まことの祈りとまことの告白 ( マタイの福音書 6:5~15) 2014 年 5 月 4 日ソウル聖楽教会主日礼拝説教録取 キムソンヒョン説教 : 監督金聖顯牧師 神は現在も祈りを聞いておられるその方がイエスの名によってするすべての祈りを聞き 必ず応答を与えられる ( ヨハネ14:13~14) 祈ったとしても応答を受けることができないのはその方の御心通りに祈らなかったためである (Ⅰヨハネ5:14) 聖霊は神の御心通りにする祈りを助けられる ( ローマ8:26) 神は聖霊の思いを知って益とされる異邦人の祈りは偶像にするものであり 呪文を唱えるものなので 約束のない祈りに過ぎない ( マタイ6:6~7) 私たちの祈りは神の約束を受けたのちにする祈りなので 必ず応答を受ける ( 民 23:19) それゆえ 主イエスが神に届く祈りを教えられたが 主イエスがする祈りの真実である 聖霊によって祈ろう信仰によって祈り 謙遜に応答を待たなければならない 祈っても疑うことによって貴い応答を受けることができないこれは信仰を捨てたためである 信仰の祈りは働く力をもっているので すなわち 契約に従って疑わない祈りであり 聖霊に従ってする切なる祈りである 主イエスのように祈ろう主が知らせた通りにしよう祈ったのちに疑ってはいけない
何を求めたとしても聞かれる? 神は私たちの祈りを聞かれます その方はイエスの名によってささげるすべての祈りを聞き また 応答を与えられます しかし 信仰生活をしてみると すべての祈りに応答が与えられるわけではないということを発見して混乱に陥るときがあります そのような混乱は自分のすべての祈りが神に聞かれるという期待と異なる現実に直面するときに生じます 私たちはまず神の立場から考えなければなりません 親が子どもに 誕生日に欲しい物を何でも買ってあげよう と約束します そのとき 子どもが 拳銃を買ってください あるいは ワニを買ってください と要求するのであれば 親は戸惑うでしょう 何でも買ってあげるという言葉は可能な限り要求を聞いてあげるという意味であり 子どもが担うことができる物を買ってあげるという意味であって 額面通りに何でも買ってあげるという意味ではありません ある人は 私のサッカーチームが勝つようにしてください と祈ります しかし 相手のチームにも同じような祈りをしている人がいるのであれば どうなるでしょうか? そうかと思えば 勉強はしないでゲームだけをしている学生が いい大学に入ることができるようにしてください と祈って再びゲームに没頭するのであれば 神はその祈りを聞かれるでしょうか? また 教会の中で2 人がひとつの重職をおいて争います ひとりは教会をまことに愛して任せられた働きに忠誠を尽くしていますが もうひとりはそのようにしません 忠誠を尽くさない者が重職を得るために切に祈るときに 果たして神はどのようにしてその祈りを受けられるでしょうか? 神に祈っても応答を受けることができないのは神の御心通りに祈らなかったためです 私たちは何が良いことで 神に受け入れられ 完全であるのかを知って その御心通りに祈らなければなりません ( ローマ 12:2) 神の御心を無視する祈りは応答を期待することができません 滅びるこの世で何を求めなければならないのか? イエスが私たちに祈りの権利を与えられた当時の状況を知ることが重要です 宮を見上げておられたイエスは この宮はすべて倒れるようになり 恐ろしい日が来る キリストを自称する者や偽キリストがたくさん現れて あなたがたを惑わす 大きな苦難があるが その中でも福音は続けて宣べ伝えられる 福音が全世界に宣べ伝えられると 終わりが来る といい ( マタイ 24:1~31) この世の終わりの日について語られました イエスはこの世が滅びる最後の日まで自分の働きをやめないという御心をはっきりと現されました ( ルカ 12:49~50) ペテロの手紙第二 3 章 10 節は しかし 主の日は 盗人のようにやって来ます その日には 天は大きな響きをたてて消えうせ 天の万象は焼けてくずれ去り 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます といいました この世は結局 滅びます すべてが滅びに向かって走って行くときに キリスト者は生きる道を得ました 敵も滅び 不義も滅び 物質世界も滅び 罪も滅びます このような中で私たちは救いを受けました イエスはこのためにこの世に来て自分を犠牲にされました 救いを受けた者にとって罪はそれ以上問題ではないのか? イエスが苦難を受けながらも罪の問題を解決してくださったので 私たちは罪の奴隷になってはいけません 罪に対して死んだ私たちがどうしてその中にとどまっているのでしょうか? 神がバプテスマを通して私たちに古い人を葬らせたのは私たちが新しいいのちの
中で生きることを願われたためです ようやくの思いで罪から脱け出して義と認められた私たちが再び過去に戻って罪の奴隷になるというのはありえないことです ( ローマ 6:2~7) 罪が恐ろしいのは刑罰が伴うためです 刑罰はどのような場合でも避けなければなりません イエスは 罪を犯させるのであれば それが手であれ 足であれ 目であれ捨ててしまったほうが地獄に投げ入れられるよりはいい と警告されました ( マルコ 9:43~47) そのような御言葉はイエスが人々を癒して助けるときに見せられた態度と一致します その方はベテスダと呼ばれる池で病人を癒したのちに 見なさい あなたは癒された もう罪を犯してはいけません そうでないと もっと悪いことがあなたの身に起こる といわれ ( ヨハネ 5:14) 姦淫の場で捕らえられた女の人に わたしもあなたを罪に定めない 行きなさい 今からは決して罪を犯してはなりません ( ヨハネ 8:11) といわれました イエスが罪を犯してはならないと強調されたのはそれほど罪が恐ろしいためです 私たちは罪を犯さないために力を尽くさなければなりません しかし 思い通りに罪を犯さないようにすることができるわけではありません これは人に本罪というものがあるためです パウロは 私は罪を犯したくないが 罪を犯してしまう 自分がしたくないことをしているのは私ではなく 私のうちにある罪である 善をしたいと願っているが その私に悪が宿っている 私は内なる人として神の律法を喜んでいるのに 体の中に異なった律法があって それが私の心の律法に対して戦いを挑み 私を 体の中にある罪の律法のとりこにしている 私は本当にみじめな人間だ 誰がこの死の体から私を救い出してくれるのか? 私は心では神の律法に仕え 肉では罪の律法に仕えている と告白しました ( ローマ7:20~25) 罪を犯さないのはやさしいことではありませんが 私たちは罪に勝利しなければなりません テトスへの手紙 2 章 11~14 節は すべての人を救う神の恵みが現れ 私たちに 不敬虔とこの世の欲とを捨て この時代にあって 慎み深く 正しく 敬虔に生活し 祝福された望み すなわち 大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは 私たちをすべての不法から贖い出し 良いわざに熱心なご自分の民を ご自分のためにきよめるためでした といいました 私たちに向けられた神の御心は明らかです 主は私たちをきれいにし きれいになった私たちがこれからは良いわざを行うことによって聖くなるのを望まれます ペテロの手紙第二 1 章 4 節は その栄光と徳によって 尊い すばらしい約束が私たちに与えられました それは あなたがたが その約束のゆえに 世にある欲のもたらす滅びを免れ 神のご性質にあずかる者となるためです といい ペテロの手紙第一 2 章 11 節は 愛する者たちよ あなたがたにお勧めします 旅人であり寄留者であるあなたがたは たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい といいました 私たちは旅人のような者です 英語の聖書ではこれを as aliens and strangers in the world と表現しました 私たちは宇宙人のようにこの世に属さない者です それゆえ 肉体の情欲に自分を預けてはいけません 肉体の情欲を制御しなければ 結局 罪を犯すようになります そして 罪が熟すると 死を生みます ( ヤコブ 1:15) 特に真理の知識を受けたのちに ことさらに罪を犯し続けるのならば 罪のためのいけにえはもはや残されていません ( ヘブル 10:26) また イエス キリストを知ってきれいになったのちに再び以前の生活に戻った者はその状況が過去
よりも悪くなり キリストを知らなかったときよりも不幸になります ( ヘブル 6:4~8) それゆえ すでに救いを受けた者であっても罪に対する警戒を緩めてはいけません 主の祈りを忠実にする者がもつ 罪に対する態度 イエスは弟子たちに祈りの方法を教えられました マタイの福音書 6 章 9~15 節はこれについて だから こう祈りなさい 天にいます私たちの父よ 御名があがめられますように 御国が来ますように みこころが天で行われるように地でも行われますように 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください 私たちの負いめをお赦しください 私たちも 私たちに負いめのある人たちを赦しました 私たちを試みに会わせないで 悪からお救いください 国と力と栄えは とこしえにあなたのものだからです アーメン もし人の罪を赦すなら あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます しかし 人を赦さないなら あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません といいました 主が教えてくださった祈りには2つの強調点があります ひとつは神の国に対して慕い求めるということ もうひとつは罪に対する警戒 すなわち悪魔に対する警戒です 私たちがこの世にとどまる間に 主が教えられた祈りを忠実にしようとするのであれば 罪と熱心に戦わなければなりません 罪は神の国と正反対の概念です 私たちは罪からは自由になりましたが 罪に対する免疫力までもったわけではありません 信じる者も常に罪の周囲を危険に回って罪を犯します 神は罪を憎まれる方です それゆえ 神を信じて従う者も罪を嫌わなければなりません 信じる者は罪と戦う者です 神は罪から解放された者 すなわち罪の赦しを受けた者が罪と戦うことができるように聖霊を与えられました 使徒の働き2 章 38 節は そこでペテロは彼らに答えた 悔い改めなさい そして それぞれ罪を赦していただくために イエス キリストの名によってバプテスマを受けなさい そうすれば 賜物として聖霊を受けるでしょう といいました 聖霊は私たちの中に臨んで私たちがきれいになったということを保証し 私たちが聖なる者となるように助けてくださいます それにもかかわらず 人間の肉体は聖霊と戦います ガラテヤ人への手紙 5 章 16~17 節は 私は言います 御霊によって歩みなさい そうすれば 決して肉の欲望を満足させるようなことはありません なぜなら 肉の願うことは御霊に逆らい 御霊は肉に逆らうからです この二つは互いに対立していて そのためあなたがたは 自分のしたいと思うことをすることができないのです といいました 何をするにしても私たちは聖霊に従い 聖霊によって動かなければなりません イエスが定められた新しい祈りの特徴は? イエスは弟子たちに神にささげる祈りを教えられました イエスは最初にその祈りを教え 祈りによって生きる新しい時代を開かれました もちろん祈りはイエスが来られる前にも 1,500 年間 続けられてきました しかし イエスは新しい祈りの方法を定められました イエス以前の祈りは一方的であったという面で異邦人の祈りと大きく異なるところがありませんでした それは応答に対する保証がない 誠意と真心が重視される祈りでした 人々は神の心を刺激して応答を引き出そうとして 天に向かって大きな声で叫びました しかし 今は異なります イエスによる祈りは神と人間との間で相互作用する祈りであり 神が必ず聞いて応答を与えられる祈りです この祈りはイエスだけが許可された特権です イエスが来られる前にはすべてのイスラエルの民がともに神に仕えました そのときには個人が祈ったのではなく 祭司や預言者が民を代表して祈りをささげ 応答を受けまし
た しかし イエスが直接 私たちに見せてくださった祈りは子が父にささげる祈りです 今は子が父にするように 囁いたとしても応答を得ることができます イエスは神を父と紹介されました その方は してみると あなたがたは 悪い者ではあっても 自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです とすれば なおのこと 天におられるあなたがたの父が どうして 求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう ( マタイ 7:11) といわれ あなたがたは地上のだれかを われらの父と呼んではいけません あなたがたの父はただひとり すなわち天にいます父だけだからです ( マタイ 23:9) といわれ また 人は 新しく生まれなければ 神の国を見ることはできません ( ヨハネ 3:3) といわれました 私たちはこの御言葉を通して神を父と認めることができるようになりました しかし 今日 私たちが神を父として仕えるのはイエスがそのように語られたためだけではありません 聖霊が私たちに臨まれたのちには私たちの口から 父よ! という叫びが自然と出て来るようになりました 本来 異邦人として神を知らなかった私たちが神を父として仕えるようになったということだけでも感謝すべきことですが イエスはそのような私たちに特別な賜物を与えてくださいました すなわち イエスがはじめられた祈りを与えてくださいました 私たちはこの賜物の価値をはっきりと知らなければなりません 聖霊を受けた者だけがこの祈りを通して絶対的な応答を受けることができます 聖霊を受けていない者は祈りの終わりに イエスの名によって祈ります といったとしても その中にイエスの名が臨んだことがないために 祈りが届くという保障がありません しかし 聖霊を受けた者がささげる祈りには 父が聞かれ 私がそれをしよう という主の約束がありますし また 聖霊がそれを保証されます このように応答が保障された祈りをささげることができるようになったというのはまことに感謝すべきことです 新しい時代の祈りを受けた者の責任と義務とは? このように貴いものを受けた私たちは謙遜にそれにふさわしい義務と責任を果たさなければなりません この世の人々は自分が仕える神々の前でただ自分が願うことだけを求めます そのような要求のほとんどはこの地で食べて生きていくことと関連しています しかし 父なる神の国に属した者と認められた私たちにはその国に属した者としてもつべき姿勢があります 神は私たちにその国に対する忠誠を要求されます イエスはこの地におられたときにユダヤ人に あなたがたが来たのは下からであり わたしが来たのは上からです あなたがたはこの世の者であり わたしはこの世の者ではありません ( ヨハネ 8:23) といわれ ピラトの前では わたしの国はこの世のものではありません ( ヨハネ 18:36) といわれました イエスが父に祈られた内容を含んでいるヨハネの福音書 17 章には父 イエス 弟子たち そして この世が登場します その中で父 イエス 弟子たちは常にひとつの側であり この世はその反対の側です ヨハネの福音書 17 章の主な内容は父 イエス 弟子たちがひとつとなってどのようにこの世を相手にするのかということです イエスは もし世があなたがたを憎むなら 世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい もしあなたがたがこの世のものであったなら 世は自分のものを愛したでしょう しかし あなたがたは世のものではなく かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです それで世はあなたがたを憎むのです ( ヨハネ 15:18~19) といわれ そののちに父の御前で祈るときには わたしがこの世のものでないように 彼らもこの世のもの
ではありません 真理によって彼らを聖め別ってください あなたのみことばは真理です ( ヨハネ 17:16~17) といわれました イエスは私たちに父の国のための切なる愛を要求されます そして その国のために貢献する者には あなたは父の国のために貢献したのか? あなたには罪に勝利する力が加えられる あなたには悪魔の妨害を克服することができる自由が与えられる と約束されます これは一種の公式のようなものです ほとんどの人は自分の肉体がうまくいくことを要求するだけであって 神の国には関心をもちません 彼らは国が傾いたとしても自分の有益だけを考える欲張りです 私たちの祈りには 天でなされたようにこの地でも父の国が栄えますように! 私たちを罪から守ってください! 父の御言葉によって私たちに責任と義務を与えてください! という内容がなければなりません これが神が願われる私たちの祈りです 私たちの霊的な職分は祭司です 祭司の働きは神が罪を見て怒りを発しないように罪を取り除くことです 以前 イスラエルの民は祭司を通して罪の赦しを受けました しかし 今日 私たちはキリストの中でそれぞれ祭司となって直接 神の御前に出て行き 赦しを求めます ペテロの手紙第一 2 章 5 節は そして 聖なる祭司として イエス キリストを通して 神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい といい 9 節は しかし あなたがたは 選ばれた種族 王である祭司 聖なる国民 神の所有とされた民です といいました また ヨハネの黙示録 1 章 5~6 節は イエス キリストは私たちを愛して その血によって私たちを罪から解き放ち また 私たちを王国とし ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である といいました 私たちは祭司という職分にふさわしく自分の中にある罪を滅ぼして治めなければなりません これが神が望まれる私たちの霊の聖なる働きです 祈りの応答を受けるためには? 神はイエスの名によって求めるすべての祈りを聞いて必ず応答を与えられます これにははっきりとした理由があります イエスは またわたしは あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも それをしましょう ( ヨハネ 14:13) といわれました イエスが願われるのは御子によって神が栄光をお受けになることです これは父も御子も喜ばれることです それゆえ イエスが惜しんでしるしを施されないと考えるのであれば それは大きな誤解です 主はむしろそれを喜んで あなたがたは祈りなさい! 私によって神が栄光を受けられるようにしなさい! と強調されます 祈っても応答を受けることができないのは主の御心通りに求めないためです ヤコブの手紙 4 章 1~3 節は 何が原因であなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか あなたがたはほしがっても自分のものにならないと 人殺しをするのです うらやんでも手に入れることができないと 争ったり戦ったりするのです あなたがたのものにならないのは あなたがたが願わないからです 願っても受けられないのは 自分の快楽のために使おうとして 悪い動機で願うからです といいました 教会の中でも何かを得ようとして互いに争うことがあります しかし そのように争っても得ることができないのは求めないためです また 求めても得ることができないのは欲望によって使おうとして誤って求めるためです 多くの人が一日を欲望によってはじめ 欲望によって終えます それゆえ 神に求めることさえもそのような心で臨みます
ヨハネの手紙第一 5 章 14 節は 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら 神はその願いを聞いてくださるということ これこそ神に対する私たちの確信です といいました 神の御心通りに求める者は神に出て行くときにも大胆です 神が常に自分の祈りを聞いてくださるという自信があるためです 聖霊は私たちの弱さを助け 私たちの祈りが神に届くように助けてくださいます どのように祈らなければならないのかがわからないときに その方は自ら私たちに代わって求めてくださいます ( ローマ 8:26) 神の御心を知っておられる聖霊は私たちの事情も知っておられます 聖霊は私たちの中で神の御心に従って私たちのために祈ってくださいます 神はそのような聖霊の考えを知って私たちを助けてくださいます 私たちが何かの問題ににぶつかったときに この問題をもって神に祈ろうか? 神はこのようなことも助けてくださるのだろうか? これは欲望によって求めるのではないか? と悩むときがあります また 問題があまりにも大きくて切迫しているために 祈ろうという考えさえももつことができず どうしよう? 誰に助けを求めようか? と慌てるときもあります 聖霊はそのようなときに私たちの祈りを助けてくださいます ローマ人への手紙 8 章 28 節は 神を愛する人々 すなわち 神のご計画に従って召された人々のためには 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを 私たちは知っています といいました 聖霊は私たちの中で働き 私たちのために祈り 私たちの祈りを助けてくださいます 多くの人々がお金を稼げば稼ぐほどお金を惜しむようになります しかし ある人は祈りの応答を受けて事業に成功し その利益をもって教会に大きく貢献します その人の心には神の国に対する思いがあふれています その人はまるで建築するように自分の信仰を築き上げます 神はこのように自分のことだけを求めないで教会成長のために力を尽くす者を聖なる者と考えられます 私たちの霊魂はイエスの血によってきれいになりました きれいになるというのは結局 罪との戦いです 霊魂がきれいになった者は聖くなるために力を尽くさなければなりません もう一度言うと 教会の成長のために戦わなければなりません 神は私たちがきれいになることを願われ また 聖くなることを願われます すなわち 私たちが罪と戦うことを願われ また 教会の成長のために力を尽くすことを願われます 神はこのように聖なる者 すなわち教会を愛する者に祈りの応答を与えられます 神は約束を守られる方です ( 民 23:19) それゆえ 主の約束に基づいた祈りは必ず応答を伴います 私たちは必要なものがあるときに消極的に引き下がらないで 寛大でおられる父なる神に求めなければなりません 主は私たちが応答を受けることによって父なる神が栄光を受けられることを喜ばれます 私たちはイエスの祈りを受けた者です それゆえ これからは聖霊と信仰によって祈り 契約に従って祈り 祈ったことを疑わないで 謙虚に応答を待たなければなりません 祈りの応答を選びなさい! イエスが弟子たちに祈りを教えられたというのは父なる神と弟子たちの関係を結びつけたということであり また イエスが離れたのちに弟子たちが経験する生涯を予め準備させたということです イエスは神から委ねられた働きを成し遂げるために3 年間さまざまな危険に遭遇されました イエスが弟子たちに祈りを教えられたのはそのように緊迫した状況の中でした その方は自分がこの世を離れたのちにもこの地にとどまる弟子たちを心配しながら わたしはもう世にいなくなります 彼らは世におりますが わたしはあなたのみもとにまいります 聖なる父 あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に
彼らを保ってください それはわたしたちと同様に 彼らが一つとなるためです ( ヨハネ 17:11) と神に求められました そのような主がこの世を離れる前に弟子たちに教えられたのが祈りであり 弟子たちに命じられたのが聖霊を受けなさいということでした 今日の人々には何でも自分で判断して自分が知って行動しようとする傾向があります さらには多くの人がひとつの場所に集まっている状況でも単独行動をしながら 私ひとりくらいは大丈夫だろう と考えます このような状況は教会も例外ではありません しかし 信仰生活は神の御心通りにするものであって それぞれの考え通りにするものではありません イエスは聖霊によって監督を立てて 監督を通して大きな働きをなそうとされます そのとき すべての聖徒は心をあわせなければなりません 祈りの応答を受ける者とそうではない者との差はこのようなところにも現れます イエスは天に上る前に弟子たちに さあ わたしは わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります あなたがたは いと高き所から力を着せられるまでは 都にとどまっていなさい ( ルカ 24:49) といって 彼らを祝福されました 当時の状況をアメリカの文化にあわせて説明すると イエスは Good luck to you! すなわち うまくいくことを望んでいる! といわれたのです 霊的な言葉で言うと 初代教会の聖徒が互いに挨拶したように Grace to you! すなわち 恵みがありますように! といわれたのです 絶対的な権威と力をもっておられる主の祝福は絶対的なものですが それを拒む者には効力が現れません それゆえ イエスはすべてを弟子たちに与えられたのちに祝福しながら うまくいくことを望んでいる 恵みを受けなさい 私が再び来るときまでよく保たれなさい また会おう と期待されたのです 私たちはイエスの約束通りに聖霊を受け その方の御名によって祈る方法を知りました 応答を受けるのか 受けないのかは私たち自身にかかっています 神に対する誤解や疑問を捨てて イエスが教えてくださったように応答を受けなければなりません 主の御言葉を無視して 自分の考え通りに肉に従って祈った習慣を捨てなければなりません 聖霊に満たされ 神の国を考える聖なる者とならなければなりません 私たちはイエスの名によって勝利する準備がなされている者です それぞれの霊魂や家庭が祈りの応答を受けることによって 神に栄光をささげなければなりません 心をひとつにあわせた聖徒の祈りが応答を受ける教会とならなければなりません 翻訳 : ソウル聖楽教会視無言著書翻訳宣教センター日本語翻訳室