死 は 命 へ の 門 - ギルバート ショー 説 教 より- DEATH THE GATEWAY T0 LIFE Adapted from the teaching of GILBERT SHAW by Sister Edna Honica, SLG Fairacres Pubication 15, 1971 (Sixth Inpression 1985), SLG PRESS Convent of the Incarnation, Fairacres, Oxford エドナ モニカ 修 女 編 トマス 浅 川 敏 訳 本 書 はけやき 文 庫 のため 神 愛 修 女 会 受 肉 修 道 院 (フェアレイカ ーズ)の 許 可 によって 邦 訳 して 1989 年 復 活 日 に 日 本 聖 公 会 横 浜 教 区 で 出 版 したものを 2012 年 に 訳 者 が 所 属 する 長 坂 聖 マリヤ 教 会 で 電 子 化 し 再 版 したものである 1
は じ め に 兄 弟 たちよ 眠 っている 人 々については 無 知 でいてもらいたくない 望 み を 持 たない 外 の 人 のように あなたがたが 悲 しむことのないためである ( 第 1 テサロニケ 4:13) 聖 パウロが 初 代 教 会 へ 述 べた 復 活 におく 信 徒 の 望 みについて のこの 考 えは 現 代 ではあまりにも 簡 単 に 忘 れ 去 られてしまう 真 理 です 死 は 人 に 直 接 立 ち 向 うまで 人 が 目 を 向 けるのを 拒 みがちな 人 生 の 一 つの 現 実 です このことは 聖 パウロの 明 言 わたしは 日 々 死 んでいるのである ( 第 1 コリント 15:31)と 自 信 に 満 ちた 断 言 わたしにとっては 生 きることはキリストであり 死 ぬことは 益 である (ピリピ 1:21)に 対 し 全 く 反 するものです 今 はみもとに 召 された 指 導 司 祭 ギルバート ショー 師 が 詳 説 し 展 開 し 私 ども 神 愛 修 女 会 (Sisters of the Love of God)としての 日 常 生 活 から 詳 細 に 亘 って 確 信 を 持 たせ ていただいたのは 実 に 聖 書 のこの 重 要 な 教 義 です 以 下 述 べる 内 容 は 当 会 の 一 修 女 が 突 然 死 に 直 面 した 際 に ショー 師 が 行 なった 説 教 に 主 として 基 づいていますが ショー 師 のことばは いつ どこにおいて もあてはまります そして 私 たちが 愛 に 生 き 神 を 信 頼 し 自 我 に 死 に 更 に シエナの 聖 カタリナと 声 を 合 わせて 神 様 の 憐 みによる 愛 は 神 様 の 慈 みのみ 前 で 私 たちを 赦 して 下 さるでしょう ( 対 話 30 章 )と 唱 えられるように 促 して います 1971 年 神 愛 修 女 会 エドナ モニカ 修 女 フェアレイカーズ 2
この 世 は 人 の 終 わりならず 神 と 人 への 愛 をば 学 びめ 神 と 人 との 為 に 愛 の 証 しとなりて 耐 え 忍 びつつ 生 きて 死 ぬ ところなればなり 愛 の 顔 ギルバート ショー 信 頼 主 よ わたしはあなたに 信 頼 して 言 います あなたはわたしの 神 である と わたしの 時 はあなたのみ 手 にあります ( 詩 篇 31:14,15)このことばは すべての 人 物 事 境 遇 はその 根 源 と 成 就 が 神 に 在 るとして 謙 虚 に 見 ることを 通 して 学 ぶ 私 たちの 神 に 寄 り 頼 む 真 心 を 表 わしています 神 から 受 ける 存 在 を 持 つからこそ その 存 在 があるのであって 神 の 為 でない 存 在 神 に 帰 せられ ない 存 在 はないのです このことを 理 解 するために 私 たちは 知 恵 感 情 意 志 をキリストに 差 し 出 し キリストに 在 って 神 の 御 心 (みこころ)を 行 なう 一 致 に 導 かれる 必 要 があるのです この 世 は 神 のみ 手 にあります わたしたちの 生 き る 環 境 のすべて 健 康 病 気 何 事 も 皆 神 のみ 手 にあるのです 私 たちのもの は 皆 神 のものだからです 私 は 裸 で 母 の 胎 を 出 た また 裸 でかしこに 帰 ろう 主 が 与 え 主 が 取 られたのだ 主 のみ 名 はほむべきかな (ヨブ 1:21) 私 たちは 人 の 死 ぬ 時 やその 様 子 はわかりませんが ひとりひとりの 人 生 の 成 就 についての 神 の 御 心 (みこころ)の 範 囲 内 に 死 が 訪 れることを 信 じてよいのです 神 の 御 意 だけを 望 むことは 神 にすべてを 完 全 に 寄 り 頼 むように 時 を 合 わせる ことです キリストの 人 間 性 は 父 なる 神 の 御 意 に 御 自 身 を 完 全 にお 任 せするこ とによる 復 活 の 勝 利 へと 収 約 されます あなたには できないことはありませ ん どうか この 杯 をわたしから 取 りのけてください しかし わたしの 思 い ではなく みこころのままになさってください (マルコ 14:36) 私 たちの 人 生 は 帰 するところ キリストの 人 間 性 にゆき 着 くのであり キリスト 教 の 教 えの 目 的 は 私 たち 自 身 がキリストの 愛 がつつがなく 流 れる 広 々とした 水 路 に なるために 自 己 をキリストにお 任 せするのに 妨 げになる 障 害 を 私 たちのうち にとどまらないようにすることです 死 に 直 面 すると 私 たちの 愛 および 主 にお 任 せする 気 持 は この 世 で 最 後 の 試 練 に 会 います 私 たちがすなおに 死 に 出 会 えるのは 私 たちの 生 涯 を 通 して 心 を 神 の 御 意 と 一 つにするならわしを 育 成 して 初 めてできるのであり 他 の 時 3
に 神 に 愛 をこめて はい といって 喜 んでお 任 せする 気 持 を 完 成 するのと 全 く 同 じです このことが 私 たちのならわしとなるなら 私 たちは 神 の 御 意 を 安 らかに 受 け 止 め 悲 しみと 苦 痛 が 終 わり 死 を 通 して 限 りなき 生 命 に 導 かれ るまで 辛 抱 強 く 待 てるのです 連 続 性 死 という 出 来 ごとは その 中 で 私 たちのこの 世 における 生 命 が 完 成 され すべ ての 望 みが 皆 成 就 されることをいうのです わが 顔 をたずね 求 めよ とあな たが 仰 せられた 時 あなたにむかって わたしの 心 は 言 います 主 よ わたし はみ 顔 をたずね 求 めます と ( 詩 篇 27:8) この 世 に 在 る 時 が 終 わり 奇 しき し め し 永 遠 だけが 私 たちの 前 に 存 在 する 時 私 たちは 待 ち 望 んでいた 顕 示 に 直 面 し 探 し 求 めていた 果 実 を 得 ることができます そのしもべたちは 彼 を 礼 拝 し 御 顔 を 仰 ぎ 見 るのである ( 黙 示 録 22:3~4) 実 際 この 世 の 生 命 は 私 たちのもので あり 死 が 訪 れる 時 私 たちの 内 には 神 の 愛 をさえぎるものは 何 もないように 自 己 を 捧 げなければなりません 時 折 見 のがされる 死 の 奥 義 の 様 相 は 連 続 性 ということです 死 は 終 わりではありません いわば 死 は 初 めであり さらに は 連 続 です 私 たちが 今 まで 行 なったこと 現 在 行 なっており 将 来 にも 行 な とこしえ われるすべてのことを 永 遠 へと 持 ち 運 ぶことをいうのです 教 会 はこの 世 に 生 きている 私 たちで 成 り 立 っているばかりでなく 来 世 で 生 き 永 らえている 人 々によっても 成 り 立 っていることを 私 たちは 忘 れがちです 聖 パウロは 今 ここで 私 たちはもう 聖 徒 たちと 同 じ 国 籍 のものであり 神 の 家 族 なのである (エペソ 2:19)といい また 私 たちは 次 第 に 築 き 上 げられ 天 上 の 都 新 しいエルサレムとなります それは 私 たちすべてのものの 母 (ガラテ ヤ 4:26)です この 世 の 私 たちは 先 んじた 者 と 同 じ 国 籍 の 者 です 正 に 連 続 性 が あるのです 私 たちは 神 で 満 たされている 聖 徒 たちと 同 じ 国 籍 の 者 です この 連 続 性 は 私 たちが 聖 徒 たちと 共 にあずかっているものであって キリス トと 一 つ 生 命 であるということの 初 穂 であります 主 は 神 の 憐 れみをもって 初 めのアダムから 最 後 の 者 までの 全 人 間 性 をご 自 身 のうちに 取 り 入 れて 聖 化 され ます それゆえ 彼 らのためわたし 自 身 を 聖 別 いたします (ヨハネ 17:19)と 言 うことがおできになるのです キリストがなさった 聖 化 の 全 生 涯 は 果 てし 4
と き ない 時 間 を 経 て 果 てしない 空 間 を 包 みます つまり 天 上 の 都 との 一 致 へとす とこしえ すみ すべてのものを 永 遠 のうちにあって 神 に 全 くこたえることができる ように 引 き 寄 せるのです 私 たちは 神 によって 造 られ 御 霊 をいただいている のでキリストに 在 りて 自 由 に 応 えることができるのです 聖 パウロは わたしたちはみな 顔 おおいなしに 主 の 栄 光 を 鏡 に 映 すように 見 つつ 栄 光 から 栄 光 へと 主 と 同 じ 姿 に 変 えられていく これは 霊 なる 主 の 働 きによるのである ( 第 2 コリント 3:18)といい 私 たちがキリストの 姿 を 受 けることについて 語 っています 私 たちの 生 命 はキリストに 一 体 となっているので 死 は 生 命 を 終 わらせること ができません 私 たちの 生 命 は キリストと 共 に 神 のうちに 隠 されている (コ ロサイ 3:3)からであり また わたしたちのいのちなるキリストが 現 れる 時 に は わたしたちも キリストと 共 に 栄 光 のうちに 現 れる (コロサイ 3:4)からで す わたしたちが 信 経 を 唱 えて 死 人 のよみがえりを 待 ち 望 みます と 告 白 する 時 この 連 続 性 を 私 たちは 堅 持 していかなければなりません このことばを 唱 える 時 私 たちは 肉 体 と 霊 と 魂 の 連 続 性 を 信 じ さらに すべて 神 のためという 一 つの 目 的 のために 造 られた 一 致 に 至 ることを 宣 言 するのです したがって こ の 目 的 の 証 人 として 召 され また 私 たちの 生 涯 を 捧 げることによって 限 りな き 生 命 に 入 るようにと 召 されているキリスト 信 徒 として 私 たちは この 世 の 巡 礼 の 終 わりにお 召 しの 声 がかかっても 今 まで 共 にいた 巡 礼 の 仲 間 を 一 人 も 失 うことはないのです 人 間 の 死 は 私 たちが 皆 個 人 として 審 判 と 完 成 へと 導 かれる 戸 口 です 今 から 後 主 によりて 死 ぬ 死 人 はさいわいである 御 霊 もいう 彼 らはその 労 苦 を 解 かれて 休 み そのわざは 彼 らについていく ( 黙 示 録 14:13) この 死 人 のわざ はこの 世 の 生 涯 で 築 き 上 げられたその 人 のすべてであり 死 によって 永 遠 へと 導 かれるのです しかし 戸 口 はつなぐ 作 用 だけでなく 引 き 離 す 作 用 もします それは 連 続 性 の 様 相 が 真 実 であると 同 じく 死 による 真 実 の 離 別 があることを 意 味 してい ます そして この 二 つの 真 実 は いずれに 偏 ることなく 心 に 堅 く 留 めてお くように 努 めるべきです やがて 私 たちの 思 いは 肉 体 と 魂 の 離 別 に 至 ります 5
物 質 である 肉 体 は 宇 宙 のものであり そのために 肉 体 を 埋 葬 する 時 私 たちは 墓 の 傍 らで 土 は 土 に 灰 は 灰 に 塵 は 塵 に と 唱 えるのです 肉 体 は 塵 から 形 づくられ また 塵 に 戻 ります しかしながら 魂 は そのすべての 記 憶 を 伴 いつつ また 神 を 覚 え 神 のために 生 きるように 私 たちを 導 く 霊 の 力 を 通 し てこの 世 の 生 涯 で 得 たすべてを 伴 いつつ 私 たちの 存 在 のすべてを 持 っており また 私 たちの 人 格 としての 統 一 性 を 共 に 形 成 している 意 識 と 無 意 識 の 中 に 形 成 されたすべてを 持 っているのです 死 における 喜 びと 確 信 しかしながら 神 を 愛 する 者 には 死 に 際 して 全 く 大 きな 喜 びがあります そ れゆえ 私 たちのこの 世 の 生 命 のあらゆる 面 を 変 容 して 頂 くために 神 に 差 し 出 すことが 如 何 に 重 要 であるかということがこの 点 にあるのです 私 たちの 無 意 識 の 中 に 抑 圧 されているものが 肉 体 の 力 が 尽 き 意 志 の 支 配 力 が 弱 まる につれて 出 現 するからです 人 は 時 々 無 意 識 の 抑 圧 された 自 負 心 によって 一 生 懸 命 に 生 きる 権 利 に 執 着 します 御 意 (みこころ)に 従 って 神 に 仕 える 限 り 私 たちの 生 きるための 闘 いは 正 しいものです しかし 神 に 召 される 時 キリ ストが 父 のみ 手 にご 自 身 の 魂 をおゆだねになった(ルカ 23:46)と 同 じ 方 法 で 私 たちが 自 身 を 神 に 捧 げることは 私 たちの 喜 びであります この 地 上 には 永 遠 の 都 はない きたらんとする 都 こそ わたしたちの 求 め ているものである (ヘブル 13:14)ということをキリスト 信 徒 は 知 っています この 世 の 私 たちの 生 命 は 死 を 通 して 到 達 できる 一 層 充 実 した 生 命 への 準 備 段 階 に 過 ぎないことが すべての 新 約 聖 書 の 使 徒 書 簡 の 中 で 明 らかです 死 は 通 路 に 過 ぎません 死 の 通 路 には 恐 怖 の 要 素 があり 死 を 自 己 の 終 局 として 自 己 の 得 た 全 知 識 の 喪 失 として また 大 きな 知 らぬ 世 界 への 旅 立 ちとして 神 を 知 ら ぬ 人 々がはっきり 自 覚 する 恐 怖 があるのです 知 らぬ 世 界 のすばらしさと 栄 光 は 私 たちは 経 験 していないので 知 ることができません にもかかわらず 私 たちには 死 が 全 く 新 しい 生 命 に 入 る 通 路 である 確 信 があります 死 によって 私 たちは 巡 礼 の 生 涯 から 神 の 国 の 住 民 として 全 き 世 嗣 ぎとなり 今 私 たちは 土 に 属 する 形 をとっている が 死 を 経 て 天 に 属 する 形 をとる ( 第 1 コリント 15:49)に 至 るのです 6
とこしえ 死 永 遠 の 証 として ヘブル 人 への 手 紙 は 死 についてさらに 別 の 見 方 を 教 えてくれます 死 は 本 質 的 に 私 たちの 神 への 信 仰 の 証 の 行 ないであると 強 調 しています わたしたちの 参 加 すべき 競 争 を 耐 え 忍 んで 走 り 信 仰 の 導 き 手 であり またその 完 成 者 で あるイエスを 仰 ぎ 見 つつ 走 ろうではないか とその 手 紙 は 勧 め 倦 むことが ないように 私 たちに 罪 と 取 り 組 んで 戦 う 時 まだ 血 を 流 すほどの 抵 抗 をした ことがない (ヘブル 12:1 以 下 )ことを 覚 えさせてくれます さらにまた 第 10 章 では 私 たちに 先 立 ち 私 たちを 励 まし すでに 同 じ 天 国 の 住 人 である 聖 徒 すなわち 雲 のごとき 証 人 たち にっいて 述 べています 従 って 死 の 中 に 殉 教 者 たちの 場 所 があるのです 彼 等 は 永 遠 に 対 する 証 人 神 に 対 する 全 き 応 答 の 証 人 として 生 命 を 捧 げました いわゆる 白 い 殉 教 者 にもその 役 割 があります それは 信 仰 のために 肉 体 の 死 へと 召 されるもので はなく 生 きている 間 にキリスト 教 徒 であるゆえの 困 難 にあずかって 行 なうあ かしです( 第 1 ペテロ 5:8~11) いかなる 心 の 苦 難 であろうと 肉 体 の 苦 難 で あろうと すべて 忠 実 に 苦 難 に 耐 えることは 創 造 における 神 への 反 逆 によっ て 起 ったことへの 継 続 的 な 克 服 の 一 部 をなすものです ここに 神 の 戒 めを 守 り イエスを 信 じる 信 仰 を 持 ちつづける 聖 徒 の 忍 耐 がある またわたしは 天 からの 声 がこう 言 うのを 聞 いた 書 きしるせ 主 にあって 死 ぬ 死 人 はさいわ いである と ( 黙 示 録 14:12,13) 三 つの 死 にかた 聖 書 の 中 に 三 種 類 の 死 が 見 分 けられます まず この 世 の 死 であって 魂 と 霊 を 肉 体 から 引 き 離 すことであり このことについて 私 たちも 詩 篇 の 作 者 と 共 に だれか 生 きて 死 を 見 ず ( 詩 篇 89:48)と 問 いかけます さらに 人 は 朽 ちない ものを 求 める 者 として 造 られたので ヨブの 叫 びは 私 たちの 心 の 中 に 大 きな 共 鳴 を 呼 び 私 たちはヨブの 嘆 きを 分 かち 合 うのです 女 から 生 れる 人 は 日 が 短 く 悩 みに 満 ちている 人 は 死 ねば 消 えうせる 息 が 絶 えれば どこに おるか (ヨブ 14:1,10) 次 に 意 識 して 犯 す 罪 により 神 から 魂 も 肉 体 も 共 に 引 き 離 される 霊 の 死 があります ザカリヤが 彼 の 洗 礼 者 ヨハネについての 預 言 の 中 に 救 いを 予 見 す るのは 先 ず 何 よりもこのような 霊 の 死 からの 救 いです 7
あなたは いと 高 き 者 の 預 言 者 と 呼 ばれるであろう 主 のみまえに 先 立 って 行 き その 道 を 備 え 罪 のゆるしによる 救 いを その 民 に 知 らせるのであるから これは 私 たちの 神 のあわれみ 深 いみこころによる また そのあわれみによって 日 の 光 が 上 から 私 たちに 臨 み 暗 黒 と 死 の 陰 とに 住 む 者 を 照 し (ルカ 1:76~79) さらに ヨハネ 黙 示 録 20 章 はもう 一 つの 死 について 教 えています つまり 第 二 の 死 であって 人 が 霊 肉 とも 全 人 格 として 永 遠 に 神 のみ 前 から 引 き 離 され ることをいいます 人 間 には 自 分 自 身 の 選 択 によって あるいは 多 分 利 己 的 な 自 我 に 仕 えるよりむしろ 神 に 仕 えるという 明 確 な 選 択 をし 損 なうことによ って 自 分 が 神 によって 創 造 され 生 れ 出 る 際 に 決 めちれた 神 との 永 遠 の 一 致 が 失 われる 可 能 性 があります この 可 能 性 が 持 つ 真 実 さを 20 世 紀 の 人 々が 熟 慮 す るなら 良 い 結 果 になるでしょう この 世 の 生 活 が 地 上 のみのことが 目 的 とな り 自 我 を 喜 ばすことにのみ 過 ごされるなら 死 の 際 に 残 るものは 心 と 記 憶 の 中 で 果 てしなく 空 転 するこの 欲 望 または 神 から 引 き 離 されたという 自 己 の 挫 折 の 中 でよみがえるあの 欲 望 だけになるのです 死 の 勝 利 者 キリスト ユダヤ 人 たちは 神 の 本 質 をますます 体 験 して 神 の 義 が 終 りに 現 われるものと 認 識 するようになり キリスト 以 前 数 百 年 の 間 に 多 くの 人 は 死 人 の 復 活 を 信 じ るに 至 りました 例 えばマルタはラザロのことを 確 信 して 終 りの 日 のよみが えりの 時 よみがえることは 存 じています と 言 い 得 たのです 神 自 身 の 行 為 だけが 終 りの 日 を 早 めることができ 神 はそれを 早 められたのです これがキ リスト 教 の よきおとずれ です わたしはよみがえりであり 命 である わたしを 信 じる 者 は たとい 死 んでも 生 きる また 生 きていて わたしを 信 じる 者 は いつまでも 死 なない (ヨハネ 11:2 4~26)と 主 イエスは 言 われます 肉 体 は 罪 のゆえに 死 をまぬかれることができません ひとりの 人 によって 罪 がこの 世 にはいり また 罪 によって 死 がはいって 来 たように こうして すべ ての 人 が 罪 を 犯 したので 死 が 全 人 類 にはいり 込 んだのである (ローマ 5:12) しかし 主 によって 全 く 明 確 な 通 り 肉 体 は 死 によってとらえられたままではい ません これは 教 会 によって 述 べ 伝 えられているよきおとずれです もし ひ 8
とりの 罪 過 によって そのひとりをとおして 死 が 支 配 するに 至 ったとすれば まして あふれるばかりの 恵 みと 義 の 賜 物 とを 受 けている 者 たちは ひとりの イエス キリストをとおし いのちにあって さらに 力 強 く 支 配 するばかりで はないか (ローマ 5: 17) この 世 で 与 えられた 神 の 憐 れみを 通 し 神 のみ 恵 み によって 死 者 の 初 穂 であるキリストの 永 遠 の 生 命 に 入 るのです キリストは 死 を 超 越 しておられました キリストがこの 世 で 背 負 っておられた 肉 体 は キリ スト 自 身 の 中 で 死 を 通 し 死 を 越 えて 生 命 の 奥 義 に 変 えられたのです 従 って もしわたしたちが 彼 に 結 びついてその 死 の 様 にひとしくなるなら さらに 彼 の 復 活 の 様 にもひとしくなるであろう (ローマ 6:5) わたしは 死 んだこと はあるが 見 よ 世 々 限 りなく 生 きている 者 である そして 死 と 黄 泉 とのか ぎを 持 っている ( 黙 示 録 1:18) 栄 光 あるキリストの 勝 利 のことばです 救 い 主 イエス キリストは 死 を 滅 ぼし 福 音 によっていのちと 不 死 とを 明 らかに 示 されたのである ( 第 2 テモテ 1:10) 死 の 苦 しみのゆえに 栄 光 とほまれと を 冠 として 与 えられたのを 見 る それは 彼 が 神 の 恵 みによって すべての 人 のために 死 を 味 わわれるためであった (ヘブル 2:9) 私 たちのためにイエスは この 世 の 死 を 味 わわれたのです 十 字 架 につけられたキリストの 不 可 思 議 な 恐 ろしい 叫 び わが 神 わが 神 どうしてわたしをお 見 捨 てになったのですか (マルコ 15:34)からして 私 たちの 罪 を 負 い( 第 2 コリント 5:21) キリストは ご 自 身 心 の 中 で 神 のいのちから 引 き 離 される 霊 の 死 め 苦 しみを 知 っておられ たと 思 われるのです いずれにしても キリストは 死 人 の 中 からよみがえらさ れて もはや 死 ぬことがなく 死 はもはや 彼 を 支 配 しないことを 知 っている からである なぜなら キリストが 死 んだのは ただ 一 度 罪 に 対 して 死 んだの であり キリストが 生 きるのは 神 に 生 きるのだから (ローマ 6:9,10)であり また 死 んだことはあるが 生 き 返 った 者 が 次 のように 言 われる 死 に 至 るまで 忠 実 であれ そうすれば いのちの 冠 を 与 えよう 勝 利 を 得 る 者 は 第 二 の 死 によって 滅 ぼされることはない ( 黙 示 録 2:8,10,11)からです 9
死 者 のための 祈 り この 堅 い 信 仰 により 教 会 は 初 代 から 死 者 のための 祈 りを 捧 げてきました こ の 祈 りは 信 仰 からだけではなく 生 きている 者 の 願 いと 永 遠 の 愛 からも 生 じる 働 きです 愛 には 終 わりがありません 神 は 愛 である ( 第 1 ヨハネ 4:8)から です したがって 私 たちの 愛 は 不 滅 の 捧 げ 物 として 死 んだ 者 と 共 に 永 らえ 私 たちへのその 死 者 の 愛 も 永 らえ 死 者 がより 完 全 にイエスとの 交 わりのうちへ 呼 び 寄 せられるに 従 ってその 愛 は 姿 が 変 えられてゆきます 死 者 への 私 たちの 記 憶 が 完 全 に 自 由 なものにされるために 特 に 祈 りを 捧 げなけ ればなりません 記 憶 は 私 たちの 一 部 に 余 りにもなり 切 っており 捨 てるのが 困 難 だからです 私 たちは 安 らかに 眠 りが 与 えられますように と 祈 ります その 安 らか は 愛 の 働 きであり 自 己 を 引 き 離 すことではなく 神 の 臨 在 と 御 旨 を 受 け またお 返 しすることです 死 者 への 私 たちの 祈 りは 自 己 を 捧 げ て 豊 かな 愛 を 生 むにつれて 効 果 を 高 めます 神 聖 さ(sanctity)とは 神 の 働 き 愛 の 活 動 であり 神 が 被 造 物 にそれができるようにと 創 造 された 愛 の 応 答 を 引 き 出 すために その 被 造 物 にくまなく 注 がれた 神 の 愛 なのです したがって 被 造 物 である 人 間 は 神 のお 働 きを 自 由 意 志 によって 受 けまた 応 えて 創 造 の 御 意 (み こころ)である< 愛 し さらに 愛 を 増 し 加 えることに>において 全 きものとなる ように 造 られたのです 聖 オーガスチンがまさしく 言 っています あなたは あなたのために 私 たちを 造 り 私 たちの 心 は あなたにおいて 休 息 を 見 出 すまで 安 らかではありません と ですから 私 たちは 世 を 去 りし 者 を 安 らかに 憩 わせて 下 さい と 祈 り 人 生 の 目 的 を 果 たした 後 の 休 息 に 入 れますように ご 自 身 のために 万 人 をお 造 り になった 創 造 の 神 のうちに 休 めますようにと 祈 ります この 世 の 死 は 肉 体 から 魂 を 引 き 離 すだけであって 必 ずしも 魂 を 休 息 させ るのではありません 魂 が 時 代 やこの 世 界 に 左 右 されたり もつれ 合 い 拘 束 さ れるなら 休 息 は 得 られず 挫 折 と 離 別 と 暗 闇 を 味 わうに 過 ぎません 魂 がそ のまますっかり 神 の 御 意 にとび 込 み たどって 来 た 過 去 をこの 世 の 雑 事 ととも に 完 全 に 捨 てて 行 けるなら 死 はすばらしいことです 肉 体 の 生 命 が 神 に 応 える という 真 の 目 的 を 見 つけるよう 成 就 されるために 私 たちが 自 我 に 死 ぬなら 死 は 生 命 への 門 であります したがって 死 者 が 清 い 顔 をもって 直 接 に 神 の 憐 れ みのみ 業 を 知 ることができるように また 神 の 憐 れみを 受 けると 同 じように 審 判 をも 受 け 入 れることができるようにと 祈 りを 捧 げます 10
主 にあって 死 ぬ 者 は 幸 いである キリスト 信 者 であることはなんてすばらしいことでしょう 私 たちは 召 され この 世 での 仕 事 を 終 える 時 収 穫 者 なる 神 に 寄 り 頼 み 休 息 に 導 かれ 休 息 のほ か 何 もない 全 きー 致 の 中 へと 導 かれることを 堅 く 待 ち 望 みます 神 の 御 意 がそ の 時 私 たちの 中 に 完 全 に 成 就 されるのです キリストを 信 じて 死 に 至 る 者 は 本 当 に 幸 いです 天 国 で 刈 り 取 られるために 死 者 はすでにこの 世 で 行 い 始 めた 聖 められた 初 穂 を 携 えて 行 くからです 私 たちは 先 に 天 国 へ 行 った 死 者 の 働 き を 引 き 継 ぎます 死 者 は 穂 を 携 えて 行 き 私 たちは 死 者 が 耕 した 畑 を 受 け 継 い で 働 き 続 けなければなりません 私 たちは 死 者 が 残 した 仕 事 を 続 けるのです 死 者 の 働 きへ 私 たちの 働 きを 加 え そうすることによって 私 たちはこの 世 のも のでなくて この 世 から 収 穫 を 得 ている 天 国 を 耕 しているのです その 時 御 座 から 声 が 出 て 言 った すべての 神 の 僕 たちよ 神 をおそれ る 者 たちよ 小 さき 者 も 大 いなる 者 も 共 に われらの 神 を 賛 美 せよ 全 能 者 にして 主 なるわれらの 神 は 王 なる 支 配 者 であられる わたした ちは 喜 び 楽 しみ 神 をあがめまつろう 小 羊 の 婚 姻 の 時 がきて 花 嫁 はそ の 用 意 をしたからである 彼 女 は 光 り 輝 く 汚 れのない 麻 布 の 衣 を 着 る ことを 許 された この 麻 布 の 衣 は 聖 徒 たちの 正 しい 行 ないである ( 黙 示 録 19:5~8) 私 たちの 一 人 ひとりは キリストがすべてのものの 終 わりに 天 の 都 の 栄 光 へと お 導 きになる 花 嫁 の 栄 光 のために 役 立 つよう 花 嫁 を 飾 る 麻 布 の 糸 を 作 る 役 割 を 果 たしているのです 天 の 都 には 偽 りをなすものはなく どんなゆがみもあ りません また 罪 ある 人 間 の 本 質 から 来 る 雑 事 が 皆 主 の 受 難 において 聖 められ るために 魂 が 自 我 をすべて 捧 げることによって 洗 い 清 められます これこそ 信 徒 としてすばらしい 事 です このすばらしい 事 に 直 面 する 時 私 たちは 聖 パウロがコリントへの 第 二 の 手 紙 の 中 で このような 任 務 に だれが 耐 え 得 ようか ( 第 2 コリント 2:16)と 問 いかけたように 尋 ねてもよいのです 私 たちは 力 が 自 分 にある と 言 うので はありません わたしたちのこうした 力 は 神 からきている ( 第 2 コリント 3:5) ことをわきまえています というのは 初 めから 終 わりまで 神 の 働 きだからです 聖 パウロは 神 は 信 徒 の 中 に 働 くと 確 信 すると 共 に 私 たちの 序 答 と 協 働 が 極 めて 重 要 であると 気 づいていました 私 たちは 神 と 共 に 働 く 者 ( 第 2 コリン ト 6:1)であり また わたしたちは 皆 キリストのさばきの 座 の 前 にあらわれ 11
善 であれ 悪 であれ 自 分 の 行 ったことに 応 じて それぞれ 報 いを 受 けねばなら ないからであ ります( 第 2 コリント 5:10) 夕 ぐれに 彼 らはあなたを 愛 のうちに 試 すであろう 死 は 深 遠 な 奥 義 です 死 後 魂 に 何 が 起 るかを 考 究 するに 従 って 私 たちは 無 限 であり 私 たちの 全 理 解 力 と 知 識 を 越 えた 事 柄 に 関 して 私 たちの 有 限 な 心 の 限 界 を 認 識 しなければなりません この 問 題 について 私 たちに 最 も 明 快 に 語 り かけてくれた 聖 人 の 一 人 にジェノアの 聖 カタリナがあります 聖 カタリナは 煉 獄 について という 書 物 の 中 で 死 者 はこの 世 で 身 につけてきた 意 志 はもう 変 えないであろう 人 の 魂 はこの 世 の 生 涯 で 意 図 をもった 意 志 によって 善 悪 に 拘 らず 定 着 しているからである(4 章 )といっています さらに 魂 はその 罪 の 性 質 だけに 導 かれて 定 められたところへ 行 く (7 章 )と 言 っています この 表 現 には 滅 び 行 く 古 き 人 を 脱 ぎ 捨 て (エペソ 4: 22)といって 私 たちを 戒 める 聖 パウロの 言 葉 の 響 きがあるように 思 われます この 文 脈 で 聖 パウロは 神 に 反 逆 するものとしての 罪 ある 人 類 を 表 わすために human nature( 人 間 性 )という 語 を 使 っています このような 反 逆 は 必 然 的 に 魂 を 神 から 引 き 離 します そして 死 の 際 に 魂 は いわば 自 らその 重 みで 沈 む のです 魂 のな らわしと 神 か 自 我 かの 選 択 は この 世 の 生 活 によって 明 らかに 築 き 上 げ 形 成 されてきたからです 十 字 架 の 聖 ヨハネは 私 たちに 夕 ぐれに 彼 らはあなたを 愛 のうちに 試 すであろ う と 言 います ( 金 言 57) ジェノアの 聖 カタリナは さきの 書 物 の 中 でこの 試 みの 効 果 にふれて 次 のように 言 っています 魂 が 神 にこのような 愛 の 焔 の 力 で 引 き 寄 せられるのを 自 覚 すると 崇 高 な 主 なる 神 への 光 り 輝 く 菱 の 熱 によっ て 魂 が 溶 け 溢 れ 出 るのを 感 じるのです 煉 獄 で 感 じる 苦 しみを 魂 の 中 に 生 じ させるのはこれらの 情 景 です (9 章 ) ニューマンは ゲロンチウスの 夢 の 中 でこの 考 えを 展 開 しています 悪 魔 に 引 き 渡 されたとき 魂 は 肉 体 から 引 き 離 された 現 在 の 状 態 について 尋 ねて 言 い ます 罪 の 浄 化 を 受 ける 前 に 一 度 だけ 神 にまみえることができるとの 教 えによ って 私 はこの 世 ではいつも 慰 められていたと 天 使 が 答 えます 真 に - ひととき 主 にまみえん いと 聖 き 方 のみ 姿 は 12
汝 に 喜 びを 与 え 或 は 突 き 刺 さん 永 久 の 愛 焔 と 燃 えて 姿 変 わるまで 燃 え 続 かん 晩 年 に 私 たちは 神 の 愛 によって 裁 かれます 魂 が 神 の 愛 の 大 きな 引 きつけら れる 力 も 引 き 寄 せる 力 もともに 感 知 するにつれて 同 時 に 魂 が 自 らの 罪 が 神 の 愛 に 反 するもの 神 の 愛 のみ 前 には 全 く 存 在 し 得 ないものとして 自 覚 するに つれて 御 使 たちは 魂 に 近 づく 苦 痛 - 神 の 愛 に 出 会 うときの 苦 痛 を 歌 います かくてこの 二 つの 苦 しみは 互 いに 反 し いと 鋭 く 神 見 ぬ 前 の 憧 憬 は 神 見 んと 思 う 自 我 の 恥 らいは 汝 のまことの いと 鋭 き 煉 獄 とならん それにもかかわらず 魂 は 比 類 のない 力 で 主 の 足 もとに 引 き 寄 せられて 御 使 の み 手 より 突 進 し 御 使 はその 様 を 歌 うのです 幸 せな 悩 める 魂 よ 汝 安 からん 尽 くれども 神 のひと 目 になお 生 きつづけて 魂 がキリストにまみえ わたしが 好 むのは あわれみであって いけにえでは ない わたしがきたのは 義 人 を 招 くためではなく 罪 人 を 招 くためである (マ タイ 9:13)とのキリストの 憐 みを 感 じとる 時 潔 めが 始 まるのです 神 の 愛 は 罪 人 がすべての 被 造 物 は 神 のものであると 認 める 時 に 現 われます しかし 自 ら 進 んで 憐 みを 受 けなければなりません 自 ら 進 んで 憐 みを 受 けないなら 罪 の 恐 怖 と 死 への 戦 慄 が 残 るだけであり 魂 は 盲 目 となり 働 かなくなるからです したがって 私 たちは 全 自 我 を 働 かせて 目 を 開 き わたしがきたのは この 世 をさばくためでなく この 世 を 救 うためである また わたしがこの 地 から 上 げられる 時 には すべての 人 をわたしのところに 引 きよせるであろう (ヨハネ 12:47,32)と 死 の 前 に 言 われたキリストの 中 に 神 の 憐 みを 感 知 するよう 霊 的 生 活 を 確 立 しなければなりません 私 たち 自 身 の 中 で 神 のためでないものは 永 久 に 存 在 できません 神 のものが 一 致 に 入 れるためには 神 のものでないもの はすべて 焼 き 捨 てられなければなりません 焼 き 捨 てられず 神 のものでない ものは すべてそのために 備 えられたところへ 行 くのです 13
結 び 主 は 神 の 憐 みを いなくなった 羊 なくした 銀 貨 放 蕩 息 子 のたとえで 教 えて 下 さいます どのたとえも 要 旨 は 罪 人 がひとりでも 悔 い 改 めるなら 神 の 御 使 たちの 前 でよろこびがあるであろう (ルカ 15:10)ということです 私 たちは この 天 上 の 神 の 喜 びに 貢 献 できるように 悔 い 改 め 神 に 寄 り 頼 んで 生 きなけれ ばなりません 主 は キリストに 在 る 者 からは 誰 も 取 り 上 げることのできない 喜 びを 知 ることができるために 主 ご 自 身 の 犠 牲 の 死 が 必 要 であることを 弟 子 たちにお 教 えになりました (ヨハネ 16:19~22 参 照 ) 忠 実 な 僕 には 主 人 と 一 緒 に 主 人 の 喜 びにあずかることが 約 束 されているのです(マタイ 25:21) 聖 パウ ロはテザロニケ 人 たちに 罪 のあがないは 永 久 に 変 わらないものであることを 教 え 励 まし 喜 ぶように 命 じます なぜなら 神 はテサロニケ 人 たちが 喜 べるよ うに 働 いておられるからです 私 たちは 恐 ろしい 審 判 を 受 けるのではありませ ん 主 イエス キリストを 通 して 救 いが 完 全 に 達 成 されるように 神 が 定 めてお られます したがって すべての 事 について 感 謝 しなさい これが キリス ト イエスにあって 神 があなたがたに 求 めておられること ( 第 1 テサロニケ 5:18)なのです このような 喜 びの 霊 にひたり 神 の 勝 利 にみちた 愛 におく 確 信 によって 私 た ちは 真 実 に 次 の 祈 りの 言 葉 のうちに 満 ち 満 ちた 平 安 と 喜 びを 見 出 すことが 出 来 るのです 世 を 去 ったすべての 人 の 魂 が 主 のあわれみによって 安 らかに 憩 うことができますように アーメン 14