竪穴式石室の研究 - 王権と埋葬施設 - 熊本大学社会文化科学研究科学位論文 山本三郎

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1 熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repositor Title 竪穴式石室の研究 : 王権と埋葬施設 Author(s) 山本, 三郎 Citation Issue date Type URL Thesis or Dissertation Right

2 竪穴式石室の研究 - 王権と埋葬施設 - 熊本大学社会文化科学研究科学位論文 山本三郎

3 竪穴式石室の研究 - 王権と埋葬施設 - 目次 序 第 1 章竪穴式石室の研究抄史 - 問題の所在 - 1 第 1 節小林行雄の業績 (1940 年代の動向 ) 1 第 2 節 1950 年代の研究動向 2 第 3 節 1960~1970 年代の研究動向 3 第 4 節 1980~1990 年代の研究動向 4 第 5 節 2000 年代の研究動向 7 第 2 章長大型竪穴式石室の出現と変容 9 第 1 節長大型竪穴式石室出現前夜 9 第 2 節長大型竪穴式石室の分類 12 第 3 節古墳出現前後の埋葬施設の変化 14 第 4 節竪穴式石室の変容 18 1 古墳時代前期後半における竪穴式石室の第 1 次変容 2 竪穴式石室の第 2 次変容 3 竪穴式石室の第 3 次変容 第 3 章畿内地域の竪穴式石室の研究 - 古墳時代前期の政治動向 - 26 はじめに 26 第 1 節竪穴式石室の基底部構造の機能とその意義 27 第 2 節竪穴式石室基底部構造の類型と変遷 30 1 A 型式 2 B 型式 3 C 型式 4 D 型式 5 E 型式 6 竪穴式石室の基底部諸型式の消長第 3 節大和地域における前期大形古墳の埋葬施設の検討とその特質 48 1 桜井茶臼山古墳の埋葬施設 i

4 2 メスリ山古墳の埋葬施設 3 佐紀陵山古墳 ( ヒバスヒメ陵古墳 ) 4 箸墓古墳 西殿塚古墳 5 小結第 4 節埋葬施設からみた山城地域と河内地域そして摂津地域 55 1 山城地域の政治動向 2 河内地域の政治動向 3 摂津地域の政治動向 第 4 章畿内地域における前期古墳の複数埋葬について 68 はじめに 68 第 1 節前方後円墳の埋葬形態と粘土槨の類型設定 69 第 2 節山城地域の複数埋葬と埋葬施設 71 第 3 節畿内諸地域の複数埋葬と埋葬施設 78 1 河内地域 2 摂津地域 3 大和地域 4 和泉地域第 4 節まとめ 84 1 粘土槨の成立事情 2 複数埋葬の類型の設定 第 5 章弥生墳丘墓から古墳時代の開始へ - 讃岐 雨滝山奥墳墓群の再検討を通じて- 88 はじめに 88 第 1 節周溝墓 墳丘墓 古墳の定義 88 第 2 節雨滝山奥墳墓群の再検討 90 1 雨滝山奥墳墓群の立地と構成 2 雨滝山奥墳墓群の個々の具体的検討第 3 節雨滝山奥 1 期から雨滝山奥 3 期の設定の根拠 出土土器から 2 埋葬施設から 1 墳丘主軸との関係 埋葬主軸の方向 そして頭位 2 前方後円形墳墓の複数埋葬について 3 竪穴式石室基底部の構造 4 副葬品や墳形 規模の変化 ii

5 第 4 節まとめ 108 第 6 章阿讃地域の長大型竪穴式石室の出現をめぐって 110 はじめに 110 第 1 節阿波地域における竪穴式石室の概観 110 第 2 節讃岐地域における竪穴式石室の概観 113 第 3 節阿讃地域における長大型石室の出現 西山谷 2 号 墳 の内容とその検討 2 宮谷古墳の内容とその検討 3 鶴尾神社 4 号 墳 の内容とその検討 4 丸井古墳の内容とその検討 5 四古墳の竪穴式石室の構造的特徴第 4 節まとめにかえて 121 第 7 章埋葬施設からみた弥生墳丘墓と古墳 - 播磨地域の事例研究 第 1 節はじめに- 周溝墓 墳丘墓 古墳とは- 125 第 2 節播磨地域の墳丘墓の検討 127 第 3 節古墳出現前夜の播磨地域の墳丘墓 129 第 4 節古墳出現期 (Ⅲ-1 段階 ) の前方後円 ( 方 ) 墳の動向 130 第 5 節加古川下流域の日岡古墳群の評価 132 第 6 節まとめ 135 第 7 節余論 - 西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較 第 8 章方墳についての二 三の断想 155 第 1 節はじめに 155 第 2 節古墳出現期前後の方形墳墓をめぐって- 加古川流域を中心に 最古級の方形墳の滝ノ上 20 号墳の検討 2 滝ノ上 20 号墳以前の加古川流域の方形墓 3 滝ノ上 20 号墳以降の加古川流域の方形墳第 3 節明石川流域の古墳時代前期の方形墳をめぐって 169 第 4 節古墳時代中期の方墳をめぐって 古墳時代中期の大型古墳群の中の方墳 1 玉丘古墳群 ( 加西市 ) 2 御着古墳群 ( 姫路市 ) 第 5 節まとめにかえて 177 iii

6 第 9 章タニワの長刀と墳墓 185 はじめに 185 第 1 節内場山墳丘墓の内容とその検討 185 第 2 節タニワ ( 兵庫 ) の弥生時代後期から終末期の墳丘墓の実態 188 第 3 節内場山墳丘墓出土の素環頭太刀と鉄鏃をめぐって 素環頭太刀 2 鉄鏃について第 4 節内場山墳丘墓と周辺の墳丘墓との比較 193 第 5 節内場山墳丘墓のその後 -まとめ- 195 第 10 章王権と海上交通 序説 - 大阪湾と播磨灘に面する古墳を中心に- 207 第 1 節はじめに- 研究略史と問題の所在 第 2 節大阪湾に面する古墳 百舌鳥古墳群と上町台地の古墳 2 難波津から明石海峡までの古墳第 3 節明石海峡を望む古墳 214 第 4 節播磨灘に面する古墳 東播磨海岸に面する古墳 2 加古川河口付近の古墳 3 市川河口付近の古墳 4 揖保川河口付近の古墳 5 岩見港を望む古墳 6 相生湾付近の古墳 7 坂越湾に面する古墳 8 赤穂湾付近の古墳 9 家島群島の古墳第 5 節淡路島の古墳 223 第 6 節まとめにかえて- 交易と古墳そして地域王墓の造営地問題 終章 - 結語 引用文献 参考文献 231 iv

7 挿図 表目次 第 2 章第 1 表長大型 Ⅰ-a 群の竪穴式石室をもつ古墳 13 第 2 表安芸 太田川流域の弥生墳丘墓 古墳の内容 15 第 3 表吉備地域の弥生墳丘墓 古墳の内容 15 第 4 表安芸 太田川流域の弥生 古墳の竪穴式石室の規模 16 第 5 表吉備地域の弥生 古墳の竪穴式石室の規模 16 第 1 図石棺の埋葬施設の横断面 20 第 2 図石棺の埋葬施設の縦断面 21 第 3 章第 1 図元稲荷古墳の石室基底部 29 第 1 表関係古墳一覧表 31 第 2 図近江 瓢箪山古墳後円部石室 34 第 3 図山城地域の竪穴式石室 34 第 4 図河内地域の竪穴式石室 34 第 5 図摂津地域の竪穴式石室 34 第 6 図諸古墳の竪穴式石室の横断面図 36 第 2 表竪穴式石室の基底部諸型式の消長 43 第 3 表編年表 45 第 7 図大和地域の竪穴式石室 50 第 8 図金蔵山古墳の中央石室 50 第 9 図大和地域の粘土槨 50 第 4 表大和地域における大形古墳の埋葬施設の築造過程 52 第 5 表大形古墳の埋葬施設における構造の推移 53 第 4 章第 1 表寺戸大塚古墳の副葬品の比較 71 第 2 表山城地域の古墳出土の副葬品の比較 76 第 3 表山城地域の古墳の墳丘規模と棺長の関係 77 第 4 表河内地域の複数埋葬の位置と種類 数 78 第 5 表北玉山古墳の副葬品の比較 79 第 6 表駒ケ谷宮山古墳の副葬品の比較 79 第 1 図北玉山古墳 ( 右 ) と駒ケ谷宮山古墳 ( 左 ) の埋葬位置 79 第 7 表弁天山 C1 号墳の副葬品の比較 80 第 8 表摂津地域の埋葬施設の位置 種類 数 81 v

8 第 9 表新沢千塚 500 号墳の副葬品の比較 82 第 10 表和泉黄金塚古墳の副葬品の比較 84 第 5 章 第 1 図雨滝山奥墳墓群位置図 90 第 2 図雨滝山奥 10 号墳丘墓 91 第 3 図雨滝山奥墳墓の編年 (1) 93 第 4 図雨滝山奥墳墓の編年 (2) 94 第 5 図雨滝山奥 14 号 墳 ( 左 ) と丸井古墳 ( 右 ) の墳形図の比較 96 第 6 図雨滝山奥 14 号 墳 の 1 2 号石室の横断面 97 第 7 図黒宮大塚墳丘墓 ( 上段 ) と雨滝山奥 10 号墳丘墓 ( 下段 ) 出土土器の比較 102 第 8 図七つク ロ 1 号墳 ( 上段 ) と雨滝山奥 14 号 墳 の出土土器の比較 103 第 6 章 第 1 表阿波地域の竪穴式石室の長幅比 111 第 2 表讃岐地域の竪穴式石室の長幅比 113 第 3 表讃岐地域の長大型石室をもつ古墳の墳形と規模 - 積石塚と盛土墳 第 1 図西山谷 2 号 墳 の竪穴式石室 115 第 2 図鶴尾神社 4 号 墳 ( 左 ) と宮谷古墳 ( 右 ) の墳形図 117 第 3 図西山谷 2 号 墳 ( 下 ) と雨滝山奥 14 号 墳 ( 上 ) の竪穴式石室 120 第 4 図雨滝山奥 13 号墳 ( 上 ) と雨滝山奥 3 号墳 ( 下 ) の竪穴式石室 120 第 7 章 第 1 図播磨地域とその周辺の竪穴式石室の横断面の比較 141 第 2 図弥生墳丘墓と古墳の竪穴式石室の比較 142 第 3 図前方後円形墳丘墓と前方後円墳の墳形の比較 143 第 4 図西条 52 号墓 144 第 5 図岩見北山 1 号墓 144 第 6 図西ノ土居墳墓 145 第 7 図井の端 7 号墓 145 第 8 図綾部山 39 号墳丘墓 145 第 9 図播磨地域における弥生墳丘墓と前期古墳との比高比較図 146 第 10 図讃岐産大型複合口縁壺形土器の分布 146 第 11 図横山 7 号墳丘墓 147 第 12 図綾部山 39 号墳丘墓 147 第 13 図経塚山古墳 147 第 14 図山戸 4 号墳丘墓 147 第 15 図養久山 1 号 墳 148 第 16 図権現山 51 号墳 149 vi

9 第 17 図吉島古墳 150 第 18 図日岡古墳群の変遷 151 第 19 図南大塚古墳 152 第 20 図日岡山 1 号墳 ( 褶墓古墳 ) 152 第 21 図播磨地域の前方後円墳 152 第 22 図竹管文を押捺する土器類 153 第 23 図摂津 西求女塚古墳と丹後三大古墳の出土土器 153 第 24 図西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較 154 第 8 章 第 1 図丸山 2 号墳 南西小口壁の副葬品出土状態 167 第 2 図玉丘古墳群の分布 174 第 3 図播磨地域の方形墳 179 第 4 図竪穴式石室の変遷と比較 180 第 5 図墳墓出土の鉄鏃 銅鏃の型式比較 181 第 9 章 第 1 表内場山墳丘墓墳頂平坦面埋葬施設一覧 197 第 1 図内場山墳丘墓 ( 上段 ) と寺ノ段 2 号墓の出土土器の比較 197 第 2 図篠山市 内場山墳丘墓 198 第 3 図丹後 大風呂南 1 号墓第 3 主体部 199 第 4 図内場山墳丘墓 SX9 199 第 5 図内場山墳丘墓 SX10 の土層図 199 第 6 図内場山墳丘墓出土土器の系譜 200 第 7 図タニワ ( 兵庫 ) 地域の墳墓 201 第 8 図三田市 ( 摂津 ) 川除遺跡の円形周溝墓と出土土器 202 第 9 図弥生時代後期から古墳時代前期の長刀 長剣 短剣 203 第 10 図弥生時代後期から古墳時代前期の西日本出土鉄鏃 204 第 11 図弥生時代終末期から古墳時代前期の鉄鏃 銅鏃 205 第 12 図弥生時代終末期から古墳時代前期の二重口縁壺形土器の比較 206 第 10 章 第 1 図西求女塚古墳と丹後三大古墳出土土器 213 第 2 図播磨灘に面する古墳の位置 220 vii

10 序 古墳の埋葬施設としての竪穴式石室と王権が 如何に結びつき 関連するのか 疑問をいだかれるであろう 畿内地域の大型古墳群がその造営地を移動するたびに 埋葬施設も変化していることが指摘できる 割竹形木棺と竪穴式石室という棺 槨構造をもつ大和盆地東南部にある広義の大和古墳群が 大和盆地北部の佐紀古墳群に移動したとき その大首長たちが組合式石棺と特異な竪穴式石室の棺 槨構造をもつ埋葬施設を創出している 佐紀古墳群から河内 和泉地域にある古市古墳群 百舌鳥古墳群にその造営地を移したとき 竜山石製の典型的な長持形石棺 ( 組合式石棺 ) と変容した竪穴式石室という棺 槨構造に変化している 古墳時代後期には 刳抜式石棺としての家形石棺が畿内型横穴石室とともに登場している 摂津地域の今城塚古墳である このことから王権と埋葬施設の構造が密接に関係していると理解していただけるであろう 少しこのことを詳しく言い換えれば 以下のようになる 長大な刳抜式木棺 ( 割竹形木棺 ) を覆う長大な竪穴式石室が 三角縁神獣鏡の副葬するという行為とともに成立する時代を古墳時代の開始と捉えている この様式の埋葬施設をもつ 200m を優に超える巨大な前方後円墳が大和東南部に三代から四代継続して築造される 古墳前期屈指の大型古墳群である広義の大和古墳群である この考古事象を捉えて 倭国に中枢部が形成され 倭国の中心部から発進される情報に地域政権が如何に対応するかが迫られ その対応の仕方が地域ごとに異なっている このことが地域における墳丘墓と古墳を捉えがたくしている このことをケーススタデイーとして叙述したのが 播磨地域を対象として論じた第 7 章である 第 2 章の 3 項も安芸地域の太田川流域と吉備地域でこの課題を論じている また 第 6 章の阿讃地域の長大型竪穴式石室をめぐってもこの課題と関係することを扱っている 一定の成果をあげていると思っている 古墳時代を開始したこの王権はそれほど強力なものでなく 山城地域 河内地域 摂津地域という畿内地域の政治集団の首長層が中心となり支えた政権である そして 吉備地域首長層もこの政権の中枢部に位置し 支えた王権である 竪穴式石室の基底部構造からこのことを論じたのが この論文の骨子でもある第 3 章である それ以外にも 覇権を争っていた丹後地域の地域的政治集団も帰趨が決したとみて 参画したことを論じたのが 第 9 章であり 第 10 章である 丹後地域以西の出雲地域を中心とする山陰地方の政治集団はこのことを良しとはしていなかったとみられる考古事象が存在している このことを論じたのが 第 8 章に叙述した方形墳論である ことは 三世紀後半に起こった古墳時代開始期のことである 安定したかにみえた初期ヤマト政権も 百年前後を経過すると 中枢政権内部も制度疲労を起こ viii

11 し膿んできていた 新しい東アジアの政治情況に対応できる体制にはなっていなかった 巨大な前方後円墳の築造の地が古墳時代前期後半に 大和盆地東南部の大和古墳群から 大和盆地北部の佐紀古墳群に移動した 東アジア情勢の変化も対応するためにとった体制である 筒形銅器と巴形銅器そして武器武具の変化を論じた田中晋作 ( 田中 2009) の論稿は秀逸であり 福永伸哉が論じた筒形銅器 巴形銅器論文 ( 福永 2005) も良質である 大和盆地東南部から大和盆地北部に 300m クラスの巨大な前方後円墳移動した時 埋葬施設にも大きな変化を遂げている その内容は 高野槙を使用した刳抜式木棺 ( 割竹形木棺 ) と類型的な竪穴式石室から 特異な組合式石棺と特異な竪穴式石室を採用していることである この埋葬施設を採用するのは 畿内地域の山城地域であり 河内地域であり そして 佐紀古墳群である 北部九州の谷口古墳 関東甲信越地域の大丸山古墳にも拡散している この変化に連動して 刳抜式石棺 ( 割竹形石棺 舟形石棺 ) を採用したのは 讃岐地域であり 肥後地域であり 越前地域などである 丹後地域もその中に含まれるであろう このことを論じたのが第 2 章第 4 節である この論文の根幹は第 3 章である 竪穴式石室と王権が関係していることを論じた この論文のもうひとつの骨子である第 4 章の前方後円墳の複数埋葬論も この課題と関連し 当時 支配階級の首長層も任意に埋葬施設を選択できた訳でなく 支配階級内部の身分制的な位置によって ある程度採用できる埋葬施設の種類は決められていたことを論じた 埋葬施設の構造を研究対象とすることは 古墳時代の支配体制を解明するのに有効である視点を提供し 大方の賛意を得ている 佐紀古墳群から古市古墳群 百舌鳥古墳群に倭国王墓が移動する そのとき採用されたのが兵庫県の加古川下流域に産出地がある竜山石を利用した典型的な長持形石棺である 古墳時代後期にも竜山石を使用した刳抜式石棺である家形石棺が有力な首長層に採用されている 古墳の成立という大きな画期をどのような考古事象として捉えるかについては 長い研究の歴史がある 近年は考古学の研究者も増え 資料も増加し 研究も進展している 地域におけるその時代を解釈できる豊富な考古資料を通して古墳時代開始期論は 百家争鳴の観を呈している しかし そこに研究史を踏まえた定点がある論が展開されているという状況にはなく 古墳時代開始期の把握の仕方は 混迷し ゆらいでいる このことは第 6 章で叙述しており 私もその中の一員であることは第 7 章でも吐露している カギ括弧付き 古墳 という表現である 初期古墳の概念規定を避けた表現方法である 初期古墳という概念の設定は石野博信 寺澤薫などにおいても行なわれているが その主な根拠は庄内式土器の危うい暦年代と邪馬台国論を関連させた論理展開に基づいているところがある 考古学的には危険な論の展開である 文化伝播である稲作開始論として 従来 縄文時代晩期後半と位置づけられていた突帯紋土器を伴う北部九州の菜畑遺跡等から稲作水田が調査によって発見され 縄文時代晩期後半を弥生時代の早期と名称変更しようという提唱なら まだ容認できるところもない訳ではない この名称変更を容認しているのではないが ix

12 学術用語の名称変更はもっと慎重に行なう必要がある 竪穴式石室を竪穴式石槨と変更しようという論にも 民族史の視点からも 研究史の視点からも 出現期古墳に長大型竪穴式石室が成立しその後の竪穴式石室の展開 変容していく姿態からはも そう簡単に容認できるものではない このことは第 2 章で展開しようと考えていたが充分に論が展開していない ことは中央集権体制が成立する律令時代の前史であるヤマト王権の政治論である 邪馬台国の位置論についても文献研究者の間でも解決されていない課題をアプオリ的に大和盆地東南部に求めて論を展開している論考は危険である このような研究情況の中 宇垣匡雅の吉備地域における前期古墳の分析した論稿 ( 宇垣 1987) は秀逸である また 下條信行は西部瀬戸内地域を対象とした様式レベルで捉えた初期古墳論は良質な論稿 ( 下條 2008) であるが 初期古墳という名称を使用する必要があったのかは解決していず疑問である 私は年輪年代学の成果と紀年銘鏡そして庄内式土器論を関連させた福岡澄男の年代観 ( 福岡 2006) に近い考え方をもっている このことは第 7 章で叙述している 小林行雄の論は一貫している 伝世鏡論であり 同笵鏡論である伝世鏡論では 弥生時代に舶載された後漢鏡の伝世をたち古墳に副葬することは 当時の東アジアの古代帝国として君臨していた後漢王朝の混乱 弱体化により 中国の権威を必要とした時代が終焉し 倭国において世襲制が確立したことに古墳時代の開始があると捉える 三角縁神獣鏡の同笵鏡論では 大和盆地東南部に確立したヤマト王権が 地域の政治勢力に三角縁神獣鏡の同笵鏡を配布することによって 勢力の拡大を行ったと把握する 配布した古式の三角縁神獣鏡を魏鏡とみることに論理的矛盾がある 世襲を確立したヤマト王権が 何故 魏鏡という中国権威に依存しなければならないかという矛盾である そこには 魏志倭人伝の記された邪馬台国問題が介在している 景初三年銘三角縁神獣鏡の評価にかかわることである 竪穴式石室という埋葬施設は弥生時代後期後半にすでに出現している この時期の最高位の棺 槨構造は木槨墓である 吉備の楯築墳丘墓であり 山陰の西谷 3 号四隅突出型墳丘墓である 有力な首長の墳丘墓の埋葬施設として採用されている 棺 槨の規模は 3.5m を超えるものはなく 短小なタイプであり 古墳の 5m を優に超える長大な竪穴式石室を採用している古墳との間には飛躍がある 墳丘規模にも飛躍が存在しており 弥生墳丘墓の最大の規模は 楯築墳丘墓であり 約 80m であり 出現期古墳の箸墓古墳は 280m である 弥生墳丘墓の段階では 埋葬施設の構造も墳丘形態の特徴も 範囲の広い狭いはあるが 地域性の中に閉じこまれている 埋葬施設上に供献される土器の特徴も地域的な様式で主に構成されており 地域性が優先されている それに比して 西日本的規模であるが 前期古墳には墳丘形態 棺 槨構造 副葬品の内容に至るまで ある画一性な構成要素をもって出現している そこに 古墳のもつ普遍性が認められるのであり 拠点的であっても 弥生墳丘墓の段階では認められなかった広域性をもって展開している そこに大きな画期が存在していると指摘できる x

13 このことを地域考古学の視点で論じたのが 第 5 章の阿讃地域における長大型竪穴式石室の出現についてであり 第 7 章の播磨地域の弥生墳丘墓と古墳である 対象墳墓の研究の進展により 古墳群単位の詳細な検討の必要性を観じ 阿讃地域の雨滝山奥墳墓群の再検討を行なったのが第 6 章である古墳出現前夜から出現期古墳への政治体制の実態を究明するには 各地域ごと そして そこに展開している有力な墳墓群の詳細な研究の必要性をいま痛感している 地域から また ひとつの墳墓群から古墳開始期の実態を照射するという視点である このことによって 大和中心主義とも言われる抽象論の古墳時代開始論からの脱出の道があるはずである その方向性の一定の視点は 第 5 章から第 7 章において提示できたと思っている 地域王墓の移動について論じたのが 第 10 章の王権と海上交通の論稿であり この課題を扱った嚆矢であると自負している 第 9 章もタニワ地域のこの課題を論じたものである 播磨地域の弥生時代の鏡を検討するば 北部九州の勢力が瀬戸内東部の揖保川下流域に政治折衝の拠点を弥生時代後期後半に置いた可能性が高いことを龍野市白鷺山墳丘墓の箱式石棺の構造と副葬された鏡から指摘 ( 山本 2008) できる 今回の論稿は 私の長い研究生活の中で発表した旧稿を出来るだけ現在の研究情況に照らし 改稿したものである 第 1 章と第 2 章は新稿であるが この論文の骨子である第 3 章は旧論を大きく書き改め新稿に近い この論文を構成している考古学の研究課題は 4 つの視点からなっている 一つ目は古墳時代前期における中枢部の政治構造の解明であり 第 3 章と第 4 章で論じている 二つ目は 列島に中心が形成された以降の地域政治集団の勢力がこの事態に如何に対応したかという地域考古学の視点から論じた第 5 章から第 10 章の論稿である 三つ目は地域政権の王墓の移動という課題である 倭国王墓の移動については多くの論稿があるが 地域政権の王墓が移動しているという研究方向は私のオリジナリティーである 第 9 章と第 10 章でそのことを論じている 新しい研究分野であるため 充分に論が展開できていないかも知れないが きわめて重要な視点である 往還する墳墓という視点で今後も研究を深めていきたい課題である 最後の四つ目は 政治集団がもっている支配領域の課題である 西日本においては 古墳を生み出す体制は弥生時代後期後半の中に醸成されていると理解している 弥生時代中期後半以降の北部九州の奴国 伊都国等の王墓には 前漢鏡や後漢鏡が多量副葬する勢力がある その政治勢力は対中国に向いている すなわち 中国の冊封体制に組み込まれていく構造である かつて 文献上で空白の四世紀と言われた時代は三世紀の後半から四世紀代のことである 畿内地域を中心とする勢力が新たな思惟で列島を纏めあげることを目指した しかし 律令時代の用語を使用して 大和地域とか播磨地域とかを使用しているが その実態はきわめて危うい そのことを古墳出現前夜で論じたのが 第 9 章であり 20 kmのエリアの中で 著しく異なる墳丘墓が作られていることを指摘した 墳墓群単位で古墳出現前後を厳しく見直す必要性を感じており 第 5 章は この視点で論じたものである xi

14 第 1 章竪穴式石室の研究抄史 - 問題の所在 - 我が国における古墳時代の埋葬施設の研究において 1941 年に書かれた小林行雄論文は画期的であった それまで 古墳研究を主導していた梅原末治の前期古墳における埋葬施設の研究成果の転換を意図していた 1920 年代から 1930 年代の梅原末治の古墳研究は 鬼気せまるものがあった 久津川古墳研究 ( 梅原 1920) の刊行に始まり 因伯二國に於ける古墳の調査 ( 梅原 1924) が上程した 私が 38 年間勤務した兵庫県では 神戸市夢野丸山古墳 神戸市板宿得能山古墳 揖保郡香島村吉島古墳 を 兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告書第 2 輯 ( 梅原 1925) に報告し 続いて 讃岐高松岩清尾山古墳の研究 ( 梅原 1933) を刊行している その後 近畿地方古墳墓の調査 を 1934 年から 1936 年の 3 年間で計 30 基の調査を行い 順次刊行した その時代は前期古墳から終末期の古墳に及び 近畿地方が中心であるが 岡山県 5 基 鳥取県 2 基の古墳が含まれている いずれも 重要な古墳ばかりでである そして 本邦上代高塚の内部構造に就いて を 1940 年に 史林 紙上に発表した 小林行雄はその翌年に 竪穴式石室構造論 を提示したのである その内容は下記に記すとおりである 以下 小林行雄の業績を基点に 前期古墳の報告書と古墳時代前半期の埋葬施設の論文を絡ませて 研究の動向を示すことによって 問題の所在を明らかにしていきたい いきつくところは 古墳と大和政権の問題であり 私のことばで言えば 古墳と初期倭政権の関係である 第 1 節小林行雄の業績 (1940 年代の動向 ) 1940 年代は梅原末治と小林行雄の研究の相剋につきる その後の研究をみれば 小林行雄に正鵠があったのは明らかである 太平洋戦争が始まった年に発表された小林行雄 竪穴式石室構造考 ( 小林 1941) は 本格的な竪穴式石室の研究の出発点であり まさに 竪穴式石室を研究する際の古典的な仕事 ( 都出 1986) と評価される 小林はこの論考で 石室の長さと幅の関係を整理して 竪穴式石室を 3 つの群に分類した すなわち A 群は長さ 1.5~3.5m 幅 0.5~0.9m の短小な石室 B 群は長さ 5.0~8.0m 幅 1.0m 前後の長大な石室 C 群は長さ 2.7m 前後 幅 1.5~2.0m の幅広の石室である そして B 群が長大な割竹形木棺を納めた古墳時代前期の埋葬施設であること C 群の幅広の石室の多くが内部に石棺を納めたものであることを指摘し 長大な割竹形木棺から石棺 ( 長持形石棺 ) に変遷する状況が竪穴式石室にも影響していると説き B 群の長大な石室から C 群の幅広の石室に変遷する現象と捉え B 群が古く C 群が新しいことを的確に把握していた 1

15 また 梅原末治が考えていた埋葬施設の構造の変遷 簡単な粘土槨から竪穴式石室に変遷 ( 梅原 1940) するという進化論的な考え方を廃し 粘土槨が竪穴式石室の省略型であるということ すなわち 竪穴式石室が古く 粘土槨が新しいという先後関係についても的確な解釈を導き出している この論考において 長大な竪穴式石室の特徴を 滋賀県安土瓢箪山古墳中央石室を例にとり 1 扁平な割石を積んで四壁を築く 2 天井石を架構 3 天井石を粘土で被覆する 4 石室の外方に下部ほど厚く控え積みを設ける 5 木棺を安置する粘土棺床があり 6 粘土棺床の周囲 下部に礫 板石を配する基礎構造などの要素からなると指摘している 畿内地域において 古墳の成立とともに創案された竪穴式石室の特徴をみごとに看破していた すなわち これはとりもなおさず 畿内地域における前期古墳の竪穴式石室の特性であり とくに4から6の要素は畿内地域における竪穴式石室の基底部構造の特徴であり 畿内様式 の竪穴式石室と称しても大きな間違いはない構造的特質である そして 古墳前期の長大型の竪穴式石室において 6の要素から逆順に欠落していく現象は 主に畿外の地域にみられる地域性の反映であり 地域における伝統的な墓制と中心地域からの墓制の影響との調整の結果にほかならない このことは ある程度 時間差を反映していると捉えても大過ないであろう 6~4の要素を採用している石室が古式であることはいうまでもない また 小林は竪穴式石室の基底構造についても言及し A 群の石室には砂 小礫あるいは板石を墓壙底に敷いたのみの簡単な構造であり B 群の石室の特質でもある粘土棺床を敷置する石室とは根本的に異なる葬法であったとする これらの指摘によって B 群の長大型石室が前期古墳の埋葬施設であり C 群の幅広型石室が長持形石棺を内蔵する中期古墳の埋葬施設であることを的確に捉えており A 群の短小型石室が後期古墳の竪穴式石室であると理解していた この論稿によって 竪穴式石室の新古の構造上における相違が把握できるようになった その後 古墳の埋葬施設の調査例が著しく増え A 群と B 群の中間型式の存在も確認され C 群の短小型石室が瀬戸内海地域を中心に古墳出現前の弥生後期後半から終末期の弥生墳丘墓に採用されている竪穴式石室が存在している多くの事例が確認されており 一部に見直しも必要であるが その骨子はいまでも正鵠であり生き続けている論文である 第 2 節 1950 年代の研究動向 1950 年代も 梅原末治 小林行雄を中心に前期古墳の埋葬施設の研究は展開している 小林は福岡県一貴銚子塚の研究報告 ( 小林 1952) 大阪府松岳山古墳の報告( 小林 1957) を刊行し 三重県石山古墳の粘土槨の調査 大阪府将軍山古墳の竪穴式石室の調査等を 1950 年代に行なっている 梅原は京都府寺戸大塚古墳 ( 梅原 1955) や京都府妙見山古墳 ( 梅原 1955) を報告している 後者の妙見山古墳は 破壊されていく不幸な古墳を大正年間から 20 数年に及ぶ踏査し そして 観察を行い 難渋な交渉を通して最低限な期間の調査期日しか確保できないなか 丹念な調査で この組合式石棺内蔵する特異な竪穴式石室の構造を明らかにしている 2

16 両者は京都府椿井大塚山古墳の調査も 1953 年に行こなっている 椿井大塚山古墳も不幸な契機のもとの調査であるが 三角縁神獣鏡 34 面を出土した長大型の竪穴式石室の構造が捉えられた重要な成果をあげている ( 梅原 1964) 戦後の混乱期に調査された奈良県桜井茶臼山古墳 (1945~1950 年の調査 ) の報告書は 1961 年に刊行されており 大阪府和泉黄金塚古墳の報告 ( 末永 島田 森 1954) も 1950 年代の刊行である 関東では茨城県常陸鏡塚古墳の報告 ( 大場 佐野 1956) も刊行された 両古墳は中心埋葬に粘土槨を採用している古墳であり 後者において佐野大和が粘土槨論をものにされている 1959 年には 岡山県金蔵山古墳の報告書 ( 西谷 鎌木 1959) も出版された 1965 年に西谷真治が報告された京都府元稲荷古墳とともに 1950~1960 年代に竪穴式石室の調査報告ではきわめて秀逸であり 石室の基底部構造もみごとに捉えられている 1950 年代の研究成果のしめは 世界考古学大系 の小林行雄 近藤義郎の 古墳の変遷 ( 小林 近藤 1959) であり 水野清一 小林行雄編の 図解考古学辞典 ( 水野 小林 1959) である 第 3 節 1960~1970 年代の研究動向この年代の竪穴式石室の研究は 小林の B 群の石室 すなわち長大型石室の研究 とりわけ基底部の構造の形態を中心に展開した 基底部と呼称するのは 棺を支える施設と石室壁体の基礎構築の施設を含めたものである 竪穴式石室はこの他にも 平面形の規模や形態 石室横断面の形状を規制する壁体部および控え積みの手法 天井部の構造 使用する石材の種類を含めた総体の関係を有機的に捉えて類型化することが必要である 竪穴式石室の発掘調査がそのすべてに及んでいる事例がそれほど多くない 最近では使用石材の研究や控え積みの構造まで解明している調査例が増えてきている そして その総合化の研究 ( 三木 1995 岡林 ) もみられるようなってきた 翻って 基底部の構造に関しては 長い研究の蓄積がある また 基底部の構造には地域性や時間的な変化の特性がよく表れており これを分類し 類型化することは竪穴式石室を研究する上で有効な手段である とくに 後述する長大型石室 Ⅰ-a 群は畿内地域の大王墳を含む有力な首長墳に多く採用される型式であり そこに地域性や系統差や時間差が認められ 古墳時代前期の政治動向を論じるひとつの有効な研究対象である 基底部構造を分類し 類型化した研究がすでに多く発表されている 1960 年代における古墳前期の埋葬施設の構造を解明した功績の第一人者は北野耕平である 河内における古墳の調査 の中で 前期古墳における内部構造の問題 という論文 ( 北野 1964) で 小林行雄の B 群 ( 長大型石室 ) の畿内地域の詳細な検討のもと 石室基底部構造に地域性があることを指摘した そして 北野 ( 北野 1974) は 石室の基底部構造を 1 基台式 2 礫敷式 3 粘土棺床直接式 4 板 礫式 5 周溝式の 5 型式に分類し 地域性と編年上の問題を論じた 地域性については 3 粘土棺床直接式が摂津地域に主に分布することから摂津型と捉え 1 基台式は河内地域を中心に分 3

17 布すること 5 周溝式は桂川右岸の山城地域に多い型式であると指摘した 編年的には1が2に先行し 粘土棺床直接式は基台式 周溝式よりも遅れて出現するとし 諸型式の成立を多元的に出現し 発展するものと解釈した 同じ 1964 年に 堅田直も 竪穴式石室の基底部構造に着目し 第 1 類を板石敷粘土棺床 第 2 類を地山上粘土棺床 第 3 類は粘土を積み上げた粘土棺床という 3 類に分類し この分類が時間差を反映していると捉え 第 1 類から第 3 類の変遷 ( 堅田 1964) を考えた 田中勝弘は 基底部構造と石室横断面の形状から竪穴式石室を A B C の 3 類型 ( 田中 1973) に分けた 田中の分類を基底部構造から北野の呼称に合わせば A 類型は粘土棺床直接式に B 類型は礫敷式に C 類型は基台式に相当する 田中はこうした型式変化を排水施設の発達という視点で捉え 入念な排水施設を配備した基台式を新しく出現する型式と捉えた この進化論的な考え方のもと特殊器台形埴輪をもつ元稲荷古墳を C 類型の竪穴式石室として新しく位置づけたことから その変遷観が他の研究と齟齬をきたしている 第 4 節 1980~1990 年代の研究動向都出比呂志は 粘土棺床の設置方法から基底部構造をSA1 型式 SA2 型式 SB 型式 SC 型式の 4 型式に区分 ( 都出 ) した SA1 型式は北野分類の4 板 礫式と3 粘土棺床直接式を一括して型式設定を行っており 前者をSA1 型式 1 後者をSA1 型式 2 に細分している SA2 型式は1 基台式に SB 型式は2 礫敷式にほぼ相当するが SB 型式も 2 分し 平坦な墓壙底に礫石を敷き礫石上に粘土棺床を設置するものをSB 型式 1 墓壙底の四周に溝をめぐらすものをSB 型式 2とした また 都出は同弁天山 C1 号墳後円部石室をSC 型式と設定し 最も新しく出現する構造と捉えた その後 竪穴式石室の地域性の研究 ( 都出 1986) では 竪穴式石室の列島規模の集成を行い それに基づいて 埋葬頭位や平面形の比較等から前期古墳の地域性を論じている この論稿によって竪穴式石室研究の方向性の転換を主導した 基底部構造を分類の基準にしなかった理由を 列島規模での研究を行うには 過去の多くの調査例が必ずしも この点を正確に解明していないために 比較研究に資料的なムラが生じるためである と叙述する 筆者は北野の視点に基づいて基底部の構造を分析してきた 山本 1980 の論文では 畿内地域の古墳時代前期の政治動向を究明するために基底部構造を分析することが有効な手段であるとの思考のもとで検討してきた 基底部構造を A 型 ~D 型の類型化し 畿内地域の中における普遍性のなかにおける地域性と系統差を論じた 北野の分類との関係は A 型は4 板 礫敷式に近く B 型は1 基台式 C 型は2 礫敷式 D 型は3 粘土棺床直接式に相当する この段階では 都出分類のSC 型式は設定していず 都出がSC 型式の代表例と捉えた弁天山 C1 号墳後円部石室を 摂津地域の古墳であり 前方部の粘土槨の構造が 摂津地域の地域性を表わす石室 D 型式の石室基底部構造と対応する粘土槨 D 型式 ( 山本 1983) であることから 摂津地域の地域性を端的に表現している石室 D 型式の基底部構造の後出的要素とともにその変容する姿態であると捉えた この考えは後の論稿 (1992) では都出のSA 型式を採り入れE 4

18 型を設定し 変更している 新納泉は 基台をもたないグループを A 類 ( 筆者の石室 C 型式 ) 基台をもつグループを B 類 ( 筆者の石室 B 型式 ) とし 両群を A1 A2 A3 B1 B2 B3 と細分した そして 石室の基底部構造の変遷過程をⅠ~Ⅳの 4 段階に分け Ⅰ 段階の椿井大塚山古墳を基点に A B 群へと派生し A1~A3 B1~B3 の順に型式変化したとその変遷過程を系統的に理解した ( 新納 1991) その着眼点は 粘土棺床と壁体構築の開始位置の変化という分析視点を導入したことにある その視点は A 群の竪穴式石室の基底部構造では 壁体構築位置が粘土棺床との関係において 順に高い位置に変化していくことは 実に整合的である しかし B 群では 新納がⅡ 段階とする京都府元稲荷古墳が粘土棺床の肩部に壁体最下段石が位置しており 矛盾を露呈している 新納はそのことを理解しており 壁体を構築し始める位置についても 両系統のあり方を異にしているために 単純に比較できない と矛盾点の解決に至る論理過程を回避している この論稿において 基底部の板石の使用が竪穴式石室の新古の関係を表現していること 基底部の礫石の使用に関しても粘土棺床の下部 四周に敷かれる礫石が新しい時期の石室になるほど多量の礫石を用いていること 粘土棺床についても石室幅に対して両端を大きく広がる方向で発達していることを解明しており その指摘は正鵠を射ている しかし 長大型の竪穴式石室の成立時期からの地域性の視点を重視すれば 違った展開になったはずである 彼の視点は A 群の石室にのみ当て嵌まるが 畿内地域の大形古墳に採用される竪穴式石室の原理的意味の政治動向論を展開する視点がみえていないことに課題があるのであろう 新納の視点は 藤井康隆に引き継がれていく ( 藤井 1999) 竪穴系の埋葬施設 ( 山本 1992) では 墓壙底中央を U 字形に掘り込む型式を都出の見解を取り入れ E 型式と類型化し E 型式における粘土棺床の設置手法の違いにより E1 型式とE2 型式に細分した E1 型式は粘土棺床下に板石 礫石を敷くもので E2 型式は U 字形の墓壙底に直接粘土棺床を設置するもものである また 北野の5 周溝式の設定の問題を検討していくなかで B 型式 C 型式も細分する必要があると考えるに至った 周溝式は 元稲荷古墳後円部石室 寺戸大塚古墳後円部石室 鳥居前古墳後円部石室という山城地域のある前方後円墳に採用された墓壙底四周隅に排水機能を持たせるために造り出したもので 粘土棺床の設置とは関連するものではない 都出が指摘 ( 都出 1981) するごとく 他の型式分類と異なる基準で形式設定しており 分類基準の整理が必要である 筆者も以前から周溝式の型式設定をしておらず 都出の指摘は当を得ているものと判断している しかし 周溝式が山城地域に顕著にみられる特徴であり 山本分類の B 型式 C 型式が 河内地域と山城地域に採用される竪穴式石室の基底部構造であることを考慮すると 周溝式も無視し得ない 北野の竪穴式石室にみられる地域性の視点は重要であり 墓壙底周囲に幅の狭い周溝を掘るものは 山本分類の B 型式 C 型式に認められことから 周溝を造りだすものを B1 型式 C1 型式と 周溝のないものを B2 型式 C2 型式と細分した 前者が山城地域の地域性を 後者が河内地域の地域性を示していることは北野の推論のとおりである 摂津地域に顕著に分布するD 型式の石室基底部構造とは鮮やかな対照をなし そこに古墳時代前 5

19 期の政治的緊張を読み取らざるを得ないであろう 以上の研究は いずれも そのほとんどを畿内地域の前期古墳の竪穴式石室を対象としており 後述する長大型石室 Ⅰ-a 群の竪穴式石室における基底部構造の型式分類である 宇垣匡雄は吉備地域の竪穴式石室を対象に研究の方向転換を計った 宇垣は 吉備地域の資料を中心に 弥生墳丘墓と前期古墳に採用されている竪穴式石室の構造と使用石材の両者の比較と分析を行い 良質な研究成果 ( 宇垣 1987) をあげている 宇垣は両者の本質が 納棺の設置時期の違いがあると捉える そして 弥生墳丘墓の竪穴式石室は墳丘築成に先立って 構築され 石室が完成して後に棺が納められ その後に墳丘が完成 すると観る それに対し 前期古墳では墳丘がほぼ完成した段階において墓壙の掘削がなされ 棺の納置後に石室に完成し 墳丘が完成 されていると把握し 墳丘の築成との関係についても正鵠を射た指摘を行っている そして 両者には石室の規模の差があることを指摘し 前期古墳が遠隔地から石材が搬入されていることを解き 弥生墳丘墓の竪穴式石室の壁体には内傾するものがなく 控え積みも施工されていないことなどを指摘している それ以上に大きな成果は 吉備地域における古墳時代前期前半の前方後円墳の用いられている竪穴式石室石材と特殊器台埴輪からみた考察である 弥生時代後期後半からの吉備地域起源の首長墓に採用される特殊器台形土器 特殊壺形土器から発展してきた特殊器台埴輪 特殊壺形埴輪が吉備地域の多くの古墳時代前期前半の首長墳に採用されていることは広く知られている事実である 列島内のどこの地域よりもその採用古墳は多い 次に多いのが大和地域の首長墳である そのことと 吉備地域における古墳時代前期前半の首長墳の前方後円墳に採用される竪穴式石室石材が遠隔地の讃岐地域から搬入された古銅輝石安山岩であることを丹念な現地調査から導き その関係をみごとに整理している その関係は 1 古銅輝石安山岩と特殊器台埴輪を採用するグループと 2 特殊器台埴輪を採用するが竪穴式石室石材には古銅輝石安山岩を採用しないグループ そいて 3その両者とも採用しない備前車塚古墳である 1が優位なグループであることは古墳の規模からみて明らかである このグループには 前期前半では 吉備地域最大の前方後円墳である浦間茶臼山古墳 (138m) を初め 網浜茶臼山古墳 ( 前方後円墳 92m) 70m 級の前方後円墳 2 基 50m 級の前方後方墳 1 基 40m 級の前方後方墳 1 基が知られている 古銅輝石安山岩と特殊器台埴輪を採用するという強い紐帯で結ばれた 吉備南部の首長連合 の指導部の表徴であったとみることができる 2のグループは 50 級の前方後円墳 1 基と 30m 級の前方後方墳 1 基が知られている 3のグループは三角縁神獣鏡 11 面を副葬していた墳長 48m の前方後方墳の備前車塚古墳 ( 前方後方墳 墳長 48m) が知られているのみで 周辺で産出する砂質岩 泥質岩互層の角礫が使用されていると指摘する 前期後半には 竪穴式石室の石材に古銅輝石安山岩を採用する古墳が減少し 前述した1のグループにみられたヒエラルキッシュな政治関係は認められないと捉える 6

20 第 5 節 2000 年代の研究動向鐘方正樹は埴輪研究の成果を成し遂げた後 その成果を引き提げて 古墳時代前期の埋葬施設のことを論じ始めた 2003 年に 竪穴式石槨出現の意義 ( 鐘方 2003a) の論稿では 竪穴式石槨は中国の磚室墓を参考にして 奈良盆地東南部で創出された埋葬施設であり 竪穴式石槨は弥生系の竪穴式石槨の系譜をひいて出現したものではないと論断する 長大型の竪穴式石槨は 木槨から竪穴式石槨へ という章を設けて 弥生時代後期後葉から弥生時代終末期においては 岡山県楯築墳丘墓が象徴的に示すように 木槨墓が列島内では最高位の埋葬施設であるという認識のもとで木槨墓の詳細な検討を行いそのことを論証している 飛躍は禁じ得ないが 都出が埋葬頭位からみた中国思想の影響 ( 都出 1986) と通底しているところがある 経緯は異なるのであるが 後述する岡林孝作も彼が発掘調査を担当した奈良県ホケノ山墳丘墓の 石囲い木槨墓 から長大型竪穴式石室が出現する( 岡林 2009) と捉えている 鐘方が同じ年に発表した 竪穴式石槨基底部構造の再検討 ( 鐘方 2003b) では 都出が北野 田中 山本が 玉手山 5 号墳とともに玉手山古墳群の中ではその基台式の代表例として把握していた河内地域の大阪府北玉山古墳 ( 玉手山 10 号墳 ) を以下の理由によって 礫敷式の範疇に捉えていることに異を唱えるのである 都出は 北玉山古墳を 土壇の上に直接粘土棺床を設置するのではなく 土壇 の上にも礫を敷いている上に 礫敷の上に置かれた粘土棺床の横幅は 土壇 の幅とは無関係に広く作られていることから この 土壇 は粘土棺床を設置するための基台と考えるよりも 寺戸大塚古墳などにおいてみられる構造の違いにより 礫敷式と理解している その後 この見解は その後の竪穴式石室の研究に大きな影響を及ぼしている 新納は北玉山古墳の基台を 棺を支える機能が崩壊 した石室基底部構造であると捉えている 三木弘もこの見解を踏襲し 竪穴式石室基底部構造の型式から基台式を排除 ( 三木 1992) している そこで 鐘方は 斬新な観察視点から 古墳時代前期の竪穴式石室基底部構造には 礫被覆基台 と 礫盛り上げ基台 があると分析する 礫被覆基台には 玉手山 9 号墳 北玉山古墳 玉手山 5 号墳などの事例をあげる 礫盛り上げ基台には 京都府椿井大塚山古墳 滋賀県安土瓢箪山古墳 大阪府駒ケ谷古墳 大分県免ケ平古墳などの事例をあげる そして 基台式の概念規定を 墓壙底中央に粘土棺床設置のための基礎となる高まりを構築する という点に置き 基台式の新しい概念規定を提唱する 新概念からみれば 多くの代表的な竪穴式石室の基底部構造は 鐘方が類型化する Ⅱ 類の一部を除くほとんどが粘土棺床下に基台もしくはそれに類する施設を構築している という まさに 斬新な把握手法であるが 実際の観察では著しい困難を伴う そこをどう解消していくかが課題である 独断に陥りやすい要素を多分に内包しているところである 次に 類型化に挑戦し 墓壙底の形状を横軸に 基底部構造を縦軸に 模式化を行い 12 類型を設定する その基準は 礫被覆基台と 土壇基礎 をもつものを A1 型とし 凸面基礎 をもつもの A2 型と分類し 礫盛り上げ基台を B 型 U 字形に掘り込む棺床施設を造り出すものを C 型と類型化し その細分を行っている 高松雅文 ( 高松 2005) は 竪穴式石室の横断面形態に着目し 新しい研究視点を提示した 7

21 竪穴式石室の横断面の形態には 垂直系統と持ち送り系統の壁体構造があると指摘し 竪穴式石室の出現期からその両者が併存していると捉える そして 石室の高さと幅の高幅比からⅠ 型式からⅢ 型式が存在するとし Ⅰ 型式からⅢ 型式に変遷するに従い漸次高さが減少していくと解く Ⅰ Ⅱ 型式は a b と細分している 両者のそれぞれの高幅比からみた併行関係を論じ 両者の階層差についても言及し 垂直系統が墳丘規模の検討から優位であると解く 高松論文にも高幅比の普遍性を説くが 竪穴式石室の重要な要素である地域性の意味するところには言及されていない 岡林孝作 ( 岡林 ) は 竪穴式石室がその出現から典型的な石室の完成まで 石室構築材の使用法に明確な変化を読み取り 変化の方向性をあとづけることが 竪穴式石室の祖系の問題により踏み込んだ議論ができるという理解のもとに 木槨墓から竪穴式石室墓への変遷を説く 竪穴式石室の総体的な機能が 被葬者の遺体の保護を目的とする防排水システムへの整備過程と捉える そして 防水施設である石材被覆への着目や粘土被覆の手法に新たらし視点を導入し 奈良県ホケノ山墳丘墓の 石囲い木槨 から同県黒塚古墳 同県下池山古墳の変遷を解いている そして 彼の研究の画期的なところは 竪穴式石室の上部構造 壁体構造 基底部構造を総合的に捉えて 竪穴式石室 Ⅰ 群からⅢ 群とグループ分けを行い 各群の特質とその変遷過程を西日本的規模で捉えたことにある それまで 基底部構造の分析に重きを置いてきた竪穴式石室の研究に方向転換の必要性を示したことにある しかし 上部構造 壁体構造 基底部構造の採用にあったても各古墳には地域性があり 地域の中においても各古墳に個性的なところが看取される それは 時間差が反映されている可能性が高いのであるが そして そのことが前期倭王権の中心である大和地域の 200m を超える巨大前方後方墳とその王権を支えた河内地域や山城地域 播磨地域の 100m 前後の前方後 ( 方 ) 墳の築造の政治的意味論についての言及が欲しいところである 摂津地域はこの王権構造に参画していたが 絶えず緊張関係のもとでの関係と私は捉えている 奈良県立考古学研究所が大和古墳群調査委員会を組織し 同研究所が 1993~2000 にわって発掘調査された中山大塚古墳 下池山古墳 黒塚古墳 ホケノ山墳丘墓の調査は前期古墳の諸問題の解明に大きな成果をあげた 8

22 第 2 章長大型竪穴式石室の出現と変容 第 1 節長大型竪穴式石室出現前夜弥生時代後期後半の最高位の埋葬施設は 木槨墓であった 吉備地域では 墳丘長 80m の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓が 木槨墓を採用している 木槨の規模は 長さ 3.6m 幅 1.5m 高さ 1.0m である この時期 墳丘規模と埋葬施設の規模は列島内においても傑出している しかし 継続しない 同時期の黒宮大塚墳丘墓は 長方形墳丘墓で長辺の長さ 37m である 黒宮大塚墳丘墓は短小型の竪穴式石室を埋葬施設として採用している 石室規模は長さ 2.2m 幅 0.9m 高さ 0.7m である この時期 竪穴式石室は木槨墓の下位に位置づけられている埋葬施設であった ただし 継続しており 弥生時代終末期 まさに古墳出現前夜まで継続している埋葬施設である その例が 矢藤治山墳丘墓であり 宮山墳丘墓であり 両者とも前方後円形墳丘墓である その墳丘規模は 36m と 39m である 石室規模は両者と長さ 2.7m 幅 1.0m である 黒宮大塚墳丘墓石室より 若干長さは増している 出雲地域も弥生時代後期後半の最高位の埋葬施設は木槨墓である 西谷 3 号四隅突出型墳丘墓である 出雲 伯耆 因幡地域のナンバー 2 以下の四隅突出型墳丘墓に採用される埋葬施設は組合式木棺 ( 箱式木棺 ) である 丹後地域では 今井赤坂墳丘墓に象徴されるように 刳抜式木棺 ( 舟底形木棺 ) の直葬が最高位の埋葬施設である 弥生時代の墳丘墓と古墳時代の古墳を分別する要素は どのような考古事象をいうのであろう 私は 首長墓に採用される三角縁神獣鏡の副葬の開始と長大型竪穴式石室の成立をその指標と捉えている ここで 弥生墳丘墓と古墳の定義がいかに行なわれてきたかみておきたい 周溝墓と墳丘墓と古墳いう学術用語は 日本考古学では 時代区分論とも密接不離に関係している 研究史をひも解けば 周溝墓と墳丘墓は弥生時代墓制の種類の与えられた名称であり 古墳は古墳時代の墓制の名称である 古墳とは きわめて政治的な記念物であり 前方後円墳が古墳の代表かつ典型 ( 近藤 1983) である 定型化した前方後円墳の出現をもって古墳時代の開始であると捉えることに異論は多くない その歴史的な評価は 支配階級の政治的な身分秩序の成立 ( 都出 1991) であると解されている 言い換えるならば 古代中国文献に記載されている 倭国 というエリアの中で 中心が形成され 地方首長との間に 広域的な首長の序列が形成されたと言えるであろう 都出比呂志はそのことを捉え 前方後円墳体制 ( 都出 1991) と提唱し 初期国家 と捉えるべきであると首唱する マックス ウェバー カール マルクス エンゲルス以来の国家の規定とも関連し 国家という用語の使用には慎重な配慮が必要であるという意見も古代史の文献研究者を中心として提出されている 9

23 多くの考古学研究者が 墳丘長 276m の奈良県箸墓古墳 ( 箸中山古墳 ) の築造を契機として 古墳時代が始まると捉えている 異論もある その代表的な論者は 石野博信 ( 石野 ) であり 寺澤薫 ( 寺澤 2000) である その追随者も多くなっている傾向にある 筆者は同意し難いところが多くあり 追随していない 周溝墓 台状墓 墳丘墓と区別して 分類 呼称されていた近畿地方を中心とする弥生時代の墓制を いずれも盛土 ( 封土 ) に重きを成しているのであるから 墳丘墓として統一しようという都出比呂志の提唱以来 多くの研究者に受け入られているのが今日的状況である 筆者は集落の位置関係や立地の違いから 周溝墓と墳丘墓は区別する立場をこの 30 年来堅持している ときには 台状墓という呼称も使用している 周溝墓 台状墓 墳丘墓の違いを指摘されたのは 近藤義郎である 氏は主に周溝によって墓域を区画している弥生時代の墳墓を周溝墓と捉え 丘陵尾根状に立地する墳墓で 墳丘を主に盛土によって形成することなく 丘陵の基盤を掘削 成形することによって 墳丘を形造る墳墓を台状墓と そして 立地に関係なく盛土をもって墳丘を形成する墳墓を墳丘墓と把握 ( 近藤 1977) している 私は 墳丘の形成手法の違いによる近藤義郎の視点とは異なり 集落と墳墓の位置関係に重きをおいて 周溝墓と墳丘墓は区別する立場を採っている 周溝墓は 近畿地方では弥生時代前期には出現している 基本的には 弥生時代中期末の拠点的集落が解体するまでの有力な世帯共同体層の一般的な墓制であると理解できる その選地は 主に 集落の立地と同じ低地に築かれ 集落の居住地に隣接した一画に墓域を設定している 方形周溝墓と円形周溝墓が基本である 畿内地域では圧倒的に方形周溝墓が主流であるが 播磨地域や讃岐地域では円形周溝墓も一定程度築かれている 弥生後期後半から終末期には 突出部をもつ形態の周溝墓も出現してくる この現象は吉備地域などの瀬戸内地域で発達した墳丘墓からの影響とみられる 弥生時代前期後半の兵庫県東武庫遺跡例をみれば 沖積地に立地する集落の一画に墓地が形成されている景観を呈する 平面の形態は方形を呈し 22 基の方形周溝墓が確認されている 調査外にも築かれていることは確実で 22 基以上の周溝墓が密集 群集している状態と捉えられる 規模をみれば 大 中 小と 3 分類できる 小規模なものは 8 号墓の m で 大きいものは 10 号墓の m そして 15 号墓の m である 面積では 10 号墓が最大で 8 号墓の約 15 倍の面積を有する このことを捉えて有力家族の間にも階層差があるとみるのかは 当時の社会体制の究明とともに 今後の検討が必要であると思考している 埋葬施設は大きい 号墓では確認されておらず 中規模な周溝墓には高野槇製の組合式木棺の直葬が確認されている これは 大形の周溝墓には盛土が高く 後世の削平によって埋葬施設が削りとられた結果にほかならない このことは 大きい周溝墓は 中 小規模の周溝墓よりも墳丘が高かったと解釈できる 北部九州地域からの初期農耕文化の伝播は 瀬戸内海の各海上交通の要所からリレー式に伝播してきたが 弥生時代前期後半の第二次弥生文化の伝播は リレー式伝播ではなく 前段階の交流の 10

24 文化的基盤に基づきもっとダイレクトに西方から及んできた可能性が高いことをこの東武庫遺跡の方形周溝墓群のあり方が示しているのであろう 兵庫県加古川上流域にあたる丹波地域の弥生時代中期後半に築かれた七日市遺跡の周溝墓群の構造をみれば 大 中形の規模の周溝墓には埋葬施設は検出されず 小形の周溝墓には組合式木棺の直葬が確認されており 共通の文化基盤をもつ地域には 弥生前期後半から中期後半まで同じ様相が看取される 沖積地に立地する大阪府瓜生堂遺跡や兵庫県玉津田中遺跡では 大 中 小規模の周溝墓にも埋葬施設は確認されているが 弥生中期後半までに大きな洪水砂にパックされ 後世の土地の改変 削平が埋葬施設の面まで及ばなかった結果にほかならない 滋賀県服部遺跡の二百数十基にも及ぶ周溝墓の群集のあり方は 今までに叙述してきた地域との文化基盤が異なるのであり 周溝墓の性格を分析するときは異なる分析視点が必要であり 関東地方の周溝墓の分析視点も同じことが言えるのであろう 弥生墳丘墓は 基本的に集落から離れた眺望の良好な高所の丘陵上に立地していることが多数である この墳丘墓の立地の傾向は 瀬戸内沿岸地域に顕著であると指摘できる 主に弥生時代後期後半に出現し 終末期まで継続して築かれている この弥生墳丘墓が その墳形や埋葬施設の構造 副葬品の内容にいたるまで周溝墓には見られなかった現象が認められる なお 大和盆地東南部にある広義の大和古墳群の支群とも捉えられている纏向墳墓群は この原則が適用されず 周溝墓と同じように 纏向遺跡集落の一画の低地に弥生後期末から終末期を得て 出現期の箸墓古墳まで低地に立地する都市集落の一画に造営されている 西殿塚古墳 行燈山古墳 渋谷向山古墳は低丘陵の立地している それらの要素は 古墳に繋がる多くの祖形を具備しているところがある 墳形でいえば 定式化であり 前方後円墳が 古墳出現期から後期古墳までいつも最大規模を保持し 古墳時代前期前半から 倭国 のリーダー層に前方後円墳が採用され 古墳時代後期まで継承されている約束事である 墳丘規模をみれば 巨大化に変化していることである その初期の例が 奈良県箸墓古墳である その後 この大和盆地東南部に 200m 級以上の前方後円墳が継続して築かれているということが指摘できる このことは 列島内に政治的中心が形成されたことを物語っていると評価される 墳丘墓の平面形態は多様であり 突出部の発達形態により 前方後円形墳丘墓や前方後方形墳丘墓にしても 2 種類以上の類型が認められることができる 周溝墓の平面形態にも影響を及ぼしている 墳丘墓と古墳を類別するところは奈変にあるのであろう 古墳とは 定型化した前方後円墳の成立であると解かれる 前述しているように 多くの研究者は 墳墓から出土する宮山型特殊器台土器や特殊器台埴輪 二重口縁壺形土器の型式などの存在から 倭国の中で最初に築かれたと捉えられる墳丘長約 280m もある巨大な箸墓古墳をもって古墳時代の開始と象徴的に捉えられている 筆者もその巨大さは今まで 11

25 の弥生墳丘墓には 見られなかった規模であり その意見に異議を唱えるものではない しかし ヤマトモモソ媛の陵墓に冶定されており 採集遺物と墳丘形態以外の情報はない 隔靴掻痒である 箸墓古墳が隔靴掻痒の観があるところも原因して どのような墳墓様式をもって定型化した前方後円墳の成立とみるかは混迷している 私は 長大型竪穴式石室の出現と三角縁神獣鏡の副葬の開始が鍵を握っていると捉えている この両者は 特殊器台埴輪のように吉備地域と大和地域に限定されるような分布でなく 広く倭国内にその分布が知られているからである 言い換えれば 古墳時代の開始とは 倭国内において 中心的な政治勢力が形成され 地域の政治勢力との間に差別化という政治状況をつくらざるを得なかった東アジアの政治状況にまきこまれた結果にほかならない ある意味では 大和地域と吉備地域が連携して 東アジアの政治状況に対処するために 臨時的に中央政権という構造をつくりあげたのである 制度的なものではなく 王と王の連合の結果であり 吉備地域の政治勢力が 大和勢力を推戴した形として他の地域の政治勢力にも納得させたのである その中には 弥生時代中期後半から前漢鏡を多量副葬していた北部九州地域の 伊都国 奴国 などの地域も参画していたであろう 東アジアの政治情況を的確に把握しているのはこの地域であり この地域の情報提供はなくてはならないものである 他にも この政治的連合に参画した弥生時代終末期後半に成立していた政治勢力も多く参画しているのであろう その中には 弥生時代終末期後半には 覇権を争っていた 丹後王国 も帰趨が決したと判断した時点で 初期倭政権に協力体制をしいたのである 安芸地域の太田川下流域の政治集団に採用された川原石 ( 円礫 ) を使用した竪穴式石室が有力な首長墓に採用されている その原理的な 思想的な要素は 初期倭政権の大王墓クラスの 200m を超える大形前方後円墳に繋がる多くの要素が指摘できる その他 讃岐地域 阿波地域の埋葬施設からの影響もかんか出来ないものがある しかし 同調しない政治勢力 ( まつろわぬ 国 ) も存在した その代表は出雲の政治勢力である 第 2 節長大型竪穴式石室の分類小林行雄の研究 ( 小林 1941) 以来 弥生墳丘墓と古墳の成立を識別する大きな要素として 長大型の竪穴式石室の研究が続けられてきた 畿内地域に築かれた大形前方後円 ( 方 ) 墳の竪穴式石室には 粘土棺床とその周囲に礫石を使用することを必備とした基底部構造を採用している この基底部構造に研究の対象が向けられてきた この基底部構造はその分布が畿内地域に集中する傾向にあることから 畿内様式 とも捉えていい様式である 基底部構造とは 棺床施設と石室壁体基礎施設のことを捉えた名称である 古墳時代前期には 畿内様式とも言える竪穴式石室が 吉備 讃岐 伊予 豊前 肥後などの諸地域に確認されている この現象はヤマト政権との政治的関係の疎密の関係であると捉えている 古墳時代前期前半はきわめて拠点的であるが 西日本に波及している 特に 吉備地域には 畿 12

26 内様式 の基底部構造をもつ竪穴式石室が 浦間茶臼山古墳 七つク ロ 1 号墳 ( ク ロ : 土 偏 旁 丸 以後文中では ク ロ と表記 ) 備前車塚古墳などにその存在が多く確認されている 吉備地域が古墳成立時に果たした役割の大きさがここにも看取できる 前期後半になると長大型竪穴式石室は拡散し 粘土槨と共に東日本にも波及していくが 畿内様式とも言える基底部構造をもつ竪穴式石室は東日本には採用されていない ここでは 古墳前期の長大型の竪穴式石室が どのような基底部構造を採用しているかを調査例から検討していきたい 発掘調査例から長大型石室の基底部を次のように分類することが可能である まず 棺床施設として 粘土棺床を敷設する石室をⅠ 群と捉え 粘土棺床を採用していない石室をⅡ 群に分類する Ⅰ 群では さらに粘土棺床の四周及び下部に板石 礫石を使用する石室をⅠ-a 群とし 粘土棺床の四周及びその下部に板石 礫石を使用しない石室をⅠ-b 群とに細分する Ⅰ-a 群の基底部構造を有するものが 畿内様式 の竪穴式石室と理解している Ⅱ 群では次の 3 群に細分できることができる 板石や礫石で棺床施設をつくる石室をⅡ a 群 礫石を使用せず 墓壙底中央を U 字形に掘り込みその U 字形墓壙底を直接棺床としている石室をⅡ b 群 礫石を使用せず墓壙底が平坦な石室をⅡ c 群と細分する 研究史的視点からいえば 長大型の竪穴式石室に採用される棺形態は割竹形木棺と捉えることが暗黙の了解事項であるとされているところがあるが Ⅱ c 群に採用される棺形態が割竹形木棺とする場合 棺を支える施設がいまひとつ明確でない 棺底の平坦な木棺を想定すると捉えて方が整合的である Ⅰ-a 群の基底部構造を有する石室の墓壙底の形状をみれば 1 墓壙底の中央に基台と呼称される基壇状の施設を造り出すもの 2 墓壙底が平坦なもの 3 墓壙底中央が U 字形に掘り込まれるもの三形態が実例として存在している Ⅰ-b 群では 前述の1の墓壙底形態を採る石室はなく 2と3の墓壙底を採用しているものが調査例から明らかに存在している Ⅱ a 群はほとんどが2の墓壙底の形状であるが 長大型石室ではない広島県石槌山 1 号墳第 2 主体は3の墓壙形状をしており 3の墓壙形状を採るものもあることを想定しておきたい 13

27 なお 棺床に礫石を使用する竪穴式石室は すでに 吉備地域を中心とした弥生墳丘墓に多く認められる 岡山県都月 2 号墓と同宮山墳丘墓は 墓壙底を凹字形に一段浅く掘り そこに礫石を充填して平坦な棺底としている 岡山県金敷裏山墳丘墓では 墓壙底が U 字形に浅く窪め 墓壙底に沿って礫石を配し 礫石上に棺を充填している岡山県鋳物師谷 1 号墓 A 主体 同黒宮大塚墳丘墓があり 弥生墳丘墓の竪穴式石室においても 墓壙底の横断面の形は3 種類認められる これらは いずれも石室の長さ3mを超えない短小型の石室である 長大型 Ⅰ-a 群の竪穴式石室は 表 1 にみるごとく畿内地域の前方後円 ( 方 ) 墳に圧倒的に多く採用されており 畿内地域で成立し 発達してきた構造と捉えることができる しかし 前方後円墳の成立期 すなわち 古墳時代の開始期においては 吉備地域最大の浦間茶臼山古墳や七つク ロ 1 号墳等にも採用されている基底部構造であり 弥生墳丘墓段階の吉備地域の埋葬施設の様相から捉えて 前方後円墳の成立とともに粘土棺床と礫石の使用を必備した基底部構造をもつ竪穴式石室という埋葬様式を創案するのに吉備地域の果たした役割は大きいものがあったと考えざるを得ない 長大型 Ⅰ-b 群の竪穴式石室は 入念な基底部構造をもつⅠ-a 群に比べて略式化した構造であり 時期的には遅れて出現する形態であり 竪穴式石室の構築法に対する知識が不十分にしかもっていなかったことに基因しているのであろう 第 3 節古墳出現前後の埋葬施設の変化古墳出現前後の竪穴式石室を 調査された事例を中心にその内容を検討していきたい 吉備地域と安芸地域の太田川流域を対象に古墳出現前後の墳丘墓 古墳の内容を第 1~4 表によって作成した 古墳時代の開始を告げるキーワードは 三角縁神獣鏡の副葬と長大型の竪穴式石室の採用であると捉えている 中でも三角縁神獣鏡の副葬の開始は メーキングポイントであり きわめて重要な現象であると理解している 対象とする古墳の多くは 過去に盗掘に会い 副葬品の全容が判明していない古墳も多い 三角縁神獣鏡の副葬という現象を基点にみれば 奈良県中山大塚古墳 岡山県浦間茶臼山古墳も大きく盗掘を受けており 三角縁神獣鏡の存在は知られていない 2009 年度に再調査が行なわれた奈良県桜井茶臼山古墳の事例と比較すれば あきらかであると思考するが 前者には多量の鏡の副葬がなされていなかったと捉えるの正鵠を射ているのであろう そして三角縁神獣鏡は副葬されていなかったと捉えて大きな間違いはないであろう 中山大塚 古墳 が香川県鶴尾神社 4 号 墳 と竪穴式石室の基底部構造が類似しており カギ括弧付き 古墳 としている由縁である 浦間茶臼山古墳は 長大は木棺の採用と竪穴式石室の基底に粘土棺床を設置し その四周に礫を使用した基底部構造を採用しており 古墳と把握して何ら問題はないと理解している 表に従い両地域の弥生墳丘墓と古墳の内容を論じていきたい まず 吉備地域の古墳出現前後の主要な墳墓の内容を検討していきたい 弥生時代後期後半に吉備地域に墳丘長 80m 前後の当時としては とてつもない規模の巨大な墳丘 14

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30 をもつ楯築墳丘墓が築かれる 墳丘の形態は 中円双方形であり 奈良県櫛山古墳の古墳時代前期後半まで継承される形態である 埋葬施設は木槨墓である 楯築墳丘墓と同じ形態の立坂型の特殊器台土器を採用している墳丘墓の形態をみれば 吉備地域では 方形系統の墳丘墓が多数を占めている 雲山鳥打 1 号墳丘墓 黒宮大塚墳丘墓 金敷寺裏山墳丘墓 鋳物師谷 2 号墳丘墓 おそらく 鋳物師谷 1 号墳丘墓も方形の墳丘墓の可能性が高いであろう 方形系統の墳丘墓の規模をみれば 黒宮大塚墳丘墓が長辺 37m 短辺 28m のできわめて大規模である 西谷 3 号墳丘墓や今井赤坂墳丘墓に準じる規模である 立坂型特殊器台土器の祖名遺跡となっている立坂墳丘墓は楕円形墳丘墓であり 長軸 18m 規模と捉えられている 鋳物師谷 1 号墳丘墓と雲山鳥打 1 号墳丘墓は 20m 級の規模であり 金敷寺裏山墳丘墓は 10m 級の規模である 弥生時代後期後半の首長墓の墳丘規模で 有力首長層のランク付けをみれば 楯築墳丘墓の 80m が最大で吉備地域の弥生王墓と捉えていいであろう 次ぎのクラスが 40m 級の墳丘をもつ黒宮大塚墳丘墓で 3 番目のクラスが 20m の規模の鋳物師谷 1 号墓 雲山鳥打 1 号墓であり 立坂墓である その次ぎが 10m クラスの金敷寺裏山墓である 四階層の首長層が大形の特殊器台土器を共有することによって政治的に纏まっている姿態が読み取れる 向木見型の特殊器台土器を採用している弥生墳丘墓は 都月坂 2 号墓であり 鮎喰神社墳丘墓 女男岩墳丘墓などである その埋葬施設の形態をみれば 多様である 宮山型特殊器台土器を採用している墳丘墓として 矢藤治山墳丘墓と宮山墳丘墓がある 古墳出現前夜の弥生時代終末期の墳丘墓であり 前方後円形の墳丘形態である 埋葬施設は竪穴式石室を採用しているが 両竪穴式石室は 3m を超えない短小型の竪穴式石室で 墓壙底は平坦で 礫石を敷いている 古墳時代が成立すると 浦間茶臼山古墳の竪穴式石室の長さは 6.8m 七つク ロ 1 号墳の中心主体である竪穴式石室の長さ 5.3m 備前車塚古墳の竪穴式石室の長さ 5.9m という長大型竪穴式石室が出現している 次に 安芸地域の太田川流域の当該期の資料を検討していきたい この地域は 古墳成立前夜の弥生時代終末期に川原石を使用した特殊な竪穴式石室が多く築かれ発達している この円礫 ( 川原石 ) を使用した竪穴式石室には 長さ 3m を超える石室はない 吉備地域の弥生後期から終末期にかけて採用される埋葬施設とその規模は変わらない 太田川流域の川原石を使用した竪穴式石室はもっと注目されてよい 同じ流域で 三角縁神獣鏡と車輪石を副葬している中小田第 1 号古墳の埋葬施設は 竪穴式石室であるが 長さ 3.5m であり 粘土棺床は採用されていない 約 30m の前方後円墳である また 横矧板鋲留衝角付冑と三角板鋲留短甲を副葬していた中期後半の中小田第 2 号古墳もその埋葬施設は竪穴式石室であるが 長さ 3.1m の短小型の竪穴式石室である 粘土棺床は採用されていない この地域には 長大型竪穴式石室を構築することなく 古墳時代を向かえ 三角縁神獣鏡という 17

31 威信財や最新の武具等を受け入れたが 埋葬施設は伝統的な短小型の竪穴式石室を築き続けてきた首長の姿を読み取ることができる 古墳時代の政治関係とはこのようなルーズな関係である 備後地域も同じ傾向が指摘でき 筒形銅器を副葬している大迫山 1 号墳の前期後半になって はじめて長大型の竪穴式石室が構築されている 前期前半の築造と捉えられる石槌山第 5 号墳 石槌山第 1 号墳の段階では 弥生時代後期後半以来の伝統的な短小型の竪穴式石室を採用しており 竪穴式石室の長さは 3m を超えない また これらの竪穴式石室には粘土棺床は設置していない 第 4 節竪穴式石室の変容古墳時代前期前半の長大な刳抜式木棺とそれを覆う長大な竪穴式石室に替わって 前期後半には倭国王墓や地域の王墓や首長層の埋葬施設に大形加工石材を使用した石棺が採用される この現象は大和盆地東南部の広義の大和古墳群から大和盆地北部の佐紀古墳群に 200m を超える大形前方後円墳が移動していく時期に起こっている事象である 古墳時代前期後半のこの棺の変化は 石棺を覆う竪穴式石室の構造にも大きな変容を起こすが それと連動するように木棺を粘土で覆う粘土槨や木棺直葬の埋葬施設が出現し 首長層の埋葬施設に多様な形態が現れてくる 古墳時代前期後半に首長層に採用された大形加工石材を使用した石棺には 組合式石棺と刳抜式石棺がある 古墳時代前期後半に起こった竪穴式石室の構造の変化の現象を 竪穴式石室の第 1 次変容と捉えておきたい 畿内地域の前期後半には 何故か 刳抜式石棺は客体しか存在せず 主流は奈良県佐紀陵山古墳や奈良県新山古墳 奈良県櫛山古墳 大阪府松岳山古墳 京都府妙見山古墳に採用される組合式石棺である これらの組合式石棺の構造には 松岳山タイプと妙見山タイプという二つのタイプが存在する 前者は 櫛山古墳 松岳山古墳 筑後地域の佐賀県谷口古墳 吉備地域の岡山県花光寺山古墳である 後者は 新山古墳 妙見山古墳 山梨県大丸山古墳である 松岳山タイプの組合式石棺は 古墳時代中期の古市古墳群 百舌鳥古墳群の倭国王墓に採用される兵庫県の播磨地域のいわゆる竜山石を使用した典型的な長持形石棺の祖形と評価 ( 小林 1957) されている 松岳山タイプの埋葬施設の大形加工石材を使用した石棺を覆う槨的な竪穴式石室においても 三者の間には 微妙な差異がある 妙見山タイプは 組合式石棺の蓋石の上に竪穴式石室状の空間を造った複雑な構造の埋葬施設である 試行錯誤の結果であろう このタイプは その後の中期古墳の埋葬施設としては展開していかない 佐紀陵山古墳の埋葬施設はきわめて特異であり 前二者のタイプの中には収まりきれない構造である 現在のところこの例しか知られていないので 佐紀陵山タイプの埋葬施設の呼称は控えておきたい しかし この古墳の埋葬施設の評価を的確に把握しないと 前二者のタイプの埋葬施設の評価は的確に把握できないところがある また 大和盆地北部の佐紀古墳群の 200m を超える大形古 18

32 墳で埋葬施設が判っているの佐紀陵山古墳のみである このような特異な組合式石棺と石室を採用する古墳は 規模も大きく有力な首長墳であり その中には倭国王墓と目される超大形古墳も含まれている 前期後半に起こったこの埋葬施設の変化は 古墳時代の倭国内では 最高位の棺が大形加工石材を使用した組合式石棺であることは 古墳の規模から明らかであろう この埋葬施設の変化は 何を物語っているのであろう 政権交替である 初期ヤマト王権は 弥生時代終末期に 有力な墳丘墓を築いていた政治集団が連合した初期国家 ( 都出 1991) であると捉えられる とりあえず 大和盆地東南部にの政治勢力の地域を中心にするということを定め 連合したのである 当時 東アジアの政治的動乱に対処するために採った処置である その中心的な勢力は 大和地域 三河 山城 摂津の畿内諸地域の政治勢力がつくりあげた政治形態である 合意という基での中心形成であった その時期は三世紀の第 4 四半期と把握している それから 100 年近くも経過すると 様々な矛盾が生じてくる このときに起こったことが 大和盆地東南部から北部への 200m を超える大形前方後円墳の移動である 竪穴式石室の第 2 次変容は 播磨地域の竜山石を使用した典型的な長持形石棺の出現であり 幅広型の竪穴式石室に変化している その初現は 現在判明している限り 津堂城山古墳である 古墳時代中期前半に起こったことである この現象を竪穴式石室の第 2 次変容と捉えている 幅広型の竪穴式石室 ( 小林 1941) の出現は 縄懸突起をもつ竜山石製の長持形石棺が大形前方後円墳に採用される時期の現象と捉えられる 第 1 次変容も第 2 次変容も 大形前方後円墳に採用されている埋葬施設であり それを契機として地域政権の有力首長墳等に波及していく この時期 播磨地域の中規模古墳では 前期以来伝統的な長大型の竪穴式石室を採用しており 中期後半まで継続している現象が認められる ( 山本 2008) 播磨地域以外でも認められる現象である 竪穴式石室の第 3 次変容は 古墳時代中期後半の出来事である この時期にも中期前半以来から継続して 最高位の棺は 大王の棺ともいわれる長持形石棺 ( 組合式石棺 ) であり 大形前方後円墳に採用される埋葬施設である 第 3 次変容の内容は 竪穴式石室がの中小規模の古墳にも採用されていることである この時期の竪穴式石室は 播磨地域の宮山古墳や印南 2 号墳やカンス塚古墳に採用されている幅広の竪穴式石室であり これら3 者の竪穴式石室の起源は 朝鮮半島の洛東川流域にその淵源があると見られる 次に 第 1 次から第 3における竪穴式石室の変容の過程を検討していきたい 1. 古墳時代前期後半における竪穴式石室の第 1 次変容第 1 次の変容は 墳丘長 200m を超える超大形前方後円墳に採用される埋葬施設の構造である 極めて特異な埋葬施設を採用している佐紀陵山古墳の埋葬施設の登場から始まっていると捉えてい 19

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35 たが 副葬品目の組合せの様相をみれば そう単純な思考の中では納まりきれないところがある しかし この佐紀古墳群に 200m 級の前方後円墳が 大和盆地東南部の広義の大和古墳群から佐紀古墳群に移動してから 佐紀陵山古墳に採用された埋葬施設に連動して 各地方に石棺が出現することは認めてよいであろう 畿内地域では 刳抜式木棺 ( 割竹形木棺 ) から組合式石棺が主流になる しかし 畿内地域外の吉備 丹後 讃岐 肥後等の地域では 刳抜式石棺 ( 割竹形 舟形石棺 ) が盛行する 棺形態としては 古墳前期の刳抜式木棺の系統を踏襲したのが 畿内地域以外であり 畿内地域では新たな組合式石棺を創出している 組合式石棺をみれば 畿内地域では 佐紀陵山古墳 妙見山古墳 松岳山古墳 新山古墳 櫛山古墳であり 畿外地域以外では大丸山古墳 谷口古墳の7 古墳である これらの特異な棺 槨をもつ7 古墳の墳形と規模をみれば 次ぎのようなことが指摘できる 最大規模をもつ古墳は 207m の佐紀陵山古墳であり 倭国王墓とも目されている古墳である 次ぎの墳形 規模の古墳は 大和地域では新山古墳 ( 前方後方墳 126m) 櫛山古墳( 双方中円墳 150m) であり 山城地域では妙見山古墳 ( 前方後円墳 114m) であり 河内地域では松岳山古墳 ( 前方後円墳 130m) である 大形石材を加工した組合式石棺をもつ古墳で畿内地域を離れて知られているのは 九州地方の谷口古墳 ( 前方後円墳 77m) であり 関東地方の山梨県大丸山古墳 ( 前方後円墳 99m 或いは 120 m) である 前方後円墳が 7 基の内 5 基を占めており 前方後方墳が1 基 双方中円墳 1 基という構成である 松岳山古墳の石棺は 小林行雄が長持形石棺の祖形であると論述し 櫛山古墳は長持形石棺と報告されている 一方 吉備 讃岐 阿波 肥後 丹後 越前等の中部瀬戸内海地域では 刳抜式石棺が盛行する 吉備地域では 新庄天神山古墳 鶴山丸山古墳であり 讃岐地域では快天山古墳 岩崎山 4 号墳などある 阿波地域では大代古墳である 中部瀬戸内海地域以外では 九州地方の熊本県向野田古墳や東海地方の静岡県三池平古墳にも刳抜式石棺を採用されている 佐紀陵山古墳の構築前後には 不思議な現象が現出している 佐紀陵山古墳はもちろんであるが 馬見古墳群の新山古墳であり 佐味田宝塚古墳である この副葬品目は特殊である この現象が 備前地域の鶴山丸山古墳にもみられる おそらく その前に築造されている紫金山古墳の副葬品のあり方も特殊である 鏡の副葬品目の多さに表わされている 妙見山古墳後円部石室は 墳頂平坦面中央から埋葬施設の構築がはじめられる その下部から粘土層 小円礫層 粘土層と順に基礎の整備を行い さらにその上に小円礫層を配し その中央に石棺底石に対応するかたちで板石を敷き その上にまた小円礫層を作り その上に石棺底石を設置するということが報文 ( 梅原 1955) から読み取れるのである そして 石棺を組み上げ 石棺に覆うかたちで板石を用いて竪穴式石室を構築している 控え積みは小円礫で構成する 棺先置型の埋葬 22

36 施設であることは明らかであろう さらにこの埋葬施設の構造を複雑にしているのは 石棺両小口の副室の天井石を壁体基礎として 石棺蓋の上部に高さ約 70cm の竪穴式石室状の空間を築くということにある この構造は奈良県佐紀古墳群にあるヒバス媛古墳の埋葬施設との関係を考えないと理解不可能な構造である 妙見山古墳のこのような竪穴式石室の基底部の構造は 長大型の典型的な竪穴式石室における粘土棺床の伝統がのこっており その遺制とみることが当を得ているのであろう 両古墳ともおそらく墓壙を掘り込む手法ではなく 奈良県メスリ山古墳後円部石室と同様な構築墓壙 ( 和田 1989) の手法で埋葬施設を築いているのであろう 山梨県大丸山古墳の埋葬施設の構造の特徴は 組合式石棺の蓋石上に壁体の基礎を置くという竪穴式石室状の空間を造り出していることにある その構造は妙見山古墳と著しく類似している 遠く離れた関東地方の甲斐地域でこのような現象がなぜ起こるのであろう そこには 埋葬施設における当時の首長層の盟約にも似た黙契が存在しているとみるほかはないと筆者は捉えている 大阪府松岳山古墳は墳頂平坦面を若干掘り窪め そこに粘土が敷かれ 粘土上に古式の組合式の長持形石棺を設置する そして 石棺に沿って板石を組み上げ 竪穴式石室状の石室を造る 石棺を覆う板石を使用した構造は積石塚墳のごとき様相を呈している 松岳山古墳の報告では 石棺底板の下部の構造は前述している粘土が敷かれていること以上の情報は得られていない 松岳山古墳の竪穴式石室は 長側石に直接接するかたちで板石を積み上げている構造である 短側石の小口にも同じ手法が採られており 石棺の突起にあわせて板石を積み上げる 結果として 石棺の両短側石には小空間が造りざされることになる 河内王権が成立し 古墳時代中期の大王の棺である長持形石棺を採用されだす時期の地域王墓の古墳と捉えられる 奈良県室大墓古墳 京都府久津川車塚古墳に引き継がれる構造である この松岳山古墳の石室状の構造は 石棺周囲に積み石を築いた観を呈する構造である 石棺の短側石の外側少し離れ位置の南北に有孔立石と報告書 ( 小林 1957) 記載されて立石が墳頂に露出していた 松岳山古墳の有孔立石と最も類似した埋葬施設の構造は 奈良県佐紀陵山古墳の埋葬施設の構造である 佐紀陵山古墳の埋葬施設の構造は 竪穴式石室的な要素と大型の組合式石棺的な要素を複合したような特異な埋葬施設の構造である 大和盆地東南部の広義の大和古墳群から大和盆地の北部の佐紀古墳群 200m を前後する大形前方後円墳が移動する時期の埋葬施設の変革の時期の特異な埋葬施設の構造と捉えられる この現象は前述しているように 畿内地域にとどまるものではなく 関東地域までおよんでいるのである このように 特異な構造をもつ埋葬施設は 典型的な長持形石棺が大王の棺として採用される以前の様相で古墳の埋葬様式の変革期に伴う特異な現象が現出していると理解している 畿内地域内以外での 連合政権である初期ヤマト王権にとっては 主要な地域である吉備地域や丹後地域では 刳抜式石棺と特異な竪穴式石室を採用している 讃岐地域 阿波地域 肥後地域では刳抜式石棺を棺として採用している 古墳時代前期後半の吉備地域においても 石棺を納めた竪穴式石室が知られている 23

37 吉備地域の特異な棺と特異な槨を埋葬施設にしている古墳を検討しておきたい 岡山県新庄天神山古墳の埋葬施設は 幅 1.1m の竪穴式石室に刳抜式石棺を納めているが この石棺には棺蓋がなく 石室の天井石が石棺の蓋石を兼ねているという特異な構造の埋葬施設である 石棺内には砂岩質のきわめて精巧な別造りの石枕が置かれていた 31 面の鏡を副葬していた岡山県鶴山丸山古墳 ( 造出付円墳 墳長約 68m) の竪穴式石室 ( 長さ 4.0m 幅 1.5m 高さ 1.2m) には 長さ 3.8m の舟形石棺が納められていた この石棺材は讃岐の火山石ではないかという見解があり その竪穴式石室の構造には 内壁をなす石積みの外方にも相似た割石積みが幾重にも続いている ( 梅原 1983) と叙述されている 蓋部の両小口には半環状突起が造り出されている このような半環状突起をもつ舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製の石棺に採用 ( 高木 ) されていることが多い 石棺の蓋石には 日輪文 と 鏡文 ともみられる彫刻が施されている特異な型式のものである 副葬品の配置も独特のところがあり 副葬品の配置の研究においても看過できないところがある 備中地域であるが吉備地域最大の前方後円墳である岡山県造山古墳が阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式の長持形石棺が墳丘上にある また 岡山県千足古墳は肥後地域の初期横穴式石室の特徴を示す埋葬施設をもつことでよく知られており 吉備地域が九州との繫がりが深いことが知られる 2. 竪穴式石室の第 2 次変容竜山石製の典型的な長持形石棺が製作される古墳時代中期の時期に現れる竪穴式石室の変化である しかし 古市古墳群の津堂城山古墳と百舌鳥古墳群の乳ノ岡古墳との先後関係が問題になる 乳ノ岡古墳の棺である和泉砂岩製の長持形石棺の蓋石の上部は 平坦である 石棺は石室を伴わない直葬である この石棺は 松岳山古墳の系譜を引くものであり 備前地域の花光寺山古墳も同系統である 墳長約 90m の前方後円墳である岡山県花光寺山古墳は古式の長持形石棺を直葬しており 長持形石棺の直葬としては古い例である この石棺の両短辺には小副室を造っている 備前地域に起こった埋葬施設の変化の特異な構造が 歴史的な意味において何を示しているのであろうということは今後の検討課題であるが 古墳時代前期後半に畿内中央政権の大王墓とも目される巨大前方後円墳である首長墳が 奈良県東南部の 広義の大和古墳群 から奈良県北部の佐紀古墳群に移動した政権交替とも関連する事象とであろうことは 前述した松岳山古墳や妙見山古墳の関係からみて当を得たものであろうということは充分に可能性が高いことが窺われるのである なお 備前地域の三古墳は近接して築造されており 新庄天神山古 鶴山丸山古墳 花光寺山古墳と変遷したと捉えられる 典型的な長持形石棺が採用される古墳時代中期の竪穴式石室は 前期古墳の竪穴式石室と比較すれば大きな変容が認められる 基本的には 石棺の上半部を覆うにすぎない構造に変化していると捉えられる なお 石棺を安置してから後に石室を構築しているという点では前期古墳の長大型竪穴式石室に通じる 奈良県室宮山古墳後円部の南石室では 墳頂平坦面を僅かにに掘り窪め そこに長持形石棺を置 24

38 き 石棺を支えるために その下半部の周りを拳大の割石で 45 度の傾斜もつように固めて その高さまで土砂を埋め さらにその上に石室の四壁を構築して天井石を覆う構造である 墓壙は確認されておらず 石室外側の壁体がきっちりとした面を形成していることから この石室は墳頂平坦面から埋葬施設を構築していく構築墓壙 ( 和田 1989) と捉えられる 京都府久津川車塚古墳の埋葬施設は 長持形石棺を覆うことさえしなくなり 石棺の両短側壁の外側に副室用の小石室を設けるために扁平な割石を積み上げるという構造に変化している また 兵庫県玉丘古墳後円部や同県壇場山古墳のように石棺を直葬した埋葬法があることも知られている いままで検討してきた竪穴式石室は 棺を設置してから石室を築くという古墳時代前期以来の伝統的な埋葬手法であるが 古墳時代中期後半前後に至ると 竪穴式石室を築いた後に棺を安置するという埋葬方法が新しく出現している 3. 竪穴式石室の第 3 次変容兵庫県宮山古墳の第 2 主体の竪穴式石室は 長さ 3.2m 幅 1.2m の割石積みの竪穴式石室で四壁構築後に石室床面に厚さ 0.1m ほどの小円礫 ( 川原石 ) を敷く詰め棺床としている 棺は鉄製の鎹を使用した木棺であり 鉄製の鎹の使用例としては古い例である 同宮山古墳の第 1 3 主体も同じ埋葬法である ほかに 兵庫県印南 2 号墳や同県カンス塚古墳も同様な竪穴式石室が知られている これらの出現については 旧来の棺先置型 ( 和田 1989) の竪穴式石室からの変化と捉えるのは困難であり 朝鮮半島の伽耶地域の竪穴式石室と酷似していることから その影響のもとで出現 ( 白石 1985) している可能性が高いと考えられる 25

39 第 3 章畿内地域の竪穴式石室の研究 古墳時代前期の政治動向 はじめに古墳はその成立当初から西日本各地において 墳形 棺形態と槨構造から副葬品に至るまである一定の画一的な構成要素をもって出現している そこには 古墳祭式という共通の支配イデオロギーに基づき 弥生時代後期後半以降成長してきた地域的政治集団の首長層相互間の広域的な政治的関係の成立に基づくものと把握せざるを得ない 古墳の成立過程を弥生時代の墓制の中に求めて 多くの研究者による精力的な調査 研究が行なわれてきた その結果 弥生時代後期後半の首長墓である墳丘墓の中に 古墳を成立させる諸要素が醸成されつつあることが解明されてきている しかし 弥生墳丘墓と出現期古墳との間には 現象的にもイデオロギー的にも格差が存在していること否定できない 弥生墳丘墓は各地域において 独自な墳形や埋葬施設 祭祀土器などを創りだし 有力な首長墓を成立させているが 地域性の中に閉じられている たとえば 四隅突出型墳丘墓と呼称される墓制が 出雲 伯耆 因幡を中心とする山陰地域ではかなり広範囲に分布している この地域の弥生時代後期後半から終末期にかけての最高位の埋葬施設は木槨墓である その木槨の棺は組合式木棺 ( 箱形木棺 ) である そして この地域の中小首長墓は組合式木棺 ( 箱形木棺 ) を直葬している埋葬施設を採用しているという共通性をもつが この地域の中での出来事である また この三地域は土器様式も共通しており 山陰系土器と通称されている 山陰地域の丹後地域や但馬地域では 四隅突出型墳丘墓は採用されいない 特に丹後地域では 大形の 丹後王墓 とも称される大形方形墳丘墓が発達しており 埋葬施設では刳抜式木棺とみられる舟形木棺が きわめて規模の大きい墓壙の中に直葬されている そして 北部九州地域を除く西日本のなかでは この時期 武器型鉄器の副葬が目立つ地域である この丹後 但馬の両地域では 弥生時代後期後半から終末期にかけて 丹後 但馬系土器という土器様式を共有しており 同じ文化基盤をもって生活していることがわかっている しかし この文化も地域性の中に閉じられている 吉備地域では 楯築墳丘墓の墳丘長 80m 前後の双方中円形墳丘墓が築かれている 弥生時代後期後半の所産であり この時期列島内では最大の規模である 埋葬施設は山陰地域の島根県西谷 3 号四隅突出型墳丘墓と同じ形態の木槨墓を採用しており 棺は刳抜式木棺 ( 箱形木棺 ) である 山陰地域と異なるところは 岡山県黒宮大塚墳丘墓が方形墳丘墓であり 竪穴式石室を採用していることである しかし 吉備地域の首長墓である弥生墳丘墓には 特殊器台土器や特殊壺形土器という大形祭器を葬送儀礼の中で使用しているという点では共通している これも 吉備地域のなかの出来事であり 弥生時代後期後半の時期には拡散していない 他の地域でも 独自な地域性を発現している こうした点で 古墳のもつ画一性とは著しく異なっている 26

40 しかし 弥生墳丘墓の諸現象を基盤とした各地域の政治集団間の政治的関係な同盟 連合の成立を媒介として 形式的な飛躍が行われ 画一化 定型化した古墳が成立したと解される 政治的関係とは 大和東南部に築造された大形古墳の存在から 畿内中枢部を盟主とする政権が成立し それを核とした部族 部族連合的な身分秩序の成立 ( 近藤 1977) あるいは 大和地域を盟主とする畿内諸地域の政治的結合体制 ( 山尾 1970) と解される この論考では 古墳成立当初から有力首長の埋葬施設として考案された竪穴式石室の構造に首座において 畿内諸地域の政治的な関係が論じていきたい 中でも政治的関係を中心に検討を行い 併せて墳形規模の差が埋葬施設の構造にも質的な差として 古墳成立当初から表現されていことにも叙述していきたい 第 1 節竪穴式石室の基底部構造の機能とその意義前期古墳における竪穴式石室の基底部構造が研究の対象として注意され始めたのは 1964 年の北野耕平の論稿 ( 北野 1964) からではないかと考えられる それまでにも古墳前期の竪穴式石室の構造を詳細に解明したいくつかの調査例がある 筆者も古墳前期の竪穴式石室の構造を論じるのに際し 基底部構造を明らかにすることが 古墳時代の首長間の政治動向を探る有効な手段であろうと考えている まず 基底部構造の機能や設置目的について これまでの考え方を整理しておきたい 1964 年に 北野耕平は河内地域の玉手山と松岡山の両古墳群の発掘調査で得られた知見に基づき 竪穴式石室の基底部構造が類型化できることを指摘された その論稿の中で 排水溝の掘削と礫石の充填を必備とした基底部構造の採用は 機能的な性質から考えて墳丘の内部施設に対する排湿を考慮してのことであるとされる その発生の契機については将来の研究の課題であるとされた その後 北野は再び 石室基底部構造諸類型の地域的分布を検討し その成立を畿内各地で多元的に発展するもの ( 北野 1967) であろうと捉えられた その論拠として 基底部構造が 構築されたのちは全く人目に触れる機会がない ということから基底部構造の諸類型の成立は 複雑な墓制の一体系として厳格に踏襲される必要 のために 宗教的加飾 を要求される 秘伝的要素 が強く働いていると考えられた すなわち 基底部構造の発生契機を儀礼的な行為の必要性に基づくものと理解されている 同年 勝部明生は前期古墳の木棺の観察を通じて 基底部構造に意義を遺体 木棺の保護のための排水施設と理解 ( 勝部 1967) された 1973 年に 前期古墳の竪穴式石室構造について という論考 ( 田中 1973) を発表された田中勝弘は 勝部の見解を踏襲し 基底部構造は木棺 遺体を保護するための耐湿 排水に対する工夫から生じたものとされる 1976 年に春成秀爾は 古墳とは本来即位式の場であるという理解のもとで竪穴式石室内における祭式過程を復原する そこでは壁体構築以前の木棺内で 亡き首長と仮首長との間に 首長霊継承の交感の秘儀 が実修されたと想定されている 木棺を安置した基底部構造上で 首長霊継承の重要な儀礼行為が実修されたという今までにない斬新な復原 ( 春成 1976) を試みられた 27

41 以上のような研究史から 墓壙底の凹溝および礫石 粘土棺床から構成される石室基底部構造が 排水機能をもつものであろうとすることでは意見の一致をみている ただ 排水機能の果たす目的が 木棺 遺体の保護であるという考え方と 首長霊が継承される祭式の場であり 式場整備の施設であるという考え方の二つに分かれている 筆者は後者の考えに立つもので 埋葬施設の構築過程の事例に沿って検討してみたい まず 基本的な竪穴式石室の構築過程を復原すると (1) 墓壙の掘削 (2) 基底部の構築 ( 註 1) (3) 木棺安置 (4) 壁体部の構築 (5) 天井石部の構築 (6) 墓壙埋土という順に行われている なお 墓壙掘削以前に墳丘は完成していなければならない 以前とは首長の在世中に築かれていたと捉えている 古墳の選地場所の決定 山林伐採 山焼きから一定の設計に基づいた墳丘の築成 膨大な量を必要とする葺石の貼付けなどは 首長の死に際して始めていたら数年以上の歳月が必要であろう 本来 古墳は首長権継承儀礼の場として出現していたとすれば このような事態は極力さけなければならない ( 註 2) また 前期前方後円墳の埋葬施設の墓壙は盛土上から掘削されることが比較的多い 京都府寺戸大塚古墳後円部竪穴式石室 ( 近藤 都出 1971) の墓壙は二段に掘られており 上段の規模が長さ 10.6m 幅 9.1m であり 下段の規模が長さ 9.0m 幅 5.0m であり 墓壙上面から墓壙下底までの深さが 3.7m にも達するのである このように深くて傾斜のきつい墓壙を掘るためには 墳丘の完成後 数年以上が経過していなければならないであろう ( 註 3) (6) の墓壙埋土後に方形壇を造り 方形壇を囲堯する埴輪列が樹立される 以上が埋葬施設の構築過程であり ある段階ごとに儀礼行為の痕跡がたどれると捉えているが ここでは基底部構造を中心に検討を行っていきたい 調査例から 棺の安置と副葬品の納置が壁体構築以前の所産であるということが 副葬品の出土状態から確かめられている ( 註 4) 埋葬施設として整美な竪穴式石室を築いている兵庫県丸山 1 号墳後円部南石室 ( 山本 井守 1977) での棺外副葬品は 棺床と壁体壁面の僅かな隙間に深く埋もれていた状態で検出されている これは明らかに木棺を安置し それとほぼ同時に棺内と棺外に副葬が行われたことを示している また 大阪府将軍山古墳でも鉄製品の一部が 粘土棺床と壁体壁面の間に挟まって出土したと報告 ( 堅田 1968) されている 以上の事実は 春成が想定した埋葬施設内で執り行われる首長霊継承時点の状況と合致するところであり 氏の棺安置と壁体構築における関係の把握の正しさを示しているものにほかならない また 石野博信も石室横断面の観察から 壁体構築に先立ち木棺を安置した ( 石野 1977) と考えている 古墳の最古グループのひとつに数えられる京都府元稲荷古墳 ( 西谷 1964) は 墓壙掘削の時点でも三回の作業工程をもつ その結果 墓壙底は中央に長方形の基台 墓壙底四周に排水溝の機能をもつ凹溝が造り出される 次に基台上に粘土棺床を設けるのであるが 粘土の設置は三回の工程に分けて実施され その工程ごとに朱彩が施されている 粘土を設置する以前の基台上に朱彩が施されているから 朱彩は四回にわたって行われたことになる また 元稲荷古墳の基底部では 粘土設置の第一工程後に板石を敷きならべている 粘土棺床設 28

42 営が完了した後に 棺床周囲に礫石を充填する この礫石の充填も二度に分けておこなう 一度目の礫石充填後に 木棺を固定するためと考えられる断面三角形を呈する粘土帯を置く この粘土帯の上下にも朱彩を施す 以上の基底部の構造が完了した時点で木棺を安置し 首長霊継承儀礼をおこなうものと考えられる その後に二度目の礫石の充填が行われるのであるが これは竪穴式石室の壁体基礎構築のための施設と捉えられる 最近 発掘調査され 古式の三角縁神獣鏡 33 面も副葬されていた奈良県黒塚古墳の基底部でも粘土棺床設置に際し朱彩を何工程にも分けて丁寧に行われていることが確かめられている 元稲荷古墳後円部石室の基底部構造がこのように複雑な構造であり 以上のように入念な作業のもとで構築されているのは 木棺 遺体の保護という観念のみに基づくものではなく 石室基底部で執り行われる祭式観念が古墳の出現当初から形成されていることをものがたり そうしてこのような基底部の採用はその技術的表現に他ならいものと考えられる なお 朱彩をこのように多用する目的は 式場整備の一環である 地鎮の祭儀 ( 西谷 1964) 的な意味合いを付与することが妥当であろう また 熊本県向野田古墳は 舟形石棺を内蔵する竪穴式石室 ( 富樫 1978) であるが 墓壙底に礫石を充填し 粘土棺床を設ける畿内地域の山城地域や河内地域と同様な基底部構造を採用している 石棺は腐朽する材ではないのであるから このことは 礫石等を使用する基底部構造が棺の保護のための排水施設でないことを如実に表現していると理解できる ほかに 次節で竪穴式石室基底部構造 A 型式と類型化する奈良県桜井茶臼山古墳が墓壙底に板石を載置するのみで 礫石を使用していないことも傍証のひとつとなるであろう また 各地域の有力首長を葬ったとみられる竪穴式石室基底部構造後の墓壙底幅の規模をみると 吉備地域の岡山県金蔵山古墳中央石室の 7.2m を始め 摂津地域の大阪府弁天山 C1 号墳後円部石室の 5.2m 同将軍山古墳の 4.5m 山城地域の京都府元稲荷古墳石室の 4.1m 同寺戸大塚古墳後円部石室の 3.9m という数値示し そこに広い空間が必要であったことが窺える こうして検討してくると 基底部構造の礫石等を付設する施設は 木棺 遺体の保護を主目的とするものではなく そこで執り行われる首長霊継承儀礼の場として 周囲の整備を目的としたものであるとあると捉えることが整合的であり 合理的であるといえるであろう 基底部構造に礫石を多量に使用している例が多いのは 式場整備とともに祭式中に壙内に侵入する水 あるいは 壙内で使用した水 ( 註 5) を下部あるいは壙外に導くための排水機能を具備した 29

43 ものであろう 首長霊継承儀礼の具体的な仕儀は 石室基底部の構造からは僅かに看取 ( 註 6) できるのみで その詳細を復原することは困難である それを探る方法は 埴輪に形象化された祭式の復原を通して 古墳の首長権継承儀礼がのちの大嘗祭と関係付けて論述された 埴輪の論理 ( 水野 ) や文献から殯宮儀礼を通して皇位継承の次第を詳述された論稿 ( 和田 1969) などに求めることができるであろう 第 2 節竪穴式石室基底部構造の類型と変遷基底部構造は竪穴式石室を構成する一要素である 竪穴式石室はほかにも平面形態 石室横断面の形状を規制する壁体部および控え積みの構造 天井部の構造 使用する石材の種類 ( 註 7) 等を踏まえて 総合的に類型化する必要がある しかし 検討してきたごとく 竪穴式石室基底部で執り行われる儀礼は 古墳祭式 の中で重要な位置を占める そうして 埋葬施設構築後における竪穴式石室の基底部の構造は 墳形 埴輪などとは異なり 全く人目に触れる機会がなく またその地域から他の地域に移動する ( 北野 1967) ことのないものである このような特質をもつ石室基底部構造の型式が 地域を越えて類型化できれば 極めて重要な意味をもつと捉えざるを得ない その意味するところは石室基底部で執り行われる首長霊継承儀礼に立会い 儀礼次第を共有化していたと把握できる そこには 共通のイデオロギーに基づく思想があり 古墳に埋葬される各首長相互間の親疎な政治的な動向が表現されているものと捉えることができるであろう 先学の成果 ( 註 8) に多くを負った前述したような認識のもとで 畿内地域における竪穴式石室基底部の諸型式を検討していきたい 畿内地域の長大型竪穴式石室は 粘土棺床とその四周や下部に礫石や板石する基底部がほとんどであり その点については共通している しかし 細部の構造については 地域的特性が認められ 類型化できる ここでは 第 2 章第 2 節で分類した長大型 Ⅰ-a 群の基底部構造の諸型式の歴史的意義を検討していきたい 1. A 型式墓壙底に板石を使用することが 主要な基底部構造を採用している石室を A 型式とする A 型式は粘土棺床の下部のみに板石を敷くものはこの型式と捉えていず 墓壙底の全面にわたって板石を敷く型式と把握している この型式は 従来 特異な型式 あるいは 非類型的な基底部構造 ( 田中 1973) と捉えられていたものであるが この型式の古墳の内容に一連の共通する要素が指摘できる また 他の型式の基底部構造にその影響が看取できる故に A 型式としてその構造をみていきたい その典型例の初現は どうも吉備地域にあると捉えて方がいい状況が看取される その古墳は 吉備地域の岡山県浦間茶臼山古墳 ( 前方後円墳 墳長 130m) の後円部石室である この石室は平坦な墓壙底全面に僅か 5cm ばかりの礫石を介在させ 板石を敷き詰め 板石上の中央に粘土棺床を設置している そして 粘土棺床と墓壙壁との間に棺床肩部のレベルまで角礫と粘土をつめ基底部を 30

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45 形成している 壁体の基礎は粘土上にある 石室は大きく破壊されていたが 裏込めの礫石の位置から測って 高さは 1.7m と推定されている 岡山県七つク ロ 1 号墳 ( 前方後方墳 墳長 45m) もこの型式と捉えてもいい要素をもつが 墓壙底が僅かに U 字形に浅く掘り窪め 墓壙底ほぼ全面に板石を直接設置している構造であり 奈良県桜井茶臼山古墳後円部石室 ( 前方後円墳 墳長 207m) と同じように複合型式とみることもできるが 墳形と墳丘規模が違いすぎる 七つク ロ 1 号墳が吉備地域に築かれた古墳であること 吉備地域にある弥生墳丘墓の短小型の石室である岡山県金敷寺裏山墳丘墓 ( 長方形墓 長辺 11m) や岡山県宮山墳丘墓 ( 前方後円形墓 墳丘長 39m) に墓壙底中央を U 字形に掘り窪める形態や都月 1 号墳 ( 長方形墓 長辺 20m) のように墓壙底を逆台形に掘り込む類型があることを考慮して E 1 型式と分類しているが A 型式と捉えても違和感はない 畿内地域では 桜井茶臼山古墳後円部石室 ( 上田 中村 1961) 近江地域の滋賀県瓢箪山古墳後円部中央石室 ( 梅原 1938) において その構造の詳細が判明しており その特徴をよく把握できる 桜井茶臼山古墳石後円部石室は 墓壙底中央を若干掘り窪め 墓壙底全面に直接板石を敷き並べている 板石の上下には礫石を使用せず 板石上に直接粘土棺床を設ける ( 註 9) 構造である 瓢箪山古墳中央石室は平坦な墓壙底の棺床下部にあたる中央部を除いて 板石を敷き並べ つぎにその板石間の中央部に礫石を充填し さらにその上に板石を載置する 板石上の全面に粘土を貼り 中央部に粘土棺床を設置する構造である 両古墳の間には構造上に微妙な差異があり 瓢箪山古墳石室の方が複雑な様相を示しおり 後出的と捉えられる 筒型銅器を副葬していることから前期後葉の築造であり 整合している 桜井茶臼山古墳石室の壁体部の基礎は板石であるが 瓢箪山古墳中央石室の壁体部の基礎は粘土である B 型式 C 型式 D 型式の竪穴式石室 ( 註 10) における壁体部の基礎は 礫石上にあることが多数である A 型式の石室壁体部の基礎に礫石を使用せず 板石あるいは粘土上に基礎をおくことは この類型の竪穴式石室は定型化する以前の古式の様相をとどめる基底部構造と捉えるべきかもれない 次に 従来 この型式の範疇で捉えられることの多い京都府椿井大塚山古墳後円部石室 ( 梅原 1964) 同府長法寺南原古墳後円部石室( 梅原 1936 都出編 1992) を検討していく 椿井大塚山古墳石室は墓壙底に板石を二重に敷きつめ その上に砂礫を介在さして礫石を置く 粘土棺床はこの礫石の直上に設ける 壁体部と基底部の関係をみると 壁体部の基礎は桜井茶臼山古墳と同様板石にある 調査は墓壙底全面に及んでいないため 墓壙全面に板石が使用されていたか否かは判然としないが 壁体部と基底部の関係から前者と推定したい 長法寺南原古墳石室は粘土棺床の下部を方形に囲堯する一列の板石を並べ 板石と壁体の間に礫石を充填している このような粘土棺床下部のみに配列される板石列は B 型式の元稲荷古墳後円部石室 大阪府玉手山 5 号墳 C 型式の寺戸大塚古墳後円部石室にも認められ ひとつの型式における固有の特徴とはいえない 長法寺南原古墳石室の壁体の基礎は墓壙底に置いている 以上から 32

46 判断すると 椿井大塚山古墳石室は A 型の範疇で捉えることが可能な要素をもち 長法寺南原古墳はこの型式に含めることを保留せざるを得ない A 型式の竪穴式石室の高さを検討すると 桜井茶臼山古墳石室は石室を高くするために壁体部上部に若干加工した大型板石を積み上げるといった手法を採用しており また椿井大塚山古墳石室も 2.8m という竪穴式石室では最大の高さをもつ この型式の基底部構造の石室は概して石室を高くすることに意を注いでいることが指摘できる ( 註 11) また 前期古墳の中でも古い時期に編年される古墳の竪穴式石室にこの傾向がみられる その意味するところは現段階では明らかでない この A 型式の古墳は 前期古墳の中では 150m を超える大形前方後円墳に採用されており 中でも大王クラスの墳丘規模をもつ古墳が含まれている このことは石室の高さとともに この型式の特質といえるであろう 副葬品 墳丘形態等からみて出現期古墳の浦間茶臼山古墳 七つク ロ 1 号墳 椿井大塚山古墳があり 前期前半の桜井茶臼山古墳 前期後半の瓢箪山古墳と継続されて構築されている 2. B 型式墓壙底中央に基台と呼ばれる細長い長方形の壇を造り出し 基台の四周の凹部に礫石を充填する基底部構造をもつものを畿内石室 B 型式と分類する B 型式は細部の特徴から3 小型式に分けて捉えることができる 北野の分類するところは 墓壙底四周に周溝を造り出す型式を B 1 型式 周溝を造り出さないものを B 2 型式とする B 3 型式は 今回 新しく設定した型式であり 少し複雑で説明を要する 奈良県立橿原考古学研究所が大和地域東南部にある広義の大和古墳群を 1993~2000 年にかけて行われた発掘調査の成果によって明確になってきた型式である それまでにも 讃岐地域の香川県丸井古墳第 2 石室 ( 大山 松本ほか 1983) や播磨地域の兵庫県権現山 51 号墳 ( 近藤編 1991) でこの型式の存在は知られていたが その位置づけがいまひとつ明確に捉えられず 類型化がなされていなかった その後 近江地域の滋賀県雪野山古墳後円部石室 ( 福永 杉井ほか 1996) 吉備の美作地域の岡山県日上天王山古墳 ( 近藤編 1977) でもこの型式であることが明らかになり 以外と地域性を超えて広い分布をもつ型式である この B 3 型式は 墓壙底中央にきわめて低い基台を造り出す基底部構造をもつ竪穴式石室である その低い基台の上に設置する粘土棺床や壁体基礎が粘土にあるのか 礫石にあるのかによって二つ細分することも可能である 大和地域の奈良県中山大塚古墳後円部石室 ( 橿考研編 1997) 奈良県小泉大塚古墳後円部石室( 橿考研編 1997) は低い基台状施設の上に礫石を介在させることなく粘土棺床を設置する 同じく 大和地域の奈良県黒塚古墳後円部石室 ( 橿考研編 1999) 同県下池山古墳後方部石室( 橿考研編 1997) は低い基台状施設の直上に厚くない礫石を敷き 礫石の上に粘土棺床を設置する構造である 後者は畿内石室 C 型式の礫石式の範疇に捉えて型式分類することも可能であるが 広義の大和古墳群においては 古墳時代前期の中で 中山大塚古墳 黒塚古墳 下池山古墳と順次築造されてい 33

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48 るということの地域的特性を分離すれば見失うことになり 得策でないであろう また この三古墳の石室横断面の形状をみれば 持ち送り系統 ( 高松 2005) に属し 合掌型の形態で高さも高いとう共通点も指摘できる この型式が大和地域における 100m クラスにおける前方後円 ( 方 ) 墳の竪穴式石室の基底部構造であり 両者を分離することは 竪穴式石室の中に本質的に内包する斉一性のなかの地域性 ( 都出 ) を論じるときの難点となり 同型式として把握しておく方がいいであろう もちろん 黒塚古墳や下池山古墳の竪穴式石室基底部構造は 低い基台状施設を B 型式と C 型式の礫石式の複合形態とみることも可能である そう捉えることによって 初期大和政権の政治構造の複雑性をよりよく把握できない可能性が高くなる B 1 型式の典型例は 山城地域の元稲荷古墳であり B 2 型式は河内地域の玉手山 5 号墳と北玉山古墳がその特徴をよく示している B 3 型式は先に叙述した広義の大和古墳群の諸例であろう 次に B 型式の竪穴式石室の基底部構造を少し詳しく分析していきたい B 1 型式は山城地域の元稲荷古墳後円部石室と北河内地域の忍ケ岡古墳 ( 梅原 1937) が知られている B 2 型式は広範囲に分布しており 河内地域では 玉手山 5 号墳後円部石室 北玉山古墳後円部石室 ( 末永 富田 1963) がある 畿内地域の周辺にもこの型式の基底部構造をもつ竪穴式石室がある それは 播磨地域の兵庫県南大塚古墳後円部石室 ( 北山 1969) であり 丹波地域の兵庫県丸山 1 号墳南石室 北石室である B 3 型式は 前述した大和地域の大和古墳群の 3 古墳であり 大和地域北西部の小泉大塚古墳である 播磨地域では権現山 51 号墳であり 讃岐地域は丸井古墳がある 河内地域の玉手山 9 号墳後円部石室もこの型式のなかで捉えるこの可能性をもつ 粘土棺床を基台の上部に設置する段階での細部の手法は 各古墳において微妙に異なっている このことが竪穴式石室の時間性を表現していることに他ならないと捉えている 元稲荷古墳は基台上に直接粘土棺床を設けるが 粘土を敷く過程に板石を使用している 壁体の基礎は礫石上にあり 粘土棺床の肩部である 玉手山 5 号墳は基台上及び四周の凹部にまず礫石を敷き その上に基台と同じ範囲内に板石を置き その上に粘土棺床を造るという構造である 粘土棺床の側面にも板石を貼り付けるという入念な構造である そして 粘土棺床と同じ高さまで礫石を充填する 壁体の基礎は礫石上にあり 粘土棺床における肩部の高さと同じ位置にあたる 粘土棺床の直上に礫石を敷くという違いがあるが 元稲荷古墳と類縁する基底部構造である 北玉山古墳は基台と粘土棺床の間には板石を使用せず礫石のみを介在させている 壁体の基礎は 礫石上にあり 玉手山 5 号墳と同じく 粘土棺床の肩部の位置にあたる 忍ケ岡古墳は基台上に直接粘土棺床を設置する構造である 壁体基礎は粘土棺床の肩部の位置と同レベルである この基底部構造も粘土棺床上に板石を設置しないことは異なるが 元稲荷古墳と類縁性があるとみていいであろう 播磨地域の南大塚古墳後円部石室は 北玉山古墳と同じ構造を採り 基台と粘土棺床の間に礫石 35

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50 のみを敷く構造である 播磨地域の南大塚古塚古墳のある日岡古墳群は 構成する他の古墳の内容からみても 初期大和政権時代にとっては山城地域の向日丘陵古墳群や河内地域の玉手山古墳群と同じように 初期大和政権の政治構造の一翼を担った重要な古墳群 ( 山本 1983) であると捉えることができるであろう 丹波地域の丸山 1 号墳後円部南石室は 基台上に直接粘土棺床を設置する構造である 壁体の基礎はほぼ粘土棺床の肩部の位置に相当し 礫石がその基礎である 北石室の基底部構造も基台の上に粘土ではなく 安山岩の良質な赤色を呈する風化土壌の粘質土で棺床を造っている 壁体基礎は礫石上にあり その位置は 代用粘土棺床 の高さとほぼ同じところにある その 代用粘土棺床 の曲率は 北石室は南石室のような U 字形の曲率を呈さず 基台を僅かに窪めたところから 代用粘土棺床 を造っている 以上のことから 木棺の形態は 南石室では割竹形木棺と想定され 北石室は棺底の平坦な組合式木棺であると捉えられている 両石室は互いに 後円部の中央に存在するのでなく 両石室をあわせてみれば 後円部中央に位置する そのことから両石室は当初から計画的に埋葬施設を構築するという設形図の基に築かれたとみることができる この複数埋葬のあり方は 複数埋葬のひとつの典型である なお 副葬品の構成からみて 北設定が女性であり 南石室が男性であることは認めていいであろう 事実 南石室からは歯が遺存しており その分析から壮年の男性であったという鑑定を受けている 丸山 1 号墳の天井石部の構造は北玉山古墳と似ており 天井石のあわせ部に目塞ぎの石を幾重にも置き 天井石の構造もそれなりに複雑な構造である 南石室は天井部を被覆するには粘土を使用しているが 北石室には粘土被覆は認められなかった 丹波地域にこのような整備な基底部構造をもつ 畿内様式 と捉えてもいい 竪穴式石室の基底部構造をもつ竪穴式石室が存在するのは ヤマト王権の大きなてこ入れがあったとみるほかないであう 複数埋葬のあり方からみて ヤマト王権の考えていたあるべき支配形態の姿態を示しているとも捉えられる 粘土棺床を基台の上部に設置する段階での B 型式の細部の手法は 各古墳において微妙に異なり 個性的な様相がみられる 同一地域や同じ古墳群にある場合は ある程度時間差を反映していると捉えることが可能であるが 地域を離れてある場合は慎重な検討が必要であろう B 型式の古墳のなかで 元稲荷古墳は墳形や特殊器台埴輪の存在等から古墳成立期の前期前半に位置づけることだできる ただ 元稲荷古墳が山城地域の古墳であることや 墓壙底の形状が山城地域に特徴的に認められる墓壙底四周に周溝を掘る 周溝式 ( 北野 ) を採用していることから 従来 河内地域の基底部構造の特徴 ( 北野 ) と考えられていた B 型式の関係が問題になる 河内地域の玉手山古墳群のなかには元稲荷古墳にみられる 周溝式 の墓壙底形状をもつものはみられない 河内地域の B 型式の竪穴式石室を採用している 玉手山 5 号墳と北河内地域の忍ケ岡古墳の先後の関係を明らにすることは難しいが ほぼ同時期に築造されているとみることができるであろう 37

51 北玉山古墳と玉手山 5 号墳の先後の関係はある程度押し測れることは可能である 玉手山 5 号墳と北玉山古墳は ともに前方後円墳が多く密集している古墳時代前期における有力な政治集団が 築造した玉手山古墳群のなかにあり 複数系列構成型 ( 広瀬 ) の古墳群であり その有力な政治集団の首長層の古墳群である よって 時間差を反映していると捉えた方がよいであろう 元稲荷古墳と基底部構造の関係からみて 板石を使用している玉手山 5 号墳の方が先に築造されと捉えることが可能であるとみている 石室 B 型式を採用する古墳のなかでは 基台と粘土棺床との間に礫石のみを使用している基底部構造をもつ竪穴式石室の方が 新しく出現する形態であると指摘できる 石室 B 型式は地域を異にしながらも前期前半から前期後半まで採用された石室型式である 石室 B 型式の古墳に採用された古墳の墳形をみると 前期前半の元稲荷古墳が 前方後方墳である以外はすべて前方後円墳であり 規模は元稲荷古墳が墳長 94m 忍ケ岡古墳 90m であり 目下のところ 100m を超える古墳は判明していない B 型式の前方後円墳における石室と墳形の主軸との関係は 南大塚古墳が直交するのみで 他はすべて主軸との併行関係にある 3.C 型式 C 型式は 墓壙底全面に 10cm~30cm ほどの厚さに礫石を敷くという工程を経て この礫石上に粘土棺床を設置する基底部構造をもつ型式である 壁体の基礎は礫石上にある C 型式は墓壙底四周の周溝の有無によって 2 小型式に細分する 周溝を造り出すものを C 1 型式 周溝を造り出さないものを C 2 型式と分けて 地域性の有意性を検討していきたい 調査例から C 1 型式と捉えられ石室を例示すれば 山城地域の寺戸大塚古墳後円部石室 ( 近藤 都出 1971) 同前方部石室( 梅原 1955) 長法寺南原古墳後円部石室 鳥居前古墳後円部石室 ( 杉原 1970) であり 河内地域では駒ケ谷古墳群 ( 安村 2005) の狐塚古墳後円部石室 ( 安村 2003) である C 2 型式は寺戸大塚古墳前方部石室 駒ケ谷古墳群の駒ケ谷宮山古墳後円部石室である 九州地方であるが 舟形石棺を内包した竪穴式石室を埋葬施設とする熊本県向野田古墳後円部石室の基底部構造も C 2 型式を採用している なお 京都府宇治一本松古墳 ( 山田 1966) は 30m クラスの円墳であるが 長大型竪穴式石室を採用している古墳で その基底部構造は C 型式であるが 墓壙底四周まで調査が及んでおらず 周溝の有無は判らない まず C 1 型式の諸例の基底部構造を検討していきたい 寺戸大塚古墳後円部の墓壙底の形状は 元稲荷古墳と同様に 墓壙底の周囲に幅 43cm 深さ 10cm の周溝を造っている 周溝部分も含めた墓壙底全面に厚さ 40cm 前後の礫石を敷き 墓壙中央の粘土棺床を設置する部分にのみに長方形 ( 長さ 6.8m 幅 1.4m) に板石を載置している 粘土棺床の規模は 長さ 6.25m 幅 1.75m そして 肩部の厚さは 45cm もある重厚な造りで その外側面には礫石と板石の圧痕がみごとにのこされている 粘土棺床下の板石とその圧痕の関係からみれば 礫石を充填するのに少なくとも 2 回の工程が観察される 上部礫石の上から壁体とも捉えられる板石が積 38

52 み上げられるのであるが 外傾する棺床外側面に沿って 5 段ほど積み上げている 板石 5 段を含めて基底部構造と捉えるのがいいのであろう 粘土棺床外側面に刻印された圧痕 ( 向日市文化資料館 2004) からみて 粘土が乾燥しない間に礫を充填し 板石を置くということが読み取れる こう理解すると基底部を構築するのに多くの工程を考えざるを得ない その間に幾度の朱彩も認められる極めて入念な基底部構造である 粘土棺床の設置は下部礫石上の段階から始めており 5 段の板石を積み上げた段階で完了していることが圧痕から明らかである 粘土棺床と 5 段の板石の設置が完了した後に木棺が搬入される こう理解すれば 壁体の基礎は板石にあり その位置は粘土棺床の肩部にあることになる 南原長法寺古墳石室は前述しているように 墓壙底全面に礫石を充填している構造でないので C 型式に分類するには躊躇するが 粘土棺床下の一部に板石と礫石をおいていることと C 型式の分布の中心である山城の乙訓地域にあることから C 1 型式と捉えておきたい なお 周溝の東南隅から石室外にのびる排水溝が確認されている 鳥居前古墳石室は 墓壙底の周囲に不整形な周溝をもつ 粘土棺床棺下の礫石の厚さは 寺戸大塚古墳後円部石室と比較すると略式化 簡略化の傾向が指摘できる 狐塚古墳石室は 墓壙底四周に幅 15cm 深さ 13cm の周溝をもち 粘土棺床下に薄い礫石を敷くから C 1 と把握したいが 粘土棺床下の礫石は鳥居前古墳と同じであり 略式化している 次に C 2 型式の基底部構造を検討する 寺戸大塚古墳前方部石室の基底部構造は 二段墓壙の平坦な墓壙底にまず礫石を充填する 礫石の充填は 粘土棺床の設置位置の関係から少なくとも 2 回の工程に分けて施工されたことがわかる 粘土棺床は下部礫石上に 粘土棺床基底部 ( 梅本 1999) と呼称される基台状の粘土台を設置し それを基礎に肩部を造って U 字形の粘土棺床を形成していくのであるが その回数は色の違う粘土を交互に貼り付けるという手法であり その回数が明瞭に読み取れる 7~8 回の回数を数える その段階ごとに礫石も充填されることになる 礫石の横断面では 礫石は水平ではなく 亀甲状を呈し 整地土 との間には土を充填している 粘土棺床の肩部で 整地土 と呼ばれる粘質土を敷き 壁体基礎としている この段階で木棺の棺身を安置するのであろう そのことは 壁体は 2~3 段が粘土棺床の粘土に接しており その間隙に鉄剣が棺外副葬されていることから妥当と見られる なお 整地土 に粘質土を使用していることは 基底部構造が木棺 遺体の保護のための排水機能を第一義的機能と把握するなら不都合なものである 駒ケ谷宮山古墳石室は山城地域でみられたごとく 墓壙底の四周に周溝をもたない 平坦な墓壙底に厚さ 10cm 程の礫石を敷き その上に粘土棺床を設け さらに粘土棺床の肩部の高さ礫石を充填する なお この石室では墓壙の西隅から墳丘のくびれ部にのびる排水溝が確認されている なお 宇治一本松古墳石室は墓壙底四周の周溝の存在は判らないのであるが 基底部構造は調査報告から知ることができる それによると墓壙底に 3cm 程度の小さな礫石を敷き その上に扁平な川原石を用い さらにその上に 5cm 程の礫石を一重に敷きならべる その上に粘土棺床を設置し 棺床肩部まで礫石を充填する構造であり C 型式と捉えられる 39

53 C 型式の古墳は畿内の山城地域と河内地域に分布の中心がみられる しかし 山城地域では 周溝式 ともいわれる C 1 型式が盛行するが 河内地域では盛行しない 河内地域では駒ケ谷古墳群の狐塚古墳に C 1 型式が知られるのみである 同じ玉手山丘陵にある玉手山古墳群では B 型式の古墳が築造され続けている 畿内様式 の竪穴式石室の基底部構造に地域性が現れている現象である 山城地域では この 周溝式 は桂川西岸の乙訓地域の古墳に顕著に認められる B 型式の元稲荷古墳から C 型式の寺戸大塚古墳 南原長法寺古墳 古墳中期初頭の鳥居前古墳にまで 周溝式 が採用され続けていることが判明している 同じ山城地域においても 乙訓地域以外の古墳には 周溝式 の墓壙形態のものは認められない 向日町丘陵とは木津川 宇治川 桂川の合流点を挟んで対岸に位置する八幡茶臼山古墳は舟形石棺を内蔵する竪穴式石室をもつが 墓壙底四周に周溝は存在しない 椿井大塚山古墳や宇治一本松古墳は 墓壙の形態まで調査がおよんでいないので 墓壙底四周の周溝の存在は不明と言わざるを得ないが 椿井大塚山古墳の北側にある平尾城山古墳はE 型式の基底部構造をもち 周溝は造られていない 以上のことから 周溝式 という墓壙形態は山城地域の中でもより限定され 桂川西岸域の乙訓地域に認められる形態であり この乙訓地域の竪穴式石室を特徴づけるものである C 型式の古墳では 埴輪型式や副葬品の内容から最も整備な竪穴式石室の構造をもつ寺戸大塚古墳後円部石室が最古に位置づけられる 寺戸大塚古墳は後円部石室上部に方形壇を造り 方形壇を囲む方形埴輪列を配する前方後円墳であり 墳長 98m の規模であり 王墓と呼ぶのにふさわしい古墳内容を整えている なお 粘土棺床下に板石を敷く例は 元稲荷古墳石室にも認められ 古墳前期の中でも古く位置づける仕様と捉えられる C 型式の古墳の墳形は 南山城の宇治一本松古墳の円墳を例外として 前方後円 ( 方 ) 墳に採用される埋葬施設である 規模は B 型式の古墳よりばらつきが目立ち B 型式の古墳よりも小規模な古墳にも採用されている基底部構造と言える 前期後半の南原長法寺古墳は墳長 60m の前方後方墳であり 中期初頭の鳥居前古墳は 墳長 52m の帆立貝式前方後円墳である 石室と墳丘主軸との関係も B 型式ほど整然としておらず 寺戸大塚古墳は併行し 南原長法寺古墳と鳥居前古墳は斜交している 直交するものに駒ケ谷宮山古墳がある 時間差を表現していると捉えている 4.D 型式 D 型式は平坦な墓壙底に直接粘土棺床を設け その周囲に礫石を充填した基底部構造をもつものである その分布は すでに北野が指摘しているとおり 摂津地域という範囲に集中的に認められる 淀川の北岸に位置する大阪府将軍山古墳後円部石室 ( 堅田 1986) 猪名川左岸の丘陵上にある大阪府池田茶臼山古墳後円部石室 ( 堅田 1964) 大阪府娯三堂古墳( 田上ほか 1992) 六甲山南麓にある兵庫県会下山二本松古墳 ( 北野 1967 註 12) の諸例が知られている なお 河内地域の松岳山古墳群の茶臼塚古墳は 河内地域では唯一 D 型式の石室を採用している 池田茶臼山古墳は 平坦な墓壙底中央に直接 厚み 60cm 前後の 中央が僅かに窪むフラットな面 40

54 をもつ ( 堅田 1964) 粘土棺床をまず造る そして 粘土棺床は二過程をへて 造り出されると報告されている このことは 寺戸大塚古墳前方部石室でも観察されたところであり 黒塚古墳などにも観察されている手法であり U 字形を呈する粘土棺床に共通した粘土棺床の設置のされ方である そして 粘土棺床の肩部付近まで礫石が充填される 壁体の基礎はこの礫石上にある 将軍山古墳と会下山二本松古墳の石室基底部も池田茶臼山古墳と同じ手法で構築されている 将軍山古墳は 墳丘規模と対応するように墓壙規模はきわめて大規模である 粘土棺床四周に約 20cm の礫石の敷き詰め 壁体の基礎としている 壁体の板石と人頭大の川原石を礫石上から積み上げていく 川原石は裏込めの機能を果たす なお 将軍山古墳の壁体の石材はそのほとんどが阿波地域の結晶片岩 ( 紅簾片岩も含む ) を使用しており 遠隔地から石室材を搬入している事例であり 摂津地域と北河内地域の古墳 ( 森田 2007) に多くみられるところである 池田茶臼山古墳と会下山二本松古墳は 石室総体の構造がきわめて類似しており 同じ仕様に基づいて構築されているごとくである 娯三堂古墳も墓壙底に厚さ 20 弱の直接粘土棺床を設けるが 粘土に礫石が混入し 壁体下方にも粘土がくい込んでいる 肩部の粘土にも礫石が混入されている 池田茶臼山古墳より後出の古墳であり この現象は時間差を表わしているのであろう 茶臼塚古墳は前述した諸古墳とは 石室高が約 1.5m と高いこと粘土棺床四周に白色円礫を使用していることなど前期後半の竪穴式石室では特異な様相を示している 墳形は娯三堂古墳 (27m) と茶臼塚古墳 (23m) は円墳であるが 他は前方後円墳であり 将軍山古墳が墳長 110m 池田茶臼山古墳が 62m である 前方後円墳は墳丘主軸と石室主軸の関係は直交している関係が知られてのみで 前期中ごろまでのD 型式の古墳に特徴的な要素のひとつである 畿内地域ではないが 香川県丸井古墳第 1 石室にD 型式に近い基底部構造が存在している 平坦な墓壙底に礫石を混じえた粘土棺床を造るが 控え積みは畿内の整備なⅠ-a 群の竪穴式石室と比較するとその幅は著しく狭く 粘土棺床の四周にも礫石を充填していない D 型式の古式の構造と捉えている 丸井古墳の墳丘出土土器からもそのことは首肯できる 墓壙壁と壁体壁の間が狭いD 型式の石室に雨滝山奥 13 号墳石室があり 粘土棺床四周に礫石を充填しない構造である 阿讃地域で三角縁神獣鏡を出土した古墳の香川県雨滝山奥 3 号と墳徳島県宮山古墳がある 両者とも控え積みの幅は広く 雨滝山奥 3 号墳は天井石を覆う被覆粘土が採用されており 宮山古墳は木蓋を架構したと捉えられる 後者はこの地域の伝統的な天井の密封手法を採用しており 前者は畿内地域における天井部被覆粘土構造の影響の基で天井部を構築していると捉えることができるであろう 5.E 型式墓壙底の中央に横断面が U 字形を呈する細長い窪みを掘り込み この窪みに粘土棺床を設置するものをE 型式とする E 型式も粘土棺床下に板石や礫石を敷くものをE 1 型式 U 字形墓壙底に直接粘土棺床を設置するものをE 2 型式と細分する 畿内地域では E 2 型式のみが認められる 南山城地域の京都府平尾城山古墳 ( 近藤ほか 1990) 41

55 と摂津地域の大阪府弁天山 C1 号墳 ( 原口 西谷 1967) である 平尾城山古墳石室は壁体のほとんどが撹乱によって抜き取られ 基底部と裏込めの一部が遺存していたのみである 幸いにして基底部構造の詳細は把握できる 墓壙底中央を浅く掘り窪め そこに直接粘土棺床を設置する 粘土棺床は浅い窪みの肩部をこえて設置されている 粘土棺床の肩部まで礫石を充填している 壁体の基礎は粘土棺床肩部上と礫石上にあると捉えられる 弁天山 C1 号墳石室も墓壙底中央を平尾城山古墳とよく似た形状に掘り窪め そこに直接粘土棺床を設置し 粘土の設置は墓壙の壁際近くまで及んでおり 粘土と墓壙壁の 30cm ほどの間に礫石を充填している この礫石は周溝式にも通じる観を呈している このように 粘土棺床の設置の仕方が平尾城山古墳とは異なっている 後述する複合型式であるが 奈良県メスリ山古墳 大阪府紫金山古墳も基台の中央を掘り窪めている その形状は メスリ山古墳が平尾城山古墳の粘土棺床に類似し 肩部が窪み部分より上位に位置している 紫金山古墳の粘土棺床は U 字形の中に閉じこまれており 薄い粘土を設置している構造であり 古墳出現前夜の徳島県西山谷 2 号墳丘墓 ( 菅原 原 2001) と通じるところがある 問題は 都出比呂志が前期古墳の中でも新しく出現すると捉えた墓壙底中央を U 字形に掘り込む型式が 畿内地域に先行して阿讃地域や吉備地域に認められることにある ただし 粘土棺床の四周に礫石を充填する手法は両地域には認められていない 播磨地域の兵庫県吉島古墳 ( 近藤編 1983) も墓壙底中央をU 字形に掘り窪める形態であるが礫石は使用されていない 阿讃地域では 西山谷 2 号墳丘墓であり 雨滝山奥 14 号墳 1 2 号石室 (Ⅰ-b 群 ) であり 吉備地域では七つク ロ 1 号墳である 両地域が古墳出現期に長大型竪穴式石室の創案に果たした役割は重要とみない訳にはいかない 前期後半の山口県長光寺山古墳 (Ⅰ-b 群 ) もこの型式である 吉備地域では 4 世紀末から 5 世紀初に築造された金蔵山古墳にもこの型式が採用されている 墓壙底中央を U 字形に掘り込む型式で 粘土棺床を採用していない古墳 (Ⅱ-b 群 ) としては 丹後地域の京都府カジヤ古墳 播磨地域の兵庫県伊和中山 1 号墳 丹波地域の丸山 2 号墳などがある 6. 竪穴式石室の基底部諸型式の消長畿内地域の長大型竪穴式石室の基底部構造に首座をおいて 基本的に 5 型式に分類して検討してきた この他にも この範疇で捉えきれない基底部構造をもつ長大型竪穴式石室がある その中でも 構造の詳細が把握できるメスリ山古墳 紫金山古墳 摂津地域の兵庫県西求女塚古墳を検討していきたい 紫金山古墳は墓壙底中央にまず基台を造り出し 基台の中央を U 字形に掘り込む そして U 字形の壙底の中に収まる薄い粘土を壙底に直接設置する 壁体の基礎は基台の肩部にあり そこに壁体より突出した板石は小口に置かれるのでなく 長平に揃えた 板石が置かれ 墓壙壁近くまで敷き並べている この板石が壁体の基礎となっていると捉えることができる 礫石の充填は基台肩部まで行われている このような特徴から 紫金山古墳石室は B 型式とE 型式の複合型式と捉えたい メスリ山古墳の構造の詳細は後述するが 構築墓壙であり 平坦な墳丘面に基台基台を造り出し 42

56 基台中央を掘り窪めて そこに直接粘土棺床を設置するが 粘土棺床は基台の肩部まで覆うっていることは紫金山古墳とは著しく異なる 構築墓壙であるが B 型式とE 型式の複合型式と捉えておきたい 西求女塚古墳の後方部竪穴式石室は 慶長の大地震による地滑りで大きく崩れていたが 丹念な調査で石室の構造が明らかになった この石室はきわめて特異な構造である 特異な構造のひとつ目は 石室内に仕切り石を立て 主室と遺物埋納用の副室を設けていることであり 最古段階の長大型竪穴式石室としては稀有な存在である 二つ目は 墓壙は下部で二段墓壙状に深く掘り窪め そこに礫石を充填し 礫石上に平坦な粘土棺床を設置している 粘土棺床の途切れの状況から北側にも仕切りの施設の存在していたこと推し量ることも可能であろう そして 平坦な粘土棺床から組合式木棺を想定せざるを得ない 基底部に充填された礫石は少なくとも 2 工程があるとみられ 下部礫石は二段目の肩部に対応し 上部礫石は粘土棺床設置後に充填される 壁体の基礎は上部礫石上にある このような西求女塚古墳の特異な石室構造は それ以前にもみられず その後にも発展して行かない 第 10 章で記しているように石室石材の使用のされ方も注目註される 他に 山城地域の京都府妙見山古墳や河内地域の大阪府松岳山古墳のように組合式石棺を覆うタイプの竪穴式石室の存在である いずれも棺床施設として粘土を使用しており 前期タイプの竪穴式石室の範疇で捉えることのできる構造を示している 後述するが 奈良県佐紀陵山古墳とも類似し 特殊な内容を示すこれらの一致点こそ そこに積極的な意義を認め 前期タイプの竪穴式石室から中期タイプの竪穴式石室に推移な過渡期な様相と捉えたい 埋葬施設で執り行われた祭式の変革とともに古墳時代における政治的 社会的動向に大きな変革 ( 註 15) をもたらした幕開けの現象として これらの特異な構造をもつ竪穴式石室を理解したい 畿内地域において基底部構造が判明している前期竪穴式石室の諸型式を検討してきた まだ 検討できなかった型式があるが これらは後日に期すとして 検討してきた諸型式の地域性 時間差そして 首長系譜などについてみていきたい 諸型式の時間的推移は 近年著しく研究が進展しており 時期決定の材料として有効な埴輪編年や墳丘の形態論 副葬品の組合せや個別副葬品の研究の深化 三角縁神獣鏡の詳細な型式学的研究などから窺い知れる古墳の編年観に基づいて 石室型式をあてはめ 第 2 表 第 3 表を作成した まず 古墳出現期の ( 前期前半 )1 期の段階から多様な基底部構造をもつ型式がすでに存在して 43

57 いることである 板石敷きの A 型式 基台式の B 1 型式 B 3 型式 吉備地域であるが七つク ロ 1 号墳のE 1 型式である 他に 福永伸哉がいう A B 段階の三角縁神獣鏡 ( 福永 2005) を 4 面も副葬していた兵庫県吉島古墳は粘土棺床を設置しないⅠ-b 群の石室であるが 墓壙底中央を U 字形に掘り込むE 2 型式の範疇と捉えてもいい形態である この多様な現象を如何に歴史的に解釈できるのであろう 言い換えれば 長大な割竹形木棺とそれを覆う長大型竪穴式石室という斉一性のなかにも 基底部構造には多様な地域性ををもっているということが指摘できる ほかに 出現期段階には 平坦な墓壙底に粘土棺床も設置せず 墓壙底から壁体を積み上げる類型の存在も知られている この類型には 播磨地域の兵庫県養久山 1 号 墳 ( 前方後円墳 墳長 32m) 第 1 主体石 ) 吉備地域の岡山県都月 1 号墳 ( 前方後方墳 墳長 33m) 石室がある この現象は土器様式にも認められ 古墳開始期のひとつの指標である布留式土器の成立事情と似通ったところがある 布留式土器の成立の特徴は 複数の地域の要素を統合するかのようなかたちで成立 ( 次山 2000) するという指摘があり 竪穴式石室基底部構造型式の多様性と通底するところがある つぎは 大和地域の墳丘規模による石室基底部型式の相異である 200m 以上の規模をもつ大王クラスにも匹敵する桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が複合型式を採用しており 前者は A B 複合型式であり 後者は B E 複合型式である この両者はともに柄鏡式の前方後円墳を採用しており いわゆる磐余地域にあり 独立的様相をもって存在している 石室横断面の形状は いずれも垂直系統 ( 高松 2005) である 桜井茶臼山古墳は墳丘主軸と石室主軸の関係は平行しており メスリ山古墳のそれは直交関係にある しかし 埋葬頭位はいずれも北頭位である 大和地域の 100m クラスの前方後円 ( 方 ) 墳が共通して B 3 型式を採用していることにある 大和地域東南部にある広義の大和古墳群の 100m クラスの前方後円 ( 方 ) 墳の築造順は 中山大塚 古墳 黒塚古墳 下池山古墳であることは各古墳の総体的内容からみてまず間違いないところである 大和地域北西部にある小泉大塚古墳も B 3 型式を採用している 石室横断面の形状をみれば 小泉大塚古墳は 200m クラスと同じ垂直系統であり 小泉大塚古墳よりも墳丘規模の大きいオオヤマト古墳群の三者は持ち送り系統を採用している このことは何を表現しているのであろう 倭国の王墓の可能性も保持している大王クラスの王墓と地域の王墓の性格に由来しているかも知れない 大王墓級と王墓級の古墳は垂直系統であり 同じ古墳群にあるナンバー 2の首長墳である三古墳はす持ち送り系統を採るという関係である 大和地域のこれら四古墳はすべて北頭位である 墳丘主軸と石室主軸の関係は 中山大塚古墳と下池山古墳は平行関係であり 黒塚古墳と小泉大塚古墳は直交関係である 因みに 古墳出現前夜のホケノ山墳丘墓は 墳丘主軸と斜交しており 頭位は北優位である A 型式は前期初頭において 吉備地域に出現している 浦間茶臼山古墳石室がその初期の典型例であり E 1 型式と捉えている 1 期の七つク ロ 1 号墳も墓壙底のほぼ全面に板石を敷く構造である 前者は特殊器台埴輪と古銅輝石安山岩を共有した吉備地域 ( 宇垣 1987) の首長墳の中では最大の規 44

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59 模であり 吉備地域政権の王墓とも目される古墳である A 型式は前期中ごろには 桜井茶臼山古墳に採用され 前期後半には近江地域の最大規模の前方後円墳である安土瓢箪山古墳がこの型式を採っている 礫石 板石敷式の A 型式は吉備地域が大和地域に影響を与えた型式と捉えた方が整合的である可能性が高いと言えるであろう 山城の乙訓地域では 特殊器台埴輪をもつ出現期の元稲荷古墳が整備な B 型式の竪穴式石室がまず築かれ この石室は墓壙底四周に周溝を配する B 1 型式である この周溝式は その後のこの地域の有力な首長墳である竪穴式石室の基底部型式が変わっても引き継がれる構造である 寺戸大塚古墳後円部石室 長法寺南原古墳 鳥居前古墳の C 1 型式を採用される竪穴式石室の基底部構造として引き継がれていく この型式は 乙訓地域の竪穴式石室を特徴付けている構造である 寺戸大塚古墳前方部は周溝式を採用していず 前方部の被葬者の従属的な性格に基因しているのであろう 南山城地域の前期前半の椿井大塚山古墳は A 型式であり 近接して築かれている前期前半の平尾城山古墳はE 2 型式を採用していて そこに竪穴式石室基底部構造からは首長墳の系譜関係は読み取ることはできず 個別に初期政権の戦略が働いている現象の可能性を考慮する必要があるかもしれない B 型式はその後 山城地域にはみられず 河内地域の玉手山古墳群で発展していく型式であるが 周溝式は採用されていない 玉手山古墳群は前期中葉の玉手山 9 号墳が B 3 型式に始まり 玉手山 6 号墳後円部中央石室はこの型式の中で捉えてもいい形態である 玉手山 6 号墳東石室は粘土棺床下部のみに低い基台を造り出し 礫石を介在させて粘土棺床を設置する構造であり 玉手山古墳群の B 2 型式の初現的な形態を示しているのであろう 典型的な B 2 型式は 3 期の玉手山 5 号墳後円部から北玉山古墳後円部石室と引き継がれる型式である 従来 玉手山古墳群と捉えられていた玉手山丘陵の古墳群を 安村は南部に位置する古墳群を駒ケ谷古墳群と分離し ( 安村 2005) 理解する見解は 竪穴式石室の基底部構造からみるかぎり当を得たものである 玉手山丘陵に B 型式を採用せず 礫敷式の C 型式を採用する古墳は駒ケ谷古墳群になってからのことであり 玉手山古墳群の段階ではすべての竪穴式石室の基底部構造が 基台式の B 型式が採用されている B 型式と C 型式の古墳は 山城と河内の両地域に顕著にみられる基底部構造であり その変遷はこの両地域においては B 型式から C 型式へと推移することは間違いないところである 都出によって否定された墳丘主軸と石室主軸の時間差と地域性の関係は 玉手山古墳群ではすべて平行関係にあるが 3 期の駒ケ谷宮山古墳は直交している 松岳山古墳も直交関係にあり 両者はほぼ同時期に築造されている このことから この玉手山丘陵の伝統的な石室基底部構造を採用しながらも 松岳山古墳の組合式石棺をもつ新しいタイプの埋葬形式の影響を受けて直交関係に築いたものとみられる この関係は山城地域の妙見山古墳と鳥居前古墳の間にもみら 両者とも直交関係にある 一定の条件下の基では墳丘主軸と石室主軸の関係は一定の有意性が認められるところがあると言える 46

60 なお 玉手山古墳群では 北玉山古墳が東西主軸の石室であり 北頭位の玉手山 5 号墳の石室よりも駒ケ谷宮山古墳のその関係からみて 北玉山古墳が玉手山 5 号墳より後出であると捉えている このことは埴輪編年とも整合している また B C 型式において 粘土棺床下に板石を載置している石室は A 型式の石室と元稲荷古墳の関係から伝統的要素を保持しており 板石を載置していない石室より古式の要素をもつものと捉えている D 型式は 1980 の論稿では 弁天山 C1 号墳をこの型式の範疇と捉えたが 今回はE 2 型式と捉え直した 摂津地域の有力な古墳群である弁天山古墳群において D 型式の竪穴式石室が現在のところ確認されていないという状況が現出しているということになる また 前稿では D 型式としていた紫金山古墳を B E 複合と訂正したことから 摂津地域の竪穴式石室の基底部構造が複雑な様相を示してきている しかし D 型式の石室が摂津地域に多く分布していることもまた事実である 摂津地域の竪穴式石室を特徴付ける要素に石室石材の使用のされ方がある 石室の構築石材の大半に結晶片岩を使用している古墳として 紫金山古墳 将軍山古墳 そして 最近 画像調査でその存在が明らかになった大阪府高槻市闘鶏山古墳第 1 2 主体 ( 森田 2007) があり 墳丘主軸の関係は斜交している 第 2 主体は第 1 主体の墓壙の北西隅部を切って構築しており 計画的な複数埋葬と把握するよりも追葬と捉えられ 第 2 主体は小振りな竪穴式石室である しかし 両者が結晶片岩を石室石材としており 第 2 主体の被葬者は第 1 主体被葬者の首長の系譜を引き継いだ首長の石室であると考えられる 紫金山古墳石室の基底部構造は B E 複合型式であり 墳丘主軸との関係は直交であり 北頭位である 将軍山古墳石室の基底部構造はD 型式であり 墳丘主軸との関係は直交であり 石室主軸は東西優位である 闘鶏山古墳は発掘調査を経ていず 画像調査のみでその基底部構造は明らかでないが U 字形を呈したみごとな粘土棺床が映し出されている 森田克行はこれらの古墳の南側にある沖積地の溝昨遺跡から東阿波産の土器が相当量の出土していることと結晶片岩が出土していることから 溝昨遺跡は結晶片岩を積み入れた 石津 の性格をもつと捉え これら諸古墳の結晶片岩を阿波地域から搬入されたものと捉えている 少量の結晶片岩を象徴的に使用している前期竪穴式石室をみれば 摂津地域では 西求女塚古墳石室 弁天山 C1 号墳が知られている 中南河内地域では 玉手山 9 号墳 玉手山 7 号墳 茶臼塚古墳などが知られている 山城地域では 東殿塚古墳 メスリ山古墳の石室の裏込め石材として結晶片岩が使用されている 吉備地域や山城の乙訓地域には 結晶片岩を使用している古墳は知られていない 淀川左岸の北河内地域では 大阪府森 1 号墳 大阪府鍋塚古墳に結晶片岩の使用は認められるが 鍋塚古墳は石室に使用しているが 森 1 号墳はその可能性が大きいが調査を経ていず推測の域をでない 古墳中期に入っても津堂城山古墳に象徴的な結晶片岩の使用は看取される E 型式は阿讃地域の古墳出現前夜の西山谷 2 号墳丘墓に出現している 雨滝山奥 14 号 墳 1 2 号石室もこの構造である 香川県円養寺墳墓群のD 地区石室 A 地区石室もE 型式である これらの石室は Ⅰ-b 群の阿讃 E 型式として類型化した構造 ( 山本 2002) であり 畿内石室型式に当て 47

61 嵌めればE 2 型式に準じる構造である これら阿讃地域の墓壙形態をみれば 阿波地域の西山谷 2 号墳丘墓 雨滝山奥 14 号 墳 両石室は墓壙底に平坦な面をもたず 墓壙肩部から緩やかに墓壙底に掘り込まれており その中央を U 字形に掘り窪める形態である 讃岐地域の円養寺は一旦墓壙底に平坦な面をもち その中央を U 字形に掘り窪める形態である 阿波地域と讃岐地域では墓壙底の形態に違いが認められる 石室壁体面と墓壙壁の幅をみれば すなわち 控え積みの構造と関連するのであるが その距離は E 型式の円養寺 D 地区石室 雨滝山奥 14 号 墳 両石室は約 50~70cm と幅が狭く D 型式の雨滝山奥 13 号墳 円養寺 C 地区石室も約 50cm とその幅は狭い それと比較して Ⅰ-a 群の畿内地域の石室壁体面と墓壙壁の数値は 桜井茶臼山古墳 小泉大塚古墳が約 1m であり 最大の距離を測るのは中山大塚古墳と弁天山 C1 号墳の約 2.3m であり 畿内地域におけるⅠ-a 群の石室のその距離は約 1.1~2.3m と広い 吉備地域における A 型式の浦間茶臼山古墳のその幅は 1.4~1.6m であり E 2 型式と捉えた七つク ロ 1 号墳の距離は約 1.3m である 控え積みのこの数値の意味は 奈辺にあるのであろう 相互の影響の関係をどう捉えるのかという問題である 狭い幅の石室は 弥生墳丘墓からの伝統とみるか 畿内地域で創案されたⅠ a 群の影響とみるかの関係である 阿讃地域の西山谷 2 号墳丘墓の関係からみて 前者と推定している E 型式を検討した結果として 長大型竪穴式石室の成立には吉備地域とともに阿讃地域の埋葬施設が 一定の役割を荷っていることが指摘できる 第 3 節大和地域における前期大形古墳の埋葬施設の検討とその特質大和地域の前期古墳の規模をみると 200m を超える前方後円墳が 13 基も数えられ 150m 規模の古墳を含めると 26 基 ( 菅谷 1967) の多くに達する この現象は 大和地域にのみみられるところであり 列島規模においても 畿内地域における他地域における古墳前期の前方後円墳の規模と比較しても 厳然とした格差がそこに存在している 古墳時代の開始期から 大和地域に政権中枢が形成されていることを物語っているのであろう これらの前期大形前方後円墳は 大和地域東南部にある広義の大和古墳群と大和地域北部にある佐紀古墳群に集中的に築かれている 大和古墳群の南方に桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が独立的な様相をもって築造されている これらの大和地域における大形古墳の形成過程とその消長を論じた多くの論稿 ( 森 1966 石野 1977 広瀬 ) がある それらを参考にしながら ここでは大形古墳の埋葬施設の検討を行ない 大王あるいは大王クラスの埋葬施設の構造的特質とその推移をみていきたい 多くの大形前方後円墳が陵墓に指定され 埋葬施設の構造を知れる古墳は少ないのであるが その構造を知れる古墳から検討していきたい 1. 桜井茶臼山古墳の埋葬施設前方部は低く狭長な柄鏡タイプの墳長 207m を測る前方後円墳である 後円部中央に墳丘の主軸に対して平行に築かれた埋葬施設が明らかになっている 1961 年の報告書 ( 上田 中村 1961) によれば 墳丘築成の段階 すなわち 墓壙掘削以前に後円 48

62 部に後円部中央に方形壇が造り出されており その中央に墓壙を掘り 竪穴式石室が構築されている 埋葬施設の築造過程を復原的に示すと (1) 方形壇の築成 (2) 墓壙掘削 (3) 基底部の整備 (4) 木棺安置 (5) 壁体構築 (6) 天井石架構 (7) 方形壇周辺整備と順に行なわれたと捉えられる 基底部構造は前述しているとおり畿内石室 A Eの複合型式である なお 後述する吉備地域の石室基底部の関係から 墓壙底中央が若干掘り窪めていることを重視したい 壁体の横断面形は持ち送り系統でなく 垂直に積み上げられている 北頭位である 二重口縁壺形土器焼成前に底部中央を穿孔している 壺形埴輪と捉えるのが妥当であろう 1961 の報告書によれば その出土状態は後円部の方形壇の下部に巡らされた貼石の外側を囲堯する形で配置され 結果として竪穴式石室を方形に区画している状態を示していた その方形壇の規模は 石室の主軸と平行する東西辺が 13.0m 同じく直交する南北辺 が 10.6m である このような二重口縁壺形土器の配置は 埋葬施設を方形にめぐらす埴輪樹立と同じ本質をそなえた儀礼が ( 近藤 春成 1966) が行なわれたことを示している 副葬品は鏡 碧玉製腕飾類をはじめ 畿内の他地域では見られない玉杖 玉葉という碧玉製品を副葬品にもつ 200m 級 (= 大王クラス ) の古墳にふさわしい副葬品が出土している 2008 年に桜井茶臼山古墳第 7 次の再調査が行なわれ 若干訂正するところも生じているが 基本的な構図の訂正は必要ないであろう 訂正するところは 二重口縁壺形土器の配置位置であり 方形壇下部の設置ではなく 方形壇の上部の縁辺に樹立していると捉えられたことである そして 今回の調査の画期的な成果は 方形壇下部の外側に幅 1.5m 深さ 1.5m の布掘りの施設が確認されたことであり 布掘り遺構の上には蓋石を載置する その上部に板石を積み上げたところが確認されたことである 筆者は明器を埋納した施設であろうとみているが 上面を確認しているのみで 布掘り施設は調査されていず将来に残された課題である もうひとつのこの調査の画期的なところは 鏡の出土量である 鏡はすべて細片での出土であるが 少なく見積っても 57 面以上 多く見積ると 75 面に達する可能性が指摘されている 列島内では圧倒的な出土量であり 今まで我が国で最も多く鏡を副葬されていたと言われた黒塚古墳 椿井大塚山古墳の倍数の鏡が副葬されていたことである その鏡種の組合せも驚くものであるが 今後詳しく検討されていくであろう 2. メスリ山古墳の埋葬施設墳丘長 224m の大形前方後円墳である 後円部に主軸に対して直交する形に竪穴式石室が築かれている メスリ山古墳の埋葬施設は 通常の墓壙を穿つ手法を採らず 墳頂平坦面から埋葬施設の構築を始めている 副室と呼ばれる独立した遺物埋納のための石室の構築 ( 註 16) 墓壙と同様な機能をもつ石塁壁の構築 ( 註 17) 方形壇を囲堯する方形埴輪列が二重に配列されていることなどは 200m 級の前期大形古墳であるメスリ山古墳の埋葬施設を特徴づけるものである また 椅子形石製品 玉杖と同 49

63 50

64 じ用途と考えられる十字形翼状飾付石製品をはじめ豊かな碧玉製品をもち 200 口以上にもおよぶ鉄槍の他に 多様な鉄製武器をもつなど豊富な副葬品が埋納されていた 桜井茶臼山古墳と同様に大王クラスの古墳と呼ぶのにふさわしい遺物内容である 副葬品の内容から桜井茶臼山古墳よりも新しく位置づけられ 墳丘から出土した土器も桜井茶臼山古墳の土器よりも新しい時期のものである 埋葬施設の築造過程を順に示すと (1) 墳頂平坦面上に下部石塁壁を構築 (2) 基底部の整備と副室下部の構築 (3) 棺安置と棺内及び副室の副葬品の納置 (4) 主室と副室の壁体構築 (5) 天井部の構築 (6) 上部石塁壁の構築 (7) 方形壇の築成 (8) 埴輪の樹立と行なわれたと考えられる 主室の基底部構造は基台を造り出す B 型式と粘土棺床設置部分と U 字形に掘り込むE 型式が複合して成り立っている B E 複合型式である 北頭位である 壁体は桜井茶臼山古墳と同様に垂直に積み上げられている 石室高は 2.3m であり 石室高としては最も高い椿井大塚山古墳の 2.8m に次ぐ高さである 方形壇は礫層で構成されており 規模は石室主軸と平行する南北辺が 13m 同じく直交する東西辺東西辺が 6.5m である なお 方形壇を囲堯する埴輪列は南北辺が 15.2m 東西辺が 10.2m を測る 方形壇の規模は桜井茶臼山古墳よりも縮小し 方形壇の本来的な意義が変質し それに替わって方形埴輪列が複雑な様相をもって出現している 3. 佐紀陵山古墳 ( ヒバスヒメ陵古墳 ) 三区に区切られた高低差のある周濠をもつ墳丘長 206m の前方後円墳である 墳丘の主軸と平行して特異な竪穴式石室が築かれている 梅原末治がその復原図を公にされてから 特異な構造をもつ竪穴式石室と指摘されていた さらに 1967 年に石田茂輔が過去の記録とともに この特異な竪穴式石室の構造を詳細に検討 ( 石田 1967) されている 詳細な構造はそれに譲り 築造過程を復原的にみていきたい 竪穴式石室は墓壙を掘らずに墳頂平坦面から構築しており メスリ山古墳の構築原理が引き継がれている 埋葬施設の構築順は (1) 墳頂平坦面に幅約 2.6m 推定長 9.1m 厚さ 0.3m の切石の底石を整備された平坦面に敷く (2) 有孔大板石を底石に嵌め込む それと同時に有孔大板石の外側に方形にめぐる石列と砂利が敷かれる (3) 底石上に竪穴式石室の壁体部が構築され 同時に有孔大板石の外側両方に墓道というべき割石小口積みの両壁が石室幅と同じ幅に構築される (4) 天井石を架構 (5) 方形壇を築成 (6) 方形埴輪列を樹立するという過程が推定される 特異な石室構造の要素として 切石の底石 有孔大板石 縄掛け突起をもつ天井石の存在等が指摘できる その内 天井石の縄掛け突起と下部の切り込み及び底石と有孔大板石の組合せ方は長持形石棺に通じる要素が看取でき 石田が この石室は竪穴式石室から石棺に移行する過渡的な姿 時間的には石棺の発生する時期 の竪穴式石室と認識されたのは無理からぬところであろう しかしながら 竪穴式石室から石棺に移行するということはありえず 古墳前期から古墳中期における埋葬施設の観念が変化する時期の過渡的な形態と捉えられる 特異な構造を分解して それぞれの役割を考えてみれば 切石の底石は石室基底部 有孔大板石 51

65 は墓壙あるいはメスリ山古墳の石塁壁と捉えることができ 竪穴式石室の基本的な要素は踏襲していると考えることができる しかし いわゆる前期竪穴式石室という概念の中では特異な形態であると言わざるを得ない 方形石垣と呼ばれている板石積みの石列および方形埴輪列が底石の墓底と同レベルの墳頂平坦面から造られている 4. 箸墓古墳 西殿塚古墳両古墳とも壇と吉備地域に起源をもち 展開してきた宮山型特殊器台土器 都月型特殊器台埴輪をもち 前方部が撥形状に開く大和地域に出現した古墳出現期の大形の前方後円墳である 箸墓古墳はいわゆる典型的な前方部が撥形に開く形態であるが 西殿塚古墳はくびれ部から僅か 30m 付近から前方部が開き より直線的に前方部が開いていく形態である 墳丘形態からは箸墓古墳より後出的であると言える そのことは 2000 年に報告 ( 泉ほか 2000) された埴輪の型式からも追証できる 西殿塚古墳では有段口縁の円筒埴輪が多く出土しており 埴輪列の存在が推定されていることからも言える 両古墳とも埋葬施設の内容は知られていない 後円部に造り出される壇を手懸りに前述した大和地域の三古墳との関係をみていきたい 両古墳とも墳形実測図の観察から 後円部の壇の存在は確認できる 西殿塚古墳は実測図から後円部に方形壇だ造り出されてことは明瞭に読み取れる 前方部にも後円部よりやや縮小した方形壇が認められる 箸墓古墳は特異な墳丘形態の五段斜面とみるか 墳丘の一部と捉えるかは意見の分かれるところではあるが 西殿塚古墳およびその後に築造される 200m を超える大形前方後円墳である桜井茶臼山古墳 メスリ山古墳に方形壇が存在していることから考えて壇と把握している その場合 箸墓古墳は墳形実測図からは円形を呈していると観察できる 以上の想定のもとで 壇の規模をみると 箸墓古墳は 40m を超え 高さ 5m 前後と大きい 西殿塚古墳でも 20m を超えている その後の方形壇よりも明らかにに規模の大きいことが判る 箸墓古墳から多くの特殊器台土器 特殊器台埴輪が採集されており その位置は円形壇の上部平坦面および壇下部の平坦面から採集されている また 壇の上部からは特殊壺形土器 前方部からは焼成前に底部を穿孔した二重口縁壺形土器が採集 ( 中村 笠野 1975) されている 円形壇上に特殊壺形 器台埴輪が置かれ これらを使用した祭祀が行なわれたことが窺い知れる 5. 小結大和地域における 200m を超える前期大形前方後円墳には いずれも 壇と埴輪による祭式が行なわれたことが認められる 竪穴式石室と壇の築成の先後関係をみれば 第 4 表のように整理できる 箸墓古墳 西殿塚古墳の壇と埋葬施設の関係をみれば 埋葬施設構築以前に壇が築成されていた 52

66 と捉えられる ( イ ) から ( ロ ) に推移した段階で 大和地域の前期大形古墳において 墳頂平坦面から埋葬施設の構築を始めるという新たな構築墓壙 ( 和田 1989) の手法を採用している 時期的には前期後半に相当し 周濠をもつ行燈山古墳 渋谷向山古墳の出現という大和地域東南部における王権の高揚期に導き出された埋葬施設の変革と捉えられる また 特殊器台埴輪を払拭した時期でもある つぎに 大和地域における前期大形前方後円墳の埋葬施設構造の推移を示すと 第 5 表のように整理できる この表をみても 埋葬施設の築造原理が 第 4 表の ( イ ) から ( ロ ) に移行する前期後半の時期に 副葬品埋納のための独立した施設の出現 石塁壁の採用という大和地域以外の畿内地域の埋葬施設ではみられない構造を採用している これらの構造は 大和地域における前期大形前方後円墳の埋葬施設の整備の過程を表現しているとともに その特質を表わしていると把握できる 大和地域以外の畿内地域の埋葬施設には見られないこれらの特徴が 吉備地域の古墳の埋葬施設にみられる 石塁壁は不安定な形であるが 前期前半の岡山県湯迫車塚古墳 ( 近藤 鎌木 1968 註 18) に認められる 湯迫車塚古墳の石塁壁は 竪穴式石室の上部 すなわち 墓壙掘削の平坦面に築かれている そして 石室東側のみに石室と平行して構築されている 石塁壁の長さは約 11m である 構築位置からみれば メスリ山古墳の上部石塁壁に相当する なお 竪穴式石室の基底部構造は 岩盤の墓壙底中央を凹字形に掘り込み凹字形部分に粘土を設置して棺床 ( 註 18) としている 壁体の基礎は凹字形部分の肩部に置いている 岡山県金蔵山古墳中央石室 ( 西谷 鎌木 1959) はメスリ山古墳の埋葬施設と共通する要素を多く有している 遺物埋納用の副室の存在 墓壙底中央を U 字形に掘り込むE 型式であること 方形壇と方形埴輪列が共通するところである 古墳時代前期段階は吉備地域最大の前方後円墳であることも考慮のなかにある 棺床部分にあたる墓壙底中央を掘り込む形態は 吉備地域の弥生墳丘墓の埋葬施設である短小型の石室にその存在が知られている 岡山県にある黒宮大塚墳丘墓 金敷寺裏山墳丘墓 都月 2 号墳丘墓である そして 古墳出現期の七つク ロ 1 号墳後円部第 1 石室 湯迫車塚古墳にも引き継がれ 前期末から中期初頭の金蔵山古墳中央石室 南石室と継続していることからみて 吉備地域の弥生墳丘墓 前期古墳における埋葬施設の基底部構造の特徴と言える形態である 53

67 なお この基底部の特徴が 大和地域の桜井茶臼山古墳 メスリ山古墳の両石室に認められるのである このことは 古墳成立当初か古墳時代前期の期間を通じて 吉備の中でも備前地域の地域政権と大和地域の東南部に成立したヤマト政権の支配層の間には 埋葬施設の共通性から捉えて密接な政治的関係を結んでいると指摘できるであろう 埋葬施設の共通性にとどまらず 供食儀礼の祭器として 吉備地域で創案され 成立 発展してきた特殊器台 壺形土器と特殊器台 壺形埴輪が両地域で多く共有 ( 註 19) されていることからも当を得た判断と言えるであろう 初期倭国の王権が 諸地域の政治集団による政治的結合体制よって成立した把握されており その政権中枢に吉備地域の政治勢力の果たした役割の大きいことを物語っている 言い換えれば 吉備地域の政治勢力の協力がなければ 初期ヤマト王権の成立は遅れていたかも知れない また 吉備における地域政権の王の埋葬施設に 大和地域で創案されたとみても問題ない遺物埋納用副室 方形壇が採用されていることもその表れであろう このような 大和地域と吉備地域の相互影響的な関係は 後述する畿内の山城地域や河内地域の埋葬施設の構造には見られない現象である 大和の大王と吉備の王の直接的な合意の基に行なわれていることと理解できる なお 前期後半に粘土槨を採用している奈良県東大寺山古墳と同県富雄丸山古墳をみておきたい 両古墳は前期後半の大和地域においては 中規模古墳 (100m 前後の規模の古墳 ) の埋葬施設が詳細に知られている古墳である 東大寺山古墳は墳長 140m の前方後円墳であり 富雄丸山古墳は径約 90m の円墳である しかし 埋葬施設は 共に基台を造り出す基底部構造をもつ粘土槨を採用している 墳形の相異および大和盆地東部と大和北西部という集団基盤を超えて 両古墳の埋葬施設のきわめて類似した一致点は 両有力な首長墳の政治的な関係の強さを表現している 両古墳とも豊富な副葬品の中に巴形銅器をもち 大形前方後円墳が大和東南部の広義の大和古墳群から盆地北部の佐紀古墳群に移り 築造された時期にあたる 鰭形普通円筒埴輪の確立とともに佐紀政権 ( 岸本 2005) とも提唱される王権が創設した時期の現象である これらの指摘から 古墳時代前期後半の時期における埋葬施設の種類をみれば 組合式石棺や粘土槨が 大王墓や地域の盟主的首長墳に採用されている 大和盆地東南部に政権中枢をおいた割竹形木棺と竪穴式石室の組合せという伝統的な埋葬施設も継続している このことは ヤマト王権が採った多様な支配の政治戦略と捉えられる 前期後半はヤマト王権にとって初めての危機であり 危機に対応するために対処した政策である それは 中国西晋王朝の滅亡とも連動している 空白の四世紀に起こったことである 大形前方後円墳が築造される場所の移動という現象に表れる そして 古墳時代におとずれた最初の画期であり 地域の政治勢力を巻き込んだ列島規模の変動 ( 都出 ) である もとにもどれば 東大寺山古墳や富雄丸山古墳には 政権中枢を形成していた吉備地域との埋葬施設の共有した要素は認められない このことは 吉備地域の政治勢力の盟主的首長との政治的な 54

68 親縁な政治的関係が成立していたのは このことはヤマト政権の大王および大王クラスの支配層が保持していたということを表現していると考えられる なお 東大寺山古墳と富雄丸山古墳の粘土槨の基底部構造は 河内地域の竪穴式石室や粘土槨の構造と同類型で把握できる構造である 列島内の外交交渉と関連することがらであるとみている 第 4 節埋葬施設からみた山城地域と河内地域そして摂津地域 1. 山城地域の政治動向山城地域における B 型式 C 型式の竪穴式石室の基底部構造を採用している前方後円墳は 桂川西岸の乙訓地域に集中的に築かれている 桂川西岸の乙訓地域の前期古墳は その分布状況から 3 グループに分けられる ( 都出 1974) と考えられる ( 註 20) 都出比呂志が提唱されるグループをみれば 北から樫原グループ 向日グループ 長岡グループという 農業共同体の首長たちが共同体を超えて政治的に結合した 政治集団が存在していたと捉えている 樫原グループは 一本松塚古墳 ( 前方後円墳 墳長推定 100m?) 百々池古墳( 円墳 径推定 20m 以上 ) 天皇ノ杜古墳( 前方後円墳 墳長 86m) が主要な前期古墳である 一本松塚古墳と百々池古墳は竪穴式石室を埋葬施設していることが確認されているが その構造の詳細は不明である 一本松塚古墳石室は後円部中央に墳丘主軸と平行に構築されており 長さ 2.7m 幅 0.9m と伝えられているが この数値はこのまま採用しないほうがよいであろう 百々池古墳石室は南北方向に主軸をおき 長さ 1.8m 幅 0.9m と伝えるがこの数値もこのまま使用しない方がよいであろう 百々池古墳からは三角縁神獣鏡 4 画文帯神獣鏡 1 を含む 9 面の鏡 石釧 17 車輪石 3など副葬されていたが 推定 20m 以上の円墳でこれだけの副葬品と竪穴式石室をもつことは にわかに信じ難く 墳形と規模の再検討が必要であろう 築造時期は都出のいう新しい型式のものがあり 前期後半 (4 世紀後葉 ) と捉えられる 天皇ノ杜古墳は墳形や埴輪型式の特徴から前期古墳の前期後半と考えられており 墳丘形態は兵庫県五色塚古墳と類似 ( 都出 1990) するという 向日グループの主な前期古墳は 元稲荷古墳 五塚原古墳 ( 前方後円墳 墳長 102m) 寺戸大塚古墳 妙見山古墳である この記載順に変遷していると捉えられ 100m 前後の規模をもつ盟主的首長墳が前期前半の 1 期から前期後半 3 期まで継続して築かれている 元稲荷古墳は前方後方墳であるが 畿内地域では大和古墳群にしか採用されていない特殊器台埴輪が出土している 元稲荷古墳の被葬者である首長は 初期倭王権の政権中枢の一翼を担っていた向日丘陵古墳群 ( 梅本 1999) の最初の地域王墓であろう こうした性格をもつ首長を葬った元稲荷古墳後円部石室が B 1 型式であることは 大和地域の大王墓との関係に起因 ( 註 21) しているのであろう 寺戸大塚古墳後円部石室は C 1 型式の基底部構造を採る 石室上部には低平な方形壇とそれを囲む埴輪列が樹立されていた 方形壇とそれを囲堯する形で配置される埴輪方形区画は 古墳時代前期における初期ヤマト王権の大王墓級の古墳に採用された埋葬施設のひとつの特質である 元稲荷 55

69 古墳から維持している大和地域の大王との緊密な政治的関係が持続していると捉えられる現象と理解している 寺戸大塚古墳の前方部石室は C 2 型式の基底部構造である もちろん方形壇や埴輪方形区画は採用されていない 石室基底部構造に周溝式を採用するのは山城の地域政権の王墓が採用する王統の証であろう 5 世紀初頭の鳥居前古墳まで継続している 乙訓地域の有力な首長墳が 向日グループから長岡グループに移動してもこの原則が守られている このことは向日丘陵古墳群の形成時期には長丘グループは同族ではあるが 傍系であったのであろう 寺戸大塚古墳の前方部石室は後円部石室と同形同大に近い竪穴式石室でありながら 周溝式を採用せず 方形壇と埴輪方形区画が採用されていないこととは これらは地域王墓の指標であるのであろう このことは前方部の被葬者は後円部の被葬者に対して従属的な関係であることを表わしている 副葬品目には大きな格差は指摘できない 妙見山古墳後円部の埋葬施設は 木棺ではなく組合式石棺である この棺形態および石棺を覆う埋葬施設の構造は 河内地域の松岳山古墳や大和地域北部の佐紀陵山古墳との石室構造の関連が考えられる 向日丘陵古墳群中では妙見山古墳は最後にして最大の前方後円墳である 前方部には粘土槨があり その位置は前方部平坦面の前端にあり 後円部の埋葬施設と同じく墳丘主軸とは直交している 埴輪型式や前方部に粘土槨が造られていること 後円部の組合式石棺の存在 筒形銅器が副葬品目にあることなどから 前期後半の築造と考えられる この時期は 初期倭国王墓が大和東南部の大和古墳群から大和北部の佐紀古墳群に移動している時期にあたり 佐紀陵山古墳と大粋な視点では類似している石棺型式という埋葬施設を採用している このことは 中央政権の大形古墳が佐紀の地域に移動しても 巧みな政治的折衝によって 向日丘陵古墳群の盟主の首長が この事態に対応し 大王 大王クラスの首長と緊密な政治的関係を維持した証左にほかならない 以上のように 向日丘陵古墳群の盟主的首長墳は前期古墳の期間中は安定した形で続き 埋葬施設も大和地域の大王級の埋葬施設とたえず一定の要素を共有していることから考えて 向日丘陵古墳群の地域王達は 初期倭国の王権の中で安定した地位を確保していた その意味で 向日グループの有力首長は前期ヤマト王権からみれば 山城地域を代表する有力な政治集団であると遇されていたのである 長岡グループでは長法寺南原古墳 ( 前方後方墳 墳長 60m) 鳥居前古墳が主要な前期古墳である このグループは 前期後半の長法寺南原古墳の時期には向日グループとは異なる石室基底部構造を採用しているが 山城地域の首長墳の特徴である周溝式という形態は引き継いでいおり この周溝の東南隅から石室外に延びる排水溝が確認されている 中期初頭の鳥居前古墳の時期になると 寺戸大塚古墳後円部石室と同じ C 1 型式の基底部構造を採り その影響がみられる このことは 向日丘陵古墳群が盛期の時期に 長岡グループの首長は同族としてその傘下にあり 活動していたことの証であろう 長法寺南原古墳と鳥居前古墳の両後円部石室が周溝式であることがその理由であ 56

70 る なお 南原長法寺古墳の被葬者は鰭付円筒埴輪が採用されており 妙見山古墳の有力首長が活躍していた時代であり 鳥居前古墳にも少量の鰭付円筒埴輪を用いていることは南原長法寺古墳の被葬者の地位を引き継いだ首長であると考えられる ほかに 山城地域で有力な前期古墳がみられるのは 南山城における木津川西岸北部の男山丘陵周辺の八幡グループと木津川左岸南部の椿井グループがある ( 註 22) 八幡グループには前期前半に比定される前方後円 ( 方 ) 墳の築造は確認されておらず 乙訓地域の古墳より遅れて古墳が築造され始める このグループでは 八幡茶臼山古墳 ( 前方後方墳 墳長 50m) 八幡西車塚古墳( 前方後円墳 墳長 115m) 石不動古墳( 前方後円墳 墳長 75m) 八幡東車塚古墳( 前方後円墳 墳長 94m) 等が築造されている 八幡茶臼山古墳は後円部に阿蘇熔結凝灰岩の石材で造られた舟形石棺を内蔵する竪穴式石室が構築 ( 堤 高橋 1969) されていた 石棺自体の型式も九州的な舟形石棺 ( 間壁 1957) である 竪穴式石室は長さ 4.3m 幅 1.95m 高さ 1.2m であり その基底部の構造は平坦な墓壙底全面に礫石を敷き その上に直接石棺を安置する 墓壙底の形状は向日 長岡両グループのような墓壙底四周に周溝をめぐらす周溝式ではない 八幡西車塚古墳 ( 梅原 1937) は周濠を配する古墳で 後円部中央に墳丘主軸と直交する竪穴式石室が確認されているが その詳細な構造は判らない 副葬品は三角縁神獣鏡 1 環状乳画文帯神獣鏡 1を含む 5 面の鏡 碧玉製鍬形石 2 碧玉製車輪石 10 碧玉製石釧 3 碧玉製合子 1 玉類等の豊富な遺物が出土している古墳である 石不動古墳 ( 梅原 1995) は後円部に 2 基の粘土槨が墳丘主軸と斜交して構築されていた 設計段階からの計画的な複数埋葬と捉えられる 北槨の割竹形木棺の長さは 7.5m 以上で 南槨の割竹形木棺の長さは 6.9m 以上である 南槨の副葬品は 同向式画文帯神獣鏡 1 碧玉製石釧 3 碧玉製管玉 40 滑石製棗玉 29 長方形革綴の武具 鉄鍬先 刀子等が出土しており 北槨からは鉄剣 1 鉄刀 5~6 類同族他 30 等が出土している この副葬品の組合せからみて 南槨が女性首長であり 北槨が男性首長であろう 共同統治した姿態が窺い知れる可能性が高いとみている 八幡東車塚古墳 ( 梅原 1937) は後円部に粘土槨らしい埋葬施設が存在したようであり 前方部に木棺直葬とみられるともいう埋葬施設があったらしい 墳丘主軸の関係は両埋葬施設とも直交関係であったらしい 粘土槨から舶載長宜子孫内行花文鏡 1 ダ龍鏡 1 仿製六神獣鏡 1 素環頭太刀 3 などの出土が伝えられている 木棺直葬には三角縁神獣鏡 1 の出土が伝えられている この八幡グループは墳丘規模では 向日グループと比較しても遜色ないが 埋葬施設の種類において 向日丘陵の向日グループ 長岡グループの諸古墳にみられた共通性が辿れなく 累世的な首長系譜をたどれる古墳と考えることは困難である 築造時期をみれば 100m 前後の規模をもつ前方後円墳であれば 後円部に竪穴式石室を構築されて相当であるのであるが 八幡西車塚古墳は竪穴式石室であるが 八幡東車塚古墳 石不動古墳は竪穴式石室を採用されていなく 粘土槨であり 新興首長 ( 福永 2005) の古墳と捉えられ 首長の社会的 政治的な身分階層に起因しているのであろう 57

71 八幡茶臼山古墳の舟形石棺は 肥後地域の熊本県向野田古墳 ( 前方後円墳 墳長 89m) の阿蘇熔結凝灰岩の石材で造った舟形石棺と形態的には類似する 向野田古墳の舟形石棺を内蔵する竪穴式石室 ( 富樫 1978) は 長さ 4.25m 幅 1.8m 高さ 1.8m である この竪穴式石室は基底部構造 石室控え積み手法等畿内地域の竪穴式石室そのものの構造を採用していると言える その基底部構造は C 2 型式に属する すなわち 墓壙底全面に礫石を充填し その中央に板石を方形に配し 板石の上部に粘土棺床を設置する構造は 寺戸大塚古墳後円部石室と酷似する ただ 墓壙四周に周溝を造り出さないこと ( 註 23) のみが異なる なお 寺戸大塚古墳 八幡茶臼山古墳 向野田古墳ともその竪穴式石室は 二段墓壙と呼ばれる形状であり この点からもその共通性が指摘できる 舟形石棺とそれを覆う竪穴式石室の構造からみて 三者の古墳被葬者である有力な首長達は 強い絆で結ばれた政治的な関係をそこに読み取ることができるであろう 向野田古墳の被葬者である首長と山城地域の首長層との関係が 同盟的な関係であったのか 従属的な関係であったかは 地域がかけ離れていることでもあり ここでは問わないにしておきたい 寺戸大塚古墳の被葬者である盟主的首長と八幡茶臼山古墳の首長との関係は 後者が前者に対して一定の独自な位置を保持しながらも従属的な関係として捉えられる こうした関係は 乙訓地域の首長層と八幡グループの粘土槨を埋葬施設とする石不動古墳 八幡東車塚古墳との間でも認められると把握している すなわち 乙訓地域で系譜がたどれる首長達と八幡グループの首長達の関係は 前期古墳の期間を通して前者が盟主的関係を保持していたのであろう そうして 八幡グループに前方後円 ( 方 ) 墳が築造される契機は 乙訓地域の政治勢力の二次的関係で築造 ( 註 24) されるのであろう しかし 前期後半の時期には墳丘規模が八幡グループの方が大きい これは 佐紀政権とも称される権力が 初期大和政権の山城地域の分断をねらった戦略であり そこには佐紀政権のテコ入れがあったと捉えている 次ぎに 椿井グループの椿井大塚山古墳と平尾城山古墳をみていきたい 椿井大塚山古墳は後に山城と称される地域の中では 最大の前期前半の前方後円墳であり 三角縁神獣鏡を多量に副葬していた古墳として つとに著名な古墳である その基底部構造は A 型式である 平尾城山古墳は摂津地域の弁天山 C1 号墳の基底部構造と類似するE 2 型式を採用している 山城地域では 他にみられない石室構造をもつ前期前半の2 期の前方後円墳である 椿井大塚山古墳と平尾城山古墳の両者の石室構造が相異していることから考えれば 同族的な首長系譜が両者の間にあるとは認め難い 山城地域にこの両者の系統につながる基底部構造をもつ竪穴式石室がみられない現状では この椿井グループには 椿井大塚山古墳と平尾城山古墳の大形前方後円墳に属する前期古墳しかなく その系統につながる前期後半に 両者を引き継ぐ大形古墳がなく 相楽郡内に拡げてみても中小規模な前期 中期古墳すら見出せないことを捉えて かつて田中勝弘 ( 田中 1973) が政治集団の移動という論は成立しないであろう このように 椿井大塚山古墳と平尾城山古墳しか築造されず その系統を引き継ぐ中小規模もな 58

72 いという地域に二大前方後円墳のみが築造された起因は 強い外的な政治戦略に基づいたものであろう この地域に弥生時代以来形成されていた在地における農業共同体の首長達は その外的な政治権力のまえには中小古墳も築造できない関係であったのであろう 古墳時代前期前半段階において椿井地域のみが外的権力に支配を受けるに至った原因は この地域が木津川 淀川を通じて大和と瀬戸内海とを結ぶ舟運の基点 ( 小林 1961) という地理的条件によるのであろう 前期前半の椿井大塚山古墳の時期には その基底部構造が墓壙底全面に板石を敷くという構造は桜井茶臼山古墳と同様な構造であることから 椿井大塚山古墳の首長は 政権中枢に一定の権力と権威を保持していた首長と想定され 外的な政治権力とは大和東南部に政権中枢をおいた初期ヤマト政権と捉えている 以後 山城地域 山城勢力と表現する場合は この椿井グループはこの地域に含めて捉えないほうがいいと考えている 2. 河内地域の政治動向河内地域における主要な前期前方後円墳の分布をみると 大和川と石川の合流点付近にある玉手山丘陵と松岡山丘陵に集中的に築造されている ほかに 石川流域では 真名井古墳 太師山古墳 御旅山古墳等が散在的に認められる 中河内の四条畷地域には忍岡古墳が存在している 玉手山古墳群は前方後円墳 13 基 円墳 7 基前後が玉手山丘陵に密集して築かれている 100m 級の大形に属する前方後円墳は 3 基で 玉手山 3 号墳 ( 勝負山古墳 110m) 玉手山 7 号墳 ( 後山古墳 110m) 玉手山 1 号墳 (110m) である 松岡山古墳群は墳長 120m である松岳山古墳を中心として 円墳とみられる小規模な古墳 8 基ほどから構成されている 前期の古墳群のあり方として これほど多くの前方後円墳が近接して築造されている古墳群は ヤマト政権の中枢である大和東南部にある大和古墳群以外に認められず 畿内地域にあっても特別な存在形態を示している古墳群である このような古墳群のあり方みて この地域には政治的結合を成しえた有力な政治集団が形成されていたといえるであろう 近年 安村俊史が主導による 玉手山古墳群研究会 が組織され この古墳群の詳細な分析と再検討が行なわれており 5 冊の 玉手山古墳群の研究 の刊行によって この古墳群の内容が随分明らかになった その大きな成果のひとつとして 安村が玉手山丘陵にある玉手山古墳群と捉えていた古墳群を 玉手山 1~10 号墳を玉手山古墳群と丘陵北側にある駒ケ谷地区にある古墳を駒ケ谷古墳群と分離すべきであるという提言である 埴輪型式の検討により導き出されたとみられるこの見解は竪穴式石室の基底部構造とも整合的である この他にも 古墳群の群形成の過程や 大和古墳群と佐紀古墳群との関係についても 現段階では妥当な見解が披瀝されている 玉手山古墳群の埋葬施設からみていきたい 玉手山 9 号墳が玉手山古墳群の中で最初に築かれた前方後円墳である 墳長は 65m で 柄鏡形の前方部をもつ 埋葬施設は後円部に墳丘主軸と平行に竪穴式石室 1 基構築されているのみで 前方 59

73 部には埋葬施設は築かれていない 墓壙底は平坦と捉えられることが多いが 墓壙底中央が浅い基台状に僅かに盛り上がっており 下池山古墳などの墓壙底と類似する形態と捉えるとみられる その墓壙底に礫石を充填し 礫石上に粘土棺床を設置する基底部の構造は 下池山古墳と同様であり 基台式の B 3 型式と捉えておきたい 粘土棺床下には板石の載置が確認されている 玉手山 6 号墳は 墳長 70m の前方後円墳で 後円部に 2 基の竪穴式石室が築かれている いずれも墳丘主軸と平行に構築されている 中央石室の墓壙底四周には不整形な周溝がめぐらされる形態で 墓壙底中央がわずかに高まりをみせる墓壙形態である その墓壙底に礫石を充填し 礫石上に粘土棺床を設置している基底部構造である 東石室は墓壙底中央に低い基台を造り出し 墓壙底上に礫石を充填し 礫石の上に粘土棺床を設置する このような基底部構造を採る中央石室 東石室は 寺戸大塚古墳後円部石室と類似した構造であり この両石室の基底部構造を B 3 型式と捉えるか C 1 型式とみるか迷うところである このことは両型式が類縁性をもっていることの証左であろう ここでは 中央石室 東石室も墓壙底中央の盛り上がりを考慮して B 型式の範疇で捉えておきたい 中央石室が B 3 型式 東石室が B 2 型式と捉えておきたい 玉手山 9 号墳の石室基底部構造を基点にすれば 玉手山古墳群の石室基底部構造の変化は以外とスムーズに系譜が追えるところと捉えている 玉手山 9 号墳と玉手山 6 号墳は 埴輪型式と粘土槨が構築されていないことからみても 前期前半の築造とみてよいであろう 玉手山 5 号墳は 墳長 75m の前方後円墳で 墳丘主軸と平行関係に 後円部に竪穴式石室 1 基と粘土槨 1 基が 前方部に粘土槨 2 基が構築されていた 後円部石室は墓壙底中央に高い基台を造り出し B-2 型式の構造を採用している 後円部粘土槨と前方部 1 号粘土槨は平坦な墓壙底に礫石を充填し 礫石の上に粘土槨を造る構造である 後円部石室からは巴形銅器が副葬されており 時期は前期後半である 玉手山 10 号墳 ( 北玉山古墳 ) は 墳長 51m の前方後円墳で 後円部に竪穴式石室 前方部に粘土槨が調査されており いずれも墳丘主軸と平行している 後円部石室の基底部構造は 基台を造り出す B-2 型式であり 墓壙底と基台上に礫石を充填し 礫石上に粘土棺床を設置する構造は 玉手山 5 号墳と同じであり 壁体基礎が粘土棺床肩部に位置していることも共通している それに比して 前述している前期前半の玉手山 9 号墳 玉手山 6 号墳の石室壁体基礎は 粘土棺床の下部と同レベルの位置から構築されているという違いが指摘できる 玉手山 3 号墳 ( 勝負山古墳 ) から出土したと伝承のもつ讃岐地域の鷲ノ山石で造られた割竹形石棺の棺蓋が 安福寺境内にある この石棺は側面に鍵手状の帯状文様を線刻している この割竹形石棺が 墳長 106m の玉手山古墳群では最大級の前方後円墳である玉手山 3 号墳からの出土とするには 畿内地域における同規模墳の埋葬施設の比較と玉手山古墳群におけるの埋葬施設の内容の比較から考えて その可能性はきわめて少ないと捉えられる この安福寺石棺は 漠然と玉手山古墳群からの出土という程度に捉えている方が無難である 駒ケ谷古墳群では 駒ケ谷宮山古墳と狐塚古墳に竪穴式石室が確認されている 駒ケ谷宮山古墳は 墳長 65m の前方後円墳で 後円部に竪穴式石室 前方部に粘土槨 2 基が確認されている 後円部石室は墳丘主軸と直交の関係にあり 前方部の 2 基の粘土槨は平行の関係に築 60

74 かれている 後円部石室の墓壙は平坦であり そこに礫石を充填し 礫石上に粘土槨を造る 基底部構造の型式は C 2 型式である 石室壁体の基礎は 粘土棺床の下部と同レベルの位置から構築されており 玉手山 5 号墳や玉手山 10 号墳と同じ技術 思想のもとで構築されており 系譜が連続している 前方部 1 号粘土槨は平坦な墓壙底に礫石を充填し 礫石上に粘土槨を造る構造であり 基底部の構造としては 後円部石室と通じる 前方部 2 号粘土槨は墓壙底をU 字形に掘り窪め そこに粘土槨の下部の粘土棺床を設置している構造である 玉手山 10 号墳前方部粘土槨も同じ構造である 狐塚古墳は墳長 92m の前方後円墳と捉えられており 後円部に竪穴式石室が確認されている 石室の墓壙は 墓壙底四周に周溝を掘り 墓壙底中央を僅かに窪め そこに薄い礫石を敷き その上に粘土棺床を造る構造である さらに 粘土棺床肩部まで礫石を充填する 石室壁体の基礎は粘土棺床の肩部と同じレベルから積みはじめている 鳥居前古墳後円部石室と類似する構造である 松岡山古墳群の茶臼塚古墳と松岳山古墳の埋葬施設をみていきたい 茶臼塚古墳は 径 23m の円墳であるが きわめて重厚な竪穴式石室を構築している 墓壙底の幅が 4.2m もあり 平坦な墓壙底中央に直接粘土棺床を設置し 粘土棺床の肩部まで礫石を充填する 石室壁体の基礎は礫石上にある 控え積みも板石と礫石の互層の重厚な構造である 前期後半の石室高としてはきわめて高く 1.6m である この石室の基底部構造は 摂津地域に多い D 型式の構造を採用している 副葬品の鍬形石 車輪石 石釧の石製腕飾類はきわめて豊富に副葬されていた 松岳山古墳の埋葬施設は 組合式石棺を内蔵する一種の竪穴式石室であるが きわめて特異な構造である 墓壙をもたず 後円部平坦面から石室構築を始めている構築墓壙である 石室の前後小口部に小石室 ( 副室 ) を設けている ただし 石室は石室というよりも石棺の周囲に積み石を築き そこに空間ができた観を呈している 墳頂部は積石塚のような景観を呈している 石棺長軸方向の積み石部分に石棺を間にして 南北方向に大形の有孔立石を立てていたとみられる状況で検出されている なお その基底部構造をみると 石棺が設置される下部には 墳頂平坦面を若干掘り窪め そこに粘土が敷かれている これは竪穴式石室の粘土棺床と同質の施設とみることも可能で 竪穴式石室の基底部構造の遺制と捉えることもできる これらの特徴は 細部の構造は異なるものの 全体的には 佐紀陵山古墳と妙見山古墳と類似し 強い関連性が窺いしれる 松岳山古墳の組合式石棺は 蓋石と底石には花崗岩の大形加工石材を 側石には讃岐地域の鷲の山石を使用した大形加工石材 ( 小林 1957 間壁 1975) を組み合わせている 以上 現在知れる玉手山古墳群 駒ケ谷古墳群 松岡山古墳群の竪穴式石室の内容である 玉手山古墳群で検討してきた古墳は 墳長 100m 未満の古墳であり 玉手山 5 号墳が墳長 75m 玉手山 6 号墳が墳長 70m とその中では規模の大きいものである 玉手山古墳群で河内地域の王墓とも目される 100 クラスの前方後円墳は 玉手山 3 号墳 ( 墳長 106m) 玉手山 1 号墳 ( 墳長 110m) 玉手山 7 号墳 ( 墳長 110m) であり 中心埋葬施設の詳細な構造は把握されていない このような中で 玉手山 7 号墳の中心埋葬施設が規模の大きい粘土槨である 61

75 が その上面を確認しているのみで 基底部構造等の内容は不明である 玉手山 3 1 号墳は竪穴式石室と推測されてはいるがその構造は全く不明である 玉手山古墳群で調査され 竪穴式石室の基底部構造が判っているものは B 型式の範疇で捉えられものである 玉手山 9 号墳石室 玉手山 6 号墳両石室とも 基底部構造には類縁性があり 石室壁体基礎が粘土棺床下部と同レベルであることは共通している このような構造と両古墳には粘土槨が採用されていないことから その築造時期を前期前半と捉えた 前期後半に粘土槨が採用されている玉手山 5 10 号墳では 高い基台を付設する典型的な B 型式が 玉手山古墳群にも出現している そして 石室壁体の基礎が粘土棺床の肩部と同レベルの位置に変化している いずれも B 2 型式と捉えた なお 玉手山古墳群の前方後円墳の埋葬施設をみると 後円部の中心埋葬施設は そのほとんどが竪穴式石室であり 前方部は粘土槨を採用していると言える 古墳築造の契機は 後円部竪穴式石室に埋葬される被葬者であり その主体はあくまで石室に埋葬される人物である 玉手山古墳群でも 竪穴式石室と粘土槨を選択されていることは この政治的集団における階層差を表現 ( 註 25) しているものである だだし 粘土槨の基底部構造おいても 竪穴式石室と同様な構造を採用している このことは 被葬者間は親縁的であり 同族関係を紐帯にしているのであろう 駒ケ谷古墳群の時期になると 竪穴式石室の基底部構造にも変化が現れる 礫敷式の C 型式の採用である 石室壁体基礎のレベルは前期後半の玉手山古墳群と同じである 松岡山古墳群では この古墳群が立地している松岡山丘陵に突如として 前期後半に組合式石棺をもつ前期古墳としては 河内地域最大の規模をもつ墳長 120m の松岳山古墳が築造される それまで この丘陵上においては 30m 以下の古墳しか築かれていなかった 北野が指摘するように 松岡山古墳群の小規模な古墳にしては 優秀な副葬品を埋納しているが その勢力の伸張をもって松岳山古墳の出現を捉えるよりも 玉手山古墳群の 3 号墳 1 号墳 7 号墳の 100m 級の首長系列の中で位置づける方が 距離的にも 1 kmほどしか離れていないことを考え合わせる妥当 ( 註 26) であろう 同族内における勢力交替であろう 以上のように 広義の玉手山古墳群の被葬者像は 部族的組織の有力な特定氏族集団の族長を中心として その同族を含む形で順次築造されていったことを示しているものと考えられる その族長墓は 玉手山 3 号墳 玉手山 1 号墳 玉手山 7 号墳から松岳山古墳に移るという系譜であると捉えたい 族長墓が松岡山丘陵に移動した前期後半には 埋葬施設 副葬品等の内容 ( 註 27) から この政治集団に大きなな変革があったことが窺いしれる 次ぎに 広義の玉手山古墳群と河内地域に散在的に築かれている古墳の関係をみていきたい 北河内地域の忍ケ岡古墳は B 型式の基底部構造をもつ墳長 90m の前方後円墳である 石川流域の御旅山古墳 ( 前方後円墳 墳長 65m) 真名井古墳( 前方後円墳 墳長 60m) 大師山古墳 ( 推定 52m の前方後円墳 ) は いずれも粘土槨を埋葬施設とする これなの中で 詳細な構造を知れるのは 真名井古墳であり その基底部は 墓壙底中央に基台を造り出し その四周に礫石を充填する B 型式の竪穴式石室と同じ構造を採用している 真名井古 62

76 墳は 広義の玉手山古墳群の首長墓の古墳系列のいずれかと併行関係にあることは間違いないと捉えられ そこには首長間の緊密な政治的関係が成立していたものと考えられる その関係は 北河内地域の忍ケ岡古墳と石川流域の真名井古墳では その政治的 社会的立場が若干異なる 忍ケ岡古墳は一定の独立性を保持しながら 玉手山古墳群の首長層と緊密な関係を保っていたが 真名井古墳は粘土槨という埋葬施設からみて 新しい時代に対応した新興勢力の首長墓と捉えられる 忍ケ岡古墳は淀川東岸にあたり 摂津地域とも地理的に近い関係にありながら その石室基底部構造は摂津地域と異なり 玉手山古墳群の前期後半の玉手山 5 号墳などと類似する このことは 前期後半の段階では 玉手山古墳群という河内地域を代表する王とも目される首長を中心として 少なくとも忍ケ岡古墳の所在する地域から石川流域の真名井古墳を結ぶ範囲には 首長層による政治的同盟関係が成立していたのであろう 埋葬施設の構造を首座において 山城地域と河内地域の前期古墳を素描してきた その分析を通して 両地域を代表する有力首長系譜がたどれる古墳群である向日丘陵古墳群と広義の玉手山古墳群の内容にきわめて類似点が多いことが指摘できる 以下 次の点を列記しておきたい 1 両地域とも竪穴式石室の基底部構造に B 型式と C 型式を採用しており 共に B 型式から C 型式という推移がたどれる 基底部構造においては 現在の知見では 向日丘陵古墳群が玉手山古墳群に強い影響を与えている観をまぬがれないが その原因は 玉手山古墳群の 100m 級も埋葬施設が未調査ということにあるのであろう 古墳群の規模から考えて 本来ある一定の関係のもとに相互に影響し合っているといった姿が本来のものであろうと考えられる 2 松岳山古墳と妙見山古墳の棺構造の強い関連性が窺えることと それまで B 型式 C 型式の石室基底部構造を採用していた両古墳群の有力首長が 前期後半の組合式石棺の採用とともに特異な竪穴式石室を造っており その埋葬施設の変化の方向も軌を一にしている また 両石棺の石材をみると 側石に凝灰岩を使用しながら蓋石には硬い花崗岩を用いる という共通性をもっている 硬い花崗岩を加工する技術は 四世紀後半の対外関係のもとに海外から伝来した新技術 ( 小林 1977) であると考えられており 新しい石工技術をいち早く自己の棺に採用しえた首長の政治的立場も同等であると言える 古墳の規模も 松岳山古墳の 120m 妙見山古墳の 125m とほとんど差がなく いずれも石棺の主軸は墳丘主軸に直交している 3 割竹 舟形石棺のあり方からも 両古墳群は共通する 玉手山古墳群には讃岐鷲ノ山石で造られた割竹形石棺が出土した古墳があり 向日丘陵古墳群には前述した関係のもとに九州の阿蘇石で造られた舟形石棺をもつ八幡茶臼山古墳がある 両者とも畿内地域から遠く離れた地域の首長層が採用していた石棺が 玉手山古墳群と向日丘陵古墳群のエリアのなかに存在している このことはともにヤマト政権内部にあって 畿外の有力な勢力との対外交渉の役割を両者が担っていたことの表れであろう 4 河内地域と山城地域の勢力のこのような類似性は 両勢力の緊密な政治的関係にのみ帰せら 63

77 れるものではなく そこにより大きな最高権威としての大和の有力首長 ( 大王 ) のもとに政治的に連合していた結果の現れであり そのヤマト政権の中枢部の中で 向日丘陵古墳群と広義の玉手山古墳群の両首長層が対等な政治的立場と役割を果たしていたということを物語るものであろう その関係は大和地域における 200m を超す大形前方後円墳が 東南部の広義の大和古墳群から北部の佐紀古墳群に移動しても ヤマト政権内部における両者の政治的な身分的位置づけには変化がなかったのである この関係が崩れるのは 古市古墳群が河内地域に出現してからのことである 5 両古墳群の構成は 100m 前後の古墳数では ほぼ同数である 広義の玉手山古墳群は 中小規模の前方後円墳 円墳を含むが 向日丘陵古墳群は 100m 前後の前方後円 ( 方 ) 墳のみで構成されているという違いがあり 両首長集団の地域勢力内部における安定性は 広義の玉手山古墳群の方が安定しているとかんがえられる 河内地域は広義の玉手山古墳群以外の有力な前期前方後円墳は前述したとおり散在的であり 広義の玉手山古墳群の首長層が早くこの地域に覇権を確立していた それに比べて 山城地域の有力な前期古墳の分布のあり方から考えて 向日丘陵古墳群の首長層は 山城地域内における他のグループの政治集団の首長との関係は 一時的でルーズな政治的連合によって ヤマト政権内部の政治的立場を保持しているごとく考えられる このような両古墳群の首長の政治権力の質的な相違は古墳時代中期の段階で顕在化し 広義の玉手山古墳群の首長層は 古市古墳群の出現の契機に大きなな役割を演じているのである 3. 摂津地域の政治動向摂津地域 ( 註 28) の有力な前期前方後円墳の埋葬施設から この地域のヤマト政権内の位置 すなわち 大和地域の東南部の有力首長を盟主とする大和地域の首長を含めた西日本の各地域の有力首長との政治的 軍事的に連合したヤマト政権内の位置関係について 若干述べておきたい 摂津地域における竪穴式石室の基底部構造は D 型式の範囲で捉えられるものが多く 摂津地域は大和 河内 山城の各地域の竪穴式石室の基底部構造とは際立った違いを示している それに 摂津地域の有力な首長墓の系列がたどれる弁天山古墳群において 先に検討した広義の玉手山古墳群と向日丘陵古墳群に共通して認められた様相が 摂津地域にはほとんど認められない また 河内 山城両地域の古墳で指摘できるところの大和地域の 200m を超す大形前方後円墳の埋葬施設との類似性は 弁天山古墳群にはほとんど認められない すなわち 弁天山古墳群の首長層は 連合政権であるヤマト政権に参画していても 傍流的な あるいは いつも覇権の奪取を窺っている独立性の強い政治的立場を堅持していたものと想定できる このことは 摂津地域の有力首長がヤマト政権の中枢を構成する勢力とは認められず むしろ ヤマト政権との間に一定の対峙状況を示す緊張関係があったことを物語っているのであろう しかしながら こうした緊張関係が戦闘をともなうような敵対関係にあったのではないことは 三角縁神獣鏡の同笵鏡の分有関係 石製腕飾類などの副葬品のあり方から窺い知れる 古墳時代前期の摂津地域の首長層は ヤマト政権の中にいながら 一定の距離を保ちなが ヤマト政権の中枢部と接していたのであろう 前方後円墳を築造しながらも 摂津地域の独自な竪穴式石室の基底部構造を採用しているのは 摂津地域のそのような政治的立場を表現しているものと理解している 64

78 なお 摂津地域の有力な前期古墳の分布およびその規模からみると河内地域と山城地域とほぼ対等な勢力であったものと考えられる この節で論じたいところのことを叙述したので この節でもってまとめとして閣筆しておきたい ( 註 ) 1. 粘土棺床も石室基底部の構造に含めて捉えている その根拠は築造過程を検討すると 礫石充填以前に粘土棺床を設置しており また 棺床下に板石を敷くなど 一連の工程に基づいて構築されていることによる 2. 岡山県金蔵山古墳の中央石室と南石室の関係はこのような事態がさけられなかった事例と考えられる 両石室は基底部 方形壇等の構造においてきわめて類似している それは同じ首長霊継承儀礼の観念に基づいて構築されたこと示しているのである 中央石室は墳頂平坦面中央に位置し 中央石室に埋葬される首長の埋葬時には南石室の構築は意図されていなかった また 中央石室の壇周囲の礫敷を南石室の石列がその構築時に取り外していることからも窺える この時期では有力首長にのみ採用される方形壇を重視すれば この関係は中央石室の首長権を継承した新首長が南石室に葬られたと考えられる その原因は 新首長が不慮の死により 新たに大形の古墳を築造する時間的余裕がなく 旧首長と同じ後円部に埋葬されたものと想定される 3. 堅田直が将軍山古墳石室移築調査の報告書に このことを指摘されている また 墳丘完成直後の盛土から墓壙を掘るのでは水分を含んだ土はヘドロ化を呈し 非常な困難を伴うものであることは 発掘調査の経験から充分考えられことである 少なくと地盤の固まる間は墓壙の掘削は不可能であろう 4. 京都府椿井大塚山古墳の竪穴式石室は粘土棺床設置以前に壁体下半の数段が積み上げられている 岡山県七つク ロ 1 号墳も同じ手法である 5. 春成は後継予定の仮首長は棺の前で水を浴び 禊すると想定されている 魏志 倭人伝にも 己葬 挙家詣水中浴 以如練沐 とあり 埋葬に伴って水の使用は充分考えられることである 6. 島根県神原神社古墳は粘土棺床をもつ畿内的な様相をおびる竪穴式石室である その墓壙底に壺形土器と赤色顔料を入れた 埋納壙 があり 石室構築以前に壙内において壺形土器と赤色顔料を用いた儀礼が行われている また 京都府平尾城山古墳では粘土棺床の約 70cm 北に柱穴 1 個が確認されており 木棺四周を布幕で囲まれていたかとも推測される 向野田古墳では 墓壙東北隅 すなわち前方部側に踏石を使用した階段状遺構が検出されている このことから考えれば 寺戸大塚古墳後円部石室の墓壙の深さは 3.7m もあり 階段状遺構がない場合には木製の階段が取り付けられたものと推定される 以上のように 最近 竪穴式石室において今まで知られていない事象が検出されており それらを総合して埋葬施設で執り行われる祭式の次第が明らかになりつつあると考えられるが その多くは今後に残された課題である 7. 産地の同定とともに 採掘石材である割石 板石 角礫と採集石材である亜角礫 円礫 ( 川原石 ) による分類も被葬者の性格を考える有力な手段である このような視点で 加古川流域という一定の地域の首長間の政治動向を論じたものに北山 1978 の論文がある なお 川原石を使用している竪穴式石室をもつ古墳は概して小規模なものであり その基底部も粘土棺床をもたない簡素なものが多く 今回は触れていない 8. 北野耕平の竪穴式石室の分析視点から学んだものが多く 諸類型の設定についても北野の分類を踏襲しているが 後述するごとく異なるところもある 田中勝弘 1973 の論稿とともに参照していただきたい 9. 発掘調査報告書では 粘土棺床がないと報告されているが 200m を超える大和地域の大形古墳でそのようなこ 65

79 とは考えられない また 森浩一 1972 古墳 石と土の造形 ( 保育社 ) では粘土棺床があった図が掲載されている 10. 例えば A 型式の基底部構造をもつ竪穴式石室 や A 型式の竪穴式石室の基底部構造をもつ埋葬施設とする古墳 と表現するのが本来であるが 煩雑になるので このような場合は A 型式の石室 または A 型式の古墳 と略述する 11. 小林行雄は竪穴式石室の高さを決定した要因は 木棺の高さであると規定 ( 小林 1941) されているが 規模の大きい有力な古墳を検討するとそうとはいえず 別の要因を考える必要があるであろう 12. 会下山二本松古墳は 1928 年のの報告では円墳とされているが 古墳は破壊され 究明する術はないのであるが 北野耕平は前方後円墳の可能性を考えられており 筆者も竪穴式石室の基底部構造からみて前方後円墳の可能性が高いと判断している 13. この点については北山惇に教示を得た 14. 岡田 1970 の論文では 河内地域に古市古墳群が出現する時期を大王の交替の現象と捉え 河内大王家の成立時に各地域諸勢力間に大きなな変化があったと考えられている 15. 実年代については 白石太一郎の説 ( 白石 1979) に従い古墳の開始期を三世紀後半と考えている 16. 遺物埋納のための竪穴式石室と首長の遺体を埋葬する竪穴式石室の基底部構造は基本的に異なる 基底部構造を関連させて 遺物埋納用の竪穴式石室の構造を検討することは 副葬品専用陪塚の出現期等の問題を考える有効な手段であろう 後日に期したい 17. 寺戸大塚古墳後円部石室 向野田古墳古墳石室の墓壙が二段墓壙に造られていることも共通した要素と指摘できる 18. 石室構造のことについては春成秀爾から詳しく教示を受けた 19. 白石太一郎は吉備地域の首長からの埴輪工人集団が提供されたと考えている ( 白石 1978) 20. 山城地域の古墳については 都出 1974 田中 1970 平良ほか 1972 中谷 1968 を主に参考にした 21. 石室基底部構造 B 型式は 大王級の埋葬施設にみられる方形壇を基底部構造に移して 畿内地域の竪穴式石室に採用された形態と考えたい その初現が元稲荷古墳である可能性が高く 特殊器台埴輪をもつことは興味ある現象である なお 元稲荷古墳の特殊器台埴輪は ストレートに吉備地域から入ったと考えるよりも 大和地域を介在して入ったと捉えている 22. 他に 久世グループ 宇治グループにも前期古墳は知られている とくに 久世グループには 久津川古墳群の支群である西山古墳群が有力な位置占めると考えられるが 粘土槨を埋葬施設としている古墳群であり 触れるところが少なく 別途検討したい 23. これは前述しているように 山城地域の王墓とも考えられる向日丘陵古墳群の指標とも言える構造で 山城地域における他の地域の古墳に見られないことから 向野田古墳石室が周溝式を採用していなくとも その親縁な政治的関係を否定するものではない 24. 八幡西車塚古墳 八幡東車塚古墳と向日丘陵古墳群の古墳の関係は 山城地域内部においては 墳丘規模等からほぼ均等な勢力の関係が想定されるが 山城地域を離れて対外的な関係のもとでは 山城地域の盟主という位置づけは向日丘陵古墳群の首長層に与えられていたのであろう 25. 棺形態 槨構造による階層的 身分的位置付けは 地域において異なると考えられるが 一般的に埋葬位置 66

80 規模等から考えて 粘土槨の被葬者が竪穴式石室の被葬者より下位に位置づけされるのはまず間違いないであろう 26. 以上のような考え方のもとで 玉手山古墳群 駒ケ谷古墳群 松岡山古墳群を総称するときには 広義の玉手山古墳群と呼称していきたい 27. 松岳山古墳の鉄製武器の量的増加をさす 28. ここでいう摂津地域には いわゆる難波の地は含めていない 67

81 第 4 章畿内地域における前期古墳の複数埋葬について はじめに同一墳丘内に位置をかえて二人以上の死者を埋葬している古墳を複数埋葬と呼称したい 従来 上記のあり方を示す場合 合葬 陪葬 多葬 併葬 という用語が使用されている 小林行雄は 古墳における合葬を 死期を異にする死者の計画的な埋葬と規定し そのあり方を三つの形態に区別 ( 小林 1959) した 氏によると (1) 同一墳丘内に位置をかえて死者を埋葬する方法 (2) 同一の墓室の中に棺を並置する方法 (3) 同一の棺に遺体を収容する方法である 西川宏は 月ノ輪古墳の円墳の造り出し埋葬を検討した結果から 墳墳部の埋葬と明確に区別された円墳造り出し埋葬を多分に殉死の可能性を含む陪葬と考えて 陪葬 という用語を使用している そして 陪葬の諸形態を次のごとく分類する (1) 併葬 (2) 前方部などの陪葬 (3) 陪塚 (4) 円墳造り出し陪葬と分け ( 西川 1960) 首長と陪葬者の関係を追求した 西川の場合は その視点と扱った時代に限定していたこともあって 小林氏の (2) (3) については論及していない 石部正志は 合葬とか陪葬という語から受ける先入観をさけて 多葬 という用語を使用 ( 石部 1961) する 石部は多葬が計画的になされたものか否か また 被葬者相互の関係 及び多葬する理由を追求するために 原点に帰り この多葬ということばを選択した その意図は充分に理解しうるのであるが 氏は多葬という用語を多用して 前方部多葬 造り出し部多葬 特殊多葬 異種棺多葬 一棺 ( 槨 ) 内多葬 多棺 ( 槨 ) 葬 一室内多葬 多室葬 とそれらの複合という 学術的な名称の設定としては充分な規定もなく 煩雑な用語を創出し 混乱を招いている また 前方部多創 造り出し部多葬 という場合に 前方部 円墳造り出しに一基の埋葬施設しかない場合でも 多葬という用語を使用しているのは 当を得ていない 二基の埋葬施設しか確認されていない古墳を多葬墳として表現することも問題である ひとりの死者を埋葬するために 前方後円墳を造営する事例が存在することも確実であるから 単数と複数という用語を借りて 複数埋葬ということばを用いる方がよいと考える 石部氏の意図とも合致するであろう なお 複数埋葬という場合 小林の計画的な埋葬という規定を踏まえて 小林の (1) 及び西川の陪塚を除く (1) (2) (4) を複数埋葬の古墳と理解し 用語としては限定的に用いたい 西川 石部両氏の支配階級の統治形態を追求するために 複数埋葬のあり方をひとつの資料として扱う視点は継承すべきであり 筆者の究極の目的もそこにある とくに 石部が 多数埋葬の検討から 棺形態 槨構造の採用にあたって 被葬者の任意な選択によるものでなく 各々の集団の首長問の政治勢力関係によって規制を受けた可能性を示唆している しかしながら 氏は全国各地の古墳の資料をあまりにもランダムに取扱い そのために 各地域の実態 及び地域相互間の関係を充分に展開しえていない 小論では 畿内地域の前方後円墳の複数埋葬 特に前方部における埋葬を中心に 棺 槨構造に検討を加え 埋葬施設の構造に 支配階級内部のヒエラルキッシュな身分制的な階層差が 古墳に 68

82 いかに反映されているかを検討していきたい 第 1 節前方後円墳の埋葬形態と粘土槨の構造古墳時代前期の前方後円墳の埋葬位置は 調査された事例から 墳丘内と墳丘外に大別できる 墳丘内では 後円部墳頂平坦面 前方部墳頂面が主要な埋葬位置である それ以外に 墳丘斜面やテラス面に埋葬されている場合がある 墳丘外では その周囲や周壕の外堤に埋葬されていることが判明している 墳丘外の埋葬とは その 兆域 というべき範囲と理解しうると考えている ひとつの前方後円墳の複数埋葬に示される現象は その被葬者達が後円部の被葬者である首長を中心に有機的に結びついた首長階層の生前の上下関係を表現していると理解できる そこに 埋葬位置 埋葬施設の構造 副葬品等から示される格差は 支配階級内部の首長階層におけるステイタスの違いを表現していると捉えてまず間違いないであろう 前方後円墳の調査が 墳丘周囲を含めた墳丘全面にわたって調査された事例は それ程多くない その多くない事例からでも そのあり方は多様な形態を示している このことは 首長 あるいは首長階層の多様な統治形態のあり方と対応する現象であろう 調査された事例の制約から ここでは 後円部墳頂平坦面 ( 以下 後円部と略す ) と前方部墳頂面 ( 以下 前方部と略す ) の埋葬施設の有無とその数から 以下述べる埋葬形態のあり方に分類できる なお 墳丘斜面や墳丘外で埋葬施設が判るものは その枠内で捉えていく I 後円部に単数の埋葬施設を築き 前方部には埋葬施設を築いていないあり方を示すもの Ⅱ 後円部に単数の埋葬施設を築き 前方部にも埋葬施設を築いているあり方を示すもの Ⅲ 後円部に複数の埋葬施設を築き 前方部にも埋葬施設を築いているあり方を示すもの Ⅳ 後円部に複数の埋葬施設を築き 前方部には埋葬施設を築いていないあり方を示すもの 大雑把な分類である しかしながら 各地域において 農業共同体的結合を成し遂げた政治的な単位地域 ( 近藤 1960) において 古墳が初めて造営されるとき 前記のいかなる形態を示し どのような展開をたどるかということが 地域の実態に即して検討されるならば その地域における政治的集団の支配階級の統治形態にひとつの指針を与えることができるであろう なお 地域において この分類を適用するとき 大地域単位の埋葬形態を加味すれば より当時の地域における政治状況の実態が究明されるであろう さらに 地域相互間の複数埋葬と埋葬施設の構造を比較検討すれば 初期ヤマト王権における政治権力の発展段階とその統治形態が 将来 考古学的手法に基づいて 一定の成果を上げられるものと考えている この小論では 畿内地域の複数埋葬のうち 前方部埋葬とその埋葬施設の構造に主座をおいている 畿内地域の主要な前方部の埋葬施設の多くの例が 粘土槨という構造を採用している 各古墳の粘土槨の構造を叙述する煩雑さをさける意味において 粘土槨の構造の類型をここに簡略に述べておきたい 69

83 類型化は 畿内地域の竪穴式石室において分類基準とした基底部の構造から捉えている この方法は 北野耕平が前期古墳の埋葬施設を検討したときに用いられた視点 ( 北野 1964) であり 竪穴式石室の基底部構造と共通する手法が 粘土槨にも採用されているという重要な提言がなされている この方法に基づいて 田中勝弘 ( 田中 1973) 都出比呂志( 都出 1979) も形態分類を行っている それらを参考にしながら 次のごとく分類する なお A 型を欠いているのは 筆者の竪穴式石室の呼称 ( 山本 1980) との関連を踏まえてのことである B 型墓壙底に基台と呼ばれる細長い長方形の壇を造り出し 基台の四周に礫石を充填する型式である 粘土棺床は基台に直接設置する場合と 基台と粘上棺床の間に礎石を充填し 礫石上に粘上棺床を設置する場合がある C 型平坦な墓壙底全面に礫石を充填し その上に粘土棺床を設置する型式 D 型平坦な墓壙底に直接粘土棺床を設置する型式 粘土棺床の周囲に礫石を使用する場合と 礫石を使用しない場合がある E 型墓壙底中央の粘土棺床を設置する箇所をU 字形に掘りくぼめている型式である E 型の典型は墓壙底に礫石を使用しないものと考えている しかし 京都府 妙見山古墳前方部粘土槨 ( 梅原 1955) 大阪府 和泉黄金塚古墳後円部中央槨( 末永 嶋田 森 1954)) に見られるように 墓壙底四周に細かい凹溝を掘り そこに礫石を使用している場合がある なお B 型の範疇で考えられる中に 墓壙底の四周に沿って細かい凹溝をもち そこに礫石を充填し 粘土棺床は墓壙底に直接設置する粘土槨がある 大阪府 玉手山 5 号墳前方部 2 号槨 ( 北野 1964) がこの構造である また 中期古墳と考えられている京都府 金比羅山古墳 ( 吉本 1965) の埴製円筒棺を採用している第 2 槨もこの構造である 西山 5 号墳西粘土槨 ( 堤 1964) もこの構造と考えられるが 粘土槨床が礫石の上にあると記されているので 前二者とは異なる構造かもしれない いずれにしても B 型の典型的な構造を示す奈良県東大寺山古墳 ( 金関 1975) 同県富雄丸山古墳 ( 泉森 久野 1974) 大阪府 真名井古墳( 北野 1964) の粘土槨とは区別すべきであると考えている 奈良県 マエ塚古墳の粘土槨 ( 小島 1969) は 墓壙底に礫石を使用していることでは C 型の粘土槨といえるのであるが 粘土棺床は重厚をきわめ 大阪府 駒ケ谷宮山古墳前方部 1 号粘土槨 ( 北野 1964) と比較すれば そこに明らかな差がある また 奈良県 新沢千塚 500 号墳の前方部 1 号粘土槨は 粘土棺床を設置するものでなく U 字形の墓壙底に直接木棺を安置し 棺の側面から粘土で覆った略式化した構造で 上記のどの類型にも属さないものである 今回の粘土槨の構造は畿内地域を主に扱っており 以上の型式は 畿内地域における前期古墳の粘土槨構造の類型であることをことわっておきたい 70

84 瀬戸内地域では 出現期古墳前後に 類粘土槨構造 ( 山本 2002) と呼称している被覆粘土をもたない粘土棺床のみで木棺を安置する埋葬施設が一定数知られている 岡山県七つク ロ 5 号墳の中心埋葬や広島県 香川県 徳島県の墳墓で知られている 古墳時代前期後半に竪穴式石室の省略形とした畿内地域の倭政権が創案した粘土槨とは その成り立ちとは異な異なるが 首長層の身分格差によって埋葬施設を違えると差別化の思想は倭政権に受け入れられた可能性までは比定できない 東海地方の白山藪古墳の特異な粘土槨をもつものや関東地方の粘土槨構造も長大で重厚であり 大形前方後円墳の中心埋葬施設にされているなどの地域的特性をもつ また 信濃地域のように 長大型竪穴式石室を古墳中期まで築造され続けて 粘土槨を採用されない地域も存在しているこれらの問題を含めて 粘土槨の構造の地域性の特質については後日に期したい 第 2 節山城地域の複数埋葬と埋葬施設都出比呂志氏の研究 ( 都出 1974) によれば 山城地域においては 古墳時代前期に古墳群形成を開始している政治的集団が 10 グループ想定されている 竪穴式石室の分析を通じた拙稿 ( 山本 1980) では 向日グループが 初期倭政権の関係から捉えて この地域を代表する有力な首長をもつ政治集団と捉えた ここでは 都出氏の析出したグループごとに 埋葬形態のあり方と埋葬施設の構造を検討していきたい まず 向日グループの元稲荷古墳 寺戸大塚古墳 妙見山古墳のあり方から入っていきたい 元稲荷古墳 ( 西谷 1964 近藤 都出 1971) は 全長 94mの前方後方墳である 後方部に墳丘主軸に平行して竪穴式石室が築かれている 前方部は墳丘各所にトレンチを設定して調査されたが 埋葬施設は確認されていない 前方部墳頂の前端では 特殊器台埴輪と特殊壺形埴輪を用いた供献区画が検出され 前方部における祭祀の一端が明らかになった 寺戸大塚古墳 ( 梅原 1955 近藤 都出 1971)) は 全長 98m の前方後円墳である 後円部に竪穴式石室 1 基と 前方部のほぼ中央に竪穴式石室 1 基が確認されている いずれも 墳丘主軸と平行に築かれ 被葬者の頭位の方向も一致している 両竪穴式石室の基底部の構造も同類型である 規模については 後円部石室が長さ 6.4m 前方部石室が 5.3m という数値を示し 大きな距たりは指摘できない ただし 後円部石室が埴輪方形区画と方形壇をもつのに対して 前方部石室には それらの施設はない 副葬品の内容についても第 1 表に示すごとく 宝器 装身具 武器 農工具という前期古墳の通有の副葬品を両石室とも所有しており そこに明確な格差は指摘できない これは 前期後半の時期になると前方部の粘土槨の副葬品が 鏡 1 面と 1 2 点の武器 あるいは 玉類のみしか副葬さ 71

85 れていないこと ( 後述 ) と比較すれば明らかであろう 以上のことから 両石室の被葬者 ( 首長 ) は後円部と前方部という埋葬位置の相違から後円部の首長が優位な立場にあるといえても そこに質的な格差といえるものは まだ埋葬施設に反映されていない 妙見山古墳 ( 梅原 1955 近藤 都出 1971) は 全長 115mの前方後円墳である 後円部に組合式石棺を覆う特異な竪穴式石室 1 基と前方部に粘土槨 1 基が確認されている いずれも 墳丘主軸と直交して築かれている 向日町古墳群において 先行する元稲荷 寺戸大塚両古墳の首長が採用している割竹形木棺ではなく 新たな棺として組合式石棺を採用している また 墳丘規模が先行する古墳よりも大きくなったこととともに 前方部に粘土槨を築いている これらの現象は 首長階層内部に質的な変革があったことの反映であろう 後円部の特異な竪穴式石室が ヒバス媛陵古墳 松岳山古墳の竪穴式石室と類似した構造であり その意義については すでに指摘 ( 山本 1980) している 前方部粘土槨はE 型であるが 墓壙底四周に溝を造り そこに礎石を入れ 排水施設の工夫を施している この構造は 向日町古墳群における竪穴式石室基底部構造の特徴である周溝式との関連で捉えることができるかも知れない しかしながら 和泉黄金塚古墳後円部中央粘土槨が この構造であることから 現段階では即断できない 副葬品については 撹乱 盗掘等によってその全容は把握し得ていないが 後円部石室からは 筒形銅器 1 碧玉製管玉 1 銅鏃 89 鉄鏃 30 鉄槍 1 鉄小札 1が出土している 前方部粘土槨は鏡 1 面しか出土していない 不幸な条件下の比較であるが 後円部の被葬者と前方部の被葬者には 副葬品の所有という視点からも 格差があると指摘できる 墳形 埴輪の型式及び副葬品の内容から 元稲荷古墳 寺戸大塚古墳 妙見山古墳と順に築造されている この累世的な首長系列をたどれる向日町古墳群では 他に五塚原古墳 北山古墳という前方後円墳が知られている 北山古墳は破壊され 前方後円墳という以外にその内容を知ることはできない 五塚原古墳は測量調査の詳細が報告 ( 和田 1981) され 内容の一端が明らかになった 五塚原古墳は 墳長 94mの前方後円墳であり その墳形は 前方部が撥形に開く型式であり 元稲荷古墳より先行する可能性をもつ古墳といえそうである 和田晴吾氏によれば 元稲荷古墳 寺戸大塚古墳とこの五塚原古墳の三古墳は 全長と後円部径 ( 後方部幅 ) において きわめて類似した規模をもつ 同規模墳 であるという指摘がなされている 以上から 前方部に粘土槨を採用した古墳時代前期後半の時期に 向日グループの首長階級内部に階層の質的な差が 埋葬施設の構造に反映されている それ以前に造営された3 基の古墳は 同規模墳として 安定した政治勢力をもち 明確な首長階級内の階層差は 一古墳内の埋葬施設間には顕在化していない 向日グループでは 前期前半の元稲荷古墳が埋葬形態 Ⅰのあり方 ( 註 1) を示し 前期中ごろの寺戸大塚古墳 後半の妙見山古墳はともに埋葬形態のあり方 Ⅱを示している 72

86 この推移の現象は 前方部の機能論を含んだ論として展開された近藤義郎氏の 前方後円墳の成立と変遷 ( 近藤 1968) で示された仮説とみごとに一致している 古墳時代前期前半に地域的な政治集団が最初に築かれる古墳は 一人の首長しか埋葬されていない埋葬形態のあり方 Ⅰの形態を示している なお 前方後円墳の埋葬形態 Ⅱのあり形を示す寺戸大塚古墳と妙見山古墳では 前方部の埋葬施設の種類が異なっている 後者は首長層のあり方に格差が生じ 前方部の粘土槨の被葬者がより従属的になっている 前者にも格差があるが そこには共同統治に近い支配形態が読み取れる また このグループの後円部の被葬者 (= 首長 ) の槨として採用しているのは 前期前半までは類型的な竪穴式石室 ( 註 2) を築いているが 前期後半に組合式石棺が採用される時期に前述した首長層の差別化が図られている 初期倭政権の倭国王墓が大和東南部の広義の大和古墳群から大和北部の佐紀古墳群に移動しても このグループの政治勢力はバランスをもって 政権交替とも言われるこの移動に対処していることが窺い知れるのである 八幡グループでは 木津川西岸北部の丘陵にある八幡茶臼山古墳 石不動古墳 八幡西 東両車塚古墳を検討したい 八幡茶臼山古墳 ( 梅原 1923 堤 高橋 1969) は 全長 50m の前方後方墳である 前方部と後方部の比高差は2mである 現状をみるかぎり 前方部は不安定な形状を呈す この古墳からの眺望は 木津川流域の平野部だけではなく 淀川の上流域の平野部 ( 摂津地域 北河内地域 ) をも見下ろすことができる 後円部には阿蘇熔結凝灰岩 ( 間壁夫妻 1975) で造られた舟形石棺を内蔵する竪穴式石室が構築されていた 竪穴式石室は長さ 4.3m 最大幅 1.95m の規模の幅広い形態であり 基底部の構造も非類型的な構造である 副葬品は盗掘にあい 碧玉製石釧 鉄刀 鉄鏃が残存していたに過ぎない 前期後半に比定できる 石不動古墳 ( 梅原 1955) は 全長 75m の前方後円墳である 後円部に2 基の粘土槨が確認されている 2 基は併行に配置され いずれも墳丘主軸とは斜行の関係にある 南粘土槨は 粘土床の下に一部砂利の存在を認めた とあり それから推定するとC 型の粘土槨とも推察されるが 実際のところは躊躇せざるをえない 副葬品については 互いに前期古墳の通有の内容をもち格差はないが 北粘土槨になく 南粘土槨にあるものとして 碧玉製石釧と短甲が挙げられる 八幡西車塚古墳 ( 梅原 1918 堤 高橋 1969) は 墳長 115m の前方後円墳であり 段差のある周濠をもつ 後円部には竪穴式石室が確認されているが 詳細な構造は判らない 墳丘規模に応じて 鏡 5 車輪石 10 石釧 2 鍬形石 2 等の豊富な副葬品が知られている 八幡東車塚古墳 ( 梅原 1019) は 前方後円墳である 前方部が破壊され その全長の正確な数値は示しえないが 90m 前後であろう 梅原末冶氏の調査によれば 後円部に礫石をもつ粘土槨 1 基 前方部に簡略な埋葬施設 1 基があったと報告されている 前方部からは鏡 1 鉄剣 1が出土しているのみである 後円部の副葬品と比較すると その内容に格差のあることが指摘できる このグループにおける前記の4 古墳は その立地 棺 槨構造の相互関係において 共通する様相を指摘することができない 向日町古墳群が古墳時代前期前半から築造が始まり 前期古墳の期間に 有力な特定の氏族的集 73

87 団の累世的な首長系列に基づいて築いているのに比べて このグループのあり方は相対的に自主性をもつ複数の首長層が 古墳前期後半後葉に並列していた事を示すものであると想定できる なお 八幡西車塚古墳と八幡東車塚古墳は 近接して築かれ 墳丘主軸の方向も同じである そのことから 西車塚 東車塚という首長系列をもつ首長墓といえる 西車塚古墳は段差のある周濠をもち 規模も 100m を超えることから 山城という大地域単位の中で この首長の政治的立場の上昇が認められる ( 註 3) 八幡グループでは 八幡茶臼山古墳が埋葬形態 Ⅰのあり方を示し 八幡東車塚古墳が埋葬形態 Ⅱ のあり方が考えられる 石不動古墳 八幡西車塚古墳は前方部の埋葬施設が不明であるため そのあり方は示しえない また このグループの後円部の首長が使用している棺は割竹形木棺と舟形石棺であり 槨としては 非類型的な竪穴式石室と粘土槨がある 次に 久世グループの古墳を検討したい このグループでは 西山古墳群 尼塚古墳群 尼塚古墳を検討する 西山古墳群 ( 堤 1964) は 前方後方墳 1 前方後円墳 1 方墳 1 円墳 4の合計 7 基の古墳が同一丘陵稜線上に占地して築かいている その内 調査されたものは4 基であり 他の3 基は調査もされずに破壊されてしまった 西山 1 号墳は全長 80m の前方後方墳である 後円部に粘土槨 1 基が墳丘主軸と平行して構築されていた 前方部には埋葬施設は築かれていない 粘土槨の墓壙は二段に大規模な墓壙が掘られ 下段上面で長さ 7.4m 幅 4.1m を測る 深さは上面から下底まで3mときわめて深い 木棺を被覆する粘土は 通常の粘土槨の構造と異なり 墓壙内全面に青色粘土と赤色土を交互に用いる手法である 盗掘にあい 鉄状鉄器と粘土上面に土師器が発見されたのみである 80m という墳丘規模をもつにもかかわらず 葺石 埴輪という造墓技術を採用していないことは この首長の政治的性格を考えるとき示唆的である 西山 2 号墳は方墳であり 長辺 27m 短辺 24m の規模を示す 墳頂平坦面中央に3 基の粘土槨が南北方向に並行に配されている 墓壙の切合い関係から 中央槨が最初に築かれたことが判る さらに 東槨の南西に 東槨と直交する粘土槨 1 基が築かれていた 平行する3 基の粘土槨の棺は 中央槨が組合式木棺であり 他は割竹形木棺である 3 棺ともその頭位は北方向である 木棺の長さは 中央棺が 5.15m と長いが 他の2 棺との間に大きな差はない 南槨と称される1 基は 箱形をした木棺で 長さ 1.5m であり 上記の3 棺と比較して 極めて小規模であることから 成人埋葬とは考え難いと報告されている 中央槨には 三角縁四神四獣鏡 1 鉄斧 1 鉄鉇 1 鉄鍬先 1が 東槨には鉄剣 1 鉄鏃 21 銅鏃 1 鉄斧 2 鉄刀子 1 靱と考えられる塗漆繊維製品が 西槨には四獣鏡 1 碧玉製石釧 1 鉄斧 1 鉄鎌 1 鉄刀子 1が 副葬されていた 南槨からは遺物の発見はない 西山 4 号墳は 径 25m の円墳である 墳頂平坦面に粘土槨 2 基が並列して築かれている 木棺は両槨とも割竹形木棺であり 東棺が 5.0m 西棺が 5.6mとほぼ同規模の棺である 東棺の棺内から 銅鏃 26 鉄剣 1 鉄鏃 3が 棺外には土師器壺が副葬されていた 西棺には 鏡 2 面 ( 画文帯神獣鏡 1 内行花文鏡 1) 勾玉 小玉 管玉 鉄槍 2 鉄鉇が副葬されていた 74

88 西山 5 号墳は 径 18m の円墳である 墳頂中央に粘土槨 2 基が築かれている 棺は割竹形木棺で 頭位は北方向である 遺物は盗掘を受けており 検出されていない 西山古墳群の粘土槨の基底部構造は 正式報告がないので その詳細は判らないが 概要報告の記述から ある程度知ることができる それによると 礫石を使用しているものには 4 号墳の西槨 (B 型 ) 5 号墳の粘土槨 (C 型 ) がある 尼塚古墳群 ( 山田 堤 中谷 高橋 杉原 1969 ) は 終末期古墳の5 号墳を除くと 前方後円墳 1 基と円墳 5 基からなる古墳群である 最高所に7 号墳が位置し そこから派生する同一尾根に占地している 尼塚古墳 ( 山田 1970) は独立的な様相をもって この尾根の南側に位置する 尼塚 4 号墳は全長 35m の前方後円墳である 後円部に墳丘主軸と平行して粘土槨 1 基が 前方部には土壙 1 基が確認されている 前方部の土壙は 遺物の発見がないこと 墓壙底面が平坦でなく 凹凸を呈していることから埋葬施設があるか否かは明らかでないとされている しかし 埋葬位置から埋葬施設とみておきたい 後円部の棺は割竹形木棺で その長さは 5.5m である 棺内が撹乱されていないにもかかわらず 鉄鉇 3 鉄刀子 3 管玉 2のみ発見されたに過ぎない 尼塚 3 号墳は径 18m の円墳である 墳頂中央に木棺が直葬されていた 墓壙底は中央を溝状に掘り込んだ型式である 碧玉製鏃 5 銅鏃 2 鉄槍 1 漆塗木製弓 1 鉄鉇などが副葬されていた 尼塚 2 号墳は径 16m の円墳である 組合式木棺が直葬されていた 両面から穿孔されている硬玉製勾玉 1 鉄刀子 1が副葬されていた 尼塚古墳は一辺が 40m で 周溝をもつ方墳である 埋葬施設は墳頂中央に粘土槨 1 基がある 粘土槨の構造はE 型で 墓壙全面に粘土を敷いている 棺は割竹形木棺である 棺内に管玉 1 土師器壺 1 鉄鎌 3 鉄鉇 8 鉄刀子 1が 棺外には筒形銅器 2 銅鏃 2 鉄槍 2が副葬されていた その他に 碧玉製石釧が知られている 尼塚古墳群の粘土槨の基底部の構造は いずれもE 型である 西山 尼塚両古墳群とも副葬品が少ない しかしながら そこに滑石製品が含まれていないこと 尼塚古墳に筒形銅器が副葬されており 尼塚 3 号墳に碧玉製鏃があること また 消極的な根拠であるが中期前半の特徴的な遺物がないこと等から両古墳辞は前期後半に その築造の中心があると考えられる しかし 中期初頭まで下がる古墳がないとは言えない 両古墳群の内容については前述したとおりである 西山 1 号墳は墳長 80m で このグループの中では最大であり ついで 墳長 60m の西山 7 号墳がある 方墳の尼塚古墳と前方後円墳の尼塚 4 号墳は 墳形は異なるが相似た規模を示す 西山古墳群の方が墳丘規模から 優位な様相を示している 両古墳群のすべての古墳に葺石 埴輪の使用がみとめられない点は 共通している 両古墳群の判明している副葬品の総数を第 2 表に示した 西山古墳群に鏡 鉄鏃 銅鏃が若干量的に優位といえるが その差を議論する程の資料ではない 西山古墳群 あるいは 尼塚古墳群の副葬品の総数は 前期古墳のひとりの被葬者と同等 あるいは それよりも劣る内容である 次に粘土槨の構造を見れば 尼塚古墳群がE 型のみであるのに対して 西山古墳群はB 型 C 型 75

89 がある他 多様なあり方を示す 粘土槨の構造から 西山古墳群の方がはやく古墳の造営を初めたと考えられる 両古墳群で採用された槨としては 粘土槨と木棺直葬がある 棺では 割竹形木棺と組合式木棺がある 後円部に限れば 粘土槨のみである なお 西山 2 号墳の中心主体である中央槨が組合式木棺であり その東 西両槨が割竹形木棺であることは 妙見山古墳の組合式石棺を考慮に入れると示唆的であり 割竹形木棺が有力な首長の棺としての位置から脱落していく傾向が認められる 前方後円 ( 方 ) 墳の埋葬形態は西山 1 号墳がⅠのあり方を示し 尼塚 4 号墳がⅡのあり方を示す可能性が考えられる 他に 都出氏が析出されたグループとして 樫原グループでは樫原一本松古墳 ( 前方後円墳 ) 百々池古墳 ( 円墳 ) が 長岡グループでは南原古墳 ( 前方後円墳 ) 鳥居前古墳( 前方後円墳 ) が 飯岡グループでは飯岡車塚古墳が 宇治グループでは宇治一本松古墳が主要な前期古墳である 飯岡車塚古墳 ( 梅原 1937) は 墳長 81m の前方後円墳である 後円部に竪穴式石室の存在が知られているが その詳細な構造は判らない しかし 基底部が 砂利と粘土で固めてあった と記されており 類型的な竪穴式石室であった可能性が残されている 石室の規模は 長さ 1.9m 幅 0.9 mと報告されているが この規模は疑問である 竪穴式石室の平面形態から幅 0.9m というと前期の狭長な竪穴式石室に属すると考えられる 長さに関しては この数値より長大と理解する方が妥当性をもつであろう そういう理由のひとつに その前後に聞き取り調査された平尾城山古墳竪穴式石室を 2.7m と推定されたが その後の調査で 7.5m 以上の長さをもつ竪穴式石室 ( 近藤ほか 1977) であることが確認されていることからも窺われるであろう このような点で 樫原一本松塚古墳の竪穴式石室の長さ 2.7m( 梅原 1920) 百々池古墳の竪穴式石室 1.8m( 梅原 1920) という数値も再検討されるべきであろう 宇治一本松古墳 ( 山田 1966) は 径 35m の円墳である 現在のところ 山城地域において類型的な竪穴式石室が 円墳の埋葬施設として採用されている唯一の例である ここで 述べてきたことを整理しておきたい 76

90 1 山城地域において 前方部に埋葬が開始されるのは 寺戸大塚古墳の前期前半それも中頃の時期である この時期では 後円部 前方部の埋葬施設の両方とも 類型的な竪穴式石室を築いている 副葬品においても 前期後半に示される格差は存在しない 前期後半には 前方部と後円部との被葬者の間に質的な格差が 埋葬施設の種類 副葬品の内容の中に具現化している また この時期は 石不動古墳の例が示すごとく 後円部に複数の埋葬施設をもつ古墳が出現している この現象は 西山 2 4 号両古墳の円墳にも複数の埋葬施設をもつ現象面と関連するのだろう 両者とも同種類の槨構造をもち 棺 槨の規模 副葬品の内容においても同様である 西山 4 号墳の西槨が 宝器 装身具という副葬品をもつのに対し 東槨は武器類が主な副葬品であるということから 首長による役割分担というべき様相 あるいは 共同統治している首長階層の姿とみることもできる 西山 2 号墳の中央槨と東槨においても 同様なことが指摘できる副葬品の内容を示している この現象は向日グループの古墳にはみとめられないところである 2 前方後円 ( 方 ) 墳の埋葬形態 Iのあり方は 検討できる各グループの古墳群に認められる現象であり 古墳群の中で最初に築かれた古墳がこのあり方を示している 3 前期後半に 前方部の埋葬施設として粘土槨が出現し それが円墳 方墳 また 前方後円墳の後円部の槨構造として用いられている 粘土槨は 前方部埋葬に示されるように ひとつの集団内の首長階層においても 各集団間の首長関係においても 竪穴式石室よりも ステイタスの低い槨構造として位置づけられる 後円部に粘土槨をもつ石不動古墳が 65mの前方後円墳であっても 時期比定が間違っていなければ やはり首長の政治的立場は 向日グループの妙見山古墳の首長よりも劣勢であることは明白である 4 前期後半の山城地域の槨構造のヒエラルキーというべきものは 類型的な竪穴式石室 - 非類型的な竪穴式石室 粘土槨 - 木棺直葬という順に形成されている 槨構造に表現された首長の政治的な身分秩序の形成が 棺形態において いかなる様相を示しているかを見ていきたい この時期の棺形態は 組合式石棺 舟形石棺 割竹形木棺 組合式木棺が知られている 石棺は妙見山古墳と八幡茶臼山古墳の2 例であり 両者とも竪穴式石室である 割竹形木棺は竪穴式石室にも 粘土槨にも 木棺直葬にも採用されている棺形態である 割竹形木棺の長さが示す規模は 77

91 槨構造の相違と関係がなく また 墳形 墳丘規模の相違とも関係が指摘できない ( 第 3 表 ) この ことは 有力な首長の棺として 竪穴式石室とともに創案された割竹形木棺が 前期後半の組合式石棺の出現とともに変質をとげ より広範な政治的立場の異なる首長にも採用される現象といえる 第 3 節畿内諸地域の複数埋葬と埋葬施設 1. 河内地域前方部に埋葬施設が確認されているものは 第 4 表に示したごとく 玉手山古墳群の玉手山 5 号墳 北玉山古墳 駒ケ谷宮出古墳の3 基である いずれも 前方部の埋葬施設には粘土槨を用いている 玉手山 3 号墳のみが後円部に複数の埋葬施設をもつ 玉手山 5 号墳 ( 註 4) の後円部には 類型的な竪穴式石室 (B 型 ) を築き 棺は割竹形木棺である 後円部粘土槨 前方部南粘土槨はC 型の構造であり 前方部北粘土槨はB 型の範疇で捉えられるものであり 棺形態は いずれも割竹形木棺であろう 後円部の副葬品は盗掘 採土により その全容は知り得ないが 竪穴式石室からは碧玉製管玉 碧玉製鍬形石 巴形銅器 銅鏃 鉄鏃 鉄製工具類が 後円部粘土槨からは斧 鎌 鉇などの鉄製農工具類が遺存していた 前方部南槨には碧玉製紡錘車型石製品 鉄剣 鉄刀 鉄製工具類が 前方部北槨には碧玉製石釧 鉄鉇 が副葬されていた 北玉山古墳の後円部と前方部の2 基の埋葬施設は 墳丘主軸と平行に築かれている 第 1 図に示しているように 埋葬施設の主軸がみごとに一直線に配置され 計画的に埋葬されていることが判る また 駒ケ谷宮山古墳の後円部竪穴式石室は 墳丘主軸と直交している それに対し 前方部の 2 基の粘土槨は平行して築かれている 墳丘主軸に対して 直交と平行という関係でありながら 第 1 図に示しているように そこには計画的に埋葬されていることが窺える 駒ケ谷宮山古墳前方部 1 号槨はC 型の構造であり 後円部竪穴式石室の基底部構造と類似の構造である 棺は組合式木棺である 前方部 2 号槨はE 型に属し 棺は 5.15 mの割竹形木棺である 北玉山古墳前方部粘土槨はE 型である 両古墳群の副葬品は第 5 6 表で示した 前方部埋葬の被葬者が 鏡 1 面と数点の武器類しか保持しえなかったという被葬者の性格が読みとれる 玉手山古墳群の中で 後円部に粘土槨を採用している古墳かある 玉手山 4 号墳 ( 註 5) である 墳丘主軸と直交して築かいている その構造はC 型として捉えられるが 前方部粘土槨の構造と比較して 丁寧な構造である すなわち 平坦な墓壙底に 12 cm程の厚さに礫石を充填し その中央 78

92 に板石を二枚重ねに敷き さらに その上に粘土棺床を造る構造である 副葬品としては 紡錘車型石製品 管玉 勾玉 銅鏃 24 直孤文を施した木製盾がある 前述した4 古墳は前期後半にほぼ比定できる 前期後半の玉手山古墳群の前方後円墳においては 後円部に竪穴式石室 前方部に粘土槨という 畿内における複数埋葬の典型的な姿態がみとめられる 前方後円墳の埋葬形態としてはⅡ Ⅲのあり方を示す なお 玉手山古墳群において 前期後半以前の古墳は確認されていないが 未調査の 100mクラスの前方後円墳の中に 寺戸大塚古墳 弁天山 A1 号墳に見られる複数埋葬のあり方を示す古墳は充分に予想され 今後の調査に期待したい 大和川と石川の合流点を見下ろす南東の丘陵上に築かれた前期後半の埋葬施設の種類は 松岳山古墳群 ( 小林 1957 北野 1964) を加えて 次のように整理できる 後円部の槨としては竪穴式石室と粘土槨が 棺としては組合式石棺 ( 註 6) と割竹形木棺がある 前方部の槨としては粘土槨が 棺としては割竹形木棺と組合式木棺がある 他に 出土古墳は明確に指摘できないが 安福寺境内に讃岐鷲ノ山 ( 間壁 1975) 石で作った割竹形石棺がある 玉手山古墳群出土と伝える 79

93 石川上流域の真名井古墳 ( 北野 1964) 御旅山古墳( 田代 1968) は 後円部に粘土槨 1 基が築かれていた 御旅山古墳には前方部埋葬は行なわれていない 真名井古墳にも前方部埋葬が確認されていない 真名井古墳の棺は組合式木棺で 粘土槨の構造は 粘土棺床 側壁 天井石に代ると考えられる粘土被覆からなり 竪穴式石室を築いて棺を被覆する代りに粘土を使用した と考える方が適切であるという指摘がなされている たしかに 基底部の構造は 竪穴式石室との関連を無視しては理解しえないものである 副葬品内容も玉手山古墳群の竪穴式石室の副葬品と比べて遜色はない 北野はこの古墳が 組合式木棺であったために竪穴式石室を築かず 粘土槨を採用したと理解されているが 組合式木棺で類型的な竪穴式石室を築いている例も存在するし また 割竹形木棺で粘土槨という組合せから考えれば 棺によって槨構造が異なるとは考え難い そこには 山城地域 大和地域 ( 後述 ) において分析したように 首長 (= 披葬者 ) の同族的関係 あるいは 政治的立場ということに基因していると理解できる 18 面の小型鏡を含むとはいえ 22 面もの鏡をもつ御旅山古墳においても その埋葬施設が粘土槨というのは 同じ理由によるのであろう 2. 摂津地域摂津地域では 前方部に埋葬施設が確認されている前期古墳は 弁天山 A1 号墳 弁天山 C1 号墳がある 弁天山 A1 号墳 ( 註 7) は 工事のための採土によって前方部に竪穴式石室の存在が確認された 竪穴式石室の構造 副葬品は判らない この古墳は全長 120m の前方後円墳である 前方部は三段に築造され 葺石をふいているが 埴輪は使用されていない 畿内地域において 前方部に堅穴式石室を築いているのは 現在のところ山城地域の寺戸大塚古墳とこの弁天山 A1 号墳の2 例のみである 弁天山 C1 号墳 ( 原口 西谷 1967) は 全長 71m の前方後円墳である 前方部には墳丘主軸と直交する粘土槨 1 基が築かれている 後円部には 墳丘主軸と斜交する竪穴式石室 1 基と粘土槨 1 基が築かれている 後円部の2 基の埋葬施設の関係は 粘土槨の墓壙底が竪穴式石室の天井石の高さに位置し 粘土槨構築時に一部竪穴式石室を破壊せざるをえない状況が確認されている 故に 粘土槨は追葬という概念で捉えられ 古墳築造時の計画的な埋葬とは考えられない 弁天山 C1 号墳の計画的な複数埋葬の配置は 後円部竪穴式石室と前方部粘土槨であったと考えられる 粘土槨の基底部はD 型であり これは摂津地域の竪穴式石室と類似した構造である 竪穴 80

94 式石室の墓壙底に直接粘土棺床を設置することは 摂津地域の他の竪穴式石室と同様である ただし 基底中央を溝状に掘り込んでいることが 若干他と異なる 棺形態は両者とも割竹形木棺である 副葬品は第 7 表のごとくであり 玉手山 向日町の両古墳群の前方部粘土槨の副葬品の内容と同質であるといえる 弁天山古墳群においてC1 号墳につづく中期前半の古墳として 弁天山 B3 号墳 ( 堅田 1967) がある 全長 41m の前方後円墳である 後円部の同一墓壙内に2 基の粘土槨が 前方部にも2 基の粘土槨が確認されている いずれも 墳丘主軸と直交している 後円部の2 基の粘土槨は墓壙底に直接粘土棺床を設置する構造であるが 礫石の使用はない 複数埋葬のあり方は 弁天山 C1 号墳より複雑化している なお 弁天山古墳群は前期から中期後半までの棺 槨構造の推移 ( 註 8) の過程が 明瞭にたどれる貴重な資料を提示している 次に 前方部に埋葬施設を築いていないが 墳丘内 あるいは 墳丘周囲に埋葬施設を築いている古墳がある 将軍山古墳と池田茶臼山古墳である 将軍山古墳 ( 堅田 1968) は 全長 107m の前方後円墳である 後円部に紀ノ川流域の結晶片岩を使用した類型的な竪穴式石室 (D 型 ) を築いている 前方部の墳丘外側に接して 箱式石棺が確認されている 後円部と同質の結晶片岩を使用したもので 長さ 80 cmである 池田茶臼山古墳 ( 堅田 1964) は 全長 62m の前方後円墳である 後円部基底近くの墳丘内とくびれ部に各々 1 基の埴輪円筒棺が確認されている 後円部には類型的な竪穴式石室 (D 型 ) が 墳丘主軸と直交して築かれている 摂津地域において 前期と考えられる前方後円墳に粘土槨を採用している古墳は 猪名川水系の流域に認められる 豊中市小石塚古墳は 墳長 49m の前方後円墳である 宝塚市長尾山古墳 ( 櫃本 1971) は 墳長 35m の前方後方 ( 円 ) 墳である 後円部に竪穴式石室をもつものより小形の前方後円墳といえる 埋葬施設の調査は両古墳とも行なわれていない 3. 大和地域大和地域は前期大形前方後円 ( 方 ) 墳が数多く築かれている地域である 200m を超える前方後円墳が 13 基も認められ 150m 以上を含めると 26 基の多きに達する ( 菅谷 1967) 大和地域以外における畿内地域の前期古墳のあり方と比較すれば 厳然とした格差がある しかし 前期の大形古墳 81

95 において 前方部における埋葬施設の存在の有無は ほとんど不明といわざるを得ない 大型古墳は陵墓として宮内庁が管理しており 文化財として扱われていない このことに関係して 前方部のみならず 後円部の埋葬施設を知りうるものも僅かである その中で 陵墓に指定されていない墳長 224m の前方後円墳であるメスリ山古墳 ( 伊達 小島 1977) は 前方部が調査された僅かな事例のひとつである 前方部平坦面の前端 中央 くびれ部付近にトレンチを設定して調査されたが 埋葬施設は確認されていない トレンチ調査によるため 前方部埋葬の確実なところは判らないが 前方部埋葬がみられる主要な箇所にトレンチが設定されており 大規模な埋葬施設はないと考えた方が妥当であろう いずれにしても 大和地域の 200mを超える前期の大型前方後円墳の前方部における埋葬施設については 言及しえないというところが実状である この地域において 前方部の埋葬施設が調査された古墳として 新沢千塚 500 号墳 ( 伊達 1981) がある 500 号墳は全長 61mの前方後円墳である 後円部に粘土槨 1 基と遺物埋葬用の施設をもち 前方部には粘土槨 2 基と埴輪円筒棺 1 基がある 円筒棺はくびれ部よりに位置している 後円部粘土槨の構造はE 型である 前方部粘土槨は前述したとおりの簡略な構造である いずれの埋葬施設も墳丘主軸と平行である 前方部粘土槨は盗掘を受けていないにもかかわらず 副葬品は第 9 表に示しているごとく 玉類しか副葬されていない 埴輪円筒棺には副葬品はない 他に 佐紀古墳群の瓢箪山古墳 ( 伊達 1968) の前方部で 粘土槨が採土のときに発見され 琴柱形石製品が出土したと伝えられている 100m を超える前方後円墳の後円部の埋葬施設に粘土槨という構造をとる代表的な例としては 東大寺山古墳がある 東大寺山古墳は櫟本古墳群の中の古墳であり 全長 140m である 墳丘主軸と平行して築かれている 粘土槨の構造は 基台を造り出し 粘土棺床と基台の間に礫石を使用するB 型の構造である 粘土棺床の下面の幅は3m 強を測り 竪穴式石室を築くに困難な規模ではない 大和古墳群 柳本古墳群の 100m 前後の規模をもつ前方後円墳の中で粘土棺床をもつ竪穴式石室が採用されていることを考えれば 大和 柳本両古墳群が大王墓と考えられる 200m を超える大形前方後円墳をその群 82

96 の中にもつのに対して 櫟本古墳群がそのクラスの規模をもたないことに基因しているものと考えられる なお 東大寺山古墳の副葬品の内容は 中平紀年銘の大刀を含めた素環頭大刀 家形の意匠をもつ銅製環頭 総数 55 個の碧玉製腕飾類等 豊富な遺物を保有している 馬見古墳群の佐味田宝塚古墳 ( 梅原 1921) は 全長 100m の前方後円墳である 後円部に粘土槨と考えられる埋葬施設をもつものである 粘土槨の構造は明らかでない 鏡 30 数面とともに 滑石製の刀子 剣 ノミ 斧等の石製模造をもち 東大寺山古墳より新しいと考えられるが 前期後半のなかでおさまる古墳であろう 東大寺山古墳の粘土槨と同類型で捉えられる古墳として 富雄丸山古墳 ( 泉森 久野 1974) がある 径 80m の大型の円墳である 鏡 4 面とともに滑石製の刀子 斧 鉇 ノミ等の石製模造品 (59) をもち 佐味田宝塚古墳と近い時期の所産であろう 円墳の複数埋葬としての好例が 佐紀楯列古墳群のマエ塚古墳 ( 小島 1969 中井 1976) である 墳丘は二段築成で 径 48m の規模をもち 周溝 外堤を含めると径 90mを測る 墳頂中央に粘土槨 1 基を築き 墳丘斜面に1 基 外堤上面の平坦面に3 基の埴輪円筒棺が検出されている なお 外堤における埴輪片の散布から さらに数基の円筒棺の存在が推定されている 円墳においても 埋葬位置の区別と棺形態の異なった従属的な埋葬が行われている 時期は前期後半に比定できる マエ塚と類似した複数埋葬のあり方を示す事例として 山城地域の金比羅山古墳 ( 吉本 1965) がある 径 40m の円墳であり 周濠と外堤をもつ 墳頂中央に粘土槨 1 基と埴製円筒棺 1 基を平行して築き 墳丘の埴輪列付近に2 基と外堤に1 基の埴輪円筒棺をもつ 時期は中期前半に比定される古墳であろう この古墳では 割竹形木棺 - 埴製円筒棺 - 埴輪円筒棺という被葬者の身分的秩序というべき関係が埋葬形態の中に反映されている 両者は 円墳の複数埋葬のあり方における ひとつの典型を示している 大和地域において 古墳群単位で埋葬施設の詳細な構造を把握できるものが少なく 充分な検討は不可能といえる状況である ただ 前期後半の東大寺山古墳の後円部埋葬施設に粘土槨を用いていることから 首長の埋葬施設の選択にあたって 大地域単位における首長間の政治的な身分秩序というべきことに基づいていると考えられる 大和地域にあっては 140m の前方後円墳であっても 竪穴式石室を築きえなかった地域の政治状況が窺えるのである 4. 和泉地域和泉地域では 摩湯山古墳と黄金塚古墳が主要な前方後円墳である 摩湯山古墳 ( 森 1979) は 全長 200m の前方後円墳である 前期古墳としての規模は 大和地域の大形前方後円墳と比肩されるべきものである 後円部に散乱する石材から竪穴式石室と考えられているが その詳細は判らない 和泉黄金塚古墳 ( 末永 森 嶋田 1963 森 1975) は 全長 85m の前方後円墳である 段差のある周溝をもつ 後円部に墳丘主軸と平行に3 基の粘土槨が築かれている 前方部に1 本のトレンチを設定して 調査されたが 埋葬施設は確認されていない 中央槨と東槨は相接して並置しているが 西槨は中央槨と2m 程離れている 棺形態は中央槨が割竹形木棺で 東 西両槨は組合式木棺である 粘土槨の構造は3 基ともE 型で捉えうるが 中央槨が棺床下に礫石を使用している 三者 83

97 の被葬者は次のように推定されている 東槨が遺体から成人男性と考えられ 他は副葬品の内容 ( 森 1975) から 中央槨が女性 西槨は男性と考えられている 前方部埋葬にもつ古墳に示されている副葬品の所有という観点からの格差は 黄金塚古墳の被葬者間には見られない 時期は短甲の型式 滑石製品等の内容から 前期末葉から中期初頭前後に考えられる 後円部に3 基の粘土槨をもつ古墳として 三重県 石山古墳 ( 註 9) がある 全長 120m の前方後円墳である 後円部の共通した墓壙の中に3 基の粘土槨が築かれている 前方部の埋葬施設の有無は判らない 遺物は総数 67 の碧玉製腕飾類 碧玉製鏃 巴形銅器 甲冑 盾などが副葬されていた その中に 滑石製の刀子 鉇 ノミ 斧等の石製模遺品をもつことから 中期初頭と考えられる 和泉黄金塚 石山両古墳は後円部に複数埋葬をもつ古墳の中で ひとつの典型的なあり方を示している 第 4 節まとめ畿内諸地域における前期の前方後円墳の複数埋葬のあり方と埋葬施設の構造を検討してきた その結果 後円部の槨構造として判明しているものは 竪穴式石室と粘土槨である 棺形態では 割竹形木棺 組合式石棺 組合式木棺 舟形石棺が用いられている 前方部の槨構造には竪穴式石室と粘土槨がある 粘土槨には 類型的な構造をもつものと略式的な手法の粘土槨がある 後者は後円部に築かれることはない 尼塚 4 号墳の前方部の土壙を埋葬施設と考えれば木棺直葬も考慮に入れるべきかも知れない 前方部の棺としては 割竹形木棺 組合式木棺の形態がある 墳丘斜面 墳丘外に用いらえている棺としては 箱式石棺 埴輪円筒棺がある このように見ると漠として実態がうかびあがってこない 1. 粘土槨の成立事情前方部に粘土槨が採用される時期が前期後半 ( 註 10) であることから その時期を境にして 前期古墳を前半と後半に分けて埋葬施設をみていきたい 前期前半の前方後円墳では 後円部 前方部ともに割竹形木棺 竪穴式石室の棺形態 槨構造しか採用していない 前期後半になると 後円部には組合式石棺 割竹形木棺 組合式木棺 舟形石棺が棺として用いられ 槨構造の種類では竪穴式石室と粘土槨を築いている 前方部の槨としては 粘土槨に限定されるといってもよい様相を示しており 前方部の棺としては割竹形木棺と組合式木棺がある さらに 前方部に粘土槨を採用している古墳は 妙見山古墳 弁天山 C1 号墳 玉手山 5 号墳 北玉山古墳 駒ケ谷宮川古墳である これらの古墳は各地域の盟主的な有力首長が累世的に 100m 84

98 前後の前方後円 ( 方 ) 墳を築いている向日町古墳群 弁天山古墳群 玉手山古墳群の中にある これらの向日町古墳群 玉手山古墳群は 後円部の埋葬施設に 前期前半から後半まで 大和地域における 200m 規模の前方後円墳の埋葬施設等に類似的な様相をもつ古墳群が築かれている 初期倭政権が上下関係を含む身分制的な部族的統一体の段階 いいかえれば 大和地域の有力首長を盟主とする有力な政治的集団の首長の政治的結合体制と捉える ( 註 11) ならば 上記の古墳群の首長層は その政権の中枢を形成したと考えることができる 古墳の成立時に これらの畿内諸地域の有力首長が割竹形木棺 粘土棺床と礫石を必備とした基底部構造をもつ整美な竪穴式石室を首長の埋葬施設として創案してきた そして 前期後半においては 前方部に埋葬される被葬者の槨として 粘土槨という構造を考案したのである このことは 前方部の被葬者が身分制的な秩序の中に位置づけされたことの表われである そして 各地域の有力な古墳群の前方部に共通して粘上槨を採用していることは 有力な政治的集団内部だけで位置づけされたものでなく ヤマト王権の支配構造との関連が考えられる 粘土槨の成立の様相からも 粘土槨は首長階層の槨としては下位に位置づけされていた構造である 2. 複数埋葬の類型の設定前方後円墳の埋葬施設として採用される棺 槨構造とその種類 及び その埋葬位置 数から 地域を超えて共通した要素をもつ埋葬形態を示すものがある 前方後円墳の埋葬形態 Ⅱのあり方を示すものに 寺戸大塚タイプと玉手山タイプと呼称する類型が見られる 寺戸大塚タイプは後円部 前方部に類型的な竪穴式石室をもつ前方後円墳をいう 寺戸大塚古墳以外に 弁天山 A1 号墳もこのタイプの範疇に捉えうると考えている 畿内地域では 前期前半でもその中頃に比定できる 播磨地域においても 南大塚古墳で寺戸大塚タイプの埋葬施設のあり方が知られている 玉手山タイプは前方部に粘土槨を 後円部に類型的な竪穴式石室を採用している古墳である 玉手山 5 号墳 駒ケ谷宮内古墳 弁天山 C1 号墳がこのタイプである 両タイプとも 大王との政治的関係において 各大地域単位を代表する有力な氏族的集団的な有力首長層の複数埋葬のあり方を示すものである 次に 類型的な竪穴式石室を採用しうる墳形 規模 副葬品の内容を有しながら 後円部に粘土各を築いている古墳がある 東大寺山古墳と和泉黄金塚古墳がそれらを代表する古墳である 両者とも 前方部の埋葬の有無は 現在のところ不明である 後円部では 東大寺山古墳が1 基の粘土槨を 和泉黄金塚古墳が3 基の粘土槨を築いている 粘土槨の構造においては 東大寺山古墳が竪穴式石室の基底部の構造と類似する構造をとる 和泉黄金塚古墳は粘土槨の構造としては 新しく出現する粘土槨特有構造 ( 田中 1973) といわいれるE 型の構造である 副葬品の内容も 黄金塚古墳の方が新しい様相を示している 東大寺山古墳を東大寺山タイプ 和泉黄金塚古墳を黄金塚タイプとして 前方後円墳の埋葬形態の類型と考えたい 東大寺山タイプでは 他に 真名井古墳 御旅山古墳がある 御旅山古墳には前方部の埋葬施設 85

99 は築かれていない 黄金塚タイプでは 畿内周辺の石山古墳 ( 註 10) がこのタイプである 播磨地域では行者塚古墳が知られており 関東地域であるが 白山古墳 ( 前方後円墳 全長 87m) もこのタイプの古墳と理解しうる 両者の類型が示す首長の性格は一概に論じられないが 両タイプは 長持形石棺に先行する組合式石棺が 有力な首長の棺として位置づけされた前後の現象と理解している 有力首長の棺として組合式石棺が また 前方部の埋葬施設に粘土槨が考案された前期後半の時期は 棺形態 槨構造に多様な形態を現出せしめたとともに 埋葬施設の構造の変化においても ひとつの画期をなす時代といえる 最後に 他にも各単位地域の首長の政治的と身分秩序と統治形態を考えるのにひとつの視点となりうるいくつかの類型が想定できる 筆者の力量不足おおいがたく 将来の課題として擱筆する ( 註 12) 付記 兵庫県氷上郡山南町 丸山 1 号墳 ( 兵庫県氷上郡山南町 丸山 1 号墳 ( 前方後円墳 全長 45m) の調査を 1975 から 3 ヶ年にわたって調査した この古墳からは後円部に 2 基 前方部に3 基 墳丘周囲に7 基の整然と配置された埋葬施設を検出した 筆者にとっては その調査から この小論は出発しているといえる ともに調査にあたった井守徳男 吉田昇両氏には 調査時の討議を通じて教示を受けた 拙稿では畿内地域を中心に扱ったために 畿内周辺にあたる丸山 1 号墳については触れることがなかった 他地域の複数埋葬例を含めて他日に期したい なお 櫃本誠一 松下勝 都出比呂志の各氏には 文献の探索及び示唆に富む助言等を受けた 間壁忠彦 間壁葭子両氏の一連の石棺研究の文献を通して 棺に表現されている歴史的意義については啓発を受けたところが多い また 文献を通して 多くの方々に教示を得ている 各氏に対して感謝の念を述べたい ( 註 ) 1. 近藤 都出 1971 では大がかりな埋葬施設はないと慎重な態度をとられている しかし トレンチの設定状況から まず前方部埋葬はないと考えよい 2. 小林行雄による竪穴式石室の分類による長大な石室 B 類に属し 粘土棺床と礎石の使用を必備とした基底部構造をとる竪穴式石室を類型的ということばで表現している そして この小論では非類型的な竪穴式石室とは前者の条件に入らない意味で使用している 3. 向日グループの首長との政治的な関係はいかに捉えるかという課題が残る 西車塚古墳は周溝をもつ点から見れば 妙見山古墳より優位な政冶的な立場を保持しているごとくにみえる 向日グループの首長層と八幡グループの西車塚古墳の首長層の関係が 山城という大地域単位の首長階層の政治的な関係を主要因として捉えられるのか 倭政権の拠点主義的な政策が主要因となるのかという問題である この問題を検討する十分な資料はもちえていない 後者の考えにたてば 向日グループの首長層の盟主的な立場は桂川左岸のいくつかの政治 86

100 的集団との関係に限定される また 前期後半のこれらの問題は 大和地域の大型古墳の造宮地の移動ということとも関連することでもあり 古墳間の時期的な併行関係も含めて 将来の課題であろう 4. 北野耕平 玉手山古墳の調査 ( 大阪府の文化財 1962 年と粘土槨の構造については 北野 1964 の論考を参照した 5. 村津 1960 の概要と粘土槨の構造については 北野 1964 の論考を参照した 6. 小林行雄 1957 では 石棺は古式の長持形石棺と考えられるが ここでは一応組合式石棺という呼称を使用している 長持形石棺の祖形的位置をしめていることに同意している 7. 小林行雄 1962 の文献によっている このことは 弁天山古墳群の調査 の報告書にも前方部に竪穴式石室が存在したことは記されている 8. 前方後円 ( 方 ) 墳の後円 ( 方 ) 部の埋葬施設の推移を示すと次のとおりである 前期の類型的な竪穴式石室と割竹形木棺から 中期前半の粘土槨 割竹形木棺 そして中期後半の組合式木棺直葬とたどることができる貴重な資料を提供している ( 弁天山古墳群の調査 ) 9. 石山古墳については 小林 1959 及び 副葬品については 世界考古学大系 日本 Ⅲ 古墳時代を参照した 10. 粘土槨の出現の時期が前期後葉であることは 小林行雄 近藤義郎 古墳の変遷 ( 世界考古学大系 日本 Ⅲ 古墳時代 1959 年 ) に指摘されている 11. 主に 鬼頭 1979 山尾 平野 1975 に論拠を求めている 12. 各地域の古墳 古墳群の実態を調べるときに 各報告書類以外に次の文献 平良 近藤ほか 1972 白石 河上 前園 野上 を主に参考にした なお 小論は 前掲註 (18) の拙稿 畿内における古墳時代前期の政治動向についての一視点 を踏まえているところが多く 併読していただけると幸いである 87

101 第 5 章弥生墳丘墓から古墳時代の開始へ - 讃岐 雨滝山奥墳墓群の再検討を通じて - はじめに地域の墳墓群の考古資料から 古墳時代の開始期の情況を照射するとういう視点で 香川県 雨滝山奥墳墓群の再検討を試みることにしたい 雨滝山奥墳墓群 ( 註 1) は弥生時代後期後半の墳丘墓から古墳時代出現期の良好な考古資料を提供している 雨滝山という山塊には 弥生時代後期後半から終末期を経て 古墳時代開始期の首長墓が同一丘陵に築造され続けている墳墓群 ( 註 2) である これは 地域的政治集団が地域内部の支配権の確立や対外交渉等を通じて その集団の栄枯盛衰が墳墓群に表現されている集積にほかならない 弥生時代後期後半から古墳時代開始期の雨滝山奥墳墓群の考古資料では 墳形の変化を読み取れること また 埋葬施設である竪穴式石室の変遷が如何なる歴史的意味を保持しているかということが比較的良好にたどれること 埋葬施設の上部で実修される土器を使用した祭祀 ( 儀礼 ) としての土器の仮器化過程にも興味ある事実が知られている なお 副葬鏡が時期によって替わっていることも確認される 鉄鏃や銅鏃が副葬されていないことも不思議な現象とし現出している 雨滝山奥墳墓群 ( 註 3) については いくどか検討 ( 山本 ) してきており 古瀬清秀や丹羽祐一 大久保徹也らの古墳変遷観の違いを指摘している 小論では 墳丘墓群 墳墓群 古墳群や 古墳 古墳という用語を使用している この用語の考え方をここで断っておきたい 墳丘墓群とは 弥生時代後期から築造が開始され 弥生時代終末期 ( 庄内式期併行 ) に終焉する首長墓群に用いている 墳墓群を使用するときには 弥生時代後期から古墳時代前期にまたがって形成された首長墓群を表すときに この用語を選択している 古墳群とは 大和地域東南部に大形前方後円墳が継続して築造され 列島に政治的中心が形成されて以後 古墳時代の首長墓群のことを指している 古墳と 古墳 の使い分けは 古墳時代の開始をどのような現象面に表れるかということ決し兼ねているからであり 今後の研究課題を表現していることに他ならない 弥生時代後期後半から古墳時代前期までの墳墓を対象として扱うので 時代概念を叙述しておきたい 弥生時代終末期は庄内式併行期と捉えている 古墳の編年は和田晴吾編年に準拠している 漢鏡の編年は岡村編年に依拠している 竪穴式石室の基底部構造の類型化については 筆者の論 ( 山本 ) に拠っている 第 1 節周溝墓 墳丘墓 古墳の定義周溝墓と墳丘墓は原則的に弥生時代の墓制であり 古墳は古墳時代の墓制である 古墳とはきわめて政治的な記念物であり 前方後円墳が古墳の代表かつ典型 ( 近藤 1983) である 現象的には 定型化した前方後円墳の出現をもって古墳時代の開始と認識している 政治的な中心 88

102 が形成され それに伴って 政治的な身分的秩序が成立し 首長層の広域的な序列が形成される 前方後円墳体制 ( 都出 1991) と提唱される 多くの研究者が奈良県東南部の箸墓古墳 ( 墳長約 276m) の築造から古墳時代が始まると捉えている 異論もある 石野博信氏 ( 石野 ) や寺澤薫氏 ( 寺澤 2000) の論説である 周溝墓 台状墓 墳丘墓と区別して分類 呼称されていた弥生時代の墓制を いずれもそれなりに盛土を有することから 墳丘墓と統一して把握しようという論を都出氏が提唱された 多くの研究者の賛同を得ている 筆者は 集落と位置関係や立地の違いから周溝墓と墳丘墓を区別 分類する立場を 25 年前から堅持 ( 山本 1985) している ときには 台状墓も使用している 周溝墓は 近畿地方では 弥生時代前期に波及してきている 基本的には 弥生時代中期末の拠点集落が解体されるまでの一般的な墓制である 周溝墓は 主に 集落の立地と同じく低地に立地し 集落の居住地 ( 註 4) に隣接した一画に選地している 方形周溝墓と円形周溝墓が基本で 弥生時代後期から終末期には 突出部を造りだす形態の周溝墓が出現している 墳丘墓から刺激と影響を受けた結果でほかならいと理解している 墳丘墓は 基本的には 居住域や生産域から離れた眺望の良好な高所の丘陵上に立地し 主に 弥生時代後期以降に出現し 弥生時代終末期に発展 継続していく墓制である 大久保徹也氏はこのことを捉えて 弥生時代の 後期段階のこうした墓域は丘陵上面に移動して 居住および主要生産域とは垂直的に分離する ( 大久保 2006) と表現する 台状墓も同じ傾向が指摘できる 墳丘墓の平面形態は 多様で 突出部の発達形態は周溝墓と連動していると捉えることができる 埋葬施設も多様で その傾向は弥生時代終末に顕著に現れる 古墳時代は定型化した前方後円墳の成立をもって始まると捉えている どのような墳墓様式をもって定型化と把握するのかについては見解が分かれている 私は長大型竪穴式石室 ( 都出 1986) の出現前後を基準に 以下の三段階を設定して 古墳時代の開始の検討していく研究の問題提起を提出 ( 山本 ) してきている そして 古墳の成立とはⅢ-1 段階と捉えている すなわち 古墳時代の開始である Ⅰ 段階 長大型竪穴式石室の出現前夜 奈良県 ホケノ山前方後円形墳丘墓 岡山県 矢藤治山前方後円形墳丘墓 兵庫県 綾部山 39 号墳丘墓 広島県 石槌山第 1 号円形墳丘墓等 Ⅱ 段階 長大型竪穴式石室の出現 奈良県 中山大塚 古墳 香川県 鶴尾神社 4 号 墳 香川県 雨滝山奥 14 号 墳 徳島県 西山谷 2 号 墳 等 Ⅲ-1 段階 長大型竪穴式石室の発展と充実 ( 畿内様式の長大型竪穴式石室の出現 )+ 三角縁神獣鏡の副葬の開始 奈良県 黒塚古墳 兵庫県 権現山 51 号墳 兵庫県 西求女塚古墳等 Ⅲ-2 段階 碧玉製腕輪類の副葬の開始 奈良県 下池山古墳 奈良県 桜井茶臼山古墳等 Ⅲ-3 段階 概ね和田晴吾編年 ( 和田 1987) の三期に相当 奈良県 メスリ山古墳 大阪府 紫金山古墳等 Ⅲ-4 段階 概ね和田晴吾編年の四期に相当 奈良県 佐紀陵山古墳 大阪府 北玉山古墳等 89

103 弥生時代墳丘墓と捉えるか 古墳と把握するかの 問題の所在は Ⅱ 段階にある 解決の保留す る手段として カギ括弧付きの 古墳 ( 註 5) として表現している 第 2 節雨滝山奥墳墓群の再検討 1. 雨滝山奥墳墓群の立地と構成標高 253m の雨滝山から四方に支尾根が拡がり雨滝山山塊を形成している 雨滝山の四方の尾根上に所在する墳墓群を雨滝山遺跡群と呼称されている 雨滝山遺跡群は北丘陵上に立地する遺跡群を奥墳墓群と呼ばれ 南丘陵に立地する遺跡群を古枝墳墓群と呼称されている 今回 再検討の対象とする雨滝山墳墓群の立地と構成を第 1 図によってみていきたい 雨滝山奥 号墳丘墓の立地は 同じ支尾根上に立地している 11 号墳丘墓は支尾根頂部に築かれ 10 号墳丘墓は長尾平野を望む南西方向に延びる支尾根上に築かれている 10 号墳丘墓と 11 号墳丘墓との間には幅約 1.0m 深さ約 0.3m の掘割溝で区画されている A 支群 ( 註 6) と仮称する 雨滝山奥 号墓は同じ支尾根上に立地し B 支群と仮称しておきたい 雨滝山 2~4 号墓も同じ支尾根上に立地しており これを C 支群としておきたい A 支群の雨滝山 号墳丘墓は 弥生時代後期末から終末期に築造された墳丘墓であり 出土土器から 10 号墳丘墓 11 号墳丘墓の変遷と把握できる 後述するが 雨滝山奥 1 期と設定しておきたい B 支群の 14 号 墳 は 雨滝山奥 2 期に 13 号墳は雨滝山奥 3 期の築造と捉えている そして C 支群の 2 号 墳 は雨滝山奥 2 期に 3 号墳は雨滝山奥 3 期の築造である B C 支群の構成とその築造変遷が当を得ているものと見れば この小地域の首長墓は B 支群の雨滝山奥 2 期の14 号 墳 から同じ B 支群の雨滝山奥 3 期の13 号墳という変遷がたどれる また C 支群の雨滝山奥 2 期の 2 号 墳 から同じ C 支群の雨滝山奥 3 期の 3 号墳に変遷して 90

104 いると把握できる このことを整合的に解釈するとすれば 弥生時代終末期後半から古墳時代前期前半のこの小地域の政治的集団には 二系統の首長系譜をもつ首長達が共同統治していたと分析するこが可能であると言いうことができる 二系統の首長系譜と言っても近接して立地している姿態からみれば 同族と捉えるのが妥当であろう なお 雨滝山奥 1 期の段階に築造されている A 支群は 弥生時代後期後半の 10 号墳丘墓から終末期前半の 11 号墳丘墓へと変遷しており 同じ時期の墳丘墓が確認されていないことから 単系的な首長による支配が考えられる 2. 雨滝山奥墳墓群の個々の具体的検討 1 雨滝山奥 号墳丘墓 ( 雨滝山奥 1 期 ) 立地と構成の項で前述しているが 両墳丘墓は近接して築かれており 10 号墳丘墓が先行して築かれていることは 出土土器の型式的変遷から観て明らかである 雨滝山 10 号墳丘墓西側に支尾根と直行するかたちで墳丘を画する掘割溝が掘削されている 南側には人頭大の角礫や亜角礫が列石状に付設されている 付設の手法は 墳丘の基底に平坦に置かれているようであり ほぼ原位置をとどめているとみてよいであろう この南側によって区画されている施設は 尾根下方の東側に向かうところで突出部とも捉えられる形状を示している 報告者の古瀬は この張り出しを四隅突出墳丘墓の関連で注意する必要があると叙述しているが この部分は自然流出が著しく 不明であるとしている そして 円形墳丘墓か方形墳丘墓かの判断を保留し 一辺あるいは径約 14m 高さ 2.5m の規模の墳丘墓と記述する 墳形図を検討すれば 突出部を造り出す方形墳丘墓と捉えることも可能である 第 2 図のように復原が当を得ているものとすれば 一辺 11.5m の方形丘に長さ 3m 幅 8m ほどの幅広で短い突出部をもつ方形墳丘墓と把握できるであろう 西側と北側には 墳丘裾を画する具体的な施設は 発掘調査では確認されていない 雨滝山奥 10 号墳丘墓は支尾根の自然地形を最大限利用した築成手法を採用しており 確認できる盛土は墳頂部では 0.7~0.8m のみである 埋葬施設は前述した筆者の推論があたっていれば ほぼ墳丘中心部に外開きの竪穴式石室とその北側にある壷棺 2 基の埋葬施設で構成されている 報告書では壷棺を追葬と捉えているが 筆者には計画的な埋葬形態であると理解できる 雨滝山奥 10 号墳丘墓の中心埋葬である竪穴式石室の構造に言及していきたい この石室はおそらく盛土を行う以前に 地山 ( 基盤層 ) に墓抗を掘削して構築し始めていたのであろう このことは 宇垣匡雄が弥生時代後期後半にお 91

105 ける竪穴式石室の特質のひとつとして指摘した 墳丘築成のかなり初期 ないしは墳丘の築成開始に先立って墓抗の掘削がなされている ( 宇垣 1987) ということの証左の例であろう 墓壙形態をみれば 墓壙上面が広く墓壙下面が狭い通常の形態である 墓壙の規模は 上面の長さ 3.4m 幅 2.7m であり 下底の規模は長さ 2.7m 幅 1.7m である その深さは 1.1m である 墓壙底の形態は平坦であるとみてよいであろう そして この外開きの墓抗に沿って角礫を使用した外開きの竪穴式石室が築かれている 木棺の形態と関連する構造であろう 石室の床面は 墓壙底上に約 5 cmの厚さの良質な赤褐色粘質土を敷きつめ棺床としている 蓋石は架構されることはなく 角材を使用した木蓋であったとみることが正鵠を射ていると捉えるのが妥当であろう 竪穴式石室の最上部の壁体石から約 20 cm上部に 石室長軸と一致した方向に拳大から少児頭大の角礫を使用した集石と供献土器が検出されている 集石中央はほんの僅か窪んでいるが 木蓋であれば その腐朽とともに落ち込む状態を示すはずであるが その姿態は認められない このことを整合性のもとに理解するには 木蓋の上下に丁寧に土を使用した状況を想定せざるを得ない 木蓋や木棺が腐朽しても大きく落ち込まない丁寧な施工であったのであろう 集石中には土器と鉄器が混在していた なお 集石西端には長さ 0.5m ほどの板石 ( 平石 ) が置かれ 完形の壷形土器 器台形土器 高杯形土器が この板石の上に載せられた状態で出土している 石室上部において土器と鉄器 ( おそらくヤリガンナ ) と石を使用した儀礼が実修されたのであろう 木棺の形態を推定すれば 棺底が平坦で 棺側面が外に開く形態を想定せざるを得ない 報告書では 組合式木棺と記述されている 現在 知られている木棺としては 舟底形木棺に近い形態と捉える他にないとみてよいであろう この竪穴式石室の長さは 2.1m 幅 0.9m であり その長幅比は 2.3 である 深さは 0.65m を測る 竪穴式石室の主軸は東西方向であり おそらく 石室上部の供献儀礼の痕跡から判断して 東頭位と捉えていいであろう 副葬品はなんら検出されていない 雨滝山奥 11 号墳丘墓この墳丘墓は基盤の地山を成形することによって墳丘を形作っている 盛土は墳頂に 0.5m ほどが確認されているにすぎない 墳丘裾には 南 北 東側に幅 1.5m ほどの浅い溝があり この溝底面には人頭大前後の角礫が浮いた状態で乱雑に検出されている この出土状況から墳丘に付設されていた列石が転落したと捉えるのが合理的である なお 溝の掘削は僅かな盛土を確保するのが主な目的であったのであろう これらの造作の結果として 径約 16m 高さ 1.0~2.0m の列石を配した円形墳丘墓が形づくられる この円形墳丘墓の墳頂には 径約 10m の円形を呈する平坦面が形成されており この平坦面に 雨滝山奥 10 号墳丘墓と同形態の外開きの竪穴式石室 2 基と土抗墓 壷棺墓の 4 基の埋葬施設 ( 註 7) が調査されている 92

106 93

107 94

108 2 基の竪穴式石室は その主軸をいずれも東西方向においている 両石室とも控え積みは雨滝山 10 号墳丘墓石室と同じく施工されていない 1 号石室の墓壙は 盛土から掘削されている 墓壙壁と石室側壁石の間に若干の間隙があり そこに埋土が存在する 雨滝山 10 号墳丘墓石室のように墓壙壁に接して側壁石材を積み上げる式ではない 供献土器の新古の関係と関連し 石室構造からみても 11 号墳丘墓が後出であることが判断できる 石室側壁は上方に大きく開き 外開きに傾斜しているが 東小口壁の最下段石は大きめの石材を使用し垂直に置かれている 四壁は角礫を乱積みに近い形態で外開きに構築されている 石室床面には 20~30 cmの大きさの壁体を構成する同じ角礫を使用して棺床としている 角礫のより平坦な面を上面に置いていることは言うまでもない 石室の規模は下底で長さ 2.2m 幅 0.5~0.6m 上面で長さ 2.9m 幅 1.4~1.5m であり 高さ 0.6m を測る 蓋石はなく 雨滝山奥 10 号墳丘墓石室と同じく木蓋による架構がなされていたものと捉えられる 雨滝山奥 11 石室の上部には 供献儀礼に使用した土器が出土している 2 号石室は 1 号石室より小ぶり竪穴式石室である 使用石材は角礫を使用しており 石材の大きさは 1 号石室と変わらない 1 号石室と併行に築かれている 2 号石室の側壁は最下段の壁体から約 45 度に近い傾斜をもって積み上げられており その横断面をみれば U 字形に近い形態を呈している 石室床面には中心より西側よりに一石が敷石的に象徴的に置かれている 東小口壁は下段の 2 石がほぼ垂直に積み上げらており 1 号石室と同様な手法である 西小口壁はゆるやかに外開きに積み上げられている ここから木棺形態を推し量るのがよいのであろう 2 号石室も蓋石は確認されておらず 木蓋を想定せざるを得ない 石室規模は下底で長さ 1.4m 幅 0.35~0.4m 上面で長さ 2.3m 幅 1.0~1.2m 高さは 0.45m を測る 両石室とも副葬品はなんら確認されていない ( 註 8) 土坑墓と報告されている埋葬施設は 2 号石室の南側に近接して併行に配置されている 規模は下底で長さ 2.6m 幅 0.7m 上面で長さ 3.2m 幅 1.3m で 深さは 0.6m を測る以外の情報はない 壺棺は 1 号石室の南側に配置されおり 小型の壺形土器を用いたものである 2 雨滝山奥 14 2 号 墳 ( 雨滝山奥 2 期 ) 雨滝山奥 14 号 墳 はB 支群に 雨滝山奥 2 号 墳 はC 支群に築かれている 14 号 墳 の後円部墳頂には 2 基の竪穴式石室が構築されている 雨滝山奥 2 号 墳 の埋葬施設は 粘土槨と報文されているが 用語の選択が適切ではなかったのであろう 木棺の設置方法としては 墓壙底中央をU 字形に掘り込んでいることは両埋葬施設も同じであるが 2 号 墳 には 粘土による木棺上部の被覆は認められない 2 号 墳 からは 何らの遺物出土はなく 両者の先後の関係は論じられない 直感としては 14 号 墳 2 号 墳 に変遷すると捉えている 雨滝山奥 14 号 墳 寒川町史 の報文では 墳丘は基盤の地山を成形することによって築成され 墳丘におよぶ調査が 当時の開発側と埋蔵文化財保存側の力関係等による時間的制約から充分でなく 墳丘裾を特 95

109 定することはきわめて困難であるとされ 報告では円形であれば径 18m であると捉え 前方後円形であれば 墳長約 32m であるとして結論を保留されていた その後 ゴルフ場建設の対象地から外れ 保存されていた 14 号 墳 も再び破壊の危機にさらされ 1985 年に再調査が行われた 再調査は墳丘全体と 1972 年に行われた埋葬施設の墓抗全体にわたっての詳細な調査 ( 丹羽 1992) が実施された 再調査では 墳丘の前端と東側側面には 丹羽祐一がいう石垣状石積 (= 葺石 ) が それなりに遺存しており そのことによって墳丘の形態が明瞭に把握できる この調査によって 前方部の先端で極端に開く撥状の前方後円 墳 であることが明確になった その結果 雨滝山奥 14 号 墳 は墳長約 30m で 後円部径約 16m 前方部長約 16m くれ部幅約 7m 前方部前端幅約 9m という狭長な前方部をもつ前方後円 墳 であるが明らかになった なお 後円部 前方部とも一段築成であるが 墳丘基底の外側に 墳丘外縁 と称される墳丘基底石より外側に いわゆるテラス的施設が認められる 墳形が明確になったことにより 前方部が尾根上方に位置する讃岐地域の初期前方後円 墳 の特徴もつ 墳 であるということも判った 埋葬施設は墳丘主軸と斜交するかたちで後円部中央に 2 基の竪穴式石室が構築されている 両竪穴式石室の主軸は東西方向である 1 号石室の頭位は赤色顔料の塗布が西側に著しいことや鏡や玉類の副葬位置から西頭位と捉えられている 妥当な判断であろう 2 基の竪穴式石室は墓抗上面の切り合い関係から 2 号石室 1 号石室の構築順である 先後の関係はそうであっても それほど時をおかずに構築されていると捉えられ 当初からの計画的に行われた埋葬形態のあり方である 両石室とも控え積みを採用しており そこには切り合い関係はない 両者の間には 墓壙上面では切り合いの関係にあるが 両墓壙の長辺が接するところには障壁状に墓壙壁がのっている このことが 当初から計画な配置図に基づいて構築していると捉える主な根拠である 香川県丸井古墳 ( 大山 松本ほか 1983) が雨滝山奥 14 号 墳 と極似している 極似しているところは 墳丘形態 墳丘規模であり 前方部が撥形に開く位置 後円部墳頂に長大型竪穴式石室を構築する前方後円墳の複数埋葬のあり方などである 異なるところは 石室基底部構造と墳丘外にのびる排水溝の有無と石室使用石材である 両古墳とも香川県長尾平野域に築 96

110 かれている古墳である 雨滝山奥 14 号 墳 の両石室は ほぼ同種同大の規模である 両石室の構築順に従って その構造の詳細を検討していきたい いずれも 墓壙底四辺に平坦面をのこし 墓壙中央を木棺形態に合わせた細長いU 字形に掘り窪める U 字形抗に沿って厚くない粘土を敷設する 石室の最下段壁体石の設置手法が 1 号石室と 2 号石室では異なる 1 号石室の最下段壁体石は 粘土棺床の上に設置されるが 2 号石室の最下段壁体石の下には 粘土は認められない このことを整合的に解釈するとすれば 1 号石室が粘土棺床を先に設置し その後 最下段壁体石を置くのに対し 2 号石室は粘土棺床の設置と最下段壁体石が ほぼ同時に行われたと捉えることができる 1 号石室の基底部構造は 雨滝山奥 3 期の雨滝山奥 13 号墳の基底部構造と通じる そして 2 号石室の基底部構造は雨滝山奥 3 期の雨滝山奥 3 号墳と通じる構築手順である 両石室とも 最下段壁体石は小口積み配置を基本としているが ところどころに 横積みの配置が認められる 壁体石は両石室とも安山岩板石を使用している 微妙な差異に拘っていると想われるかも知れないが その後の竪穴式石室の進展には重要な要素であると理解している 控え積み石材の使用方法も両石室では異なっている 最下段壁体石の後に置く石材が異なっている 1 号石室は扁平な板石を配することを基本とし その間隙に小角礫を詰めている それに対し 2 号石室は最下段壁体石の後には おおぶりの角礫を使用して控え積みとしている 控え積みの手法は 上部に構築していくに従っても両石室は異なっている 2 号石室は石室上部に極小角礫を多く使用しているのに対し 1 号石室はその上部までおおぶりの角礫を使用して控え積みとしている このことは 閉塞する蓋の構造に関連する可能性が高い 控え積みと壁体の積み上げ手法を捉えて 報告書では 2 号石室をきつい持ち送り状の石室であると表現して 本来は小型の天井石 を架構していると推察している しかし 石室の横断面図や写真図版をみれば とてもその様に捉えられず 木蓋の構造上における違いが表現されているのであろう しかし 反って 持ち送りのきつい石室構造は2 号石室の方に読み取れる 1 号石室東側小口の図版をみれば 最下段壁体石から 2 段目までは板石を使用しているが その上からは角礫を使用した積み上げが読み取れる そして その後方側に 徳島県 西山谷 2 号 墳 にも認められる 積み石 の施設が写っている この間に角材を使用した閉塞手法であったと筆者には見える それに比較して 1 号石室は 最下段壁体石より 4 段目までは 板石を使用し その上 5 段目扁平に近い角礫を使い その上は土で僅かに覆い そこに極少角礫を使用して 石室上部を平坦化している 石室幅 0.65m の上を覆う大きさの板石は 両調査時にも確認されていない この状況を判 97

111 断すれば 板材を使用した木蓋とみてよいであろう 側壁構造と閉塞方法のこととは このように関連していると捉えてよいのであろう 両石室とも壁体はほぼ垂直に積み上げられている そこに 木蓋構造の違いをみるとすれば 前述したように解釈し 1 号石室は角材を使用した閉塞構造であり 2 号石室は板材を使用した閉塞構造であったとみるのが正鵠を射ているのであろう これが 次期の 古墳時代に至って板石を使用した閉塞構造に継がっていくのである 両石室とも控え積みの手法は 側壁と小口壁では異なっている 両者に共通していえることは 小口壁よりも側壁の方が控え積みの手法が重厚であるということである 結果として 1 号石室の木棺の規模は長さ 3.5m 幅 0.5m 以上であり 竪穴式石室の内法の規模は長さ 4.0m 以上 幅 0.6m である 2 号石室の木棺の規模は長さ約 4m 幅 0.5m 以上であり 竪穴式石室の規模は長さ 4m 以上 幅 0.7m である 竪穴式石室の上部から 焼成前に底部中央を穿孔した 土師器 の二重口縁壺形土器が採集したと報告されている そして この墳丘出土土器は墳丘上に置かれたと捉え 埴輪的性格を付与するのが妥当であろうとされる 土器の特徴からいっても妥当な見解と言える 底部中央を焼成前穿孔した土器は 岡山市 七つグロ 1 号墳の特殊壺形埴輪と近似している ただ 大きさでは 著しくこぶりである点が問題を内含している 両石室とも棺内と棺外に分けて副葬品が配置されていた 1 号石室は粘土棺床の中央から西側にかけて赤色顔料の塗布が著しく その西寄りの棺内に環状乳画文帯神獣鏡 ( 面径 12.9cm) が 2 片に割られ重なって出土し その周囲に硬玉製勾玉 3 碧玉製管玉 12 ガラス製小玉 14 以上と布に包んだ鉄片 1 が検出されている なお 玉類の一部は 東半の粘土棺床面からも量的には少ないが 出土していると記述されている 棺外副葬品としては 鏡の位置より東側の粘土棺床外周の平坦面より切っ先を東に向けた状態で鉄剣 ( 鉄槍 ) が出土している このことも西頭位である根拠になっている 鉄剣は把部分に木質が遺存しているが 身には布が付着しているところが図示されており 身は抜き身で布に巻いて副葬された可能性が高い 2 号石室では 粘土棺床の中央で鏡上面を上に向けた状態で 1 号石室出土の同型式の環状乳画文帯神獣鏡 ( 面径 14.0cm) が副葬されていた 東側小口壁と粘土棺床の間に挟まれるように袋状鉄斧 1 が棺外に副葬されていた 以上のように雨滝山奥 14 号 墳 のことを長々と論述してきたの 考古学からみた聖俗二重首長制 ( 白石 2009) に関わるからである 雨滝山奥 14 号 墳 では 竪穴式石室の構造をみれば 2 号石室の方が重厚な構造で 中心的な埋葬と捉えられる 盗掘や撹乱が激しい両室の副葬品で 副葬品の全容が推し量れない両石室の首長の性格を論じるのは無理があるのであろうが 玉類を多くもつ1 号石室に棺外といえども 鉄剣 ( 鉄槍 ) が副葬されていることに不思議を感じている 環状乳画文帯神獣鏡の面径は 2 号石室の方が大きく 重量も 481g と重く 1 号石室の 304g と差がある 2 号石室の首長が武力等に基づく現実的政治権力を行使し 1 号石室が祭祀を司る首長と捉えたいところである 1972 年と 1985 年に調査した報告者は共に 築造時期を古墳時代前期後半に比定されているが 98

112 とても その時期に比定することはできず 古墳 段階の弥生時代終末期末 ~ 古墳時代前期初頭に築かれた墳墓である 雨滝山奥 2 号 墳 雨滝山奥 2 号 墳 は自然地形を成形することによって墳丘の築成を行っており 盛土は墳頂部に僅かに認められのみである 埋葬施設が墳丘の中心に位置するとすれば 径約 15.0m 高さ約 2.0m の円墳と報告されている 推定される墳丘裾の南西部に 30~50cm 大の花崗岩礫の集石が検出されており 列石の一部と捉えられている 墳頂部には比較的広い平坦面が形成されており その中央に東西に主軸をおく埋葬施設が構築されている 埋葬施設は基盤の地山上に長さ 3.5m 幅 1.4m 深さは浅く 0.2~0.3m の墓壙を掘る さらに 墓壙底中央に細長いU 字形を呈した長さ 2.8m 幅 0.4m 深さ 0.1~0.15m 浅い坑を掘り込む そして U 字形の坑底面に厚さ 5cm ほどの粘土を設置し 粘土棺床としている 粘土棺床の形態から棺形態は割竹形木棺と捉えられる 割竹形木棺の規模は 長さ 2.5m 幅 0.3m 以上である 粘土棺床面には全体に赤色顔料が認められ 東側に著しいことから東頭位と推定されているが 副葬品はなんら出土していない 雨滝山奥墳墓群の埋葬施設の頭位が 2 号 墳 と 13 号墳が東頭位であり 以外すべて西頭位である また 粘土棺床上の東より扁平な石材が検出されているが用途は判らない 木棺を設置して埋葬儀礼が終わった後は 土を使用して密封する 墓壙内の上部や墓壙壁に跨って拳大から 30~40cm 前後の角礫が認められる 上部標石と理解されているが 標石としては数が多すぎる 粘土槨と報告されているが 粘土の厚さわずか 5cm であり 木棺上に粘土を被覆できる厚さではない 粘土槨は畿内地域で長大型竪穴式石室の省略形として 古墳時代前期後半に畿内地域で長大型竪穴式石室より下位の埋葬施設として創案されたと論じた ( 山本 1983) ことがある 雨滝山奥 2 号 墳 は 古墳出現前夜か古墳時代初頭の時期である 阿讃地域の埋葬施設を検討 ( 山本 2002) したとき このような埋葬形態の理解にこまりはてて 類粘土槨構造 と仮称した その後の研究は進展していないが 瀬戸内地域の出現期古墳前後に多く確認されている 雨滝山奥 2 号 墳 は粘土棺床の上に設置された木棺の上部に土で密封された埋葬施設である 2 号 墳 を雨滝山奥 2 期と把握しているのは 粘土棺床設置の基底の構造が 雨滝山奥 14 号 墳 と同様であるというのが唯一の根拠である 3 雨滝山奥 13 3 号墳 ( 雨滝山奥 3 期 ) 雨滝山奥 13 号墳はB 支群に築かれ 雨滝山奥 3 号墳はC 支群に位置する いずれも前方部は尾根の低い方に築かれていることは, 雨滝山奥 2 期の雨滝山奥 14 号 墳 とは異なる 雨滝山奥 13 号墳雨滝山奥 13 号墳は主に基盤の地山を成形すること墳丘を形作っており 盛土は調査段階では 後円部墳頂に 0.7m ほどが認められたにすぎない 前方部は尾根の低い方である北西方向に向け築いている前方後円墳で 墳長は約 30m である 前方部の形状は柄鏡式に近い形態に復原されており 後 99

113 円部径 17m 高さ 2.0m 前方部長 17.0m 幅 8.0~9.0m 高さ 1.5 である 川原石を使用した葺石が確認されている 埋葬施設は後円部墳頂中央に1 基の竪穴式石室が構築されていたのみである 墳丘主軸と斜交する関係で 石室長軸は東西方向に配する 墓壙は墳丘盛土から掘り込まれてとみられる 墓壙は長さ 4.4m 幅 1.7m ほどの規模である 墓壙底は平坦で その中央にU 字形を呈する粘土棺床を設置する 粘土棺床の粘土の上に最下段壁体石が置かれており 粘土棺床が先に設置されていることは明らかである 雨滝山奥 14 号 墳 1 号石室と同じ施工である 石室の遺存状態は撹乱のために悪く 下段の 1~2 段の壁体を遺すのみである 壁体は板状石材と扁平気味の割石 ( 角礫 ) で構成されている 控え積みは認められるが重厚に施工されている訳ではない 粘土棺床は比較的良好であったが 副葬品はなんら検出されていない 粘土棺床の東端に赤色顔料の塗布が顕著で 東頭位の可能性が高いと捉えられている 雨滝山奥 13 号墳の時期を特定しているのは 粘土棺床の設置の手法のみで雨滝山奥 3 期と位置付けている 雨滝山奥 3 号墳雨滝山奥 3 号墳は雨滝山奥墳墓群では最大の前方後円墳である 最大といっても墳長 37m である 前方部を尾根の低い方に配する設計は雨滝山奥 13 号墳と同じであり 雨滝山奥 3 期には讃岐型前方後円 墳 の特徴のひとつである尾根上方に前方部を位置さすという思想は払拭されているのであろう 後円部は円形ではなく 楕円形を呈しており 長軸 22m 短軸 17m である 前方部は長さ 17m くびれ部幅約 8m 前方部前端幅 10m で いわゆる撥形に近い形態の前方部を形成している 前方部前端の前には 上面幅 7~8m 深さ 1.3~1.6m の掘切り溝があり 後円部の基底と堀切り溝の下底は同じ高さになるよう設計されている また 基底の平坦面の造成は雨滝山奥墳墓群の中では重厚に施工されている 後円部中央に 2 基の埋葬施設が 墳丘主軸と直交するかたちで構築されている 2 基の埋葬施設は厳密に併行関係に配されており その配置関係からいっても当初から計画的な意図のもとに構築された埋葬施設である この後円部の 2 基の埋葬施設は 異種の種類を採用している 竪穴式石室と箱式石棺である 両埋葬施設の主軸は東西方向に構築されている 竪穴式石室の内容からみていきたい 竪穴式石室は平坦な墓壙底上に構築される 平坦な墓壙底に断面 U 字形を呈する粘土棺床を設置する 粘土棺床の四周や下部に礫石や板石を使用する基底部構造は採用されていない 粘土棺床と最下段壁体石の構築順の関係は 雨滝山奥 14 号 墳 2 号石室と同じくほぼ同時に施工されていると捉えられる それは 最下段壁体石の下に粘土が入りこんでいないことからの判断である 竪穴式石室の内法の規模は 長さ 3,9m 幅 0.6~0.7m 高さ 0.65m 前後である 高さは畿内地域 100

114 の竪穴式石室と比較して低いということが言える 雨滝山奥墳墓群の竪穴式石室の中では確実に天井石を架構した石室で 天井石は花崗岩の割石が 14 枚で架構されている 天井石の上には粘土の被覆が施されており これも雨滝山奥墳墓群の中では初めて採用された密封手法である 平坦な墓壙に粘土棺床を設置すること 天井石を架構すること 天井石上に粘土被覆を行うことのこれらの現象は 大和地域東南部に王権という中心が成立し 長大型竪穴式石室 ( 都出 1986) が畿内地域の諸首長の間で成立 創案 共有された竪穴式石室 ( 山本 1980) の影響のもとで 雨滝山奥 3 号墳に採用されたと把握することが正鵠を射ているという現象にほかならないと思考している 壁体は花崗岩の割石を使用して構築されている 壁体石は使用された石材の特質で大ぶりの石材が使用され 側壁は三 ~ 四段が積み上げられ 内傾している 西小口壁はほぼ垂直な面を形成しており 最下段石は縦長に置かれている それに対し 東小口壁は下段から 2 石までは垂直な面を形成するが その上部 3 石は持ち送り状に積み上げている 石室の控え積みも 雨滝山奥墳墓群の中では最も重厚な構造である 控え積みは人頭大から 40cm 大の割石石材を使用し 控え積みと墓壙壁の間には小礫と砂質土で充填している 副葬品はすべて棺内からの出土である 三角縁神獣鏡 ( 面径 22.7cm) は東寄りに鏡面を上にして置かれ 鏡と 1.7m の間隔をあけて 西寄りに鉄剣 鉄斧 鉄刀子 鉄釶が一括して 石室主軸と直交するかたちで副葬されていた 玉類も鉄鏃も副葬されていない 不思議な現象である 粘土棺床上には 前面に赤色顔料が認められ 鏡周辺に特に顕著であり そのことから 東頭位と報告されている しかし 竪穴式石室の両短辺幅の違いからみて 西頭位と捉えるのが妥当であろう 粘土棺床は傾斜することなく 両短辺がほぼ同レベルであり その間の中央が僅かに高い位置を占める 福永伸哉氏は鏡が単数副葬されるときに 頭部単数型と足部単数型と類型化 ( 福永 1995) された 足部単数型の副葬品配置の典型例として雨滝山奥 3 号墳を取り上げている 箱式石棺は長さ 1.65m 幅 0 48~0.3m 深さ 2.7m である 二段墓壙であり 深い方に安山岩板石を使用して 箱式石棺を造る 立石的に使用した上面の高さが不揃いのため その上面に板状石材を小口積み 横積みしている そして さらに粘土を薄く貼り 水平面を確保した後に 蓋石を架構する なお この粘土上に赤色顔料が薄く塗布されていることが確認されている 蓋石は目塞さぎの石材が使用されており二重に架構しているごとくみえる 蓋石の上には粘土で被覆されている 粘土被覆の形状は整美であり 蒲鉾状を呈している この埋葬施設を密封する思想も畿内地域の影響と考えられる 2~3cm の細砂を墓壙底に敷き棺床としている 棺床前面に赤色顔料が認められる 石棺の西端には 粘土枕が設置され 人骨も遺存していた 被葬者は身長 150cm 未満の 40 歳前後の女性と鑑定されている 粘土枕の北側から鉄斧と折り曲げた鉄釶が副葬されていた 報告者は竪穴式石室の被葬者を 司政者的性格 の首長であり 箱式石棺の被葬者を 司祭者的性格 の首長と捉えている 当を得た解釈である 101

115 第 3 節雨滝山奥 1 期から雨滝山奥 3 期の設定の根拠 1. 出土土器から時期の設定には 出土土器の検討から始めていきたい 雨滝山奥墳墓群から土器が出土しているのは 10 号墳丘墓と 11 号墳丘墓 そして 14 号 墳 である これらの出土土器は仮器の道程を導き出すには 良好な資料である 10 号墳丘墓出土土器は石室上部から出土した供献土器である 複合壺形土器 ( 図 3 上段 1 2) は底部より少し上部の体部下半に焼成後に穿孔を行っている 11 号墳丘墓出土の壺形土器 ( 図 3 上段 1) は底部中央に焼成後の穿孔を認められる 14 号 墳 の二重口縁壺形土器 ( 図 4 中段 1~4) は底部中央に焼成前穿孔である 仮器化の穿孔手法とその位置からの変化をみれば 10 号墳丘墓 11 号墳丘墓 14 号 墳 と変遷していると把握できる これらの土器の様式的位置を検討したのが第 7 8 図である 第 7 図は岡山県 黒宮大塚墳丘墓 ( 註 9) 出土土器との比較である 雨滝山奥 10 号墳丘墓の供献土器が黒宮大塚墳丘墓の影響下の基で成立していることが読み取れる 黒宮 Ⅱの時期 ( 間壁ほか 1977) であり 弥生時代後期後半の外傾する竪穴式石室が構築されている時期と捉えられる 第 8 図は岡山市 七つク ロ 1 号墳と雨滝山奥 14 号 墳 の土器の比較図である 土器の大きさは著しく異なるが 底部の焼成前穿孔の手法は同じである このことが 雨滝山奥 14 号 墳 が弥生墳丘墓か古墳かを決め難くしている大きな要因のひとつである 報告者の古瀬も その出土状態から 14 号 墳 の出土土器を 埴輪的性格をもつものといえよう と叙述される 妥当な見解であろう 七つク ロ 1 号墳の比較から 特殊壺形埴輪と捉え 呼称しても差し支えないと把握できる 古墳時代の開始期の雨滝山奥 14 号 墳 を複雑にしているのはこのことである 七つク ロ 1 号墳からは 古墳時代の開始期における指標のひとつである特殊器台形埴輪が出土していることである しかし 14 号 墳 出土土器を特殊壺形埴輪と呼ぶには 小ぶりすぎることが躊躇されるところではある 102

116 鶴尾神社 4 号 墳 出土土器は 下川津 B 類土器が多くを占め その壺形土器の底部中央に焼成前穿孔を行っている 日常使用する土器に底部穿孔を行い その穿孔手法は 七つク ロ 1 号墳や雨滝山奥 14 号 墳 より丁寧である 先行して築造されている可能性が高いとみていいのであろう しかし 鶴尾神社 4 号 墳 は積石塚という墓制も考慮する必要性がある 今後の土器仮器化の研究課題である なお 鶴尾神社 4 号 墳 の土器の出土位置は 石室内 後円部墳頂 後円部裾部からであり 石室内出土土器と墳丘出土の土器が接合する例も多い と報告され 本来 墳丘にあった土器が転落した可能性が高いと報告されている 丸井古 墳 出土の壺形土器は穿孔の有無は不明である その 出土位置は前方部前端の石垣状葺石と石垣状積み石で造られた 溝 の外に置かれた状態での出土である この壺形土器は東阿波型土器で 阿波の弥生土器 Ⅵ-3 様式と捉えられるが 微妙な課題はのこる これらの要素を配慮すれば 鶴尾神社 4 号 墳 七つク ロ 1 古墳 雨滝山奥 14 号 墳 丸井古 墳 であるとみたいのだが 竪穴式石室の構造変遷との整合性の調整も必要である 雨滝山奥 10 号墳丘墓から出土している高杯形土器は 下川津 B 類土器で その所属時期は阿波 Ⅴ -5 式 ( 菅原 2000) であり 下川津 Ⅱ Ⅲ 式 ( 大久保 1990) に比定される 弥生時代後期末である 雨滝山奥 11 号墳丘墓出土土器は 特徴が顕著でない土器ばかりであり 時期比定するには困難を伴うが 概ね阿波 Ⅵ-2 式の時期と捉えてよいであろう 弥生時代終末期前半である 雨滝山奥 3 号墳には土器が出土していないが 副葬鏡は古式の三角縁神獣鏡である 三角縁神獣鏡と伴出している土器は すべて布留式期以降である 土器等から判断して 10 号墳丘墓 11 号墳丘墓 14 号 墳 3 号墳の順に築造されたと実証できるであろう 2. 埋葬施設から雨滝山奥墳墓群では墳頂部以外に埋葬施設は確認されていない 前方後円 墳 前方後円墳の埋葬施設のあり方や構造から検討いきたい 1 墳丘主軸との関係 埋葬主軸の方向 そして頭位 14 号 墳 は後円部中央にほぼ同形同大の長大型竪穴式石室を 2 基構築しており 墳丘主軸とは斜交している 両者とも石室主軸は正確に東西方向に築かれており 西頭位である 13 号墳は後円部中央に長大型竪穴式石室が 1 基築かれており 墳丘主軸と斜交し 西頭位とみて 103

117 いいであろう 3 号墳では後円部中央に 長大型竪穴式石室 1 基と 1 基の箱式石棺が築かれており 両者とも墳丘主軸とは直交しており 西頭位である なお 雨滝山奥 号墳丘墓の竪穴式石室の主軸も東西方向に築かれ 西頭位である 雨滝山奥墳墓群の埋葬施設は ほぼすべて その主軸を東西方向におき 西頭位が優位な墳墓群である 墳丘主軸との関係が斜交から直交に変化しているのは 雨滝山奥 2 期から 3 期の間にあり 竪穴式石室の構造と連動している 雨滝山奥 3 期は三角縁神獣鏡の副葬と平坦な墓壙底に粘土棺床を設置することを 2 期との主な分期の要素の根拠にしている 3 期の雨滝山奥 13 号墳は斜交しており 同じ 3 期の 3 号墳は直交している 平坦な墓壙底を設置することは同じであるが 粘土棺床と最下段壁体石の設置の先後関係が前述してとおり異なる 13 号墳の天井石と天井石上の粘土被覆の有無は撹乱のため不明であるが 3 号墳は両者とも採用されている 雨滝山奥 13 号墳石室と 14 号 墳 2 号石室の粘土棺床と最下段壁体石の設置の先後関係が同じであること 雨滝山奥 3 号墳石室と 14 号 墳 1 号石室と粘土棺床と最下段壁体石の設置の先後関係が同じであることが問題を複雑にしている 問題を複雑にしているが 前述している要素を読み解けば 雨滝山奥 3 期では 13 号墳がより伝統的要素を保持し 3 号墳は新式の思想を採り入れた墳墓といえる 3 期では 13 号墳 3 号墳の順で築造されていることは まず間違ない 2 前方後円形墳墓の複数埋葬について前方後円 墳 前方後円墳の複数埋葬をみれば 雨滝山奥 2 期と 3 期では変化がみられる 後円部に 2 基の埋葬施設をもつことでは同じであるが 雨滝山奥 14 号 墳 では同形同大の 2 基の竪穴式石室を採用している それに対し 3 号墳は竪穴式石室と箱式石棺という異種の埋葬施設を採用しており 前者は 男性の政治的 軍事的首長と女性の宗教的 呪術的首長 ( 白石 2009) が役割分担のもとで共同統治した社会形態が想定される 後者は政治的 軍事的首長が優位に起ち 後円部に埋葬される首長間に格差が生じている 倭王権が成立し 男王の時代 ( 山本 2009) になった社会形態の現象と理解される 事実 3 号墳の箱式石棺からは 40 歳前後熟年女性の人骨が遺存していた 竪穴式石室からは人骨は遺存していなかったが 男王と捉えていいであろう 両者の間には副葬品も大きな格差がある 報告者が竪穴式石室の被葬者を 司政者的性格 の首長であり 箱式石棺の被葬者を 司祭者的性格 と把握したことは当を得た解釈である 雨滝山奥 14 号 墳 と同じく 同形同大の 2 基の竪穴式石室を後円部に構築した古墳として 讃岐地域では 丸井古墳 野田院古墳 ( 前方後円墳 47.5m) がある 両者とも墳丘主軸と斜交し 石室主軸は東西方向である 野田院古墳は積石塚である 讃岐地域ではなく 車輪石が副葬されていることから時期が下がるが 兵庫県 丹波丸山 1 号墳 ( 前方後円墳 48m) にも後円部に 2 基の同形同大の竪穴式石室が築かれていた 丹波丸山 1 号墳は埋葬位置を変えて 首長層の格差が表現されてはいる古墳 ( 山本 2008) である 類似例として 讃岐地域では 高松茶臼山古墳 ( 前方後円墳 75m) 等がある 雨滝山奥 3 号墳の同様に 後円部に異種の埋葬施設を採用した古墳として 讃岐地域では 古枝 104

118 古墳 ( 前方後円墳 35m) 六ツ目古墳( 前方後円墳 21.5m) がある 古枝古墳の埋葬施設は竪穴式石室と粘土槨であり 墳丘主軸とは雨滝山奥 3 号墳と同様直交している 国分寺六ツ目古墳は墳長 21.5m という讃岐型前方後円墳の特質のひとつである極小前方後円墳である 後円部には 3 基の埋葬施設がある 第 1 2 主体は墳丘主軸と斜交しており 第 3 主体の箱式石棺は墳丘主軸と併行関係にあり 第 1 主体の墓壙を切って築造されており 追葬の埋葬施設であると捉えられる 古墳築造当初の計画的な埋葬施設は第 1 2 主体であると把握できる 第 1 主体は竪穴式石室であり 第 2 主体は類粘土槨構造の埋葬施設である 築造時期は和田編年 2 期である 他に 後円部に単数の埋葬施設しか構築されていない古墳として 讃岐地域では 雨滝山奥 13 号墳と鶴尾神社 4 号 墳 ( 前方後円 墳 40m) がある いずれも墳丘主軸と斜交している 斜交しているといっても鶴尾神社 4 号 墳 は直交気味に斜交している 前方後円形の墳丘主軸と埋葬施設が 斜交の関係で築かれるのは 讃岐型前方後円墳 ( 北條 1999) の特質のひとつである 以上のことから 讃岐地域では墳丘主軸と埋葬施設が斜交する墳墓が先行し 直交する古墳は後出すると基本的に捉えられる 以上の墳墓のことを総合的に加味して その墳墓の変遷観を示せば 雨滝山奥 14 号 墳 鶴尾神社 4 号 墳 雨滝山奥 13 号墳 丸井古墳 雨滝山奥 3 号墳 古枝古墳 高松茶臼山古墳 六ツ目古墳 ( 和田編年 2 期 ) 赤山古墳 石船塚古墳 ( 和田編年 3 期 ) と変遷すると捉えられる 3 竪穴式石室の基底部の構造阿讃 E 型の竪穴式石室雨滝山奥 2 期と捉えた雨滝山奥 14 号 墳 両石室と雨滝山奥 2 号の埋葬施設は いずれも平坦な墓壙底中央を細長くU 字形に掘り窪めて そして そのU 字形に掘り窪めたところに厚くない粘土を敷設し粘土棺床としている 14 号 墳 は竪穴式石室の基底部構造であり 2 号 墳 は類粘土槨構造とした埋葬施設の基底部構造である 菅原氏はこの埋葬施設の基底の構造を U 字形棺床 と呼称する 筆者は阿讃地域の長大型竪穴式石室の成立について検討 ( 山本 2002) したとき その竪穴式石室の基底部構造をⅠ-b 群の阿讃 E 型と類型化した 阿讃 E 型の典型類型と把握する徳島県 西山谷 2 号 墳 から伴出している土器を 菅原は弥生時代終末期の最後の土器様式と設定する黒谷川 Ⅲ 式 ( 菅原 1987) と捉える 弥生土器の様式と編年段階 ( 菅原 滝山 2000) では 阿波 Ⅵ-3 式であると編年している 西山谷 2 号 墳 の概報 ( 菅原 2001) では 西山谷 2 号 墳 が長大型竪穴式石室であることから 黒谷川 Ⅲ 式を古墳時代初頭の土器様式であると変更したいと叙述している そして 2006 の論稿 ( 菅原 2006) では 古墳出現前夜の弥生時代終末期後半と位置づけている 菅原もゆらいでいる このゆらぎは なにも菅原氏ひとりのものではなく この時代を研究している多くの研究者のゆらぎでもある この小論もこの課題を解決したくと想い取り組んでいる 阿讃 E 型と同じ基底部構造をもつ竪穴式石室としては 山口県 長光寺山古墳 ( 前方後円墳 62m) 105

119 があるが 新式の三角縁神獣鏡 碧玉製鍬形石 筒形銅器 巴形石製品などを副葬しており 古墳時代前期後半 ( 和田編年 3 4 期 ) である 阿讃地域に展開する古墳出現前後の竪穴式石室とは系統や系譜が異なると捉えられる U 字形に掘り窪める墓壙底をもつ竪穴式石室としては 特殊器台型埴輪を採用した岡山県 七つク ロ古墳 ( 前方後円墳 45m) 古式の三角縁神獣鏡を副葬した兵庫県 吉島古墳( 前方後方墳 39m) などがある 七つク ロ 1 号墳は後方部に 2 基 前方部は 1 基の竪穴式石室が築かれており 埋葬位置や石室構造に格差があり 被葬者の首長間に格差の存在が指摘できる 第 1 号石室 ( 長さ約 5.3m) が中心の埋葬施設である 第 1 号石室はU 字形の墓壙底に板石を敷き その上に粘土で棺床をつくる 畿内様式 ( 山本 1992) の竪穴式石室と把握できる 特殊壺形埴輪の関連から 雨滝山奥 14 号 墳 に影響を与えたと考えられるが 複数埋葬のあり方からは雨滝山奥 3 号墳の形態と同質であり 雨滝山奥 14 号 墳 とは異なっている 吉島古墳は後円部に 1 基の竪穴式石室 ( 長さ 5.4m) を築いている 墓壙底はU 字形を呈するが 粘土棺床の設置はなく U 字形に掘られた墓壙底自体を棺床としている 石室主軸は東西方向で 墳丘主軸とは斜交の関係にあり 雨滝山奥墳墓群を含めた讃岐地域との関連を考慮する必要がある 割竹形木棺を採用した墳墓では その設置方法として墓壙底をU 字形に掘り込む形態は ごく自然な形態であり その後の新しい時期の竪穴式石室に採用される形態 ( 京都府 カジヤ古墳 兵庫県 丸山 2 号墳等 ) であり 粘土槨特有構造として多くの古墳に採用され 発展していく構造である 阿讃 D 型の竪穴式石室雨滝山奥 3 期の雨滝山奥 3 号墳石室と雨滝山奥 13 号墳は いずれも平坦な墓壙底に粘土棺床を設置し 畿内地域の竪穴式石室の基底部構造に採用 ( 山本 1980) されているところの粘土棺床四周や下部に板石や礫石を使用しない構造である この基底部構造をもつ竪穴式石室をⅠ-b 群の阿讃 D 型と類型化 ( 山本 2002) した 阿讃地域では 他に 徳島県 宮谷古墳 ( 前方後円墳 40m) 丸井古墳第 1 号石室 香川県 円養寺 C 号墳 ( 長方形墳 長辺 40m) で採用されている 竪穴式石室の長さは 円養寺 C 号墳が短く 2.8m である 丸井古墳第 1 号石室の長さは 4.6m であり 花崗岩の扁平な亜角礫を壁体に使用しており 粘土棺床下には散漫に小円礫が敷かれていた 宮谷古墳石室は長さ 6.0m で 高さも高く東小口で 1.3m を測り 壁体には結晶片岩の板石を使用し この阿讃 D 型の竪穴式石室なかでは最も重厚な構造であるが 天井石も採用されず 木蓋の架構とみられる 墳丘からの検出であるが 三角縁神獣鏡 3 面も出土した宮谷古墳の墳形は前方部幅が後円部径の 1/2 で 前方部の短い柄鏡式に近い形態であり ヤマト王権との関係でいえば その影響があるとはいえ 阿波地域の伝統を堅持した独自性が窺がわれる 島根県 神原神社古墳 ( 長方形墳 長辺 30m) の竪穴式石室もこの構造であるが 阿讃 D 型と捉えていず その関係は今後の課題であるが 王権が成立した後の畿内地域からの関連で現時点では捉えている 106

120 なお 丸井古墳第 2 号石室は墓壙四周を浅く掘りくぼめ 低い基台状施設を造り出す 四周の浅い溝状部分に小円礫が散漫に置かれ 基台上と小円礫を覆って粘土棺床が設置される 粘土棺床面は平坦である 兵庫県 権現山 51 号墳の竪穴式石室や奈良県 中山大塚古 墳 の基底部構造に近い形態である 讃岐地域では 出現期前後の竪穴式石室基底部構造で低いとはいえ基台を造り出すのは丸井古墳第 2 号石室のみである 外傾する竪穴式石室雨滝山奥 1 期の雨滝山奥 10 号墳丘墓と雨滝山奥 11 号墳丘墓に採用された竪穴式石室は いずれも外傾する竪穴式石室である 10 号墳丘墓石室上部の供献土器からの特徴からみれば 黒宮大塚墳丘墓等などの岡山県南部地域の政治集団との政治的関係の影響下で築かれ始めた可能性が高い 吉備地域の弥生墳丘墓の埋葬施設をみれば 壁体が外傾気味に開くのは黒宮大塚墳丘墓の竪穴式石室で 雨滝山奥 号墳丘墓のように大きく開かない 黒宮大塚墳丘墓石室には蓋石は認められず 木蓋と推定される 石室壁体が垂直に積み上げられる鋳物師谷 1 号墳丘墓 A 主体や都月坂 2 号墳丘墓中心主体は蓋石を架構している 壁体の積み上げ方と蓋石の有無は相関関係にあるのであろう 4 副葬品や墳形 規模の変化雨滝山奥 1 期の雨滝山奥 号墳丘墓の 3 基の竪穴式石室内から 副葬品は全く出土していない 10 号墳丘墓からは石室上部から供献された土器とともに鉄器片が出土している 11 号墳丘墓も石室上部から供献土器が出土したのみである 雨滝山奥 2 期の雨滝山奥 2 号 墳 の類粘土槨構造の埋葬施設からは副葬品の出土はなく 墳丘上からも何らの遺物も出土していない 雨滝山奥 14 墳 から前述しているような副葬品と壺形埴輪の可能性の高い土器が墳丘上に置かれていた状態で出土している 両石室に1 面ずつ副葬されていた 漢鏡 7 期後半の舶載画紋帯環状乳神獣鏡である 雨滝山奥 2 期の段階ではまだ三角縁神獣鏡が副葬されない段階と捉えている 雨滝山奥 3 期には三角縁神獣鏡が副葬されている 1 面ではあるが 3 号墳の足元側に副葬されていた 画紋帯環状乳神獣鏡から三角縁神獣鏡へと鏡種の変化も整合てきである 墳形と規模の変化をみていく 10 号墳丘墓が突出部をもつ方形墳丘墓とみれば 墳長 14.5m である 雨滝山奥 1 期では方形系統から円形墳丘墓に変化する 雨滝山奥 2 期には前方部が撥形に開く前方後円形墳丘が成立している 雨滝山奥 3 期には前方部が柄鏡式の形態を示す前方後円墳に変化している 規模は雨滝山奥 1 期では 10~15m 規模であり 雨滝山奥 2 期には 30m 規模前方後円 墳 が築かれ 雨滝山奥 3 期には 30~37m と規模を拡大させている 雨滝山奥 1 期から 3 期に移るに従い墳形規模も拡大し 確実に前方後円墳が定着していく姿が読み取れる 讃岐型前方後円墳の特質のひとつである前方部の位置をみれば 雨滝山奥 2 期の 14 号 墳 は前方部を尾根の高い方に配置しており その制を保持している しかし 雨滝山奥 3 期の 13 号墳も 3 号墳も前方部を尾根の低い方に配置しており 変化している 107

121 第 4 節まとめ小論では 雨滝山奥 14 号 墳 が古墳出現前夜の築造なのか 古墳出現期の築造なのかが最大の課題であったが 結論を保留せざるをえない 最大のネックは墳丘に置かれた土器が特殊壺形埴輪なのか二重口縁壺形土器かである かつての ( 山本 2009) 段階では 古墳出現前夜の段階とみていたが ゆらいできている いいかえれば 雨滝山奥 2 期と併行に築かれた鶴尾神社 4 号 墳 や西谷山 2 号 墳 の所属時期にも関連する課題である 鶴尾神社 4 号 墳 出土土器も西山谷 2 号 墳 出土土器も筆者は庄内 3 式期でもその後半すなわち弥生時代終末期であり 古墳出現前夜と捉えていた 畿内地域の土器様式と阿讃地域の土器様式の微妙な併行関係を整合さす検討も必要だろう 現段階では, 雨滝山奥 14 号 墳 は古墳出現前夜の可能性が高いと思考しているところである 庄内式を 3 小様式に分けて 庄内式期の実年代を年輪年代学の成果などと整合させた福岡澄男の論稿 ( 福岡 2006) を参考に年代論の整理を行い まとめにかえたい 福岡は庄内式の暦年代を 3 世紀初め頃から AD275 年ごろと見積もっている 雨滝山奥 1 期は雨滝山奥 号墳丘墓が築造された時期で 出土土器から弥生時代後期末から終末期前半 ( 庄内 1 式期と庄内 2 式期 ) と捉えている 弥生後期末は阿波 Ⅴ-5 様式に併行し 上東鬼川市 Ⅲ 式 播磨大中 Ⅱ 式 ( 新 ) とも併行関係にあると把握している 終末期前半は阿波 Ⅵ ー 1 2 式と併行するとみている 弥生墳丘墓では 岡山県 楯築墳丘墓がこの時期の最大であり代表である 福岡論文の AD200~250 年であり ヒミコの時代に相当する 雨滝山奥 2 期は雨滝山奥 14 2 号 墳 が築造された時期で 長大型竪穴式石室が出現しているⅡ 段階の時期である 西山谷 2 号 墳 を参考にすれば 阿讃地域の長大型竪穴式石室は天井石が架構されず木蓋が主流とみられる 古墳出現前夜と位置付いるが ゆらいでもいる 出土土器から庄内式期後半で 庄内 3 式と併行し 川島遺跡 20 溝土器群の時期である 阿波 Ⅵ ー 3 様式と併行する 墳墓資料としては 阿讃地域では西山谷 2 号 墳 鶴尾神社 4 号 墳 大和地域では中山大塚 古墳 播磨地域では養久山 1 号 墳 の時期である 福岡論文ではAD250~275 年と見積もる ヒミコは 248 年前後に死去し 266 年の倭女王遣使はトヨ ( イヨ ) であると捉え トヨの時代と把握している 雨滝山奥 3 期は雨滝山奥 13 3 号墳が築造された時期で 粘土棺床をもつ長大型竪穴式石室が波及してきた時期である 雨滝山奥 3 号墳からは張氏作三角縁三神五獣鏡が出土している この鏡は椿井大塚山古墳と同笵関係にある 布留式期の築造ととらえて問題はない 摂津地域の西求女塚古墳 大和地域の黒塚古墳 吉備地域の備前車塚古墳 播磨地域では権現山 51 号墳 吉島古墳が築造された時期である 福岡論文の 275 年以降であり 倭国男王の時代であり 古墳時代の始まりである ( 註 ) 1. 報文 ( 古瀬 1985) では 雨滝山遺跡群には奥古墳群と古枝古墳群から構成されていると報文 ( 古瀬 1985) されているが 奥 14 号墳の再調査の報告書 ( 丹羽 1992) では雨滝山奥 14 号墳という名称が使用されている 雨滝 108

122 山を冠して 雨滝山墳墓群や雨滝山奥 3 号墳等と使用していきたい 2. ひとつの墳丘墓群や古墳群 そして 墳墓群を検討していくことは今回対象とした時代研究には特に大切である 香川県 岩清尾山墳墓群や兵庫県 養久山墳墓群等の比較検討を詳細に行ってみたかったのが 紙数の関係や時間的制約から行われていない 後日に期したい 3. 雨滝山奥墳墓群には 中期古墳 後期古墳も調査されているが 今回は触れない 4. 地理学では 集落とは 居住域 生産域 墓域で構成される統一体を集落と捉えられている このことは神戸市西区 玉津田中遺跡の調査時に高橋学氏から教示を受けた 5. 古墳 は岡山県 矢藤山古墳の報告書( 近藤 1995) で 近藤義郎氏が弥生時代墳丘墓か古墳かを判断しかねたときに 用いられた手法である 筆者も現状では 決しかねているとろであり 今後の研究の行方に委ね 暫定的にこのあいまい形の用語を使用しておきたい 6.A 支群の 12 号墳は 古墳時代後期の横穴式石室を埋葬施設とする古墳である 同じ尾根上に築造したのは記憶として同族意識が存在し 擬制的同族関係を設定してこの地に築造したかも知れないが 小論には直接的に関係しないので触れない 7. 寒川町史の図 87 では 2 基の竪穴式石室しか図示されていないが 報文では土抗墓と壷棺が存在したと記述されている 8. 蓋石と天井石の用語の使用する区別は奈辺にあるのであろう 澤田秀美氏は両側壁を横断する形で大ぶりの石材を架構する形態を天井石と呼称 ( 澤田秀美 1993) する しかし この指摘は当っていず 小論では弥生時代後期の竪穴式石室の上部を閉塞する手法を採用するものを蓋石と呼び 古墳時代に突入して長大型の竪穴式石室 ( 都出比呂志 1986) に採用される閉塞手法を天井石と呼び分けたいと思考している 本質論ではないが 暫定的に採り合えずこの用語を採用しておきたい 9. 木製の副葬品ガ存在した可能性を考慮しておかなければならいところであるが 如何ともし難い 10. 黒宮大塚墳丘墓は 報告者 ( 間壁ほか 1977) は 前方後方墳と把握されているが 主軸が通らない 2 基の突出部をもつ方形墳丘墓が近接して築かれていると捉えるのが妥当である 109

123 第 6 章阿讃地域の長大型竪穴式石室の出現について はじめに最近の阿讃地域における埋葬施設の発掘調査の成果や研究をみれば 長大型の竪穴式石室の初現も 粘土槨構造の初現も阿讃地域に起こったような状況を呈している 前者は阿波地域では西山谷 2 号墳の竪穴式石室であり 讃岐地域では鶴尾神社 4 号墳の竪穴式石室の評価である 後者は阿波地域では蓮華谷 (Ⅱ)2 号墳であり 讃岐地域では石塚山 2 号墳や国分寺六ツ目古墳の埋葬施設である この小論では 阿讃地域における長大型の竪穴式石室の出現を中心に 阿讃地域の竪穴式石室を概観し この地域の竪穴式石室の特質を少しでも摘出できればと思考している 都出比呂志は列島全域の竪穴式石室の長さと幅の関係を整理し その長幅比が 4.5 以上のものを長大型石室と規定し 首長墓の埋葬施設に採用される形式であると指摘 ( 都出 1986) した また 長大型石室の出現は 弥生墳丘墓と最古期の前方後円墳とを分ける指標のひとつであるとされてきた研究史があるが 最近の発掘調査の資料の蓄積やその分析によって その考え方がゆらいできている ますます 弥生墳丘墓と最古期の前方後円墳の線引きが難しくなり混迷を深めてきている 特に 地域の古墳の出現を論じるとき 古墳のもつ斉一性と地域性という個性をいかに把握するか その仕方によって困難さが伴うことが多い これは 土器にもみられ 布留式土器の成立の特徴は 複数の地域の要素を統合するようなかたちで土器様式が成立する ( 次山 2000) という指摘がそれであり そして それがまさに前方後円墳の成立事情と通底している現象である 讃岐地域の竪穴式石室については 渡部明夫が積石塚と盛土墳の竪穴式石室を分け 主に長さと幅を中心にしたこの地域の先駆的な研究 ( 渡部 ) があり 阿波地域では 最近 一山典が阿波地域の前期古墳を通覧するなかで竪穴式石室のことを纏めている ( 一山 2001) が 時期比定の根拠が示されてなく混乱している 菅原康夫 ( 菅原 1997) や國木健司 ( 國木 1993) が基底部構造の分類を行い 畿内地域と比較している研究がみられるが 畿内地域の基底部構造との直截的な比較には問題があり 切り離して考える時期にきているのではという指摘 ( 森下 1997) を森下英治が行っている これらの研究や発掘調査の成果を参考に阿讃地域における長大型の竪穴式石室の出現の様相をみていきたい 第 1 節阿波地域における竪穴式石室の概観阿波地域の竪穴式石室の長幅比を表 1に示した この表をみれば 天羽利夫がこの地域の竪穴式石室を短小型 中間型 長大型の3 群に分類された ( 天羽 1984) のも頷けるが しかし 小型から中間型を経て長大型と推移すると想定された進化論的な考え方は当を得たものとは言えないであろう ここでは 天羽が中間型とされる以上の石室を長大型石室と捉えておきたい 阿波地域で 最大の長さをもつ竪穴式石室は国高山古墳の 8.0m であり 次に長さ 6.6m の前山古 110

124 墳である 前者の長幅比は 8.0 であり 後者は 7.6 である 阿波地域でも長幅比 4.5 のところで一線を画する状況であり 長幅 4.5 以上の竪穴式石室を 一応 長大型の石室としておきたい 一応とつけたのは 長大型の石室を有する古墳の墳形と規模が 有力な首長墓と捉えていいかどうかにある 西山谷 2 号墳は 20m の円墳であり 前山古墳は径約 15m の円頂 長谷古墳も約 13m の円墳である そして 曽我神社 1 号墳は 突出部を有する円墳 とされており その長さが 14m という小規模な古墳であるというところにある 長大型の石室で最も規模の大きい古墳は 全長 65m の前方後円頂である愛宕山古墳で 次いで全長約 51m の前方後円墳である国高山古墳である 長幅比 4.8 の宮谷古墳は全長 40m の前方後円墳である この3 古墳が阿波地域の古墳時代前期の有力な首長墓とみなしてよく 橋本達也が 水系単位あるいは大河川による隔絶などの地理的分布を中心とした古墳群のあり方 から設定した 地域群 ( 橋本 2000) にあてはめれば 愛宕山古墳は吉野川北岸群に 国高山古墳は那賀川群に 宮谷古墳は気延山群に属する この3 古墳の竪穴式石室の使用石材には いずれも結晶片岩の板状石材を使用している 阿波地域の竪穴式石室の使用石材は 墳丘規模の大小にかかわらず 長大型の石室はもちろんのこと短小型の石室にも 箱式石棺にも結晶片岩の板状石材が使用されているという共通項をもつことが指摘できる このことは 古墳時代前期の期間を通じて 眉山周辺で採取される結晶片岩が有力な首長のみの独占物ではなかったことを物語るのであろう 数値では長大型の石室のところに収まるが 簡略な配石的な構造の石室状の埋葬施設をもつ安楽寺谷 1 号墳 ( 約 11m の円墳 ) の墳頂部の2 基と十楽寺谷古墳 ( 径 15m の円墳 ) の短小タイプの2 基の竪穴式石室には 例外的に和泉砂岩の塊石を使用している 結晶片岩板石を使用した長大型石室の出現は 後述する西山谷 2 号墳が最初で 和田編年 1 期 ( 和田 1987) の宮谷古墳とつづく 両者の竪穴式石室の構造は小地域性を超えて極めて類似している いずれもU 字形にくぼむ粘土棺床をもつ構造であり 割竹形木棺を採用しているとみられる ただし 粘土棺床を設置する墓壙底の形状が異なり 前者は墓壙をU 字形に掘り窪め そこに薄い粘土を直接設置するが 後者は平坦な墓壙底に直接粘土棺床設置する構造であるという違いがある 両古墳の竪穴式石室の構造は阿波地域の古墳出現期前後から前期前半の特徴ということができる この基底部の構造の違いは 讃岐地域の奥古墳群の奥 14 号墳と奥 3 号墳でも認められる 丹田古墳は全長 35m の積石塚前方後円墳で 後方部に墳丘主軸と平行に竪穴大石室を築いている 111

125 石室主軸は東西方向である 石室は長さ 4.51m 幅 1.32~1.28m 高さ 1.3m である 長幅比は 3.4m で長大型石室からはずれるが 幅が広いことによるのであろう 合掌型の石室で 壁体基底石から 50~70cm 前後の大振りな板状石材で垂直に積みあげ そこから急な持送り手法を使って構築している この手法は香川県の積石塚古墳の鶴尾神社 4 号墳や猫塚古墳の石室と同じ構築手法で 猫塚古墳中央石室に近い構築手法である 床面は礫床であったとみられる 愛宕山古墳は後円部に墳丘主軸と直交に竪穴式石室を築き 石室主軸は東西方向である 石室は長さ 6.0m 幅 1.1m 高さ 1.0m である 石室の横断面は内傾する台形を呈し 壁体基底石から持送り手法で積み上げ 天井石を架構する 阿波地域のなかでは 石室の全体的な構造は畿内地域の竪穴式石室に近い印象を受けるが 粘土棺床はなく 床面は礫床である 長谷古墳は径 20m の円頂で 墳頂平坦面に東西方向に竪穴式石室が築かれ 石室主軸は東西である 石室は長さ 3.71m 幅 0.82~0.86m 高さ 0.66m 床面はU 字形の粘土棺床である 壁体は柱状の結晶片岩を垂直に積み上げ 横断面の形状は箱型を呈する 清成古墳も円墳で 竪穴式石室は長さ 5.52m 躯 0.86m 高さ 0.4m で 床面はU 字形の粘土棺床で 壁体は垂直に積み上げ横断面の形状は箱形を呈する垂直系統 ( 高松 2005) である 前山古墳は約 15m の円墳で 墳頂に東西方向に主軸をもつ竪穴式石室と粘土槨の2 基の埋葬施設が築かれていた 石室は長さ 6.6m 幅 0.83~0.9m 高さ 0.45m である 床面には粘土棺床を設置し 天井石は粘土で被覆している この石室の特徴は 側壁は結晶片岩板石を小口積みするが 小口壁は1 枚の板石を立てている構造にある 小口壁に立石をもつ石室は 徳島県曽我氏神社 1 号墳第 1 石室や香川県岩の清尾山古墳群 石船塚石室や末則古墳石室にもみられ その中では長さが最も長い このタイプの石室は箱式石棺を覆う竪穴式石室とともに阿讃地域に一定数みられる埋葬施設である 奥谷 2 号墳は 突出部をもつ円頂 の積石塚で 墳丘主軸と斜行ぎみに2 基の竪穴式石室が築かれ 石室主軸は東西方向である 第 1 石室は積石塚ではめずらしい墓壙を掘り 長さ 3.18m 幅は 1.1 ~0.95m で 壁体下半は垂直に 上半は持送りで積み上げている 第 2 石室は長さ 2.27m 幅 0.8m の短い石室で4 壁は箱式石棺に近い構造である 曽我氏神社 1 号墳も 突出部をもつ円墳 と把握され その長さ 14m で 墳頂に竪穴式石室 2 基が築かれている 第 1 石室は長さ 4.3m 幅 0.95~0.7 高さ 0.73m 前後で 床面はゆるやかなU 字形をもつ礫床であるが 頭部側にのみに粘土を使用しており 東小口壁は2 枚の結晶片岩を立てる立石構造である 第 2 石室は長さ 2.0m 幅 0.7m 高さ 0.6~0.75m で 床面は平坦な粘土棺床で 箱型木棺とみられこの木棺を粘土で包むように覆われており 大阪府真名井古墳の粘土槨に似た木棺を覆う手法である 第 2 石室には新しい型式の石釧が副葬されており 古墳の築造時期は前期後半の和田編年 3~4 期である 曽我氏神社 2 号墳は長方形墳で 規模は長辺 12m 短辺 10m で 墳頂に竪穴式石室が築かれている 石室は長さ 3.46m 幅 0.75m 高さ 0.63m で 石室中央に長さ 2.0m 幅 0.4m の粘土棺床を設け 棺の東側に粘土の固まりを置いているのは曽我神社 1 号墳第 1 石室と同じである 川西編年 ( 川西 1978)2 期の円筒埴輪が出土している 曽我神社古墳群は1 号墳 2 号墳と順に築造されている 112

126 阿波地域の竪穴式石室を概観すると 古墳出現期前後には ある法則性のもとに築かれているのに較べて前期後半の竪穴式石室は結晶片岩の板状石材を使用するという共通性以外は 個々の古墳できわめて個性的な竪穴式石室の構造を採用していると言える 第 2 節讃岐地域における竪穴式石室の概観讃岐地域の竪穴式石室の長幅比を表 2に示した この地域で 板石を使用した最古の竪穴式石室と捉えられる鶴尾神社 4 号墳石室 ( 長さ 4.7m 幅 1.2~1.0m) は長幅比 4.2 という数値を示す この石室を都出は 厳密にいえば長大型でも 短小型でもない ( 都出 1986) という中間のタイプと捉え 定型化した前方後円墳出現前の竪穴式石室とみている 長幅比 4.0~4.9 に長大型石室の境界があるのであろう 讃岐地域の竪穴式石室は幅が狭い竪穴式石室が多く 長幅比が 4.5 以上であっても 長さが4m 未満にとどまる小規模なものが存在する 別の視点でこのことをみていきたい まず 石室幅 1.0m を超える讃岐地域の竪穴式石室 ( 註 1) は4 基で その長さをみれば 鶴尾神社 4 号墳石室が 4.7m 爺ケ松古填石室が 5.7m 横立山経塚古墳石室 5.1m 高松茶臼山古墳第 1 石室が 5.5m の4 基である 前三者は積石塚前方後円墳である また 竪穴式石室の長さが 4.5m を超えるものは 12 基あり 鶴尾神社 4 号墳石室と丸井古墳 1 2 号石室以外は長幅比が 5.0 を超える長大型石室である 他に 粘土棺床を有する竪穴式石室は 鶴尾神社 4 号墳 ハカリゴーロ古墳を含め 10 基 ( 註 2) あり その長大型は 4.0 以上である 上記のことを考慮すれば 鶴尾神社 4 号墳石室は長大型石室の仲間に入れても問題ないであろう 長大型石室をもつ古墳の墳形と規模をみれば 龍王山古墳 津頭東古墳が円頂である以外は 全長 30m を超える前方後円墳である その中で 最大規模は高松茶臼山古墳の全長 75m であり 全長 40m を超える前方後円墳をあげると 大石神社古墳 ( 全長 52m) 爺ケ松古墳( 全長 49.2m) 野田院古墳 ( 全長 44.5m) 鶴尾神社 4 号頂 長尾稲荷山古墳 ( 全長 40m) であり これらの古墳はこの地域の有力な首長墓とみなしてよいであろう 大久保の首長墓の分類グループ ( 大久保 2000) では 高松茶臼山古墳が高松平野東部グループに 鶴尾神社 4 号墳 猫塚古墳は高松平野西部グループに 爺ケ松古墳 吉岡神社古墳は丸亀平野東部グループに 野田院古墳は丸亀平野東部グループに属する 長大型石室をもつ積石塚と盛土墳の関係は 墳形や規模でみるかぎり その差は指摘できなく ( 表 3) 積石塚が高松平野西部より以西に優勢であることが指摘できるのみである しかしながら 複数系列の首長墓を多く築造している岩清尾山古墳群の讃岐地域における主導的役割 ( 大久保 2000) を否定するものではない 113

127 長幅比が 7.5~8.4 という高い数値を示す竪穴式石室が 龍王山古墳や津頭東古墳のように円墳であり 高松茶臼山古墳の第 2 石室の複次埋葬であることは特殊な現象である 畿内地域にはみられない現象である その原因はこの地域の特徴である石室幅が狭いことが原因のひとつであるが これらの石室の長さをみれば 津頭東古墳第 1 石室が 5.7m で 他はそれ以上の長さがあり 石室幅の関係では解消できない この地域で竪穴式石室が盛行したことと関連するのであろう 長い竪穴式石室をもつ古墳は墳丘規模も大きいという相関関係にある阿波地域の傾向とは対照的である 竪穴式石室の高さでは 猫塚古墳中央石室の 1.7m 以上 鶴尾神社 4 号噴石室の 1.6m 以上 高松茶臼山古墳第 1 石室の 1.35m 爺ケ松古墳石室約 1.3m 野田院古墳第 1 第 2 石室の 1.2m がこの地域の高い部類の石室である 石室高が著しく高い鶴尾神社 4 号墳と猫塚古墳中央石室はその構造が極めて類似している 持送りのきつい手法を採用し横断面の形状は合掌型構造をとること 壁体基底石から 0.5m 前後までをほぼ垂直に積み上げ そこから上部を持送り このコーナー部分に隅丸状に板石を配置する技術 ( 渡部 藤井 1983) などである 鶴尾神社 4 号墳石室は壁体基底石から安山岩板石を積み上げるが 猫塚古墳中央石室では壁体基底石から 0.5m 前後の下半部には安山岩塊石を積み上げているという石材使用法は相違する 前者は奈良県中山大塚古墳石室と後者は奈良県黒塚古墳石室と同じ石材の使用法を採用しており 両地域の竪穴式石室構築技術には深い繋がりがあると言える 爺ケ松古墳 野田院古墳にも壁体に持送り手法はみとめられるが 合掌型になるほどではなく 内傾する横断面形状である 高松茶臼山古墳第 1 石室は壁体基底石から天井部まで垂直に積み上げ その横断面形状は長大な箱形を呈している 龍王山古墳石室も箱形の横断面形状である 合掌型や持送りのきつい竪穴式石室は いずれも積石塚の埋葬施設に採用されており 積石塚が盛行する讃岐地域の特質といえるであろう また 鶴尾神社 4 号墳石室や野田院古墳両石室とも構築墓壙 ( 和田 1989) であり 弥生墳丘墓の萩原 1 号墓も構築墓壙であり 構築墓壙は阿讃地域の積石塚にその起源が求められる可能性が大きい 天井石を粘土で被覆し石室を密封する手法を採用している竪穴式石室は 高松茶臼山古墳第 1 石室 第 2 石室と奥 3 号墳に認められ いずれも盛土墳である 114

128 第 3 節阿讃地域における長大型石室の出現西山谷 2 号 墳 宮谷古墳 鶴尾神社 4 号墳 丸井古墳からは棺内や埋葬施設周辺および墳丘から土器が出土しており 主に土器による編年から阿讃地域の出現期前後の長大型石室の築造時期とみている 以下で個々の古墳における埋葬施設の構造を中心に検討していきたい 1. 西山谷 2 号 墳 の内容とその検討西山谷 2 号 墳 は 標高 74m の丘陵尾根上に立地する径 20m 前後の円墳と報告 ( 菅原ほか 2001) されている 墳頂平坦面に 1 基の竪穴式石室が築かれており 石室の主軸は略南北方向をとり 副葬品の配置から北頭位であると捉えられる このことは 阿波 讃岐両地域の前期古墳の埋葬施設が東西主軸の優位性 ( 天羽 岡山 1982 玉城 1985) をもつ個性から逸脱している 葺石や周溝等の外部施設は何ら認められない 西山谷 2 号 墳 の竪穴式石室の規模は 長さ 4.72m 北小口幅 1.05m 南小口幅 0.83m であり 長幅比は5であり 長大型の石室である 問題の一つは この石室の棺外副葬品として出土した土器の所属時期である 土器は直口壺形土器 1と甕形土器 3であり 足元側の南小口の粘土棺床上に 貼り付くように出土 している 時期は阿波 Ⅵ-3 様式 ( 黒谷川 Ⅲ 式 ) に比定 ( 菅原 滝山 2000) される 報告者の一人である菅原康夫は 長大型の石室の最も古い事例であり このことをもって これまで 弥生時代終末期最新相に位置づけてきた黒谷川 Ⅲ 式は古墳時代最古様式に修正することとしたい としている 次に 西山谷 2 号 墳 の竪穴式石室の基底部構造をみれば 墓壙底中央をU 字形に掘り窪める型式であり U 字形部分に直接 薄い粘土棺床を設置する 灰白色を呈する粘土棺床の設置手法は 3 回程の工程がみられ その各工程ごとに朱彩を施している なお 木棺を設置してから後にも棺内 棺外ともに朱彩をしており その入念な構造は畿内の大規模な前方後円墳の竪穴式石室となんら異なることはない 墓壙の規模をみても 長さ 6.5m 幅 4.8m 高さ I.25m であり 畿内地域の大 115

129 規模な前方後円墳の墓壙の規模と遜色ない ただし 粘土棺床の周囲に礫石の充填を行っていないことは これらの大規模な前方後円墳の竪穴式石室とは異なる 粘土棺床 すなわち 木棺痕跡の南北の幅には広狭がみとめられ 畿内地域の竪穴式石室と共通するが その間には高低差は認められないことは異なる この基底部構造の型式を畿内地域の竪穴式石室に類例を求めれば 都出の分類のSC 型式 ( 都出 1981) にあたる 都出は この型式の基底部構造を古墳時代前期後半に最も遅れて出現する構造と捉えている この捉え方では 西山谷 2 号 墳 の築造時期と大きな齟齬をきたすことになる 筆者は この石室の基底部の構造をE 型式と捉え E 型式は 粘土棺床の周囲および下部に板石 礫石を配置するものをE1 型式とし 墓壙底に直接粘土棺床を設置するものをE2 型式と細分した そして E1 型式を 前方後円墳の成立期に吉備地域で出現した型式と捉える ことができる ( 山本 1992) とした この捉え方では 都出分類よりも 西山谷 2 号 墳 の竪穴式石室基底部構造の時期との齟齬は解消される要素を含んでいる だからといって 問題が解消された訳ではない 西山谷 2 号墳の竪穴式石室の基底部構造には 板石も礫石も使用されていないことにその原因がある 三番目の問題は 西山谷 2 号 墳 の天井部を含む上部構造である まず 問題にすべきは 天井石が存在したか しなかったかである 報告者は 周辺に天井石を架構する巨大な板石がみられなかったことから この石室は 持ち送り構造 の合掌型の石室と捉えている 概報では 石室内には大量の石材が崩落していた 崩落礫は床面まで達しており 遺物は破損しているものも少なくない と表現されている この表現と示された竪穴式石室の実測図から判断して 筆者は木材を使用した板蓋を架構した可能性が大きいと判断したい 報文では 天井部より上位の構造を 壁体最上段からの上位には 石室を包むように囲い壁状に礫混じりの土を多用しながら 墓壙上面まで結晶片岩板石を外開き段上に積み上げる と記され この 積み石 は墓壙の角度に沿って約 40 の傾斜角をもつという 報告者が 積み石 ] と表現している構造は いわゆる石塁壁に近いものと理解できる いままで 石塁壁の初現は備前車塚古墳であり そして 構造的に発展した形態が大和地域の大王クラスのメスリ山古墳 ( 山本 1980) と捉えていた 竪穴式石室の石材をみれば 結晶片岩の板状石材のみで構築しており 板状石材への強い指向がみられ 前期古墳の長大型竪穴式石室の属性 ( 宇垣 1987) である なお 石室上部の 積み石 の北小口 ( 頭側 ) には 人頭大よりやや大きい砂岩の川原石の使用が顕著 であり 頭部に特別な意識があったことが読みとれる この古墳は吉野川北岸に位置し, 砂岩を基盤層とする和泉層群の丘陵に立地し 結晶片岩は産出しない地域であり 結晶片岩は吉野川南岸から搬入されている 以上みてきた西山谷 2 号 墳 の竪穴式石室の構造が僅か 20m の小規模な円墳に採用され その初現期の様相を呈しているとみられることは 驚くべき現象である 板状石材を使用する長大型の竪穴式石室から出土したこの阿波地域の首長墓の時期を如何におさえるかということである 結論的に言えば 大和地域に全長 132m の中山大塚古墳が築かれた時期と併行していると捉えて大きな間違いはないと思考している そして この基底部構造は吉備地域の 116

130 弥生墳丘墓に出現しており その系譜は吉備地域に淵原があるとみられ その影響下で成立したとみてよいであろう 2. 宮谷古墳の内容とその検討四国地域は三角縁神獣鏡を副葬した古墳は限られている そのなかで墳丘からの検出とはいえ三角縁神獣鏡を3 面をも出土した宮谷古墳が重要な位置を占める 宮谷古墳は丘陵尾根先端に築かれた全長 40m の前方後円墳である 後円部径と前方部幅は1:2 で 前方部の極端に短い形態である 後円部に墳丘主軸と併行するかたちで竪穴式石室 1 基が構築されている 石室の主軸の方位は東西方向であり 東頭位を採っている 竪穴式石室は東西約 9.0m 南北約 6.0m の大規模な墓壙の中に構築されている 竪穴式石室は結晶片岩の板状石材を使用して築かれ 内法での規模は 長さ 5.95m 幅は東小口で 1.3m 西小口で 1.2m である 合掌式的な残存状況 ( 一山 2001) の天井部の構造と捉えられているむきもあるが 写真や実測図をみるかぎり そのようには判断できず 木材による架構の可能性が高い 高さは最大でも 1.2m を超えるものではない この竪穴式石室で特徴的なのは 墓壙壁に沿って結晶片岩の板状石材を面を揃えるように積み上げる西山谷 2 号墳の 積み石 の構造をもつことと頭部側の石室上部に象徴的に砂岩円礫を配置していることである この両構造は 西山谷 2 号墳の埋葬施設と類似する構造であり 両被葬者である首長の密接な政治的関係が窺い知れる 橋本達也の政治集団の分け方 ( 橋本 2001) では宮谷古墳は 気延山群 に 西山谷 2 号 墳 は 北岸下流域群 に属する 基底部の構造は平坦な墓壙底に直接粘土棺床を設置する型式であるが 粘土棺床周囲に礫石の使用はないが 筆者の分類にあてはめるとすれば 摂津地域に特徴的にみられるD 型式の範疇である 3. 鶴尾神社 4 号 墳 の内容とその検討丘陵尾根先端に立地する全長 40m の前方後円墳であり 墳丘は積み石によって形成される積石塚古墳 ( 渡部 藤井 1983) である 前方部を尾根上方に選地しており 萩原 1 号墓以来の阿讃地域の選地原則を踏襲している 前方部は長く ゆるやかに大きくひらく 撥形の形態をとる 埋葬施設は後円部墳頂中央に墳丘主軸とやや斜行気味に竪穴式石室 1 基が構築されていた 堀込み墓壙はなく 竪穴式石室の構築とともに墳丘積み石 117

131 を築く構築墓壙とみられる 竪穴式石室の主軸は東西方向である 竪穴式石室の長さは約 4.7m 幅は東西に広狭差が認められ西小口側で 1.23m 東小口で 1.01m である 高さは遺存状態のよいところで高さ約 1.6m である 棺床構造は中央がゆるやかに浅く凹むU 字形を呈する粘土床である U 字形部分には朱の塗布がなされている 基底部の構造をみれば 粘土の設置は2 工程に分かれる まず 積み石墳丘とみられる 30cm 程の塊石の上に構築墓壙の壙底を意識したとみられる 10cm 程の礫石を使用した平坦な面をつくり この礫石の上に 20cm 程の粘土を敷き その上に壁体の板石を積み上げる この粘土面が壁体構築の基礎となる 次に 粘土の敷設が実質的な粘土棺床となる 粘土は側壁基底の2 石ほどをかくしているので 粘土棺床の設置前に壁体下部の2 石ほどが積み上げられていたことになる 壁体構築の基礎が粘土である例は 滋賀県 安土瓢箪山古墳後円部石室や大阪府 池田茶臼山古墳後円部石室などにみられ 岡山県 浦間茶臼山古墳後円部石室もその範疇に入るであろう 基底部構造をこのように復原すれば 粘土棺床と礫石を必備とした 畿内様式 の竪穴式石室 ( 山本 1922) の基本的要素が備わっていることになる 壁体の構造は 四壁とも基底石から 50~60cm までを安山岩板石を精緻に石の面を揃えるように小口積みで垂直に積み上げている それより上部は持ち送り構造をとり 四壁のコーナー部は小口壁部と側壁部に跨がるように板石を架け 隅丸状となる構造をとっている このような構造は奈良県 中山大塚古墳後円部石室ときわめて似ており 同じ技術手法で築かれていることが指摘できる 中山大塚古墳後円部石室の基底部構造の粘土棺床の設置も部分的に認めらると報告されているが 壁体基底石上に粘土が厚く挟み込まれていることは鶴尾神社 4 号 墳 後円部石室との関連がみられる この竪穴式石室を壁体の内傾度合からみて合掌構造を否定し 木蓋使用の可能性が高いとみる説 ( 大久保 2000) もあるが 中山大塚古墳の技術的共通性からみても 横断面形状が合掌構造をとる竪穴式石室であると理解して間違いないであろう 4. 丸井古墳の内容と検討丸井古墳は丘陵尾根上に立地する全長 29.8m の前方後円墳である 墳丘頂部の高さをみれば 前方部が最も高く 後円部より 0.5m 高い これは 阿讃地域の前方後円墳にみられる特徴で 丘陵尾根の高位に前方部を配置するという選地方法に起因している 盛土はほとんど認められなく 基盤の地山を成形することによって主に墳形を形づくっている 後円部は僅かに盛られた盛土の流出が原因の可能性があるが きわめていびつなかたちを呈している 前方部は細長く いわゆる撥形に開く型式である 前方部前端には 丘尾を切断するかたちで溝状に掘り込まれ そこに階段状の二列の列石を築き 列石の前方に完形の広口壺や炭粒集中箇所や赤色顔料混じりの赤色土が認められ ここで葬送儀礼が行われた痕跡であろう 埋葬施設は墳丘主軸と斜交するかたちで後円部に2 基の竪穴式石室が築かれており その配置か 118

132 ら当初から計画的なものとみてよいであろう 両石室とも花崗岩の河原石を使用して築いており その主軸は東西方向で西頭位とみてよいであろう 第 1 石室は長さ 5.5m 幅 2.6m 深さ 0.8~1.0m の墓壙内に安山岩の川原石 ( 註 3) を使用した竪穴式石室を築く 石室の規模は長さ 4.6m 幅 0.73m 高さ 0.9m である 基底部の構造をみれば 平坦な墓壙底の中央部を中心に散漫な状況で 5cm 前後の円礫を敷き その上に墓壙底全面に粘土を敷きつめ 中央部にU 字形に窪む粘土棺床をつくる その結果 石室壁体の基礎は粘土上から築かれる 側壁上段の 2~3 石は持送り状に積まれており 上部の幅は現状で 0.65cm となる 天井部の構造は不明であるが 側壁石材と同程度な規模の天井石が用いられた可能性が指摘されている 合掌構造をとるのであろう 第 2 号石室は墓壙内に第 1 号石室と同じ安山岩河原石を使用した竪穴式石室を築く 基底部構造をみれば 墓壙底四周を浅く溝状に掘り込み その結果 墓壙底中央にきわめて低い基台状の施設を造り出す 四周の溝状部分には円礫を充填し 基台上に粘土棺床をつくる 粘土の上部は平坦である 粘土は円礫の一部までも覆っている このよう構造は 長大型石室が創案された出現期古墳前後の中山大塚古墳や権現山 51 号墳などと通じる構造であり その祖形的な要素を有している竪穴式石室の基底部構造と指摘できるかも知れない 天井部の構造は全く不明であると報告されているが 安山岩板石が石室中央部に2 枚分検出されており 天井石の落下とみることも可能なのではないのであろうか 他に 安山岩板石が石室中央部分と排水口の出口部分の2ヵ所のみに限定されて検出させている 墳丘外に延びる排水溝については 両石室ともに認められ この切り合い関係から第 1 石室が先につくられたことがわかる 排水溝には円礫を充填している 5. 四古墳の竪穴式石室の構造的特徴弥生終末期 ( 註 4) から古墳出現期 ( 和田編年 1 期 ) の阿讃地域の長大型の竪穴式石室をもつ古墳の内容をみてきた 検討してきた4 古墳の内容についてはその問に共通項をもつ要素より 個性的な側面を有する要素の方が多い 墳形をみれば 西山谷 2 号 墳 は円墳であり 鶴尾神社 4 号 墳 丸井古墳 宮谷古墳は前方後円墳であるが その平面形は著しく異なる 前二者は後円部径を凌駕する細長く撥形に開く前方部をもつ類型であり 和田編年 2 期の高松茶臼山古墳にも引き継がれる型式 ( 玉城 1985) である このことを考慮すると この類型は讃岐地域における有力首長墓の古墳時代前期前半の特徴ということができる 一方 阿波地域の宮谷古墳は 後円部の半分にも満たないきわめて短い前方部をもつ纒向型前方後円墳 ( 寺沢 1988) に近い型式に属する 阿讃地域の古墳の特色でもある全長 20m も満たない極小前方後円墳 ( 森下 1997) である徳島県 前山 2 号墳 ( 全長 18m) もこの型式であり 宮谷古墳と相似形の平面形を採用している なお 同じ丘陵に近接して築かれている前山 1 号墳 ( 全長 17.7m) も極小前方後円墳であるが 細長く撥形に開く前方部をもち 後円部径と前方部長がほぼ等しいという錯綜 119

133 した状況を呈している 竪穴式石室の横断面形状は 鶴尾神社 4 号墳は持送りのきつい合掌型の竪穴式石室であり 丸井古墳第 1 石室も同じ合掌型の竪穴式石室の可能性が高い 西山谷 2 号 墳 と宮谷古墳の竪穴式石室の構造が類似しており 4 壁を垂直に積み上げその横断面形状は長い箱形を呈し 天井石は架構されず木蓋であったとみられる 奈良県ホケノ山古墳は 徳島県萩原 1 号墓 香川県石塚山 2 号墓の埋葬施設の構造的特質の一部を踏襲している要素がみられる このようにみれば 阿讃地域における最古型式の長大型石室の出現には 阿波地域と讃岐地域は異なった系統 系譜によって築造されており 2 系統がみられることになる 4 古墳とも竪穴式石室の基底部構造も多様であり 粘土棺床を有することが共通項として指摘できるのみであるという状況である かつて 筆者は長大型の竪穴式石室を粘土棺床の有無によって 粘土棺床をもつI 群ともたない Ⅱ 群に大別した さらに I 群は粘土棺床の下部及び四周に板石 礫石を使用するⅠ-a 群と使用しないⅠ-b 群に分類し 長大型石室 I-a 群は古墳の出現とともに畿内地域で創案さらに発展した構造であり 畿内様式 の竪穴式石室の基底部構造であるとした 岡山県の浦間茶臼山古墳や七つグロ古墳の竪穴式石室にも適用でき 弥生後期後半からの墳丘墓の埋葬施設の基底構造からみて 畿内様式 の竪穴式石室の創案に果たした吉備地域の首長層の役割の大きさを指摘した そして Ⅰ-b 群は略式化した構造であり 時期的には遅れて出現する形態であると論じた ( 山本 1992) 阿讃地域の竪穴式石室の構造を検討すれば 後者の考えは撤回しなければいけない状況であり 阿讃地域の古墳の出現時にすでに採用されている構造である この分類にあてはめれば 阿波地域の西山谷 2 号墳と宮谷古墳は Ⅰ-b 群の範疇である 讃岐地域の鶴尾神社 4 号 墳 と丸井古墳第 1の両石室はⅠ-a 群の初現的な様相を呈していると捉えてもよいかも知れない 阿讃地域のこれらの構造が 畿内様式 の竪穴式石室の成立にどのように関与したかは 今後の検討が必要であろう I-b 群の西山谷 2 号 墳 の墓壙底をU 字形に掘り込み U 字形部分に直接粘土棺床を設置する基底部構造をもつ例を阿讃地域でみれば 香川県 奥 14 号墳 ( 前方後円墳 全長 32m) の竪穴式石 120

134 室がある ( 註 5) 墓壙の形状は西山谷 2 号墳と似ており 堀削面からゆるやかに弧状をえがき壙底にいたる 石室の長さ約 4m 幅 0.6m 現存高 0 6m で その長幅比は 6.1 の長大型石室である 天井石の有無は確認されていない 使用石材は西山谷 2 号 墳 が板石を丁寧に積み上げ重厚であるのに較べて 偏平な石材を積み上げ 裏込めには人頭大の角礫を使用した簡素な構造である 埋葬施設の周辺から焼成前底部穿孔の二重口縁の壺形埴輪が出土している 使用石材が大きく異なるが Ⅰ-b 群のこの基底部構造を阿讃地域にみられる類型と捉え Ⅰ-b 群の阿讃 E 型と規定しておきたい 竪穴式石室ではないが この阿讃 E 型の基底部構造をもつ 類粘土槨構造 とも仮称すべき埋葬施設をもつ古墳として 奥 2 号墳と香川県 国分寺六ツ目古墳等が知られている 前者は径約 15m の円墳であり 後者は全長 21m の極小前方後円墳であり 阿讃 E 型の竪穴式石室をもつ古墳より下位に位置づけられる埋葬施設である 類粘土槨構造 の埋葬施設については 森下英治が畿内地域の前期後半に成立する粘土槨とは別の系統で 割竹形木棺を基礎に前期前半から阿讃地域で展開した槨構造であるという的確な評価 ( 森下 1997) を行っている Ⅰ-b 群の宮谷古墳の平坦な墓壙底に粘土棺床を直接設置する基底部構造をもつ例をこの地域でみれば 奥 13 号墳 ( 前方後円墳 全長約 30m) 奥 3 号墳 ( 前方後円墳 全長 37m) 香川県円養寺 C 号墳 ( 長方形墳 長辺 40m) 高松茶臼山古墳第 2 石室の竪穴式石室に採用されている これら諸古墳の石室の使用石材は 割と幅広い偏平な石材を使用しており 宮谷古墳石室の板石の重厚な構造の石材とは異なるが 基底部構造は同じ類型である このなかでは 三角縁神獣鏡を副葬している奥 3 号墳は天井石を架構し 天井石を被覆する粘土をもつ整った竪穴式石室の構造であり 石室の長さは 3.87m 幅 0.7~0.6m 高さ 0.65m である ( 註 5) ここでも I-b 群のこの基底部構造を阿讃地域にみられる類型と捉え I-b 群の阿讃 D 型と仮称しておきたい 阿讃 E D 型ともこの地域の古墳の出現とともに構築され 前期前半でその採用を終えているようである 第 4 節まとめにかえて阿讃地域における竪穴式石室の採用は 弥生時代後期後半の首長墓である奥 10 号墳丘墓から始まる この竪穴式石室の構造上における最大の特徴は 墓壙壁の傾斜に沿って壁体の石を積み上げる手法で その結果 石室は上方に向かって大きく外傾する形態である 天井石は架構されず 木材を架構した天井部の構造であると推測される 長さは上面で 3.3m 下低で 2.1m であり 短小型の石室に属する規模である 奥 10 号墳丘墓の出現を首長墓における埋葬施設の第 1の画期とすれば その後 この地域における首長墓の埋葬施設の展開をみれば 次の画期は石塚山 2 号墓や萩原 1 号墓に採用されている 石囲い石槨墓 や 石囲い木槨墓 の登場であろう いずれも構築墓壙であり 石積み墓壙あるいは奈良県メスリ山古墳の石塁壁に相当する施設であり 石で築かれた墓壙と捉えるのがいいであろう そして 第 3の画期は 壁体に板石を使用した長大型の石室と捉えてもよい積石塚である鶴尾神社 121

135 4 号 墳 の竪穴式石室であり 粘土棺床をも備えている構造の出現である なおこの古墳は 現状では讃岐地域の積石塚の初現とみられる 第 4の画期は畿内地域と共通する基底部構造を備えた竪穴式石室を採用した高松茶臼山古墳の築造である 第 5の画期は 快天山古墳 ( 前方後円墳 全長 100m) に採用されたこの地域の個性である割竹形石棺の登場である 和田編年 3 期の前期後半の出来事である 第 1の画期である弥生時代後期後半の時期の竪穴式石室は 現状では 讃岐地域では大久保徹也の提唱する讃岐地域の首長墓の分布上の纏まりである寒川グループにのみ知られている その中でも 奥墳墓群という限定された範囲にのみにみられる事象である 奥 10 号墳丘墓の竪穴式石室と奥 11 号墳丘墓の第 1 号竪穴式石室 第 2 号竪穴式石室がその対象埋葬施設である 奥 10 号墳丘墓は 丘陵尾根先端に自然地形を最大限利用して築かれた一辺約 14m ばかりの方形墓で 墳丘の西方向の尾根に直交する掘割溝 ( 幅 1m) と墳丘南に列石が検出されている 墳頂部に厚さ 0.7~0.8m ほどの盛上がおこなわれ 墳頂平坦面には 竪穴式石室と壺棺が検出されている 竪穴式石室は墳丘の南に偏って 石室主軸をほぼ東西方向に向けて築いている 墓壙は急傾斜に掘られており その規模は上面で長さ 3.4m 幅 2.1m 下底で幅 2 7m 幅 1.7m であり 深さは 1.1m である この急な墓壙壁に沿って壙底から花崗岩の塊石を積み上げて石室を築き その結果 四方の壁は上方に向かって大きく開く外開きの形態を採る 石室の床面は平坦で 約 5cm の厚さの赤褐色粘質土を敷くことによって平坦な棺床をつくる このことから 底の平坦な木棺であることがわかる 天井石は架構されず 木材を架構することによって天井部を構成しているものとみられる 石室中央部の上部に長さ1.7m 幅 0.75m の範囲に拳大から人頭大の礫石の集石が検出されており この集石上に小型の供献土器が発見されている 特に 西側の集石の石は大きい平石で この上に完形の二重口縁壺形土器が置かれていた このことから西頭位と推測している 壺形土器の体部下半には焼成後に穿孔をおこない 仮器化して供献している 奥 11 号墳丘墓は標高 105m の丘陵頂に築かれた径約 16m の円形墓で 墳頂部に竪穴式石室 2 基と土壙墓 壺棺の4 基の埋葬施設が築かれている 両竪穴式石室とも短小型で 壁体が外傾する形態および蓋石は存在しない 大きな特徴は 奥 10 号墳丘墓竪穴式石室と同じであるが 細部には若干の違いをみる 1 号石室の規模は上面の長さ 2.9m 幅は 1.5~1.4m で 下底の長さ 2.2m 幅 0.6~ 0.5m で 高さは 0.6m であり 床面は 床に偏平な 平石 を敷きつめて棺床としている 石室の上部には供献された土器群があり その内の壺には底部中央に焼成後の穿孔がみられ 穿孔位置が奥 10 号墳丘墓と異なっている 2 号石室は1 号石室より小規模で 上面の長さ 2.3m 幅 1.2~1.0m で 下底の長さ 1.4m 幅 0.35~0.4m であり 高さは 0.45m であり 側壁の最下段の石が斜めに立てられており 前二者と棺形態が異なるとみられる 課題は この四壁が外傾するタイプの石室が讃岐地域で自生したものか 他地域からの影響によるものかということである 結論的に言えばまず後者であろう 吉備地域の後期後半 ( 上東鬼川市 Ⅲ 式 ) の岡山県 黒宮大塚墳丘墓からの影響であることは 石室の構造上の特徴と上部の供献土器の組 122

136 成とその推移から明らかであろう 黒宮大塚の石室は側壁は垂直に近く積んでいるが 小口壁は外傾しており 床面には中窪みの円礫が敷かれていることは異なるが 蓋石が架構されていないことは同じである ただし この石室が中心埋葬ではなく 複次的埋葬施設であることは示唆的である 吉備地域は弥生後期後半に首長権祭祀儀礼に用いる特殊器台形土器 特殊壺形土器を創出し 突如として王墓とも呼べる全長 83m に及ぶ中円双方形の楯築墳丘墓を築いている地域である 吉備地域の弥生後期後半は楯築墳丘墓の木棺木槨墓が最高位の棺 槨構造である なお 吉備地域の弥生墳丘墓の竪穴式石室は 弥生終末期の岡山県の宮山墳丘墓 矢藤寺山墳丘墓の竪穴式石室を入れても 長さ3m 高さ 1.0m を超えるものは存在しない また 竪穴式石室で蓋石を採用するのは 弥生後期後半かその直後に比定される鋳物師谷 2 号墳丘墓が最初で それ以後 弥生終末期の金敷裏山墳丘墓 都月坂 2 号墳丘墓 鋳物谷 1 号墳丘墓には蓋石が採用されている このようにみれば 阿讃地域の第 1の画期は 吉備地域の王墓の出現が 讃岐地域を含む瀬戸内海地域に影響を及ぼした結果であり その連動のもとで起こった現象と理解できる 外傾する竪穴式石室は播磨地域にも連動しており 西播磨の揖保川流域の岩見北山 1 号墳丘墓 ( 積石塚 ) にも採用されている また 東播磨の西条 52 号墳丘墓にもこの外傾する竪穴式石室が採用されており 床面には礫石が敷かれている 吉備地域の王権の成立は, 現状の埋葬施設をみるかぎり 讃岐地域と播磨地域の首長墓に大きな影響をおよぼしたことが窺える状況である 第 4の画期は 高松茶臼山古墳築造である 高松茶臼山古墳は高松平野東部に位置し 高松平野西部に位置する岩清尾山古墳群とは 弥生時後期以降 角閃石細粒を濃密に含む胎土で 讃岐地域の型式的特徴をもつ 下川津 B 類様式 の製作圈である香東川下流域 ( 大久保 1996 森下 1997) を挟んで対峙する位置関係にある 岩清尾山古墳群は鶴尾神社 4 号墳の築造以来 古墳時代前期の期間 安定した一定規模の前方後円墳 双方中円墳の積石塚を数多く築造している複数系列の首長墓をもつ古墳群で この地域の主導的役割をはたした有力な首長墓群 ( 大久保 2000) である さらに 大久保徹也は岩清尾山古墳群に用いる土器類 埴輪類は香東川下流域がその製作地であると指摘し この首長達は胎土の選択にあって厳格な規制のもと 地域的個性を主張していると指摘する このような環境の中に 畿内様式 ともいえる特徴をもつ埋葬施設である竪穴式石室を有する高松茶臼山古墳が 土盛り墳 として築造される 和田編年 2 期のことである 高松茶臼山古墳は全長 75m の前方後円墳で 後円部に2 基の竪穴式石室を築いている 畿内様式 の基底部構造をもつ竪穴式石室は1 号石室で 2 号石室は前述したI-b 群の阿讃 D 型を採用している 両石室は使用石材が異なり 1 号石室は安山岩板石を使用し 2 号石室には塊石に近い安山岩を使用しており 板石の使用は中心埋葬の長大な竪穴式石室に使用してこそ意味をもつもの ( 宇垣 1987) であった 1 号石室の長さは 5.45m 幅 1.1~0.7m 高さ 1.35m であり2 号石室は長さ 5.9m 幅 0.8~0.64m 高さ 0.75m である 1 号石室の基底部構造は 逆台形に掘られた大きな墓壙底に板石を敷き 板石の上に礫石を充填し 礫石の上に粘土棺床を設置する構造で 璧体の基礎はこの礫石である I- 123

137 a 群のC 型の構造と分類できるが 基底部に板石を使用していることは古い要素である このような基底部構造をもつものは阿讃地域ではその後展開せず 高松茶臼山古墳にのみ採用されているというのが現況である 註 (1) 都出は香川県の竜王山古墳 長尾稲荷山古墳 高松茶臼山古墳 爺ケ根古墳 津頭東古墳 野田院古墳などが幅の狭い竪穴式石室をもつ点で共通点をもつと指摘 ( 都出 1986) している (2) 長大型石室で粘土棺床を設ける初現は中山大塚古墳や鶴尾神社 4 号墳 西山谷 2 号墳であろうが 竪穴式石室ではないが棺床に粘土を使用する埋葬施設の早い例は岡山県女男岩弥生墳丘墓であろう (3) 河原石を使用する竪穴式石室は讃岐地域では 古墳前期のものは大川郡長尾町の川上古墳がある塚原山塊に限られという状況が指摘 ( 大山 1983) されているが 他にも多く知られている (4) ここでいう弥生終末期とは 土器様式による庄内式土器 ( 弥生 Ⅵ 様式 ) とその併行関係にある土器様式のことで 菅原が阿波 Ⅵ-3 様式を古墳時代最古様式に修正したいといっているように この様式の新しい段階には全長 132m の中山大塚の前方後円頂が築かれおり 長大型の竪穴式石室も成立している しかし 三角縁神獣鏡の副葬の開始はまだみられない時期である 古墳の定義とともにその時代区分論の指標を如何に把握するかの問題であり 今後の検討が必要であろう ここでは とりあえずこれらの墳墓を古墳と記している (5) 奥古墳群は弥生後期後半から古墳時代前期前半まで築かれた古墳群であり その築造順は 奥 10 号墳丘墓 奥 11 号墳丘墓 奥 14 号墳 ( 前方後円墳 32m) 奥 13 号墳 ( 前方後円墳 30m) 奥 3 号墳 ( 前方後円墳 37m) と推測している 報告者や四国の研究者の見解とは異なる 竪穴式石室の変化をみれば 長さが3mを超えるのは奥 14 号墳からであり この時期からU 字形の粘土棺床が採用されているが 幅や高さや使用石材には大きな変化はなく この集団の首長墓は弥生後期後半の奥 10 号墳丘墓の竪穴式石室の伝統を継承している 124

138 第 7 章埋葬施設からみた弥生墳丘墓と前期古墳 - 播磨地域の事例研究 - 第 1 節はじめに- 周溝墓 墳丘墓 古墳とは- 周溝墓と墳丘墓は弥生時代の墓制の名称であり 古墳は古墳時代の墓制に名称である 古墳とはきわめて政治的な記念物であり 前方後円墳が古墳の代表かつ典型 ( 近藤 1983) であると把握されているし 私もそう捉えている 定型化した前方後円墳の出現をもって古墳時代の開始と捉えられている ただ どのような考古学的事象をもって定型化したと捉えるのかは 意見が分かれている 研究史をひもとけば 小林行雄の研究が光彩をはなっている 小林は竪穴式石室の研究 ( 小林 1941) で短小型 長大型 幅広の竪穴式石室の特徴を明らかにし その時代的特徴も的確にとらえていた そして 伝世鏡と同笵鏡の理論を構築し 三角縁神獣鏡と石製腕飾類の共伴関係を整理し 古墳時代の開始を世襲制が確立したことに求める 一連の研究論文はみごとな一貫性をもって提出されている 小林行雄の研究を継承して 古墳時代開始論を展開したのは 近藤義郎と都出比呂志である 近藤は吉備地域を中心に実証的研究を続け 多くの出現期前後の墳丘墓 古墳の発掘調査を行ない その解明に励み 良質な発掘調査報告書の多くを刊行しており 出現期古墳の理論構築も行なっている 都出は 前方後円墳の三段築成の成立をもって定型化した前方後円墳として捉え それに 長大型竪穴式石室の創出がそのことを保障していると捉えた そして 古墳時代の開始時から 前方後円墳を頂点とする前方後円墳 前方後方墳 円墳 方墳という古墳の墳形に階層性を認め そこに政治的な身分的秩序の成立を読み取り 首長層の広域的な序列の形成が西日本を中心に形成されていると理解し その体制を前方後円墳体制 ( 都出 1991) と捉え この体制を初期国家の成立と論を展開した 多くの考古学の研究者が奈良県 箸墓古墳 ( 墳長 276m) の出現から古墳時代と捉えている 陵墓に比定されており 埋葬施設の構造などは判っていない 墳丘から採集されている二重口縁壺形土器や宮山型の特殊器台土器や特殊器台埴輪から多くの憶測論が展開されている この事実から言えることは土器様式論から言えば 特殊器台埴輪に時期に箸墓古墳が築かれたということのみである 隔靴掻痒の観があるが そのこと以外の事実はない 異論もある 古墳時代の開始を岡山県楯築墳丘墓と捉え 弥生時代後期後半に 古墳時代 であるという石野博信氏 ( 石野 ) の論である 寺澤薫は 纏向型前方後円墳 の成立 ( 寺澤 1988) から古墳時代と把握する 周溝墓 台状墓 墳丘墓と区別して 分類 呼称されていた弥生時代の墓制を墳丘墓という名称で統一して呼称しようという都出氏の提唱に多くの研究者は賛同の方向に傾いた 私は集落との位置関係や立地の違いから周溝墓と墳丘墓は区別する立場を採っており 近藤義郎 125

139 が墳丘の形成手法で分類した周溝墓, 台状墓 墳丘墓の分類をいまも踏襲している それ故 いまもときには 台状墓も使用している 近畿地方では 周溝墓は弥生前期に出現している 基本的には 弥生時代中期末に拠点集落が解体されるまでの弥生時代の有力な世帯共同体の一般的な墓制であり 墳頂平坦面には複数埋葬が主体であり その中に乳幼児の埋葬施設も確認されている 大阪府瓜生堂遺跡例であり 兵庫県玉津田中遺跡例などである このことから捉えても 周溝墓は有力な家族層の弥生時代の墳墓と考えられる 周溝墓の立地は 主に 集落の立地と同じく低地に立地し 集落の居住地に隣接した一画に選地している 方形周溝墓と円形周溝墓が基本である 弥生中期末までは 畿内地域では 圧倒的に方形周溝墓が主流である 讃岐地域や播磨地域では 円形周溝墓も一定の位置を占めている 弥生時代後期後半から終末期には突出部をもつ形態が出現する 墳丘墓の影響とみられる 墳丘墓は 基本的に 集落から離れた眺望の良好な高所の丘陵上に立地する 主に弥生後期以降に出現し 終末期まで継統する 平面形態は多様で 古墳出現期の前方後円墳に継承される突出部を造り出す形態も創案される 埋葬施設も多様で 木槨墓 ( 岡山県楯築墳丘墓等 ) や竪穴式石室 ( 岡山県黒宮大塚墳丘墓 同県都月坂 2 号墳丘墓等 ) 礫槨墓と捉えても問題のない埋葬施設( 岡山県雲山鳥打 1 号墳丘墓 同県立坂 1 号墳丘墓等 ) などが存在する 高所立地の墳丘墓は瀬戸内地域に発達が著しい 弥生時代後期末から終末期に顕著な現象として現れ 東方にも影響を及ぼしていく 古墳とは 定型化した前方後円墳の成立であり 古墳の成立が古墳時代の開始と解されている どのような墳墓様式をもって定型化と捉えるのかは考古学研究者の間では一致をみていない 筆者は 長大型竪穴式石室の出現前後を基準に副葬品目を加味して 以下の三段階を設定する そして 古墳の成立とはⅢ-1 段階と把握しており 古墳時代の開始である Ⅰ Ⅱ 段階を初期古墳と捉え Ⅲ 段階の前期古墳との差別化の論説が提出されている その論説の中で 下條信行が論理的に展開 ( 下條 2008) されている 慎重な下條は 邪馬台国と大和朝廷 ( 初期倭政権 ) の問題には論及されていない 正しい研究姿勢である Ⅰ 段階に前方後円形の墳丘墓はすでに成立している 下條は 短前方墳の採用を大きな初期古墳の特質のひとつと指摘している しかし Ⅰ 段階に黒田墳丘墓のような長前方墳もすでに成立しているのである ことは そう簡単に律せる訳にはいかない Ⅲ-1 段階の三角縁神獣鏡が多量に副葬されるまでは 倭国において明確に中心が形成されていない時代であると私は捉えている すくなくとも倭国のコンセンサスにはなっていず 倭国において覇権を争っていた時代がⅠ Ⅱ 段階の時代であると理解している 古墳 は古墳時代なのか弥生時代なの決しかねている現状のひとつの手段である 私は 古墳時代は初期大和政権であるとの立場である 段階論とその例示墳墓を明記すれば以下のとおりである I 段階 長大型竪穴式石室の出現前夜 奈良県ホケノ山墳丘墓 岡山県矢藤治山墳丘墓 岡山県宮山墳丘墓 徳島県萩原 2 号墳丘墓 京都府 ( 丹波地域 ) 黒田墳丘墓等 Ⅱ 段階 長大型竪穴式石室の出現 奈良県中山大塚 古墳 香川県鶴尾神社 4 号 墳 徳島 126

140 県西山谷 2 号 墳 兵庫県 ( 播磨地域 ) 養久山 1 号 墳 等 Ⅲ-1 段階 長大型竪穴式石室 + 三角縁神獣鏡の副葬の開始 奈良県黒塚古墳 兵庫県 ( 摂津地域 ) 西求女塚古墳 兵庫県 ( 播磨地域 ) 権現山 51 号墳 京都府 ( 山城地域 ) 椿井犬塚山古墳 岡山県備前車塚古墳等 Ⅲ-2 段階 碧玉製腕飾類の副葬の開始 奈良県下池山古墳 奈良県桜井茶臼山古墳 Ⅲ-3 段階 概ね和田晴吾編年の三期に相当 奈良県メスリ山古墳 大阪府 ( 摂津地域 ) 紫金山古墳等 Ⅲ-4 段階 概ね和田晴吾編年の四期に相当 佐紀陵山古墳 北玉山古墳等つぎに 播磨地域の弥生墳丘墓から古墳時代の動向を墳墓の実態を叙述していきたい 第 2 節播磨地域の墳丘墓の検討播磨地域においては 弥生時代後期前半から完鏡が副葬されている墳丘墓が知られている 九州島以外では稀なことである 揖保川町半田山 1 号墳丘墓である ただし その鏡は後漢舶載鏡ではなく北部九州産の弥生小形仿製鏡である 半田山 1 号墳丘墓に続いて 北部九州産の弥生小形仿製鏡を副葬している墳丘墓に龍野市白鷺山間墳丘墓の事例がしられている 1 半田山 1 号墳丘墓厳密に言えば 半田山鏡は棺内に副葬されている鏡ではない 棺外副葬鏡であり 中心埋葬の第 1 主体から棺上に銅鏃と共に出土している 出土状態は棺上と判断される 35 cmの範囲に 10 数点に割れた状態での出土である 復原すれば欠損のない完鏡の北部九州産の弥生小形仿製鏡である 埋葬施設は組合式木棺 ( 箱形木棺 ) 直葬墓である 墳形は径 18.5m 前後の 不定円形 の墳丘墓と報告されているが 地形測量図や現地の観察からでは 長辺 20m 前後 短辺 10m 前後の長方形を呈する墳丘墓と捉えられる 鏡は狭縁のⅠ 型の型式であり 重圏文系の弥生小形仿製鏡である 面径は 5.3 cmである なお この墳丘墓からは棺内副葬として刃関双孔の剣身長 27.3 cmの鉄剣が副葬されていた 2 白鷺山墳丘墓 1961 年 不幸な状況下の発見であったが 近接し平行に築かれた 2 基の箱式石棺から 1 面ずつの鏡の副葬が知られている 1 号箱式石棺から後漢の蝙蝠座紐内行花文鏡 ( 漢鏡 6 期 ) の分割鏡 ( 破鏡 ) が 2 号箱式石棺からは北部九州産の平縁の弥生小形仿製内行花文鏡 (Ⅱ 型 ) が発見された 遺跡は標高 80m の丘陵上に立地し 揖西平野が眺望できる位置にある 顕著な墳丘や外部施設は確認されていないが 2 基の箱式石棺を埋葬施設にもつひとつの墳丘墓と捉えていいであろう 1 号石棺が朱の付着した礫床や茎幅の広い鉄剣等を共伴しており 中心埋葬と捉えていいであろう 被葬者は遺存した人骨から 30 歳代の男性である 2 号石棺からは鏡の他に袋状鉄斧と硬玉製勾玉が伴出している 3 岩見北山 1 墳丘墓 西条 52 号墳丘墓後漢代に製作され 舶載された大形の内行花文鏡 ( 漢鏡 5 期 ) の破砕鏡が 弥生後期末の揖保川流域の岩見北山 1 号墳丘墓と加古川流域の西条 52 号墳丘墓から出土している いずれも埋葬施設上から破砕行為を行なったとみられる出土状態であり 復原すればほぼ完鏡になり 完鏡を破砕して供献したと捉えられる 127

141 岩見北山 1 号墓は径約 18m の円形積石墓で 外傾する竪穴式石室を埋葬施設として採用している 規模は長さ 1.8m 幅 1.1m である 石材は割石 ( 角礫 ) を使用している 後述する岩見北山 4 号 墳 と共に 岩見港を扼する小地域に立地している 讃岐地域からの首長層の移住が想定され 彼らの墳墓である可能性がきわめて高い 讃岐地域との密接な政治的関係が窺われる 西条 52 号墳丘墓は突出部をもつ円形墳丘墓で 竪穴式石室を埋葬施設として採用している 四壁を構成せず 東小口側の石積みはなく墓壙が壁体の代用をしており 石積みの壁体は三壁で構成している稀有な竪穴式石室である 墳丘墓の規模は円形部が径約 11.5m 以上であり 突出部の長さも 4.4 以上である 突出部の幅は約 4.9m である 円丘部も突出部の二段の低い列石が検出されている 石室の上部に配された大形土器の様式的特徴から吉備地域の政治勢力との密接な関係が読み取れると把握している 4 井の端 7 号墓 西ノ土居墳墓いずれも千種川流域の内陸部の弥生墳丘墓であり その構造は驚くほどに類似している いずれも列石をもつ長方形墳丘墓であり 長辺 15m ほどの規模である 墳頂平坦面に三基の埋葬施設をもつことも共通している 中心埋葬施設は土壙墓の上に数段の割石を積み上げている構造で 竪穴式石室ふうの埋葬施設とも言われているが 筆者は竪穴石積土壙墓と命名するのがよいのではと提唱している 類似した埋葬施設は他地域にも存在し その関連はこれからの課題である 土器は出土しているが細片で時期を特定できる資料ではない 井の端 7 号墓の第 3 主体部からは 面径 7.8m の重圏文鏡の完鏡が副葬されており 井の端 7 号墓第 2 主体部からは素縁銘帯鏡の分割鏡が副葬されており 西ノ土居墳墓から中心埋葬の竪穴石積土壙墓から復原径 18.8 cmの後漢舶載大形内行花文鏡の分割鏡が副葬されていた これらのことから判断して 弥生時代終末期の築造と捉えている 5 養久山墳墓群弥生時代後期前半 ~ 終末期の多様な墳形と多様な埋葬施設をもつ 43 基ほどが群集する墳丘墓群である その内 9 基の墳丘墓が調査され 5 号墓は中方双方形の形態を採る墳丘墓で 長さは約 24m である 埋葬施設は中方部の墳頂平坦面の中心に 3 基が築かれており 配石壺棺と仮称される埋葬施設が中心主体とみられ その両側に配石土壙墓 2 基が配置さいた 32 号墓は 12 基の多様な埋葬施設をもつ径約 14m の円形墳丘墓と捉えられている 約 4.7 約 3.3m の規模を有する楕円形の周溝をもつ 12 号墳丘墓が調査され 埋葬施設は中央に土壙墓 ( 上辺の長さ 2.1m) と周溝を切って壺棺が検出されている この壺は頚部が内傾する形態で 大きく開く口縁部をもち 形態から讃岐産複合口縁壺形土器の可能性が高いと言える 1 号 墳 は墳長 32m のバチ型前方後円 墳 であり 後円部に二段の列石 前方部に一段の列石を配している 埋葬施設は長さ約 4.0m 幅約 1.1m の中間型の竪穴式石室を中心埋葬であり その周囲に 5 基の埋葬施設を配している 複数埋葬のあり方や竪穴式石室の構造は 弥生墳丘墓と通じるところが多く認められる 舶載四獣鏡とみられる小形鏡 1 面の副葬も弥生的である 6 明石川流域の墳丘墓弥生時代中期後半に 西神ニュータウン内第 40 地点遺跡に2 基の台状墓が築かれている いずれも長辺 9 短辺 6m 長方形台状墓で 2 基とも箱式木棺 2, 壺棺 1の 3 基の埋葬施設が確認されている 古墳の出現期になっても長方形の墳丘が継続している地域である 西播磨地域と大きく異なった様相を示している 天王山 4 号墳 (19 16m) 割竹形木棺 2, 壺棺 1 128

142 の埋葬施設が築かれており 弥生時代中期後半以来の伝統的な複数埋葬のあり方を継承している 明石川流域の台状墓や墳丘墓 出現期古墳には列石や石を使用する理葬施設はみられない地域で あり この点でも 西播磨地域と著しい相異を示している 第 3 節古墳出現前夜の播磨地域の墳丘墓播磨地域の前方後円墳出現前夜のキーポイントは讃岐産大型複合口縁壺である 1 山戸 4 号墓 ( 姫路市 ) 揖保川下流域に築かれた前方後円形墳丘墓 ( 墳長 25m 前後 ) である 後円丘に二基の埋葬施設が構築されている 西石室は m の方形の竪穴式石室であり 床面に朱の付着した礫を敷いていた この石室に讃岐産大型複合口縁壺の壺棺を埋置しており この西石室が中心埋葬であり 接して 東石室 (1 0.8m) の方形の竪穴式石室が築かれており 壺棺を埋置していた 2 岩見北山 4 号墓 ( 揖保郡揖保川町 ) 揖保川下流域に築かれた狭長な前方丘もつ前方後円形墳丘積石墓 ( 墳長約 23m) である 墳丘上から讃岐産大型複合口縁壺を採集されている 讃岐地域との関連が考えられる墳丘墓である 3 檀特山 1 号墓 ( 姫路市 ) 檀特山 1 号墓も揖保川下流域に築かれた前方後円形墳丘墓 ( 墳長約 50m) である 列石を配し 墳頂部に讃岐産大型複合口縁壺棺が埋置されていた 碧玉製管玉が出土しているのみである 4 綾部山 39 号墓 ( たつの市御津町 ) 揖保川下流域の海岸部に立地する突出部をもつ円形墳丘墓である 石積み囲い壁 ( 石積墓壙 ) 内に竪穴式石室 ( 長さ 2.55m 幅 0.97m 高さ 0.68) を築いている 棺内には副葬時に意図的に破砕して副葬したと捉えられ小形の画文帯神獣鏡 ( 径 11.0 cm ) が出土しており 朱を精製する石杵以外は 碧玉製管玉も縦方向に破砕されており 砥石も破砕されて副葬されていた このような 破砕副葬の例は 岡山県矢藤治山墳丘墓と同じ様相を呈している 東頭位である 墳丘から細片であるが讃岐産の甕形土器が出土している 5 横山 7 号墓 ( 姫路市 ) 市川中流域に築かれた前方後円形墳丘墓 ( 憤長 30m) である 列石を配し 後円丘に竪穴式石室 1 基 ( 長 2.1m 高さ 1.1m 幅 0.8m) が築かれている 前方後円形の墳丘内にはこの 1 基の竪穴式石室の存在しか検出されていない 周辺から多数の埋葬施設が検出されており その一基の竪穴石積土壙墓から讃岐産大型複合口縁壺を棺とした埋葬施設が知られている 6 小結揖保川下流域には 古墳出現前夜の前方後円形墳丘墓が多く築造されている地域である 揖保川下流域には讃岐 吉備 丹後 但馬 山陰 畿内等の多く他地域の土器の搬入率がきわめて高い地域である その集落は 揖保郡太子町川島遺跡であり 姫路市丁柳ケ瀬遺跡であり 同市和久遺跡等である これらの前方後円形墳丘墓は これと連動した現象であると理解している 奈良県の纒向遺跡 纒向古墳群と桔抗する状況を呈している そこには 覇権を争った状況を読取りたいところである 古墳時代成立前夜の揖保川下流域は 吉備地域と共にきわめて重要な地域として把握できる 古墳出現期 (Ⅲ-1 段階 ) にもこの情況が継続している この地域には 弥生時代の鏡の取り扱いからみ 129

143 て 北部九州地域の影響も読取れる それに比較して 東播磨地域では他地域の土器が搬入されることが少なく 前方後円形墳丘墓の 築かれていない地域である みごとな対比である 第 4 節古墳出現期 (Ⅲ-1 段階 ) の前方後円 ( 方 ) 墳の動向古墳出現期 (1 期 ) の前方後円 ( 方 ) 墳は 揖保川下流域に集中する 播磨地域で 最初の大形前方後円墳は前方部が撥形を呈する丁瓢塚古墳 ( 墳長約 100m) である 奈良県箸墓古墳と相似墳的な形態で同じように平地に立地している 段築手法は箸墓古墳異なり 養久山 1 号 墳 と類似する手法を採用していると観察できる 次の規模の出現期古墳は 50m 級と 30m 級の前方後円 ( 方 ) 墳が揖保川下流域に集中する 50m クラスの古墳としては 景雲寺古墳 ( 前方後円墳 52m) 権現山 51 号墳 ( 前方後方墳 48m) 権現山 50 号墳 ( 前方後方墳 55m) であり 30m クラスの古墳としては 養久山 1 号 墳 ( 前方後円墳 31m) 吉島古墳( 前方後円墳 28m 揖保川中流域) がある 揖保川下流域は古墳出現期 (Ⅲ-1 段階 ) に 大形 中形 小形とヒエラルキッな構成を採っており 大首長のもとに中小首長が結合した姿態として かつて西播磨地域首長連合と仮称して捉えていた ( 山本 1983) が 調査例の増加とともに出現期前方後円 ( 方 ) 墳の個々の内容が異なりすぎ 再検討が必要であろうと思考している つぎに 揖保川流域における出現期前方後円 ( 方 ) 墳の埋葬施設の構造を検討していきたい 1 養久山 1 号 墳 前述しているように 小形舶載鏡 1 面のみ副葬は弥生的である 中心埋葬は竪穴式石室であり その墓壙底は平坦で播磨の伝統的要素を引継ぐでいる 石室主軸は東西方向で東頭位であり 墳丘主軸とは斜行する関係にある 2 権現山 51 号墳後円部の竪穴式石室が調査されており その規模は 長さ 4.7m 幅 1.3m であり 長幅比 4.8 で長大型の竪穴式石室である 基底部構造はⅢ-1 段階に大和東南部政治勢力の主導で創出した形態と連動している形態である 石室主軸は南北方向で 北頭位である 墳丘主軸とは直交する関係にある 鏡は5 面副葬されており すべて三角縁神獣鏡である 特殊器台形埴輪 特殊壺形埴輪の使用されている 墳丘から採集された二重口縁壺は吉備産 ( 亀川上層式 ) であり 吉備地域の首長が揖保川下流域に築造した可能性が高い古墳と捉えられる 3 吉島古墳埋葬施設は後円部中央に 1 基の竪穴式石室が知られているのみである その規模は長さ 5.4m 幅 1.2m で 長幅比 4.9 であり 長大型竪穴式石室の範疇と捉えられる 粘土棺床の設置はなく 墓壙底中央をU 字形に掘り窪めそこを棺床としている基底部構造である 石室主軸は東西方向で東頭位である 墳丘主軸とは斜行の関係にある 吉備地域や阿讃地域のⅡ 段階の西山谷 古墳 奥第 14 号 古墳 奥第 2 号 古墳 との関係を考慮すべきかも知れない 鏡は 6 面が副葬されており その内 三角縁神獣鏡は 4 面であった 4 龍子三ツ塚 1 号墳 2007 年の夏 大手前大学史学研究所が発掘調査された きわめて重要な成果をあげている 墳長 35m の前方後円墳で 前方部はバチ形に開く形態である 平面形の形態や前方部の低平さや規模は養久山 1 号 墳 ときわめて類似していおり その発展した形態と捉えられ 130

144 る 後円部も前方部がきわめて低平なのにもかかわらず後円部 前方部とも列石によって明確に三段築成であることが認められている そこには 思想としての三段築成が成立していることが読み取れる 墳丘上から竹管文を押捺する円筒形器台が樹立されていたとみられ くびれ部には二重口縁壺形土器や鼓形器台などの土器を使用した儀礼行為を実修した痕跡がぎっしり出士している 竪穴式石室は過去の盗掘や乱掘によって石室の遺存状態はよくなかったが 丹念な調査で 長さ約 5.5m 幅 0.7m であると判った 長幅比は 7.9 である 竪穴式石室には 明確な粘土棺床は採用されていないが 低い基台を造り出し 最下段の壁体板石の下部に礫石を充填している構造である 主軸は南北方向で北頭位である 墳丘主軸とは併行に築かれている 副葬品は三角縁波文帯三神三獣鏡 2 面副葬されていた なお 龍子三ツ塚 2 号墳は径約 17m の円墳であり 墳頂中央に 1 基の竪穴式石室が築かれていた 石室の規模は 長さ約 3.9m 幅 0.7m であり その長幅比は 5.6 であり 長幅比の関係でいえば長大型石室の類であると捉えられるが 幅は 0.7m と狭く そのことが長幅比と関係することであり注意を要する事項である 長さから言えば 中間型の竪穴式石室と捉えることの方が当を得ているであろう 石室基底の構造は 1 号墳と類似し 明確な粘土棺床ではなく 低平な基台を造り出している型式である 鏡は後漢末の舶載キ鳳鏡と斜縁獣帯鏡の分割鏡が副葬されていた 2 号墳 1 号墳の変遷が考えられる 1 号墳は三角縁神獣鏡の型式や土器からⅢ-2 段階に比定される 揖保川流域以外の出現期古墳前後の墳墓を検討していきたい 1 経塚山古墳加古川下流域に所在する古墳である 墳長 25m の前方後方墳であり 前方部の幅は 後方部の幅の約 1/3 であり 前方部の形態は岩見北山 4 号前方後円墳丘墓と同じく狭長な形態を採用している 埋葬施設は 後方部中央に竪穴式石室が築かれており 石室の内法の規模は 長さ 3.2m 幅 1.5~1.3m 高さ 1.1m であり 床面は平坦であり 基底に粘土や礫石は使用されていない 長幅比 2.4 を示し 幅の広い石室である 横山 7 号前方後円形墳丘墓の石室と比較すれば 長さ 幅とも 2 倍の大きさであり 面積にして 4 倍の規模を有している 遺物は過去の乱掘にあい ガラス製小玉が出土したのみである 2 天王山 4 号墳明石川流域に築かれた長辺約 19m 短辺約 16m の長方形墳で 墳頂中央に割竹形木棺直葬墓 2 基と土器棺 1が検出された 割竹形木棺の長さ約 4.5m と 5.4m と長い木棺を採用している 明石川流域は弥生時代中期後半の方形台状墓から成人墓 ( 木棺 )2 乳幼児墓 1( 土器棺など ) という類型の方形系統の墳墓が古墳時代前期前半まで継続している地域である 3 観音山古墳市川中流域に築かれた長辺 17m 短辺 10m の長方形墳である 短小型の竪穴式石室が知られているのみである 4 小結以上のように 播磨地域の古墳出現前夜の前方後円形墳丘墓や古墳時代前期前半の前方後円 ( 方 ) 墳の分布は揖保川流域に集中し その偏在している事実は動かない 他の播磨地域では この時代の首長墓が散在的であり 単発的様相を呈している 竪穴式石室は古墳出現前のⅠ 段階以前の弥生時代後期後半に出現している 岩見北山 1 墳丘墓や西条 52 号墳丘墓の埋葬施設である この竪穴式石室は壁体が外傾する形態であり 角礫 ( 割石 ) を 131

145 使用しており 安定した形態ではない 岩見北山 1 墳丘墓は 円形積石墓であり 西条 52 号墳丘墓は突出部をもつ円形墓であった 前方後円形墳丘墓が播磨地域で出現するのは 古墳出現前夜のⅠ 段階である この時期の竪穴式石室には 扁平な亜角礫 ( 採集礫 ) を使用した綾部山 39 号墳丘墓や板状石材 ( 採掘礫 ) を使用した横山 7 号墳丘墓や山戸 4 号墳丘墓などある この時期の長幅比をみれば 1.3~2.6 までの間に収まっている 山戸 4 号墓の両石室は方形竪穴式石室と捉えた方がいいかもしれない平面形態であり その長幅比は 1.8 と 1.3 である 養久山 1 号 墳 と権現山 51 号墳の石室平面規模を比較すれば 前者が長さ 4.1m 長幅比 3.9 であり 後者が長さ 4.7m であり 長幅比 4.8 である 養久山 1 号 墳 を中間型の竪穴式石室 ( 都出 1986) と捉え 古墳と把握していないところもうなずけない訳ではい 経塚山古墳は幅広の竪穴式石室であるが 平面規模の拡大しており 畿内地域における長大型竪穴式石室の変化の方向は異なるが前方部の形態から出現期古墳と捉えられると思考している 西条 52 号墳丘墓との平面規模の点では類似点が指摘できる 揖保川下流域は古墳出現前夜の墳丘墓や出現期の前方後円 ( 方 ) 墳には 他地域の首長墓が築かれている可能性がきわめて高い地域である 丁瓢塚古墳は丹後の王墓と捉えてはと考えている 丁瓢塚古墳の全前に拡がる丁 柳ケ瀬遺跡に丹後系土器の比率がきわめて高く出土していることと採集されている竹管文を押捺した特殊な土器が採集されていることがその理由である 龍子三ツ塚 1 号墳や千種川上流域の伊和中山 4 号墳でも竹管文をスタンプした特殊な土器が出土しており 問題を複雑にしている 権現山 51 号墳は特殊器台埴輪と吉備産甕形土器が出土していることから吉備地域の有力首長墳である可能性が高いのではと捉えている 岩見北山 4 号 墳 は 前方後円形積石墳丘墓であり 前方部が丘陵の高い方に築いていること讃岐産複合口縁壺形土器が採集されていることから 讃岐地域の有力首長墓の可能性を考えている 山戸 4 号墳丘墓も讃岐産複合口縁壺形土器を壺棺としていることから その可能性を考えたいところである 出現期古墳前後における政治集団の移動のことは この時期の土器が広域的に移動していることと共にもっと検討されるべき研究対象である 第 5 節加古川下流域の日岡古墳群の評価日岡古墳群はⅢ-2 段階からⅢ-4 段階に築造された播磨地域を代表する重要な古墳群である 加古川下流域左岸の丘陵上に立地する 墳長 75~90m クラスの4 基の前方後円墳が一代一墳的に有力首長系譜がたどれる播磨地域では唯一の前期の古墳群である 盟主的な有力首長が Ⅲ-1 段階の揖保川下流域から加古川下流域の日岡古墳群ヘと播磨の地域権力の交替した現象と把握している 初期倭政権の意思が強く動く政策的意図であろうと捉えている 前方後円墳の占地や内容をみれば 日岡山 1 号墳 ( 褶墓古墳 ) 南大塚古墳 (2~3 期 ) 西大塚古墳 (3 期 ) 北大塚古墳 (4 期 ) と播磨地域における大首長の系譜の系譜がたどれる古墳群で 132

146 ある 勅使塚古墳 ( 前方後円墳 墳長 54m) 東車塚古墳 西車塚古墳 狐塚古墳は円墳で傍系的首長であろう 日岡古墳群は加古川下流域の地域政治集団の墓域であり 複数系列型古墳群の類型 ( 広瀬 ) と理解できる 南大塚古墳には 後円部と前方部に畿内的な整備な竪穴式石室 ( 山本 1980) が構築されている 前方部石室の主軸は南北方向で北頭位と推定される 後円部にも竪穴式石室が露出しており その基底部構造は判らないのであるが 前方部石室は不幸なもとでの破壊された前方部石室の構造から 後円部石室も同じ基底部構造をもつ長大型石室と類推している 前方後円墳の複数埋葬のあり方は寺戸大塚タイプと類型化 ( 山本 1983) できる 前方部竪穴式石室の基底部構造はB 型を採用している このタイプの基底部構造は河内地域の玉手山古墳群で発達する構造と共通している 両地域の有力首長間には親縁な政治的関係が成立していると捉えられる 日岡 1 号墳は 現在 景行天皇皇后播磨稲日太郎姫命陵 として管理されている 播磨風土記 に褶墓の伝承が記載されている 日本書記 にも同様な記載がみられ 播磨地域では唯一の陵墓とされている古墳である 北大塚古墳は 日岡古墳群の中では 最後の前方後円墳である 日岡古墳群では唯一 周濠をもつ前方後円墳である 周濠の形態は 墳丘と相似形の鍵穴形周濠であり 方形革綴短甲型埴輪などの埴輪と鉄鍬先を採集している 西大塚古墳の墳丘の流失は はなはだしく 粘上槨の基底構造と捉えられる礫石が観察でき 畿内的な粘土槨が構築されていた推測できる まとめると 有力な前期古墳が集中する播磨地域では唯一の古墳群であり 5 基の前方後円墳と 3 基の円墳から構成されている古墳群である 大形の前方後円墳は 南大塚古墳 (90m Ⅲ-2~Ⅲ -3 期 ) 西大塚古墳 (75m Ⅲ-3 段階 ) 北大塚古墳 (90m Ⅲ-4 段階 ) と変遷していることが断片的な資料からでも読み取れる 日岡山 1 号墳 ( 褶墓古墳 85m 2 期 ) 勅使塚古墳(54m 3 期 ) の位置付けは情報不足であるが 占地と立地から日岡山 1 号墳を日岡古墳群の中で最も古く位置付けた 埋葬施設の構造 ( 竪穴式石室や粘土槨の構造 ) の特質と複数埋葬のあり方 及び 副葬品の内容から捉えて 畿内地域の盟主的な有力首長が累世的に前方後方墳を築いている山城 向日町古墳辞 河内 玉手山古墳群 摂津 弁天山古墳群と類似する構成や内容をもっており 大和地域の狭義の柳本 萱生古墳群のヤマト政権の一翼を担っていた有力な首長墓群であると 加古川下流域左岸の低地の海岸部に近くに築造された古墳として 聖陵山古墳 ( 前方後円墳 70m) がある 臨海性の古墳と捉えられ 日岡古墳群の首長層が制海権の確保を目指して築造した古墳と理解される この時期の加古川下流域右岸域の状況をみれば 分散的に小形前方後墳や円墳が築造されている 長慶寺山古墳 ( 前方後円墳 34m) 竜山 5 号墳 ( 前方後円墳 約 35m) 天坊山古墳( 円頂 ) である いずれも竪穴式石室であるが 畿内様式の竪穴式石室ではない 他に 三角縁神獣鏡の出土を伝える牛谷天神山古墳がある これら右岸域の古墳は日岡古墳群との関係で築造されているとみら 133

147 れる 日岡古墳群が中央のヤマト政権との政治的関係 ( 第一次政治的関係 ) を契機にして古墳を造営していると捉えれば 右岸域の古墳は 日岡古墳群との地域内部の政治的関係 ( 第二次政治的関係 ) のもとで築造されている 加古川下流域の政治集団における支配階級の首長層の階層構成を墳形と規模で捉えれば 80m 前後級 50m 級 30m 級の前方後円墳 そして 円墳の4 階層ほどと把握できる いずれも竪穴式石室を採用している このことは畿内地域における前期古墳の埋葬施設のあり方とは著しく異なる 古備地域や讃岐地域の埋葬施設の様相と類似する このことは 弥生墳丘墓の段階に竪穴式石室を採用していることとの関連するのであろう なお 畿内的な整備な竪穴式石室 ( 畿内様式の竪穴式石室 ) をもつ古墳として 兼田古墳と丸山 1 号墳がある 兼田古墳は市川下流域の丘陵上に築かれた墳長 48m の前方後円墳であり 丸山 1 号墳は加古川上流域の加古川と篠山川の合流点を見下ろす独立丘陵頂部に造営された墳長 48m の前方後円墳である 他の播磨地域のⅢ 段階 ( 古墳時代前期 ) の主要な古墳をみていきたい 明石川流域は 20m を超えない小形の長方形墳を古墳時代前期の期間 継続して造り続けている地域である 割竹形木棺直葬墓とする地域である 天王山 4 号墳に続き 堅田神社 1 号墳 西神 44 号墳がある 明石川流域では 前方後円墳が最初に築造されるのは前期後半であり 明石川支流の伊川中流域の白水瓢塚古墳である 白水瓢塚古墳は丘陵上に築かれた墳長 68m の前方後円墳であり 長大で重厚な粘土槨を埋葬施設としている 古墳時代前期後半には 明石海峡を睥睨する 200m クラスの巨大な前方後円墳の五色塚古墳が垂水丘陵上に築かれている 白水瓢塚古墳の築造も五色塚古墳の築造が契機になっているとみるのが正鵠を射ているであろう 加古川中 上流域では 岡ノ山古墳と前述した丸山 1 号墳がある 岡ノ山古墳は岡ノ山丘陵頂部築かれた墳長 51m の前方後円墳であり 柄鏡式の形態を採る前方部を採用している 市川下流域では 前述した兼田古墳 御旅山 1 号墳 ( 前方後円墳 48m) 御旅山 3 号墳 ( 円墳 約 10m) がある いずれも丘陵頂部に築かれている 市川中流域では 清盛塚古墳 ( 前方後円墳 40m) が丘陵頂部に築かれている 古墳出現期で興盛を誇った揖保川下流域には前述した龍子三つ塚 1 号墳が前期前半のⅢ-2 段階に築かれているのみである 古墳時代前期後半に築かれた輿塚古墳は眼下に播磨灘を臨海性の古墳であり 五色塚古墳と類似した性格を有する古墳とみられる 揖保川中流域には 吉島古墳の継続首長とみられる市野裏山古墳 ( 前方後円墳 30m) が築かれている 千種川流域では 下流域に三角縁神獣鏡が出土した西野山 3 号墳 ( 円墳 17m) があり 上流域には 播磨一宮の伊和神社を望む伊和中山 1 号墳 ( 前方後円墳 62m) がある 以上のように 播磨地域の主要な前期古墳を通覧すれば 50m クラスの前方後円墳が各地域的な政治集団の有力首長を構成していたのではと捉えられる ヤマト政権の関係から播磨地域を代表す 134

148 る盟主的な最有力首長は日岡古墳群における 70~90m の前方後円墳の披葬者であると考えられる 日岡古墳群の首長系譜が安定しており ヤマト政権との直接的な政治関係が考えられる 第 6 節まとめ弥生墳丘墓と出現期古墳を分ける最も重要なポイントは 三角縁神獣鏡の副葬の開始であると捉えている 三角縁神獣鏡の副葬の開始が大きな画期であり 長大型竪穴式石室の基底部構造に畿内様式とも言える整美な竪穴式石室の成立と連動していると捉えている Ⅲ-1 段階の出来事である そして 200m クラスの巨大前方後円墳が出現している時期であり 大和地域東南部に列島内に中心が形成された時期である これらの現象 政治的文化的様式の成立も捉えられるこれらの現象の成立をもって古墳時代の開始と理解している 三角縁神獣鏡と伴出する古墳から出土する土器の時期は すべて布留式期以降である 古式の三角縁神獣鏡と伴出する土器を検討していきた 西求女塚古墳の無文の二重口縁壺形土器は布留式古段階である ただし僅かしか出土していない 鼓形器台 有陵系小型丸底壺 竹管文を押捺する特殊な土器が圧倒的に多く 埋葬施設上での供献土器儀礼も丹後地域の墳丘墓 古墳に通じる丹後地域の王墓の南進と捉えている 権現山 51 号墳から採集されている二重口縁壺形土器は 吉備系統の形態で 胎土からみても吉備地域産であり 時期は亀川上層式に比定される 畿内地域の土器様式の関係は 布留式古段階と併行しているとみて問題はないであろう 神原神社古墳の竪穴式石室から出土した土器は 小谷 2 式の典型であり 布留式期古段階と併行していると捉えられる 黒塚古墳出土土器も布留式期古段階で捉えられている 庄内式期の土器と伴出する三角縁神獣鏡は 現状では知られていない 播磨地域のキーポインの土器と捉えた讃岐産大型複合口縁壺と三角縁神獣鏡は共伴した例はない 三角縁神獣鏡の大きさをみれば 舶載内行花文鏡や舶載画文帯神獣鏡等のように 大形鏡 中形鏡 小形鏡という区別のない鏡種であり 22~23cm 前後の大型鏡しか存在しない特異な鏡である 播磨地域において 弥生墳丘基と出現期古墳を分別する要素を個々に検討していきたい 三角縁神獣鏡の副葬の有無が大きなポイントのひとつである 吉備産の二重口縁壺形土器 特殊器台埴輪をもち 古式の三角縁神獣鏡群を副葬していた権現山 51 号墳が播磨地域の出現期古墳であることに異論はないであろう 吉島古墳も古式の三角縁神獣鏡 4 面を副葬する古墳であり 出現期古墳の候補である 長大型竪穴式石室の基底部構造の型式も判断基準のひとつである 権現山 51 号墳は低い基台を造り出し 代用 粘土棺床を設置する型式であり 奈良県黒塚古墳や小泉大塚古墳と同型式を採用している竪穴式石室の基底部構造を採用していると言える 出現期古墳 (Ⅲ-1 段階 ) から伴出する土器は 布留式古段階であることは前述したとおりであり 良好な土器資料は前述した権現山 51 号墳しか知られていない 図 3 で 前方後円形墳丘墓と出現期前方後円墳の墳丘形態を比較すれば 前方後円形墳丘墓では 135

149 その形態に多様性が指摘でき 出現期前方後円墳では撥型に開く前方部に定型化していると捉えられる 撥型に開く前方部の平面形態は 古墳出現前夜と捉えられる養久山 1 号 墳 で成立している この撥型前方後円墳は前期前半 (Ⅲ-2 段階 ) の三つ塚 1 号墳まで継承されている 前方後円形墳丘墓と出現期前方後円墳が揖保川流域に集中している事実は動かない 前方後円形墳丘墓と出現期前方後円墳の段築の手法をみれば 養久山 1 号 墳 は後円部が二段に築成されているが 前方部の下段は地山を成形し列石で墳丘基底を明確にしているのみで段築は形成されていなく そして 後円部の段築の1 段目は極端に低い形態である 丁瓢塚古墳の1 段目の段築もきわめて低い形態であると観察できる 類似する要素が指摘できる 権現出 51 号墳と吉島古墳は段築は造られていない 龍子三つ塚 1 号頃は後円部 前方部とも三段築成であり 理念としての三段築成の前方後円墳である 養久山 1 号 墳 以外の前方後円形墳丘墓には段築は造られていない 播磨地域においては 出現期古墳には前方後円墳と前方後方墳の二者が存在していると指摘できる 第 2 図と第 3 図で播磨地域の前方後円形墳丘墓と出現期前方後円墳と前期古墳の埋葬施設の平面形と横断面の模式図を同じ縮尺で集成している 埋葬施設はすべてを竪穴式石室と呼称しているが その形態 構造は随分と相異している 前方後円形墳丘墓の竪穴式石室は短小型の竪穴式石室であり 長さ 3m を超えるものはなく その基底部の形態から割竹形木棺を採用しているものは見られず 棺底の平坦な組合式木棺 ( 箱形木棺 ) を採用している また 播磨地域の特徴であるが 槨 棺形態も多様である 出現期前方後円墳の埋葬施設は 槨施設としては長大型竪穴式石室 棺形態としては割竹形木棺が主流である 埋葬施設のあり方は 出現期前方後円 ( 方 ) 墳では 後円 ( 方 ) 部に単数の 1 基の竪穴式石室を築くのが基本である 養久山 1 号 墳 のような後円部に 6 基もの埋葬施設を築くのは 異例であり 前代からの伝統的な要素を継承している姿であり 支配形態が異なるのであろう ここで年代論の整理を試みてみたい 庄内式期の実年代を3 世紀初め頃からAD275 ごろと見積もる福岡澄男論文 ( 福岡 2006) を参考に 弥生時代後期後半から古墳時代前期前半までの良好な資料を提供している雨滝山奥墳墓群を絡ませて検討していきたい 雨滝山奥第 号墳丘墓が築造された時期を讃岐奥 1 期と提唱しておきたい 出土土器から後期後半から庄内期前半とみている 雨滝山奥 10 号墳丘墓は後期後半であり 周辺の土器様式の併行関係をみれば 大中 Ⅱ 式 ( 新 ) 段階 ( 山本 1990) と併行し 播磨 Ⅴ-5 式 ( 山本 2000) の時期にあたる 吉備地域の鬼川市 Ⅲ 式 百間川後期 Ⅲ 期とも併行時期関係にあると捉えている この時期の墳丘墓では 吉備地域の楯築墳丘墓がこの時期の最大かつ代表である 吉備の黒宮大塚墳丘墓もこの時期に築かれている 播磨地域の墳丘墓では 西条 52 号墓 岩見北山 1 号墓がこの時期の築造である 雨滝山奥 11 号墳丘墓の出土土器は時期判定を行なうには良好な資料ではないが 10 号墓よりは後出であることは明らかであり 終末期前半とみている 播磨地域の墳丘墓では 井の端 7 号墓 136

150 西ノ土居墳丘墓をこの時期の築造とみている この時期は福岡が AD200~250 年に相当し 邪馬台国女王卑弥呼の活動期にあたる 雨滝山奥 14 2 号墳丘墓の時期を讃岐奥 2 期と捉える 雨滝山奥 14 号 墳 は撥型に開く前方部をもつ前方後円 墳 であり 後円部中央に 2 基の同形同大の長大な竪穴式石室を構築している 両石室の墓壙は 墓壙底中央をU 字形に掘り窪め U 字形の墓壙底に薄い粘土棺床を敷いている構造である この構造は 阿波地域の西山谷 2 号 墳 と同じ構造であり その構造を参考にすれば 石室上部の閉塞構造は 天井石はなく木蓋であると推測できる すでにこの時期 四国北岸部では 以上のような基底部構造をもつ長大型竪穴式石室が成立していることが判明している 古墳出現前夜と位置づける なお 雨滝山奥 2 号 墳 は 瀬戸内地域で発達する類粘土槨構造をもつ埋葬施設であり 畿内地域で竪穴式石室の省略系として創案された粘土槨とは系譜がことなる 雨滝山奥 14 号 墳 から出土している二重口縁壺形土器は 庄内式期後半と位置づけられる 播磨地域の川島遺跡 20 溝土器群と併行関係とみられる 古墳出現前夜のことである 墳墓資料としては 阿讃地域では萩原 1 号墓 西山谷 2 号 墳 鶴見神社 4 号 墳 があり 大和地域ではホケノ山墳丘墓である 中山大塚 古墳 もこの時期の可能性がないわけではない 播磨地域では 綾部山 39 号墓 山戸 4 号墓 横山 7 号墓 養久山 1 号 墳 があげられる この時期を福岡論文では AD250~275 年とみている 卑弥呼は 248 年前後に狗奴国との戦いが原因して死去しており その後を継いだ 倭女王台与の時代と理解できる 266 年に西晋に遣使を使わした倭の女王は台与とみて間違いないことがその年代的な理由である 雨滝山奥第 3 13 号古墳の築造された時期を讃岐奥 3 期と捉える 粘土棺床をもつ長大型竪穴式石室が構築されている時期である 雨滝山奥第 3 号古墳からは張氏作三角縁波文帯三神五獣鏡 ( 椿井大塚山古墳と同笵 ) が副葬されている 土器は出土していない 墳墓群の状況と前述した要素から 讃岐地域の出現期古墳とみてよいと思考している すなわち 西求女塚古墳 黒塚古墳 備前軍塚古墳 椿井大塚山古墳の築造時期と同時期と捉えている 播磨地域では 権現山 51 号墳 吉島古墳が築造された時期である 福岡論文の 276 年以降であり 倭国男王の時代と把握している 第 7 節余論 西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較 考古学の世界では 大王墓の移動論 ( 白石 2000) は様々に論じられているのに 門脇禎二氏が提唱されていた 地域国家 や 地域王国 ( 門脇 2000) の王墓が移動する場合があることを 何故 等閑視されていたのであろう 筆者は 王権と海上交通 序説 大阪湾と播磨灘に面する古墳を中心に ( 山本 1998) をまとめていたときから この課題につきまとわれていた 小論の発表直後のある研究会で 福岡澄男 藤田憲司 和田晴吾という友人の各氏に 前述の小論に書き得なかった想いを話した その想いとは 西求女塚古墳が丹後地域の王墓の可能性が高いのでは ということである 三氏の反応は すぐに 却下 であった 言外に何をアホなことを考えているのだという雰囲気であった それから この課題は封印していた 137

151 9 年後に タニワ ( 兵庫 ) の長刀と墳墓 の発表を依頼されたとき 内場山墳丘墓を検討しているうちに 再び 地域国家の王墓の移動が沸々と沸き起こってきた 今回は弥生時代の王墓の移動である そして 第 24 図を作成して その類似に驚いている でも不思議な比較図である 西求女塚古墳は摂津地域の出現期古墳で 墳長約 95m の前方後方墳である 内場山墳丘墓は丹波地域に弥生時代終末期の長辺 21.6m 短辺 19.5m の方形墓である 前者の埋葬施設は竪穴式石室であり 後者の中心埋葬 SX10 は舟底形木棺の可能性が高い木棺直葬の埋葬施設である 西求女塚古墳からは三角縁神獣鏡 7 面 神人龍虎鏡 1 面 画文帯神獣鏡 2 面 半肉彫獣帯鏡 2 面の計 12 面もの多くの舶載鏡が副葬されており 内場山墳丘墓の埋葬施設からは鏡は一面も副葬されていないが 中心埋葬 SX10 からは全長 93.5cm の素環頭太刀と同型式の鑿頭式鉄鏃が 17 本も副葬されていた 素環頭太刀は弥生時代のものとしては最大級の長刀の秀品で 舶載品であろう このように 墳墓の内容が大きく異なる弥生墳丘墓と出現期古墳 (Ⅲ-1 段階 ) の埋葬施設の比較検討を想い至ったのは 遺物内容や複数埋葬のあり方から 両者の披葬者が丹後地域の王の出自である可能性がきわめて高いという筆者の推論 ( 山本 2007) による 比較するとその類似に驚いているのであるが そこには飛躍がある その飛躍とは 内湯山墳丘墓における中心埋葬 SX10 の木棺部分の構造が 西求女塚古墳の竪穴式石室の基底部構造に採用されているごとくに捉えられることにある 本質論的に種類の異なる埋葬施設の部分を比較して 類似するという推論は無理があるのではないかという批判を研究発表時に受けている そのとき 両者の被葬者が 自分達の故事来歴を間違ってくれては困るという声を聞いたのだと 鰯の頭も信心というような宗教的感覚で逃げた このことの当否は 遺物内容や副葬埋葬のあり方の解釈にかかっており 今後の新たな研究法の導入の視点等が必要であろうが 筆者の鉄鏃型式や土器型式を検討したところではその可能性がきわめて高い このことが 丹後地域に網野銚子山古墳 神明山古墳という 200m クラスの巨大な前方後円墳 2 基を築かせ 墳長 145m という大規模な蛭子山古墳という丹後地域の古墳前期三大前方後円墳を築造された遠因にほかならない 出現期古墳の前方後円 ( 方 ) 墳に採用される長大型竪穴式石室の基底部構造をみれば いくつかの類型が地域性をもってすでに存在している 西求女塚古墳の副葬鏡と同じく古式の三角縁神獣鏡 福永伸哉氏がいうA B 段階の三角縁神獣鏡 ( 福永 2005) を出土した古墳で 竪穴式石室が調査され その内容が判る古墳として次の諸例がある 兵車県吉島古墳 兵庫県権現山 51 号墳 奈良県黒塚古墳 滋賀県雪野山古墳である これらの竪穴式石室の墓壙の形状をみれば 吉島古墳と他の三古墳は異なる 吉島古墳は墓壙底中央をU 字形に掘り込んでいるのに対し 三古墳は墓壙底四周を少し掘り下げ 墓壙底中央に低い台形の基台を造り出している 他に 三角縁神獣鏡を出土していないが 特殊器台形埴輪や特殊壺形埴輪の存在から西求女塚古墳と同時期の築造と捉えられる岡山県 都月 1 号墳は平坦な墓壙底である 138

152 すでに出現期古墳の段階から墓壙の形状をみても三形態が存在していることが判り 地域性をもってと前述したことはこのことを指している これらの諸古墳の中では 西求女塚古墳の竪穴式石室はきわめて特異な構造である 特異な構造のひとつは 石室内に仕切り石を立て 主室と遺物埋納用の副室を設けていることであり 最古段階の竪穴式石室としては希有な存在である ふたつ目は 墓壙は下部で二段墓壙状に大きく掘り窪め そこに厚く礫石を充填し 礫石上に平坦な粘土棺床を設置している 粘土棺床の途切れから北側にも仕切の施設が存在していたと推測することができる そして 平坦な粘土棺床からは割竹形木棺は採用されておらず 組合式木棺を想定せざるを得ないことである また 石室上部からは山陰系土器群で構成された供献祭祀を行っていることも注目される このような西求女塚古墳の特異な竪穴式石室の構造は その以前にもみられず その後にも発展して行かない それに比較して 黒塚古墳 権現山 51 号墳 雪野山古墳は 岡林孝作がI 群主グループ ( 岡林 2009) と捉えられ その後の畿内地域の竪穴式石室の基底部構造として大きく発展していく構造である 吉島古墳の墓壙底をU 字形に掘り込む型式は 吉島古墳以前の徳島県 西山谷墳丘基や香川県 奥 14 号墳丘墓にすでに出現しており その後も三角縁神獣鏡は副葬されていないが 出現期古墳と捉えられる吉備地域の七つグロ古墳にも採用されており その後も京都府 平尾城山古墳や大阪府 弁天山 C1 号墳などに拡がり発展していく構造である 平坦な墓壙底をもつものも 平坦な墓壙底に粘土棺床を設置し竪穴式石室を構築していく手法は主に摂津地域の基底部構造の特徴としてつながっていく可能性が高い 以上 みてきたように西求女塚古墳の特異な構造が 内場山墳丘墓の埋葬施設と関連していると推定している理由である ( 図出典 ) 第 1 2 図各報告書等から山本作成 第 3 図個々の墳形図は岸本道昭 2000 文献のものを用いて山本が作成した 第 4 図 加古川市史 第 1 4 巻と 三木市史 および山本 2008 から作成 第 5 回 龍野市史 第 4 巻から作成 鏡の写真撮影と実測図作成は山本 第 6 回佐用郡教委 1999 文献から作成 第 7 回上郡町教委 1996 文献から作成 第 8 図御津町教委 2005 文献から作成 第 9 図山本作成第 10 図龍野市教委 1996 文献に拠る 第 11 図近藤議榔 1983 文献に拠る 第 12 図御津町教委 2005 文献から作成 第 13 図真野 1983 文献から作成 第 14 図安田 山本 1988 文献から作成 139

153 第 15 図揖保川町教委 1985 文献から作成 第 16 図権現山 51 号刊行会 1991 文献から作成 第 17 図近藤義郎編 1985 文献から作成 第 18 図 加古川市史 第 1 4 巻から作成 第 19 図北山惇 1989 文献から作成 第 20 図櫃本 2001 文献に拠る 第 21 図岸本道昭 2000 文献から作成 第 図古瀬 1985 文献から作成 第 24 図山本 2007 に拠る 第 25 図山本 2007 に拠る 第 26 図山本 1998 を改変して作成 第 27 図兵庫県教委 1993 文献と神戸市教委 2004 文献から作成 140

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