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* 朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 1. はじめに 日 本 は1876 年 に 軍 隊 を 動 員 して 朝 鮮 を 強 制 的 に 開 港 させた 以 後 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 は 1945 年 8 月 に 日 本 帝 国 主 義 が 敗 戦 するまで 朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 先 鋒 であり 中 核 的 な 存 在 だった 日 本 の 国 力 が 対 外 侵 略 という 形 で 現 れる 場 合 軍 隊 は 常 に 侵 略 の 中 心 にあった しかも 1940 年 代 に 入 り 数 多 くの 朝 鮮 の 若 者 たちが 特 別 志 願 兵 学 兵 徴 兵 という 名 のもとに 戦 場 に 動 員 された したがって 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 の 動 きを 正 確 に 整 理 することは 日 本 の 軍 事 史 と 侵 略 史 を 解 明 するのに 大 きく 寄 与 する 作 業 であるばかりか 広 くは 韓 国 現 代 史 狭 くは 韓 国 近 現 代 軍 事 史 をよ り 広 く 深 く 理 解 する 礎 になる 研 究 である 本 稿 では 1880 年 から1945 年 まで 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 の 全 体 的 な 動 きを 整 理 した さら に 研 究 の 意 義 と 関 連 して 全 体 の 大 きな 枠 組 みから 研 究 動 向 を 整 理 した すなわち 日 本 軍 事 史 あるいは 日 本 近 代 史 の 領 域 において 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 に 関 する 研 究 は 海 外 の 他 の 駐 屯 軍 に 比 べて ほとんど 進 んでいないと 見 なされる 日 本 近 代 史 の 半 分 ほどが 対 外 侵 略 史 と 見 ら れるが その 侵 略 の 核 心 に 日 本 軍 があったにもかかわらず 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 に 関 する 研 究 がこれまでなかったのはなぜだろうか 日 本 近 代 史 全 体 からみると 対 外 侵 略 の 核 心 が 関 東 軍 支 那 派 遣 ( 駐 屯 ) 軍 または 太 平 洋 のあちこちに 駐 屯 していた 部 隊 だったのに 比 べ 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 はその 比 重 が 低 かった しかも 1980 年 代 ごろまで 日 本 近 代 史 研 究 において 経 済 史 研 究 以 外 の 学 問 分 野 の 中 で 植 民 地 を 大 きく 考 慮 したことはほとんどなかった 厳 しくいえば 日 本 近 代 史 の 領 域 では 植 民 地 が 抜 け 落 ちていたといっても 過 言 ではなく それは 戦 後 責 任 あるいは 植 民 地 支 配 の 責 任 を 自 覚 して 清 算 しようとする 努 力 が 足 りない 日 本 ( 人 )の 動 きとも 深 く 関 連 して いるといえよう ただし 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 に 関 する 研 究 は 主 に 朝 鮮 史 の 一 領 域 とし て わずかながら 進 められた 1 日 本 の 朝 鮮 侵 略 と 支 配 において もっとも 中 核 的 な 基 礎 は 物 理 力 であった それにもかかわら ず 韓 国 と 北 朝 鮮 では 軍 隊 と 警 察 を 正 面 から 研 究 した 博 士 学 位 論 文 はひとつとしてないのが 実 情 であり 研 究 書 では 軍 隊 を 研 究 した 林 鍾 国 の 成 果 がすべてである 2 特 に 侵 略 と 抵 抗 の 構 図 で 韓 国 近 代 史 を 説 明 してきた 韓 国 歴 史 学 界 の 接 近 方 法 を 考 慮 すると 軍 隊 と 警 察 に 関 する 研 究 がな かったのは 不 可 思 議 なことともいえる これは 資 料 の 限 界 が 決 定 的 だったと 思 われる しかし これだけではない 現 在 韓 国 の 軍 事 史 を 説 明 する 場 合 植 民 地 期 は 韓 国 光 復 軍 と 独 * 本 稿 は 辛 珠 柏 の 協 力 により 作 成 された 1 研 究 が 進 まなかったもう 一 つの 要 因 として 資 料 の 不 足 を 挙 げることができよう 数 量 的 に 正 確 なことは 言 えない が 関 東 軍 本 土 の 日 本 軍 支 那 派 遣 軍 などと 比 べて 朝 鮮 軍 が 直 接 作 った 各 種 報 告 書 等 は 期 待 するほど 多 く はないのが 実 情 である 2 林 鍾 国 日 本 軍 の 朝 鮮 侵 略 史 Ⅰ Ⅱ イルウォル 書 閣 ( 일본근의 조선침략사Ⅰ Ⅱ 일월서각) Ⅰ-1988 年 Ⅱ-1989 年 411

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 立 軍 の 武 装 闘 争 で 説 明 し これとの 連 続 性 で あるいはこれを 受 け 継 いだものとして 韓 国 現 代 軍 事 史 を 説 明 するやり 方 が 従 来 の 研 究 の 傾 向 である 3 しかし 日 本 は1938 年 に 朝 鮮 陸 軍 特 別 志 願 兵 制 度 を 実 施 して 以 来 朝 鮮 人 青 年 のうち 学 徒 志 願 兵 を 含 めて 約 2 万 の 志 願 兵 と 約 40 万 の 徴 兵 を 1945 年 8 月 まで 実 施 した 4 また 朴 正 煕 と 丁 一 権 に 象 徴 される 韓 国 の 大 統 領 と 陸 軍 参 謀 総 長 のう ち 多 くの 人 物 が 日 本 軍 あるいは 満 州 国 軍 の 出 身 だった 5 したがって 韓 国 現 代 史 や 韓 国 近 現 代 軍 事 史 を 正 確 に 解 明 するためにも 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 に 関 する 研 究 は 重 要 である それにも かかわらず これに 関 する 研 究 が 不 十 分 であったのは 資 料 の 限 界 が 大 きな 原 因 であろうが 親 日 の 残 滓 が 清 算 されていない 現 実 とともに 研 究 者 らの 問 題 意 識 が 希 薄 であったことも 見 逃 すことの できない 重 要 な 原 因 だったと 思 われる 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 に 関 する 研 究 は 大 きく2つに 要 約 することができるが 本 稿 では 当 初 の 企 画 意 図 にしたがって 日 本 軍 事 史 あるいは 日 本 の 朝 鮮 支 配 と 侵 略 という 側 面 に 焦 点 をあてて 叙 述 したい 6 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 は 大 まかに5つの 時 期 すなわち1904 年 前 後 1910 年 前 後 1919 年 前 後 1937 年 前 後 に 分 けることができる 本 稿 では これをそれぞれ 第 2-6 章 に 分 けて 各 章 の 第 1 節 で 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 の 任 務 と 編 成 に 関 して 叙 述 したい また 各 時 期 に 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 の 特 徴 的 な 行 動 のうち 朝 鮮 侵 略 や 支 配 と 関 連 する 事 柄 は 第 2 節 で 集 中 的 に 考 察 したい ところで 1882 年 に 公 使 館 の 随 行 員 として 日 本 軍 が 朝 鮮 にきてから1945 年 までの 間 に これらに 対 する 名 称 は 様 々であった 例 えば 公 使 館 守 備 隊 韓 国 駐 箚 軍 朝 鮮 駐 箚 軍 朝 鮮 軍 第 17 方 面 軍 朝 鮮 軍 管 区 司 令 部 などがあり 日 本 軍 の 用 語 を 借 りれば 朝 鮮 駐 箚 軍 までは 駐 箚 部 隊 であ り 朝 鮮 軍 からは 駐 屯 部 隊 であった 7 本 稿 では 理 解 の 必 要 性 から 部 隊 の 名 称 と 性 格 を 具 体 的 に 明 示 しなければならない 場 合 を 除 いては 叙 述 の 便 宜 上 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 とする 2. 日 本 軍 の 韓 半 島 駐 屯 過 程 (1880-1904 年 ) 1) 日 本 軍 の 朝 鮮 侵 略 の 開 始 江 華 島 条 約 ( 日 朝 修 好 条 規 ) 以 後 日 本 軍 が 朝 鮮 に 足 を 踏 み 入 れたのは 1880 年 にソウルに 日 本 国 公 使 館 が 開 設 されたときに 随 行 員 として 一 部 の 人 が 同 行 してからであった 8 1882 年 7 月 に 壬 午 軍 乱 に 対 する 後 続 措 置 として 締 結 された 済 物 浦 条 約 を 契 機 に 公 使 館 守 備 隊 が 部 隊 としてソウ ルに 駐 屯 するようになった 当 時 の 日 本 軍 は1 個 大 隊 で 翌 年 に1 個 中 隊 に 縮 小 された 主 権 国 家 3 筆 者 が 確 認 した 代 表 的 な 概 説 書 は 金 弘 編 著 韓 国 の 軍 制 史 (한국의 군제사) 学 研 文 化 社 2001 年 である 4 吉 田 俊 隈 朝 鮮 軍 歴 史 別 冊 朝 鮮 人 志 願 兵 徴 兵 の 梗 概 22 頁 吉 田 俊 隈 は 朝 鮮 軍 徴 兵 主 任 参 謀 を 歴 任 した 人 物 である 5 韓 ヨンウォン 韓 国 軍 の 形 成 過 程 における 日 本 軍 出 身 のリーダーシップ 掌 握 とその 影 響 韓 国 近 現 代 史 と 親 日 派 問 題 アジア 文 化 社 (한용원 한국군의 형성과정에서 일본군 출신의 리더쉽 장악과 그 영향 한국 근현대사와 친일파문제 아세아문화사) 2000 年 6 二 つ 目 の 研 究 の 意 義 に 関 連 しては 今 後 検 討 するものとしたい 7 駐 箚 部 隊 は 指 揮 部 や 本 部 が 本 土 にあり 特 定 の 期 間 派 遣 部 隊 の 形 式 で 朝 鮮 に 駐 屯 した 場 合 を 言 い 駐 屯 部 隊 は 指 揮 部 や 本 部 が 朝 鮮 にあり 常 駐 部 隊 の 場 合 を 指 す 8 金 正 明 編 日 韓 外 交 史 料 集 成 別 冊 - 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 巖 南 堂 書 店 6-7 頁 ( 以 下 では 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 と 略 す) 412

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 の 首 都 に 外 国 の 部 隊 が 駐 屯 することとなったのである 日 本 軍 は 南 山 の 北 側 の 麓 を 拠 点 に 南 山 洞 苧 洞 などの 一 帯 を 占 有 し 日 本 人 が 影 響 力 を 拡 大 するのに 強 固 な 背 景 となった ところで 当 時 のソウルには 清 国 軍 隊 も 駐 屯 しており 朝 鮮 に 対 する 主 導 権 をめぐって 競 争 が 生 じた 3 千 人 余 りに 達 する 清 国 軍 隊 に 比 べて その20 分 の1にすぎないほど 小 さな 規 模 だった 日 本 軍 としては 1884 年 10 月 に 起 きた 甲 申 政 変 の 後 援 勢 力 となることは 不 可 能 であった 政 変 が 失 敗 に 終 わった 後 井 上 馨 特 派 大 使 は1885 年 1 月 に 陸 軍 2 個 大 隊 と 軍 艦 3 隻 を 率 いて 朝 鮮 に 到 着 し 朝 鮮 政 府 に 漢 城 条 約 の 締 結 を 迫 った 5か 条 からなる 条 約 の 内 容 により 日 本 軍 1 個 大 隊 が 公 使 館 警 備 を 担 当 するという 名 分 で 増 派 された 同 年 4 月 に 伊 藤 博 文 は 李 鴻 章 と 会 談 して 天 津 条 約 を 締 結 し 4ヶ 月 以 内 の 両 国 軍 隊 の 朝 鮮 からの 撤 退 を 約 束 した 特 に 条 約 では 朝 鮮 に 重 大 な 変 乱 や 事 件 が 起 き 軍 隊 の 出 動 が 発 生 する 場 合 あらかじめ 相 手 国 に 通 報 しなければならず その 変 乱 や 事 件 が 沈 静 化 したら 即 刻 撤 収 することに 合 意 した これにより 日 本 は 朝 鮮 に 対 して 清 国 と 同 等 の 権 利 を 行 使 できる 外 交 成 果 を 得 た 9 日 本 軍 は 天 津 条 約 に 基 づいて1885 年 6 月 に 撤 収 した 1894 年 には 湖 南 地 方 を 中 心 に 東 学 農 民 軍 が 蜂 起 した 彼 らの 気 勢 は 中 央 政 府 を 恐 れさせるほ どであった 日 本 は 清 国 が 天 津 条 約 に 違 反 したという 名 分 をたて 5 月 4 日 に 清 国 側 に 朝 鮮 出 兵 を 通 告 した その 後 歩 兵 第 11 連 隊 を 先 発 として 5 千 人 余 りの 日 本 軍 が 朝 鮮 半 島 に 駐 屯 した 日 本 軍 の 中 核 兵 力 は 東 学 農 民 軍 の 拠 点 に 近 接 した 忠 南 牙 山 に 主 に 駐 屯 した 清 国 の 軍 隊 とは 異 なり 主 に 仁 川 とソウルに 配 置 された 日 本 側 は 領 事 館 と 居 留 民 保 護 を 打 ち 出 したが 実 際 は 朝 鮮 政 府 の 日 本 反 対 勢 力 を 除 去 し 朝 鮮 を 支 配 して 朝 鮮 において 清 国 より 優 越 した 地 位 を 確 保 するため であった 10 実 際 に 日 本 軍 は6 月 21 日 の 早 朝 に 景 福 宮 を 包 囲 し 大 院 君 を 立 てて 内 政 改 革 を 迫 った 日 本 は 閔 氏 戚 族 政 権 を 倒 して 金 弘 集 を 領 議 政 とする 親 日 開 化 派 政 権 を 樹 立 し 甲 午 改 革 を 実 施 した 日 本 は 清 国 軍 隊 との 開 戦 の 名 分 を 確 保 するため 朝 鮮 政 府 をして 清 国 軍 隊 の 駆 逐 を 依 頼 する 公 式 文 書 を 自 らに 送 るように 強 要 した 当 時 の 日 本 の 大 本 営 は 7 月 19 日 付 で 清 国 軍 増 派 せば 独 断 ことを 処 すべし と 開 戦 許 可 を 下 した 状 態 だった 高 宗 は 日 本 の 強 要 を 受 け 入 れなかったが 1894 年 7 月 23 日 の 朝 鮮 王 宮 に 対 する 威 脅 的 運 動 計 画 により 日 本 軍 は 景 福 宮 を 占 領 し 閔 氏 戚 族 勢 力 を 完 全 に 追 い 出 した 後 大 院 君 の 助 けを 借 りて 朝 鮮 政 府 を 確 実 に 掌 握 することになった 11 その 後 日 本 軍 は 清 国 との 戦 争 において 朝 鮮 政 府 を 思 い 通 りに 動 かすことができた 12 9 韓 チョ ルホ 壬 辰 倭 乱 以 後 284 年 ぶりの 日 本 軍 の 再 登 場 李 ジェボムほか 韓 半 島 の 外 国 軍 駐 屯 史 中 心 (한철호 임진왜란 이후 284년 만의 일본군 재등장 이재범 외 지음 한반도의 외국군 주둔사 중심) 2001 年 222 頁 10 チョ ジェゴン 日 清 戦 争 に 対 する 農 民 軍 の 認 識 と 対 応 韓 国 歴 史 研 究 会 1894 年 の 農 民 戦 争 の 研 究 4 (조재곤 청일정쟁에 대한 농민군의 인식과 대응 한국역사 연구회 지음 1894년 농민전쟁연구4 ) 歴 史 批 評 社 1995 年 452 頁 11 李 サンウン 中 塚 明 ( 朴 孟 洙 訳 ) 1894 年 景 福 宮 を 占 領 せよ プルンヨクサ(이상은 나카츠카 아키라 지음 박맹수 옮김 1894년 경복궁을 점령하라 푸른역사) 2002 年 60-88 頁 を 参 照 12 < 表 > 日 清 戦 争 期 (1894-1895 年 )の 日 本 軍 の 現 況 釜 山 守 備 隊 1894 年 6 月 から 歩 兵 第 21 連 隊 第 8 中 隊 が 担 当 後 に 洛 東 電 線 警 備 隊 と 呼 ばれる 同 年 10 月 6 日 には 後 備 歩 兵 第 10 連 隊 第 4 中 隊 に 交 代 1896 年 2 月 まで 存 続 413

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 2) 韓 国 駐 箚 隊 司 令 部 の 編 成 (1903 年 ) 日 清 戦 争 に 勝 利 した 日 本 は 朝 鮮 において 清 国 を 完 全 に 排 除 し 朝 鮮 政 府 を 支 配 した しかし 明 成 皇 后 ( 閔 妃 )らの 抵 抗 は 依 然 として 障 害 であった 1895 年 10 月 に 日 本 は 明 成 皇 后 を 殺 害 し 断 髪 令 を 実 施 した これに 反 発 する 乙 未 義 兵 に 対 して 2 個 大 隊 を 動 員 して 鎮 圧 した 朝 鮮 が 日 本 のものになったと 判 断 しつつあった1896 年 2 月 に 高 宗 はロシア 公 使 館 に 逃 げ 出 し た 日 本 は 高 宗 の 俄 館 播 遷 によって 確 保 した 既 得 権 を 一 瞬 にして 失 ってしまう 危 機 に 直 面 した 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 の 運 命 は 同 年 5 月 にロシアと 日 本 の 間 で 締 結 された 小 村 ウェーバー 覚 書 によって 決 定 された 13 すなわち ロシア 軍 との 同 数 原 則 によって 日 本 軍 は 以 前 に 比 べて 半 数 に 減 らされ 4 個 中 隊 に200 人 余 りの 憲 兵 が 駐 屯 することとなった 14 これ 以 降 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 は1 年 ごとに 交 代 するようになり 1903 年 12 月 には 韓 国 駐 箚 隊 司 令 部 がソウルに 設 置 された 15 日 本 軍 の 立 場 からみれば 外 交 状 況 によって 振 り 回 されずに 指 揮 体 系 を 安 定 化 し 兵 力 を 計 画 的 に 運 用 できるようになったのである これらは 在 朝 日 本 人 の 保 護 と 電 信 および 鉄 道 警 備 などを 主 として 担 当 した しかしながら 現 実 的 には 大 韓 帝 国 という 主 権 国 家 に 日 本 軍 があることにより 日 本 が 内 政 干 渉 する 余 地 が 一 層 広 がったといえよう 3. 大 韓 帝 国 植 民 地 化 の 先 鋒 韓 国 駐 箚 軍 (1904-1910 年 ) 1) 日 露 戦 争 と 韓 国 駐 箚 軍 の 編 成 (1904 年 ) 1904 年 2 月 6 日 に 日 本 はロシアとの 交 渉 を 中 断 すると 同 時 に 韓 国 臨 時 派 遣 隊 を 編 成 し 韓 国 に 派 遣 した ソウルを 作 戦 の 拠 点 として 先 占 するために 派 遣 された 韓 国 臨 時 派 遣 隊 は 8 日 に 仁 川 に 到 着 した これに 続 いて 翌 日 には 日 本 海 軍 が 仁 川 沖 のロシア 艦 隊 を 撃 沈 し 日 露 戦 争 が 開 戦 した 朝 鮮 で 軍 事 的 優 位 を 先 占 した 日 本 は 2 月 23 日 に 大 韓 帝 国 政 府 に 迫 り 日 韓 議 定 書 を 締 結 した これにより 大 韓 帝 国 政 府 は 日 本 軍 が 要 求 するすべての 便 宜 を 提 供 するように 強 要 されはじめた 日 本 は1904 年 3 月 10 日 に 東 京 で 韓 国 駐 箚 軍 の 編 制 を 決 定 し 司 令 部 の 編 成 を 完 了 した 駐 箚 軍 隷 下 には 歩 兵 6 個 大 隊 半 兵 站 監 部 臨 時 軍 用 鉄 道 監 部 駐 箚 憲 兵 隊 駐 箚 電 信 隊 駐 箚 病 院 などがあった 最 初 韓 国 駐 箚 軍 が 管 轄 する 管 区 は 大 同 江 から 陽 徳 徳 原 を 結 ぶ 以 南 地 域 で 仁 川 兵 站 守 備 隊 同 年 6 月 から 歩 兵 第 21 連 隊 第 11 中 隊 騎 兵 7 騎 が 担 当 8 月 中 旬 に 歩 兵 第 22 連 隊 第 5 中 隊 と 交 代 同 年 10 月 6 日 には 後 備 歩 兵 第 6 連 隊 第 6 中 隊 と 交 代 日 清 戦 争 後 に 解 体 龍 山 兵 站 守 備 隊 同 年 6 月 から 歩 兵 第 11 連 隊 第 3 中 隊 騎 兵 5 騎 が 担 当 8 月 中 旬 に 歩 兵 第 12 連 隊 第 12 中 隊 と 交 代 10 月 4 日 から 仁 川 を 含 めて 後 備 歩 兵 第 6 連 隊 第 6 中 隊 と 交 代 日 清 戦 争 後 に 解 体 京 城 守 備 隊 同 年 6 月 から 歩 兵 第 11 連 隊 第 1 大 隊 ( 第 3 中 隊 欠 )および 騎 兵 5 騎 が 配 置 同 年 8 月 か ら 歩 兵 第 22 連 隊 第 2 大 隊 ( 第 5 中 隊 欠 )と 交 代 同 年 10 月 6 日 から 同 22 連 隊 第 7 中 隊 の み 残 して 11 月 初 めに 後 備 歩 兵 第 18 大 隊 が 交 代 した 臨 津 鎮 独 立 支 隊 歩 兵 少 佐 の 山 口 圭 蔵 が 指 揮 する 歩 兵 第 21 連 隊 第 2 大 隊 ( 第 7 8 中 隊 欠 )および 同 第 2 中 隊 騎 兵 1 小 隊 砲 兵 第 5 中 隊 (1 小 隊 欠 ) 工 兵 1 小 隊 が 配 置 元 山 守 備 隊 1894 年 9 月 25 日 から 新 たに 後 備 歩 兵 第 6 連 隊 第 2 中 隊 が 配 置 された 原 典 : 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 12-20 頁 13 外 務 省 編 朝 鮮 問 題 に 関 する 日 露 両 代 表 者 間 覚 書 日 本 外 交 年 表 竝 主 要 文 書 上 174-175 頁 14 林 鍾 国 前 掲 書 Ⅰ 84-85 頁 414

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 日 露 戦 争 の 主 戦 線 が 次 第 に 満 州 に 移 るにつれて 5 月 ごろには 鴨 緑 江 辺 まで 拡 大 した 1905 年 1 月 には 韓 国 駐 箚 軍 隷 下 に 鴨 緑 江 軍 が 編 成 され 西 北 地 方 と 鴨 緑 江 一 帯 に 駐 屯 したが 主 戦 線 が 満 州 に 移 動 するのにともない 鴨 緑 江 軍 は4 月 に 満 州 軍 総 司 令 部 の 隷 下 に 編 入 された 16 戦 争 の 渦 中 において 日 本 軍 は 部 隊 の 給 養 を 可 能 な 限 り 地 方 物 資 で 賄 おうとしたため 物 資 と 人 力 牛 馬 の 徴 用 などを 朝 鮮 人 に 強 要 し 多 くの 負 担 を 負 わせた 17 1905 年 9 月 に 休 戦 が 成 立 し 10 月 にポーツマス 条 約 が 締 結 された 日 本 は 条 約 を 通 じて 大 韓 帝 国 に 対 する 独 占 的 地 位 をロシアから 認 定 された これにより 日 本 はただちに 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 を 平 時 編 制 に 再 編 し 咸 興 に 司 令 部 を 置 く 第 13 師 団 と 平 壌 に 司 令 部 を 置 く 第 15 師 団 を 駐 箚 させ その 後 もロシアを 牽 制 するために 咸 鏡 道 を 中 心 とするソウル 以 北 に 兵 力 を 集 中 配 置 した 他 方 ソウル 以 南 の 南 部 地 方 には 歩 兵 第 30 旅 団 を 配 置 した 日 本 は 朝 鮮 に 対 する 独 占 的 地 位 を 国 際 社 会 から 確 保 し ひいては 軍 事 的 措 置 まで 完 了 すると 1905 年 12 月 に 大 韓 帝 国 政 府 に 強 要 して 乙 巳 条 約 を 結 び 翌 年 2 月 から 統 監 府 を 運 営 した 伊 藤 初 代 統 監 は 民 間 人 の 身 分 にも 関 わらず 韓 国 駐 箚 軍 に 対 する 軍 令 権 を 持 っていた 18 これ は1919 年 の3 1 運 動 のときまで 適 用 された 条 項 であり 軍 隊 を 前 面 に 立 てて 対 外 侵 略 を 繰 り 広 げた 日 本 の 特 徴 を 端 的 にあらわした 条 項 である 伊 藤 統 監 は 軍 隊 の 代 わりに 民 間 人 警 察 力 を 拡 張 し 軍 事 上 必 要 のない 地 点 に 顧 問 警 察 を 配 置 し 大 韓 帝 国 の 治 安 を 維 持 する 考 えであった 19 このた め 大 韓 帝 国 の 内 部 所 属 の 警 務 書 ( 道 ) 傘 下 に 警 務 分 署 と 分 派 所 を 相 次 いで 新 設 した 反 面 憲 兵 隊 は1906 年 10 月 29 日 に 韓 国 駐 箚 憲 兵 隊 をあらため 第 14 憲 兵 隊 に 改 称 縮 小 された また 日 本 は 軍 費 の 削 減 などを 理 由 に 2 個 師 団 以 上 を 朝 鮮 に 駐 屯 させる 理 由 もなかった そこで 1907 年 3 月 までに 第 15 師 団 を 復 帰 させ 第 13 師 団 だけを 残 した 第 13 師 団 は 師 団 司 令 部 と1 個 連 隊 を 除 い た 全 兵 力 をソウル 以 北 に 配 置 し 憲 兵 隊 も1907 年 6 月 現 在 284 人 の 憲 兵 のうち 全 州 と 釜 山 の 分 隊 そして 清 州 と 仁 川 の 分 遣 所 を 合 わせた59 人 を 除 く 全 ての 兵 力 をソウルとその 以 北 に 配 置 した 韓 国 駐 箚 軍 は 兵 力 の 縮 小 にもかかわらず ソウルとその 以 北 に 兵 力 を 重 点 配 置 する 基 本 方 針 を 変 え なかったのである なぜなら 日 本 軍 は 第 一 の 仮 想 敵 国 としてロシアを 想 定 し 将 来 ロシアを 相 手 に 満 州 とウスリー 方 面 で 作 戦 する 計 画 だったためである 20 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 が 対 露 対 ソ 作 戦 から 対 米 作 戦 を 中 心 に 作 戦 任 務 を 転 換 した1945 年 1 月 まで この 配 置 方 針 は 変 わらなかっ た 21 1907 年 7 月 には 丁 未 条 約 が 締 結 され 8 月 1 日 付 で 大 韓 帝 国 の 軍 隊 が 日 本 によって 解 散 させら れた 実 際 には 日 本 による 大 韓 帝 国 の 軍 事 力 を 無 力 化 させようという 動 きは 1904 年 8 月 に 野 津 15 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 21 頁 16 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 25 頁 27 頁 17 韓 国 駐 箚 軍 陣 中 紀 要 ( 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 の 所 蔵 資 料 ) 18 勅 令 第 267 号 統 監 府 および 理 事 庁 官 制 (1905.12) ; 勅 令 第 205 号 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 条 例 (1906.7.31) 大 韓 民 国 国 会 図 書 館 統 監 府 法 令 資 料 集 上 1972 年 2 頁 31-32 頁 19 松 井 茂 目 醒 め 行 く 朝 鮮 民 族 へ 朝 鮮 統 治 の 回 顧 と 批 判 新 朝 鮮 新 聞 社 110 頁 詳 細 は 松 田 利 彦 朝 鮮 植 民 地 化 の 過 程 における 警 察 機 構 (1904-1910 年 ) 朝 鮮 史 研 究 会 論 文 集 31 号 1993 年 を 参 照 20 防 衛 庁 防 衛 研 修 所 戦 史 室 大 本 営 陸 軍 部 <1> 1967 年 158-162 頁 21 これについては 辛 珠 柏 1945 年 の 韓 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 歴 史 と 現 実 ( 1945년 415

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 鎮 武 中 佐 が 軍 部 顧 問 になってからのことであった すなわち 野 津 中 佐 は1904 年 9 月 に 軍 令 機 関 と しての 元 帥 部 の 機 能 を 喪 失 させ 代 わりに 軍 部 の 役 割 を 強 化 しつつ 大 韓 帝 国 の 軍 事 権 を 軍 部 顧 問 の 手 中 においた 一 方 財 政 紊 乱 を 解 消 するという 名 分 のもと 1905 年 4 月 と1907 年 4 月 に 中 央 の 侍 衛 隊 と 地 方 の 鎮 衛 隊 を 縮 小 する 軍 制 改 編 を 強 行 した その 結 果 1908 年 の 軍 隊 解 散 当 時 大 韓 帝 国 の 軍 人 は 編 制 上 8,700 人 に 過 ぎなかった 22 日 本 は 丁 未 条 約 と 軍 隊 解 散 に 対 する 朝 鮮 人 の 反 発 を 予 想 して 条 約 締 結 当 日 歩 兵 第 12 旅 団 に 朝 鮮 への 移 動 を 指 示 した 派 遣 部 隊 は 主 に 釜 山 ソウル 平 壌 間 の 鉄 道 沿 線 に 配 置 されたが 義 兵 闘 争 の 急 激 な 拡 大 を 阻 止 することはできなかった これに 対 して 韓 国 駐 箚 軍 司 令 官 の 長 谷 川 好 道 は 9 月 7 日 付 の 布 告 で 滅 盡 の 手 段 として 義 兵 と 良 民 を 区 別 せず 便 宜 を 図 った 人 物 も 罪 を 問 うと 宣 言 した 23 続 いて 日 本 は9 月 26 日 に 再 び 臨 時 派 遣 騎 兵 隊 を 編 成 して 主 にソウル 以 南 に 配 置 し 12 月 ごろには 北 中 西 南 部 守 備 管 区 制 を 南 北 部 の 守 備 管 区 制 に 変 えて 兵 力 を 分 散 配 置 した 24 義 兵 が 出 現 した 全 ての 場 所 で 具 体 的 な 弾 圧 作 戦 を 繰 り 広 げようと 意 図 したもの である また 日 本 は 憲 兵 隊 改 編 から 一 年 後 の1907 年 10 月 に 第 14 憲 兵 隊 を 再 び 韓 国 駐 箚 憲 兵 隊 と 改 称 し 機 関 と 兵 力 を 大 幅 に 増 強 し 1908 年 1 月 には 憲 兵 分 遣 所 を 約 460ヵ 所 に 設 置 し それら に2,074 人 を 分 散 配 置 した 25 それにもかかわらず 義 兵 は 鎮 圧 されるどころか むしろ 高 揚 していった 26 これに 対 して 統 監 府 は1908 年 5 月 2 日 に 軍 警 察 関 係 者 らと 会 し 統 監 府 会 議 を 開 いた 27 会 議 では 本 国 に 兵 力 を 再 び 派 遣 してもらうよう 要 請 し 憲 兵 補 助 員 制 度 を 実 施 して 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 を 中 心 に 指 揮 権 を 統 一 することを 決 定 した また 警 備 電 話 をさらに 拡 張 し 言 論 報 道 を 積 極 的 に 統 制 することを 決 定 した 28 この 会 議 においてさらに 注 目 される 点 は 強 硬 な 弾 圧 作 戦 一 辺 倒 で 作 戦 を 展 開 するので はなく 義 兵 捕 虜 を 道 路 工 事 に 投 入 したり 帰 順 政 策 を 積 極 的 に 実 施 するなど 宥 和 戦 略 も 並 行 した 新 しい 作 戦 は 効 果 があった 江 原 道 慶 尚 北 道 の 北 部 京 畿 道 黄 海 道 一 帯 で 活 動 してい た 義 兵 闘 争 の 熱 気 が 冷 めていったためである ところが 湖 南 地 方 の 義 兵 活 動 は1908 年 下 半 期 に 入 っても 冷 めやらなかった むしろ 全 国 的 な 義 兵 闘 争 の 熱 気 を 主 導 した これに 対 して 日 本 陸 軍 は1907 年 12 月 に 臨 時 に 決 定 した 南 部 守 備 管 区 を 制 度 化 し 1909 年 5 月 4 日 には 南 部 地 方 に 駐 屯 する 臨 時 韓 国 派 遣 隊 司 令 部 を 編 成 した 司 令 部 傘 下 に2 個 連 隊 総 員 1,916 人 を 編 成 し 大 隊 以 上 を 常 駐 させ 弾 圧 作 戦 を 持 続 かつ 安 定 한반도에서 일본군의 본토결전 준비 역사와 현실 ) 49 号 2003 年 を 参 照 22 詳 しい 内 容 は ソ インハン 大 韓 帝 国 の 軍 事 制 度 ヘアン(서인한 대한제국의 군사제도 혜안) 2000 年 の 第 5 章 を 参 照 23 福 岡 日 日 新 聞 1907 年 9 月 13 日 付 24 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 106-107 頁 守 備 管 区 は 守 備 区 の 上 位 単 位 である 25 朝 鮮 憲 兵 隊 歴 史 (1906.10-1908.12)2 168 頁 26 この 具 体 的 な 統 計 は 韓 国 駐 箚 憲 兵 隊 賊 徒 ノ 近 況 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 編 明 治 40-42 年 暴 徒 討 伐 概 況 ( 千 代 田 史 料 623)を 参 照 27 会 議 の 詳 しい 内 容 は 辛 珠 柏 湖 南 義 兵 に 対 する 日 本 軍 憲 兵 警 察 の 弾 圧 作 戦 (호남의병에 대한 일본군 헌병경찰의 탄압작전) 歴 史 教 育 87 号 2003 年 224-230 頁 を 参 照 28 詳 しい 内 容 は 辛 珠 柏 湖 南 義 兵 に 対 する 日 本 軍 憲 兵 警 察 の 弾 圧 作 戦 歴 史 教 育 87 号 2003 年 225-230 頁 を 参 照 第 23 27 連 隊 が 派 遣 され 4,009 人 の 朝 鮮 人 補 助 員 が 採 用 された 416

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 的 に 指 揮 しようとした 1909 年 6 月 現 在 の 韓 国 駐 箚 軍 の 守 備 区 域 を 簡 略 して 表 示 すれば 後 掲 の < 地 図 1>の 通 りである 新 たに 編 成 された 臨 時 韓 国 派 遣 隊 司 令 部 は 特 段 の 作 戦 を 構 想 しはじめた それがまさに 南 韓 大 討 伐 作 戦 である 弾 圧 作 戦 は1909 年 9 月 から10 月 の 間 に 行 われたが 国 内 で 展 開 された 組 織 的 な 義 兵 闘 争 は この 時 を 起 点 に 事 実 上 終 わった そのことは 当 時 まで 存 在 していた 組 織 的 な 抗 日 闘 争 勢 力 が 国 内 から 消 え 失 せたことを 意 味 している このため 1910 年 6 月 に 日 本 は 何 のは ばかりもなく 委 託 という 名 のもとに 大 韓 帝 国 の 警 察 権 まで 奪 い 取 ることができた これにより 1909 年 3 月 適 当 な 時 期 に 韓 国 を 併 合 できるよう 準 備 するという 日 本 内 閣 の 方 針 が 事 実 上 完 了 した 29 2) 義 兵 運 動 に 対 する 弾 圧 作 戦 統 監 府 と 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 が 義 兵 闘 争 勢 力 を 弾 圧 する 対 策 は 大 きく3つの 時 期 に 分 けられる 初 めて 乙 巳 義 兵 が 起 こってから1908 年 5 月 ごろまでは 軍 隊 を 動 員 して 義 兵 を 弾 圧 することもあっ たが 小 隊 や 中 隊 単 位 で 移 動 し 弾 圧 一 辺 倒 で 作 戦 を 行 った 弾 圧 作 戦 も 軍 憲 兵 警 察 によっ て 各 々であった しかし 1908 年 5 月 の 統 監 府 会 議 を 契 機 に 強 硬 一 辺 倒 の 弾 圧 作 戦 は 廃 棄 され 懐 柔 戦 術 も 弾 圧 作 戦 に 加 えられただけではなく 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 が 弾 圧 作 戦 の 中 心 に 位 置 づ けられ 第 一 線 に 現 れた これ 以 降 警 察 は 情 報 収 集 と 地 方 治 安 活 動 に 注 力 するようになった 新 し い 弾 圧 作 戦 の 結 果 統 監 府 と 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 はある 程 度 の 効 果 をあげたが 湖 南 地 方 では 例 外 だった 30 湖 南 地 方 で 義 兵 闘 争 が 持 続 した 原 因 を 挙 げると 第 一 に 韓 国 駐 箚 軍 は 中 部 地 方 に 集 中 して いた 一 方 湖 南 の 軍 兵 力 は 基 本 的 に 少 なかった 第 二 に 湖 南 地 方 での 韓 国 駐 箚 軍 の 作 戦 は 分 散 的 であったり その 上 威 力 を 誇 示 する 示 威 的 な 行 動 にとどまる 場 合 も 多 かった 第 三 に 湖 南 義 兵 は 優 れた 偽 装 活 動 を 行 い 統 治 機 関 の 力 が 弱 い 場 所 ばかりを 選 んで 攻 撃 した 第 四 に 大 部 分 の 湖 南 義 兵 部 隊 は 大 韓 帝 国 軍 隊 の 解 散 兵 と 直 接 的 なつながりはなく 自 らの 出 身 地 域 を 中 心 に 確 固 たる 支 持 基 盤 を 持 っていた 31 南 韓 大 討 伐 作 戦 の 指 揮 者 である 臨 時 韓 国 派 遣 隊 司 令 官 の 渡 邊 水 哉 は それまでの 弾 圧 作 戦 が 部 分 討 伐 又 ハ 小 規 模 計 劃 ニ 依 ル 掃 蕩 だったために 義 兵 が 右 逃 左 徒 ノ 策 ニ 乗 じることがで きたと 指 摘 し 地 区 別 作 戦 が 義 兵 にとって 時 日 ヲ 遷 延 セシメ 急 速 ニ 効 果 を 収 メ 難 ク あると 判 断 し た 32 韓 国 駐 箚 軍 は 以 前 のように 義 兵 の 出 没 地 域 ごとに 作 戦 を 行 うのではなく 湖 南 義 兵 を 他 の 地 方 の 義 兵 から 分 離 孤 立 させ 大 規 模 兵 力 を 一 気 に 動 員 し 湖 南 という 限 られた 空 間 を 徐 々に 29 外 務 省 編 韓 国 併 合 に 関 する 件 (1909.3.30) 日 本 外 交 年 表 竝 主 要 文 書 上 1965 年 315-316 頁 30 本 稿 では 義 兵 全 体 に 対 する 日 本 軍 の 弾 圧 作 戦 を 把 握 するのが 難 しいため 弾 圧 作 戦 がもっとも 総 合 的 かつ 特 徴 的 だった 南 韓 大 討 伐 作 戦 についてのみ 考 察 したい 日 本 の 軍 憲 兵 警 察 は 1906-1911 年 の 義 兵 弾 圧 の 渦 中 で136 人 が 死 亡 し 277 人 が 負 傷 した 義 兵 は17,779 人 が 殺 され 3,706 人 が 負 傷 し 2,139 人 が 逮 捕 された ( 朝 鮮 駐 箚 軍 司 令 部 朝 鮮 暴 徒 討 伐 誌 1913 年 の 付 表 より) 31 詳 しい 内 容 は 前 掲 の 辛 珠 柏 湖 南 義 兵 に 対 する 日 本 軍 憲 兵 警 察 の 弾 圧 作 戦 87 号 232-233 頁 を 参 照 32 臨 時 韓 国 派 遣 隊 司 令 部 南 韓 暴 徒 大 討 伐 概 況 韓 国 駐 箚 軍 司 令 部 編 明 治 40-42 年 暴 徒 討 伐 概 況 417

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 狭 めていき 集 中 的 に 義 兵 を 弾 圧 する 新 しい 弾 圧 作 戦 を 樹 立 した 33 これを 具 体 的 にみると 臨 時 韓 国 派 遣 隊 司 令 部 が 立 てた 弾 圧 作 戦 の 基 本 は 9 月 1 日 から 各 中 隊 の 最 小 限 の 警 備 人 員 を 除 い た 全 ての 兵 力 を 動 員 し だいたい40 日 間 で 全 北 の 長 萃 島 扶 安 泰 仁 葛 潭 南 原 慶 南 の 花 開 河 東 高 浦 をつなぐ 南 西 地 域 から(< 地 図 2>の a - a ) 義 兵 がもっとも 活 発 に 活 動 する 地 域 を 中 心 に 村 落 田 畑 森 林 山 岳 を 区 分 せずに 捜 索 し 木 浦 を 最 終 目 的 地 として 西 海 岸 および 南 海 岸 と 島 嶼 地 域 まで 南 下 するというものだった このとき 臨 時 韓 国 派 遣 隊 は 作 戦 地 域 を 大 きく2 つに 分 けたが 全 北 の 契 樹 駅 から 天 然 の 境 界 線 である 栄 山 江 に 沿 って 木 浦 までを 両 分 し その 以 西 地 域 を 第 1 連 隊 以 東 地 域 を 第 2 連 隊 に 分 担 させた(< 地 図 2>の ㄱ - ㄱ ) さらに 動 員 された 兵 力 に 比 べて 2つの 作 戦 地 域 が 広 範 囲 にわたったために 作 戦 時 期 を 大 きく 三 段 階 に 区 分 し 徐 々に 内 陸 から 南 海 岸 と 南 西 海 岸 の 方 向 に 移 動 するという 計 画 だった(< 地 図 2>の a - a > c - c ) 同 時 に 海 岸 および 第 1 2 連 隊 の 境 界 である 栄 山 江 流 域 そして 蟾 津 江 流 域 の 渡 河 予 想 地 点 に 必 要 な 監 視 兵 を 配 置 し 包 囲 線 の 外 への 義 兵 の 移 動 を 警 戒 した 作 戦 の 結 果 9 月 の1ヶ 月 間 に373 人 の 義 兵 が 死 亡 し 979 人 の 義 兵 が 逮 捕 されたが これを 第 1 次 計 画 という しかし 第 1 次 作 戦 計 画 が 実 施 される 過 程 で 期 待 したほど 義 兵 は 逮 捕 されなかった しかも 主 要 な 指 導 者 らが 検 挙 されなかっただけではなく 海 岸 側 へ 押 しやられた 義 兵 らが 島 嶼 地 域 から 継 続 闘 争 するものと 予 想 したが 現 実 にはそうならなかった これに 対 して 司 令 部 では 帰 順 政 策 を 復 活 させ 第 1 次 計 画 の 第 3 期 作 戦 に 投 入 するはずだった 兵 力 を2 個 中 隊 に 限 定 する 代 わりに そ れまでの 作 戦 区 域 を 引 き 返 しながら 捜 索 を 繰 り 返 した 10 月 からはじまったこの 作 戦 を 第 2 次 計 画 という その 結 果 第 2 次 計 画 のときは 死 亡 者 (57 人 )より 自 首 者 (708 人 )のほうがはるかに 多 く 湖 南 義 兵 の 中 心 指 導 者 だった 沈 南 一 と 林 昌 模 が10 月 9 日 と13 日 にそれぞれ 逮 捕 された 逮 捕 され た 義 兵 のうち574 人 は 木 浦 と 河 東 の 間 の 道 路 工 事 に 強 制 的 に 動 員 された 34 福 利 政 策 を 通 じて 匪 民 分 離 を 実 現 したが これは 捕 虜 が 義 兵 活 動 を 再 開 することを 防 ぐための 措 置 でもあった 4. 支 配 基 盤 構 築 の 核 心 朝 鮮 軍 (1910-1919 年 ) 1) 朝 鮮 駐 箚 軍 から 朝 鮮 軍 への 改 編 (1918 年 ) 日 本 は 大 韓 帝 国 を 滅 亡 させ 韓 国 駐 箚 軍 を 朝 鮮 駐 箚 軍 に 改 編 した 朝 鮮 駐 箚 軍 の 指 揮 権 は 二 通 りあった すなわち 統 監 府 の 時 期 と 同 様 に 朝 鮮 駐 箚 軍 の 軍 令 に 関 連 する 部 分 については 陸 軍 大 臣 の 指 揮 を 受 けたが 朝 鮮 の 統 治 に 関 連 する 部 分 は 朝 鮮 総 督 の 指 揮 を 受 けた したがって 朝 鮮 総 督 は 朝 鮮 駐 箚 軍 に 対 する 出 動 命 令 権 を 持 っていた 朝 鮮 総 督 の 軍 隊 指 揮 は 朝 鮮 にだけ 限 られたものではなかった 朝 鮮 総 督 は 必 要 ニ 應 シ 朝 鮮 ニ 駐 屯 シ 在 ル 軍 人 軍 属 ヲ 満 州 北 清 露 領 沿 海 州 ニ 派 遣 することもできた 35 韓 国 駐 箚 軍 の 作 戦 圏 域 は 1907 年 の 帝 国 の 国 防 方 針 とともに 制 定 された 帝 国 軍 の 用 兵 綱 33 南 韓 大 討 伐 作 戦 に 関 する 詳 細 な 言 及 は 前 掲 の 辛 珠 柏 湖 南 義 兵 に 対 する 日 本 軍 憲 兵 警 察 の 弾 圧 作 戦 87 号 236-251 頁 を 参 照 34 国 史 編 纂 委 員 会 編 韓 国 独 立 運 動 史 資 料 集 17 254 頁 35 陸 軍 省 受 領 密 受 第 320 号 朝 鮮 総 督 ヘ 御 委 任 ノ 件 (1910.9.1) 密 大 日 記 M43-1 278-279 頁 418

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 領 に 忠 実 な 措 置 だった 用 兵 綱 領 によれば 陸 軍 は 満 州 ウスリーおよび 韓 国 を 作 戦 地 とし 本 作 戦 を 満 州 において 支 作 戦 をウスリー 方 面 で 遂 行 するという 戦 略 だった このとき いかなる 場 合 においても 韓 国 は 敵 (ロシア- 引 用 者 )の 蹂 躙 から 防 御 するという 方 針 だった 36 日 本 の 植 民 統 治 者 らは 朝 鮮 を 足 がかりに 大 陸 侵 略 を 実 施 するため 朝 鮮 を 確 実 に 支 配 しなければならない という 事 実 を 認 めていたのである 言 い 換 えれば 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 は 日 本 が 植 民 地 朝 鮮 を 支 配 するのに 必 要 な もっとも 中 核 的 な 物 理 的 基 盤 であり 大 陸 侵 略 の 最 前 方 部 隊 であった 南 守 北 進 によって 陸 軍 の 主 な 作 戦 圏 域 の 外 にあった 台 湾 軍 とは 画 然 と 異 なる 位 置 づけである 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 の 位 相 と 任 務 そして 指 揮 関 係 を 明 確 に 確 定 した 日 本 が 朝 鮮 で 最 初 に 解 決 し なければならない 問 題 が 義 兵 残 存 勢 力 に 対 する 鎮 圧 であった 当 時 義 兵 残 存 勢 力 が 黄 海 道 一 帯 さらに 江 原 道 南 部 と 慶 尚 北 道 北 部 一 帯 で 武 装 闘 争 を 繰 り 広 げていたため 朝 鮮 総 督 府 とし ては これらが 治 安 確 保 にもっとも 大 きな 障 害 だったのである 朝 鮮 駐 箚 軍 は 臨 時 韓 国 派 遣 隊 所 属 の 第 1 連 隊 と 憲 兵 を 慶 尚 北 道 北 部 地 域 に 出 動 させ 1910 年 11 月 25 日 から12 月 20 日 まで 集 中 的 な 弾 圧 作 戦 を 繰 り 広 げた 37 また 第 29 65 連 隊 兵 力 を 動 員 し て 黄 海 道 一 帯 で1910 年 11 月 ごろから4ヶ 月 間 1911 年 9 月 下 旬 から40 日 間 それぞれ 集 中 的 な 弾 圧 作 戦 を 繰 り 広 げた 38 これにより 義 兵 残 存 勢 力 の 抵 抗 も 事 実 上 終 わり 主 要 指 導 者 だった 韓 貞 満 金 貞 安 蔡 應 彦 らがすべて 逮 捕 された 朝 鮮 総 督 府 と 朝 鮮 駐 箚 軍 は 義 兵 残 存 勢 力 に 対 する 鎮 圧 作 戦 が 成 功 をおさめると 総 督 政 治 ノ 一 層 ノ 普 及 39 のため 1911 年 10 月 から 派 遣 所 と 出 張 所 を 大 幅 に 増 やし 憲 兵 隊 を 分 散 配 置 した 朝 鮮 駐 箚 軍 は 朝 鮮 での 日 常 的 な 治 安 確 保 の 任 務 を 憲 兵 警 察 隊 が 担 当 するにともない 1912 年 末 ごろから 分 散 配 置 方 針 を 集 中 配 置 方 針 に 転 換 し 1913 年 にほぼ 完 了 した 40 平 時 には 主 に 憲 兵 警 察 が 治 安 を 担 当 したにもかかわらず 日 本 が 朝 鮮 を 支 配 する 最 後 の 砦 は 軍 隊 であった しかも 朝 鮮 で 当 座 の 治 安 を 脅 かす 要 素 を 除 去 したことにより 対 外 侵 略 の 先 鋒 隊 としての 位 置 付 けにふさわしく 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 の 基 本 任 務 である 国 防 軍 としての 役 割 に 力 を 注 ぐ 必 要 があった このとき 最 も 不 完 全 な 要 素 が まさに 朝 鮮 に 駐 屯 した 部 隊 を2 年 ごとに 交 代 する 問 題 であった 駐 箚 部 隊 を 駐 屯 部 隊 に 転 換 し 常 駐 させる 必 要 があったのである 日 本 が 植 民 地 朝 鮮 に2 個 常 駐 師 団 を 設 置 した 理 由 は 次 の 通 りである 朝 鮮 ニハ 守 備 ノ 爲 從 來 一 箇 師 團 半 ノ 兵 力 ヲ 内 地 ヨリ 派 遣 シ 交 代 駐 箚 セシメアリシカ 此 ノ 制 度 ハ 新 領 土 ノ 治 安 維 持 上 適 當 ナラサルハ 勿 論 軍 隊 ノ 建 制 ヲ 破 リ 教 育 及 經 理 ヲ 阻 礙 スルノミナラス 戦 時 ニ 於 ケル 動 員 上 ノ 支 障 多 ク 爲 ニ 此 ノ 部 隊 ヲ 野 戦 ニ 使 用 スルコト 極 メテ 困 難 ニシテ 國 防 計 晝 ニ 多 大 ノ 阻 格 ヲ 生 スルノ 虞 アルト 國 防 上 常 備 軍 兵 力 增 加 ノ 必 要 アリシヲ 以 テ 政 府 ハニ 個 師 團 ヲ 增 設 シテ 之 ヲ 朝 鮮 ニ 常 置 シ 同 時 ニ 交 代 派 遣 ノ 制 ヲ 廢 止 スルノ 計 晝 36 帝 国 軍 の 用 兵 綱 領 は 山 田 朗 編 外 交 資 料 - 近 代 日 本 の 膨 脹 と 侵 略 新 日 本 出 版 社 1997 年 126 頁 を 参 照 37 朝 参 報 第 1 号 暴 徒 討 伐 施 行 経 過 ノ 件 報 告 (1911.1.9) 密 大 日 記 M44 1037-1041 頁 38 独 立 運 動 史 資 料 集 編 纂 委 員 会 編 独 立 運 動 資 料 集 3 高 麗 書 林 1971 年 813-819 頁 ; 朝 鮮 駐 箚 軍 司 令 部 朝 鮮 暴 徒 討 伐 誌 1913 年 173-177 頁 39 松 田 利 彦 編 朝 鮮 憲 兵 隊 歴 史 3 不 二 出 版 2000 年 113 頁 40 朝 鮮 総 督 府 施 政 年 報 ( 大 正 元 年 ) 82-83 頁 ; 朝 鮮 総 督 府 施 政 年 報 ( 大 正 3 年 ) 66 頁 419

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 ヲ 樹 テ 本 年 度 (1915 年 - 引 用 者 )ニ 於 テ 臨 時 帝 國 議 會 ノ 協 賛 ヲ 經 テ 之 カ 實 施 ノ 端 ヲ 啓 クコトト 爲 セリ 41 これにより 1918 年 に 朝 鮮 駐 箚 軍 司 令 部 に 代 わって 朝 鮮 軍 司 令 部 が 創 設 され この 傘 下 に 第 19 師 団 (1916 年 4 月 -1919 年 2 月 )と 第 20 師 団 (1919 年 3 月 の 業 務 開 始 -1921 年 4 月 )があった 朝 鮮 ( 駐 箚 ) 軍 司 令 部 傘 下 には 駐 箚 師 団 臨 時 韓 国 派 遣 隊 韓 国 ( 駐 箚 ) 憲 兵 隊 鎮 海 湾 要 塞 司 令 部 霊 興 湾 重 砲 兵 大 隊 霊 興 湾 要 塞 司 令 部 朝 鮮 ( 駐 箚 ) 陸 軍 軍 楽 隊 朝 鮮 ( 駐 箚 ) 陸 軍 倉 庫 朝 鮮 ( 駐 箚 ) 衛 戍 病 院 朝 鮮 ( 駐 箚 ) 衛 戍 監 獄 があった 42 2) 憲 兵 警 察 制 と 統 治 基 盤 の 造 成 憲 兵 警 察 制 の 制 度 的 な 基 盤 が 整 えられたのは 1907 年 に 勅 令 第 323 号 韓 国 に 駐 箚 する 憲 兵 に 関 する 件 (10.8) が 公 布 されたのを 契 機 に 韓 国 に 駐 箚 する 憲 兵 が 軍 事 警 察 としての 任 務 ととも に 統 監 の 指 揮 を 受 けて 主 に 治 安 維 持 に 関 する 警 察 としての 業 務 も 担 当 してからであった 43 憲 兵 警 察 制 度 は 1909 年 6 月 24 日 に 韓 国 駐 箚 憲 兵 隊 司 令 官 の 明 石 元 二 郎 少 将 が 大 韓 帝 国 の 警 察 制 度 が 完 備 するまで 警 察 事 務 を 日 本 国 政 府 に 委 託 するという 内 容 の 覚 書 を 大 韓 帝 国 政 府 と 締 結 したことで 制 度 的 に 完 成 した 日 本 はこのときに 韓 国 駐 箚 憲 兵 隊 を13の 道 に 憲 兵 隊 本 部 を 置 く 韓 国 駐 箚 憲 兵 隊 司 令 部 に 拡 大 改 編 した 明 石 憲 兵 隊 司 令 官 は 警 察 の 総 責 任 者 である 警 務 総 長 まで 兼 任 し 佐 官 の 道 憲 兵 隊 長 も 道 警 務 部 長 を 兼 任 した 憲 兵 警 察 制 度 は 日 韓 併 合 の 過 程 において 起 こり 得 る 政 治 的 抵 抗 を 探 知 し 制 圧 するための 事 前 の 布 石 であった また 義 兵 残 存 勢 力 を 鎮 圧 しなければならないなど 治 安 を 厳 密 に 安 定 化 させるのに 統 一 的 な 体 系 を 持 つ 必 要 性 から 設 置 された 装 置 であった 日 本 本 国 の 立 場 から 見 ると 憲 兵 警 察 制 度 は 陸 軍 の 財 政 負 担 を 軽 減 する 制 度 であった さらに 憲 兵 警 察 制 度 は 当 時 の 日 本 政 界 と 陸 軍 を 掌 握 していた 長 州 陸 軍 閥 狭 義 には 山 縣 閥 が 自 らの 利 害 関 係 を 朝 鮮 において 具 体 的 に 貫 徹 させる 通 路 であり 本 国 の 政 治 に 影 響 力 を 発 揮 できる 重 要 な 足 がかりでもあった 44 1911 年 10 月 ごろから 総 督 政 治 ノ 一 層 ノ 普 及 のために 憲 兵 警 察 は 分 散 配 置 された 朝 鮮 総 督 府 は 同 年 に 事 務 分 掌 内 規 (12.18) 憲 兵 服 務 細 則 (12.27) などを 制 定 してこれに 備 えた そして 彼 らの 業 務 を 毎 年 少 しずつ 増 やしていった すなわち 憲 兵 警 察 は 既 に 普 通 警 察 としての 業 務 である 民 事 調 停 事 務 徴 税 活 動 支 援 墓 地 葬 儀 火 葬 場 火 薬 取 締 り 事 務 などを 担 当 してい たが 1912 年 4 月 から 検 察 の 執 達 吏 事 務 内 務 部 所 管 の 衛 生 事 務 度 支 部 所 管 の 港 湾 検 疫 移 出 牛 検 疫 密 漁 取 締 り 港 則 執 行 事 務 1912 年 8 月 からは 銃 砲 火 薬 類 取 締 り 事 務 11 月 からは 森 林 山 野 の 監 視 取 締 り 事 務 12 月 からは 道 路 の 修 築 維 持 事 務 を 新 たに 担 当 した また 1913 年 4 41 朝 鮮 総 督 府 施 政 年 報 (1915 年 度 ) 87 頁 42 朝 鮮 駐 箚 軍 歴 史 42-43 頁 にある 朝 鮮 駐 箚 軍 司 令 部 竝 隷 下 常 設 部 隊 重 要 職 員 交 迭 一 覧 表 (1916.4) を 参 照 43 宋 炳 基 編 著 統 監 府 法 令 資 料 集 上 大 韓 民 国 国 会 図 書 館 1973 年 461 頁 44 辛 珠 柏 1910 年 代 日 帝 の 朝 鮮 統 治 と 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 - 朝 鮮 軍 と 憲 兵 警 察 制 度 を 中 心 に(1910년대 일제의 조선통치와 조선 주둔 일본군- 조선군 와 헌병경찰제도를 중심으로) 韓 国 史 研 究 109 号 2000 年 6 月 ; 当 時 の 日 本 における 政 治 構 図 と 朝 鮮 半 島 支 配 戦 略 の 連 関 性 は 姜 昌 一 日 帝 初 期 植 民 統 治 の 戦 略 と 内 容 (일제초기 식민통치의 전략과 내용) 日 帝 植 民 統 治 研 究 1:1905-1919 白 山 書 堂 1999 年 を 参 照 420

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 月 からは 国 境 関 税 事 務 なども 関 与 した 朝 鮮 総 督 府 は3 月 23 日 に 増 大 する 事 務 を 円 滑 に 処 理 す るための 措 置 のひとつとして 警 務 ノ 一 層 ノ 周 密 を 期 するため 必 要 な 場 合 には 憲 兵 将 校 は 警 視 准 士 官 下 士 は 警 部 上 等 兵 は 巡 査 憲 兵 補 助 員 は 巡 査 補 に 準 じる 服 務 を 行 うような 措 置 をと った 45 朝 鮮 人 は 一 生 涯 憲 兵 警 察 の 影 から 逃 れることはできなかったのである 1911 年 から1918 年 まで 憲 兵 隊 の 職 員 は7,900 人 前 後 警 察 職 員 は5,600~5,700 人 前 後 で 大 きな 変 動 はなかった 日 本 政 府 が 財 政 圧 迫 に 悩 まされており 朝 鮮 総 督 府 に 対 して 財 政 支 援 を 拡 大 するどころではなかったためである 46 朝 鮮 総 督 府 は 財 政 事 情 を 理 由 に 憲 兵 隊 を 縮 小 して 編 制 を 変 えろという 本 国 政 府 の 要 求 に 対 し 朝 鮮 統 治 において 現 在 の 編 制 と 人 員 を 維 持 したいとし これを 拒 否 した 47 憲 兵 と 警 察 兵 力 を 増 やせなかった 朝 鮮 総 督 府 は 行 政 組 織 と 憲 兵 警 察 組 織 を 一 致 させ 末 端 機 関 の 数 を 増 やしながら 需 要 に 対 処 していった 5. 対 中 国 干 渉 の 本 格 化 と 朝 鮮 軍 (1919-1937 年 ) 1) 憲 兵 警 察 制 の 廃 止 (1919 年 )と 朝 鮮 軍 の 改 編 1919 年 に3 1 運 動 が 起 こった 日 本 の 支 配 者 らは 朝 鮮 人 の 独 立 の 意 志 に 万 歳 示 威 の 根 本 原 因 を 求 めずに 民 族 自 決 に 幻 惑 された 朝 鮮 人 が 憲 兵 警 察 統 治 に 反 発 したところにその 原 因 を 求 めた 48 日 本 政 府 は 良 民 保 護 という 名 のもとに 6 個 大 隊 の 兵 力 と400 人 の 憲 兵 を 緊 急 に 朝 鮮 に 派 遣 し 4 月 22 日 までに 朝 鮮 軍 の 配 置 が 相 対 的 に 弱 かった 場 所 への 配 置 を 完 了 した 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 は 歩 兵 第 79 連 隊 所 属 の 部 隊 員 が4 月 15 日 に 華 城 郡 堤 岩 里 で 住 民 を 虐 殺 したり 示 威 隊 に 向 か って 直 接 射 撃 したり 威 嚇 射 撃 を 加 えて 解 散 させたり 威 力 示 威 を 行 って 示 威 隊 を 威 嚇 するなどの 方 法 で 対 応 した 49 3 1 運 動 以 後 日 本 は 朝 鮮 での 統 治 方 針 を 朝 鮮 特 別 統 治 主 義 に 立 脚 した 武 断 統 治 から 漸 進 的 内 地 延 長 主 義 に 立 脚 した 文 化 統 治 に 転 換 したが 50 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 と 関 連 して 次 のような 措 置 が 行 われた まず 朝 鮮 総 督 と 朝 鮮 軍 司 令 部 との 関 係 が 新 たに 定 立 された 1919 年 8 月 の 官 制 改 定 により 朝 鮮 総 督 がそれまで 持 っていた 朝 鮮 軍 に 対 する 出 動 命 令 権 が 出 動 要 請 権 に 変 わった したがって 朝 鮮 総 督 は 朝 鮮 軍 司 令 官 に 対 して 朝 鮮 の 治 安 に 関 連 して 直 接 命 令 ができなくなった 形 式 的 な 手 続 きのみからすると 朝 鮮 総 督 から 兵 力 出 動 を 要 請 された 朝 鮮 軍 司 令 官 は 本 国 の 陸 軍 大 臣 か ら 許 諾 を 受 けなければ 兵 力 を 動 かせなくなったのである 総 督 府 と 軍 の 関 係 がこのように 整 理 され 45 松 田 利 彦 編 前 掲 書 3 113 頁 160-161 頁 憲 兵 警 察 の 多 様 な 任 務 については 姜 徳 相 憲 兵 政 治 下 の 朝 鮮 歴 史 学 研 究 321 号 1967 年 3 頁 を 参 照 46 松 田 利 彦 日 本 統 治 下 の 朝 鮮 における 憲 兵 警 察 機 構 (1910-1919 年 ) 史 林 第 78 巻 6 号 1995 年 32-42 頁 47 山 本 四 郎 編 陸 相 宛 寺 内 総 督 書 翰 - 朝 鮮 憲 兵 隊 縮 小 反 対 陸 軍 大 臣 寺 内 正 毅 関 係 文 書 : 首 相 以 前 京 都 女 子 大 学 1984 年 461 頁 48 原 敬 日 記 1919 年 3 月 2 日 49 華 城 市 水 原 大 学 校 博 物 館 華 城 地 域 3.1 運 動 遺 蹟 地 実 態 調 査 報 告 書 2003 年 ; 姜 徳 相 編 現 代 史 資 料 25 みすず 書 房 1967 年 155 頁 161-168 頁 180-188 頁 203-207 頁 215-218 頁 50 これについては 辛 珠 柏 日 本 の 同 化 政 策 と 支 配 戦 略 (1870 年 代 -1945)- 統 治 機 構 および 学 校 教 育 との 関 係 を 中 心 に(일본의 동화 정책과 지배전략(1870년대-1945)-통치기구 및 학교교육과의 관계를 중심으로) 植 民 地 統 治 政 策 比 較 ソンイン 文 化 社 (선인문화사) 2004 年 を 参 照 421

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 たのにともない 朝 鮮 総 督 府 官 房 に 設 置 されていた 武 官 部 も 廃 止 された それから1937 年 までの 期 間 中 朝 鮮 に 駐 屯 していた 陸 軍 は 朝 鮮 総 督 府 と 組 織 的 な 関 係 を 結 ぶ 独 立 した 部 署 を 置 かな かった 第 二 に 憲 兵 警 察 制 が 普 通 警 察 制 に 転 換 されるなかで 日 常 的 な 治 安 業 務 行 政 事 務 に 直 接 関 与 していた 憲 兵 は 本 来 の 業 務 である 軍 事 警 察 としての 任 務 を 遂 行 しながら 朝 鮮 の 特 殊 な 現 実 を 考 慮 して 当 分 の 間 国 境 を 監 視 し 統 制 する 業 務 を 担 った このときから 日 常 的 な 朝 鮮 の 治 安 業 務 は 1 面 1 駐 在 所 方 針 にしたがって 警 察 が 担 うこととなった 朝 鮮 総 督 府 は 不 足 する 警 察 兵 力 を8,054 人 の 憲 兵 および 憲 兵 補 助 員 で 充 当 した 51 ただし 憲 兵 は 道 知 事 と 警 察 署 長 など 正 当 な 権 限 をもつ 者 からの 要 請 があれば 行 政 警 察 と 司 法 警 察 としての 役 割 を 遂 行 することができた 52 第 三 に 憲 兵 が 担 っていた 国 境 の 監 視 および 統 制 業 務 は 1922 年 5 月 に 完 全 に 廃 止 され その 任 務 は 警 察 が 代 行 した 53 普 通 警 察 制 の 実 施 によるものではあるが これは 日 本 軍 全 体 として 進 め られた 軍 縮 とも 関 わっていた 朝 鮮 憲 兵 隊 は 軍 令 陸 乙 第 3 号 大 正 12 年 軍 縮 整 理 要 領 と 陸 密 第 73 号 大 正 13 年 軍 費 整 理 要 領 細 則 により 1923 年 4 月 1 日 付 で 義 州 と 清 州 の 憲 兵 隊 本 部 を 廃 止 し たのみならず 分 隊 4 個 と 分 遣 所 24 個 を 撤 廃 した 54 この 時 から1937 年 まで 朝 鮮 憲 兵 隊 は5つの 憲 兵 隊 本 部 体 制 で560~580 人 余 りの 人 員 を 維 持 した 第 四 に 3 1 運 動 によって 再 び 実 施 された 分 散 配 置 は1922 年 10 月 から1923 年 3 月 の 間 に 集 中 配 置 方 針 に 変 わるなかで 各 地 の 小 部 隊 は 既 存 の 所 属 部 隊 に 集 中 した こうしたなか 朝 鮮 軍 は 第 20 師 団 傘 下 に2 個 第 19 師 団 傘 下 に3 個 の 国 境 守 備 隊 を 編 成 した 1926 年 には 再 び 第 19 師 団 の 守 備 隊 を4 個 に 編 成 しなおしたが 陸 密 第 49 号 で 通 牒 された 朝 鮮 国 境 守 備 隊 永 久 配 置 要 領 (1926.2.20) に 基 づいて 作 成 された 配 置 標 準 表 では 国 境 守 備 隊 員 は 総 勢 2,068 人 だった 55 国 境 守 備 隊 は 在 満 朝 鮮 人 社 会 の 中 心 である 東 満 地 方 とソ 連 に 隣 接 している 場 所 により 多 く 配 置 さ れたが これが 朝 鮮 軍 が 多 くの 定 員 を 維 持 した 背 景 である 2) 中 国 侵 略 の 先 鋒 3 1 運 動 以 後 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 は 朝 鮮 の 現 実 問 題 に 直 接 介 入 しなかった 彼 らは 今 や 国 防 軍 としての 任 務 に 忠 実 でありさえすればよかったために 彼 らの 目 は 外 部 に 向 かっていた 実 際 に 1919 年 の3 1 運 動 以 後 から1937 年 までの 間 に 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 の 動 きをみると 第 19 師 団 は 咸 鏡 道 に 駐 屯 し 対 ロ 作 戦 に 備 えながら 主 に 東 満 地 方 の 朝 鮮 人 問 題 に 直 接 介 入 し 第 20 師 団 は 南 満 地 方 と 中 国 本 土 に 出 動 する 場 合 に 主 に 動 員 された 前 者 の 代 表 的 なケースが1920 年 10 51 朝 鮮 総 督 府 施 政 年 報 ( 自 大 正 7 年 至 大 正 9 年 度 ) 264-264 頁 普 通 警 察 への 転 換 については 松 田 利 彦 日 本 統 治 下 の 朝 鮮 における 警 察 機 構 の 改 編 史 林 第 74 巻 5 号 1991 年 の 論 文 を 参 照 52 訓 令 第 2 号 朝 鮮 ニ 於 ケル 憲 兵 ノ 行 政 警 察 及 司 法 警 察 ニ 関 スル 服 務 規 程 ノ 制 定 (1925.1.13) 松 田 利 彦 編 前 掲 書 6 77-78 頁 53 朝 鮮 総 督 府 施 政 年 報 ( 大 正 11 年 度 ) 353 頁 54 松 田 利 彦 編 前 掲 書 6 77-78 頁 55 朝 密 参 第 52 号 第 19 師 団 歩 兵 連 隊 増 加 定 員 配 属 換 竝 朝 鮮 軍 司 令 部 編 制 改 正 ニ 関 スル 意 見 提 出 ノ 件 通 牒 (1926.6.18) 密 大 日 記 T16 422

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 月 からの 間 島 侵 略 であり 後 者 の 代 表 的 なケースが1931 年 9 月 からの 満 州 侵 略 である 前 者 のケースを 見 ると 3 1 運 動 以 後 東 満 地 方 で 抗 日 の 熱 気 が 高 まると 朝 鮮 軍 司 令 部 は 東 満 地 方 の 武 装 団 体 の 動 きが 治 鮮 上 ニ 及 ホス 影 響 極 メテ 大 ナルモノ として 神 経 を 尖 らせていた 56 当 初 朝 鮮 軍 は 外 務 省 所 属 の 領 事 館 警 察 を 強 化 して 東 満 地 方 の 治 安 問 題 を 解 決 しなければなら ないという 立 場 だった 57 ところが 1920 年 8 月 ごろから 独 自 行 動 を 模 索 しはじめ 8 月 15 日 にソウル で 開 かれた 対 策 会 議 いわゆる 京 城 会 議 で 間 島 地 方 不 逞 鮮 人 剿 討 計 劃 を 確 定 した 58 朝 鮮 軍 は 計 画 にしたがって 9 月 下 旬 59 に 東 満 地 方 を 侵 略 しようとしたが 独 自 の 出 兵 を 強 行 する 大 義 名 分 がなかった 外 務 省 が 依 然 として 前 面 に 立 っており 奉 天 軍 閥 も 独 立 軍 の 監 視 と 解 散 など 日 本 側 の 要 求 を 聞 き 入 れており 独 立 軍 自 ら 白 頭 山 方 向 に 移 動 していたためである ところが 折 しもウラジオストックに 派 遣 された 日 本 軍 が 馬 賊 をけしかけて 東 満 地 方 の 治 安 を 撹 乱 させる 計 画 を 立 て これを 朝 鮮 軍 に 提 案 した 朝 鮮 軍 はこの 計 画 に 同 意 し これによって 1920 年 9 月 12 日 と10 月 2 日 の2 回 に 渡 って 中 国 人 馬 賊 団 が 琿 春 市 街 地 を 襲 撃 し 領 事 館 を 攻 撃 するという 琿 春 事 件 が 起 こった 60 朝 鮮 軍 は10 月 7 日 に 第 19 師 団 所 属 の 歩 兵 第 37 旅 団 の 東 正 彦 少 将 が 率 いる 部 隊 などを 東 満 地 方 に 出 動 させ 罪 のない 朝 鮮 人 を 虐 殺 したり 火 を 放 った 庚 申 惨 変 を 起 こ した こうしたなか 和 龍 県 青 山 里 で 独 立 軍 と 戦 ったが これらを 鎮 圧 するのに 失 敗 した 61 東 満 地 方 を 侵 略 した 朝 鮮 軍 は1921 年 5 月 8 日 憲 兵 隊 は5 月 30 日 になってようやく 完 全 に 撤 収 した 後 者 のケースをみると 1931 年 9 月 に 関 東 軍 は 柳 条 湖 事 件 をでっちあげて 満 州 を 侵 略 した 朝 鮮 軍 は9 月 19 日 に 独 立 飛 行 中 隊 を 奉 天 に 派 遣 し 混 成 第 39 旅 団 も 派 遣 しようとした 混 成 旅 団 の 派 遣 は 陸 軍 省 の 反 対 でしばらく 二 の 足 を 踏 んでいたが 20 日 の 午 前 11 時 ごろ 朝 鮮 軍 司 令 官 の 単 独 決 定 によって 実 行 に 移 された その 後 混 成 第 39 旅 団 は 奉 天 と 吉 林 一 帯 から 北 進 していた 関 東 軍 部 隊 の 後 方 を 守 り 抗 日 武 装 闘 争 勢 力 を 弾 圧 して 1932 年 5 月 に 朝 鮮 に 戻 った 62 また 第 19 師 団 はこの 機 会 に 乗 じて 東 満 地 方 を 侵 略 する 算 段 であったが 63 朝 鮮 軍 司 令 官 と 朝 鮮 総 督 の 反 対 で 実 行 に 移 すことができなかった しかし 朝 鮮 軍 は 関 東 軍 の 占 領 地 域 が 拡 大 し 抗 日 武 装 闘 争 勢 力 の 抵 抗 が 継 続 すると 第 19 師 団 所 属 部 隊 を 中 心 に 混 成 第 38 旅 団 を 編 成 し 1931 年 12 月 から 翌 年 10 月 までハルピンなど 北 満 地 方 一 帯 で 作 戦 を 展 開 した 64 ところが 東 満 地 方 で 朝 鮮 人 抗 日 遊 撃 隊 が 結 成 されて 闘 争 が 活 発 になり 中 国 人 の 王 徳 林 が 指 揮 する 東 北 救 国 軍 の 一 部 兵 力 が 東 満 地 方 へ 移 動 するにつれて この 地 域 における 日 本 の 統 治 力 が 揺 らぎ 朝 鮮 の 治 安 にも 直 接 悪 影 響 を 及 ぼしはじめた 朝 鮮 軍 は1932 年 4 月 に 第 19 師 団 兵 力 で 間 島 臨 時 派 遣 隊 56 朝 鮮 軍 司 令 部 不 逞 鮮 人 ニ 関 スル 基 礎 的 研 究 朴 慶 植 編 朝 鮮 問 題 資 料 叢 書 アジア 問 題 研 究 所 1982 年 54 頁 57 間 島 及 琿 春 方 面 警 察 力 増 加 ニ 関 スル 件 (1920.5.29) 密 大 日 記 5 冊 のう ち1 T9 1186-1193 頁 58 これについては 間 島 出 兵 史 下 金 正 柱 編 朝 鮮 統 治 資 料 2 1970 年 161-170 頁 を 参 照 59 姜 徳 相 編 前 掲 書 28 129 頁 60 朴 チャンウク 琿 春 事 件 と 長 好 江 馬 賊 団 (박창욱 훈춘사건과 장강호 마적단 ) 歴 史 批 評 51 号 2000 年 夏 号 61 青 山 里 戦 闘 は10 月 21 日 から26 日 までだった 62 混 成 第 39 旅 団 の 活 動 は 朝 鮮 軍 司 令 部 朝 鮮 軍 歴 史 5 185-198 頁 を 参 照 63 神 田 正 種 鴨 緑 江 (1950.4.8) 林 銑 十 郎 満 洲 事 件 日 誌 みすず 書 房 1996 年 176-177 頁 64 詳 しい 活 動 状 況 は 朝 鮮 軍 司 令 部 前 掲 書 5 159-167 頁 を 参 照 423

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 を 編 成 し 抗 日 武 装 闘 争 勢 力 を 弾 圧 した このように 1920 年 代 初 めの 朝 鮮 軍 は 外 務 省 の 外 交 路 線 を 正 面 から 否 定 せず 在 満 朝 鮮 人 問 題 の 解 決 のために 朝 鮮 総 督 府 と 歩 調 を 合 わせていた 65 しかし 1920 年 代 後 半 に 入 ると 日 本 軍 が 外 務 省 の 方 針 とは 異 なる 行 動 をする 動 きが 表 れはじめ 軍 事 が 外 交 より 優 先 される 状 況 が 広 がりは じめた 1931 年 9 月 の 関 東 軍 と 朝 鮮 軍 の 満 州 侵 略 がその 端 的 な 象 徴 である 朝 鮮 軍 は 関 東 軍 とと もに 満 州 を 侵 略 したが その 後 対 外 侵 略 の 境 界 線 が 満 州 国 と 国 境 線 を 接 している 中 国 本 土 およ びソ 連 になるにつれて 関 東 軍 の 比 重 が 高 まった これにともない 対 ソ 作 戦 に 対 する 主 導 権 も 確 実 に 関 東 軍 に 移 り 朝 鮮 軍 は 安 定 した 後 方 基 地 として 関 東 軍 を 支 援 する 役 割 を 果 たす 位 置 に 変 わっていった 大 陸 侵 略 の 先 鋒 部 隊 だった1910 年 代 から1920 年 代 初 めとは 明 らかに 異 なる 位 置 付 けである 6. 日 常 的 戦 時 動 員 体 制 と 朝 鮮 軍 (1937-1945 年 ) 1) 朝 鮮 軍 から 第 17 方 面 軍 への 改 編 (1945 年 ) 1937 年 7 月 に 日 本 は 中 国 本 土 を 侵 略 した 朝 鮮 軍 第 20 師 団 と1 個 陸 軍 飛 行 中 隊 も 7 月 11 日 の 応 急 動 員 令 により 中 国 の 天 津 一 帯 に 投 入 された 満 州 侵 略 のときにも 現 れたように 対 外 侵 略 の 先 鋒 隊 としての 役 割 を 忠 実 に 遂 行 したのである 中 国 本 土 で 戦 線 がはっきりと 形 成 されるにつれ 植 民 地 朝 鮮 も 戦 争 の 雰 囲 気 に 巻 き 込 まれはじ めた 朝 鮮 軍 も 基 本 的 には2 個 師 団 体 制 をそのまま 維 持 したが これに 新 しい 部 隊 が 加 わりもした すなわち 日 本 は1937 年 に 満 州 と 本 国 との 間 の 連 携 を 安 定 的 に 確 保 するための 措 置 の 一 環 として 羅 津 に 要 塞 司 令 部 を 設 置 するとともに 第 2 飛 行 師 団 司 令 部 と 飛 行 部 隊 を 設 置 するなど 徐 々に 部 隊 を 増 設 しはじめた 66 しかし 部 隊 の 増 設 という 変 化 は この 時 期 の 状 況 を 考 慮 すれば 特 に 大 きな 変 化 であるとはい えない むしろ 日 中 戦 争 直 後 の 朝 鮮 軍 のもっとも 大 きな 変 化 は 植 民 地 朝 鮮 の 支 配 政 策 に 全 面 的 日 常 的 に 関 与 できるようになったという 点 である 67 すなわち 朝 鮮 軍 は1937 年 10 月 に 新 聞 班 68 11 月 に 国 防 思 想 普 及 部 をそれぞれ 設 置 し 軍 民 一 致 のために 民 心 を 指 導 して 世 論 を 喚 起 し 時 局 認 識 と 国 防 思 想 を 強 力 に 普 及 しようとした 軍 民 一 致 のための 朝 鮮 軍 の 動 きは 1938 年 7 月 に 結 成 された 国 民 精 神 総 動 員 朝 鮮 連 盟 1940 年 10 月 にこの 連 盟 が 改 編 されて 結 成 された 国 民 総 力 朝 鮮 連 盟 という 官 製 大 衆 動 員 団 体 に 積 極 的 に 参 与 することで 可 視 化 された 例 えば 第 20 師 団 長 出 身 の 川 岸 文 三 郎 (1936 年 12 月 ~1938 年 12 月 )は 1940 年 7 月 から1942 年 5 月 まで 国 民 総 力 朝 鮮 連 65 詳 しい 内 容 は 辛 珠 柏 朝 鮮 軍 の 在 満 朝 鮮 人 の 治 安 問 題 (1919-1931) 帝 国 の 運 営 方 式 および 満 州 事 変 の 内 在 的 背 景 と 関 連 して(조선군의 재만 조선인의 치안문제(1919-1931) 제국의 운영방식 및 만주사변의 내재적 배경과 관련하여) 韓 国 民 族 運 動 史 研 究 第 40 号 2004 年 9 月 の 第 Ⅰ 章 を 参 照 66 宮 田 節 子 編 15 年 戦 争 極 秘 資 料 集 - 朝 鮮 軍 概 要 史 不 二 出 版 22-23 頁 67 以 下 の1937 年 から1940 年 の 間 に 起 こった 朝 鮮 総 督 府 の 動 員 体 制 に 対 する 朝 鮮 軍 の 新 たな 対 応 に 関 しては 辛 珠 柏 天 皇 直 轄 の 朝 鮮 軍 - 植 民 統 治 の 物 理 的 基 盤 李 ジェボムほか 著 韓 半 島 の 外 国 軍 駐 屯 史 中 心 (신주백 천황 직할의 조선군-식민통치의 몰리적 기반 이재범 외 한반도의 외국인 주둔사 중심)2001 年 285-288 頁 を 整 理 した 68 朝 鮮 軍 は1938 年 1 月 にこれを 報 道 班 に 改 編 し 10 月 には 再 び 少 将 を 責 任 者 とする 組 織 に 拡 大 改 編 した 424

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 盟 の 事 務 局 総 長 だった 事 務 局 の 部 署 のうち 輔 導 部 思 想 部 訓 練 部 宣 伝 部 には 朝 鮮 軍 報 道 部 農 林 部 には 朝 鮮 軍 経 理 部 所 属 将 校 らが 実 務 者 として 大 挙 参 与 し 官 製 大 衆 動 員 運 動 を 指 導 した こうした 活 動 の 究 極 的 な 目 標 は 物 資 動 員 を 円 滑 にしつつ 人 的 資 源 も 安 定 的 に 動 員 するとこ ろにあった 69 朝 鮮 軍 は 既 に1936 年 度 の 司 令 部 編 成 指 針 で 国 家 総 動 員 業 務 に 服 務 しなければな らないという 規 定 を 明 示 した 朝 鮮 軍 は 物 資 動 員 を 計 画 的 に 推 進 するため 1938 年 から 朝 鮮 総 督 府 課 長 級 も 参 与 する 軍 需 動 員 協 議 会 を 毎 年 開 催 した ひいては 物 資 動 員 をさらに 体 系 的 に 確 保 しようと 1939 年 11 月 に 設 置 された 朝 鮮 総 督 府 企 画 部 の 責 任 者 ( 将 星 )および 課 長 以 下 の 部 員 らも 陸 海 軍 将 校 で 補 った このような 措 置 が 直 接 かつ 具 体 的 に 朝 鮮 総 督 府 の 戦 時 動 員 業 務 に 介 入 しようという 意 図 の 現 れであったとすれば 1937 年 に 朝 鮮 総 督 府 御 用 掛 を 設 置 し 司 令 部 の 参 謀 の 中 から 一 部 を 兼 職 させた 措 置 は 上 層 レベルにおいて 司 令 部 と 朝 鮮 総 督 府 のチャンネルを 組 織 的 に 担 保 しようという 意 図 である 鎮 海 の 海 軍 でも 朝 鮮 軍 の 総 動 員 業 務 に 歩 調 を 合 わせて 後 援 金 の 配 布 と 補 給 品 の 配 分 などに 参 与 するため 1937 年 に 朝 鮮 総 督 府 に 参 謀 を 派 遣 し 1940 年 には 京 城 在 勤 武 官 部 を 設 置 した 1919 年 の3 1 運 動 以 後 官 制 改 定 によって 朝 鮮 総 督 を 直 接 補 佐 した 武 官 部 が 廃 止 されることで 朝 鮮 総 督 府 と 常 設 の 組 織 関 係 を 維 持 する 機 会 がなかった 朝 鮮 軍 と 鎮 海 の 海 軍 としては 新 たな 転 機 を 作 る 足 がかりを 得 ることになったのである 1941 年 12 月 に 太 平 洋 戦 争 が 起 こると 朝 鮮 軍 は 大 きな 変 化 を 経 た 70 第 一 に 編 制 と 作 戦 区 域 が 変 わった 朝 鮮 軍 は1942 年 9 月 に 師 団 の 歩 兵 4 個 連 隊 体 制 を3 個 連 隊 体 制 に 改 編 し 残 りの 歩 兵 第 74 77 連 隊 などを 中 心 に 1943 年 5 月 に 平 壌 で 第 30 師 団 を 編 成 した これにともない 第 19 師 団 は 咸 鏡 北 道 第 30 師 団 は 平 安 道 黄 海 道 咸 鏡 南 道 そして 第 20 師 団 は 残 りの 地 域 を 作 戦 区 域 とした 第 二 に 朝 鮮 軍 の 基 本 任 務 が 変 わったわけではないが 戦 況 にあわせて 隷 下 師 団 が 南 方 に 大 規 模 移 動 した 大 本 営 は1942 年 後 半 に 入 り 危 険 な 南 方 戦 線 を 補 強 するために 第 20 師 団 をニューギニア 方 面 へ 第 30 師 団 は1944 年 5 月 にフィリピン ミンダナオ 島 へ 2 月 に 新 設 された 第 49 師 団 は6 月 にビルマ 戦 線 へ 第 19 師 団 は11 月 にフィリピン 戦 線 へ それぞれ 移 動 させた 第 三 に こうしたなか 朝 鮮 軍 の 重 点 作 戦 任 務 が 対 ソ 作 戦 から 対 米 作 戦 の 準 備 へと 次 第 に 変 わってい ったが 特 に1945 年 に 急 変 した これにともない 朝 鮮 半 島 沿 岸 の 監 視 態 勢 の 強 化 と 済 州 島 防 備 問 題 が 提 起 された 71 朝 鮮 軍 の 編 制 と 配 置 さらに 任 務 の 変 化 は 1945 年 に 入 って 朝 鮮 軍 の 歴 史 に 一 線 を 劃 すほど 鮮 明 だった すなわち 1944 年 6 月 にマリアナを 奪 われた 日 本 軍 の 戦 略 的 敗 北 が 明 らかになった 米 軍 は1945 年 3 月 に 硫 黄 島 をも 占 領 することにより 日 本 本 土 を 戦 闘 機 の 航 続 圏 内 に 入 れることに なった 日 本 本 土 は 今 や 戦 場 と 化 し 米 軍 の 上 陸 も 十 分 予 見 できた 1945 年 1 月 20 日 日 本 大 本 69 人 的 資 源 の 動 員 に 関 する 問 題 は 次 項 で 言 及 する 70 以 下 の 朝 鮮 軍 の 変 化 については 辛 珠 柏 1945 年 朝 鮮 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 歴 史 と 現 実 ( 1945년 한반도에서 일본군의 본토결전 준비 역사와 현실 )49 号 2003 年 184-186 頁 を 整 理 した 71 済 州 に 対 しては 本 土 作 戦 記 録 第 5 巻 第 17 方 面 軍 (1946.1.10)3-6 頁 を 参 照 済 州 島 における 日 本 軍 に 関 す る 研 究 は 塚 崎 昌 之 済 州 道 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 - 済 州 道 と 巨 大 軍 事 地 下 施 設 青 丘 学 術 論 集 22 号 2003 年 を 参 照 425

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 営 は 帝 国 陸 海 軍 作 戦 計 画 大 綱 を 制 定 し 沖 縄 を 除 いた 皇 土 すなわち 帝 国 本 土 を 中 心 にした 国 防 要 域 を 確 保 して 本 土 を 維 持 し このための 軍 備 の 根 本 的 な 刷 新 を 決 定 することで 本 土 戦 場 化 すなわち 本 土 決 戦 に 積 極 的 に 備 えることを 決 定 した 72 新 しい 方 針 により 1945 年 2 月 27 日 に 朝 鮮 軍 は 朝 鮮 軍 管 区 司 令 部 と 第 17 方 面 軍 に 分 離 された 組 織 は 分 離 しながらも 増 加 した 業 務 を 効 果 的 に 処 理 するために 司 令 官 と 参 謀 長 は 兼 任 になり 作 戦 防 衛 船 舶 通 信 燃 料 兵 站 の 任 務 を 遂 行 するため 参 謀 副 長 という 職 責 が 新 設 され 参 謀 も6 人 から12 人 に 増 えた 73 結 局 朝 鮮 軍 が 防 衛 と 教 育 兵 站 を 主 な 任 務 とする 教 育 部 隊 であった とすれば 第 17 方 面 軍 は 作 戦 部 隊 であり 朝 鮮 軍 の 任 務 が 対 ソ 作 戦 準 備 であれば 第 17 方 面 軍 は 対 米 作 戦 の 準 備 が 主 な 任 務 だったという 点 で 異 なっていた 74 朝 鮮 軍 管 区 司 令 官 を 兼 ねていた 第 17 方 面 軍 司 令 官 は 3 月 28 日 に 京 城 で 朝 鮮 総 督 鎮 海 警 備 府 司 令 長 官 と 会 談 し 朝 鮮 における 終 局 の 総 動 員 のため 中 央 - 地 方 ( 各 師 管 区 )- 地 区 ( 道 の 地 区 司 令 管 区 ) 連 絡 委 員 会 を 組 織 し 作 戦 防 衛 情 報 運 輸 生 産 労 務 などに 集 中 することで 同 意 した 75 最 上 級 レベルから 最 末 端 の 軍 組 織 および 行 政 単 位 まで 一 致 した 組 織 関 係 を 確 保 し 朝 鮮 において 人 と 物 資 を 最 大 限 動 員 しよ うと 意 図 したものである その 後 第 17 方 面 軍 は 米 軍 の 上 陸 に 備 えて 3 次 にわたって 湖 南 地 方 と 済 州 島 を 中 心 に 戦 力 を 急 激 に 補 強 し 本 土 決 戦 に 備 え( 後 掲 の< 地 図 3>を 参 照 ) 関 東 軍 は 咸 鏡 道 地 方 でソ 連 軍 の 上 陸 に 備 えて 中 国 本 土 から 兵 力 を 大 幅 に 補 強 し 陣 地 構 築 に 乗 り 出 した 76 朝 鮮 総 督 府 もこれに 呼 応 して 組 織 を 簡 素 化 し 朝 鮮 人 動 員 と 物 資 輸 送 を 極 大 化 しようとした 77 2) 志 願 兵 と 徴 兵 を 通 じた 人 力 収 奪 日 本 は1937 年 に 日 中 戦 争 を 起 こすと 同 時 に 急 激 に 拡 大 する 戦 線 に 配 置 しなければならない 兵 力 資 源 が 不 足 することを 予 想 した 日 本 の 立 場 からすれば 本 土 を 除 いて もっとも 大 きな 規 模 で 兵 力 資 源 を 徴 発 できる 植 民 地 は 朝 鮮 だけであった ところで 既 に 朝 鮮 軍 司 令 部 も1932 年 から 朝 鮮 人 徴 兵 制 を 研 究 しはじめ 78 1935 年 からは 志 願 兵 制 実 施 に 関 する 建 議 も 行 っていた 79 また 南 次 郎 朝 鮮 総 督 も 朝 鮮 で 達 成 したい2 大 目 標 のうちの 一 つが 徴 兵 制 の 実 施 だと 就 任 当 時 に 公 開 的 に 明 言 した 80 したがって 朝 鮮 の 最 高 支 配 者 らの 間 では 朝 鮮 人 を 日 本 軍 人 とする 必 要 性 と 段 階 的 過 程 については 原 則 的 な 共 感 が 日 中 戦 争 が 起 こる 前 に 既 に 形 成 されていた 問 題 はそ れをどのように 実 行 するかであった 72 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 戦 史 室 前 掲 書 <10> 9-13 頁 から 再 引 用 73 軍 令 陸 甲 第 13 号 方 面 軍 司 令 部 軍 管 区 司 令 部 臨 時 編 成 第 321 復 帰 ( 復 員 ) 要 領 (1.22) 軍 令 綴 3 74 辛 珠 柏 1945 年 韓 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 前 掲 書 49 187 頁 75 朝 参 電 第 1847 号 (3.20) 機 密 作 戦 日 誌 ( 乙 綴 ) ; 朝 鮮 軍 残 務 整 理 部 第 17 方 面 軍 作 戦 準 備 史 以 下 では 第 17 方 面 軍 作 戦 準 備 史 とする 76 1945 年 5 月 以 降 の 関 東 軍 の 戦 力 は 次 の 通 りである 24 個 師 団 9 個 独 立 混 成 旅 団 1 個 国 境 守 備 隊 2 個 独 立 戦 車 旅 団 1 個 機 動 旅 団 2 個 飛 行 団 に 約 70 万 人 の 兵 力 がいた 関 東 軍 が 事 実 上 指 揮 した 満 州 国 軍 も 約 15 万 人 いた しかし 1945 年 初 めまで 太 平 洋 戦 線 に 多 く の 兵 力 を 移 動 させなければならず 新 規 兵 力 を 中 心 に5 個 師 団 を 急 いで 増 設 したに 過 ぎなかったため 実 質 戦 力 は8.5 師 団 水 準 であった 77 詳 細 は 辛 珠 柏 1945 年 韓 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 前 掲 書 49 188-195 頁 を 参 照 78 1919 年 の 朝 鮮 軍 司 令 部 参 謀 部 では 3.1 運 動 に 対 する 対 策 の 一 つとして 徴 兵 制 に 言 及 したことがある 79 徴 兵 制 施 行 感 謝 敵 美 英 撃 滅 決 意 宣 揚 全 朝 鮮 公 職 者 大 会 記 録 36 頁 井 原 朝 鮮 軍 参 謀 長 の 発 言 である 80 御 手 洗 辰 雄 南 次 郎 南 次 郎 伝 記 刊 行 会 1957 年 434 頁 426

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 陸 軍 省 は 日 中 戦 争 を 起 こす 一 ヶ 月 前 の6 月 に 朝 鮮 で 志 願 兵 制 の 実 施 に 関 する 意 見 を 朝 鮮 軍 司 令 部 に 提 出 するよう 要 求 した 朝 鮮 軍 は7 月 2 日 付 の 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 ニ 関 スル 意 見 で 試 験 的 制 度 として 志 願 兵 制 度 を 創 定 することを 陸 軍 省 に 提 案 し 朝 鮮 総 督 府 もこれを 熱 望 し 朝 鮮 軍 と 緊 密 に 連 絡 をとり 合 い 11 月 に 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 実 施 要 領 を 作 成 した 12 月 24 日 に 日 本 の 内 閣 は 朝 鮮 人 特 別 志 願 兵 制 度 の 実 施 を 決 定 し 1938 年 2 月 23 日 には 勅 令 第 95 号 陸 軍 特 別 志 願 兵 令 が 公 布 された 同 年 12 月 に400 人 が 募 集 されてから 1943 年 までに16,830 人 が 志 願 兵 として 現 役 で 服 務 した 81 朝 鮮 軍 は 朝 鮮 人 に 皇 国 意 識 を 確 把 させ 将 来 の 兵 役 問 題 の 解 決 のために 試 験 的 制 度 とし て 志 願 兵 制 度 を 実 施 する 計 画 だった 朝 鮮 人 志 願 兵 は 満 17 歳 以 上 20 歳 未 満 の 普 通 学 校 または それと 同 等 の 学 力 を 持 つ 者 でなければならなかった 朝 鮮 軍 は 初 等 教 育 課 程 で 朝 鮮 兒 童 ニ 日 本 精 神 的 教 育 ヲ 振 作 徹 底 セシメ 我 等 ハは 皇 国 日 本 ノ 臣 民 ナリ トノ 強 キ 信 念 ト 衾 持 トヲ 堅 持 セシム ル よう 朝 鮮 総 督 府 に 要 求 した 82 これに 対 して 朝 鮮 総 督 府 は 特 別 志 願 兵 制 と 徴 兵 制 を 実 施 する ためには 教 育 の 刷 新 が 必 要 であると 考 え 学 務 局 主 導 で 国 民 教 育 ニ 対 スル 方 策 (1937 年 8 月 ) という 別 途 の 冊 子 を 作 った それらは 1960 年 には 普 通 学 校 を 卒 業 した 徴 兵 適 齢 者 のうち 国 立 普 通 学 校 を 卒 業 した 者 が78% 日 本 語 を 理 解 できない 者 が20% 程 度 になると 予 想 し それまで に 普 通 学 校 を 拡 充 して 官 立 師 範 学 校 を 増 設 し 1938 年 4 月 から 学 校 名 称 を 統 一 して 教 育 内 容 も 刷 新 して 実 施 することを 確 定 した 83 結 局 1938 年 4 月 から 実 施 された 第 3 次 朝 鮮 教 育 令 は 軍 事 的 な 目 的 を 教 育 令 という 名 で 偽 装 し たものに 過 ぎず 天 皇 に 対 する 忠 誠 だけが 愛 国 であり 天 皇 のため 死 ぬことを 含 めて いつでも 自 らを 捨 てることができる 者 を 育 てようという 法 令 であった これにより 第 2 次 朝 鮮 教 育 令 (1922 年 )で は 削 られた 第 1 次 朝 鮮 教 育 令 (1911 年 )の 第 2 条 すなわち 教 育 ニ 関 スル 勅 語 の 趣 旨 に 基 づいて 忠 良 なる 国 民 を 育 てるという 内 容 が 各 学 校 規 定 の 第 1 条 に 忠 良 ナル 皇 國 臣 民 ヲ 育 成 ( 小 学 校 ) 忠 良 有 爲 ノ 皇 國 臣 民 ヲ 養 成 ( 中 学 校 ) 忠 良 至 醇 ナル 皇 國 女 性 ヲ 養 成 する( 高 等 女 学 校 )とし て 再 び 収 められた 84 ここで 國 民 が 皇 國 臣 民 に 変 わり 青 少 年 の 年 齢 と 性 別 によって 忠 誠 の 内 容 に 若 干 の 違 いがあったが 忠 に 集 中 して 強 調 した 点 は 共 通 している 1941 年 12 月 に 日 本 はハワイの 真 珠 湾 を 奇 襲 攻 撃 し 太 平 洋 戦 争 を 起 こした 陸 軍 省 軍 務 局 軍 事 課 は 新 たな 戦 況 により 需 要 が 予 想 される 兵 力 資 源 を 充 当 するため 朝 鮮 での 徴 兵 制 の 実 施 を 検 討 した ついに1942 年 5 月 8 日 日 本 内 閣 は 朝 鮮 で 徴 兵 制 を 実 施 することを 決 定 し 9 日 にこの 事 実 を 公 布 した 85 81 志 願 兵 制 度 に 関 しては 宮 田 節 子 志 願 兵 制 度 の 展 開 とその 意 義 朝 鮮 民 衆 と 皇 民 化 政 策 未 来 社 1985 年 ; 姜 昌 一 中 日 戦 争 以 後 の 日 帝 の 朝 鮮 人 軍 事 動 員 韓 日 間 未 清 算 の 課 題 アジア 文 化 社 ( 중일전쟁 이후, 일제의 조선인 군사동원 한일간 미청산의 과제 아세아문화사) 1997 年 283-294 頁 82 密 受 第 1562 号 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 ニ 関 スル 件 (1937.12.14) 陸 軍 省 密 大 日 記 S12-1 698 頁 朝 鮮 軍 司 令 部 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 ニ 関 スル 意 見 (1937.6) の 一 部 である 83 密 受 第 1562 号 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 ニ 関 スル 件 (1937.12.14) 陸 軍 省 密 大 日 記 S12-1 751-755 頁 朝 鮮 総 督 府 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 実 施 要 領 (1937.11) の 一 部 である 84 文 教 の 朝 鮮 152 号 1938 年 4 月 25 頁 48 頁 60 頁 85 徴 兵 制 制 定 の 過 程 は 宮 田 節 子 徴 兵 制 度 の 展 開 前 掲 書 96-103 頁 ; 姜 昌 一 中 日 戦 争 以 後 の 日 帝 の 朝 鮮 427

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 日 本 がたとえ 徴 兵 制 の 実 施 が 内 鮮 一 体 を 真 に 具 現 したもので 皇 国 臣 民 に 与 える 特 権 であり 大 東 亜 共 栄 圏 内 での 朝 鮮 人 の 指 導 的 地 位 を 保 障 する 装 置 であると 宣 伝 しても 朝 鮮 の 現 実 は こ れを 受 容 するほどの 精 神 的 教 育 的 準 備 がまだできていない 状 態 であった 86 日 本 は 戦 況 につら れて 徴 兵 制 を 強 行 しようとしたのである そして 朝 鮮 総 督 府 は1942 年 10 月 に 朝 鮮 青 年 特 別 錬 成 令 を 発 表 し 17 歳 以 上 21 歳 未 満 の 朝 鮮 人 男 子 を 対 象 に 日 本 語 教 育 と 精 神 教 育 を 徹 底 して 実 施 すると 発 表 し 12 月 には 1946 年 から 義 務 教 育 制 を 実 施 すると 発 表 した また 同 年 5 月 に 国 語 普 及 運 動 要 項 が 公 布 されてから 国 語 常 用 全 解 運 動 が 実 施 された 陸 軍 特 別 志 願 兵 制 度 が 日 本 の 皇 民 化 政 策 を 牽 引 する 役 割 を 果 たしたとすれば 徴 兵 制 度 はこの 政 策 を 全 面 化 する 役 割 を 担 った こうしたなか 先 鋭 化 する 矛 盾 によって 自 らを 否 定 する 空 洞 化 の 現 状 が 深 まった 87 徴 兵 制 は1944 年 から 実 施 されたが 本 格 的 には1945 年 からだった 前 で 引 用 したように 朝 鮮 軍 徴 兵 主 任 参 謀 だった 吉 田 俊 隈 によれば 学 徒 志 願 兵 を 含 め 約 2 万 の 志 願 兵 と 約 40 万 の 徴 兵 が 実 施 されたと 回 顧 している 88 ところが 1944 年 の 第 1 次 徴 兵 検 査 者 23 万 人 余 りのうち 現 役 兵 に 入 隊 した 者 は 陸 海 軍 合 わせて5 万 5 千 人 余 りに 過 ぎず 残 りの 大 部 分 は 補 充 兵 判 定 を 受 けた また 1945 年 度 の 徴 兵 検 査 対 象 者 も22 万 人 余 りだった そうだとすれば 約 34 万 5 千 人 の 徴 兵 者 をどのよ うに 説 明 すべきだろうか 記 録 によれば 第 1 次 徴 兵 検 査 が 実 施 された 後 大 部 分 の 補 充 兵 らは 在 郷 で 待 機 したり 本 土 の 兵 批 鞏 化 のために 順 序 どおり 各 勤 務 隊 現 地 の 自 活 要 員 として 召 集 された 89 ここで1945 年 に 大 規 模 な 動 員 があったことがわかるが 吉 田 が 述 べる 勤 務 隊 と 自 活 要 員 とは 何 だろうか 1945 年 8 月 現 在 済 州 島 を 除 いた 第 17 方 面 軍 の 部 隊 は 野 戦 部 隊 要 塞 部 隊 軍 管 師 管 区 部 隊 などとともに 野 戦 勤 務 隊 特 設 勤 務 隊 特 設 警 備 部 隊 などに 区 分 された 90 勤 務 隊 は 各 種 の 軍 事 施 設 を 警 備 し 陣 地 構 築 と 貨 物 輸 送 飛 行 場 道 路 港 湾 などを 建 設 し 対 米 対 ソ 作 戦 準 備 が 進 められている 全 ての 場 所 に 動 員 された 部 隊 であった また 自 活 要 員 と 農 耕 勤 務 要 員 は 日 本 本 土 を 防 御 するのに 最 大 の 障 害 要 因 の 一 つであった 食 糧 問 題 を 軍 が 自 ら 解 決 しようという 意 図 で 結 成 された 部 隊 であり 農 耕 地 を 開 拓 してサツマイモを 主 に 生 産 した 91 結 局 1945 年 度 の 徴 兵 朝 鮮 人 の 大 部 分 が 現 役 兵 すなわち 戦 闘 部 隊 員 ではない 労 務 者 として 徴 兵 されたのである 92 人 軍 事 動 員 前 掲 書 294-302 頁 を 参 照 86 宮 田 節 子 徴 兵 制 度 の 展 開 同 書 105-109 頁 を 参 照 87 学 校 教 育 など 青 少 年 層 でこのよう な 現 象 が 端 的 に 現 れたが これに 関 しては ピョ ン ウンジン 日 帝 の 植 民 統 治 論 理 及 び 政 策 に 対 する 朝 鮮 民 衆 の 認 識 (1937-45) (변은진 일제의 식민통치논리 및 정책에 대한 조선민중의 인식(1937-45) ) 韓 国 独 立 運 動 史 研 究 14 号 2000 年 9 月 ; 辛 珠 柏 日 帝 の 教 育 政 策 と 学 生 の 勤 労 動 員 (1943-1945)(일제의 교육정책과 학생의 근로동원(1943-1945)) 歴 史 教 育 78 号 2001 年 6 月 を 参 照 88 吉 田 俊 隈 朝 鮮 軍 歴 史 別 冊 朝 鮮 人 志 願 兵 徴 兵 の 梗 概 22 頁 実 際 に 陸 軍 のみを 勘 案 すれば 志 願 兵 は 20,723 人 で( 朝 鮮 軍 概 要 史 83 頁 ) 海 軍 を 含 めても23,723 人 程 度 だった 日 本 入 国 管 理 局 の 調 査 によれば 第 二 次 大 戦 時 に 動 員 された 朝 鮮 人 軍 人 軍 属 は364,186 人 だった( 第 2 次 大 戦 に 動 員 された 朝 鮮 人 の 軍 人 軍 属 に ついて(1955.6) ) この 数 字 の 信 憑 性 は 検 討 しなければならないが 大 まかな 規 模 は 窺 い 知 ることができる 統 計 で ある 89 吉 田 俊 隈 朝 鮮 軍 歴 史 別 冊 朝 鮮 人 志 願 兵 徴 兵 の 梗 概 18 頁 90 第 17 方 面 軍 作 戦 準 備 史 の 付 表 4 91 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 戦 史 室 陸 軍 軍 戦 備 1979 年 471 頁 92 兵 士 労 務 動 員 の 全 般 的 な 実 像 については 辛 珠 柏 1945 年 韓 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 前 掲 書 49 200-207 頁 を 参 照 428

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 第 17 方 面 軍 は 大 規 模 な 兵 士 労 務 動 員 を 安 定 的 かつ 機 動 力 をもって 実 行 するため 5 月 16 日 付 の 勅 令 第 300 号 で 徴 兵 事 務 を 軍 管 区 師 管 区 地 区 司 令 管 区 ( 兵 士 区 )で 直 接 処 理 するよう 改 定 した 93 したがって 終 局 における 総 力 戦 の 状 況 のなかで 徴 兵 を 通 じて 大 規 模 に 動 員 された 朝 鮮 人 労 務 部 隊 は 筆 者 が 資 料 に 依 拠 して 提 示 したものよりはるかに 多 かった 可 能 性 が 高 い 結 局 人 的 な 側 面 から 強 制 動 員 史 を 整 理 すれば 労 働 力 として 徴 兵 された 兵 士 労 務 動 員 が1945 年 度 の 強 制 動 員 史 の 特 徴 であると 見 るべきである 94 7. おわりに 以 上 で 1880 年 から1945 年 に 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 の 編 制 と 主 要 政 策 を 簡 略 に 検 討 した ここ では 本 稿 の 内 容 を 要 約 するよりは 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 が 日 本 の 支 配 秩 序 に 占 める 位 置 付 けと 役 割 韓 国 現 代 史 に 及 ぼした 影 響 について 簡 略 に 言 及 することで 結 論 に 代 えたい 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 は 本 国 の 対 外 侵 略 政 策 に 必 要 な 要 求 を 実 現 する 先 鋒 隊 であった 1910 年 以 前 には 朝 鮮 の 植 民 地 化 のために 大 韓 帝 国 の 武 力 を 除 去 し 大 韓 帝 国 に 対 する 独 占 的 な 既 得 権 を 国 際 社 会 から 認 められるための 先 鋒 だった 朝 鮮 を 植 民 地 にした 後 日 本 帝 国 主 義 の 統 治 力 を 大 衆 の 日 常 にまで 及 ぼすための 力 の 源 泉 であった こうして 植 民 地 朝 鮮 における 治 安 維 持 がある 程 度 安 定 すると 1920 年 代 には 日 本 の 中 国 外 交 政 策 に 積 極 的 に 賛 同 し そればかりか 先 んじることすらあった そのようにして 日 本 の 軍 国 主 義 化 を 先 導 することもあった 軍 国 主 義 化 の 果 ては 拡 戦 と 敗 亡 であったが 朝 鮮 に 駐 屯 していた 日 本 軍 は 日 常 的 戦 時 動 員 体 制 を 確 立 していく 過 程 で 朝 鮮 の 最 高 位 から 末 端 の 機 構 までをも 実 質 的 に 支 配 し 調 整 した この 過 程 で 朝 鮮 半 島 駐 屯 日 本 軍 の 主 張 と 態 度 が 本 国 の 政 策 をも 変 える 場 合 もあった 1944 45 年 には40 万 人 余 りの 朝 鮮 人 が 日 本 軍 で 服 務 した 経 験 をもった 1945 年 以 後 韓 国 社 会 は 親 日 残 滓 をきちんと 清 算 できないまま 親 日 勢 力 により 社 会 が 実 質 的 に 支 配 された 植 民 地 期 のこうした 経 験 は 人 命 を 軽 視 し 軍 隊 が 政 治 に 関 与 し 正 当 な 道 徳 的 名 分 と 手 続 き 的 合 法 性 による 民 主 主 義 を 無 視 することになり 全 体 よりも 個 人 を 優 先 する 社 会 的 雰 囲 気 を 助 長 し 真 の 機 会 主 義 者 らが 勢 力 を 伸 ばす 社 会 を 作 るのに 影 響 を 及 ぼした 93 防 衛 庁 防 衛 研 究 所 戦 史 室 陸 軍 軍 戦 備 488 頁 94 辛 珠 柏 1945 年 韓 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 前 掲 書 49 206 頁 429

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 地 図 地 図 1 韓 国 駐 箚 軍 配 置 図 (1909 年 6 月 ) 出 典 : 辛 珠 柏 湖 南 義 兵 に 対 する 日 本 軍 憲 兵 警 察 の 弾 圧 作 戦 歴 史 教 育 87 号 2003 年 430

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 地 図 2 南 韓 大 討 伐 作 戦 ( 第 1 2 次 計 画 ) と 第 1 2 連 隊 作 戦 区 域 出 典 : 辛 珠 柏 湖 南 義 兵 に 対 する 日 本 軍 憲 兵 警 察 の 弾 圧 作 戦 歴 史 教 育 87 号 2003 年 431

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 地 図 3 第 17 方 面 軍 の 対 米 作 戦 配 置 図 出 典 : 辛 珠 柏 1945 年 韓 半 島 における 日 本 軍 の 本 土 決 戦 準 備 歴 史 と 現 実 49 号 2003 年 432

朝 鮮 侵 略 と 支 配 の 物 理 的 基 盤 としての 朝 鮮 軍 姜 昌 一 批 評 文 ( 森 山 茂 徳 ) 本 研 究 は 1880 年 から1945 年 まで 朝 鮮 に 駐 屯 した 日 本 軍 以 下 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 の 変 遷 を 編 成 と 主 要 政 策 の 両 面 から 分 析 したものである まず 序 文 では 研 究 動 向 が 言 及 される 日 本 では 駐 韓 日 本 軍 の 研 究 がほとんどなかったが その 理 由 は 他 の 海 外 駐 屯 軍 に 比 して 駐 韓 日 本 軍 の 比 重 が 低 く また 植 民 地 史 研 究 それ 自 体 が 欠 落 してい たためである 他 方 韓 国 では 資 料 の 制 約 から 研 究 は 皆 無 に 近 く また 韓 国 軍 事 史 では 植 民 地 期 は 光 復 軍 と 独 立 軍 の 武 装 闘 争 史 で 説 明 されてきた しかし 韓 国 現 代 史 を 正 確 に 解 明 するためには 日 本 軍 の 研 究 は 不 可 欠 である 以 下 各 章 で 強 調 される 諸 点 は 次 の 通 りである 第 一 に 1880 年 から1904 年 まで 公 使 館 随 行 員 から 出 発 した 駐 屯 日 本 軍 は 壬 午 軍 乱 から 甲 申 政 変 さらに 日 清 戦 争 へといたる 過 程 で 拡 大 し 1903 年 には 韓 国 駐 箚 隊 司 令 部 がソウルに 設 置 された 軍 の 役 割 は 影 響 力 拡 大 の 背 景 から 朝 鮮 政 府 への 干 渉 および 操 縦 にあった 第 二 に 1904 年 から1910 年 まで 日 露 戦 時 に 韓 国 駐 箚 軍 が 編 成 され 戦 後 に2 個 師 団 体 制 が 整 えら れた その 主 目 的 はロシアの 復 讐 戦 に 備 えるためであり 国 内 治 安 維 持 にも 憲 兵 が 顧 問 警 察 などととも に 当 たった 1907 年 丁 未 条 約 で 韓 国 軍 隊 を 解 散 させたが それは 義 兵 闘 争 を 引 き 起 こした 軍 は 大 討 伐 作 戦 を 実 施 し 1909 年 国 内 での 組 織 的 抗 日 闘 争 勢 力 を 消 滅 させた 義 兵 運 動 に 対 する 弾 圧 作 戦 は 当 初 の 弾 圧 一 辺 倒 から 懐 柔 戦 術 の 採 用 となり 以 後 大 討 伐 作 戦 は 地 区 別 作 戦 の 第 1 次 計 画 次 いで 帰 順 政 策 を 復 活 させた 第 2 次 計 画 として 展 開 された 第 三 に 1910 年 から1919 年 まで 韓 国 併 合 で 韓 国 駐 箚 軍 は 朝 鮮 駐 箚 軍 に 改 編 され 後 に 駐 屯 軍 とし て 常 駐 が 図 られる 指 揮 権 のうち 軍 令 部 分 は 陸 軍 大 臣 統 治 部 分 は 総 督 と 区 分 されたが 総 督 は 出 動 命 令 権 をもった また 作 戦 圏 域 はロシアの 復 讐 戦 に 備 えた 広 大 な 地 域 であった さらに 当 初 の 主 た る 任 務 は 義 兵 残 存 勢 力 の 弾 圧 であり その 後 は 憲 兵 隊 が 治 安 維 持 に 当 たった 憲 兵 隊 は 総 督 政 治 の 一 層 の 普 及 のために 分 散 配 置 され 朝 鮮 人 はその 影 から 逃 れることはできな かった その 職 員 数 は7900 人 前 後 であったが 財 政 逼 迫 で 大 きな 変 動 はなかった 第 四 に 1919 年 から1937 年 まで まず3 1 運 動 の 結 果 総 督 は 出 動 要 請 権 をもつこととなり 憲 兵 警 察 制 が 普 通 警 察 制 に 転 換 され 憲 兵 の 国 境 監 視 統 制 業 務 は 警 察 が 代 行 することとなり 憲 兵 の 分 散 配 置 も 集 中 配 置 に 変 わり 3 後 4 個 の 国 境 守 備 隊 が 置 かれることとなった また 3 1 運 動 後 軍 は 朝 鮮 の 現 実 問 題 に 直 接 介 入 せず 専 ら 対 ロ 作 戦 に 備 えた しかるに 1920 年 には 間 島 に 侵 略 し 1931 年 の 満 州 事 変 に 際 しては 越 境 した 前 者 は 抗 日 武 装 闘 争 の 弾 圧 のため 後 者 は 関 東 軍 の 後 方 防 衛 のためであった こうして 軍 は 次 第 に 後 方 基 地 化 していく 第 五 に 1937 年 から1945 年 まで 日 中 戦 争 開 始 に 伴 い 朝 鮮 軍 は 中 国 に 投 入 され 部 隊 も 増 設 された しかし それ 以 上 に 重 要 な 変 化 は 支 配 政 策 への 全 面 的 関 与 であった 国 家 総 力 戦 体 制 期 には 軍 は 人 的 物 的 資 源 の 動 員 の 中 心 に 位 置 した さらに 太 平 洋 戦 争 開 始 に 伴 って 第 30 師 団 が 編 成 され 他 方 で 戦 況 に 合 わせて 南 方 戦 線 に 派 遣 された 1945 年 には 本 土 決 戦 に 備 えるべく 対 ロ 戦 に 加 えて 対 米 戦 への 備 えが 施 されるとともに 動 員 と 物 資 輸 送 の 極 大 化 を 図 った この 時 期 の 最 大 の 課 題 は 兵 力 資 源 の 動 員 であり それは1938 年 の 朝 鮮 人 志 願 兵 制 度 として さらに 433

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 8 章 朝 鮮 駐 屯 日 本 軍 1944 年 からの 徴 兵 制 実 施 として 実 現 したが 実 態 は 兵 士 労 務 動 員 であった 最 後 に 約 40 万 人 が 日 本 軍 で 服 務 した 経 験 をもったことは 解 放 後 親 日 残 滓 を 清 算 できなかったこ ともあり 軍 隊 の 政 治 関 与 など 韓 国 現 代 史 に 大 きな 影 響 を 及 ぼすこととなった 以 上 のように 本 研 究 は 日 本 軍 の 編 成 および 政 策 の 変 遷 に 焦 点 を 当 て 韓 国 近 現 代 史 における 独 自 の 役 割 を 実 証 的 に 辿 ったものである 本 研 究 で 言 及 されているように この 分 野 の 研 究 は 資 料 の 制 約 から 少 なく 貴 重 な 研 究 といえよう しかし 次 のように 問 題 はないわけではない 第 一 に 資 料 制 約 上 やむをえないが 軍 の 制 度 的 変 遷 ないし 支 配 政 策 に 果 した 役 割 はある 程 度 明 ら かになったが 例 えば 師 団 レベル さらに 連 隊 レベルの 行 動 など 駐 韓 日 本 軍 の 実 際 の 行 動 が 必 ずし も 十 分 に 明 らかになったとは 言 いがたい より 一 層 の 資 料 収 集 と 分 析 が 望 まれる 第 二 に そのことは 駐 屯 軍 の 日 常 業 務 が 如 何 なるものであったのか という 疑 問 を 生 じさせる 確 かに 義 兵 運 動 が 盛 んな 時 は 弾 圧 に 従 事 したであろうが 1920 年 代 に 本 来 の 対 ロ 戦 に 備 える 任 務 に 復 帰 した 後 はどうだったのであろうか また 朝 鮮 社 会 とどのような 関 係 をもったのか 軍 といえども 例 えば 軍 需 品 供 給 など 人 的 物 的 交 流 をもたなかった 筈 はない 第 三 に 上 と 関 連 して 日 本 軍 が 支 配 政 策 に 果 した 役 割 とは 一 体 何 であったのか 確 かに 侵 略 の 物 理 的 基 盤 であり 尖 兵 であり 時 には 朝 鮮 国 外 への 侵 略 も 行 ったが それらは 一 般 的 に 指 摘 できる ことであり 必 ずしも 十 分 に 実 証 されたわけではない また それと 関 連 して 朝 鮮 総 督 についてと 同 様 本 国 軍 部 との 関 係 とくに 昇 進 を 含 む 人 事 制 度 は どうであったのか 総 督 と 司 令 官 との 関 係 も 重 要 であ る そして 不 明 部 分 の 多 い 軍 財 政 の 実 態 解 明 も 課 題 である 以 上 のように 究 明 されるべき 問 題 は 膨 大 である しかし 研 究 者 数 研 究 体 制 資 料 収 集 状 況 など 制 約 要 素 も 膨 大 である そのような 制 約 の 中 での 研 究 として 本 研 究 は 評 価 できよう 434