古 代 文 字 資 料 館 発 行 KOTONOHA 11 号 ( 2003 年 10 月 ) 武 丁 時 代 甲 骨 文 にみる 神 と 王 吉 池 孝 一 一 今 から 三 千 数 百 年 前 亀 の 甲 羅 や 牛 の 肩 胛 骨 などに 文 字 が 刻 み 込 まれた 古 代 殷 王 朝 の 甲 骨 文 字 史 料 です 王 もしくはそれに 準 ずる 人 が 農 業 耕 作 や 戦 争 の 正 否 などに つき 神 々の 意 志 を 問 うた 占 いの 記 録 で 私 たちはこれにより 神 と 王 との 関 係 はどの ようであったか すなわち 古 代 東 アジアにおける 宗 教 と 政 治 のありようはどのようであっ たか その 概 略 を 知 ることができます このような 文 化 という 面 からみれば 自 らの 遠 い 源 流 の 一 つと 言 ってもよい 古 代 の 殷 王 朝 は 東 アジアに 生 活 するものとって 気 になる 存 在 といえましょう 昨 年 この 方 面 についての 絶 好 の 研 究 書 が 文 庫 本 として 復 刊 されました 伊 藤 道 治 氏 の 古 代 殷 王 朝 の 謎 ( 講 談 社 学 術 文 庫 2002 年 もと 1967 年 )です 本 稿 では 古 代 殷 王 朝 の 謎 の 第 1 章 殷 の 神 々 を 中 心 に 甲 骨 文 第 一 期 武 丁 時 代 の 神 々と 殷 王 との 関 係 について 考 えてみます 殷 ( 商 ) 王 朝 時 代 区 分 早 期 ( 二 里 頭 期 ) 中 期 ( 二 里 岡 期 ) 晩 期 ( 小 屯 期 ) 第 一 期 19 盤 庚 20 小 辛 21 小 乙 22 武 丁 第 二 期 23 祖 庚 甲 24 祖 甲 骨 第 三 期 25 廩 辛 文 26 康 丁 有 第 四 期 27 武 乙 28 文 丁 り 第 五 期 29 帝 乙 30 帝 辛 図 1 図 1をご 覧 ください 殷 王 朝 の 文 化 は 早 期 ( 二 里 頭 期 ) 中 期 ( 二 里 岡 期 ) 晩 期 ( 小 屯 期 )の 三 つに 分 けられます 晩 期 ( 小 屯 期 )は 殷 が 安 陽 の 小 屯 付 近 に 都 を 置 いた 第 19 代 盤 庚 から 第 30 代 帝 辛 ( 紂 王 )までとなります 甲 骨 文 が 出 現 したのはこの 晩 期 であり 安 陽 からは 十 数 万 片 ともいわれる 甲 骨 文 の 断 片 が 出 土 しております これらの 断 片 は 中 国 の 董 作 賓 氏 に 端 を 発 した 研 究 により 第 一 期 から 第 五 期 までの 五 つの 時 代 に 分 けることが 可 能 となっております その 時 代 区 分 によりますと これまでに 発 見 されたものは 第 22 代 武 丁 以 後 のものということになります さて 甲 骨 文 は 穀 物 の 実 りの 善 し 悪 し 天 候 戦 争 の 行 方 祟 りの 有 無 10 日 毎 の 吉 凶 などさまざまな 内 容 につき 占 いを 通 して 神 々の 意 志 を 問 うた 記 録 です この 甲 骨 文 には 帝 自 然 神 祖 先 神 という 三 種 の 神 が 現 れます 今 回 は この 三 種 の 神 と 殷 王 殷 人 との 関 係 がどのようであるかを 問 題 とします 二 中 国 の 甲 骨 学 者 である 陳 夢 家 氏 は 殷 虚 ト 辞 綜 述 ( 1956 年 )で 神 々を 天 神 地 示 ( 地 祇 ) 人 鬼 の 三 種 に 分 類 しました 研 究 者 の 間 ではこの 陳 氏 の 分 類 が 広 くもちいられ ているようです 天 神 のなかに 最 高 神 である 帝 が 含 まれております おおむね 地 示 -11-
は 自 然 神 に 人 鬼 は 祖 先 神 にあたります この 内 人 鬼 の 扱 いが 問 題 となります 人 鬼 のなかには 殷 王 の 祖 先 が 含 まれ その 祖 先 は 大 きく 二 つに 分 かれます 一 つは 先 公 と 呼 ばれるもので 上 甲 ( 祖 先 名 ) 以 前 の 神 話 的 な 遠 い 祖 先 です いま 一 つは 先 王 と 呼 ば れるもので 上 甲 以 降 の 実 在 した 可 能 性 の 高 い 祖 先 です 陳 夢 家 1956 は 先 公 と 先 王 王 の 配 偶 者 即 位 していない 傍 系 の 先 祖 先 王 の 臣 をもって 一 グループにまとめ 人 鬼 としま す 一 方 伊 藤 2002 は 陳 氏 の 言 う 人 鬼 から 上 甲 以 前 の 先 公 ( 神 話 的 祖 先 )を 切 り 離 し ます そして その 先 公 と 地 示 を 併 せて自 然 神 とします 次 ぎに 先 公 ( 神 話 的 祖 先 )を 除 いた 人 鬼 の 残 りの 部 分 を祖 先 神 とします 三 つ 目 に 最 高 神 の帝 をたてます 最 高 神 帝 自 然 神 祖 先 A 神 B 神 C 神 殷 王 祖 先 祭 祀 殷 王 祭 祀 殷 族 A 族 B 族 C 族 殷 王 朝 の 人 々 図 2 帝 : 帝 の 働 きには 雨 や 旱 を 支 配 し 作 物 の 実 りを 左 右 するという 自 然 現 象 をつかさどる 面 と 戦 争 や 都 市 の 建 設 において 殷 の 人 々を 助 けたり 禍 を 降 したりする 面 すなわち 人 事 に 関 わ る 面 があったようです 自 然 現 象 : 丙 子 の 日 にトし 殼 ( 占 い 師 )がとう 翌 丁 丑 の 日 に 帝 がそれ 雨 ふることを 命 ずる か ( 合 14153) 人 事 : 丙 辰 の 日 にトし 殼 ( 占 い 師 )が 貞 ( と )う 帝 がこれこの 邑 ( 都 市 )を 終 しめんか( 合 14210) さて 陳 夢 家 1956 や 伊 藤 2002 や 池 田 末 利 1992( 商 末 上 帝 祭 祀 の 問 題 享 祀 説 の 批 判 と 不 享 祀 の 原 因 東 洋 学 報 第 72 巻 第 1 2 号 )によりますと 興 味 深 いことに 帝 は 殷 人 に 対 して 力 を 下 すのですが 祭 祀 を 受 けたことを 明 瞭 に 示 す 資 料 はないようです 自 然 神 や 祖 先 神 は 盛 んに 祭 祀 の 対 象 となっていることからすると より 高 位 の 帝 が 祭 祀 の 対 象 となら ないというのはなぜか 一 つの 謎 といえましょう 池 田 末 利 1992 は 帝 は 抽 象 的 理 論 的 存 在 であることから 儀 礼 が 欠 如 していたとの 仮 説 を 提 出 しております 伊 藤 2002 は 帝 は 祭 祀 などによってはその 意 思 を 左 右 できない 絶 対 的 な 神 として 考 えられていたためであろう としております 自 然 神 : 自 然 神 につきましては 農 作 物 の 実 りや 降 雨 など 自 然 現 象 にかかわる 甲 骨 文 が 多 数 を 占 めております これより 自 然 現 象 をつかさどっていたとみることができます 戊 午 の 日 にトし 賓 ( 占 い 師 )が 貞 ( と)う 祭 りて 年 ( みのり )を 岳 河 夒 ( 自 然 神 )に 求 めんか( 合 10076) -12-
先 ず 上 の 例 からも 分 かりますように 自 然 神 は 祭 祀 を 受 けます この 点 帝 とは 異 なります さ て 自 然 神 につき 注 意 すべき 点 が 二 つあります 第 一 点 目 は 自 然 神 の 名 と 同 じ 族 名 地 名 が 甲 骨 文 にみえるということです これに 拠 り 自 然 神 のあるものは もと 殷 王 朝 以 外 の 諸 族 によって 祭 られていた 神 であり 征 服 の 過 程 で 殷 の 祭 祀 にとり 入 れられたとみることが できます 己 卯 の 日 にトし 出 ( 占 い 師 )が 貞 ( と )う 今 日 王 それ 河 ( 地 名 )に 往 かんか( 合 23786) 丁 卯 の 日 に 婦 *( 女 性 名 )が 二 対 を 示 せり 岳 ( ト 骨 の 管 理 者 族 名 )( 合 13854) 第 二 点 目 は 自 然 神 に 対 して 帝 とよばれる 祭 祀 が 行 われているということです 伊 藤 2002 はこれにより 帝 の 機 能 が 自 然 神 と 同 じであった すなわち 帝 はもと 殷 の 自 然 神 であったとし ます もっとも この 儀 式 の 内 容 は 不 明 です 河 ( 自 然 神 )に 帝 せんか( 合 14531) 貞 ( と )う 王 亥 ( 自 然 神 )に 帝 せんか( 合 14748) 以 上 の 二 点 により 伊 藤 2002 は 殷 の 王 朝 が 発 展 し 各 地 を 征 服 するにつれて その 地 の 自 然 神 をも 祭 祀 のうちにとりいれ 異 族 との 間 に 連 帯 意 識 を 表 明 し 同 時 に 殷 の 自 然 神 である 帝 のもとに 諸 族 の 自 然 神 を 組 み 入 れ その 支 配 を 有 効 にしようとしたと 述 べます この 仮 説 自 体 に 異 を 唱 えるものではありませんが 第 二 の 論 拠 にはやや 無 理 がありように 思 え ます 帝 とよばれる 祭 祀 が 多 く 自 然 神 に 対 して 行 われるという 傾 向 は 確 かにあるので すが 次 ぎに 例 を 挙 げますように 第 一 期 武 丁 時 代 の 甲 骨 文 では 先 王 や 旧 臣 も 帝 祭 の 対 象 となっております 癸 未 の 日 に 下 乙 ( 先 王 )を 帝 せんか( 合 22088) 三 犬 をもって 黄 爽 ( 旧 臣 )を 帝 せんか( 合 3506) 祖 先 神 : 武 丁 期 の 祖 先 の 働 きの 特 色 は 王 をはじめ 生 人 に 対 する たたり ということ のようです 乙 亥 の 日 に 貞 ( と )う 大 庚 ( 祖 先 )がたたりせるか( 合 31981) 貞 ( と )う 歯 を 疾 めり 父 乙 ( 祖 先 )に 祭 らんか( 合 13652) 伊 藤 2002 によりますと 祖 先 神 について 注 意 すべき 点 は 王 などの 生 人 に 直 接 たたり をする 資 料 は 全 て 武 丁 時 代 のものであるとのことです 姚 孝 遂 1989( 殷 墟 甲 骨 刻 辞 類 纂 中 華 書 局 )の 索 引 に 拠 り 調 べてみますと 確 かにそのとおりであります このような 人 間 に た たり をする 武 丁 時 代 の 祖 先 の 霊 は 死 霊 に 近 いといえましょう 後 の 祖 甲 時 代 になると 祖 先 祭 祀 は 一 定 の 順 序 で 行 われます 祖 先 の 霊 を 祭 祀 によってあらかじめ 慰 撫 したい 又 それがで きると 考 えるようになった 表 れでしょう これにより 伊 藤 2002 は 祖 先 は 死 霊 から 祖 先 神 に 近 づいたとします 図 2ではこの 考 えにより 祖 先 神 とはせず 単 に 祖 先 とした 次 第 です なお 上 の 例 からも 分 かりますように 祖 先 神 は 自 然 神 と 同 様 に 祭 祀 を 受 けます 三 伊 藤 2002 では 武 丁 時 代 における 帝 と 祖 先 との 関 係 がはっきりしません 陳 夢 家 ( 1956.p.580)は 王 は 祖 先 やその 他 の 諸 神 を 通 して 雨 乞 いや 穀 物 の 実 りや 戦 争 の 勝 利 を 帝 に お 願 いした と 述 べております ただし 具 体 的 にどのようにお 願 いしたのか やはりはっき りしません この 点 について 池 澤 優 1999 ( 甲 骨 文 字 と 殷 の 祭 祀 月 刊 しにか 1999-4.Vol.10/No.4;pp.38-43 )に 興 味 深 い 見 解 があります それによりますと ト 辞 に -13-
は 世 代 の 近 い 祖 先 が 遠 い 祖 先 に 賓 せられ 後 者 が 更 に 帝 に 賓 せられるという 例 がある ( p.9-40)ということです 庚 申 の 日 にトし 殻 が 貞 う 翌 乙 巳 の 日 に 父 乙 ( 小 乙 )を 祭 るに 羊 を 用 いんか 貞 う 咸 ( 大 乙 )は 帝 に 賓 せられるか 貞 う 大 甲 は 咸 ( 大 乙 )に 賓 せらるか 甲 辰 の 日 にトし 殻 が 貞 う 下 乙 ( 祖 乙 )は 咸 ( 大 乙 )に 賓 せらるか 貞 う 下 乙 ( 祖 乙 )は 帝 に 賓 せられるか 貞 う 大 甲 は 帝 に 賓 せられるか ( 以 上 合 1402 による 一 部 省 略 ) この A 賓 于 B という 表 現 を A( 近 い 祖 先 )をもってB( 遠 い 祖 先 )に 配 祭 する 即 ち Bを 祭 るさいに Aも 併 せて 祭 る と 解 釈 する 立 場 もありますが 池 澤 優 1999 は 賓 を 祭 祀 を 表 わす 動 詞 としてではなく AがBに 迎 え 入 れられる という ように 解 釈 します 後 者 の 解 釈 自 体 はこれまでにも 為 されておりますが 池 澤 氏 は 合 1402 という 実 例 に 即 して 一 歩 踏 み 込 んだ 解 釈 をします この 史 料 は 一 つの 亀 甲 に 記 されたもので 実 際 には 父 乙 ( 小 乙 )に 対 する 祭 祀 しか 挙 げられておりません そこで 父 乙 に 対 する 祈 りが 上 位 の 祖 先 を 経 由 して 帝 にまで 到 達 するか 否 かが 問 われているの だとみます そして このような 祭 祀 の 構 造 があったため 殷 王 の 祖 先 は 人 間 と 帝 の 間 を 繋 ぐ 唯 一 の 仲 介 者 であったのであり 殷 王 は 帝 との 回 路 を 自 らの 祖 先 祭 祀 と して 独 占 することにより 帝 に 由 来 する 権 威 の 正 当 性 を 主 張 したのである ( 池 澤 優 1999.p.42-43)ということになるとします もし 上 に 挙 げた 史 料 合 1402 につい て このような 解 釈 が 認 められるものとしますと 殷 王 は 自 らの 祖 先 を 祭 ることによ り 人 間 の 意 志 を 間 接 的 に 帝 に 伝 えることができたということになります その 模 式 図 の 構 造 は 図 3のように 比 較 的 均 整 のとれたものとなります 最 高 神 帝 祭 祀 ( 間 接 ) 自 然 神 祖 先 A 神 B 神 C 神 殷 王 祖 先 祭 祀 殷 王 祭 祀 ( 直 接 ) 殷 族 A 族 B 族 C 族 殷 王 朝 の 人 々 図 3 四 後 の 康 丁 武 乙 文 丁 時 代 には 祖 先 の 霊 を 帝 の 機 能 に 近 いものとして 考 えるように なったと 推 測 することができる 甲 骨 文 があらわれます また 帝 乙 帝 辛 時 代 になる と 祖 先 の 神 としての 地 位 が 確 立 し その 子 孫 である 殷 王 の 意 志 がすべてに 優 先 す るかのような 甲 骨 文 が 出 てきます ですから 武 丁 時 代 において 図 3のようであった とすると 神 と 王 との 関 係 につき 後 代 への 推 移 の 説 明 が 容 易 になります もっとも A 賓 于 帝 を 帝 に 対 する 配 祭 であるという 立 場 からすると 帝 は 祭 祀 を 受 けるわけ -14-
ですから 図 3とは 相 容 れない 結 論 となります 惜 しいことに A 賓 于 帝 の 例 は 合 1402 に 見 られる 一 例 のみのようです 謎 は 尽 きません -15-