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(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 ( 各 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 例 ) ( 例 ) 15 (H2) (H2) (H24) (H24) (H25.4.1) (H25.4.1) (H24) (H24)

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(4) 武 力 攻 撃 原 子 力 災 害 合 同 対 策 協 議 会 との 連 携 1 市 は 国 の 現 地 対 策 本 部 長 が 運 営 する 武 力 攻 撃 原 子 力 災 害 合 同 対 策 協 議 会 に 職 員 を 派 遣 するなど 同 協 議 会 と 必 要 な 連 携 を 図 る

技 能 労 務 職 公 務 員 民 間 参 考 区 分 平 均 年 齢 職 員 数 平 均 給 与 月 額 平 均 給 与 月 額 平 均 給 料 月 額 (A) ( 国 ベース) 平 均 年 齢 平 均 給 与 月 額 対 応 する 民 間 の 類 似 職 種 東 庄 町 51.3 歳 18 77


18 国立高等専門学校機構

スライド 1

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2 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 役 名 法 人 の 長 理 事 理 事 ( 非 常 勤 ) 平 成 25 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 16,936 10,654 4,36

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 135, , ,900 2

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預 金 を 確 保 しつつ 資 金 調 達 手 段 も 確 保 する 収 益 性 を 示 す 指 標 として 営 業 利 益 率 を 採 用 し 営 業 利 益 率 の 目 安 となる 数 値 を 公 表 する 株 主 の 皆 様 への 還 元 については 持 続 的 な 成 長 による 配 当 可

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 185,8 222,9 261,9 289,2 32,6 最 高 号 給 の 給 料 月 額 243,7 37,8 35

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( 補 助 金 等 交 付 決 定 通 知 に 加 える 条 件 ) 第 7 条 市 長 は 交 付 規 則 第 11 条 に 規 定 するところにより 補 助 金 の 交 付 決 定 に 際 し 次 に 掲 げる 条 件 を 付 するものとする (1) 事 業 完 了 後 に 消 費 税 及 び

定款


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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 135, , , , , ,600

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技 能 労 務 職 平 均 年 齢 歳,7 平 均 給 料 月 額 歳 7,,8, 歳,9,57, 7,7 7,9 9,5 - (8,85) (5,) 類 似 団 体 5. 歳 9,8 9, 85, ( 注 ) 平 均 給 料 月 額 とは 平 成 5 年 月 日 現 在 における

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 2 年 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与 抑 制 措 置 を 行 う 前 のものです ( 単 位 : ) 3 職 員 の 平 均 給 与 月

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職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 年 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 福 岡 県 技 能 労 務 職 歳 1,19,98 9,9 歳 8,

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 135,6 243,7 2 級 185,8 37,8 3 級 4 級 222,9 354,7 ( 注 )

別 紙 軽 費 老 人 ホームの 収 入 認 定 について 平 成 22 年 3 月 9 日 千 葉 県 健 康 福 祉 部 高 齢 者 福 祉 課 本 紙 は 平 成 18 年 1 月 24 日 老 発 第 号 厚 生 労 働 省 老 健 局 長 通 知 老 人 保 護 措 置 費

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(5) 給 与 改 定 の 状 況 事 委 員 会 の 設 置 なし 1 月 例 給 事 委 員 会 の 勧 告 民 間 給 与 公 務 員 給 与 較 差 勧 告 A B A-B ( 改 定 率 ) 給 与 改 定 率 ( 参 考 ) 国 の 改 定 率 24 年 度 円 円 円 円 ( ) 改

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(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている 総 合 的

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : 円 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135, , , , , ,600 最

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 161,7 222,9 261,9 289,2 32,6 366,2 41

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Ⅶ 東 海 地 震 に 関 して 注 意 情 報 発 表 時 及 び 警 戒 宣 言 発 令 時 の 対 応 大 規 模 地 震 対 策 特 別 措 置 法 第 6 条 の 規 定 に 基 づき 本 県 の 東 海 地 震 に 係 る 地 震 防 災 対 策 強 化 地 域 において 東 海 地 震

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(5) 給 与 改 定 の 状 況 該 当 なし ( 事 委 員 会 を 設 置 していないため) 1 月 例 給 事 委 員 会 の 勧 告 ( 参 考 ) 民 間 給 与 公 務 員 給 与 較 差 勧 告 給 与 改 定 率 国 の 改 定 率 A B AB ( 改 定 率 ) 年 度 ( )

一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 3 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 級 3 級 4 級 5 級 6 級 単 位 : ( ) 7 級 1 号 給 の 給 料 月 額 137, 163,7 4,9 31,4 71, 33,3 359,7 最 高 号 給 の 給 料 月 額

一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (4 年 4 月 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 級 級 級 4 級 5 級 号 給 の 給 料 月 額 5, 85,,9,9 89, 最 高 号 給 の 給 料 月 額 4,7 7,8 54,7 88, 4, ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与


(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 H H H5.4.1 ( 参 考 値 ) 97.1 H H H H5.4.1 H H5.4.1 ( 参 考

Transcription:

トロイツカヤ Н. A.( 訳 : 有 泉 和 子 ) ロシア 極 東 アルヒーフ 文 書 に 見 られる 日 本 および 日 本 人 ロシア 極 東 は ロシア 国 家 機 構 の 辺 境 で 国 境 沿 いに 位 置 していることから 国 際 的 な 地 域 相 互 関 係 の 舞 台 となる 19 世 紀 半 ばには 太 平 洋 沿 岸 においてヨーロッパとアジアの 国 々 とりわけロシア 中 国 朝 鮮 および 日 本 の 利 害 が 衝 突 した ロシア 帝 国 に 関 して 言 えば 高 度 な 国 家 的 政 策 の 課 題 は 大 部 分 においてロシア 極 東 地 域 の 外 において 決 定 されていた これに 対 してロシア 極 東 では 民 族 間 の 直 接 接 触 すなわち 認 識 受 容 協 力 あるいは 対 立 が 現 実 のものとしてあった ロシアの 学 者 による 著 作 物 に 従 えば ロシア 人 が 日 本 について 知 り 得 たのは キプチャ ク ハーン 国 およびヨーロッパ 諸 国 から 入 ってくる 情 報 によるもので 1 かなり 早 い 時 期 すなわち 13 世 紀 から 14 世 紀 にかけてであった マルコ ポーロが 記 したところによれば 日 本 は 宮 殿 の 屋 根 も 金 できている 神 秘 に 満 ちた 豊 かな 国 であった 17 世 紀 にロシア 人 は 太 平 洋 岸 に 出 て おとぎの 国 のすぐ 近 くまで 接 近 した 18 世 紀 にロシアの 皇 帝 たちはすでに 日 本 の 存 在 を 知 っていたばかりでなく 対 日 関 係 締 結 の 方 策 を 模 索 している ただ 日 本 についての 知 識 は 島 なのか 半 島 なのか 地 理 的 にも 完 全 には 確 定 されていなかった 海 自 体 も 当 時 のロシアの 地 図 では 朝 鮮 海 東 海 の 名 称 で 記 されている 2 ロシアで 日 本 語 学 習 の 試 みが 初 めてなされたのもその 時 期 のことである 以 後 事 態 は 飛 躍 的 に 展 開 し 19 世 紀 には 多 くは 露 米 会 社 の 活 動 のおかげで ロシア 人 は 太 平 洋 沿 岸 をさらによく 知 ることとなり その 地 域 についての 知 識 は 一 段 と 完 全 なもの となり 利 害 関 係 もいっそう 明 確 となった 課 題 はひとつ 積 極 的 なヨーロッパ 人 とり わけイギリス 人 とフランス 人 に 対 峙 することであった 極 東 諸 国 との 直 接 的 な 接 触 関 係 を 持 つようになって 以 後 勢 力 を 扶 植 しつつある 地 域 で 自 国 の 立 場 の 弱 さを 認 識 したロシア は 隣 国 と 最 大 限 の 友 好 関 係 を 結 ぶことにより 生 じた 問 題 を 友 誼 的 に 解 決 すること を 目 指 した その 結 果 日 本 を 含 めた 隣 接 諸 国 と 一 連 の 互 恵 的 な 条 約 が 結 ばれた ロシアの 海 軍 軍 人 は 入 港 可 能 な 港 真 水 石 炭 そして 食 糧 について 直 接 的 な 関 心 を 持 っており その 限 りにおいて 日 本 の 開 国 に 積 極 的 に 関 与 した 日 本 自 体 の 近 代 化 が 始 まったことにより 認 識 過 程 は 相 互 的 なものとなり さらに 海 洋 部 のみならず 大 陸 部 においても 利 害 の 衝 突 を 生 じるに 至 った 日 露 戦 争 は 双 方 の 権 益 要 求 に 対 する 総 決 算 で あり 日 本 はサハリンの 半 分 とロシア 水 域 における 漁 業 での 特 権 的 地 位 を 獲 得 はしたが 軍 事 対 立 が 展 望 のないものであることを 示 した かくも 長 い 両 国 関 係 の 展 開 過 程 が 広 汎 な 資 料 基 盤 に 反 映 されているのは 当 然 である し 1 См.: Файнберг Э. Я. Русско-японские отношения 1697-1875 гг. М., 1960; Кутаков Л. Н. Россия и Япония. М., 1988; Иванова Г. Д. Русские в Японии XIX нач. XX вв. М., 1993; Черевко К. Е. Зарождение русско-японских отношений XVII XIX вв. М., 1999 и др. 2 East Sea in Old Western Maps. Seoul, 2004. p. 150-151. 11

かし ロシア 帝 国 の 規 模 と 地 域 統 治 システムの 特 殊 性 文 書 館 の 統 廃 合 によってもたらさ れたのは これらの 資 料 総 体 の 分 散 化 という 事 態 であった 両 国 の 相 互 関 係 に 関 する 資 料 の 基 本 的 大 部 分 はモスクワとサンクト ペテルブルグにあり(ロシア 国 立 古 記 録 文 書 館 ロシア 国 立 海 軍 文 書 館 ロシア 国 立 歴 史 文 書 館 ロシア 帝 国 外 交 文 書 館 その 他 ) ロシア の 内 外 の 利 用 者 によって 頻 繁 に 使 われてきたのも これらの 資 料 集 合 体 であった 一 方 地 方 ( 地 域 ) 管 轄 の 資 料 は しばしば 研 究 者 の 視 野 の 外 に 置 かれたままであった そのような 地 方 管 轄 資 料 の 最 大 の 保 管 施 設 でありながら 利 用 者 にとって 十 分 にアクセ スできなかったのがロシア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 (РГИА ДВ) である シベリアから 当 地 域 に 文 書 館 が 返 還 されたのち 状 況 は 目 だって 変 化 した 文 書 館 は 資 料 の 請 求 が 行 えるように なった このことを 如 実 に 示 すのは 利 用 者 が 数 倍 も 増 加 したことや 日 本 人 ディアスポ ラの 形 成 と 活 動 の 問 題 をテーマとする 極 東 の 研 究 者 による 論 考 が 出 現 していることである 3 しかし 所 蔵 フォンドを 保 管 するスペースの 欠 如 職 員 の 不 足 学 術 参 考 機 器 の 老 朽 化 に 加 えて 史 料 の 大 部 分 が 手 書 きのものであることなど 問 題 は 山 積 している そのため 両 国 の 相 互 関 係 の 歴 史 に 関 するロシア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 の 資 料 の 全 体 像 を 提 示 しように も 今 のままでは 不 可 能 である この 理 由 により 本 報 告 は 断 片 的 な 性 格 のものとならざ るをえないが ここで 追 求 する 唯 一 の 目 的 は 地 方 行 政 官 庁 の 文 書 担 当 官 が 作 成 した 資 料 のなかに 入 り 込 むことによって そこに 日 露 関 係 における 多 くの 重 要 な 過 程 の 反 映 を 見 る こともできるし そうした 過 程 を 具 体 的 な 人 物 や 出 来 事 で 埋 め さらには 歴 史 記 述 上 の 事 実 をより 正 確 なものにすることもできる ということを 示 すにある 明 らかにされた 情 報 をどのように 評 価 するかは 専 門 家 がなすべき 仕 事 である その 所 蔵 になり 今 日 アクセスが 可 能 なロシア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 の 資 料 から 極 東 の ロシア 人 の 生 活 に 日 本 的 要 素 がいかに 日 常 的 な ごくありふれたものとして 存 在 していた かを 辿 ることが 可 能 となる 極 東 のロシア 人 たちは アジア 住 民 との 接 触 と 共 生 を 避 けら れないものと 受 け 取 っていた すなわちそれは 双 方 がその 中 で 自 分 たちにとっての 一 定 の 利 益 を 見 出 すような 共 存 であった これは 双 方 がお 互 いにいくらかの 優 越 感 を 抱 きな がらも 多 年 にわたり 同 一 地 域 に 住 むことを 互 いに 妨 げない 通 常 の 人 間 関 係 であった 極 東 のロシア 住 民 が 日 本 を 知 った 最 初 の 場 面 とその 後 の 対 日 知 識 の 発 展 およびこの 国 に 関 する 情 報 源 を 特 定 できるような 史 料 を 発 見 したいと 念 願 しているが 残 念 ながら 今 の ところ 成 功 するに 至 っていない 本 報 告 は 年 代 的 には 19 世 紀 後 半 から 20 世 紀 初 頭 まで に 限 定 する というのはそれより 早 い 時 期 の 資 料 はアクセスが 困 難 だからである 発 見 された 最 も 早 い 時 期 の 史 料 は 1860 年 代 初 頭 のものである フォンド 番 号 701 東 シ ベリア 総 督 府 には 日 本 政 府 による 日 本 建 造 のスクーナー 船 でのニコラエフスクへの 遠 3 См.: Моргун З. Ф. Японская диаспора во Владивостоке: страницы истории // Известия Восточного института ДВГУ. 1996. 3; Торопов А. А. К истории деятельности японской диаспоры в Приморской области в начале XX в.// Известия РГИА ДВ. Т. IV. Владивосток, 1999; Шестаков А. В. Японцы в Хабаровске в 1884-1920 гг.// Записки Гродековского музея. Вып. II. Хабаровск, 2001 и др. 12

征 隊 派 遣 について と 題 したファイルが 保 存 されている その 冒 頭 にあるのは 1861 年 5 月 12 日 に 在 箱 館 ロシア 帝 国 領 事 館 から 沿 海 州 軍 務 知 事 に 宛 てた И. A.ゴシケヴィチの 書 簡 で 洋 式 スクーナー 船 をニコラエフスクに 派 遣 するという 日 本 政 府 の 計 画 に 関 する 情 報 が 伝 えられている ゴシケヴィチ 領 事 の 要 約 によれば 遠 征 の 目 的 は 以 下 のように 多 様 で ある a) 士 官 たちに 海 上 実 地 経 験 の 機 会 を 与 えること b) 自 国 にも 導 入 するために 港 湾 水 先 案 内 その 他 についての 法 令 と 制 度 を 概 観 すること c)アムール 河 口 の 要 塞 を 視 察 す ること d) 日 本 と 我 が 国 の 極 東 諸 港 の 間 でいかなる 種 類 の 貿 易 が 可 能 かを 実 地 調 査 するこ と 4 1861 年 5 月 24 日 付 の 書 簡 で 彼 はスクーナー 船 が 翌 日 の 5 月 25 日 出 国 に 向 けて 準 備 に 入 ったことを 確 認 している 船 の 乗 組 員 は 士 官 5 名 および 20 名 の 隊 員 からなるとされた 5 領 事 はこの 出 来 事 を 日 本 人 による 洋 式 教 育 習 得 の 第 一 歩 と 評 価 し 知 事 に 対 してこの 遠 征 を 恙 なきものとし 日 本 人 が 今 後 の 発 展 の 道 を 断 念 しないよう 配 慮 を 要 請 している И. A. ゴシケヴィチとしては 領 事 館 付 きの 見 習 水 夫 または 少 年 兵 の 一 人 で ゴシ ケヴィチの 意 見 では 日 本 語 の 口 語 に 十 分 通 暁 しているというフョードル カルリオン Федор Карлион を 遠 征 隊 に 同 行 させた 箱 館 領 事 館 で 3 人 の 少 年 兵 が 教 育 を 受 けていたこ とは 文 献 から 知 られているが 6 ロシア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 に 保 存 されている И. A. ゴシケ ヴィチ 書 簡 の 自 署 ではこの 物 怖 じしない 通 訳 の 姓 の 綴 りは 我 々が 見 たところ 違 っ ている(カリオリン Кариолин) 領 事 からの 後 者 の 書 簡 がニコラエフスク ナ アムーレに 着 いたのは 1861 年 6 月 26 日 である この 時 にはすでに 日 本 海 軍 軍 人 を 迎 える 準 備 作 業 がさかん 行 われていて 軍 務 知 事 付 きの 八 等 文 官 で 特 別 任 務 を 負 ったヴァシーリイ コン スタンチノヴィチ ボディスコがその 作 業 を 委 ねられていた 居 室 はニコラエフスク 貴 族 会 の 建 物 の 中 に 設 けられ 現 地 の 建 築 家 レオンチエフが 部 屋 の 仕 上 げを 担 当 した ニコラ エフスクの 商 人 たちから ジャム リキュール 食 用 家 畜 が 買 い 入 れられた アムール 会 社 商 人 のエシポフ ジミーン その 他 から 購 入 したものに 対 する 大 量 の 請 求 書 が 上 記 フ ァイルの 中 に 綴 じ 込 まれている 7 月 27 日 づけボディスコの 報 告 から 判 断 して 日 本 のス クーナー 船 カミタ マラ Камита-Мара [= 亀 田 丸 ] はその 時 点 ですでにニコラエフスクに 到 着 している というのは ボディスコが 同 船 の 指 揮 官 を 務 めるミズノ シウドアイ Мизуно Сиудоай [= 水 野 正 太 夫 ] 艦 長 宛 てに 食 糧 を 送 っているからである 7 応 接 がどのように 行 われたか その 様 子 を 伝 えるのは 役 人 たちの 報 告 書 下 書 きの 手 書 きの 写 し( 発 信 書 類 の 写 し)である 中 でも 最 も 興 味 深 いのは 日 本 人 のニコラエフスク 滞 在 についてイルクーツクの 東 シベリア 総 督 に 宛 てた 1861 年 7 月 8 日 づけの 報 告 ( 写 し) である 日 本 人 が 到 着 した 際 沿 海 州 軍 務 知 事 П. В. カザケヴィチが 不 在 であったため 知 事 事 務 取 扱 のペトロフスキー 大 佐 が 応 接 を 指 揮 した 報 告 者 は 日 本 のスクーナー 船 艦 長 4 РГИА ДВ. Ф. 701. Оп. 1. Д. 118. 5 Там же. Л. 7. 6 Иванова Г. Д. Указ. соч. С. 39. 7 РГИА ДВ. Ф.701.Оп.1. Д. 118. Л. 21.( 編 集 者 による 補 注 : 日 本 の 人 名 企 業 名 等 については 日 本 側 資 料 によって 同 定 が 可 能 な 範 囲 内 で 漢 字 表 記 を [ ] 内 に 注 記 した 以 下 も 同 じ ) 13

との 話 し 合 いから 判 断 してこの 日 本 人 艦 長 は 町 の 視 察 以 外 には 何 ら 特 別 な 任 務 を 受 けてい ないと 記 している 8 指 摘 しておかなければならないのは 通 訳 についてのペトロフスキー の 意 見 が 領 事 が 与 えその 後 広 く 研 究 書 に 定 着 した 評 価 とは 著 しく 異 なることである ペ トロフスキーの 見 るところでは 少 年 兵 の 通 訳 は 極 めて 不 満 足 なもので 公 式 セレモニ ーにおいては 特 に 難 儀 している 日 本 海 軍 軍 人 との 意 志 疎 通 に 当 たって 大 いに 助 力 したの は シベリア 艦 隊 および 東 太 平 洋 港 湾 司 令 部 の 通 訳 フォン クフであった この 人 物 の 習 得 言 語 について 知 ることは 簡 単 ではないが 彼 の 自 筆 のメモでは スクーナー 船 の 名 前 と 艦 長 名 は 別 の 音 で 記 されており カミダ マロ Камида-маро ミズノ シュオダイ Мизуно Сюодай とされている 日 本 の 客 人 たちの 時 間 の 過 ごし 方 について 報 告 は スクーナー 船 の 上 級 士 官 は 陸 上 に 用 意 された 居 室 に 入 ったと 伝 えている 乗 組 員 たちはロシア 人 の 助 力 で 海 を 渡 った 際 に 船 が 蒙 った 損 傷 の 修 理 を 行 った 日 本 人 たちはしばしば 港 機 械 修 理 工 場 を 訪 れ 船 医 は 海 軍 病 院 で 多 くの 時 を 過 ごした 報 告 文 書 に 記 されたところによれば 何 体 かの 解 剖 およ びロシア 人 医 師 による 診 察 に 立 ち 会 った 6 月 29 日 には 客 人 のための 午 餐 会 を 商 人 ラフィ イロフが 自 分 の 経 営 するホテルのレストランで 催 した 報 告 に 付 された 手 書 きの 客 人 リストは ゴシケヴィチの 情 報 をより 正 確 にする 可 能 性 を 与 えてくれる 艦 長 を 除 いて スクーナー 船 の 士 官 として 名 が 記 載 してあるのは タキダ アヤサブル Такида Аясябру [= 武 田 斐 三 郎 ] フツィタ シウユメ Фуцита Сиуюме [= 藤 田 主 馬 ] キタオガ ケンザブル Китаока Кензабуру [= 北 岡 健 三 郎 ] ヨコセニ スキパツィロ Иокосени Скипациро [= 横 関 新 八 郎 ] 航 海 士 エビノッセ エジロ Эбиноссе Эзиро [= 蝦 子 末 二 郎 ] カツィオ ウエモン Кацио Уэмон [= 桂 右 衛 門 ] および 医 師 フカッシオ オッスン Фкассио Оссун [= 深 瀬 洋 春 ]である 日 本 名 のキリル 文 字 による 転 写 について 我 々がぶつか る 問 題 は ロシアと 日 本 の 学 者 の 共 同 努 力 によりのみ 解 決 しうる 何 故 ならば 現 存 の 手 書 きのテキストでは 日 本 語 の 語 の 音 が 正 確 に 反 映 されている 保 証 はないからである 到 着 した 乗 組 員 は 総 勢 27 人 それ 以 外 に 箱 館 から 商 人 が 2 人 やって 来 て 絹 織 物 糸 漆 製 品 青 銅 の 花 瓶 と 青 銅 の 像 絵 画 木 製 品 陶 製 品 などをニコラエフスクに 運 んできた このファイルには 日 本 の 客 人 への 贈 り 物 についての 情 報 が 含 まれていて それによれ ば ニコラエフスク 射 撃 場 所 有 のアメリカ 製 ライフル 銃 のうち 一 挺 が 付 属 品 付 きで 手 渡 さ れた 9 ニコラエフスクから 日 本 人 が 出 港 した 正 確 な 日 付 はファイルからは 特 定 することが できなかった それは 9 月 初 頭 のいずれかの 日 で スクーナー 船 艦 長 が 軍 務 知 事 П. В. カザ ケヴィチを 訪 問 した 翌 日 である 東 シベリア 総 督 に 宛 てた 知 事 の 報 告 書 279 の 草 稿 から 判 断 すると 話 の 内 容 はサハリンに 関 するもので 知 事 の 見 解 によると まさにこの 問 題 は 日 本 側 が 強 い 関 心 を 持 っていた ものであった 翌 日 輸 送 船 マンジュール 号 がスク ーナー 船 をデ カストリ 湾 まで 曳 航 し そこからは 船 は 自 力 で 帰 途 に 着 いた 8 Там же. Л. 26. 9 Там же. Л. 38. 14

別 の 早 い 時 期 の 文 書 で 日 本 のことが 記 されているものに デンマークの 大 北 電 信 中 国 = 日 本 線 会 社 (Great Northern Telegraph China and Japan Extension Company) によるウラ ジオストク 哨 所 と 長 崎 を 結 ぶ 電 信 ケーブル 線 の 敷 設 に 関 連 した 1870 年 の 史 料 があるが こ のケーブル 線 によりロシア 極 東 は 世 界 通 信 システムに 参 入 することとなったのである 10 長 崎 は さまざまな 点 から 見 て ロシア 極 東 住 民 にとって 最 も 身 近 な 港 の 一 つで 船 舶 連 絡 も 整 備 されていた この 港 は 移 住 者 が 義 勇 艦 隊 の 船 で 海 上 移 動 する 際 の 最 後 の 海 外 拠 点 であった 義 勇 艦 隊 所 属 船 の 長 崎 入 港 の 知 らせは 沿 海 州 住 民 にとって 重 要 な 情 報 的 意 味 を 持 っていた というのは 2 昼 夜 後 には 必 要 な 物 資 通 信 物 および 乗 客 をウラジオス トクで 迎 えることになるからである 1902 年 度 のファイルのひとつの 中 で 長 崎 にロシア の 船 員 会 館 が 建 造 されるという 情 報 を 発 見 することができた ウラジオストク 港 司 令 長 官 により 義 捐 会 も 創 設 され 沿 海 州 の 軍 人 たちから 建 造 資 金 を 募 集 した 11 20 世 紀 初 頭 日 本 の 港 との 定 期 航 路 は 日 本 を 含 めた 多 くの 輸 送 会 社 により 運 営 されて いた 日 本 の 港 を 経 由 してロシア 国 民 は 外 国 出 張 やヨーロッパ ロシアへの 海 上 旅 行 に 出 掛 け 日 本 で 休 息 を 取 り 療 養 もした 交 通 網 全 体 の 中 でのこれら 日 本 の 拠 点 の 持 つ 重 要 性 は それらが 港 として 整 備 され ロシアの 太 平 洋 沿 岸 に 近 いということによるものであっ た ウラジオストクから 長 崎 までの 平 均 所 要 時 間 は 51 時 間 敦 賀 までは 39 時 間 であった 敦 賀 への 定 期 航 路 は ロシア 東 アジア 船 舶 と 大 阪 商 船 会 社 の 船 が 運 航 していた 運 行 時 刻 表 は 船 客 が 鉄 道 すなわちヨーロッパ ロシアに 向 かう 急 行 列 車 を 滞 りなく 利 用 で きるよう 作 成 されていた 例 えば 1907 年 に 上 海 を 出 港 し 長 崎 に 寄 港 する 航 路 を 運 営 して いた ロシア 東 アジア 船 舶 会 社 の 船 はウラジオストクに 木 曜 日 の 朝 到 着 し 列 車 はその 日 の 夕 刻 に 出 発 するというものであった 外 国 旅 券 手 続 きに 関 する 保 存 文 書 から 判 断 して 日 本 への 出 国 はすべての 範 囲 の 住 民 にとって 煩 雑 なものではなかった 日 本 の 会 社 の 一 等 船 室 の 切 符 料 金 は 洋 食 付 きで 30 ルーブル 三 等 の 和 食 付 きはわずか 7 ルーブルというも のであった 12 日 本 との 交 流 はロシアの 企 業 活 動 にとって 最 も 重 要 な 意 味 を 持 っていた 1860 年 代 から 80 年 代 にかけて 日 本 なしでは ロシア 極 東 地 域 への 食 糧 その 他 の 生 活 必 需 品 の 安 定 した 供 給 は 不 可 能 であったであろう 日 本 という 基 盤 があってこそ 北 方 輸 送 の 最 大 手 である A. Ф. フリッペウス 所 有 の 会 社 も 活 動 できたのである 経 済 交 流 の 活 発 さを 促 進 したのは 自 由 港 制 度 で 事 実 上 ロシアの 太 平 洋 沿 岸 全 域 にわたって 1909 年 まで 存 続 した ロシア 極 東 が 日 本 の 産 業 とその 仲 介 的 役 割 にいかに 依 存 していたかは 1895 年 4 月 に 行 われた 自 由 港 に 関 するウラジオストク 市 企 業 家 会 議 の 記 録 文 書 から 明 確 に 窺 える この 会 議 は 州 当 局 により 召 集 され 関 税 対 象 商 品 として 地 域 住 民 への 負 担 が 特 にないものは 何 がありうるかという 問 題 を 討 議 するためのものであった 13 会 議 には 11 名 が 参 加 したが 10 Ф. 1. Оп. 1. Д. 289. 11 Там же. Д. 1678. Л. 502. 12 Спутник по Сибири, Маньчжурии, Амуру и Уссурийскому краю. Вып. 3. Владивосток, 1907. 13 Ф. 702. Оп. 2. Д. 437. Л. 34-114. Опубликовано: Порто-франко на Дальнем Востоке. Документы 15

地 域 最 大 の 商 人 で クンスト&アルベルス 商 会 代 表 アドルフ ダッタンは 丁 度 日 本 に 出 掛 ける 時 であったため 自 身 の 意 見 を 文 書 で 寄 せた 注 目 すべきは 日 本 市 場 と 直 接 利 害 関 係 のありうる 日 本 商 人 は 参 加 者 の 中 には 一 人 もいなかったことである 会 議 の 結 果 はお よそ 次 のようなものである 会 議 で 取 り 上 げられたロシア 極 東 への 輸 入 品 220 以 上 の 品 目 のうち 圧 倒 的 大 部 分 が 日 本 からのもので その 主 なものは 粒 のままあるいは 粉 にした 穀 物 塩 じゃがいも ガラス 製 品 家 具 履 物 紙 絹 織 物 などであった また 会 議 では 船 の 運 航 期 には 鶏 卵 果 物 などの 生 鮮 食 品 の 搬 入 が 速 いこと 輸 入 食 品 が 安 価 であること 生 産 が 寡 占 状 態 であること 等 が 取 り 上 げられた このことは 地 元 の 沿 海 州 で 発 展 しつつ あった 産 業 部 門 においてもしばしば 同 様 の 状 況 であった 例 えば 船 舶 に 不 可 欠 な 石 炭 は 最 初 地 元 で 入 手 されていたが その 原 価 は サハリンでの 囚 人 労 働 によるものと 比 べても 日 本 からの 輸 入 石 炭 の 2 倍 半 から 3 倍 高 く 品 質 は 劣 っていた 更 に 重 要 な 点 は 生 産 の 寡 占 である 具 体 的 には 籐 家 具 傘 ボタン 装 飾 品 刺 繍 のほどこされた 衣 服 ハン カチ ショールなど いわゆる 優 雅 品 の 部 類 に 入 るものがそうであって 仕 上 げの 美 しさと 隣 人 である 日 本 人 の 優 れた 技 術 はロシア 人 の 間 で 高 く 評 価 され 需 要 が 多 かった 興 味 深 いのは 美 しさにおいて 劣 る 中 国 独 自 の 製 品 は 現 地 の 広 告 物 において 優 雅 と 形 容 されているものはまずないということである 沿 海 州 における 人 口 稀 少 と 労 働 力 の 多 大 な 需 要 という 状 況 下 で 日 本 人 移 民 はその 個 人 的 資 質 によりアジア 人 の 中 で 最 も 優 れた 存 在 であった この 個 人 的 資 質 をプリアムール 総 督 С. M. ドゥホフスコイは 几 帳 面 な という 一 語 ではあるが きわめて 大 きな 内 容 を 持 つ 言 葉 で 表 した 14 このことは 鉄 道 建 設 への 日 本 人 誘 致 の 事 例 に 言 及 している 一 連 の 文 書 および 研 究 により 裏 付 けられる 日 本 人 にとって ロシアは 島 国 の 人 口 過 剰 および 1868 年 に 始 まった 西 欧 化 という 状 況 の 中 で 興 味 を 惹 く 地 域 であった 生 活 の 糧 を 求 めることが 大 陸 への 移 住 の 主 要 な 刺 激 であっ た ただし この 動 きにおいて 日 本 人 がきわめて 積 極 的 であったとは 言 えない アジア 系 移 民 の 中 で 日 本 人 は 中 国 人 朝 鮮 人 に 次 いで 常 時 3 番 目 の 位 置 にあった このことは ロ シア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 の 史 料 に 基 づいた 極 東 の 研 究 者 T. З. ポズニャク 女 史 の 最 新 の 研 究 が 裏 付 けている この 研 究 において 日 本 人 移 民 は 専 ら 都 市 部 に 居 住 し( 全 体 の 77.5%) なかでもウラジオストクに 集 中 していたことが 指 摘 されている 15 第 一 世 界 大 戦 の 始 まる 頃 にはロシア 極 東 に 居 住 する 日 本 人 の 数 は 5000 人 近 くに 上 った 中 でも 日 本 人 はサービス 分 野 の 不 足 部 分 を 埋 めた 温 厚 甲 斐 甲 斐 しさ 仕 事 熱 心 几 帳 面 さといった 国 民 的 特 徴 か ら 日 本 人 は 乳 母 洗 濯 女 ゲイシャ 医 師 写 真 師 の 上 位 を 占 めた と 同 時 に 日 本 か らの 移 民 の 結 果 もうひとつの 不 足 部 分 すなわち 人 口 学 的 不 足 部 分 が 埋 められた ロシア и материалы. Владивосток, 1998. С. 31-100. 14 Всеподданнейший отчет Приамурского генерал-губернатора С. М. Духовского за 1893-1895 гг. СПб., 1895. С. 165. 15 Позняк Т. З. Иностранные подданные в городах Дальнего Востока России. Вт. пол. XIX нач. XX в. Владивосток, 2004. С. 32. 16

極 東 は 恒 常 的 な 女 性 住 民 の 不 足 状 態 にあって そのことが 地 域 開 発 の 不 安 定 要 因 となって いた この 地 域 における 日 本 人 移 民 の 特 徴 は 女 性 が 数 的 に 優 っていたことである 男 性 は 季 節 労 働 で 滞 在 するのが 一 般 的 であった 我 々の 文 書 館 のファイルには 外 国 人 一 時 居 住 者 に 出 された 大 量 の 証 明 書 および 旅 券 が 保 存 されている これらは 素 晴 らしい 原 史 料 の 山 であるが 残 念 ながら 今 のところ 個 人 情 報 源 として 利 用 されるに 留 まっている このことは 正 当 とは 言 えない というのは これ らの 史 料 に 基 づいて 移 民 の 性 格 ロシア 滞 在 および 居 住 の 条 件 年 齢 構 成 その 他 に 関 する 興 味 深 い 結 論 を 得 ることができるからである ロシア 帝 国 内 における 外 国 人 の 合 法 的 居 住 は 日 本 国 の 旅 券 に 基 づき 現 地 当 局 により 発 行 された いわゆる 居 住 券 があって 初 めて 可 能 であった 日 本 人 移 民 に 対 する 旅 券 は 日 本 政 府 ( 外 務 省 )およびウラジオストクのあ る 貿 易 事 務 館 のいずれかにより 発 行 された 居 住 券 は 1 年 期 限 で 発 行 され ロシア 帝 国 内 であればどこにでも 居 住 する 権 利 を 与 えるもので 宗 教 外 的 特 徴 年 齢 家 庭 状 況 とい った 個 人 情 報 が 記 載 されている 残 念 なことに 必 ずしもすべての 欄 が 記 入 されているわ けではなく 多 くの 場 合 年 齢 と 名 前 のみである 性 別 は 登 録 書 式 にある 国 民 を 意 味 するロシア 語 が 男 性 形 か 女 性 形 かで 特 定 される 唯 一 フォンド 番 号 1 の 中 にある 1898-99 年 度 の 沿 海 州 局 のファイル 1608 の 中 に ニコラエフスク ウラジオストク ハバロ フスクに 居 住 しこの 年 に 居 住 券 を 受 領 した 54 名 の 日 本 人 ナカタニ コジロ Накатани Козиро ヤマモト ジュタロ Ямамото Жутаро オガワ センゾー Огава Сензоо ミヤモト シンギチ Миямото Сингичи サカタ ミエザ Саката Миеза その 他 の 旅 券 情 報 が 残 されて いる これらのうち 34 枚 の 居 住 券 の 受 領 者 は 女 性 で その 60% 以 上 を 占 めている 移 民 の 年 齢 は 20 歳 から 45 歳 の 幅 があるが 最 も 多 いのは 30 代 である 全 員 が 読 み 書 きできたわ けではなく 特 に 女 性 がそうで その 場 合 は 第 三 者 が 署 名 をし 書 類 を 受 領 している 例 え ば ハト タゴ Хато Таго とマタヤム シカ Матаяму Сика にかわってマツゾノ Мацузоно が 受 領 している これらの 書 類 の 規 格 は ロシア 極 東 に 居 住 していた 日 本 女 性 はすべて 愛 の 奉 仕 者 であったという 定 説 を 幾 分 なりとも 支 持 する 根 拠 を 与 えてくれる 治 療 費 支 払 いに 対 する 市 立 病 院 の 受 領 印 はこのファイルの 中 に 保 存 されている 幾 つかの 文 書 にのみ 見 られるものである 女 性 の 不 足 という 状 況 下 では 異 なった 民 族 同 士 の 同 棲 は 自 然 な 流 れであって その 中 に はロシア 人 と 日 本 人 のケースもある これについての 具 体 的 な 状 況 を 統 計 的 数 値 で 裏 付 け ることは 現 時 点 では 不 可 能 であるが そのような 家 族 が 形 成 された 個 々の 事 例 を 文 書 の 中 に 見 ることができる 例 えば 或 るファイルの 中 から 日 本 国 民 ヨシダ イソ Иосида Исо の 申 請 書 が 発 見 された この 女 性 は ウラジオストクのマトロスカヤ スロボダに9 年 以 上 居 住 し 退 役 志 願 兵 卒 フョードル ヤコヴレヴィチ ヴァシリエフの 内 縁 の 妻 であった 二 人 の 間 には 子 供 があって 事 実 上 家 族 を 形 成 していたが 家 族 としての 法 的 認 定 はロシ ア 社 会 の 伝 統 では 不 可 能 であった この 国 際 結 婚 の 内 縁 状 態 を 正 規 化 するには ロシア 国 籍 の 取 得 とロシア 正 教 徒 となることが 不 可 欠 であった ヨシダ イソは 1894 年 6 月 16 日 17

に 上 記 ヴァシリエフの 説 得 に 従 い 正 教 の 真 理 を 確 信 し 受 洗 を 希 望 し および 結 婚 を 前 提 として ロシア 国 籍 の 取 得 申 請 をしている 16 しかしながら この 申 請 は 何 の 沙 汰 もないままおかれた というのは ロシアの 法 律 では 夫 たる 者 に 関 係 するすべての 権 利 および 財 産 は 妻 と 共 有 されるべきものであったからである このように 貞 淑 な 妻 そして 良 き 母 となった 者 を 含 め すべての 日 本 女 性 の 社 会 的 に 定 着 したあいまいな 地 位 は 構 造 的 に 規 定 されたものであった まさにこのような 個 々の 事 例 の 中 に 私 の 考 えでは 民 族 間 の 現 実 的 な 相 互 関 係 が 浮 かび 上 がってくるのであって これは 外 交 条 約 のテキストから は 見 えてこないものである 日 本 人 移 民 の 日 常 生 活 の 一 こまに 次 のようなこともある 1894 年 7 月 ハバロフスクに 居 住 する 日 本 人 が 自 分 たちの 習 慣 に 従 って 亡 くなった 日 本 人 の 火 葬 をしようとした そ のためには 警 察 署 長 チェルノフの 許 可 を 得 ることが 必 要 であったが 一 方 署 長 は 署 長 で 総 督 に 伺 いを 立 てた П. Ф. ウンテルベルゲル 総 督 は 何 らかの 法 的 制 限 がないのであれ ば 私 個 人 的 には 障 害 はないと 思 う というものであった 17 これは 多 面 的 な 生 活 のエピソ ードのひとつにすぎないが 役 人 を 含 めて 地 域 住 民 の 寛 容 性 を 明 確 に 物 語 っている 日 本 市 場 に 対 するロシア 企 業 家 の 積 極 的 な 興 味 を 考 えれば ごく 自 然 に ロシア 極 東 が 日 本 企 業 にも 同 じように 積 極 的 な 感 情 を 呼 び 起 こしたはずであると 考 えることができる しかしながら すでに 指 摘 したように ロシア 極 東 にはこれといった 日 本 の 大 資 本 は 存 在 していなかった おそらくこのことは 世 界 資 本 システムへの 日 本 の 参 入 がかなり 遅 かっ たということから 生 じた 結 果 であるが ロシア 当 局 側 からの 当 該 分 野 における 特 定 の 障 壁 と 制 限 が 存 在 していたことも 原 因 になっていたと 思 われる ウラジオストクで 活 動 していた 最 も 早 い 時 期 の 商 館 のひとつに ウラジオストク 第 一 級 商 人 マタヘイ マイダ Матахей Маида [= 前 田 又 平 ] の 所 有 するボウエキショウカイ Боэкисиокай [= 東 京 貿 易 商 会 ] がある(ペキンスカヤ 通 り 59 番 地 ) 18 1907 年 度 の 住 所 録 に 記 載 されているところによれば 当 時 ウラジオストクで 活 動 していたのは 貿 易 商 社 5 社 (ヤマト Ямато [= 大 和 商 会 ] スギウラ Сугиура [= 杉 浦 商 会 ] キョウシンシャ Киосинша [= 協 信 洋 行 ] セイシ 商 会 Сейси Сиокай イマニシ Иманиси [= 今 西 商 会 ]) コバヤシ Кобаяси [= 小 林 ] 果 汁 工 場 船 舶 会 社 代 理 店 3 社 (ニッポンユウセンカイシャ Ниппон-Юсен-Кайша [= 日 本 郵 船 会 社 ] ソイト Сойто オオサカショウセンカイシャ Осака-Сиосен-Кайша [= 大 阪 商 船 会 社 ] また ハバロフスクでは 歯 科 医 カナヤマ Канаяма が 診 療 を 行 っていた ニコ ラエフスクの 大 手 商 人 のひとりに 日 本 人 П. シマド Симадо [= 島 田 元 太 郎 ]がいた 同 種 の 便 覧 類 の 出 版 者 の 収 集 した 情 報 の 不 十 分 さおよび 編 纂 時 期 を 考 慮 しても 露 日 戦 争 後 の 時 期 は 相 当 規 模 の 日 本 商 人 および 企 業 はそれほど 多 くはなかった 日 本 企 業 の 興 味 を 実 際 に 惹 いた 唯 一 の 分 野 は 魚 およびその 他 の 海 産 物 採 取 で 日 本 人 季 節 労 働 者 の 基 本 的 大 部 分 がこの 分 野 に 従 事 していて(1913 年 には 1 万 6000 人 以 上 ) 日 本 16 Ф. 1. Оп. 1. Д. 6097. Л. 165. 17 Ф. 1. Оп. 1. Д. 6097. Л. 249. 18 Ф. 28. Оп. 1. Д. 78. Л. 251. 18

の 採 取 加 工 技 術 が 適 用 され 基 本 的 な 需 要 先 は 日 本 市 場 であった 従 って 日 本 漁 業 史 ロシアと 外 国 の 漁 業 者 の 相 互 関 係 の 調 整 の 問 題 特 に 1907 年 の 漁 業 協 定 締 結 以 後 に 関 する 文 書 がロシア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 に 大 量 に 保 存 されているのは 当 然 なことである 例 えば サハリン 沿 岸 における 日 本 人 の 漁 業 権 に 関 する 事 柄 に 関 する 東 シベリア 総 督 府 と 沿 海 州 軍 務 知 事 との 往 復 書 簡 (Ф. 701, Оп. 1, Д. 54) 海 鼠 漁 のための 1893 年 の 暫 定 規 則 (Ф. 702, ОП. 2, Д. 95) アムール 川 下 流 域 のおける 漁 業 のための 1903 年 の 暫 定 規 則 (Ф. 702, Оп. 2, Д. 190) 漁 業 区 域 内 での 取 引 に 関 する 文 書 記 録 (Ф. 702, Оп. 2, Д. 185)など これら 文 書 の 多 くにつ いてその 内 容 を 分 析 した 結 果 は 極 東 の 有 名 な 学 者 で 歴 史 学 博 士 の A. T. マンドリク 氏 の 諸 論 文 著 作 で 公 表 されている 19 露 日 戦 争 後 の 時 期 に 入 ると 満 洲 で 日 本 資 本 とロシア 資 本 の 相 互 協 力 の 可 能 性 が 開 かれ るようになる その 結 果 1910 年 4 月 にハルビンで 露 日 協 会 が 設 立 された 新 聞 報 道 によ れば 第 一 回 設 立 総 会 には 100 人 以 上 が 参 加 し 規 約 がまとめられ 指 導 機 関 として 幹 部 会 が 選 任 された 幹 部 会 委 員 は A. ボロバン И. ドブロロフスキー E. ドゥイノフスキ ー И. ヴォンソヴィチ Н. ノヴィコフ И. ペテリン Н. シテインフェリト И. グンジ Гундзи [= 軍 司 義 男 ] K.フルサワ Фурусава [= 古 澤 幸 吉 ] K. フセ Фусе [= 布 施 勝 治 ] K. ナ ツアキ Нацуаки [= 夏 秋 亀 一 ] Х. タカギ Такаги Х. スギノ Сугино [= 杉 野 鋒 太 郎 ] Х. ツ ジ Цудзи の 14 名 である 第 一 回 総 会 で 80 人 が 入 会 した ロシアの 文 書 館 に 保 存 されている 文 書 史 料 の 総 体 により 日 本 の 官 吏 がヨーロッパ 式 の 文 書 作 成 様 式 をいかに 取 り 入 れていったかを 知 ることができる 日 本 の 貿 易 事 務 館 が 1876 年 ウラジオストクに 設 立 されたことは 広 く 知 られている 貿 易 事 務 官 の 名 前 は 研 究 者 によ り 確 定 されており サワキ ヒサコ Саваки Хисако [= 瀬 脇 寿 人 ] マツダイラ タロ Мацудайро Таро [= 松 平 太 郎 ] テラミ キチ Тэрами Кити [= 寺 見 機 一 ] フタツバシ ケン Футацубаси Кен [= 二 橋 謙 ] カワカミ トシツネ Каваками Тосицуне [= 川 上 俊 彦 ]である 貿 易 事 務 館 の 事 務 局 では 四 角 の 公 印 日 付 文 書 番 号 呼 び 掛 けの 形 式 ローマ 字 およびキリル 文 字 による 署 名 など ロシアで 採 用 されていた 文 書 作 成 様 式 が 取 り 入 れられていた 一 例 を 挙 げると 1902 年 は 日 本 帝 国 ウラジオストク 貿 易 事 務 館 と 書 かれた 角 印 が 用 いられ 日 付 は 露 歴 と 明 治 の 元 号 の 両 方 により 記 されている この 文 書 の 内 容 は 川 上 事 務 官 の 日 本 への 一 時 帰 国 および 秘 書 官 スズキ Сузуки [= 鈴 木 陽 之 助 ] 氏 への 職 務 移 管 を 伝 えたもの である 川 上 はこの 時 期 までウラジオストクには 相 当 長 く 居 住 し 文 書 は 署 名 も 含 めて 正 確 なロシア 語 で 書 かれている だがどうやら 鈴 木 はまだ 経 験 が 不 十 分 であったと 見 えて 皇 后 アレクサンドラ フョードロヴナの 名 の 日 に 因 んで 軍 務 知 事 宛 に 書 かれた 祝 賀 状 には 間 違 いが 見 られ 全 体 的 に 粗 雑 な 書 き 方 になっている この 公 式 文 書 の 中 で 知 事 に 対 して 呼 び 掛 けるに 際 し 鈴 木 は 閣 下 Ваше превосходительство とすべきところを 彼 19 См.: Мандрик А. Т. История рыбной промышленности российского Дальнего Востока (50-е гг. XVII в. 20-е гг. XX в.). Владивосток, 1994; Он же. История японского рыболовства в тихоокеанских водах русского Дальнего Востока // Известия РГИА ДВ. Т. 1. Владивосток, 1996. С. 111-124 и др. 19

の 閣 下 Его превосходительство! と 書 いている 20 ウラジオストクに 日 本 帝 国 領 事 館 が 置 かれるようになるのは 露 日 戦 争 後 のことで 1909 年 には 総 領 事 館 に 昇 格 した 角 印 は 替 えられ 明 治 の 元 号 表 記 は 姿 を 消 した 我 々が 見 る ことのできたこの 時 期 の 領 事 館 の 文 書 は すべてタイプライターで 作 成 され 間 違 いもな い 例 えば 領 事 職 を 離 任 する 際 にオオトリ フジタロ Отори Фудзитаро [= 大 鳥 富 士 太 郎 ] がウラジオストク 市 長 に 宛 てた 通 知 敬 意 と 恭 順 の 念 を 表 しながら 大 鳥 は 副 領 事 ヒョー ジ ニヘイ Хези Нихей [= 二 瓶 兵 二 ] に 職 務 を 委 譲 することを 市 当 局 に 伝 えている 1894 年 9 月 ウラジオストクでかつて 貿 易 事 務 官 を 務 めていた 寺 見 が 日 本 とロシア 太 平 洋 沿 岸 部 との 貿 易 関 係 を 活 発 にしたいという 意 向 を 持 っているとの 知 らせが 軍 務 知 事 の 文 書 局 を 通 して 入 ってきた プリアムール 総 督 に 宛 てた 寺 見 の 推 薦 状 を 満 足 を 持 って 喜 んで 書 いたのは 在 東 京 ロシア 帝 国 公 使 M. ヒトロヴォである 彼 は 寺 見 を 評 して 優 れ た 人 物 として 知 られ 各 界 から 尊 敬 されている 人 物 としている 21 日 本 郵 船 会 社 の 輸 送 事 務 所 の 活 動 が 開 始 されたのは まさに 寺 見 氏 の 尽 力 によるもので 1896 年 事 務 所 のた めにウラジオストクに 土 地 も 購 入 された ロシア 国 民 とアジア 近 隣 諸 国 民 との 相 互 理 解 において 特 筆 すべき 道 標 となったのは 1899 年 ロシアにおける 実 用 的 東 洋 学 の 揺 籃 である 東 洋 学 院 設 立 の 年 である ウラジオスト クに 学 問 的 な 日 本 研 究 の 学 派 が 形 成 され まさにここで 日 本 事 情 と 日 本 語 学 の 実 用 的 専 門 家 が 養 成 されていった 東 洋 学 院 のフォンドの 中 に 日 本 研 究 者 の 養 成 について 学 習 プ ログラムと 外 国 研 修 実 習 と 接 触 の 問 題 について 全 体 的 な 情 報 を 見 出 すことができる 第 1 期 卒 業 生 の 中 で 日 本 語 を 勉 強 したのはアレクセイ コベリョフとパーヴェル ヴァス ケヴィチで 彼 らは 第 一 級 の 専 門 者 となり 研 究 対 象 国 についての 興 味 深 い 論 考 を 残 した 22 保 存 されている 文 書 としては 授 業 カリキュラム 授 業 の 準 備 資 料 学 生 の 論 文 に 対 する 講 評 さらに E. Г. スパルヴィン З. A. マエダ Маеда [= 前 田 清 次 ] その 他 の 日 本 語 教 師 により 作 成 された 文 書 がある 外 国 から 入 ってくる 出 版 物 については 当 時 の 法 律 に 従 って 検 閲 が 学 院 に 対 しても 課 せら れていたが 学 院 の 事 務 文 書 資 料 ( 報 告 書 )から どのような 日 本 の 出 版 物 がどのくらい の 量 ロシア 国 内 に 入 ってきていたかについての 情 報 を 得 ることができる 東 洋 学 院 の 活 動 については 研 究 書 で 高 い 評 価 がなされているが 注 目 に 値 することは 東 洋 学 院 の 卒 業 生 で 検 閲 官 であったA. ザンコフスキーが 1910 年 に 至 ってもなお 現 地 の 官 僚 や 役 人 は 日 本 人 の 言 葉 も 生 活 様 式 も 知 らず そのことが 両 国 関 係 発 展 の 重 大 な 障 害 となっていると 指 摘 している 事 実 があったことである 23 露 日 戦 争 という 隣 国 同 士 のあいだに 生 じたあの 悲 しむべき 出 来 事 と 関 連 して 特 に 興 20 Ф. 1. Оп. 1. Д. 1678. Л. 346. 21 Ф. 1. Оп. 1. Д.6097. Л. 480-481. 22 Ф. 226. Оп. 1. Д. 46. Л. 75-77; Ф. 702. Оп. 1. Д. 561. Л. 4-9. Опубликованы: Из истории востоковедения на российском Дальнем Востоке. Владивосток, 2000. С. 212-221. 23 Ф. 1. Оп. 1. Д. 1780. Л. 69-70. 20

味 深 いのは 両 国 間 の 軍 事 交 流 に 関 する 保 存 文 書 である 最 も 早 い 時 期 の 報 告 のひとつに 1891-92 年 にベルリンからシベリア 極 東 を 経 て 日 本 に 向 かったフクシマ Фукушима [= 福 島 安 正 ] 少 佐 の 旅 行 に 関 するものがある この 出 来 事 については 日 本 の 研 究 者 シンタロ ナ カムラ Синтаро Накамура [= 中 村 新 太 郎 ] の 著 作 において 詳 述 されている 24 ロシア 国 立 極 東 歴 史 文 書 館 のフォンドの 中 に 福 島 のプリアムール 総 督 府 管 内 への 到 着 とこの 訪 問 の 一 部 詳 細 を 伝 える 文 書 が 残 されている 総 督 は 民 生 と 軍 事 双 方 にわたって 地 域 を 全 面 的 に 掌 握 していたことから 軍 事 訪 問 および 旅 行 者 に 関 する 情 報 はすべて 彼 の 元 を 通 っていた 福 島 の 騎 馬 旅 行 についての 陸 軍 省 からの 情 報 が 総 督 の 下 に 入 ってきたのは 1892 年 2 月 27 日 参 謀 総 長 の 書 簡 によってである 書 簡 には 踏 破 ルートが 詳 しく 記 述 され 少 佐 は 馬 で 移 動 し 日 本 の 軍 服 を 着 用 しているであろうと 記 されている 25 陸 軍 大 臣 はこのような 旅 行 を 行 うことに 障 害 は 認 めず 出 来 るだけの 助 力 をするよう 現 地 当 局 に 要 請 した これらの 文 書 の 中 から 中 村 の 情 報 とは 異 なる 点 が 幾 つか 明 らかになってくる 第 一 に 福 島 の 階 級 を 陸 軍 少 佐 としてあること 第 二 に この 日 本 人 旅 行 者 の 一 行 が 移 動 していったルートの 記 述 が セミパラチンスクを 出 たのち 中 国 およびモンゴルの 領 内 を 東 に 移 動 し キャフタ で 再 びロシア 領 内 に 戻 ったとされていること このファイルには 1892 年 7 月 11 日 づけで 日 本 の 皇 族 で 陸 軍 元 帥 のタルヒト Тарухито [= 有 栖 川 宮 熾 仁 親 王 ] がプリアムール 総 督 A. Н. コルフ 男 爵 に 宛 てて 福 島 への 支 援 を 要 請 したフランス 語 の 推 薦 状 が 綴 じ 込 んである 優 雅 な 書 式 の 親 書 は 上 部 に 金 の 型 押 し( 紋 )で 飾 られている それ 以 外 に 同 じフォンドに 保 存 さ れている 幾 つかの 文 書 から 福 島 のブラゴヴェシチェンスク 到 着 が 1892 年 3 月 であったこ とが 裏 付 けられる 3 月 5 日 付 の 電 報 で 在 東 京 ロシア 公 使 M. ヒトロヴォは ウラジオスト クの 日 本 貿 易 事 務 館 を 通 して 後 日 返 済 するという 条 件 で 少 佐 に 今 後 の 旅 行 費 用 として 800 ルーブル 貸 与 するよう 日 本 政 府 の 名 において 総 督 に 要 請 している この 要 請 はその 日 の うちにアムール 州 軍 務 知 事 Д. Г. アルセニエフに 実 行 命 令 が 出 され 知 事 は 3 月 18 日 に 金 銭 支 給 についての 報 告 を 出 している 26 4 月 24 日 に 沿 海 州 軍 務 知 事 П. Ф. ウンテルベルグか らアムール 州 知 事 に 送 金 があり 日 本 貿 易 事 務 館 から 遅 滞 なく 入 金 があったことを 伝 えて いる 27 この 踏 破 は その 規 模 において 1889-90 年 にブラゴヴェシチェンスク サンクト ペテルブルグのルートで 敢 行 されたアムール コサックの Д. ペシコフの 遠 征 に 匹 敵 するも のである それから 数 年 後 もう 一 人 の 日 本 人 旅 行 者 クロサワ Куросава [= 黒 沢 源 三 郎 ] 少 佐 がヨー ロッパから 学 術 的 目 的 で シベリアを 横 断 し 極 東 に 到 着 した これについては 1898 年 在 ペテルブルグ 日 本 国 公 使 ハヤシ Legation du Japon a St Petersbourg. Hayashi [= 林 董 ] から 極 東 当 局 に 通 知 があり 黒 沢 少 佐 に 可 能 な 限 りの 助 力 をするよう 取 りはからってほしい と の 要 請 があった このファイルには 現 地 役 人 からの 電 報 も 含 まれていて 黒 沢 が 3 月 18 日 24 Накамура С. Японцы и русские. Из истории контактов. М., 1983. С. 254-257. 25 Ф. 702. Оп. 1. Д. 1914. Л. 71-71 об. 26 Там же. Л. 292-294. 27 Л. 296-296 об. 21

にニコリスク ウスリイスキーに 到 着 3 月 21 日 にはウラジオストクに 入 っていることを 証 拠 づけている 28 このフォンドの 別 のファイルには 黒 沢 の 移 動 状 況 を 監 視 するよう 現 地 役 人 に 指 令 した 文 書 が 残 されている 29 わが 極 東 文 書 館 の 保 存 史 料 から 19 世 紀 末 から 20 世 紀 初 頭 にかけて 軍 事 視 察 官 の 交 換 お よびその 他 の 形 の 軍 事 面 での 協 力 が 広 く 行 われていたことが 証 明 される 例 えば 1894 年 軍 事 技 師 クリロフが 短 期 間 東 京 に 来 て 日 本 の 陸 軍 省 から 伝 書 鳩 の 雌 数 羽 を 調 達 するよう にとのウラジオストク 要 塞 司 令 官 の 要 請 をロシア 公 使 に 伝 えている 30 ウラジオストクでは 連 絡 用 に 軍 人 が 伝 書 鳩 を 利 用 していたことは 広 く 知 られている 今 日 でも 町 の 地 名 に 鳩 が 谷 という 名 称 が 現 存 するが かつてこの 場 所 に 軍 用 鳩 舎 が 置 かれていたことを 意 味 す る 残 念 なことに 要 請 が 非 公 式 なものであったため 公 使 はそれを 実 行 することはでき なかった 1894 年 4 月 沿 海 州 軍 務 知 事 П. Ф. ウンテルベルゲルは 在 東 京 ロシア 帝 国 公 使 M. ヒト ロヴォから マツシマ カン Мацусима-кан [= 松 島 艦 ] タカオ カン Такао-кан [= 高 雄 艦 ] ツィオダ カン Циода-кан [= 千 代 田 艦 ] ヤマト カン Ямато-кан [= 大 和 艦 ] の 4 隻 から 成 る 日 本 艦 隊 がイト Ито [= 伊 東 祐 享 ] 海 軍 中 将 の 指 揮 下 に 長 崎 を 出 港 して 中 国 お よび 朝 鮮 の 港 へ 向 かった との 知 らせを 受 け 取 っている 1894 年 8 月 から 9 月 にかけて 日 本 艦 船 はウラジオストク 訪 問 を 計 画 しかも 皇 后 の 弟 であるイツィジオ Ицидзио [= 一 條 実 良 ] 公 爵 が 艦 長 として 乗 り 組 む ヨシノ カン Иосино-кан [= 吉 野 艦 ] が 加 わることに なっていたため ウラジオストク 当 局 はそれにふさわしい 応 接 を 準 備 しなければならなか った 31 この 企 画 のその 後 の 経 緯 は 他 のファイルおよび 日 本 とロシアの 定 期 刊 行 物 により 追 うことができるであろう 1897 年 の 日 本 のカワカミ Каваками [= 川 上 操 六 ] 大 将 の 訪 問 に ついても 文 書 館 史 料 から 明 らかなことは 僅 かであるが プリアムール 総 督 C. M. ドゥホフ スコイが 応 接 に 対 する 感 謝 状 を 日 本 政 府 から 受 け 取 っている 32 1902 年 4 月 参 謀 少 将 で 第 一 シベリア 軍 団 司 令 官 イヴァノフはウラジオストクでの 軍 事 会 議 で 1901 年 末 に 彼 自 身 が 臨 席 した 日 本 陸 軍 二 個 師 団 の 演 習 について 報 告 をした イヴァ ノフは 他 の 外 国 人 招 聘 客 と 共 に 日 本 の 町 仙 台 を 個 人 訪 問 した 時 のことを 伝 えた 彼 の 報 告 から 次 のような 事 実 関 係 を 取 り 出 すことができる:a) 演 習 そのもの 目 的 経 過 文 書 作 成 その 他 b) 全 体 としての 日 本 の 軍 事 編 制 兵 器 装 備 供 給 作 戦 準 備 その 他 c) 仙 台 での 外 国 人 の 宿 泊 先 および 応 接 日 本 の 生 活 事 情 d) 天 皇 の 仙 台 行 幸 近 衛 第 四 連 隊 の 東 京 陸 軍 学 校 訪 問 33 両 国 の 交 流 と 相 互 理 解 の 発 展 における 境 目 となったのが 露 日 戦 争 である ロシア 極 東 に 居 住 する 日 本 人 にとって 戦 争 の 勃 発 は 地 域 住 民 の 警 戒 的 な 態 度 および 敵 意 の 噴 出 を 意 味 28 Ф. 1. Оп. 1 Д. 2930. Л. 126-129. 29 Ф. 1. Оп. 1. Д. 1537. Л. 221. 30 Там же. Д. 6097. Л. 11-11 об. 31 Там же. Л. 33-33 об., 96-96 об. 32 Ф. 1. Оп. 1. Д. 1537. Л. 10. 33 Там же. Д. 1678. Л. 368-368а. 22

した ただ 極 東 住 民 の 寛 容 性 のおかげで 事 態 は 緊 迫 化 するに 至 らなかった プリアムー ル 総 督 官 房 というフォンドの 中 に 興 味 深 い 史 料 すなわち ハバロフスクからの 日 本 人 退 去 は 不 可 欠 とする 1904 年 の 無 名 の 意 見 投 書 を 発 見 することができた 当 時 の 在 住 日 本 人 数 はおよそ 60 名 であった この 意 見 投 書 はその 内 容 のみならず 表 現 においても 興 味 深 いも のであるので 以 下 その 抜 粋 を 逐 語 引 用 する 姓 名 不 詳 のハバロフスクの 一 住 民 は 次 のよ うに 書 いている 日 本 人 タケウチ Такеучи およびその 他 をハバロフスクから スレテンスクなりどこへなり とも どこでもよろしいですから どこかへ 追 放 して ここから 遠 ざけることをお 命 じに なるよう 伏 して 閣 下 にお 願 い 致 します 私 は 閣 下 に 誓 って 申 しますが 彼 は 間 違 いなく 殺 されます 他 の 日 本 人 も 同 様 です いくら 閣 下 が 護 衛 したところでそうなることはお 分 かりと 存 じます 日 本 人 の 顔 をこれ 以 上 見 なくてすむように 彼 を 駆 除 する 旨 の 立 て 札 もお 命 じ 下 さい 私 たち 自 身 は 彼 を 可 哀 想 とは 思 っていません さらに タケウチおよびそ の 他 が 殺 されることは 間 違 いありません いずれ 早 晩 殺 されます これは 明 白 なことで 一 部 の 人 たちはすでにその 申 し 合 わせをしており 日 本 人 たちを 庇 護 する 者 がいれば そ の 者 たちも 殺 されます 私 が 申 し 上 げていることは 本 当 のことです 34 当 然 のこととして 予 想 される 行 き 過 ぎを 避 けるために 当 局 は 日 本 人 退 去 に 関 心 を 向 けた ものの 祖 国 に 帰 そうにも 船 便 も 外 交 ルートもなかった 結 局 日 本 人 たちはシベリアの 奥 地 イルクーツクへ 退 去 させられた 35 戦 後 ロシア 人 と 日 本 人 との 互 いの 関 心 は 弱 まらなかったばかりではなく むしろ 活 発 化 したと 言 うことができる 沿 海 州 庁 のフォンドの 文 書 から 日 本 の 軍 高 官 がしばしば 州 を 訪 れていたことが 分 かる 例 えば 1911 年 に 限 っても 参 謀 本 部 少 佐 ロクロ イソメ Рокуро Исоме [= 井 染 禄 郎 ] がウラジオストクとハバロフスクを またスエジロ サイト Суедзиро Сайто [= 斎 藤 季 治 郎 ] 大 佐 がウラジオストク ノヴォキエフスクおよび 琿 春 を それぞれ 訪 問 している 36 同 じ 年 ウスリー 地 方 およびアムール 川 下 流 域 の 研 究 に 多 大 な 関 心 と 熱 意 を 発 揮 したのが テラザキ ワタル Теразаки Ватару [= 寺 崎 渡 ] である 37 農 商 務 省 の 森 林 技 師 である 彼 は 沿 海 州 の 森 林 業 視 察 のために 派 遣 されたが 森 林 業 の 産 業 化 の 将 来 性 とその 分 野 への 日 本 の 参 入 を 想 定 してのものであった 日 本 領 事 からプリアムール 総 督 Н. Л. ゴンダッチに 提 出 さ れた 派 遣 ルートには オリガ 湾 からニコラエフスク ナ アムーレに 至 る 沿 岸 部 および エヴゲニエフカとビキンにある 森 林 区 とスキデリスキーの 工 場 の 視 察 も 含 まれていた 38 こ 34 Ф. 702. Оп. 1. Д. 431. Л. 24-24 об. 35 Там же. Л. 44, 57. 36 Ф. 1. Оп. 12. Д. 194, 208. 37 Там же. Д. 191. 38 Там же. Л. 37. 23

の 旅 行 がどういうふうに 編 成 されたかは 興 味 ある 問 題 であるが それについては 政 府 通 報 を 含 めたロシアおよび 日 本 の 新 聞 が 伝 えている 領 事 館 からは 現 地 当 局 に 通 知 がなさ れ 助 力 と 支 援 が 要 請 された ロシア 側 はプリアムール 軍 管 区 司 令 部 から 許 可 を 得 るよう 日 本 側 に 強 制 した その 理 由 は 人 跡 まばらな 化 外 の 地 を 外 国 人 が 旅 行 する 際 には 当 局 は 旅 行 者 の 安 全 を 保 障 する 義 務 があったからである この 要 求 がばかげた 不 合 理 なもので あることは 明 確 で 実 際 その 通 りであることはほどなく 判 明 した すなわち 許 可 を 得 る ために 日 本 人 旅 行 者 は 沿 海 州 を 縦 断 してハバロフスクまで 行 くが 必 要 となったのである この 旅 行 者 が 何 ら 問 題 もなく 出 発 し 許 可 を 待 つことなくアムール 川 沿 いに 進 みブラゴヴ ェシェンスクに 入 ったことは 驚 くに 価 しない 森 林 技 師 の 滞 在 が 森 林 業 発 展 の 将 来 性 の 見 地 から 見 てどれほどの 結 果 を 出 したかの 判 断 は 難 しいが 文 書 から 見 る 限 り 技 師 はロシ アの 役 人 に 多 大 な 面 倒 をかけている テラザキ ワタルは 言 葉 が 出 来 ないにも 拘 わらず 州 の 中 を 単 独 で 動 き 回 り ルートに 申 請 されていない 場 所 にも 足 を 伸 ばし ハバロフスク ブラゴヴェシェンスク ニコラエフスク ナ アムーレに 長 期 間 滞 在 し 現 地 の 日 本 人 団 体 の 代 表 者 と 交 流 をした 技 師 の 訪 問 は 長 期 に 亘 るものとなり 1911 年 7 月 ハバロフスク で 許 可 の 申 請 を 行 い 9 月 には 大 鳥 領 事 と 共 にニコラエフスクを 訪 れた 第 一 次 大 戦 の 始 まった 1914 年 10 月 日 本 赤 十 字 の 緊 急 移 動 部 隊 が 東 京 から 敦 賀 経 由 で 到 着 ウラジオストクから 列 車 でペテログラードに 向 かった 部 隊 は 医 師 3 名 薬 剤 師 通 訳 秘 書 2 名 看 護 婦 7 名 から 成 り 負 傷 者 100 人 収 容 の 病 院 のための 荷 物 300kg を 携 行 していた 旅 行 は 在 東 京 ロシア 帝 国 大 使 マレフスキー 三 等 侍 従 官 の 監 督 下 に 実 現 した 39 1915 年 12 月 イデ Иде [= 井 出 謙 治 ] 海 軍 少 将 指 揮 下 の 日 本 艦 隊 がウラジオストクを 訪 問 し た 日 本 の 海 軍 軍 人 はロシア 側 の 応 接 に 非 常 に 満 足 し 日 本 総 領 事 館 を 通 じて 100 ルーブ ルをウラジオストク 慈 善 協 会 に 50 ルーブルを 出 征 軍 人 の 家 族 援 助 団 体 に 寄 付 した 40 保 存 されている 感 謝 状 から 判 断 して ロシアと 日 本 の 生 徒 学 生 の 団 体 旅 行 や 展 覧 会 へ の 参 加 などがこの 時 期 に 頻 繁 であったことが 分 かる 例 えば 1915 年 7 月 小 樽 高 等 商 業 学 校 からウラジオストク 市 会 に 生 徒 たちのウラジオストク 旅 行 の 際 に 受 けた 歓 迎 と 助 力 に 対 する 礼 状 が 送 られている 41 これらの 事 実 は 露 日 戦 争 の 性 格 と 目 的 について 考 えさせると ころがある すなわち 多 くの 犠 牲 者 が 出 たにも 拘 わらず 戦 争 は 両 国 民 の 相 互 関 心 と 善 隣 の 気 持 を 殺 すことはできなかった 以 上 わがロシア 国 立 極 東 文 書 館 に 保 存 されている 日 本 および 日 本 人 に 関 する 情 報 を 断 片 的 に 概 観 したが この 集 積 にロ 日 双 方 の 専 門 家 が 注 意 を 向 けないというのは 正 当 なこと ではない データの 解 明 に 当 たっては 例 えば 固 有 名 詞 の 然 るべき 復 元 あるいは 19 世 紀 ロシアの 役 人 の 書 字 解 読 といった 特 定 の 複 雑 な 問 題 があるが それらは 両 国 の 学 者 の 共 同 努 力 により 克 服 可 能 であるし また 克 服 されなければならない 39 Ф. 1. Оп. 12. Д. 583. Л. 1-3. 40 Ф. 28. Оп. 1. Д.469. Л. 253. 41 Там же. Л. 47. 24