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Transcription:

東アジアの 歴史和解 に関する研究 研究代表者劉傑早稲田大学社会科学総合学術院教授 はじめに課題と問題意識 本研究は 歴史和解が達成されていない東アジアの国際関係 とりわけ日中関係を歴史的に検証することを目的にしている 歴史和解については 敵対した国同士が講和などの手続きを経て平和を達成し 自国および共通の利益を追求するなかで 信頼に基づく相互依存関係を構築し 持続させるプロセスであるとひとまず定義しておこう 和解の状態は 少なくとも次のような条件が必要であろう 1 双方の政府間と国民間に基本的な信頼関係が確立されていること 2 政府は 相手国との関係が対等であり 双方は相互依存の関係にあると認識すること あるいはそのように認識していると表明し 相応の政策を採用すること 3 不対等でも 国益の判断に基づいて 双方の政府がこの不対等な依存関係を容認すること 4 政府の判断を国民が支持か 容認すること 和解は上記の条件が満たされ 国家間関係がバランスのとれた状態にあることを意味するものである 歴史和解の場合は 信頼の構築は何よりも重要で 難しい課題である しかし現在 1965 年の日韓協定と1972 年の日中共同声明で築かれた東アジア和解の枠組みは大きな危機に直面している 日中関係についていえば 歴史上繰り返されたバランスのとれない状態 = 敵対の状態へ突きすすんでいる 日清戦争以降の日中関係は 平穏さが保たれた 和解 の時期は決して長くなかった 一方で 対立や戦争が繰り返されるなかで 和解 に向けた試みは多様な形で繰り広げられた 現在の日中 日韓関係は1945 年以来の和解のプロセスのなかにあると考えられる しかし このプロセスはいま 大きな困難に直面している 2001 年以降 首相の靖国神社参拝問題が大きくクローズアップされ 歴史認識問題は東アジア国際関係の中心に据えられた 民主党政権は一旦この問題を政治外交から外したが 島の領有権問題が先鋭化すると 中国と韓国は歴史問題の文脈の中で領土問題を取り上げ 領土問題は歴史認識問題の一側面として再燃した 日本は領土問題と歴史認識問題を切り離そうとしたが 第二次安倍政権は小泉首相以上に歴史問題を政治外交の中心に据える方針をとっている その結果 1960 年代以来の東アジア既存の和解の枠組みは動揺し始めた この既存の枠組みを修復するのか 新たなバランス関係に基づく新たな枠組みを再構築するのか 東アジアは大きな挑戦に直面している 本報告は 近代史における敵対のあと 和解 はどのように模索されたのか 結局は和解が成立できなかった原因は何か を検討したい とりわけ人的要素に注目し 和解に向けての信頼関係の意味を明らかにしたい -45-

1972 年の日中国交正常化時の和解まで 日本と中国は何度も和解のプロセスを経験した 本研究計画の最終的な研究成果ではこれらのことを包括的に論じることになっているが 本報告は満洲事変後と日中戦争中のケースを取り上げ 歴史上の和解のプロセスは 今日のわれわれにとってどのような意味をもっているのか について考えてみたい 一危機のなかの 和解 プロセス 満洲事変後の外交交渉 1931 年 9 月に始まった満洲事変は 日本による満洲支配を確立するために関東軍が起こした軍事行動であった 事変の結果 満洲国が建国され 満洲は日本の影響下に入り 中華民国は事実上満洲の広大な領土を失った それまでに辛うじて維持されていた日中両国のバランスが崩れた 第一次世界大戦中の 1915 年 日本が中国に 21 カ条要求を突きつけ 政治分野における日中の対等 依存関係はすでに揺らぎ始めていた 1919 年の五四運動はこのような対立の一つの到達点であった しかし 第一次世界大戦後の協調外交を背景に 紡績業を代表とする日本資本の中国進出は 経済分野における日中の相互依存を深めていった 1925 年に発生した五 三〇事件と蒋介石が中心になって進めた北伐のなかで起こった済南事件を契機に 中国各地の反日運動が日本製品に対するボイコットに発展し 経済分野における両国の依存関係にも大きな影響を及ぼした そして 満洲事変の勃発は 政治と経済における対等 依存関係の総崩れを意味するものであった 満洲事変以降 侵略と抵抗という構図が維持されるなかで 日本と中国の間に 和解 を探る動きがあった それは両国関係が対等ではない条件のもとで 中国が日本からの圧力を部分的に受け入れて 政治と外交の側面における一時的なバランスを求めた政策であった このバランスが維持され 双方の合意に基づく妥結が成立できれば 一応の 和解 が成立し 両国関係を危機から脱出させることができたはずであった しかし 現地軍が 1935 年に展開した華北自治工作や 1937 年の盧溝橋事件の突発はこの妥結に向けての歩み寄りを中断させ 日中関係は再び敵対関係に転じさせた 満洲事変以降の 和解 のプロセスは盧溝橋事件以降完全に失敗した しかし このプロセスを検討することは無意味ではない 危機のなかの 和解 の試みはどのような人々によって推進されたのか このような和解を成功させる条件は何か これらの疑問を解明することは 近代日中関係史研究への貢献であり 今日の危機的な日中関係を打開するために重要な参考を提供するものである さて 周知のように 1933 年 5 月の塘沽停戦協定により満洲事変以来の日中軍事衝突は一段落した 日本は長城以南に広大な非武装地帯を設定することによって 満洲国を事実上中国本土から分離させた 停戦協定はその後の日中関係を決定づける重要なものであったが 外交を担当する外務省は締結に関与することなく 関東軍と華北の中国代表との間で調印された 協定締結までの対中関係は大陸進出を策略する軍部の強硬姿勢に導かれたものであり このような事態は 軍の外交干与が一段と明確になったことを示唆している -46-

満洲事変は日中関係に日清戦争以来の危機をもたらした 衝突は軍事と政治に止まらず 国民感情のレベルにまで急速に拡大した 嫌中 と 反日 の悪循環が両国関係に暗い影を落とし 両国関係を修復不可能な局面に追いやったと思われた ところが 軍事衝突が一段落すると 両国の外交担当者はさらなる危機の回避に動き出し 危機のなかで和解への模索がはじまった 先にも述べたように この和解への努力は 日本による大陸進攻という基本的な構図のなかで行われたもので 政治主導の和解であった そのため 国民レベルの和解にはほど遠い しかしそれでも 一連の交渉を経て 両国は 公使 から 大使 へと外交関係を格上げさせた この時期の日本の外交記録を紐解いてみると 両国の外交担当者による頻繁な接触や 中国各地に駐在する外交官の活発な外交活動と本国あての充実した報告が和解のプロセスに直接的な影響を及ぼしていたことに気づく 軍の外交干与が強くなったなかで この二年間は外務官僚の主体性が発揮され 外務省の 外交 が機能した時期であった 軍部が外交に対する発言権を拡大する昭和戦前期としては異例な現象といわなければならない この2 年間の和解のプロセスをもたらした要因は複雑である まず挙げるべきは 満洲事変と満洲国の建国などで大きな戦果を挙げた関東軍は相対的な静穏を保ったことである しかし 外交問題に限っていうならば 両国の外交における人的布陣は無視できない 内田外相時代の外交政策はその強硬さで知られている 32 年 8 月 27 日の閣議決定 国際関係より見たる時局処理方針案 では 満蒙経略ノ実行ニ邁進スル ことを 帝国外交ノ枢軸 と規定した 1 この基本方針のもと 内田外相は関東軍の意向を中央政界に反映させる媒介と自認し 列国や中国の意向にかかわらず 国を焦土にしても 満洲国承認の方針を貫いた 2 9 月 11 日 満洲国承認の問題が枢密院に諮詢され 満場一致で可決された 同 15 日日満議定書が調印され 日本は満洲国を正式承認した 議定書にしたがって 駐屯する日本軍の必要とする軍事施設に関わる経費は満洲国が負担すること 満洲国政府の全部門に任用される日本人参議の任免権は 関東軍司令官に属することになった 3 満洲国承認問題で国際社会との対決姿勢を鮮明にした日本は 翌 33 年 2 月 24 日に開催された連盟総会から全権団を退場させ 翌月連盟からの脱退を決定した 日本政府による一連の強硬姿勢の裏には内田外相の強い決意があったことはいうまでもない ところが 1933 年 9 月 広田弘毅が内田康哉に代わって斎藤実内閣の外相に就任すると 日本の対外姿勢ににわかな変化が生じた 外相就任にあたって広田が斎藤首相に二つの条件を提示し これを受け入れさせたことはよく知られている事実である 第一に 日本の外交は連盟脱退の詔書に即すること 第二に 日本の外交政策は 外務大臣を主動者とし 首相は極力これを支持すること 4 である 連盟脱退の詔書は 33 年 3 月 27 日に発布したものであり その内容は 今や連盟と手を分ち帝国の所信に是れ従うと雖固より東亜に偏して友邦の誼を疎かにするものにあらず愈信を国際に篤くし大義を宇内に顕揚するは夙夜朕が念とする所なり 5 というものである これに従うというのは 連盟脱退後も国際的な孤立を出来るだけ回避し 諸外国との信頼関係を大切にするという外交姿勢を示したものである また 広田が外務大臣主導の外交を強調したのは 軍による外交干与の弊害を取り除き 外交の一元化を強く求めたものに他ならない 6 満洲事変以来 軍部による外交干与に強い危機感を抱いた外務省は外交指導の強化策を -47-

模索していた しかし その具体的な方策をめぐっては意見が分かれていた 代表的な意見の一つは 考査部構想 であった すなわち 満洲事変が始まって軍部が着々計画的に前進をしていたのに対して 外務省はその主管官庁であるにもかかわらず その後始末に日もこれ足らざる有様で しかも外務省の希望するほとんどが行われない 状態への反省から 外務省内部に外交参謀本部を設置して ここで各方面に対する外交政策を審議立案するという計画が浮上した 7 しかし この案は枢密院の金子堅太郎顧問官の強い反対によって実現されず 調査部を設置することになった 組織面の強化と並んで もう一つの強化策は人的布陣である 広田外交の出発にあたり 外務省は次官重光葵 欧米局長東郷茂徳 亜細亜局長桑島主計という陣営を敷き 穏健な対外政策を展開しようと図った 8 一方 中国大陸では 有吉公使のもと 交渉能力の強い須磨弥吉郎を南京総領事に据え 外務省の積極的外交を進めた 広田外相が中国問題でもっとも警戒したのは 中国と英米との連携強化であった 英米が単独 共同 あるいは国際連盟の名によって 中国に対して経済援助 技術援助を提供し 日本を排除した国際的協力のもとに 中国の経済建設が進められることを憂慮した 9 そのため 日本外交の重要課題は 国民政府内の欧米派を押さえ 親日派を育成し 日中和解のプロセスを軌道に乗せることであった そして このような外交プランを中国大陸で実行したのは有吉明であった 広田が外務大臣に就任した直後の33 年 9 月 28 日 有吉公使は長文の意見書 10 を提出し 対日関係をめぐる中国の国内状況 中国政府の対日政策の実態 日本の執るべき外交方針などを報告している 報告において 有吉は第一に 中国の政治現状や 各派の動向を分析した 彼によれば 国民政府は対日交渉に黄郛を起用し 汪兆銘 ( 号は精衛 ) と黄郛の努力により 漸次親日的傾向 を示すようになったが 排日風潮ノ継続及之ヲ利用スル各地方勢力ノ反蒋運動ノ外 欧米二於ケル宋子文ノ活動及政府部内二於ケル黄 汪反対派ノ策動等 のため 親日的傾向の発展は 極めて遅い しかし それでも第三次廬山会議において 蒋介石の意志が反映される形で 一応の対日方針が決定された 有吉の判断によれば 日本ニ対シテハ満州国ノ承認ハ為ササルモ 其ノ他ノ問題ニ付新ニ日本ヲ刺戟スルカ如キ事ヲ避クルト共ニ 日本ヲ刺戟スルカ如キ既存ノ事項ハ漸次之ヲ改善スルノ方針 が確立した 満洲事変以降 対立していた日中関係は雪解けの方向に動き始めたというのである 一方 黄郛と汪兆銘は対日接近策を採っているが 宋子文や孫科ら欧米派の動静は定かではない かれらは 消極的ニ日本ヲ刺戟スルカ如キ事ヲ避クルニ止 まるのかも知れないと 有吉は見ている 第二に 有吉は中国における 排日 の実態を冷静に分析した 彼によれば 支那側一般的ノ対日感情ハ其ノ後幾分緩和ノ傾向ニ在ル 具体的には 北方及長江沿岸ニ於ケル排日ノ奇声幾分緩和シ ており 満洲事変記念日の反日行動も落ち着いてきている しかし 反日運動は完全に収まった訳ではなく 潜行的ノ排日運動ハ依然継続シ 殊ニ南京ニ於テハ却テハ其ノ甚シキモノアルヲ見ル 右ハ職業的排日者流カ排日緩和ノ傾向ヲ阻止スル為 取締ノ不備ニ乗シ活動ヲ逞フスルニ依ル外 南京政府部内カ不統一ニシテ 各派相牽制ノ策ニ出 -48-

テ居ル過渡的ノ現象ナルヘシトモ思考セラルル つまり 南京政府内の意見の不統一により 反日の拡大も予想されるというのである 有吉が特に強調したのは ヤング チヤイナ の台頭である この勢力は欧米で教育を受けた人が多く 中国の国権回復を強く求める集団である しかも 彼らは 日本ニ対シ深酷ナル怨恨ヲ有 し 彼等ノ中責任ノ地位ニ在ル者ハ其ノ感情ノ発露ヲ適宜抑制シ得ルモ 然ラサル者ハ即チ常ニ対日感情激発ノ原動力タルモノナリ と有吉は警戒している 第三に 対中関係の打開策とその政策を実施する際の留意点が述べられている 有吉によれば 打開策の核心は 支那側ヲシテ東洋ニ於ケル日本ノ地位ヲ承認セシメ 此ノ基礎ニ於テ我方ト協調セシムル ことである 具体的には 支那カ建設事業ノ為外国ノ援助ヲ求ムルニ當リテハ必ス日本ヲ参加セシムル ことや 政府自ラノ排日行為ヲ是正 することが必要だと彼は言う しかし これらの対策を実行するにあたって 支那ノ一般的情勢及政府内外各派ノ対立関係ヲ考慮ニ入ルルハ勿論 帝国ノ対外関係ニ対米対露関係ノ調整ト相俟ツテ慎重ナル態度ニ出ツルコト肝要 であると 有吉は強く主張している 今後の対中国外交において特に留意すべき点として 1 日本には 大亜細亜主義ヲ強行スル意図ヲ有スルカ如キ印象 を与えないこと 2 日本カ恰モ外国ノ対支援助ヲ排斥スルカ如キ觀ヲ 諸外国に与えないこと 3 黄郛や汪兆銘等親日派の努力を尊重すること 4 中国の排日の動きを沈静化させるために 彼我官民接触ノ機会ヲ頻繁ニスル外 支那側輿論ニ対シ新ナル刺戟ヲ與フルカ如キ事態ノ発生ヲ厳重ニ防止スル ことが強調された 有吉にとって 和解のプロセスを成功させるには 日本外交の為すべきことは極めて明瞭である さらに 支那政府内部ニ於ケル黄汪等親日的傾向ヲ有スル者ノ勢力増大ヲ援助シ 之ヲ中心トシテ一般的親日傾向ヲ有スル者ノ勢力増大ヲ計リ 進ンテ政府ノ親日政策ノ実行ヲ促進スル とともに 治外法権ノ撤廃問題等ニ付テモ之カ促進方ニ付 相当ニ準備シ置クノ必要アリ と柔軟な対中国政策を主張している また 我国論ハ極メテ沈着ノ態度ヲ採ルノ必要ナルハ勿論 其他ノ場合ニ於テモ支那側ノ一挙手一投足ニ影響セラレサル様 我国論ノ統制ヲ計ルコト を求めた もちろん 有吉の和解構想には最低限の条件が必要とされた それはすなわち 支那側ニ於テ日本ノ地位ヲ承認シテ 我ト接近スルノ意向ヲ示ササル限リ 之ト協調シ得サル ことであった このような方針に基づいて 現地の外交官は中国の親日派との交渉を重ねた しかし 塘沽停戦協定締結後の中国国内状況は 親日派が対日政策を展開し 日本の和解構想に応えられるような環境ではなかった 最大なネックは満洲問題であった 1934 年に入り 満洲国の帝制実施が具体化するなかで 日本との関係改善をもくろむ親日派を追い詰めた 1 月 17 日南京の日高総領事が唐有壬と会談した際 唐は 本件カ諸方面ニ刺戟ヲ与ヘ居ル事ハ事実ナリ 殊ニ黄郛ハ各方面ニ対シ日本側ノ誠意ヲ説明スルニ当リ 日本ハ満洲問題等ニ関シ今日以上事態ヲ悪化セシムル事無カル可キ旨ヲ述ヘ居タル関係上 是等方面ニ対シ困難ナル地位ニ立 11 たされていることを告白している 2 月 6 日 須磨弥吉郎南京総領事との会談のなかで 行政院長汪兆銘からも同様な懸念が表明された 12 汪兆銘は 日支問題ノ如何ナル解決モ日本ノ利益ヲ害セサルト共ニ支那ノ利益 -49-

トモナルヘキコト必要ニシテ 吾人ノ孫総理ヨリ受ケ居ル国民党外交ノ基調モ茲ニ存スル次第ナリ 満洲事変後も 依然日支共存カ東亜ニ於ケル根本義ナルコトハ不変ニシテ此ノ点ハ単ニ自分カ信シ居ルニ止マラス 蒋介石モ亦然リト確信スル と述べたあと 満洲問題は中国にとって 身体要部ノ大傷 であり 今ノ処 之ヲ医スヘキ療法ヲ見出スニ苦ム状態 にあると日本側に伝えた しかし 現在の国民政府にとって 満洲問題より 十倍モ重要ナル問題 は 共匪問題 であった 汪兆銘によれば 共匪 は 第三国際ノ便衣隊 であるため 日本が大きな犠牲を払ってロシアの南下を防いだという歴史を踏まえて 日中両国が共同でこの問題に対処しなければならない この問題の解決は満洲問題の セット アサイド につながる 塘沽停戦協定後の国民政府は 満洲問題の棚上げと対日関係の改善 日中和解のプロセスにシフトした理由は 共産党の勢力拡大を抑え 中国の統一と安定を図ることであった 一方 有吉をはじめ 中国駐在外交官たちは 満洲問題の克服と日中和解の近道は経済協力にあると判断し 宋子文をはじめとする欧米派に対する働きかけを強め 経済外交を積極的に推進した 2 月 18 日 日高が宋子文と会談し 宋子文から次の見解を引き出した すなわち 満洲問題ノ現状ニ於テハ支那ハ形式的抗議ヲ繰返スノミニテ正直ノ処両国間ノ融和ハ到底望ミ得ヘカラス 自分ハ将来両国ニ於テ経済問題ノ研究ヲ行ヒ 経済上ノ提携ノ見当ヲ着ケ 其ノ後実現ヲ計ルコトカ五年十年後ノ将来ニ於ケル日支親善ノ捷径ナリト思考ス 政治的理解ハ仲々困難ニシテ 一般人民ニハ到底望ムヘカラス 両国間二十人位ノ要人カ此ノ経済上ノ基盤ノ上ニ腹ヲ定メテ手ヲ握レハ 提携必スシモ不可能ナラサルヘシ 13 宋子文はさらに 自分ハ日本ノ工業発展及其ノ統制振ニハ大ニ感服シ居リ研究シ度ク思ヒ居レルカ何カ有益ナル資料アラハ入手シ度シ とも述べ 日本との具体的な経済協力の可能性を探る姿勢を見せていた 10 日後の 2 月 28 日 須磨弥吉郎も宋子文と会談し 満洲問題や経済協力について意見交換を行った 14 対中交渉の現場で常に高姿勢の須磨は今度も強い態度で臨んだ 須磨の報告書に基づいて 中国の欧米依存政策や 日中経済協力問題についての両者のやり取りの概要を再構成してみると 次の通りになる 宋子文 : 貴官ハ支那ニ対スル国際協力ニ付テ迄随分考慮ヲ払ハレ居ル様子ナルカ 元来貴国ノ シークレットサービス ハ棉麦借款其ノ他米国等ノ対支投資ニ関シ途方モ無キ憶測ヲ流布シ居リ 驚キ入ル次第ナリ 須磨 : 支那ニ最モ関係アル日本カ列国ノ対支政策ニ絶対ナル関心ヲ有スルハ当然ノコトナリ 宋子文 : 夫レトシテモ外国ヲ排除スルノ必要ハ認メラレス 須磨 : 然ラハ此ノ機会ニ忌憚無ク申上ケンカ 支那ノ国際合作ニ関シ 日本カ徒ニ他国ヲ排除スル等トハ全然誤解ニテ 元来支那ノ開発ハ何事ニマレ 日本ヲ除ケ者ニシテハ成立シ得サルヘキハ過去ノ事実モ之ヲ証明シ居リ 右ハ日夜東亜ノ和平ヲ顧念スル日本ノ動カス可カラサル信念ナリ 宋子文 貴見ハ政治論ヲ其ノ儘経済問題ニ移シタルヤノ感アリ 須磨 : 支那ノ如キ無組織ノ国ニ西洋諸国カ矢鱈ニ投資センカ 遂ニハ東洋ニ則セサル事態 -50-

ヲ生スルコト必定ナレハ 此ノ点ヨリスルモ 日本ヲ排除スル国際協力ハ遺憾乍ラ認メ難シ 宋子文 斯ル支那観カ困リモノナリ 何カ無組織ナリヤ 須磨 何所ニ組織アリヤ 欧米ヲ其ノ儘生写ニセントスルコトカ無理ナリ 宋子文 : 之ハ大問題ナレハ 他日ニ譲ル可シ 須磨 : 貴兄ハ失礼乍ラ支那ヲ知ラス 又日本ヲ尚更知ラサル事ヨリ来ル理想論ヲ多分ニ包容ス 宋子文 日本工業ノ最近ニ於ケル飛躍ニ付テハ 重大関心ヲ有スル処 貴方ニハ何カ日支経済合作ノ具体案テモアル次第ナリヤ さて 須磨は日中経済協力の具体的な分野として 日本の設備機械の利用 農業技師の招聘と農耕具の輸入 海南島に台湾の開発方策を応用すること 棉種の改良と綿業の統制 発達した中国の道路に対応する自動車 ( モーターライゼーション ) 航空事業 武器製造業などを挙げて説明したが 宋子文は特に須磨がいうモーターライゼーションに強い関心を示し 今後共頻繁ニ会見意見ヲ交換スルト同時ニ参考トナルヘキ材料ハ大ニ頂戴シ度シ と述べた 宋子文の日中経済協力の意思表示は 外務本省にとっても注目すべき動向であった 恐らく外務省の関係局課が作成したであろう 日支経済提携ニ関スル件 15 という文書がある 意見書によれば 日本の紡績業の存続 化学工業と機械工業の振興のために 安定した市場と原料供給源は不可欠である そのため 中国及び満洲国と 緊密不可離ノ提携関係 を確立しなければならない しかし 現状は 満洲国との提携は着々と進んでいるが 支那国ニ関シテハ現在 端的ニ云ハハ 日支両国必需品ノ最少限度ノ交易アルノミニシテ 往昔ノ親善ナク 況ヤ提携関係ハ存在セス 所謂行詰ノ状態ナリ 現在の日中の行詰状態を引き起こした原因は 中国の国権回復運動 ( その実効方法は排日 排日貨 ) と満洲国の成立である いわゆる国権回復運動は不平等条約の撤廃を目的としているが 日本としては 支那ノ実情及邦人発展ノ為ニハ軽々ニ之ヲ容認スルコト困難ナル事情アル また 満洲国の問題も 如何トモ為シ難 い この現状を踏まえて考えた場合 日中提携に残された道は 政治工作と経済工作である いわゆる政治工作とは 親日政権ノ確立 欧米派打倒 国民党過激分子ノ排除 排日言論ノ禁遏 などであるが しかし 政治工作が失敗した場合の損失も大きい それに比べて 経済工作は 利害の一致が達成しやすいこと 第三国の干与や 反政府勢力の反対を招き難いこと 相互依存が深まれば 離れにくくなることなどの利点があるため 比較的に成功しやすい そこで意見書は 日支関係ハ当然新事態ニ入リ 所謂日支提携ハ必然的ニ又自然的ニ造成セラルヘキ等経済問題ヲ中心トセハ 提携ニ入ルニ易ク 又強固ナル提携ノ成立ヲ見ルヘシ と結論づけた すなわち 外務省の意見のポイントは 日中和解の鍵は経済提携にある ということであった 意見書は経済提携の分野として イ 北支及中支等ニ於ケル棉花ノ栽培事業援助ロ 日清汽船ト招商局トノ提携又ハ合同ハ 支那紡ノ救済 ( 支那紡ノ日本紡化 ) ニ 日支金融連絡又ハ施設 を列挙している また 外務省が進めるべき作業として イ 宋子文ノ意向ヲ支那関係事業家銀行家ニ伝ヘ 同時ニ之等関係者ヨリ情報ヲ聴取シ 意 -51-

見ヲ交換スルコト 右ノ結果如何ニ依リ 在支公使館ヲ通シ 必要ナル工作ヲナスコト ロ 在支主要領事ニ日支経済提携ニ関シ意見ヲ徴スルコトハ 出先ヲシテ ( 可成商務官カヨロシ ) 支那側有力筋ト接近セシメ 経済提携ノ機運ヲ醸成セシムルコト などを具体的に規定し 現実的な対中国和解政策を制定した しかし 経済協力だけでは 持続可能な和解は実現できない 経済外交を推進するなかで 政治問題を解決する糸口を探り 和解のプロセスを安定軌道に乗せることは 有吉の外交理念であった 1934 年は 中国通外交官のリーダーシップでこのような対中国外交の可能性を探った年であった しかし 34 年 4 月の 天羽声明 の影響もあり 日中経済協力に大きな進展が見られず 35 年に入ると 陸軍の華北自治工作が日中関係を悪化させ 和解のプロセスに陰りがみられた 有吉外交の可能性も極めて制限される結果となった 1936 年 12 月の西安事件のあと 一部のメディアで主張された 中国再認識論 は参謀本部などにも影響を及ぼし 陸軍主導のもとで対中国政策の調整が行われた この調整はやがて政府レベルでも承認され 日中和解の可能性がにわかにみられた 政策調整の主な内容は 中国の内政への不干渉 中国統一の事業への支援 華北に対する 政治工作 の中止 経済提携 に基づく日中関係の安定化などであった 有吉が現地で進めた日中和解のプロセスに同調する政策と評価できる しかし 中国大陸では 軍事面における日中の相互不信はもはや極度に達しており 国民レベルの反日と嫌中の感情もコントロールできる域を超えていた 盧溝橋事件の発生とともに日中和解のプロセスも中断せざるを得なかった 二日中戦争中の 和解 の試み 親日政権 という方法 1937 年 7 月 7 日盧溝橋事件が勃発し 日本と中国は全面戦争の時代に突入した 7 月 29 日 汪兆銘は南京で 最後の関頭 と題するラジオ演説を行った 演説のなかで汪は 満州事変以来 中国政府は日本に対し忍耐と譲歩を重ねてきた しかし 目下の時局はもはや譲歩できない最後の関頭に立ち至っている 中国は如何なるものも敵に取られないように 最大の決心と勇気をもって犠牲を払い 国土を焦土に化しても日本と戦わなければならない 我々は犠牲を惜しむのなら 傀儡になるしかない と述べ 国民に対日抗戦に必要な必死の覚悟を呼び掛けた 16 ところが 日中戦争が一年半を経過した1938 年 12 月 7 日 汪兆銘は突如近衛首相の声明に応じて 国民政府所在地重慶を脱出し 日本と講和する道に転向した 抗日の重慶政府を離脱した理由について汪兆銘は次のように説明した 一年半戦つた結果 日本の国力と中国の民族意識とは何れも充分に之を示すことが出来た 日本が既に中国に対して侵略的野心なきことを声明して手を差し伸べ 共同目的の下に親密なる合作を計らんことを求めたるに対し 中国は何故に手を差し伸べないのであるか 恰も兄弟二人一度組み打ちをした後 悔いて泣き 改めて仲直りすると言ふことは 何と痛ましいことであり 又喜ばしいことであらう 17 汪兆銘に対する 和平工作 は 日中戦争という両国が敵対する状況のもとでの 和解 の試みであった ただ この試みは日本側と中国側 和平派 親日派 との間で行われたものであ -52-

り 中国の主権を代表する重慶政府を相手にしたものではない ましてや中国国民意識したものではなかった そういう意味で 和解の研究対象として相応しくないかも知れない しかし 当時の日本側には 親日政権を作ることは 日中の 和解 につながると考えた人がいたのも事実である このような考えと行動を検証し そのことの歴史的な意味は何かを明らかにすることは 今日の日中の和解を思考する上で重要な意味を持つことに変わりはない 汪兆銘の重慶脱出に向けて 日中両国の関係者が綿密な計画を立て 準備を重ねてきた 同盟通信上海支局の松本重治に説得されて 国民政府外交部の高宗武アジア局長は 38 年 6 月 22 日に来日し 板垣陸相 多田参謀次長 犬養健 西園寺公一 岩永裕吉 [ 同盟社長 ] ( 近衛に代わり ) などと会見した 板垣は高に対し 日本は従来の因縁によって どうしても蒋介石とは両立せぬ 若し蒋に代わつて汪兆銘が出るならば 条件を寛大にし 十分面子を立てるやうにして 決して漢奸に終らしめることをしない ということを 汪兆銘に伝えさせた 18 和平条件をめぐる予備交渉を経て 38 年 11 月 19 日から 20 日にかけて日本側の代表と汪兆銘側の代表が正式会談に臨み その結果 日華協議記録 が調印された 第一条の防共関係の条項に 日本軍ノ防共駐屯 が決められ しかも 日華協議記録諒解事項 に於いて 駐屯の場所は 平津地方 と規定した 第四条の経済提携に関する条項に 日本ノ優先権ヲ認メ 特ニ華北資源ノ開発利用ニ関シテハ日本ニ特別ノ便利ヲ供与ス が特に明記され 諒解事項 に於いて 優先権トハ列国ト同一条件ノ場合ニ日本ニ優先権ヲ供与スルノ意トス と説明している また 戦費の賠償を要求しないが 在華日本居留民の損害を補償するように中国側に求めている 内蒙以外の地域からの撤兵に関する規定は 予備交渉のとき 条件締結後 撤退を開始し 治安回復と共に撤兵を完了し その全期間は二年以内と定めていたが 日華協議記録 では 日華両国ノ和平克復後即時撤退ヲ開始ス 中国内地ノ治安恢復ト共ニ二年以内ニ完全撤兵ヲ完了 と規定し直された 19 日本側と中国の和平派との交渉過程のなかで 和平派の妥協だけが目立った 撤兵の時期が不明確のまま 日本が中国における権益を手に入れたのである このような協議内容に基づく日中の和解は はたして中国の人々に受け入れられるのだろうか 汪兆銘が重慶を脱出した後 近衛首相が声明を発表し 日満支三国は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し 相互に善隣友好 共同防共 経済提携の実をあげる ことを呼び掛けた しかし 声明は 特定地点に日本軍の防共駐屯を認むる事 について触れたものの 撤兵 の二文字がなかった 和平工作に当初から関わっていた松本重治はこれを知り 愕然として 和平運動の将来に暗影を感じた 20 ハノイでの滞在を経て上海に戻った汪兆銘は日本占領下の南京で新国民政府の樹立を決断するが 彼は強い不安を抱いていた 上海を訪れた室伏高信に対し汪は 私が日本にだまされるのではないかと心配してゐるのです 私に好意をもつてくれる人が 却つて私のために心配し そして私に忠告してくれるのです 21 と吐露している いずれにせよ 1940 年 3 月 30 日 汪兆銘を首班とする 南京国民政府 が 還都 の名のもとに成立した それまでの経緯について 今井武夫は次のように説明している すなわち 汪兆銘が重慶から昆明を経てハノイに脱出した真の目的は和平を実現することであったが 重慶政府はテロをもってこれに報いたため 汪は雲南 貴州等の西南地方に新政権を樹立する最初の企画を放棄して 日本軍占領地域に国民政府を樹立することを決意した しかし 南京 -53-

政府の樹立そのことが 目標でなく 重慶政府との全面和平こそ最終的な目的であった 22 日本側の和平派グループが目指したのは 日中の 和解 であったというのである 汪兆銘政権は一占領地政権として成立したため その政治力 軍事力及び経済基盤はきわめて貧弱なものであった 1941 年 3 月 30 日 政権樹立一周年を記念する演説のなかで汪兆銘は 現在我々唯一の道は 国民政府の力が及ぶ地域において 先ず和平のモデルを作り出すことである 和平 反共 建国の根本方針に基づき 治安の確立及び人民の経済生活の改善に全力を投入し 局部和平を達成すれば 全面和平は自然に訪れるだろう 23 と述べ 局部和平の実現 つまり新政権が支配する地域の治安の確立と経済の改善に先ず専念しなければならない強調した 日本側の 内面指導 に対しても汪兆銘は抵抗する姿勢を見せ 独自の教育制度と教育内容を強調して 日本の傀儡ではないことを必死に演出した 一方 日本は終始対中国戦争の一手段として地方政権や汪政権を利用した しかし 汪政権の無力という現実の前で 重慶政府との和平がなければ 戦争の解決はありえないという認識を抱かざるをえなかった 汪政権樹立前に提示された過酷な和平条件は 汪兆銘政権を対象に出したものというより 重慶政府との和平交渉を意識したものであった 重慶政府との和平交渉の障害にならないように日本は汪兆銘政権に対する政策を組み立て続けた 日華基本条約の調印を引き延ばしたことも 南京政府の対英米参戦を遅らせたのもそのような判断によるものであった 日本はついに実力を伴わない汪兆銘政権との間で新たな日中関係を構築することを本気で目指さなかった 太平洋戦争勃発後 中国が 20 年代以来求め続けてきた租界の返還に応じたのも 対英米戦という特別な状況のなかでの選択であり その意味は極めて限定的であった 要するに日本にとって汪政権の 価値 は汪政権側の人々が思ったほど 高くなかったのである 24 ところで 日本における汪兆銘の評価は戦前から極めて同情的である 39 年 9 月汪兆銘を上海に訪ねた評論家室伏高信は 私が汪兆銘氏に会つてきたといふので 汪兆銘について何か書けといつて来た新聞雑誌が十種にものぼつた これが私が東京についての二日間の出来事であつた これだけでも日本における汪兆銘人気のどんなものであるかの一斑が分らう 25 と述べている 同じ頃 汪兆銘の伝記を上梓した森田正夫は 今や東亜新秩序の建設によつて 東亜に黎明が来りつつある それはやがて世界の黎明でもある かかる東亜の黎明期に蹶然として起ち上つた汪兆銘の活躍こそ 今後刮目さるべきものである という表現でその著作を締めくくっている 26 当時の日本人の目には汪兆銘は理性溢れる政治家 知識人 として映されていた 汪と面会した室伏は汪に対する印象として 経験と理性 才智と情熱とが高度の調和をなして 一個の円熟した 或は正に円熟しつつある人格 と賛辞を惜しまなかった 朝日新聞も汪兆銘の外国人顧問に招聘されたフランス人記者の話を引用して 蒋 ( 介石 ) は野蕃と暴力 汪は文化と理智のシンボル と汪を持ち上げた 27 汪兆銘の重慶脱出計画に関わった同盟通信上海支局の松本重治も戦後の回想録の中で 蒋介石と汪兆銘を比較して次のように述べている 蒋は あくまで冷徹な合理的な軍事力中心の現実主義者であるが 汪は 情熱的な理想主義の政治家であった 同じ中国の統一と独立を目指しながら その方法論として 蒋は軍事力を背景とした独裁主義を心ひそかに考えていたのに反し 汪は 思想と行動において共和 -54-

民主主義者として 反独裁に終始した 一見 蒋は中国統一のため一貫して献身したようであるが 自己中心的な自信過剰を思わせるような政治行動にしばしばでた 汪は再度ならず 反蒋的政治行動に出て 政治的操守が疑わしいという批判をする人もあるが それは あまりに酷ではないか 汪は 反独裁という立場だけは貫いた政治家であった 28 一方 汪兆銘が日本の占領地南京に政権を樹立したそのときから 重慶の蒋介石政府からも 延安の共産党政権からも 漢奸 ( 民族の裏切り者 ) と見なされた 戦後 中国大陸の各地で対日協力者に対する裁判が行われ 汪兆銘グループは厳しく断罪された 現在の中国においても 汪兆銘は中国史上最大の売国奴と見なされ 漢奸 の代名詞として人々に記憶されている 敵対状態下の日本と中国の 和解 を求めて展開された和平工作は 結果的には日中間にさらなる大きな悲劇を生み出した 和解 が悲劇を生むという日中関係上の皮肉から 人々は多くのことを学ぶことができるはずである 終わりに和解の持続を求めて 戦後日本は先ず 1952 年に日華平和条約に調印し 台湾に逃れた国民政府との和解を実現した この和解は冷戦構造のなかで実現されたものであり アメリカの戦略に強く影響されたことは間違いない しかし 国民同士の心理的和解を支えたのは 蒋介石の次の発言であったことも否定できない 1945 年 8 月 15 日蒋介石がラジオを通じて自ら読み上げた 抗戦勝利告全国軍民及全世界人士書 と題するこの演説のなかで 次の一節が日本人に最もインパクトを与えた わが中国の同胞は 旧悪を念わず と 人に善を為す がわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません われわれは一貫して 日本人民を敵とせず ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると言明してきました 今日 敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました 彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するよう われわれが厳格に監督することはいうまでもありません ただし われわれは報復してはならず まして敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはなりません 彼らが自ら誤りと罪悪から脱出できるように 彼らがそのナチス的軍閥によって愚弄され 駆りたてられたことに われわれは慈愛をもって接するのみであります もし暴行をもってかつて敵が行った暴行に答え 奴隷的屈辱をもってこれまでの彼らの優越感に答えるのなら 仇討ちは仇討ちを呼び 永遠に終ることはありません これはわれわれ仁義の師の目的では けっしてありません これはわれわれの軍民同胞ひとりひとりが 今日にあってとくに留意すべきことであります 29 もっとも 蒋介石の対日方針は終戦前にすでにその原型が見られた 太平洋戦争の終戦前に蒋介石が感じ取った 世界における中国の地位に対する判断と 当時の国際情勢に対する基本認識がこの対日方針を支えていた すなわち 中国を除外したテヘラン会談で 事 -55-

実上ソ連の満州出兵が約束されたことは 共産党勢力の拡大とソ連による中国介入に強い警戒心を抱いていた蒋介石にとって許しがたいことであった やがて 蒋介石は戦後構想のなかで アジアで最も信頼すべき同盟国を日本に想定するようになる 30 その後 蒋介石が日本に対する戦争賠償請求権を放棄したのも もし日本が貧しくなれば 共産主義がはびこり 社会主義革命が起き ソ連が日本に侵略する可能性が極めて高くなる そうなれば地崩れ現象が起き アジアは社会主義に塗り替えられる 31 という危機意識があったからといわれる さて 台湾の国民政府や台湾の人々との間に達成された 和解 は 1972 年の日中国交正常化と日台の外交関係断絶によって大きく傷つくことはなかった その和解の状態は今日まで継続されているように思われる 一方 中国大陸との和解のプロセスは 1950 年代から先ず民間を中心に進行し その積み重ねの結果 1972 年に国交正常化が実現され 和解が一応達成された 日中和解に向かっての交渉のなかで 毛沢東と周恩来は日本による中国侵略の歴史を強調しつつも 蒋介石同様 戦争賠償を放棄し 日本国民を味方に引き付けた しかし 今日からみれば 1972 年は長い和解のプロセスの始まりにすぎなかった 1982 年の教科書問題と 85 年の首相による靖国参拝は 日本と中国の和解の脆さが露呈した 1990 年代以降 冷戦構造の崩壊と中国の国力の増強にともなって 日中の 和解 を維持してきたバランスが崩れ始めた 日本の相対的優位に基づく相互依存関係に中国は窮屈を感じるようになり 中国の相対的優位のもとでの相互依存関係にむかって 両国関係が動き始めた 冷戦構造のなかで行われた歴史の清算への不満は日中両国の国民の間で燻り 2005 年以降火山のように噴火したのである 日中韓の東アジア三国は 歴史和解のプロセスをリセットしなければならない つまり 新たな 和 の状態 バランスのとれた状態を求めなければならない その場合 世界と人類が共有する問題は何か 三カ国はこれらの問題にどのように立ち向かうのか というような問題意識を強く持たなければならない 和解が定着する前提は 共同体意識の定着である 日中間で使われてきた 日中友好 と 戦略的互恵関係 といった表現は このような文脈のなかではじめて生命力を持つことになろう 本報告書は本研究の問題意識の一端を明らかにしたものである 日清戦争以来の 120 年間の間 日中両国は対立と和解という循環のなかで複雑な関係をたどってきた 和解のプロセスを定着させることができなかったことは 今日の日中関係が示している通りである 如何に日中関係の 和 =バランスの状態を追求していくのか 歴史をもう一度見つめ直す作業は不可欠である 謝辞 : 本研究は公益財団法人 JFE21 世紀財団の アジア歴史研究助成 の交付を受けた JFE21 世紀財団よりこの貴重な機会をいただいたことに衷心より感謝申しあげたい -56-

1 外務省編 日本外交年表並主要文書 下巻 一九六六年 二〇六頁 2 林茂 辻清明 日本内閣史録 3 第一法規出版株式会社 一九八一年 三一三頁 3 同前 三一五頁 4 外務省百年史編纂委員会 外務省の百年 下巻 原書房 一九六九年 二六七頁 5 服部龍二 広田弘毅 中公新書 二〇〇八年 六六頁 6 前掲 外務省の百年 下巻 二六七頁 7 重光葵 外交回想録 毎日新聞社 一九五三年 一六九頁 8 前掲 外務省の百年 下 二六八頁 9 同前 二六九頁 10 外務省編 日本外交文書 昭和期 Ⅱ 第一部 第二巻( 昭和八年対中国政策 ) 六〇 六四頁 11 日本外交文書 昭和期 Ⅱ 第一部 第三巻( 昭和九年対中国関係 ) 三頁 12 同前 四 - 六頁 13 同前 七頁 14 同前 一四 - 一六頁 15 同前 八 - 一二頁 16 蔡徳金 汪精衛生平紀事 17 汪兆銘 全面和平への道 改造社 一九四一年 18 神尾茂 香港日記 自家蔵版 一九五七年 19 今井武夫 支那事変の回想 みすず書房 一九六四年 20 松本重治 上海時代 ) と記している 21 室伏高信 和平を語るーー汪兆銘訪問記 青年書房 一九三九年 22 今井武夫 支那事変の回想 23 汪精衛 国民政府還都一年 中華日報 一九四一年四月二日 24 劉傑 汪兆銘政権論 岩波講座 アジア太平洋戦争 第七巻 支配と暴力 25 前掲室伏高信 和平を語るー汪兆銘訪問記 26 森田正夫 汪兆銘 27 東京朝日新聞 一九三九年八月十一日 28 松本重治 上海時代 中央公論社 一九七七年 29 日中国交基本文献集 蒼蒼社 一九九三年 一二六- 一三〇頁 30 家近亮子 日中関係の基本構造二つの問題点九つの決定事項 晃洋書房 二〇〇三年 一三四頁 31 同前 -57-