2012/01/15 B 年主の洗礼日礼拝説教題 : 天が裂ける 09D-905 伊藤節彦 イザヤ 42:1~7 使徒 10:34~38 マルコ 1:9~11 1:9 そのころ イエスはガリラヤのナザレからイエスはガリラヤのナザレから来て ヨルダンヨルダン川でヨハネからでヨハネから洗礼洗礼を受けられた 1:10 水の中からから上がるとすぐがるとすぐ 天が裂けて 霊 が鳩のようにのように御自分御自分に降ってって来るのを 御覧御覧になったになった :11 すると あなたはわたしのあなたはわたしの愛するする子 わたしのわたしの心に適う者 というという声が 天から聞こえたこえた
私達の父なる神と主イエス キリストから恵みと平安とが 皆様お一人お一人の上にありますように アーメン 起 本日は顕現節第 2 主日でありますが 主イエスの洗礼を記念する日でもあります 顕現とは 隠されていたものが公に顕わにされるということであり 元来は神の御子が肉体をとって人となられたクリスマスを意味しておりました ですから東方教会では 現在でも 1 月 6 日の顕現日をクリスマスとしてお祝いしております 一方 西方教会ではクリスマスを ローマ帝国の冬至の祭りであった 12 月 25 日に定めましたので この間の十二日間を降誕節とも呼び クリスマス飾りもこの間はそのまま飾っておくわけです また シェークスピアの 十二夜 という作品名も クリスマスから十二日目の顕現日のことを意味しております そういう事情もあり 教会では次第にクリスマスと主の公現を区別して扱うようになりました 伝統的に 顕現節で読まれる福音書は三箇所あります 一つは先週のテキストでもありました 東の博士達 これは異邦人へ救いが初めて知らされたからです そして本日の 主の洗礼 です マルコは主イエスの登場を この洗礼の記事をもって始めています そして それはこれからお話ししますようにとても重要な意味を持っておりました 最後が カナの婚宴 です これはヨハネ福音書において主イエスがなされた最初の奇跡であったからです ですから 顕現節の典礼色は通常緑ですが この三箇所だけは神の栄光を表す白を用いているのです 今 白は栄光を表すと申しましたが 主イエスが罪人の一人として洗礼をお受けになった姿は 栄光とはほど遠い光景には見えないでしょうか 王の中の王 主の中の主であるお方が 宮殿における戴冠式を行う訳でもなく 旧約の王や預言者達が油を注がれたようにかぐわしい香りに包まれてでもなく 荒れ野でただ水の中に全身を沈められるという 何の変哲もない洗礼を通して 主イエスはその公生涯をお始めになったのであります 承 降誕物語を描かなかったマルコは このように いきなり読者をヨルダン川へと連れて行きます そこに描かれているのは 罪の赦しを求める罪人達の姿であります まるで ここに 福音のはじめ がある とマルコが語っているかのようです マルコにとって福音のはじめとは ベツレヘムでの夢物語ではなく 罪の赦しを求める罪人達と連帯される神の御子の姿にあったのです しかし それほど重要な場面でありながら マルコは主イエスの受洗を最も簡潔に たった三節だけで記すのであります 主イエスが洗礼をお受けになったヨルダン川 このヨルダン川の特徴をご存じでしょうか? それは 世界中の川の中で 最も低い所を流れる川だということです ヨルダン川はガリラヤ湖と死海を結ぶ川であります そしてこの死海は 海抜 -400m という驚くべき低地にあります ですから死海に流れ込んだヨルダン川の水は そこから海に流れ出ることも 1/4
なく やがて干上がって行きます そのため塩分が高くなり 生物が住めない死の湖となったのです つまり 罪人たちが悔い改めの洗礼を受けた川 そして 主イエスが罪人たちの列にお並びになって洗礼をお受けになったヨルダン川は 世界で最も低いところを流れる川であり その行きつく先は 生き物が生きていくことのできない死の海でありました その 低さが極まり 死に最も近いところで 主イエスは罪人の一人となることで私たちと出会われるのであります 主イエスの洗礼とは 罪の淵に沈まんとする最も低く深い所に 神御自身が立って下さった瞬間であったのです ところで 洗礼者ヨハネは先に 自分よりも優れた方が 後から来られる 自分はその方の履物の紐を解く値打ちもない と語りました ここでヨハネが語る 優れた という意味は 比較にならないほど卓越しているという文字通りの意味であります しかし 私はこの文字を見る時に 太宰治の言葉を思い出すのです 太宰は友人に宛てた手紙で次の様に語ります 私は優という字を考えます これは優れるという字で 優良可なんていうし 優勝なんていうけど でももう一つ読み方があるでしょう? 優しいとも読みます そうしてこの字をよく見ると 人偏に 憂ふと書いています 人を憂へる 人の寂しさ侘しさ つらさに敏感な事 これが優しさであり また人間として一番優れている事じゃないかしら 太宰は この優しさというものを大切にした作家でした そして その優しさの究極の姿を 聖書の中のイエスに見出していました 本日の旧約の日課は イザヤ 42 章の 主の僕の召命 と呼ばれる箇所が選ばれています そこで主なる神は 自ら選んだ僕は 叫ばず 呼ばわらず 声を巷に響かせず 傷ついた葦を折ることなく 暗くなっていく灯心を消すこと のない者である と語ります 太宰が語った 人を憂へる 人の寂しさ侘しさ つらさに敏感な事 それを優しさと呼ぶならば 正に主イエスこそはその人なのであります 罪と死の深い淵から救いを叫び求める人々を 上から見下ろして ああ 可哀想に と語られるのではないのです 自らをその悲惨さと絶望の淵の中に置き その呻きと叫びをご自身のものとして下さったのです 先週の説教で私は 私たちが神様に近づくのではない 神様が私たちの下へと近づいて下さった それがクリスマスの出来事です と申しました 主の洗礼とは正に そのことを私達に示しているのです 洗礼を受けて清められてこちらからあちら側の主の許に行くのではない 罪を犯されたことがないにも拘わらず 主ご自身が 私たちと共に洗礼をお受けになった それはあちら側からこちら側へ来られ 私達の罪の汚れを共に負い 共にこの罪の人生を生きて下さろうと決意された神の愛の姿であります 転 2/4
しかし 主イエスの優しさは 太宰のように柔なものではありませんでした 弱さの中でずぶずぶと溺れるだけの人情話ではないのです 太宰はその優しさの故に 心中自殺を 致しました しかし 主イエスの死は 神の怒りと愛の狭間で起きた神の痛みの出来事でありました 十字架というのは 罪を憎んで赦さない神の怒りである横棒と そのような罪人を愛してやまない神の愛である縦の棒とが交わった出来事に他なりません この十字架の姿を マルコは主イエスの洗礼の中に既に見ているのであります 10 節で主イエスは洗礼を受けた後 水の中から上がられると 天が裂けて 霊 が鳩のように御自分に降ってくるのを ご覧になった とあります 天が裂ける なんと激しい言葉でしょうか この言葉はイザヤ 63:19 にあります どうか 天を裂いて降ってください という叫びと重なります この言葉が語られたのは 真に暗澹たる闇の時代でした 天が黒雲に覆われ 光が 希望が見えない そんな時代でした 天が見えない それは神が見えないということです 神の御業が見えない 御言葉が聞こえないのです 3 月 11 日を経験した私達も 同じような思いに打ちひしがれています そのような私達の叫びを主は聴きたもう そして このような希望の見えない闇の世に 真の光りであるお方をお遣わし下さったのです 天が裂ける この 裂ける という言葉を マルコはもう一箇所で用います それは主イエスが十字架上で叫び声をあげて絶命された午後三時の出来事です 15:38 には その様子を すると 神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた とあります 神殿の垂れ幕 それは何を意味していたでしょうか 神殿の中の本殿の部分には聖所が置かれましたが 聖所の中でも更に奥の部分には至聖所が置かれました そして聖所と至聖所は垂れ幕によって隔てられていました この至聖所には大祭司が年に一度だけ入ることが出来る場所であったのです この垂れ幕が意味しているのは 罪人である私達は 聖なる神の御前から隔てられている その断絶を表しているのです 罪を犯す前の人間は アダムとエヴァのように神様と顔と顔を会わせることが出来る関係でした 主イエスの十字架とは もう一度神様の御前に私達が直接出ることが許される そのような和解の出来事であったのです ヘブライ人への手紙 10:19~20 には わたしたちは イエスの血によって聖所に入れると確信しています イエスは 垂れ幕 つまり御自分の肉を通って 新しい生きた道をわたしたちのために開いて下さった とある通りなのです 結 ある説教者は 主イエスとはどのようなお方であったかと問い その答えを 私と同じように洗礼を受けられた方 であり 自分が罪人であるということを 誰よりも考えられたお方であると語るのです そして 次の様に語ります おそらく 私ども信仰者の一番の問題はどこにあるかというと 信仰があるかないかというようなことではないのです すぐに疑いの心が生まれるかどうかということではないのです 自らの罪を深く知ることがいつも足りない ということであります だから 信仰がぐらつくのであります だか 3/4
ら 信仰生活がいい加減になるのです ルターもまた次の様に語っております 良い行いとは すべて十戒の中に記されている しかし 私達は自分の力や努力によっては これを行うことができないので絶望する そして絶望して 主イエス キリストに依り頼まざるをえなくなり 私達はキリストに来るのである そのように弱く 罪にまみれ 苦しんでいる私達のために 主イエスは 洗礼を受けて 神への従順と遜りを示して下さったのである と 主イエスとは誰か 最も罪というものに真剣に向き合われた方 それ故に 私と同じように洗礼を受けられた方 そう知った時に 私達は洗礼こそが信仰の原点であり 恵みの証しであることが分かるのです あなたはわたしの愛する子 わたしの心に適う者 という天からの声は 主イエスだけでなく 主イエスを信じて洗礼を受ける全ての者に語りかけて下さる父なる神の声であります だからこそルターは 絶えず恵みの原点へと立ち帰る意味で キリスト者の生涯は悔い改めの生涯であると語るのであります 人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が あなたがたの心と思いとを キリスト イエスにあって守るように アーメン以上本文 4,074 字 4/4