エンカウンター(ENCOUNTER) 第 129 号 平 成 25 年 1 月 20 日 編 集 発 行 人 224-0015 横 浜 市 都 筑 区 牛 久 保 西 2-14-28 山 口 周 三 電 話 080-1232 -0905 http://encounter.agape.gr.jp/ 小 西 芳 之 助 ローマ 人 への 手 紙 講 解 説 教 より(8) 第 22 講 法 然 上 人 に 学 ぶ かの 仏 願 に 順 ずるが 故 に 法 然 上 人 がいくら 勉 強 しても 悟 れない 自 分 は 仏 教 の 教 えを 実 行 し 得 ないことを 知 り 悩 んでおられた 時 に 善 導 大 師 の 観 経 ( 観 無 量 寿 経 )の 注 釈 の 中 に 一 心 に 専 ら 弥 陀 の 名 を 称 える どこへ 行 っても 何 をしていても いつでも 称 える 要 は 称 えることをやめなかった らよいのだ これが 極 楽 へ 永 遠 の 国 へ 行 く 行 である なぜか と 言 うと かの 本 願 すなわち 阿 弥 陀 仏 の 我 名 を 称 うる 者 を 救 うと いう 阿 弥 陀 仏 の 本 願 があるからであると 一 心 専 念 弥 陀 名 号 行 住 坐 臥 時 節 久 近 を 問 はず 念 々 捨 てざる 者 これを 正 定 の 業 と 名 づく かの 仏 願 に 順 ずるが 故 に ( 善 導 観 経 疏 巻 四 ) 特 に 最 後 の かの 仏 願 に 順 ずるが 故 に という 文 句 が 法 然 の 魂 の 底 まで 動 かしました これは 自 分 の 力 ではない 我 が 名 を 称 える 者 を 救 うのだという 仏 の 願 の 力 によるのだ ということが 分 かった それで 善 導 の 教 え 恵 心 の 勧 めに 従 って 称 名 念 仏 に 努 め それか ら 恵 心 の 往 生 要 集 を 読 んだら そのことがはっきりしてきた このように 観 経 の 疏 が 法 然 上 人 を 救 いました そうですから 法 然 上 人 は 私 は ひ とえに 善 導 によるのだ ( 偏 依 善 導 )と 言 われたの であります 先 生 をもっている 人 は 幸 せです 先 生 のない 信 仰 はあ てになりません (P.1 99) 1
ロマ 書 3 章 21-26 節 の 恵 心 流 注 釈 善 導 大 師 は 大 無 量 寿 経 を 注 釈 なさるのに 本 文 では 36 文 字 ある 仏 の 本 願 を 48 文 字 に 訳 しました そして 本 文 には 信 じて 称 うる 者 は 救 われる とあるのを 善 導 は 信 じて という 文 字 をとってし まって 称 うる 者 は 救 われる と 直 しました 信 仰 の 客 体 として 見 る 時 に その 客 体 の 中 から 信 じる という 字 を 取 ってしまった これが 善 導 大 使 が 救 い 主 の 生 まれ 変 わりだと 言 われる 所 以 である と 思 います ロマ 書 3 章 21-26 節 に 信 仰 という 字 が 名 詞 で 3 回 動 分 詞 で 1 回 計 4 回 出 てきます それが 4 回 とも 通 説 では イエス キリス トを 信 じる と すべて 人 間 側 の 信 仰 に 訳 してあります 私 は 22 節 の 動 分 子 の 信 じる 者 に 与 えられる というところだけを 人 間 側 の 信 仰 に 残 して あとの 三 つの 信 仰 という 名 詞 全 部 をキリストの 贖 罪 と 訳 しました 少 し 無 理 があるかも 知 れないが 文 法 的 にもそう 読 めます 精 神 からすれば これはパウロの 精 神 だと 思 います そう いうふうに 大 胆 に 訳 すのは 私 が 無 学 であるからでもありますが 善 導 大 師 によっているからであります 私 は 自 分 のキリスト 教 を 恵 心 流 キリスト 教 と 言 っておりますが 浄 土 宗 の 祖 師 方 の 精 神 によ ると そう 訳 さねばならない 信 仰 の 客 体 の 中 に 人 間 側 の 信 仰 を 入 れてはならない こういう 通 説 の 訳 人 間 側 の 信 仰 が 入 って 来 るよ うな 訳 が 信 仰 というものを 非 常 に 難 しくした 理 由 であります こ のような 私 の 解 釈 は 今 は 通 説 になっておりませんけれども 私 の 恵 心 流 注 釈 が ロマ 書 3 章 21 26 節 の 注 解 の 通 説 になるであろうと 信 じます (P.200) ( 注 ) 善 導 大 師 (613-680) 中 国 浄 土 教 の 大 成 者 動 綽 に 師 事 し 浄 土 の 行 業 に 勤 めた 後 長 安 に 出 て 庶 民 の 教 化 に 専 念 した 彼 の 観 無 量 寿 経 の 注 釈 は 観 経 解 釈 の 決 定 版 と 言 われ ている 2
一 枚 起 請 文 について 一 枚 起 請 文 もろこしの 我 が 朝 にもろもろの 智 者 たちの 沙 汰 し 申 さるる 観 念 の 念 にも あらず また 学 問 をして 念 の 心 を 悟 りて 申 す 念 仏 にもあらず ただ 往 生 極 楽 のためには 南 無 阿 弥 陀 仏 と 申 して 疑 いなく 往 生 するぞ と 思 ひとりて 申 すほかには 仔 細 候 はず 但 し 三 心 四 修 と 申 すことの 候 ふは 皆 決 定 して 南 無 阿 弥 陀 仏 にて 往 生 するぞ と 思 ふ 中 にこもり 候 なり このほかに 奥 深 き ことを 存 ぜば 二 尊 のあはれみにはづれ 本 願 にもれ 候 べし 念 仏 を 信 ぜん 人 は たとひ 一 代 の 法 をよくよく 学 すとも 一 文 不 知 の 愚 鈍 の 身 になして 尼 入 道 の 無 智 のともがらに 同 して 智 者 の 振 舞 をせずして 唯 一 向 に 念 仏 す べし 証 のために 両 手 をもって 印 す 浄 土 宗 の 安 心 起 行 この 一 紙 に 至 極 せり 源 空 が 所 存 この 外 に 全 く 別 義 を 存 せず 滅 後 の 邪 義 を 防 がん 為 に 所 存 を 印 しおわんぬ ( 建 歴 2 年 正 月 23 日 源 空 御 判 ) これは 私 の 注 釈 を 待 たずとも よくお 読 みいただいたら 法 然 上 人 が 何 を 言 っておられるかが 分 かると 思 います この 真 ん 中 頃 に あります 但 し 三 心 四 修 と 申 すことの 候 ふは 南 無 阿 弥 陀 仏 にて 往 生 するぞと 思 う 中 にこもり 候 ふなり ここが 山 であると 私 は 思 います この 三 心 というのは 信 仰 の 三 つの 心 でありまして 観 経 に 三 心 を 具 するものは 必 ず 往 生 す という 文 句 がある 至 誠 心 深 心 回 向 発 願 心 を 三 心 と 申 すのでありますが 信 心 すなわち 信 仰 の ことです 四 修 とは 長 時 宗 無 間 修 恭 敬 修 無 餘 修 の 四 つであ りますが 行 いのことです ですから 信 仰 も 行 ないも みな 阿 弥 陀 仏 と 唱 えると 往 生 するぞと 思 ううちにこもっている と 言 うので あります 法 然 上 人 の 信 仰 と 言 うのは 我 名 を 称 うる 者 を 救 うとい う 救 い 主 の 約 束 を 信 じることであります 以 上 が 救 い 主 阿 弥 陀 仏 の どこをどういうふうに 信 じるかの 説 明 であります (P.201 ) 注 法 然 上 人 ( 源 空 ) (1133-1212 ) 美 作 ( 岡 山 県 )の 出 身 浄 土 宗 の 開 祖 善 導 大 師 の 観 経 注 釈 を 読 み 専 修 念 仏 に 帰 した 著 書 に 選 択 本 願 念 仏 集 な ど 一 枚 起 請 文 は 法 然 上 人 が 1212 年 亡 くなる 直 前 に 門 弟 源 智 の 請 いに 応 じ 3
て 往 生 要 集 の 要 義 を 一 枚 の 紙 に 記 した 証 の 文 書 浄 土 門 の 仏 教 とキリスト 教 との 関 係 両 者 のよく 似 た 点 について 比 較 してみたいと 思 います (1) 救 いの 目 的 がよく 似 ています 共 に 永 遠 の 生 命 を 得 ることであります この 世 で 善 行 をなすこと でもなく この 世 において 平 安 な 心 を 得 ることでもない 永 遠 不 滅 の 生 命 を 頂 戴 する その 結 果 善 行 ができ 心 に 平 安 が 得 られる これは 付 いてくるものです 永 遠 不 滅 の 生 命 をもらうことが 目 的 で あります これが 両 方 ともよく 似 ています (2) 自 分 自 身 を 何 と 信 じるかが 似 ています 両 方 とも 万 人 罪 人 の 信 仰 であります 善 導 大 師 は 自 身 は 現 に 之 罪 悪 生 死 の 凡 夫 曠 劫 よりこの 方 常 に 没 し 常 に 流 転 して 出 離 の 縁 あ ることなしと 信 ぜよ と 言 われました (3) 信 仰 の 客 体 が 似 ています 両 方 とも 救 い 主 による 救 いの 業 の 力 によっている 一 方 は 称 名 するものを 救 うという 本 願 の 力 であり 他 方 はイエス キリストの 贖 罪 の 力 であります (4) 信 仰 の 内 容 が 似 ています ただ 信 じるだけであります (5) 救 いの 実 現 が 似 ています 両 方 とも 実 現 は 来 世 です 復 活 の 信 仰 来 世 に 置 いてキリスト 再 臨 の 時 我 々は 復 活 するのですが 浄 土 門 も この 世 においては 称 名 しているだけですけれども 死 後 阿 弥 陀 仏 の 国 に 生 まれて 後 に 仏 になり 永 遠 無 限 の 栄 光 を 頂 く という 救 いの 実 現 がよく 似 て います (6)この 世 における 信 仰 の 続 け 方 が 似 ています 浄 土 宗 では 念 仏 を 称 える 救 い 主 の 名 を 称 えることですが ロマ 書 10 章 13 節 によれ ば 主 の 名 を 称 うる 者 は 救 われる とパウロは 言 っている 我 が 主 イエスよ 我 が 主 イエスよ と 救 い 主 の 名 を 呼 ぶことがよく 似 てい る 但 し キリスト 教 の 神 の 意 思 を 行 なうという 献 身 は 浄 土 門 に はないと 思 います (7) 現 世 における 救 いの 味 わい 方 が 似 ています 4
浄 土 門 では 念 仏 すると 救 い 主 阿 弥 陀 仏 が 自 分 と 一 緒 におられ る また25 菩 薩 観 世 音 菩 薩 勢 至 菩 薩 をつかわして 守 って 下 さ る キリスト 教 の 信 仰 は この 世 において 健 康 になるとか 金 が 儲 かるとか 偉 い 仕 事 ができて 人 に 褒 められるとか そういうもので はない キリスト 自 身 が 聖 霊 として 我 々と 共 におられる 我 々が 信 望 愛 を 持 つのは 主 が 共 に 在 すからであります これが 現 世 におけるキリスト 者 の 生 活 の 味 わい 方 です よく 似 ています 以 上 キリスト 教 と 浄 土 門 の 似 た 点 を 挙 げました 法 然 上 人 は 未 だ 知 らず 他 法 の 浄 土 にかかる 本 願 あることを と 言 われました 他 法 の 浄 土 においても このような 救 いがあるかも 知 れないと 言 われ た あまりによく 似 ているので 両 方 の 救 い 主 は 同 一 の 人 格 の 方 ではないかと 思 う 程 であります 5
第 23 講 アブラハムの 信 仰 聖 書 の 鍵 は 聖 霊 50 年 前 内 村 先 生 は ロマ 書 第 4 章 に 入 る 前 に 講 義 を2 回 ロマ 書 に 関 係 なくお 話 しになりました 初 めの 第 21 講 永 世 不 変 の 道 では 神 の 言 葉 福 音 というものは 永 世 不 変 である 我 々はこの 永 世 不 変 の 福 音 を 学 びつつあるのだ という 話 をされました 次 の 22 講 神 の 殿 においては 聖 書 の 鍵 は 聖 霊 である 神 の 霊 真 理 の 御 霊 が 降 る 時 我 々は 真 に 聖 書 を 理 解 することができる 聖 霊 が 我 々に 臨 まなければ 所 詮 我 々は 真 理 を 理 解 することができない ということをお 教 えになりました そして 聖 霊 は 神 の 殿 すなわ ち 目 に 見 えざる 教 会 に 降 るのである 我 々のこの 小 さい 集 まりも その 見 えざる 教 会 の 一 部 を 構 成 するものであり 集 会 ごとにその 上 に 神 の 霊 が 降 る という 話 をされました 先 生 の 集 会 には5,60 0 人 は 集 まっておりましたが この 集 まりに 対 して 聖 霊 が 降 るので あると 集 会 の 重 大 性 についてお 話 になったわけであります 我 々のこの 小 さな 高 円 寺 東 教 会 の 集 まりに 対 しても 聖 霊 は 降 り 給 う 神 は 牧 師 一 人 を 恵 むためではなく 集 会 に 対 して 聖 霊 を 降 し 給 うのです そのことを 信 じ 私 の 講 義 の 初 めには いつも 聖 霊 の 降 るのを 祈 るのはこのためであります (P.206) 6
アブラハムの 信 仰 の 特 色 ここにアブラハムの 信 仰 の 特 質 が 述 べられています アブラハ ムの 年 齢 はおよそ 100 歳 であり 子 供 を 産 むのにはほとんど 死 んだ からだと 同 じ 状 態 でした その 上 年 老 いた 妻 サラは 不 妊 症 でし た 従 って 子 供 が 生 まれるはずがない そういう いわば 死 の 状 態 からイサクが 生 まれたのです しかし お 前 に 子 を 与 えるという 神 の 約 束 を 彼 は 信 じていた 神 は 約 束 されたことは 成 就 なさると 信 じた 不 可 能 と 見 えるのに 可 能 と 信 じ 希 望 がないのに 希 望 を 持 っ ていた これがアブラハムの 信 仰 の 特 質 であります クリスチャンの 信 仰 の 特 質 も 同 じであります 我 々 罪 人 死 ぬべ き 者 が 永 遠 不 滅 の 命 を 与 えられるということは 不 可 能 であります それをイエス キリストの 贖 いによって 与 えると 神 が 約 束 し 給 うた こと それを 我 々は 信 じるのであります これをキリスト 教 の 信 仰 という キリスト 教 信 仰 とは イエス キリストが 死 んだ この 死 から 神 が 復 活 せしめた これであります 死 んだ 者 が 復 活 するとい うことは 不 可 能 であります この 不 可 能 なことを 望 みえないこと を 神 が 実 行 し 給 うた このように 我 々 罪 人 滅 ぶべきものが イ エス キリストの 贖 いによって 義 とせられ 復 活 する これがパウ ロの 信 仰 であり クリスチャンの 信 仰 であります パウロのこのイ エス キリストの 復 活 の 信 仰 は アブラハムの 信 仰 によって 裏 書 き を 得 た 証 明 された この 古 きアブラハムの 信 仰 によって パウロ は 自 分 の 信 仰 を 確 かめたのであります (P.210) 7
我 は 復 活 しつつあるなり アブラハム ダビデ パウロ ルッターと この 福 音 の 流 れは この 生 命 は 太 い 線 を 引 いて 人 類 の 歴 史 の 中 に 流 れています それ に 比 べれば 現 代 人 類 に 大 きな 影 響 を 与 えているマルクスの 唯 物 史 観 も 又 消 え 去 る 日 が 来 るであろうと 私 は 予 言 したい この 人 類 の 歴 史 に 流 れている 福 音 の 太 い 線 は 永 遠 無 限 に 続 くものと 私 は 確 信 します アブラハムの 信 仰 の 特 色 は 彼 の 信 仰 の 強 さとその 信 仰 の 客 体 に あります 何 を 信 じたかということにある 自 分 は 百 歳 サラは 不 妊 そういう 状 態 で 神 から 子 供 を 授 けると 言 われたら それを 信 じ た 死 から 生 を 信 じた 不 可 能 から 可 能 を 信 じた 人 類 の 歴 史 に 大 いなる 事 業 をなした 人 々は この 信 仰 を 持 った 人 々です キリスト 教 信 仰 の 客 体 というものは イエスの 死 と 復 活 であると 共 に 我 々 自 身 が 贖 われて 復 活 することであります これ がキリスト 教 信 仰 であります 滅 ぶべき 我 々が 滅 ばない 永 遠 不 滅 の 存 在 となること 英 語 で 言 えば mor tal な 存 在 が imortal な 存 在 になること これをキリスト 教 の 救 いと 言 います 私 達 もアブ ラハムとパウロにならい イエスの 十 字 架 と 復 活 により 不 可 能 と 思 われる 我 々の 復 活 を 確 信 せしめられたい イエスは 我 は 復 活 な り と 仰 せになりました 我 々も キリスト 再 臨 の 時 の 復 活 を 確 信 し 現 在 我 は 復 活 しつつあるなり と 叫 びたい アルトハウス 先 生 は パ ウロ 程 アブラハムの 信 仰 を 深 くかつ 明 らかに 理 解 した 人 はこの 歴 史 において 存 在 しない と 言 われました また ル ッター 程 この 第 4 章 に 書 かれたアブラハムの 信 仰 を 深 く 解 釈 した 人 は 教 会 の 歴 史 に 存 在 しない と 書 いておられます その ルッターは 自 分 の 信 仰 ならびに 福 音 を 4 章 16 節 20 節 を 引 用 し て 説 明 したと 言 われています 実 にこのロマ 書 第 4 章 は 信 仰 を 解 する 鍵 として 人 類 の 持 っている 最 も 大 切 なものの 一 つであると 言 っても 過 言 ではありません 諸 君!このロマ 書 第 4 章 を 熟 読 玩 味 し ようではありませんか 8
第 24 講 義 とせらるる 事 の 結 果 (1) 患 難 忍 耐 練 達 希 望 5 章 第 3 節 それだけでなく 患 難 をも 喜 んでいる なぜなら 患 難 は 忍 耐 を 生 み 出 し 忍 耐 は 錬 達 を 生 み 出 し 錬 達 は 希 望 を 生 み 出 す ことを 知 っているからである い よいよ 3,4 節 は 恵 みのうちに 入 っているという その 内 容 の 患 難 です 患 難 をも 喜 んでいる 復 活 すると 患 難 いう 希 望 を 患 難 持 って 喜 んでいるが 今 度 は 実 際 生 活 においても 患 難 を 喜 ぶ 私 のように 患 難 にへたばっているような 者 には この 箇 所 を 説 明 しても 不 似 合 いですから パウロ 先 生 に 来 て もらえばよいと 思 いますが 患 難 をも 喜 ぶという これは 普 通 の 人 間 に 及 ぶ 患 難 です 特 に 信 仰 を 持 っているがために 受 ける 患 難 を もこれに 含 めて 強 調 しているとみてよいと 思 います 本 当 にこのキリスト 教 の 希 望 が 我 々のものになった 時 患 難 に 打 ち 克 つ 力 が 与 えられる 患 難 は 誰 でも 嫌 いです しかし 患 難 が くれば 患 難 を 喜 ぶ とパウロは 言 う なぜなら 患 難 は 忍 耐 を 生 み 出 すからと 忍 耐 というのはこらえている 辛 抱 しているという 意 味 もありますが むしろ 勇 気 fortitude あるいは 堅 忍 perseverance という 意 味 です 耐 えているだけではない 復 活 の 希 望 によって 艱 難 に 勝 ち 得 て 余 りありという 意 味 です ロマ 書 8 章 18 節 で 今 のこの 時 の 苦 しみは やがて 私 達 に 現 わされようとす る 栄 光 (すなわち 復 活 )に 比 べると いうに 足 りない と 豪 語 しました ですから 忍 耐 というのは 突 き 進 んで 勇 気 を 持 ってそれに 打 ち 克 つ という 意 味 の 字 です 次 に 錬 達 というものは 希 望 を 生 み 出 すという 希 望 というのは 復 活 の 希 望 です また 復 活 の 希 望 に 帰 ってきています キリスト 教 においては 初 めが 復 活 であり 途 中 が 復 活 であり 最 後 が 復 活 で す 諸 君 復 活 の 希 望 を 頂 こうではありませんか! そうすれば この 人 生 が 転 換 してきます (P.215) 9
ロマ 書 の 結 論 復 活 の 望 み 要 するに 復 活 の 希 望 が 中 心 頂 点 です 我 々は 復 活 するという これが 中 心 中 心 というよりもこれがすべてです 重 ねて 申 し 上 げ ます 復 活 の 希 望 は 葬 式 の 時 だけに 聞 くものではありません 毎 日 毎 時 実 行 すべき 問 題 です これを 実 験 して 我 々は 人 生 において 恐 るべきものはなくなる 病 気 患 難 来 たらば 来 たれ 我 々に 復 活 の 希 望 あり 主 が 我 々とともに 在 して 我 々はこの 人 生 において 恐 るべきものはないのであります パウロの 生 涯 を 見 て 下 さい キリ スト 教 信 者 とは あれこれと 善 行 をすることではありません この 復 活 の 希 望 を 持 って 進 撃 して 我 々の 人 生 における 義 務 を 勇 敢 に 尽 くす その 生 涯 をクリスチャンの 生 涯 と 言 う この 復 活 の 希 望 に 満 たされて 初 めて 信 者 の 生 活 は 活 気 を 帯 びてくるのであります これは ロマ 書 を 熟 読 すれば 分 かります ロマ 書 の 最 後 の 結 論 と 言 うべき 15 章 13 節 には どうか 望 みの 神 が 信 仰 から 来 るあらゆ る 喜 びと 平 安 とを あなたがたに 満 たし 聖 霊 の 力 によって あな たがたを 望 みにあふれさせて 下 さるように とあります 復 活 の 望 みを 聖 霊 によってあふれさせてもらえ と 言 うのがロマ 書 全 体 の 結 論 であります (P.217) 10