 して 我 々にそう 訴 えているように 思 われるのである - 33 -
注 1) De l identification critique chez Albert Béguin et Marcel Raymond par Georges Poulet dans Albert Béguin et Marcel Raymond, colloque de Cartigny, sous la direction de Georges Poulet, Jean Rousset, Jean Starobinski, Pierre Grotzer, José Corti, 1979, p.16. 2) Ibid., p.20. 3) «La communion recherchée par Béguin est en réalité une identification ; une identification avec les autres, avec tous les autres, et cela par l intermédiaire de tel ou tel poète qui lui sert de truchement ; car sans ce truchement, c est-à-dire sans une identification première avec une pensée individuelle, Béguin ne pourrait arriver à l identification seconde, collective, qui est pourtant chaque fois, explicitement ou de façon voilée, la fin poursuivie par toutes ses activités critiques.» (Ibid., pp.25-26.) 4) Albert Béguin, L Âme romantique et le rêve : essai sur le romantisme allemand et la poésie française, José Corti, 1991, pp.iii-iv. なお 同 書 の 邦 訳 は 小 浜 俊 郎 後 藤 信 幸 共 訳 を 参 照 させていただいた 5) ロマン 的 魂 と 夢 は 1937 年 学 位 論 文 として 提 出 Cahiers du Sud 社 より 二 巻 本 として 出 版 された 後 1939 年 緒 言 とともに 一 巻 にまとめられ José Corti 社 より 出 版 された 6) 幻 視 者 バルザック は 1946 年 Skira 社 より 出 版 されたが 同 書 の 巻 末 に は ベガン 自 身 によって 執 筆 年 が 1937 年 -1939 年 と 記 されている 7) Albert Béguin, L Âme romantique et le rêve, p.13. 8) Ibid., p.16. 9) Ibid., p.92. 10) Ibid., p.43. 11) Ibid., pp.71-72. 12) Ibid., p.54. 13) Ibid., p.55. 14) Ibid., p.539. 15) Ibid., p.39. 16) Cf., Albert Béguin, Poésie de la présence : de Chrétien de Troyes à Pierre Emmanuel, Baconnière, 1957. 17) Ibid., p.51. 18) Albert Béguin, Balzac visionnaire, l Âge d Homme, 2010, p.13. - 34 -
なお 同 書 の 邦 訳 は 西 岡 範 明 訳 を 参 照 させていただいた 19) Ibid., p.17. 20) Ibid., p.75. 21) Ibid., p.76. 22) Ibid., pp.76-77. 23) «Concurrence à l état civil est le terme extérieur et conventionnel qui implique, dans l intérieur et dans le réel, la collaboration avec le Créateur, et cette Imitation de Dieu le Père latente dans la Comédie Humaine.» (Albert Thibaudet, Histoire de la littérature français, CNRS, p.250.) 24) Marcel Raymond, Le cheminement d Albert Béguin 1930-1940, préface dans Albert Béguin, Création et Destinée II, La Réalité du rêve, Seuil, p.27. 25) Ibid., p.16. 26) Albert Béguin, L Âme romantique et le rêve, XIV. 27) Ibid., XV. 28) Ibid., XVII. 29) Ibid., XV. 30) Marcel Raymond, Le cheminement d Albert Béguin 1930-1940, p.26. - 35 -
L aventure pour «l invisible» d Albert Béguin «L âme romantique» et Balzac - Maiko TOKAI En comparant deux chefs-d œuvre d Albert Béguin, L Âme romantique et le rêve, et Balzac visionnaire, nous tenterons de démontrer son «identification critique». Dans la mesure où le critique juge que «l ignorance» est «notre véritable condition», il ne choisit que les poètes qui portent cette idée, la «présence» ; autrement dit, ce quelque chose que les hommes ne pourront jamais saisir. Il s identifie alors aux poètes qui recherchent «l invisible» dans le rêve, l inconscience, ou leur propre enfance. Parallèlement, il souligne une importance primordiale : «l invisible» doit se présenter dans la réalité visible. Et de fait, Béguin donne la primauté à Balzac en le qualifiant de «visionnaire». Il apprécie davantage les romans «réalistes» que les romans «idéalistes» chez le concurrent à l état civil, pour sa force de «visionnaire» susceptible de prévoir la «présence». A côté des autres poètes de «l âme romantique» qui poursuivirent la «présence» dans le rêve, le «visionnaire» s affronte alors à la réalité pour le dévoiler. En conclusion, les poètes de «l âme romantique», Balzac et Béguin, se sont attachés à nous exposer «le symbole et la manifestation de l invisible» sous le voile des poèmes, des romans et de la critique. - 36 -